日々是マーケティング

女性マーケターから見た日々の出来事

聴くスタイルの変化が、倒産を招いただけなのか?

2022-05-14 09:34:17 | ビジネス

日経新聞を含む全国各紙が、ONKYOの倒産を報じている。
ITMediaNEWS:オンキョー、自己破産を申請 負債総額は31億円「誠に申し訳なく心からおわび」

オンキョーという企業名を聞いて、オーディオ特にスピーカー等に強い企業である、ということを知っている方は50代以上なのでは?という気がしている。
いわゆる「ミニコンポ」と呼ばれる、オーディオシステムで音楽を楽しんだ世代以上でなくては、オンキョーという企業に馴染みがないと思うからだ。

オンキョーという企業は、ソニーやビクター(現JVC)のような規模の企業ではなかったが、その名の通りスピーカー等に関しては、価格と製品バランスがとても良い企業として、オーディオファン以外の人たちにも、人気のあるオーディオメーカーだった。
当時は、ソニーのウォークマン(カセットテープで聴くタイプ)で聴くために、ミニコンポでレコードをカセットテープに録音する、という作業を当たり前のようにしていた。
それが、CD全盛期となると、カセットテープに録音するという手間は省け、小型CDプレーヤーを持ちだすようになった。
とはいっても、CDプレーヤーそのものは、歩きながら聴くと音飛びが激しかったので、どちらかと言えば移動中のカーオーディオで聴いたり、自宅でゆっくりCDを聴く、というのが「音楽を聴く」一つのスタイルだったように思う。

それが大きく変わったのは、i Podが登場したころだろうか?
i Podを作ったアップルのスティーブ。ジョブス氏は、「ソニーのウォークマンのように、音を外えへ持ち出して聴く」ということアイディアとして持っていた、という話は有名だろう。
この「音楽をもって出かける」という、音楽を聴くスタイルを作り上げたのは、ソニーのウォークマンだった。
そのウォークマンにITの技術が加わり、より身軽にミニコンポ等を必要とせずに、もっと手軽に音楽を楽しめるようになったのだ。
その利便性に、より拍車をかけたのがスマホ等からダウンロードというサービスが始まり、サブスクと呼ばれる「定額制」が一般化することで、音楽を聴くスタイルだけではなく、リスナー側にとっても大きな変化が生まれたように感じている。

もちろん、日本の場合は住宅事情という最大の問題がある。
自由に自分の好きな時に音楽を聴きたくても、ご近所に配慮する必要がある。
でなくては「騒音」として、「ご近所迷惑をかけている家」と認定されてしまうからだ。
戸建てが主流であった時代はまだしも、今のように集合住宅が「住まいのスタンダード」のようになると、「音楽ファンの為の防音室があるマンション」が必要となってくるのだが、そのようなマンションは「音楽を演奏する人の為」という注釈付きでなければ、一般の人が出会うような物件ではない。

このような生活状況になればなるほど、スピーカーという音響システムはその性能や技術等とは別に、市場そのものがニッチになってしまう。
一方、イヤフォンの進化により、「Dolby Atoms」のような全方向から音が降り注ぐような聴こえ方ができるようになっている、と言われている。
このような状況になればなるほど、スピーカーに強みを持っていたオンキョー等は、経営が厳しくなってしまったのだろう。
だからと言って、オンキョーが企業として磨きをかけ続けてきた「音響技術」を失ってしまうのは、もったいない。

上述したように、マンションの1室に「自分の趣味のための部屋」が欲しい人たちのための音響システムとして提供できるようなコトもできるかもしれない。
「聴こえ」という点に特化することで、イヤフォンの中でも聴覚障害のある人たちの為の「補聴器」等への技術転用等も考えるコトができるのではないだろうか?
そのような支援が得られることを、願っている。


日本のグリーンエネルギーの転換期となるのか?銀行が参入するエネルギー事業

2022-05-12 20:26:36 | ビジネス

日経新聞のWebサイトに、興味惹かれる記事があった。
日経新聞:山陰合同銀行、再生エネ発電の先進地へ 電力参入を発表

日本の場合、再生エネルギーというと最初に思い浮かぶのは「太陽光発電」なのだと思う。
その次が「風力発電」だろうか?
最近では、「太陽光発電」から「洋上風力発電」へ変わりつつあるのでは?という気がするくらい、商社等が「洋上風力発電」へ参入する記事を見かけるコトが多くなったような気がしている。

