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ぽかぽか春庭「2017年4月目次」

2017-04-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


ぽかぽか春庭2017年4月目次

0401 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記3月(10)新宅&古書斎
0402 2017十七音日記3月(11)新スーパーと古団地

0404 2017十七音日記4月(1)古い歌とニューソング・家庭内与野党合同カラオケ大会
0406 2017十七音日記4月(2)「たった一人の戦場」を語る・長倉洋海vs西原理恵子
0408 2017十七音日記4月(3)洋館と桜 in 旧古河庭園
0409 2017十七音日記4月(4)六義園・昼の桜と夜桜
0411 2017十七音日記4月(5)名残の桜散歩・桜吹雪忌

0413 ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春の辞書(1)桜花図譜
0415 春の辞書(2)橋のことば
0416 春の辞書(3)先行保有者優先の法則
0418 春の辞書(4)シロズキンヒヨドリ・若冲『牡丹小禽図』と『観文禽譜』

0420 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日記>2017年4月スタート(1)新学期
0421 2017年4月スタート(2)日本語の大きさ
0422 2017年4月スタート(3)世界の国からこんにちは

0425 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月尽(1)ガレットとソバ粉と牛鍋弁当
0427 2017十七音日記4月尽(2)フルートときんつば
0429 2017十七音日記4月尽(3)惜春大人の遠足ターシャテューダーと石貨とうつわ展
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ぽかぽか春庭「惜春大人の遠足ターシャテューダーと石貨とうつわ展」

2017-04-29 00:03:13 | エッセイ、コラム
20170429
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月尽(3)惜春大人の遠足ターシャ・テューダーと石貨とうつわ展

 ミサイルママといっしょに楽しむ「大人の遠足」、お花見遠足に続いて、春を惜しむ遠足に出かけました。
 ミサイルママは、この半年、職業訓練校の入学と就職活動のために忙しい毎日をおくってきました。その間、毎日の学びについてや、就職活動の厳しさについて、ジャズダンス仲間は話を聞くのを楽しみにしていました。
 最初に決めたホテルへの就職、彼女は「小さいホテルだけれど、がんばる」と言っていたのだけれど、雇う側とうまく組み合いませんでした。

 ミサイルママ、めげずに履歴書を送り、3つ面接を受けて全部合格しました。ちょっと通勤には遠いけれど、3つの中の一番大手のホテルに決めました。最初小さいところのほうが働きやすいと思って決めたらうまくいかなかったので、こんどは大手にしたのです。皆が名をしっている大手シティホテルのルーム係として採用されました。朝10時から午後3時まで5時間の勤務。水、土、日の3日間働く、という条件です。

 まだ慣れず、部屋ごとに異なる仕様を覚えるのが難しく、毎日注意を受けている、と愚痴はでましたが、66歳でこれまでとはまったく異なる新しい職種、新しい職場に就職するエネルギー、すごいと思います。

 ルーム係は、30分で一部屋完全に整えなければなりません。部屋を清掃しベッドを整え、アメニティを取りそろえ、という課題は、まだまだクリアできていないけれど、そろそろ楽しみの時間も作らないと、仕事ばかりではひからびてしまう、とミサイルママも言うので、お出かけすることになりました。

1)9時半に待ち合わせ。10時半から有楽町シネマで『ターシャ・テューダー静かな水の物語』を見る。
2)日比谷公園でお弁当を食べて、ヤップ島の石貨を見る
3)出光美術館で「うつわ」展を見る
という、コース。

 『ターシャ・チューダー静かな水の物語』は、BSで放映されたドキュメンタリーを映画用に再編集したもの。私は、ターシャを描いた3つの番組を録画して何度か見ました。しかし、ミサイルママは「ターシャのお庭を大きな画面で見たい」というので、いっしょに見ることにしたのです。有楽町シネマは、こじんまりとした映画館で、見やすい造りでした。座席の上下の差がない劇場だと、前に座高の高い人が座ると、チビの私は見えなくなることが多いのです。

 ターシャのお庭、ほとんどはテレビで見た画面でしたが、ターシャ亡き後、付け加えられた場面もありました。ターシャの書庫のシーンなど。また、テレビではナレーションがついていたけれど、映画はナレーションがなくて、登場人物の声のみになっていました。

 あこがれのターシャの庭、ミサイルママと「お金持ちなら、一度バーモント州のコーギーガーデンに行ってみたいなあ」と言い合いました。
 私は、赤毛のアンのプリンスエドワード島にも、ピーターラビットの湖水地方にも、一生に一度は行ってみたいあこがれの地はいっぱいあるのです。コーギーコテージの庭、いつか行けるでしょうか。

 映画を見終わって日比谷公園へ。心字池、チューリップや藤の花をながめて、ベンチで私が握ってきたおにぎり、夕べの残り物のひじきと豆の煮物、サラダなどでランチタイム。デザートは、娘が作ったアップルパイとミサイルママ持参のいちご。ミサイルママは、いつもの遠足と同じようにドリップコーヒーを持ってきて淹れてくれました。

日比谷公園の池

池の亀甲羅干し


 ミサイルママ、仕事の話、息子さんふたりの話など、尽きることなくしゃべっていました。一人暮らしをしている次男さんのマンションへ行ってみたけれど、電話しても息子は出なくて、入り口の管理人がセキュリティに厳しそうなので、息子の部屋を覗いてみることは出来なかったことなど。1時から3時までお昼を食べながらしゃべっていて、3時から4時まで日比谷公園の中をぶらぶら歩きました。

松本楼前の大銀杏


チューリップ花畑




チューリップと


 私もミサイルママも、日比谷公園に久しぶりに来ました。私はテレビで話題に出ていた「ヤップ島の石貨」をこれまで見たことがなかったので、見に行きたかったのです。ミサイルママは、通りすがりに見たことがあるそうで、「たしか、こっちだった」と、案内してくれました。
 何の番組で誰が話題にしていたのか、まったく覚えていなくて、ただ、日比谷公園内にヤップ島からもたらされた石貨が置かれている、ということを耳が覚えていて、出光美術館に行くなら、ついでに日比谷公園へ行って、石貨を見ておこう、と思ったのです。テレビの話題に出た効果なのか、何人かの人が石貨の前で記念撮影していました。


 石のお金は、ミクロネシアの島々で通用していたもので、持ち運びするときは、中央の穴に棒を差し込んでごろごろと移動させるのですが、実際には、一定の場所に置かれたまま持ち主だけが変わっていく、という通用の仕方。権威の象徴でもあり、ほんとうにものとの交換もできるのだそうです。



 「貨幣」というものが、実際の物としての価値ではなく、皆が「これには○○の価値がある」ということを信じ込めば、価値を持って通用するものだ、ということを目に見える形で示すのが石貨だという。
 南太平洋の島に行かないと見ることができない、と思っていた石貨を、日比谷公園で見ることができて感激でした。

青紅葉も日に映えて


 出光美術館の「うつわ展」。さらっと一回り萩焼や志野焼などのお茶碗を見て回りました。着物を着ている「茶道仲間」のグループも何組かいましたが、私とミサイルママは、どっちがどんなふうによいものなのか、さっぱりわからない、というところは共通の感想でした。大名家伝来の国宝級お茶碗と、百円ショップで買ったようなお茶碗と並べて、どちらでも好きな方を持っていけ、と言われてもきっと安物のほうを選んでしまうにちがいない、という「反目利き」として、お高そうなお茶碗を見て回りました。

 皇居を眺めながめられる休憩室。無料のお茶を飲みながら一休み。ここでおやつにしようと思ったのに、「持ち込みの飲食はできません」と書いてあったので、国際フォーラムの中庭ベンチでミサイルママ持参のお団子を食べてまたおしゃべりして、朝9時半から夕方5時半までの遠足はおひらき。次回は5月第4木曜日の遠足を約束して帰宅。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「フルートときんつば」

2017-04-26 22:39:21 | エッセイ、コラム
20170427
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月尽(2)フルートときんつば

 まだ薔薇には早いのですが、無料の好きな私、無料コンサート開催に心ひかれて出かけました。
 旧古河庭園近くの滝野川会館の第4月曜コンサート。今回は原田詩子さんのフルート、浅賀優子さんピアノ伴奏。
 曲目はおなじみの曲が多かったですが、はじめてきく曲もありました。

・ポルディーニ 踊る人形
・バッハ ポロネーズとバディネリ
・ピアソラ タンゴの歴史から第2楽章カフェと第3楽章ナイトクラブ
・グルック 精霊の踊り
・シュテックメスト 歌の翼による幻想曲
・バッハ シチリアーノ
・フォーレ シシリエンヌ&ファンタジー

メンデルスゾーンの「歌の翼に」は自分でもよく歌っていた曲でしたが、シュテックメストという人も知らなかったし、「歌の翼による幻想曲」初めて聞きました。

 フルートの調べはとても美しく、心地よい時間が流れました。私の両脇、左の男性も右の女性も、最初から最後まで船を漕いでいました。音楽の空気の振動によって脳がアルファ化し、眠くなるのは脳のためによい振動を与えているのだ、と聞いたことがあります。
 私もオーケストラ演奏などで、曲目によっては眠いときもあるけれど、今回のフルートはひとつひとつの音が粒立っていて胸に響きました。

 「演奏中の撮影と録音は禁止」といういつものご注意がありましたが、演奏終了後、コンサート運営者と演奏者が記念撮影していたので、私もお願いして一枚とらせていただきました。若くはつらつとした演奏者ふたりです。

左がフルートの原田さん、右がピアノ浅賀さん。


 私はこれまで、第4月曜コンサートは区が運営していて、区の税金でまかなわれているのだと思っていました。コンサート終了後に司会をしていた男性に「主催者は区なのですか」と聞いてみました。答えは「いいえ、違います」

