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それゆけ!ぶんぶん一家☆ミ

不器用な3人家族と、ゆかいな仲間たちのブログです。

真田左衛門佐豊臣信繁の真田丸出城跡には☆心眼寺☆大阪市天王寺区♪

2021-05-12 05:09:04 | おでかけ

我が街・堺から、玉造までトコトコトコトコ・・・歩いてきたさ。

目指すは真田丸。昨日書いたのは、大坂城への抜け穴があったという三光神社。

何度も書いてるけど、日本史って興味が無かった私なれど、あるきっかけがあって、

徐々に、粛々と、日本史に浸り初め、今じゃどっぽり嵌ってる。

ここに来るもの2回目なのだ。日本史を分かってない頃に来たので、もう一度。

心眼寺。えっらい天気が良かったんです、この日。4月だし油断してたわ、日傘が欲しい。

そんな日に坂道・・・って、三光神社から近い筈なのに、かなり迷いまくって来たからヨレヨレよ。

心眼寺は、安土桃山時代後期の文禄年間(1593~1596年)に白牟和尚が創建したのだけど、

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣の後に一旦取り壊されてしまった模様。

その後、1622年、真田幸村とその息子の大助の冥福を祈るため、真田家の先祖の海野氏の助力により、

大坂冬の陣の出城跡に再建されたのだ。

そしてここには、真田幸村のお墓だってあるやん。初訪時の日本史知らないもん時代には、

幸村さんって大阪の子だと思い込んでたからね、お墓が有って然りとも。

ほんとにこの下に埋まってるのかしら・・・・。真田の庄は長野県なのだもの。

豊臣の姓を下賜されていた、真田左衛門佐(さえもんのすけ)信繁。

秀吉が凄~~ぉっく可愛がってたよな~って言うのは、今更、最近になって一気に観た

大河ドラマの『真田丸』の中でのお話なのだけど、これを見たら、ほんとに仲良しだったのかも。

話を戻そう。

ここは、大坂冬の陣の折、真田幸村がここぞとこの場所に拵えた出城後。

六文銭のマークが縦に並ぶと、麻雀牌に見えてしまうんだけど、どうしてかしら?

それは大坂冬の陣、徳川vs豊臣の天下分け目の大戦。

大坂城の南側が弱い。頭の良い軍師とも言えないでもない、真田さん、そこに出城を築く。

それが真田丸。その真田丸がこの辺りに有ったと。この辺りから、現学校のグランド辺り。

その明星学園のグランド外に、真田丸顕彰碑なるものが有るので、この辺り。

だけそ、そこには今は大阪城は見えないわ。お城でさえ、今と位置は変わっている模様。

真田丸出城跡については、この下の写真を参照!だって、書く時間がないもん。てへ。

さ、心眼寺に戻って・・・。その大坂の陣から何百年??

幕末の京都の治安を守っていた、京都見廻組っていうのがあって、庶民階級から成っていた新選組と違って

旗本出身者で構成されてたらしいが、そこの2人の墓所もあるのだ。どういう間柄?

渡辺吉太郎と、桂早之助。このお二人なのだけど、

真相は定かでは無いけど、坂本龍馬を殺害したかもしれない容疑者の中に名を連ねているらしい。

そうなの?斎藤一かと思ってたけど。誰なのでしょうね。

江戸幕府、最初と最後の方達の墓所が、同じ所に有るって、不思議な縁でございました。

それでは皆様、安らかに。

真田山 心眼寺

大阪市天王寺区餌差町2-22

TEL 06-6764-0630

 

 

 

 


そこには真田幸村の抜け穴があったという☆三光神社☆大阪市天王寺区♪

2021-05-11 04:47:53 | おでかけ

この日、4月24日。我が街・堺から歩こうって目標にしたのは玉造。

途中、レトロな喫茶店でお箸モーニングを頂いて・・・。

あわよくば、韓国キムチなんぞ求めようかと画策していたけど、え?マジか!?

