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ぽかぽか春庭「2018年11月目次」

2018-11-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20181129
ぽかぽか春庭>2018年11月目次

1101 ぽかぽか春庭アーカイブ>(こ)幸田文『えぞ松の更新』
1103 (く)串田孫一『光と翳の領域』
1103 (こ)小林秀雄『ランボオ(作家の顔)』
1106 (さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』
1108 (し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』
1110 (す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』
1111 (せ)瀬戸内寂聴『余白の春』
1113 (そ)曽野綾子『誰のために愛するか』
1115 (た)高橋和己『日本の悪霊』
1117 (た)高橋たか子『ロンリーウーマン』
1118 (ち)千野栄一『言語学の散歩』
1120 (つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』
1122 (つ)津島佑子『寵児』
1124 (て)寺山修司『花粉航海』
1125 (と)徳富蘆花「自然と人生」

1127 春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(1)京都旅行日程
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ぽかぽか春庭・京都ほんのり秋色「旅行日程」

2018-11-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

修学院離宮の一枝

20181127
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記京都ほんのり秋色(1)旅行日程

 仕事で海外に赴任したことはあっても、個人の旅行で1週間以上家を空けたことはなかった春庭。今回生まれて初めて、12日間という国内ひとり旅をしてきました。たぶん、いままでで一番長いひとり旅です。

・10月24日(水)
 午前1コマ午後1コマの授業をこなして、大急ぎで家に戻りました。衣類を詰め込んだキャリーバックを宅配便で宿泊予定のホテルに送り、リュックサック背負い、大きなバッグ肩にかけて、夜行高速バス出発地の池袋に向かいました。東池袋について改札でたら、持病の薬を入れ忘れたことに気づき、家まで取りにいくことに。往復1時間の無駄。
 それでも、バスには間に合い、夜10時発、京都行き。2度目の夜行バス利用ですが、前回は10年も前のこと。それでも今回は、女性専用バスでトイレもあったので安心して乗り込みました。

 往復夜行バス、宿泊は前半カプセルホテル、後半友人宅。という節約旅行。京都在住中の友人は「1DKですが、37平米ですから、けっこう広いです。全日程泊まってもいいのに」と言ってくれましたが、さすがに12日間の長逗留は遠慮に思い、前半はカプセルホテル。
 生まれてはじめてカプセルホテルを利用しましたが、思ったよりは快適でした。

 一応の計画は立てましたが、そこは個人旅行の気楽さ、毎朝、「さて、今日はどこを回ろうか」と思案する、行き当たりばっ旅。旅のテーマは「庭園、建物、工芸」です。
 一応の計画とは、宮内庁に見学申し込みをしておいた修学院離宮と桂離宮。個人住宅の公開で申し込みが必要だった聴竹居の3か所。あとは、その日の思い付きで京都市内をめぐりました。

・10月25日(木)
 朝5時。京都駅着。5-6時京都駅内をうろうろ。荷物を預けるロッカーを探すのに手間取りました。
 朝ごはんは、駅前のなか卯で。京都駅八条口は何もないところで、マクドナルドもスタバも見当たらなくて、唯一24時間営業のなか卯が開いていました。
 なか卯は、朝ごはんを食べるという目的のほか、近代建築に詳しいyokoちゃんから「元富士ラビットビル」と聞いていたので、ごはんの前に、まだ薄暗い中、建物の外観写真をとりました。「旧富士ラビット」写真はのちほど紹介。

 9時-11時修学院離宮見学と休憩。12時-13時関西セミナーハウスで休憩 13-15時萬珠院見学 。15-16時京都造形芸術大学カフェで休憩。17時嵐山のカプセルホテル(2018年3月開業)にチェックイン

修学院離宮のほんのり秋


・10月26日(金)
 11-12時半大山崎駅下車。聴竹居(藤井厚二旧居)見学。13時-15時大山崎山荘美術館見学。大阪在住アントニオ兄と待ち合わせ。山荘内カフェでお茶、16-18時。

 兄に案内していただき、河原町の中華店東華菜館で中華と生ビール。兄と27日の約束をして別れ、18-19時先斗町あたりを一人散策。20時ホテル着。

 きのう宅配便で出したつもりのキャリーバッグが届いていませんでした。なんと私は、ホテル名を書いていなかった。でも、ホテルマンは同じ駅ビルの中にある宅配便集配所へ出向いてくれ、無事バッグを受け取りました。

・10月27日(土)
 10-12時左京区北白川駒井家住宅見学。13時、アントニオ兄と同志社学食でランチ。14-15時、アントニオ兄の案内で同志社大学内見学。15-16時半、河原町菊水でエビフライと生ビール。
 17-18時京都在住の友人ハンさんと娘のシンちゃんと菊水近くのフランソワ喫茶店でお茶。

・10月28日(日)
 11-14時ハンさんと大徳寺本坊と真珠庵見学。14時半。大徳寺前のそこしか開いていなかったうどん屋でニシンそば。15時半ホテルに戻る。
 16時半-20時半。ホテルのカフェコーナーで、ハンさんの紀要論文校正。論文査読締め切りが29日というので、なんとか査読に通る論文にしようと頑張りました。日本語教育の意欲的論文でしたが、やはりネイティブチェックは必要です。

・10月29日(月)
 月曜日は開いている施設が少ないけれど、哲学の道から白沙村荘へ。王朝継紙の展覧会見学。三条通りの近代建築を見ようと三条駅へ。見事に方向を間違えて、ま逆の東山駅方面へ歩いてしまう。ぶらぶらと買い物。柿渋染めの財布や船橋屋豆菓子など買う。
 東山駅近くの祇園饅頭工場の店(本店は祇園)で甘味3種類買ってホテルに戻りました。この店のすぐそばに並河靖三郎七宝記念館があることを確認したけれど、入館は16時半までだったので、あきらめて帰る。

・10月30日(火)
 朝早起きして南禅寺へ。だれもいない水路閣でゆったり写真撮影。9-11時半南禅寺本坊と南禅院、金地院の庭園見学。12-13時、南禅寺門前の湯豆腐店で昼食。
 14-15時、無鄰菴庭園見学。岡崎公園周辺をへんに遠回りして、近代美術館へ。藤田嗣治展をやっていたが、東京都美術館で見たあとなので、パス。通常展のみ、見ました。通常展にも京都近美所蔵の藤田嗣治の絵が数点ありました。18時ホテル着。

・10月31日(水)
 10-13時三条通り近代建築散歩。14-15時、一澤長三郎帆布店でトートバックを買う。15半-17時、長楽館(元村井タバコ王別邸)でハンさんシンちゃんと待ち合わせて、ゴージャスなアフタヌーンティ。シンちゃんは日本舞踊のお稽古があるので、お茶のあとすぐに帰宅。薄暗くなっていて、祇園閣は写真うまく取れませんでした。祇園会館までひとり散歩。

・11月1日(木)
 ホテルチェックアウト。荷物をホテルに預けて、嵯峨野めぐり。天龍寺庭園。竹林の道、大河内山荘庭園。渡月橋付近散歩。ハンさんの家へ。4日夜までハン宅宿泊。

・11月2日(金)
 ハンさんと龍谷大学、伝導院・西本願寺・東本願寺見学。伝導院近くの染工房「遊」見学。16時、祇園会館でぎおんをどり観覧。白川沿い散策。

・11月3日(土)
 ハンさんと桂川の岸辺散策、桂離宮見学。
 午後国際交流会館の異文化フェスティバル見学。シンちゃんはボランティアスタッフとして活躍したのち、打ち上げパーティへ。
 私とハンさんは、西京極駅近くの居酒屋で晩御飯。

桂離宮の秋色


・11月4日(日)
 京都国立博物館見学。三十三間堂。
 並河靖三郎記念館見学。
 一澤長三郎帆布店で娘希望のボストンバッグ買おうとしたが、希望した生成古典草花柄布地は品切れ、他の布にしてもボストンバッグは注文後3か月後のお渡し、というので、カタログだけもらう。

・11月5日(月)
 10-12時、松尾大社の重森三玲作庭の庭見学。
 京都外国語大学見学。大学学食でランチ。
 午後、東寺見学。修学旅行生がたくさんいました。

11月5日の東寺境内


17時、京都駅イオンモールでおみやげやお弁当を買う。九州黒毛和牛めしというのを買って、18時、私だけ急いで食べました。ハンさんと京都駅へ。ハンさんの見送りを受けて、バス停へ。

 インターネットチェックしたバス乗り場がまったく違うところだったので、あやうく乗り損ねるところでした。ようよう乗れましたが、来た時のバスに比べてグレードが低く、あまり寝ることができませんでした。

