犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『0(ゼロ)からの風』

2007-05-20 18:36:39 | その他
最初から最後まで、「語られずに示される」映画である。この映画から、「飲酒運転をやめましょう」、「交通事故の悲惨さについて自分達1人1人のこととして考えて行きましょう」という程度のメッセージしか受け取れないならば、それはそれで仕方がない。「語られずに示される」ものは、見る側、聞く側に完全に依存するからである。

語り得ないことは、それを語ろうとしている人間の苦しみを通じてしかこの世に現れない。田中好子さんの鬼気迫る表情は、一瞬一瞬移り変わることによって予定調和を粉砕し、言葉にできない人間存在の不条理を示していた。それは、田中さんの迫真の演技ということではなく、交通事故によって生命が突然奪われるという絶対不可解の前には、すべての人間の人生は1つの物語であり、1つのストーリーであるということである。その意味で、田中好子さんと、この映画のモデルである鈴木共子さんとの間に差はない。

人間が死者に語りかけ、死者が実在するように行動せざるを得ないことは、極めて形而上的で観念的な行為である。これに対して、人間が署名活動によって社会を動かし、法律を変えてゆくことは、極めて形而下的で現実的な行為である。人間はこの絶対矛盾を絶対矛盾として、そのまま生きていざるを得ない。田中さんの瞬間的に移り変わる微妙な表情は、この絶対矛盾の共存と一瞬の反転を見事に示していた。それは、「刑法の厳罰化が成し遂げられても息子は戻らない」という単純な話では済まされない。論理自身の力によって、「息子が戻らないならば刑法の厳罰化が成し遂げられても仕方がない」という論理が許されないからである。

この映画のテーマは、一言で言えるものではない。明確な答えを出さず、謎の周りを回ったまま消えているからである。真理というものは、いつもこのような形でしか現れない。受け手の側が頭を使うことによって、その人間の数だけの解答が表れてくる。現代の日本人は、答えの出る(はずである)形の問題に慣れすぎてしまい、答えが出ないことが直感的にわかる種類の問題を避けてしまっていることが多い。それではこの映画が語らずに示しているものを捉えられない。このような形で示される真理については、「私はこの映画を見てこう思いました」という形式の評論ができないからである。

答えの出る問題とは、単純な善悪二元論で片がつく。これに対して、誰が悪い、何をどうすべきであるという形で答えを出すことができない問題は、人間にとって残酷である。しかしながら、このような答えが出ない問題ほど、語り得ないものを語ろうとする過程において深い地点を捉えている。それを広く共有する方法の1つとして、この映画は凄まじい地点を指し示してしまった。真理は真理であることによって社会全体で議論することができず、正面から問われることを恐れられるものである。法律家がこの映画を見て、その謎に捕らえられてしまえば、次の日から仕事ができなくなってしまうだろう。

歴史の教訓

2007-05-20 18:31:33 | 国家・政治・刑罰
近代刑事裁判は、歴史の教訓の上に成り立っている。すなわち、近代刑法は国家刑罰権の濫用を防止し、国民の基本的人権を擁護する制度であり、権力者による刑罰権の恣意的な行使という過去の苦い経験の上に立って、被告人の人権を十分に保障するための制度である。これはお決まりのフレーズであり、もはや宗教の教義のようになっている。犯罪被害者の権利を主張する立場も、この点には必ず触れるのがお約束である。その上で犯罪被害者の権利との調整を問題とすることになる。

ヘーゲルの弁証法の地点から見てみれば、歴史の教訓という考え方そのものに錯誤がある。このような歴史の捉え方は、過去と未来ばかりを見ることによって、今現在を見落としている。歴史とは、自分の人生としての人類の人生に他ならない。それは現在の自分に向かってくる過去の人間の歴史ではない。過去を振り返ろうとしている現在において過去が実現している以上、過去とは現在以外の何物でもない。過ぎ去ったものが過去なのではなく、過ぎ去らなかったものが過去である。

今や人間は、自然科学の発達により、地球が誕生したのが46億年前のことであり、人類が地球上に誕生したのが500万年前であることを知ってしまった。万学の祖である哲学は、この気が遠くなる長さを正面から受け止めようとする。これに対し、法律学はこのような時間軸を直視することを避けようとする。

哲学の理論は、46億年や500万年という時間を捉えることによって、宇宙から見ればほんの一瞬である80年前後の人生の虚しさを恐れずに直視する。それは狂気と正気の境界線であり、耐えられない人は宗教を信じるが、耐えられる人は哲学に戻ってくる。このような理論を経ている以上、哲学は至って常識的であり、理論に深みが出てくる。従って、ここ200年間のみに視線を集中して「歴史の教訓」を引き出すといった、底の浅い議論に簡単に騙されることがない。

「歴史は鏡である」ことは、「歴史は作られる」ことと同義である。歴史とは、後世の人間が、過去の事実の中から自分に都合のいい所をとってつなぎ合わせて作るものだと言うならば、まさに歴史はそのようなものとしてしか表れない。史実は1つしかないはずであるならば、その1つしかない事実が人間の数だけ出現するはずである。これは権力者であろうが市民であろうが同じである。歴史とは、自分の人生としての人類の人生であり、権力の有無といった属性とは全く関係がないからである。

歴史の教訓は、必然的に忘れ去られる。なぜなら、覚えていないものは忘れられないからである。歴史の教訓から学ぶということは、記憶を共有している人間の間でしか成立し得ない。物事を直接に経験していない人間は、「その経験」を忘れないのではなく、「『その経験』を聞いたこと」を忘れないことができるに止まる。「歴史から教訓を得る」のではなく、「『歴史から教訓を得たこと』を教訓とする」しかない。これは無限後退であるが、どう逆らっても仕方がない。歴史とはそのようなものだからである。