春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2020年10月目次」

2020-10-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


2020年10月目次
1001 ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録日本語教師日誌(1)動詞の名詞化を教える
1003 再録日本語教師日誌(2)動詞の名詞化を教えるその2

1004 ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌ニジの授業(1)日本語学イントロ
1006 再録日本語教師日誌ニジの授業(2)外務省のnijiと文部省のnizi
1008 再録日本語教師日誌ニジの授業(3)公用語について
1010 再録日本語教師日誌ニジの授業(4)アンガウル島の日本語
1011 再録日本語教師日誌ニジの授業(5)パラオ語になった日本語
1013 再録日本語教師日誌ニジの授業(6)ありがとう。にふぇ~でーびる(琉球方言)イヤイライケレ(アイヌ語)

1015 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(1)サンライズ出雲
1020 2020二十重日記山陰山陽の旅(2)島根ワイナリー見学出雲古代歴史博物館
1018 2020二十重日記山陰山陽の旅(3)出雲大社参拝
1020 2020二十重日記山陰山陽の旅(4)いにしえの宿佳雲&島根県立中央病院
1022 2020二十重日記山陰山陽の旅(5)旧大社駅と一畑電車
1022 2020二十重日記山陰山陽の旅(6)松江しんじ湖温泉
1025 2020二十重日記山陰山陽の旅(7)松江城、小泉八雲旧居&武家屋敷
1027 2020二十重日記山陰山陽の旅(8)岡山城と岡山後楽園
1029 2020二十重日記山陰山陽の旅(9)倉敷美観地区
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ぽかぽか春庭「倉敷美観地区」

2020-10-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201029
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(9)倉敷美観地区

 倉敷観光の目的。私は大原美術館、娘は倉敷美観地区見物。
 22日午前中と23日午後を倉敷観光にあてました。(23日午前中の大原美術館観覧はのちほど紹介)

 倉敷美観地区
 
 なまこ壁の建物をリニューアルした考古博物館


 約20分堀を行ったり来たりの乗船観光。私と娘は23日夕方4時の予約でした。


 人力車観光もありましたが、今回はパス。


 倉敷観光案内所。1917(大正6)年に倉敷町役場として建てられました。バリアフリーなどのリニューアルを経て、現在は観光船のチケット売り場などの観光案内所になっています。




 娘が選んだホテルは、倉敷アイビースクエア。美観地区に一番近いホテルです。 
 私の好きな「近代建築」をリニューアルした建物なので、「母は建物を見ているだけでも楽しいでしょ」と。
 倉敷紡績工場だった建物。元の工場の建築を生かしたレストランやホテル、倉敷紡績記念館などがあります。現代に合わせて改築してありますが、そこかしこに昔の面影が残されています。

 敷地内に クラボウが工場を建てる前、江戸時代は代官屋敷がありました。そのころの井戸が残されていました。

 代官屋敷だったころの敷地案内図

 代官屋敷外堀だったところ

 
 アイビースクエア正門


 2007(平成19)年に経済産業省により「近代化産業遺産」として認定され、2017年(平成29)年に文化庁より「日本遺産」構成文化財の一つとして認定されました。

 アイビースクエア。ホテル中庭。工場だったころには、この広場でバレーボールをしたり歌声サークルを楽しんだ若者達が集ったのかなと思います。


 

 工場のノコギリ屋根がよくわかる。


 アイビーは、このホテルのシンボル


 ホテル内エントランス


 レストラン蔦の前
 



 現在は工場の建物を生かした物産コーナーになっています。

 23日朝ご飯

 23日ランチ。おまかせ御膳。


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ぽかぽか春庭「岡山城と岡山後楽園」

2020-10-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

岡山城

20201027
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(8)岡山城と岡山後楽園

 シルバーウイーク山陰山陽の5泊5日旅。(うち一泊は夜行サンライズ出雲車中泊)
 22日朝、しんじ湖温泉ホテル一畑の前のバス停からレイクラインバスでJR松江駅へ。
 特急やくもで山陰から山陽倉敷駅へ。

 特急やくも


 倉敷駅からタクシーで「アイビースクエア」という旧クラボウ倉庫だった近代建築をリニューアルしたホテルに宿泊します。荷物を置きぶらぶらと倉敷美観地区を眺めながら大原美術館へ。ところが。旅トラブル第3弾。

 娘がたてた旅行プランでは22日は倉敷観光、23日は岡山でした。
 しかし大原美術館の入り口で、現在は入館制限を行っており、22日の予約受付はもう満杯と言われてしまいました。23日は11時からなら入館可能と聞き、予約を済ませました。娘は「予約が必要ということが頭に入っていなかった」と、失敗を嘆きましたが、個人旅行なのでツアーのように予定時間通りにいかないのはしかたがありません。大原美観地区を歩きながらホテルへもどり、急遽岡山へ。

 アイビースクエアからバスで倉敷駅へ。タクシーを使わなかったのは。22日朝、JR倉敷駅からホテルまで乗ったタクシーがとても乱暴な運転で、態度も悪かったからです。旅で最初にその土地の人と出会うのはタクシーの運転手さんになることが多い。いい運転手さんに会えばその土地の印象もよくなるけれど、その逆も。すごく嫌な感じの運転手さんで、急発進急停車急カーブの運転で乗り物に弱い娘はたちまち酔ってしまい、もうタクシーはいやだ、ということになりました。駅からホテルまで歩いても15分ほどの短距離なので、あまり稼げないと思った運転手は機嫌が悪かったのかもしれません。タクシーで一日倉敷観光を頼む観光客になら機嫌良く対応したのでしょうか。
 私は足がまだ完治していないので歩きたくはなかったけれど、バス停までホテルから歩きました。

 倉敷駅から在来線で岡山駅へ。
 駅前の桃太郎像。


 駅前から市街電車に乗って岡山城へ。かわいいモモ電車ではなく、ごく普通の市電でしたが、東京以外の土地で市電に乗ったのは初めてなので短い乗車でしたが楽しかったです。


 松江城では天守閣への登城を諦めましたが、岡山城は復元の城でエレベーターがついています。娘は「城にエレベーターをつけるとはなんということかと思っていたけれど、足の悪い人や年寄りのことを考えるとエレベーターも必要とわかった」と。

 岡山城へ


 大手門


 門も城も復元ですが、一部に石垣が昔のままに保存されていました。



 
 天守閣から岡山市街を眺めました。後楽園もよい眺めです。
 娘は「百名城スタンプ帖」にはんこを押し、城内の展示を見ながら岡山城見物を終えました。
 天守閣から見る後楽園


 江戸大名庭園の日本三大名園のひとつ後楽園。私は水戸偕楽園、金沢兼六園も見学したことがあるので、岡山後楽園を訪れて、三大名園コンプリート。


 夕暮れの後楽園。娘が「せっかく来たのだから、園内全部の地区を見たい」というので、私は出口のベンチで待つことにしました。園内の半分も歩いていませんが、まだ歩きすぎは禁物です。



 私が見たかった延養亭(藩主休憩の居間)や能舞台は観覧中止になっていたのが残念。出口ベンチで待つ間に蚊に食われました。

 後楽園の景色をたっぷり楽しんだ娘と合流してバス停へ。
 あいにくと岡山駅行きのバスは出たばかりで、30分近く次のバスを待ちました。おかげで岡山の夕焼け、刻々と移り変わる夕暮れの景色をゆったり眺めることができました。30分も何もせずに雲を眺めた出雲、夕日を眺めた岡山、東京にはない贅沢な時間です。


 在来線で倉敷に戻り、バスで大原美術館入り口まで。
 美観地区を通って晩ご飯を食べられる店を探しましたが、観光客は早々に引き上げてしまう地区であるらしく、なかなか開いている店がありませんでした。

 夜間ライトアップされた倉敷美観地区
 観光センター

 夜の川沿いの美観地区


 歩き回った末、一軒だけ「8時で店を閉めるのであと30分です」という店がありました。
 倉敷美観地区で一番古い建物という「鶴形」です。

 一番早く出来るメニューは「鯛茶漬け」だというので、注文。お茶漬けですからさらさらと30分で食べることができました。


 残念なことに、もう暗くなっていたので、鶴形の建物写真は撮れません。「写真は明日とればいいよ」とホテルに帰りました。

 翌日撮影の老舗「鶴形」

 鶴形の歴史を書いたかんばん


<つづく>
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ぽかぽか春庭「松江城、小泉八雲旧居&武家屋敷」

2020-10-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

 松江城

20201025
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記出雲の旅(6)松江城、小泉八雲旧居&武家屋敷

 松江の町は、古い城下町らしい落ち着いたよい町です。県都ですから中心部には大きなビルもありますが、松江城を中心に武家屋敷なども残されている一方、湖岸の島根県立美術館には菊池清訓の浮き立つような湧き出る雲のような新しい建物もあります。