曲がり角から覗いてみたら、先が見えぬ位の人混みに、さ、先を急ごう。

ここだ!ありましたのこ!。なんとなく住宅街を軽く迷子になったのさ。

極端な方向音痴だから、自分の脚だけで自宅からここまで、辿り着けた喜び一入。

三光神社。近頃、日本史に目覚めた上に、大河ドラマの『真田丸』を観たもんだからさ。

この辺り、ここに真田丸があったのだ。

この辺りにね真田丸が有った。

真田丸だなんて、実はね、私もよくは知らなかったわ。だって日本史アレルギーだったもの。

慶長19年(1614年)大坂冬の陣で、弱いと言われた大坂城平野口の南に築いた出城。

この辺りに・・・。冬の陣の後、取り壊されてしまうのだけどさ。

これだ。

実は・・・こうやって書いてるのは、朝って時間帯なのだけど、写真は前日に選んでる。

昨日、ここの写真を厳選していたら、娘っこが「あ、ここ、前にも行ったやん」って、

拙ブログの一番のヘビー読者は娘っこ?かもしれない。本当に2回目なのだ。ただ電車で来た。

その、初の三光神社の時には、まだ日本史を求める事は無く、ミステリー本が好きで。

真田の次男坊だ。源次郎信繁こと、真田幸村さん。

件の日本史知らない時の訪問の頃は、この真田幸村、大阪の人かと思っていたのだ。

そんだけ歴史を知らなければ、真田に関しても知らなかったのだ。酷いもんよ。

何故って、大阪の人って真田幸村が大好きではないか。だからてっきり・・・・。

信州は長野県の東御市ってとこ!真田の庄ね。

ここが、真田幸村ゆかりの地って言われてるの、これが・・・・。

これだ。大坂の陣の際、真田幸村が大坂城からの抜け穴、地下道だったらしいが。

そういうのを掘ったのだな、きっと。ただ、覗いてみたら塞がってるし。

大坂城でさえ、今の大阪城とは微妙に位置が違うかもしんないし、徳川が豊臣の大坂城を

埋めてしまった時に、この抜け穴もの道も埋まってしまったのかもしれない。

うん。そういう事にしておこう。本当に抜け穴は有ったのだと。

ここに来たのは2回目だと、さっき書きました。なので、サクッと書こうと。眠いし。

三光神社は反正天皇の時代の創建。第18代の反正天皇は仁徳天皇の皇子。

堺に反正天皇陵古墳(田出井山古墳)も残ってるのだ。実在の方なのだよ。

なんじゃかんじゃと難しい事は、多分初訪の時に書いたのだったかしら?

多分、調べまくった退屈なお話だったかも。まあ、いいやん。もう少し、退屈な話を。

主祭神は天照大神、月読尊、素戔男尊

天照大神は、父、伊邪那岐神(いざなぎ)と、母、伊弉冉尊(いざなみ)の子。女神なのだ。

太陽神、農耕神、機織神って多様な神格を持っていて、本拠地は伊勢神宮内宮か。

その弟(実は性別不明)が月読(ツクヨミ)と、素戔男尊(スサノオ)。

このお三方が主祭神、なので三光神社となったらしい。

真田丸が有った。なので、この三光の方々には知ったこっちゃないが、本殿には。

ねぶた祭りに出てきそうな、真田幸村がいらっしゃる。

何年か前に、初めて来た時に、この方、いらっしゃったかしら?まあ良いか。

あまり人の往来も無く、ゆっくりと、妄想もしながら見て回れましたさ。

木の香やらの緑の匂い、古い木造の建物の匂いが好きよ。

ここに居るだけで、心が穏やかになるようで。古の、大坂の陣の合戦の後の静けさよ。

記念に。御朱印を頂きましたさぁ。

真田幸村さんを知っててもそうじゃなくっても、ゆっくり出来る所でした。

どうも、有難うございました。

真田山 三光神社

大阪市天王寺区玉造本通14-30

TEL 06-6761-0372

 

 

 

 

 


ぐるぐる回ってバターになる前にたどり着いたとこ☆大阪城♪

2021-04-21 05:16:09 | おでかけ

絶好のお出掛け日和、真っ青に澄み渡る空。

ずっと行こうと思っていた大阪城。晴天の日でないとダメよ・・・って

その日が来るのを待ち望んでいたのは、青い空の背景が欲しかったからよ!

大阪城よ!。いやあ、良い景観だわ。大阪のシンボル的なものでしょう。

内部は博物館化しているけれど、大阪城だ。

天正11年(1583年)、築城主は豊臣秀吉。だったのだけど。

その時の遺構は冷たい土の中に埋没・・・。でも大丈夫。発掘作業が進んでる模様。

城主も変われば、落城・廃城・修築・改修・・・等々。

様々な経験をし、今に至る大阪城なのであった・・・・。

書ききれないし、詳しいとも言えない日本史初心者なので、略す。

全く、古い歴史って感じないような、新しい建築物って感じがしないでもないけど、

何か、見てるだけでホッとしたのよ。大阪人だから??

