犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

映画 『0(ゼロ)からの風』 続き

2007-05-21 17:27:49 | その他
刑事事件とその裁判の問題を扱った映画としては、周防正行監督が痴漢冤罪の問題を扱った『それでもボクはやってない』が大きな話題となった。この社会的反響と比べると、上映場所や上映期間を比較してみても、『0からの風』の反響はあまり大きくない。時期を同じくして、主演の杉浦太陽さんと辻希美さんとのできちゃった婚が発表されたが、その軽さと映画の重さとのギャップが大きく、あまりPRにはならなかったようである。

『それでもボクはやってない』においては、主人公は全くの無実で濡れ衣であるという正解が最初から与えられている。警察官も検察官も裁判官もすべて間違っているという答えが最初から与えられており、善悪二元論でわかりやすい。ストーリー性があって、感情移入しやすい。人間は、もしも自分が無実の罪で逮捕されてしまったら、犯罪者と疑われてしまったら、という想像をする。このような想像をすると、人間は本能的に血が騒ぐ。話が非常に単純でわかりやすいからである。無実であるにも関わらず有罪判決が下されたとき、そのストーリーは最高潮に達し、悲劇のヒーローが誕生する。

人間がこのようなストーリー性に感動したとき、そのような社会は改めるべきであるとの熱い主張が自動的に導かれる。我々は電車の中ではいつでも一方的に犯罪者に仕立て上げられる危険と直面しており、社会全体で問題としていかなければならないとの認識である。このような自らを正義の側に置く思想は、理想主義の青年に「われわれ意識」を生じさせ、団結を促すようになる。正解と不正解、善と悪の二項対立が明確だからである。

これに対して、もしも自分や自分の大切な人が被害に遭ってしまったら、という想像は楽しくない。そのような事態は縁起でもなく、本能的に考えたくない話である。血は全く騒がない。逆に血の気が失せ、血が凍る。被害者は悲劇のヒーローではない。ストーリー性がなく、感情移入しにくい。被害者の本当の悲しみは、被害に遭った者しかわからないからである。犯罪被害を経験したことのない人間にとっては、どうしても「われわれ意識」が生じにくく、理想主義の青年にとっては団結がしにくい。

我が国の裁判は、長きにわたって被害者を見落としてきた。その原因は、学問的な熟慮の結果としての選択よりも、このようなストーリー性の有無、感情移入のしやすさの差が大きい。人間は、血が凍る話よりも、血が騒ぐ話に流れやすい。そのほうが安易で気持ちいいからである。痴漢冤罪の問題については、その理不尽を解消する方法として、「無罪判決」という明らかなゴールを設定できる。これに対して、犯罪被害の問題については、「厳罰化」という明らかなゴールを設定することができない。もちろん、明確な解答がない問題のほうが、物事のより深い地点を捉えていることは当然である。それゆえに、伝わらない人にはなかなか伝わらない。

映画 『0(ゼロ)からの風』

2007-05-20 18:36:39 | その他
最初から最後まで、「語られずに示される」映画である。この映画から、「飲酒運転をやめましょう」、「交通事故の悲惨さについて自分達1人1人のこととして考えて行きましょう」という程度のメッセージしか受け取れないならば、それはそれで仕方がない。「語られずに示される」ものは、見る側、聞く側に完全に依存するからである。

語り得ないことは、それを語ろうとしている人間の苦しみを通じてしかこの世に現れない。田中好子さんの鬼気迫る表情は、一瞬一瞬移り変わることによって予定調和を粉砕し、言葉にできない人間存在の不条理を示していた。それは、田中さんの迫真の演技ということではなく、交通事故によって生命が突然奪われるという絶対不可解の前には、すべての人間の人生は1つの物語であり、1つのストーリーであるということである。その意味で、田中好子さんと、この映画のモデルである鈴木共子さんとの間に差はない。