 島根県立美術館


 湖側ホテル前のバス停から、市内観光のレイクラインバスを利用。
 最初に一畑ホテルと対岸の島根県立美術館へ。
 美術館は菊池竹訓事務所の設計。菊池の代表作は、メタボリズム建築の江戸東京博物館。メタボリズムとは新陳代謝という意味。どの時代にも新陳代謝を繰り返していく新しい建築をめざしました。県立美術館、新鮮な感じを受けました。
 
 美術館見学は私の希望。「ランス美術館展」という案内ポスターをみかけたのです。東京の展覧会なら見落とすはずもない美術館大好きっこですが、「ランス美術館展」は知りませんでした。地元のテレビ局設立50周年の記念イベントだそうです。
 常設作品も充実していて、よい美術館でした。展覧会の報告はのちほど。

 美術館前からレイクラインバスで松江城入口へ。私は松江城の天守閣登城はあきらめました。掛川城の天守閣に登ったとき、足が痛くなかったときでさえ老人には急だったのに、今は足痛いし。
 近代洋風建築が好きな私は、お城より「興雲閣」を見たかった。興雲閣のレストランで娘はグラタンでランチを済ませると松江城天守閣へ。全国百名城スタンプ集めをはじめた娘、スタンプ帳かかえていざ出陣。私はレストランでのんびりコーヒーを飲んでから、明治時代の物産館だったという興雲閣をゆるゆると見学。こちらものちほど紹介。

 興雲閣カフェでランチ


 娘と待ち合わせて、松江城前で写真を撮りました。天守閣から松江の町を見下ろしてきた娘が言うには、「母にはぜったいに無理だった。掛川城より急な階段で5階建てだから段数が多い。岡山城は再建でエレベーターつきだから、岡山城天守に行けばいい」。うん、私も無理な気がしてパスしたんだ。

 天守閣にはいかなかった松江城前で


 レイクラインバスで小泉八雲旧居前へ。
 バス停「小泉八雲旧居前」に立つ小泉八雲ラフカディオハーン像


 小泉八雲旧居

 八雲邸室内(室内も撮影OK)


 八雲邸庭を見ながら


 小泉邸から武家屋敷への道


 武家屋敷門前


 武家屋敷


 娘にとっては江戸時代の武家屋敷も明治時代の八雲邸も、どちらも同じように「昔の家」でしたが、小金井にある江戸東京たてもの園などで江戸の武家屋敷や近代和館をいろいろ見てきた私からすると、やはり八雲邸が一番興味深い家でした。
 小泉八雲が随筆の中に、大好きな家のたたずまいや庭の美しさを書き留め、それを読んできたからです。文学の力がこの静かでつましい明治の居宅を、訪れる者にほっと一息つかせなつかしい気持ちを沸き立たせるのだろうと思います。

 小泉八雲旧居と武家屋敷を見学して一畑ホテルに戻りました。
 広い部屋でゆったりレイクビューの夕暮れ光景を楽しみ、娘とふたりで温泉につかりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「松江しんじ湖温泉」

2020-10-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201022
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(5)松江しん湖温泉

 松江では、しんじ湖温泉駅前の「ホテル一畑」に二泊しました。
 足のトラブルはなんとかなりそうなのに、ここでまたまた別のトラブル発生。
 娘が5月に旅行社に旅行のアレンジを頼んだ時「レイクビューの部屋」と頼みました。しかし、コロナのために5月はキャンセルになり、もういちど9月予約を取り直したせいか、案内された部屋は、市街地ビューでした。

 ホテルに「旅行社に確認して、部屋を希望通りのレイクビューにしてほしいと頼みましたが、「満室なので希望に添えない。旅行社は休日閉店中だから連絡できない」と。
 一泊目は宍道湖の景色を楽しむことができませんでした。ぷんぷん。(旅行後、ホテルからは、旅行社のミスであったことが判明したと連絡があり、旅行社から娘へおわびの電話もありました)

 ごく普通のツインルームですが、窓から宍道湖は見えません。


 一泊目の夕食はレイクビューのレストランで洋食コース。
前菜とスープ


さけのパイ包みとステーキ

デザート


おいしくいただきました。


 おいしいものに目がない娘の評。「ホテルのコースとして、ふつう。おかわりしたいほどとびきりでもなく、二度と食べないというほどまずくもない」
 娘がもう一度食したいというのは、例えば、帝国ホテルの「エリザベス女王来日時パーティに出したコンソメスープ」これが絶品だったことは舌音痴アンチグルメ春庭にもわかりましたが、わたしには、おいしい、とてもおいしい、ものすごくおいしいの3段階評価しかないので、このホテルのスープだって十分においしかった。

 食べ終わって、温泉に入りに行くという娘に「少し休んで気力あったら温泉も入りたいけど、たぶんこのまま寝ちゃう。明日の朝入るから」と、バタンキュー状態でした。
 出雲では車いすに乗ってすごした私より、椅子持ち手の高さが合わず中腰になって車いすを押した娘のほうが疲れが大きかったのですが、20日の脱臼処置後は自分で歩いた私。先生の言いつけ通り、つま先を地面につけない「ペンギン歩き」で移動したので、疲れ倍増。21日の松江城見学に行けるよう、早寝でした。

 朝食後、ホテル側から「旅行社のミスなのかホテルの受注ミスなのかまだ判明していないですが、とりあえず部屋はレイクビューに変えます」という連絡がありました。
 昨夜の晩御飯後、私は「もし、ホテルのミスでないなら、メール記録でもなんでもいいから、ホテル側のミスではない、ということがわかる書類を出してください。東京に戻ったら、旅行社に聞いてみますから。半年も前に宿泊を申し込んでおいて、レイクビューじゃないというのは納得できません」と、宿泊担当者に言いました。そのときは「満室なので希望に添えない」と言われたのですが、絶対に全室満室なんてことない、レイクビュー側にも空室があるはず、と思いました。日本のホテルでほぼ100%の宿泊率を誇るのはディズニーリゾートミラコスタホテルくらいです。まして、東京からの観光客はまだ少ない時期。

 思った通り、満室ではなかったとみえます。
 娘は「レイクビュースタンダード」を申し込んだというのですが、割り当てられたのは「レイクビューデラックス」で、広い部屋になりました。娘はそれで機嫌をなおしました。

 レイクビューになった。


 朝食前に温泉に入りました。
 宍道湖温泉一畑ホテル。「湯質を一定にするため」という断り書きはあったものの、「水道水を加えてあり、循環式のお湯」と書いてあったので、あまり温泉度は高くない。
 宍道湖を眺めながらお湯につかる「展望風呂」は、展望のガラスの汚れが目立ち、あまりきれいな展望ではありません。このことは、部屋替えのお礼を書いたついでに、ホテルへの要望として書き留めてホテルマンに渡しました。

 朝食もふつう。


 秋分の日。レイクラインバスを乗り継いで松江市観光。
 一畑ホテル2泊目の夕食は「鉄板焼き」。しまね牛が大好きになった娘のお愉しみごはんです。ステーキにブランデーをかけると炎が舞い上がる演出も楽しく、おいしくいただきました。娘は「お肉、もう2倍くらいは食べられるけどなあ」

 娘はジュース、私は生ビールで乾杯。




 鉄板焼きの前菜が前日の洋食コースの前菜とまったく同じだったので、「連泊する宿泊客のためには、目先をかえたほうがおいしい気持ちになれる」と意見を書きました。  
 鉄板焼きの後は温泉にゆっくりとつかり、秋分の日が終わりました。

 22日の朝。期待通りレイクビューはすばらしかったです。
 朝焼け。


 日の出は、お日様がビルの陰になり、ちょっと残念。


 どっと繰り出してきたしじみ漁の船。宍道湖対岸は島根県立美術館です。


 八雲たつ宍道湖


 美術館から見たホテル一畑。


 ホテル前


<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧大社駅と一畑電車

2020-10-22 00:00:01 | エッセイ、コラム


20201022
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(5)旧大社駅と一畑電車

 旧大社駅は、島根県簸川郡大社町(現・出雲市)にあった西日本旅客鉄道(JR西日本)大社線の廃駅です。大社線の廃線に伴い1990年に廃駅となりました。現存している駅舎は、1924(大正13)年2月28日に竣工した2代目で、木造平屋441平方メートル、出雲大社を模したつくりで木造和風の駅舎として今も人気の観光地です。

 出雲観光でメインはむろん大社参拝ですが、娘は私の「近代建築趣味」を知っているので、出雲2日目は「旧大社駅見学と一畑電車沿線の木綿街道見学」と計画しました。ところが、2日目の午前中は病院での足指脱臼治療となったために木綿街道は割愛せざるを得ませんでした。 「木綿街道」はキャンセルしたけれど、病院治療したおかげで、まだ痛みはあるけれど、歩くのがほんとうに楽になりました。永野先生に感謝。
   
