犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第5章

2007-05-27 18:21:28 | 読書感想文
第5章 殺された側に「時効」はない

法律的な議論においては、「時効はいつ始まるのか」、「時効の起算点はいつか」という形で問いが立てられ、被害者遺族もこの問いに巻き込まれる。時間の流れが客観的な事実として捉えられている。しかしながら、法律は当為概念(Sollen)であって、事実(Sein)を語ることはできない。時効の議論を正確に述べるならば、「時効はいつ始まるべきか」、「時効の起算点はいつにすべきか」としか表現できないはずである。

石川千佳子さんの事件においては、東京地方裁判所内で異なった結論が出された。これも不思議な話ではない。時間の流れは客観的な事実ではなく、人間が時効を「始めさせて」いるからである。裁判官が時効を「始めさせる」ことによって時効は始まるのだから、裁判官が異なれば、時効は異なった時期に始まることになる。加害者に逃げ得を許す結果となるか否かは、結局は政治的な政策判断の問題である。どんなに論理的に突き詰めても、最後は常識、正義、公平といった抽象概念に突き当たるしかない。これが法律の議論の根本である。

犯罪被害者遺族は、その日から時間が止まったようだという表現をする。これは、実際の感覚としてごく正常である。哲学的には「マクタガードのA系列・B系列」という問題であるが、時間が流れているという事実は錯覚である。当然ながら、我々は時間が流れているところを見たこともなければ聞いたこともなく、メタファーに騙されているにすぎない。人間は、子供の頃は時間の流れが遅く感じられたのに、大人になると速く感じられるという感覚を持つものであるが、これも時間が客観的に一定の速さで流れているわけではないことを示している。犯罪被害者遺族における時間が止まった感覚は、人間にとってごく当然の事態である。時間とは時計の針の角度でもなければ、カレンダーの厚さでもない。

殺された側に時効がないことは、比喩的な意味ではなく、文法上正しい。法律は、時間が流れているという我々の錯覚の上に構築された制度である。時間が止まっている被害者遺族に対して、「時効はいつ始まるのか」、「時効の起算点はいつか」という法律的な議論を押し付けることは、単なる政策判断の問題を針小棒大に議論しているにすぎない。ハイデガーは、人間は時間的な存在であると述べているが、現代社会においてこのことを実感している人間は少ない。現代人は、「時間を生かす」ことには熱心でも、「時間に生きている」ことには気付こうとしない。法律の議論も、このような現代社会の理論の上に構築されているのであれば、遺族が「殺された側に時効はない」という表現によって何が言いたいのかが把握できない。

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