春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「さまざまなヒマワリーひまわり革命」

2012-08-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/30
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(10)さまざまなヒマワリーひまわり革命

 ヒマワリは、デザインしやすい花です。さまざまな紋章に取り入れられています。
 日本の弁護士が胸に付けているバッジ(弁護士徽章)の縁取りは、16弁のヒマワリで、正義と自由を表しており、中心部に描かれた秤は公正と平等を表しています。


 松嶋菜々子の初主演作、NHK朝ドラ『ひまわり』は、リストラされたOLが司法試験合格をめざしてがんばる話でした。

 NHK朝ドラ『てっぱん』では、葉加瀬太郎作曲のバイオリン曲『ひまわり』がテーマ曲になっていました。
http://www.youtube.com/watch?v=qg8O92K6V6M&feature=related

 「ひまわり」「ヒマワリ」「向日葵」「ひまわりの○○」をタイトルにした歌は、各歌手、各作曲家ごとにあるので、お好みの一曲を探し出してみるのも一興。

 「ひまわり」は、明るく輝き、力強い生命力を象徴することばになっています。
 ヒマワリは、現代の日本社会では、「好印象」を持つことばとして、さまざまなネーミングに用いられています。

 「ひまわり通り」と名付けられている通りがあります。東京都清瀬市にある気象庁気象衛星センターの前の市道の愛称もその一つ。こちらは、静止衛星にちなむ通りですが、日本全国に「ひまわり通り」があります。
 全日本おかあさんコーラス大会の優秀賞は「ひまわり賞」と呼ばれています。癌患者にかつらを貸し出す活動をしているのは「夏目雅子ひまわり基金」

 気象観測を行う日本の静止衛星・気象衛星の愛称は、の「ひまわり」、この衛星で観測すれば、雨の日でもお日さまが見えるような気がします。1977年に地球大気観測計画(GARP)として1号が打ち上げられて以来、日本だけでなく、東アジア・太平洋地域の多国に気象データが利用されています。
 現在は、第7号が地球のまわりを地球の自転に合わせて周回しています。

 静止衛星というのは、地上から見たら、一点にぴたりと止まって見えるということ。静止しているわけではなく、すごいスピードで移動しているのだけれど、時速100kmの電車に乗る人を時速100kmの車に積んだテレビカメラで撮影すれば、その人物が静止しているかのように撮影できる、というのと同じ。
 静止衛星ひまわりのスピードは、463m/秒。時速になおすと463×60×60=1,666,800m  時速1666km。
 地球の自転の速度は、赤道上で4万km÷24時間=1,666km
 地球の自転速度と静止衛星のスピードはぴったり合っているんですね。数字に弱いわたしもなんとなく納得。
 
 宇宙のかなたから見れば、地上の「ひまわり通り」も「デイケアセンターひまわり」も、「ひまわり整体院」も、みな小さくはかない存在なのだろうなあと思います。
 小さくはかない存在であるけれど、ひとりひとりが大陽です。ひとりひとりの、命輝く花です。

 6月、梅雨の頃に国会議事堂をとりまく反原発の静かなデモが、「あじさい革命」と呼ばれました。まとまった動員などがなされた集まりではなく、参加者はいろとりどりでした。ひとりひとりの色をあつめて、小さな花が集まって大きな花房になるように、集まっていこう、という国会周辺でした。

 夏になると、「ヒマワリ革命」と命名されました。ひまわりの花も、菊科なので、小さな花びら一枚が一つの花。その花が集まってヒマワリの花房となります。向日葵の花も国会を取り巻きました。

 ひまわり革命の次はコスモス革命かな?
 ひとりひとりが違う花。でもひとりひとりが自分の足で歩いて議事堂を取り囲む。
 チュニジアで発生したジャスミン革命は、その後のすべてが順調ではないのかも知れませんが、さまざまな影響を世界に広げました。ひとりひとりが自分自身で選び取り、意志を表明することの大切さ、これはジャスミン革命が教えてくれたなによりのことだと思います。

 ひまわりの花びらの一枚一枚は小さくはかない存在です。宇宙の衛星から見たら、広大なヒマワリ畑も小さな黄色い一点。でも、その小さな花びらの一枚一枚をいとおしみ、大切にすることが、この世に生をうけた意義。
 私も小さな花ひらの一枚として、せいいっぱいの花を咲かせます。小さな花をひとりひとりの小さな胸に咲かせて、「ひまわり革命」をつづけたい。

<おわり>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ヒマワリ短歌とヒマワリ俳句」

2012-08-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/29
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(9)ヒマワリ短歌とヒマワリ俳句

<ひまわり短歌>

・粗布しろく君のねむりを包みゐむ向日葵が昼の熱吐く深夜 春日井健(1938 - 2004)

・一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき 寺山修司(1935 - 1983)
・旧地主帰りたるあと向日葵は斧の一撃待つほどの黄 寺山修司

・向日葵の花は実となる確かさの見えつつありて日々はやく逝く  安立スハル(1923-2006)

・道化師と道化師の妻 鐵漿色(かねいろ)の向日葵の果(み)をへだてて眠る 塚本邦雄(1920 - 2005)             
                         
・風落ちて夕づく畑の大いきれ 我が立ちあふぐ向日葵の花 岡山巌(1894-1969)
                         
・おほほしく曇りて暑し眼のまへの大き向日葵花は揺すれず 中村憲吉(1889 - 1934)
・なやましく漸く嵐の吹きたれば重くすすれし向日葵の花 中村憲吉

・向日葵は諸伏しゐたりひた吹きに疾風ふき過ぎし方にむかひて 斎藤茂吉(1882 - 1953)
・さ庭べに竝びて高き向日葵の花雷とどろきてふるひけるかも 斎藤茂吉

・向日葵(ひまはり)は金の油を身にあびて ゆらりと高し日のちひささよ 吉井勇(1886年 - 1960)

・恐ろしき黒雲を背に黄に光る向日葵の花見ればなつかし 木下利玄(1886年 - 1925)
・心がちに大輪向日葵かたむけりてりきらめける西日へまともに 木下利玄

・あからひく日にむき立てる向日葵の悲しかりとも立ちてを行かな 古泉千樫(1886 - 1927)
・まひるの潮満ちこころぐし川口の橋のたもとのひまわりの花 古泉千樫

・向日葵のおほいなる花のそちこちの弁ぞ朽ちゆく魂のごとくに 若山牧水(1885 - 1928)

・恋びとよいざくちづけよ烈しくと叫ぶがごとき向日葵の花 前田夕暮(1883-1951)

・髪に挿(さ)せば かくやくと射る 夏の日や 王者の花の こがねひぐるま 与謝野 晶子(1878年 - 1942) (ひぐるま=ひまわり)
・おりたちて水を灌げる少年のすでに膝まで及ぶ向日葵 与謝野晶子

・輝やかにわが行くかたも恋ふる子の在るかたも指せ黄金向日葵(こがねひぐるま) 与謝野鉄幹(1873 - 1935)

 ピエール=ジョゼフ・ルドゥテ (Pierre-Joseph Redoute、1759 - 1840)は、ナポレオン1世の妃、ジョセフィーヌの薔薇園に出入りしてバラ図譜を残したことで有名ですが、ひまわりの植物画も描いています。
ガイラルディア

<ひまわり俳句>

・向日葵の蕊焼かれたる地図のごと 今井聖(1950 - )

・向日葵や信長の首切り落とす 角川春樹(1942-)

・大ひまはり花壇の外に咲いてをり  大串章(1937-)

・向日葵の影より黒きものを見ず  松澤昭(1925-)

・向日葵の瞠(みは)る旱を彷徨す  野澤節子(1920 - 1995)

・向日葵おごるとき拳白かりき  金子兜太(1919-  )

・ひまわりの日没といる無蓋貨車  国武十六夜(1919- 2012 6月15日死去)
  
・向日葵や越後へ雨の千曲川 森澄雄(1919 - 2010)
・向日葵や起きて妻すぐ母の声  森澄雄

・追撃兵向日葵の影を越え斃れ  鈴木六林男(1919 - 2004)

・向日葵を野太く咲かせ後継者  中村路子(1917 - 1999)

・遠く飛んだ種子の不逞さ焦げ向日葵  堀葦男(1916 - 1993)

・われ蜂となり向日葵の中にいる  野見山朱鳥(1917 - 1970)

・夕浅間向日葵は黄を強く放つ  桂信子(1914 - 2004)

・恍惚と秘密あり遠き向日葵あり  藤田湘子(1914 - 2004)

・実の向日葵少年グローブに油ぬる 古沢太穂(1913 - 2000)

・海の音ひまはり黒き瞳をひらく  木下夕璽(1914-1965)

・大向日葵囚はれの如活けられぬ  石田波郷(1913 - 1969)
・向日葵にひたむきの顔近づき来  石田波郷
・向日葵や咲く前に葉の影し合ひ  石田波郷

・向日葵をふり離したる夕日かな  池内友次郎(1906 - 1991)

・向日葵に剣のごときレールかな 松本たかし(1906 - 1956)
・山畑に向日葵咲きて山よ濃し 松本たかし

・向日葵の黄に堪へがたくつるむ  篠原鳳作(1906 - 1936)
・わだつみの辺に向日葵の黄ぞ沸きし 篠原鳳作

・向日葵や一本の径陰山へ 加藤楸邨(1905-1993)
・きのふわが夢のかけらの小向日葵 加藤楸邨

・塀出来て向日葵ばかり見ゆる家 星野立子(1903-1984)

・向日葵の蕊を見るとき海消えし  芝不器男(1903 - 1930)

・われら栖む家か向日葵夜に立てり 山口誓子(1901-1994)
・向日葵立つ方位未確の山の上 山口誓子

・向日葵は連山の丈空へ抽く 中村草田男(1901‐1983)
・山の陽は木と水の友向日葵澄む 中村草田男
・向日葵や戦場よりの文一行 中村草田男
・向日葵に澄む即興の子を守る唄 中村草田男
・小向日葵わが広額に納まるらん 中村草田男
・向日葵やガード都の門をなす 中村草田男
・向日葵は連山の丈空へ抽く 中村草田男
・山の陽は木と水の友向日葵澄む 中村草田男
・日まはりや永歎きしてうとまるる 中村草田男

・向日葵の大声でたつ枯れて尚  秋元不死男(1901 - 1977)

・向日葵のひらきしままの雨期にあり 中村汀女(1900-1988)
・たまたまの日も向日葵の失へる 中村汀女

・鸚鵡叫喚日まはりの花ゆるるほど 三好達治(1900 - 1964)

・高原の向日葵の影われらの影 西東三鬼(1900‐1962)

・ひまはりの昏れて玩具の駅がある 三橋鷹女(1899-1972)
・向日葵を剪るみほとけの花ならず 三橋鷹女
・縋らむとして向日葵もかなしき花 三橋鷹女
・向日葵の大輪切つてきのふなし 三橋鷹女
・向日葵の一茎がくと陽に離る 三橋鷹女
・星出でてより向日葵は天の皿 三橋鷹女

・向日葵に天よりあつき光来る  橋本多佳子(1899 - 1963)
・向日葵は火照りはげしく昏てれゐる 橋本多佳子

・向日葵の眼は洞然と西方に  川端茅舎(1897‐1941)

・向日葵や月に潮くむ海女の群 西島麦南(1895-1981)
・向日葵に昼餉の煙ながれけり 西島麦南

・キリストに向日葵あげて巷の中  山口青邨(1893-1988)
・キリストに挿せし向日葵のみ新た  山口青邨
・二重窓小窓をもてり向日葵黄  山口青邨

・向日葵の空かがやけり波の群  水原秋櫻子(1892 - 1981)
・向日葵に馳せくる波の礁を超ゆ  水原秋櫻子
・向日葵にたぎちて帰る波の列  水原秋櫻子
・向日葵にとほき紺青の波の列  水原秋櫻子
・向日葵が咲くのみ運河廃るるか  水原秋櫻子
・向日葵や都心変りて行き迷ふ  水原秋櫻子
・向日葵や雷後渦ゆく神田川  水原秋櫻子

・ひまはりのたかだか咲ける憎きかな 久保田万太郎(1889-1963)

・日を追はぬ大向日葵となりにけり 竹下しづの女(1887-1951)

・向日葵もなべて影もつ月夜かな 渡辺水巴(1882 - 1946)

・向日葵やいはれ古りたる時計台 富安風生(1885 - 1979)

・向日葵の月に遊ぶや漁師達  前田普羅(1884 - 1954)

・向日葵や日ざかりの機械休ませてある 種田山頭火(1882 - 1940)

・日天やくらくらすなる大向日葵 臼田亞浪(1879 - 1951)

・向日葵が好きで狂ひて死にし画家  高浜虚子(1874 - 1959)
・葉をかむりつつ向日葵の廻りをり  高浜虚子

・日まはりの花心がちに大いなり  正岡子規(1867 - 1902)

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡。
このページの編集権は、春庭(ニッポニアニッポンコミュニカティブ言語文化研究会)が有する。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ひまわりを食べる」

2012-08-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/28
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(8)ひまわりを食べる

 現代中国ではヒマワリのタネは庶民のおやつです。小さなタネを器用に囓って、中味を食べています。殻はそこらじゅうにまき散らして食べるのが、庶民のお作法?
 学生のあつまり、親戚のあつまり、人が集まった跡には、大量のヒマワリ種の殻が散らばっている、という光景を、1994年2007年2009年、3度の中国赴任中に、よく見かけました。ヒマワリの種は「香瓜子」と言います。

台湾産の香爪子


 私はナッツ類が大好きなのですが、ヒマワリは小さくて食べにくく、ヒマワリよりは値が張るけれど、栗や胡桃をよく食べ、また日本では手に入らない珍しい木の実が売られているので、おやつに食べていました。
 買い方は「一斤(イージン=500g)」と、ナッツ屋に言って、量ってもらうのです。ヒマワリの種は、一斤1元(10~15円相当)だったり2元だったりしましたが、西域や南方原産の珍しい木の実は、東北の街ではヒマワリの種の十倍以上の値段がしました。でも、今から思えば、高いといっても、500gで500円とか800円とかだったのだから、もっといろいろ食べてみればよかったと思います。どうも貧乏性なので、香瓜子が一斤1元なのに、一斤30元とか50元する木の実は、えらく高いもののように思ってしまった。