人間が死者に語りかけ、死者が実在するように行動せざるを得ないことは、極めて形而上的で観念的な行為である。これに対して、人間が署名活動によって社会を動かし、法律を変えてゆくことは、極めて形而下的で現実的な行為である。人間はこの絶対矛盾を絶対矛盾として、そのまま生きていざるを得ない。田中さんの瞬間的に移り変わる微妙な表情は、この絶対矛盾の共存と一瞬の反転を見事に示していた。それは、「刑法の厳罰化が成し遂げられても息子は戻らない」という単純な話では済まされない。論理自身の力によって、「息子が戻らないならば刑法の厳罰化が成し遂げられても仕方がない」という論理が許されないからである。

この映画のテーマは、一言で言えるものではない。明確な答えを出さず、謎の周りを回ったまま消えているからである。真理というものは、いつもこのような形でしか現れない。受け手の側が頭を使うことによって、その人間の数だけの解答が表れてくる。現代の日本人は、答えの出る(はずである)形の問題に慣れすぎてしまい、答えが出ないことが直感的にわかる種類の問題を避けてしまっていることが多い。それではこの映画が語らずに示しているものを捉えられない。このような形で示される真理については、「私はこの映画を見てこう思いました」という形式の評論ができないからである。

答えの出る問題とは、単純な善悪二元論で片がつく。これに対して、誰が悪い、何をどうすべきであるという形で答えを出すことができない問題は、人間にとって残酷である。しかしながら、このような答えが出ない問題ほど、語り得ないものを語ろうとする過程において深い地点を捉えている。それを広く共有する方法の1つとして、この映画は凄まじい地点を指し示してしまった。真理は真理であることによって社会全体で議論することができず、正面から問われることを恐れられるものである。法律家がこの映画を見て、その謎に捕らえられてしまえば、次の日から仕事ができなくなってしまうだろう。

歴史の教訓

2007-05-20 18:31:33 | 国家・政治・刑罰
近代刑事裁判は、歴史の教訓の上に成り立っている。すなわち、近代刑法は国家刑罰権の濫用を防止し、国民の基本的人権を擁護する制度であり、権力者による刑罰権の恣意的な行使という過去の苦い経験の上に立って、被告人の人権を十分に保障するための制度である。これはお決まりのフレーズであり、もはや宗教の教義のようになっている。犯罪被害者の権利を主張する立場も、この点には必ず触れるのがお約束である。その上で犯罪被害者の権利との調整を問題とすることになる。

ヘーゲルの弁証法の地点から見てみれば、歴史の教訓という考え方そのものに錯誤がある。このような歴史の捉え方は、過去と未来ばかりを見ることによって、今現在を見落としている。歴史とは、自分の人生としての人類の人生に他ならない。それは現在の自分に向かってくる過去の人間の歴史ではない。過去を振り返ろうとしている現在において過去が実現している以上、過去とは現在以外の何物でもない。過ぎ去ったものが過去なのではなく、過ぎ去らなかったものが過去である。

今や人間は、自然科学の発達により、地球が誕生したのが46億年前のことであり、人類が地球上に誕生したのが500万年前であることを知ってしまった。万学の祖である哲学は、この気が遠くなる長さを正面から受け止めようとする。これに対し、法律学はこのような時間軸を直視することを避けようとする。

哲学の理論は、46億年や500万年という時間を捉えることによって、宇宙から見ればほんの一瞬である80年前後の人生の虚しさを恐れずに直視する。それは狂気と正気の境界線であり、耐えられない人は宗教を信じるが、耐えられる人は哲学に戻ってくる。このような理論を経ている以上、哲学は至って常識的であり、理論に深みが出てくる。従って、ここ200年間のみに視線を集中して「歴史の教訓」を引き出すといった、底の浅い議論に簡単に騙されることがない。

「歴史は鏡である」ことは、「歴史は作られる」ことと同義である。歴史とは、後世の人間が、過去の事実の中から自分に都合のいい所をとってつなぎ合わせて作るものだと言うならば、まさに歴史はそのようなものとしてしか表れない。史実は1つしかないはずであるならば、その1つしかない事実が人間の数だけ出現するはずである。これは権力者であろうが市民であろうが同じである。歴史とは、自分の人生としての人類の人生であり、権力の有無といった属性とは全く関係がないからである。

