20140717
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>ユリーカ!!(4)かき氷
学生の発表からも、新たに知ることがたくさんあります。
毎期、学生に伝えていること。
教室で講師の講義を聞いているなんていうのは、勉学のほんの一部にすぎない、自分で日本語について不思議に感じたこと、日本文化について知りたいと思ったこと、それを見つけるお手伝いをしているのが講師の講義であって、自分から日本語に向かい合う気持ちが養成できれば、講師の仕事は半ば終了、と学生に伝えています。
学生が自分で疑問を探し出すこと、自分で調べること、それが一番いい教育だと信じています。どんなことも調べればたいていの疑問質問の解答が見つかるご時世になったとはいえ、何も疑問を感じなければ、ことばに立ち向かう姿勢は生まれません。
学生発表の一例。
今期「かき氷」を発表テーマにした学生がいました。
おいしい「天然氷」の店の評判を聞いて、友達といっしょに食べに行った。天然氷は、人造氷と異なって、薄くうすく削ることができるので、かき氷はフワフワの状態に仕上がる。とてもおいしかったけれど、友達と話していて、「いつごろからかき氷って食べるようになったのか」という疑問を感じたのですって。
学生のレポートは、「枕草子四十段」から始まりました。(写本のちがいで、39段に数える本もあり)
そうそう、清少納言も「かき氷、高貴な味よね~!」って書いています。かき氷について知りたい日本語日本文学専攻学生なら、まず、ここから始めるのは、妥当ね、と、講師はだまって発表に聞き入りました。
あてなるもの 薄色に白襲(しらがさね)の汗衫(かざみ)。雁の子。
削り氷(ひ)に甘葛(あまづら)入れて、新しき鋺(かなまり)に入れたる。
水晶の数珠。藤の花。梅の花に雪の降りかかりたる。
いみじううつくしき児(ちご)の、いちごなど食ひたる。 by清少納言
新しい銀の器に、薄く削った氷をいれて、甘葛(あまづら)をかけたものが、清少納言にとって、なによりも高貴で上品なもの、と記されています。
古代、氷は、貴重なものでした。冬に凍った氷を夏まで氷室で保管し、京の都まで牛車などで運んだのでしょうから、中宮定子であっても、夏のあいだそうそう何度も食べられない高価な食べ物だったことでしょう。定子お気に入りの清少納言も、どれほどお相伴にあずかることができたやら。高嶺の花の「削り氷」、あこがれだったことでしょう。
学生の発表は、昔なら庶民の口にはとうてい入らなかったかき氷を、今は学生の身分でも手軽に食べられる幸せを述べ、かき氷に興味を持って調べたおかげで、高校のとき古典の時間に読んだきり大学生になって読み返していなかった枕草紙に再びめぐりあったことを喜んでいると、結ばれました。
ちなみに、天然氷天然蜜のかき氷は、東京は日暮里の「ひみつ堂」で900円だったよし。う~ん、やはり人造氷の2倍はしますな。私の子供の頃、かき氷は一杯5円でしたが。
枕草子の「削り氷」は、知っていましたが、鎌倉時代の文献にはかき氷のたぐいは出てこなくなるのだということ、学生の発表によって知りました。私の専攻は古代文学だったので、中世のかき氷の知識が不足していました。
学生の発表では、アマヅラとは、ツタの樹液を煮詰めて作る古代の甘味料、と紹介されていました。
さらに調べてみると。奈良時代に鑑真が唐より砂糖をもたらしたと伝わっていますが、平安時代には砂糖の普及はまだまだ。干し柿の白い粉や、アマヅラが最高の甘味でした。
しかし、砂糖が広まって以後は、あまづらは忘れ去られていました。近年アマヅラを復元した人がいます。ツタの樹液を煮詰めると十分な糖度が得られるけれど、おそろしく人手がかかる作業で、とてつもなく高くつく甘味料なのだそうです
以下は、学生発表にはなかったことですが、講師補足として付け加えた古代の氷についての解説。
中宮定子が「削り氷」を食べるのを目撃して、清少納言は「なんと高貴な食べ物か」と感激したようなのですが、残念ながら、紫式部は「削り氷」を見たこと食べたことはなかったようです。『源氏物語』にも、『紫式部日記』にも、削り氷は登場しないのです。
『源氏物語』蜻蛉(かげろう)の巻」。夕暮れの宮中のシーンに氷が出てきます。