 直接食べるタネ、食用種は、長軸方向に黒と白の縞模様があります。煎って食用とするほか、アブラをとる種があります。18世紀に油をとる種の改良がすすみ、得に旧ソ連での品種改良がすすみました。日本ではヒマワリの種を直接食べることは多くなく、もっぱら、ペット(ハムスターなど)の餌に利用されています。

 食用ヒマワリのタネと花


 油脂用のヒマワリの種は絞ってヒマワリ油として利用されています。多価不飽和脂肪酸が多い。近年は、アメリカで品種改良がすすみ、オレイン酸を多く含むヒマワリ種が作り出されています。
 食用油の生産は、ナタネ油、ゴマ油などが生産量が多く、ヒマワリ油は世界で4番目に生産量の多い植物油脂です。

 2011~2012の国別生産量統計。
1 ロシア     2,932千トン
2 ウクライナ   2,754 千トン
3 EU(27か国) 2,666千トン
4 アルゼンチン  1,258千トン
5 トルコ      684千トン

 以下、中国 パキスタン 南アフリカ アメリカ インド。数年前の統計に比べると、アルゼンチンのひまわり油が半減していることがわかります。アルゼンチンに広がっていたひまわり畑は、今、半減してしまい、これからも減ってしまうのだとしたら、大地に広がるヒマワリ畑を一目見ておきたいという気になります。

 日本では、大豆油の消費量がもっとも多く、ヒマワリ油消費量は、2010年で約1万8,600トン。ヒマワリ油のほとんどは、アルゼンチンやアメリカからの輸入です。直接家庭の台所で調理油として使われる量は少なく、ほとんどは業務用として、チョコレート用のカカオバター代用品として使われています。チョコレートを食べるとき、ヒマワリ油も食べているってことですね。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ギリシャ神話のひまわり」

2012-08-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
シャルル・ド・ラ・フォッセ(LA FOSSE, Charles de 1636-1716 フランス)
ひまわりに変身するクリュティエ


2012/08/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(7)ギリシャ神話のヒマワリ

 ヒマワリの学名Helianthus annuus(ラテン語)の語源は、ギリシャ語で 「helios(太陽)+ anthos(花)」です。

 古代ギリシャで、「太陽の花」と呼ばれていたのは、現在私たちが知るヒマワリではありません。ヒマワリがヨーロッパに伝わったのは、大航海後アメリカ大陸上陸以後の出来事であり、古代ギリシャには「ヒマワリ」は存在しなかったからです。
 ギリシャ神話の中の「太陽の花」は、向日性の植物として知られていた地中海沿岸に自生する草本のヘリオトロープまたは、マリーゴールド(キンセンカ)だろうと言われています。キンセンカも向日性を持ち、茎が若いときは、日中、太陽の方向に花を向けて回ることがあるからです。

 しかし、上の ド・ラ・フォッセが「大陽の花に変身するクリュティエ」を描いた頃には、「大陽の花」と言えば、ひまわりを指すくらい、ヒマワリはヨーロッパに広がっていました。

 ギリシャ神話「大陽の花」 クリュティエ(Clytie)の物語(オウィディウス Ovidius 『変身物語』より。再話:春庭)

  オリンポスの山のギリシャの神々のなかでも、一段とりりしく美しい太陽の神アポロン。アポロンにあこがれる女神や妖精は大勢おりました。
 水の精クリュティエもそのひとり。太陽神アポロン(Apollon)に恋いこがれ、アポロンをひととき抱きしめることができたのです。しかし、アポロンは、クリュティエを恋人とすることにすぐに飽きてしまい、新しい美女を求めて、空を走っていきました。

 光の馬車を駆って大空を駆け抜けていったアポロンが、オリンポスから遠く離れたペルシャの地にさしかかると、地上にオリンポスの女神もかなわない美しい乙女を見いだしました。

 その乙女の名は、レウコトエ。ペルシャの国を支配するオルカモス王と絶世の美女エウリュノメ妃との間に生まれた姫です。
 オルカモス王は、行く末は、レウコトエによい婿をめあわせ、ペルシャの国に役立たせようと、厳しくレウコトエを育てていました。レウコトエは、母親エイリュノメ以上の美しい娘に育ちました。

 アポロンはたちまちレウコトエに心を奪われ、レウコトエだけを見つめるようになりました。世界を照らすべき仕事も忘れて、一人の乙女にまなざしを向け、レウコトエを早く見たいばかりに日の出の時間より早く東の空に昇ってしまったり、レウコトエに見とれていて西の空に沈むのを忘れたり。
 レウコトエが見つからなかったときなど、落胆のあまり月の影に隠れてしまい、地上を照らすことさえおろそかになってしまったほどでした。

 一日の仕事をおえたアポロンが、西のはての空の下の牧場に、太陽神馬を放ちおえました。馬たちが一日の疲れを癒し、次の朝を照らす備えをしている夜の間に、アポロンは母親エウリュノメの姿に変身し、レウコトエの部屋に忍び込みました。
 糸つむぎをしていたレウコトエは、部屋に入ってきた母親が「ふたりだけにしておくれ」というので、おつきの召使いを、部屋から出しました。

 変身したアポロンであるとも知らず、母のことばを待つレウコトエに、突然男の声が聞こえました。
 「世界の眼である私が、おまえを好きになったのだ」
 思いがけない恋の言葉に、レウコトエは驚きおそれました。
 しかし、アポロンが本来の姿にもどると、レウコトエは、太陽神のまばゆい輝きと美しさに心奪われ、夜のとばりの奥への誘いを受け入れたのでした。

 ことの次第に気づいたクリュティエは、深く苦しみました。
 おさえられぬ嫉妬心と恋仇への怒りから、クリュティエは、オリンポスの神とペルシャの乙女レウコトエの許しがたい仲を、ペルシャ王オルカモスに言いつけました。

 気性の荒い父オルカモスは、クリュティエの密告を聞くと怒り狂いました。
 父の定めた男以外とちぎるとは、すなわち父王の権威をないがしろにすることです。たとえ愛する娘であっても許すことはできません。

 母のとりなしもかなわず、レウコトエは、深い穴に入れられ、頭から下を埋められてしまいました。
 アポロンは、何とか助け出そうとしましたが、レウコトエは土の重みで衰弱していきました。アポロンは、レウコトエに神酒ネクタル(ネクターという飲み物の語源)を注いでやりました。
 すると、彼女の体は、一本の乳香の木に変わってしまいました。

 悲しみに沈んだアポロンは、クリュティエの弁解も聞かぬまま、彼女から離れていってしまいました。
 クリュティエは、アポロンを取り戻すどころか、すっかり嫌われてしまったのです。
 哀れなクリュティエは、届かぬ恋の思いにすっかりやつれ、9日間、空の下、夜も昼も地面に立ちつくしました。
 食べることも忘れ、雨露と自分の流す涙を飲み干すのみでした。
 やせ細ったクリュティエは、ただ空を仰ぎ、そこを通るアポロンの顔を見つめてそちらへ自分の顔を向けるだけ。

 ついに身体は土に吸われ、クリュティエの体は、血の失せた草木に変わってしまいました。そしてクリュティエの顔は一輪の花と化したのです。
 それが太陽の花Helianthusです。


<つづく>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ひまわりの種類とネーミング」

2012-08-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(5)ひまわりの種類とネーミング

 ヒマワリの種類
 観賞用のひまわりは、花びらが大きくて、真ん中のタネの部分が小さい。切り花用には、背が低かったり、花が小さい矮性のものもあります。
 油をとるための種類は、タネが大きい。ネーミングは、「食用ヒマワリ」と、そのものずばり。あまり芸のない直球ネーミングですね。わかりやすいけれど。

 3メール60センチにも伸びていく「スカイクレイパー(高層ビル)」という種類もある。

USAミネソタの農場で暮らすJesse父子とスカイクレーパー(Lynelさんの「Just Two Farm Kids」というサイトから拝借)
http://justtwofarmkids.com/2010/08/10/skyscraper-sunflowers/

 バラの新種ネーミング、有名人の名をつけたバラが多く、薔薇園でひとつひとつの名前を見て歩くのは楽しいですが、ヒマワリは実用本位なわかりやすいものが多いです。
 女優の名をつけるなら、「ソフィアローレンのヒマワリ」「夏目雅子のひまわり」など、いいかも。春庭は、、、春っぽいから、ヒマワリのネーミングには向きません。   
 「ゴーギャンのヒマワリ」という種類もあるし、「ゴッホのヒマワリ」「モネのヒマワリ」という種類もある。「マティスのヒマワリ」は、ほとんどタネがないって感じ。日本の画家だと、「岡本太郎のヒマワリ」があったらいいな。爆発しそうな花びらのひまわり。

「ゴッホのひまわり」と「ゴッホのひまわりのひまわり畑」
   

左「モネのひまわり」と、右「マティスのひまわり」
   
      
http://www3.cty-net.ne.jp/~fumifuji/kinds.cgi      
 このページ「ヒマワリ百選」のひまわりの種名をクリックすると、どんなヒマワリなのか、写真がでてきます。

 「インディアンブランケット」のように、見ただけではヒマワリには思えないものもあるし、カラーファッションは、花びらの色が濃淡くっきり二色あるものも。
インディアンブランケット

 百種類のヒマワリを楽しめます。以下、ヒマワリの種類を上記HPからコピー。 
・ア行
アイスクリーム/アースウォーカー/アプリコットツイスト/アボガニーベルベット
イカルス/イスラエルひまわり/イタリアングリーンハート/イタリアンホワイト/イブニングサン/インディアンブランケット/インフラレッドヴェルサイユ
エバーアンディープイエロー/エバーサンハイブリッド/エリートサン/エルサレムゴールド/エルサレムサンライズレモン
オータムオーラ/オータムビューティー/オーラ/オレンジマホガニー
・カ行
かがやき/カクンバーリーフ/カラーファッション/カルメン/
ギャラクシー/ギンガー
クラウン/クラレット/クリムソンクィーン/グロリオサ・ポリーヘッド/
黒竜/ゴーギャンのひまわり/ココア/ゴッホのひまわり/小夏/ゴールデンアイ/ゴールデンチアー/ゴールドラッシュ/コング/コンステレーション
・サ行
サニーハイブリッド/サマーサンリッチパイン/サマータイム/サマーチャイルド/サンゴールド/サンシード/サンシャイン/サンステーション/サンスポット/サンスポットドワーフ/サンダウン/サンダウン ハイブリッド/サンダンスキッド/サンチャイルド/サントノーレ/サンビーム/サンブライト/サンブライトスプリーム/サンリッチオレンジ/サンリッチオレンジハイブリッド/サンリッジフレッシュオレンジ/サンリッチマンゴー/サンリッチレモン/サンリッチレモンドワーフ/サンリッチレモンハイブリッド
ジェード/ジャイアント/ジャイアントサンゴールド/ジャイアントサンフラワーミックス/ジャイアントマンモス/シャイン/ジャミードジャー/ジャンボひまわり/ジャンボリー/ジュニア/ジュリアナ/ジョン/ジョーカー/ジョーカー ハイブリッド/食用ヒマワリ/ジンジャーナット
スカイスクレーパー/スターバーストダンディー/スターバーストブレイズ/スターバーストレモンオーラ/ステラゴールド/ストロベリーブロンド/スパーキー
ゼブロン
ソニア/ソーラーエクリプスハイブリッド/ソラヤ/ソンヤ
・タ行
大雪山/タイタン/太陽/ダークレッドビューティー/ダブルシャイン/ダブルダンディー/タラフマラ
チトニア/チョコフレンド/チョコフレーク/ティファニー/テディーベア/テラコッタ
東北八重/ドワ-フイエロ-スプレ
・ナ行
のぞみ
・ハ行
バイセンテナリ/パイン/バレンタイン/パシノ/パシノゴールド/パティオ/パナシェ/パナシェスターバーストハイブリッド/バニラアイス/パール/ハロー/
ピグミ・ドワーフ/ピーチパッション/ビッグスマイル/ピノチオ/ヒメひまわり
ブラックオイル/プラドゴールド/プラドレッド/プラドレッドシェード/ブリリアンス/プレミアライトイエロー ハイブリッド/フロリスタン/フロレンツァ/フルサン
ベルベットクィーン/ヘンリーワイルド
ホリデー/ホワイト
・マ行
マジックラウンドアバウト/マティスのひまわり/マンチキン
ミニひまわり/ミラクルビーム/ムーニー/ムーランルージュ/ムーランルージュハイブリッド/ムーンウォーカー/ムーンシャイン/ムーンシャドウ/ムーンブライト/ムーンライト
メキシコひまわり/モネのひまわり
・ヤ行
八重ひまわり
<ラ行>
リトルドリットハイブリット/リングオブファイアー/
ルナ/ルビーエクリプス
レッドサン/レッドベルベット/レモンオーラ/レモンクイーン/レモンエクレア/レモンエクレアスターバースト
ロシア

・a-z行
GIGANTEUS
Incredible
Magic Round
Biout
Mammoth Gray Stripe
Maxmillian
Nadezhda
Royal Flush Hybrid

 私はネーミングに興味があるので、500色の色えんぴつの色のネーミングとか、花のネーミングとか、集めて眺めているのが好きです。
 春庭の好みで分類した500色
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/12top.htm
 
 フェリシモの500色紹介サイト
 http://www001.upp.so-net.ne.jp/Taiju-no-Kage/Diary/20100213_Sub.htm
 
<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ヒマワリ花言葉、誕生日の花・国の花」

2012-08-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/23
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(4)ヒマワリ花言葉、誕生日の花・国の花

 1年365日に、それぞれの「誕生日の花」があります。9月の私の誕生日に当てられているのは、ピンクの秋桜。コスモスも色によって日にちが違うみたいです。

 8月5日、8月17日の誕生花が「ひまわり」です。日付には諸説あるのですが、8月5日生まれの人や8月17日生まれの人にヒマワリの花を贈るのもすてきなプレゼントですね。