 コンサート運営者のお話「私どもは、区から会館の運営を委託されている団体です。運営の委託を受けるために、自主的な活動を区に申請しています。このような事業をするから委託してほしいと申し出るのです。その中に、コンサートを月に一回実施するという活動方針があります。区民に有益な活動をするから運営を任せて欲しい、と願いでるのです」「え、じゃ、演奏者への謝礼は、区ではなく運営団体がまかなっているのですか」「はい、基本的には、区内在住の若い音楽家に演奏の舞台を提供する、という形で、ボランティア出演をお願いしています」
 若い演奏者にとって、このような場も演奏実績となっていくのでしょうが、無料できかせていただき、ありがたいことです。

 旧古河庭園の薔薇は、やはりまだ早すぎでした。ゴールデンウィークに開花時期を合わせるための剪定中でした。ツツジも咲き始め。

つつじは咲き始め


 前回お花見に来たときは「本館見学料800円は高い」と、ミサイルママと言い合い、パスしたのですが、バラにもツツジにも早すぎの今は、本館見学もすいていて、当日申し込みもできたので、13時の回に参加しました。

玄関


 玄関脇の地下に嵌められた通風口。古河家の家紋を模様にしてある



 本館見学には何回か来ているので、説明に新しく聞いたことはありませんでしたが、久しぶりの本館内部見学なので、天井の漆喰鏝彫刻も、欄間の細工にも改めて目を見張りながら見学しました。

 部屋を広く見せるための鏡。鏡板は、一枚の木を彫り込んでバラなどを彫刻してある。


 旧古河邸は、大正6年の築造。コンドル最晩年の建築なので、日本文化の研究も深まり、和室もばら庭園も自分で設計した、との説明でした。旧古河庭園の庭のうち、回遊式の和庭園は七代目小川治兵衞の作庭なので、本館2階の和室も当時の大工棟梁が入っているのだろうと思っていました。和室もコンドル設計と、初めて知りました。新しい知識で800円のモト取った。

2階和室


 大正のはじめに、古河虎之助がコンドルに邸宅設計を依頼しました。依頼の経緯に関する記録は残されていませんが。
 コンドルの早い時期の仕事、旧岩崎邸などは、迎賓館としての洋館と生活の場としての和館がそれぞれ建てられていますが、古河邸は、1階が客用、2階が住まいになっていて、2階はホールと虎之助夫妻の寝室のほかは和室です。

現在はカフェとして利用されている大食堂と小食堂




階段


 洋間の壁紙などは荒れたままだったのを復元。照明器具は昔のままだそうです。


 旧古河邸の土地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の所有でした。宗光の次男潤吉が古河財閥創業者古河市兵衛の養子となったので、屋敷は古河邸となりました。潤吉が36歳で病没した後、市兵衛が晩年に側室に産ませた虎之助が18歳でアメリカ留学から帰国して後を継ぎました、西郷隆盛の弟従道の娘不二子と結婚しましたが、不二子に子がなかったので、従道の次男従純を養子に迎えます。西郷従純の長男潤之助は久邇宮朝融王の五女典子女王と結婚。朝融王は昭和天皇の皇后良子の兄。
 古河市兵衛が貧家から身を起こした家は、六代目の母親は今上天皇のいとこというところまで箔をつけたのですが、敗戦後、館は進駐軍に接収され、返還後は引き取り手のないまま荒れ屋敷になりました。その後、東京都が庭園の管理者となり、邸宅は大谷美術館の管理となっています。

1階サンルームの床タイルとサンルーム内にしつらえた噴水


 今回は、花の時期ではなかったので、これまでじっくり見ることがなかった、邸内東側に移築されている旧書庫を眺めました。古河虎之助が西ヶ原の所有地に邸宅を構える前、築地に建てた洋館です。設計した葛西萬司は、盛岡市出身。ジョサイア・コンドルが教え子の辰野金吾に追われる形で東京大学造家学科(建築学科)を辞したあと、辰野金吾のもとで学び、岩手銀行赤レンガ館などを設計。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したこともあり、岩手銀行赤レンガ館も、辰野好みの意匠に思えます。
 しかし、旧古河邸書庫は、むしろコンドル風で本館とも通じ合う意匠。コンドルは東大の教授職を失ったあとも講師として学生を指導していたので、直接コンドルの指導を受けたこともあるのだろうと思います。

築地から西ヶ原へ移築された旧古河邸書庫


 古河財閥は、明治期には足尾銅山の鉱毒問題などを抱えており、1891(明治24)年田中正造による国会での発言で大きな政治問題となりました。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの抜本的な解決より、銅の生産が優先されました。企業や国の繁栄のために、社会の犠牲となった人々は、いつの時代でも足蹴にされたまま。現代でも、2011年津波で被害を受けた人々について、現職復興大臣が「東北でよかった」と、ホンネをもらす始末。沖縄は「北からミサイル飛んでくるのだから、本土を守るためにがまんしろ」と言われてしまう。

お庭は新緑、青もみじ


 このお屋敷で優雅に暮らしていた人々に、足尾の人々の声はどのように伝わっていたのでしょうか。邸宅の主構造はレンガ。外壁は真鶴の新小松石(安山岩)の野面石積み。石の厚さに遮られて、足尾の人々の声など届かず、邸内では夜ごとに客を迎えて豪勢な食事が振る舞われていたのだろうなあと、800円の入場料を高いと感じる貧乏人は、ひがんだのであります。もう800円奮発すれば、旧大食堂と小食堂を使っているカフェでコーヒーを飲めるのですが、私は持参の水筒(息子のお下がり)につめてきたインスタントコーヒーを飲むことにしました。優雅なティータイムは似合いそうもないので。

 豪勢な食事会には及びも付かぬが、せめてお庭のベンチでおやつでも。「賞味期限直近につき、半額セール」のきんつばなどいただきました。

古河邸庭で自撮り


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ガレットとソバ粉と牛鍋弁当」

2017-04-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170425
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月尽(1)ガレットとソバ粉と牛鍋弁当

 何年か前に、BSの「ドキュメンタリーとドラマが連動している」という仕立ての番組を見ました。4人の女性作家がヨーロッパの田舎を旅して、小さなレストランや農家で料理された地元のメニューを食べる。ワインやチーズを作っている地元の人々とのふれ合いをメインにしたドキュメンタリーで、女性作家は食べ物の思い出などを述べる。そして、その土地での見聞からインスピレーションを得て短編小説を執筆。その小説を短編ドラマにして、作家による旅番組とドラマを並べて放送していたのです。「愛と胃袋」というタイトルでした。

 井上荒野はピエモンテ州(イタリア)、江國香織はアレンテージョ地方(ポルトガル)、角田光代はバスク地方(スペイン)、森絵都はブルターニュ地方(フランス)。
 短編4作は『チーズと塩と豆と』というアンソロジーとして文庫になっています。

 江国ドラマは、同性愛の男性が主人公。恋人は浮気性で、ふたりで訪れたアレンテージョの小さなホテルの経営者とも関係を持つ。経営者の若い後妻とその幼い娘と心を通わせるようになった主人公。若い後妻に誘われるが、結局恋人とは別れられず、リスボンへと戻っていきます。

 角田ドラマは、「神様の庭 アイノアの豆スープ」
 国際NGOで働く女性アイノアが主人公。難民キャンプで料理担当をしている。遠距離恋愛の恋人は、「自分かNGOの仕事のどちらを選ぶのか」と迫り、彼女のもとを去って行きました。傷心の彼女は、バスク人の父親のもとへ帰省します。母が危篤です。父親は、経営するレストランの料理に力をいれる余り、母をないがしろにしてきたとアイノアは思い込んできました。その父親が、実は母を深く愛していたことに、料理を通して気づいていきます。父は、自分のレストランを継いでほしいと願っているのはわかっているけれど、アイノアは、再び難民キャンプへ戻っていきます。彼女の料理を待っている人々がいるから。

 井上ドラマは、高校の担任教師だった男性と結婚した女性の物語。男性の娘は、高校の同級生で、この結婚を認めていません。老齢の男性が入院して植物状態になっても、妻は毎日スープを夫のために届けにいき、いつか目をあけると希望を捨てていません。若いバリスタが彼女に好意を寄せますが、彼女は一夜をいっしょにすごしたあと、今までの暮らしを守ることを決意します。夫と共に築き上げた畑を黙々と耕し収穫する生活を。

 森ドラマの主人公ジャンは、自分の出身地ブルターニュが嫌いでした。故郷にいたころは、故郷そのもののような母親から逃げ出すことを考える毎日でした。子供の頃、貧しい母親が焼いてくれる黒い麦(ブレノワール)のクレープ、ガレット。白い小麦粉のクレープがいい。黒い麦ブレノワールは、貧乏の象徴のような気がしていました。
 ジャンは母親に反発してブルターニュを出て、今ではそこそこのシェフになっています。
 中年になって故郷に戻り、食堂兼民宿を経営することになります。ブルターニュを代表する料理として、選んだのは、ガレット。母が亡くなり、家族と暮らす中で、母が焼いてくれたガレットの価値に気づきます。

 ガレット、ブレノワールのクレープ。ブレノワール黒い麦とは、日本ではそば粉です。
 こんなふうに、以前に見たテレビ番組を思い出したのは、渋谷松濤にあるガレットの店で食事したからです。

 数年前に、娘と新宿高島屋にあるガレットの店で食べたことがあり、「日本じゃ、そば粉なんて、特別な料理素材じゃないけれど、こんなふうにフランス料理としてこじゃれたレストランで食べると、けっこうなお値段ですなあ」と、娘と言い合ったことでした。

 4月15日土曜日。娘が渋谷東急ハンズで手作り講習会に参加している間、私は松濤美術館を見ていました。娘が「一人で行く」というのに、「松濤美術館へ行くから」と、くっついてきた母親、うざったい存在ですねぇ。
 娘は「この年齢になっても母親がいつもくっついて来ているってのは恥ずかしいから、ハンズの中で待っていないで」というのです。

 東急デパートからまっすぐ松濤美術館まで歩く途中にある建物、松濤美術館に出かけるたびに気になっていたけれど、こういう店は、「こだわりのなんちゃら」をメニューにしていて高そうだから、一度も入ったことがなかった。でも、松濤美術館の展示を見終わっても、娘が手作り講習会を終えるまで時間がありそうなので、えいやっと入ってみました。一休みして時間をつぶすため。


