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楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

浄土宗 高養山 成学寺ー金沢で2(芭蕉の道を歩く 76)

2024年05月22日 04時52分17秒 | 芭蕉の旅
芭蕉は金沢では、小杉一笑の追善句会の他に、
句会を開いていることが、
「おくのほそ細道」の文中からも分かる。

 「その兄追善を催すに、

・塚も動け 我泣声は 秋の風

   ある草案にいざなはれて

・秋涼し手毎にむけや瓜茄子

   途中唫(ぎん)

・あかあかと日は難面(つれなくも)あきの風」

と詠んでいて、句会が何度かあったこと、
また、この三句から主題が「秋の風」であることが、
よく分かる。

願念寺を出て、門を背に右手に
「日蓮宗妙立寺」の看板が見え、
奥に沢山の絵馬が掛かっているのが見える。
金沢の案内書から推測すると、
どうやら忍者寺の裏口のようで、
絵馬が掛かっている横を構わず奥へ入っていくと、
妙立寺(忍者寺)の正面本堂前に出た。

(妙立寺の裏門)

(奥に見えた絵馬の数々)


(絵馬に書かれた文字)


(絵馬を通り抜けた忍者寺の小屋)

妙立寺正面)


(妙立寺の案内)

本堂前にはたくさんの外国人を交えた観光客がいたが、
ボクは忍者寺には用がないので、
さっさと表通りへ出て左折する。


妙立寺から犀川大橋寄りにすすむと、
途中信号があって道路を渡ると、
すぐ左手に成学寺がある。


(成学寺門前)


左右の屋根の上に風神雷神像がある。

(左側の屋根の上 風神像)

(風神)

(雷神像)


門をくぐると正面に立派な石碑墳がある。

(石碑群)



この中に芭蕉翁の句碑があるというのだが、
句碑そのものが古くて、
金沢市の説明にある句碑がどれだか解らない。

(説明板)


説明板によれば、
「宝暦五年(1755年)
 芭蕉翁追悼のため俳人
 堀麦水とその門人が
 秋日塚(あかあかと日は難面も秋の風)
 を立てた。   金沢市」

とあるが、

句碑が古くて読めず、
かろうじて、「宝暦五年」が読めるので、
下の写真の石造物がその句碑に違いないと思った。

(宝暦五年の石造)

この句碑群の左手に一笑塚はあり、
どうやら一笑ゆかりのお寺であったようだ。

(一笑塚)


このあと、芭蕉は小松、山中、那谷、敦賀などへ旅をする。

しかしボクはまだ山形の最上川の川下りにさえ言って居ない。
大石田から酒田までを行きたいものだ。

・五月雨を あつめて涼し 最上川

その時芭蕉が詠んだ俳句は、
とても解りやすい。



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小杉一笑を偲ぶー金沢で1(芭蕉の道を歩く 75)

2024年05月20日 04時42分22秒 | 芭蕉の旅
松尾芭蕉が「おくのほそ道」で金沢に来たのは、

芭蕉が、まだ一度も会ったことがないけれど、
通称 茶屋新七といって、
加賀では俳句に思わぬ優れた人と、
かねがね噂に聞いていた小杉一笑と言う人に
会いたくて金沢に来たが、
芭蕉の来報を待たずに、
昨年の冬 早世したと聞いて、
すこぶる残念に思った。

芭蕉の来報に、一笑の兄が
追善句会を願念寺で行った。

その願念寺には、金沢駅からバスに乗って
「広小路」で降りると、
すぐ後ろに願念寺への通路が見えた。
細い道を入っていくと門があり、
願念寺に着いた。

(願念寺)

その願念寺には一笑の塚がある。

願念寺の門を入って、
右手に手水場があり、龍が水を吐いており、
正面に本堂があり、すぐ左手に門塀に沿って、
その塚は立っている。

(願念寺本堂)


(右手の手水場)

本堂前には、沢山の靴が下駄箱らしき板に積まれており、
中でいろいろ会話が聞こえるが、何を話しているか分からない。

近寄ると、中の障子が急に開いて、
ダミ声で「何か用か?」と、
誰何されそうで、近寄るのを止めたが、

一笑の塚だけはカメラに収めた。

(一笑の塚)