 さて、オランダといえばチューリップが思い浮かびます。タイを訪れたときは、タイの国花というナンバンサイカチの花(ゴールデンシャワー)が町中に咲き誇っていました。ゴールデンシャワーの黄色は、王室を象徴する色でもありました。
 国花とは、その国を象徴する花であり、慣習的なものも混じり、諸説あります。日本の国花と言われているのも、桜が代表的な花ですが、皇室の紋章から菊が国花という説もあり、別段法律で決められているようなものではありません。

 ひまわりを国花にしている国として知られているのは、ロシアです。17世紀以来、ロシアでは食用のヒマワリ栽培が盛ん。ロシアでは、国を代表する花としてヒマワリが人々の脳裏にうかぶのでしょう。ただし、ロシアの国花は、もうひとつカモミールの花もあります。

 ヒマワリの花言葉は、いろいろあります。
 「崇拝」「熱愛」「光輝」「愛慕」「あこがれ」「私の目はあなただけを見つめる」「いつわりの富」「にせ金貨」

 「いつわりの富」「にせ金貨」という花言葉がある、というのは、伝説によるそうです。
 ヒマワリは、古代インカ帝国でも国を代表する花でした。インカはケチュア語で「太陽」の意。現在のペルーの首都クスコは、ケチュア語で「宇宙のへそ」を意味するのだとか。宇宙の中心地がクスコであったのです。
 皇帝は太陽神の子孫とされ、黄金とヒマワリによって太陽を象徴していました。ただし、現在ペルーの国花とされているのは、カンツータと呼ばれる赤い花です。

 インカ帝国があったペルーでは、ヒマワリは太陽信仰と結びついて、神聖な花として崇拝されていました。神殿に仕える乙女たちは、黄金で作られたヒマワリをかたどった冠をかぶっていたそうです。しかし、スペイン人の侵略のため、黄金のヒマワリの花が奪われてしまったため、ヒマワリはニセ金貨と呼ばれるようになったのだとか。

 これがペルーの伝説なのかスペインの伝説なのか、はたまたどこかでいつのまにやら作り出された伝説もどきなのかはわかりません。スペイン人がヒマワリの形の金冠を奪ったらヒマワリが「ニセ金貨」になってしまうというのがどうも腑に落ちないので、この伝説の出典を調べたのですが、確かな出典はどこにも書いてないのです。

 学生には「誰かの説を紹介するときは、必ず出典を明記せよ」と日頃言っています。
 ですから、「インカの乙女のヒマワリの冠」について、出典を書きたいと思って探したのですが、みな「インカの乙女がヒマワリを象った純金の冠をかぶっていた」という話をコピーしているばかりで、どの本の何ページに書いてあったかという出典がないのです。

 これを書いていて、子どもの頃、「インカ帝国探検記」の類の本を読んで影響を受け、「インカの乙女」というお話を作ったことを思い出しました。
 読んだ本は泉靖一(1915-1970)の『インカ帝国』(1959岩波新書)。小学校低学年のころは、アンデルセンやラングのような童話作家になって世界中のお話を集めるのが将来の夢でしたが、高学年になると、スタンレーのようなジャーナリストになってアフリカ探検家になるのが将来の夢になり、『インカ帝国』を読んでからは考古学者になってインカ探検をするのが夢になりました。20歳からは文化人類学者になって奥地研究をするのが夢でした。結局はじめて海外へ行ったのは、30近くになってからのケニアでした。
 子どもの頃作ったお話は、小さなノートに書きためて、今も持っています。

 私が作り出したインカの奥つかたの国では、染め物が知られていませんでした。人々の着る衣服は、すべて白い色をしていた、というのが私の考えたインカの国の暮らし方。
 白い服に、頭には冠を被っていて、冠の形によって出自身分がわかる。インカの神に仕える乙女の冠はヒマワリの花の形。
 皇帝のみが色を染めた衣服を着ることができました。皇帝の衣裳は、大陽の子孫であることをあらわす赤です。

2012年4月開催の「インカ・マチュピチュ百年展」ポスターより、副葬品の衣裳とインカ皇帝肖像


 染め物は、大陽神殿に仕える乙女の秘密のしごと。乙女はサボテンを栽培し、サボテンにつく虫を育てて、虫から染料を取り出しました。この染料は門外不出で、神殿の外に知られてはなりませんでした。
 この虫からとれるのがコチニールという染料で、虫とは貝殻虫、臙脂虫のことだった、とは、後年知ったこと。子どもの頃は、「インカ帝国」などの本で知ったインカの赤い染料のことのみ知識を持ち、染料の詳しいことなど知らずにお話を作っていました。

 神殿に仕える乙女のひとりが、王宮警護の若者と出会い、恋をする、そんなお話を作って、姉や友だちに聞かせていたことを思いだしたのです。女の子が考えそうな単純なお話です。

 「インカ神殿の乙女が、ヒマワリを象った黄金の冠を被っていた」というのは、インカ王宮遺跡の壁の彫刻に刻まれていた、ということなのですが、どこの遺跡のどの壁の彫刻であるのか、はっきりわかりません。2008年に行われたシンポジウム「日本古代アンデス考古学50周年記念」の報告や東京大学大貫良夫教授のアンデス学術調査の報告を読んでも、「手を交差させた彫刻」発見の報告はあるけれど、黄金冠の乙女の報告はない。もし、発見されていたなら、以下のページなどに掲載されるのではないかとおもうのですが。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2011Alpaca-Algodon_description_04.html
 
 出典を探しださなければ、安心して「インカの乙女のひまわりの冠」と書けないのが、私の性分。子どものころの「お話」なら自由な想像でよかったのですが。

 スペインの侵略者たちがインカ帝国から奪ったのは、数々の黄金製品だけではありませんでした。上に記した染料、コチニールもスペインが独占しました。スペインは、この秘密の染料を西欧に持ち帰って売りさばき、巨額の冨を得たのです。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「日本語のひまわり各国語のひまわり」

2012-08-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/22
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(4)日本語のひまわり各国語のひまわり

 ヒマワリの伝来、日本へは、17世紀にロシアを経て中国から江戸に到来したことを、お話ししました。
 スペインから秘密の花が流出し、フランスやロシアに咲くようになったのが16世紀末から17世期はじめなのですから、極東に至るまで、きわめて短期間での伝播だったことがわかります。

 中国にヒマワリが伝わった当初は「丈菊(じょうぎく)」と呼ばれていました。茎の長さが一丈(1.8m)くらいもあるための命名です。別名は「迎陽花」。

 1617年に書き表された、王路の著作『花史左編』によると。
 「其茎丈余亦堅粗毎多直生雖有傍枝只生一花大如盤盂単弁色黄心皆作窠如蜂房状至秋漸紫黒而堅劈而袂之其葉類麻而尖亦叉名迎陽花」
 (この植物の)茎は一丈に余り、堅く荒い茎はまっすぐに伸び、茎ごとに花がひとつ咲く。花はお盆のような大盤で、花びら一枚一枚は黄色一色である。黄色い花びらの中心には蜂の巣のようなものがあり、秋になるとしだいに黒紫色になり、堅くなる。葉は麻の葉のように先が尖っている。丈菊の別名は「迎陽花」である。(拙訳:春庭)
 
 ヒマワリを漢字で「向日葵」と書くのは、日本へひまわりを伝えた中国語の漢字名を、日本語の「ひまわり」という呼び方にあてたもの。
中国名:向日葵 xiang ri kui シャンリークイ、葵花(kui hua)クイファ

 同時代、1600年に南蛮ジャガタラ(現在のジャカルタ)から伝来したジャガタラ芋=ジャガ芋は、連作が難しいことと芽に毒があるため食用としては普及せず、紫色の花を観賞するために栽培されました。ジャガイモは飢饉の際の「お助け芋」であり、一般の日常的な食用として普及するのは、明治になって男爵いもなど品種改良が行われて後のことになります。
 ヒマワリも日本では食用としてではなく、鑑賞用として栽培されました。

 江戸時代は、園芸が盛んで、世界史的にみてもたいへん高度な園芸種開発が行われました。もともと徳川家康が大の薬草マニアで、本草学が大好き、二代秀忠は椿の新種作りに精をだし、三代家光は盆栽作りに執心、ということから武士階級の趣味として広まったのです。

 江戸時代の園芸栽培で最初に盛んになったのは、椿です。二代将軍徳川秀忠が愛好し江戸城内に椿園を作りました。その後、新種栽培の流行は、朝顔、菖蒲などでも競われ、各地で新種栽培が行われました。大名や旗本の「部屋住み」として捨て扶持で一生をすごす次男以下の武士や隠居の大名、公家たちは、新種の花を作り出すことに熱中し、それを博物誌として書き残すことが各地でなされました。
 たとえば、熊本藩では「武士のたしなみ」のひとつが園芸で、肥後六花(肥後椿、肥後サザンカ、肥後朝顔、肥後芍薬、肥後花菖蒲、肥後朝顔、肥後菊)は、今も熊本の名花として知られています。

 竹橋の国立文書館には、江戸城紅葉山文庫の蔵書がそっくり受け継がれています。将軍や大名達が熱心に集めた博物誌の展示を見て、すごい!と見入ったことを思い出します。

 これらの博物誌に描かれたヒマワリは、というと。 
 中村斎『訓蒙図彙』1666(寛文6)年には、ヒマワリ、ヒナゲシ、ギボウシ、イワレンゲなどの図が初めて描かれました。『訓蒙図彙』は、日本最初の百科事典といえる本です。
 ヒマワリについては、
 「丈菊」じょうきく・てんがいばな(天蓋花) 〇丈菊は一名ハ迎陽花という.日輪にむかう花なり.よって日車ともいう.花菊に似て大い也.色黄又白きもあり」と、説明されています。

 絵入り百科事典『訓蒙図彙』は、江戸の園芸家によく読まれ、版を重ねました。初版から120年たった1789(寛政元)年版の『訓蒙図彙』
 「丈菊 てんがいばな」の項

挿絵を描いたのは、下河辺拾水(生年不詳 - 1798(寛政9)日本版ボタニカルアートの嚆矢にあたります。

 元禄時代(17世紀末ごろ)には、「ひまわり」という名前が広まっています。
 伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』(1695)には、「日廻(ひまわり)(中末) 葉も大きク草立六七尺もあり花黄色 大りん」また、1699年の『草花絵前集』には、「○日向葵 〇一名日廻り、〇一名にちりん草、花黄色なる大りん、草立も八九尺ほど亦は十尺ばかり、何所に植ても花は東へ向て開、八九月に咲。」と書いてあります。

 伊藤伊兵衛は、現在の豊島区駒込に住んでいた江戸一番と言われた植木屋で、当主は代々、伊藤伊兵衛を名乗りました。、1699年の『草花絵前集』を著したのは、元禄・享保期(1688-1735)に活躍した伊藤伊兵衛三之烝(さんのじょう)と伊藤政武(まさたけ)父子です。

 元禄から宝永と年号が変わった、徳川綱吉の時代の末期、1709年に貝原益軒が『大和本草』を出版。「巻之七 草之三 花草類」には
 「向日葵 ヒフガアオイ、一名西番葵.花史ニハ丈菊ト云.向日葵モ漢名也.葉大ニ茎高シ六月ニ頂上ニ只一花ノミ.日ニツキテメクル.花ヨカラス.最下品ナリ.只日ニツキテマハルヲ賞スルノミ.農圃六書花鏡ニモ見ヱタリ.国俗日向(ヒフガ)葵トモ日マハリトモ云.」
と、記しています。日向葵(ヒュウガアオイ)、西番葵、丈菊、など、ヒマワリの別名がたくさんあるということは、伝来後、各地への伝播があり、それぞれの地での呼び名があったことが推測されます。

 大名を博物学に駆り立てたのは、「趣味」でもありましたが、領内に有用な農作物を普及させたいという所領経営のねらいもありました。江戸時代後期には、各地に「博物学サークル」が出来て、薬品会、博物会も開かれました。平賀源内(1728 - 1779)は、そういう仲間のひとりでした。

 めずらしい種類の花が作り出されると、一鉢何百両(今の価格で数千万から1億)という値段さえついたということです。
 江戸時代後期になると、博物学、昆虫や魚の絵また植物画に熱中した大名や公家が、数多くいました。ヒマワリ絵画で紹介した酒井抱一も姫路藩お殿様の四男坊です。

 公家のトップ、近衞家熈(このえ いえひろ1667-1736)は、落飾後は豫樂院(よらくいん)と号しました。書画にすぐれ、『花木真写』は、陽明文庫(近衛家伝来の古文書、書画などの保管所)に残されました。2005年に『花木真寫-植物画の至宝』として、淡交社から編集復刻されています。

 近衛豫樂院の描いた日向葵


 日本語でヒマワリを表すことば。『日本方言大辞典』(小学館)『花の歳時記大百科』(北隆館)などから、各地のひまわりの呼び方を抜粋すると。

<太陽の花、太陽に向かう花の意>
日廻り、日回、向日葵(ひまわり)日向(ひむき)日向草(ひむきくさ)日向葵(ひなたあふひ)日向葵(ひゅうがあおい)照日葵(しょうじつき)日蓮草(にちれんそう)望日蓮 転日蓮 迎陽花など。

<丸い形、輪っか、車輪の形の花の意>
わっぱ花 日車(ひぐるま)日車草(ひぐるまそう)天車(てんぐるま)日輪草(にちりんそう)

<外来の花の意>
天竺葵(てんじくあおい)西半葵(さいばんき)西番葵

<その他>
天蓋花(てんがいばな)羞天花(しゅうてんか)ねっぱばな、めっぱ

 日本では、大陽にまつわる呼び名が各種ありました。各国語のヒマワリを調べてみると、ほとんどは「大陽+花」という意味の語になっています。でも、各国の方言をしらべてみれば、また違う呼び名があるのかもしれません。 