とはいうものの、本当に「洋上風力発電」が日本の気候風土に向いているのか?という、疑問を持っている。
というのも、年々襲来する「大型台風」が増えているからだ。
これまで海外を含めて「洋上風力発電」の成功事例として挙げられる地域の多くは、日本のような台風が襲来する国ではない。
もちろん、日本で「洋上風力発電」を設置するのであれば、当然環境アセスや気象条件等を十二分に検討をして、設置計画を立てるとは思うのだが、その思惑通りになるのか?という、疑問を持っている、ということなのだ。

「太陽光発電」の場合、耕作放棄地のようなところに建設をする、というのは一つの案として定着している。
実際、実家のある米子に帰省する度にその道中で見かける「太陽光発電パネル」は、年々増えているような気がする。
その意味では「エネルギーの地産地消」向きのエネルギーだともいえるのだが、グリーエネルギー先進地を目指すのであれば、違うアプローチも検討するべきではないだろうか?

例えば、境港のような「魚加工場」が多い地域では、魚の加工途中で廃棄されるものの処理が必要となる。
この処理において発生するのが、メタンガスであったりアンモニアであったりするはずだ。
これらの処理途中で発生するメタンガスを使って、小型火力発電を設置するとか、アンモニアを取り出すことができれば、それこそ大きなエネルギー産業になる、と言われている。
科学技術振興機構:アンモニアを燃やして発電

地方の銀行が参入するにはハードルが高いかもしれないが、資源となるモノはすでに身近にあるのだ。
既にあるような「再生エネルギー」を中心に考えるだけでは、先進地とはならない。
他にも山間地区における「小型水力発電」等、複数のグリーンエネルギーを組み合わせるコトで、安定的な「エネルギーの地産地消」を目指すことの方が重要なのではないだろうか?
少なくとも、「耕作放棄地で太陽光発電」というアイディアだけでは、早晩行き詰ってしまうのでは?と、懸念するのだ。


「銀座」というブランド力

2022-05-10 22:41:19 | マーケティング

毎日新聞のWebサイトに、「銀座」について興味深い記事があった。
毎日新聞:プラダの前にワークマン 低価格帯店舗続出 変わる銀座に戸惑いも

「コロナ禍」になる前から、久しく東京の銀座に行っていないので、今の状況といわれてもよくわからないというのが、本当のところだ。
ただ、私が10年くらい前に行った銀座でも、随分雰囲気が変わってきたな~という印象があった。
当時は、中国からの観光客が大手を振って銀座の高級ブランド店で、買い物をする光景が見られた。
私の知っている、「日本で一番おしゃれな文化を発信している」という雰囲気はなくなっていた。
最も私が「日本で一番おしゃれな文化を発信している」というのは、単なる「銀座」という土地の名前が持つブランド力によるイメージだったのかもしれない。
それでも、銀座に立ち寄ると上野や新宿などとは全く違う「街の風情」のようなものが、感じられた。
それが、一遍して「ブランド品爆買いの街」のように見えた時には、ショックだった。

もしかしたら、そのころから「銀座」という街のイメージが、変わり始めていたのかもしれない。
それが「コロナ禍」によって、海外からの「爆買い観光客」が来なくなり、代わりに「銀座」に登場したのが低価格帯店舗のように思えてくる。
このような傾向は、「銀座」だけではなく、私が住んでいる名古屋でも見られる。
「人が集まるところから、高級ファッションブランド店が撤退し、低価格帯店舗が進出をする」という傾向だ。

記事を読むと、「銀座」に出展する、低価格帯店舗の経営側は「いつか銀座に出店したい」という、「夢」を持っいらっしゃったようだ。
それだけ「銀座」という「街のブランド力」があり、魅力的であったということだと思う。
そのような場所に出店する、ということは誇らしいコトであり、それだけの経営基盤を含め力をつけてきた、ということにもなる。
企業としての「ブランド価値」等も上がるだろう。