一笑の兄が追善句会において、
詠んだ芭蕉の一句、

・つかもうこけ 我泣く声は 秋の風

この句には、「一笑の死を悼む悲しみは、私の泣く声で塚も動け」と
芭蕉の激情が感じられてならない。


(願念寺の門の外の左側に立つ句碑)

石塔の
左側は「本一山 願念寺」とあり、
右側の石碑には、

「芭蕉翁来訪地 小杉一笑墓所

・つかもうこけ 我が泣く声は 秋の風」

とある。

芭蕉は、次に別の庵に招かれて、

・秋涼し 手毎にむけや 瓜茄子

を詠んでいる。

この句を見る限り、心穏やかな芭蕉を感じることができる。


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象潟(3)-ねぶの花(芭蕉の道を歩く 74)

2024年05月18日 03時57分57秒 | 芭蕉の旅
以下は
2012年に旅した記録です。

芭蕉が「おくのほそ道」の象潟で詠んだ俳句、

・象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花

の西施については、前回理解した。

ねぶの花は合歓の花のことで、
これは象潟の蚶満寺(かんまんじ)の門前近くに沢山あると、
「奥の細道の旅ガイドブック」(三省堂)にある。

訪ねてみると、真新しく見える(西施像)があり、
その手前に「ねむの木」は一本植えてあるが、
見渡した所、周りにねむの木は無かった。
このとき見た合歓の木が、
ボクが初めて合歓の木と知った合歓の木であった。

先ず手始めに、我が家の近所の植物園に行って、
「ねむの木」はありますかと訊いて、
生えている場所を聞いてから、
植物園で「合歓の木」を見た。
残念ながら花は無く、
一本の合歓の木が葉を繁らしていた。

(西施像)

(西施像横の合歓の木)

さて花は6月下旬から7月にかけての真夏に咲くものらしいが、
今年(2012)は天候不順で、異常気象でもあるから、
合歓の木さえ見つければ、あるいは花は咲いているかもしれない。
淡い気持ちで住まいの近くの心当たりを探したが、
まず、合歓の木自体が生えていない。

最近建設された近所の住宅団地に植栽されていないかと調べたら、
幸運な事に、七本ばかり合歓の木を見つけた。
しかし、さすがに花は見当たらなかった。

(植物園で見つけた合歓の木)

さらにネットを通じて、生えているところを探すと、
江戸川区の新長島川親水公園に合歓の木があることが判った。
その木から咲いた花を載せているHPも見つけた。

(新長島川親水公園)

(新長島川親水公園2)

(新長島川親水公園3)

早速、カメラ片手に暑い中を出かけたが、
親水公園は広く美しいが、林のように沢山生えている木の中に、
合歓の木はどれか、なかなか見つけることは出来なかった。
細長い公園で、公園の最後の所に二本大きな合歓の木があることが判った。
木は高いから仮に花が咲いていても、
ボクのカメラでは、写真に収めることが出来ないと、
諦めて帰りかけたが、
大きな合歓の木は土手の中腹にたっており、
土手の上は道路があることがわかった。
その土手の上の道路を通れば、
あるいは合歓の花は手近にあるかもしれない。

(親水公園の終り)

(土手の中腹にあった合歓の大木)

土手の階段を十数段登り道路に出る。
合歓の木の所へ出ると、
木には咲いた花の後に沢山の実が付いている。
遠い昔に咲いて、もう実が付いているのだ。
その実は充分ボクの手で獲ることができるほど近くにある。
花が咲いていれば、手で触れるほど近くにあるものを、
散った後では仕方が無い。

来年の6月頃来れば花が咲いており、写真も撮れるに違いない。
半ば諦めて帰ろうとしたところ、
はるか高い所に赤いものが見える。
半信半疑で目を凝らすと、
見間違うことないネットで調べた合歓の花で、
それも二~三個咲いている。

(合歓の花)

カメラを構えて写すも風があり、花が揺れて上手く撮れない。
手ぶれ補正のカメラであるが、ピンボケは補正できない。
残念ながらピンボケの合歓の花で我慢をしていただきたいと思う。
時期遅れの最後の花と思われます。

