温かくて良い天気が続くと真冬であることを忘れてスコップを持ちたくなる。
何となく庭を見ると、沢山の球根が芽を出し始めて急に地面が賑やかになっている。
スノードロップが花を着け、黄色いクロッカスが一気に花を咲かせた。ジッと地面に張り付いた小さな株からスミレの可憐な薄い青紫の花びらが見えている。
花木は、椿が何種類か咲いているが、我が家の枝垂れ梅の蕾はまだ固い。
白羽衣の蕾が動き始めたので、もう少しすれば、庭の椿が咲き乱れる。
昨日、庭に、また、新しい小鳥がやって来た。シジュウカラとツグミである。色々な小鳥が訪れてくれているのだが、少し離れていると同じ様に見えるので、良く観察していないと気付かない。
我が家は、住宅街の一番はずれにあって、田畑や林に近いので、野鳥天国の北総の所為もあって、小鳥達の訪れが多い。
もうすぐ、ウグイスが来て鳴く。キジバトが枯れ草をつつき始めたので、また、ヤマモモの茂みに営巣するのかも知れない。
シジュウカラとメジロのように小さな鳥は、敏捷に飛び回るが、大きくなるほど動きが穏やかになるのが面白い。
このような野鳥の訪れを見ていると、千葉のトカイナカの自然も、まだ、捨てたものではないと思ってしまう。
オランダの路傍に咲くクロッカスの花を思い出した。
春の訪れを狂喜して喜ぶヨーロッパでも、今ごろ、道端や公園の芝生からクロッカスが顔を出しているのであろうか。
日本では、クロッカスは庭に植えるのが普通だが、ヨーロッパでは路傍の花である。
ヨーロッパの路傍の花で風情があって美しいのは、ケシの花である。真っ赤なケシの花が一番印象的だが、色とりどりのケシの花がか細い茎に支えられて、風に揺れる姿の優しさは格別である。
ギリシャの廃墟で、遺跡の間から顔を覗かせるケシの姿は、歴史の重みを感じさせて感傷的になってしまったのを思い出した。真っ白な大理石の欠片の間に、真っ赤な鮮血のような花が咲いているのである。
初秋に信州の田舎を車で走っていると、農家の庭や路傍にコスモスの花が揺れているが、あの風景も旅情を誘って中々素晴らしい。
大原の田舎道を歩いていても季節毎に色々な花が民家の軒先や路傍に咲いているが、私はそんな風景が好きで、奈良や京都の里山を良く散策した。
ところで、野鳥達の訪れだが、一番多いのは、やはり雀である。水田の刈り取りの季節には、雲霞の如く押し寄せてくるが、普段は、数羽ずつチュンチュン喧しく囀りながら小枝に止まって小休止しているか、せわしく地面を突きながら歩いている。
最近、カラスの姿が、何故か少なくなった。
鳶も殆ど見ない。
今、頻繁に庭を訪れるのは、ヒヨドリとムクドリ、それに、何度も訪れてはすぐに何処かへ飛んで行くメジロである。
口絵の写真は、匂い椿・港の曙の蜜を吸いに来たメジロ。つがいであろうと思うが、メジロは、二羽で飛んで来ることが多い。
私は、別にバードウォッチングの趣味がある訳ではないが、鳥は飼うよりは自然の姿で見る方が良いと思っている。
もう何十年も前になるが、新宿のマンションに住んでいた時に、セキレイインコが一羽舞い込んできたので、少しの期間、番にして卵から雛を育てるなどして飼っていた事がある。
しかし、死んでゆく姿に耐えられなくなって止めてしまった。
籠の鳥は良くない、そう思っている。
野鳥に興味を持ったのは、ロンドン郊外のキューガーデンに住んでいた時で、休みになって時間が取れるとカメラを持って、ロイヤル・キューガーデンに出かけて花の写真を撮っていたのだが、途中公園の中で、沢山の野鳥に出会った。
雉や山鳥がひよこを従えて前を横切るし、綺麗な色をした鳥が草むらから飛び立つし、それに、池には、白鳥や鴨などあらゆる水鳥が群れていた。
黒歌鳥の綺麗なさえずりを聞きながら、人懐っこいイングリッシュ・ロビンに近づいたり、その当時は200ミリの望遠レンズしか持っていなかったので、満足な写真は撮れなかったが、それなりに楽しかった。
もう一つの野鳥の思い出は、ブラジルで、アマゾンで見た極彩色のオウムや、熱帯植物園などで見た色々なハチドリ達である。
動物の方は好き嫌いがあるが、野鳥の場合は、どんな鳥も美しいし、それに、動きが敏捷で、そのバリエーションを見ているだけでも厭きない。
それに、鳴き声の美しい鳥の声を聞くと嬉しくなる。
余談だが、その所為もあって、年がら年中、駅のスピーカーで、ウグイスの鳴き声を流している京成八幡駅の教養のなさと悪趣味には閉口している。
それに、この京成電鉄で最悪なのは、表玄関である筈の上野駅の公衆便所の劣悪さで、他の私鉄と比べれば、カスタマー・サティスファクションを如何に蔑にしているかのが分かろうというもの。
寅さんも乗っていた電車であるが、都心に乗り入れておりながら、何処もかしこも垢抜けしないこの電鉄の不思議さ、天然記念物でもある。