蔦の絡まる店の建物。喫茶店かと思って入ったのですが、ガレットの店でした。


 「ガレットリア」という店。無農薬食材とやらが売り物で、人通りの多い場所柄、強気の商売をしています。店員は「飲み物一品と料理一本をご注文いただくことになっています」という。一番安いブレンドコーヒーは500円。一番安いガレットはプレーンで1300円。トッピングは、チーズやトマトなど200~300円。しばしメニューを眺めて、おすすめセットにしました。ガレットと甘いクレープと飲み物のセットで2000円なり。飲み物はビール。



 フランスのジャンにとっては「田舎くさくて、やりきれない食べ物」だったガレットが、日本のこじゃれたレストランだと、高級な一皿。貧乏人の母親が娘を待つ間に食べるには、「たかがそば粉なのに、高すぎる」と思える。高い、と文句を言うなら注文するな、てなもんですけど。

 店内は、若いデートカップルや女子会のグループ。1階カウンター席の窓の外を、行き交う人々。
 土曜日に渋谷に来て「人が多すぎる」と文句を言う勿れ。この人の多さは、観光資源にもなっている。
 渋谷駅109前の交差点には、大勢の外国人観光客が自撮り棒を高く掲げて、数分間ごとに2000人が交差して、だれもぶつかったり転んりせずにちゃっちゃっとすれ違うようすを撮影しています。すごいな、この群衆。

 ガレットを食べ、クレープを食べて、1時間ほど時間をつぶしたけれど、まだ娘からは手作りが終わったというメ連絡はなし。
 私が娘に注文した「柿渋染めのトートバッグ」に時間がかかっている、というメールがきました。他の受講生は、ワンポイントを染めるだけだから、1時間ほどで終了したそうです。母の日のプレゼントにすると娘が言うので、欲張りな私は、「バッグの全面に模様を入れて」と、注文しました。

 まだ待っているのに、どうするか。今度はコストパフォーマンスだけを考えて、マックへ。ソフトクリームと水をもらう。100円。「無農薬そば粉や野菜」を使ったお高いガレットもいいのだけれど、私はマックの超安いソフトも好きよ。たぶん、安い原材料を使っているのだろうけれど。

 ソフトクリームをなめながら、ソウルフードについて考える。
 ガレットを食べて、嫌っていた母親を思い出し、母の味を呼び起こすブルターニュのジャン。
 私は、高いと思いつつ2000円のガレットセットを食べ、母が手打ちしてくれた蕎麦を思い出しました。子殿の頃は「また蕎麦かあ」と文句言いながら食べていました。母が作った無農薬そば粉十割の蕎麦、つなぎに使う卵は、庭で飼っている鶏が産んだばかりのもの。今思えば贅沢な蕎麦だったのだけれど。

 娘は、花びらをレジンで固めたペンダントも作ったと言い、「手作り満喫した」と、マックにやってきました。娘とデパ地下で「牛鍋弁当」と「蟹のまるごと揚げ」を買って帰りました。半額になるまで待つか、と思いましたが、娘が「おなかすいた」というので、100円引きになったところで手を打ちました。
 私は全然おなかすいていなかったけど。そりゃそうだ、4時にガレットとクレープ食べたのだから。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「世界の国からこんにちは」

2017-04-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170423
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日記>2017年4月スタート(3)世界の国からこんにちは

 日本語が世界の中でどのような立ち位置を持っているかについて、日本語教師資格取得コースの学生が理解したら、次は、日本語学習者について。

 まず、私が出会ってきた世界からの留学生の国籍を見てもらいます。

「アジア」=韓国、中国、モンゴル、台湾、フィリピン、インドネシア、ブルネイ、マレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、カンボジア、ミャンマー、バングラディシュ、インド、ネパール、パキスタン、イラン、イラク、タジキスタン、トルコ、レバノン、シリア、ヨルダン、パレスチナ、イスラエル、サウジアラビア、クエート、アラブ首長国連邦、オマーン、バーレーン。

「アフリカ」=エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、セネガル、マリ、ナイジェリア、カメルーン、エチオピア、ケニア、モザンビーク、南アフリカ。

「ヨーロッパ」=ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、ラトビア、エルトリア、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、イギリス、アイルランド、オランダ、ベルギー、フランス、スペイン、ポルトガル、イタリア、スイス、オーストリア、チェコ、クロアチア、ハンガリー、ボスニアヘルツェゴビナ、クロアチア、ユーゴスラビア(2003年まで)、ギリシア、ブルガリア、ルーマニア、マケドニア。

「南北アメリカ」=カナダ、USA,メキシコ、ドミニカ共和国、ジャマイカ、グァテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、パナマ、コロンビア、ベネズエラ、ペル、ー、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイ、アルゼンチン。

「オセアニア」=オーストラリア、ニュージーランド、西サモア、パプアニューギニア、ソロモン諸島、パラオ。

 1995年以来、世界に200ほどの独立国があるうち、国費留学生として日本にやってきた100カ国の留学生と出会い、その国の位置や文化について知ることができたこと、日本語教育に関わってきたからこそである、と、日本語教師をめざす日本人学生達に伝えます。

 私が、日本の国内で出会った留学生、この国の留学生とはたったひとりしか出会わなかった、という国も多いです。
 では、逆に、私が受け持った留学生のうち、一番多かったのは、どこの国からでしょう、という質問をすると、これは、ほとんどの学生にとって、推察しやすい。そう、中国です。一般的な留学生でいうと、私が日本語を教え始めて以後、圧倒的に来日留学生数が多い国は、中国です。

 私が1988年に日本語教育能力試験に合格して、日本国内の日本語学校で教えたのは、中国、台湾、韓国からの学生がほとんどでした。1994年以後、大学の留学生センター、国際教育センターなどで、国費留学生への日本語授業を担当するようになって以後、選抜されてくる留学生、さまざまな国から日本にやってきました。

 現在、世界中で日本語を学んでいる人は400万人。そのうち、日本で学ぶ留学生の数は、20万人を超えています。そのうちの半数近くは、中国から。そのほかは、ベトナム、ネパール、韓国、台湾、タイ、インドネシア、ミャンマーなど、アジアからの留学生が92%を占めます。最近急激に増えているのは、インドネシアからだそうです。看護介護の分野で働きたい学生が増え、日本でイスラム教の人が生活しやすい環境も整ってきたからでしょう。

 ミャンマーは、私が2015-2016年に滞在して日本語教育を担当した国ですが、中国からの留学生に比べれば、ごくわずか。
 現在教えている大学でも、40人の留学生のうち、サウジアラビア1人、韓国5人、台湾4人、あとは、中国大陸からです。

 日本語教師資格取得希望の学生のなかには「英語が好きだから、英語を生かした職業として、日本語教師も視野に入れている」という学生がいます。そういう学生には、「英語を生かしたいなら、英語を使う職業はたくさんあるから、そちらを選んだ方がいい」とアドバイス。日本で、英語を媒介語として日本語を教えているのは、上智大学やICUの一部のクラスで、日本に留学する大多数の留学生は中国人留学生で、英語が苦手な学生のほうが多いことを伝えます。英語が得意な学生はアメリカに留学するほうが多いですから。

 アメリカやオーストラリアなどの英語圏で日本語教師として働くには、「英語ペラペラ」が求められているのではなく、当地の教員資格を持っている、など、別の能力が求められていることが多い、

 「では、中国語をしっかり学べばいいですか」という中国語を外国語として選択した学生には、「中国に渡航して現地で教える場合、中国語ができることは有利です。ただし、私は中国語はニーハオ、シェーシェーくらいしかできないでも、3度中国に赴任して教えてきました。日本の国内の日本語学校で教えるには、中国語ができるだけでは、教えることはできません。中国人が多いと言っても、20人のクラスの中に、ひとりタイ人が混じっていたら、中国語を使っては教えられません。タイ人の学生には理解できなくなってしまうから」

 では、どのように日本語を教えていけばいいのか。ここで、「直接法」という現在日本語教育で主流になっている教え方の伝授が始まります。概論を学んだ学生、次は、教授法を学びます。

 日本語教師の資格、現在では、いろいろな機関が認定を行っています。
 日本語教師の資格が認められるには、
(1) 大学で日本語関連科目や日本語教育学の科目を40単位以上取得する
(2) 日本語教師養成機関で420時間以上日本語教育日本語関連の授業を受講する
(3) 日本語教育能力試験に合格する
などの方法があります。

 今でも最大の資格認定機関になっているのは、日本語教育学会が実施している「日本語教育能力試験」です。年5000~7000人が受験して、1000人くらいが合格者となります。合格率は25%前後。なかなか厳しい試験です。

 そんな厳しい試験に合格しても、日本語学校数が減少している現在では、日本語教師として就職する道はそれほど広くない。それでも、日本語教師資格をとろうとする学生たち、「資格欄に何か書いた方が就活に役立つ」という学生が多いです。それもまた、学びのきっかけのひとつ。

 「日本語教師になるつもりは、今のところない」という学生であっても、世界の国々の多様性を知り、世界の言語や文化の諸相をしるきっかけにもなってほしいと、毎年のはじめ、「世界の国からこんにちは」という趣旨の授業を1~2コマかけて実施しています。
 
 2015年の前期に受け持った日本人学生から2016年3月にメールがきました。
 「お久しぶりです。前期の授業でお世話になったマユです。御報告が遅れましたが、なんとか日本語教育能力検定試験に合格することができました。本来親類の寺を継ぐ予定で大学に入学しましたが、いろいろありまして、10月からポーランドの大学で日本語教師のボランティアをする予定です。
 さっそく実践の場が与えられることになり、前期に先生の授業を受けていて本当によかったと思いました。教わったことをうまく活かせるように頑張りたいと思います。
 それでは気温の変化の大きい時期ですのでお体に気を付けてお過ごしください
。」

