大地の詩を美しく奏でる素晴らしいニ胡とチェロのデュオ・リサイタルを津田ホールで聴いた。
たった2本の弦を持つ小さな弦楽器が、あれだけ豊かでバリエーションに富んだ華麗なサウンドを奏でて人々を魅了する、チェン・ミンやジャー・パンファンのリサイタルも聴いているが、いつも感にうたれて聞惚れている。
今回は、中国でも指折りのトップニ胡奏者として世界中の名だたるクラシック音楽の巨匠達と共演して聴衆を魅了し続けていると言うマ・シャオフイの演奏会で、初めての共演だと言うチェロ奏者唐津健氏の伴奏を得て、クラシック音楽から中国の古曲、ピアソラのタンゴなど、そして、アンコールのユーモレスクまでの素晴らしい2時間を華麗に弾き切った。
最初の曲は、自分で編曲した「一緒に楽しく」と言うエジプト民謡で、カスバの何処かのバザールの一角から聞えてくるような懐かしいメロディーで始まったかと思うと、次は、一転して、バッハのG線上のアリアとインヴェンション第13番。
バッハの音楽は、天からの音楽のように感動的だとマ・シャオフイは言っていたが、中国の音楽と相通じるものがあるのであろうか。
続いて、劉天華の「空山鳥語」。鳥の鳴き声だけしか聞えない深閑とした深山幽谷の情景を描いたと言う素晴らしい曲で、華麗なマ・シャオフイの目も眩むような指先が野鳥達と峻厳な自然との語らいを紡ぎ続ける。
黄山はかくや、と思いながら、何故か全くイメージの違う「国連デー」でのカタロニアでは鳥はピース、ピースと言って鳴くのだと言って演奏したカザルスの「鳥の歌」を思い出した。
ピアソラの「リベルタンゴ」。イタリアに渡って最初の曲だと言うが、ヨーヨーマが奏でたサントリーのCM音楽。
以前に、チェン・ミンもピアソラのタンゴを演奏していたが、私は、タンゴを聴くだけで、無性に、ブエノスアイレスのボカの極彩色の小径を思い出す。
何度かしか訪れてはいないが、廃墟のようなビエホ・アルマセンのむせ返るような舞台で、激しくそして華麗にステップを踏んでいたカップルの姿や、咽び泣くような悲しいバンドネオンのサウンドが微かに香る塩の香と共に胸に迫ってくる。
カミニートから一寸歩くと波止場に出る。移民たちは、望郷の思い出で胸を締め付けながら、海の向こうの遠い遠い懐かしい故郷イタリアに思いを馳せながら、身体を摺り合わせながら歌い踊っていたのかも知れない。
クライスラーの「愛の悲しみ」。鋭く胸を刺す様な澄んだヴァイオリンのサウンドとは違って、ビオラに近いやや低音のニ胡の音色はどこまでも柔らかくて鈍いが、奏でられる悲しみは深い。
次のショスタコーヴィッチの「セカンド・ワルツ」は、初めて聴いたが、ムード音楽のように美しい。
バルトークの「ルーマニア民族舞曲」やドヴォルザークの「スラブ舞曲」などは、非常に民族色の強い市民達の踊りの音楽だが、マ・シャオフイの華麗なテクニックが縦横にニ胡を歌わせている。
感動的だったのは、作曲家タン・ドゥンに頼まれてヨーヨーマと弾いたと言うオペラのグリーン・デスティニーの悲恋の歌。昨シーズンのMETのタン・ドゥンの「始皇帝」を思い出したが、何故、あんなにも感動的で美しいのか、雄大なチェロと繊細で優雅なニ胡の紡ぎだす男女の愛の歌が胸を打つ。
音楽なら万国共通で通じ合えるのに、何故、中国脅威論や中国敵視論が跋扈するのか、現実に引き戻されると悲しい。
やはり、素晴らしかったのは、彼女が作曲した「琴韵(ニ胡の魂)」の独奏で、師匠から遺産として譲り受けた5度低いと言うニ胡を使っての演奏であった。
広大な自然をイメージして作曲したと言う素晴らしいサウンドで、後半になってやや低音のマ・シャオフイのハミングがモンゴルのホーミーのようにニ胡のサウンドに呼応して長く尾を引く。
二胡が仙人のように大地と、そして、宇宙と対話をしている。
師匠が、露天で70円で手に入れたという古いニ胡が、マ・シャオフイの弾く弓に擦られて白い煙を漂わせている。
このニ胡と言う小さな楽器だが、胡と言う文字が示すように中近東オリジンで、多くの民族の手を経て揉まれながらシルク・ロードを中国に渡って来た。
エジプトや、東欧や、ロシアの音楽を、マ・シャオフイは弾いたが、全く異質感がなかったのは、そのような異文化と異民族の魂を吸収しながら進化してきたニ胡だから出来たのかも知れない。
ところで、伴奏者の唐津健だが、通訳を務めながら、マ・シャオフイのニ胡と付きつ離れつ、実に誠実で素晴らしい演奏を披露していた。
最前列やや左手から、チャイナドレスに身を包んだ美しいマ・シャオフイの華麗なニ胡リサイタルを楽しんだ一夜であった。
