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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

東京の雪景色

2013年01月18日 09時27分00秒 | つれづれなるままに考えること
(東京の雪景色)



1月14日成人の日に、日本全国雪に見舞われた。

東京もその例に漏れない。

日ごろから雪に対する用意がないので、

一度少し雪が積ると、大都会はかなりの混乱に見舞われる。

先ず、電車など乗り物は全滅で動かなくなる。

予報に注意して、雪が積って身動きできなくなるまで、

従業員を働かせないで、思い切って帰宅させればよいものを、

これまた雪になれない上司が、判断できずいつまでも仕事をさせ、

挙句の果て、やっと帰宅させるに至っては、

最早手遅れで、電車は動かず、バスはのろのろ運転、

やむなくホテル泊まりの方も多いと聞く。

上にたつもの早い決断が有効である事を肝に銘ずべしである。

1月16日の雪
コメント (14)
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俳人ー小林一茶(旧中山道を歩いて気づいた事5)

2013年01月16日 09時36分54秒 | つれづれなるままに考えること
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(一茶の「七番日記」の石碑。カメラを構える筆者の影が見える。)

(新町宿)
旧中山道の本荘宿は埼玉県にあるが、
次の宿場は川を挟んで対岸の群馬県で、最初の宿場が新町宿である。

旧中山道を歩くと左側に
「史跡 高瀬屋旅館跡」の石碑が立っている。
そこには一茶がしたためた日記「七番日記」の一節が記されている。

それによれば、一茶が高瀬屋旅館に逗留したところ、
前日からの雨で埼玉県との境になっている烏川が川止めとなった。
しかたなく雨に疲れて眠ってしまったが、
夜明け前の午前四時頃、
「神流川に灯篭を建てて、旅人の夜の往来を助けたい。
少しでも良いから寄付をお願いしたい」と言ってきたので、
一茶は「一人くらい見逃してくれても仏様もお咎めにならないだろう」と、
寄付から逃れようとするが、良心がとがめて、
どうも閻魔様の前に引き出されて、蹲(うづくま)っているように思えて、
12文寄付をすることになった。
と記している。

朝の五更(午前四時)に、寄付を募りに来たという。
寄付を募る時間としてはずいぶん早く感じられるが、
童謡の ♪お江戸日本橋七つだち...♪の
七つは、朝の4時。
少しでも遅れると、旅人は出立してしまう。お出かけ前が
一番捕まえやすいと考えたのであろう。
そして寄付を募った。

(勅使山大光寺に移設された灯籠、一茶が寄付金の一部を払って出来た)


話がそれてしまったが、
芭蕉の句碑はいたるところに見受けられるが、
一茶の句碑はそんなに見かけない。
しかし、長野県信濃町には沢山の句碑があるらしい。
暇を見つけて訪ねたいものである。

参考までに、「七番日記」の原文の一節を以下に、
文と俳句を載せておきたい。

文化七年五月
「11日雨
きのふよりの雨に烏川留まル。かかることのおそれを思へばこそ、
彼是(かれこれ)日を費やして首途(かどで)はしつれ。
今は中々災いの日をよりたるよう也。道急ぐ心も折れて、
日は斜めならざれど、
           新町
               高瀬屋五兵衛に泊まる
雨の疲れにすやすや寝たりけるに、
夜五更の頃、専福寺とふとく染めなしたる挑灯(ちょうちん)てらして、
枕おどろかしていふよう、
「ここのかんな川に灯篭立て、
夜の行き来を助けんことを願う。
全く少なきをいとはず、
施主に連なれ」とかたる。
「かく並々ならぬうき旅一人見落としたらんとて、
さのみぼさち(菩薩)のとがめ給おふにもあらじ、
ゆるしたべ(給へ)。」とわぶれど、せちにせがむ。
さながら罪ありて閻王(閻魔様)の前に蹲(うづくま)るも、
かくやあらんと思ふ。十二文寄進す。

・手枕や 小言いふても 来る蛍

後へ帰らんとすれば神流川(かんながわ)の橋無く、
前へ進まんと思へば烏川舟なし。
ただ駕籠鳥の空を窺ふばかり也。

・とぶ蛍 うはの空呼 したりけり
・山伏が 気に食わぬやら ゆく蛍」

としるされている。

ここ高瀬屋こそ、
小林一茶が逗留し常夜灯の寄付をさせられた旅籠である。
当時の様子がこの日記に記されている。

この一茶の「七番日記」は、
文化七年(1810)から十五年までの九年間の
綿密な見聞が書き加えられた日記と
一茶の作品(俳句)を収めたノートである。

巻頭に
「安永六年旧里を出でてより漂白すること36年也。
日数15960日。  
千辛万苦して一日も心楽しきことなく、
終(つい)に己を知らずして、
白頭翁となる」

