故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

オアシス

2020-11-04 01:51:21 | プロジェクトエンジニアー

昭和記念公園の小川に一羽の野鳩がやってきました。
水を一口飲んで、私に気づきました。
タイトル、「あんた誰、私ね」となりました。


今日のタイトルは、「オアシス」です。
オアシス(oasis)とは、
砂漠中で水がわき、樹木の繁茂している沃地(よくち)。
生物群集が形成され、集落や都市が立地し、隊商の休息などに役立つ。
慰安となる場所。いこいの場。

なぜ、オアシスなのか。
不登校の子供たちにとって、不安なことは「この先、自分はどうなるのだろう」かもしれない。
今の自分は、求めていない自分であると、信じたい。

私は、ちょっぴり長く生きました。
家族のため、会社のため、そして自分のためだけに生きてきました。
借金返済は、まだ続いています。自分が死んだら、共に支払い続けている保険で「ちゃら」になる。
それでも、死ぬつもりは毛頭ありません。

答えがない、正解もない暮らしです。
まだまだ、探し続けています。
オアシスがあったら、どんなにか慰められたでしょう。
本当の気持ちが言えたら、どんなによかったでしょう。

私の子供は、4人います。
長女がやり、次女もやり、長男、三女と続けてくれました。
私は、仕事さえしていればよかった。
かみさんが、それぞれの不登校に向き合ってくれました。
親も段々と不登校に慣れてきました。それでも生きているじゃん。
子供たちは、なんか楽しいことを探そうとしていました。
三女は、目指す高校に入りたいと言ってきました。公立高校です。
私は、毎日課題を作り添削しました。数学は、割り算、分数で行き詰っていました。
どうして、それが苦手なのか分かっていました。引き算から始めました。
案外できる子でした。自信が湧いた頃、自宅授業は終わりました。

不登校が、財産になる。
逆説的な言い方ですが、悩みが深いほど強くなれるし、人に優しくなれます。
無理難題が、人を育てます。
だけど、折れないことです。
喉が乾ききっている時に、水をくれる場所がオアシスです。
ほんの一滴の水が、これからも生きていけるに繋がります。

借金返済に困ることは何もない。貸してる側も借り手の破産は困るのです。
稼げる範囲で、払える範囲で返すことになる。生きてる限り、借金を返す。
もし払い終えれば、それからは儲けの人生です。

私のブログのオアシスは、読者数です。
200人近くのこともあれば、50人の日もあります。
忙しい中、50人もの人が毎日読んでくれている。
書いていていいんだよ。慰めていただいています。
有難う。(樹木希林さんは、難が有るから、「ありがたい」と思われた。)

不登校の皆さん、大人も捨てたもんじゃありませんよ。
すべての人が、大なり小なり悩んできました。
今も悩んでいます。先のことは誰にも分からないからです。
あなたのSOSを受け止めてくれる大人がきっといます。
あなたの「難」は財産です。
今は、死ぬほど辛いでしょう。でも、生き抜くことです。
あなたにしかできないことがあります。きっと、あります。
ピンチがチャンスです。
あなたの周りのちっちゃなオアシスで、一滴を飲むことを勧めます。
そんなオアシス知らない。
そうです。困ったときにあきらめないで探すことです。
それが、チャンス。

コジュケイが 私はだーれ 癒された

2020年11月4日
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荒唐無稽

2020-11-03 04:06:36 | プロジェクトエンジニアー

絵のタイトルは、「博多男のこころいき」です。
祭りに夢中になる旦那衆。留守を預かるおかみさん。
板子一枚地獄海を生き抜く男たちの壮大な祭りです。
櫛田神社に奉納されている山車から想像しました。


今年の蜂谷柿は豊作である。
我が家でも10個ばかりを吊るすことにした。
この時期は湿気が強く、外干しでは間違いなくかびることだろうと、熱湯をくぐらせて室内に干した。
(10月18日時点)
ほとんどの蜂谷柿が色づいた。カフェの大家さんの柿を収穫した。
腕が数段階伸縮して、柿がついている枝を切断し、しかもその枝をホールディングできる器具がある。
妻と二人で、200個近く収穫した。
柿30-40個と野菜(大根、インゲン豆、ピーナッツ(大まさり)ネギ、里芋、鷹の爪)を
都会の友人3人に送った。都会では、柿を吊るす場所に苦労する。このくらいの数が手ごろだろう。
送料を節約するために、総長120cmのダンボール箱(10Kg入り)に梱包した。
(11月3日に追加記述)

今日のタイトルは、「荒唐無稽」です。
荒唐無稽とは、
言説や考えが、とりとめなく根拠のないこと。でたらめ。
(広辞苑より)
毎日のように、ブログをアップしている。
荒唐無稽にならぬよう気を付けてはいるが、独りよがりの記事や考えに陥ることも多い。
普遍的なことは書けぬまでも、少しだけ爪痕を残したいと考えている。
私の爪痕とはなにか。
生きる証とでもいうのだろうか、日々感じることを深くしたいと書き留めている。
明日思い出そうとしても、このような考えに至らないと何度も経験した。

しかし、荒唐無稽では伝わらない。

地域おこしの仕事に、広報活動が含まれることが多い。
それが、地方創成につながると考えられている。
こんな素晴らしい景色がある。一生懸命生きている人がいる。
これだけでは、読者に判断をゆだねることになる。
どうして花を植え熊を駆除するのか、根拠が分からない。
生活のなかで、私はこうしたい、こうだったら良いな。
その具現化の努力も伝えなくてはならない。