(ボケていて合歓の花が良く判らない)

(ピンボケの合歓の花)

その後近所の住宅団地に植えられた合歓の木を見ると、
花が付いているではないか。
小躍りして写真を構えるも、これも高い所にあり、
風で揺れピンボケになったが、
何とか見られそうなものを載せたいと思います。

(近所に見つけた合歓の花)

松尾芭蕉はずいぶん罪な人だ。

「象潟や雨に西施がねぶの花

の俳句を理解するのに、
何日も時間を費やしてしまった。


さらにその後、娘のお友達の家に鉢植えの合歓の木があると聞いて、
訪ねると、花が咲いている鉢植えの合歓の木があった。
これが一番花らしく見える。

(鉢植えの合歓の花)

(鉢植えの合歓の花2)

・ねむの花さがしもとめて西ひがし     hide-san



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象潟(2)-西施とねぶの木(芭蕉の道を歩く 73)

2024年05月16日 04時53分34秒 | 芭蕉の旅
芭蕉が歩いた道をたどって、訪ねる事を始めたボクは、
秋田県にかほ市象潟を訪ねた。
2012年に旅した記録です。

松尾芭蕉が「おくのほそ道」で、

本州の日本海側最北端、象潟へ行ったのは良く知られている。

(象潟の芭蕉像)

そこで詠んだ俳句、

・象潟や雨に西施(せいし)がねぶの花

も有名であるが、西施とねぶの花については、

いずれも名前は知っていても、
さて、どんな人、どんな花と聞かれると、
説明が出来ない。

「西施(せいし)」について、
絶世の美女と言われるが、世界三大美女の中には入っていない。
入っているのは「楊貴妃、クレオパトラ、小野小町」となっている。

美女というと、その容姿は時代によって左右されるから、
何とも言えないが、
切れ長の目でうりざね顔の柳腰が美女の時代、
おたふくで代表される美女の時代もあったに違いない。
今はAKB48に代表される美女群がちやほやされる時代である。

「楊貴妃」もその時代の肖像では、
でっぷり太ったふくよかな女性というから、
美人の定義も今とは違っている。

さて、その「西施」であるが、
これもその時代の美女であったことには、
間違い無さそうである。

「呉越同舟」で表現される、
「呉」と「越」の国が争っている時代の事である。
(大まかなあらすじを以下にのべる。詳しくは「中国五千年の歴史」を参照)

 (西施像)
                   

越王 勾践が、呉王 夫差に、復讐のための策謀として献上した美女、
西施と言う名の美女がいた。
貧しい薪売りの娘として産まれた西施は、
谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれている。
呉の国に送り込まれた西施に、呉の国王夫差は夢中になり、
呉の国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになる。
中国では美女の事を「傾城(けいせい)」ともよぶ。
(傾城=美女にかまけて国の運営をないがしろにし、城を傾けるから。)
西施は胸の病があったらしく、
彼女が胸元を押さえ、眉間にしわを寄せ悩む姿にはなんともなまめかしく、
か弱い女性の美しさがにじみ出ていたという。

西施にも弱点があったとされる。
それは大根足であったとされ、
常にすその長い衣が欠かせなかったといわれている。
しかし、この当時は大根足が美女の条件であったかもしれない。

西施を知らなければ、芭蕉の句を理解できない。

・象潟や 雨に西施が ねぶの花

「おくのほそ道」の原文に、芭蕉は、

「面影松島にかよひて、又異なり。
 松島は笑うが如く、象潟はうらむがごとし」

と言っているが、
美女西施の悩める姿と合歓の花を混ぜ合わせて、
雨にけむる象潟を表現したかったものと思われる。

岩波文庫「おくのほそ道」の注記によれば、
芭蕉のこの俳句の意を次のように解説している。

(雨にけぶる象潟は、
 悩める美女西施を思わせる、
 合歓の花の風情と通い合い、
 美しくもさびしさを深めている。)

そして次が「ねぶの花」である。
「ねぶの花」は「合歓の花」のことであるが、
合歓の木は、夕方から夜の間は葉が閉じることから、
ねむる木と言われ、それが「ねむの木」と呼ぶ事になったという。