もしかして、ここまで歩いてこれたって安堵かもしれないけど。まあいいか。

いやいやいや。実は、この日の目的は、大阪城を見に来たのではない。

ゆっくり眺めるつもりも無かったのだけど、ぼ~~っと。

それでは、この日の主目的地へ、いざ行かん。

あれ?無いのだよ。大阪城天守の横にぃ、金蔵があって、その後ろっ側。

地図のひとつでも持ってれば良かったよ。

無いのだもん。一体、お城の周りを何周した事かしら。ぐるぐる回ってバターになるわ。

いえいえ、私はトラじゃないので、バターにはならなかったけど。

(ご存じかしら?『ちびくろサンボ』のお話、あれはかなり残酷な話に思うのだけど)

バターじゃなくって汗だくで。それにしても、どういう訳か、目的地に行きつかない。

あの賑々しいお店も無くなってるし、大道芸人っぽい方も居ないし、聞けないし。

お!居た!天守閣に上がる入り口のとこに、係の方と警備員さんが。

お尋ねいたしましたら。なんと!お城のすぐ傍ではなくって、スロープを降りるですと!

上から見た配置図だけじゃあ、そりゃ分からね~わ。ひっくり返りそうな坂道をゆくと・・・。

これだ。幾度となく大阪城に来た事はあっても、こんなもの知らなかったもん。

豊臣秀頼・淀殿ら自刃の地。この碑は平成9年(1997年)に建てられたもの。

慶長20年(=元和元年、1615年)5月8日、大坂夏の陣で徳川軍に追い詰められた西軍。

山里丸にあった櫓にひそみ、いよいよこれまで!ってなって、母淀殿、息子秀頼は自害した。

2人だけでは無かったのだよ。淀殿の乳母、大蔵卿の局も、その息子の大野治長も、

真田幸村の息子の大輔も、大坂の陣での五人衆の一人の毛利勝永も。

大河ドラマに出てくる名前がいくつも有るから、おおお!って思ってしまう。

都合33名が、この時に自害したと伝えられてはいて。

ただね、織田信長と同じく、この親子の亡骸は確認できなかったとか。

火を放ったらしいので、確認も難しいだろう~って思うけど、

密かな生存説もあったとか。夢が有って良いではないか。色んなお話に出来るから。

大阪城天守閣

大阪市中央区大阪城1-1

TEL 06-6941-3044

天守閣の開館時間 9:00~17:00


ご運が開けますよ☆出世開運の神様おります。知らんけど☆大阪城豊國神社♪

2021-04-20 05:06:37 | おでかけ

我が街・堺からウォーキング、たどり着いてみたら、意外に近かったわ。

色々、寄り道を楽しんでいたから近く感じたか?いやいや、梅田より確実に近いわ。

ここ数年の日本史小説(大河ドラマ含む)へのド嵌りぶりって、とんでもなく。

挙句は、ゆかりの地を訪れたくってうずうず・・・。徒歩で行けるとこ見つけたさ。

大阪城公園の中にある。お引越しを繰り返し、やっとこさ、昭和36年(1961年)に

大阪城二の丸の南の、今の位置に落ち着いた模様。豊国神社。

言わずと知れた、ここぞ豊臣の方々の・・(?)神社ではないのか!?と、やって来た。

この日4月10日。お天気が良すぎる位に良かったんだよ。デジカメ画面が見えん。

豊臣秀吉像。光の加減で思ったように撮れないのだよ。写真がね。

でね、2回、ここで撮影会をしてみたのだけど、やっぱりお顔が撮れん!

ただ、2回目の時に撮れたの、上の写真。ちょっぴりお気に入り。

屋根の上に現れた大男・秀吉。ちゃんと軍配持ってるの。

そして、陣羽織の袖口に、ちゃんと羽根みたいなん付いてる~。

大河ドラマでも観たみた。うんうん、これや~って思ったら嬉しくって。

お顔がちゃんと写せない。なれば、後ろ姿。

2回撮影って言っても、どちらも午前中。

夕方辺りなら、お顔がはっきりとアップで撮れたかしら?まあいいや。

ちょっと(かなり)分からない加減の方が、戦国のミステリアスな感じが出て、

良いんじゃないかねって、一人ほくそ笑んでる私。でへへへへ。

さあ、本堂だ。神社だからね。今度はちゃんとお詣りだって。

豊臣秀吉、そのお子様の秀頼、さらに秀吉の弟の秀長を祀っておりまする。

慶長3年(1598年)に亡くなった秀吉は、後陽成天皇の勅命で、神格化されて『豊国大明神』となり

京都に豊国社が建てられた。が、豊臣家滅亡とともに姿を消してしまう。

家康が、ぶっ潰したのだ。なんてこと!

