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故郷へ恩返し

故郷を離れて早40年。私は、故郷に何かの恩返しをしたい。

島の乗り物

2015-11-04 05:02:36 | 思い出話


広島宇品港と島を結ぶフェリーです。



昨日、妻と芋ほりをしました。
ベランダに置いたプランターに、昨年獲れた枯れかかった小さなさつま芋に芽が出たそうです。
それをプランターの土の中に入れてやりました。
夏の間、芋づるはどんどん伸びました。
アパートの下の家の方に迷惑にならぬよう、ベランダの柵にひもでおさげ状に結んでやりました。
ゴーヤ、へちま、かぼちゃと同様に良い日よけになってくれました。
今年の夏は、約1ケ月でした。7月半ばから8月半ばまで。
植えてから、約4ケ月毎日水をやりました。
よくできました。6株の苗から獲れた芋の量は、8.7Kgでした。
コガネムシの幼虫に少しかじられていました。
赤い丸々としたさつま芋は、少し乾燥させていただきます。甘めが増すそうです。

妻は、上野で開催されているモネ展を友人と観に行くそうです。
観た後は、美味しいものを食べながら、会話が大いに弾むことでしょう。


冒頭の絵は、広島宇品港と江田島小用の間を結ぶフェリーです。
前後両側から、車を乗せられるようになったのはいつ頃からでしょう。
前後両方の運転ができるように、運転席はなっているのでしょう。
このタイプになってから、離接岸の時間が短縮され、ユーターン時のスペースが不要になりました。

私が小学校の頃は、さすがに馬車はありませんでした。
たまにロバのパン屋さんが来るくらいでした。
その代り、耕運機に小さなトレーラーを付ける方式の車は時々走っていました。
制限時速30Kmの耕運機が走っていても邪魔にはなりませんでした。
それほど車は多く走っていませんでした。

たまに山の中腹にあるまで上がってくる時は、排気ガスをもうもうと吐いていました。
私は、ガソリンの排気ガスの匂いが好きで、走って追っかけていました。
車も坂道をやっとあがる速度でした。たまには追いついたり、難所では押したりしていました。

マツダのキャロルか富士重工のスバルでした。共にエンジンは360ccでした。
乗っているのは、校長先生と村長さんの二人でした。
乗用車は丸ハンドルで格好よかったけど、トラック(バタンコと呼んでいました)は、
舵のようなバー式ハンドルでした。

もっぱらの交通手段は、自転車とリヤカーでした。
焼玉エンジンの船も健在でした。
ほとんどのきはん船(瀬戸内での海上輸送)は、焼玉だったでしょう。
木工船専門の船大工もおられました。
櫓か櫂でこぐ漁船か石船を造られていました。

石船は、クレーンが付いておりませんでした。
人が石を担いで積みました。
降ろす時は、船底に乗せた石を船ごと揺すって放り出していたそうです。
石が飛び出しやすいように丸くて、木の葉を船の形に絞ったような格好でした。

橋が出来て、フェリーに乗らなくても陸伝いに島まで来られるようになりました。
乗客は、高速船に乗りトラックはいまだにフェリーを使っています。
どちらも、陸上交通より時間短縮が可能だからです。

高校生の頃は、フェリーの船上デートが盛んでした。
羨ましかったのを覚えています。

父が50歳前に、運転免許をいただきました。
海や畑によく落としていました。
決まって隣には母が乗っていました。不思議と怪我はありませんでした。
たんびに、丸太棒を担いで行き車を畑から道路まで担ぎ上げていました。
それでも母は、父が運転できなくなるまで乗っていました。どちらも命知らずでした。

私は、櫓も櫂も操れました。赤褌の子孫ですから。


境内の 掃いた落ち葉で 芋を焼く  

2015年11月4日

コメント
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