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ニーハオ春庭中国日記「日本文化祭&ラストエンペラー」

2011-09-26 06:47:00 | 日記
2007/05/19 土
ニーハオ春庭中国通信>日本文化祭

 私の勤務校は、5年前に新しくできた大学新キャンパスの中に校舎があります。市内から大学への交通は、これまでバスや車だけでしたが、冬季アジア大会に合わせてオープンした軽軌高架鉄道の駅が正門の前にでき、通勤通学が便利になりました。

 宿舎からの通勤マイクロバスは北門に着き、校舎の横に車を止めるので、近くにある食堂の建物、学内スーパーや郵便局がある建物のほかに、広大なキャンパスに広がる校舎のひとつひとつを訪問したことはありませんでした。

 5月12日土曜日、正門近くにある芸術学部のホールで、日本文化祭が開かれたので、同僚の先生方と見にいきました。
 宿舎近くにある本部キャンパス内の外国語学部日本語学科と、浄月キャンパスに設置されているビジネス日本語科の共催による、日本語を学ぶ学生たちの学芸会です。
 今年は第27回。日本語学科の学生が日頃の学習成果を披露する、学科の大切な行事です。

 現在では、中国全土に日本語教育を行う高等教育機関がありますが、1972年に田中角栄、周恩来が署名して日中国交回復がなされたのち、中国政府が「日本語教育重点地」として選んだのが、この地でした。
 ここは、中国における日本語教育のメッカともいえる、日本語教育先進地です。
 
 学芸会は学部3年生が司会を担当し、劇、日本語の歌のほか、日本舞踊、合気道デモンストレーションの披露などもありました。朝8時半から延々13時半まで続き、おなかがすきましたけれど、学生たちの熱気ある上演を最後まで見ました。

 学部日本語学科の先生たちは、日本語発音、演技、脚本、演出などを総合して、各クラスを審査し、賞をだします。
 部外者の私たちは、観客として楽しむだけ。
 樋口一葉の「おおつごもり」を学生自身が脚色した劇あり、シンデレラを脚色したものあり。

 「竹取物語」を脚色した劇。学生たちは「ラスト、おじいさんとおばあさんがかわいそう」と作り替えました。
 「富士山の頂上から立ち上る煙をみて、月の神はおじいさんおばあさんのまごころを知り、かぐや姫がおじいさんとおばあさんの家にもどることを許しました。かぐや姫は地上で幸せにくらしましたとさ、めでたしめでたし」と、ハッピーエンドにして上演しました。

 作者不詳、「物語の祖」の竹取物語。
 死後50年という著作権は、もちろん切れています。千年以上も昔の物語、どのように脚色しても、「著作権」について文句言う人はなし。
 ハッピーエンドもよしとしましょう。

<日本文化祭つづく>
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2007年05月20日


ニーハオ春庭「コピークロサギ(海賊版天国について)」
2007/05/20 日
ニーハオ春庭中国通信>コピークロサギ(海賊版天国について)

 日本語を学ぶ大学生による「日本文化祭」
 「ビジネス日本語科3年生は「クロサギ」を上演しました。経済用語なども学んでいるビジネス日本語学科らしい出し物です。「融資条件」「返済期限」などの難しい単語もでてきました。

 1年前の日本のテレビドラマを「完全コピー」した脚本でした。一話分、詐欺話の部分をそっくりコピーしています。せりふをわかりやすい日本語に置き換える脚色がなく、ドラマそのままのせりふがでてくるので、日本語学習中の初級者には、いったい何が演じられたのか、理解できなかったのではないかしら。

 1年前の「クロサギ」だけでなく、こちらの学生は皆、日本のドラマをよく見ています。
 また、テレビでは繰り返し昔のドラマを放映するので、山口百恵は今でも「中国で、もっともよく知られている日本の女優」です。
 先日は「『赤い疑惑』をテレビで見ました。テレビ放映はすべて中国語吹き替え版。

 新しいドラマも中国で放映されています。4月は「白色巨塔(白い巨塔)」を見たし、5月は米倉涼子主演の「黒皮の手帖」を放映していました。現在は篠原涼子岩下志摩が嫁姑になった「花嫁は厄年!」を放映しています。

 テレビ放映は正規の著作権クリアのものでしょうが、そのほか、日本のドラマDVDは、放送を終えたばかりの最新のドラマも、1枚5~7元(75~100円)という値段で売られています。
 日本でドラマ放映された2日後には、中国語字幕をつけて売り出されるのです。もちろん海賊版。違法コピーです。
 日本のドラマを録画し、無料サイト自動翻訳利用の中国語字幕をつけて、売る。元手要らずの商売。自動翻訳なので、とんでもない訳文がつくこともある。

 海賊版を売るほうは、違法であることを意識しているのかもしれませんが、違法コピー海賊版を買うことに対しては、一般の人は「違法」だなんて、まったく思っていないのです。「赤信号みんなで渡れば怖くない」式。赤信号でも歩行者が車列をくぐり抜けて悠々渡っていく中国の交通事情と変わりません。

 なかには、原作よりもパクリのほうが優先権を得た判決もありました。
 1997年、中国の企業数社がクレヨンしんちゃんの絵柄などの使用権を中国語名「蠟筆小新(ラービィシャオシン)」で商標を登録したため、原作の版権をもつ日本の双葉社は、「クレヨンしんちゃん」に関して、中国での権利が認められないという事態も起こっています。

 さらに言うなら、町中で見かける「蠟筆小新」のキャラクターグッズ、商標登録を認められた中国企業の製品というより、ほとんどは「勝手にコピー」商品でしょう。
 ドラエモン、キティちゃん、など、さまざまなキャラクターが、「勝手に闊歩」しています。

 著作権が財産権人格権のひとつであるという考え方、ほとんど知られていないし、知っている人も気にしていません。パクリやコピーが違法であり、違法コピーを買うことも罪であるという考え方が一般の人にまで浸透するのは、まだまだ時間がかかるでしょうね。

 学生たちは「日本の社会や文化を知るのに、ドラマはいちばんいい教材です」と考えています。
 私も「テレビ放映はいいけれど、海賊版DVDは違法なんですよ」と言うのがせいぜいです。「海賊版を買うな」と、言っても無駄なこと。

 日本で売られている正規DVDは一枚数千円します。中国の物価を考えれば、一枚100円のDVDをやめて、一枚5000円の正規のものを買いなさい、といっても、そうはいきません。
 学生たち、いくら日本語の勉強のためとはいっても、一ヶ月の学生生活費に相当する5000円を支払うことはできないでしょう。

 日本の物価感覚で言い換えるなら、一枚5千円のDVDを買うのはやめて、一枚25万円のほうを買いなさいと言われるようなもの。
 隣の棚に一枚5千円の同じ内容のDVDを売っているのに、「こちらが正規だから」と、25万円の方を買うかというと、う~ん、私なら「25万円出したら、今月の生活費が足りなくなってしまう」って思ってしまう。どうしても見たかったら、5千円のほうを買ってしまうかも。いけませんねぇ。

 学生たち、海賊版「クロサギ」何度もくりかえして見て、せりふを覚えたことでしょう。日本社会を知る勉強にもなったことと思います。
 山下智久が演じた黒崎役の学生、ヤマピーの「語尾を上げる独特のせりふまわし」をそっくりコピーしていました。
 「クロサギってのは、詐欺師をだますサギのことなん、だ↑」

 「中国でDVDってのは、違法コピー海賊版のことなん、だ↑」

<日本文化祭つづく>
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2007年05月21日


ニーハオ春庭「大足シンデレラ(美人の基準について)」
2007/05/21 月
ニーハオ春庭中国通信>大足シンデレラ(美人の基準について)

 学生たちによって日本語で上演された劇。
 せりふが難しくならないように脚色したり、かぐや姫が地上にもどるように設定を変えたり、自分たち流に脚色しています。

 「『灰姑娘(シンデレラ)』上演。日本だったら、ディズニー映画のイメージで上演するかも。
 でも、中国には『掃灰娘』という昔話があります。グリムが採集した『シンデレラ』の原型になった話ともいわれており、比較文学のテーマとしてはおなじみの作品。
 灰にまみれて掃除をしていた娘が王子のお妃に選ばれるお話は、古今東西、好まれてきた民間伝承なのでしょう。

 学生たち、「グリム童話シンデレラ」の設定を変えていました。
 「小さくてほかの人には履けないシンデレラの靴」という部分、学生たちの脚色では「大きすぎて、誰の足にも合わない」というふうになっていたのです。

 おそらく、纏足(てんそく)の習俗への配慮から、「より小さい足の人が王子の愛を獲得する」という内容が変えられたのではないかと思います。
 「小さい足」のほうが王子様のお妃にふさわしい、というシンデレラ、それを今一歩すすめれば纏足の習俗になります。

 富貴な家に育ったあかしとして、女の子が足をきつく縛り上げ、足のサイズ9~10センチに保った「纏足」。
 貴婦人は歩かなくても生きていくことができる。9センチの足でよろよろと、か細く動く女性が美しいとされ、より小さい足に美を感じた、往時の中国。

 「最後の纏足貴婦人」と言われた人が亡くなったというニュースを聞いたのも、もうずいぶん昔のことになりました。

 私の足のサイズは22、5センチで、ときどき子供用コーナーのつっかけサンダルなどで間に合わせたりすることもありますが、大人になっても9センチの足というのは、自然な成長ではありえません。

 9センチの小さな足に魅力を感じますか?感じない?
 じゃ、ウェスト43センチと、80センチ、どちらに魅力を感じますか。
 FカップGカップの大きな胸はどうですか?