薄絹の着物をまとった女性たちが、氷室から取り出した氷を「かち割り」にして紙に包み、胸や額などに押し当てて涼をとっていると、紫式部は描いています。
また、平安時代の氷の利用法として、夏に氷水をご飯にかける「水飯(すいはん)」という食べ方がありました。冬のお茶漬け、京のぶぶ漬けの夏バージョン。
源氏物語「常夏(とこなつ)の巻」には、光源氏の息子夕霧が友達たちと水飯をかき込んでいるというシーンがあります。光源氏は、息子たちが水飯かきこんでいる隣で、お酒を飲んでいます。
このように、紫式部も氷は知っていたのですが、ついに「削り氷」は『源氏物語』に登場しません。
「氷室から取り出される貴重な氷」は知っていた紫式部も、一条天皇や中宮彰子が食べたのかもしれない削り氷を、見たりお相伴したりするチャンスがなかったのではないか、とも思えます。中宮彰子の父は、並ぶ者なき権勢を誇った藤原道長ですから、削り氷を天皇と愛娘に献上する資力は十分にあったはず。
自分の見聞を作品中に生かしたいのが小説作者でしょうから、長い「源氏物語」のどこにも削り氷に甘葛をかけた食べ物が登場しないのは、さすがの紫式部も、かき氷には無縁の一生だったのかと。
古代の文献で、さらに古くは。
古墳時代、紀元後400年頃。「日本書紀」仁徳天皇62年の条に、氷室(ひむろ)の氷が出てきます。
額田大中皇子 (ぬかたのおおなかつひこのかみ、父は応神天皇) が、現在の奈良県天理市で鷹狩りの最中に氷室を発見し、その氷を天皇に献上した、という記述があるのです。
日本書紀は、ある説にいわく、として、さまざまな伝説が併設記載されています。仁徳天皇の事跡であるとして付け加えられている伝説なのですが、実際に仁徳天皇の時代のことであったかどうかは、わかりません。でも、古墳時代にも氷室はあったのだろうと推測できます。暑い時期には、お酒に氷を入れて飲むのが古代の消夏法でした。
(仁徳天皇62年》原文は漢文。
仁徳天皇の異母弟、額田大中彦皇子が、闘鶏(つげ=現在の奈良県天理市福住町)で狩りをした。皇子が山の上から野の中を見ると、室があった。使者を遣わして確かめると、「たしかに窟(むろ)です」と言う。闘鶏稲置大山主(つげのいなぎおおやまのぬし)を呼んで「あの野の中にあるのは何の窟だ」と問うと、「氷室です」と答えた。皇子が「その納めたは様子はどうなっているのか。またどのように使うのか」と言うと、「土を掘ること一丈余。萱をその上に葺き、厚く茅すすきを敷いて、氷を取ってその上に置きます。夏を越しても消えません。熱い時期に水酒に浸して使います」と言った。皇子はその氷を持っきて御所に献上すると天皇は喜んだ。これ以後、師走になるたびに必ず氷を納め、春分になると氷を配った。by日本書紀 仁徳天皇六十二年是歳条
伝説の時代から歴史時代に入ると。
近年発掘研究が著しい木簡に、氷の記述がありました。
奈良時代の長屋王の館あとから、多数の木簡が発見されましたが、そのひとつの木簡には「都祁氷室(つげのひむろ)」と書かれたものも見つかっています。奈良時代、現代の天理市つげの山中には、天皇家や貴族たち御用達の氷室が多数できていたのでしょう。毎年、つげの人々は、氷を奈良の都まで運んでおり、氷室のはじめを問われると、伝説の仁徳天皇に寄せて氷献上のはじまりが語られてきた、というところかと思います。
学生が、「かき氷がおいしかったので、思いがけず枕草子を読み返すことになり、日本文化の奥深さを再認識した」と発表の感想をレポートにかいているのを見て、私も、学生に、「ユリーカ!わかったぞ」という気持ちを味わってもらうことができたかと、うれしく思います。
高校時代までのように、先生の教えたことをせっせと暗記して期末試験でいい成績をとる、というのと、大学で勉学するのは、ちがうのだ、大学では自ら問題を見つけ出して自ら答えを探し出す、ということを、学生に伝えられたら、今学期の授業も成功です。ユリーカ!の喜びは、それが就活に直結せずとも、金儲けにはならなくとも、一生の宝物になると信じています。
さて、かき氷でも食べにいくか。今学期がんばって仕事をしたごほうびに、900 円の天然氷天然蜜のおいしいかき氷を。
映画「めがね」に登場するサクラさんのかき氷
今まで見た中でいちばんおいしそうだった
<おわり>