 最初は、寺を継ぐつもりだった学生からの、海外でのボランティア日本語教師をやってみる、という報告をうれしく読み、激励の返事をだしました。

 さて、受講者のうち何人が実際に日本語教師として活躍するのか、今のところわかりませんが、春庭、今年も楽しく授業を続けたいと思っています。楽しくするには、綿密な準備と当日のエネルギーがいるのですが。老骨ムチ打ってがんばります。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「日本語の大きさ」

2017-04-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170421
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日記>2017年4月スタート(2)日本語の大きさ

 新しく出講することになった大学の留学生、中国、韓国、台湾、サウジアラビアからです。
 2000年から出講している大学の日本人学生に教えてきた日本語教育学概論。毎年のはじめにする「世界の国からこんにちは」というクイズ。

1,日本語はマイナー言語ですか、メジャー言語ですか、どちらと思いますか。メジャー言語とはどれとどれですか。
 最初の挙手では、受講生15人のうち、日本語をメジャー言語と思った学生はひとりでした。
 
 ヒントとして次の三つのクイズに数字を出して応える。
 (1)世界に国はいくつぐらいありますか。
 (2)世界に言語はいくつくらいありますか。
 (3)国連公用語とは、いくつあり、何語ですか。

 世界に国がいくつあるか、知っている国を具体的に出しながら、数えてもらいます。
 自分が知っている国、アメリカ、イギリス、フランス、中国、、、、、など、数えてもらうと、学生の答えは、「50くらい」「100くらい」「200くらい」など、さまざま。正解は、約200です。
 日本が国連加盟国として承認している国数は195で、日本を加えると196。国連に加盟していないバチカン市国、北朝鮮なども加えて、約200です。
 日本語最近、国連加盟国として承認した国。2011年7月に南スーダンを承認し、2011年3月クック諸島を承認しました。

 南スーダンは、自衛隊の派遣でニュースになった国ですから知っていましたけれど、クック諸島が独立国として国連に加盟していたことなど、知らないですごしてきました。
 クック諸島という名は、キャプテンクックにちなんで名付けられたことくらいしか知りませんし、日本が2015年に承認したニウエという国に至っては、世界の国について注意を払っているつもりの私も、「それって、いったいどこにあるの」と、思いました。

 ニュージーランドの「自由連合国」であり、元首はエリザベス二世。サモアやトンガが「ご近所の国」に当たる、南太平洋の島です。人口は2000人ほど。西サモアからの留学生に出会ったことのある私も、ニウエとはとんとご縁がありませんでした。

 クイズ(2)の、言語数。この国の数から推察して、世界に言語はいくつくらいありますか。
 学生の答えは、約100という少数を出す学生から、1万という多数を出す学生までさまざま。200くらいの国の数だから、言語は200~500くらい、と数えた学生が多いです。

 言語は、数え方によるけれど、世界には3000から7000くらいの言語があること、そのうちの約半数は、すでに家庭の中でその言語を話して育つ子供がいなくなっている絶滅危惧言語である、と教えます。たとえば、ネイティブアメリカンには多数の部族のことばがあったけれど、ほとんどの部族の子供が英語で育つようになっており、豊かな言語文化のほとんどが消えかかっている、という現実があります。メジャー言語によって暮らしたほうが、進学にも就職にも有利だからです。

 国の数と言語の数が同じ、と思うのは、「日本国=日本語が使われてている地域」という「常識」が学生の頭にしっかり入っているからです。しかし、世界のほとんどの国は多数民族で構成されており、大学院教育までひとつの言語だけでまかなわれている国は、少数派で、アジアでは、日本、韓国くらいであることも伝えておきます。
 また、国の名前=○○語ではない、ということもわかってもらう。スイスで話されているのはスイス語ではないし、ケニアで話されている言語はケニア語ではない。

 (3)の国連公用語。国際関係論の授業などをとって、知識として知っている学生もいるけれど、一人一人に公用語を言ってもらうと、ドイツ語、イタリア語、韓国語など、自分にとって身近な国の言語が出てきます。
 正解は、英語、フランス語、ロシア語、スペイン語、中国語、アラビア語という6言語。このうちの5つは、第二次世界大戦の戦勝国、連合国側の言語です。
 話者数の問題もあります。ほとんどの南アメリカ大陸の国ではスペイン語を公用語としている、などの事情、西アフリカの公用語の多くは、フランス語、などの事情があります。アラビア語はどうして国連公用語になれたか。むろん石油を握っているからです。

 日本語は、ドイツイタリアと並んで、第二次世界大戦の枢軸国側すなわち敗戦国側であった、というと、学生のなかには、「え、日本って、負けた側ですか」と、のんきな者もいる。世界史や現代史を選択せず、高校では日本史を明治維新まで習っておわり、先生に「あとはほとんど入試に出ないから、ここまでを暗記しろ」と言われた学生。

 ここで、もう一度挙手をしてもらうと、たった一人「日本語はメジャー言語」というほうに手をあげた学生も、「やっぱ、マイナーだな」となります。

 そこで、つぎは、各国の公用語と母語の話。
 インド国の公用語は、最大多数部族のことばであるヒンディ語と、歴史的に宗主国であった国の言語、英語が共通語として公用語になっています。しかし、州ごとに州の公用語があり。インドのお札には、15の言語でお札の値が記載されています。
 ヒンディ語のほか、ベンガル語、タミル語、ウルドゥー語、グジャラート語、パンジャーブ語、アッサム語、カシミール語など300もの言語がひとつの国のなかでそれぞれの地方で話されています。

 家庭のなかで養育者によって話され、子供が自然に習得する言語を「母語」と呼びます。母国語というと、スイス=スイス語のように思う学生も出てしまうから、国と言語をわけるために、母国語という言い方は、言語学では行いません。

 母語として話される人数が多い順に言語を並べるランキング。
1 中国語(北京語・普通話)8億8500万人。上海語、広東語などの地方諸語を加えると13億人
2 英語 5億1000万人(アメリカ・イギリスで3億人他は2億人)
3 ヒンディー語 4億9000万人 (インド)
4 スペイン語 4億2000万人(スペイン王国の話者が4500万人。他は南アメリカ大陸の話者)
5  アラビア語 2億3000人
6 ベンガル語 2億2000人(インド)
7 ポルトガル語2億1500万(ポルトガル共和国の話者は1000万人。あとはブラジル)
8 ロシア語 1億8000万人
9 日本語 1億3400万
10 ドイツ語 1億3000万
11 フランス語 1億2300万(フランス国の話者6200万人)

 国連公用語と、母語話者数の多さを比べると、その違いがでてきます。話者数が多いのに、ポルトガル語が国連公用語でないのは、ポルトガルは第二次世界大戦中の中立国であり、戦勝国ではないから。インドの公用語として英語があるから、母語話者の多いヒンディ語とベンガル語は、除外されてしまい、日本語とドイツ語は、敗戦国だから、母語話者が多くても、国連公用語にはならなかった。

 以上、国連公用語とは何か、までふまえて解説すると、「日本語はマイナー言語」と思い込んでいた、学生も「あれ?」となります。話者数の多さから言うと、日本語は決してマイナーではなく、世界の中の大言語のほうです。
 
 次に、英語を公用語共通語として採用している国の広がりを考えます。世界中で英語を公用語としている国連加盟国は、59カ国あります。
 一方、日本語を公用語としている国は、世界中でゼロです。

 あれ?日本は?
 日本は、法律では公用語を定めていないのです。
 ただし「裁判所法74条」により、「日本国の裁判所での使用言語は日本語」と定められており、国内の公立小中学校での教育用語が日本語なので、事実上の公用語は日本語です。

 日本国以外で、日本語を公用語としている国はありません。わずかに、人口130人という、パラオ共和国アンガウル州(アンガウル島)での州公用語として正式に認められています。(アンガウル州憲法第12条第1項で公用語として定められている)
 日本統治時代に日本語を覚えさせられた住民は、すでに亡くなっていて、現在は日本語を話して生活している人はいません。でも、パラオ語の中に、日本語由来の語が多数残存しています。
 モシモシ、サムイネ、アチュイネ、ヨロシク、アリガトウ、ゴメンナサイ、マタアシタなどが、パラオ語の語彙として通用しているそうです。
 ぜひ、現地に行って使って見たいというのが、長年の夢です。

 以上から、学生たちが「日本語はマイナー言語」と思ったのは、英語のように世界に通用する言語ではない、という理由による、ということが、学生にも理解でき、ただし、話者数から言うと日本語は、世界でも10番目に話者数が多いメジャー言語だということがわかってきます。

 そこから、日本語教育についての学びがはじまります。日本語について単純に「世界のなかではマイナー」と思い込んでいた学生に、世界の中では決して少数言語ではないのだけれど、話者は日本国内にとどまっていること、それでも現在、日本語を学ぼうとしている人は、世界に400万人もいることを知らせます。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「新学期」

2017-04-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170420
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日記>2017年4月スタート(1)新学期

 ことしの春、長いこと桜を楽しめました。
 昨年はミャンマーから帰国した春で、花見をすることもなく過ぎたことを思うと、あちらの花、こちらの花と浮かれて歩きました。
 4月新学期、2000年から出講している私立大学のキャンパスで、花見ができました。4月2週目の新学期授業スタート時に桜を見るのは、初めてだと思います。いい出だしです。
 
 火曜日は、初めて出講する私立大学で、留学生への日本語読解や作文などの授業。水曜日はミャンマーヤンゴン大学に出講している間、2年休んでいた大学への復帰。前と同じ、日本人学生対象の日本語教育学の授業を担当します。

 火曜日の初出講時、大雨は降るし、人身事故で電車は止まるし、さんざんな初日になりましたが、学生はメールコメントは「楽しい授業でした。これから1年間、がんばります」という内容が多く、いつも私が初日にしている「クラスメートと仲良くなろう」という授業は好評でした。学問的にすぐれた先生たち、授業を楽しく興味深くすることにはそれほど関心がないので、学者ではない私が、「いかに学生と共に授業を楽しく作り上げていくか」という点に主眼をおいて授業を進行していくと、びっくりする学生が多いのです。
 
