楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

長久保宿を訪れた人々(旧中山道を歩いて気づいた事8)

2013年01月26日 09時15分35秒 | つれづれなるままに考えること
(信濃の長久保宿)
歌川広重・渓斎英泉「木曽海道六拾九次之内」によれば、
(長久保の宿を出て和田宿にほど近い辺りを依田川が流れている。
広重の浮世絵は依田河畔の情景を描いたものであろう。
近景はこの辺りの人々の様子が着彩で描かれている。
子供たちが犬に乗って戯れる傍らを、仕事を終えた馬子が通り過ぎる。
馬子が見ているのは、昇ってきた満月。


(木曽海道69次之内「長久保宿」)

川岸の松から後方の景色は、シルエットで表現されている。
川に架かる橋(落合橋とされる)の欄干も濃淡の差異を持たせ手前と奥を描き分けている。
橋を通る馬子、天秤で荷物を運ぶ農夫をシルエットで見事に描いている。)と説明している。
歌川広重が天保8年頃の作品と言われる。

長久保を訪れた人には、「東海道中膝栗毛」の十返舎一九もいる。
十返舎一九は、文化八年(1811)取材を兼ねて、中山道を通って京阪へ旅をします。
そして、文化十一年(1814)に、
「鼻毛の延高(はなげののぶたか)」と「千久羅坊(ちくらぼう)」という二人の狂歌師が、
京から江戸へ向かう道中を描いた
「方言修行金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)」第五編「木曽街道之記」を刊行します。
074_b1
(十返舎一九の「方言修行金草鞋」)

この中で、長久保宿は「たのしみはたびにこすものあら坂や 
日もながくぼの春ののどけさ」と狂歌に唄われ、
「ばんにはながくぼのささやにしやうか」といって、
脇本陣の笹屋に宿をとる様子が描かれています。

また、嘉永六年(1853)黒船来航以来、
尊王攘夷論や公武合体論が台頭して、世情が不安定になります。
こうした中で、文久三年(1863)には、幕府の浪士組み234名が、
将軍上洛警護を目的として、江戸から中山道を通って京に向かいました。
このとき長久保宿に宿泊し、その宿割りの手配をしたのが、新撰組局長の近藤勇で、
他にも土方歳三、沖田総司が浪士組みの一員に加わっています。
その新撰組の近藤勇も、板橋宿の平尾宿(下宿)の外れで処刑され、
お墓があります。

さらに、元治元年(1864)には、水戸天狗党(水戸浪士が)、
内山峠越えに信濃に入り、中山道を通って京を目指しました。
このことは(茂田井の高札)のところで述べました。
十一月十九日に一行は、長久保宿を通過しますが、にわか雨に合ったため、宿内で休憩します。
流言飛語が飛んだためか、宿では婦女子を土蔵やむろの中に隠し、
火災を警戒して、火を消すなどしましたが、浪士一行の態度は礼儀正しいものであったと言います。
また、行軍中は小太鼓を打ちながら、「水戸の浪士と長州がなけりゃ、
今に日本は唐(から)になる。」と唄って行ったと伝えられています。(長和町教育委員会)

コメント (12)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Potora!  NTTグループ運営!