・11月6日(火)
 朝6時、新宿バスタ着。そのまま仕事先へ。夕方まで眠かった。

~~~~~~~~~~~
 という、京都旅行の建物紹介と庭園を、これから12月いっぱいと1月半ばくらいかかってゆるゆると紹介。自分のメモなので、食べたものやらの紹介のほうが多いかもしれませんが、庭園の写真、逐次アップしていきます。たくさん撮影したけれど、あまりきれいに取れていないのは、腕のせい&コンパクトカメラのせい。

 日常茶飯事をはさみつつの京都旅行の思い出、すでに記憶は薄れつつありますが、さらに耄碌してきたときに、ひとり旅を思い出すよすがとして。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(と)徳富蘆花「自然と人生」

2018-11-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181125
ぽかぽか春庭アーカイブ(と)徳富蘆花「自然と人生」

 2003年のアーカイブ再録です。

at 2003 10/16 11:08 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.22(と)徳富蘆花『自然と人生』

 詩歌を志す文人にとって、自然は「ネタモト」の大事な存在だったが、一般の生活者が「自然の美」や「自然との交歓」の効用に気づいたのは、明治以後だと言われている。
 自然と闘って生活しているほとんどの人にとって、「自然」とは、眺めて楽しむ以前に「食べ物の調達先」を意味した。風にゆれる穂波の美しさを眺めている暇があったら、今年の稲の作柄を心配しなければならなかったのである。

 物食うよりほかに楽しみがなかった我が父祖に、自然観賞の楽しみを教えてくれたのは、志賀重昂『日本風景論』であり、国木田独歩『武蔵野』であった。
 徳富蘆花『自然と人生』も、その一冊。

 蘆花の前書きにいわく。

 『昔賢猶自ら謙して吾は眞理の海の渚に貝を拾ふに過ぎずと云ひき。今予凡手凡眼、遽に見て急に寫せる寫生帖の幾葉を引ちぎりて即ち「自然と人生」と云ふは、僭越の罪固に(@)かれ難かるべし。讀者幸に恕せよ。』 (@)の文字、官にしんにょう。

 これを読ませても、日本人学生「イミ、ワカンネー」と言って放り出すだろう。熱心に辞書を引くのは、ジャパノロジー研究生、近代日本精神史専攻で論文を書こうとする留学生くらいだ。
 蘆花は『不如帰』の作家として有名。「明治文学史」が試験範囲になっている高校生には暗記マーカー赤丸の本だが、蘆花で卒論を書く人や近代文学を専攻する院生以外で、『不如帰』を原文で読んだ人がいたら、よほどの年寄りかマニア。
 「書名は有名だけど、だれも読む人がいない本」の中の一冊だ。
 私も、大山捨松に興味を持つまでは、「読む気もしない、古くさい本」と思っていた。

 継母(大山捨松がモデル)にいじめられた継娘波子が、結核に冒された胸を押さえながら「なんで人は死ぬのでしょう、千年も万年も生きたいわ」と涙で語ることばだけは、さまざまなパロディになって流布していたが。
 千年も万年も生きられない、限りある命をせいいっぱい謳歌するためにも、自然の中で楽しくすごしましょう!
 (大山捨松については、孫が『鹿鳴館の貴婦人』という伝記を書いています)

at 2003 10/16 11:08 編集  自然と人生
 結婚後東京に住んで20年になるが、生まれ育ちは田舎だから、緑が目に入らないと息苦しくなってくる。新鮮な空気と光と水。私も光合成していたい。
 自然とのふれあい交歓を生き甲斐とする人のサイトを発見するのも、ネットサーフィンの楽しみのひとつ。さまざまな自然、様々なふれあいがある。

 新潟市、78歳になる吉川百合子さん執筆の新聞投書(2003/09/30)より。
 百合子さんは、30キロの装具を背負い、台風の余波でうねる9月初めの佐渡の海でダイビングした。水深5メートルの海底を20分散歩したそうだ。
 「アジ、イカ、アメフラシなどの海中生物を見られて楽しかった」と書く百合子さん。すごいですね。78歳で挑戦するスキューバダイビング。

 海中散歩といえば、2003年9月初旬に101歳で亡くなったレニ・リーフェンシュタールも、70歳すぎてスキューバダイビングをはじめた人。
 戦前は、ベルリンオリンピック記録映画『意志の勝利』の監督として知られ、戦後は西アフリカのヌバ族を記録した『NUBA』の写真家として復活したレニ。
 70歳すぎて始めたダイビングで、海中の美を追求し、たくさんの美しい海中写真を撮影した。

 自然大好きな私も、海に関しては、泳いだり眺めたりするだけ。潜るのはまったくできない。
 海の生物を楽しみたいときは、もっぱら水族館散歩。品川水族館、葛西臨海公園水族館、サンシャイン水族館へよく行く。鱗を銀色に輝かせて泳ぐ魚たちを見て、感激の第一声は、「うまそう!」
=======
2010/01/30
 自然とふれあう時間がないまま毎日殺伐とすごしています。ほととぎすの波子のように「千年も万年も生きたい」と思っているのに、どうにも干からびてしぼみそう。自然の中で生気をとりもどしたいです。

 せめてものうるおいとして、カフェIDmorinoseiさんの本を読み返しましょう。林業担い手がいないまま放置されていた森を買い集め、森林再生を「道楽」にして毎日をすごしているという記録です。
 藤澤和人『森の道楽・自分の森を探検する』
 こんなふうに自然の中で暮らせたらいいのだけれど。

~~~~~~~~~
20181125
 11月25日で新聞が報道するとしたら、三島由紀夫の命日、つまり市谷で切腹自殺した日。私はこの「三島事件」を、森田必勝を道連れにした「楯の会心中」と呼んでいます。三島ファンにとっては聖なる日であるこの日を、わざわざ「心中」という名にしているのはなぜか、というと、1970年当時、この日が三島の日になったことが嫌だったからです。

 11月25日は、亡き母の誕生日。ひとり静かに母の年なんぞ数えていたいのに、世間ではミシマミシマと姦しい日になって、嫌な気分でした。
 でも最近の三島事件分析では、三島の思想的な行動というより、文学上の行き詰まりや、三島の自己耽美傾向、男性との愛情関係の問題もからめて論じられることも増えて、かって右の人たちが「聖なる日」にして街角の街宣車から「三島先生の思想を受け継ぎ天皇をいただき、維新の実行を!」なんぞとがなりたてることもなくなってきました。

 三島は、榊山保という別名義でゲイ雑誌に発表した『愛の処刑』という小説に、切腹に対する官能的な嗜好を表明しています。至上の死とあこがれ続けた切腹を果たして、楯の会の中でもっとも目をかけた森田必勝が、ともに切腹することを承諾した喜びの中で命終わった三島の生涯は、幸福な一生だったろうと思います。唯一彼の生涯で不幸と思うのは、死の最後まで自分自身の性的傾向を表立って肯定することなく死んだこと。
 時代が違った、といえばそれまでですが、自分を肯定できないという自我は寂しいものです。

 2017年生まれの母が100歳を超えた今でも、11月25日になると母の年齢を数えずにはいられない精神の持ち主である私。そんなやわな自分自身を肯定しています。
~~~~~~~~

 春庭アーカイブの再録は、「あ~と」のあと、「な~ん」まで続きますが、いったんお休みします。
 京都旅行報告その他のあと、再録を続けます。2「003年春庭おい老い笈の小文」再開は、2019年1月後半になります。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(て)寺山修司

2018-11-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181124
ぽかぽか春庭アーカイブ>(て)寺山修司

 2003年のアーカイブ。1977年までに読んだ本を思い出しながらの自分語りです。

at 2003 10/14 06:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.21(て)寺山修司『句集 花粉航海』
 寺山修司の『花粉航海』初版は1975年深夜叢書社刊だが、2000年に角川春樹事務所から文庫が出た。
 47年の短い生涯の間に演劇、映画、詩、俳句、全方位の活躍をした寺山であるが、もっとも早く始めた活動は、中学時代からの俳句であった。



花粉>十五歳抱かれて花粉撒き散らす
   自らを清めたる手に花粉の罰

母 >蜂の巣の千の暗室母の情事
   母とわが髪からみあう秋の櫛
   出奔す母の白髪を地平とし

蝸牛>家負うて家に墜ち来ぬ蝸牛
   眼の上を這う蝸牛敗北し

夏> 蟻走る患者の影を出てもなお
   わが夏帽どこまで転べども故郷
 そこに見え遠き世にある団扇かな


 そして、1983年5月に47歳の生を閉じた寺山の人生を象徴する、句集『花粉航海』冒頭の一句。

五月>
目つむりてゐても吾を統ぶ五月の鷹

 私が23歳のとき、母が死んだ。母亡きあと「母が残した俳句を句集にまとめて、三回忌法事に出版する」という目標がなかったら、私は母のあとを追っていただろう。
 散逸した母の句を、新聞雑誌の投稿俳句欄に入選した句などから拾って、一句一句寄せ集めていく作業を続けて、ようやく「たとえ55年の短い生涯であっても、母にとっては、母なりの充実した人生であったのだ」と思えるようになった。
 母の残した俳句のおかげで、母亡き後の人生を生きることができたのだ。

at 2003 10/14 06:48 編集 「芭蕉の忌」五十代の死と早世について
 春庭は名前を本居春庭に借り、このコラムのタイトルを芭蕉の紀行文『笈の小文』に借りている。大それたことである。
 309年前(1694年)10月12日は、芭蕉が亡くなった日(ただし、旧暦だから、新暦に直すと、季節は11月の初め)。


 芭蕉が『笈の小文』の旅に出たのは、44歳のころ。
 旅立ちの送別会での句

 「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。
 この後も『更級紀行』『奥の細道』などの旅を続け、永遠の旅立ちとなったときは、51歳。
 辞世
旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る

 芭蕉というと、頭巾をかぶったおじいさんが、笈を背負い杖をついている旅姿を思い浮かべるが、旅を続けていた頃は、五十前だったのだ。
 人生五十年の時代には、五十代は老人であったが、現代は、「四十、五十は、鼻垂れ小僧」。私は、芭蕉の享年をすでにすぎてしまったが、まだまだ、ひよっこなのだ。

==========
2010/01/29

 冬のうた(ア行~マ行の頭韻遊びby春庭)
・老いの背に重さはおいおい増してきて笈の小文をしわぶきつつ負う
・きりきりと錬金術師は寒の日につららを明けの明星に刺す
・柵(しがらみ)のしがらむ岸に白々と霜を踏みつつ夜明けに向かう
・高らかな拍手に答えて真央は立つタチアナ・タラソワ体(たい)揺する前
・菜の花の沖なる波に鳴く鳰(にお)の濡れ羽に涙流して寝入る
・柞葉の(ははそはの)母の春待つ春庭は花満ちておらむ早よ来い春よ
・まっすぐに息子の眼(まなこ)は益荒男の真名古文書に真向かいて読む