 旧大社駅の中では、地元の人たちが集まってコンサートをしていました。コンサート中に駅舎の中を移動するにははばかられるし、どうしても人々が映り込むので写真のアングルも限定され、駅舎内の見学は十分にはできず、建物写真撮影としては不満足。まあ、もともとそれほど建物写真が上手なわけじゃないけれど、自分の記録としては「いいな」と思ったところはバチバチ撮っておきたかった。


 旧大社駅構内


 駅構内からホームへ出る旧改札口


 駅構内の見学は思うようにならないので、ホームや廃線路でたっぷり時間をすごしました。
 旧国鉄大社線の廃線路。20年前まで使われていた線路です。

 ホームに展示してあるデコイチ


 ホームや廃線路を見て、バス停へ。出雲市内のバスは1時間に2本くらい。ちょうど前のバスが行ったばかりで、次のバスは20分も遅れました。タクシーが来たら捕まえようと思ったのですが、空車はまったく通りませんでした。

 娘と並んでぼうっと出雲の雲を眺める。「八雲たつ」というだけあって、ほんとうにたくさんの雲が湧き出ています。宍道湖から立ち上る水蒸気がこの雲のモトなんだろうと思います。 なんにもしない、50分、東京にいたら、この待ち時間にイライラし、無駄な時間と感じるところですが、雲をながめてぼんやりするのもいい時間になりました。



 新しい「大社駅」からは、通称バタ電、一畑電車に乗ります。出雲と松江市を結ぶ電車です。
 バタ電出雲大社駅


 駅構内もかわいらしいしつらえ


 大社のゆるキャラが描かれたバタ電


 大社駅のホームには、『RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語』のロケ地となったことなどの説明パネルがありました。主演は中井貴一だ、と娘が言う。「あれ?私、RAILWAYSを見たけど、主演は三浦友和だったよ」「母、それはRAILWAYS第2作だよ」。私の中では第1作も2作も完全にこんがらがっていました。中井貴一主演の映画もちゃんと見たのです。娘は第1作を見ていないので、DVDを探してみるという。

 バタ電大社駅ホーム


 電機メーカーの部長中井貴一、役員就任の内示を受け、順風満帆に傍目には見えました。しかし、彼は故郷出雲に残る母親に介護が必要になったという報を受けると、退社を決意。母の傍で暮らす、子供のころ夢見ていた「バタ電(一畑電車)の運転手」になる、というふたつをかなえるために帰郷します。さまざまな訓練ののち、49歳でバタ電運転手に。
 こういう挑戦ができる人、うらやましいなあ。 

 途中スイッチバックもあって、宍道湖夕暮れの景色を楽しみました。


 終点は松江しんじ湖温泉駅。


 一畑電車にもさようなら。


 歩いてしんじ湖温泉一畑ホテルへ。駅前という立地はその通りでしたが、入り口は駅の反対方向の宍道湖側。バスが出ていたのでバスに乗っていくべきでした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「いにしえの宿佳雲と島根県立中央病院」

2020-10-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201020
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(4)いにしえの宿佳雲&島根県立中央病院

 出雲の宿泊は、出雲古代歴史博物館に一番近い「いにしえの宿佳雲」。出雲特別参拝の集合場所が博物館だからです。
 ホテルは、島根ワイナリーからバス停ふたつ先でした。2012年開業とのことで新しい宿ですが、落ち着いた雰囲気の和風ホテルでした。

 いにしえの宿桂雲の入り口。


 部屋はツインで申し込んだのですが、ベッド3つのトリプルが用意されていました。セミスイートくらい広い。窓からの眺めもよく、ゆったり休憩できました。

 トリプルルーム


 へやからの眺めもよく、部屋風呂はヒノキ風呂。といっても、私はヒノキぶろには入りませんでした。
 夕暮れていく宿の窓外


 晩御飯は、和食コース。

 この秋初めてのマツタケ土瓶蒸し。というか、松茸食べるの久しぶり。


 朝ごはんの和食もとてもおいしかったです。


 山陰山陽の旅、2日目にしなければならなかった重大なこと。病院受診。
 実はけがを押しての出立だったのです。
 18日金曜日、仕事を終えて大急ぎで帰宅し、大急ぎでシャワーを浴びました。これまではそんな目にあったことはなかったのですが、急ぎすぎたためでしょう、浴室から脱衣室へのドアを出るとき、濡れた足がすべり、尻餅。肉布団が厚いお尻は何ともありませんでしたが、脱衣室に敷いてあったマットのヘリが足の親指と人差し指の間をしたたかに打ちました。

 娘は「サンライズ出雲はあきらめて、病院へ行こう。明日飛行機で出雲まで行っても大丈夫だから」と言います。でも私は2008年に親指を骨折した時より痛くない気がして、夜行電車に乗ってみたい気が勝りました。「東京駅に救護所があるから、そこでチェックしてもらい、骨折ならあきらめる」と言って、とりあえず東京駅へ。8時前に到着。救護所がどこにあるのか、駅員を探して尋ねると、「救護所は8時までです。もう閉鎖しました」「え、今8時1分ですけど」「8時で終了です」という不運。
 歩き回りたくなかったので、目の前にあった駅構内のパンや浅野屋で軽食をとり、パンを買うともうサンライズの乗車時間です。足は痛みましたが、足をかばいながら歩けるので出雲へ行ってしまったのでした。

 19日土曜日、宿から300m先の出雲古代博物館まで足を引きずりながら歩いたら20分かかりました。足の痛みが強くなる。こりゃダメだと思い、出雲古代歴史博物館で貸し出していた車いすを借りての出雲参拝となりました。

 病院治療の前日、出雲大社参拝はこんな姿でした。


 20日日曜日、島根県立中央病院が救急指定でやっていると宿で聞き、受診。出雲駅から大社行のバス路線の途中にある病院なので、しまねワイナリーへ行くとき見かけた病院です。骨折なら大社参拝というメインを終えたので、私だけ旅を中止して帰宅するという約束。

 幸いなことに当直医師に整形外科の先生がいました。
 レントゲンを見て「う~ん、細かいところはもう一度写真を見て確認するけれど、これは足の指の脱臼です。脱臼を整復する術を行いますが、その際、痛いです。耐えきれないなら麻酔をしての施術になりますが、どうしますか」「えっと、痛いのは苦手なので麻酔があるならしたほうが、、、、」と言っているうちに、医師は足指をつかんで施術。「ひぇ~!」と悲鳴を上げたら「はい、終了。脱臼は整復できました。関節の周りの組織が壊れているので今は内出血して紫色になっているけれど、これは治ります」
 これまで「くの字」に曲がっていた足の人差し指がまっすぐになっていました。骨折ではなく、脱臼だったので、うそのように「くの字」が治ったのです。

 紹介状無しの救急医療だったこと、レントゲン撮影料などもろもろで3割保険料負担でも12000円の支払いでしたが、全国で健康保険が使えること、ありがたし。なんにせよ骨折ではなく、脱臼も治療済み、かかとだけを床につけて足に負担をかけないように歩けと医師に言われたのですが、旅行を続けることにしました。 

 病院のバス停前にタクシーが来たので、乗り込む。車いすのため私が見ることができなかった正門前を通過して旧大社駅へ。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「出雲大社参拝」

2020-10-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201018
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(3)出雲大社参拝

 三つの大神宮、伊勢神宮は高校の修学旅行で行っただけ、熱田神宮も出雲大社も参拝したことありませんでした。不信心の私には、お寺も神社もたいしてご利益与えてくれそうにないと思って生きてきたので、お寺参りも神社巡りも旅の目的にしたことはなかったのです。京都に行ったのだから、ついでに金閣銀閣とか、京都国立博物館の隣にあったから三十三間堂とか、ついでの参拝ばかり。
 「卒論は古事記」の私としては、出雲は一度は見ておきたい場所だったのだけれど、いかんせん遠かった。娘が計画してくれなかったら、一生出雲に来なかったかも。

 特別参拝ツアーには、ガイドさんがひとりついて案内してくれます。
 島根県立古代出雲歴史博物館 の中ももっとゆっくり見たかったのですが、博物館から参道を通って拝殿へ。
 
 出雲大社参道の松並木

 
 「大切な松の木なので、2年に一度松くい虫の予防注射を松一本一本に施します。その注射、一本2万円もするんですよ」と、出雲大社のそばに住んでウン十年というボランティアガイドさんが参道の松並木について細かく解説してくれました。昔はこの参道がガイドさんたち近所の子供たちの遊び場だったそうですが、現在松並木を通行できるのは勅使のみだそう。

 一般客は、本殿前の門で参拝します。


 特別参拝ツアー客は、脇の通用門から、本殿の前へ。ガイドさんに代わって若い宮司さんが案内してくれます。はじめに、「本殿前に立つにあたり、特別のお清めを」と、一同頭を下げて「かしこみかしこみ~」とお祓いを受けます。