 水曜日の日本人学生たちも「このような形式の授業を受けたのは初めてです。これまでは先生の話をずっと聞いている座学が多かったので、アクティブラーニングという授業になれていけるか不安ですががんばります」という内容のコメントがメールで送られてきました。

 クラス内の学生同士を仲良く打ち解けさせるということを最初に行うのは、アクティブラーニングを実践するには、必要不可欠です。教師の話を聞いているだけでなく、自分から授業に参加するようにするとき、自分がこのクラスに受け入れられている、という感覚が必要だからです。

 私は、最初の授業でカードに氏名と「このクラスで呼ばれたいクラスネーム」を表側に、裏側に「趣味、好きなこと、出身地、母語(家庭内で話していることば)」などの個人情報を書かせます。クラス外には個人情報を出さないことを条件に、グループ内で互いに質問し合い、グループのメンバーと打ち解けることを最初に行います。
 「ペアの相手をクラスに1分以内で紹介する」というのが、最初のアクション課題です。

 どのようにすれば単位をとれるか、出席はどのように扱うかなどのガイダンスも最初の授業で重要なことですが、私は毎年、この「クラスメンバーが仲良くなること」からスタートしてきました。
 今年は私自身もドキドキのスタート。日本の大学授業を2年間していなかったから。

 今年の学生、3年生は1997年生まれ、2年生は1998年生まれ。孫のような年齢です。いつも以上に、私も「うまくクラスがまとまるか」という不安とともにスタートしましたが、なんとか滑り出しOKとなって、ほっとしています。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シロズキンヒヨドリ・若冲『牡丹小禽図』と『観文禽譜』」

2017-04-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170418  
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春の辞書(4)シロズキンヒヨドリ・若冲『牡丹小禽図』と『観文禽譜』

 前回、60年間疑問に思っていたことが、解決したことをお話ししました。もやもやして解決できなかったことがスッキリ解決したり、疑問に思っていたことが「ワカッタ!」状態になったとき、脳にいろいろな脳内物質(ノルエピネリン、ノルアドレナリン、オキシドパミンなど)が関わって、幸福感を得られるのだそうです。

 人には、それぞれの欲望があり、それがアルコールである人もギャンブルでも、性行為でも食欲でも、その欲望が満たされれば幸福感を得られます。
 私の場合、なんでも疑問に思ったら、知りたい、わかりたい、という欲望が一番大きくて、知らなかったことを知り、わからなかったことを解決すると、うれしく感じます。幸福感は人それぞれですが、私はわたし。

 牧野富太郎が監修した「桜花図譜」を紹介し、日本では特に江戸時代に博物誌の出版が盛んになった、と述べました。花、鳥、虫、魚など、生き物を克明に描いたさまざまな図譜が出版されました。
 4月15日に観覧した松濤美術館「今様展」に、喜多川歌麿の『画本虫撰(えほんむしえらみ)』が、参考図版として出展されていて、江戸時代の昆虫図譜の一端を見ることができました。歌麿、美人画もいいけれど、細密な描写の虫の絵もとてもすばらしかった。
  
 毎月10枚の絵はがきを青い鳥さんに送る春庭の「I'm still aliveまだ生きている」シリーズ。河原温の絵はがきシリーズのまねっこですが、この4月30日で730枚目になります。5月に出そうと思っている伊藤若冲の「動植綵絵」の絵はがき、皇居東御苑の三の丸尚蔵館の所蔵で、36枚そろった絵はがきを、休憩所売店で売っています。私は2セットを買い、ひとつは自分用、ひとつは、他の絵はがきと混ぜながら、順次青い鳥さんに送っています。

 5月に出す「動植綵絵」絵はがきは、伊藤若冲(1716-1800)の「牡丹小禽図」です。


 この絵、一面の牡丹が見事なので、小禽のほうに目をとめる人は少ないかもしれません。私は特別バードウォッチャーでもないし、鳥に詳しくもないので、このこの絵の中の小禽とは何か。何という鳥なのか、わかりませんでした。
 ネットなどで検索しても、画面の小鳥について「牡丹の中に小禽が2羽いる」というような解説だけで、鳥の名前が書かれているサイトはありませんでした。



 昨年東京都美術館で「若冲展」が開催されたとき、見に行こうとして、あまりの長蛇の列にびっくりして、観覧をあきらめました。10年前に息子と一緒に「プライスコレクション展」で若冲を見たときは、これほどの列じゃありませんでしたが、10年の間に若冲人気はすごいことになっていた。

 この若冲人気を当て込んで、昨年2016年に『若冲の描いた生き物たち』という本が学研プラスから出版されていました。小林忠、小宮輝之、湯浅浩史、佐々木猛智、本村浩之ら、第1級の動物学者植物学者の執筆です。私は、この本が出版されたこと、1年たつ今まで気づきませんでした。4500円もする大型本なので、本屋にいっても目にとまらず、手に取ることもなかった。

 ありがたいことに、私と同じ「この牡丹小禽図の小禽とは何か」という疑問を持った知りたがり屋がネットの中にいたんです。『若冲の描いた生き物たち』に解答がありました。
 「ヒマラヤ-東南アジア-中国南部-台湾に分布する、クロヒヨドリ。その内の中国亜種である、シロズキンヒヨドリ白頭巾鵯」が描かれていたのです。徳川期には「島鵯(シマヒヨドリ)」と呼ばれていたそうです。

 長いこと、この鳥の名前が判明せず、「若冲は想像力を駆使して、見たこともない鳥を描いた」と書かれた作品解説もありました。若冲は想像力も大きかったでしょうが、動植物については、きちんと観察して描いたと思い、納得できませんでした。
 若冲は動植物の観察に命をこらし、庭の虫や花を一日眺めていた、という人です。観察を続けて、それを画面にリアルに再現できた若冲が、「想像で描いた」という解説にうなづけずにいました。

 江戸の博物学、すごいです。
 鈴木道男編集「江戸鳥類大図鑑-よみがえる江戸鳥学の精華『観文禽譜』:2006平凡社.
に、「嶋ひよどり」の項がありました。頭部が白く、他の羽が黒い鳥の画が載っています。
 現和名:クロヒヨドリ Hypsipetes madagascariensis マダガスカル-インド-中国西部に分布。亜種のひとつで、頭部が白い亜種をシマヒヨドリ島鵯と呼ぶ。

白頭巾ひよどり(嶋鵯)


  『観文禽譜』は、江戸時代の博物学愛好家大名のひとりであった堀田正敦(1755-1832)が編集した本です。堀田正敦は、陸奥仙台藩主・伊達宗村の八男で、堀田家養子となり佐倉藩主6代目となる。栗本丹洲・大槻玄沢・小野蘭山・岩崎灌園らと交流し、自身優れた博物家となりました。1794年に『観文禽譜』を出版。

 『観文禽譜』は、若冲晩年の出版になりますが、おそらく、若冲は、中国渡来の博物学の本や、もしかしたら剥製などを手元に置いていた可能性もあります。中国や南蛮渡来の動物や植物の輸入も盛んだった江戸後期なので。
 牡丹小禽図の制作年は、1761-1765年頃とされているので、『観文禽譜』の図を見て描いたというより、長崎経由で江戸に運ばれた中国博物図(本草学)などを見ていたのではないだろうと思うのです。
 
 以上、半日の検索あそびをで、疑問のひとつを解決することができました。
 ワカッタ!
 若冲の『牡丹小禽図』の小鳥は、想像力によって描いたのではなく、「シロズキンヒヨドリ」を、図譜や剥製の観察によってリアルに描いたものである。

 好奇心が満たされて、一文の得にはならず、腹の足しにもならぬが、脳内活性化してめでたしめでたし。

<おわり>

(画像はすべて借り物です)
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ぽかぽか春庭「先行保有者優先の法則」

2017-04-16 11:30:02 | エッセイ、コラム
20170416  
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春の辞書(3)先行保有者優先の法則

 各出版社が発行している出版情報誌。岩波書店「図書」講談社「本」 新潮社「波」集英社「青春と読書」は、割合に手に入りやすく、 朝日新聞社「一冊の本」 角川書店「本の旅人」文藝春秋「本の話」筑摩書房「ちくま」小学館「本の窓」は、タイミングが合えばもらえる。春秋社「春秋」未来社「未来」有斐閣「書斎の窓」は、ほかにもらえるものがないときに、本屋にあればもらう。

「タダ」と「無料」が好きなので、大型本屋に行くと、これらの図書情報誌をもらってきます。薄くて軽いし、私がよく失敗する「コーヒーボトルのふたをちゃんと閉めていなかったために、カバンの中にコーヒーがこぼれて、本が茶色に染まる」という失敗をしても、無料の本なら、またもらおう、とあきらめられる。薄くて軽いし、通勤読書には最適です。

 普段読む機会が少ないジャンルの本について、著者が熱く語っていたり、対談があったり、販促本といえども読み応えがあります。一冊百円なのだから、定期購読しても年間で1200円程度ですが、なぜかお金を出さないで読めるところがありがたい。貧乏読書のお助け本。いつもは読まないジャンル本の著者や、最近はさっぱり読んでいない著者に出会えます。

 講談社「本」の2月号。昔はよく読んだけれど、最近はほとんど読んでいない社会学の大沢真幸の文章を久しぶりに読みました。「社会性の起源」という連載の第38回。「食をめぐる葛藤の弁証法的解決」というタイトルです。

 私が子供のころから不思議に思っていた「人間行動の不思議」が、さらっと解決。そうか、人間って、そうなんだ、とわかって、スッキリです。
 社会学や霊長類学を学んだ人にとっては、基本中の基本の用語みたいですけれど、私はこの年になるまで知らず、初めて知って脳細胞活性化されました。

 昔。駅前のパチンコ屋の前を通ったとき。早朝から開店を待つ行列ができていました。ある人が、並んでいる順番を離れてトイレに行きたくなりました。するとその人は読んでいた新聞を一枚そこに敷いて前後の人に「オレ、またここに来るから」と声をかけてその場所を離れました。おそらくは初めて出会ったのであろう行列の前後の人たちは、その新聞紙を見て納得し、新聞の主がその場にいなくなったのに、行列を詰めたりすることなく、新聞紙の場所を「だれかがそこにいる」ものとして扱っていました。
 私はこれを見て、「新聞一枚で場所を確保できるのはなぜかなあ」と、子供心に不思議に思っていたのです。