そして、徳川の時代も終わり、明治維新の慶応4年=明治元年(1868年)、

大阪へ行幸した明治天皇が再興を命じ、大阪では京都の豊国神社の分社として・・?

へ?ぶぶぶぶ分社なのか!?。たった今、気が付きました。そうか、そうだったのか。

行きたいな、京都のそこへ。どうでしょ。大阪~京都へって、今は控えよう。

で、件の分社、明治12年(1879年)現在の大阪中央公会堂の位置に創建された。

更に大正元年(1912年)には、現在の大阪市役所の場所にお引越し。

引っ越しを繰り返し、前述の通り、昭和36年にやっと今のここに落ち着いた。

ひとつ朗報がある。京都の分社だった豊国神社(とよくにじんじゃ)は、

大正9年に独立を果たしたそうだ。それ以降は、豊国神社(ほうこくじんじゃ)と名乗ってるそうだ。

出世開運、仕事成就の神様。岡田君官兵衛だって言ってた。『殿のご運が開けたのですぞ。開けました。

ご運が開けました』って。昨日チェックしてみたわ。軍事官兵衛28話よ。

まさしく開運だわ。でもそれは信長が・・・なんて、小さい事は気にしないでおこう。

ところでここに、ひっそりと枯山水の庭があるのだ。

1972年、重森三玲によって作庭された『秀石庭』(しゅうせきてい)。

重森三玲は昭和初期(1896-1975年)の日本の作庭家。日本庭園史の研究家だ。

しげもりみれい。を、検索したら、ウィキさんに、ここもか!って有名な所が並んでるので是非。

そんな凄い方が手掛けたお庭。う~ん・・・・・・よく分からないが。

低い塀に囲まれてて、踏み込めないけど見学はできるから、ゆっくり眺められるさ。

この・・・枯山水を暫くじ~っと眺めていたら、眠くなってきた。不謹慎か?

いやいや、心が落ち着いたって事にしておこう。

ゆっくりお詣りもしましたし、記念に御朱印を頂こうとしましたら。

ま~、このご時世で御朱印帳に直接書かないって、分かりますけど、はい、それはね。

面倒だし、書置きしてるんですね。まあ人間だもの。仕方が無いわ。

だけど、折角なんだから、後付けの日付!10日の『十』!!もうちょっとそれっぽく書いてよ。

まあ、それも今しかないような思いでとして、貼り付けておきましょう。

大阪城 豊國神國

大阪市中央区大阪城2-1

TEL 06-6941-0229

 

 

 

 


大阪の赤穂義士墓所はとっても素敵な花の寺☆万松山 吉祥寺☆

2021-04-19 05:08:55 | おでかけ

運動不足にならぬ様、活動量計(万歩計)をプレゼントしてもらったのだけど、

昨年末から、それを種に、小姑(娘っこ)に歩け~歩け~って追い立てられている。

この日も歩く。いつもは早めに出発するところ、この日はゆっくり出てみたさ。

はい、この上の3行は一昨日から使ってるのだけど。昨日の散歩話の途中で立ち寄ったわ。

ここにこのお寺が有るのは知っていたけど、開門してる時に通るのって初めてで。

最初、お寺なんだかどうだか分からなかった。ただ、八重の花弁の桜が綺麗で、

ダイソンの吸引力並みに、その桜に引き付けられたのだ。

ああ、これよこれ!なんていう品種なのか知らないけれど八重桜。

17歳の時まで、14年位暮らした家の庭に大きな八重桜があって、この色、この桜。

だから、ソメイヨシノではなくって、造幣局の桜を愛していて、だのにずっと行けなくて。

この自宅の桜の葉っぱや花を、母が塩漬けにして、桜餅や桜のお茶にしてくれた。

桜の香が、もう懐かしくって泣けてきそうよ。

桜をむちゃくちゃ激写してて、ん?ここは?って思ったのは、20枚以上の撮影後。

どうやら・・・ここはお寺?なんていうお寺?