 世界各国の言語で、ひまわりをあらわすことば。
学名:Helianthus annuus L. (ヘリアンサス アヌウス)
属名は「helios 太陽」+「anthus 花」、種小名annuusは「一年生の」の意

・ロマンス語系
<「太陽を追って回る」の意>
スペイン語:girasol(ヒラソル・イラソル)girar= 回す、回る + sol(太陽)
ポルトガル語:girassol(ヒラソーウ)girar=回す、回る +sol(太陽 ソーウ)
イタリア語:girasol(ジラソル)girare=回す、回る+sole(太陽) girasole(ジラソーレ)
フランス語:tournesol(トゥルヌソル)tourne=tourner(まわる)の過去分詞 + sol(太陽) soleil(ソレイユ 太陽、日光、ひまわりの花)

・ゲルマン語系
<「太陽の花」の意>
英語: sunflower  sun(太陽)+flower(花)説と、sun(太陽)+following(追う)説がある。
ドイツ語:Sonnenblume(ゾネンブルーメ)Sonnen=太陽の +Blume=花
オランダ語:zonnebloem (ゾンネブローム)

・その他
エスペラント語:sunfloro(スンフロロ) (suno=太陽)+花
ギリシャ語:  ηλιανθος(イリアンソス)
ロシア語: подсолнечникパトソールニチニク

韓国語: 해바라기(ヘッパラギ)
マレー語: bunga matahari(ブンガマタハリ) ブンガ=花 マタハリ=大陽
タイ語: Dork-taan-tawan(ドークターンタワン)
スワヒリ語:alizeti(アリゼティ)

 ほとんどの国のことばで、「大陽の花」という意味になっています。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「英国王の植物園・大陽王の紋章」

2012-08-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/21
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(3)英国王の植物園・大陽王の紋章

 新大陸に咲いていたヒマワリが、スペイン人によってヨーロッパに紹介されたのち、ヒマワリについて書かれた最初の花譜は、モナルデスとフランプトン(Monardes & Frampton)が1569年にスペイン語で書いた『西インド諸国到来の薬草史“Historia medicinal de las cosas que se traen de nuestras Indias Occidentales 』という書です。ニコラス・モナルデスは医師として薬草の研究をしており、スペイン王立植物園でヒマワリを薬草として栽培していました。

 モナルデスの本に書かれたことはすぐに英国にも伝わり、1577年には翻訳されました。『新発見大陸からの有益なニュース“Ioyfull newes out of the New-found Worlde )』

 英国の園芸家ジェラルド(Gerarde)は、1597年に、“The Herball”という本に、自らの観察結果を書き、「太陽の花と名付けられたのは、花の形が太陽に似ているからであり、茎が太陽のほうを向いて回るということはない」と書き残しています。

 1629年には、ジョン・パーキンソン(John Parkinson 1567 - 1650)が、“Paradisi in Sole, Paradisus Terrestris ”という本を著し、王家の植物園で栽培されている植物について、詳しい花譜を残しています。パーキンソンはジェームズ1世の薬剤師として仕え、その息子チャールズ1世の代になると「王立植物園の園芸家」として植物栽培を行いました。イギリスでも薬剤師が薬草としてヒマワリ栽培を行ったことがわかります。

 パーキンソンの、“Paradisi in Sole, Paradisus Terrestris ”


 前回、「ヒマワリ絵画」で、チャールズ1世がヒマワリを愛好しただろう、と書きましたが、ヴァン・ダイクの自画像に描かれたヒマワリのほか、チャールズ1世お抱えの園芸家パーキンソンのくわしいヒマワリ花譜によっても、この花がどれほど英国王の心をとらえたかが推測されます。

 フランス絶対王政最盛期のルイ14世は「太陽王」と呼ばれ、ベルサイユ宮殿を造営し、大陽をアレンジした紋章をベルサイユ宮殿にも飾りました。
ルイ14世の紋章

 ヒマワリがスペインからフランスに伝わったのは、太陽王の父ルイ13世の時代。ルイ13世は、薬草園を創設し、外来の植物を育てました。スペインやイギリスの王立植物園が、植民地の新種植物を有効利用するための実験室だったことを紹介しましたが、ルイ14世も王立アカデミーを設立し、植物栽培の研究をさせました。

 イギリス王チャールズ1世がヒマワリ好きだったろうと述べましたが、同時代のルイ14世もヒマワリを愛好したことでしょう。ルイ14世が大陽王と呼ばれたのは、バレエ好きで、自らが「大陽の王」という役に扮してバレエの舞台に立ち、踊ったからです。大陽のような形の花がおおいに気にいったであろうと推測されます。
 この推測を裏付ける本のひとつを紹介しましょう。

 ルーブル美術館が2000年に出版した『ルイ14世の植物図譜―王の植物』は、ルーブル美術館の銅版画室に残された植物画のうちから選んだ図版が美しい本です。値段は15000円と高くて、とても買えないので、図書館で探してみます。 銅版画(カルコグラフィー)による彩色の美しい植物画は、ボタニカルアートのお手本となりました。
 ルイ14世ゆかりのヒマワリの絵は、『ルイ14世の植物図譜―王の植物』の表紙に描かれています。


『ルイ14世の植物図譜 L'Herbier du Roy』著者アラン・ルノー 

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ヒマワリ絵画」

2012-08-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/19
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひまわり蘊蓄(2)ヒマワリ絵画

 ヒマワリがスペインの「門外不出」の植物園から漏れ出ると、たちまちヨーロッパ社会に伝播しました。17世紀の西洋の画家達もキャンバスにヒマワリの姿を残しました。

 アンソニー・ヴァン・ダイク(Anthony van Dyck1599-1641)は、フランドル出身。ルーベンスの元で修行したバロック期の画家です。イギリスのチャールズ1世のもとで宮廷画家となり活躍しました。「ヒマワリのある自画像」は、チャールズ1世から送られたという金の飾りを身につけ、王室の勢威を表すヒマワリに向かっている姿で描かれています。


 ヴァン・ダイクが仕えたチャールズ1世は、日本史でいうと関ヶ原の戦いの年、イギリス史でいうとエリザベス朝最盛期の1600年に生まれました。スコットランド女王メアリースチュアートの孫にあたります。父親のジェームズ6世(イングランド王としてはジェームズ1一世)は、自分の母親メアリー・スチュアートを処刑したエリザベス1世から後継者に指名されました。チャールズ1世は、6歳のとき父親と共にロンドンに移住し、25歳のとき、イングランドスコットランド連合王国の王となりますが、オリバー・クロムウェルとの内戦により、49歳のとき処刑されます。
 治世の間、内戦のほか熱中したことといえば、絵画収集。今に伝わるイギリスのロイヤルコレクションの基礎を固めました。
 
 ヴァン・ダイクが王室の勢威の象徴としてひまわりを選んだのも、古き強国スペインから伝わった大陽の花を己の力のシンボルとしてチャールズ1世が好んだためだったのかもしれません。
 政治能力に欠けたとされるチャールズ一世が、清教徒革命で処刑された王様だということ以外で現代に知られているエピソードがあるとしたら、フランスのデュマの小説「三銃士第2部」で、ダルタニヤンが救出しようとして失敗する王様がチャールズ1世、ということくらいでしょうか。チャールズ1世のお后はフランス王の娘でした。この時代、ヒマワリはフランスのルイ13世の薬草園でも栽培され、ルイ14世は、ひまわりを愛好したと伝えられています。

 17世紀、スペインから各地に伝播したヒマワリは、たちまちのうちにロシア、中国へと広がり栽培されました。
 中国からヒマワリが日本に伝来した17世紀江戸時代。18世紀になると、珍しもの好きの江戸の絵師達、盛んにヒマワリの絵を描きました。
 伊藤若冲と酒井抱一の絵は、三の丸尚蔵館や東京国立博物館などで、見ることができます。

酒井抱一「十二ヶ月花鳥図より」 と 鈴木其一「向日葵図」(畠山美術館) 
             

伊藤若冲 向日葵雄鳥図



 ヒマワリを描いた絵画、として私たちの脳裏に浮かぶ絵は、おそらくヴァン・ゴッホの描いた12枚のひまわりでしょう。

 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(Vincent van Gogh1853-1890)
 ゴッホは、生涯のうち、画家として生きたのは10年ほど。37歳で自ら命を絶った短い一生のあいだに、12点のひまわりの絵を残しました。
 ゴーギャンとともに住んでいたころから晩年までに、南フランスのアルルで描かれたひまわりは7点。そのうちの1点が東京新宿の損保ジャパン東郷青児美術館に所蔵されています。ロンドンナショナルギャラリーとほぼ同一のモチーフで、損保ジャパンが購入した直後からフェイクとの評がたえませんでしたが、美術館側は、「当館のひまわりは「15本のひまわり」と説明しています。


14本のひまわり(ロンドンナショナルギャラリー)と 15本のひまわり(損保ジャパン美術館)
      

3本のひまわり(個人蔵)
 

 ゴッホのヒマワリ12点をすべてを見るなら、このサイト
http://www.vggallery.com/misc/sunflowers.htm

 ゴッホとゴーギャン(1848~1904)との共同生活が破綻しようとするころに、ゴーギャンが「ひまわりを描いているゴッホ」の肖像を残しています。ゴッホの行動に不安を感じながらも、その姿を写し取ったのです。

ゴーギャン「ひまわりを描くゴッホ」


 1880年からはじまったゴーギャンとゴッホの同居時代は、ゴーギャンとの軋轢に疲れたゴッホが自分の耳を切り落とすという自傷行為に走り、おわりとなりました。ゴーギャンはゴッホとの共同アトリエ「黄色い家」を去り、1891年には、太平洋のタヒチ島に移住します。
 ゴッホはピストルで頭を撃ち抜き生涯を終えます。

 ゴッホは、弟テオへ宛てて膨大な手紙を残しています。
 ひまわりについては、テオに次のように書き残しています。(Letter 573 Vincent van Gogh to Theo 22 or 23 January 1889)

「シャクヤクの花はジーニーンのだって、君は思ってるんじゃないかい。タチアオイはクォストのものだ。だけど、ヒマワリは幾分かは僕のものだって、君も思うだろう?」
 You may know that the peony is Jeannin's, the hollyhock belongs to Quost, but the sunflower is mine in a way."

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ひまわりの原産地とひまわりの歴史」

2012-08-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/18
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>夏の花ひまわり蘊蓄(1)ひまわりの原産地とひまわりの歴史

 夏らしい花のうち、どういうわけかカンナは赤いのも黄色いのもあまり好きになれません。葵も好きでない。夏咲く花で好きなのは、なんといってもヒマワリです。

 ヒマワリはキク科の植物。一般に花と呼ばれる部分、キク科の他の花、菊やタンポポと同じく、小さな花がたくさん集まって、ひとつの花に見えるのです。
 花が集まったものを花序といいます。外輪に黄色い花びらが開いた部分が舌状花、内側の花びらがない花を筒状花(管状花)と区別して呼ぶのだそうです。

 「ひまわり」を辞書で調べてみると、広辞苑には「メキシコ原産」とあり、他のところには「アメリカ原産」とでていました。原産地はどっち?

 植物学の研究からいうと、ヒマワリの原産地は北アメリカ大陸西部であると考えられています。野生のひまわりを栽培用にしたのは、紀元前のアメリカネイティブの人々。(アメリカインディアン)
 長楕円形の種子は、そのまま殻をとって食べたり、植物油を生成したりでき、食用作物として重要な位置を占めていました。

 スペイン人がアメリカ大陸へ上陸したのち、1532年、インカ帝国に攻め込んだピサロFrancisco Pizarroが本国に「ひまわり」について報告。
 1569年、スペイン人の医師ニコラス・モナルデスがヒマワリの種をマドリードのスペイン王立植物園に持ち帰り、植物園内で栽培が開始されました。
 スペインやイギリスの植物園は、植民地の有用植物を栽培し、農業利用するための実験室でしたから、世界中のさまざまな植物が集められ、研究されました。

 ヒマワリは、スペインが「国益のために門外不出」として、100年もの間、国外に出されることがありませんでした。ヒマワリが他国にも知られるようになったのは、世界最強とうたわれたスペインの無敵艦隊が、イギリスのエリザベス一世のもとに屈し、その勢威にかげりが出てきてからのこと。国の守りが弱くなると、門外不出の秘密の花も、外へ漏れていきます。
 17世紀になると、フランス、次にロシアに伝わっていきました。当初は鑑賞植物として広まり、ロシアで食用として改良され大々的に栽培されるようになりました。

 昨年来、ひまわりが注目を集めたことがあります。ひまわりはこれまで、食用や油採取に利用されてきました。しかし、3.11以後、これまでと異なる点で利用出来るかも知れない、と話題になりました。ヒマワリを植えると、セシウムほかの汚染放射能を吸収し、除染に役立つのではないかと期待されたのです。チェルノブイリなどに植えられた実績がある、という話でした。

 しかし、農水省の実験結果では、ヒマワリ植栽ではほとんど効果がなく、表土を削り取る方法が一番効果がある、という発表がありました。削り取った表土はまた処理をしなければならず、放射能汚染を完全に処理するには、人間の手におえるものではない、ということがよくよく身に染みました。
 ひまわりは除染には役立たない、との実験結果は残念なことでしたが、ひまわりのあの向日性が、心を明るくしてくれたのは確かです。

福島県に植えられたひまわりの畑


 8月後半のシリーズは、「ひまわり蘊蓄」です。ひまわりにまつわる伝説やことば、絵画などを紹介します。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ヒマワリ映画」

2012-08-16 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/16
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女と災厄(9)ヒマワリ映画

 監督、V・デ・シーカ。主演ソフィア・ローレンの名作『ひまわり』
 広大な大地に広がり、咲き誇るひまわりの映像が圧倒的でした。
 イタリア・ナポリに住んでいるジョヴァンナは、夫を待ち続けていました。ソ連の戦線に送られて以来、夫は戦後も行方不明のまま。
 ジョヴァンナがやっと探し当てた夫は、シベリアの娘と幸せな結婚をしていました。
 戦争によって引き裂かれた夫婦の愛。
 ひまわりの花が美しければ美しいほど、戦争の残酷さが心にせまります。