 今も、花見や花火大会の時、ビニールシートなどで場所の確保をする人々がいます。ビニールシートや新聞紙などを広げ、ある一定の場所を「ここは私たちの領分です」と、示しておくと、たとえ、そこに人がいなくても、あとから来た人は、そのシートをどかして自分たちのシートを広げることをしない、という光景を見て、「だれもいないのに、どうしてビニールシート一枚敷いてあるだけで、そこの場所は、ビニールシートを敷いた人のものになるのだろう」と、疑問に思っていました。法律で決められているのでもないのに、このたった一枚のビニールシートは、「確固たる占有」を示していました。

 人間と共通の祖先を持つ猿のうち、たとえば、ニホンザルの場合。群の優先順位が決まっていて、ボス猿が最初にエサを手にすることが多い。しかし、もし下位の赤ちゃんザルであっても、一度エサを手にすれば、それをボス猿が無理矢理奪い取ることはしない。エサは、最初に手にしたものが口に運ぶ権利を有するからです。
 「先行保有者優先の法則」が類人猿の暮らしの法則です。
 ただし、ニホンザルらは、親子兄弟であっても、「食事を共にする」ことはない。それぞれが手に入れたエサを互いに背を向けるようにして個々に食べる。

 と、書かれた霊長類の食事についての説明を読み「先行保有者優先の法則」という霊長類の原則を知って、「そうだったのか」と納得がいきました。
 子供の頃からずっと不思議に思っていたこと「最初にビニールシートを敷いた人がその場所を占有できる」の理由があったのです。

 霊長類の食事の仕方で、他とことなるのは類人猿です。たとえば、ゴリラの家族は、向かい合い目と目を見合わせ、食べ物を分かちあいながら食べます。ヒトも、狩猟民族などは、獲物の肉を狩猟した者が先に食べてしまうことはなく、必ずいっしょに暮らす者たち全員と分かち合います。家族仲間で共に分かち合うこと、これが類人猿の特徴。

 人が社会を構成するにあたって、「仲間と分かち合う」ことが類人猿の大切な「暮らし方」であるけれど、「他者と競い合う場では、『先行保有者優先の法則』を担保する」

 「先行保有者優先の法則」という霊長類が保持してきた原則が、「花見のビニールシートによる場所取り」なのか、とわかって、スッキリしました。

 コンビニでもどこでも食べるものは手に入るようになって、孤食を厭わない若者も増えているそうです。が、やはり類人猿は仲間と顔を見合わせ、分かち合って食べるのが本来の暮らし方だなあと納得し、争いを少しでも減らすために「先行保有者優先の法則」という、原則を霊長類が持てたことが、群れの中で争いあうことを回避する知恵となり、より安定した食の確保によって霊長類の脳が発達してきたのだなあと、納得しました。

 無料本一冊で、霊長類の「先行保有者優先の法則」を知り、長年の疑問が解決できました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「橋のことば」

2017-04-15 00:00:01 | エッセイ、コラム

黒部川にかかる橋2011年撮影

20170413
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春の辞書(2)橋のことば

 世界でもっとも大きな影響力を持つ国の大統領が「国と国の境に巨大な壁を作る」と言って当選しました。そういう大統領を支持する人もいるし、「私たちの間に、壁ではなく橋を作ろう」と主張してデモを続けている人もいる。私はだんぜん「橋派」です。
 さまざまな人々が行き会う場所のひとつが橋です。壁の前で人は向こう側の人と行き会うことはできません。
 橋が好きなのは、古来、橋はこちら側をあちら側をつなぐ場所であるからでしょう。

 橋が好きです。土木建築と言い習わされているうち、さまざまな建築、建物を見て歩くのも好きですが、もっと地味な「土木」分野も好きです。土木の仕事には、建築の基礎工事など、建物に関わる分野もありますが、一応、建物として人が住んだり利用したりする部分以外を受け持つのが土木。
 縄文時代で言うなら、竪穴式の家を建てる際に、土を掘ったり固めたりする作業が土木で、柱を組み立てたりカヤなどで屋根を葺いたのは建築、ということになるのだと思うけれど。弥生時代になれば、水田用の水路を築いたり、ため池を作ったりできる能力のある人が集落をまとめてクニに仕上げていったはず。

 現代の土木工事のうち、その完成形がもっとも目に映える仕事のひとつが「橋」です。
 私は、旅のテーマとして「鉄旅(ただひたすら鉄道旅行を続けて景色を見ている)」「滝旅(滝を見に行く)」「巨樹旅(各地の巨木を見に行く)」「手仕事旅(各地の手仕事を見に行く)」「お茶旅(それぞれの土地でまったりとお茶を飲む)」などなどあるのですが、「橋旅」も大好き。といっても橋を見ることだけを目的として出かけることは少なくて、出かけた先に橋があるとうれしくなる、という程度の橋好きです。

 橋を見ることだけを目的として、隅田川下りのシーバス旅などもしてきましたが、たとえば、下町散歩の途上に「弾正橋(旧八幡橋)」を渡ることができて、大喜び、という場合のほうが多いです。
 いろいろな橋の写真集を眺めているのも好き。橋の姿は美しく、古代の橋も中世の橋も近代の橋も、それぞれに趣があります。

 今年読んだ本の一冊は、『日本の橋』。昨年末ミネルヴァ書房より発行。「シリーズ日本発見」の中の一冊。世界(主に欧米)との比較にも言及しつつ日本の橋を古代から現代まで紹介し、形のデザインだけでなく、構造や工法も詳しく説明されており、なによりいいのは、専門的なことを素人にもわかるような文章であり、各ページ左端に専門用語解説が載っていること。

・バスケットハンドル状のアーチ:アーチ面が内側に傾斜がつき、外観がバスケットの取って(ハンドル)のように見えることから呼ばれるアーチ状の橋
・タイドアーチ:アーチの両側の支点を連結材(タイ)結ぶことで、水平移動を拘束したアーチ橋の形式
・斜張橋:橋塔から斜めに張られたケーブルが直接桁を支持する橋の構造形式
・スパン:支点で支えられた区間、あるいはその区間の長さ
・ライズ:アーチの頂部から支点相互を結ぶ線までの距離。アーチの高さ(そりの大きさ)を示す

 などなど、橋の専門用語について、丁寧に解説が成されています。
 本文を読んでいて、「あれ、このことば、知らないなあ」と思うと必ずページ左側に用語解説が出ているので、すらすらと読み進めることができ、素人でもいっぱしの橋梁専門家のような気分で橋について詳しく知ることができました。

清洲橋(隅田川の橋めぐり2011年9月)


 これまで、橋を眺めて形の美しさばかりに目を奪われてきたけれど、橋の形の美しさは、構造の強化や工法が基本となっていることに、改めて感じ入りました。
 私は橋の中でも、斜張橋と吊り橋が美しいので好きです。眺めているのは好きだけれど、渡るときは揺れると怖い。怖いけれども渡りたい。

 これから橋を眺めるにも、形に見とれるだけでなくもっと構造や工法について考えながら見ていられるかも。渡るときは、、、、吊り橋の強度とか考えても、やっぱり「キャー揺れるよう」と恐がりながらが楽しいのだけれど。

永代橋(隅田川橋巡り2011年9月)


<つづく>
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ぽかぽか春庭「桜花図譜」

2017-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム

ソメイヨシノ 山田壽雄画

20170413
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>春の辞書(1)桜花図譜

 新しいことばを覚えたときに、忘れないようにしまっておく春庭のことば倉庫「ことばの知恵の輪」シリーズ。
 最近仕入れることばは、専門用語などが多くなり、せっかく仕入れても使う機会のないことばばかりですけれど、覚えたことばを倉庫に分類してしまっておくのは、日本語教師の職業訓練。

 この春の桜散歩、私にはソメイヨシノや山桜を見分けるくらいがせいぜいで、数多くの桜の種類について、識別もできず、その名もわからないことが多いのが残念。ただ、きれいだなあ、で過ぎてしまいます。
 牧野富太郎記念庭園で桜花図譜展を見て、サクラの種名を確認しました。

 植物の絵と種名について。
 日本では、中国との交流が始まって以来、中国医薬が伝わり、本草学(博物学)が存在してきましたが、文献で確認できるのは、奈良時代の本草学から。平安時代には『本草和名』という、草木の和名と漢名とを並べて著した絵入りの書物が編纂されました。

 日本の本草学が飛躍的に発展したのは、江戸時代初期から。中国明朝時代に編集された『本草綱目』を、薬草が大好きだった大御所徳川家康が手に入れ、本草学が盛んになりました。
 八代吉宗のころからは、蘭学も取り入れられ、大名の中にも博物学が流行しました。江戸琳派の絵師として活躍した酒井抱一の兄である姫路藩主・酒井忠以のように自ら筆をとって絵を描く殿様もいたし、各藩でお抱えの絵師に領内の薬草など動植物を描かせて、藩の産物として利用しようとするなど、細密な動植物画が描かれました。

 江戸の本草学以来、植物画の伝統がありましたが、牧野富太郎は西洋のボタニカルアートなども参考に、画工に正確な植物の絵を指導しました。牧野によく応えた画工のひとりが山田壽雄(1882-1941)です。

 牧野富太郎(1862-1957)は、野生種を中心に幅広く植物分類の研究を行い、サクラの分類にも力を注ぎました。牧野は、1907(明治40)年10月から嘱託として勤務した東京帝室博物館(現在の東京国立博物館)で、サクラの分類図をまとめ、1918(大正7)年に「日本桜花図譜」編纂をはじめました。
 牧野富太郎指導のもと、画工の山田壽雄(1882-1941)が図の制作を担当しました。
 