もう桜の香に気持ちが大きくなって、ずけずけと入ったら、おお。綺麗。

なんと。これは葉っぱと花弁と、ほぼ形状が同じでは?さすれば、この赤いとこも

花弁に見せかけての葉っぱ?

お花に、うっほうほしていたら、あ?何か有るの、何かしら?

も~お天気が良すぎて、木の葉や枝の影の模様で、何が何だか分からないやん。

でも大丈夫。ちゃんと説明書きがありましたさ。

あ~成程。四十七義士のお墓ね。そうそう、ここはお寺なのであった。

そりゃお墓もあるわね~って、納得しかけて、は?かの有名な四十七義士がここに??

で?四十七義士って何?いやいやいや・・・。薄々知ってるのだよ。

年末になるとやるような、忠臣蔵とか赤穂の何やらとか。詳細は、実は知らない。

さくっと調べたもん。もうちょっとだけ、詳しくなったもん。

真ん中の大きいのが、浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)のお墓って言っても、

遺髪と遺爪、鎖帷子が埋葬されてるらしい。あとの四十七人は家臣なのだな。

しかし、元々は浅野内匠頭VS吉良上野介のちょっとした意地の張り合いからの、

江戸城本丸の松の廊下での刃傷事件を起こしてしまって、切腹するのだ。

はい、皆さん集合。この一人一人の人相を、ちゃんと再現されてるのかどうかは、

私には分からない。うん。知らん。

けど、これを一体一体作った石工(?)さんは凄い!。

元禄15年12月14日、大石内蔵助良雄をはじめとする赤穂浪士の面々四十七人が、

憎い仇の吉良邸に討ち入り。吉良の首を浅野内匠頭の墓前に供えたそうな。

首よ!首!なんと・・・・決してリアルな想像はしてはいけないわ。

大石さん達は、逃げも隠れもせず、ご近所の方に騒々しかった事も詫び引き上げる。

そして、幕府に報告。幕府の命に依り、お預かりの屋敷で切腹。

が、ただ一人、足軽の寺坂吉右衛門だけが、その時にお腹をお召しになって無いのだ。

なので、その時の切腹は四十六義士。寺坂はっていうと、大石内蔵助の密命を受けており、

この寺に、義士たちの冥福を祈る碑を依頼し、建立されたって事で、やはり遺髪、遺爪・・・等々を

集めての埋葬なので、ここのお墓は、お墓って言うより慰霊碑って言った方が良いのかもしれぬ。

しかし、お墓の配置図、そこには寺坂さんの名前もちゃんとあるのね。

それは、寺坂さん、生きながらも自分の髪を納めたのかどうなのか・・?

そうそう、ここはお寺なのです。吉祥寺って言うのですけど。

吉祥寺は寛永7年(1630年)に開山した曹洞宗寺院。本尊は釈迦如来。

十一代住職・縦鎌(じゅうれん)和尚が播州赤穂から迎えられたことから、

赤穂浅野家との繋がりが出来、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は、参勤交代の折などに、

度々吉祥寺を訪れ、山号の『万松山』も高輪泉岳寺の『萬松山』にあやかって長矩から授けられたって。

そう書いてあった。で、高輪泉岳寺は、東京都港区高輪にあって赤穂浪士の墓地があるとな!?

掘り下げていくのはやめておこう・・・・。

お花があちこち美しく咲いていて、この他にも沢山撮ったのだけど、

逆光だったり何だったりで、上手く撮れないのもあったのだ。

で、お寺の方(?)がいらしたので、少々お話をしたよ。花がとっても奇麗なので。

こんなに沢山咲いてるのに、もう散ってしまったからって残念そうなの。

???ってなってる間に、居なくなってしまった。なんでだ?暫く謎に包まれたが、

きっと、ソメイヨシノか?やつが一番の見所だったのか?いやいや、大丈夫。

それにしても、ここって、お寺だったのだ。本堂って何処だったのかしら?

あ。御朱印とか貰ってないやん、やってたの?まぁ、お詣りもしてないから、

御朱印どころでも無いのだけど。あはは。お寺です。植物園じゃ~ない。

12月の第2日曜日には、大阪義士祭ってやってるらしい。

結構、ゆっくりさせてもらいました。どうも、ありがとうございました。

万松山 吉祥寺

大阪市天王寺区六万体町1-20

TEL 06-06-6771-4451

門が開かれてるのは、9:00~16:30