(本所松坂町跡の碑)
(本所松坂町の吉良邸跡)
(本所松坂町の吉良邸跡から江島杉山神社)
両国には、「本所松坂町跡」の碑(両国3-19-3京葉道路沿い)がある。
この碑の南側に当る所に「本所松坂町公園」と名づけられて、
吉良上野介の屋敷跡がある。
両国小学校と回向院の間である。
毎年12月14日に行われる義士祭には、ここ吉良邸跡から泉岳寺まで、
赤穂浪士47士が歩いた道のりを歩くイベントがある。
その同じ道のりを歩いてみた。
両国小学校の西側の道路を南へ入ると、
「吉良邸跡右矢印」の案内があるので右へ進む。
目指す吉良邸は、高家の格式を表す白い海鼠塀(なまこべい)で囲まれ、
黒塗りの門を残していいて、
とても解かり易いし、中にも入れる。
(吉良邸跡は右方向の案内看板)
(吉良邸跡入り口)
(吉良邸の中に入ると、元吉良邸にあった、
吉良上野介の「首洗い井戸」や稲荷社があり、
当時を忍ばせている。
壁面には、大石蔵之助以下36名の署名が残されているなど、
赤穂浪士関係の記録が展示されている。
本来の吉良邸は広大で、表門は両国小学校の西側にあり、
東・西・南の三方には長屋があり、
北側には土屋主税、本多孫太郎の屋敷と地続きとなっており、
討ち入りの際はこの両家から高張り提灯が出されたようです。)(墨田区)
(吉良邸内の首洗い井戸)
(大石蔵之助以下36名の署名)
(当時の吉良邸絵図面、北側に土屋主税・本多孫太郎家があった)
吉良邸跡の南面の道路を出て右へ向うのが本来の道筋。
吉良邸と道路の反対側に、飯澄稲荷が赤い鳥居を見せている。
このお稲荷さんと吉良邸前を起点に泉岳寺へ向う。
道路を西に向かうと突き当たり、
左手に吉良邸裏門跡の説明板が立っている。
(飯澄稲荷)
(道路突き当たり)
(吉良邸裏門の看板)
突き当りを左折し、一ブロック進むとお食事どころ「みきや」の看板があり、
ここに「江東義塾跡」の説明板がある。
余談になるが、「江東義塾」の内容を紹介すると、
(文豪 夏目漱石が明治19年(1886)から約一年間教師をしていた
私立学校江東義塾はこの辺りにありました。
当時漱石は、大学予備門(一高)で学んでいましたが、
ここで教師をするようになってから、
さらに学業に励み、殆んどの教科で主席でした。
漱石は「夏目漱石全集」(筑摩書房)の談話の中で、
「その私学は有志が協同で設けたもので・・・・
月に使えるお金は五円で、少額ではあるが、
不足無くやって行けた。
時間も午後二時間だけで、
予備モンから帰ってきて教えることになっていた。
だから夜は落ち着いて自由に自分の勉強をすることが出来た。」
といったことが書かれている。)(墨田区)とある。
(*)ここで言う予備門とは、東京大学の教授は当初外国人であったため、
授業がわかるようになる外国語の予備勉強をしたので予備門という。
予備門は4年、東京大学も四年であった。
(「みきや」の看板と「江東義塾」の案内)
話を元に戻し、
すぐ目の前にある信号を右折すると隅田川にぶつかる。
さらに、ここを左折すると一の橋で、
橋を渡った、その先左手に「江島杉山神社」がある。
(目の前の信号を右折)
(一の橋)
江島杉山神社について説明を要約すると、
(江島杉山神社は、鍼灸師の盲人 杉山和一が五代将軍綱吉の治療の功で、
褒美を訊ねられ、和一は目を所望しました。
綱吉は一つ目(本所一の橋際の土地)と関東総禄検校職を与えられた、
と伝えられている。
町四方の土地に総禄屋敷と神社が立てられ、鍼治講習所もあり、
神社の名は、土地の拝領者と江ノ島弁財天を意味している。)
(墨田区教育委員会)とあります。
また鍼灸師 杉山和一について、
(杉山和一は、現在の三重県津市の出身で幼い頃に失明したが、
江戸に出て鍼術を学び、江ノ島の弁天の岩屋にこもって、
鍼術の一つである管鍼術を授かりました。
その後京都でも鍼術を学び、再び江戸に戻って、
鍼の名人として活躍しました。)(墨田区)という。
江島杉山神社は「江ノ島」と読んだほうが良さそう。
赤穂浪人四十七士の一団はこの神社の前の通りを歩いていった。
(tつづく)
(江島杉山神社)