 私がこの春に見た牧野富太郎記念館の「桜花図譜展」は、山田の描いた桜図を含む16点のサクラ原図です。東京国立博物館がこれらの図を所有していましたが、ミネザクラ、ソメイヨシノ、ナラヤエザクラの色刷り版は、長い間行方がわかりませんでした。このたび、これら3点の所在がわかり、サクラの原図が16点そろえて公開されました。

 牧野富太郎著『大日本植物志』のヤマザクラ・オオヤマザクラの図、荒川堤で採集したサクラの標本、牧野富太郎に師事した川崎哲也(1929-2002)のサクラの図などが展示されており、たいへん興味深く観覧できました。



 牧野富太郎記念庭園で、桜の名ときれいな植物図をながめたのですが、展示室内撮影禁止だったので、ザル頭では、見たはしから桜の名前など忘れてしまいます。
 桜図譜の絵葉書があることがわかりましたが、牧野富太郎記念館では売っていなくて、手に入れることができませんでした。

 私が手に入れたいと願っていた「牧野富太郎指導、山田壽男画の桜図譜」の絵はがき、友人yokoちゃんが、プレゼントしてくださいました。感謝です。
 絵はがき、貴重なもので、このような大切な文化財、もっと人々に知られてもいいと思います。所蔵しているのは東京国立博物館であるし、画工山田壽雄も指導した牧野富太郎も著作権は切れています。
 
 東京国立博物館が桜花図譜を公開しているかと思ったのですが、検索しても見当たらなかったので、絵はがきを画像で紹介します。すべて山田壽雄の筆です。

ミヤマザクラ


ヒカンザクラ


ベニトラノオ


ナラヤエザクラ


紅普賢象


松月


長州緋桜


南殿


ミネザクラ


マメザクラ


オオシマザクラ


 絵はがきをコンパクトカメラのちょっとピンボケで撮影したものなので、やや不鮮明です。
 私のカメラでも、もうちょっと鮮明に写せば撮れるとおもうのですが、写真から版を起こすことができないくらいボケボケ写真でちょうどいいのではないかと。
 必要な方は、牧野記念庭園に問い合わせをすると、どこで絵はがきを買えるかわかると思いますので、手に入れてください。
 また、牧野富太郎の資料全点は、遺族から首都大学東京に寄贈されています。標本などを見たい方は、大学へ。

 桜の種名、こうしてメモしておいても、来年の春には「はて、この花はなんだったかな」と、すっかり忘れているでしょう。が、「ぽかぽか春庭 桜花図譜 山田壽雄」のキーワードで検索かければ。このページが出てくると思います。検索機能、ありがたし。
 アインシュタインも、「本を見れば書いてあることは、暗記する必要はない」と言っています。ただし、どの本にかいてあったことなのか、思い出す必要がある。「春庭。山田壽雄、桜花図譜」このキーワードを覚えていれば大丈夫。

 なぜ、山田壽雄の桜花図譜に心ひかれたのか。それは、私が山田壽雄を知らなかったから。高名な植物学者牧野富太郎については、子供の頃からその名を聞かされていて、彼が不遇のままであったにせよ、世界的な植物分類学者としての高い評価を受けていたことも知っていました。しかし、彼の指導のもと、もくもくと植物写生図を描き続けた山田壽雄の名をは、牧野記念館で桜花図譜展を見るまで知りませんでした。あるいは彼の名が記載されている他の植物画を国立博物館などで見たことがあったのかも知れませんが、その名に注目することはなかった。

 私は、このような「無名の仕事」に心ひかれるのです。世間に名を知られることもなく、もくもくと己の技量をみがき、ひとつのことに従事する、そういう「職人仕事」を尊敬しているからです。五重塔や寺社の建築に携わり、天井の梁の裏側にひっそりと己の名を刻んでおくような下働きの宮大工とか。東京タワーの設計者として名を残した内藤多仲さんも尊敬するけれど、多仲さんの業績を伝えるドキュメンタリー映像の中に映り込んでいる無名のとび職達。建設中の答の上でもくもくと作業しているとび職たちの顔が好きです。

 大きな業績の陰に、偉大な功績を支えた無名の人々がいたことを思うと、無言の励ましを受けている気がします。

<つづく>.
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ぽかぽか春庭「名残の桜散歩・桜吹雪忌」

2017-04-11 00:00:01 | エッセイ、コラム

近所の桜並木を見上げて自転車で走る

20170411
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月(6)名残の桜散歩・桜吹雪忌

 東京都の花は桜ですから、住まいの周囲にも自転車で買い物に行った先にも桜が植えられていて、花時にはそこここに桜を見ることができます。花見をとくに心がけなくても、桜を楽しむことができて、ありがたいこと。

 自宅のベランダから花見。


 4月2日、ご近所で一番先に満開になったスーパー前の桜。ソメイヨシノとは違う種類だと思うのですが、桜に詳しくないので、種類を識別できません。
 

 花見は、花とともに降臨する神を歓待して飲み食いし、秋の豊穣を予祝する行事ということです。農耕とも予祝とも関わらなくなった現代の人々にとっても、桜が一面に咲く姿は、身近な人々といっしょに春の到来を喜ぶ気持ちをひとつにする機会。昔ほど、花の下で飲めや歌えの大騒ぎをする人々はいなくなり、静かな花見ができる場所も多くなりました。

 6日の夜は雨が降り強い風も吹きました。桜は散ってしまったかと心配でしたが、7日午後には雨も止んだので、名残の桜散歩。
 「ひとり花見」は、自転車で一回り。花模様を楽しみながらぐるりとご近所一周です。

 ↓の桜並木が数百メートルくらい続いている道。区の「区内ベスト景観」にも選ばれていて、この並木の下を毎年自転車で走るのが楽しみです。


 同じく「区内ベスト景観」のひとつ「音無橋」。
 橋上から下の川を眺めるのも好きです。



 散った花びらが、石段や川底の石に散り敷いています。


 人気の桜撮影スポット。都電と飛鳥山の桜


 標高25.7mの愛宕山より低いため、山と認めてもらえない飛鳥山ですが、ちゃんと山に登るためのモノレールカーが用意されています。無料!飛鳥山に上るとき、歩いても自転車でも行けますが、観光客に人気は、ミニモノレールカー「アスカルゴ」。左端に山上に到着したアスカルゴがあります。


 飛鳥山の桜は、八代将軍吉宗が桜を植えさせて以来の名所です。江戸時代からたくさんの人が花見に押しかけました。
 すぐ近くにある、↓の重要文化財 酒類総合研究所・赤レンガ酒造工場(旧醸造試験場第一工場)は、地元の人たちが地味に花見をしています。





野球場のナイター照明に照らされた桜もきれい。


 野球をしている人たちはボールを見るばかりで桜は眼に入らないかもしれませんが。
 

 4月8日も9日も桜を散らす雨が降りました。
 10日は、姉の命日。
 15年前の春。しっかり座っていることも難しくなった姉を車いすに乗せて、ハラハラと散るホスピスの庭を一巡りした別れの花見を、毎年思い出す日です。散りゆく桜の花びらひとひらひとひらに、姉とすごした幼い頃や東京に出てきたころの思い出を重ねて、今年の春の花見もおしまいです。

 来年も、友とまた家族と花見を楽しみたいと願って、今年の桜を見納めました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「六義園・昼の桜と夜桜」

2017-04-09 00:00:01 | エッセイ、コラム

六義園2017年4月5日

20170409
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月(5)六義園・昼の桜と夜桜

  4月4日、旧古河邸庭園から六義園へと花見はしご。ミサイルママといっしょに六義園の桜を見ました。光の中、桜は輝いて咲き、ミサイルママと歩きながらおしゃべりし四阿で食べながらの花見、楽しかったです。





 広場で大道芸も演じられていました。江戸太神楽、今はあちこちに社中が別れて出演しているのか、一人芸だったので、客をのせるおしゃべりしながらの芸はたいへんだったでしょうが、ご祝儀も花見景気でした。


 ミサイルママは、翌日就職面接があるというので、夜桜は見物せずに、早めに帰宅しました。

 4月5日に娘息子をさそってもう一度六義園へ。夜桜見物は6時頃からライトアップが始まりますが、きれいに見えるのは7時すぎから。

 実は4月2日の夜もひとりで六義園夜桜を見ていたのです。でもまだ満開ではなかったので、もう一度出かけたいと、娘息子に声かけました。息子は今のバイト先へ上野公園を通り抜けていくので「桜は見ているから」と渋っていたのですが、六義園近くのスペイン料理の店で晩ご飯にするからと連れ出しました。花見のあとは和食気分ですが、どこも花見客で満杯で、当日の予約ができたのはスペイン料理の店だけでした。

 5日の夜は、七分咲きでした。娘と息子は六義園の夜桜を初めて見たので「きれい、きれい」とよろこんでいました。

 まずは、しだれ桜の前へ。人は多かったけれど、桜の枝の下にも行けました。梢の先はまだ満開になっていませんでしたが、十分にきれいで、ライトアップが効果的でした。





 夜の園内、池の周囲もライトアップがされていて、休み休みひとめぐりしました。
  吟花亭前の桜の大木。ライトは、紫と緑が当てられていて、写真に撮るとライトの色が強くて、2色の桜みたいでした。


 3月に娘と六義園に来たとき、桜染めのスカーフを売っていました。娘が欲しいと言っていたのですが、「ちょっと高いから」と、あきらめたのです。家に帰ってから、娘は「やっぱり、欲しいと思ったときに買っておくべきだった」と、後悔していたので、もう一度六義園に誘ったのでした。3月には我が家の経済には高い買い物と思ってやめたのですが、4月は娘の誕生月ですから、私から娘へのプレゼントにしました。

 薄いピンクのシルクスカーフ。スカーフ1枚7千円は、私のふところには大散財でしたが、美味しいものを食べること、きれいなものを身につけることで娘が生き生き出来るのならと、奮発しました。普段はユニクロか生協通販でじみ~なおばはんっぽい服を買っている娘、たまには華やいだ色を身につけてもいいよね。