 本殿の建物ほかがすぐ目の前に立ち並び、荘厳。
 西行が詠んだのは伊勢神宮でしたが、出雲大社でも「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という心境になってきます。出雲の「なにごと」かは、大国主命やらスサノオノミコトやらですが。

 本殿の写真を撮ってはいけないとのご注意あり。社殿のたたずまいはとてもすばらしく、写真を撮っておきたかったですが、、、、。神様は写真撮ったくらいで「不敬だ」なんて言わないと思うのだけれど。
 特別参拝ツアー一行が神主さんの説明をきいていたのが、この、神魂伊能知比売神社(かみむすびいのちひめのかみのやしろ)の前で。日傘も帽子も神様への不敬になるので禁止という注意があり、強い日差しに熱中症になるかと思った。

 神魂伊能知比売神社(天前社 あまさきのやしろ)(画像借り物)


 本殿を裏から見たところ。(画像借り物)


 神楽殿は撮影OK.よいお日柄だったのか、結婚式の写真撮影もありました。

 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「島根ワイナリー見学&出雲古代歴史博物館」

2020-10-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201020
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽旅(2)島根ワイナリー見学出雲古代歴史博物館

 出雲旅行の一番大きな目的はもちろん出雲大社参拝ですが、娘が申し込んだ参拝ツアーの集合時間は午後でしたから、ランチを兼ねての寄り道として、しまねワイナリーを見学することに。
 「島根ワイナリーっていうのがあって、無料で試飲飲み放題なんだって。母にぴったりのランチ」ワォ、楽しみ!

 出雲市駅から大社行バス沿線の光景。
 出雲市役所

 出雲ドーム

 出雲の実りの秋


 大社行のバス、島根ワイナリー前で下車。
 しまね牛の焼き肉ランチが土地の名物になっているっているので、ランチは焼き肉に決定。サービスランチのお皿は、豚と牛半々でした。娘は「しまね牛おいしい。もっと牛肉出してほしい」と言うのですが、1500円サービスランチが、ツアーセット値段で半額だからね。もっと高い方のランチは牛だけだったのだと思います。



 ランチ後は、ワイン飲み放題試飲。
 おみやげショップにずらりと並んでいるワインのボトル。順番にプラスチックグラスで飲んでいきます。娘はアルコールいっさいダメなので、ぶどうジュースだけ。甘口あり辛口あり、メモもせず飲むだけでしたから、ひとめぐりするうちにはどれがどれやら、ワインに詳しくもない身には、わからなくなりました。もう一周しようかとも思いましたが、午後には出雲大社参拝というメインイベントが控えています。たしか参拝ご注意の中に「露出の多い服装の方、泥酔者」等々は参拝おことわり、と書いてあった気が。せっかくの飲み放題でしたが、やめておきました。
 おみやげのワインも、どれがいいのかわからなくなったので、結局「お買い得赤白ロゼセット」のパックを買いました。出雲そばやら出雲餅やらも買い込む。

 見学コースになっているワイン製造ラインは休日だからかコロナのせいか、稼働していませんでした。ワインを瓶詰にする機械が並んでいる部屋を見て、ワイン樽の並んだ部屋を見る。


 まずは荷物を宿に預けてから、参拝ツアーの集合場所の博物館へ。
 博物館には出雲の歴史がいろいろ展示してありましたが、集合時間が決まっているので、1時間ほどでさっと見学。娘は、「半日くらいかけて、ゆっくり展示を見て説明も読んでいきたい」といいましたが、時間は迫る。

 私は、メイン展示の発掘された宇豆柱や古代大社の模型などは、2012年に東京国立博物館で「出雲展」が開催されたときに見学していました。大量に出土した銅鐸や銅剣も見ました。今では銅剣銅矛、銅鐸も国宝に指定されています。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/6fad12b9db7e27a340ad27d9b13362ba

 出雲大社平安時代までの古代の大社。100m続く階段はのぼるにつれて雲の中へ入る気になり神に近づく気分がしたことでしょう

 大量に出土した銅鐸。


 「今説明を読んでいる時間がないので、図録を買って、家で読もう」と、娘はおみやげに出雲古代歴史博物館の図録を加えました。私のおみやげは、『出雲風土記』の現代語訳プリント、無料。8世紀の日本。全国に風土記編纂の命がでたなか、出雲風土記だけが完本として残されたのも、出雲大社というタイムカプセルがあったおかげでしょう。
 8世紀の古代世界を見渡すことのできる記録。土地の山河、人家のようす、産物までがつぶさに記録に残された風土記、日本だけでなく人類の宝と思います。

 1974年の卒論が『古事記』でしたから、風土記もかなり読みこんだつもりでしたが、50年も前のことですから、出雲の記録といってもだいたいは忘れてしまいました。覚えていたのは小学唱歌「♪大きな袋を肩にかけ、大黒様がきかかると~」というウサギを助ける歌だけ。娘に歌ってきかせました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「サンライズ出雲」

2020-10-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201015
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記山陰山陽の旅(1)サンライズ出雲

 5月の連休に予定していた出雲旅行、コロナ緊急事態で中止になりました。5月の予定をそっくり9月の連休に延期しました。
 飛行機が嫌いな娘、遠出をするときはできるだけ電車で行こうとする。気圧の変化に敏感で、耳が痛くなり鼻血が出たりするのです。

 「夜行電車に乗って遠出する」という旅行を企画、夜行列車サンライズ出雲で出雲参拝をして、松江、倉敷、岡山をめぐる旅を5月に中止したとき、東京に「Go toキャンペーン」が適用されるなら、9月シルバーウイークのころからじゃないか、という予測し、9月秋分の日連休に出かけることにしました。ヨミははずれ、東京Gotoは、10月1日から。またもやフライング旅行となりました。割引キャンペーンがあるつもりで、そこそこいいホテルを予約したので、お高い旅行になりました。

 出発は金曜日夜の東京発、「サンライズ出雲」。娘は中国旅行のとき夜行電車に乗ったことがあるきりで、日本ではなし。私の夜行旅行は、新宿発11時京都行の青春18きっぷ利用とか、上野発新潟行きとか、夜行ではあっても寝台ではありませんでした。


 22時50分東京駅発。ふたりとも夜行寝台というだけで、子供の遠足気分でうきうきです。昔の寝台と違い、すべて個室。鍵がかかります。私の部屋と娘の部屋は2階寝台、通路を挟んで向かいの部屋。
1階の個室を覗く


 夜景を娘と眺める。「あの灯の並び方は港の景色のようだけれど、いったいどこなんだろ」と、わからないまま各自の部屋で寝る態勢に。いつものように3分で寝入る。

2階の個室


 娘があとで私の位置情報で確認したところによると、「母、海辺の明かりに見えたのは、ありゃ琵琶湖でした」と報告あり。なるほど、湖畔の明かりが海辺の港町に思えた。
 
 いつもの週末土曜日は、たまの寝坊OK日で5時ごろ目覚めても9時すぎまでぐずぐずうとうとするのですが、娘から「朝5時すぎに岡山駅で、サンライズ出雲とサンライズ瀬戸の切り離し作業をみな見に出ていくみたいよ」と聞き、物見高いHALですから、痛めていた足引きずって車外に出て、切り離しを見学。
 昔の蒸気機関車時代、水上行きと草津行きの切り離し作業を飽かず眺めた記憶からすると、別段どうということもない切り離しでした。足、痛かったけれど、好奇心が勝った。
 切り離しを見終わってもう一度ふとんにもぐる。

朝の景色。川面に霧が棚引く


次に目覚めたら9時。10時には出雲に着くので、娘を起こすと、「6時に一度目が覚めたとき朝ごはん分のパンを食べた」と言う。皆が岡山駅の駅弁を朝ごはんに買ってのだけれど、私は切り離し作業を見ていて駅弁買いそびれた。東京駅浅野屋で買ったパンを食べて朝ごはん。

 出雲駅に到着。大社行のバスに乗りました。
 19日土曜日の予定は、大社行きバス途中下車。しまねワイナリーで昼食。バス。停留所ふたつ先の「いにしえの宿桂雲」に投宿。荷物をおいて300m先の出雲博物館へ。
 いつも博物館で「出雲大社特別参拝ツアー」に参加します。一般客は入ることができない大社本殿に参拝できるというので、娘が申し込んだのです。


 出雲市駅に着いたサンライズ出雲


 JR出雲市駅


 一畑電車の大社駅やJR旧大社駅の見学もする予定です。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ありがとう。にふぇ~でーびる(琉球方言)イヤイライケレ(アイヌ語)」

2020-10-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201013
ぽかぽ0春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(23)ありがとう。にふぇ~でーびる(琉球方言)イヤイライケレ(アイヌ語)