なにしろ、書き手の力量が試される。
アナウンサーであれば、いつもより口を大きく開けてゆっくりと話す。
作詞家であれば、詩の情景を物語に変える。
受け手が、詩から自分の中にある情景に想いを馳せる。
(ここまで、10月18日に下書きとして残っていた。最後まで書くことにする。)

常々、リスクを伴わない活動は、迫力に欠けると考えている。
読み手の生活に影響を与える記事を書きたい。
里の生活が、のどかで美しく報道される。

緑を保ち、自然に寄り添うような生活を、読者に伝わるよう表現するのは容易ではない。
私のリスクの取り方は、里の村人と同じように暮らすことに始まる。
筍が猪に掘られ、収穫時には何も残っていない。人々は、電気柵の中で野菜を作る。
いつしか、筍が電気柵の中ににょきにょきと生えてくる。筍が収穫できた。
喜ばしいが、今度は竹害が心配だ。
竹の地下茎(地下30cmを這っている)を退治しようと掘り続けた。
掘った総長が60mでは、笑えない。
梅が収穫できるのは喜ばしいこと。桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿。
梅だけでなく、果物の枝は天に向かって伸びていく。
手が届く範囲に枝を管理するのは容易ではない。
脚立の上り下りができなくなったら、果樹農家を引退しなければならない。
それが、大変なのである。
収穫シーンを伝えるだけでは、片手不足と考える。
他人の苦労を実感する。なんでも苦労があるから、仕事を達成した時の喜びが生まれる。
すべての人が、なんでこんな苦労をするのか毎日自問自答する。
今年も、実りを迎えられ、皆で祝おうかと祭りが神事になる。

感動を写真で伝えたい。
一枚の写真を撮るために、奥山に入り、一瞬を逃さぬために何時間もかかり何百枚も撮った。
それが、伝わる写真に感動する。コメントが少し添付されてれば、尚伝わりやすい。
私は、感動を切り取りたいと絵手紙にする。感動に2時間の葛藤を付け加える。
似ている似ていないでは済まさない。この人の良さを表現したい。
若くなくても美人です。生きてきてよかった。こんな想いを切り取りたい。

荒唐無稽の言葉が続く。ラジオのパーソナリティーも色々です。
有名人を起用するのも、皆が知ってるこの人はどう表現するのと、素人より一枚上から始まる。
短い言葉で、食レポや情景描写をする。
常日頃、優れた日本語を読み、暮らしの中で話す練習を積み重ねている。
聞いていて心地よい。沁みるように、言葉が落ちていく。

自分の言葉に責任を持つ。
私は、呆けぬよう練習を続けている。

奥山で 姿見えぬが ほーほけきょ 

2020年11月3日



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感激

2020-11-02 08:16:26 | よもやま話

絵のタイトルは、「時空」です。
ザルツブルグ駅前の画廊の窓の中に、モーツアルトは収まっていました。
こんなに固い顔をしていたのかしら。


今日のタイトルは「感激」です。
カフェに穴をあけ、いつ電話がかかってくるか分からない。
そんななかでこのテーマは、重い。
だけど今書かないと、書けないかもしれない。

感激とは、
深く感動して気持ちが奮い立つこと。強く心を動かすこと。
(広辞苑より)

病気をして、なんとかハラスメントの恐怖から、立ち上がれない。
こんなことではいけない。なんとか、きっかけが欲しい。
かつてアバの曲を聞いていて、アグネッタは感動する力も聞き手に送ってくれていると感じた。
感動することはよくあること。
次の行動まで誘発させることが、感激だと知る。
俺も何かをしなけりゃ、いけない。
できることからやってみるか。

感動は、五感で感じる。
鯛のあらを煮る。煮凝りが美味しい。味覚で感じる。
歌いだしで、心を掴まれる。聴覚で感じる。
好きなウナギのかば焼きは、嗅覚で食欲が湧いてくる。
赤ちゃんのほっぺを触り、なんとも癒される。触覚。
十三夜の月。視覚でも感動する。
この辺りでは、「月泥棒」の風習がある。子供たちは自由にお供え物を持っていく。
電話がかかってきた。この時間には、誰かおよそ検討がつく。六感が強い人もいる。

何が必要か。自分は、何ができるのか。
地域おこし協力隊の仕事は、結局「自分探し」であった。
移住者は相手にされない。不自由を経験した。
何をやってもいいのだと、自由を満喫している。
ピンチがチャンス。まだまだ、やれる。
人を大勢使っている頃は、腰痛に苦しんだ。
なんでも、自分でやらなければならなくなったら、身体が丈夫になった。

感動を感激に変えるのは、なんだろう。
どん底で味わった苦いものを忘れられない。すれすれに生きて来た。
これがあったから強くなれたと思える。なんと、時間の長いこと。
感激は、創り出すもの。
感動を抱いても、次の行動を起こさぬ限り感激にはならない。
目を開けたまま流れる涙であったり、突いて出てくる咆哮かもしれない。
やれるかもしれない。きっとできる。
もう大丈夫です。
一皮むけた。

寝て起きて 生きていなさい 聞いたよな

2020年11月2日
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