地震火事は勿論のこと、乞食の行き倒れ、夜盗、
篭脱け詐欺、売春婦の部屋で往生を遂げた男、芝居始めの役者の噂、
殺人、酒乱、夜這いの若者の記録、一茶の好奇心は並外れている。
俳句は7500句が収められているが、
日常生活のメモといって良い。

旧中山道を進むと、左側に「小林本陣跡」の標柱がある。
向かい側に久保本陣が、その他脇本陣もあったというが、
今は何も残っていない。
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(新町宿 小林本陣跡の標柱)


参考:岩波文庫「七番日記」 丸山一彦校注(上、下巻 約480頁)
   はとても面白い。
コメント (8)
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金の切れ目が縁の切れ目(旧中山道を歩いて気づいた事4)

2013年01月13日 10時57分29秒 | つれづれなるままに考えること
写真はクリックで拡大されます。

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(信玄夫人陽雲院のお墓)


中山道の本荘宿に「陽雲寺」がある。
ここは、武田信玄夫人の陽雲院が、
晩年を過ごしたところといい、
墓地の奥には、そのお墓もある。
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(信玄夫人の墓石)

もうお判りと思うが、「陽雲寺」の名は、
信玄夫人の号から採ったものである。
また、金窪城主であった畑時能(はたときよし)と
その家臣児玉光信の墓(供養塔)が、
寺院の参道入り口に畑児塚(はたこづか)と呼ばれ残っている。

(畑児塚)

説明によれば、
(参道脇にある石の祠(ほこら)は、
新田義貞の家臣で四天王の随一と呼ばれ、
金窪城に居住した畑時能の供養祠と伝えられる。
時能は秩父郡長瀞町の出身で、義貞戦死後も南朝方のため
孤軍奮闘したが、暦応二年(1339)越前の国で、
足利方に討たれた。
従臣 児玉五郎左衛門光信が時能の首級(しるし)を
携えて敵陣を脱出し、当地に持ち帰り供養した。
後に光信も時能の墓側に葬られ、二つの石祠が建立され
両者の名をとって「畑児塚」と呼ばれるようになった。)
(上里町教育委員会)


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(新田義貞の四天王の随一畑時能の墓)

畑時能が新田義貞の四天王であったと説明にあるが、
新田義貞の四天王についての知識がないので調べた。

ここで四天王について、すこし述べようと思う。

広辞苑から
①仏教界の言葉で、帝釈天に仕え、四方を守る護法神。
 須弥山の中腹にある四王天の主。
 持国天(東方)増長天(南方)広目天(西方)多聞天(北方)をいう。
 像容は、甲冑をつけた憤怒の武将形で、邪気を踏み、
 須弥壇の四方に安置される四大天王。
②ある道、ある部門に最も秀でた4人の称。

イ.源頼光の四天王(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部末武)  
ロ.義経の四天王(蒲田盛政、蒲田光政、佐藤継信、佐藤忠信)
        または(武蔵坊弁慶、伊勢義盛、亀井重清、常陸坊海尊)
ハ.新田義貞の四天王(栗生顕友、篠塚伊賀守、畑時能、由良具滋)    
ニ.信長の四天王(柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、明智光秀)
ホ.家康の四天王(井伊直政、本田忠勝、榊原康政、酒井忠継)

とある。(広辞苑より。)

物語に寄れば、源頼光の四天王は、
大江山の酒呑童子を退治したことで有名である。
中でも渡辺綱(わたなべのつな)は羅生門に
夜な夜な現れる妖怪の腕を切り落としたことで知られ、
坂田金時は五月の端午の節句にでてくる、金太郎が幼少の名で、
足柄山で熊にまたがり馬の稽古をし、獣たちを集めて相撲の稽古をした
と歌い継がれて有名である。

しかし新田義貞の四天王、
畑時能についてのエピソードをボクは知らない。
日本歴史に疎いボクは、
金窪城主であったことで、今回始めて四天王であることを知った。

調べたところによると、
元弘の乱(1333)(後醍醐天皇を始めとする勢力により
鎌倉幕府が倒された乱)において、
新田義貞の家来として活躍した四人の家臣を
義貞の四天王と呼ぶ。畑時能はそのうちの一人。
・出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

 広辞苑の四天王の説明の中で、
豊臣秀吉に四天王がいないことが気になった。
秀吉には確固たる家来がいなかった。
せいぜい、加藤清正、福島正則、片桐勝元、蜂須賀小六くらいしか思い浮かばない。
お金や知行で釣って、たくさんの家来を引き込んでいるが、
いずれも寄せ集めで、身命を賭して秀吉に誓った人は少ない。
水のみ百姓の子倅から、関白太政大臣にまで上り詰めた割には、寂しい。
生まれが卑しいから、金の力が全てで、
魅力のない人となりであったのであろうか・・・

いつの世も「金の切れ目が縁の切れ目」であったのであろうか・・・ 
コメント (8)
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平家物語「平忠度の最後」(旧中山道を歩いて気づいた事3)

2013年01月09日 09時30分14秒 | つれづれなるままに考えること

(忠教の宿のあるじ?)