 春庭の日本語教育ブログを再録しています。
~~~~~~~~~~
2006/08/02 水
ニッポニアニッポン語教師日誌>前期もめでたくこれにておひらき(9)ありがとう。にふぇ~でーびる(琉球方言)イヤイライケレ(アイヌ語)

 世界中のことばすべてに通暁することは不可能ですが、留学生と何年も接していると、ことばに関して、また各国の文化に関して、さまざまに学ぶことができます。
 言語学専攻の学生はもちろん、工学専攻でも芸術学専攻でも、留学生たちは私にとって、言語文化の多方面にわたって、いろいろなことを教えてもらえる貴重なインフォーマント(情報提供者)です。

 私がことばや文化に興味関心があることを日頃教室で表明しているので、学生たちも自分たちの文化を私に伝えるのを楽しんでくれていて、教室はにぎやかな異文化交流の場になっています。

 さて、5月から7月末まで、延々と春庭「日本語の発音と文字表記」を連載してきました。
 ときには話が難解になってしまった部分もありましたが、日本語学と日本語教育について、読んで下さった方、ありがとうございました。コメントをいただいた方々、お読みいただいた上に質問や感想を書いてくださったこと、ありがとうございました。

 春庭が18年の日本語教師生活で受け持った留学生のことばの中から、抜粋してごあいさつ。「ありがとう」を紹介します。
 100ヵ国の留学生と出会いましたが、その一部分です。

アイルランド語     グーローモーウグト 
アラビア語       シュクラン 
イスラエル(ヘブライ語)トダ 
イタリア語       グラーツィエ 
イラン(ペルシャ語)  モタシァケラム 
インドネシア語     テリマカシ 
ウクライナ語      ジャクユ 
カンボジア語      オークン 
ギリシャ語       エフハリスト 
ケニア(スワヒリ語)  アサンテ サーナ 
サモア語        ファッアフェタイ 
スウェーデン語     タック 
スペイン語       グラシアス 
スリランカ(シンハラ語)ボホーマ・ストゥティイ 
ソロモン(ピジンイングリッシュ)タンギュォ トゥマス
タイ語         コップン・カー(コップン・クラップ) 
韓国語         コマッスムニダ/カムサハムニダ 
チェコ語        ジェクユ 
ドイツ語        ダンケシェーン 
トルコ語        テシェキュルエデリム 
ネパール語       ダンニャバード 
ノルエー語       タック 
パキスタン(ウルドゥ語)シュックリヤー 
ハンガリー語      クッスヌム 
フィンランド語     キートス 
フランス語       メルシー 
フィリピン(タガログ語)サラマッ・ポ 
ブルガリア語      ブラゴダリャ
ベトナム語       カムオーン
ポーランド語      ヂェンクイェン  
ポルトガル語      オブリガード 
マレーシア(マレー語) トゥリマカシ 
ミャンマー(ビルマ語) チェーズティンバーデー 
モンゴル語       バイル・ラー 
ルーマニア語      ムルッメースク 
ロシア語        スパシーバ 

 また、今回のシリーズ執筆にあたり、漢字文化圏のひろがりについて、思いを深くすることができました。

ベトナム語・感恩(カムオン)感謝(カムタ)
台湾語・感謝(カムシャ)。
北京語・謝謝(シェシェ)。
上海語・謝謝儂(シャァシャァノン)。
韓国語・感謝(カムサ)ハムニダ。
日本語・感謝(かんしゃ)いたします。

~~~~~~~~~~~~~
20201010
 春庭が1988年から33年間続けてきた日本語教育について、また2000年から21年間続けてきた日本語教師養成コースの日本語教育学概論と日本語教授法。続けてきた内容をまとめることは難しいですが、ところどころを取り上げてご紹介してきました。

 勤務校の仕事に余裕ができたら、これまでの仕事をまとめていきたいと思っているのですが、いつになるか。
 でも、楽しみながら続けたいと願っています。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「パラオ語になった日本語」

2020-10-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201011
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録教師日誌(5)パラオ語になった日本語

 春庭の日本語教師日誌を再録しています。
 何度か同じ話題を書いてきたので、「またあの話か」と思う方、すっとばしてください。
 パラオ共和国アンガウル州で日本語が公用語として定められている、という話のつづきです。
 学生の発表から得たことを次の授業に生かして使う、春庭流リサイクル授業の記録。

ぱパラオ語になった日本語は春庭コラムのなかの人気記事で、いまでも閲覧が続いています。地域図ちきのほうがいいかたはそちらをご覧ください。

~~~~~~~~~~~~~~~~
2012/07/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2012年前期(2)パラオ語になった日本語
 
 日本語は、1億3千万人の使用者があり、世界の中では使用人数が多いほうの言語です。
 しかし、英語やスペイン語アラビア語などが、母語として話されている国のほかに、多くの地域で「公用語」「共通語」として認められているのに、日本語は国外で使用されることがごく少ない。

 ブラジルサンパウロの日本人街とか、ハワイ日系社会などで日本語を話す地域があることはあるけれど、「公用語」として認めている国はありません。
 と、日本語教師養成クラスで話しました。

 日本国は、日本語を「公用語である」と公式には規定していません。したがって、「日本語を公用語としている国はない」という私の説明にまちがいはなかったのですが、別々の大学でふたりの学生が、「日本語・公用語」とふたつの語をならべて検索し、「先生、日本語を公用語としているところ、ありました!」と、報告してくれました。

 「国」で公用語としてるところはなかったのですが、国の一部「州」で、日本語が公用語となっていたのです。

<つづく>

2006/07/29 土
ニッポニアニッポン語教師日誌>前期もめでたくこれにておひらき(7)日本語トリビア
・公用語としての日本語

 パラオ共和国のアンガウル州。
 アンガウル島は、パラオ諸島の南、ペリリュー島の南西に位置し、パラオを取り囲むバリアリーフのさらに南にある周囲8kmの小さな島です。
 アンガウルは、パラオ共和国の州のひとつになっています。
 住民の数は200人前後。パラオ語、英語のほか、日本語が公用語になっています。

 たった200人の人口ではあっても、日本の国外で「公用語」として日本語を位置づけていた地域があったことに気づいた学生、大感激でした。
 私も、「公用語としている国はない」とずっと思いこみ、「国としての公用語ではないけれど、日本語を公用語としている地域がある」ことに思い至らなかった不明をただされ、へぇ、へぇと机をたたきました。

 日本が南方諸島を信託統治し、日本語教育を行った島のなかでも、パラオは、日本語教育が好意的に受け止められた地域のひとつです。

 60年前の太平洋戦争中、パラオのペリリュー島などで日米軍が戦いました。しかし、他のアジア諸国太平洋地域での戦いと異なり、パラオでは戦争による民間人死者がでませんでした。そのため、戦後も日本への友好感情がパラオ国民に続いたのでしょう。

 パラオ共和国、第4代の大統領は、日系のナカムラ クニオ氏でした。

 現地のことばを抑圧し、日本語を強制した「苦い日本語教育」の記憶が残っている地域もアジアの中に多いですが、パラオ共和国のアンガウル州で、公用語として位置づけられていたこと、日本語教師にとってはうれしいことです。

 多くのアジア地域で、日本語教育は不幸な歴史を持っています。
 日本語教師はアジアの近代史を深く学び、アジアの歴史を背景に感じつつ日本語教育をおこなう配慮が必要です。

 私の担当した留学生のなかにも、「祖父母が日本軍に殺された」「親戚の土地や財産が接収され、無一文になってしまった」などの「一家の歴史」を、親から伝え聞いてきた学生がいました。

 親日的な国があることはとてもうれしいし、公用語として日本語をつかっている地域があることは誇らしくもあります。
 一方で、日本語教育の歴史をみつめなおし、アジアの歴史にコミットメントしてくことも日本語教師の役割のひとつだ、と私は感じています。

 学生に「ツカミ」として出すクイズのひとつ。
 クイズ。世界の中で、日本語を公用語として決めている地域、国はあるでしょうか。あるとしたら、どこでしょうか。日本の公用語については、あとで述べますが、日本以外の地域を答えてください。
 学生は、ブラジルの日本移民が多い地域じゃないか、などと推理します。

 正解は。パラオ共和国アンガウル州。
 アンガウル島という小さな島で人口200人足らず。そのうち、日本語を話せるお年寄りは、現在ではほとんどいなくなりました。戦前、日本が委任統治をした太平洋諸島で日本語教育を受けた人々がいます。日本軍人や統治者から過酷な扱いを受け、日本を深く恨みに思う人が残された島も多い。その中で、日本語教育を受けたお年寄りを尊重し、州の公用語として法的に決めた島があるということは、おそらく、アンガウル州で日本語は、よいイメージを保って教えられたのだろうと、ほっとします。

 ここで、戦前戦後の日本語教育史をざっと解説するのですが、「日本が15年戦争をしていた間、アジアで侵略や過酷な占領政策を行った」、という話に深入りはできません。近代史は、明治維新から大正デモクラシーまでしか扱わなかった、という高校が多く(大学入試に現代史の出題が少ないから)、この話をし出したら、1学期かかっても終わらない 加害の歴史も含めて歴史の真実を追究し続けなければ、次の世代は育たない、というのが私の考え方ですが、被害の歴史は語りたがるのに、加害の歴史は子ども達に教えられてこなかったのは事実です。
 (私にとっては、太平洋戦争は「歴史」ではなく、「父と母の経験したこと」として身近でしたが、歴史として学んだのは、二度目の大学での「近代史」の授業でした。15年戦争という用語もこのとき初めて知りました。。15年戦争、という用語は、現在も学校教育の現場では用いられていません。)

 日本語を母語として愛していくためには、この国の歴史の真実を、加害も被害も知ってこそだと思っています。国への偏った愛は愛ではない。一方的な賛美だけをよしとすることは、結局この国を貶めることになりかねない。真実を知ったうえでの日本語愛だと思っています。

 パラオ共和国アンガウル州の「日本語公用語」についても、小さな島ながら、世界の中で、日本語を公用語と定めた島があることの意義について話して終わります。しかし、それ以上、深入りしてはきませんでした。
 しかし今期、パラオの日本語について興味を持った学生が、さらに発展した発表をしてくれました。題して「パラオ語になった日本語」

 「パラオ語になった日本語」というタイトルのサイトがあり、パラオ語の中に外来語として残存した日本語があることを調べた学生の発表。他の学生にも印象に残る発表だったようです。

 アジア各地に残された日本語のうち、たとえば、インドネシア語には「ロームシャ」という日本語由来の外来語があり、労務者の意味だ、ということなどを学生に紹介してきたのですが、パラオ語になった日本語がどれほどあるのか、具体的に授業で取り扱ったことはありませんでした。

 パラオ諸島は、スペイン、ドイツの植民地となり、次いで日本が委任統治してきたので、パラオ語語彙の中にスペイン語由来の外来語、ドイツ語由来の外来語が混じっており、パラオ語外来語の中の25%が、日本語由来のことばです。

<日本語がそのまま通じる挨拶語>
・ヨロシク ・ アリガトウ ・コメン(ゴメンナサイ) ・マタアシタ(また明日)

<名詞>
・アナタ ・アメ(雨) ・アブラ(ガソリン) ・エモンカケ( ハンガー) 
・カツドー(活動=映画) ・ゴミ 
・サシミ ・シゴト(仕事) ・シューカン(習慣) ・ジャマ(邪魔) ・シンパイ(心配) ・スコウジョウ、ショーキ(飛行場) ・センセー(先生) ・センキョ(選挙)
・タンジョウビ(誕生日) ・チチバンド(ブラジャー) ・ツナミ(津波) ・デンキ(電気) ・デンワ(電話) ・トクベツ(特別) ・トーボー(逃亡)
・ニツケ(煮付け)
・バショ(場所) ・ベントー(弁当)
・ヤスミ(休み) ・ヤッコチャン(オウム) 

<動詞>
・アバレテ(怒っている) ・ツカレナオス(ビールを飲む) ・ツカレテ(疲れた)
・ハラウ(払う) ・バラス(バラバラにする) ・ワスレテ(忘れている)
(例文)「あなた、つかれて」=意味「あなた、つかれたでしょう。お疲れさん」

<形容詞>
・アジダイジョウブ(美味しい) ・アチュイネ(暑いね) ・オイスィー(美味しい) ・サビスィー(寂しい) ・サムイネ(寒いね) ・ヤサスィー(優しい) ・

<その他の表現>
・アッテル(お似合い) ・アリマス ・アタマサビテ、アタマホコリ(だめな状態) ・アタマグルグル(混乱している状態) ・イッショニ?(一緒に) 
・クダサイ ・ゼンゼンワカラナイ ・タメス(試着時など) ・ドーセ  ・チョットマッテクダサイ ・ショウガナイ ・モシモシ ・モンダイ(問題ない)
(例文)「あなた、ためす」=意味「どうぞ、ご試着ください」

 いかがでしょうか。現代日本語には、英語由来の外来語が多くなっているので、「ブラジャー」をブラジャー以外の用語で呼ぶ人はいないでしょう。パラオ語の中に「チチバンド」というブラジャーを表す日本語が残存していることなど、面白いなあと感じます。また、現代日本語では「映画」と言うものを、戦前の言い方で「活動」というのも、なにやらなつかしい感じ。

 学生発表によって、パラオ語の中のニホン語を確認することができました。