歴史の教訓は、必然的に忘れ去られる。なぜなら、覚えていないものは忘れられないからである。歴史の教訓から学ぶということは、記憶を共有している人間の間でしか成立し得ない。物事を直接に経験していない人間は、「その経験」を忘れないのではなく、「『その経験』を聞いたこと」を忘れないことができるに止まる。「歴史から教訓を得る」のではなく、「『歴史から教訓を得たこと』を教訓とする」しかない。これは無限後退であるが、どう逆らっても仕方がない。歴史とはそのようなものだからである。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第4章「良心」より 後半

2007-05-19 19:31:02 | 読書感想文
近代刑法の原則における「自由」とは、国家権力からの人身の自由の保障であり、罪刑法定主義の自由保障機能のことである。しかし、これでは哲学的な問いの所在などわからないし、犯罪被害者が何に苦しんでいるのかもわからない。近代刑法の原則を掲げられてしまうと、厳罰化に反対するならば最初から飲酒運転をしなければよいという常識が通用しなくなる。簡単な話をわざわざ難しくしているようである。

今回、刑法に「自動車運転過失致死傷罪」が新設され、刑の上限が懲役・禁固7年にまで引き上げられた。これではまだまだ軽いという意見と、厳罰化に反対する意見とがあるが、この両者が捉えている地点は絶望的にずれている。失われた人間の生命は、たった7年間刑務所に入ったくらいでは償えるものではない。これが哲学的な真実である。厳罰化に反対するということは、この逃れられない真実から目を逸らし、近代刑法の原則における「自由」の概念を信仰することである。


p.63~ より抜粋

殺人は絶対的に悪であると、論理によって言うことはできない。そも論理とは、善の語は善を意味し、悪の語は悪を意味するというわれわれの言語の形式でしかないからである。形式は内容を指示しない。そのことによってそれは絶対であるのであり、したがってすべての内容は相対である。人を殺すという行為もまた、賄賂を受け取る、不倫するといった、われわれによって為されるさまざまな行為のうちのひとつ、ひとつの相対的な事例にすぎない。

だから善悪は相対的なものだ、絶対的な善悪などないのだと結論するのが、いわゆる相対主義者の定石であるが、定石をふむことで考える手間を省いているこんなものは、思想とすら呼べないであろう。言わば子供の報告のようなものだ。

善悪は存在する。われわれのうちに深く存在し、その針は常にふれている。しかし、誤たずにわれわれを導いている。それが誤つことができるのも、それが存在するからこそである。内にあるこの絶対性を、外にあるかのように思う時、人は自ら判断する自由を放棄する。つまり生きるのをやめることになる。相対主義とは、この種の絶対主義の裏返しにすぎない。行為の規範を外にあると思い込んでいる点では同じなのである。

しかし、内にあることによって絶対的とは、これまた何と人間的な逆説か。この絶対は、絶対であるがゆえに、いかなる内容をも指示しない。決して具体的な指示を出さない。しかし、われわれ人間が生身であるとは、具体的であるということに他ならない。各人各様すべての現在が、完全に個別の具体的内容をもつ。私は今いかに行為すべきか。人は問う。絶対は沈黙している。しかし人は、そこに絶対が存在することを知っている。なぜか。「善悪」という語を、所有しているからである。その意味を、知ってしまっているからである。

良心の問題は、科学や論理や法律には扱えない。それは、個々人の心の中で、悩まれ、判断される以外はないものだ。いかに詳細なマニュアルを作りあげたところで、あるいはたとえそれに従って行為したところで、十分に悩まれなかった内なる良心は、長く違和感を呟き続けるのではなかろうか。

池田晶子著 『新・考えるヒント』 第4章「良心」より 前半

2007-05-18 18:33:47 | 読書感想文
公務員が一般的・抽象的職務権限を異にする他の職務に転じた後、前の職務に関して賄賂が授受された場合に、受託収賄罪(刑法197条の2)は成立するのか。この点については、収受した者が公務員であれば収賄罪が成立するとする非限定説(判例)と、収賄罪は成立しないとする限定説とがある。非限定説から限定説に対しては、一般的・抽象的職務権限の同一性の判断基準が必ずしも明確でなく、賄賂罪の成立範囲をあいまいにすることになりかねないとの批判がある。また、限定説によるならば、公務員の身分を失った者についても一定の場合には収賄罪が成立するのと比較して権衡を失してしまうとの批判がある。