この木を実際には見たこともなく、
象潟の西施像の前にあった合歓の木でしか知らない。
まして花はどんな花かボクは知らない。

(ねぶの木)

(つづく)
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象潟(1)-蚶満寺(かんまんじ)(芭蕉の道を歩く 72)

2024年05月14日 05時05分49秒 | 芭蕉の旅
2012年に旅した記録です。

(芭蕉像、看板に奥の細道最北の地とある)




(象潟(きさがた)
鶴岡から船で坂田(現酒田市)へ七里、
酒田は、米、大豆、紅花などを出荷して、
塩、木綿、木材などを入荷する。
四~11月までの間に2,500艘の船が出入した港と言う。
2012年の旅の記録です。

酒田市は当時、大商業地であったらしく、
芭蕉も歓待されたのであろう、
滞在途中、酒田から象潟へ向かい、
九十九島、八十八潟を眺めて、
四日後には酒田に戻り、
酒田には実質九日間も逗留している。

その象潟へボクも尋ねた。

芭蕉の頃は、仙台の松島に似て、
海に点々と浮ぶ美しい小島であったに違いない、
九十九島、八十八潟と言われる海に浮ぶ島々は、
今は稲穂がたれる田圃の中の小山に過ぎない。

(九十九島の一部)



しかし芭蕉は、象潟で船に乗り象潟の島々を眺め、
蚶満寺(かんまんじ)を訪ねている。
その蚶満寺で船を止め上陸し、
西行法師が詠んだ桜の老木を見て、
蚶満寺の方丈に座り簾を上げて風景を眺めている。

(奥の細道蚶満寺)



(南に鳥海山が聳え、西にはうやむやの関が道を塞ぎ、
東には堤が築かれて、秋田への道が続いている。
北には海があり、その面影は、
点々と島がある松島に似ているようであるが、
似て非なるもののようである。)
(ボクの勝手な現代語訳)
と感想を述べている。


「奥の細道」の原文では、

松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし。
寂しさに悲しみをくわえて、
地勢魂をなやますに似たり。

(松島は笑顔をたたえた様であるが、
象潟の有様は、憂いに沈む美人の風情である。)
(岩波文庫「おくのほそ道」注記より)


・象潟や雨に西施がねぶの花

・汐越や鶴はぎぬれて海涼し


と詠んでいる。

(西施像)


少し分かり難いが、「ねぶの花」と詠んだ
ねぶの木で、これに花をつける。

(ねぶの木)



(ここで「西施」と「ねぶの花」が解らないが、
次回、調べた範囲でその説明をしたい。)

さて、蚶満寺には松並木に囲まれたひなびた参道があり、
左手は一面の緑の稲穂の中に象潟の島々がみえ、
参道右手には芭蕉像と句碑、
造ったばかりに感じられる西施像がある。

(ひなびた長い参道)



(左手の島々)



(芭蕉像が見える)



ながい参道の突き当たりに、
古色蒼然とした佇まいの山門があり、
その先に六地蔵が出迎えて、
赤い帽子と前掛けをつけて建っている。
本堂へはうっそうとした木立の中を抜けていかなければならない。

(古色蒼然とした山門)



(林がかぶさるような本堂への道)



(六地蔵)



(鐘楼前の芭蕉の木)



(本堂)



(西行の歌桜)



すぐ目の前に鐘楼があり、手前に芭蕉の木が目に入る。
芭蕉があるということは、
東北とは言え、このあたりは温暖なのであろう。
左手に本堂が見える。
本堂左横を潜り抜けると、裏庭に通じており、
西行が歌を詠んだ桜の木(何代目かの若木)と歌碑が左手にあり、

・きさかたの桜は波にうずもれて
         花の上漕ぐ海士(あま)のつり舟


とある。
その手前に芭蕉が船から降りた「舟つなぎ石」があり、
イヌクスの大木が枝を広げ、
右手は盛り上がった小山があり芭蕉句碑が置かれている。

(芭蕉句碑)



芭蕉句碑には、

・象潟の雨に西施がねぶの里

と初案の句が刻まれている。

(舟つなぎ石)



(イヌクスの木、近くに芭蕉句碑がある)




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