1位の阪神と2位中日とのゲーム差が6、阪神は愈々優勝へのラスト・スパートである。
ロンドンに5年間生活しながら、一度もゴルフをやったことはないし、ブラジルに4年間住みながら一度しかサーカーを観戦していないほどだから、スポーツには、殆ど興味がない。
しかし、野球、それも阪神に対する思い入れは、スポーツが好きか嫌いかの域を越えている。
子供の頃の草野球の思い出が充満しているし、それに、あの頃の阪神は、川上や青田の巨人に対して、藤村と言う偉大な打者などが居て結構強くて、子供達を湧かせた。
それに、私は、西宮の戎神社のすぐ側で生まれて育ったので、阪神球場はすぐ近くであり、フェンスから中に潜り込んで遊んでいた記憶がある。
学生時代を京都で過ごして、大阪の万博が終わるまで関西を離れなかった状態であるから、長い間最下位に低迷していた頃もずっと阪神フアンであった。
結構、東京の球場へ阪神戦を見に行っているが、何故か、残念ながら阪神が勝った試合は一度も見たことがない。
もう10何年も昔になるが、パリで、阪神の吉田監督と一度だけ会食をしたことがある。
吉田監督は、オリンピックを目指して頑張っていたフランスチームのコーチとしてボランティアで働いておられた頃で、私は、仕事の都合でロンドンから出かけてお会いした。
色々、興味深いお話をして頂いたが、殆ど、忘れてしまった。
これは、サンパウロで会った小野田少将の場合もそうで、何を聞いたのか殆ど覚えていない。会食の後カラオケに行ったが、ジャングルで30年間いた小野田さんの方が日本の歌を良く知っていて上手なので、その後長い間、カラオケを歌わなかった。
余談になるが、ロンドンで、チャールズ皇太子とお話した時も、可なり喋ったが、殆ど忘れてしまった。
悲しいが、記憶と言うものはそのようなものである。
もっとも、忘却するから気が狂わずに生きて行けるのかも知れない。
ところで、吉田監督とのお話だが、強烈に覚えていることが二つある。
一つは、阪神の優勝。
「あんた、あの時、阪神優勝すると思いました?
そうでっしゃろ、私も思いまへんでした。
勝ち始めたら、あれよあれよですわ。いきおいですなあ。」
もう一つは、その翌年の惨憺たる阪神の成績。
「どんな手を打っても、あかん時はあきまへん。
朝起きたら、真っ先に空を見まんねん。
なんでや思いはります?
雨やったら、その日は、試合がないから、負けんで済みますやろ。」
私は、淡々と語る吉田監督の顔を見ながら、大将とは如何に孤独で厳しいものかを感じて胸が痛くなった。
運や偶然では決してない。恐らく、あの当時は孤軍奮闘で、大変な辛吟の中、必死になって頑張っておられたのであろうと思う。
それでも、結果は天と地と程も違ってくる。
巨人の監督がどうだこうだと騒がれているが、確かに監督の力量が極めて重要なことは分かる。しかし、野球は、完全にチームとしての戦いであって、フロントやバックの会社をも含めた総合力の戦いなのである。
昔の巨人は、総てが揃っていた。巨人が勝って優勝するのは当たり前で、それは、国民の言わば合意事項でもあったのである。
巨人全体があんなにガタガタで、まわりが騒げば騒ぐほど墓穴を掘ることになる。
傍目八目、後追いなら、ナンとでも評論でき批判できる。
長嶋監督が、弱い阪神が野球をダメにしていると言って阪神を立て直す為に星野監督に阪神入りを勧めたとか、逆に、今は、巨人がプロ野球存続の足を引っ張っている。
「勝っても負けても、関西には熱烈な阪神フアンが居て、甲子園球場に来て電車に乗ってくれる、阪神電車が儲かれば良いのだ。」と言った阪神の経営理念を、星野監督は根本的に叩き潰して優勝に導いた。
コーポレート・カルチュアを変えてしまったから阪神は強くなった。
もう、何十年も前の阪神に戻ったのである。
もう一度、吉田監督の話。
「次、阪神は何時優勝すると思います?
20年後?