 より細い腰、より大きな胸に魅力を感じるのが現代。
 「細いウェスト」を保つために、ダイエットに励む女性も多いし、大きな胸にしたいと、豊胸手術を行う人もいる。

 「風とともに去りぬ」のスカーレット・オハラは43センチの「ご近所で一番細いウェスト」を作り上げるために、コルセットを締め上げていました。
 叶姉妹は、自分たちの胸が「人工」であることを堂々発表しています。
 スカーレットの腰も叶姉妹の胸も、纏足と同じ、自然にはできない不自然な身体です。

 現代の私たちが9センチの小さな纏足に不自然さや違和感を感じるように、あと百年もすれば、シリコンでふくらませた胸の大きさに対して「なんて不自然な」と、感じるようになるのかも。

 時代によって地域によって「女性の魅力」の基準はさまざまです。
 タイ奥地に住むある民族。「より首が長い方が美人」というので、女の子は、こどものころから首に輪をはめ込み、首をどんどん長くしていきます。20センチ以上にも伸びた首を誇る「美人」を私たちから見ると、「奇習」に思えますが、、、、、

 現代日本の美の基準も、「長い首」「纏足」も、実は同じことです。
 現代日本では、より細い体に、より長い足、より細い足首。より大きな胸で、きゅっと上がったヒップラインが魅力的。より大きな目、より長いまつげが魅力的、、、、、

 「まばたきするのに重いだろう」と思うくらい、人工のまつげを目の上にのせた女性を東京の電車のなかで見かけたこともありますが、それが「美しい」と信じている女性に「不自然ですよ」と言ってみても、無駄なこと。

 纏足や首の長い美人を「奇習」と感じて、「重たいくらい長いまつげ」「Gカップの胸」に魅力を感じるのは、「現代の基準」に縛られた自己中心の美の基準でしかありません。

 現代中国の学生たちは、「小さな靴」の持ち主がお妃の座を獲得するシンデレラのお話に対し、違和感を感じたのかもしれません。
 というわけで、「シンデレラは、大足の持ち主」という設定に変えられていました。

 シンデレラ役を演じたのは男子学生でした。彼は最後の各賞発表で、「主演女優賞」を受けました。
 京劇や吉劇などの伝統劇では女形が活躍しますが、彼もなかなかの名女形でした。

<日本文化祭 つづく>

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2007年05月22日


ニーハオ春庭「七夕・天の川の橋」
2007/05/22 火
ニーハオ春庭中国通信>七夕・天の川の鳥
 
 日本文化祭、優勝は、ビジネス日本語学科2年生が上演した「七夕」でした。
 日本のおばあちゃんが、孫たちに七夕祭りの由来を語って聞かせる、という構成で、うまく日本の七夕祭りの文化と中国の織姫牽牛伝説を織り交ぜて、中日の文化交流紹介にもなっていて、役者たちも熱演でした。
 牽牛役の男子学生が、「主演男優賞」を受賞。

 七夕の舞台で日中のちがいを感じたこと。
 牽牛はいとしい織り姫に会いにいきたいけれど、目の前には天の川が横たわっていて、進めない。その時、鳥が現れて橋の代わりになってくれました。
 牽牛は鳥の翼を橋として渡っていきます。
 日本も中国もこの鳥を「鵲(チュェque)=カササギ」と、しています。

 現代日本で天の川の間にあって、織り姫牽牛の逢瀬を助ける鳥を思い浮かべるなら、白い鳥です。日本の学芸会で生徒たちに天の川の絵を描かせたら、白い鳥を描くのではないでしょうか。カササギといっても、「白鷺」のイメージ。
 
 しかし、中国の学生たちが「カササギ」が天の川にいる絵として舞台に出してきたのは、「黒い鳥」でした。
 「七夕のカササギ」のイメージが、日本と中国で違っていたこと、これは「登山」のイメージが異なっていたことにつぐ、「同じ意味だと思っていたひとつの言葉のイメージのちがい」の発見でした。

 動物学や漢詩の中に出てくる「鵲」は、確かに背中が黒くておなかが白い、カラスの仲間の鳥です。織り姫牽牛といっしょに描くなら、黒い鳥のほうが正しい。
 でも、私が子どもの頃から見てきた絵本では、ずっと白い鳥だったように思います。天の川に横たわる白鳥座のイメージです。このすり込み、思いこみの力は大きいです。

 「天の川のカササギ=白い」というイメージを私たちがもっているのは、白鳥座の印象のほか、
 「鵲(かささぎ)の 渡せる橋に 置く霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける」
 という百人一首の印象があるからかもしれません。

 「冬の夜空に凍りきらめく星々 七夕の夜にはカササギが翼をうち交わして 天の川に橋をかけるというが おお、ここ地上の橋にも白く霜が下りている それを見れば夜も更けたことが思われる」(田辺聖子の現代語訳)

 冬の橋が霜で白くなっているのを見て、天の川で橋の役をはたしたカササギを連想する。これではカササギは白いという印象を持たざるを得ません。
 中納言家持も、カササギを白いと思いこんでこの一首を詠んだのでしょうか。
 家持は「霜が白い」と表現していて、カササギが白いとは言っていません。しかし、白く霜の降りた橋を見て天の川の鵲」を連想したことは確かでしょう。

 少なくとも、田辺聖子の解釈では、白い霜のおりた橋と、天の川のカササギがどちらも白い印象を受けるのですが。 

 「日本文化祭」の客席、私の隣にすわっていたのは、「七夕」に出演した2年生の男子学生。日本人と話せることがうれしいようで、幕間にさかんに話しかけてきました。四川省の出身といいます。

 彼は「七夕」では牽牛が連れている「牛」の役を演じました。「もう~~」と日本語擬声語で牛の鳴き声を出したあと、牽牛にいろいろアドバイスを授ける重要な役どころです。

 優勝が発表されると、「2ヶ月間毎日練習つづけてきました。うれしい、うれしい」と、感激のおももちでした。
 「七夕」ほんとに熱演で脚本もよくできていました。

<日本文化祭つづく>

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2007年05月23日


ニーハオ春庭「背中に座布団日本舞踊」
2007/05/23 水
ニーハオ春庭中国通信>背中に座布団日本舞踊(イメージの違いについて)

 文化祭をみて、日本と中国、そのほか、イメージのちがい、ということで言うと、「お太鼓帯」について。13年前とまったく変わっていないなあと思ったことがあります。
 日本の着物が中国の人に与えているイメージ。「着物の帯として、日本の女性は、小さな座布団を背中にくっつけている」

 「日本舞踊風の踊り」を披露した女子学生たち、和服風の衣裳を着て登場しましたが、みな背中に小さな座布団のような四角い飾りをくっつけているのです。

 ベルトのバックルを大きくしたイメージなのかもしれません。ベルトのバックルは前につけるけれど「日本女性のバックルは背中にある」という印象なのでしょう。
 日本の「お太鼓帯」は、こんなふうに「座布団のように大きいバックルをくっつけている」ように見えているんだろうなあ、と思います。

 先月テレビドラマ『鑑真東渡』を楽しんだのですが、最終回にはがっかりしました。
 鑑真が5度の難破を乗り越えて日本に到着する大団円。奈良ロケがあるだろうから、ぜひ学生にも見てもらいたい、唐招提寺が画面に出ていたらDVDを購入したいと思っていたのですが、奈良ロケはありませんでした。スタジオセットの奈良。

 玄宗皇帝に仕えた安倍仲麻呂が、完全に中国風の衣裳を着ているのは納得ですが、日本からの遣唐使は、頭にちょんまげを結い、刀をさしています。
 鑑真が接する「奈良の町の人々」も、半ば江戸時代人。

 私たちも、唐時代の衣裳と明時代の衣裳の区別が付かないのですから、中国のテレビドラマが、奈良時代と江戸時代の風俗をごちゃまぜにしていることに文句はつけられないのですが、あまりにも「奈良の町らしくない」ので、がっかりしてしまいました。

 絵巻物などを手がかりにその時代の風俗を再現できるのは平安時代くらいまでであり、奈良時代飛鳥時代になると、壁画などに残された絵などわずかな手がかりしかありません。
 
 古墳壁画などによって、貴人の服装はわかっても、実は私たちも奈良時代の一般庶民がどんな服装であったか、正しく知っているわけではありません。
 それでも奈良時代の町にちょんまげを結って刀をさした武士が歩いていたりすると、違和感が残ります。

 まだまだ、お互いの歴史や文化を詳しく知るには、さまざまな課題があります。
 日本語を学ぶ中国の学生たち、、お互いの姿をもっと知り合うためにこれからも勉強し続けることと思います。

 「背中に座布団」にはちょっと笑いましたが、日本語を学ぶ中国の学生たちの熱心な学習成果発表、8時半から13時半まではちと長かったものの、とてもいい発表だったと思います。

<日本文化祭おわり>
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2007年05月24日


ニーハオ春庭「夏の雪、柳絮」
2007/05/24 木
ニーハオ春庭中国通信>夏の雪、柳絮

 この町に赴任した3月18日から4月になるまでダウンコートを着ていて、4月中旬までウールコートを着ていたのですが、5月になるとぐんぐんと気温が上昇し、5月22日はなんと29度まで上昇。
 さすがにこれは突発的夏日だったようですが、皆、一気に夏姿になりました。 
 必要なのは冬服と夏服だけで、春秋物は要らないというのは、ほんとうです。

 今朝はたたきつけるような大雨。ベランダを打つ雨の音で目が覚めました。

 雪の季節のあとは、黄砂吹き付ける乾燥した毎日。雨は2ヶ月の間にぱらぱらと10分くらい降るだけで、すぐにやんでしまいました。
 先週やっと雨らしい雨が降ったのですが、これがなんと、雨の呼び水にするための人工雨だったのだといいます。
 飛行機で空中に雨の核になる物質を撒いて、水蒸気の中から雨を作り出す。

 ほんとうにこれが呼び水になったのか、今朝5月24日は、予報通り大雨でした。
 しかし、日本の梅雨とちがい、一日中降り続けることはありません。さしもの大雨も一時的で、午後にはやんでいました。

 さて、中国で初夏の名物「夏の雪」といえば、柳の種を運ぶフワフワの綿毛「柳絮(りゅうじょ)」のことです。
 タンポポの綿毛よりもっとふわふわの軟らかい綿毛。タンポポは綿毛の先に枝が伸びて枝の先に種がついていますが、柳絮は、綿毛の中に種が二三粒入って、ほんとうに雪のように大量に柳の木から舞い落ちてきます。

 軽いので、風に乗ってどこまでも飛び、白い「夏の雪」が舞い踊るのです。
 柳の木がたくさんある公園などでは、地面が真っ白になるくらい、綿毛が舞い落ちています。
 日曜日、ちょっと足をのばして朝陽公園に散歩にいくと、あとからあとからこの「夏の雪」が降る光景を見ることができました。

 実は、この柳絮、「口や鼻に入ってきて、息もできない、健康に悪い」と、評判が悪く、柳の木はつぎつぎと無害なポプラ(といっても、日本のポプラとはちょっとちがう種類らしい)に植え代えられているのだそう。

