藤田嗣治自画像1929
20160112
ぽかぽか春庭@アート散歩>2015秋のアート散歩(3)藤田嗣治特集ほか
・11月1日 合唱祭
飯田橋ギンレイでオールナイトの森田芳光特集を見て朝帰り。仮眠後、お昼から友人が出演している合唱祭に出かけました。合唱グループがひとつの区に40団体もあって、12時から6時まで10分弱の持ち時間に数曲を発表します。全国的な合唱コンクールに出場するような実力派もあるし、「腹式呼吸して声を出せばボケ防止にいいよね」的なところもあったけれど、みな楽しそうに歌っていました。ジャズダンス仲間が参加しているグループの歌をきき、ロビーに出て、「とてもすてきな歌声でした」と、感想を述べて帰宅。
・11月14日 日本橋公会堂アンサンブル・アミーチ
桐朋学園の卒業生5人に上野学園卒のひとりが加わった、アンサンブルアミーチというプロ音楽集団。ボーカル2人。フルート、ギター、チェロ、ピアノ。知り合いが行けなくなったので、チケットもったいないから、あげる、というので行ってきました。
曲目第一部は、オーソレミオやフニクリフニクラのようなポピュラー曲から、ヒナステラ作曲『ウェイノ・カルナヴァリート:プネーニャ第2番作品45 パウル・ザッヒャーへのオマージュ』というはじめて聞くチェロ曲まで、バラエティに富む選曲。別のことばで言えば、ソリストがそれぞれに選んだ曲の寄せ集めで統一感ゼロですが、ポピュラー曲は楽しいし、初めて聴く曲は新鮮で、それぞれによかったです。
第2部のメインはボーカル2人の『夕鶴』よりの抜粋。私は、山本安英のおつうが最高と思っていて、オペラはあまり好きではない。山本安英のおつうのセリフ回し、音符で歌うより音楽的です。さいごに力を振り絞って去っていく場面、何度見ても山本の姿に泣けた。(ものすごく画質の粗い、テレビ録画ですけれど)
アミーチのおつう役の香川美智子は、声量はあったけれど、高音に伸びがなく、高い音域が聞きづらかったし、与ひょう役の櫻井淳は声量が足りなかった。でも、私が「夕鶴」をテレビでなく生で聴いたのは初めてのことだったので、興味深く見ることができました。二期会所属の若いふたり、これからオペラ歌手として羽ばたいていってほしい。
・11月14日 竹橋近代美術館 藤田嗣治特集
夕方からの日本橋公会堂アンサンブル・アミーチコンサートに出かける前、近代美術館に寄りました。藤田嗣治特集をやっていたので。
2006年に近代美術館で開催された『生誕120年藤田嗣治展』を見たときは、110点が展示された大規模な展示でした。私は2006年4月20日(木)に見て、なぜか4月22日(土)にもう一度見にいっています。たぶん、招待券が2枚セットで来たのに、いっしょに行く人も、招待券をもらってくれる人も見つからなくて、ひとりで2回見たのだと思います。いつも、おひとり様バーサンです。
今回、25点の東京近代美術館所蔵作品、全部展示。1点だけ京都近代美術館所蔵作品がありました。
「タピスリーの裸婦1923」京都近代美術館所蔵
今回の、近代美術館が所蔵作品だけを並べた25点のうち、戦争画が14点。アメリカが接収した戦争画。返還ではなく「無期限貸与」という名目で近代美術館が所蔵しています。つまり所有者はあくまで戦勝国アメリカです。
藤田の戦争画が全部一度に展示されるのは初めてなので、これはなかなかの企画。
これまで、藤田の描いた「戦争の悲惨を描いた反戦画」のような戦争画は何度か展示され、私も見てきました。『アッツ島玉砕』『サイパン島同胞臣節を全うす』など。
しかし、陸軍委嘱の戦争画のうち、初期の戦意高揚に役だったであろう大画面の戦争画は、これまで、何度か展示替えがあったのに、展示されたのを見たことがなかった。今回、その全容をみることができました。
雑誌に掲載された戦意高揚のための藤田の文章も、展示されていました。
藤田は、8月15日の玉音放送を聞くまで、「日本は最後は絶対に勝つ」と信じていた国民のひとりでした。
『旬刊美術新報』25号(1942年5月)藤田が高らかに「聖戦」の遂行と勝利を語る文章も展示されていました。
「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」「戦争画の写実とは?―現地で語る戦争画問題―」『旬刊美術新報』25号(1942年5月)、「南方戦線の感激を山口蓬春藤田嗣両氏の消息に聴く」『旬刊美術新報』29号(1942年7月)」
