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それゆけ!ぶんぶん一家☆ミ

不器用な3人家族と、ゆかいな仲間たちのブログです。

大坂夏の陣スタンプラリー満願で未知なる時空を超えた☆一心寺♪

2021-03-01 05:09:10 | おでかけ

2月20日の土曜日のこと。

前の週に、ひょんな事から初めてしまった”大坂夏の陣 激戦地をめぐれー!!”なる

スタンプラリーも、残すところあと一か所。ここだ。

一心寺。ここにず~っとあるの知ってたのだけど、絶対、縁の無いとこだと、

行くこと無いよな~って思ってた。だって、お墓だもん。知った人のお墓無いもん。

まさかここに来る事が有ろうとは。

ここ浄土宗の一心寺は、山号は坂松山、院号は高岳院のお骨佛のお寺。

衝撃的な仁王門は、極楽浄土の天空にかかるヴェールをガラスの屋根で、

聖なるターラ樹(多羅樹:その葉と同じように文字が書ける)の並木を鉄骨でと表現したそうな。

素手で裸形の阿形・吽形の大仁王像は、武器を持たず、非暴力の智恵によって

社会の悪に立ち向かい、人々の邪心を戒める姿を表現。マッチョ具合が・・・。

文治元年(1185年)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した頃、

当時京都の東山で、念仏の教えをひろめておられた浄土宗宗祖の法然上人が、

四天王寺の管長だった慈鎮和尚の招きでこの地を訪れたそうな。

四天王寺の西門から更に西数丁の所、今の一心寺のあたりで、空と海を黄金に染めて

難波の海に沈む壮麗な夕陽をご覧になり『南無阿弥陀仏』と唱えられ、草庵を結んだ。

(中略してますが)その草庵が後に一心寺と相成りました。

大本堂。手前は手水舎。

昭和20年3月14日の、大阪大空襲で、堂塔伽藍の殆どを失い、昭和41年に再建。

本尊は阿弥陀如来立像。戦後、大本山百万遍知恩寺(京都市左京区)からお迎えしたもの。

由緒正しきお寺なのだ。そんな知った人のお墓は無いお寺にやってきた訳はただ一つ。

大坂夏の陣を巡るスタンプラリーなのであった!。

徳川家康が、大坂冬の陣・夏の陣と、茶臼山に隣接したここ、一心寺にも陣を置いておりました。

家康の重臣であった、本多忠勝が次男、本多出雲守忠朝の墓所がここに。

慶長19年(1614年)冬の陣のでは、お酒を呑んでいたために不覚をとり、

敵の激しい攻撃に遭い、タジタジになって敗退。家康にこっぴどく咎められる。

翌慶長20年、汚名返上とばかりに、天王寺・岡山の戦いでは先鋒を務め、

四天王寺の南大門に布陣の毛利勝永隊に突入し、奮戦するも戦死。享年34歳。

その間際、『酒の為に身を誤る者を救おう』と遺言したと言われ、

”酒封じの神”として崇められています。忠朝のお墓の周りには、

断酒祈願のしゃもじが奉納されています。お酒をやめたい方は是非、どうぞ。

こちらは、家康の八男、徳川仙千代(松平仙千代、平岩仙千代)のお墓です。

母親は側室の相応院。(お亀のかた)は、織田信長の次女で蒲生氏郷の正室だった方。

お亀のかたが産んだ、仙千代の弟が、尾張徳川家の始祖の徳川義直。

仙千代は4歳まで伏見で暮らし、家康により嗣子のいなかった平岩親吉の養嗣子に。

養父親吉の国替えに従って甲斐国(山梨県)~大坂へ移るも、翌年慶長5年(1600年)

関ケ原の戦いの7か月前、亡くなってしまう。享年僅か6歳。

一心寺の北門を入って直ぐの石段沿いに、石碑と朽ち果てた松の切り株が有ります。

これが”霧ふりの松”。夏の陣の頃は、この松は一心寺のシンボルのような大きな古木であったのだ。

大坂城方の真田幸村が、ここで徳川家康にあと一歩!と、肉迫した時に、

この松から霧が噴き出して、家康の姿を隠して救ったと伝えられている不思議な松。

この日2月20日の事は、四天王寺~庚申堂~一心寺の順番で書きましたが、

実は、一番先に一心寺に寄ったのです。写真を撮って・・・御朱印受付がまだで。

なので、他の二か所をここで先に行き、最後にまた来て、所々写真は撮り直し。

だってね、朝一と数時間後って、空の色が全く違う。

時間がマチマチな写真、何方か気付いたかしら?自分が気になるからカミングアウトだ。

そして、晴れてスタンプラリー、最後の1つ。満願だ!って勢いよく押したら・・え!?