 タンポポの綿毛よりもっとフワフワ淡あわとした柳絮が、空いっぱいに舞い踊るようすを想像してみてください。
 日本のテレビの歌謡ショウ番組で、歌手が歌っている上から白い鳥の羽毛を降らせる演出がありますが、あれよりずっとはかなげで、それでいて健康的。
 「健康的なはかなさ」というのもおかしな言い方ですけれど。

 さんさんとした日の光のなかを白い綿毛が舞う光景、見ているだけなら、夢のようにきれい、息をのむ美しさです。
 でも、息をずっと止めていられないので、息をすると、あっ、鼻の中に綿毛が、、、、。

 旅人や短期間しか中国にいない者にとっては、夢幻的な光景に思える「夏の雪」ですが、地元の人にとっては、迷惑なばかりの、やっかいものなのでしょう。
 こちらがどうこう言える立場ではありませんが、1年中のことならともかく、初夏の一時的な自然現象なのですから、夏の雪をまったくなくしてしまったら、寂しい気がします。よそものの勝手な希望でしょうけれど。 

<夏の雪おわり>
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2007年05月26日


ニーハオ春庭「偽満皇宮」
2007/05/25 金
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮(ウェィマンファンゴン)見学・ラストエンペラー

 13年前、幼かった娘と息子を連れて、「偽満州皇宮」博物館を訪れたとき、中はあまり整備されていなくて、薄暗くて、ラストエンペラーの亡霊でも出てきそうな雰囲気でした。

 博物館の一角に「皇帝皇后の衣裳を着て写真を撮ろう」というコーナーがあり、娘と息子に衣裳を着せて写真を撮ってもらいました。
 娘の衣裳は皇后の衣裳風。4歳だった息子の衣裳は、溥儀が3歳で清朝最後の皇帝として即位したときの大礼服を模したもの。
 撮影料と郵送料を渡したのですが、写真はついに送られてこなかった。
 幻の偽満州国、幻の皇帝衣裳写真。 

 5月13日午後、13年ぶりに偽満皇宮へ行ってみました。今回はひとりで。
 観光地として客を呼ぶことに目覚めた省政府によって、きちんと整備がなされ、展示も充実していました。

 展示を目的とする博物館であると同時に、「偽満州国」時代の歴史研究センターとしても存在しています。
 溥儀の一生を、写真資料やビデオでたどる館、満州時代の陸軍海軍の衣裳を展示している館、満州高官を写真つきでひとりひとり紹介している館、など。

 また、溥儀の寝室、皇后の寝室、溥儀の書斎、仏間、など、蝋人形によって当時のようすが再現されている部屋もあり、溥儀が使用した自動車を展示した館もあります。
 これらは13年前は、なかったと思います。

 溥儀が謁見をおこなった部屋、溥儀の趣味である漢方薬を集めた部屋。溥儀の妻たちの寝室、阿片におぼれた皇后や早世した祥貴人(譚玉齢)の居間や寝室などを見ていくと、往時の満州帝室が具体的に偲ばれます。

 館内展示の若い頃の婉容の写真は、知的で溌剌として、非常に美しい。
 しかし、満州国皇后としての写真、後半生のものはありません。
 皇后婉容の寝室に展示されている蝋人形、ソファに横たわり、宦官(かんがん)の世話を受けながら阿片を吸っている姿です。

 婉容が満州国皇后として公式の場で人前に出たのは、ただ1回のみ。
 あとの10余年は皇帝との不和、宮廷内での確執などによって、軟禁状態となって一室にこもり、阿片を吸う以外なすこともなく生涯をすごした寂しい皇后でした。

 婉容についての解説として、日本語案内パネルには、「皇后は皇帝から遠ざけられ、侍従と通じた」と書かれていました。しかし、これは、婉容を嫌う皇帝側が流したスキャンダルであり、真実かどうかは、もはや歴史の闇のなかに沈んでいること。
 歴史的事実なのかどうか確かめることをしないまま、皇帝側の主張通りの婉容非難が説明パネルに載っているのは、悲運の一生をすごした皇后に対して気の毒な気がしました。

 映画『ラストエンペラー』の原作となった溥儀自伝『我的前半生』、ジョンストンの『紫禁城の黄昏』。皇帝溥儀の弟、溥潔の妃となった嵯峨浩の自伝『流転の王妃』、山口淑子(李香蘭)の自伝など、また、満鉄(南満州鉄道)や、『キメラ 満州国の肖像』など、旧満州関連の書物を、これまでさまざまに読んできました。

 今回、ラストエンプレス、皇后「婉容」を描いた『我が名はエリザベス』をこの地に持ってきました。1988年に出版されたときから読もうと思っていた入江曜子さんの最初の著作です。

 2006年に発行された同じ著者の『溥儀-清朝最後の皇帝』(岩波新書)といっしょに、溥儀婉容が十年あまりをすごしたこの地で読むのは、日本で読む以上に感慨深いものがあります。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月27日


ニーハオ春庭「我が名はエリザベス」
2007/05/27 日
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我が名はエリザベス

 溥儀自伝『我的前半生』は、溥儀が口述し、ゴーストライター李文達(元人民日報記者)が共産党指導のもとに「改心した元皇帝、共産党からの思想改造を受けて、人民に奉仕する公民となった溥儀」のイメージを作り上げるために書かれた本だということが、近年明らかにされました。(李文達が著作権を主張して、溥儀の弟溥潔と対立したというのは、また別問題として)。

 第一級の近・現代史資料である『我的前半生』も、いわば、中国共産党の広告塔として溥儀を存在させるプロパガンダの役を担う著作で、自伝とはいっても、「真に正直な記述ではない」ということもわかってきました。溥儀の自己弁護と責任転嫁、中国共産党の史観が含まれています。

 『溥儀ー清朝最後の皇帝』は、溥儀死後に明らかにされてきた証言メモや新発掘資料なども駆使して、これまでとは異なる視点で溥儀が描かれています。
 溥儀が繰り返してきた「日本の軍部に強制されて、満州国皇帝の地位にいやいや就かされた」という主張も、これまで表に出されなかった満州国関連の文書などによって、そうではなかったこともわかってきました。
 新書版ですから手軽に読めるのに、内容はとても深いと思います。

 『我が名はエリザベス』は、皇后婉容の半生、廃帝溥儀と結婚してから、敗戦の混乱のなかで死ぬまでを描いています。

 エリザベスとは、婉容が天津租界で育ち、外国人とともに近代的教育を受けたとき、英語教師から与えられた呼び名です。
 婉容は英語を話し、自転車を乗り回す活発な少女でした。

 しかし、17歳のとき、婉容の運命が変わります。
 「幸せな家庭」を夢見ていた、「近代的教育を受けた女学生」だった婉容が、思いも寄らぬうちに「元清朝皇帝溥儀」の婚約者となり、顔を一度も見たことのないまま、結婚。
 結婚式を終えてみたら、自分より先に、側妃として文繍が溥儀のもとに仕えていたことを知る。

 溥儀は3歳で清朝最後の宣統帝として1909(明治42)年に即位、3年後の辛亥革命によって退位。
 12歳のとき、たった12日間だけ皇帝として復活し、その後はまた廃帝として紫禁城から一歩も外にでることのないまま、「もう一度皇帝として復活する」ことだけを使命として成長しました。

 3歳から6歳まで皇帝としてすごした日々のことは強い記憶ではなかったけれど、12歳のときたった12日間であっても、皇帝として絶大な権力者として遇され、臣民が膝下に額ずくのを見たあと、「皇帝復辟」は、溥儀の唯一の「生きる希望」となりました。

 溥儀17歳のとき、婉容を皇后に文繍を側妃に決定し、先に文繍を紫禁城へ入れました。
 婉容とは1922年12月に結婚。清朝歴代の皇帝結婚の儀礼通りに結婚式を行いました。

 結婚式は前例通りでしたが、「結婚生活」は形だけのものでした。
 宦官侍従は、幼い廃帝の癇癪をおさえるために、宦官や少年相手の快楽を教えこみ、17歳の廃帝は、皇后にも側妃にも、興味をしめしませんでした。
 17歳の皇后も13歳の側妃も、別々の宮殿で孤独な日々をおくるのみ。

 17歳までの、家族との団らんも、友達との楽しいおしゃべりも、婉容の生活から消えました。

 皇后の生活とは、「前例」を錦の御旗とする女官と、宦官(かんがん=男性器を切除して後宮に仕える人)だけに取り囲まれて、朝起きてから夜寝るまで、洗面の作法から食事排泄に至るまで、決まり事としきたりによる日々をおくること。

 伝統、前例、しきたり、因習、、、、
婉容には、何一つ自由を与えられず、形式だけが重きをなす生活。
 女官も宦官も、自分を見張り、かごの中に閉じこめようとする獄吏。

 現代においてさえ。
 美智子皇后は、結婚儀式で十二単の髪型(おすべらかし)にするとき、髪をシャンプーで洗うことを「しきたり」によって許されず、女官たちが「洗髪の油」で髪をふき取ったため、油の臭いで気分が悪くなった思い出をもち、紀子妃雅子妃の結婚式のときは、「前例通りに身支度をする必要はない、髪はシャンプーで洗ってかまわない」と、伝えたそうです。

 文繍と仲良くなろうとつとめ、皇帝と共通の話題を持とうと努力する婉容でしたが、皇帝との仲はどこまでも平行線であり、文繍は皇后の接近を迷惑に思うだけ、、、。
 側妃にとり、皇后とは、直接の上司であり、越えられぬ身分の差を持つライバルであり、皇帝の寵愛を競う永遠の敵のようなもの。
 といっても、溥儀の寵愛は皇后側妃どちらも受けられそうもない、、、、。

<偽満皇宮つづく>
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2007年05月28日


ニーハオ春庭「廃后婉容」
2007/05/28 月
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・廃后婉容

 清朝復活を夢見るだけで、自主的には何一つできない溥儀。
 西大妃の指名により3歳で即位。自己中心の局地のように育てられ、しかも清朝末期の混乱で「帝王学」も身につけていない溥儀は、ただわがままで、気位だけが高い廃帝でした。

 溥儀は「皇帝がめがねをかけた前例がない」と、言う侍従や教育係の先生たちに対して、近視用めがねをあつらえて、「はっきり見えるようにしてくれた」ジョンストンを重用し、紫禁城の外へでることを望むようになっていきます。
 「紫禁城の中にとじこもっていては復辟は実現しない」という理由で。
 紫禁城をでた溥儀に、ジョンストンが望んでいたイギリスからの援助は受けられず、溥儀は天津の日本租界に滞在。