「平忠度(たいらのただのり)の最後」

旧中山道の武州(ぶしゅう)を歩いて、
埼玉県大里郡岡部町へでた。
岡部と言えば、平家物語に出てくる平忠度を討ち取った
岡部六弥太の故郷でもある。

以前、江戸狩野派の絵画展を観て、
展示された屏風の一部に、平忠度の最後の場面が描かれおり、
これは「平家物語」巻第九「一の谷」の項の場面と案内があった。

せっかく、岡部六弥太の故郷を紀行文にするからには、
「平家物語」を読まざるを得ないと、図書館へ行った。
図書館には、古典文学全集が二種類あり、
発行元はS社とG社であったが、
当のくだりを開いてみると、
一方は「一の谷」他方は「忠教(ただのり)最期」となっていた。

記述も、書き出しが一方は、
「一の谷の西の手をば、左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)、
薩摩守忠度(さつまのかみただのり)、三万余騎にて
防がれけるが、「山の手敗れぬ」と聞こえしかば、
いとさわがで落ち給う。」

他方は、
「薩摩守忠教(さつまのかみただのり)は、一の谷の西手の
大将軍にておはしけるが、紺地の錦の直垂に黒糸おどしの鎧着て、
黒き馬のふとうたくましきに、いっかけ地の鞍おいて乗り給へり。」
となっている。

確かに、内容は双方同じであるが、
記述が微妙に違っている。
おかしいと思い調べると、
「平家物語」は、
もともと琵琶法師によって語り継がれたものを、
書き記したものであるから、
聞き継いだ法師によって多少の違いが出てくることが判った。

この琵琶法師の語りを、
小泉節子夫人が夫のラフカディオ・ハーンに語り、
有名な怪談「耳なし芳一」の物語ができたと言う。

旧中山道岡部町に清心寺があり、
「史跡 平忠度の墓」の石碑がある。
門をくぐってすぐ左手に忠度の墓が見える。
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(清心寺)
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(平忠度の墓)

忠度は清盛の異母弟で、一の谷の合戦で岡部六弥太忠澄に
討ち取られたことは平家物語にも有名であるが、
討ち取られた時に、鎧の箙(えびら)に結んだ文に、歌が詠まれてあった。
これにより、平忠度と判明した。

行きくれて 木の下陰を 宿とせば
      花やこよいの主(あるじ)ならまし  忠度

墓の前の案内に拠れば、

岡部六弥太が忠度を討って、
その亡骸を領地の一番景色の良いこの地に五輪の塔を建てた。
忠度ゆかりの菊の前が、墓前でさした桜が紅白の二つの花が
相重なる形で咲き、これを夫婦咲きと云い、
忠度桜として有名です。
                 (深谷上杉顕彰会)

さて、お墓ですが、忠度の辞世を満足させるがごとく、
桜の木で囲まれ、今では辞世のように、花が主(あるじ)となっているのを見ると、
首を討ち取った岡部六弥太の憎いまでの心遣いに感激します。