だが「銀座」という「地名のブランド力」は、どうなってしまうのだろう?
実は、「銀座で爆買いをする中国人観光客」の姿を見るようになってから、「銀座」という街の魅力があまり感じられなくなってしまったのだ。
その理由は、上述した通り「日本で一番おしゃれな文化を発信する街」という、自分が持っている「銀座」という場所のイメージが変わってしまい、「銀座で買い物をしなくてもいいや」と、思うようになってしまったのだ。
もちろん、文房具の伊東屋のように、銀座に行かなくては変えないお店には行きたいと思うのだが、銀座通りを歩きたい(=銀ブラをしたい)という気分が失せたようなのだ。

企業の戦略として、「夢であった場所に進出する」ということは間違ってはいない。
それだけの採算見込みができるだけの市場調査をしたうえで、経営判断がされたはずだからだ。
とすれば、「夢であった場所に進出する」だけではなく、低価格でありながらも銀座という場所にふさわしい何かをつくり上げていく必要がある、ということなのだと思う。

それぞれの場所には、その場所に在ったモノ・コトがある。
それを知らなくては、進出する意義そのものが無くなってしまう、ということも理解する必要があるように思うのだ。



「日本は存在せず」という衝撃度

2022-05-09 13:03:41 | ビジネス

日経新聞のWebサイトを見ていたら、相当センセーショナルな見出しがあった。
日経新聞:イーロン・マクス氏「日本はいずれ存在せず」出生率低下に警告

以前からE・マスク氏の発言は、ややもすると過激な内容が少なくなかったように思うのだが、さすがに「日本は存在せず」という言葉は、センセーショナルな印象を与える。
そしてこの発言は、先日自身が買収をしたTwitterでされていた、という点から考えると、マスク氏自身のもので間違いないだろう。

tweetした内容を見ると、今現在の日本の人口問題にかかわる内容である、ということが分かる。
マスク氏が指摘しているのは、単純な「出生率と死亡率」のことだけを言っているのではない、ということもわかるはずだ。
マスク氏が指摘しているのは
①死亡率が出生率を上回る事で起きる、人口の減少=市場規模の縮小
②労働人口の激減
③労働人口の激減による、日本の生産性の低下(今でも日本はOECD諸国の中でも生産性に関しては低いという指摘があるのは、ご存じの通りだ)
④現役世代に対する社会保障費の負担増(=現役世代の可処分所得の減少)
⑤国だけではなく国民全体に及ぶ経済力の低下
という、全体の指摘をしているのだ。

2000年代初め、BRICsともてはやされた「ブラジル・ロシア・インド・中国」というこれらの国に共通しているのは、「人口の増加」という側面もあった。
もちろん、豊富な地下資源による急激な経済発展、ということもあったはずだが、「人口の増加=市場規模の拡大」という点も含まれていたからだ。
「人口の減少」は「経済の失速」の要因の一つとして考えられるのは、上述しているように「市場規模の縮小」ということにつながっていく問題だからだ。
そのことをマスク氏は、懸念材料として挙げているのだ。

とすると解決策として真っ先に考えられるのは、「出生率を上げる」ということになるはずだ。
数字上の出生率を上げるために必要なことは、「出産→子育て・教育」に十分な時間とお金がかけられるということは、誰でも想像できることだと思う。
今のように、政府が考える「モデル世帯」と大きくかけ離れている、という日本の家族構成を考えれば、「モデル世帯」そのものを見直さなくてはならない。
特に収入面で言うなら、「大企業の所得」を基に試算するということ自体、意味が無くなってきている。
何故なら、日本の労働人口の内、モデル企業として取り上げられる大企業に勤めている人たちは、ほんの一握りの人達だからだ。
現在のように、非正規雇用者が増えた状況では、「モデル収入」にもならない。

そのうえで「子育てがしやすい環境、学習塾に行かなくても良い教育環境」というものを考える必要がある。
今年の10月から、男性の育児休暇(「産後パパ育休」)が、施行される。
育児中の女性からは「育休という呼び名を変えて欲しい。育児休暇ではなく子育てという労働だ!」という言葉も聞かれる。
ネーミングも含め10年後、20年後の日本の在り方を言うものを考え、生活者の認識を変える政策や企業独自の対応策が求められるようになっている。
特に企業は積極的に対応し社内規とすることで、社会的企業価値そのものが上がる時代である、ということを強く認識して欲しい。