~~~~~~~~~
20201011
 学生の発表によって、さまざまな新しいことばや異文化を知ることができてきました。
 留学生にさまざまな国の文化について知るころも、日本人学生から新しい若者言葉や流行語仕入れるのも面白いことば収集でした。
 テレビで使われるようになることばは、すでに流行も終わっている場合が多いので、若者から仕入れたことばは、すでにすたれているかもしれません。
 今年の流行語、おそらくコロナ関連がどっと入るでしょうね。クラスターとか都市封鎖ロックアウトとか。

 教えることも楽しみはありますが、学生から多くを学べる仕事、ありがたかったと思います。
 日本語学校への就学生、4月入学予定学生も10月入学予定学生も来日できない、という年になってしまいましたが、これからも学生とともに日本語の豊かさを味わっていきたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「アンガウル島の日本語二ジの授業4」

2020-10-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
22201010
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(4)アンガウル島の日本語

 春庭コラムの中、日本語教師養成講座の記録を再録しています。
~~~~~~~~~~

2008/05/31
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(7)アンガウル島の日本語

 英語を話せるから日本語教師としてやっていける、と思っているような日本語教師もかっては多かったのですが、「英語第一主義の日本語教師」なんて、これからの時代に生き残っていけません。英語圏の国で英語を全員が話せるという環境で日本語を教えるには、英語がネイティブと同じくらいに使えることは重要ですが、日本国内でさまざまな国籍の学生が混在する教室で、英語を知っていてもつかえません。日本語だけで日本語を教える直接法が授業の中心だからです。

 日本語教師養成コースの学生達には「日本語を知っていると同時に、自分たちの文化アイデンティティをしっかりもっていることが大事。そのためは、日本文化のひとつとして、アイヌ文化やアイヌ語への理解をもっていてください。
 「共生」とか「他文化主義」というかけ声は大きくなりましたが、まだまだ日本は閉鎖社会です。世界へ向かって開かれる日本語教師をめざしましょうね。
 以上のような問題は、社会言語学のなかで、言語政策として詳しく学ぶことができますが、この日本語概論ではこれ以上詳しくは扱いません。
 また、異文化交流や、自国内の文化理解についても、他の講義プログラムがありますから、受講してください。社会言語学は、標準語と方言、敬語など、社会のなかにことばがどのような様態であらわれるかを見ていきますので、興味がある人は、後期開講の「社会言語論」の授業をうけてください」と話しています。

 日本語は、1億2千万人の母語話者がおり、大人数が話している言語です。話者数の多さで言ったら、世界の3000以上ある言語のなかでは、十指に入る大言語。
 でも、母語話者以外の日本語を第二言語として話す人は、ごく少ない。

 英語は、母語話者以外に、第二言語として話す話者が世界に10億人以上います。英語を公用語にしている国も数多い。
 フランス語を母語として話している人は、8~9千万人で、日本語母語話者より少ないけれど、フランス語を公用語としている地域の話者を入れると、約4億人の話者がいます。

 日本語を法律上の公用語にしているのは、ミクロネシア・パラオ共和国のなかの小さな島、人口200人足らずの「アンガウル島」だけです。しかし、たったひとつの島(州)でも、日本語を「地域で通用する言語」としてみなす地域があることはうれしいことです。

 私は、太平洋地域では、西サモア、パプアニューギニアやソロモン諸島などからの留学生を担当したことがありますが、パラオ出身の学生には教えたことがありません。
 パラオは、自然豊かで親日的な国。元大統領は日系のナカムラ氏でした。いつか行ってみたい国のひとつです。

 じゃんぼ!の挨拶や、「に、じ」の聞き取りをしている間は、おもしろそうって思った人も、いよいよこれから、日本語学イントロダクションの授業中継をはじめるってことで「対照言語学」「言語政策論」だの「公用語」だのっていう専門用語が並びだして、眠くなってしまったかも知れません。

 言語学には、音声学、音韻論、統語論、形態論、意味論、遂行論、命名論など、さまざまな研究分野があります。
 個別言語学とは、「いわゆる各国語」の言語学です。「日本語学」とは、個別言語学の中の一分野です。

 春庭の日本語学紹介、にほんごイントロ・コースは、「専門的に日本語学を教える」というより、「できる限り楽しく日本語の諸相を紹介して、日本語学に興味をもってもらう」というほうを優先しています。

 だから、「こんな教え方では、日本語学の専門知識が身につかないではないか」という批判もあろうかと思います。

 私の方針は、「日本語に興味をもつきっかけを提供し、興味を持ったら、自分で専門書を読むようになってくれればいい」ということです。
 音声学も形態論も敬語論(待遇表現論)も、よい入門書がたくさん市販されているので、一冊手にとって読み終えれば、日本語のさまざまな現象が体系的にわかります。

 「日本語学イントロコース」、食前のアペリティフで、七色ジュース「にじのしずく」を飲んでもらい、前菜の「公用語のはなし」がおわると、いよいよスープ、メインディッシュへと話がすすみます。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「公用語についてニジの授業3」

2020-10-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201008
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録・日本語教師日誌(3)ニジの授業3公用語

 春庭コラムの中、日本語教室の記録を再録しています。
~~~~~~~~~

ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(5)公用語って?

