最初から最後まで、「語られずに示される」映画である。この映画から、「飲酒運転をやめましょう」、「交通事故の悲惨さについて自分達1人1人のこととして考えて行きましょう」という程度のメッセージしか受け取れないならば、それはそれで仕方がない。「語られずに示される」ものは、見る側、聞く側に完全に依存するからである。
語り得ないことは、それを語ろうとしている人間の苦しみを通じてしかこの世に現れない。田中好子さんの鬼気迫る表情は、一瞬一瞬移り変わることによって予定調和を粉砕し、言葉にできない人間存在の不条理を示していた。それは、田中さんの迫真の演技ということではなく、交通事故によって生命が突然奪われるという絶対不可解の前には、すべての人間の人生は1つの物語であり、1つのストーリーであるということである。その意味で、田中好子さんと、この映画のモデルである鈴木共子さんとの間に差はない。
人間が死者に語りかけ、死者が実在するように行動せざるを得ないことは、極めて形而上的で観念的な行為である。これに対して、人間が署名活動によって社会を動かし、法律を変えてゆくことは、極めて形而下的で現実的な行為である。人間はこの絶対矛盾を絶対矛盾として、そのまま生きていざるを得ない。田中さんの瞬間的に移り変わる微妙な表情は、この絶対矛盾の共存と一瞬の反転を見事に示していた。それは、「刑法の厳罰化が成し遂げられても息子は戻らない」という単純な話では済まされない。論理自身の力によって、「息子が戻らないならば刑法の厳罰化が成し遂げられても仕方がない」という論理が許されないからである。
この映画のテーマは、一言で言えるものではない。明確な答えを出さず、謎の周りを回ったまま消えているからである。真理というものは、いつもこのような形でしか現れない。受け手の側が頭を使うことによって、その人間の数だけの解答が表れてくる。現代の日本人は、答えの出る(はずである)形の問題に慣れすぎてしまい、答えが出ないことが直感的にわかる種類の問題を避けてしまっていることが多い。それではこの映画が語らずに示しているものを捉えられない。このような形で示される真理については、「私はこの映画を見てこう思いました」という形式の評論ができないからである。
答えの出る問題とは、単純な善悪二元論で片がつく。これに対して、誰が悪い、何をどうすべきであるという形で答えを出すことができない問題は、人間にとって残酷である。しかしながら、このような答えが出ない問題ほど、語り得ないものを語ろうとする過程において深い地点を捉えている。それを広く共有する方法の1つとして、この映画は凄まじい地点を指し示してしまった。真理は真理であることによって社会全体で議論することができず、正面から問われることを恐れられるものである。法律家がこの映画を見て、その謎に捕らえられてしまえば、次の日から仕事ができなくなってしまうだろう。
語り得ないことは、それを語ろうとしている人間の苦しみを通じてしかこの世に現れない。田中好子さんの鬼気迫る表情は、一瞬一瞬移り変わることによって予定調和を粉砕し、言葉にできない人間存在の不条理を示していた。それは、田中さんの迫真の演技ということではなく、交通事故によって生命が突然奪われるという絶対不可解の前には、すべての人間の人生は1つの物語であり、1つのストーリーであるということである。その意味で、田中好子さんと、この映画のモデルである鈴木共子さんとの間に差はない。
人間が死者に語りかけ、死者が実在するように行動せざるを得ないことは、極めて形而上的で観念的な行為である。これに対して、人間が署名活動によって社会を動かし、法律を変えてゆくことは、極めて形而下的で現実的な行為である。人間はこの絶対矛盾を絶対矛盾として、そのまま生きていざるを得ない。田中さんの瞬間的に移り変わる微妙な表情は、この絶対矛盾の共存と一瞬の反転を見事に示していた。それは、「刑法の厳罰化が成し遂げられても息子は戻らない」という単純な話では済まされない。論理自身の力によって、「息子が戻らないならば刑法の厳罰化が成し遂げられても仕方がない」という論理が許されないからである。
この映画のテーマは、一言で言えるものではない。明確な答えを出さず、謎の周りを回ったまま消えているからである。真理というものは、いつもこのような形でしか現れない。受け手の側が頭を使うことによって、その人間の数だけの解答が表れてくる。現代の日本人は、答えの出る(はずである)形の問題に慣れすぎてしまい、答えが出ないことが直感的にわかる種類の問題を避けてしまっていることが多い。それではこの映画が語らずに示しているものを捉えられない。このような形で示される真理については、「私はこの映画を見てこう思いました」という形式の評論ができないからである。
答えの出る問題とは、単純な善悪二元論で片がつく。これに対して、誰が悪い、何をどうすべきであるという形で答えを出すことができない問題は、人間にとって残酷である。しかしながら、このような答えが出ない問題ほど、語り得ないものを語ろうとする過程において深い地点を捉えている。それを広く共有する方法の1つとして、この映画は凄まじい地点を指し示してしまった。真理は真理であることによって社会全体で議論することができず、正面から問われることを恐れられるものである。法律家がこの映画を見て、その謎に捕らえられてしまえば、次の日から仕事ができなくなってしまうだろう。