~~~~~~~~~~~

20181124
 雑駁な日々、俳句あそびからも遠ざかっていました。
 20100129の頭韻あそび、なかなかおもしろいと思います。
 以下、2018年11月のあそび。
・京の宿で紀要論文校正すかっての教え子が書きし日本語
・終わりな老いの日々に逢う今日もまた明ければ朝の老いの始まり
・楓ひと葉くるくると舞いここに来い桂離宮の月見の台に
・つぎつぎに小さき蝶の形して散りぬるを手にとまれ銀杏葉

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(つ)津島佑子『寵児』

2018-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181122
ぽかぽか春庭アーカイブ>(つ)津島佑子『寵児』

 2003年の再録です。

at 2003 10/14 06:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.20(つ)津島佑子『寵児』
 津島佑子は、赤ん坊のときに39歳だった父を失った。佑子が1歳のとき、父太宰治は愛人と入水を遂げた。悲痛な思いに沈んだのは、夫の命を奪われた佑子の母美知子であり、佑子自身が、父の死を意識したのは、少女から作家へと成長する途上でのことであったろう。父の死の事情を知ったのは13歳のころであったと記している。

 祐子が38歳のときに、9歳だった息子を失っている。
 「大夢」と名付けた息子の成長は、佑子にとって文字通り「大きな夢」の存在であり、心の支えとなっていたと思う。その息子までが早世してしまった。

 私が最近読んだ津島佑子の作品は、読書遍歴を語った『快楽の本棚』。このあとがきでも津島は「ある不幸があり、40歳すぎの人生を余生のように感じていた」と、記している。息子の死の衝撃がいかに大きかったか察せられる。

 そんな過酷な運命を経て、津島の近作はますます凄みを増している。『火の山 山猿記』『笑いオオカミ』など。
 私が好きな作品は、娘との二人暮らしを連作短編として描いた『光の領分』、未婚の母として生きる女を描いた『山をかける女』など、比較的明るい感じのものだが、小説家としての津島の本分は、私には読みこなすのがむずかしい果てしなく深い作品群の中にあるのだろう。

 『寵児』は、離婚前後の津島が「想像妊娠」をキーワードにして「母、女、肉体」としての人間の存在をつきつめている作品。
 柄谷行人は『反文学論』の中で、『寵児』について、こう評している。。


 『「本当のわたし」なるものこそ冗談なのだ。アメリカのフェミニストの作家たちは、いわば「本当のわたし」があるかのように思いこんでいる。したがって、「母」や「女」を歴史的・社会的におしつけられた意味としてしりぞけ、「本当の生き方」を求めようとする。それはもう一つの「意味」にとらわれることでしかない。
 たとえば、愛は観念であり、確かなのは肉体だけだ、というような人がいる。だが、『寵児』の主人公は、”想像妊娠”をするではないか。いいかえれば、肉体そのものが観念的なのである。すると、人間の存在そのものが「冗談」であるというほかはない。』
 

 私は「日本語文法研究」を続けるより「母として生きる」ことを選んだ。語学教師として細々と日々のタツキを得ながら、「子供がすべったころんだの毎日」を生きてきた。
 そのこと自体に悔いはないが、子育て中の多くの若い母たちが「本当の自分」を探したい気分もまた、ようくわかる気がする。柄谷が『本当の生き方を求めようとするのは、もう一つの「意味」にとらわれることでしかない』と、言い切れるのは、柄谷が、すでに「自分の意味」の確立をなしえた男だからのような気がするのだが。

at 2003 10/14 06:48 編集
 2003/09/30付富岡多恵子のエッセイで、同時代に生き同時期に亡くなった西鶴と芭蕉にふれている。西鶴も芭蕉も50代での一期であった。富岡自身の50歳になった感慨を語り、今の時代、80歳で逝くとしても、西鶴のように52年の生涯を「我にはあまりたるに」と言って死ねるか、こころもとない、と結んでいる。

 母が55歳で、姉が54歳で亡くなったせいもあり、50歳すぎ、自分の老いと行く末を強く意識するようになった。
 家族の早世というのは、残された者にほんとうにつらく重いものを与える。私の母は心不全をインフルエンザと誤診されて、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診されての早世だった。
 家族が寿命を全うすることなく早世した場合、残された家族の悲痛の思いは計り知れない。しかし、私が生きて母と姉の思い出を語れるうちは、二人はこの世に生きている。思い出をできる限り長くとどめておくためにも、私は長生きをするぞ。

 何歳まで生きたとしても、果たして「我にはあまりたるに」と言えるかどうか。120歳まで生きたとしても、「まだまだ、、、」と、はいずり回っている気もする。
==========

2010/01/28
 天寿まっとうしての大往生なら、逝く人を愛してやまない家族も、さながらオリンピック行きの壮行会のように見送ることができる。
 三谷幸喜が、昨年末の祖母の大往生を描写している。三谷の母親たち、子にあたる人たちは順番に枕元でしみじみと思い出を語り、生んでもらい育ててもらった感謝を述べた。孫達は最初はしみじみ祖母と過ごした日々の思い出を話していたけれど、孫同士いとこ達の間でしだいに「いかにユニークな別れの言葉を述べるか合戦」のテイとなり、にぎやかに楽しく見送りをすませたのだと朝日新聞夕刊の連載エッセイに書いていた。

 それに比べて、寿命いきとどかず理不尽に家族を奪われた者にとって、何年経とうと別れに納得ができず、悲しみはあとを引く。津島佑子の息子大夢は、呼吸発作によって9歳で帰らぬ人となった。息子の成長をたのんできた母親にとってその悲しみはどれほどのものであったろうか。「夢の記録」などに津島佑子は息子を失った母の心を書いている。

 私が津島佑子を最初に読んだのは1979年発表の『光の領分』で、1978年発表の『寵児』を読んだのは、そのあとになる。1977年以前に読んだ本を並べるというコンセプトの「おい老い笈の小文」であったのだけれど、『寵児』はたぶん1980年以後に読んだはず。
 「女性が自分らしい生き方を探す」ということをようやく世間が認めるようになった時代となってきたころでした。

 私は1983年に娘を生んだ後、85年に国立大学に入学した。私立大学を卒業してから11年たった大学再入学だった。さび付いた頭をもう一度磨き直すのはたいへんでした。子育て家事をひとりでこなし日本語講師もして学校が休みの日には夫の会社を手伝いながらの勉学で、学部入学から大学院修了まで8年かかった。学部4年生のとき生まれた息子は今21歳になっています。
 私の在学中、学部3年生のとき日本語教育能力検定試験に合格して日本語教師を初めてから22年たちました。大学で留学生に教えるようになってから15年。日本人学生に日本語学日本語教育学を教えるようになってから10年。ほんとうに月日はあっというまに過ぎていくもんです。

 あれよあれよと言う間に過ぎる月日のなかで、何ということもできないまま、ただ、母や姉に呼びかけつつ生きてきました。母を思いだし姉とすごした日々を忘れないことが一番の供養と信じています。

~~~~~~~~~

20181115
 京都の神社、どこも七五三の宮参りをたくさん見かけました。11月15日の七五三参りの日よりも、11月中の祝日土日に家族そろってお参りする一家のほうが多いみたい。どの子どもたちもかわいらしく着飾って、男の子も女の子も、昔よりも着物姿が多いのは、レンタル着物店が増えたせいでしょう。子どもの成長を願う親心は昔も今も変わらないけれど、我が子に先立たれた親の気持ちもわかる年になって、よそ様の子どもでも、七五三を祝ってもらえる子の姿に、この先幸多かれと祈る気持ちで見てきました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』

2018-11-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181120
ぽかぽか春庭アーカイブ>(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』

 2003年のOCNカフェブログの再録を続けています。
~~~~~~~~
at 2003 10/13 09:12 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.19(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』
 唐十郎、鈴木忠志、寺山修司など、私が学生時代に見た「アングラ」は、私より少し上の世代の演劇人たち。つかこうへいが演劇界に登場し、怒濤の活躍を始めたとき、私は、国語教師兼演劇部顧問として中学生クラブ活動の世話で手一杯。自分の楽しみのために演劇を見る余裕はなかった。

 だから、つかの作品は、テレビで見たくらいで、リアルタイムで初演を見た作品はない。もっぱら小説作品を読むだけだった。
 つかの芝居をよく見たのは、息子が「つかこうへい劇団児童教室」に在籍して、「教室在籍児童保護者への招待券、割引券」などを使えたころのことである。『幕末純情伝』などを見に行った。この時は筧利夫が主演だった。