ぶ、ぶれぶれ~!!むちゃくちゃ乱視状態。ものがダブって見えちゃうの!状態。

満願の記念証っての、頂いたのだけど『ぶれぶれ』がショックで、よれよれ。

『帰ろ・・・』帰り道、とぼとぼ歩いてると、ふと何かが降りてきた。

そうだ、忠朝はお酒を呑んでたから、ぶれぶれなのだ。同じく酒呑み呑兵衛な私だから

こんなスタンプになったのだ!そこに至って、帰ってから娘っこにその話をして、

そうだそうだ、記念証だ。って思いだし、出してみて母娘大爆笑大会!

ぶれぶれどころの騒ぎじゃないわ。

ぶれぶれスタンプに、むちゃくちゃショックを受けていた現場を見ていた、

唯一のその窓口のお姉さんにも、酒呑み忠朝が降臨しておったのか!?

記念証の日付~!2月30日、まだ誰も経験したことの無い、未知なる時空を超えるのか!?

なかなか無い、良い感じのオチが付いたところで、スタンプラリーのお話、これにて了。

お骨佛の寺 一心寺

大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69

TEL 06-6771-0444

夜明け前から動き出したこの日、2月20日、TANITAの活動量計の歩数は自己最多記録を更新。

この記録、今日現在、まだ破れない!(2月27日は43,080歩であった)

 

 

 


日本最初の庚申尊出現の地の三猿を学ぶ☆庚申堂♪

2021-02-28 05:07:13 | おでかけ

さて、大坂夏の陣 激戦地をめぐれー!!スタンプラリーの五か所目です。

四天王寺の南大門に陣を置いた毛利勝永、それは昨日書いた四か所目でした。

その南大門から、北へと

真っすぐ歩くとそこに庚申堂。

時代は飛鳥時代、大宝元年(701年)第42代 文武天皇の頃、正月七日庚申の日。

豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと、一心に天に祈ったところ、

帝釈天のお使いとして童子が出現し、除災無病の霊験を示されたのだ。

以来千三百年(以上だな。1,320年?)庚申の日と庚申前日に本尊に祈れば、

必ず、一願が叶うと尊崇されているそうで。

庚申堂は、日本最初の庚申尊出現の地。

干支の組み合わせは60通りあって、その57番目が庚申の日。

今年、2021年の庚申の日は1月12日の次が3月13日。で、5月12日。60日毎。

人の身中には三尸(さんし)という虫が住んでいて、庚申の日(帝釈天の縁日)の夜、

人が眠っている間に、この虫がこっそりと抜け出して、その人の犯した罪を帝釈天に報告し、

その人の寿命を縮めてしまうのです。だから庚申の日は眠ってはいけない!

けれど、1人では心許ない。なので、皆で集まって夜通しお祭りをしたとか。

本尊は”青面金剛童子”。天の命によって、除災無病に導いてくれる、十六歳位の童子。

庚申の日に、青面金剛童子に祈れば、必ず願いが叶えられると言われております。

秘仏なので、60年に一度しか御開帳が有りませんが。次の60年は2040年だそうな。

こんな方。

十六歳ですよ。高校生くらいの。まあ、良いでしょう。

青い、この怒ったようなお顔。件の三尸の虫を抑える力を持ってるのだ。

この青面金剛童子、従者として三猿を従えているらしい。

よく言う『見ざる・聞かざる・言わざる』。この三猿、庚申信仰の伝播と共に、

近世以降に、あらゆるとこころに広く用いられるようになったは!。なななんと!。

三猿堂。なんで猿が?ってその時は思いつつ写真を撮ってきた次第で。後から調べたのだ。

三匹の猿のその猿のモチーフ自体は、古代エジプトやアンコールワットに見られ、

シルクロードから中国を経由して、日本にやってきた。・・らしい。

『不見・不聞・不言』の教えは8世紀ごろ、天台宗系の留学僧から日本に伝わった。

8世紀が701~800年なので、時期的に合っているのかも。

青面金剛童子の従者さん達、三猿は、人の悪事を宿主が眠っている間に、帝釈天へ

報告に報告する、”チクリ魔”の三尸の虫を封じるため、『悪事を見ず、聞かず。話さない』。

なんて都合の良い・・。報告することが何も無い事に越したことは無く。理想ですが。

三猿には全く別の解釈もあって、インドのマハトマ・ガンジーさんは三匹の猿を身につけ、

『悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな』と教えていたとか。悪に近付くなって事?

