楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

日光の陽明門(芭蕉の道を歩く17)

2012年10月15日 10時07分15秒 | 芭蕉の旅
(陽明門)

(日光2)
仁王門をくぐると、目当ては有名な陽明門である。
きらびやかな彫刻がすみずみに施され完成した。
しかしその手前には、三神庫、神厩舎があり、
特に神厩舎の長押(なげし)には、猿の見事な彫刻が見られる。

三神庫の外部は校倉造(はぜくらづくり)を模したもので、
内部には百物揃え千人行列と呼ばれる、
壮大な渡御祭りと呼ばれる装束が、1200人分が収められている。

(三神庫)

(神厩舎は、神に仕える馬の厩舎のことで、
神馬は雄の白馬が条件で、現在も2頭飼われている。
百物揃え千人行列には、この神馬もお供する。
長押の上には「三猿」で有名な猿の彫刻が八面掲げられている。
昔から猿は馬を病気から守るとされ、
室町時代まで馬屋で猿を飼う習慣があった。)(日光観光協会)

長押の三猿の一部を紹介したい。

(人生にまっすぐ立ち向かうが、崖っぷちに立つときも。
迷い悩む仲間を励ます友がいる。)
(次が、口を「へ」の字に曲げ、
大きな志を抱いて天を仰ぐ。青い霞が「青春の志」を暗示。)

(そして最後が、三猿。
子供のときは、悪いことを「見ザル、言わザル、聞かザル」)
(カッコ内は日光観光協会より)

この神厩舎と三神庫の間を抜けると、
石段を登って陽明門である。

松尾芭蕉の時代には、武士は陽明門の石畳、
庶民は陽明門の前に土下座して東照宮を拝んだという。
徳川幕府の威徳に対し素直に敬意を表して、
奥の細道に書いている。

「今この御光(みひかり)一天にかかやきて、
恩沢八荒にあふれ、
市民安堵の栖(すみか)穏やかなリ。
猶憚り(なおはばかり)多くて筆をさし置ぬ。

 ・あらたう(ふ)と青葉若葉の日の光」

と有名な句を残し、
瑞々しい新緑に輝く陽光を(日の光)で詠み、
同時に東照宮への礼讃を(日の光=日光)と述べている。

(陽明門2)

今では、誰でも陽明門をくぐり中に入っていく。
震災で被害があったのか、至るところで修復工事がなされている。
養生シートが五月蝿く感じられる。
(東照宮 本殿)

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日光東照宮の五重塔(芭蕉の道を歩く 16)

2012年10月10日 10時52分55秒 | 芭蕉の旅
(人出のある日光東照宮)

(日光1)
2012年10月5日(金曜日)日光へ行く。
普段の日だというのに、沢山の人が訪ね来ているのに驚いた。
さすが世界遺産に登録されているだけのことはある。
又今回は、五重塔の内部が、特別内覧できると言うので、
人が多いのかもしれない。

松尾芭蕉は元禄二年、深川を発ち奥の細道へ向った。
千住・草加・室の八嶋の次、第四番目が日光であった。
日光を見ずして結構と言うなかれという諺がある。
同じ意味の諺がヨーロッパにもある。

イタリヤのナポリである。ナポリを見ずして死ぬな、
ナポリを見ずして結構と言うなかれ、ともいう。
カミサンにそう話しながら、道中は進む。
ナポリのどこがそんなに素晴らしいのか、
よく判らなかった、カミサンの率直な意見である。

現にナポリは世界遺産に登録されていないが、
日光は世界遺産に登録されているではないか。

日光東照宮の参道は、沢山の人が歩いている。
右手に金色の葵のご紋がついた石碑「東照宮」が、
うっそうとした杉林に囲まれて建っている。
(東照宮の石柱)
(ご存知徳川の葵のご紋)
「東照宮」には、今回で四回目の訪問になる。
最初が高校生の修学旅行であった。
次が結婚して、長男が三歳ころだったと思う。
三回目は、長女が四歳、長男が八歳ころの夏休みに、
湯西川温泉に行った帰りに寄った。
最後に訪ねた時から、もう四十年も経っている。
(右の仁王さま)
(左の仁王さま)
東照宮の仁王門が見える広場に来ると、
左手に五重塔が見える。
今回は五重塔の内部を特別公開されるとの事で、
沢山の人が訪ねきているのであろう。
この塔は、当初、小浜藩主 酒井忠勝の寄進であったが、
およそ150年後に焼失、さらに三年後の1818年に忠勝の子孫、
忠進によって再建された。
(五重塔)

2011年3月11日の東北大地震による津波で、
福島第一原子力発電所の事故で、激減した日光の観光客を、
取り戻す企画の一つとして、この五重塔の内部公開をすることになった。
2013年3月末まで公開される。

本邦初公開である。
痛々しい努力の企画である。
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象潟(3)ーねぶの花(芭蕉の道を歩く 18)

2012年10月06日 12時06分54秒 | つれづれなるままに考えること
芭蕉が「奥の細道」の象潟で詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