 初演から何年たっていても、つか作品は古びない。すごいな。もっとも、近松、シェークスピアは400年たっても古びないし、世阿弥は600年雅楽伎楽は1000年たっても古びない。
 年ごとに古びていく、我が顔の皺がうらめしい。

at 2003 10/13 09:12 編集 シルバー劇団
 映画『ぷりてぃうーまん』を見逃してしまった。淡路恵子主演『ぷりてぃうーまん』は、名古屋の実在の”おばあちゃん劇団”「ほのお」をモデルにした話。
 「ほのお」だけでなく、シルバー劇団で活躍している人、市民ミュージカルに参加する人など、演劇は老後の生き甲斐として、人気の高いものの一つ。私もやりたい。

 転職13回を数える私の職歴の中で、最も短い期間ではあったが、最も印象に残っている仕事は旅回り一座の役者。
 小学校を廻って、小学生にミュージカルを見せ、九州山陰を巡業した日々のこと。演じる場所は体育館、楽屋は体育館の道具置き場、という一座だった。

 一座の中で一番好きだった役者森下由美さんは、今も「だるま食堂」というコントトリオの一員として活躍している。
 由美さんは、1987年NHK新人演芸コンクールで優勝したあと、即席麺のCMに出演していた。持ちネタの「金髪女」の扮装でパレードカーから愛嬌をふりまく由美さんにテレビのこちらから声援をおくりました!
(だるま食堂ホームページはhttp://hw001.gate01.com/darumashokudou)
 由美さんは、本当にすぐれた才能と役者魂をもつ人だったが、私には、役者稼業もアフリカ縦断旅行の資金をかせぐためのアルバイトにすぎなかった。

 アルバイト気分で始めた仕事だったが、演劇に一生をかけている由美さんたちといっしょに日々を過ごし各地をまわるうち、一瞬一瞬が出会いであるということを教えられ、二時間の舞台を真剣勝負で生きることの真髄がわかった。「一期一会」の字句の意味が心身に染みた。

 たった半年足らずではあったが、「役者をして食べている」と言える生活をした思い出は、私の来し方の中で、誇りに思うことのひとつだ。
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2010/01/27
 女性3人組のコントトリオだるま食堂。コントライブ出演中心で、テレビに出ないので地味ですけれど、1987年、NHK新人演芸コンクールで優秀賞を受賞、テレビ朝日「テレビ演芸」10週勝ち抜きでデビュー。1990年代前半まで、舞台・TV・CM等で活躍。2005(平成17)年度、国立演芸場花形演芸会審査員特別賞受賞という、お笑い界では知る人ぞ知る森下由美さん。
 2009年5月10日に久しぶりのテレビ出演として「笑点」に出演したそうですが、私は中国滞在中だったので、見ることができませんでした。
 由美さん、これからもご活躍ください。

 2010年1月25日の報道によると、つかこうへいは、9月から肺ガンの治療を続けている。舞台の演出は、稽古のビデオを病室に持ち込んでダメ出しをしていたのだそう。劇団四季の浅利慶太1933年生まれ77歳、蜷川幸雄1935年生まれ76歳らに比べても、1948年生まれ61歳、演劇人としてはまだ若い。闘病たいへんでしょうが、応援しています。

 息子が児童教室でお世話になった御恩、忘れていません。北区つかこうへい劇団の団員さんたちに、演技やダンスの基本を教えてもらい、ひ弱な息子の小学校生活、なんとか無事に過ごすことができました。

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20181120
 日本のお笑いユニットとして、1987年結成以来31年の芸歴を持つ「だるま食堂」。
 テレビには出ず、小劇場でのお笑いライブのみなので、有名ではありませんが、ルーシー(本名:森下由美)ダイアナ(本名:星野理恵)の姉妹(昔、2卵生双子と聞いた気がする)とマリア(本名:さとうかずこ)のトリオのお笑い、末永く続けてほしいです。

 つかこうへい、2010年に亡くなったあとも、その作品は様々な形で上演が続いています。
 演劇鑑賞、私の趣味のひとつですが、今年も、「桜の園」をはじめ、いくつかの作品を見て楽しむことができました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(ち)千野栄一『言語学の散歩』

2018-11-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181118
ぽかぽか春庭アーカイブ(ち)千野栄一『言語学の散歩』

 2003年のアーカイブです。
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at 2003 10/12
春庭千日千冊 今日の一冊No.18(ち)千野栄一『言語学の散歩』
 『言語学の散歩』を読んだときには、ただただ、言葉というものの面白さを無心に楽しんだ。
 70年代はじめ、徳永康元に言語学を教わったとき、言語学とはなんて面白い学問なのだろうと思い、期末レポートとして「サピア・ウォーフの仮説」について書いた。徳永先生から優をもらった。
 しかし、言語学をやるためには、言語に強くなければならない。いかんせん、私は日本語以外のことばには、まったく弱かった。大林太良の神話学の方法でやろうとした卒論の『古事記』は大失敗作だった。

 千野栄一は、日本の中でも最も「言語に強い人」の一人。
 私が千野先生に言語学を教わっていた80年代後半、先生から「言語学徒、語源と学生に手をつけるな」「不倫と日本語起源論に嵌ったら命取り」と諭された。
 しかし、まもなく先生は離婚を成立させ、ふた回り年下の教え子と結婚!教え子に手をつけるな、という戒めは、先生自身にはあてはまらなかった。我々素人が手を染めたら泥沼になることだから、と諭してもらった訓戒だったが、先生にとっては逆転のレトリックなどお手のものであった!

 晩年をふたまわり年下の人を愛してすごすのは、男性だけではない。フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ、作家のマルグリット・デュラスなども、晩年を若い恋人と共にすごした。
 日本でも、漫才師の内海桂子師匠は、60代のとき20歳年下の方のファンレターから愛をはぐくみ、正式に結婚した。
 新婚をからかう若手漫才師の「師匠、夜のつとめは?」という質問に「そりゃあ、結婚したんですから」と自信たっぷりに答えて、からかいを堂々とかわしていた。
 散歩と雑学、そして晩年の恋!

at 2003 10/12 08:52 編集 散歩と雑学が好き!晩年の恋も好き
 現在の趣味で老後も続けようと思っているのは、散歩と自転車ポタリング。
 読書は趣味ではない。人が酸素を断たれると5分で死んでしまうように、水を断たれると1週間余で死んでしまうように、食を断たれると1ヶ月余で死んでしまうように、私にとって、読書は趣味ではなく、「活字を断たれたら死んでしまう」生きるための「絶対必要物」なのだ。

 小学校のころは、欠食児童のごとく、一日にルパンとホームズとベルヌを三冊読むというようなガツガツとかっ込む読書をしたが、今はさすがに「絶対必要物」の読書とは言っても、ぽっくりぽくぽく散歩を楽しむのと同じように、楽しくゆったり読むのが好き。
 「散歩と雑学」は、生きる糧。本を読み散らし、トリビア雑学を仕入れては孫に披露して「それ、トリビアの泉でやってた、もう知ってる」なんて、うるさがられる晩年もいい。
 しかるに「晩年は雑学蘊蓄」もいいけど「晩年の恋」のほうがもっといいですぞ、というご意見にも一票!です。
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2010/01/26
 2003年に、「晩年の恋」へ一票を投じたにもかかわらず、我が晩年にいっこうに一票は訪れず、老い花散らす夜半の風。
 ただし、樋口恵子が老残廃棄物の老夫を、妻にぺったり張り付いてうっとうしい「濡れ落ち葉」に例えたのに比べれば、我が家の落ち葉は、もともと張り付くこともなくフラフラと舞い上がっているばかりで、「存在の耐えられない軽さ」に満ちている。
 千野栄一の訳した『存在の耐えられない軽さ』は、集英社文庫。千野先生が2002年に亡くなったあと、千野亜矢子夫人はチェコ語講師の仕事やチェコ語翻訳を引き継いで、千野先生晩年の恋の実りを育んでいらっしゃる。

 内海桂子師匠は、米寿。今も24歳年下のご主人と仲良く仕事も家庭も共にすごしている。
 やっぱり晩年の恋に一票。 

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20181118

 晩年の恋、ねぇ。
 岸惠子も『わりなき恋』で、70代女性の老いらくの恋を描きました。岸惠子は80歳すぎても凛として美しいから恋にも縁があろうけれど、われら一般のバーサンは、整形外科のリハビリマッサージに通うくらいが外出の機会。我が区は都内でも高齢女性在住率が高く、どこへ行ってもバーサンだらけ。「オマエもナー」、はい、もちろん私も。

 内海桂子、96歳も74歳になるご主人(マネジャー)と仲良く仕事を続けています。すごいなあ。

 恋。私が好きになるのは、少年のような女の子と、女の子のような少年。今はバスケットボール選手渡嘉敷来夢(とかしきらむ1991~)がお気に入り。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』

2018-11-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181117
ぽかぽか春庭アーカイブ(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』

at 2003 10/11 09:42 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.17(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』
 高橋和己夫人、高橋たか子は、夫和己と共に文学活動を始めていたが、私が彼女を知ったのは「高橋和己の思い出」というような、「夫を語る未亡人」としてだった。
 夫と関係のない彼女自身の作品として読んだのは女流文学賞を受けた連作短編集『ロンリーウーマン』から。そのあと、『ロンリーウーマン』より前の『彼方の水音』『空の果てまで』へ戻り、『没落風景』『人形愛』へと読んでいった。