あ。大坂夏の陣でした。

四天王寺の南大門では毛利勝永が陣を置き、激しい戦いが繰り広げられる中、

真田幸村隊も、激戦を繰り広げました。真田幸村・・・?。

真田十勇士といわれた真田家の側近たち。槍の名手と言われた穴山小助は、

その風貌が幸村に似ていたことから、幸村の影武者を務め、ここ庚申堂で奮戦するも討死。

神社仏閣って、こうやって書くためとはいえ、むちゃくちゃ勉強になりますね。しかも楽しい。

ところで、その穴山小助ですが・・・。

大河ドラマ『真田丸』のキャストでは、脇知弘(わき ともひろ)。

彼は『ごくせん』の、ラーメン屋の”くま”こと熊井君をやってた方。風貌がなんだけ?。

さぁ、スタンプラリーも後もう一か所。行ってみましょう。

四天王寺 庚申堂

大阪市天王寺区堀越町2-15

TEL 06-6772-9420

 

 

 

 


日本仏法最初の官寺の義経と野沢菜と大坂夏の陣☆四天王寺♪

2021-02-27 05:05:47 | おでかけ

時は2月20日、夜明け前に出立した日。

大坂夏の陣に係わる・・?史跡?う~ん・・・。ゆかりの地か。それを巡るぞの後半。

前半は、安居神社~茶臼山~堀越神社でスタンプをポン!後半の最初は四天王寺!