このような思考方法しかできなくなっている法律家にとっては、以下の文章の意味はよくわからないだろう。専門家と一般人のギャップはこの辺りにある。以下の賄賂罪に関する記述は、すべての犯罪に置き換えることができる。飲酒運転も振り込め詐欺も同様である。


p.55~ より抜粋

賄賂を受け取ろうとする者は、その法律の存在を思い、処罰を恐れ、思いとどまるに違いない。ということは、裏から言えば、法律がなければその者は賄賂を受け取る、受け取りたいという思いは常にある。その思いまでを法律は取締まれるものではない、法律とはしょせんそういうものだ。

倫理すなわち行為の規範を、自身の外に求める、あるいはそれは外にあるものだと思うのは、人間に非常に根強い一種の癖のようなものだと私は思っている。われわれは社会を形成している。これは事実である。しかし社会とは、個人の集合体に付けられた名称以上のものではない。これも事実である。社会などという得体の知れないものが、何か個人の意志を越えたところに存在し、個人を規定するものとしてあるかのように錯覚するところに、行為の規範を外に求めるという間違いの最初がある。なるほど法律は、個人の自由を規制するものであるが、その法律に従うか従わないかは完全に個人の自由である。これはあまりに自明のことであるが、その自明さに気づかないふりをするのは、自らその自由を望まないからだという以外の理由は考えられない。行為の規範は外にあるとしておく方が、自由のリスクを負わなくてすむという計算である。

人が規範を外部に求める理由は、内的規範によって自由に行為することを望まないという以前に、まず内的規範を自ら見出すための手間を省きたいというところにあるのかもしれない。つまり、自らものなど考えたくないということだ。

たとえば、倫理法なるものが制定され、倫理は外部にあるものと、人はいよいよ思いなすようになる。したがって、賄賂がほしいという思いそのものは、手つかずのまま内にあるから、賄賂がほしい者は、法律の目をくぐり、さらに巧みに賄賂を受け取るようになる。すると、法律はさらに厳しく整備され、それが倫理として人の行為を規定するようになる。このことは、法律がよく整備されるほど、人は馬鹿でもすむ以上、人がより馬鹿になることを願ってやまないことになりはしないか。

哲学の系譜と刑事法学の系譜

2007-05-17 19:05:11 | 国家・政治・刑罰
ヘーゲルを頂点とするドイツ観念論の没落は、自然科学と実証主義の台頭によるものであった。刑事法学においても、ヘーゲルから「人間を動物のように扱う理論だ」と批判されたフォイエルバッハが、罪刑法定主義を確立して近代刑法の父と呼ばれるようになる。ただ、その刑事法の内容は、ヘーゲルを乗り越えたとは言えない。自然法論は中世のトマス・アクィナス(Thomas Aquinas、1225頃-1274)に遡り、実体法はデカルト二元論を採用している。また、ロックの民主主義はモンテスキュー(Montesquieu・Charles-Louis de Secondat、1689-1755)、ベッカリーア(Cesare Bonesana Beccaria、1738-1794)からフォイエルバッハに引き継がれており、哲学の系譜からは離れている。

フォイエルバッハの罪刑法定主義は、ベンサム(Jeremy Bentham、1748-1832)の功利主義を取り入れたものであって、人間の内的倫理よりも、刑罰という害悪による威嚇を重視する。法と道徳の峻別は、信教の自由、思想良心の自由を保障する近代国家の原則と結びつくことになる。そこにおける人間像は、どこまでも打算的であって、倫理的でも道徳的でもない。10万円の罰金を科される危険があるならば、1万円の盗みは思いとどまるだろうという理屈である。これは「法は君子でなく小人をモデルとすべきであって、それ以上のものを要求すべきでない」という標語で示される。こうして見ると、近代刑法において犯罪被害者が見落とされた構造が明らかになってくる。

