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ぽかぽか春庭「2017年8月目次」

2017-08-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20170831
ぽかぽか春庭「2017年8月目次」

0802 ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(1)夏色
0803 再録・夏色に命輝く(2)首夏・盛夏
0805 再録・夏色に命輝く(3)炎帝
0806 再録・夏色に命輝く(4)炎天
0808 再録・夏色に命輝く(5)炎昼、炎暑
0810 再録・夏色に命輝く(6)朱夏
0812 再録・夏色に命輝く(7)晩夏
0813 再録・夏色に命輝く(8)夏の挑戦

0815 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>平和を祈る(1)平和を祈る歌

0817 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記(1)恐竜博2017 in 幕張メッセ
0819 2017十七音日記8月(2)地三鮮を食べながら
0820 2017十七音日記8月(3)恋のメキシカン・ロック

0822 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画・愛という名の(1)映画しゃぼん玉
0824 家族映画、愛という名の(2)愚行録
0826 家族映画、愛という名の(3)淵に立つ・永い言い訳、他
0827 家族映画、愛という名の(4)エリザのために・たかが世界の終わり
0829 家族映画、愛という名の(5)ムーンライト
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ぽかぽか春庭「ムーンライト」

2017-08-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170829
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画(5)ムーンライト

 ギンレイホールで見る個人的「夏の映画祭」、今回は「ムーンライト」です。
 
 「ムーンライト」原作:タレル・アルヴィン・マクレイニー 脚本:マクレイニー&ジェンキンス 監督:バリー・ジェンキンス 出演:アレックス・ヒバート アシュトン・サンダース トレヴァンテ・ローズ
 第89回アカデミー賞 作品賞、助演男優賞(マハーシャラ・アリ)、脚色賞

 アカデミー作品賞の映画だから、ギンレイにはかからないかなあと思っていたら、日本公開の4月から4か月で上映。アカデミー賞取る前に買い付けていたのかも。もっとも,作品賞をとったからといっても,大ヒットするような娯楽作品ではないから,4か月の間に日本でどれほど売れたのやらはわからない。
以下,ネタバレを含む感想です。

 この映画の「家族」は、主人公シャインとその母ポーラであるけれど、ヤク中の母親は育児放棄。ポーラよりも,シャインにとって家族なのは、ヤク売人のフアンと彼のガールフレンドのテレサです。子供には、子供の心を庇護する「援助者」が必要で、フアンは、幼いいじめられっ子のシャインの心を守っています。
 シャインの成長を追っていくのがテーマのひとつですが,シャインとフアン,シャインとクラスメートのケヴィンの関係性がシャインの成長に大きな意味を持ちます。

 マッチョな俳優であったレーガンが大統領になると「家族の価値」がアメリカ全土で至上の価値とされます。シャインは,「家族の価値」へのアンチテーゼでもあると思います。
 ララランドをおさえて作品賞を獲得した背景には,反家族やLGBTに理解なさそうな大統領が選ばれた時代へのアメリカ映画界の意識のひとつかもしれない,といううがった感想を持ちながら,8月21日,飯田橋ギンレイホールで観覧。(トランプはアンチLGBTを前面に出すことはしませんでしたが,ペンス副大統領は反LGBTの人物です) 
 監督のジェンキンスはゲイではないみたいですが,原作共同脚本のマクレイニーはゲイをカミングアウトしています。

 ストーリーは3章に別れていて、3つの世代のシャインが3人の俳優によって描かれています。舞台となったフロリダ州リバティシティ。自由の街という名の土地なのですが。

1章 シャインは,リトル(チビ)とあだ名をつけらた10歳のいじめられっ子です。リトルと対等に付き合ってくれるケヴィンと世話をしてくれるフアンがいるので,母親の虐待や育児放棄の生活でも生きています。いじめの原因は「女っぽい」ことでした。

2章 16歳に成長したシャイン。ケヴィンは,やはりたった一人の味方で,シャインをブラックと呼びます。ケヴィンだって黒人なんですけれど。ふたりは互いに心通わすことができたと感じることがあったけれど,学校でのいじめは拡大し,いじめグループのボスは,ケヴィンにシャインを殴るように命じます。抗えずシャインを殴るケヴィン。二人の友情は終わります。殴った者の名を明かさなかったシャインは,のちにいじめのボスを殴り,そのために少年院送りに。
 シャインの成長にはさまざまな問題があるけれど,もし家庭にいたままだったら,シャインはアルコール依存症麻薬依存症の子供たちが,そうなる可能性が高い「アダルトチルドレン」として成長したかも。

3章 少年院を出て以来、シャインは,フアン亡きあと,フアンと同じヤク売人として生活しています。ある日,ケヴィンから連絡を受け,彼が働くマイアミへ向かいます。

 アフリカ系アメリカ人の少年が,アフリカ系しかもLGBTの二重のマイノリティを抱えた自分自身のアイデンティティをどう構築していくのか。

 「家族映画」というくくりで「春庭的夏み映画祭り」の観覧感想をのべてきました。
 「ムーンライト」は、家族の中でなく成長し自分自身を見つめていくゲイ男性のストーリーでした。どのような環境であれ,人が自分自身のアイデンティティを認め,周囲を理解しようとしながら生きていくこと,それは,ラストシーンの月光の光の中のように,美しい。

 LGBT撲滅主事者のペンスが副大統領になるような社会で,この映画がつくられ作品賞を受けることができるアメリカ社会。病んでいるといわれ続けて来ましたが,それでもなお,権力と反対の意見を持つ者たちは、映画を作り、人々に訴えることができる。


 一方、海の対岸では、「反原発」とか「反核」という文言が入っていると、集会予定だった公共の施設が「他の予約がいっぱいで」などという理由で断られてしまうという大政翼賛社会になりつつある。ウソだと思うなら、あなたの市の公共貸し出し施設で「反原発、反モリカケ」なんてタイトルの集会を開くとして施設利用を申し込んでごらんあそばせ。
 それを受け入れてくれる市や区であるなら、きっと私には住みごこちがいいでしょう。

 来月あたまも、映画感想が続きます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「エリザのために・たかが世界の終わり」

2017-08-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170827
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画、愛という名の(4)エリザのために・たかが世界の終わり

 ギンレイホールで8月に見た映画。「エリザのために」「たかが世界の終わり」も、家族を描いていました。以下、ネタバレを含む映画の感想です。

 「エリザのために」ルーマニア語タイトルBacalaureat 脚本監督:クリスティアン・ムンジウ 出演:アドリアン・ティティエニ

 ルーマニア語の映画、見たことなかったなあと思って見ました。
 チャウシェスク後のルーマニアはどうなっているのか、ニュースやドキュメンタリーでもあまり見ることがないので。
 映画がすべてを映しだしているわけではないですが、ルーマニアも、なかなかつらい現実であることがよくわかりました。

 原題のルーマニア語Bacalaureatは、フランス語で言うバカロレア(高校卒業試験、大学入学資格試験)のことだろうと思います。バカロレアを受ける娘エリザのために、父親ロメオが陥った「ルーマニア社会」の落とし穴。

 89年のチャウシェスク失脚後、亡命していた医師のロメオは、妻と共に希望を持って1991年に帰国しました。医師資格のあるロメオは、小さな病院でかろうじて医者の仕事が続けられましたが、妻はその能力を生かす仕事が見つからず、ボロボロの本を並べるしかない図書館で司書をしています。妻は疲弊し、ロメオは冷え切った妻との仲を修復しようともせず、学校教師のシングルマザーと不倫。
 ロメオの希望はただひとつ。成績のよい娘エリザ(マリア=ヴィクトリア・ドラグシ)が、バカロレアで期待通りの高得点を得てイギリス留学を果たすこと。

 しかし、エリザを学校へ送っていくとき、ロメオは不倫相手の家へ急ぐ気持ちから、校門の手前でエリザを下ろしてしまいます。一家の歯車が狂い出します。
 人々の暮らしを支える産業もなく、荒廃した町並。真っ昼間だというのに、通り魔が出て、エリザは襲われます。身を守ろうとして手に怪我を負ってしまいますが、それ以上の被害には遭わずにすみました。結局犯人は捕まりません。小さな怪我の通り魔事件よりも、大事件犯人を追って行う山狩りのほうが、警察の点数になるからです。

 エリザは動揺し、国語(ルーマニア語)の試験に失敗。予想の得点は得られませんでした。エリザは得意の数学で点数を稼ぐつもりですが、ロメオの心配はつのります。「もし、数学でも失敗してしまったら、、、、」
 ロメオはエリザの点数を確実にするために、ルーマニア社会に蔓延る「コネ利用」に手を染めます。議員にコネをつけ、「点数を割り増ししてもらうために、試験用紙につけるマーク」を書き込むよう、エリザに教えます。

 しかし、コネの元締め議員が汚職で逮捕され、ロメオはこんどは、不正を隠さなければならない立場に。
 しかし、幸いなことに、エリザは、父の命令に背いて、試験用紙にマークを残していませんでした。実力で数学試験に臨んだエリザ。果たしてイギリス留学が可能になる点数だったかどうか、映画は描いていませんが、実力を出し切って卒業式を迎えたエリザの顔は晴れやかです。

 ルーマニアは、もともと親族や知り合い同士が助け合う文化。コネが横行するのも、その「助け合い」の延長なのだそうです。チャウシェスク一族による一方的なコネ社会が崩壊しても、その先には別のコネ社会が広がる。

 ロメオの不倫相手だったシングルマザーも、ロメオに依存することから抜け出そうとし、エリザが父親の支配から自立しようとし始めたこと、これがルーマニアの将来にとってよい方向へ向くのだと、私には思えましたが、現実のルーマニアはどうなっているのでしょう。ともあれ、ルーマニア社会のひとつの姿を描いた映画、私には貴重でした。

 「たかが世界の終わり」原作:ジャン=リュック・ラガルス 脚本監督:グザヴィエ・ドラン 出演:、ギャスパー・ウリエルほか。第69回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルムドール賞に継ぐ第2席)とエキュメニカル審査員賞を受賞。

 ルイは、12年前に家を出て以来、劇作家として成功しても、帰郷したことがありませんでした。ふいに実家に帰ることを田舎の家族に伝えると、母親も幼い頃に別れたきりだった妹もおおわらわでルイを迎える準備をします。初めてルイに合う兄嫁(マリオン・コティヤール)も、不機嫌な夫アントワーヌをよそに姑とともに、ルイのために料理を作ります。

 ルイが帰郷することにしたのは、自分の余命がいくばくもないことを家族に知らせようとしたからでした。しかし、兄のアントワーヌは、ルイの成功を快く思わず、家長としての重荷をひとりで背負わされて田舎に閉じ込められたと思い、ルイにつらく当たります。
 ルイは、幼なじみで初恋の相手だった少年が、すでに亡くなっていたことも知り、家族になかなか自分のことを言い出せません。

 元は戯曲なので、丁々発止の激しいセリフの応酬がありますが、アントワーヌがどうしてそこまでルイを拒否するのか、私にはわからないまま、終わりました。ルイは結局家族に自分のことを打ち明けることなく、二度と戻らぬであろう実家を出て行きます。家から出たがっている妹に「いつでも兄の家に来ていいよ」と、伝えて。

 フランスの田舎の景色もいいし、ルイは美しい顔だし、それだけでも楽しめたけれど、「家族の肖像」としては、今ひとつ食い足りない思いがしました。
 たぶん、母親も兄嫁も兄も、ルイが来る前と去っていた後、何も変わっていないからだろうと思います。妹が「閉塞から解き放たれる契機を得たのだ」という顔をして、もうちょっと晴やかな変化として見えたら、もうちょい点数高くなったかも。妹が家を出ていくことところまで描いていたらよかった。

 「赤毛のアン」の幼いアンとダイアナが、「私は変化やまない人生がいい」「私はおだやかで変わらない日常の人生がいい」と、将来の希望を語り合うシーンがあります。私は「変化やまない人生」を望みもしないのにおくってきてしまいました。
 明日の変化もわからぬ人生をおくりつつ、平穏おだやかな人生の人をうらやんでしる。それなのに、若い人には「今から平穏な変わらぬ人生を送らなくても、家を出るくらいやりなさいよ」と、思ってしまう。矛盾。
 矛盾もまた人生。矛盾が家族。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「淵に立つ・永い言い訳、他」

2017-08-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170826
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画、愛という名の(3)淵に立つ・永い言い訳、他

 家族を描いた映画、最近の映画は、単純に「家族っていいな」みたいなストーリーは少なくなったという気がします。家族の中になんらかの欠落、喪失、そういうものがないとリアルな家族には見えないっていうほど、現実の家族も「家族はつらいよ」という要素が増えてきたのかも。以下ネタバレを含む映画の感想です。

 「家族の絆」とか軽く口にできる人は、きっと幸せな人。でも、世の中は幸福な人ばかりではなく、家族が不幸の元凶になるときもある。
 「淵に立つ」の家族、「永い言い訳」の家族。どちらも、とてもつらいつながりです。

 「淵に立つ」脚本・監督:深田晃司 出演:浅野忠信 筒井真理子 第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門の審査員賞を受賞

 英語タイトル「Harmonium」。ハーモニウム、別名はリードオルガン。鈴岡家の娘が練習している教会のオルガンであり、家族のハーモニー調和をも意味する。
 しかし、映画は、「ささやかだけれど、それなりに平穏な家庭」が、一人の侵入者によって調和が崩れ、崩壊していくお話です。

 小さな金属加工の工場を経営する利雄と、妻章江、娘の蛍10歳。そこへ利雄の旧友八坂が11年の刑期を終えて出所し、当然のように鈴岡家に住み込みで働くようになります。利雄には、八坂を迎え入れるべき理由があるのです。

 初めは警戒していた章江も、八坂に急接近。章江を我が物にしようとする八坂。思いを遂げられない八坂は出ていきます。が、あとには、けがを負った蛍が残されます。八坂が蛍の怪我になんらかの関与があったと推察されますが、真実は闇の中。
 蛍は脳の損傷のため、話すことも歩くこともできなくなり車椅子とベッドのほかには居場所もなく、10年が過ぎます。
 利雄の工場で働きだした山上孝司(太賀)は、実は八坂の息子だったことがわかり、一家は破局へと向かいます。

 川原に横たわる孝司、章江、蛍。かって川原でのピクニックで八坂、章江、利雄、蛍が並んで横たわり写真を撮った、その姿と構図はいっしょです。

 外形は同じでも、中身は異なるたくさんの家族。川の字に寝そべるのも、ひとつひとつが違う文字。

 「永い言い訳」原作・脚本・監督:西川美和 出演:本木雅弘 竹原ピストル

 衣笠幸夫は、雪国のバス旅行へと妻を送り出した後、不倫にふける。妻が友人とともにバス事故で亡くなったあと、妻の友人家族を支えることで、欠落を埋めようとします。自分の罪悪感を薄めようとする、罪滅ぼしの気休め。本当の家族ではない存在であることを突きつけられた後に、ようやく幸夫は、妻の不在に向き合う。

 「湯をわかすほどの熱い愛」脚本監督:中野量太 出演:宮沢りえ、杉咲花 オダギリジョー

 双葉は、夫が家出した後、ひとりでは切り盛りできなくなった銭湯を閉め、パン屋でパートをして一人娘安澄と暮らしている。ちょっとした体調不良と思って受診した病院で、余命3ヶ月の宣告を受けた後、自分がいなくなったあとの世界を構築しようと奮闘する。イジメを受けていた娘が強くなれるよう背中を押してやり、家出中の夫が自分の子かどうかもわからなまま押しつけられて同居している女の子もひきとる。銭湯を再開して夫と安澄が暮らしていける基盤を固めたのち、ホスピスに入る。

 ほんとうにあざやかな「人生集大成」で、私なんぞ、余命3ヶ月と言われても、およよと泣き言を言っている間に3ヶ月たってしまうと思います。今年見た「家族を描く」の中では一番「向日性」なのだけれど、見終わった後、「ファンタジーやねぇ」と思ってしまう。映画にリアルさだけを求めているのではないのだけれど。

 たぶん、我々は、「家族のリアル」というものが、溶解していく時代に生きている。やさしい母と強い父とけなげな子ども達。そんな家族を描いたら、当然「うそっぽい」と思ってしまうような時代。現実にはそういう理想的家族だって、世の中にはいるんだろうけれど。
 ま、最初から崩壊している我が家は、リアルそのもの。

 リアルな私は、今週いっぱい続いた咳のために、火曜日金曜日土曜日、3回もジャズダンス練習を休んでしまいました。ひどい咳をしながら洗濯物を干し、寝たりおきたりしながらごはんを作る。これが私の夏のリアル。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「愚行録」

2017-08-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170823
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画、愛という名の(2)愚行録

 飯田橋ギンレイホールで8月6日に見た「愚行録」。「シャボン玉」と併映でした。
 ほんとうは「沈黙」と併映だったはずが、出演した小出恵介のリアル愚行のために、先延ばしになっていました。6月中には、不祥事の相手女性と示談が成立して、まあ、いいだろうってことで上映決定。

 我が家は、NHKドラマ「スリル」録画をこの夏に見ていましたから、「小出恵介不在感」はなしですが、無期限活動停止は、どのくらい続くのでしょう。これまで「いい人」の役が多かったから、ダメージ大きいんでしょうね。
 週刊誌で報道されたときは、17歳の未成年女性に飲酒と「不適切な関係」を強要した、ということでしたが、女性本人とその母親が、インスタグラムで、「イケメン俳優と関係を持った」ということを自慢していたことやら、喫煙写真を投稿していたため、ネットでは「小出恵介はハニートラップにひっかかった」ということになっているみたいです。

 リアルな愚行、ミーハー芸能界ウォッチャーとしては面白いんだけれど、相手女性の素性やら素行やらがつぎつぎに暴かれていくのを見ていると、17歳の愚行の代償は大きいのでは、と、人ごとながら心配。なによりも17歳で一児の母親なんですから、通信高校を退学したという今では、子育てをしっかりとしてほしいです。育児放棄などにはなりませんように。
 小出恵介の愚行のあと始末、まだしばらくはかかりそう。

「愚行録」原作:貫井徳郎 脚本:向井康介 監督:石川慶 出演:妻夫木聡 満島ひかり 
 以下、ネタバレを含む感想です。

 映画冒頭に乗り合いバスが出てきます。乗客の顔のひとつひとつ。それぞれがひとつひとつの人生を抱え、たまたま乗り合わせたバスにいる。
 脚本オリジナルのシーン。主人公の週刊誌記者(社員ではなく、契約記者?)田中武志がバスの座席に座っている。つり革に捕まっているサラリーマン風の男が、義侠心を起こしたのか、田中に「隣に立つ高齢女性に席を替わるよう命じます。田中はしぶしぶながらも立ち上がり、席を譲る。バスの前方出口に向かう田中は足をひきずっており、車内で派手に転びます。席を替わるように命じたサラリーマンは、身体に障害を持つ人に過酷な命令を出したことになり、ばつの悪い思いをします。
 よろよろとバスを降りた田中。足を引きずりながら進みますが、バスが立ち去ったのを確認するとスタスタ進んでいきます。足の障害は演技でした。

 この冒頭シーンで田中武志の性悪な性格もわかるし、「高齢者に席を譲れ」と命じる一見親切そうな行為も、健康に見えた若者が、実は足の悪い人だったことが見えていなかった一方的な偽善になることを示唆して、人間の本性はどんでん返しの連続であることも暗示していてとてもいい付け足しだと思います。
 タイトルの「愚行」、愚かな人間の愚かな行動録。

 1年前におきたまま未解決になっている「エリートサラリーマン一家、親子3人惨殺事件」の再取材をデスクに申し入れる田中武志。しぶるデスクに、上司は「田中は、妹が育児放棄で逮捕されているので、心を他のことに向けたいのだ」と、理解を示し取材を許可します。妹光子はシングルマザーで女の子と暮らしていましたが、子の世話を放棄し、衰弱させてしまいました。「ちょっと育児が下手だっただけ」という光子は、精神鑑定を受けることになります。国選らしい女性弁護士は、武志がもらした「光子は父親から性的虐待を受けていた」という告白を信じて、光子の子は父親からの暴力の結果なのではないかと疑っています。

 田中の取材が進展すると、エリートサラリーマンと美人妻の理想的家族と見えた田向(たこう)夫妻。実は、学生時代は別の面を持っていたことが判明します。
 一見真面目そうな田向浩樹(小出恵介)は、女性を利用し、他者を不幸にしても自分に有利な状態を作り出す男でした。
 妻の友季恵は、清楚で明るいだれからも讃仰される美人。しかし、学生時代の友季恵には、別の一面がありました。したたかで計算高く、自分の幸福をつかむためには他者を陥れることも平気な人であったことが、田中からインタビューを申し込まれた同級生や知人の証言でわかっていきます。

 とてもリアルで、身につまされることのひとつが「キャンパス・カースト」
 文応大学(たぶん慶応大学がモデル)には、2種類の学生がいます。幼稚舎小学校からエスカレーターの内部進学組と、大学から入学の新参組。内部進学組は固い結束を持ち、大学から入学の人間を仲間と認めることはない。内部進学組は、親代々の「家柄」「資産」「社会的地位」がそろっている坊ちゃまお嬢ちゃま達です。大学入学組のような「一般庶民」を、上から目線で見下しています。

 外部出身の学生では、人あしらいの巧みな友季恵のような「特別な美人」が、ようやくその結束の中に入っていける。友季恵は、内部組の男子学生達に「ちょっとした気晴らし」を用意することを忘れてはいません。友季恵は、彼らに「公衆便所」として扱われる「まわせる女」を差し出すのです。友季恵の周囲には、大学進学組から「内部進学組」に「昇格」した友季恵にあこがれる女子大生達が取り巻いていましたから、その中のひとりを彼らの「おもちゃ」にすることなど朝飯前。ちょっとかわいい子なら、自分も友季恵のようになれるかも、と勘違いしてしっぽを振って「まわされる」だろうから。

 文応大学の坊ちゃんたちのようなコネクションを持たない稲大(たぶん早稲田大学がモデル)の田向浩樹は、ふたりの女子大生を手玉にとることでコネを作り出し、一流企業への足がかりを作ります。
 両者を知るカフェ経営者の宮村淳子はじめ、ふたりの学生時代を知る友人知人たちは、次々に田向夫妻の仮面を剥がしていきます。

 田中武志が追う一家惨殺事件と田中光子の育児放棄事件は、最初はバラバラに展開していますが、カフェのオーナー宮村淳子が「あとで思い出したんだけど」と付け足すことで、結びついていきます。宮村は「田向友季恵に強い恨みを持つ同級生を思い出した」と武志に告げ、ブラックカードを引き寄せます。

 映画のキャッチコピーでは「三つの衝撃」が観客に用意されているという。一家殺人事件の真犯人。真犯人に気づいてしまった同級生の運命。光子が育児放棄をした赤ん坊の父親。
 最終シーンでこれらの三つが結びつくと、観客は「イヤミス(嫌な気分になるミステリー)」を味わうことになります。

 田中武志。妻夫木聡が演じるのですから、一見いい人風。しかし、武志が決して「よい人」だけでないことは、冒頭のバスシーンで示されています。このシーンがなかったら、単純な私は、イケメン妻夫木を「妹を案じるやさしい兄」だと信じてしまう。そう、妹を案じることにかけては、人一倍の兄なのだ。
 精神が壊れてしまっているような、アンバランスな妹光子。満島ひかりの演技、純粋さと狂気の狭間にいる悲しい女性を見事に演じていました。
 父親に虐待を受け、母親には見捨てられた兄妹。兄と妹のふたり家族愛の末がこの結果。
 身内によってつらい思いを抱えていく家族も世の中にはたくさんいるんだろうなあ。

 小出恵介の愚行だけでなく、世の中愚行だらけです。「また、バカやっちゃった」と笑い話にできる程度の愚行もあるし、他者を不幸にする愚行、人間存在を深い闇に落とす愚行もあります。
 そんな愚行の積み重ねで世の中は成り立っているのでしょう。

 私もまた、愚者のひとりです。
 とは言っても、電車の中シルバーシートに大股広げて座って、ケータイゲームに没頭するワカゾーに文句の一言も言えずに、じっとにらみつけるだけのバーサン。心の中では「バカモンがあ。この白髪が目に入らぬかあ」と叫んでいるんですけれど。たまに気の弱そうなワカゾーのとき、白髪ババの目力に押されて、席を譲ってもらえることも。あはは、よほど鬼の形相してたんでしょうなあ。そこの気弱な君、婆さんに席ゆずっておけば、きっといいことあるから。

 いずれにせよ、くれぐれも愚行にはご注意を。あ、とりあえず、なにをなにするときは、相手が20歳以上であることを確認しておこうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「映画しゃぼん玉」

2017-08-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170822
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画・愛という名の(1)映画しゃぼん玉

 夏休み、映画館へ行ったり(いつもの飯田橋ギンレイホールですが)、撮りためておいた映画放映の録画を見たり、遠出の避暑などはできない夏休みながら、少しは心あそばせる空間を楽しみました。

「シャボン玉」 原作:乃南アサ 監督:東伸児 主演:市原悦子 林遣都
 ギンレイの予告編を見て、「都会の青年が、偶然辺鄙な田舎に行く。都会生活で疲れ汚れた心が洗われ、「よい人」に生まれ変わる」、そういう「心あったか系」なのかと思って本編を見ました。半分は予想通りの展開でしたが、予想と違ったのは、思った以上に「辺鄙な田舎」の景色が心に染みたこと。

 思いがけなかったことが、もうひとつ。最後のエンドクレジットに出てくる出演協力者や撮影協力者の名字、多くが「椎葉」と「那須」であったこと。同じ名字、親戚知り合い同士が住む村なのだろうなあと思いました。

 椎葉村の人口は、2,704人だそうです。平成大合併で「村」が少なくなっていますが、それは「村」が存続していくのが難しいということ。村のままで生き残っているのは、独立してやっていける経済基盤が村にあるということです。

 椎葉村は存続している「村」の中では5番目の面積を持っています。しかし、ほとんどは、九州山地中央部の標高1000~1700m級の山々に囲まれて耳川・十根川の谷。日本初の大規模アーチダムである上椎葉ダム、という環境で、可住面積は村域の4%。
 しかしながら、飛騨の白川郷、四国徳島のの祖谷とともに「日本三大秘境」として知られ、私も椎葉村の名は知っていました。ただし、「しいばむら」じゃなくて、「しいばそん」であるってのは知りませんでした。

 乃南アサは、椎葉村を訪れて、「しゃぼん玉」を書き上げました。主役は、すえ婆を演じた市原悦子と都会から逃れてきた林遣都なのですが、椎葉村の段々畑の景色や霧に包まれる村のたたずまい、平家祭りのようすなどが第二の主役といえます。以下、ネタバレ含む「しゃぼん玉」の紹介です。
 伊豆見翔人(林遣都)は、親の愛を知らずに育ち、通り魔や強盗傷害を繰り返すうち、「ナイフで脅してもっと簡単に金をとろう」と思います。しかし、脅すにとどまらず、実際に人を刺してしまいます。ヒッチハイクで逃げるイズミは、トラックの運転手に嫌われ、山の中に置き去りにされます。どこともわからない山奥。

 そこでうめき声を聞いたイズミ。バイクの事故で動けなくなっている老婆を助けます。
 老婆スマは、イズミを「命の恩人」として、面倒を見ます。

 おスマ婆の家の玄関には飼い犬の「ごん」がいますが、これがタレント犬ではなくて、地元の人の飼い犬だそうで。いわば、シロート犬。柴犬チョコが、とてもよい味を出しているました。

 もうひとつ、画面で「いい味」なのが、おスマ婆が作ったり、近所のおばちゃんたちが持ち寄る郷土料理。ほんとうにおいしそう。素朴な、地元に人にとってみればなんでもない椎茸やイモや、地元の食材が並ぶ食卓、食べてみたくなりました。

 ただ1点、「田舎の好かんとこ」がありました。イズミの心に大きな影響を持つ都会帰りの美和(藤井美菜)。10年ぶりに村に帰ってきた美知が、なぜ帰ってきたのか、村中が知っているってこと。「大きい声じゃ言えないけれど、通り魔にあったんだって」と、小さい声で村中が話している。村の人は温かい気持ちで美和を迎え入れているのだろうけれど、私なら、だれがどうしたかを村中が知っているところへ帰りたくならないだろうな。

 おスマの息子(相島一之)が、都会に出ていったのも、そういう田舎の息苦しさから逃れたい、ということもあったでしょうし、おスマも一度は息子のそういう気持ちが理解できたから都会へ出したのでしょう。都会ですさむ息子におスマは「都会に出たいというのを許したのは親のまちがいだった」と謝るのです。息子は別れ際に「達者でな」の一言も言わないのに。

 おスマ婆は、素性わからぬイズミを「坊は、ええ子じゃ」と、迎え入れる。最初は「金とって逃げよう」と思っていたイズミでしたが、冷蔵庫の中の「隠し金」を手にするも、それがおスマ婆に残されたなけなしのお金であることを理解します。。村の人々は、イズミを「都会に出て行ったおスマの息子の子」と思って受け入れます。近所のシゲ爺の山仕事を手伝ったり、平家祭りの準備に加わり、イズミは変わっていきます。

 林遣都、NHK朝ドラ「べっぴんさん」のドラマー役もよかったけれど、なんといっても、「バッテリー」から10年見つづけて、成長ぶりがうれしい。
 でも、「都会暮らしをしていたのなら、こんなイケメンは、ひったくり犯なんぞやる前にスカウトされちゃうよな」という気もしないではない。もし、イズミがテレビドラマの凶悪な犯人みたいな人相だったら、「坊はええ子じゃ」と言ってもらえたかしら、と思うのは、容貌差別になるんだろうな。

 椎葉村村民のブログを見ると、「『しゃぼん玉』村内試写会の様子」だとか、わかります。旅番組で把瑠都も村を訪れたのだとか。

 小説のタイトル「しゃぼん玉」を変えずにそのまま映画のタイトルにしたのだから、一度くらいはシャボン玉が飛ぶシーンがあるのかとおもったのですが、最後までシャボン玉はでてきませんでした。シャボン玉、「一回り半」みたのですが。

 家族を描くのは、映画の永遠のテーマ。小津の「東京物語」山田洋次「家族」など、家族映画わんさかとあるなかで、私の心に残っている家族は、マルチェロ・マストロヤンにとジャック・ペランとおばあさんの小さな家族を描いたイタリア映画「家族日誌」
 1962年制作1964年日本公開ですが、私が見たのは1970年以降。ストーリーも忘れているのに、その哀しみと慈しみに充ちた家族愛がずっと心に残っています。

 おスマ婆とイズミは、血のつながりがない「家族」です。でも、心のつながりで家族は成り立ちます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「恋のメキシカン・ロック」

2017-08-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170820
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記8月(3)恋のメキシカン・ロック

 9月の文化センター祭で発表する、私たちジャズダンスサークルの練習、佳境に入っています。
 サークルは、2005年の12月に設立して以来、2006年から毎年9月に文化センター祭を発表の場としてきました。私は、過去11回のサークル発表のうち、6回に出演できました。出演出来なかった理由は。2007年中国赴任。2008年、教室で怪我したため(机を持ち上げて、学生の落とし物を拾おうとして、足の上に机を落として親指骨折)。2009年中国赴任。2015年2016年ミャンマー赴任。

 出演できなかった年は、スタッフとしてMCや照明を担当することもあったし、完全に観客として「ブラボー」と大向こう係になったり。でも、やっぱり、自分が踊ったほうが楽しいです。
 
 2017年の今年は、これまでとはメンバーの力の入れ方が違っていました。いつもの年は、「e-Naちゃんが振り付け覚えられない」だけなのですが、今年は、メンバー全員が新曲の「朝日のようにさわやかに」の音カウントがむずかしくて、振り付けが身につかなかったのです。
 何拍目に足を出すとか、ここでエアプレーンとか、曲の節目が最初は全然わかりませんでした。

 私たちは、過去に発表されたものの録画ビデオ映像を見ながら練習することを提案したのですが、ミワ先生は、ビデオを見て振り付けを覚えることに反対でした。先生が紙に書いた簡単な振り付けメモを頼りに振り付けを覚えるように命じ「練習すればできるようになるから」と言い残して、7月中旬、バリ島へ静養にでかけてしまいました。
 きちんとした舞踊譜だとしても、私たち素人には譜面を見て踊るなんてことはできませんけれど、先生のメモは「3拍目に右足バットマン。シェネターンをツーエイト」なんて書かれているほんとうに簡単なメモです。先生自身はこのメモで踊りを再現できるのかもしれませんが、そもそも振り付け全体像を知らない私たちには無理でした。

 さて、困った。いつもは率先して振り付けを覚えてメンバーに教えてくれるミサイルママも「さっぱりわからない」というのです。私は毎回、ミサイルママのまねをして踊るので、ミサイルママが踊れなければ、まったく動けません。

 私は先生の「ビデオを見て振り付け練習をしてはいけない」という方針に反対でした。今時、最高レベルのバレエ団だってビデオによる振り付け確認は当然のように行われています。なぜ、先生がそこまで「ビデオを見て練習するな」とこだわるのか、理解できませんでした。

 今回、先生不在中の自主練習中は、先生の禁止に抗ってビデオの振り付けを真似して覚えることにしました。ミサイルママが1990年に撮影された先生のダンスグループの古い発表会のVHSテープを探し出しました。それを業者に頼んでDVDにしたのです。VHSビデオが60分以内なら2000円でDVDにできるというのを利用しました。

 練習場所の文化センターで、DVD再生装置とモニターを借りるのに400円。みなで食い入るようにモニターを見つめ、少しずつ踊りを再現して、なんとか先生がバリ島から戻るまでに踊れるようにしておこうと、火曜日午後、金曜日夜、土曜日午前中、なんと、週3回の練習日をとりました。
 いつもの年は金曜日夜だけですから、練習量は一気に3倍。全員よくがんばりました。
 「ロックソーラン」「ロドリゴ・ベイ」という復習曲2曲も、ビデオのおかげで振り付けを思い出すことができ、踊れました。

 8月18日金曜日夜、バリ島から戻った先生の前で、衣装を着けて通し練習。なんとかつないで踊ることができました。先生は、「細かい振りはいろいろなおさないといけないけれど、一応、つなげられたじゃない」と、みなの努力を認めてくださったのですが、これはDVD先生のおかげなんです。

 今回の夏の練習、考えさせられました。教室では先生の指導方針に従うことが必要と思います。しかし、先生がいない間、練習生が復習をするときには、練習しやすいようにしてもいいのではないかと思います。
 語学授業の場合だって、教室ではむろん教師の指導方針に従ってもらうけれど、教室外での復習には、何を使ってもよいというのが私の考え方。今は、インターネットでひらがなや漢字の書き方も学べるし、文法解説も各国語で出ているのですから。もしかしたら、未来のどこかで、ロボット先生に教わるほうが、ヘタな先生に教わるよりも効果的に日本語が習えるということになるかもしれず、そうなっても失業しないよう、機械で教える以上の存在にはなりたいけれど。

 ダンスも、もちろん先生が指導してくれるときには先生の指導方針に従います。サークルメンバーは、先生の指導力に信頼を置き、先生の振り付けのすばらしさに感動しながら練習しているのです。しかし、自主練習には、自分たちのやり方でいいのではないか、と思った夏でした。

 今回の発表、ミサイルママが振り付けた「恋のメキシカン・ロック」を1曲目に踊ります。橋幸夫が1976年に発表した曲、ミサイルママにとっては、私たちのサークルでの初めての自主振り付けです。来年は私も、ノリノリの曲に振り付けてみたいな。

橋幸夫「恋のメキシカン・ロック」若い由美かおるが踊っています。
https://www.youtube.com/watch?v=AT5_tgmFDYw

年取った橋幸夫の歌
https://www.youtube.com/watch?v=GR4ly3PzPes

Working week「Rodrigo Bay」
https://www.youtube.com/watch?v=ipsNF-ki6Bg

<おわり>
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ぽかぽか春庭「地三鮮を食べながら」

2017-08-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170819
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記8月(2)地三鮮を食べながら

 池袋駅北口にある中国東北料理の店。中国に赴任したときの同僚と何回か「東北料理なつかしいね」と言って食べにきたことがあります。
当時は、店のお客さんはほとんどが中国の人。

 日本の中華料理は日本人の好みに合わせてアレンジしてあるところがほとんどですが、この東北料理店は、東北地方の味のままだったので、日本の人にはちょっと味覚が合わなかったのか、中国の人ばかりの感じでしたが、そろそろ日本人向けの味も出てきたかなと思って食べて見ました。私は本場の味も日本風アレンジの味もどちらも好きです。

 1994年に初めて中国へ行ったときは、日本のラーメンと中国の拉麺がとても違いの大きい食べ物だったことに驚きました。しかし、今は、「すべてを取り込み、自分たちに合わせてアレンジする」というのが文化なのだと思っていますから、ごま油たっぷり入れた韓国の巻き寿司も、チーズやアボカドを加えたカルフォルニアの寿司もみなそれぞれの味と思っています。

 早めに家を出て、サンシャインの中を通過。平日だけれど、夏休み中だから、まあ、人出も半端ない。ポケモン映画に合わせたイベントとやらで、親子連れわいわいと。
 サンシャイン近くのブックオフ、ジュンク堂、西武地下のリブロから変わった三省堂と本屋をめぐりました。
 この程度でもう歩き疲れてしまい、池袋東口から北口まで「ちょい乗りタクシー410円」でいこうかなあと思ったのだけれど、がんばって歩くことにしました。それだけカロリー減らしてこその生ビール、と思って。

 久しぶりに出かける店。何度か行っているから大丈夫と思ったのだけれど、やっぱり「あれ、お店はどこ?」と、わからなくなり、幸い交番があったので、尋ねてみる。若いお巡りさんは、お店の名を知らなかったので、電話で問い合わせをして教えてくれました。交番から200mくらいまっすぐ行った先でした。

 店構えも、店の中も、高級中華料理店のようなこぎれいな作りではないし、中国人店員さんの応対も、ことばはぶっきらぼうだし、まあ、サービスも中国風。しかし、夕食時になったら、テーブル満杯の繁盛ぶりでした。前は中国の人がほとんどの客層でしたが、10日の晩は日本人客のほうが多かったです。でも、味は日本人向けのアレンジではなかった、と私は思ったのだけれど、同席の中国人3人はどう思ったかしら。

 私の好物は、なす、ジャガイモ、ピーマンを炒め煮にした「地三鮮」です。
 地三鮮も、この店の名物らしい「東北醤大骨(豚背骨のタレ煮付け)」も、とてもおいしかったです。

 中国東北地方の料理がなつかしいと思って選んだ店でしたが、3人の出身地は、山西省太源市と河北省張家口市。どちらも歴史上名高い町です。張家口市は、韓国ピョンチャンの次の2022年冬季オリンピック開催地なので、きっと大がかりな工事なども始まっていることでしょう。

 教え子夫妻と教え子の妹&妹の娘3歳、という集まりの会食でした。
 3歳の女の子は、保育園ではミカちゃんという日本名で通園しているそうで、ピンクの靴にピンクのワンピース、ミニーマウスの髪飾りというかわいらしいスタイルです。「今年の4月から日本の保育園に通うようになった」ということなのに、すっかり日本語のおしゃべりが得意になり、妈妈(マーマ)にも日本語で話しかけていました。

 私からの子育てアドバイスとして、「バイリンガルに育てばいいけれど、ときどきどちらの言葉もハーフ、半分しか使いこなせなくなる症状になる子が現れるから、気をつけて」と言いました。
 人のことばは、コミュニケーションの手段として使うほか、思考の道具として大切な「人間らしさ」の要。コミュニケーションの手段としてふたつのことばを使いこなす人は多いけれど、思考の道具として、どちらのことばで考えるのか、とても重要です。

 津田梅子は、満6歳で米国留学し、ほとんど日本語を使うことのない生活によって11年を過ごしました。17歳で帰国した後も、梅子は、話し言葉は日本語復活したけれど、書き言葉そして思考の言語としては、晩年まで英語だったということです。英語での思考がしっかり身についていた。それはそれでよいのです。自分が頭の中で思考するときに使う言葉がはっきりしているので。それに 津田梅子は英語教育を生涯の仕事としたので、英語思考の生活で問題はなかったようです。

 しかし、こどもの言語形成期に養育者が対応をあやまり、子供の思考言語に留意しなかったために、どちらの言語でも「深く考える」ということができない子供も出現するのです。バイリンガル(二重言語)ではなく、ハーフリンガル(どちらも半分しか使えない)になる恐れがあります。

 ことばの並べ方(文法)が同じ言語であるなら、スペイン語とフランス語のバイリンガル、英語とドイツ語のバイリンガルなどほとんど問題は起きませんが、言語の文法形式が異なることばのバイリンガル、英語と日本語、中国語と日本語などの場合、注意が必要です。

 教え子夫妻のお子さんは、去年生まれました。食品会社研究所研究員の奥さんも、大学研究所客員研究員の夫も忙しいので、妻の両親と夫の両親が交代で来日して子供の世話をしているのだそうです。
 中国では働く両親に変わって、祖父母が孫の世話をすることは一般的です。しかし、祖父母が中国在住のまま日本の孫の世話に来るとなると、たいへんです。来日は観光ビザなので、最長半年の滞在となり、両方の祖父母が交代で孫の世話、というのも大がかりなことです。
 赤ちゃんは、今は主な養育者の言語である祖父母と両親の中国語を耳に乳児期を過ごしていますが、保育園に入ったら、昼間は保育園保育士の日本語を聞いて育ち、夜は両親の中国語を聞いて育つことになります。
 「くれぐれもハーフリンガルに気をつけて」と、美人の奥さんに伝えました。

 夫のエイイさんは、2009年に教えた学生です。奥さんは同じ学校の1年後輩。もともと中国の大学院修士課程の先輩後輩。先にエイイさんが国費留学生の資格を得て日本に来ることになったので、奥さんにも国費留学生になるようにすすめて、ふたりとも日本留学を果たしたとのこと。

 「日本での子育てで、わからないことがあったら相談したいです」という奥さんのことばでしたが、「子育て失敗例なら、いくらでもお話しできますよ」と答えました。
 子育て失敗例のふたりは、母がいない夕食に「ピザとって食べた」と、母の手料理よりも満足したみたい。はい、はい、料理下手な母で悪うござんした。母親業失敗例の私。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「恐竜博2017im幕張メッセ」

2017-08-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170817
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記(1)恐竜博2017 in 幕張メッセ

 夏休み第一弾のお楽しみは。恐竜です。
 娘が不登校中,日曜地学ハイキングの化石堀りに参加することで,親子して楽しんで外出できたし,小学校から化石や恐竜大好きだった娘にとって,学校で学ぶ以上の学びがあったということ,何度かお話してきました。褶曲した地層を観察するのも楽しかったし,もしかして恐竜の化石がでるかもと言いながら,結局は貝化石ばかりでしたが,山奥から貝の化石がでるというだけでも、とてもとても不思議だし,地球の驚異を感じました。

 そんなわけで,我が家,毎年必ず恐竜見物に出かけます。幕張メッセで開催された今年の恐竜博は,「ギガ恐竜展2017 -地球の絶対王者のなぞ-」
 我が家,メガ恐竜展てのも見ていますから,メガよりでかいギガ恐竜,どんくらいでかいのかとワクワク出かけました。親子3人の合言葉は「ちびっこたちに負けずに楽しむぞ」

 だいたい夏休み中の恐竜展は,幼稚園小学生に大人気で,親子で来ているのはちびっこばかり。中には,恐竜オタクの中学生の友達同士,デート中の若い二人連れなんかもいますけれど,34歳娘と28歳息子と高齢者母という組み合わせだと浮きがちです。

入り口のポスター。恐竜博士とともに。


 今回目玉の「ギガ恐竜」は,「ルヤンゴサウルス」全身復元骨格の展示。
 全身骨格は全長38メートル、高さ14メートル。大きすぎて頭を写すと尻尾が入らず,尻尾を入れようとすると頭が切れて,なかなかいい角度が見つかりませんでした。ルヤンゴは、汝陽(ルーヤン)で2008年に発見され、2009年にお披露目されました。

 恐竜・竜盤目・竜脚形亜目・ティタノサウルス科。白亜紀後期に生息していました。およそ1億年前です。人類が猿と共通の祖先から別れて、猿人となったのが600万年ほど前ですから、人間は生きている恐竜に出会ったことはなかったけれど、復元骨格でも大迫力で、たとえ草食恐竜といえども、目の前に現れたら怖いなあと思います。

ルヤンゴサウルス復元生体


 それにしても、首が長い。長すぎる。きっと木の葉なんかを食べても、葉っぱが胃の腑に落ちる頃には、頭のほうでは食べたことを忘れているんじゃないかしら。だから、どんどん食べるつぎつぎ食べる。だから恐竜は巨大化という進化にむかった。あれ?首がそれほど長くもない私も、食べたこと忘れたがごとく、どんどん食べているのだから、恐竜の巨大化は首のせいじゃないか。
 ちゃんと、恐竜進化の最新研究結果も説明が掲示されていました。

 恐竜の羽毛の状態,皮膚や脳の研究もだいぶ進んできました。恐竜の卵の化石や孵化する直前の恐竜、足跡化石、ミイラ化した恐竜の化石など、最新の研究成果が展示されていました。

 恐竜ロボットもなかなか真に迫る動きをするようになっています。
 北アメリカのティラノサウルス類、ビスタヒエヴェルソルのロボットが会場の子供たちには大人気。そりゃ,骨の展示よりも、動くロボットの方が,ジュラシックパークに来た気分が盛り上がるでしょう。



 そういえば、テレビ放映を録画しておいた「ジェラシックワールド」をもう一度見ました。ジェラシックパークよりもずっと恐竜時代の考証がなされている作りでした。

 そのほか,バーチャル映像が面白かったです。液晶パッドを会場内に向けると,大きな恐竜たちがのっしのっしと動き回ったり,小型恐竜が群れになって横切っていくのが見えます。私が会場の中に立ち,娘と息子が恐竜から逃げ回る母を見たりしました。恐竜と私の写真を撮ったのですが,両方にピントを合わせることはできなかった。

 息子が買った図録も見せてもらいました。私にとっては、研究成果の進展うんぬんよりも、親が高齢になっても子といっしょに楽しめるものがあってよかった、と思い、娘息子との会話についていけるよう、図録を眺めました。

 ふむふむ、

<つづく>
 
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ぽかぽか春庭「平和を祈る歌」

2017-08-15 00:00:00 | エッセイ、コラム
20170815
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>平和を祈る(1)平和を祈る歌

 平和を祈りながら歌を聴いています。

丸山明宏(美輪明宏)1965年発表時の歌声で『ふるさとの空の下で』
https://www.youtube.com/watch?v=c8wuVMgvcZo
2014年の紅白歌合戦で、美輪明宏が熱唱しました。レコード発売時は「よいとまけの歌」のB面でした。

森山良子『サトウキビ畑』
https://www.youtube.com/watch?v=9xUyfxW0TTU

美空ひばり『一本のえんぴつ』
https://www.youtube.com/watch?v=azZwycOOIC4
 美空ひばり版をなんどか紹介したので、氷川きよし版を出したかったのですが、まだyoutubeには出ていません。2017年思い出のメロディーでの氷川の歌唱がよかったと評判です。私は、思い出のメロディを録画しておいたので、聞くことができました。特に氷川のファンでもなかったですが、歌をきいて歌詞をかみしめていると涙が出てきました。

さだまさし(レーズン)『あと1マイル』
https://www.youtube.com/watch?v=65EP4oWKydg




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ぽかぽか春庭「夏の挑戦」

2017-08-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170813
ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(8)夏の挑戦

 2004年の「夏色に命輝く」再録を続けてきました。今回は、その「つけたし総集編」です。

 2017年の夏。私にまた「新しいことへの挑戦」のチャンスが与えられました。

 2015年2016年の「ミャンマーで仕事」は、新しいことに挑戦し、得難い体験をすることができました。
 ミャンマー軍政下で大学が閉鎖されました。閉鎖が解け、再開後、日本語教育が行われていなかった大学に赴任し、日本語コースを設立するという仕事に挑戦し、暑い中、毎日奮闘し一応の道筋はつけられたと思っています。

 道半ばでミャンマーから帰国するときは、「何か新しいことに挑戦できるのは、これが最後の機会だったのかなあ」と思いながら帰ってきたのです。
 帰国後は、以前に担当していた私立大学の日本語教員養成コースの授業を再開しています。ミャンマー赴任中は若い先生が私の仕事を受け持つことになったので、そのまま若い人が授業を続けるのかと思っていたら、「再度、先生にお願いします」と言っていただき、ありがたいことです。継続の仕事ですけれど、学生の顔ぶれが変われば手直しは必要。しかし2000年から17年間続けてきた日本語教授法の授業ですから、「新規挑戦」という気分はありません。

 しかし、2017年夏、再び「今までとは異なる挑戦」の機会を得ることができました。「日本国内での日本語学校の設立」へのお手伝いです。
 今回は、教え子が「理想の日本語学校を作りたい」と、設立をはじめた学校を手伝う、という仕事。資金や対外的なことがらは教え子兄妹が行い、私は教務や日本語コースのカリキュラム作成、教員採用などのお手伝いをするのです。

 開校予定は2018年10月からですが、開学へ向けての煩雑な書類作成を、行政書士の方のアドバイスを受けながらこなさなければなりません。

 教員のクラス担当シフト表とか、日程表とか学校カレンダー、時間割など、開校前にすべての教務を終えていなければ、開校後の授業ができません。
 1988年から今まで30年間やってきたことすべてを総合していく作業で、たいへんですがやりがいがあります。

 時間割ひとつとっても、9時から授業を始めるのか、8時半からなのか、ひとつひとつ決めていきます。校務分掌は、どの仕事をどのつながりでどのように担当していくのか、あれこれまとめるべきことが多く、学校運営というのはほんとうにたいへんなのだと感じます。

 30年間の日本語教育経験のなか、これまでは日本語文法研究と日本語教育、日本語教師養成コースの授業を担当することが主でした。
 コース運営は、専任教師が研究休暇で1年間いなかったときに代わりに担当したのと、ミャンマーの日本語コース新設の経験だけなので、日本での日本語学校設立に関しては、わかりにくいことも多々噴出。

 でも、来年の開学に向けて、1年間がんばります。この年になって新しいことに挑戦できる幸運に感謝しつつ、一生懸命、よい学校ができるよう、これまでの経験を全部つぎ込んでいくつもりでいます。
 夏の挑戦、うまく進んでいきますように。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「再録・晩夏」

2017-08-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170812
ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(7)晩夏

 2004年UPの「夏色に命輝く」を再録しています。
~~~~~~~~~~~~


ポカポカ春庭の「いろいろあらーな」
2004/08/11 夏色に命輝く (6)晩夏

 夏の末。「晩夏」「夏深し」「夏終わる」


紅くして黒き晩夏の日が沈む(山口誓子)
さらば夏の光よ男匙洗う(清水哲男)
晩夏光刃物そこらにある怖れ(大野林火)

 「刃物そこらにある怖れ」も、現実のナイフや包丁などの刃物というより、心をつきさす言葉などもふくめた、作者の心象の中の刃物ではないかと思う。
 しかし、今年の夏ばかりは、この句から悲しい事件を連想してしまう。

 7月18日、夏休み入りに先立ち、長崎県佐世保市コミュニティセンターで「怜美さんとのお別れの会」が開かれた。小6同級生殺害 御手洗怜美さんにヒマワリを捧げ、冥福を祈る。夏休みを暗くすごすことのないように、クラスメートたちに心の区切りをつけてほしいから、と怜美さんのお父さんから申し出があって開催された会という。

 怜美さんのお父さんから子どもたちへ「あなたたちのすぐそばに、あなたたちを一番愛している人がいることを忘れないでください。死という形でなくても、あなたたちが目の前からいなくなったら悲しむ人がいることを決して忘れないでください。そして自分の人生を大切に生きてください」

 クラスメートたち、楽しく明るい夏休みを過ごしているだろうか。

 小学生中学生が関わる事件が増えてきた中、この佐世保事件とマレーシアからの転入女子生徒による新宿男児突き落とし事件など、夏の間もずっと心にひっかかていた。再び、親鸞の言葉が身に染みる。「わが心のよくて殺さぬにはあらず」
 生徒集団の中に、心の居場所がなかったという新宿の加害女生徒。だれひとり、この女生徒の心に寄り添う人がいなかったなんて、、、、。

 自分が加害側になることの怖れもなしに「クラスではみんな仲良くいたしましょう」「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」と、お題目を教室標語として貼っておれば事足りて、世はなべて何事もなしと、優雅に夏休みをすごせる人もいるが、、、、。

 映画『16歳の合衆国』を見た。
 もの静かで内気な知性的高校生、16歳のリーランドが、ガールフレンドの弟ライアンを殺してしまう。知的障害をもつライアンを施設から家までおくってやったり、仲良くしていた彼がなぜ?誰にも理由が分からない。

 リーランドは犯罪少年の矯正施設に収容され、パール教官の担当クラスになった。パールから渡されたノートには、自由の女神の写真が表紙にあしらわれ「United States」とタイトルがある。
 リーランドはその下に of Leland と書き込む。「リーランドの合衆国」でもあるし、「統合されたリーの土地」「リーランドの統一された状態」でもある。

 リーランドは「人生は、寄せ集められた断片の総和より大きい」ということばを、心に深くとめている。
 断片をひとつひとつ寄せ集めて、リーランドは心の中をノートにつづる。

 大人たちは少年犯罪の理由を知ろうとする。理由を知って「親子関係に問題がある」とか「イジメが原因」などの理由をつければ、罪を犯した心を理解した気になって安心する。

 しかし、ひとりの人間の心の奥底、心理の統一された状態など、カウンセリングしたからといって、わかるものではないだろうし、本人にも説明しきれないのかもしれない。人の心の闇をすべて明らかにすることはできないのだろう。

 「哀しみに満ちた人生」がキーワードのひとつとなっている映画だが、見終わっても哀しみの塊がずしりと心に重い。ラストの哀しみもカタルシスにはならない。

 だれも、自分は絶対に正しく、人を傷つけることなどないまま生きていると、いい切れはしない。だれも、心の中に闇の部分を持っている。
 どこにも「罪持つ人を、石もて打つ資格」のある人は、いない。

 だれも心の中に刃物あるをおそれ、そこらに刃物あるをおそれながら命をみつめる。
 夏は命の季節。命をみつめ命を育み、命を鮮やかな色に染め上げる季節。
 すべての生きとし生けるものの命が、何よりも子供たちの命が、輝く夏色でありますように。

~~~~~~~~~~~~~~~~

20170812の付け足し
 映画のほとんどは、飯田橋のギンレイホールにかかったものを、夫の会社のシネマパスポートを借りてみることにしているのだけれど、『16歳の合衆国』は、ギンレイの上映作品リストには入っていなかった。ということは、ロードショウで見たことになります。なぜ、この映画を2004年にみようと思ったのかは、思い出せない。おそらく、長崎の同級生女児殺人事件殺人犯となった未成年の心情を知りたいと思ったのかもしれないけれど。

 2016年夏に起きた相模原障害者施設殺傷事件。
 元施設職員の男A(犯行当時26歳)が障碍者施設やまゆり園に侵入し、刃物で19人を刺殺、26人に重軽傷を負わせた大量殺人事件。事件から1年がすぎて、さまざまな検証も行われてきたけれど、加害者の心の闇は私たちには計り知れません。
 加害者家族は、事件の前から加害者から離れて暮らしていたのだそうだけれど、教師をしていたという加害者の親も解決不可能な苦しみの中にいるのではないかと思います。

 19人の被害にあった方たちの1周忌。「どの命も平等に価値がある」というお題目を並べるだけでは、また第2のやまゆり園事件が起きるように感じます。なぜなら、「命に差をつける」考え方の人が、若い世代にいるし、政治家にもいるのですから。(かって重度障害児の施設で「この人たちに生きる価値があるのか」と発言した元都知事は、やまゆり園事件に対しても、「加害者の考え方も理解できる」と発言しています、(要検証:『文學界』2016年10月号128ページ)

 夏の暑さは日ごとに薄らいでいくのでしょうが、心のやりきれなさは、暑さとともに減っていくわけではありません。
 ただひとつ言えるのは、「この命に価値があるかどうか」とは、決して人間が判断すべきことではない、ということ。

 沖縄にもフィリピンにも墜落したオスプレイを沖縄の空に発着させ続けさせるという政治家は、おそらく、本土の命より沖縄の命のほうが「軽い」という価値観を持っているからこその決断なのでしょう。オスプレイ、必要だったら羽田から発着させてください。都民のひとりとして、頭の上をオスプレイが通過することに反対しませんから。
 東北の震災が「田舎でよかった、都会ならたいへんだった」という「失言大臣」、内閣一同のホンネと思います。
 原発でふるさとに帰れない人が、慣れない土地で病むことになっても、「軽い命」の持ち主へはお金で保障しさえすればいいという了見が透けてみえます。
 原発、必要なら東京の新海面処分場埋立地あたりに数基立ててください。東京の電気は、東京自前でまかないましょうよ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「再録・朱夏」

2017-08-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170810
ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(7)朱夏

 2004年8月の「夏色に命輝く」再録を続けています。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

ポカポカ春庭のいろいろあらーな
2004/08/02 今日の色いろ=夏色に命輝く(2)朱夏

 「朱夏」は、青春と白秋の間。四季のひとつ。また、青春時代に続く人生のひととき。真っ赤な太陽の色がイメージされる。


 描きて赤き夏の巴里をかなしめる 石田波郷

 小説『朱夏』は、宮尾登美子の自伝的作品。少女時代を描いた『櫂』に続く、結婚後の時代を描いている。
 結婚し(旧)満州に渡った二十歳の綾子が、赤ん坊をつれて敗戦の夏を生き抜く、激しい朱夏。
 戦下の朱夏は、逃げまどう人々の血の色でもある。綾子は亡国の民となり、真夏の満州で飢餓と病気におびえながら生きのびる。

 五木寛之『朱夏の女たち』は、35歳前後の3人の女性の「自分探し」がテーマ。
 喫茶店経営者樹里と歯科医夫人朋子とテープ起こしのバイトをしながらライターをめざす七重。それなりに暮してはいるけれど、このまま年を重ねていっていいのかなあという気持ちが、朱夏の女たちの胸に揺れ動く。

 私が2歳の娘を保育園に預け、大学に学部から入り直したのも、ちょうど35歳のときだった。中学校国語教諭から大学日本語講師へのシフトって、傍目には同じような仕事の、たいして代わり映えしないように思えるものだろうが、私にとっては激動の季節だった。自分を探して朱夏をすごした。

 とにかく、めちゃくちゃ忙しい朱夏。
 自宅から自転車で20分の大学に入学し、学部3年生の終わりに日本語教育能力試験に合格。学部4年生のとき息子を生んだ
 授業中のにわか雨に「しまった、ふとんを干して来ちゃった!」と叫んで教室で笑われたり、生まれたばかりの息子を背負い、娘のままごとの相手をしながら、「提出期限に間に合わせよう」と、卒論書きに励んだり。
 息子をおんぶして大学院の入試二次面接にかけつけた。

 乏しい家計を奨学金がささえた。奨学金で二人の子の食い扶持をまかない、今も育英会に返済を続けている。

 娘を小学校へ送りだし息子を保育園に預けて大学院へ。やっとのことで修士課程を修了したとき、娘は9歳。卒業式父兄席にすわって母の大学院修了を祝ってくれた。

 朱夏のジョッキ飲み干してなほ乾くなり 春庭

<つづく>


ポカポカ春庭のいろいろあらーな
2004/08/03 今日の色いろ=夏色に命輝く(3)朱夏つづき

 大学院2年目からは、生活費捻出のため日本語教師の仕事をめいっぱい入れた。授業がない土日や夏休み冬休みには、夫の会社(ずっと赤字続き)の下働き。出版社へのメッセンジャーや校正アシスタント。
 「まるで仕事ができない奴」と、夫に叱られ続けた。いつも注意力散漫だから、校正者としての能力は決定的に不足していたみたい。おまけに方向音痴なので、メッセンジャーに出かけても、道をまちがえたり、乗り換えの路線をまちがえて、とんでもない方向へ進んでしまい、約束の締め切り時間に間に合わない。

 「夫婦が協力して家庭を築き上げる」という結婚前の理想は、「家事育児にはいっさい関わらない」という夫だったので、「絵に描いた餅」に終わった。
 ひとりで家事育児をこなし、日本語教師として働きながら大学院で学び、学校がない日は夫の仕事の手伝い。よくもまあ、あんな日々をすごせたものだ。真夏のエネルギーに満ちていたんですね。今はくたびれ果てております。

 仕事を続けながらの大学院生。いつまでたっても修士論文が書き上がらない。思い切って日本語学校教師をやめ、修論執筆に専念してやっと修士号を得た。
 しかし、大学院を修了しても就職口はない。日本語教師養成通信講座のスクーリング講師をして1年。単身赴任という条件をのみ、文部省(当時)からの派遣講師として中国で教えることになった。子供の世話はしないという夫なので、実家に子供たちをあずけ、背水の陣だった。

 派遣先は、『朱夏』の舞台となった地であった。NHKのテレビドラマ『大地の子』の舞台でもある。
 『大地の子』ロケ隊がやってきて、エキストラを募集しているというお知らせが講師室にも伝わった。エキストラのほとんどは中国人を採用しているが、何人か日本人も必要という。他大学の老先生といっしょにエキストラをすることになった。

 日本に帰ることなく旧満州の地に倒れた開拓団。墓もなく荒野に眠る人々への墓参団、という役回り。
 朱夏時代の私の姿。NHKドラマ『大地の子』のワンシーンに、数分間残っている。

遠き朱夏 女盛りなんてあった?(春庭)

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20170810の付け足し
 気づけば白秋の季節もすぎ、玄冬という年齢になったというのに、いまだに朱夏時代のうらみつらみは消えずに残り火となっています。

 8月7日に息子娘のクラスメートだった姉弟のママと久しぶりに会っておしゃべりできました。シューママと私、自分自身が一家の稼ぎ手となって家族を支え、がんばってきたところはいっしょ。でも、子ども達が同級生だったころ、不安定な非常勤講師だった私にとって、シューママは公立校の教諭という安定した身分の恵まれた人に見えていました。シューママの実母も同じマンションに住んでいて孫の世話を頼めるという立場の人と、どこにも助けのない孤軍奮闘の私では、愚痴のこぼし方も違うだろうと。

 でも、シューママは言う。「私、娘に言われたことある。母の日に、娘が言うの。うちには母なんていないじゃない。父みたいな人と、微妙に父やってる人の半端な父がふたり。どこにも母はいないって。娘には負担かけちゃったな」と。
 私も娘にはさんざん負担をかけて、弟クンの世話をみさせてしまったけれど、今更公開しても遅い。そのときはそれ以外に生き伸びる方法がなかった。

 シューママの長女長男末っ子次男(息子のクラスメート)はそれぞれ家を出て自立し、末っ子は結婚していることもおしゃべりの中で知りました。それぞれさまざまな紆余曲折を経て白秋から玄冬へと季節は移り変わっています。
 やわで軟弱イーカゲンな私の玄冬がそれほど厳しくない季節でありますように。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「再録・炎昼、炎暑」

2017-08-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170808
ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(5)炎昼、炎暑

 2004年8月の「夏色に命輝く」再録を続けています。

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ポカポカ春庭のいろいろあらーな
2004/08/07 今日の色いろ=夏色に命輝く(6)炎昼、炎暑

 炎天のほかに、いかにも「炎」が暑そうな「炎昼」「炎暑」「炎熱」。
 乾ききる「大旱」、極まる暑さ大きな暑さの「極暑」「大暑」


炎昼いま東京中の一時うつ(加藤楸邨)
炎昼に製氷の角をどり出る(秋元不死男)
みじろぎもせず炎昼の深ねむり(野見山朱鳥)

炎昼やビル陰ランチの工事びと(春庭)

 ビルの谷間の道路で工事をしている人たちが、日陰で弁当をひろげているのを見る。日陰といってもアスファルトの照り返しはきつい。そのまま道路で昼寝する人も。炎昼の深ねむり。

炎暑の扉 街へひらきしが用あらず(加藤楸邨)
生きてゐるかぎり 豚は炎暑の鼻世界(加藤楸邨)

 生きているかぎり食べ続ける春庭にとってもまた、炎暑は厳しい。暑い暑いと言ってグウタラして動かないのに、食欲はなくならないから、夏やせというのをしたことがない。今年の夏も、「生きているかぎり豚」ですごす

大旱の赤牛となり声となる(西東三鬼)

 炎天下、人も草もぐったりとしている中、炎熱が化身したような大きな赤牛が見える。何もかも燃え尽き、乾ききったような空気の中に、本当に赤牛がいるのか、それとも暑さの中の幻想なのか。暑さが固まって牛の形になったのかもしれない。
 暑さの赤牛は、暑さの中から絞り出すような声をたてる。声は燃える空気を伝い、ぐったりしている人と草に届く。


兎も片耳垂るる大暑かな(芥川龍之介)
念力のゆるめば死ぬる大暑かな(村上鬼城)
じだらくに勤めていたる大暑かな(石田波郷)

 春庭は、大暑でなくてもじだらくに勤めているのだから、大暑ともなれば、もうぐうたらと何もしない。「何をせずとも東京の大暑かな」とおまじないをとなえると、あら不思議「何もしなくても、まあ、しょうがないよ。ヒートアイランド、暑いんだもんね」で、毎日ジダラクぐうたらとすごせる。

 炎天はますます燃えさかる。しかし、太陽暦では、立秋は「太陽の中心が黄経135度を通過する日」と定められている。
 2004年は8月7日が立秋。
 暦のうえでは、8月8日からは秋になる。とてもそうは感じられないけれどね。
 立秋といえども今日の暑さかな。まだまだ暑い。

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 20170808の付けたし
 2017年の立秋も,2004年と同じく8月7日です。暦上、8月8日はもう「暑中お見舞い」は使えない。残暑お見舞いになります。
 「残暑お見舞い申しあげます」

 くるくると行き先を変え、のろのろと停滞しつつ大雨を降らす台風5号。なんだか変な台風で、曇り空続きの関東にも影響が。台風の季語は秋。
 
<つづく
コメント (4)
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ぽかぽか春庭「再録・炎天」

2017-08-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170806
ぽかぽか春庭今日のいろいろ>再録・夏色に命輝く(4)炎天

 2004年にUPした「夏色に命輝く」を再録しています。

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ポカポカ春庭のいろいろあらーな
2004/08/06 今日の色いろ=夏色に命輝く(5)炎天

 「炎帝」のほか、暑さが燃え上がるような炎のつく季語「炎天」


炎天の犬捕り低く唄ひだす(西東三鬼)

 三鬼の「炎天~」を、山本健吉は「ハムレットのセリフを思い出す」と、評している。
 墓掘り人夫が唄いながら掘り続けるようすを、ハムレットがながめて言う。「あいつは自分の仕事に何の感情も持たないのか?」ホレーショが答える。「慣れてしまえば何も感じなくなるんです」

 山本の評の要約。「血塗られた手として仕事を続けるうちに鼻唄さえ出てくる犬捕りを、三鬼は背筋のぞっとするような感覚を受け取っているが、それだけではなく、犬捕りへの親近感も表現されている」。
 親鸞が「わが心のよくて殺さぬにはあらず」と言ったのと同じ内省が、三鬼の「低く唄いだす」から見えてくる、と山本は言う。
 
 私は、この句から辺見庸のエッセイを思い出す。
 辺見は、火事のように真っ赤な色をみせるつつじ花壇に目をとめる。「今猩々」という種類のつつじという。
 その花壇は、保健所が集めた野犬の処理場の中にあった。野犬といっても、ほとんどは人が捨てた犬。

 不要になって捨てられた犬たちを、男は毎日黙々と殺し、焼き続ける。仕事だから。
 男は仕事のあいま、つつじの手入れに余念がない。肥料をやり、より色鮮やかな花を咲かせようと苦心する。犬を焼却処分した灰は、よい肥料になるのだという。
 辺見の目に、躑躅(つつじ)は「巨大な血溜まり」のように見えてくる。(『独航記』の中の「躑躅の男」)

 ハンターに捨てられた猟犬。年をとって役にたたなくなったから、不要。マンションで洋服を着せられ冷暖房の中で愛玩されたペット。引っ越し先はペット不可だから、もういらない。引っ越しのとき、燃えるゴミといっしょに捨てる。
 人間の都合で、「燃えるゴミ」のように捨てられ、ゴミよりも「養分のある肥料」になる灰。

 猟犬の髑髏の灰も、チワワの細い骨の灰も、花壇にまかれ、色鮮やかな躑躅に変わる。
 「躑躅(つつじ)という漢字は、髑髏(どくろ)という字に似ている」と言った漢字マニアの留学生がいた。

 犬殺しをせぬのも、人質の首を刎ねぬのも、「わが心のよくて殺さぬにはあらず」。
 ある炎熱の日には、自分の手が「血溜まりの花」を摘むことにならぬとは、誰が言えようか。いや、人々は今日もこの炎天に「戦争のために使う税金」を払うために、せっせと稼いでくる。すでに、躑躅と髑髏は重なっている。

 8月6日に、「水をください」と叫びながら炎熱地獄のなかに死んでいった人々を忘れてしまうなら、私たちの手もまた、血溜まりの花をつかんでいるのだろう。

 一瞬の閃光に焼き尽くされていった人の無言の叫びを聞く耳もたず、「武器を売るのも経済活動」と言う人たちを認めてしまうなら、私の手もまた、、、、。


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20170806の付けたし
 72年目の8月6日。ただ,祈ります。忘れない。

 
<つづく>
コメント (2)
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