 女性に興味をもたず、自分が帝王として復活することだけを望む溥儀に絶望して、側妃文繍は離婚を申し出ます。形式的には、側妃が離婚を申し出たのではなく、溥儀自身が側妃を追放するという形で、離婚が成立。9・18事件(満州事変)の一ヶ月後のことでした。

 しかし、皇后である婉容には離婚を申し出る自由さえありません。側妃を追放した皇帝は例があるけれど、皇后と皇帝の離婚など、前例がないから。

 日本軍国主義に近づき、日本の皇室に身を寄せることで帝王としての誇りを呼び戻していた溥儀は、従順でない皇后、ひとりの人間として生きたいと願う婉容を重荷として、一室に閉じこめます。

 夫が満州帝国皇帝として担ぎだされ、傀儡皇帝となっても、婉容は皇后として人前に出ることを拒否。
 人前に出たのは、日本国天皇の名代として皇弟秩父宮が「帝政祝賀」のためにに満州来訪したとき一度のみでした。
 日本国天皇ヒロヒトからの勲章を、皇后として受けなければ「満州帝国」のメンツが立たない、という説得で人前にでたあと、婉容は一室に引きこもります。
 その後は「帝国の虜囚」としてすごすのみ。敗戦まで外にでることはありませんでした。

 皇后は阿片にのみ、安らぎをみいだすようになっていきました。
 博物館の「皇后の部屋」は、ソファに横たわり阿片を吸っている婉容の姿を展示しています。
 阿片は、中国では広く吸引されており、現代のタバコと同じくらい普及していました。タバコの中毒性と健康被害が声高に宣伝され「諸病の根元」と言われてもタバコをやめない人がいるのと同じように、阿片中毒の害が言われても、阿片をやめることのできない人は中国に数多くいました。

 日本は、当時「阿片追放」キャンペーンを張っていました。しかし、裏で阿片を売りさばき、巨額の秘密利益を上げていたと言われている組織のひとつは日本側です。
 特務機関の謀略グループは、中国での謀略資金を確保するため、極秘に阿片を栽培し売りさばいていた、と言われています。

 敗戦の混乱、逃亡と捕虜の生活のなか、婉容は阿片の禁断症状によって廃人となり、孤独のうちに亡くなります。
 過酷な運命を担った王妃后妃は歴史上数多くいるけれど、婉容の数奇な生涯もまた、人の運命として忘れがたい一生だと思います。

<偽満皇宮つづく>

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2007年05月29日


ニーハオ春庭「帝国の光と闇」
2007/05/29 火
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の光と闇

 清朝の皇帝として2度、満州国皇帝として1度、生涯に3度皇帝になり、3度その座から引きずりおろされた溥儀。

 3度目に皇帝の座から降りたあとは囚人となり、中国共産党によって思想改造を受けました。
 大赦によって出獄したあとは、毛沢東を賛美してやまない「よき人民」になり、中華人民共和国の公民として、共産党の広告塔として遇されました。

 「改心して人民への奉仕にめざめた元皇帝」を演じた溥儀に対し、皇后婉容は中国の歴史からは忘れ去られ、その生涯をたどろうとする人もいませんでした。

 私が婉容の存在を知ったのは、愛新覚羅浩の『流転の王妃』によってです。
 1959年にハードカバーが出版された頃、たぶん図書館から借りて読んだのであろう母から、嵯峨公爵家から溥儀の弟溥潔に嫁いだ浩の生涯について、聞いた気がするのですが、婉容のことはまったく知りませんでした。

 婉容の名が記憶に残ったのは、入江曜子の『我が名はエリザベス』が新田次郎賞を受賞したとき。しかし、本を読まないまま、月日がすぎました。
 1994年に最初にこの地に赴任する前に「満州関連雑学仕込み」として読んだのが愛新覚羅浩の『流転の王妃の昭和史』
 1992年発行の文庫で、婉容の最後が悲惨なものだったと知りました。

 中国では、闇のかなたに葬られていた婉容。
 その生涯を掘り起こし、小説として上梓した作者入江曜子に対し、婉容の弟・潤麒は感謝し、新たなエピソードも伝えてくれたそうです。
 帝国という名の表舞台に立ち、常に自分にスポットライトがあたるように願っていた溥儀。
 しかし、そのスポットライトは、照明係りである日本軍の意向しだいであったことにいらだちながら皇帝を演じていたのが溥儀であるなら、一方の皇后は、傀儡国家の闇の底に沈んだ女性だったといえるでしょう。

 溥儀を「満州帝国」の表の顔とするなら、もうひとつ別の「裏の顔」として知られた人物がいます。
 「闇の帝王」とおそれられたのは、満州映画協会理事長甘粕正彦。
 映画協会理事長は表向きの肩書きであり、帝国の闇の部分を仕切る謀略機関のトップであったとされています。

 映画『ラストエンペラー』で、溥儀を演じたジョン・ローン以上に、もっとも印象に残った出演者は、甘粕正彦を演じた坂本龍一でした。
 それまで私が抱いていた「大杉栄伊藤野枝虐殺」犯人、殺人者、というイメージとは大いに違い、複雑かつとても魅力的な甘粕像がインプットされました。

 映画『ラストエンペラー』を見た後、私は、旧満州地域、偽満州国の地で仕事をすることになりました。
 満州関連書をさまざまに読んだなかで、満州時代の甘粕を知っている人の証言は、みな甘粕に対して好意的でした。

 中国人の証言も日本人の証言も、そろって「甘粕理事長は、たいした人徳者」「日本人のなかで、あんないい人はほかにいない」「とても魅力のある人物」というような声がほとんどで、直接彼を知っていて彼を悪く言った証言者がいない、ということに大いに興味を引かれました。

 満州映画協会理事長甘粕正彦は、1945年、敗戦ののち「大ばくち、身ぐるみ脱いですってんてん」というひとことを残して自殺。
 この「すってんてん」という俗語を結語とする一句、辞世の句というにはあまりにも自己諧謔がすぎます。
 わざわざ自分の一生をちゃかして、笑いのめして死んだ男、甘粕正彦。

<偽満皇宮つづく>
07:31 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年05月30日


ニーハオ春庭「帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん」
2007/05/30 水
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん

 天津租界から溥儀を連れだすなど、満州国設立の功労者であり、建国時には民政部警務司長、満州国参事だったにもかかわらず、帝政がしかれると、甘粕正彦は満州帝国の政府側には入ることができませんでした。
 甘粕の前歴が問題にされ、「殺人者として刑を受けたことのある人間を帝国の中枢におくことはできない」と、彼が政府幹部になることに反対する者がいたからです。

 満州国建国1932年より9年前の1923年、甘粕憲兵大尉は「無政府主義者・大杉栄伊藤野枝虐殺」の罪を一身に引き受け、裁判で陸軍との関わりを否定し続けました。
 甘粕に下った懲役は10年。

 しかしたった3年後には恩赦を受け、甘粕はフランスへ渡りました。渡航滞在費用を出したのは、陸軍です。
 この異例の扱い、その後、満州での謀略活動の中心者となったことなどを考えても、陸軍との関係、直接手を下した殺害者との関係には、複雑なものがあると思えます。

 裁判のとき、大杉伊藤とともに殺された7歳の甥について裁判長に質されると、さすがに甘粕も「子どもは自分が殺したのではない」と、否定しました。
 しかし、「では、殺した者はだれか」と追求を受けると、たちまち「すべて自分ひとりでやった、だれの指示も受けていない」と、最初の主張に戻り、自分以外の人間の関わりをすべて否定しました。 

 私は、甘粕は大杉伊藤虐殺に、直接手をくだした殺害者ではないかもしれない、と思っています。
 甘粕が直接の犯人ではないことを陸軍側が知っていること、「大杉事件と陸軍上層部との関わり」を隠し通したこと、この「負い目」が「フランス滞在資金提供」となったのだと考えます。

 甘粕が裁判で主張したように、「自分一人で考え、自分が直接手を下して大杉夫妻を殺害した」ということであるなら、なぜたった3年で大赦となったのか、フランス滞在費用を陸軍がだしたのか。

 私が「甘粕は殺人者」と思えないことの心情的な根拠のひとつは、関東大震災前に婚約した服部ミネが、甘粕出獄後に結婚していることです。

 女性の家族からみたら、婚約者が殺人者として刑を受けたとき、婚約解消しないで、出獄を待つ、というには、よほどの覚悟が必要です。
 ミネが甘粕との結婚の意思を変えなかったことを考えると、ミネに「この人となら一生そえる」と決意させる何かが正彦にあったのだと思えるのです。 

 もうひとつ、私が「甘粕は大杉伊藤虐殺真犯人ではない」と感じるのは、まったく私のミーハー心情から。

 私は、見田宗介(真木悠介)の著作が好きで、講演会も聞きにいくミーハーファンでした。社会学者、大学教授としては、毀誉褒貶ある見田先生ですが、私は好き。
 見田宗介の父親は、ヘーゲル哲学マルクス経済学の研究者見田石介です。見田石介、旧名は甘粕石介。石介の弟は甘粕春吉(宇治山田警察署長)。春吉の息子が甘粕正彦。
 見田宗介と甘粕正彦は従兄弟です。

 まったくのミーハー的考えですが、見田宗介の穏やかな静かな風貌と、正彦を直接知る人々の好意的証言とを重ね合わせると、これまでのように甘粕正彦を「大杉伊藤と7歳の甥っ子を無慈悲に虐殺した殺人犯」と、決めつけることができなくなりました。

 むろん、満映関係の人々が「甘粕さんはいい人」と、口をそろえたところで、甘粕が中国でしたことのすべてを肯定できるものではありません。
 内藤機関という謀略の部署を駆使した甘粕の行動、中国での暗躍は、偽満州国の闇の底を深く覆っています。

 『我が名はエリザベス』のなかで、甘粕は溥儀をあやつり、婉容を監視する「冷たい目の男」として登場します。
 満映のスタッフや俳優たちに見せる顔と、帝国の闇を仕切る謀略機関トップの顔の甘粕は、別人のようだったのかもしれません。