 1969年イタリア・アメリカ合作。107分。日本公開は、1970年。
キャスト:ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ リュドミラ・サベリーエワ
スタッフ 監督:ヴィットリオ・デ・シーカ 製作:カルロ・ポンティ/V・デ・シーカ
 脚本:チェザーレ・ザヴァッティーニ/トニーノ・グエッラ/ゲオルギ・ムディバニ  撮影:ジュゼッペ・ロトゥンノ 音楽: ヘンリー・マンシーニ

 ヘンリー・マンシーニの印象的な主題曲。映画冒頭オープニングタイトルのひまわり畑の映像を背景に。
http://www.youtube.com/watch?v=2O6-LLRdwmQ&feature=fvwrel

 地平線まで広がる広大なひまわり畑のロケ地については諸説があり、スペインのひまわり畑という説や、ウクライナでのロケという説があります。
 ビデオなどの解説では「モスクワのシェレメチェボ国際空港近くのひまわり畑」ということにされています。これは、映画の撮影当時、旧ソ連内での映画撮影は厳しく制限されており、外国人はモスクワから80km以上離れた場所での撮影活動はしてはいけない、という規制があったため、公式発表ではモスクワ近郊での撮影ということにされたのだそうです。

 私は、映画の冒頭のひまわり畑に咲くのがどの種類かを調べたかったのですが、わかりません。ひまわりには百種類以上の種類があるので、どの種類かわかれば、ある程度ロケ地も推測できるのではないかと思うのですが。スペインのひまわりでもモスクワのひまわりでも、この映画が伝える「戦争でひきさかれる愛」という物語の進展がかわるわけではないのですが、、、、

 もう1本、来年公開のヒマワリ映画を紹介します。

 2013年1月公開予定の映画『ひまわり-沖縄は忘れないあの日の空を』
 1959年、本土は4月に行われた「世紀のロイヤルウェディング」に沸き立ち、日本は復興したという喜びに沸いていました。
 1959年6月。沖縄・宮森小学校に米軍ジェット機が炎上墜落しました。学童11名、近隣住民6名が死亡。後に事故の後遺症により、もう1名が死亡。

 私は、4月の「ご成婚」大報道は覚えているのですが、6月の宮森小学校の惨事について、報道があったことすら覚えていません。1959年の沖縄は、遠かったのです。子どもだったとはいえ、この米軍機墜落事故が新聞に載ったのかどうかも知りませんでした。

 今、「沖縄は遠い」と、言っていられる人は、自分がつらいのはいやだが、他者の痛みには平気、と言える人なのでしょう。
 想像してみてください。我が子や孫が通う小学校に、いつ米軍の飛行機が落ちるか不安に思いながら「いってらっしゃい」と送り出す毎日であると。
 事故率が他の飛行機に比べて格段に高いというオスプレイが、自分の家のすぐそばに配備されたとしたら、毎日安閑と暮らせるのかと。

 他人は原発事故に怯えるのも基地の飛行機墜落に怯えるのも、我がことでないから平気、という人もいるでしょう。自分自身の安全が守られさえすれば、それでよい、という人もいることでしょう。私たちは、67年ものあいだ、他者の痛みには目をつぶり、自分たちが経済的に豊かな生活をおくることだけを望んできたのだから。

 「自分が安全で快適な日常をすごすためには、他者が不安になろうと悲しい思いをしようとかまわない」と開き直れたら、もっと楽に生きられるのかも知れないけれど、私は他者を犠牲にして自分は安全圏にい続けようとするには、少々気が小さい人間みたいです。他者を犠牲にせず暮らせる世の中にしたいと思いつつ、自分の小ささを実感する毎日、とでもいいましょうか。

 「基地あるかぎり、沖縄の悲しみは終わらない」というのが、この映画のキャッチコピーです。公開されたら、見にいかねば。

辺野古基地周辺に咲くひまわり

http://blog.goo.ne.jp/01080517/e/6fcd7b0ca362e8e9e1dbf6774b0c5723 より拝借

<おわり>
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「確認Article 9 of the Japanese Constitution」

2012-08-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/15
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(8)確認Article 9 of the Japanese Constitution

 8月15日の確認。
<日本国憲法前文>
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


<憲法第9条>
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。



ARTICLE 9. Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes. (2) To accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「写文・夏の花」

2012-08-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


2012/08/14
ぽかぽか春庭Ya!ちまた>女と災厄(9)写文・原民喜「夏の花」

 毎年、8月15日には憲法9条写文を行っています。今年も、15日は、祈りをこめて鎮魂の願いをこめて写します。

 今年は、9条写文の前に、「夏の花」のコピーペーストを行います。著作権切れ作品の入力を続けている青空文庫入力ボランティアさんに感謝します。(漢字仮名振り措置は、青空の入力のままです)

 周囲一面、土塀は崩れ建物は吹き飛んでいる。楓の木は幹の真ん中からぽっくりと折れ、顔中を血だらけ倒れ伏している人の中を歩きながら、原はこう考えます。まだ、この災厄の全貌を知らぬままに。
 「かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己(おのれ)が生きていることと、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。


 書きのこされた「夏の花」を、写します。


「夏の花」原民喜 

わが愛する者よ請(こ)う急ぎはしれ
香(かぐ)わしき山々の上にありて(のろ)の
ごとく小鹿のごとくあれ

 私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻にとって初盆(にいぼん)にあたるのだが、それまでこのふるさとの街が無事かどうかは疑わしかった。恰度(ちょうど)、休電日ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小瓣の可憐(かれん)な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。
 炎天に曝(さら)されている墓石に水を打ち、その花を二つに分けて左右の花たてに差すと、墓のおもてが何となく清々(すがすが)しくなったようで、私はしばらく花と石に視入(みい)った。この墓の下には妻ばかりか、父母の骨も納っているのだった。持って来た線香にマッチをつけ、黙礼を済ますと私はかたわらの井戸で水を呑(の)んだ。それから、饒津(にぎつ)公園の方を廻って家に戻ったのであるが、その日も、その翌日も、私のポケットは線香の匂(にお)いがしみこんでいた。原子爆弾に襲われたのは、その翌々日のことであった。

 私は厠(かわや)にいたため一命を拾った。八月六日の朝、私は八時頃床を離れた。前の晩二回も空襲警報が出、何事もなかったので、夜明前には服を全部脱いで、久し振りに寝間着に着替えて睡(ねむ)った。それで、起き出した時もパンツ一つであった。妹はこの姿をみると、朝寝したことをぶつぶつ難じていたが、私は黙って便所へ這入(はい)った。
 それから何秒後のことかはっきりしないが、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇(くらやみ)がすべり墜(お)ちた。私は思わずうわあと喚(わめ)き、頭に手をやって立上った。嵐(あらし)のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった。その時まで、私はうわあという自分の声を、ざあーというもの音の中にはっきり耳にきき、眼が見えないので悶(もだ)えていた。しかし、縁側に出ると、間もなく薄らあかりの中に破壊された家屋が浮び出し、気持もはっきりして来た。
 それはひどく厭(いや)な夢のなかの出来事に似ていた。最初、私の頭に一撃が加えられ眼が見えなくなった時、私は自分が斃(たお)れてはいないことを知った。それから、ひどく面倒なことになったと思い腹立たしかった。そして、うわあと叫んでいる自分の声が何だか別人の声のように耳にきこえた。しかし、あたりの様子が朧(おぼろ)ながら目に見えだして来ると、今度は惨劇の舞台の中に立っているような気持であった。たしか、こういう光景は映画などで見たことがある。濛々(もうもう)と煙る砂塵(さじん)のむこうに青い空間が見え、つづいてその空間の数が増えた。壁の脱落した処(ところ)や、思いがけない方向から明りが射(さ)して来る。畳の飛散った坐板の上をそろそろ歩いて行くと、向うから凄(す)さまじい勢で妹が駈(か)けつけて来た。
「やられなかった、やられなかったの、大丈夫」と妹は叫び、「眼から血が出ている、早く洗いなさい」と台所の流しに水道が出ていることを教えてくれた。
 私は自分が全裸体でいることを気付いたので、「とにかく着るものはないか」と妹を顧ると、妹は壊れ残った押入からうまくパンツを取出してくれた。そこへ誰か奇妙な身振りで闖入(ちんにゅう)して来たものがあった。顔を血だらけにし、シャツ一枚の男は工場の人であったが、私の姿を見ると、「あなたは無事でよかったですな」と云い捨て、「電話、電話、電話をかけなきゃ」と呟(つぶや)きながら忙しそうに何処(どこ)かへ立去った。
 到(いた)るところに隙間(すきま)が出来、建具も畳も散乱した家は、柱と閾(しきい)ばかりがはっきりと現れ、しばし奇異な沈黙をつづけていた。これがこの家の最後の姿らしかった。後で知ったところに依(よ)ると、この地域では大概の家がぺしゃんこに倒壊したらしいのに、この家は二階も墜ちず床もしっかりしていた。余程しっかりした普請(ふしん)だったのだろう。四十年前、神経質な父が建てさせたものであった。
 私は錯乱した畳や襖(ふすま)の上を踏越えて、身につけるものを探した。上着はすぐに見附かったがずぼんを求めてあちこちしていると、滅茶苦茶に散らかった品物の位置と姿が、ふと忙しい眼に留るのであった。昨夜まで読みかかりの本が頁(ページ)をまくれて落ちている。長押(なげし)から墜落した額が殺気を帯びて小床を塞(ふさ)いでいる。ふと、何処からともなく、水筒が見つかり、つづいて帽子が出て来た。ずぼんは見あたらないので、今度は足に穿(は)くものを探していた。
 その時、座敷の縁側に事務室のKが現れた。Kは私の姿を認めると、
「ああ、やられた、助けてえ」と悲痛な声で呼びかけ、そこへ、ぺったり坐り込んでしまった。額に少し血が噴出(ふきで)ており、眼は涙ぐんでいた。
「何処をやられたのです」と訊ねると、「膝(ひざ)じゃ」とそこを押えながら皺(しわ)の多い蒼顔(そうがん)を歪(ゆが)める。
 私は側(そば)にあった布切れを彼に与えておき、靴下を二枚重ねて足に穿いた。
「あ、煙が出だした、逃げよう、連れて逃げてくれ」とKは頻(しき)りに私を急(せ)かし出す。この私よりかなり年上の、しかし平素ははるかに元気なKも、どういうものか少し顛動(てんどう)気味であった。
 縁側から見渡せば、一めんに崩れ落ちた家屋の塊(かたまり)があり、やや彼方(かなた)の鉄筋コンクリートの建物が残っているほか、目標になるものも無い。庭の土塀のくつがえった脇(わき)に、大きな楓(かえで)の幹が中途からポックリ折られて、梢(こずえ)を手洗鉢(てあらいばち)の上に投出している。ふと、Kは防空壕(ぼうくうごう)のところへ屈(かが)み、
「ここで、頑張ろうか、水槽もあるし」と変なことを云う。
「いや、川へ行きましょう」と私が云うと、Kは不審そうに、
「川? 川はどちらへ行ったら出られるのだったかしら」と嘯(うそぶ)く。
 とにかく、逃げるにしてもまだ準備が整わなかった。私は押入から寝間着をとり出し彼に手渡し、更に縁側の暗幕を引裂いた。座蒲団(ざぶとん)も拾った。縁側の畳をはねくり返してみると、持逃げ用の雑嚢(ざつのう)が出て来た。私は吻(ほっ)としてそのカバンを肩にかけた。隣の製薬会社の倉庫から赤い小さな焔(ほのお)の姿が見えだした。いよいよ逃げだす時機であった。私は最後に、ポックリ折れ曲った楓の側を踏越えて出て行った。
 その大きな楓は昔から庭の隅にあって、私の少年時代、夢想の対象となっていた樹木である。それが、この春久し振りに郷里の家に帰って暮すようになってからは、どうも、もう昔のような潤(うるお)いのある姿が、この樹木からさえ汲(く)みとれないのを、つくづく私は奇異に思っていた。不思議なのは、この郷里全体が、やわらかい自然の調子を喪(うしな)って、何か残酷な無機物の集合のように感じられることであった。私は庭に面した座敷に這入って行くたびに、「アッシャ家の崩壊」という言葉がひとりでに浮んでいた。

 Kと私とは崩壊した家屋の上を乗越え、障害物を除(よ)けながら、はじめはそろそろと進んで行く。そのうちに、足許(あしもと)が平坦(へいたん)な地面に達し、道路に出ていることがわかる。すると今度は急ぎ足でとっとと道の中ほどを歩く。ぺしゃんこになった建物の蔭(かげ)からふと、「おじさん」と喚く声がする。振返ると、顔を血だらけにした女が泣きながらこちらへ歩いて来る。「助けてえ」と彼女は脅(おび)えきった相で一生懸命ついて来る。暫(しばら)く行くと、路上に立はだかって、「家が焼ける、家が焼ける」と子供のように泣喚いている老女と出逢(であ)った。煙は崩れた家屋のあちこちから立昇っていたが、急に焔の息が烈(はげ)しく吹きまくっているところへ来る。走って、そこを過ぎると、道はまた平坦となり、そして栄橋の袂(たもと)に私達は来ていた。ここには避難者がぞくぞく蝟集(いしゅう)していた。
「元気な人はバケツで火を消せ」と誰かが橋の上に頑張っている。私は泉邸(せんてい)の藪(やぶ)の方へ道をとり、そして、ここでKとははぐれてしまった。
 その竹藪は薙(な)ぎ倒され、逃げて行く人の勢で、径(みち)が自然と拓(ひら)かれていた。見上げる樹木もおおかた中空で削(そ)ぎとられており、川に添った、この由緒(ゆいしょ)ある名園も、今は傷だらけの姿であった。ふと、灌木(かんぼく)の側にだらりと豊かな肢体を投出して蹲(うずくま)っている中年の婦人の顔があった。魂の抜けはてたその顔は、見ているうちに何か感染しそうになるのであった。こんな顔に出喰わしたのは、これがはじめてであった。が、それよりもっと奇怪な顔に、その後私はかぎりなく出喰わさねばならなかった。
 川岸に出る藪のところで、私は学徒の一塊と出逢った。工場から逃げ出した彼女達は一ように軽い負傷をしていたが、いま眼の前に出現した出来事の新鮮さに戦(おのの)きながら、却(かえ)って元気そうに喋(しゃべ)り合っていた。そこへ長兄の姿が現れた。シャツ一枚で、片手にビール瓶を持ち、まず異状なさそうであった。向岸も見渡すかぎり建物は崩れ、電柱の残っているほか、もう火の手が廻っていた。私は狭い川岸の径へ腰を下ろすと、しかし、もう大丈夫だという気持がした。長い間脅かされていたものが、遂(つい)に来たるべきものが、来たのだった。さばさばした気持で、私は自分が生きながらえていることを顧みた。かねて、二つに一つは助からないかもしれないと思っていたのだが、今、ふと己(おのれ)が生きていることと、その意味が、はっと私を弾(はじ)いた。
 このことを書きのこさねばならない、と、私は心に呟いた。けれども、その時はまだ、私はこの空襲の真相を殆(ほとん)ど知ってはいなかったのである。