2008/05/29
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(5)公用語って?

 たいていの国は自国内にふたつか三つ以上の言語を話す国民を有しています。
 公用語または公用語とみなされていることばを、一国一言語にしているのは、世界のなかで、日本と韓国くらいです。

 たとえば、インド。
 全国的な公用語(連邦公用語)はヒンディ語と英語のふたつですが、州ごとの公用語は、20以上がそれぞれの州で認められています。実際に使われている言語は、インド一国内に、300言語あるといわれていますから、公用語20でも少ないのかも。
 公用語として認めるというのは「公用語で教育を受ける権利」「公用語を使って不便なく生活する権利」を付与するということです。

 単純な例でいえば、国が発行するお札に、公用語での表記を併記する必要があります。義務教育教科書を、公用語別に発行し、その言語での教師育成をはかるなど、教育水準がどの公用語も不利にならないようにしなければなりません。
 インドのお札には13種類の文字で金額を表記してあります。

 チベット民族問題にゆれているお隣中国のお札には、現在、漢字とならんで、ウイグル文字(アラビア語をもとにしたウイグル語の表記文字)、チベット文字、モンゴル文字が表記されています。

 漢字以外の表記をもつ少数民族は、他にもいますが、人口や、どれだけ漢族に同化しているか、などのさまざまな問題があり、お札表記文字は漢字を入れて4種類。

 前代の支配者だった満州族は、ほぼ完全に漢族に同化し、満州文字は研究者以外には読めない文字になっているので、表記されていませんし、東北に多く住む朝鮮族の使うハングル文字も書かれていません。

 この漢字以外の3種類の文字をよくみると、チベット、新疆ウイグル自治区など、中国内で、独立または自治権拡大を望んでいる民族であることがわかります。
 人口11億5千万人(注:)という圧倒的な多数派である漢族にとって、チベット、ウイグル、モンゴルは、「少数民族」のなかでも、とりわけ扱い方に注意を払う必要がある民族なのでしょう。

 支配民族となったことがあるモンゴル族(元王朝)、満州族(清王朝)に対して、ウイグル族、チベット族にとっては、漢族と同化することはないし、自治権を与えられていると言っても、結局は漢族共産党政権の支配下に置かれていることが、なにかと抑圧感を強める結果となるのでしょう。

 少数民族には優遇策もとられていて、表面上は、どの民族も仲良しに見えるのですが。
 去年私が赴任していた中国政府直轄の学校にも、「新疆班」という特別クラスがありました。選ばれたウイグル人が日本語を学ぶクラスです。
 彼らにとって、母語はウイグル語。小学校中学校で中国語を習い、さらに日本語も学んでいる。「多言語共生」を生きている人々です。

 元気な若者たちのクラスで、「校内綱引き大会」をしたとき、新疆班は、圧倒的な強さで優勝しました。「民族の底力」を見せてやろう、という迫力を感じました。

 (綱引き大会。ちなみに、私が担任した博士2班は一回戦敗退。教職員対決では、事務職>日本語教師>中国語教師でした。)

 さて、中国語の話者は13億人。国連公用語のひとつ。それからみたら少ないですが、日本語は、1億3千万人の話者がいて、世界のなかでは、多い方から10番目前後に位置する「メジャー言語」のひとつです。

 3000以上あるという世界の言語のなかでは、「多数派言語」のひとつですが、日本語を「マイナー言語」と思いこんでいる人も多い。
 これは、国連公用語になっていないせいもあるでしょう。
 国連公用語は、英語、中国語、アラビア語、スペイン語、フランス語、ロシア語

 ここで、問題、日本国内の「公用語」はなに?
 答えは「日本語=日本の公用語」ではありません。
 「え?日本語じゃないの?」

 事実上、社会生活や教育で使われている言語は日本語ですが、法的に「日本語を公用語とする」という明文化されたものはありません。
 「日本語=日本の社会に生きているみなが、公に使われる言語として認めていることば」ということであり、事実上の公用語ではありますが。

 「日本の法廷で裁判官検事らが使う言語は、日本語とする」という裁判所の規定はありますが。(そのため、法廷通訳の役割は重要です)

2008/05/30
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(6)私たちの国語=日本語?

 「社会全体で共通して使用しており、みなが『国語』とは日本語だ」と、思いこんでいる言語として日本語があり、事実上は「国語=日本語」ですが、日本国内には、法律で定められた公用語はありません。
 法的に公用語を定めるまでもなく、みなが日本語を母語としている、ということでもありますが。

 ベネディクト・アンダーソンのことばを紹介します。国民が「自分たちは、○○国の国民だ、国家に帰属している」と、思いこむことから始まる『想像の共同体』が、近代国家というものです。
 この思いこみを形成するツールのひとつが言語です。

 明治政府が近代国家を形成しようとしたとき、富国強兵殖産興業に加えて、「標準語の制定」を急いだのも、「ことば」が国家の要だったからです。
 「私たちは日本語を話している」という意識も、実は「あたりまえ」のことではなく、「近代国家によって洗脳されてきた、すり込み」なのです。

 「日本国内でも英語を公用語にしよう」と発言した人がいましたが、おそらく「公用語」の意味がわかっていないのだろうと思います。

 英語を「公用語」と定めるのなら、お札も日本語と英語も表記が必要。英語で教育する公立学校を、英語話者のために公費設立すべきだし、英語話者が日常生活において、日本語母語話者に比べて、いささかの不利も被らないようにする法的な措置が必要です。

 ビジネス社会で英語を使えるようになることと、国の言語政策として英語を公用語とする、ということの区別もつかないような人に、英語うんぬんの議論をしてほしくない。

 140年前の近代国家成立時、 日本には、日本語を話す国民のほかにアイヌ語を話す国民がいました。しかし、アイヌ語は明治政府に認めてもらえませんでした。

 明治政府は、アイヌ語を認めるどころか、弾圧し日本語を強制しました。このことは、日本がアジアに進出したときの日本語強制政策の手本となりました。日本語教育史にとって、残念な歴史のひとつです。

 自分たちにとって残念な結果となった歴史をふりかえることは苦しいことですが、日本語教師がこれからの教育のために知っておくべき歴史がたくさんあります。
 歴史的事実を掘り下げつつ、未来をめざす。

 あらたに公用語を定めるのなら、英語ではなく、アイヌ語こそを公用語にすべきです。
 アイヌ語は、国会内通用言語として認められています。
 アイヌ出身の萱野茂(かやのしげる1926~2006年)が、国会議員として1994年から1998年までつとめたおかげ。

 アイヌ語を公用語として認めるよう求める運動もこれから大きくなっていくことでしょう。弾圧の結果、アイヌ語母語話者が現在は消滅していますが、アイヌ語とアイヌ文化を守り、継承していこうという運動は広がっています。

 アイヌの人々の文化を尊重し、権利を認める運動は、ようやくはじまったところです。
 日本語概論を学ぶ上で、アイヌ文化を尊重し、アイヌ語を知っていくことは大事ですよ。

自分たちが生きている社会にどんな文化がありどんな歴史を有してきたのかも知らないで、異文化の中に生きてきた人々に日本語を教えようなんて、おこがましいことです。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「外務省のnijiと文部省のnizi」

2020-10-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20201005
ぽかぽか春庭にっぽにあニッポン語教師日誌>再録日本語教師日誌ニジの授業(2)外務省のnijiと文部省のnizi