 真に「五族(日満漢朝蒙)共和」の理想をを実践しようとする人たちが集まり、新しい国作りをめざした人々も、一部にはいました。建国大学に集まった人々など。しかし、実際の国家運営はどんどん理想とはかけ離れていきました。
 満映で、中国人スタッフと日本人スタッフに平等に接した甘粕も、「満映」での理想と実際の満州社会の現実のずれは、よくわかっていたでしょう。

 甘粕は、自殺の前、中国人スタッフに「これからの中国映画は、君たちにかかっている。そのため映画機材を守り抜くように」と、指示しました。

 満州に設立されたインフラは、発電機材その他、ほとんどのものがソ連軍の手に渡り、ソ連に持ち去られて満州の地に残されませんでした。
 その中、唯一、映画機材は中国人スタッフによって確保され、戦後中国映画の発展につながったのです。

 溥儀と婉容、溥潔と嵯峨浩、甘粕正彦、川島芳子、李香蘭、、、、、
 満州帝国13年の徒花のような国家に登場した人々は、だれをとりあげても、波瀾万丈の映画が一本とれる数奇な人生を歩んだ人たち。

 私の希望のひとつは、赤川次郎によって、甘粕正彦を主人公とする評伝が書かれればいいのに、ということ。
 赤川次郎の父親赤川孝一は、甘粕正彦の自決を看取った人。満映での甘粕の側近で、戦後は東映幹部。

 赤川次郎が直接自分の父親について語った本は少ない。母以外の女性と暮らしていた父親だったから。
 『イマジネーション(今、もっとも必要なもの)』(光文社文庫は2007年2月発行)などで父親について語っているのですが。

 角田房子『甘粕大尉』などのすぐれた評伝がありますが、赤川が書いたら、また別の人物像がでてくるのではないでしょうか。

<偽満皇宮見学つづく>
06:27 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年05月31日


ニーハオ春庭「我不是台湾人」
2007/05/31 木
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・我不是台湾人

 偽満皇宮博物館見学。
 私が見学した5月13日、日曜の午後おそくだったためか、韓国人ツアー団体のほかは数えるほどしか入館者を見かけませんでした。

 私が皇帝や后妃の部屋をのぞいていると、係りの人がやってきて、一生懸命覚えたのであろう解説を朗々と始めます。私はそのたびに、「すみません、中国語わかりません」とお断りを言い、日本語の説明パネルを読みます。
 なんだか悪いことをしているような気分。

 私、四声の聴き取りは難しいし、発音は下手だし、話すのも聞くのもだめ。中国語で解説されても、わかりません。
 偽皇宮には、日本語説明が書いてあるのでありがたい。

 日本に来ている欧米人が英語で日本観光を済ませているようすを見ると、「日本観光をしようと思うなら、少しは日本語を覚えて観光したらいいのに」と思っていたのに、中国の観光地で、私は、片言の中国語のみですませており、館内の案内、解説の中国語はとんとわからない。ほんと、ちゃんと中国語を覚えて観光したら、もっといろいろ興味深いことがわかるだろうに。

 13年前、「我是日本人。私は日本人です」と言っても、よく「いや、あんたは日本人じゃないね。あんたの発音は南方出身者のなまりだよ」と言われたものでした。
 今回、偽満皇宮のおみやげ屋で『偽満州国明信片研究(満州時代の絵はがき写真集)』という本を買おうとして、値切っていたら、「あんたは台湾人だね」と言われました。

 13年前は、ほとんど見かけなかった台湾人。今は、東北にも観光にやってくるようになっているらしい。
 私と同じ時間に偽満皇宮を観光していたツアー客は、韓国人団体。この地域は、朝鮮族が多く住んでいるので、ソウルからの直行便も本数が増えています。団体客も増加しているのでしょう。
 市場で買い物をしていたとき「あんたは韓国人だろう」と言われたこともあります。

どうして私が日本人と思われないか。
 日本人観光客は値切ったりしないで、定価で買っていくから。また、この町に在住している日系企業の駐在員夫人などは、私のように服装に無頓着でなく、ちゃんとした服を着ているから。

 定価268元の『偽満州国明信片研究』という本、結局130元で買いました。
 長くこの地で日本語教育を続けてきた他大学の先生から、「80元まで値切った」という話を聞かされていたのですが、5時20分の閉館時間が迫っていたので、130元で手を打ちました。売店のおばちゃん、150元以下にはできない、と主張していたのですが、やはり閉館までにひとつでも多く売りたかったのでしょう。

 ただし、これも、家に帰ってから子細に眺めれば、正式な出版物をそっくりコピーした海賊版っぽい。絵はがき写真がボケボケの印刷です。
 海賊版だったら、定価265元なんて書いてあっても、制作側はコピー代製本代しかかかっていないのですから、元手いらず。制作費は10元20元なのかもしれません。それなら、80元で売っても130元で売っても、丸儲け。

 ほかにも買えと、おばちゃん、あれこれ勧めてきて、ずうずうしいことに、入り口近くの案内所で無料配布している「偽満州皇宮博物館案内」のガイドパンフレットを、1元で売りつけてきました。「これ、免費(無料)だよ」と、タダでもらったパンフレットを見せて退散。

<偽満皇宮つづく>
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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産孔子廟&母の日」

2011-09-22 10:40:00 | 日記
2007/05/05 土
ニーハオ春庭中国通信>イミテーションゴールデンウィーク

 日本の黄金週間、子供の日を中心にきらきらゴールド輝かせて楽しい日々をおすごしのことと思います。

 中国も5月1日から7日までは黄金週間。大学、官庁、大手会社などは1週間の休暇となります。
 しかし、学生たちに言わせると、「中国のゴールデンウィークは本物のゴールドじゃありません。にせもののゴールドです」
 これはどういうことかと言うと。

 中国で最大の休暇は旧暦新年の春節です。春節の次に連休となるのが5月1日から3日間のメーデー休暇。労働者のための休日です。
 このメーデー休暇を大型連休にするために、振り替え労働日が制定されています。

 5月4日金曜日を休日にするために、4月28日土曜日は出勤となり、大学も官庁も平日扱い。5月7日を休日にするために、4月29日日曜日も出勤。平日扱い。
 この土日二日間を平日として働くことによって、5月1日から7日まで連休となる、という連休からくりです。

 観光産業振興政策として、近年決められたとのことで、13年前には5月1日から3日までの3日間だけの休暇だったように記憶しています。

 連休前は、4月23日月曜日から4月30日月曜日まで8日間連続で出勤しました。1週間の連休が目の前に待っているとはいえ、8日間休みなく働くのはかなりきつかったです。休日出勤を続けて働き続ける日本の企業戦士の気持ちがわかりました。過労死寸前、くたくたでした。

 こうして、二日間の振り替え労働の結果、やってきた1週間の黄金週間。イミテーションゴールドであるにせよ、連休は連休です。

 中国は旅行ブーム。1週間の休みに、それぞれの計画をたてます。近場で保養の人、遠出をして豪華に旅行して回る人、体力やら懐具合やらを勘案して、さて出発。
 と、いきたいところですが、思い立って気ままに旅行する、というような日本で私がよくやる「気ままに行き当たりばったり旅行」が、中国ではできません。

 日本で私は、どこへ行くとも決めずに家を出て、とりあえず130円の切符を買ってターミナル駅まで行き、電車を乗り継いで行けるところまで行ってみる、という旅行をときどきしていました。

 中国では、それは不可能。電車の切符を手に入れるのはとても難しい。
 同僚の先生は、2度駅に足を運び、それぞれ1時間くらい並んで待ったあげく「ハルビン行き、没有メイヨー。(ありません)」で、買えませんでした。

 確実に切符を買うには、1,旅行社に手数料を支払って買う。2,駅にいるダフ屋と交渉して切符を手に入れる。という方法があります。2は、中国語で交渉できない私たちにはとても無理。

 西安行き夜行寝台車の切符を買った先生は「日本語が話せる係員がいる旅行社」に手配を頼みました。
 31時間電車に乗り続ける西安行き。4人同室コンパートメントの寝台車(軟臥)が片道700元。旅行社に払う手数料は40~50元。

 しかし、ハルビン行きは日本のグリーン車にあたる「軟座」でも40~50元程度ですから、40元の手数料を旅行社に払うのはちょっともったいない気もしてしまう。
 自分で切符を買う経験をしてみたいからと、同僚2人は駅で並んだのですが、結局あきらめて、勤務校の事務所に切符購入の手続きを頼みました。軟座は手に入らず、一般座席の硬座で30元。

 さて、私のイミテーションゴールデンは?
 さすがに中国では「行き当たりばったり旅」「ミステリーツアー」は、できません。
 市内の旅行社が募集している地元の人向けツアー旅行に参加です。往復6人一室寝台車(硬臥)、ホテル2泊。観光3日間の「割安ツアー」に申し込みました。

 では、中国国内ツアーのご報告は次回。


11:07 コメント(11) 編集 ページのトップへ
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2007年05月06日


ニーハオ春庭「世界遺産めぐりツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、」
2007/05/06 日
ニーハオ春庭中国通信>世界遺産めぐり国内ツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、

 台頭してきた中産階級にとって、家、車、パソコンなどひととおりの家財が手に入ったら、次は家族旅行。中国は旅行ブームがはじまったところ。海外豪華旅行から手近なツアーまで、旅行熱は高まる一方です。

 火車(中国語で、電車は火車。汽車は中国語では自動車のこと)の切符を個人で買うのはたいへんなので、ツアーも盛んです。
 5月メーデー休暇の旅行として、ふたつの世界遺産をたずねるツアーに参加しました。

 中国にはユネスコに認定された世界遺産が30あります。その中の北京の3カ所、万里の長城、故宮(紫禁城)、頤和園には、13年前出かけました。
 今回は、山東省(青島半島とその内側の地域)にある世界遺産の二カ所をめぐるツアーに参加です。

 文化遺産、古代「魯国」の首都にして、孔子のふるさと曲阜(チュイフー)の孔子廟、孔林、孔府訪問。そして自然遺産の泰山(タイシャン)登山。

 地元の人向けの割安ツアーなので、日本人ツアーが利用するような四つ星や五つ星ホテルとか、4人用コンパートメント寝台車、トイレつきの豪華ツアーバスなどはありません。
 6人一室の寝台車(硬臥)、星なしホテル、何の設備もないバス。
 寝台車は、個人で買うと往復550元。星なしホテルは一泊120元。二泊で240元。バス代を考えると確かに割安なのだろうと思います。