 たか子は、キリスト者となり、女の孤独と絶望を深い思いの底から描き出している。一番好きなのは『誘惑者』
 フランスへ行って修道女になってしまったときは驚いた。帰国後の作品は読んでいない。精神の高みへと登ろうとする高橋に対し、私は「精神のごみため」のような日常。
「ごみを捨てらず、ごみにまみれて暮らすおばあさん」が、時々テレビに映ったりする。我がロンリーウーマン暮らしは、ああなるかなぁ、と思って見ている。

at 2003 10/11 09:42 編集 ロンリーウーマン
 時々聞く、老人の孤独死ニュース。だれにも看取られず、気づかれず死んでいるお年寄りのニュースは胸にせまる。高齢者にとって、孤独は一番いやなもの、おそろしいものなのだろうか。

 友人の何人かは、自身の子育てや親の介護を卒業した後、ホームヘルパーの資格をとって、老人介護の専門家になっている。また、昔中学校で同僚だった友人は、民生委員になって、町内の老人宅を訪問している。彼女たちに話を聞く機会があると、孤独がどれほど老人たちの心をむしばみ、つらい思いにさせているか、ひしひしとわかる。
 確かに、老後を孤独で過ごすより、友人や孫子といっしょににぎやかに過ごせたら、こんなありがたいことはない。でも、私は「老い支度」のひとつとして、「孤独を楽しんですごす準備」も怠りなくレッスンしておきたい。

 大勢で楽しく過ごすことも必要だが、一人自分をみつめ、一人遊びもできるように。女の一人暮らしで、身ぎれいに、食生活もきちんとして、、、などなど思うのだが。
 今でも子どもたちが出かけていない日など、面倒くさくなると、昼も夜も同じTシャツとジャージですごし、スーパーで買ったおかずを食器に入れ替えるのさえせずに、パックのまま食べているのだから、「おしゃれで、かわいい生き生きしたおばあさん」になることは「夢」かもしれない。
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2010/01/25
 2009年の読書のひとつが上野千鶴子『おひとりさまの老後』であったことは、2009年12月末に書いたのだけれど、上野が「おひとり様でも寂しくない老後」を目指したい気持ちはわかる。ただ、「老後を支える資金と多数の友人ネットワークが必要」ということを強調されると、資金もなく友人もごくわずかな私としては、ロンリーウーマンでもいいか、という気になる。

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20181118
 老い支度としてブログを書き始め、当時は「おい老い、笈の小文」というタイトルでした。老い先の心構えを作っていくための文章書きでしたが、今、実際に老いて体も不自由になってみると、後輩にはこう言いたい。「還暦過ぎたらあっというまに古希になる」

 ひとりでも楽しいことはあるし、二人連れでもグループでも楽しめる。
 この秋の京都旅行では、京都滞在12日の間、ジジフレンドと2日間(10月26,27日)、京都研究滞在中の中国の朋友と2日間(11月2日3日)、いっしょに歩きました。そしてそのほかの日は、ひとり。

 朋友は、「わたしが京都にいる間くらい、全日程を私にたよってくれてもいいのに、ハル先生のように、高齢女性でひとりで歩き回る人をはじめてみました。センセは、自立していますね」という。私の周辺には、ひとりでもふたりでも大勢でも楽しい、という人がほとんどだから、自分自身が「自立している」なんて意識したことはなかったけれど、日本の女性たちを「異文化」の目で見ている人からながめると、日本の高齢女性のなかでは変わり者のように見えるのかもしれません。

 高齢者のくらし、ひとりでも楽しい、二人でも楽しい(ふたり連れは、夫以外の人と。わ我が家の場合だけですが)。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(た)高橋和己『日本の悪霊』

2018-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181115
ぽかぽか春庭アーカイブ>(た)高橋和己『日本の悪霊』

 2003年のアーカイブです。

at 2003 10/10 06:44 編集 
春庭千日千冊 今日の一冊No.16(た)高橋和己『日本の悪霊』
 高橋和己が癌を患って入院したとき、私は彼が入院している病院で働いていた。友人の一人は毎日病室の近くに行って、中に高橋が横たわっているであろう病室の窓を見つめていた。当時、高橋和己は「ファンにとっては神様以上の存在」だったのだ。
 半年後、高橋が亡くなったとき、友人はビルの屋上から飛び降りて死んだ。
 友人が死んでから半年後、私は病院勤めをやめた。

at 2003 10/10 06:44 編集 罪と罰、悪霊の町
 「とはずがたり」二条は、全半生の激しい愛欲生活を罪と感じ、自身の浄化を求めて仏道遍歴の旅をつづけた。
 年をとれば、「未熟なころのあれもこれも、罪なことやったなぁ」と思うことが、いくつも出てくる。
 高齢になるまで、生涯に一度も罪を犯したことはない、という人がいるだろうか。私なぞ、罪だの罰だのが、いっぱい!

 「罪と罰」「犯罪」「資本主義という妖怪」とか、「悪霊退散!」などという言葉を聞くと、私の目の前には、生まれた町の古びた警察署が頭に浮かぶ。「悪いことするとお巡りさんに連れて行かれるよ!」という大人のおどしが効いていたころ、罪人、悪者、悪霊!などがすべて、この警察署の中に詰まっているように思っていたからである。

 小学校の「社会科見学」で訪問した警察署の内部は、カビくさく、薄暗く、罪と罰の匂いに満ちていた。この庁舎は取り壊して、別の場所に新庁舎を建てる予定があったから、署内は古くさいままにしてあったのだ。
 警察署の隣には「スター小間物店」があり、化粧品やアクセサリー、リボンなどの小間物類、女の子があこがれるような品物がたくさん並んでいた。そんなに高級品でない小間物とはいえ、子どものこずかいではめったに買えない品物だった。「鉄鋼労連」の娘には敷居の高い「資本主義という妖怪」の象徴のように思える店だった。

 1度だけ、この店の小さな化粧水の瓶を「黙って借りて」しまったことがある。化粧品のおまけとして販促キャンペーンでついてくる、化粧水見本品のガラス小瓶が気に入ってしまい、欲しくてたまらなかった。母は、クリームひとつ顔につけない人だったから、販促おまけつきの化粧品など買うはずもない。それで化粧品は買わないで、販促おまけを「ちょっとだけ借りて」しまったのだ。
 私が犯した生涯最初の窃盗罪。最初である故40余年たっても罪悪感が消えない。20代のある日、新宿にあった喫茶店の小さな灰皿が気に入って、煙草も吸わないのに、「黙って借りて」しまったこともあるが、こちらは、まったく罪悪感が残っていない。

 スター小間物店の娘とは、中学で同じクラスになり、文芸部でもいっしょだった。高校でも2年間同じクラス。中学、高校を通し、美貌と頭のよさでスターだった彼女は、今「明治女性文学研究」のトップ研究者となっている。

 新警察署庁舎ができて、署長署員一同が移転した後、スター小間物店の隣の旧警察署が一度だけ脚光を浴びたことがある。高橋和己原作の『日本の悪霊』が映画化されたとき、ふるさとの田舎町がロケ地に選ばれからだ。刑事落合が勤務している警察署として、旧警察署が登場した。
 私は一度だけ映画を見たが、ストーリーよりも「知っているあの場所」が、画面のどこにでてくるかに気を取られて見ていた。

 映画は、黒木和雄監督。刑事落合と六全協活動中に地主を殺す罪を負ったやくざ村瀬の二役を佐藤慶。ほか、観世栄夫、渡辺文雄、舞踏の土方巽、フォーク歌手岡林信康(ファンだった)が出演している。原作と脚本は、別の作品というくらい内容が異なると評されている。DVDで、見直したいと思っている。
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2010/01/24
 スター小間物店の娘レイコさんは、現在A大学の教授。A大学の最寄り駅と、私が月木に出講している母校へ行くときの乗り換え駅は同じ駅。2007年にいっしょに中国に赴任したアクアフレスコ先生は現在A大学の専任になっていて、同じ駅でばったり出会ったことがある。レイコさんにも新任の挨拶をしたと言っていました。「次に会ったら春庭元気でやってます、と伝えてね」と伝言したのだけれど、さて、2010年の春庭はあまり元気じゃない。

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20181115
 レイコさんは、現在はC大学の教授。近代文学の学会理事もつとめて、相変わらず華々しい活躍ぶりです。落ちこぼれの春庭は、ただただまぶしく見上げていて、ときには落ちこぼれの我が身を嘆き、うらぶれた老後生活が寂しくなることもあるけれど、ま、人の生き方はそれぞれだから、私は私の道を歩くしかないのでしょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ(そ)曽野綾子

2018-11-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181113
ぽかぽか春庭アーカイブ(そ)曽野綾子

 アーカイブ再録です。この項は、2003年の再録ではなく、2010年の追加分です。

2010/01/23
春庭千日千冊 今日の一冊No.15(そ)曾野綾子『誰のために愛するか 』

 戦後ベストセラーの中の一冊『誰のために愛するか 』。
 春庭は「ねたみそねみひがみやっかみ」をおかずに生きている。美人で才女で夫とも息子ともうまくいっているなんていう出来過ぎ閨秀作家に反発を感じて、ベストセラー当時には読む気がしなかった。
 のだけれど、夫は曾野綾子エッセイをお気に入りにしていたので、ベストセラーになった当時からだいぶたってから読んだ。けれど、なぜこれほどのベストセラーになったのか私にはピンとこない内容だった。