和宗総本山 四天王寺は日本仏法最初の官寺(維持費用を全て国家から支給され、かつ監督された寺)らしい。

宗派に拘らない和宗の総本山、四天王寺は、推古天皇元年(593年)に聖徳太子によって建立。

ここら辺は、さくっと流そう。合戦の片方に味方して勝利の誓いとして建てたんだ。

と~っても、広い。見所はうんと有るのだ。私とて、来るのは2回目だっけ?初心者だ。

ただ、そうそう有名なお寺、たらたらと書かずとも・・。さくっと押さえるとこだけ書こう。

本尊は、途中変更が有った模様。創建当時は四天王寺の名前の通り、四天王であった。

帝釈天の配下で、仏教世界の東西南北を守護する仏が四天王。

娘っこが『知らん・・』って言うから、書いておこう。

東を護るのは”持国天”、西は”広目天”、南は”増長天”、北は”多聞天”(単独では毘沙門天)。

平安時代から、何が有ったのか、本尊は救世観世音菩薩って事になってるよ。

この松は、”義経よろい掛け松”。

文治元年(1185年)、壇ノ浦で平家を滅ぼした源平合戦での英雄、源義経であったのに、

しかし、お兄ちゃん頼朝と不仲になり、都落ちして大物浦(摂津国)から西へと向かうも、

難破してしまって、和泉国に流れ着く。そこから吉野山へ逃れる途中で

四天王寺に立ち寄って、松の木に鎧を掛けた・・・って話です。

ん?何で野沢菜さ~ぁ??って思った。まだ新しめのこの記念碑は、平成28年建立。

宝暦6年(1756年)、野沢村(今の長野県野沢温泉村)のお寺、健命寺の8代目、

晃天園瑞(こうてんえんずい)住職が京都に遊学の折に、お土産にと天王寺蕪の種を持ち帰り、

畑に蒔いたけれど、気候や風土の違いにより、蕪は小さく葉や茎の大きな蕪菜が出来ました。

これが、野沢菜の始まり。野沢菜原種旅の起点っていう事で、記念碑が建立されたそうな。

さあ本題。主目的は大坂夏の陣なのだから。

で、四天王寺の大坂夏の陣はここ。南大門。

ここに陣を置いたのが、豊臣秀吉の家臣であった毛利勝永。

真田幸村、後藤又兵衛、長曾我部盛親、明石掃部と、五人衆の一人に数えられる武将でした。

慶長20年(1615年)5月7日、天王寺・岡山の戦い。勝永は、兵四千を率いて南門前に布陣。

正面の本多忠朝、小笠原秀政を打ち破り、さらに浅野長重、榊原康勝、仙石忠政、諏訪忠恒らを、

凄まじい奮戦で撃破し、遂には家康の本陣にまで、突撃して行ったのだ。

ところが、かくかくしかじかで、真田隊が壊滅して戦線が崩壊。

藤堂高虎隊を打ち破り、井伊直孝や細川忠興らの攻撃を防ぐも、大坂城内へ撤収。

勝永の奮戦ぶりは、加藤義明や黒田長政が感嘆したと言われるほどだったらしい。

そして8日、大坂城にて、豊臣秀頼の自刃の介錯を務める。

そして、息子の勝家と共に自刃。享年39歳であったそうな。

四天王寺の御朱印帳。大坂夏の陣前半で、安居天満宮の御朱印帳を手に入れましたが、

文字を入れて頂くのに、ちょいと小振りなので新たに購入。シンプルで良い。

なんだか、まだ人が少なかったせいか、よ~ぉお話して下さって楽しかったです。

大悲殿って書いてるそうだわ。ありがたや、ありがたや・・・・。

ところで、前年の冬の陣で、石の鳥居以外が全て焼失したはずなのだけど。

って、翌年には門が有ったのかしら?無かったのかしら?

ああ、ところで、何となくたまたま御朱印なんぞ頂いておりますが、

主目的はスタンプラリー。これだ。

6ヶ所中、4ヶ所目のスタンプは、勿論ここの南大門に陣を置き、

勇猛果敢に戦った、毛利勝永でしょう。

さあ、5ヶ所目は、この南大門から真っすぐ南へ歩きます。

では、行きましょう。

和宗総本山 四天王寺

大阪市天王寺区天王寺1丁目11番18号

TEL 06-6771-0066

 


家康の信仰が厚かった茶臼山稲荷神社☆堀越神社♪

2021-02-24 05:02:28 | おでかけ

ひょんな事から、『大坂夏の陣 激戦地をめぐれーっ!!スタンプラリー』を

初めてしまったっていう、2月13日のお話を書いています。

安居神社~茶臼山、そしてやってきたのは、堀越神社。

この『堀越神社』の文字、”従一位勲一等侯爵源通久書”って、この文字を書いた方が。

この方、久我通久という方で、江戸時代後期公卿で、明治・大正時代の華族で政治家。

その主君は、第121代の孝明天皇から123代の大正天皇まで。

勲一等となったのが大正5年で、~亡くなる14年までの間の書っていう事かしら。

明治の中期まで、境内の南沿いに美しい堀があり、この堀を越えて参詣したので、

堀越っていう名がつけられた・・って、書いてありましたわ。成程。

古くから大阪では『堀越さんは一生に一度の願いを聞いてくださる神さん』との

言い伝えがあるらしい。一生に一度だけよ。何を願おう。あれか?それともあっち?

”ひと夢祈願”というらしいが。全国はたまた外国からも、一生に一度を使ってしまいに来るそうな。

但し、課金が必要。ただでは神さん、聞いてはくれない模様。こちらが本殿。

第33代、推古天皇の御代、時の摂政の聖徳太子が、太子の叔父君に当たる、

第32代崇峻(すしゅん)天皇の徳を偲んで、茶臼山の地を選び、四天王寺建立と同時に

四天王寺七宮のひとつとして、創建されたっていうのが、この神社の来歴でありまする。

ここでまた、四天王寺七宮って堀越神社以外の六宮は何処?ってなるでしょ。

大江神社(夕陽丘町)、上之宮神社(上之宮町)、小儀神社(勝山1丁目)、

久保神社(勝山2丁目)、土塔神社(大道1丁目)、河堀稲荷神社(大道3丁目)でした。

主祭神は前述の崇峻天皇。

配祀神は、小手姫皇后(崇峻天皇の妃)、蜂子皇子(崇峻天皇の第三皇子)、

錦代皇女(崇峻天皇と皇后の皇女)。

さて、忘れてはいないかい?この時巡っておったのは、大坂夏の陣のゆかりの地。

ここでスポットが当たるのは、徳川家康なのでした。

冬の陣では家康が、夏の陣では真田幸村が本陣を置いた茶臼山。その茶臼山の頂上に、

茶臼山稲荷神社があったそうな。冬の陣の際、徳川家康がお詣りをした。

その甲斐あって、夏の陣では真田軍の攻撃を受けた時に、茶臼山の白狐に危機から救われたという。

って、冬の陣でお詣りして夏の陣で・・って、遅くない?って思うのは私だけ??