せっかくですので、語り口調の見事な
平家物語の忠教最度のくだりを、書物に沿って紹介します。

その忠度についいて、平家物語にある、
次に記すお話を是非お読みいただきたい。

なお、私の勝手な口語訳ですので、
間違いあると思われますが、
その段、切にお詫び申し上げます。

(薩摩守忠教は、一の谷の西側の大将でございますが、
紺地の布に金糸・銀糸で文様を織り出した錦で仕立てた
鎧直垂(よろいひたたれ)に黒糸おどしの鎧を
着ていらっしゃいました。
黒毛で太くたくましい馬に、
金銀をまぶした漆塗りの鞍を置いて
乗馬されていました。
軍勢百騎ばかりに囲まれて、静かに堂々と進むのを、
猪俣党(いのまたとう)に岡部六野太忠澄が、
大将軍と思い馬に鞭うち、
あぶみをけって追いつき、
「そちらのお方は、どなたでござる、お名のりくだされ」といえば、
「こちらは、味方でござる」と振り向き答える冑の顔をみると、
おはぐろ(歯を黒く染めてあった)であった。
おお、わが方には、おはぐろを付けた人はいないから、
これは平家の公達に違いないと、
馬を並べるやむんずと組み付いた。
これを見て百騎ばかりいた兵たちが、
助太刀すると思いきや、
にわかに集めた兵達であったので、
一騎も助太刀せず、
我先に逃げてしまった。
「憎っくき奴め、自分が味方だと言うのだから、
言わせておけば良いのに、」と、
熊野育ちの大力で、力技、武技などの振る舞いは敏捷な忠教は、
止むにやまれず、刀を抜き六野太めがけて、
二太刀振り下ろす。
返す一太刀と、あわせて三太刀振り落としたが、
二太刀は鎧の上で刺し通すことが出来ず、
一太刀は冑へ突きを入れたが、薄手で殺すことが出来ず、
とって抑えて首を切ろうとしたところ、六野太の家来で
まだ前髪立ちの若武者が駆け寄り、刀を抜いて薩摩守忠教の
右腕をひじのところから、ばっさり切り落とした。
今はこれまでと思ったのであろう。
「しばし退れ、十念(念仏)を唱えてから切られようぞ」と
六野太を左手で弓の長さ(約2m)ほど突き飛ばして、
西に向かって声高に念仏を唱えた。
「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」と
唱え終わらぬうちに、六野太がうしろから首を討った。

岡部六野太は平家の大将の首を取ったけれど、
誰とも分からず、
「これは平家の一門の方であろう。名乗らせてから
討つべきであったなあ」と思って見ると、
鎧の箙(えびらと読む、背ににつけた矢の容器)に
文が結び付けてあるのを発見した。
開けてみると「旅宿の花」と題して、
一首 歌が書かれてあった。

・ゆきくれて木のしたかげをやどとせば
        花やこよいのあるじならまし

と書いて、薩摩守忠教と書いてあり、
忠教であることが分かった。
首を刀の先に刺して、高く差し上げ、大音声で
「武蔵の国の住人 岡部六野太が、薩摩守忠教をば
討ち取ったり!」と大声で名乗りを上げた。

敵も味方もこれを聞いて
「ああ、お気の毒に、
平家一門でも武芸にも、歌道にも、
ずいぶん傑出しておられた大将軍であったのに…」と
涙を流し、袖をぬらさぬ人はいなかったという。)

「平家物語、巻九 忠教最後」より
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♪箱根八里♪と江岸寺(ごうがんじ)(旧中山道を歩いて気づいた事2)

2013年01月05日 10時15分31秒 | つれづれなるままに考えること

(広重描く東海道の箱根)



♪箱根八里♪

(一)
箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
斯(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

(ニ)
箱根の山は 天下の阻(そ) 蜀(しょく)の桟道(さんどう)数ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)う
雲は山をめぐり 霧は谷をとざす
昼猶(なお)闇(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)滑(なめら)か
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
山野に狩りする剛毅の壮士(ますらお)
猟銃(りょうじゅう)肩に草鞋(わらじ)がけ 
八里の岩ね踏み破る
斯(か)くこそありけれ近時の壮士(ますらお)

「箱根八里」の歌も、これだけ仮名を振らなければ、
読んでもらえない文字が沢山ある。
歌っている人たちの中で、詩の内容をどれだけの人に、
理解されているのか、首をかしげる。

何時だったか箱根に旅したとき、
バスガイドさんが「箱根八里」を歌った後、
乗客に質問をした。

この詩の作者は誰か御存知の方いらっしゃいますか?
と質問した。

残念ながら、乗客の中に答えられる人は、
ボクを含め誰もいなかった。
その作詞者の墓が、文京区の本郷通りにある。
作詞者の名を 鳥居 忱(とりいまこと)という。

駒込の冨士神社を出て、六義園に向かう途中の左側に、
江岸寺(ごうがんじ)という名のお寺がある。
このお寺は曹洞宗 江岸寺(ごうがんじ)といい、
開基は鳥居忠政であり、鳥居家の菩提寺である、
と案内にある。

鳥居忠政は徳川家康の忠臣で、三方が原の戦、
いや、長篠の合戦で功を挙げた武将である。
その子孫に鳥居 忱(とりいまこと)がいる。

鳥居 忱(とりいまこと)は藩の奨学生として、
大学南校(後の東大に当たる)に学んだ。
卒業後、音楽伝習生としてアメリカの教師メーソンに洋楽を学ぶ。
鳥居 忱は東京音楽学校の教授のかたわら、
多くの作詞を手がけた。
中でも鳥居 忱作詞「箱根八里」は、
滝廉太郎が作曲して、多くの人に愛唱された。
その鳥居 忱はここ江岸寺に眠る。(文京区教育委員会)

墓地に入ってお墓を探したが、見当たらなかった。

   残念!!
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