 春庭の日本語教師日誌を再録しています。
~~~~~~~~~~~~~
2008/05/25
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(3)外務省のnijiと文部省のnizi

 では、「日本語学イントロダクション」を。
 といっても、何度か同じことを書いてきたことの、今回は「にじバージョン」ということで、これまで春庭コラムを読んできてくださった方には、新しい情報はありません。ま、同じ落語でも、演じる場所と客によって語り口を変えるのだ、と思ってお読みください。

 日本語教師を志望するひと、まず、日本語のどこが難しいのか知ってください。
 つまり、対照言語学を知り、日本語と他の言語のちがいを知る必要があります。対照言語学というのはふたつの言語を比べて異同を研究する分野です。

 「比較言語学」は、同じ系統の言語、たとえば、サンスクリット語と英語、ペルシャ語とドイツ語などを比較し、共通祖先の言語をさぐっていく分野。
 「対照言語学」は、まったく系統のことなる言語ふたつ、たとえば英語と日本語、中国語とフランス語などを並べて研究していきます。

 母語は、自然に身についてしまったから、あなたたちにとって、どこも難しいところはありません。でも、学習者にとって、どこが難しいのか意識することは、大切です。そこをきちんと意識するために、日本語学をならうのですよ」

 「高低アクセントとイントネーションについては、またあとで詳しく学びます。今は、日本語には高低アクセントがあるってことだけ頭の隅においといて。つぎに、ローマ字表記とひらがなカタカナを見てみましょう」

 「ローマ字で書いたひと、niji、nizi、nidiの3種類の書き方がでてきました。このことから分かることは何?」
 まず、niziと nidiの違いは、さきほどひらがなの、にじ、にぢ、の違いの話と同じなので、省略。では、nijiとniziの違いは何?」
 学生たち「??」

 小学校の時にならったローマ字と、パスポートに書く氏名ローマ字表記が違っていることに、気づいていない人が多い。
 梶山次郎Kajiyama Jiroとか、福島ふたばFukushima Futabaのように、学校では、Ziro、 Hukusimaと習ったのに、パスポートではFukushimaと、異なる表記になっている人ならちがっていることに気づくけれども。

 ローマ字表記に、外務省が採用したヘボン式ローマ字と、文部省が採用した「訓令式」があることを話します。

 日本語教科書がローマ字表記で編集されている場合は、どちらかひとつを採用しています。表記の方式、文部省と外務省がそれぞれ自分たちで決めた表記方式をゆずらず、二種類の表記があります。

 何を共通語標準語とするか、どの文字をつかって自国語を書き表すかなど、コトバに関する決め事は、国が決定します。「言語政策」と言います。これは、「社会言語学」の分野で扱うことなので、この授業では扱いませんけれど、簡単に言語政策の一端を紹介しておきますね。

 国民の共通語をどう決めていくかというのは、近代国家成立にとって、国の基本となる大事なことです。
 国民意識というのは、共通のコトバ、共通の宗教などを基盤として成立するからです。日本の場合、共通の宗教というのはありません。宗教は自由。だから、「日本語を使って生活している」ということは、国民にとって、たいへん重要な共同体形成意識となっています。

2008/05/30
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(6)私たちの国語=日本語?

 「社会全体で共通して使用しており、みなが『国語』とは日本語だ」と、思いこんでいる言語として日本語があり、事実上は「国語=日本語」ですが、日本国内には、法律で定められた公用語はありません。
 法的に公用語を定めるまでもなく、みなが日本語を母語としている、ということでもありますが。

 近代国家というものは、ベネディクト・アンダーソンが述べているように、国民が「自分たちは、○○国の国民だ、国家に帰属している」と、思いこむことから始まる『想像の共同体』です。
 この思いこみを形成するツールのひとつが言語です。

 明治政府が近代国家を形成しようとしたとき、富国強兵殖産興業に加えて、「標準語の制定」を急いだのも、「ことば」が国家の要だったからです。
 「私たちは日本語を話している」という意識も、実は「あたりまえ」のことではなく、「近代国家によって洗脳されてきた、すり込み」なのです。

 「日本国内でも英語を公用語にしよう」と発言した人がいましたが、おそらく「公用語」の意味がわかっていないのだろうと思います。

 英語を「公用語」と定めるのなら、お札も日本語と英語も表記が必要。英語で教育する公立学校を、英語話者のために公費設立すべきだし、英語話者が日常生活において、日本語母語話者に比べて、いささかの不利も被らないようにする法的な措置が必要です。

 ビジネス社会で英語を使えるようになることと、国の言語政策として英語を公用語とする、ということの区別もつかないような人に、英語うんぬんの議論をしてほしくない。

 140年前の近代国家成立時、 日本には、日本語を話す国民のほかにアイヌ語を話す国民がいました。しかし、アイヌ語は明治政府に認めてもらえませんでした。

 明治政府は、アイヌ語を認めるどころか、弾圧し日本語を強制しました。このことは、日本がアジアに進出したときの日本語強制政策の手本となりました。日本語教育史にとって、残念な歴史のひとつです。

 自分たちにとって残念な結果となった歴史をふりかえることは苦しいことですが、日本語教師がこれからの教育のために知っておくべき歴史がたくさんあります。
 歴史的事実を掘り下げつつ、未来をめざす。

 あらたに公用語を定めるのなら、英語ではなく、アイヌ語こそを公用語にすべきです。

 アイヌ語は、国会内通用言語として認められています。
 アイヌ出身の萱野茂(かやのしげる1926~2006年)が、国会議員として1994年から1998年までつとめたおかげ。

 アイヌ語を公用語として認めるよう求める運動もこれから大きくなっていくことでしょう。弾圧の結果、アイヌ語母語話者が現在は消滅していますが、アイヌ語とアイヌ文化を守り、継承していこうという運動は広がっています。

 アイヌの人々の文化を尊重し、権利を認める運動は、ようやくはじまったところです。
 日本語概論を学ぶ上で、アイヌ文化を尊重し、アイヌ語を知っていくことは大事ですよ。

自分たちが生きている社会にどんな文化がありどんな歴史を有してきたのかも知らないで、異文化の中に生きてきた人々に日本語を教えようなんて、おこがましいことです。

<つづく>

2008/05/28
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>虹をかける授業(4)世界のなかの日本語・モンゴル力士は日本語がじょうず

 怪我はホント、怖いです。
 怪我がこわい職業といえば、スポーツ選手。
 格闘技の選手など、怪我との戦いの連続のようです。

 怪我のため休場することが多い大相撲。相手に怪我をさせないよう取り組むのも技のひとつといいますが、それでも怪我をするし、取り組み以外での「ぶつかりあい」も多いみたい。

 にらみ合いが話題となった、大相撲の両横綱。どちらもモンゴル出身で、ライバル意識もそうとう激しいようです。土俵上でのにらみあいは、「両成敗」という判断になりましたが、土俵外のにらみあいは続くでしょうね。西と東の差はあっても、横綱でいる間は、ふたりの立場に差はありません。

 しかし、引退したとき、分かれ道ができる。
 横綱は5年間は一代横綱として親方になれるけれど、親方株を買って相撲協会に残るためには、日本国籍の取得が条件とされているからです。

 モンゴル人女性と結婚した朝青龍は、引退後は帰国し、モンゴルで実業家か政治家になるのではないかとうわさされています。朝青龍はモンゴルでの大英雄だし、実家はモンゴルで手広く商売をしているので。

 相撲界の「タニマチ」有力者の娘と結婚した白鵬は、帰化して日本国籍をとるかもしれません。親方株を得て、相撲協会に残るだろう、と憶測されています。
 かって、アメリカハワイ出身の高見山、曙、小錦、武蔵丸が帰化しました。モンゴル出身の旭天鵬も、師匠大島親方の養子となって帰化した、という例があります。

 たいていの国で、外国人が国籍を変更して自国民になることを認めています。
 外国人が帰化申請して国籍変更が認められるには。
 生活能力のあるなしの審査などで比較的簡単に国籍変更が認められる国もある一方、なかなか帰化申請が通らない国もあります。

 日本は、難しいほうのひとつ。
 審査基準の項目のひとつとして、経済的自立などのほかの条件として、
1、思想要件:日本国に被害を及ぼす等の思想を持っている場合は帰化許可されない。
2、言語要件:日本語の読み書きができること。最低限度の読み書きが必要とされている。

 また、日本で働く専門労働者の受け入れについて、日本政府は「日本語を習得していること」を条件にあげたので、労働者を送り出している側の国からは「厳しすぎる」という声も出ています。

 IT産業などで働く場合、日本語より英語を使って仕事をすることのほうが多い場合もあるのに、日本語を「就労条件」にすると、受け入れ間口を狭めることになるから。
 しかし、IT産業などの「直接、社会で人とコミュニケーションをとる必要のない仕事」以外で、日本社会の就労状況を見ると、日本語の話せない人を、たとえば、介護や看護の現場などに受け入れることは、難しいでしょうね。

 ちなみに、モンゴル出身力士がすばやく日本語を覚えるのは、モンゴル語と日本語は、ともにウラルアルタイ語系に属す言語とされ、語順がおなじだから。
 単語を覚えるだけで、文法を覚える必要がないので、ハワイ出身で英語を話した力士たちより、上達が早い。

 たいていの国は自国内にふたつか三つ以上の言語を話す国民を有しています。
 公用語または公用語とみなされていることばを、一国一言語にしているのは、世界のなかで、日本と韓国くらいです。
 たとえば、インド。
 全国的な公用語(連邦公用語)はヒンディ語と英語のふたつですが、州ごとの公用語は、20以上がそれぞれの州で認められています。実際に使われている言語は、インド一国内に、300言語あるといわれていますから、公用語20でも少ないのかも。



<つづく>
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