ただ信仰の厚い家康は、夏の陣後、茶臼山稲荷神社を、堀越神社境内に移転された。

江戸時代、大阪城代(江戸時代の役職・大坂城主の将軍から大坂城を預かる役職)が

新たに任に就くと、幣帛(神に捧げる供物)を奉り、燈籠を献じたそうな。

大河ドラマで見た感じでは、家康に信仰とか、ピンとこないのだけど、

夏の陣の真田の攻撃から逃れた奇跡は、神にでも何にでも感謝したかったのかも。

鳥居を沢山いった先に、茶臼山稲荷本体が。なのだけど、写真をって思ったら

どうしても真正面からって事になるし、ちょっとそれはな~って、あかんような気がして

側面を撮ってみたのだけど。なに?ここはちょっとしたスペースで、あら?

巣箱があった。その玄関は、そんなに広くは開いていないし、小鳥レベルのお家。

暫く、動きを止めて、存在感を消してガン見してたのだけど、何方も帰って来ない。

今は居ないの?冬眠中?って、そもそも鳥って冬眠するのか?

やっぱりこういうの利用するのは、たまごを産んで子育てするとき?季節は??

そんな事をぼけ~っと考えてて、あれ?巣箱よりこっちに何故気付かなかったかしら?


こんな所に、狛犬がいてて、どうした訳か金網の向こう側を見てるのだな。

もしかして、そっち側にも参道があって、その名残かもとも思ったけど、

金網の向こうを見ると、こちら側はどう見ても、2階の位置で向こうの方が低いのだ。

しかも、そこにはビルが建ってるもん。そのビルは・・・。何かの宗教なのであった。見張ってる?

どの角度から見ても、カエルにしか見えない”かえる石”。

こういう注連縄っぽいの巻いてるし、御神木とかのノリで、御神蛙って感じなのかしら?

で、これもお詣り対象なの?それにしても、カエルよ、これ。

カエルの頭か顔かの上にお金を置くって、これで良いの?私がカエルだとしたら、絶対嫌だ。

安居天満宮のお名前入りの御朱印帳に、2つ目の御朱印を頂きました。

ここも、ど真ん中に大きな文字を書くのではなく、朱色の印、まさに朱印よ。

そして、大坂夏の陣スタンプラリーの3つ目のスタンプは、勿論、徳川家康。

そしてスタンプは、残すところあと3つ。次・・大きなお寺なのだけど、

そろそろ、人出が多くなってきましたので、続きはまた。(2月20日に行きました)

それでは、スタンプラリー後半へ続く。・・・の、前に・・・・。

浪華茶臼山・堀越神社

大阪市天王寺区茶臼山町1-8

TEL 06-6771-9072

 

 

 

 

 

 

 

 