 う~ん、日本財団会長とか日本郵政取締役とか、そういう活動もどうも私には合わないみたい。(そ)の作家がほかに思いつかなかったので出したけれど、好きじゃないのに無理に出すことはないよね。

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20181113
 曽野綾子(1931~)は、自分自身の両親と夫の両親の両方と同居していたので、その晩年の世話をし、近年では、90歳になった夫の介護をやり遂げました。(夫三浦朱門は2017年3月死去。63年間の結婚生活を全うして見送りました)

 裕福な著名作家ですから、ヘルパーさんらの助けも大いに利用はしたでしょうが、妻として嫁としてきちんとやるべきことをやり遂げて、それをまたネタにして本を書き、またまた売れました。『夫の後始末』(2017年10月刊)

 私?姑の介護はほとんど娘におまかせでしたし、夫の介護、、、やるきゼロ。娘も、この夏の骨折入院さわぎの介助をして、「あの体重の人を寝がえりさせることなんかできない」と嘆いていました。結婚時には178cm90kgあった体重を70kgまで落としたことが夫の自慢話のひとつなんですけれど、まだまだ介護をしてもらう体重になるまでの道は遠い。って、私は京都でうまいものたらふく食べて、体重増加。いいんです。自分は寝たきりにはならないという根拠のない自信を持って生きていきますから。

 夫は、読み終わった本の中で自分の事務所の棚には入れない本を、私に回してきます。わたしが京都に行っている間に娘に渡してきた本は、最近はまっているという東野圭吾の『沈黙のパレード』と内館牧子の『終わった人』

 「終わった人」は、ページの隅を三角に折る「ドックイヤーdog ear犬の耳」をあちこちのページに夫がつけたまま。ドックイヤーが大嫌いな私が、いちいち折り目を戻しながら読んでいます。
 ご丁寧に二重折り目のドックイヤーがついていたのは「中小企業の社長は、雑多な仕事が多い」と書かれているぺージ。500ページの文庫の中、いちばん共感したところって、そこ?

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ「(せ)瀬戸内寂聴『余白の春』」

2018-11-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181111
ぽかぽか春庭アーカイブ>(せ)瀬戸内寂聴『余白の春』

 2003年のアーカイブです。
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at 2003 10/09 07:23 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.14(せ)瀬戸内晴美『余白の春』

 私の若い頃の「アイドル(偶像神、崇拝物)」、外国人女性ではローザ・ルクセンブルグ、日本の女性では、菅野須賀子、伊藤野枝、金子文子(すごいラインナップ!)男性では、チェ・ゲバラ。最近ではアフガニスタンのマスード(ゲバラに風貌が似ている気がする)。

 須賀子や野枝は、歴史上の人物として、瀬戸内の評伝『遠い声』や『美は乱調にあり』を読む前から知っていたが、文子については、この『余白の春』を読むまで、遺書となった獄中手記『何が私をかうさせたか』の書名のみを知っていて、その生涯についてはあまり知らなかった。
 須賀子、大逆罪により刑死。野枝、関東大震災の混乱の中、甘粕中尉らにより虐殺。文子大逆罪により逮捕、獄中で自殺。あまりにも激しい生を生きた女性たちを前にして、私は、ただ、自分のふがいないぐうたら人生をぼやくだけで五十余年がすぎた。

at 2003 10/09 07:23 編集 出家という老後
 『源氏物語』のヒロイン紫の上が、晩年に強く願ったことが「出家」だった。極楽浄土へ旅立つことが、人生究極の望みとして人々の意識にのぼってきたのが、紫式部のころから。

 現代も「老後は仏門に入りたい」という言葉を聞くことがあるが、私の知る限りでは、女性には少なく、男性に多い。男性の出家者は、多くの宗派の住職が妻帯し、普通の家庭生活をおくるのに対して、女性の出家者は、文字通りの「出家」を求められることが多いからではないだろうか。だったら、在家の優婆夷(うばい=清信女)のままでいいかと。

 僧籍をもつ作家で、思い浮かぶのは、立松和平、玄侑宗久、寺内大吉、今東光。
女性では、今東光を得度の師として晴美から名を変えた瀬戸内寂聴。

 瀬戸内は五十を境に、前半は激しい愛憎の中に生き、後半は仏門修行と文学を両立させた。
 寂聴は『源氏物語』の現代語訳や、『女人源氏物語』の中で、出家願望に共鳴しつつ紫の上の姿を描いている。平安時代の一夫多妻制度の中で、紫の上が真に自分だけの精神的自立を求めるには、出家しかありえなかったと。しかし、光源氏は最後まで紫の上を手放すことを拒み、出家を許さなかった。

 「とはずがたり」をもとにした、瀬戸内の『中世炎上』の主人公二条も、前半生は激しい愛憎の生活、後半生は仏門へ。瀬戸内と通ずる人生だった。
 瀬戸内の作品、前半生の自身の激しい愛憎生活を描いた自伝的小説類よりも、後半生の仏教エッセイや源氏などの古典エッセイが好き。そして、激しい生を生き抜いた女たちの評伝作品が好き。


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20181111
 2022年生まれの寂聴さん、96歳の今も各地での講演や新作発表でご活躍。大きな手術もなさったし、若いころのような無理はきかないと、エッセイにも書いておられるけれど、そのパワーには圧倒されます。
 そこで思いついたのは、「おちゃめに百歳」のパワーをもらおうという「寂庵詣で」。
 11月1日の「寂庵写経の日」に参加しようと嵯峨野めぐりの間、寂庵に何度も電話をして参加申し込みをしようとしたのですが、電話はつながりませんでした。またの機会に。

 私の人生も「余白」になってずいぶんたちます。秋もすぎ、「余白の冬」の人生ですが、吹雪あり日照りありの世を生きていきます。


<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ「(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』」

2018-11-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181110
ぽかぽか春庭アーカイブ>「す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 2003年のアーカイブです。
 読書記録をつけ始めた1977年以前に読んだ本を思い出す、という決まりで始めましたが、須賀敦子を読み始めたのは1990年代から。

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at 2003 10/08 07:33 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.13(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 若い頃出会い、共にすごした仲間たちを、30年のときを隔てて回想し、生き生きと描き出している。熱い議論を交わす仲間たち、キリスト者による社会変革をめざして苦悩する仲間たちが、一行一行から、行間から、立ち上がる。
 須賀は、棚卸しをする本の革表紙の匂いまで伝わるように、思い出をいとおしみつつ書き綴る。「珠玉のような」というありきたりの形容しか思いつかない自分がなさけなるような、美しい日本語。

 『コルシア書店の仲間たち』あとがきから。書店をともに切り盛りしたイタリアの友の死の知らせをうけて。
 『ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサ参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくる人たちの名が何人もあった。記憶の中の、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私の中を通って行った。』

 亡くなった友を思い出す、友人たちの名を聞き、彼らのしぐさや姿を思い浮かべる、そういうひととき、私たちは遠くへ去ってしまった人々と共に生き、今はそばにいない人たちが私たちの中によみがえる。
 須賀敦子も、その死後なお、どんどん作品が出版される作家のひとり。味わいつつ、いとおしみつつ、読んでいきたい。

 須賀敦子の本を読み始めたのは、1990年発行の『ミラノ霧の風景』が出会いの一冊。須賀敦子、たった十年余の作家活動だったが、亡くなるまで次々とすばらしい本を私たちに与えてくれた。
 イタリアのこと、育った関西での思い出、東京での学生生活、フランスへの留学。何を語っても、須賀の日本語で読むと、イタリアや関西が自分のふるさとであるかのごとく、親しくなつかしく目の前に現れる。『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』『地図のない道』などなど。

 『遠い朝の本たち』、いつか私もこんなふうに読んだ本のことを語れるようになりたいけれど、ま、こればっかりは、身の丈にあわせて、才無き者は才なきままに、おしゃべりしましょ。

 須賀敦子は、『コルシア書店の仲間たち』の中に、亡くなった友人を永遠に描き込めたけれど、私はただ、早く亡くなった母や姉の面影を追うばかりで、嘆きに沈むことが多い。母が死んで40年近く経つのに、未だに母の死が悲しくてならない。
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2010/01/22
 2002年4月に、姉が医者の誤診のために54歳で亡くなった。子宮肉腫という難病であったのを、「子宮筋腫が見つかった。放っておいても心配ないけれど、心配なら、切りましょう」という医者の診断を信じて手術を受けた。1年後に具合が悪くなって、同じ病院で診てもらったら、医者は「筋腫は切っちゃったんだから、悪くなるはずがない!」と怒鳴った。

 セカンドオピニオンを求めたのに、診断書を出そうとしなかった。子宮筋腫と診断した医師は「もう一度手術しなおす」と、再手術し、腸も胃もほとんど摘出した。
 実は、肉腫が転移してもう手遅れなのだった。肺へも転移していた。医者は「抗ガン剤を使う」と主張したが、その医者をもう信用できず、故郷のホスピスへ転院した。

 最初の診断時に肉腫と診断できていれば、助かる道もあった。でも、肉腫は癌よりももっとたちが悪く、ごくわずかな症例しかないので、藪医者には診断がつかない難しい病気だった。
 がんセンターへの紹介状を知り合いの医師からもらい、転院を希望したのに、藪医者はそれを許さず、再手術した。自分たちの誤診が他病院で明らかにされることを恐れたからだった。患者のことより、自分の保身を優先した医者だった。