サービスは無料ではない

2022-05-08 22:27:28 | アラカルト

読売新聞のWebサイトに、あるBBQ場の記事が掲載されていた。
その読売新聞の記事を引用して、東洋経済が記事を書いている。
東洋経済:BBQスポット「飯能河原」が一部有料化で利用者激減

この有料化はあくまでも一時的な実証実験として行われたようだが、無料であった頃と比べると激減を通り越して閑古鳥が鳴くような状況になってしまったようだ。
だが、考えてみれば「どこかで何かの施設を利用する」ということは、それなりのコストがかかっているはずだ。
「無料で施設を利用する」ということは、「誰かにコスト負担を強いている」ということになる。
もちろん利用者側としては「河原」という場所を「施設」だと思っていないだろうし、「施設でもない場所を有料化するのは、おかしい」という、考え方もあるだろう。

だが、「その場所を利用した後、利用する前と同じ状態に戻して帰っているのか?」という問いに対しては、どのような答えをするのだろうか?
洋の東西を問わず、人の心理の中に「Not In My Backyard(=私の周りでなければ良い)」がある、といわれている。
また日本には「旅の恥は掻き捨て」という、諺もある。
ご存じのように、自分の生活圏以外で恥ずかしいコトをしても、恥だとは思わないコトを指している。
自分の生活圏外で、自分が自制心のない行動をしても、それを恥ずかしいとは思わないし、興味も関心もない、ということなのだ。
それが「無料」ということになると、自制心がないという範疇ではなく、傍若無人な行動へと発展する人達が少なからずいる、ということなのだ。

それが「有料」という、費用が発生することで「その場所が自分の場所」という意識への転換であり「自由気ままにふるまえない」という、コトにつながっているのでは?と、いう気がする。
上述したように、「人が行動をする」ということの中に「何かを利用する」ということが含まれている。
自家用車に乗る為には、自動車免許が必要だがほかにも自家用車を利用するための費用がそれなりにかかる。
それはごく当たり前の生活をする中でも電気料金やガス・上下水道代といった「生活に必要最低限の費用」が発生するのは、それらを利用するために発生する費用である、ということでもある。

一方「サービス」という言葉がある。
上述した「生活に必要最低限の費用」は、全て「サービス業」によって行われているものだが、中には「無料=サービス」という意識を持っているものもある。
これまでスーパーで買い物をしたときに使われていた「店名入りのレジ袋」等は、その一つだろう。
だが「無料」であったのには、理由がある。
「店名入りレジ袋」を提供していた理由は「お店の広告」を兼ねていたからだ。
「店名入りレジ袋」を持って歩く、ということ自体が「お店の宣伝になる」という、考えが企業側にあったからこそ「無料」であった、ということに他ならない。
「サービス」といっても、必ず何等かのコストが発生していて、その目的によって生活者に「無料」として提供されていた、ということに過ぎないのだ。
それを「サービス」という言葉によって、「無料」だと思い込み「サービス=無料」だと認識をしている人たちが、日本には多いように感じている。

「無料」という言葉には、「誰かが、何等かの目的をもって費用負担をしている」と考えると、BBQ場にはどのような費用が発生し、誰がその費用を負担しているのか?ということを、利用者は考える必要があると思う。
自分が住んでいない自治体が負担している、とすれば「自分には関係がない」のではなく、「自分が住んでいない自治体に負担させている」と、考えるべきで、その負担はその自治体に住んでいる人たちがしている、ということでもある。
違う言い方をするなら「お邪魔させていただいている」ということになるのだ。
とすれば、当然それなりの「お邪魔させていただく為の負担」はする必要はあるだろう。

「サービスが悪くなった」のではなく、「コスト負担に相当したことを提供している」ということを、社会全体が理解すべき時期にきていると思うのだ。





マスクを外すきっかけは、いつなのだろう

2022-05-07 20:57:03 | 徒然

5月に入り、汗ばむ陽気になってきた。
「コロナ禍」になってから、5月からの暑さにマスクの生活が耐えられず、世間の冷ややかなそして反社会的な存在のような視線を浴びせられながらも、ソーシャルディスタンスが保たれている戸外ではマスクを外すようにしている。
というのも、「マスクで熱中症」になったことがあるからだ。
今でも、「マスク頭痛」という状態に陥りやすいので、一人でいる時はマスクを外すようにしている。