 対岸の火事が勢を増して来た。こちら側まで火照(ほて)りが反射して来るので、満潮の川水に座蒲団を浸しては頭にかむる。そのうち、誰かが「空襲」と叫ぶ。「白いものを着たものは木蔭へ隠れよ」という声に、皆はぞろぞろ藪の奥へ匐(は)って行く。陽は燦々(さんさん)と降り灑(そそ)ぎ藪の向うも、どうやら火が燃えている様子だ。暫く息を殺していたが、何事もなさそうなので、また川の方へ出て来ると、向岸の火事は更に衰えていない。熱風が頭上を走り、黒煙が川の中ほどまで煽(あお)られて来る。その時、急に頭上の空が暗黒と化したかと思うと、沛然(はいぜん)として大粒の雨が落ちて来た。雨はあたりの火照りを稍々(やや)鎮(しず)めてくれたが、暫くすると、またからりと晴れた天気にもどった。対岸の火事はまだつづいていた。今、こちらの岸には長兄と妹とそれから近所の見知った顔が二つ三つ見受けられたが、みんなは寄り集って、てんでに今朝の出来事を語り合うのであった。
 あの時、兄は事務室のテーブルにいたが、庭さきに閃光(せんこう)が走ると間もなく、一間あまり跳ね飛ばされ、家屋の下敷になって暫く藻掻(もが)いた。やがて隙間があるのに気づき、そこから這い出すと、工場の方では、学徒が救いを求めて喚叫している――兄はそれを救い出すのに大奮闘した。妹は玄関のところで光線を見、大急ぎで階段の下に身を潜めたため、あまり負傷を受けなかった。みんな、はじめ自分の家だけ爆撃されたものと思い込んで、外に出てみると、何処も一様にやられているのに唖然(あぜん)とした。それに、地上の家屋は崩壊していながら、爆弾らしい穴があいていないのも不思議であった。あれは、警戒警報が解除になって間もなくのことであった。ピカッと光ったものがあり、マグネシュームを燃すようなシューッという軽い音とともに一瞬さっと足もとが回転し、……それはまるで魔術のようであった、と妹は戦きながら語るのであった。
 向岸の火が鎮まりかけると、こちらの庭園の木立が燃えだしたという声がする。かすかな煙が後の藪の高い空に見えそめていた。川の水は満潮の儘(まま)まだ退(ひ)こうとしない。私は石崖(いしがけ)を伝って、水際(みずぎわ)のところへ降りて行ってみた。すると、すぐ足許のところを、白木の大きな函(はこ)が流れており、函から喰(は)み出た玉葱(たまねぎ)があたりに漾(ただよ)っていた。私は函を引寄せ、中から玉葱を掴(つか)み出しては、岸の方へ手渡した。これは上流の鉄橋で貨車が顛覆(てんぷく)し、そこからこの函は放り出されて漾って来たものであった。私が玉葱を拾っていると、「助けてえ」という声がきこえた。木片に取縋(とりすが)りながら少女が一人、川の中ほどを浮き沈みして流されて来る。私は大きな材木を選ぶとそれを押すようにして泳いで行った。久しく泳いだこともない私ではあったが、思ったより簡単に相手を救い出すことが出来た。
 暫く鎮まっていた向岸の火が、何時(いつ)の間にかまた狂い出した。今度は赤い火の中にどす黒い煙が見え、その黒い塊が猛然と拡(ひろが)って行き、見る見るうちに焔の熱度が増すようであった。が、その無気味な火もやがて燃え尽すだけ燃えると、空虚な残骸(ざんがい)の姿となっていた。その時である、私は川下の方の空に、恰度(ちょうど)川の中ほどにあたって、物凄(ものすご)い透明な空気の層が揺れながら移動して来るのに気づいた。竜巻(たつまき)だ、と思ううちにも、烈しい風は既に頭上をよぎろうとしていた。まわりの草木がことごとく慄(ふる)え、と見ると、その儘引抜かれて空に攫(さら)われて行く数多(あまた)の樹木があった。空を舞い狂う樹木は矢のような勢で、混濁の中に墜ちて行く。私はこの時、あたりの空気がどんな色彩であったか、はっきり覚えてはいない。が、恐らく、ひどく陰惨な、地獄絵巻の緑の微光につつまれていたのではないかとおもえるのである。
 この竜巻が過ぎると、もう夕方に近い空の気配が感じられていたが、今迄姿を見せなかった二番目の兄が、ふとこちらにやって来たのであった。顔にさっと薄墨色の跡があり、脊のシャツも引裂かれている。その海水浴で日焦(ひやけ)した位の皮膚の跡が、後には化膿(かのう)を伴う火傷(やけど)となり、数カ月も治療を要したのだが、この時はまだこの兄もなかなか元気であった。彼は自宅へ用事で帰ったとたん、上空に小さな飛行機を認め、つづいて三つの妖(あや)しい光を見た。それから地上に一間あまり跳ね飛ばされた彼は、家の下敷になって藻掻いている家内と女中を救い出し、子供二人は女中に托(たく)して先に逃げのびさせ、隣家の老人を助けるのに手間どっていたという。
 嫂(あによめ)がしきりに別れた子供のことを案じていると、向岸の河原(かわら)から女中の呼ぶ声がした。手が痛くて、もう子供を抱(かか)えきれないから早く来てくれというのであった。
 泉邸の杜(もり)も少しずつ燃えていた。夜になってこの辺まで燃え移って来るといけないし、明るいうちに向岸の方へ渡りたかった。が、そこいらには渡舟も見あたらなかった。長兄たちは橋を廻って向岸へ行くことにし、私と二番目の兄とはまた渡舟を求めて上流の方へ溯(さかのぼ)って行った。水に添う狭い石の通路を進んで行くに随(したが)って、私はここではじめて、言語に絶する人々の群を見たのである。既に傾いた陽ざしは、あたりの光景を青ざめさせていたが、岸の上にも岸の下にも、そのような人々がいて、水に影を落していた。どのような人々であるか……。男であるのか、女であるのか、殆ど区別もつかない程、顔がくちゃくちゃに腫(は)れ上って、随って眼は糸のように細まり、唇(くちびる)は思いきり爛(ただ)れ、それに、痛々しい肢体を露出させ、虫の息で彼等は横(よこた)わっているのであった。私達がその前を通って行くに随ってその奇怪な人々は細い優しい声で呼びかけた。「水を少し飲ませて下さい」とか、「助けて下さい」とか、殆どみんながみんな訴えごとを持っているのだった。
「おじさん」と鋭い哀切な声で私は呼びとめられていた。見ればすぐそこの川の中には、裸体の少年がすっぽり頭まで水に漬(つか)って死んでいたが、その屍体(したい)と半間も隔たらない石段のところに、二人の女が蹲っていた。その顔は約一倍半も膨脹し、醜く歪み、焦げた乱髪が女であるしるしを残している。これは一目見て、憐愍(れんびん)よりもまず、身の毛のよだつ姿であった。が、その女達は、私の立留ったのを見ると、
「あの樹のところにある蒲団は私のですからここへ持って来て下さいませんか」と哀願するのであった。
 見ると、樹のところには、なるほど蒲団らしいものはあった。だが、その上にはやはり瀕死(ひんし)の重傷者が臥(ふ)していて、既にどうにもならないのであった。
 私達は小さな筏(いかだ)を見つけたので、綱を解いて、向岸の方へ漕(こ)いで行った。筏が向うの砂原に着いた時、あたりはもう薄暗かったが、ここにも沢山の負傷者が控えているらしかった。水際に蹲っていた一人の兵士が、「お湯をのましてくれ」と頼むので、私は彼を自分の肩に依り掛からしてやりながら、歩いて行った。苦しげに、彼はよろよろと砂の上を進んでいたが、ふと、「死んだ方がましさ」と吐き棄(す)てるように呟(つぶや)いた。私も暗然として肯(うなず)き、言葉は出なかった。愚劣なものに対する、やりきれない憤(いきどお)りが、この時我々を無言で結びつけているようであった。私は彼を中途に待たしておき、土手の上にある給湯所を石崖の下から見上げた。すると、今湯気の立昇っている台の処(ところ)で、茶碗(ちゃわん)を抱えて、黒焦(くろこげ)の大頭がゆっくりと、お湯を呑(の)んでいるのであった。その厖大(ぼうだい)な、奇妙な顔は全体が黒豆の粒々で出来上っているようであった。それに頭髪は耳のあたりで一直線に刈上げられていた。(その後、一直線に頭髪の刈上げられている火傷者を見るにつけ、これは帽子を境に髪が焼きとられているのだということを気付くようになった。)暫くして、茶碗を貰(もら)うと、私はさっきの兵隊のところへ持運んで行った。ふと見ると、川の中に、これは一人の重傷兵が膝(ひざ)を屈(かが)めて、そこで思いきり川の水を呑み耽(ふけ)っているのであった。
 夕闇(ゆうやみ)の中に泉邸の空やすぐ近くの焔があざやかに浮出て来ると、砂原では木片を燃やして夕餉(ゆうげ)の焚(た)き出(だ)しをするものもあった。さっきから私のすぐ側に顔をふわふわに膨らした女が横わっていたが、水をくれという声で、私ははじめて、それが次兄の家の女中であることに気づいた。彼女は赤ん坊を抱えて台所から出かかった時、光線に遭い、顔と胸と手を焼かれた。それから、赤ん坊と長女を連れて兄達より一足さきに逃げたが、橋のところで長女とはぐれ、赤ん坊だけを抱えてこの河原に来ていたのである。最初顔に受けた光線を遮(さえぎ)ろうとして覆(おお)うた手が、その手が、今も捩(も)ぎとられるほど痛いと訴えている。
 潮が満ちて来だしたので、私達はこの河原を立退(たちの)いて、土手の方へ移って行った。日はとっぷり暮れたが、「水をくれ、水をくれ」と狂いまわる声があちこちできこえ、河原にとり残されている人々の騒ぎはだんだん烈しくなって来るようであった。この土手の上は風があって、睡(ねむ)るには少し冷々していた。すぐ向うは饒津公園であるが、そこも今は闇に鎖(とざ)され、樹の折れた姿がかすかに見えるだけであった。兄達は土の窪(くぼ)みに横わり、私も別に窪地をみつけて、そこへ這入(はい)って行った。すぐ側には傷ついた女学生が三四人横臥(おうが)していた。
「向うの木立が燃えだしたが逃げた方がいいのではないかしら」と誰かが心配する。窪地を出て向うを見ると、二三町さきの樹に焔がキラキラしていたが、こちらへ燃え移って来そうな気配もなかった。
「火は燃えて来そうですか」と傷ついた少女は脅えながら私に訊(き)く。
「大丈夫だ」と教えてやると、「今、何時頃でしょう、まだ十二時にはなりませんか」とまた訊く。
 その時、警戒警報が出た。どこかにまだ壊れなかったサイレンがあるとみえて、かすかにその響がする。街の方はまだ熾(さか)んに燃えているらしく、茫(ぼう)とした明りが川下の方に見える。
「ああ、早く朝にならないのかなあ」と女学生は嘆く。
「お母さん、お父さん」とかすかに静かな声で合唱している。
「火はこちらへ燃えて来そうですか」と傷ついた少女がまた私に訊(たず)ねる。
 河原の方では、誰か余程元気な若者らしいものの、断末魔のうめき声がする。その声は八方に木霊(こだま)し、走り廻っている。「水を、水を、水を下さい、……ああ、……お母さん、……姉さん、……光ちゃん」と声は全身全霊を引裂くように迸(ほとばし)り、「ウウ、ウウ」と苦痛に追いまくられる喘(あえ)ぎが弱々しくそれに絡(から)んでいる。――幼い日、私はこの堤を通って、その河原に魚を獲(と)りに来たことがある。その暑い日の一日の記憶は不思議にはっきりと残っている。砂原にはライオン歯磨(はみがき)の大きな立看板があり、鉄橋の方を時々、汽車が轟(ごう)と通って行った。夢のように平和な景色があったものだ。