 桜染めは、桜を剪定したときに、枝を集めておき、枝を煮出して染料を作ります。枝の中に桜をピンクにする色の素が含まれていて、焙煎によってオレンジがかったピンクになったり、灰色っぽいピンクになったり。とても自然な色ですてきです。
 六義園に出店していたのは、埼玉県吉見町に工房がある「染工房花ごろも」です。

 駒込周辺のレストランは、夜桜見物の人出で予約が取りにくい状況だったので、スペインバルの店も、予約が9時しかとれませんでした。
 7時に入園したときは、娘も息子も「9時まで2時間も桜見ていたら飽きちゃうかも」と言っていたのですが、ゆっくりのんびり庭をめぐって、ふたりとも楽しそうだったので、よかったです。

 スカーフも買えて、きれいな夜桜も見て、娘息子も満足したので、9時に予約のスペインバルへ。私は赤ワイン、息子は白ワイン。娘はりんごジュースで乾杯。スペインオムレツ、魚介アヒージョ、パエリアなど、晩ご飯が9時すぎになって腹ぺこ調味料があったので、おいしくいただきました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「大人の遠足・洋館と桜 in 旧古河庭園」

2017-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

旧古河邸と桜

20170408
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月(3)洋館と桜 in 旧古河庭園

 友人ミサイルママと花見散歩に出かけました。いつもの遠足だと、私がおにぎりなど作っていき、ミサイルママがコーヒーとお湯ポットをもってくるのだけれど、今回、私はちょっと手抜き。近所にできたスーパーでおにぎりとお総菜などを買って持って行きました。

 バスに乗って、旧古河庭園へ。
 忙しく働いてきたミサイルママ、旧古河庭園を訪れるのは、久しぶりだそうです。私は薔薇の時期、ツツジの時期、紅葉の時期と季節ごとに来ているので、「もっと季節ごとに遊びにこようね」と言い合いながら、旧古河邸と桜。日本庭園を楽しみました。

 四阿でおにぎりや煮物、おだんご、いちごなどを食べ、食後にはミサイルママが持参のコーヒーを淹れてくれました。

四阿の横の桜

 
 ミサイルママは就活中。一度決まったビジネスホテル、3月末の試用期間中働いてみて、双方相性が悪く、ここで働くのはうまくいかないと雇用者被雇用者双方が感じ、ご破算になったのだとか。また別の勤め先を探して、いくつか履歴書を出し、面接を受けるということになりました。きびきびと働き誠実な勤務ができる人なのだけれど、やはり一般には定年退職する年齢になってから、新しい職種に挑戦するのは難しいこともあるでしょう。彼女の働きぶりを評価してくれる職場もきっと見つかると思って応援しています。

 お花見は、再チャレンジを応援する気持ちを込めて、歩きながら話し、食べながら話し、池の周りを巡り桜を堪能しました。

山吹の花と古河邸


 まだ満開とは言えなかったけれど、洋館と桜、とてもきれいでした。

古河邸玄関前の桜


 古河邸からコミュニティバス100円に乗って駒込駅へ。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「長倉洋海vs西原理恵子「たった一人の戦場」を語る」

2017-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20170406
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月(2)「たった一人の戦場」を語る・長倉洋海vs西原理恵子

 3月25日に東京都写真美術館へ出向き、「フォトジャーナリスト 長倉洋海の眼 地を這い、未来へ駆ける」展初日を見てきました。(写真展報告はのちほど)
 いつもなら展覧会初日に出かけることはなく、たいてい会期最後のほうになって駆け込むのに、なぜ初日に行ったかというと、西原理恵子とのトークショウがこの日に行われると思い込んでいたからです。
 行ってみたら、トークショウは4月2日でした。3月25日は、写真展をみて、長倉洋海さんのギャラリートークも聞けて、図録写真集にサインももらいましたから、十分でしたが、やはり、西原理恵子との対談を聞きたかった。

 「え~、どうして対談相手が西原さんなのかな」と長倉ファンの私が言ったら、娘は則「カモシダつながりでしょう。戦場カメラマンだから」と。そうかそうか。娘は『酔いがさめたら、うちに帰ろう。』のカモちゃんが好き。うちのが一番ショモナイチチと思っていたら、うち以上のすんごい父親がいると思うと、まあ、父親なんてそんなもんかと思えるのでしょう。

 4月2日日曜日、写真美術館の1階ホールで長倉洋海vs西原理恵子のトークショウを観覧しました。定員190名のホール、ほぼ満員。やはり西原理恵子の集客力はすごい。わたしも、他の人ではなく西原理恵子だから行ったのだけれど。
 長倉さんのギャラリートークもとても有意義で面白いのだけれど、西原さんも言っていたように、基本、長倉さんはまじめ人間で、ジョークやらおちゃらけたことは言わない。一方西原は、岩井志麻子と組んだりしたら、もうシモネタ満載。
 長倉vs西原となると、果たして話がかみ合うのかしら、という興味本位で出かけました。

 西原、しょっぱなは、いつもの通りシモネタから入りました。でも、西原のシモネタに長倉はどう受けていいのか戸惑ったようだったので、西原は「長倉さん、シモネタはだめなんで、やめます」と、後半はあまり下半身系なことは言わなかった。

 最初のシモネタ。サイバラにしては、上品なほう。やはりビジュツカンという場所柄からか。
 長倉が「人跡稀なシベリア極寒の地を旅した」という話をしたのを受けて、西原はアフリカガーナを旅したことを話し、ガーナは人だらけと言う。軽いジャブ「もう、子供がうじゃうじゃいた。それというのも、ガーナじゃ、オナニーなんか誰もしていなくて、男は女の中にだしてナンボだからね。子供がウジャウジャ産まれるわけだ」と発言。長倉さんが突っ込まないので、西原も以後、下半身トークはひかえめになった。アハハ、もっと聞きたかったのに。

 長倉が西原とのトークテーマを「たった一人の戦場」ということに決めたのは、自分もたったひとりでマスードが闘っていたアフガン奥地へ入ったり、内戦中のエルサルバドルへ行ったりしたけれど、西原理恵子もお連れ合いの鴨志田穣が戦場カメラマンだったこともあるし、たった一人で漫画界を生き抜いてきた、という気持ちだったのだろうと思います。

 私は、この「たったひとりの戦場」というタイトルから、もっと鴨志田穣の話がでるのかと予想したのだけれど、西原は、「前の男は」と「今のオトコ」を同じ分量で語っていました。私は『アジアパー伝』シリーズが好きなので、もっと鴨さんのことを聞きたかった。高須センセのことはあんまし興味ない。しわ取り整形をボランティアでしてくれるなら別だけれど。

 今のオトコ高須克弥については、彼がダライラマ14世と親交を深め、チベット亡命政府関係の若者を医師に育てるための学校を建設し、医者養成を行っていることなどを話していました。長倉はアフガンに「山の学校」を建設して支援を続けている、という話題に対して西原が高須のチベット医学校支援を話したのでした。

 ほかにも、超まじめな長倉さんのお話を受けて、西原の脱線気味ではあるけれど、絶妙にシモには落ちないところにとどめたトークがあれこれ続き、とても面白かった。

 2時から3時半までのトークショウ、最後の30分は聴衆からの質問に長倉と西原が答えるコーナー。
 「戦場取材において危険をどう切り抜けてきたのか」と質問した学生らしい男性に、長倉は「戦場といえども、ほんとうに危険な場所には近づかないこと」と、答えていました。
 鴨志田穣の師匠橋田信介も戦場で亡くなり、山本美香はシリア内戦取材で殺された。ロバート・キャパ、一ノ瀬泰造など、戦場でなくなったフォトグラファーは数知れず。生き伸びてきた長倉も、実際は危険な目にもあってきたのだろうけれど。

 質問した男性は戦場ジャーナリストにあこがれがあっての質問だったのかもしれないが、「戦場で危険を回避して生き伸びる方法」なんぞを質問する時点で、戦場ジャーナリストになることなどあきらめるべきだ。危険があることを承知で、出かけていくしか生きられないのが戦場ジャーナリストなのだろうから。

 最前列に座っていた女性からの質問「長倉さんが撮る写真を見て、人間を撮影するのには、人とのコミュニケーションが大事だということがわかったけれど、私は人とコミュニケーションをとるのが苦手で、どうしたらいいかわからない」と。
 長倉の答え。「あなたは、このトークショウを聞くために最前列に座っているのだから、私の話を最前列で聞きたい、ということを態度で示している。それがもうコミュニケーション第一歩。私も、撮りたい相手には、あなたが好きなのだ、あなたがとてもすばらしい人だと言うことを私はわかっているから、あなたの存在を写真に残したい、という気持ちを、相手に伝えようとする。言葉はわからなくても、身振り手振りでも気持ちは通じる」
 こんなふうに答えられる人だから、言葉が通じないところに行っても相手に気持ちを伝えられるのでしょう。

 海外でのコミュニケーションについて、西原は、海外旅行には必ず通訳を連れて行くけれど、「通訳は、遠慮ということをしらないオバハンが一番役に立つ」と言う。長倉は、基本は下手な英語で、スペイン語圏などでは片言の現地語、あとは身振り手振りでなんとかやってきた、そうです。

 シャーナリストやフォトグラファーは、基本、コミュニケーション能力がなければつとまらないのだろうけれど、岩合光昭はネコに好かれる何かを身につけているし、長倉は子供に好かれるコツを会得しているのだろうと、私は思っています。エルサルバドルのへスースも、カルロスもほんとうに素晴らしい表情で撮られています。

 私も最前列に座ったので、「このトークショウを聞きたくてたまらなかったミーハーファン」だということは、伝わったかも。しかも、3月25日のギャラリートーク後のサイン会で、列の一番最初に並んだオバハンが私。「春庭さんへ」と書いてサインもらいました。


 
 ほんとはね。私、髭落とす前の顔が好きでした。今もカッコイイと思うけどさ。
 これからも長倉洋海ファン、続けます。

長倉洋海と西原理恵子

ふたりとも顔をさらして仕事をしている人たちだけれど、↑は無許可撮影につき、肖像権問題とかおきたら、そのうち削除。自分の思い出に撮っておきたかった。ふたりとも好きだからね。

<つづく>
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