「慣れですよ」といわれるのだが、この2年以上「マスク生活に慣れる」ということはなかった。
現実には「マスク生活に慣れている」という方のほうが、世間では圧倒的に多いようだ。
中には、「顔の表情が悟られないので、便利」という方もいらっしゃる。
読売新聞:素顔見せるのが恥ずかしい・感情を悟られにくい・・・すっかり定着した「マスク生活」

「マスク生活」が当たり前になり始めた頃から、「素顔を見せるのが恥ずかしい。マスクは顔パンツだ!」と言った方がいらっしゃったように記憶している。
読売新聞:マスクの「顔パンツ」化を考える

その表現の面白さに、「座布団1枚!」と言ってしまいそうになった。
ただ、このような「マスクをすることによって、感情を悟られたくない」という人たちは、「コロナ禍」になる前から一定数いらっしゃったはずだ。
「夏でもマスクをする若者」という記事を、「コロナ禍」になる数年前に読んだことがある。
理由は「自分の感情を周囲に、知られたくない」というものだったと思う。
考えてみれば、日本の文化には「口を隠す」という仕草が、昔からあった。
それが「奥ゆかしさ」と、受け止められていたからだ。
「物語絵巻」の中にも、口元を扇子で隠す女性たちの姿が、描かれている。
最も、この時代は直接話をする関係は、家族くらいで男女の仲の始まりは「和歌の交換」からだった。
姿も見えない相手に、和歌を送り自分の気持ちを伝える、というところから恋愛がスタートしていたのだ。

そう考えると、日本人の「マスク好き」は、日本文化と深くかかわっているのでは?と、思ってしまう。
ただ、平安時代と今とでは、社会状況が全く違う。
それだけではなく、物語絵巻に登場するのは帝を頂点とした貴族だ。
おそらく庶民は、扇子で顔を隠しながら話すようなコトはなく、大らかに笑い、話をしていたのでは?と、想像している。
逆に「口元を隠す」ような人は、信用できないと思われていたかもしれない。
確かに「目は口ほどにものを言う」という諺があるが、今の若者には「口ほどにものをいう目」の表情があるのだろうか?
むしろ「表情を隠す」コトによって、リアルな生活の中での自分の存在を消しているようにも感じるのだ。
自分の存在を消すことで、「いじめにあわない」とか「諍いから逃れられる」という、ネガティブな理由のほうが大きいのでは?

それが「同調圧力」となった社会は、果たして健全なのだろうか?
自分の表情が悟られないコトで、潜在意識下で感じている「孤独感」は強いのではないだろうか?
私のような「マスク頭痛」のようなわかりやすさとは別に、このような「孤独感」から起きるコミュニティーの崩壊のリスク等にも、目を向ける時期にきているのではないだろうか?
何より「同調圧力」によって生まれる、「全体主義的思考」の広がりは、健全な社会とは言えないと思うのだ。

政府は、6月から海外の団体旅行客の受け入れを検討している、と昨夜のニュースにあった。
とすれば、昨日エントリしたように、海外からの観光客を受け入れる時が、マスクを外すきっかけとなれば良いのだが・・・。






GWが与える影響と変化

2022-05-06 20:00:36 | アラカルト

先月下旬のようなお天気から、「五月晴れ」という言葉が似合うようなお天気のGW後半だった。
この陽気に誘われるように、観光地では久しぶりの人出となったようだ。
ニュースでは、「博多どんたく」等「コロナ禍」で開催されなかった、お祭りも今年は開催されたところも多く、随分にぎわってたというニュースも見た。
「自粛」という名の行動制限が無くなったGW、ということが多くの人を観光地へと向かわせたのだろう。
それを考えると、相当な予算を組み込んだ「Go To キャンペーン」等、必要なかったのでは?という気さえしてくる。

とは言え「コロナ禍」であることには変わりなく、全国的に感染者数が減っているとはいえ、国からは「安全宣言」のような、安心材料となる発表はされてはいない。
いないどころか、GW前には医師会の会長さんが「マスクを外す生活は当面やってこない」という趣旨の話をされていた。
朝日新聞:「マスク外す時期来ない」日医会長、ウィズコロナで欧米との違い強調