法と道徳とは峻別すべきであり、法の本質は強制にあるという考え方が最も明確に現れたのが、社会主義の思想である。マルクス(Karl Heinrich Marx、1818-1883)によれば、法律とは搾取階級と被搾取階級とが階級闘争を繰り返しているのを覆い隠すための手段にすぎない。労働者が資本家の財産を取り返そうとすると、警察や軍隊が出てきて労働者を弾圧し、刑法犯として罰することによって革命を弾圧するというものである。法律とは、資本家とその代表者である国家が都合のよいように発した命令であり、労働者はこの法律に従う必要がないという理論である。ソ連の崩壊に至るまで、このような思想が日本に与えた影響は非常に大きかった。このようなイデオロギーが強烈に残っている時代においては、犯罪被害者の存在が見落とされるのは必然的であった。

近代刑法は、国家権力を悪とする啓蒙思想、罪刑法定主義の流れの上に成立しているものに過ぎず、国家観を根本から問い直すことは可能である。犯罪被害者の問題は、コペルニクス的転回を必要とするものである。そうであるならば、実定法を追うのに忙しい刑事法学からは見向きもされないヘーゲルの『法哲学綱要』、ハートの『法の概念』なども、大いに参考になるものと思われる。犯罪被害者の問題は、政治問題として争うことによって解決に近づく種類のものではない。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第3章 その2

2007-05-16 18:55:38 | 読書感想文
第3章 息子のために阿修羅とならん

成人による犯罪は刑法で裁かれるが、少年による犯罪は少年法で裁かれる。現在の裁判はこのような単純な二分法から話を始めているが、これも殺された側の論理としては、初めから話が転倒している。犯罪被害者にとっては、被害に遭ったこと自体が問題であり、加害者が成人であるか少年であるかは副次的な問題にすぎないからである。我が国がこれまで被害者を見落としてきた原因は、被害者を主語にした文章を作ってこなかったことに基づくものである。

主語を「人間」ではなく「少年」としている少年法の議論は、その時点で人間の生死を扱う適格性のなさを示している。人間とは生死の論理的な形式そのものであり、年齢も死からの逆算としての論理形式としてしか捉えられないはずである。これを可塑性や更生の可能性としてしか捉えず、その上で殺人罪や傷害致死罪の議論を展開すれば、論点は迷走するに決まっている。人間の生命と引き換えにできるものは、人間の生命だけであって、立ち直りなどではない。これは単純な論理として当然の話である。

息子を少年たちの暴行によって失った青木和代さんは、見張り役の少年たちに対して、ある願いを持っていた。見張り役は直接手を下していないけれども、それでも自分たちを激しく責めるのではないか、いや、責めてほしいという願いである。これは当然の論理である。自分たちを激しく責める者だけが人間の名に値し、責めない者は動物に等しい。人間のみが、自らの行動を振り返って反省する精神を持ち、生命を持って生きていることそのものについて懐疑することができるからである。生きている者は死んでいないのだから、すべては自らの生命の重さの上に乗っている。ここで他人の生命を奪う原因を作ったとすれば、これは自己言及の不可解の前に絶句するしかない。絶句する者が人間であり、絶句しない者が動物である。少年たちは、自らが論理的には自殺しなければならない存在であることに気付いて、それに苦しんだ時に、初めて人間として生きるに値する地点に戻ることができるはずである。

しかし、見張り役の少年たちは、自らには責任はないと逃げ回った。民事訴訟の提起を受けた裁判所も、少年たちに法的責任は問えないと判示した。ここまで来ると、裁判は完全に中身のない儀式である。被害者遺族が捉えている哲学的問題と、現実に裁判所が扱いうる問題のギャップが大きすぎる。ここで少年の人権を前面に出して少年の可塑性に期待し、少年犯罪の問題を論じても、人権という概念が相当安っぽいものに下落している状況である以上、その後の議論もすべて安っぽいものになる。