たった2本の弦を持つ小さな弦楽器が、あれだけ豊かでバリエーションに富んだ華麗なサウンドを奏でて人々を魅了する、チェン・ミンやジャー・パンファンのリサイタルも聴いているが、いつも感にうたれて聞惚れている。
今回は、中国でも指折りのトップニ胡奏者として世界中の名だたるクラシック音楽の巨匠達と共演して聴衆を魅了し続けていると言うマ・シャオフイの演奏会で、初めての共演だと言うチェロ奏者唐津健氏の伴奏を得て、クラシック音楽から中国の古曲、ピアソラのタンゴなど、そして、アンコールのユーモレスクまでの素晴らしい2時間を華麗に弾き切った。
最初の曲は、自分で編曲した「一緒に楽しく」と言うエジプト民謡で、カスバの何処かのバザールの一角から聞えてくるような懐かしいメロディーで始まったかと思うと、次は、一転して、バッハのG線上のアリアとインヴェンション第13番。
バッハの音楽は、天からの音楽のように感動的だとマ・シャオフイは言っていたが、中国の音楽と相通じるものがあるのであろうか。
続いて、劉天華の「空山鳥語」。鳥の鳴き声だけしか聞えない深閑とした深山幽谷の情景を描いたと言う素晴らしい曲で、華麗なマ・シャオフイの目も眩むような指先が野鳥達と峻厳な自然との語らいを紡ぎ続ける。
黄山はかくや、と思いながら、何故か全くイメージの違う「国連デー」でのカタロニアでは鳥はピース、ピースと言って鳴くのだと言って演奏したカザルスの「鳥の歌」を思い出した。
ピアソラの「リベルタンゴ」。イタリアに渡って最初の曲だと言うが、ヨーヨーマが奏でたサントリーのCM音楽。
以前に、チェン・ミンもピアソラのタンゴを演奏していたが、私は、タンゴを聴くだけで、無性に、ブエノスアイレスのボカの極彩色の小径を思い出す。
何度かしか訪れてはいないが、廃墟のようなビエホ・アルマセンのむせ返るような舞台で、激しくそして華麗にステップを踏んでいたカップルの姿や、咽び泣くような悲しいバンドネオンのサウンドが微かに香る塩の香と共に胸に迫ってくる。
カミニートから一寸歩くと波止場に出る。移民たちは、望郷の思い出で胸を締め付けながら、海の向こうの遠い遠い懐かしい故郷イタリアに思いを馳せながら、身体を摺り合わせながら歌い踊っていたのかも知れない。
クライスラーの「愛の悲しみ」。鋭く胸を刺す様な澄んだヴァイオリンのサウンドとは違って、ビオラに近いやや低音のニ胡の音色はどこまでも柔らかくて鈍いが、奏でられる悲しみは深い。
次のショスタコーヴィッチの「セカンド・ワルツ」は、初めて聴いたが、ムード音楽のように美しい。
バルトークの「ルーマニア民族舞曲」やドヴォルザークの「スラブ舞曲」などは、非常に民族色の強い市民達の踊りの音楽だが、マ・シャオフイの華麗なテクニックが縦横にニ胡を歌わせている。
感動的だったのは、作曲家タン・ドゥンに頼まれてヨーヨーマと弾いたと言うオペラのグリーン・デスティニーの悲恋の歌。昨シーズンのMETのタン・ドゥンの「始皇帝」を思い出したが、何故、あんなにも感動的で美しいのか、雄大なチェロと繊細で優雅なニ胡の紡ぎだす男女の愛の歌が胸を打つ。
音楽なら万国共通で通じ合えるのに、何故、中国脅威論や中国敵視論が跋扈するのか、現実に引き戻されると悲しい。
やはり、素晴らしかったのは、彼女が作曲した「琴韵(ニ胡の魂)」の独奏で、師匠から遺産として譲り受けた5度低いと言うニ胡を使っての演奏であった。
広大な自然をイメージして作曲したと言う素晴らしいサウンドで、後半になってやや低音のマ・シャオフイのハミングがモンゴルのホーミーのようにニ胡のサウンドに呼応して長く尾を引く。
二胡が仙人のように大地と、そして、宇宙と対話をしている。
師匠が、露天で70円で手に入れたという古いニ胡が、マ・シャオフイの弾く弓に擦られて白い煙を漂わせている。
このニ胡と言う小さな楽器だが、胡と言う文字が示すように中近東オリジンで、多くの民族の手を経て揉まれながらシルク・ロードを中国に渡って来た。
エジプトや、東欧や、ロシアの音楽を、マ・シャオフイは弾いたが、全く異質感がなかったのは、そのような異文化と異民族の魂を吸収しながら進化してきたニ胡だから出来たのかも知れない。
ところで、伴奏者の唐津健だが、通訳を務めながら、マ・シャオフイのニ胡と付きつ離れつ、実に誠実で素晴らしい演奏を披露していた。
最前列やや左手から、チャイナドレスに身を包んだ美しいマ・シャオフイの華麗なニ胡リサイタルを楽しんだ一夜であった。