この発言に関しては、ネット上様々な反応があったが、多くの人たちは「会食をしていた人に言われたくない」という内容だったように思う。
説得材料となるには、まずご自身の行動から見直したうえで、説得しなくては理解は得られない、ということを良く表している。
ただGWの人の移動状況を見ていると、今後2週間以内の感染者数に状況によって、随分変わってくるのでは?という気がしている。
事実、政府は海外からの観光客の受け入れを6月から再開することを検討しているようだ。
日経新聞:新型コロナ 外国人観光客、6月にも入国再開 まず団体客で政府検討

とすれば、6月が「マスクを外す」チャンスかもしれない。
何故なら、欧米諸国ではすでにマスクを外す生活が戻ってきており、そのような生活圏の人たちを観光客として受け入れるのであれば、日本国内の移動についても「マスクをしてください」とは、言いづらい状況になるのでは?と、考えられるからだ。
海外からの観光客は「マスク無しOK」で、日本国内の生活者には「今後ともマスクの着用をお願いしたい」というのであれば、整合性がない、ということになってしまう。
日医会長の「マスクを外す時期来ない」という発言も、撤回しなくてはいけなくなる。

他にも政府肝いりの「新型コロナウイルス接触確認アプリ・COCOA」等の運用も見直す必要があるだろう。
というよりも、「COCOA」をスマホにインストールし、どれだけ正確な「接触確認」ができたのか?検証すべき時期に来ているのでは?
今回のGW後の感染者数、重症患者数等によって、「コロナ禍」以前に近い生活が戻ってくるのでは?という期待とともに、「マスク着用」等を推奨した「新しい生活スタイル」そのものの見直しのチャンスはこの機会しかないような気がしている。

「感染が怖いから」と、今と同じ「新しい生活スタイル」を続けていくことが、果たして生活者にとって良いのか?ということを、考える時が来ているような気がする。


時代の変化に、広告はあっているのか?

2022-05-04 11:41:11 | マーケティング

朝日新聞のWebサイトに、広告表現についての記事があった。
朝日新聞:子育て=女性?広告に根強い固定観念、消えるには 消費者は変化も (有料会員記事)

この調査を行ったのは、広告代理店ではなく、広告写真等を提供する会社だ。
広告写真というのは、特定の広告の為に撮影された写真ではなく、1ショット〇〇円という価格で写真を提供してくれる、いわば広告向け写真をストックしている企業だ。
「ストックしている写真=商品」ということになる。
大企業が打つ広告と違い、現実的な要素の強い広告で使われる、ということにもなるはずだ。
だからこそ、使われる写真の動向で「広告表現の変化」というモノを、調査(=市場調査)をする必要があったのだろう。

バブルの頃、広告業界はどこか浮足立っていたようなところがあった。
当時の広告の企画というのは「今の生活者より1歩夢を感じさせられるもの」という内容が、多かった。
実際、私自身もそのような要素の広告の企画を作った経験がある。
それはファッション誌等でも同じだった。
特に女性ファッション誌に登場する読者モデルは、東京の高級住宅地に住んでいるマダムや女子大学生で、持っているバッグや靴等も有名な海外のファッションブランドの物だった。
実際の読者は、そのようなマダムや女子大生ではなく、そのような「生活に憧れを抱くマダムや女子大生」であった。
逆に言えば、そのような読者層だということを理解した上で、「ワンランク上のおしゃれな生活」のようなモノを紙面展開していたのだ。
当時のファッション誌が、様々な商品の販促的役割を担っていたという点を考えれば、当然広告もそのようなモノになっていく、ということになる。

しかし、バブル経済が崩壊し30年以上経った今でも、日本の経済は上向きとなる雰囲気がない。
「コロナ禍」になってから、後退しているのでは?と、感じられている方のほうが多いかもしれない。
それは「先の見えぬ不安」という現状が大きく関わっていると、考えられる。
その一方で、大きな社会変化となっているのが「女性の社会進出」だろう。
今や「共稼ぎ」は当たり前となり、「専業主婦」という言葉は死語に近い存在かもしれない。
経済的理由で「共稼ぎ」を選んでいるとは限らないが、女性が仕事を持つことが当たり前の社会になっている、というのは事実だ。