色んな椿が花盛り☆大坂夏の陣スタンプラリーで茶臼山♪

2021-02-23 05:49:59 | おでかけ

たまたま偶然、真田幸村終焉の地、安居神社で見つけたスタンプラリー。

最近になってやっと、昔の大河ドラマ『真田丸』を全部観終わったもんだから、

興味津々の企画だったので、まんまとのった『大坂夏の陣をめぐれーっ!!スタンプラリー』。

2か所目は探さずとも、すぐそばにあった茶臼山。おお!ここなのだ!純粋に感動。

ほんとに有ったのね。っていうのが一番の驚き。

標高26メートル、少し小高いこの丘に、本陣を置くのに絶好の場所だったので、

大坂冬の陣では徳川家康本陣に、夏の陣では真田幸村の本陣になったところ。

さあ、大阪五低山の一つ、茶臼山登山です。

あ。大阪五低山なんて言われたら気になるよ。気になるでしょ??あと4つ。

茶臼山と、後は御勝山、聖天山、帝塚山、天保山。

大坂冬の陣は慶長19年(1614年)。

秀吉亡き後の秀頼の代、天下の実権は家康が握っていた頃、方広寺鐘銘事件が勃発。

天下を我が手中にしていたのに、豊臣家がどうしても邪魔で仕方ない家康。

豊臣の財力を悉く無くすために、太閤の供養にと多くの自社の修復・再建を提案する。

方広寺の大きな鐘に刻まれたのは、『国家安康』『君臣豊楽』。

家康という文字、豊臣の文字。無理やりなこじつけで、悪く捉え激怒するって体で始まった冬の陣だった。

冬の陣では、徳川家康はその本陣を茶臼山に置いた。

約20万の大軍で、大坂城を包囲したのに、大坂城に籠城した豊臣方約10万を堕とせない。

大坂城の南側に真田幸村が築いた真田丸が、徳川方を散々に混乱させ、

遂には和議が成立してしまった・・。のだけど、徳川方からの和議の条件、

真田丸の解体、大坂城の堀を全て埋める。それによって、大坂城は裸城に。

そして慶長20年(1615年)、大坂夏の陣。

今度は真田幸村が、茶臼山に本陣を置く。

この夏の陣の激戦地をめぐってるのが、このスタンプラリーって訳です。

ところでこの茶臼山、前方後円墳の形状の古墳だと言ういう話もあるのだ。

茶臼山のその下に、河底池って言う大きな池があるのだけれど、

平安時代の初期に、桓武天皇の廷臣だった和気清麻呂が水害を防ぐために、

大和川の流路変更を促す開削工事を行い、その時に造成されたものの名残の人工池で、

その時の残土が盛られて、丘になってしまったのが茶臼山って説もある。

ここでのスタンプラリーで選ばれたのは、松平忠直。

徳川家康の次男の、結城秀康の長男。って事で、家康のお孫さん。

秀康が享年34歳っていう若さで病死した後、13歳の忠直が家督を継ぎ、越前藩主となりました。

1614年、大坂冬の陣では、真田幸村の真田丸の見事な戦いに、サクッと敗北。

命令も無いのに勝手に動いた忠直の敗北を、お爺ちゃん家康に激しく叱責される。

そして1615年、大坂夏の陣。大坂城総攻撃では、もう配置は決まっており、越前兵の場所は無い。

そう言われても引き下がれない忠直。真夜中の夜の闇に塗れて、越前兵1万5千は動き出す。

夜が明けた時、目の前のは茶臼山に陣取る真田幸村の兵が。

その真田幸村の陣を目の前に見ながら、忠直は落ち着き払って朝ご飯を食べるのです。

覚悟が決まった忠直。勇猛果敢に赤い幟、赤い武具の赤揃えの幸村の陣へ挑んでいく。

黒い馬に跨る松平忠直らの越前衆の戦いぶりは凄まじく、その攻撃は、

『掛かれ掛かれ越前衆、たんだ掛かれの越前衆、命知らずの嬬黒の旗』と、

上方で、そんな歌が流行ったと言われている位の激しさだったのでしょう。

真田幸村も少人数ではありながら、家康が自害を覚悟とまで追い詰めたのも虚しく力尽き、

茶臼山の北側の安居神社で休んでいたところを、松平忠直の鉄砲頭、西尾宗次に見つかる。

戦わず手柄にいたせと、西尾宗次に首を差し出し討ち取られる。享年49。

家臣・西尾宗次が真田幸村を討ち取り、豊臣勢の3750首をあげ、大活躍を遂げた忠直。

家康も『流石は我が孫』、『大坂陣の戦功随一』と、天下の名物”初花”の茶入れを授けた。

この二条城で受け取った”初花”は、織田信長愛蔵の中国伝来の価値ある品。

豊臣秀吉を経て、宇喜多秀家が家康に献上したものなのであった。大喜びの忠直。

大喜びって所で、止めて置きましょう。キリがございません。

この日は2月13日、訳あって、翌週20日もここにやってきたのですが、

2月20日現在では、椿の花色々、まだまだ花盛りでした。ツバキ園って言っても良い茶臼山。

かつては、この美しい椿の花の代わりに、真っ赤な幟がはためいていたのだわ。

大坂夏の陣を描いた陣図屏風には、ほぼ中心に、真っ赤な真田の赤揃えが。

それは筑前福岡藩黒田家伝来のもので、黒田長政がそう描かせたとか。知らんけど。

いやいや。どうしても、話が真田へ行ってしまうけど、

ここ茶臼山のスタンプラリーの人は、悲運の人、結城秀康の長男の忠直なのだ。

ところで、ここ茶臼山も、標高26mっていう低山なれど山なのだ。

頂上まで登山っていうより歩いたら、見事に登頂!って事に相成るのです。

上のスタンプを押しに行きましたら、そこで、僧侶から授かりました記念の証。

ちゃんと豊臣と真田の紋所が。

スタンプラリー関係なくっても、この山の登頂だけでもこれは授かれます。

(100円だけ課金が必要なのでお間違いなく)

天王寺公園のなか。とっても長閑なので、お散歩にも良いですよ。

さ、次へ行きましょう。

茶臼山

大阪市天王寺区茶臼山町1-108 天王寺公園内

TEL 06-6771-8404

開園時間 7:00~22:00