病院からの帰途、百人町の海産物居酒屋「さくら水産」と言う店で、昼食を取った。気楽で便利なので、昼時間にかち合うと時々利用している。
この店は夜に賑わうようだが、昼は、何種類かの定食だけで、一食5~600円程度で魚主体の食事が取れるので、まずまずのコストパーフォーマンスである。
ところが、他の店と少し違うところは、ご飯と味噌汁のお替りが自由で、それに、玉子と味付け海苔も自由にどうぞと言うことで、この所為かどうか分からないが、可なり繁盛している。
私などは、歳とダイエットの所為で、食事制限気味なので食べ放題などは以ての外で、こんなところでも押さえに押さえて、運ばれて出てきたものさえ制限に心掛けている。
ところがである。
新大久保駅のすぐ側のこの店には、ビジネス街とは違って、事務所勤めのサラリーマン風の客は比較的少なく、色々な種類の人が来ている。
見るとはなしに見ていると、若くて元気な客が多くて、大概の客は、2~3回は大きなステンレス製のご飯や味噌汁のコンテイナーに通って大盛りのお替りをして席に帰ってくる。
戦後の貧しかった頃ならいざ知らず、ご飯をお替りしたのは何時のことだったか、私の記憶には全く欠落してしまっているのだが、この店では、これがあたり前で、すぐにご飯がなくなるので、オバチャンがご飯ご飯と言って走り回っている。
島田紳助の新書「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」と言う本のことを思い出した。
三省堂での立ち読みだが、若い学生達が、喜んで出かけるのは沢山食べられるだけではなく、オバチャンの気持ちが嬉しいのだと書いてあった。
お客が食堂に行くのは、食事だけではなく気持ちを食べに行くのだと紳助は云うのである。
個人経営のオバチャンの店なら紳助の話も分かる気がするが、さて、チェーン店と言うか、街の中のあっちこっちの小さなビルの地下一階にあって手広く(?)やっている「さくら水産」の場合は、客は気持ちを食べに行くのであろうか。
私は友人と一度だけ夜に「さくら水産」の別な店に行ったことがあるが、普通の居酒屋と言う感じだったが、確かに値段のわりには味にしろ新鮮さにしろ料理の種類にしろ良質な方で、コストパーフォーマンスの高い気楽に行けて楽しめる居酒屋と言う印象を受けた。
紳助が書いている「レストランの良し悪しは、勘定を払った時に分かる」と言うのは、正にその通りで、この店は、さしずめ、親しい友人と気楽にだべって楽しめて、それなりに満足できる店と言うことになろうか。
勿論、昼には、多少年齢の行ったオバチャンが居てサービスしてくれるが、所謂、普通の雇われ人で、紳助のいう気持ちなど籠もっているとは思えないし、気持ちを食べに行く客などいる筈がない。
私自身は、この店の良さは、価格が安いわりには、程々に良質な海鮮料理を楽しめるコストパーフォーマンスの高さにあり、客はそれを認めて集まって来るのだと思っている。
レストランには二つの両極がある。一方に安くて美味しくてサービスの良い店があって、もう一方には質もサービスもあらゆる雰囲気も総合したトップクラスの高級店がある。
今でも、コスト競争が優劣を決する重要な武器となっている大衆食堂分野では、浮沈が激しいが、色々な革新が起こっており、新機軸を打ち出したグループ展開の店が彗星の如く現われることがあり、余程のことがないと取り残された個人の店はどんどん淘汰されて行く。
大盛りだけでは、勝ち残っては行けない時代なのである。
最近では、正式な会食などの機会も少なくなったが、これまで、食についてはピンからキリまで、それも世界各地に渡って色々なレストランでの食事経験をしてきた。
食文化は極めて深遠で、夫々の民族の歴史と伝統を引き摺っているのだが、グローバリゼーションの進展によって、比較的簡単に世界中の食事を味わえるようになり、そして、ヘルシーで美味だということで日本食の人気が高くなって来ているなど変化も激しい。
しかし、日常生活では、レストランには、目的によって選んで出かけるのだが、新規開拓の場合は別にして、大体、日常の生活では何箇所か決めていて、そこに出かけて行くことが多い。
サクラ水産の場合は、知っているので、別な街角にたまたまあれば、そこに立ち寄ると言うこともあると言うことである。
コストとサービスを切り詰めて合理化したアメリカ型のファーストフードが隆盛を極めているのだが、これが反発を招いて、イタリアからスローフード運動が起こって在来型の手作り料理が見直されている。
しかし、日常毎日付き合う場所なので、前述のように経済原則が働き過ぎて、コストパーフォーマンスがまだまだ重要な意味を持つ世界であり、紳助流の「大盛りにするオバチャンの店」がどんどん消えていっていることも事実である。