の西施については、前回理解した。

ねぶの花は合歓の花のことで、
これは象潟の蚶満寺(かんまんじ)の門前近くに沢山あると、
「奥の細道の旅ガイドブック」(三省堂)にある。

訪ねてみると、真新しく見える(西施像)があり、
その手前に「ねむの木」は一本植えてあるが、
見渡した所、周りにねむの木は無かった。
このとき見た合歓の木が、
ボクが初めて合歓の木と知った合歓の木であった。

先ず手始めに、近所の植物園に行って、
「ねむに木」はありますかと訊いて、
生えている場所を聞いてから、
植物園で「合歓の木」を見た。
残念ながら花は無く、
一本の合歓の木が葉を繁らしていた。

(西施像)

(合歓の木)


さて花は6月下旬から7月にかけての真夏に咲くものらしいが、
今年(2012)は天候不順で、異常気象でもあるから、
合歓の木さえ見つければ、あるいは花は咲いているかもしれない。
淡い気持ちで住まいの近くの心当たりを探したが、
まず、合歓の木自体が生えていない。

最近建設された近所の住宅団地に植栽されていないかと調べたら、
幸運な事に、七本ばかり合歓の木を見つけた。
しかし、さすがに花は見当たらなかった。

(植物園で見つけた合歓の木)

さらにネットを通じて、生えているところを探すと、
江戸川区の新長島川親水公園に合歓の木があることが判った。
その木から咲いた花を載せているHPも見つけた。

(新長島川親水公園)


(新長島川親水公園2)


(新長島川親水公園3)


早速、カメラ片手に暑い中を出かけたが、
親水公園は広く美しいが、林のように沢山生えている木の中に、
合歓の木はどれか、なかなか見つけることは出来なかった。
細長い公園で、公園の最後の所に二本大きな合歓の木があることが判った。
木は高いから仮に花が咲いていても、
ボクのカメラでは、写真に収めることが出来ないと、
諦めて帰りかけたが、
大きな合歓の木は土手の中腹にたっており、
土手の上は道路があることがわかった。
その土手の上の道路を通れば、
あるいは合歓の花は手近にあるかもしれない。

(親水公園の終り)


(土手の中腹にあった合歓の大木)


土手の階段を十数段登り道路に出る。
合歓の木の所へ出ると、
木には咲いた花の後に沢山の実が付いている。
遠い昔に咲いて、もう実が付いているのだ。
その実は充分ボクの手で獲ることができるほど近くにある。
花が咲いていれば、手で触れるほど近くにあるものを、
散った後では仕方が無い。

来年の6月頃来れば花が咲いており、写真も撮れるに違いない。
半ば諦めて帰ろうとしたところ、
はるか高い所に赤いものが見える。
半信半疑で目を凝らすと、
見間違うことないネットで調べた合歓の花で、
それも二~三個咲いている。
(合歓の花)


カメラを構えて写すも風があり、花が揺れて上手く撮れない。
手ぶれ補正のカメラであるが、ピンボケは補正できない。
残念ながらピンボケの合歓の花で我慢をしていただきたいと思う。
時期遅れの最後の花と思われます。

(ボケていて合歓の花が良く判らない)


(ピンボケの合歓の花)


その後近所の住宅団地に植えられた合歓の木を見ると、
花が付いているではないか。
小躍りして写真を構えるも、これも高い所にあり、
風で揺れピンボケになったが、
何とか見られそうなものを載せたいと思います。

(近所に見つけた合歓の花)


松尾芭蕉はずいぶん罪な人だ。
「象潟や雨に西施がねぶの花
の俳句を理解するのに、
何日も時間を費やしてしまった。



さらにその後、娘のお友達の家に鉢植えの合歓の木があると聞いて、
訪ねると、花が咲いている鉢植えの合歓の木があった。
これが一番花らしく見える。
(鉢植えの合歓の花)

(鉢植えの合歓の花2)


・ねむの花さがしもとめて西ひがし     hide-san
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象潟(2)ー西施とねぶの花(芭蕉の道を歩く 17)

2012年10月02日 09時44分57秒 | つれづれなるままに考えること
芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、
秋田県にかほ市象潟を訪ねた。

松尾芭蕉が奥の細道で、

本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。

(象潟の芭蕉像)


そこで詠んだ俳句、

「象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花」

も有名であるが、西施とねぶの花については、

いずれも名前は知っていても、
さて、どんな人、どんな花と聞かれると、
説明が出来ない。

「西施(せいし)」について、
絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。
入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。

美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、
何とも言えないが、
切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、
おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。

「楊貴妃」もその時代の肖像では、
でっぷり太ったふくよかな女性というから、
美人の定義も今とは違っている。

さて、その「西施」であるが、
これもその時代の美女であったことには、
間違い無さそうである。

「呉越同舟」で表現される、
「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)

 (西施像)

                   

越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、
西施と言う名の美女がいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、
谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、
呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、
彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、
か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。

西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、
常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。

西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。

「象潟や 雨に西施が ねぶの花」

「奥の細道」の原文に、芭蕉は、

「面影松島にかよひて、又異なり。
松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」


と言っているが、
美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、
雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。

岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、
芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。

(雨にけぶる象潟は、
 悩める美女西施を思わせる、
 合歓の花の風情と通い合い、
 美しくもさびしさを深めている。)

そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、
合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、
ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。

この木を実際には見たこともなく、
象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。

(ねぶの木)


(つづく)
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