 母は心臓病をインフルエンザと診断され、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診された。つくづく運がなく、藪医者に殺されたのだった。

 再手術前の家族への説明で、医者はわざと「ユーテリン・サルコーマ」という病名を言い、「あんたらシロートは、どうせわからないのだから、黙って医者の言うとおりにしていればよい」という態度だった。
 私は、インターネットを使って、ユーテリン・サルコーマとは子宮肉腫のことだと知り、病状を調べた。姉は、1年前なら1期で、このとき正しい診断がでていれば助かる道もあった。病名がわかった1年後には4期に進んで、転移しており、抗ガン剤を使ってももう助からないとわかった。

 姉と話し合い、姉はホスピス転院を選択した。覚悟を決めた姉の最後は見事なものだったが、残された家族は、どうして最初に「子宮筋腫」と言われたときセカンドオピニオンを求めなかったか、悔いが残った。

 姉が亡くなって、落ち込む気持ちを奮い立たせようと始めたのが、ホームページ作りだった。2003年の夏、ホームページをネットにUPし、2003年9月から毎日更新のカフェコラムを書き出した。この「毎日更新」を続けることで、私は姉の死からも立ち直れた。
 「毎日更新すると、筆が疲れるから、休憩を挟んだほうがいい」というネット先輩の忠告を真に受けて、「休載日」というのを設けたころもあったけれど、別段、むりやり休載する必要なんてなかった。


 無理に書いているなら「筆が疲れる」ということもあるのだろうけれど、私にとって、書くことは息をすること、おしゃべりすることと同義で、おしゃべりする速度、すなわち1分間にローマ字変換で400字詰め原稿用紙1枚強をワープロで打ち込むことができる。ニュース原稿の音読が1分間に400から500字分だから、ほぼしゃべる早さで書くことができる。一日に5分10分のおしゃべりは誰でもできる。私にとって、一日に1600字分の文章を書くことは、門口のまえで5分ほどかわす立ち話と同じ。
 母や姉と、心の中でかわすおしゃべりを、私は指先でキーボードから打ち出している。

 お母さん、梅がさいたよ。ねぇちゃん、大寒なのに、ぽかぽか陽気だったよ。でもまた寒くなるんだって。

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20181110
 「神も仏もあるもんか」と、父は言っていたけれど、私は神も仏も、自分の心の中に住むのだと思っているから、母も姉も心の中の天国にいます。だから、神や仏に祈るかわりに、母、父、姉に祈ります。
 お父さん、妹モモの一家をお守りください。ねぇちゃん、ねぇちゃんの長女次女の一家をお守りください。お母さん、私の一家をおまもりください。

 ちゃんと役割分担してあるので、しっかり守ってくれるだろうと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ「(し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』」

2018-11-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181108
ぽかぽか春庭アーカイブ>(し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』

at 2003 10/07 08:28 編集

 春庭千日千冊 今日の一冊No.12(し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』
 たくさん出版されている司馬の歴史エッセイの中で、比較的早い時期に読んだ一冊。風土と、風土が育てる人物について、人物が織りなす歴史について。初出は1968年に文藝春秋に連載された。私が読んだのは1976年発行の文庫本。
 あと何年かして旅行三昧の日がきたら、旅を楽しみつつ、旅先で歴史の本、エッセイ、小説を読み散らしたい。旅から帰ったら、写真を見せながら、孫たちに知ったかぶりで蘊蓄を披露してうるさがられる、そんな旅がしたいです。

at 2003 10/07 08:28 編集 歴史紀行
 「子育て卒業後または定年退職後にしたいことは何ですか」という質問への回答として、多数派のひとつが「旅」。
 旅のテーマにはいろいろある。「温泉でのんびり」「よい景色をながめる」「鉄道の旅」「百名山を登る」など、ファンが多いテーマもあるし、「おいしい地酒を探す旅」「マリア像に出会う旅」「世界の動物園を巡る」など、自分の趣味を極めるテーマもある。
 私がテーマにしたいのは、「巨樹に会う旅」「橋めぐり」と「歴史・文学紀行(世界遺産の旅を含む)」

 歴史をたどる旅に、携帯したい本がある。いっしょに旅をしたい作家がいる。その中のひとりは司馬遼太郎。ま
 「たくさんの人に、自分の歴史を語り、残してほしい」と、願うと同時に、何人かの作家が書き残した歴史小説や歴史エッセイを順々に全集で読みたいと思っている、その作家のひとりが司馬遼太郎なのだ。『この国のかたち』は全冊読んだが、『街道をいく』シリーズは、まだ半分も読んでいないし、歴史小説で未読のものもたくさん。

 一番最近読んだ司馬の小説は2001年文庫発行の『ペルシャの幻術師』だが、初出は1956年「講談倶楽部」。雑誌に掲載されたまま、本にはなっていなかった。
 専門的な歴史家の著作でも網野善彦のように、素人にも面白くわかりやすく書いてくれる人もあるが、専門的なことは、歴史好きな方にまかせて、私は、楽しく読める歴史小説から。

 今や「国民的歴史作家」と桂冠がつく司馬遼太郎なので、亡くなったあとも、どんどん著作が増えていく。通勤の電車内しか読書時間がとれない読者としては、新しい本を横目に、「悠々晴耕雨読」の日が来るのを待つしかない。
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2010/01/21
 2003年のころは「あと何年かしたら旅行三昧の日々を送って、孫に旅の話を聞かせる老後がおくれるかも」と甘い考えを持ったのだけれど、私の老後には旅行三昧ですごすお金もなければ、孫の顔を見ることもなさそうだとわかりました。せめて百円古本で見知らぬ地方を旅しましょう。
 2009年12月に買った百円本のひとつが司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫) でした。長安(現代の西安)と北京なら、行ったことがある町。まだ読む時間がとれませんけど、「街道を行く」シリーズは、全巻読みたい本です。

 歴史を学び初めて3年たつ息子。このところ連日、期末レポート書きをしていました。
 「母、このレポート添削して年寄りの教授に受ける文章に直して」と、私にレポート直しを命じて添削後のものを提出していた娘に比べて、息子はいっさい書いたレポートを見せない。どんな文章を書いているのやらと心配もあった。リサイクル古新聞の上にプリンターの印刷不良となったレポートが載せてあったので読んでみた。なかなかしっかりまとまっているのでほっと安心。

