熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

日葡交流400年に思うこと

2024年02月12日 | 海外生活と旅
   2月11日の日経朝刊に、「400 years and beyond」と言うタイトルで、「日本とポルトガル 4人の少年がつないだ絆、明日へ」と言う興味深い特集記事が掲載されていた。
   もう30年以上も前になるのだが、ポルトガルには2度ほど訪れていて、いくらか思い出に残っており、懐かしくなったので、記憶を辿りながら、思い出を反芻してみたいと思う。

   日本人が始めて訪欧したのは、九州のキリシタン大名の「天正遣欧少年使節団」の4人の少年で、リスボンに到着して440年、その足跡を追っての記事である。

   さて、私が最初にポルトガル風に接したのは、1974年に、ブラジルのサンパウロに赴任したときで、その後4年間在住したので、ポルトガル語が少しは分かる。
   1494年6月7日にスペインとポルトガルの間で結ばれた”トルデシリャス条約( Tratado de Tordesilhas)”で、西経46度37分を境にして世界を東西に二分割して、南米のブラジルからアフリカ、アジアにかけてポルトガルの勢力圏となり、ブラジルを植民地支配したのである。
   ポルトガルに始めて着いたとき、ピンクやグリーン、イエローやブルーと言った派手なペンキ塗りのマッチ箱のような家々がびっしりと並んでいるリスボンの家並みを見て、本国そっくりに作られた旧市街のサルバドールの街並みを思い出して感慨を覚えた。

   リスボンで最初に訪れたのは、使節団の少年たちも驚いたという口絵写真(ウィキペディアから借用)のジェロニモス修道院である。長くて重厚な回廊の印象が微かに残っている程度だが、とにかく、そのスケールの偉大さに感激した。
   良く覚えてはいないが、リスボンの高台から街並みを展望して、色々な通りをミシュランの緑本や地図を頼りにして下っていった。途中で出会った住人が、危ないのでカメラをしっかりと襷掛けにするように助言してくれた。
   とにかく坂の多い町で急斜面を路面電車が上り下りしていて、街の中にエレベーターがあった記憶がある。
   夜、観劇を期待して出かけた国立劇場では、良く分からないなりにフランスの芝居を観た。翌日、うらぶれたナイトクラブで、ファドを聴いた。
   他に訪れたのは、かつて王族の避暑地として愛された山間に貴族の城館が点在する美しい街シントラ。そして、ユーラシア大陸最西端のロカ岬で、大西洋を遠望した。

   最後に訪れたのがリスボンのベレン港、
   この港には、大航海時代の幕開けを記念した記念碑「発見のモニュメント パドラオン・ドス・デスコブリメントス」が立っている。
   記念碑は52メートルの高さのコンクリート製で、キャラベル船の船首を模したモニュメントで、先頭に立ったエンリケ航海王子の雄姿が、ポルトガルの偉大さのすべてを物語っている。
   広場の地面に巨大な世界地図が埋め込まれており、その地図上のアジアの各都市に、発見という年代が打ち込まれているのを見て、その歴史に驚愕さえ覚えた。
   しかし、この何の変哲もない港町から、ヴァスコ・ダ・ガマが1497年にインドへ向けて出帆し、ペドロ・アルヴァレス・カブラルが、1499年にブラジルへ向けて旅立った。この港をベースに、ポルトガルの世界制覇の幕が切って落されて、日本へもどんどんポルトガル人が訪れてきたのである。

   かってのポルトガルは、人口は、僅か200万人、バルト海に向けて塩を出荷するセトゥバルとワインを輸出するオポルトの二つの港しか持たずに、外洋経験のある船乗りも不足していたと言う、そのポルトガルが一等国に躍り出て、殆ど一世紀半も貿易大国として世界に君臨したと言うのは、驚異と言う外はない。
   今のポルトガルは、EUでも、低開発国で、国家債務の過重に苦しんでいる経済的にも弱小国であることを考えれば、あの世界史に燦然と輝いた威光は信じ難いが、その片鱗を、ポルトガル旅で垣間見たのである。
   
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