反面、今でも女性の「社会的役割」の一つとして、「家事・子育て・介護」が期待されている。
仕事をし、帰宅後「家事・子育て・介護」等を一人でこなす等、スーパーウーマンでない限り無理なのだが、いまだにそれを期待している、というのが日本の潜在的意識だということになるだろう。

とすれば、広告そのものがリードをするようなカタチで、「新しいくらし」を表現していくということもまた、大切なことだろう。
車のCMで、運転者だけがシートベルトをしていたのが、法改正により助手席もするようになり、今では後部座席もシートベルトをしたCM映像になっている。
このような「何気ないくらしの風景の中」に、「新しいくらし」の表現をすることで、潜在的意識を変えていくという役割もまた、広告(表現)はになっているのだ。




なって

いる。

結婚後、家計の為に自分が働く必要がないくらいの経済力を持っている相手との結婚、ということを意味しているからだ。


テキストに従うのではなく、テキストから考えるコトのほうが大切かもしれない

2022-05-02 16:49:45 | ビジネス

和楽Webを見ていたら、面白い記事があった。
和楽Web:日本の離乳食は「超丁寧」だった。海外から学ぶ、気軽な離乳食の進め方

拙ブログに来られる方の多くは、男性だと思われるので「離乳食」そのものに興味がないと思う。
「離乳食」に限らず、育児全般に関してどれだけ実践をされているのか?という点で、「育児をしたいが、現実は難しい」という状況にある育児パパも数多いのではないだろうか?
実際、日本の男性の「育児休暇」の取得率はとても低い。
低い理由について、あれこれ述べる必要はないと思う。
日本の社会全体が「育児の中心は女性」という意識が強い為、「育児の中心は女性」ということになっているのでは?
そのことを云々する気はない。
それぞれの家庭の事情が違う為、声高に「男性も育児参加!」といったところで、現実が許さないという状況と潜在的社会意識を変えなくては難しいだろう、と考えている。

今回この記事を取り上げたのは、「離乳食」という切り口から諸外国との比較の違いから、「何を変えなくてはいけないのか?」という点だ。
記事にあるように、日本の育児書はこと細かく子どもの成長に合わせたknow-howやhow-toのようなモノが、書かれているコトが多い。
育児経験はなくとも、育児経験のある友人たちとの会話から、そのようなことを実感することも多々あった。
育児書に書かれているコトが、標準的な成長でそれ以外だと成長が遅れているのでは?とか、自分の子育てに問題があるのでは?と、不安になる新米ママも数多くいるのだ。
そこに、実母や義母から「自分の頃は、〇〇だった」という、助言まで入ってくる。
しかもその助言が、事細かな内容であれば、実践経験があるということも含め、忠実にしなくてはならないという思考に陥りやすい、というのも日本の子育て環境なのでは?という、指摘をしている記事のように読めるのだ。

そしてこのような状況は、何かに似ているのでは?という気がしたのだ。
それは、「成功ビジネス本に翻弄されるビジネスマンの姿」と重なるような気がしたのだ。
本来であれば、ビジネス本を読んで「自分ならどうするのか?」と、考えるコトのほうが重要なはずなのに、書かれているknow-howを忠実に行えば、自分でも成功するという、思い込みだ。
まして、相手はhow-toやknow-howで通用する相手ではない。
何故なら、相手は「人」だからだ。
how-toやknow-howは、技術的なモノであって「道具の一つ」でしかない。
「アイディアの道具」といえば、わかりやすいかもしれない。
「育児書」をテキストだと考えれば、「テキストに従う」のではなく「テキストから自分ならと考える」コトで、その考える幅は広がっていく。
決めごとを少し減らすことで、見えてくる様々なモノ・コトがあるのだ。

おそらくこの「海外の育児」を知る事は、自分が知らない方法を教えてくれるというよりも、「もっと大らかに考えましょう」ということを示唆してくれているのだと思う。
同様に、ビジネスの世界でも「ビジネスの基礎知識」となる大地は必要だが、「know-howやhow-toというテキスト」に縛られるのではなく、そこから「自分ならどうする?」という「考える種」だと考える必要があるのでは?