 現地、山東省3日間で、昼食1回。夕食2回がツアー代に含まれ、朝食2回はホテル代に含まれている。朝食1回と昼食2回は各自支払い。寝台列車の中での食事も自分持ち。

 それらを割り引いても、5日間の旅行に一人1400元(約2万円)、夫婦と子どもの3人で参加すれば6万円を支払い、そのほか食事などの出費が必要。一家で10万円くらいの支出。
 中国の生活物価感覚を考え、日本の物価感覚でいうと、ゴールデンウィークの旅行に家族3人で百万円くらいを使う感覚。割安ツアーとはいっても、そう簡単な出費ではなく、ツアーに同行した家族連れは、新興中産階級という感じの人々でした。

 私は日本では「電車に乗って窓外の景色を眺めているだけの旅」を楽しんできました。5時間でも6時間でも、窓の外を眺めているのが楽しい。移りゆく景色、山も野原も林も海も、それぞれの時間にそれぞれの表情を見せてくれます。
 しかし、しかし、中国大平原の電車の旅、6時間ながめていても、7時間ながめていても、窓の景色は変わらないのです。

 地平線まで、だだっと広い畑。畝がうねうねと続く。畑の中の道の両側には並木が植えられている。
 電車が南へ進むにつれて、畑が乾燥した茶色の地面から、麦やインゲンの豆が育っている畑に変わったけれど、基本的に景色は同じ。
 だあっと広い。それだけ。

 東北地方、北のほうは木が少ない。南に行くにつれて木が増えてくる。という違いはあるけれど、どこまでいっても「広い畑」が続いていました。たまに低い山のような丘のようなところを通りすぎる。ほとんど木がない裸の山。またすぐダア~ッと広い畑。
 3つの省を通りましたが、ずっと同じ景色でした。

 ♪汽車汽車シュッポシュッポシュッポシュポシュッポッポ。ぼくらを乗せてしゅっぽしゅっぽしゅっぽっぽ。速いな速いなどこまでも。畑も野原もすぎていく。走れはしれはしれっ~、畑も野原もすぎていく、走れ走れ走れ~、畑も野原もすぎていく~、走れ走れ走れ~、畑も、、、、という具合で、エンドレスに畑と野原。

 平原をひたすら突っ走って、16時間後、5月2日朝、山東省の省都、済南に到着しました。移動距離は1360キロ。東京を出発したとすると、九州までくらいの距離になります。

 次回は、世界遺産「孔子廟」について。
00:35 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年05月07日


ニーハオ春庭「しのたまわく曲阜三孔」
207/05/07 
ニーハオ春庭中国通信>しのたまわく曲阜三孔

 私が高校生くらいまでは、漢文は必修科目でした。意味がわかってもわからなくても、暗唱したものです。
 子曰わく、学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや。
 朋あり、遠方より来たる、またたのしからずや。

 漢字を知る前、父や母から論語の一節を聞きかじっていた頃は、耳で聞いただけの「しのたまわく」を、長い間、「師の、玉沸く」だと思っていました。先生の玉が沸くって、どんな玉の沸騰だと思っていたんだか。

 中学高校の教科書で文字を見て、やっと「子 曰わく」を「し、のたまわく」と読むのだとわかりました。
 今は、「宣う(のたまう)」なんて荘重な敬語つかったりしないで、「し、いわく」って、教科書に書いてあるみたい。ただし、大学入試から漢文をはずすところが増えた結果、高校で漢文を習わない高校生が多くなり、「論語」を知らない若者が多数派。

 というわけで、ユネスコによって1994年に世界遺産に認定された、「孔子のふるさと、曲阜(チュイフー)」です。
 ユネスコ認定理由として、「中国悠久の歴史における、もっともすぐれた宗教芸術であり、建築物の代表である」という評価をうけ、文化遺産として世界に誇るべきものとして認められました。

 孔子を祭る「孔廟」、孔子の子孫が封建貴族として曲阜領有を行った行政府である「孔府」、2500年間続いた直系子孫累代の墓地となった「孔林」
 孔廟、孔府、孔林を「曲阜三孔」とまとめて、世界遺産になっています。

 曲阜は、古代「魯国」の首都でした。
 孔子は、紀元前551年ころ魯の国に生まれ、紀元前479年ころなくなった、中国,春秋時代の思想家。氏は孔、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)
 彼の思想は儒教として東アジア圏に広まり、仏教思想とともに大きな影響を残しました。

 孔子は、魯国で政治家として生きようとしたけれど、理想通りにはいかないことに失望し、理想的な政治を行える国を求めて弟子とともに14年間諸国を巡ったすえ、結局は故国の魯に戻りました。
 そののちは、生まれた土地、曲阜にたった3部屋のみの小さな家で質素に暮らしながら、弟子の教育や古典の整理に専念しました。

 孔子は、社会には礼とよぶ秩序が必要であり、それには人を思いやる仁とよぶ心が大事だと説きました。孔子の思想を弟子がまとめた本が『論語』。「しの玉沸く」の本です。

 孔子が亡くなった2年のち、魯国の哀公が孔子旧居を廟としてまつったことから、孔廟が成立し、歴代の皇帝が手厚く子孫を遇しました。
 漢の皇帝、唐の皇帝、宋、明、清、王朝は変わっても、どの王朝にとっても、孔子の思想は広い中国を支配するに最適な思想として尊重され、孔子の子孫は歴代の皇帝から貴族として遇されました。

 孔子がたった3つの部屋で暮らしたのにくらべ、子孫は部屋数450という広大な屋敷をかまえ、広い土地を領有する「封建貴族」の地位を保ち続けました。
 王朝は何度も変わっているのに、孔子の家だけは変わらず、2500年の長きにわたって直系によって維持され続けたのです。

 現在も子孫は続いています。ただし、共産主義中国は、孔子を「封建思想の根元」としたために、77代当主は、蒋介石とともに、台湾へ渡りました。
 孔子の命日に行われる孔子祭りのときは子孫は曲阜に里帰りし、祭祀を執り行います。
 曲阜市、人口70万人のうち20万人は「孔」の氏を名乗り、世界に孔子の子孫は400万人いるそうです。

 孔家は、秦の始皇帝の焚書坑儒の思想によって迫害されました。子孫は、現在「魯壁」と呼ばれている壁の中に孔子の本を塗り込めて焚書に耐え、孔子思想を守りました。

 その次の迫害が「共産思想による孔子思想の否定」だったのですが、1980年代から風向きが変わり、現在では、「孔子学院」の設立が世界中で続くことからもわかるように、孔子の思想の再評価が高まり、「曲阜もうで」も、1994年の世界遺産認定以来、ますます盛んになっています。

http://www.china-cts.com/qufu.html

<曲阜 つづく>
16:57 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2007年05月08日


ニーハオ春庭「孔子の墓で温故知新」
2007/05/08 火
ニーハオ春庭中国通信>孔子の墓で温故知新

 私が山東省曲阜市を訪れた5月2日、孔子を祭る孔廟、門前黒山の人だかり。廟内、押すな押すなの人混みでした。

 みやげ物屋には、『論語』が山積み。
 孔子復権が1980年代からだということを考えると、現代の中国人よりも、高校で漢文暗唱を強いられた私のほうが、ずっと論語を知ってるんじゃないかと思います。「論語読みの論語知らず」までもいかない程度には読んだつもりだけど。

 えっと、「子(し)曰(のたま)わく、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以(もつ)て師と為(な)るべし」

 お、覚えているぞ。40年前に暗記したことがスラっとでてくる。さすがは「師の玉沸く」だ。

 「子、曰(のたま)わく、学びて思わざれば則(すなわ)ち罔(くら)く、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」

 え~、それから、、、、、
 あ~、試験が終わったらほとんど忘れたんでした。

 孔子と孟子の中間の時代に活躍し、もっとも勢力が大きかったと言われる墨子、墨家の思想が、中国歴史上、長い間忘れ去られていたのに対して、孔子は忘れられるどころか、歴代皇帝によって、「中国を支配するのに一番つごうのいい思想」として手厚く保護されました。
 (5月7日、映画「墨攻」をテレビ放映でみたところなので、今は墨子びいきです。中国語のせりふに英語の字幕と中国語の字幕の両方がでる方式)

 孔子の儒学が儒教として中国思想のバックボーンとなったのは、人間の生き方を支えるにふさわしい思想であったことが中心であるとして、「支配者にとってつごうがいい思想」であったことはまぎれもないことでしょう。
 「親に孝より君に忠」「忠君愛国」など、君主支配への絶対服従を徹底するには、孔子の説く儒学の教えはもっとも適切なものでしたから。

 王朝は変われど、歴代の皇帝は孔子の子孫を「封建貴族」とし、高い地位と領地を与え続けました。

 封建領主としての役所が「孔府」。
 壮麗な中国様式の建築が立ち並んでいます。中国では、黄色い瓦や龍の文様は皇帝にのみ許されていたのですが、孔府には、龍の飾り、黄色い瓦が許可され、皇帝の故宮にも匹敵する建築物であることがわかります。
http://www.arachina.com/heritage/qufu/index.htm

 累代の直系子孫の墓域が「孔林」です。孔林は、紀元前500年から紀元後2007年まで、直系男子が相続し、第78代の直系子孫までが葬られています。
 200ヘクタールがすべてひとつの家族の墓域になっています。世界最大の家族墓、というのが、世界遺産認定のひとつの理由。(千代田の皇居の広さが115ヘクタールですから、その2倍くらいの広さ)

 孔子と彼の息子の孔鯉、孫の孔子思の墓は、円墳です。
 雑草がポショポショと生えている丸い塚の前に石碑が建つ、質素なものです。

 孔府の建物が壮麗なので、お墓ももっと大々的に作り直されているのかと思ったら、案外こじんまりしているので、ああ、お墓だけは、3つの部屋だけで質素に生涯をすごした孔子にふさわしいままに保たれているんだなと、なんだかほっとしました。

 200ヘクタールの広い林の中、木々が静かに立つあいまあいまに、子孫の墓がひとり一つの石碑を建てて点在しています。
 「へぇ~、74代目だってよ。最近の人だな」などと思いながら林の中を散歩したのですが、実は私の歩いたほうと反対側が「明時代の墓」が並んでいる名所でした。

