絵のタイトルは、「鳴門海峡夕景」です。
四国を出て淡路島に入りました。
あと少しのガソリン残量を見ながら、どこまで行ってもないガソリンスタンドを探しました。
今日のタイトルは、「それから5年が経ちました」です。
私が尊敬するプロフェッショナルに送った手紙を載せることにしました。
「Nさん、お元気ですか。
こちらに来て5年が過ぎようとしています。
こんなに充実した日々を送れるなんて思いもしませんでした。
妻が、私を食わしてやると畑を始めました。
30種類も植えましたが、地面の下で太る物(ジャガイモ、さつま芋、里芋)しか収穫できませんでした。
虫でやられ、地力が足りず、時期を誤りさんざんな一年目でした。
そこそこ役に立つ仕事をしてきたと自負がありました。
過去は一切通用しない。期待されない不自由を初めて感じました。
地縁血縁のない私達は、最下等の人種(食い詰め者)のようでした。
仕事で来ていなかったら、早々にしっぽを巻いて逃げ出していたでしょう。
どうして過疎になるのか、空き家が増えているのを人々はどう感じているのか。活性化なんてできるのか。
自分にできることがあるのか。最後のプロジェクトと覚悟を決めていました。
個人的には、再婚したことで、私が家を出て妻も家を出て終の棲家探しになりました。
総合的に思い返すと、「自分探し」の5年間でした。
ここでも人々は点から点の生活です。潤いのための線を紡ぐことができない生活です。
都会より毎日往復2時間も得する現実を有効活用できていません。
コロナ禍になって、田舎も捨てたもんでもないかなんて適当なことを言っています。
東京が風邪をひくと、田舎はくしゃみをする。
地域で回っていたサービスもお金も中央を循環して自分たちのところへ戻ってきていると実感する人は驚くほど少ない。
なんか変だな。
すべてを取り仕切っていた大工(プロジェクトマネージャ―)もセキスイハウスの常雇で暮らしています。
今までやってきたことが活きています。
人を使ってきましたが、ここでは何でも自分でやらなくては生活できない。
種を植えて、草を刈り収穫するまで一人でやらないといけない。
足元ばかりを見て来た者が、山をみて雲の流れを観察するようになりました。
明日は、何が始まるのか。敷かれたレールはありませんでした。
不自由でした。不自由故に自由なんだと感じ始めて助かりました。
放っておかれるから、何をしてもよいのでした。
カフェは赤字続きでした。
ピークカットをするために、商圏を10Kmから2kmに変更しました。地元優先です。
SNSやマスコミは排除しました。
注文生産にこだわりました。注文を受けてから仕込む。
コーヒーもお好み焼きもピザも注文を受けてから豆を砕き生地を焼き始めます。
リードタイムがかかるパンはできるだけ少なく作り、売れ残りはその夕方近所に無償で配る。のちに野菜が届く。
夜の予約は、1組のみです。お酒は持ち込みでお願いしています。出す料理は、「お任せ料理」だけです。
お酒の好みをカバーできないし、いつまた飲まれるか、キープの場所がもったいない。
来店後のメニューに応える見込み生産はできない。おまかせ料理も注文生産です。
グループの人数を聞き、年齢を聞きお酒の飲み方も聞いたうえで、
畑から採ってきたもので冷蔵庫にあるもので作っています。
問題は、味付けです。お客さんが普段使っている食材でちょっと違う料理を作る。
敵は、料理自慢の主婦ですから。
常連さんに低料金で試食会をお願いしています。この会で承認された料理だけを出す。
営業から試運転までのプロジェクト経験が、生きています。
嫌と言うほど飲まされた「あとからクレーム」の煮え湯が活きています。
感性だけで生きています。
空き家がうっそうとしているのは美しくない。耕作放棄地もうざい。
近所は、11軒中8軒が空き家です。そのうち5軒の草刈と剪定をしています。畑も5畝から2反に増やしました。
刈らしてくださいと持ち主に頼むと、シルバーと勘違いされたり金はいくらと言われたりしました。
それが今では、刈ってくださいと電話で依頼されたり、黙ってみておられます。助かったというのが実情です。
近所から苦情を言われていた方がよかったのかとも思います。つながりが切れないからです。
死んだまんまが空き家です。
いつか片づけたいと使わない部屋に使わない物を詰め込んで、やりたいけど手が付けられなくなって逝ってしまった。
残された者も近所の手前何とかしなければと思いながら、だんだん遠のく足です。
大正時代は7000万人の人口だった。好景気と戦争で産めよ増やせよの時代が続いて増えてきた。
ピークは終わり、100年後には7000万人になるのです。
空き家も畑も必要ないのです。そう、思うようになりました。
カフェは、「さんぽみち」と名付けました。
カフェ前を散歩する人が増えてきました。してやったりです。
足立美術館を見てきました。借景の考えをこの地で採り入れました。
森に侵食し続ける竹を伐り始めました。高木を伐り倒しています。手に余るものは樵に頼んでいます。
竹を利用した構築物が増え続けています。好き勝手してよいのです。
台風で倒される豆の架構を作ったり、温室を作ったり、ゴルフ練習場を作っています。
切った木に茸菌を植えて腐らせています。採れた茸は近所に配りカフェで使っています。
梅の木を剪定すると、近所の者が銀杏の高木を伐りました。
空き家の庭の草を刈ると、近所の庭の草も刈られ始めます。これまでの知らん顔がうそのようです。
自分の家の周りだけ汚くはできない。へーえてなもんです。
地域の活性化なんて言いながら、協議会ができます。
おらが村には、ブランド米があり果樹が美味しいと自慢をしたがっています。
私は、ここの良さは、「何にもないのがよい」と公言しました。皆さん不満顔でした。
ここには、補助金で作られた今は使われない構築物がありません。政治力がないのがよい。
稲作は、大規模農家や農業会社に依頼し、果樹園の後継者は17軒中5軒のみです。
依頼された田んぼは、サラリーマンがやることなので稗粟だらけです。秋は黄金色のはずが、緑です。
馬鹿にされた農業会社は、慌てて薬を撒いています。
私の取り組みは、「こうだったらな」の連続です。
ここには、来られたお客さんが座るベンチがありません。
不要な竹で、必要なおもてなしを造りたい。
何をやってもよい生活はしんどい。
やることがない老後をやっていたはずです。
あと、20年は生きたい。試したいことがたくさんあるのです。」
このように書き送信しました。
私は、人生の楽園を生きているわけではありません。
未だに仕事と思っています。給料の払われない仕事です。
生きたいが 刻一刻と 過ぎていく
2020年12月25日