少年たちは、それなりには立ち直って更生することができるだろう。しかし、残念ながら、動物は立ち直っても動物のままである。元々が人間の名に値しないのであれば、立ち直っても人間になることはできないからである。他人の生命を奪うということがいかなることなのか、自分自身を厳しく問いつめない限り、少年たちは更生したところで、最初の動物のレベルを超えることができない。被害者遺族が人権派による少年犯罪に関する主張に真面目に反論するならば、それは必然的に自らのレベルを下げてしまうことになる。青木さんが息子のために阿修羅とならざるを得ないのは、人権派の論理に抵抗する以上は不可避的である。

藤井誠二著 『殺された側の論理』 第3章 その1

2007-05-15 18:49:37 | 読書感想文
第3章 息子のために阿修羅とならん

息子を少年達の暴行によって失った青木和代さんは、次のように述べている。「意見陳述のためにコピーをした調書を読まねばならないのですが、ショックで読むことができませんでした。1字見ては泣き、1字見ては泣き、気が狂いそうになりながら読みました」。

被害者遺族は、とにかく事件の情報を知りたい。加害者の供述調書を読むことは、耐え難く辛いことであるが、それでも読まずにはいられない。この矛盾が、人間存在の本質である。遺族がとにかく事件の情報を知りたいのは、それが人間というものだからである。被害者が殺された状況を知らないということは、被害者の死そのものを知らないということである。この哲学的な理由抜きの真実と、少年犯罪に取り組んでいる人権派弁護士との主張とは、レベルがあまりにもかけ離れている。少年のプライバシーが侵害される、少年の立ち直りを阻害するといった視点は、被害者とその遺族の人間存在それ自体を侮辱する。

少年審判とは、あくまで発達途上にある少年の立ち直りを目指して行われる手続きである。それ以上でもそれ以下でもない。その程度の社会の仕組みであるならば、そのことを自覚しておけばよいだけであるが、法律の「べき論(Sollen)」は、これを阻害する。哲学なき人権論の破綻した文法を批判しようとすれば、それはすでに「べき論」の土俵に乗ってしまっている。そこでは、被害者側は必然的に不条理な大前提に巻き込まれてしまい、被害者側も理不尽に加担して矛先を自分自身に向けてしまうことになる。従って、ここでは「べき論」を論じながらも、純論理的な真実(Sein)を手放さないことが不可欠である。

青木さんの元には、少年から紋切り型の謝罪文が送られてきたが、これが青木さんの感情を逆撫でしたことは当然である。このような絶望的なケースは、少年事件に限らず非常に多い。常識で考えれば、加害者がこのような謝罪文しか書けないことは、刑を重くする理由にしかなり得ないだろう。しかしながら法律上は、とりあえず謝罪文が送っておけば反省の情を示したことになり、刑を軽くする理由になる。法律的にはそれ以上は踏み込めないし、踏み込まない。これも哲学なき法治国家のシステムのなせる業である。やはり裁判はベルトコンベアーによる流れ作業を抜け出せない。

人間であれば、文字の丁寧さや文章の流れ、誤字脱字などを見れば、心底からの反省の情の有無は推測できるはずである。しかし、裁判官はあえてこれを行わない。紋切り型の言葉の羅列には、行間からにじみ出てくる苦悩がない。これは、被害者遺族が絶句の中から絞り出す言葉とは対照的である。語り得ぬものは、その人間の生き様全体の中から自然と示されるものである。

子供が親よりも先に死ぬことは「逆縁」と呼ばれ、この世の最大の親不孝だとされる。これが犯罪被害によって生じたならば、残された親にとっては、この世の最大の苦しみである。しかし、法治国家における大上段の文法は、「殺された」という文脈を持ち込むによって、「死んだ」という文脈を消してしまう。哲学的な苦悩は、安っぽい人権論によって答えが出せるものではない。犯罪被害者の権利とは、専門的なフィルターを完全に取り払って、1人の人間存在としての視点からものを見ることである。

(続く)

「在る」と「無い」の条理と不条理 その2

2007-05-14 19:00:24 | 国家・政治・刑罰
不条理とは、不条理感という感情ではない。不条理とは、純粋に論理の問題である。人間が最愛の人の生命を奪われることは、論理的な誤謬である。人間の「生」が人智を超える謎であれば、人間の「死」も人智を超える謎でなければならない。「在る」が人智を超える謎であれば、「無い」も人智を超える謎でなければならないからである。これが弁証法の必然である。