 夜が明けると昨夜の声は熄(や)んでいた。あの腸(はらわた)を絞る断末魔の声はまだ耳底に残っているようでもあったが、あたりは白々と朝の風が流れていた。長兄と妹とは家の焼跡の方へ廻り、東練兵場に施療所があるというので、次兄達はそちらへ出掛けた。私もそろそろ、東練兵場の方へ行こうとすると、側(そば)にいた兵隊が同行を頼んだ。その大きな兵隊は、余程ひどく傷ついているのだろう、私の肩に凭掛(よりかか)りながら、まるで壊れものを運んでいるように、おずおずと自分の足を進めて行く。それに足許(あしもと)は、破片といわず屍(しかばね)といわずまだ余熱を燻(くすぶ)らしていて、恐しく嶮悪(けんあく)であった。常盤橋(ときわばし)まで来ると、兵隊は疲れはて、もう一歩も歩けないから置去りにしてくれという。そこで私は彼と別れ、一人で饒津公園の方へ進んだ。ところどころ崩れたままで焼け残っている家屋もあったが、到(いた)る処、光の爪跡(つめあと)が印されているようであった。とある空地(あきち)に人が集っていた。水道がちょろちょろ出ているのであった。ふとその時、姪(めい)が東照宮の避難所で保護されているということを、私は小耳に挿(はさ)んだ。
 急いで、東照宮の境内へ行ってみた。すると、いま、小さな姪は母親と対面しているところであった。昨日、橋のところで女中とはぐれ、それから後は他所(よそ)の人に従(つ)いて逃げて行ったのであるが、彼女は母親の姿を見ると、急に堪(た)えられなくなったように泣きだした。その首が火傷(やけど)で黒く痛そうであった。
 施療所は東照宮の鳥居の下の方に設けられていた。はじめ巡査が一通り原籍年齢などを取調べ、それを記入した紙片を貰(もろ)うてからも、負傷者達は長い行列を組んだまま炎天の下にまだ一時間位は待たされているのであった。だが、この行列に加われる負傷者ならまだ結構な方かもしれないのだった。今も、「兵隊さん、兵隊さん、助けてよう、兵隊さん」と火のついたように泣喚(なきわめ)く声がする。路傍に斃(たお)れて反転する火傷の娘であった。かと思うと、警防団の服装をした男が、火傷で膨脹した頭を石の上に横(よこた)えたまま、まっ黒の口をあけて、「誰か私を助けて下さい、ああ看護婦さん、先生」と弱い声できれぎれに訴えているのである。が、誰も顧みてはくれないのであった。巡査も医者も看護婦も、みな他の都市から応援に来たものばかりで、その数も限られていた。
 私は次兄の家の女中に附添って行列に加わっていたが、この女中も、今はだんだんひどく膨れ上って、どうかすると地面に蹲(うずくま)りたがった。漸(ようや)く順番が来て加療が済むと、私達はこれから憩(いこ)う場所を作らねばならなかった。境内到る処に重傷者はごろごろしているが、テントも木蔭(こかげ)も見あたらない。そこで、石崖(いしがけ)に薄い材木を並べ、それで屋根のかわりとし、その下へ私達は這入り込んだ。この狭苦しい場所で、二十四時間あまり、私達六名は暮したのであった。
 すぐ隣にも同じような恰好(かっこう)の場所が設けてあったが、その筵(むしろ)の上にひょこひょこ動いている男が、私の方へ声をかけた。シャツも上衣(うわぎ)もなかったし、長ずぼんが片脚分だけ腰のあたりに残されていて、両手、両足、顔をやられていた。この男は、中国ビルの七階で爆弾に遇(あ)ったのだそうだが、そんな姿になりはてても、頗(すこぶ)る気丈夫なのだろう、口で人に頼み、口で人を使い到頭ここまで落ちのびて来たのである。そこへ今、満身血まみれの、幹部候補生のバンドをした青年が迷い込んで来た。すると、隣の男は屹(きっ)となって、
「おい、おい、どいてくれ、俺の体はめちゃくちゃになっているのだから、触りでもしたら承知しないぞ、いくらでも場所はあるのに、わざわざこんな狭いところへやって来なくてもいいじゃないか、え、とっとと去ってくれ」と唸(うな)るように押っかぶせて云った。血まみれの青年はきょとんとして腰をあげた。
 私達の寝転んでいる場所から二米(メートル)あまりの地点に、葉のあまりない桜の木があったが、その下に女学生が二人ごろりと横わっていた。どちらも、顔を黒焦げにしていて、痩(や)せた脊を炎天に晒(さら)し、水を求めては呻(うめ)いている。この近辺へ芋掘作業に来て遭難した女子商業の学徒であった。そこへまた、燻製(くんせい)の顔をした、モンペ姿の婦人がやって来ると、ハンドバッグを下に置きぐったりと膝を伸した。……日は既に暮れかかっていた。ここでまた夜を迎えるのかと思うと私は妙に佗(わび)しかった。


 夜明前から念仏の声がしきりにしていた。ここでは誰かが、絶えず死んで行くらしかった。朝の日が高くなった頃、女子商業の生徒も、二人とも息をひきとった。溝(みぞ)にうつ伏せになっている死骸(しがい)を調べ了(お)えた巡査が、モンペ姿の婦人の方へ近づいて来た。これも姿勢を崩して今はこときれているらしかった。巡査がハンドバッグを披(ひら)いてみると、通帳や公債が出て来た。旅装のまま、遭難した婦人であることが判(わか)った。
 昼頃になると、空襲警報が出て、爆音もきこえる。あたりの悲惨醜怪さにも大分馴(な)らされているものの、疲労と空腹はだんだん激しくなって行った。次兄の家の長男と末の息子は、二人とも市内の学校へ行っていたので、まだ、どうなっているかわからないのであった。人はつぎつぎに死んで行き、死骸はそのまま放ってある。救いのない気持で人はそわそわ歩いている。それなのに、練兵場の方では、いま自棄(やけ)に嚠喨(りゅうりょう)として喇叭(らっぱ)が吹奏されていた。
 火傷した姪たちはひどく泣喚くし、女中は頻(しき)りに水をくれと訴える。いい加減、みんなほとほと弱っているところへ、長兄が戻って来た。彼は昨日は嫂の疎開先である廿日市(はつかいち)町の方へ寄り、今日は八幡村の方へ交渉して荷馬車を傭(やと)って来たのである。そこでその馬車に乗って私達はここを引上げることになった。


 馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津(にぎつ)へ出た。馬車が白島から泉邸入口の方へ来掛った時のことである。西練兵場寄りの空地に、見憶(みおぼ)えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集った。見憶えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は甥(おい)の文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大(こぶしだい)の腫(は)れものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微(かす)かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握り締め、爪が喰込んでいた。その側に中学生の屍体が一つ、それから又離れたところに、若い女の死体が一つ、いずれも、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の爪を剥(は)ぎ、バンドを形見にとり、名札をつけて、そこを立去った。涙も乾きはてた遭遇であった。


 馬車はそれから国泰寺の方へ出、住吉橋を越して己斐(こい)の方へ出たので、私は殆(ほとん)ど目抜(めぬき)の焼跡を一覧することが出来た。ギラギラと炎天の下に横わっている銀色の虚無のひろがりの中に、路(みち)があり、川があり、橋があった。そして、赤むけの膨れ上った屍体がところどころに配置されていた。これは精密巧緻(こうち)な方法で実現された新地獄に違いなく、ここではすべて人間的なものは抹殺(まっさつ)され、たとえば屍体の表情にしたところで、何か模型的な機械的なものに置換えられているのであった。苦悶(くもん)の一瞬足掻(あが)いて硬直したらしい肢体は一種の妖(あや)しいリズムを含んでいる。電線の乱れ落ちた線や、おびただしい破片で、虚無の中に痙攣(けいれん)的の図案が感じられる。だが、さっと転覆して焼けてしまったらしい電車や、巨大な胴を投出して転倒している馬を見ると、どうも、超現実派の画の世界ではないかと思えるのである。国泰寺の大きな楠(くすのき)も根こそぎ転覆していたし、墓石も散っていた。外郭だけ残っている浅野図書館は屍体収容所となっていた。路はまだ処々で煙り、死臭に満ちている。川を越すたびに、橋が墜ちていないのを意外に思った。この辺の印象は、どうも片仮名で描きなぐる方が応(ふさ)わしいようだ。それで次に、そんな一節を挿入(そうにゅう)しておく。


ギラギラノ破片ヤ
灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアッタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトッテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ


 倒壊の跡のはてしなくつづく路を馬車は進んで行った。郊外に出ても崩れている家屋が並んでいたが、草津をすぎると漸くあたりも青々として災禍の色から解放されていた。そして青田の上をすいすいと蜻蛉(とんぼ)の群が飛んでゆくのが目に沁(し)みた。それから八幡村までの長い単調な道があった。八幡村へ着いたのは、日もとっぷり暮れた頃であった。そして翌日から、その土地での、悲惨な生活が始った。負傷者の恢復(かいふく)もはかどらなかったが、元気だったものも、食糧不足からだんだん衰弱して行った。火傷した女中の腕はひどく化膿(かのう)し、蠅(はえ)が群れて、とうとう蛆(うじ)が湧(わ)くようになった。蛆はいくら消毒しても、後から後から湧いた。そして、彼女は一カ月あまりの後、死んで行った。

 この村へ移って四五日目に、行方不明であった中学生の甥が帰って来た。彼はあの朝、建もの疎開のため学校へ行ったが恰度(ちょうど)、教室にいた時光を見た。瞬間、机の下に身を伏せ、次いで天井が墜(お)ちて埋れたが、隙間(すきま)を見つけて這い出した。這い出して逃げのびた生徒は四五名にすぎず、他は全部、最初の一撃で駄目になっていた。彼は四五名と一緒に比治山(ひじやま)に逃げ、途中で白い液体を吐いた。それから一緒に逃げた友人の処へ汽車で行き、そこで世話になっていたのだそうだ。しかし、この甥もこちらへ帰って来て、一週間あまりすると、頭髪が抜け出し、二日位ですっかり禿(はげ)になってしまった。今度の遭難者で、頭髪が抜け鼻血が出だすと大概助からない、という説がその頃大分ひろまっていた。頭髪が抜けてから十二三日目に、甥はとうとう鼻血を出しだした。医者はその夜が既にあぶなかろうと宣告していた。しかし、彼は重態のままだんだん持ちこたえて行くのであった。


 Nは疎開工場の方へはじめて汽車で出掛けて行く途中、恰度汽車がトンネルに入った時、あの衝撃を受けた。トンネルを出て、広島の方を見ると、落下傘(らっかさん)が三つ、ゆるく流れてゆくのであった。それから次の駅に汽車が着くと、駅のガラス窓がひどく壊れているのに驚いた。やがて、目的地まで達した時には、既に詳しい情報が伝わっていた。彼はその足ですぐ引返すようにして汽車に乗った。擦れ違う列車はみな奇怪な重傷者を満載していた。彼は街の火災が鎮(しず)まるのを待ちかねて、まだ熱いアスファルトの上をずんずん進んで行った。そして一番に妻の勤めている女学校へ行った。教室の焼跡には、生徒の骨があり、校長室の跡には校長らしい白骨があった。が、Nの妻らしいものは遂(つい)に見出(みいだ)せなかった。彼は大急ぎで自宅の方へ引返してみた。そこは宇品の近くで家が崩れただけで火災は免れていた。が、そこにも妻の姿は見つからなかった。それから今度は自宅から女学校へ通じる道に斃(たお)れている死体を一つ一つ調べてみた。大概の死体が打伏(うつぶ)せになっているので、それを抱き起しては首実検するのであったが、どの女もどの女も変りはてた相をしていたが、しかし彼の妻ではなかった。しまいには方角違いの処まで、ふらふらと見て廻った。水槽の中に折重なって漬(つか)っている十あまりの死体もあった。河岸(かし)に懸っている梯子(はしご)に手をかけながら、その儘(まま)硬直している三つの死骸があった。バスを待つ行列の死骸は立ったまま、前の人の肩に爪を立てて死んでいた。郡部から家屋疎開の勤労奉仕に動員されて、全滅している群も見た。西練兵場の物凄(ものすご)さといったらなかった。そこは兵隊の死の山であった。しかし、どこにも妻の死骸はなかった。
 Nはいたるところの収容所を訪ね廻って、重傷者の顔を覗(のぞ)き込んだ。どの顔も悲惨のきわみではあったが、彼の妻の顔ではなかった。そうして、三日三晩、死体と火傷患者をうんざりするほど見てすごした挙句(あげく)、Nは最後にまた妻の勤め先である女学校の焼跡を訪れた。

(昭和二十二年六月号『三田文学』)
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「記憶の糸を紡ぐ- 震災・戦争・女」

2012-08-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/08/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(6)記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女

 震災や原発によって、さまざまな経験をなさった方々、その記憶を語り、伝えてほしいと願っています。

 今回の「記憶の糸を紡ぐ 震災・戦争・女」は、2012年5月に慶應義塾大学日吉キャンパスで開催された「富山妙子作品展&講演会」のタイトルです。主催者は、慶應義塾大学教養研究センター日吉行事企画委員会。富山妙子の絵の展示は8日から15日までの8日間。講演会は12日でした。

 私は、この展覧会に行くことはできず、残念な思いをしましたが、7月7日に下北沢のラプラスで行われた富山妙子の公開インタビュークを聞きに行くことができました。
 7月7日のインタビューは、VAWW RAC(ヴァウラック=「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)の企画、「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」について。

 私は、このシリーズの3回と4回は友人A子さんと、5回目は一人で参加しました。5回目がひとりになったのは、講演時間が急遽変更になったためです。午後から夜に変わったというお知らせをハガキで受け取り、土曜日の夜では、現在は母一人子一人の生活になっているA子さんは無理かな、と思って会場へ行ってみたのですが、土曜夜は、やはり参加できない時間帯だったみたい。

 富山妙子公開インタビュー第4回「はじけ鳳仙花 わが朝鮮・わが韓国-金芝河、そして光州-倒れた者への祈祷-」は、2012年5月26日(土)に行われました。このときの時間帯は、午後でした。

 第4回の内容を知りたい方は、以下のサイトに要約が出ています。
http://kihachin.net/klog/archives/2012/05/tomiyama4.html (喜八ログ)

 私がある考え方や主張をする人々に対して「信用できる」と考えるその方法のひとつは、「現在の日本社会において、そういう発言をすることが、生きにくさに繋がってしまい、仕事とか生活に不自由が及ぶのではないか」と心配されるようなことを、その心配を押して活動しているのかどうか。という判断基準によります。

 どう見ても自分の得になることをしている人が、何を言っても、「自分の利益のために、どうぞ、おやりなさい」と、言っていられる。「原発は絶対安全」と言った人たちと、「原発に絶対安全はない」と、言った人のどちらを信用したかというと、「絶対安全はない」と主張することによって、職場や社会で不利益を被り、それでも主張していた人々です。政府や東電の御用学者となって「絶対安全」と言った人々は、そのことによって大学での地位を保全したり、研究費取得など直接にお金になったり、利益を得ていました。