きつい事言わはるナァ。」
阪神は、コーポレート・カルチュアを変えて、開かれたコーポレート・ガヴァナンスを志向し始めた。
そして、楽天やソフト・バンクが、球界に活を入れる為に動き出した。
最先端を行く筈の総合メディア産業の読売が、負ける筈がなかろう。
日本選手が大リーグで活躍している。
日米の野球に技量や実力に差がなくなって来たのであろうか、差があるとすれば、ショウとしてのビジネス、客を魅了するビジネスの差であろうかと思う。
スーパースターが米国に行ってしまって空洞化すると言うのなら、セパの交流試合のように、日米の交流、乗り入れを行うべきである。
ヤンキースがシアトルへ行くのも、東京へ来るのもそれ程変わらない。
タカが野球ではない。
野球は、謂わば、文化文明の総てを凝縮したような総合産業であり、経営収支の向上を含めて最も経営学の手法を必要とし、また、活用できる事業であると思うのだが如何であろうか。
野球音痴の戯言が長くなってしまった。
ロンドンに5年間生活しながら、一度もゴルフをやったことはないし、ブラジルに4年間住みながら一度しかサーカーを観戦していないほどだから、スポーツには、殆ど興味がない。
しかし、野球、それも阪神に対する思い入れは、スポーツが好きか嫌いかの域を越えている。
子供の頃の草野球の思い出が充満しているし、それに、あの頃の阪神は、川上や青田の巨人に対して、藤村と言う偉大な打者などが居て結構強くて、子供達を湧かせた。
それに、私は、西宮の戎神社のすぐ側で生まれて育ったので、阪神球場はすぐ近くであり、フェンスから中に潜り込んで遊んでいた記憶がある。
学生時代を京都で過ごして、大阪の万博が終わるまで関西を離れなかった状態であるから、長い間最下位に低迷していた頃もずっと阪神フアンであった。
結構、東京の球場へ阪神戦を見に行っているが、何故か、残念ながら阪神が勝った試合は一度も見たことがない。
もう10何年も昔になるが、パリで、阪神の吉田監督と一度だけ会食をしたことがある。
吉田監督は、オリンピックを目指して頑張っていたフランスチームのコーチとしてボランティアで働いておられた頃で、私は、仕事の都合でロンドンから出かけてお会いした。
色々、興味深いお話をして頂いたが、殆ど、忘れてしまった。
これは、サンパウロで会った小野田少将の場合もそうで、何を聞いたのか殆ど覚えていない。会食の後カラオケに行ったが、ジャングルで30年間いた小野田さんの方が日本の歌を良く知っていて上手なので、その後長い間、カラオケを歌わなかった。
余談になるが、ロンドンで、チャールズ皇太子とお話した時も、可なり喋ったが、殆ど忘れてしまった。
悲しいが、記憶と言うものはそのようなものである。
もっとも、忘却するから気が狂わずに生きて行けるのかも知れない。
ところで、吉田監督とのお話だが、強烈に覚えていることが二つある。
一つは、阪神の優勝。
「あんた、あの時、阪神優勝すると思いました?
そうでっしゃろ、私も思いまへんでした。
勝ち始めたら、あれよあれよですわ。いきおいですなあ。」
もう一つは、その翌年の惨憺たる阪神の成績。
「どんな手を打っても、あかん時はあきまへん。
朝起きたら、真っ先に空を見まんねん。
なんでや思いはります?
雨やったら、その日は、試合がないから、負けんで済みますやろ。」
私は、淡々と語る吉田監督の顔を見ながら、大将とは如何に孤独で厳しいものかを感じて胸が痛くなった。
運や偶然では決してない。恐らく、あの当時は孤軍奮闘で、大変な辛吟の中、必死になって頑張っておられたのであろうと思う。
それでも、結果は天と地と程も違ってくる。
巨人の監督がどうだこうだと騒がれているが、確かに監督の力量が極めて重要なことは分かる。しかし、野球は、完全にチームとしての戦いであって、フロントやバックの会社をも含めた総合力の戦いなのである。
昔の巨人は、総てが揃っていた。巨人が勝って優勝するのは当たり前で、それは、国民の言わば合意事項でもあったのである。
巨人全体があんなにガタガタで、まわりが騒げば騒ぐほど墓穴を掘ることになる。
傍目八目、後追いなら、ナンとでも評論でき批判できる。
長嶋監督が、弱い阪神が野球をダメにしていると言って阪神を立て直す為に星野監督に阪神入りを勧めたとか、逆に、今は、巨人がプロ野球存続の足を引っ張っている。
「勝っても負けても、関西には熱烈な阪神フアンが居て、甲子園球場に来て電車に乗ってくれる、阪神電車が儲かれば良いのだ。」と言った阪神の経営理念を、星野監督は根本的に叩き潰して優勝に導いた。
コーポレート・カルチュアを変えてしまったから阪神は強くなった。
もう、何十年も前の阪神に戻ったのである。
もう一度、吉田監督の話。
「次、阪神は何時優勝すると思います?
20年後?
きつい事言わはるナァ。」
阪神は、コーポレート・カルチュアを変えて、開かれたコーポレート・ガヴァナンスを志向し始めた。
そして、楽天やソフト・バンクが、球界に活を入れる為に動き出した。
最先端を行く筈の総合メディア産業の読売が、負ける筈がなかろう。
日本選手が大リーグで活躍している。
日米の野球に技量や実力に差がなくなって来たのであろうか、差があるとすれば、ショウとしてのビジネス、客を魅了するビジネスの差であろうかと思う。
スーパースターが米国に行ってしまって空洞化すると言うのなら、セパの交流試合のように、日米の交流、乗り入れを行うべきである。
ヤンキースがシアトルへ行くのも、東京へ来るのもそれ程変わらない。
タカが野球ではない。
野球は、謂わば、文化文明の総てを凝縮したような総合産業であり、経営収支の向上を含めて最も経営学の手法を必要とし、また、活用できる事業であると思うのだが如何であろうか。
野球音痴の戯言が長くなってしまった。