何となく庭を見ると、沢山の球根が芽を出し始めて急に地面が賑やかになっている。
スノードロップが花を着け、黄色いクロッカスが一気に花を咲かせた。ジッと地面に張り付いた小さな株からスミレの可憐な薄い青紫の花びらが見えている。
花木は、椿が何種類か咲いているが、我が家の枝垂れ梅の蕾はまだ固い。
白羽衣の蕾が動き始めたので、もう少しすれば、庭の椿が咲き乱れる。
昨日、庭に、また、新しい小鳥がやって来た。シジュウカラとツグミである。色々な小鳥が訪れてくれているのだが、少し離れていると同じ様に見えるので、良く観察していないと気付かない。
我が家は、住宅街の一番はずれにあって、田畑や林に近いので、野鳥天国の北総の所為もあって、小鳥達の訪れが多い。
もうすぐ、ウグイスが来て鳴く。キジバトが枯れ草をつつき始めたので、また、ヤマモモの茂みに営巣するのかも知れない。
シジュウカラとメジロのように小さな鳥は、敏捷に飛び回るが、大きくなるほど動きが穏やかになるのが面白い。
このような野鳥の訪れを見ていると、千葉のトカイナカの自然も、まだ、捨てたものではないと思ってしまう。
オランダの路傍に咲くクロッカスの花を思い出した。
春の訪れを狂喜して喜ぶヨーロッパでも、今ごろ、道端や公園の芝生からクロッカスが顔を出しているのであろうか。
日本では、クロッカスは庭に植えるのが普通だが、ヨーロッパでは路傍の花である。
ヨーロッパの路傍の花で風情があって美しいのは、ケシの花である。真っ赤なケシの花が一番印象的だが、色とりどりのケシの花がか細い茎に支えられて、風に揺れる姿の優しさは格別である。
ギリシャの廃墟で、遺跡の間から顔を覗かせるケシの姿は、歴史の重みを感じさせて感傷的になってしまったのを思い出した。真っ白な大理石の欠片の間に、真っ赤な鮮血のような花が咲いているのである。
初秋に信州の田舎を車で走っていると、農家の庭や路傍にコスモスの花が揺れているが、あの風景も旅情を誘って中々素晴らしい。
大原の田舎道を歩いていても季節毎に色々な花が民家の軒先や路傍に咲いているが、私はそんな風景が好きで、奈良や京都の里山を良く散策した。
ところで、野鳥達の訪れだが、一番多いのは、やはり雀である。水田の刈り取りの季節には、雲霞の如く押し寄せてくるが、普段は、数羽ずつチュンチュン喧しく囀りながら小枝に止まって小休止しているか、せわしく地面を突きながら歩いている。
最近、カラスの姿が、何故か少なくなった。
鳶も殆ど見ない。
今、頻繁に庭を訪れるのは、ヒヨドリとムクドリ、それに、何度も訪れてはすぐに何処かへ飛んで行くメジロである。
口絵の写真は、匂い椿・港の曙の蜜を吸いに来たメジロ。つがいであろうと思うが、メジロは、二羽で飛んで来ることが多い。
私は、別にバードウォッチングの趣味がある訳ではないが、鳥は飼うよりは自然の姿で見る方が良いと思っている。
もう何十年も前になるが、新宿のマンションに住んでいた時に、セキレイインコが一羽舞い込んできたので、少しの期間、番にして卵から雛を育てるなどして飼っていた事がある。
しかし、死んでゆく姿に耐えられなくなって止めてしまった。
籠の鳥は良くない、そう思っている。
野鳥に興味を持ったのは、ロンドン郊外のキューガーデンに住んでいた時で、休みになって時間が取れるとカメラを持って、ロイヤル・キューガーデンに出かけて花の写真を撮っていたのだが、途中公園の中で、沢山の野鳥に出会った。
雉や山鳥がひよこを従えて前を横切るし、綺麗な色をした鳥が草むらから飛び立つし、それに、池には、白鳥や鴨などあらゆる水鳥が群れていた。
黒歌鳥の綺麗なさえずりを聞きながら、人懐っこいイングリッシュ・ロビンに近づいたり、その当時は200ミリの望遠レンズしか持っていなかったので、満足な写真は撮れなかったが、それなりに楽しかった。
もう一つの野鳥の思い出は、ブラジルで、アマゾンで見た極彩色のオウムや、熱帯植物園などで見た色々なハチドリ達である。
動物の方は好き嫌いがあるが、野鳥の場合は、どんな鳥も美しいし、それに、動きが敏捷で、そのバリエーションを見ているだけでも厭きない。
それに、鳴き声の美しい鳥の声を聞くと嬉しくなる。
余談だが、その所為もあって、年がら年中、駅のスピーカーで、ウグイスの鳴き声を流している京成八幡駅の教養のなさと悪趣味には閉口している。
それに、この京成電鉄で最悪なのは、表玄関である筈の上野駅の公衆便所の劣悪さで、他の私鉄と比べれば、カスタマー・サティスファクションを如何に蔑にしているかのが分かろうというもの。
寅さんも乗っていた電車であるが、都心に乗り入れておりながら、何処もかしこも垢抜けしないこの電鉄の不思議さ、天然記念物でもある。