 20日の夜、息子は、退官教授の最終講義に出席したあと、歴史の学科コンパに参加したと言って帰宅し、「コンパでお酒は飲まなかったけれど、つまみを食べたから」と、夕食はとりませんでした。母が安ワインを飲ませたせいで、アルコール嫌いになったのかな。
 中世戦国史を学びたいという息子も、4月から卒論執筆へ向けて歴史にチャレンジしていきます。

~~~~~~~~~
20181108
 司馬遼太郎『街道を行く』シリーズは、ほぼ全巻読了。電車読書にちょうどいい読み物でした。
 ここ10日余り、京都市内の道をせっせと歩きました。嵯峨野の道、東寺道、桂離宮周辺の道、これといって特徴もない道でも、次にいつ来るともわからない「ご近所ではない道」は、それぞれに思い深めつつ歩きました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ「さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』」

2018-11-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181106
ぽかぽか春庭アーカイブ>(さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』

2003年のアーカイブです。
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at 2003 10/06 04:49 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.11(さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』
 石牟礼道子、須賀敦子と共に、女性作家の中で、愛読してきたひとり。
 『妻たちの二・二六事件』は、澤地久枝がノンフィクション作家として世に出た最初の作品。長年の『戦争と人間』の資料助手の時代を経て、独り立ちしたデビューだった。
 この後の作品、文庫本になったものは、ほとんど読んでいる。中国へ行く前は『もうひとつの満州』に感銘を受けた。
 戦争ドキュメンタリーや『石川節子』の評伝など、歴史に翻弄されながらも自分の生き方をつらぬいた女性を描いた作も好きだが、彼女自身の自伝エッセイも好き。

 澤地さんは、67歳のときにスタンフォード大学で1年間聴講生として学び、続けてさらに琉球大学の大学院で2年間、国際関係論を学んだ。72歳になった2003年3月には卒業した早稲田大学から、芸術功労者表彰を受けた。
 授賞式(2003年/3月の早稲田大学卒業式)での、記念スピーチから

 『私は、卒業論文が万葉集十四巻の東歌の研究でございました。ご存じのように、これは東国の無名の人たちの歌を短歌の形式に採取したものでございます。考えてみますと、私はいつも名前の知られないような底辺の人たち、しかし、その人たちを抜きにしては歴史は一日も成り立たなかったという人たちのことに心を惹かれ、そういう人たちのことを文章にする仕事をしてきたという感じがいたします。

 しかし、これは地味な仕事でございます。私自身としては、だれも認めてくれなくても自分の気持ちが済むようなきちんとした仕事をしたいという思い一筋に生きてまいりましたけれども、今日こういう席にお招きいただいて、母校とは何とありがたいものかというのが私の実感でございます。(中略)
 私たちの身近なところで、歴史はさまざまな人間の物語を刻んでいるんでいるということを思わずにはいられません。


 どうぞ、あなたの近くにいる歴史の語り部から、さまざまな人間の物語を、受け取ってください。そして、受け止めた物語をインターネットで世界に発信してください。

at 2003 10/06 04:49 編集 歴史の語り部
 赤ワイン効果に続けて、脳の老化を防ぐよい方法をもうひとつ。
 思い出を語ることが、高齢者の生活活性化にたいへん良い影響があることが、最近の研究の結果、明らかになっている。
 『100歳回想法』(黒川由紀子著)には、100歳前後のお年寄りの回想が記録されている。遠い過去のできごとを、生き生きと思い出し、語り続けるお年寄りたち。

 心理療法として開発された「回想法」であるが、専門家だけの療法ではなく、家庭でもできる。「家庭でもできる回想法入門」。自分の周囲に高齢の方がいたら、回想法を取り入れよう!
 私は、舅が残した「山東省出征記録画集」という、中国戦線をスケッチした画集を、いつかまとめて公開したいと思っている。「

 私など、実家の父には「おじいちゃん、その話、もう何回も聞いた!」などと、冷たく言ってしまったこともあり、亡くなった後になって、「もっと熱心に話を聞いておくんだった」と後悔している。

 高齢の方や、そのご家族にインターネットホームページを活用してほしいことのひとつに、「歴史の語り部」がある。
 21世紀の今、高齢となっている方々は、先の戦争や戦後復興を体験した、それぞれが貴重な経験の持ち主。来し方の思い出を、ご自身の文章、家族の聞き書き、語りおろしの録音などで、残してほしい。小さな思い出も、些末に思える記憶も、貴重な歴史の証言。
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2010/01/20
 2010年の現在では、「傾聴ボランティア」という仕事に注目が集まっている。老人ホームなどで、お年寄りのおしゃべりに耳を傾け、気持ちよく話しをしてもらう役割を果たす。あいずちの打ち方、興味の示し方などに訓練を受け、つじつまがあわない話であっても、そう語りたいのがお年寄りの気持ちなら、その話をそういうものとして受け止める。語る人の気持ちを尊重し、敬意をこめて話を聞く。

 回想法、年寄りの話には繰り返しも多く、矛盾もあるけれど、それを「また、おじいちゃんの自慢話が始まった」などと冷たくあしらわずに、耳を傾けて、1時間話を受け止めることで、お年寄りは記憶を生き生きとさせて脳を活性化できるし、聞く方は貴重な時代の証言を受け止めることができる。家族だと何度でも同じ話を聞かなければならない、という人のために、傾聴ボランティアがある。順番にローテーションで話を聞いて回れば、毎回違う人の話を聞ける。

 「生きている本の貸し出し」という図書館活動もある。貸し出される「生きている本」は、自分の体験を語る。かり出したほうは、サークルやグループ活動の場でひとりの人の語りを聞き取り、一冊の本を読むように、ひとりの生きた証言を聞く。もっと広がってほしい活動です。

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20181106
 今年のよい出来事のひとつ。澤地久枝の講演会に出かけて、ツーショットを撮影できたこと。『14歳<フォーティーン>満州開拓村からの帰還』にサインしてもらえたこと。
 澤地さんがいつまでもお元気で言論の火を灯し続けていらっしゃることを、願っています。

 3月に掲載したのですが、澤地さんとのツーショット写真、うれしかったので、もう一度。澤地さんの凛としたたたずまいの中に深いやさしさがにじみ出ているのに対して、春庭のアホ面、ミーハーファンまる出して、ばかっぽくて気に入っています。



<つづく>
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ぽかぽか春庭アーカイブ「(こ)小林秀雄『ランボオ(作家の顔)』

2018-11-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181103
ぽかぽか春庭アーカイブ>(こ)小林秀雄『ランボオ(作家の顔)』

at 2003 10/05 07:56 編集 
春庭千日千冊 今日の一冊No.10(こ)小林秀雄『ランボオ(「作家の顔」所収)』
 高校の国語教科書で『面とペルソナ』を読んで以来、晩年の大著『本居宣長』まで、読みふけった。私が生まれるころまで、日本の文壇では志賀直哉が「小説の神様」と呼ばれ、小林秀雄は「批評の神様」だった。
 私が読み出したころには「小林の批評の方法はもう古い」と言われ、小林を乗り越えることが批評をめざす人の目標になっていた。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの評論「ランボオ」は、1948年に発表。
 ランボーが『酩酊船』を掲げて登場し、フランス文学界の旋風となったのは1870~1873年、ランボー16歳から19歳の間のたった3年間だった。
 19歳で「文学的な死」を遂げたランボーは、アフリカの地で病に倒れるまでの20年、アフリカアジアヨーロッパを放浪し、ときに探検家、ときに志願兵、ときに隊商の頭、としてすごした。アフリカからマルセイユの病院へ移され、足を切断する手術を受けたが、1891年12月10日に死去。看取ったのは、妹イザベルただ一人だった。

 『彼(ランボー)は、あらゆる変貌を持って文明に挑戦した。然し、彼の文明に対する呪詛と自然に対する讃歌とは、二つの異なった断面に過ぎないのである。彼にとって自然すら、はや独立の表象ではなかった。
 或る時は狂信者に、或る時は虚無家に、ある時は風刺家に、然し、その終局の願望は常に、異なる瞬時における異なる全宇宙の獲得にあった。定著にあった


 このような小林の批評のことばに、我々は酩酊し、悪酔いし、ときに吐いた。小林の言葉を乗り越えようと多くの「自称、批評の革命家」が飲み比べに挑戦し、あえなく破れた。
 学生コンパ。これから大いに飲むぞ、といういうときには「アル中の乱暴!」と、わめいたりするのが当時のオヤクソクだった。

 1995年の映画(私が見たのは1997年)、デカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』では、ベルレーヌとランボーの関係が私の想像と逆だった。映画では、ベルレーヌが女役、ランボーが男役だった。そ、そうだったのか、、、、、。

at 2003 10/05 07:56 編集 アルツハイマーには赤ワイン
 フランスなどで、定期的に赤ワインを飲んでいる人にアルツハイマー病を含む痴呆症の危険が少ないということは、従来からの疫学調査で報告されていた。この調査が、「神経化学」の研究によって証明された。(2003/09/29付)
 痴呆症のひとつアルツハイマー病の患者の脳には、βアミロイドというたんぱく質が繊維状になって沈着する。赤ワインに多く含まれるミレセチンなどのポリフェノールは、βアミロイドを分解するという実験結果が確認されたのだ。赤ワインのポリフェノールは、アルツハイマーの予防治療に応用できる可能性があるという。

 1日に500ccの赤ワインで効果が上がる。私もビール党から転向しようかな。でも、ビールも研究が進めば、きっと何かの効果があると思うよ。緑茶のフラボノイドやカテキン、コーヒー、ココアにも、医学的効果。「1日にりんご1個で医者いらず」「骨粗鬆、牛乳飲んで骨太に」など、食べ物飲み物はすべて天の恵みなのだ。
 ただし、酒を飲んでも飲まれるな。「アル中の乱暴」は、アフリカに死す。
==========
2010/01/19
 1月13日の新聞に、赤ワインの効果についての科学的研究が報道されていた。フランスの研究チームが、「美食家のフランス人は、赤ワインをとることによって高血圧を防ぎ、心筋梗塞や虚血性心臓病での死亡率が低い」という疫学的事実の解明に取り組んだ。女性ホルモンのエストロゲン受容体アルファを持つマウスにポリフェノールのデルフィニジンを与えると、血管内皮細胞から一酸化窒素が作り出されて血管を拡張し、血圧が下がるということをつきとめた。
 アルコールだから飲み過ぎれば身体に悪いのは当然だけれど、適度に飲めば高血圧防止に役立つ。これは朗報。

 ビールが大好きですけれど、飲むなと言われるし、リンゴは一日1個だと糖分が多いから半個にせよといわれたのだけれど、守れるはずもなく、、、、、。アル中の人が「このままだと死ぬよ」と脅されても飲み続け、ニコチン依存症者が「肺ガン必至」と言われても吸い続けてしまう気持ちがわかる、「食うなと言われても食べてしまう、大食依存症のわたし。

 さっそく安ワインを買ってきて飲んだ。輸入果汁による醸造。酸化防止剤入り、という身体にいいんだか悪いんだかわからない赤ワインだが、キッコーマン傘下のマンズワインという会社が醸造している。
 なぜこれを選んだかというと、値段がすごい。一本数十万円とかいうワインもある中、720ml入りで313円だったから。や、安すぎる、、、なぜ315円でないのかはわからないけれど。

 とにかく愛飲する第3のビールだって500ml入りが200円するのだから、いくらチリとアルゼンチンから輸入したブドウ果汁で醸造したといっても、醸造の手間暇人件費はかかるだろうに、と、まず息子に毒味をさせた。息子がぶっ倒れもしなかったので、私も飲んでみた。息子が「うまいとは思えないが、ポリフェノールをとるためにチョコレートをかじるよりは身体に悪くなさそうだ」というので、これからはチョコの一箱一気食いはやめて、300円赤ワインにする。

~~~~~~~~~~~
20181104
 アルコール摂取は、2週に一度缶ビール(発泡酒だが)くらいの頻度だから、アル中になりはしないが、大食いは相変わらずで、200g入りだかのピーナツ一袋を、帰りの電車の中で一機食いしたりする。体によくない。膝の関節炎でジャズダンス練習を休んでいるのだが、ミサイルママは「e-Naちゃん、その体重じゃ、どうしたって膝に負担がかかるんだから、まずは体重落とさないと」と、アドバイスをくれる。ま、体重オーバーのことはわかっているので、アドバイスされるまでもないのだけれど、、、、。

<つづく>
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