犯罪で我が子を亡くした親が、犯人に向かって「娘を返せ」、「息子を返せ」と要求せざるを得ないのは、その生命を奪った原因が人智を超えていない他の人間だからである。人間の死因の代表的なものとしては、病気や天災、自殺などがある。その死はどれも不条理であり、それは人間の生死の絶対不可解さを示している。しかしながら、犯罪被害による死だけは、その不条理性の質が決定的に異なる。その生命を奪った者が他の人間であり、その人間がこの世に生きているからである。

死者があちら側にいるならば、行った者は帰ってくるはずである。人間におけるこの感覚は、弁証法の必然である。それでは、誰に対して「返せ」と要求することができるのか。病気の場合には癌細胞などといった病魔であり、天災の場合には人間の力を超えた天であり、自殺の場合には死者自身である。それらはいずれも不条理でありながら、その不条理は不条理であることそれ自体が条理である。これも存在と無、生と死の延長であり、弁証法的な反転の一つの表れである。

病魔、天、死者に対して、「死者を返せ」と要求することはできる。しかしながら、その叫びは、そのままその対象の中に消えてしまう。「返せ」という要求は、この世の不条理が弁証法的に条理に反転することによって、それぞれ病魔、天、死者自身の中に消える。これに対して、犯罪被害による死の場合にのみ、「返せ」という叫びは、いつまでも残り続ける。その生命を奪った者が、人間として生命を持って生きているからである。

死という概念は、生という概念との関係において初めて成立するものであり、人間には無がそれだけでは理解できないように、死もそれだけでは理解できない。にもかかわらず、他者の「在る」を「無い」に変えた人間が、依然としてこの世に「在り続けている」。これが犯罪被害の不条理である。哲学者が数千年考えてもわからない問題が、裁判で解けるわけない。少なくとも、病気や天災や自殺と並べて、死者一般の問題として取り上げ、遺族の心の傷という概念でくくる方法は、問題の核心を取り逃がしている。犯人が更生することが被害者への償いとなるという理屈は、もちろん論外である。

「在る」と「無い」の条理と不条理 その1

2007-05-13 19:22:32 | 国家・政治・刑罰
「無い」という概念は、「在る」という概念との関係において初めて成立する。「無」は、それ自体独立には成立しない。これが在-無-成(正-反-合)であり、弁証法の必然である。これを人間の人生についてみるならば、「死」という概念も、「生」という概念との関係において初めて成立する。人間には、無がそれだけでは理解できないように、死もそれだけでは理解できない。

人間が死を理解しようとすれば、それは生の側に引き付けた上で理解するしかない。それが、死者が「あちら側にいる」という感覚である。人間は、死者があちら側にいるという感覚について、数多くの語彙を発明した。それが、「他界」「彼岸」「あの世」「昇天」「逝去」などの語彙であり、理解できない死を何とか理解しようとした悪戦苦闘の痕跡が見られる。すべて同じことを指しているのだから、本来このような沢山の表現は必要ないところである。しかし、どれもこれも現在まで並行して使用されている。

死者があちら側にいるならば、行った者は帰ってくるはずである。人間におけるこの感覚も、弁証法の必然である。犯罪で我が子を亡くした親は、犯人に向かって、「娘を返せ」、「息子を返せ」と詰め寄らざるを得ない。そして、「犯人が死刑になっても娘は帰ってこない」と言って絶望せざるを得ない。このような文法は、完全に正当なものとして成立し、人間において意味が通っている。これは、絶対不可解な存在の謎を指し示している。

死者があちら側にいるはずなのに、行った者は帰ってこない。この絶対不可解は、すべての死に共通である。しかしながら、犯罪被害による死の場合には、この絶対不可解さが傑出している。犯罪被害による死の場合にのみ、人間が他の人間の生命を奪うという事態が起きているからである。この世に「在る」人間が、他の人間の「在る」を「無い」に変えている。これは、この世の不条理の最たるものである。

(続く)