犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

古典学派と近代学派

2007-05-22 19:28:28 | 国家・政治・刑罰
刑法学の根底には、客観主義刑法(古典学派・旧派)と主観主義刑法(近代学派・新派)との対立がある。これは根本的な人間観の違いであり、哲学的な問題である。しかし、今や最新の法改正と新判例を追うのに忙しい法解釈学においては、このような問題は軽視されてしまった。このような根本的な点で悩んでいては、社会のルールとして使い物にならないからである。

古典学派は、人間は自由意思を持って合理的に行動できる存在であると捉える。そこでは、刑罰とは、その意思によって不合理な行動を行った者に対する道義的非難であるとされる。これに対して、近代学派は、人間とはその行動を遺伝と環境によって決定されている存在であると捉える。ここでは、刑罰とは、社会を防衛するための手段であるとされる。これは、人間には自由意思はあるかという問題であり、哲学においても未解決の難問として残されている。

人間における自由意思の存否という大問題には、妥協の余地などあるわけがない。ところが、この世のルールとして使えることを第一とする刑法学は、これを妥協させてしまう。法律学によく見られる「折衷説」である。すなわち、人間は、ある程度まで遺伝と環境に支配されつつも、自らの意思で行動することを決定できる存在であるとする。このように考えれば、社会の役に立つ理論となる。もちろん、哲学からは、このような折衷説で納得することは論外である。しかし、法律学からは、逆にいつまでも答えが出ない哲学のほうが役立たずであるとされる。かくして法律学は、哲学的な問題にとりあえずの答えを出して、細かい技術的な問題に進んでいる。

哲学的な問題にとりあえずの答えを出した刑法学は、すべてを党派的な政治問題に変換してしまう。主観主義刑法(近代学派・新派)は、行為者の反社会的性格の危険性を前提とし、保安処分を刑罰に代替しうると考えるため、人権論からの反発が強い。これは改正刑法草案の棚上げにも表れており、イデオロギー的な論争に終わってしまう。このような政治的な対立は、人間には自由意思はあるかという哲学的な探究とは無関係である。