この店は夜に賑わうようだが、昼は、何種類かの定食だけで、一食5~600円程度で魚主体の食事が取れるので、まずまずのコストパーフォーマンスである。
ところが、他の店と少し違うところは、ご飯と味噌汁のお替りが自由で、それに、玉子と味付け海苔も自由にどうぞと言うことで、この所為かどうか分からないが、可なり繁盛している。
私などは、歳とダイエットの所為で、食事制限気味なので食べ放題などは以ての外で、こんなところでも押さえに押さえて、運ばれて出てきたものさえ制限に心掛けている。
ところがである。
新大久保駅のすぐ側のこの店には、ビジネス街とは違って、事務所勤めのサラリーマン風の客は比較的少なく、色々な種類の人が来ている。
見るとはなしに見ていると、若くて元気な客が多くて、大概の客は、2~3回は大きなステンレス製のご飯や味噌汁のコンテイナーに通って大盛りのお替りをして席に帰ってくる。
戦後の貧しかった頃ならいざ知らず、ご飯をお替りしたのは何時のことだったか、私の記憶には全く欠落してしまっているのだが、この店では、これがあたり前で、すぐにご飯がなくなるので、オバチャンがご飯ご飯と言って走り回っている。
島田紳助の新書「ご飯を大盛りにするオバチャンの店は必ず繁盛する」と言う本のことを思い出した。
三省堂での立ち読みだが、若い学生達が、喜んで出かけるのは沢山食べられるだけではなく、オバチャンの気持ちが嬉しいのだと書いてあった。
お客が食堂に行くのは、食事だけではなく気持ちを食べに行くのだと紳助は云うのである。
個人経営のオバチャンの店なら紳助の話も分かる気がするが、さて、チェーン店と言うか、街の中のあっちこっちの小さなビルの地下一階にあって手広く(?)やっている「さくら水産」の場合は、客は気持ちを食べに行くのであろうか。
私は友人と一度だけ夜に「さくら水産」の別な店に行ったことがあるが、普通の居酒屋と言う感じだったが、確かに値段のわりには味にしろ新鮮さにしろ料理の種類にしろ良質な方で、コストパーフォーマンスの高い気楽に行けて楽しめる居酒屋と言う印象を受けた。
紳助が書いている「レストランの良し悪しは、勘定を払った時に分かる」と言うのは、正にその通りで、この店は、さしずめ、親しい友人と気楽にだべって楽しめて、それなりに満足できる店と言うことになろうか。
勿論、昼には、多少年齢の行ったオバチャンが居てサービスしてくれるが、所謂、普通の雇われ人で、紳助のいう気持ちなど籠もっているとは思えないし、気持ちを食べに行く客などいる筈がない。
私自身は、この店の良さは、価格が安いわりには、程々に良質な海鮮料理を楽しめるコストパーフォーマンスの高さにあり、客はそれを認めて集まって来るのだと思っている。
レストランには二つの両極がある。一方に安くて美味しくてサービスの良い店があって、もう一方には質もサービスもあらゆる雰囲気も総合したトップクラスの高級店がある。
今でも、コスト競争が優劣を決する重要な武器となっている大衆食堂分野では、浮沈が激しいが、色々な革新が起こっており、新機軸を打ち出したグループ展開の店が彗星の如く現われることがあり、余程のことがないと取り残された個人の店はどんどん淘汰されて行く。
大盛りだけでは、勝ち残っては行けない時代なのである。
最近では、正式な会食などの機会も少なくなったが、これまで、食についてはピンからキリまで、それも世界各地に渡って色々なレストランでの食事経験をしてきた。
食文化は極めて深遠で、夫々の民族の歴史と伝統を引き摺っているのだが、グローバリゼーションの進展によって、比較的簡単に世界中の食事を味わえるようになり、そして、ヘルシーで美味だということで日本食の人気が高くなって来ているなど変化も激しい。
しかし、日常生活では、レストランには、目的によって選んで出かけるのだが、新規開拓の場合は別にして、大体、日常の生活では何箇所か決めていて、そこに出かけて行くことが多い。
サクラ水産の場合は、知っているので、別な街角にたまたまあれば、そこに立ち寄ると言うこともあると言うことである。
コストとサービスを切り詰めて合理化したアメリカ型のファーストフードが隆盛を極めているのだが、これが反発を招いて、イタリアからスローフード運動が起こって在来型の手作り料理が見直されている。
しかし、日常毎日付き合う場所なので、前述のように経済原則が働き過ぎて、コストパーフォーマンスがまだまだ重要な意味を持つ世界であり、紳助流の「大盛りにするオバチャンの店」がどんどん消えていっていることも事実である。