 私の単純な「信用するかしないか」判断には危険もありますが、「自分の利益にならないことでも、真実だと信じて主張する勇気」を持つ人を、これまで信用してきました。先の15年戦争中、「戦争に反対」と言った人には、日本社会で生活する上で明かな不利益があり、時には牢獄での拷問死が待っていました。それでも「戦争反対」と言い続けた人がいました。水俣病を「チッソの水銀が原因」と主張することによって不利益をこうむった学者や医者、こういう人たちを私は信用できると判断してきたのです。

 VAWW RACの活動には、毀誉褒貶があり、ときにはウヨの攻撃を直接に受けて、活動者は、身に危険を感じながらも活動してきました。
 私は、それがどのような主張であれ、言説を暴力によって封じ込めようとする人たちに与しません。
 言説とは、ときに無力です。でも、決して屈することなく、真実を追求していく人を信じます。

 「富山妙子の思想を検証し継承する」というシリーズの第5回、「戦争責任とアート」の主旨について、VAWW RACは次のように解説しています。

 アジア太平洋戦争後、日本は国家としては自らの戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くこともなかった。各分野で人々は戦争責任にどう向き合ったのか。ことにアートの世界では画家たちはどのように戦争責任と向き合ったのだろうか。画家達が戦争中、国家に協力したことは他のすべての日本人と同じである。しかし、戦後何年も、彼らの作品は人目に触れることはなかった。たとえば、東京国立近代美術館に保管され、戦後長い間公開されることはなかったアジア太平洋戦争記録画は、百数十点にのぼる。「硝煙の道」(猪熊源一郎)、「山下・パーシバル両中将会見図」(宮本三郎)、「シンガポール最後の日」、「アッツ島玉砕」、「血戦ガタルカナル」(藤田嗣治)等の戦争画は長く人の目に触れることはなかった。
 戦後画家として出発した富山妙子は、朝鮮人強制連行、朝鮮人「慰安婦」、金芝河、「満州ハルビン」、ジャパゆきさんと呼ばれたアジアの労働者などをテーマに作品をつくってきた。そしてその背後には、日本の、朝鮮、中国における植民地支配や戦争、そして戦後も続く日本によるアジアの搾取をテーマにしてきた。今回は、富山妙子がアーティストの戦争責任について語る。
[プロジェクトリーダー:中原道子]

 公開インタビュー前半は、日本美術・画壇史について、富山妙子の解説が中心でした。明治時代の日本美術界が、いかに政府側の意向にそって発達してきたか。画壇がいかに政府に協力し、「戦時中は戦意発揚のため」の戦争協力画を描いてきたか、という画壇史の流れを、自身の画家生活史に重ね合わせながら語りました。

 前半の最後には、「質問がありますか、ただし、私の履歴についてもっと詳しく知りたい、という質問であるなら、私の自伝『アジアを抱く―画家人生 記憶と夢』、後ろの机で売っていますから、それを読んでからにしてください」と付け加えるユーモアを忘れていない。

 実を言うと、前半の「明治以来の日本画壇史、戦争協力史」の部分で、私が新しく知ったことはひとつもありませんでした。
 近代美術館で公開されるようになった藤田嗣治らの大きなキャンバスの「戦争画」は、何枚も見て来ました。公開されてきた戦争画のうち、私が見たのは、率直に言って、「戦意発揚」に益するどころか、「反戦」意識の涵養に役立つのではないか、と思えるモチーフのものが多かったです。

 これは、美術館側が意識的に「反戦的」に見えるような、戦争の悲劇を描いているように見える絵を選んで公開しているのかもしれません。
 戦後、日本美術を接収したアメリカから「長期貸与」されているという形の数百枚もの戦争画のうちには、確かに「戦意発揚」に役立つ絵も含まれているにちがいありません。たとえば、横山大観は、第二次世界大戦中、軍のためのプロパガンダ絵画をたくさん描いて、戦争を賛美しました。それでも、私は横山大観の絵や思想のすべてを否定しようとは思いません。ただ、大観の描く富士や龍をあまり好きになれない、と感じるのは、「戦争協力者」であるからゆえではなく、単に私がこの富士や龍が好きじゃない、というだけのこと。
 また、藤田嗣治の絵の中に、戦争賛美と見えるものが含まれていたとしても、藤田の絵が全部きらいになることはありません。

 91歳の画家が2時間ものあいだ、声振り絞って語り続ける、「画家の責任」。私には判断できない大きな問題もあります。ただ、私の個人的な好みで言うなら、芸大教授、国が主導する展覧会の審査員、文化勲章受章、死後も勲位を受ける、という名誉名望に包まれた横山大観よりも、展覧会や講演会を開催する場所さえ制限されたために、「スライド上映による作品公開」を行ってきて、貧しい生活に甘んじて何の名望も求めることなく画業を続けてきた富山妙子の方を「信用できる」と感じてしまう。これは個人の感じ方だから、仕方ない。

 15年戦争=1930~1945年アジア太平洋戦争のあと、日本は連合国側によって裁かれたけれど、日本国側政府が自らを検証して戦争責任を問うことをせず、戦争犯罪を裁くことはしてきませんでした。我々はただ、「戦後復興」を願い、経済優先の社会を築き上げてきました。父が母が、ひっしに働き、子を育てるのにせいいっぱいだった戦後生活史を否定する気はありません。みんな、せいいっぱいだった。でも、今、ふたたび差別や貧困が人々の暮らしを脅かし、不安にさせているとき、「とにかく食べられさえすれば、ほかのことを考えている余裕はない」という生き方を繰り返そうとは思わないのです。これは、飢えたことのない私の傲慢な感じ方かも知れないのですが。

 今の世に「戦争責任」だの「慰安婦問題」だのと口にするだけで、さまざまな不利益が降りかかってきます。それでもなお、91歳にして「画家の戦争責任」を問い続け、炭鉱強制労働者、従軍慰安婦、韓国光州事件などの真実を追い求めている富山妙子。私は彼女を信じ、彼女のように真実を追いたいと願っています。

 私は私のごく狭い見聞のなかでのたうちながら、さまざまなことを学び続けるしか方法がないけれど、学び続けて行きます。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「やがて来る者へ」

2012-08-11 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/08/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>女性と災厄(5)やがて来る者へ

 ナチ協力者であったヴィシー政権による1942年のユダヤ人大量検挙事件、ヴェロドローム・ディヴェール事件と呼ばれる歴史上の事実を、フランス政府が認め、謝罪をしたのは1995年になってからでした。
 一方、イタリアの寒村で起きた「マルツァボット虐殺事件」は、イタリアではよく知られたものだったそうです。第2次世界大戦中、枢軸国として同盟関係にあったはずのイタリアで、ドイツ軍ナチ親衛隊が、村の住民を皆殺しにした事件です。

 ヨーロッパ戦線ではイタリアとドイツは同盟国として、共に連合軍と戦いました。しかし、1943年7月、連合軍がイタリアのシチリアに上陸、ムッソリーニは逮捕されます。イタリアと連合軍の休戦協定が結ばれると、ムッソリーニ側と反ムッソリーニ派の内戦が始まりました。
 連合軍は、イタリアの南部を占領。ドイツ軍は、北イタリアを占領してムッソリーニを連合国側から奪取し、北イタリアはドイツ軍によって支配されました。
 戦場となった北イタリアのあちこちに、パルチザン派(イタリア解放と反ファシズムを願うムッソリーニへの抵抗勢力)が組織され、ドイツ軍と闘います。
 モンテ・ソーレ集落の虐殺は、このような戦史を背景としています。

 だれがゲリラの一派なのか、民間人なのか、区別がつかないため、として、村中を皆殺しにしてしまう、という事件は、中国で日本軍が行った平頂山事件、ベトナムでアメリカ軍が行ったソンミ村事件など、知られた事件もあります。イタリアではよく知られているというこの「マルツァボット虐殺事件」、私は映画『やがて来る者へ』で、はじめて知りました。以下、ネタバレを含む映画紹介です。

 1944年9月29日、イタリア北部のボローニャ市近くのマルツァボット村、モンテ・ソーレ(大陽山)という集落。
 山間の、静かなのんびりした村で、戦争とは、ボローニャのような大きな町の出来事であり、山村の不自由はあっても、村の暮らしは、戦争前もあまり変わりのないものでした。
 しかし、パルチザンがファシストとの闘いを続けるゲリラ戦が村の近くでも起きるようになり、住民たちの中にもパルチザン志願者が現れます。ドイツ軍から奪った武器などで、武装が始まります。

 映画『やがて来る者へ』は、「マルツァボットの虐殺」を、8才の少女の目を通して描いています。少女の造型は、作家の創作だそうですが、虐殺の事実は、史実に基づいて描いた、ということです。

 モンテ・ソーレ集落に8才の少女、マルティーナが住んでいます。戦争は遠くの出来事で、マルティーナの心は、まもなく生まれてくる赤ちゃんのことでいっぱいです。妹か弟かまだわからないけれど、大家族でわいわいとにぎやかに暮らす一家にとって、新しい命は、希望の光なのです。ことに、一家の心配の種、マルティーナの心にとって、赤ちゃんが光となることを皆が望んでいました。

 マルティーナは、口がきけないのです。生まれつきではなく、マルティーナの腕のなかで、小さな弟が死んでしまった、ということが原因で、心因性の失語症になっていたのです。村の小さな小学校で、マルティーナはいたずら坊主たちにイジメられたりもしますが、貧しくとも助け合っている家族がいるから、決して不幸ではありません。
 マルティーナは、小学校の作文に、次のように書いています。(マルティーナの心の声での朗読)
わたしの家は農家です。小さな家族ですが、じき弟ができます。素敵な馬車に乗る地主さんの土地で働いて、父さんは”作物を納めさせすぎだけれど、地主だから”と言います。時々ドイツ人がものを買いにきます。言葉は通じません。なぜここに来たのでしょうか。なぜ自分の家で、自分の子供達といっしょに過ごさないのでしょうか。ドイツ人は武器でどこかにいる敵を撃ちます。連合軍と戦っているそうです。見たことはありません。あと、反乱軍がいます。彼らを追い払うために戦っているそうです。反乱軍も武器を持ちます。私達と同じ言葉を話し、服装も同じです。隊長はブーボです。皆怖れていても、彼を慕っています。ディーノ伯父さんも彼を思い、助けようと言います。父さんもやはりそう言います。でも土地は放っておけません。それからファシストも、、、、

 声がだせないマルティーナに代わって、先生が朗読します。
ファシストもやってきて、私達の言葉を話します。怒鳴って、反乱軍は山賊だ、殺せ、と言います。それで私は皆、人を殺したいのだと知りました。理由はわかりません」。

 まずしいがのんびりした山村生活を送っていた村の中に、パルティザンに志願する若者が現れ、村は内戦そしてドイツ軍による「反政府派一掃のゲリラ討伐」に巻き込まれてしまいます。
 ドイツ兵がパルチザンを撃ち殺し、パルチザンがドイツ兵の若者を捉えて処刑する。マルティーナは、パルティザンによるドイツ軍捕虜の処刑も、ドイツ軍による村民虐殺もその目で見つづけます。

 ドイツ軍がマルティーナの村を襲い、マルティーナの叔母も母も父も、ドイツ軍によって「パルチザンの協力者」と見なされて一ヶ所に集められ、皆殺しにされます。
 子ども200人以上、女性や老人が半数以上含まれる大人500人以上が、次々に虐殺されました。教会の神父さんも、村のおじいさんもおばあさんも、皆銃弾に倒れました。

 マルティーナは、奇跡的に虐殺の場からのがれ、生まれたばかりの赤ん坊を必死に藪の中に隠します。

 ジョルジョ・ディリッティ監督による、前半の村の生活の描写は、戦争の影も遠く、恋をする若者達、子供たちをいつくしんで育てる親たち、ふつうに生活し生きている人々を描き出しています。なにも知らずにこの映画の冒頭を見たら、「のんきなイタリア農村と少女の成長物語か」と思ってしまうところです。
 監督は、村民の虐殺を描くとともに、村民パルチザンによるドイツ兵の処刑も描いています。どちらも歴史の真実だからです。

 戦後社会の中で、少女マルティーナがどのように成長していったのかは、映画は言及していません。この映画が語られた、ということこそ、マルティーナのその後なのだ、とも思えます。
 「やがて来る者へ」と、村の歴史の真実を語りつぐ、という形で、ラストシーン、木に座っているマルティーナの背中が語っているように思います。

 冒頭の、モンテ・ソーレ山村の暮らしぶり、ソンミ村にも平頂山村にも、それぞれ、つましくとも平和で愛に満ちた家族達が暮らし、今年の作柄について話したり、子どもの失敗を笑い合ったりして、暮らしていたのだろうなあと思います。

 今の学生たち、子ども達、ベトナム戦争で何が起こったかも、15年戦争で日本が何をしたのかも、学校教育ではほとんど知らされていません。
 私は「父が外地で飢え、母が内地で苦労した」という昔話で戦争を知る世代。直接戦争を知る世代ではないけれど、親が体験した事実として戦争は「遠い歴史上の出来事ではなく、親が経験したこと」として、身近なものでした。
 さて、私たちは、やがて来る者へ、何を語りついでいくべきなのか。

 今年も、8月6日9日がすぎ、8月15日がやってきます。
 私たちは、語り継がなければなりません。被害の歴史も、加害の歴史も。

 原爆投下は、人類史上もっとも忌まわしい悲惨な犯罪だったと思います。東京大空襲ほかの都市への無差別爆撃も。非戦闘員である一般市民を殺傷することを前提とした無差別爆撃は「近代戦」のルールにおいて、許されてはならないものでした。しかし、この無差別爆撃をアジアで最初に行ったのは、1938~1941に中国・重慶における日本軍の空爆であったことも忘れてはなりません。被害の歴史も加害の歴史も真実を明らかにすることが、次の悲劇を防ぐのだと考えます。

<つづく>
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする