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ぽかぽか春庭アーカイブ(つ)津島佑子『寵児』

2018-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20181122
ぽかぽか春庭アーカイブ>(つ)津島佑子『寵児』

 2003年の再録です。

at 2003 10/14 06:48 編集
春庭千日千冊 今日の一冊No.20(つ)津島佑子『寵児』
 津島佑子は、赤ん坊のときに39歳だった父を失った。佑子が1歳のとき、父太宰治は愛人と入水を遂げた。悲痛な思いに沈んだのは、夫の命を奪われた佑子の母美知子であり、佑子自身が、父の死を意識したのは、少女から作家へと成長する途上でのことであったろう。父の死の事情を知ったのは13歳のころであったと記している。

 祐子が38歳のときに、9歳だった息子を失っている。
 「大夢」と名付けた息子の成長は、佑子にとって文字通り「大きな夢」の存在であり、心の支えとなっていたと思う。その息子までが早世してしまった。

 私が最近読んだ津島佑子の作品は、読書遍歴を語った『快楽の本棚』。このあとがきでも津島は「ある不幸があり、40歳すぎの人生を余生のように感じていた」と、記している。息子の死の衝撃がいかに大きかったか察せられる。

 そんな過酷な運命を経て、津島の近作はますます凄みを増している。『火の山 山猿記』『笑いオオカミ』など。
 私が好きな作品は、娘との二人暮らしを連作短編として描いた『光の領分』、未婚の母として生きる女を描いた『山をかける女』など、比較的明るい感じのものだが、小説家としての津島の本分は、私には読みこなすのがむずかしい果てしなく深い作品群の中にあるのだろう。

 『寵児』は、離婚前後の津島が「想像妊娠」をキーワードにして「母、女、肉体」としての人間の存在をつきつめている作品。
 柄谷行人は『反文学論』の中で、『寵児』について、こう評している。。


 『「本当のわたし」なるものこそ冗談なのだ。アメリカのフェミニストの作家たちは、いわば「本当のわたし」があるかのように思いこんでいる。したがって、「母」や「女」を歴史的・社会的におしつけられた意味としてしりぞけ、「本当の生き方」を求めようとする。それはもう一つの「意味」にとらわれることでしかない。
 たとえば、愛は観念であり、確かなのは肉体だけだ、というような人がいる。だが、『寵児』の主人公は、”想像妊娠”をするではないか。いいかえれば、肉体そのものが観念的なのである。すると、人間の存在そのものが「冗談」であるというほかはない。』
 

 私は「日本語文法研究」を続けるより「母として生きる」ことを選んだ。語学教師として細々と日々のタツキを得ながら、「子供がすべったころんだの毎日」を生きてきた。
 そのこと自体に悔いはないが、子育て中の多くの若い母たちが「本当の自分」を探したい気分もまた、ようくわかる気がする。柄谷が『本当の生き方を求めようとするのは、もう一つの「意味」にとらわれることでしかない』と、言い切れるのは、柄谷が、すでに「自分の意味」の確立をなしえた男だからのような気がするのだが。

at 2003 10/14 06:48 編集
 2003/09/30付富岡多恵子のエッセイで、同時代に生き同時期に亡くなった西鶴と芭蕉にふれている。西鶴も芭蕉も50代での一期であった。富岡自身の50歳になった感慨を語り、今の時代、80歳で逝くとしても、西鶴のように52年の生涯を「我にはあまりたるに」と言って死ねるか、こころもとない、と結んでいる。

 母が55歳で、姉が54歳で亡くなったせいもあり、50歳すぎ、自分の老いと行く末を強く意識するようになった。
 家族の早世というのは、残された者にほんとうにつらく重いものを与える。私の母は心不全をインフルエンザと誤診されて、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診されての早世だった。
 家族が寿命を全うすることなく早世した場合、残された家族の悲痛の思いは計り知れない。しかし、私が生きて母と姉の思い出を語れるうちは、二人はこの世に生きている。思い出をできる限り長くとどめておくためにも、私は長生きをするぞ。

 何歳まで生きたとしても、果たして「我にはあまりたるに」と言えるかどうか。120歳まで生きたとしても、「まだまだ、、、」と、はいずり回っている気もする。
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2010/01/28
 天寿まっとうしての大往生なら、逝く人を愛してやまない家族も、さながらオリンピック行きの壮行会のように見送ることができる。
 三谷幸喜が、昨年末の祖母の大往生を描写している。三谷の母親たち、子にあたる人たちは順番に枕元でしみじみと思い出を語り、生んでもらい育ててもらった感謝を述べた。孫達は最初はしみじみ祖母と過ごした日々の思い出を話していたけれど、孫同士いとこ達の間でしだいに「いかにユニークな別れの言葉を述べるか合戦」のテイとなり、にぎやかに楽しく見送りをすませたのだと朝日新聞夕刊の連載エッセイに書いていた。

 それに比べて、寿命いきとどかず理不尽に家族を奪われた者にとって、何年経とうと別れに納得ができず、悲しみはあとを引く。津島佑子の息子大夢は、呼吸発作によって9歳で帰らぬ人となった。息子の成長をたのんできた母親にとってその悲しみはどれほどのものであったろうか。「夢の記録」などに津島佑子は息子を失った母の心を書いている。

 私が津島佑子を最初に読んだのは1979年発表の『光の領分』で、1978年発表の『寵児』を読んだのは、そのあとになる。1977年以前に読んだ本を並べるというコンセプトの「おい老い笈の小文」であったのだけれど、『寵児』はたぶん1980年以後に読んだはず。
 「女性が自分らしい生き方を探す」ということをようやく世間が認めるようになった時代となってきたころでした。

 私は1983年に娘を生んだ後、85年に国立大学に入学した。私立大学を卒業してから11年たった大学再入学だった。さび付いた頭をもう一度磨き直すのはたいへんでした。子育て家事をひとりでこなし日本語講師もして学校が休みの日には夫の会社を手伝いながらの勉学で、学部入学から大学院修了まで8年かかった。学部4年生のとき生まれた息子は今21歳になっています。
 私の在学中、学部3年生のとき日本語教育能力検定試験に合格して日本語教師を初めてから22年たちました。大学で留学生に教えるようになってから15年。日本人学生に日本語学日本語教育学を教えるようになってから10年。ほんとうに月日はあっというまに過ぎていくもんです。

 あれよあれよと言う間に過ぎる月日のなかで、何ということもできないまま、ただ、母や姉に呼びかけつつ生きてきました。母を思いだし姉とすごした日々を忘れないことが一番の供養と信じています。

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20181115
 京都の神社、どこも七五三の宮参りをたくさん見かけました。11月15日の七五三参りの日よりも、11月中の祝日土日に家族そろってお参りする一家のほうが多いみたい。どの子どもたちもかわいらしく着飾って、男の子も女の子も、昔よりも着物姿が多いのは、レンタル着物店が増えたせいでしょう。子どもの成長を願う親心は昔も今も変わらないけれど、我が子に先立たれた親の気持ちもわかる年になって、よそ様の子どもでも、七五三を祝ってもらえる子の姿に、この先幸多かれと祈る気持ちで見てきました。

<つづく>
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