 私はガイドの中国語がわからず、せっかくの名所へいかずにしまったのでした。
 まあ、2500年の歴史のなかでは、明代も現代もたいした違いはないと思うことにしましょう。

 温故知新。ふるきをたずねて新しきを知る。
 現代の墓をたずねて、2500年前をしのぶ。
 うん、たいした違いは、、、、あるかな。
 
http://www.sdta.jp/jp/htdocs/5/b/b.html

<つづく>
06:53 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月09日


ニーハオ春庭「我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし」
207/05/09 水 
ニーハオ春庭中国通信>我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし

 孔家は、系譜がはっきりわかる家柄としては、2500年つづく、世界最古の家柄だといえます。
 古けりゃエライっていうのなら、この世でいちばんエライのは、ピテカントロプスエレクトス。てなもんですが、2500年の間守り続け、伝え続けてきた学問、思想を研究するのは、価値あることです。

 文化大革命時に、各地の中国封建領主の屋敷などの破壊が続き、失われてしまった貴重な文書も少なくありません。
 歴史的な研究対象として、この孔府に残された文書、建築などを調べていくことは、たいへん重要です。

 早稲田大学は、2007年4月、日本で11番目の「孔子学院」を設立し、孔子思想や孔府文化遺産の研究を、北京大学との共同研究として進めていくことを発表しました。
 これから、ますます「東アジア思想のバックボーン」の研究が盛んになっていくことでしょう。

 孔府の中、たくさんの建物があるので、3回くらい、迷子になりかかりました。
 ツアーの添乗員、陳小梅(チンシャオメイ)さんは、ハンドマイクでチャッチャッと中国語で説明すると、客の反応おかまいなしに、ずんずんと先へ進みます。

 私は、中国語の説明を聞いてもまったくわからないので、パンフレットの漢字をたどって、なんとか、これがどんな建物なのかだけでも知ろうとするのですが、そんなことをしていると、たちまち置いてきぼりです。

 わかってもわからなくても、小梅さんハンドマイクでノタマワク「あとは自由見学。15時にここに集合。遅れると、夕ご飯なしだよー」

 自由時間に篆刻(てんこく)の店へ。
 この人もその人も孔子の子孫のひとりって店で、石のはんこに名前を刻んでもらいました。娘と息子のフルネーム。おみやげです。

 石はんこが彫りあがるまでの時間を利用して、孔林門前一周の馬車に乗ってみました。
 観光客相手の馬車。5分もしないで、ぐるっと一回り。これだけで、15元。
 ちょっと高いんじゃないのぉ!15元あったら、ランチ一食分だよ、と、馬に文句を言ってみても、馬の耳に念仏、あ、馬の耳に論語か。

 「し、のたまわく。我十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知り。六十にして耳従う。七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず(のりをこえず)」

 春庭いわく、五十すぎても惑いっぱなし。また、よろしからずや。
 でも、今回、惑いっぱなしでも迷子にはならず、無事夕ご飯を食べることができました。

<曲阜おわり 次回は泰山>
06:37 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月11日


ニーハオ春庭「世界遺産、霊峰泰山登山」
2007/05/11 金
ニーハオ春庭中国通信>世界遺産、霊峰泰山登山

 電車で16時間1360キロを移動しても大平原が広がり、見渡す限りの畑の風景が続いた遼寧省、河北省、山東省。

 このような大平原が広がっている土地であるからこそ、高くそびえる山はいっそう神秘的、霊的な存在として屹立します。

 泰山(タイシャン・たいさん)は、山東省泰安市にある標高1545mの山です。
 石と岩でできている山の光景は自然遺産、宗教施設としての建築群は文化遺産として、ユネスコ世界遺産の「複合遺産」に指定されています。

 中国チベット高原からチョモランマ(エベレスト)山の方向を見上げれば7000m8000m級が連なっていますから、それに比べれば標高はそれほどではないように思えます。
 しかし、ほぼ海抜0mの大平原の中に立つ1545mは、平原の人々の尊敬の念を集めるにふさわしい偉容を示しています。

 泰山は、道教の聖地である五つの山(=五岳)のひとつとして、崇敬の対象となってきました。
 南岳の衡山、西岳の華山、北岳の恒山、中岳の嵩山を合わせた「五岳」のなかで、東岳の泰山は、「天下第一の山」と呼ばれ、五岳筆頭の山とされています。

 漢の武帝が泰山を見て、「壮大、崇高、壮観、絶景、圧巻、降参!」と叫んだという伝説があるのもうなずける、五岳独尊、五岳の中でもっとも尊い山とされるのが泰山です。
 泰山の中には、武帝が建てたと伝えられる、無字碑という碑面が無地の碑文や、摩崖碑と呼ばれる玄宗皇帝が彫らせた封禅の碑文をはじめ、各時代の皇帝がたてた碑が数多く残されています。

 中国大平原に覇をもとめて疾駆した覇者たちにとって、覇権を得たのち、自らの権力を実感するために必要だったこと。「高いところから自分の権力の及ぶ土地をながめ、山の神の力を身に帯びること」
 はじめて中国全土統一を成し遂げた秦の始皇帝も、紀元前219年、中国統一を成し遂げると泰山に詣でました。以来、清朝の皇帝まで、皇帝就任の儀礼が泰山で行われたのです。
 「泰山安んずれば、四海皆安泰」といわれ、古来から、歴代皇帝たちは、この泰山で皇帝就任の儀式「封禅の儀」を行ってきました

孔子も泰山に詣でました。
 「登泰山而小天下(高い泰山に登れば世界が小さく見えるの意)」という名句を残し、現在、泰山一天門前には「孔子登臨処」の記念碑があります。

 信仰の山として、泰山は、東嶽大帝(泰山府君)と碧霞元君(泰山娘娘)を祭っています。
 宋代からあと、出産にご利益がある碧霞元君の人気が上がりはじめ、麓の東嶽大帝より、山頂にある碧霞元君への参詣が盛んになりました。
 子孫繁栄を願うのは、現代の中国の人も同じこと。ご利益求めて善男善女、山頂をめざします。

 日本で「一生に一度は富士山に登ってみたい」と、言われるように、中国の人々は「一生に一度は泰山に登りたい」と願っているそうで、登山熱は高まる一方です。

 私が登った5月3日も、ラッシュアワーかと思うほど、ぎっしりと人があふれていました。
 さて、「登山」というと、どんな光景を思い浮かべますか。

 中国語と日本語、単語は同じでも意味が異なることば、たとえば、「手紙」は日本語では「文章を通信のために書いたもの」中国語では、「トイレットペーパー」。「汽車」は、日本語では「蒸気機関車を先頭にした列車」。中国語では「自動車」
 このように、はっきり意味がことなる単語なら、中国語と日本語は同じ漢字を使っていても、違うのだ、と認識できます。

 しかし「登山」は、日本語でも中国語でも「山に登ること」
 まったく同じことばだと思っていました。しかし、実際に中国の山に登ってみて、人々がイメージする「登山」がこれほど違うのだと、はじめてわかりました。 
 
http://www.arachina.com/heritage/taishan/index.htm

<つづく>
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2007年05月12日


ニーハオ春庭「泰山登山は階段登り」
2007/05/12 土
ニーハオ春庭中国通信>泰山登山は階段登り

 5月3日。薄曇りで、直射日光にさらされることもなく、登山には最適な天気。
7時朝食、8時に済南のホテルを出発。9時に泰安市着。
 麓の登山口、一天門から登ってみたかったのですが、山の中腹にある中天門行きのバス乗り場のほうへ連れて行かれました。ツアー客は自由がきかない。

 バスで中天門まで、山道を登っていきます。
 この山道、私には群馬や長野の山で見慣れた光景です。
 でも、6時間走っても7時間走ってもただ平原が続く土地からやってきた客には、「いろは坂」のようなくねくね曲がる山道を登っていくのは、ジェットコースターに乗っているような、非日常の光景に見えるのだろうと思います。

 バスを中天門で降りたあとは、ひたすら石段を登っていくことになります。
 同行のジョウさん(22歳の女子大生)が教えてくれたこと。
 「中国の山は、全部が石でできています。中国で登山というのは、この泰山と同じように、石の階段を登っていくことです」

 別ルートで、山頂までロープウェイが往復しています。
 上りは自分の足で行き、下りは疲れるだろうからロープウェイを利用する。こんな計画で登りはじめました。

 11時、階段登りスタート。山のほうに合わせた階段だから、人間工学を無視していて、急勾配が続いたり、一段一段の高さがちがっていたり、石段の幅が違っていたり、疲れることおびただしい。

 ふもとの登山口一天門から山頂まで、全6293段の階段があります。
 一天門から中天門までで半分終わり、中天門から頂上の南天門まで、残り3000段ほどになっているはずですが、登るにつれ足があがらなくなってきました。

 泰山山頂をめざす善男善女、私より白髪しわしわのおじいさんおばあさんもいるからとがんばって登り続けたのですが、おっと、しまった、この素朴な顔つきのじいちゃんばあちゃんたち、白髪だからと侮ってはいけない。農村のじいちゃんばあちゃんは、「ちょっとそこまで」と出かけて、10キロさき20キロ先まで歩くなんぞ朝飯前の人々だった。

 私、歩くことは嫌いじゃないけれど、階段は大嫌い。2階へ行くにもエスカレーターエレベーターを利用したくなる私には、石段登山はちょっと無謀でした。

 周囲の人たち、もくもくと階段を登っていきます。じゃれながら登る若い二人連れ、にぎやかに食べながら話しながら上っていく家族連れ。

 息子が親孝行として泰山登山に老母を連れてきたとおぼしき二人連れ。息子の指示で老母がポーズを取り、息子は一生懸命シャッターを押している。
 母親は、こうして有名な泰山に登れて土産話ができたこと以上に、息子が電車代やらカメラ代やら払える余裕ができて、親孝行してくれることがうれしいのでしょう。しわしわの顔いっぱいの笑顔。

 天をいただく山頂まで、階段が果てしなく続いています。
 中国の「登山」とは、はてもなくきりもなく、ひたすら階段を登り続けることだった。
 日本の「登山」を思い描いて、山道を登るつもりだった私、「登山」のイメージがまったく異なることを知りました。

http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cards332.html

<つづく>
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2007年05月14日


ニーハオ春庭「東京タワーに10回のぼって泰山登山」
2007/05/14 月
ニーハオ春庭中国通信>東京タワーに10回のぼって泰山登山

 休み休み登っていきましたが、山頂まであと1時間という対松亭まできました。
 小休憩のあと、ジョウさんが、「あと山頂まで1時間くらいでつきます。山頂の南天門からロープウェイで降りることができます。
 でも、ロープウェイは、今日はとても混んでいて、1時間くらい待つかもしれない。そうすると集合時間の15時に間に合わなくなります。登るのも1時間。さっきの中天門まで下って戻るのも1時間」と、いいます。