藤田は、美術家協会理事長として、意気揚々と戦争遂行に美術界が貢献しうることを語っています。
初期の戦争画「南昌飛行場の焼打」
後期の「サイパン島同胞臣節を全うす1945」などが反戦画とも見えるような描き方になっているのに比べると、「南昌飛行場の焼打」は、飛行機のおもちゃを与えられた男の子のようなはしゃぎっぷりに見えます。中国での戦線拡大が「連戦の勝利」「皇軍大活躍」などと報じられていた国内では、人々はこの「南昌飛行場の焼打」を描く藤田のように、うきうきしていたのではないでしょうか。
日本全体が戦争に浮かれていました。なにせ、正義の聖戦でしたから。次ぎに国民が戦争に巻き込まれるとしても、やっぱりそれは「世界平和維持のための正義の戦い」だろうと思います。飛行機のおもちゃを手にしてはしゃいでいるシンちゃんたちの姿が思い浮かびます。あ、いまどきはヒコーキなんてもんじゃなくて、「国産ステルス戦闘機心神」ですかね。なにしろ、「心神」ですから、はしゃぎっぷりもわかろうもん。
戦後、藤田は戦中の「戦争協力」を非難され、憮然として日本を去ります。「日本に捨てられた」ということばを残して。
美術界は、協会理事長だった藤田ひとりをスケープゴートにすることで、協会全体を守ろうとしたのだろうと思います。藤田は陸軍幹部の子として生まれ、親族にも軍人が多かったので、スケープゴートにしやすかったのではないでしょうか。
戦争協力詩を書いたことを恥じ、東北の山奥に隠棲した高村光太郎のような芸術家もいたけれど、ほとんどは「あれは軍部にだまされてやったこと。ほんとうは平和な日本を望んでいた」というような弁明をもって戦中の言動を否定し、うまく立ち回って戦後を泳いだ芸術家がほとんどでした。みな、フジタひとりに戦争協力の責任をおっかぶせて口をつぐんだのでした。
おそらく、藤田は、そのような祖国の状況に絶望したのだろうと思います。
藤田は、フランス国籍を取得し、以後、レオナール・フジタと名乗ります。25歳年下の君代夫人とともに、静かにフランスでまたスイスで生活し1950年のフランス移住から1968年81歳での死去まで、1度も日本に足を向けませんでした、戦後の自分への扱いがよほど身にこたえたのでしょう。
君代夫人は、フジタの死後、40年間遺作を守り続け、フジタ作品が日本で再び評価される日を待ちました。関連資料や作品は、出身校の東京芸大やポーラ美術館などに残されています。
動物宴1949-1960
今回の企画、たぶん映画『Foujita』との相乗り企画だろうと思います。なにせ、映画の半券があれば、図録は100円引きサービスだって。
小栗康平×オダギリジョーだから、来年あたりギンレイに来たら見に行きます。伝記映画として撮ったのではない、と小栗が述べているそうですが、どんなFoujita像なのか、楽しみです。
フジタとオダギリジョーフジタ
(資料:出品リスト)
[油彩]
「パリ風景」(1918年)
「五人の裸婦」(1923年)
「自画像」(1929年)
「猫」(1940年)
「ラ・フォンテーヌ頌」(1949-60年)
「動物宴」(1949-60年)
「少女」(1956年)
「タピスリーの裸婦」(1923年、京都国立近代美術館蔵)
[水彩・素描]
「自画像」(1929年)
「ラパスの老婆」(1932年)
「リオの人々」(1932年)
[映画]
藤田嗣治監督「現代日本 子供篇」(1937年、東京国立近代美術館フィルムセンター蔵)
[戦争画] 14点
「南昌飛行場の焼打」(1938-39年)
「武漢進撃」(1938-40年)
「哈爾哈河畔之戦闘」(1941年)
「十二月八日の真珠湾」(1942年)
「シンガポール最後の日(ブキ・テマ高地)」(1942年)
「アッツ島玉砕」(1943年)
「ソロモン海域に於ける米兵の末路」(1943年)
「○○部隊の死闘−ニューギニア戦線」(1943年)
「血戦ガダルカナル」(1944年)
「神兵の救出到る」(1944年)
「ブキテマの夜戦」(1944年)
「大柿部隊の奮戦」(1944年)
「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」(1945年)
「サイパン島同胞臣節を全うす」(1945年)
[藤田嗣治旧蔵 挿絵本・装丁本]
ミシェル・ヴォケール著 藤田嗣治挿画『平行棒』(1927年)/藤田嗣治著・挿画『日本昔噺』(1923年)/藤田嗣治著・挿画『巴里の横顔』(1929年) 他
<つづく>