久しぶりにインフルエンザの予防接種をし、昨日から「副反応」で、体調不良に陥ってしまった。
予防接種を毎年のように受けていれば、これほど酷い「副反応」は起きなかったと思うのだが、致し方ない。
そんな体調不良の中、フッと目に留まったCMがある。
ナイキの「動かしつづける。自分を。未来を。The Future Isn's Waiting. Nike」という、CMだ。
ナイキは、過去にも「スポーツを通して様々な問題提起をするCM」を制作してきた。
昨年は「Dream Crazier」というテーマで、「性差によるスポーツの壁」を壊してきた女性たちの姿を取り上げてきた。
それは社会にある、「差別」ということにもつながる。
今回ナイキジャパンが制作した「動かしつづける、自分を、未来を。」という内容のCMは、私たち日本人の中に潜んでいる「ナショナリズムあるいは同調圧力」をえぐり出しているような気がするのだ。
肌の色、国籍はもちろん、学校という社会の中で求められる「同化性」のようなモノに対して、「それでいいの?」と問いかけているようにも思える。
と同時に、最近聞かれるようになった「マウント」という行為の、醜さも伝えているようにも感じている。
スポーツの世界でいうなら、世界で活躍をしている女子テニスプレーヤーの大阪なおみ選手やNBLで活躍をしている八村塁選手のように、一見日本人とは思えない風貌の選手であっても日本人プレーヤーとして活躍をしている、と知ると私たちは心躍るような感覚を持つことがある。
八村選手のように、子どもの頃から日本で生活をしバスケットという才を磨いて、NBLのスカウトの目に留まるまでどのような苦労があったのだろうか?ということには、思いをはせることはほとんどないのでは?
そこには「大阪選手や八村選手が、日本人である」という、自分とは関係がないのに一種の「ナショナリズム」という思考の中で、誇りに感じているに過ぎないのではないだろうか?
上述したように、最近「マウントする(あるいは「マウントを取る」)」という言葉を、聞くことが多くなったような気がする。
「マウントする」というのは、サルの「マウンティング」と呼ばれる行動からきているのだと思うのだが、一つでも話し相手などよりも優れている何かを発見すると、優れていることを理由に「相手を下に見て、自分の優れていることを周囲にアピールする」という行為のようだ。
厄介なことに、親や配偶者の経済力のように自分本来とは関係のない要素で、優位に立ちたい=マウントしたい、という人達も見受けられる。
このような「他者と自分を比較し、上下関係をつくろう」とする気持ちこそ、卑しいと思うのだがその卑しい行為が、一つの自慢行為のように勘違いをするような人たちが、表立って増えているような気がする。
そしてそのような行為をする人達が最初に目をつけるのが、容姿であったり国籍であったりするのだ。
そんな「マウントされる側」の少女たちの姿を通して、「自分らしく立ち上がる」大切さをこのナイキのCMは表現していると思う。
「マウントされる側」の人たちへのエールでもあり、「マウントする側」への痛烈な批判でもあるようにも思えるのだ。
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