犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

梓澤和幸著 『報道被害』

2007-05-03 20:43:48 | 読書感想文
犯罪被害者が直面している問題には、人間の人生そのものに関わる哲学的な難問と、法律によって調整が可能な比較的易しい問題とがある。犯罪被害者に対する報道被害の問題は、あくまで後者の易しい問題である。犯罪被害者の直面する状況を議論するときに、報道被害の話ばかりを取り上げるならば、その奥にある哲学的な難問を見落とす危険がある。難しい問題を易しい問題にシフトしているのであれば本末転倒である。これでは犯罪被害者の問題の解決が遠ざかるばかりではなく、問題の把握そのものができなくなってしまう。

人権派弁護士による人権擁護のカテゴリーは、犯罪被害者の被害そのものとは相性が悪いが、それに基づく報道被害とは相性が良い。報道被害においては、善悪二元論における悪者はマスコミであって、被告人は悪者ではない。「被告人と国家権力」という善悪二元論が一方で成立し、他方では「被害者とマスコミ」という善悪二元論が成立する。この並列状況を進めれば、「被害者と被告人」という対立の構図は見えにくくなる。従って、普段は被害者に冷たい人権派弁護士も、報道被害の救済には比較的熱心である。

梓澤氏は、松本サリン事件について、当初犯人だと疑われてしまった河野義行さんに関して多くの頁数を割いている。その反面として、サリン事件によって亡くなった7人の方々については一言も触れられていない。この辺りが、犯罪被害者が人権派弁護士を信用できない点である。確かに報道被害の文脈においては、河野さんに関する誤報を中心に取り上げるべきであって、亡くなった7人の方々の遺族の悲しみは本筋からずれている。しかしながら、最愛の人を松本サリン事件で亡くした遺族にとっては、人権派弁護士が自分達には大した関心を持っていないことが一目瞭然である。警察の捜査のミスを槍玉に挙げて熱くなっている人権派弁護士の姿は、それ自体が遺族の悲しみを踏み潰している。

マスコミの報道は被害をもたらすだけではない。マスコミが被害者の直面している状況を世間に広く認知させ、その風化を食い止めている役割は大きい。多くの場合は、被害者の声を代弁している。犯罪被害者の二次的被害としては、報道被害よりも、被告人の人権派弁護士の弁護活動による反射的な被害のほうが重大である。人権派弁護士がいかに報道被害を非難し、犯罪被害者保護に熱心であるようなポーズを見せても、犯罪被害者としてはそう簡単に信用できないゆえんである。

最後に梓澤氏は、時代は人々の胸中の願いとは違う方向に目まぐるしいほどのスピードで進んでいるとの焦りを表明している。哲学には、このような焦りは全くない。哲学は数千年にわたって、同じことを飽きずに考えているからである。

報復感情は哲学的懐疑である その2

2007-05-03 20:25:19 | 言語・論理・構造
犯罪で我が子を亡くした親は、「なぜ息子は死ななければならなかったのか」と問う。これには誰も答えられない。哲学が数千年にわたって考え続けてもわからない問題である。そうであるならば、問いを問いとして捉えることによって、自然と答えが現れるのを待つしかない。そして、その答えの1つが、「犯人には同じ目に遭わせてやりたい」「極刑でも足りない」という心情の吐露である。すべては哲学的懐疑の延長線上にある。簡単に答えられるような問いは、そもそも哲学的な問いではない。

被害者遺族が厳罰を望むのは、答えの出ない哲学的な問いの紆余曲折を経た上での断腸の思いである。この遺族の言葉の行間を読もうとせず、結論のみを捉えて「報復感情」というレッテル貼りをするのは、いかにも無神経である。厳罰感情は遺族の事件直後における一時的な興奮状態であり、時間が経てば加害者を赦す気持ちになるはずだという意見は、哲学的な部分の考えが浅い。人間が生きて死ぬという存在の形式については、哲学的な考察を抜きにして語ることができない。報復と厳罰は、感情ではなく論理である。

厳罰化では真の解決にならないと言われることがあるが、そもそも哲学的な問題に真の解決などはあり得ない。「根本的な解決」「真の解決」といった表現は、哲学的な問題点の把握を怠っていることの端的な証明である。厳罰化によって犯罪の抑止効果があるか、加害者の更生に効果があるか否かは、純粋に政治的な問題である。これは、「なぜ息子は死ななければならなかったのか」という問いとは何の関係もない。人間が生きて死ぬことは政治ではない。遺族は厳罰化によっては真に救われないと言われることもあるが、これも安易な政治的議論である。このような問題に答えを出そうとする者は、まず順番として「なぜ息子は死ななければならなかったのか」という問いに答えを出さなければならないはずである。

犯罪で我が子を亡くした親が求めているものは、金銭的な保護でもなければ、心の傷のケアでもない。求めているものは、問いに対する解答である。すなわち、法の裁きである。犯人を同じ目に遭わせることや、裁判によって犯人を極刑に処してもらうことは、単なる報復感情の充足ではない。それは、哲学的な問いへの解答である。問いを問いとして捉えることによって答えが表れる種類の哲学的懐疑には、このような形でしか答えられない。法治国家においては、厳しい法の裁きを与えることによってしか、この難問に正面から立ち向かう術はない。不条理や理不尽とは、感覚ではなく、問いである。問いは和らげるものではなく、癒すものでもなく、解くものである。

修復的司法の論理に決定的に欠けているものは、哲学的懐疑の存在に正面から向き合う姿勢である。「なぜ息子は死ななければならなかったのか」という問いに答えられないのであれば、人間はその問いに答えられないということ自体を忘れてはならない。赤の他人である第三者による金銭補償や、専門家による心のケアは、あくまでもそれに付け加えることができるものであって、それに代替することはできない。心の傷を癒すというスタンスは、哲学的な問いの存在を隠蔽する。報復感情とは、哲学的懐疑である。それは感情に任せた興奮や乱心ではなく、人間の論理と理性そのものである。