 中天門から1時間半、階段を登り続けて、12時半になっています。
 せっかく来たのだから、山頂をめざしたい。でも、間に合わなくなったら、同行ツアー客に迷惑をかけてしまうことになる。さて、どうしよう。
 足もあがらなくなってきたし、あきらめるか。
 山頂まであと千段の階段。

 私は、若い頃、土日ごとに群馬県長野県の山に登って休日をすごした、「山女」でしたから、1545mの山を登るということにそれほど心配はしていませんでした。
 でも、それは、日本のように土でできている山の、斜面にそってくねくねとつづく山道や、尾根伝いの登山道を登ることを想像してのことでした。

 ほとんどが火山の噴火によって成立し、土が堆積している日本の山と、全山が石でできている中国平原の中の山。山の質が違っていました。

 「中国の登山とは、石の階段をひたすら上っていくこと」だということ、一歩一歩ふみしめながら登っていきました。

http://www.chn-consulate-fukuoka.or.jp/jpn/zgbk/sjwhyc/t64523.htm

 ふもとから山頂までひたすら石の階段、階段、、坂道、また階段、、、、、。6293段の階段。
 6293段を登るのに、およそ6~7時間。
 
 ちなみに、東京タワー(333m)の展望台223mまでを階段で登ると約600段。15分くらいで展望台まで上れるそうです。しかし、東京タワーを10回のぼっても、泰山山頂には届かない。
 また、階段の幅や高さがそろっていて、登りやすく設計されている東京タワーの階段と、高さも幅もばらばらな山の石段を登るのでは、疲れ方がちがいます。

 しかも、登りもくだりもびっしりラッシュアワーなみに人が混みあって登り、だれかがこけたら、ドミノ倒しがおきそうな様相。

 私が登り始めた中天門からだと、2000段くらいは登ったことになるのですが、あと1000段は、とても足が持ちそうにありませんでした。膝がガクガク。

 人が1時間ほどで登るという千段の階段を、2時間くらいかけて、ゆっくり休み休み登っていけば、山頂までいけるでしょう。

 しかし、この人出から予想すると、下りロープウェイに乗るのに、かなり長い列ができていて並ばなければならない。これを考えると、ゆっくりとは登っていられません。無理がきく年齢じゃありませんから、涙をのんであきらめることにしました。

<つづく>
21:14 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年05月15日


ニーハオ春庭「泰山登山修行中」
2007/05/15 火
ニーハオ春庭中国通信>泰山登山修行中バス待機2時間半も修行のひとつ

 山頂に立つことをあきらめて下っていくと、ツアー同行者の何人かとすれ違いました。予定通りに山頂を目指すというのです。
 「えっ、大丈夫なの?間に合わなくなるよ」
 「下りはロープウェイにするから、だいじょうぶ」

 そのロープウェイに乗るのに、このように混みこみの日は、東京ディズニーランドなみに60分待ち、90分待ちになるのではないかと予想して、集合時間に間に合わないからとあきらめることにしたのに、、、、、、
 彼らは悠々登っていきました。

 集合時間は15時。
 15時15分前、一番先に私とジョウさんが戻りました。他の客もバラバラと戻ってきました。全員がそろうまで、ツアーバスの中で待機。

 それから、、、、、。山頂をめざした人たちが戻るまで、延々2時間半、バスのなかで待たされたのです。
 15時の集合時間から、待つこと2時間半。17時半に、全員が戻りました。

 遅れた人たち、悪びれもせず戻ってきて、待っていた他の客に何のことばもなく、山頂登頂を果たした満足そうな顔で座席におさまりました。

 自分たちがツアーの当初の目的である泰山山頂をめざしたのは、当然のことである。予定通り山頂をめざしただけのことであり、下りのロープウェイが混んでいて待たされたのは、自分たちのせいではない。
 混んでいて待たされたのが自分たちの責任ではない以上、何の落ち度もなく、「すみません」などと言う必要はない、これが中国式の考え方。

 中国語で「対不起トイブチー」というのは、辞書には「Excuse me」「すみません」となっていますが、日本語の「すみません」と意味が異なります。
 「全面的に私が悪いことを認め、弁償もいたします」という意味になるので、やたらに使ってはいけない、と教えられてはいたのですが、、、、

 利害関係が発生していないとき、たとえば肩先がちょっと触れた、というような時は「対不起」と言ってもよいが、利害関係が発生しそうなときは、決して「対不起」と言ってはいけない。
 人混みで隣の人の靴を踏んづけて「対不起」と言ったら、靴磨き代と足の治療代を請求された、とか、、、、

 こんなとき、ひとこと「遅れてすみません」と言える日本式謝罪文化との違いを実感しました。
 添乗員の説明もいっさいなかった。

 バスの中で待っている間、ちょこっと昼寝もしたし、中国日本の「謝罪」意識の違いもわかったし。
 待たされたことに他の客は文句を言っていないのに、ツアー中たったひとりの日本人が文句言ったら角も立つだろうと、立った腹を寝かせました。なんといっても、中国語で文句言えないし、、、、。

 「待たされた他の客は、ほんとに腹を立てていないのか」と聞いたら、ジョウさんは「中国では、1時間2時間待つことは、よくあることだけど、今回のことでは、みんなこっそり文句を言っています」とのことでしたけどね。

 子孫繁栄、子宝安産にご利益があるという山頂の碧霞元君にお参りできなかったのは残念でしたが、一応、「世界遺産の山、泰山に登った」ということにしておきたいと思います。

 ツアーの客たち、集合時間に遅れた人に表だって文句もいわないようにして、皆なごやかに仲良くすごすようしていました。適度な距離を保ちつつ、旅行の間は「つかのまの仲間」として、いっしょにトランプしたり、おやつを分け合ったり。

 ツアー参加者の中で、最年長(おそらく)の私は、最年少の5歳くらいの坊やと仲良しになり、「じゃんけん」をして遊びました。坊やは「勝った!負けた!」と楽しそうでした。

 2時間半の待ち時間には参ったけれど、無念無想で待つのも、禅だか儒教だか道教だかの修行のひとつと思えば、全体としては楽しい旅になった「山東省世界遺産ツアー」でした。

<山東省世界遺産の旅おわり>



2007/05/17 木
ニーハオ春庭中国通信>中国語のセンセイ

 私は「日本の大学院博士課程で研究する中国の大学教師たち」の日本語教育を担当しています。
 このコースは、大学とは別組織で、中国教育部(日本の文部科学省にあたる)直属の組織です。いわば、文部科学省研修所みたいな部署。

 ですから、日頃は、大学の学部で日本語を学んでいる学生との交流はほとんどありません。
 唯一交流があるのは、学部日本語学科の学生のうち、6名を募集して、3月から中国で暮らす私たち日本人教師同僚6名が、ひとりひとり「中国語家庭教師」をお願いしていることです。

 今回は、日本語学専攻の大学院生ひとり、10月から大学院への進学がきまっている4年生ひとり、あと4人は学部3年生が決まりました。

 中国語を教えてもらう、ということで家庭教師代をお支払いしているのですが、実は、日本語学科学生にとっては、貴重な「日本語ネイティブの大人と話をする機会」ができることでもあります。

 私の場合、週1回90分という中国語練習の時間のうち、半分くらいは「日本語のおしゃべり」になっており、日本の古典文学について教えたり、日本の歴史や文化について話したり。

 他の先生方も「日本語文法の問題を解説してあげたら、今日は家庭教師代いりませんって学生が言うのだけど、まあ、そういうわけにもいかず、約束の金額は支払いました」なんて様子で、中国語と日本語の交換教授みたいになっています。

 中国の家庭教師。大学生が中学生や小学生の勉強をみてあげるときは、1時間10~15元(150~200円)程度の謝金です。
 私たちは、その3倍の1時間30元をお支払いすることにしています。

 大学新卒の初任給が1ヶ月1000~2000元(1万5千円~3万円)くらい。一日8時間の労働で月20日働くと、時給換算にすれば6~15元くらいのものですから、大学生のアルバイトとしては、1時間30元は高給になります。

 私は、中国物価に合わせて家庭教師代を支払うべきであり、学生のうちに標準より高い水準のお金を手に入れることは彼らのためにならない、と主張しましたが、日本の物価感覚で生活しようとする他の先生たちの「いやあ、1時間30元(450円)なんて、安いですよねぇ」という意見に押し切られました。
 なんだか私一人が「ケチ」という印象を残しただけで、「統一価格」に応じることになりました。

 日本語学科の学生たち「生の日本語」を話す機会があまりありません。キャンパス内には、中国語を学ぶために留学してきた日本人学生がいるので、若者同士の会話は日本人留学生とできます。しかし「日本の大人」と日常会話をする機会は、少ない。

 大学日本語学科には、日本人の先生もいますが、中国の学生は教師に対して「父母の恩にもまさる師の恩」的な接し方をしつけられているので、自分が教わっている日本人の教師とは、日本語学習の話はするけれど、「どこそこのラーメンがうまい」というような会話をすることはあまりありません。

 私たちにとっては、日本語を話せる人から中国語を個人教授してもらえる。日本語学科学生にとっては、「日本語を教えている日本人と、いろいろな話ができるチャンス」でもあります。

<つづく>

05:14 コメント(5) 編集 ページのトップへ
2007年05月18日


ニーハオ春庭「母の日の香石竹」
2007/05/18
ニーハオ春庭中国通信>母の日の香石竹

 泰山登山に同行してもらった女子大生ジョウさん。日本語学科の3年生。私の「中国語家庭教師」です。
 中国式の「数え年」で22歳。満年齢では21歳、まだあどけなさが抜けない顔立ちの、かわいいお嬢さんです。

 私の宿舎のすぐ近くに両親の住む自宅があります。
 師範大学付属中学高校と進んできて、師範大学日本語学科に進学しました。
 外国語学部日本語学科は、本部キャンパスにあり、私が通勤する郊外の浄月キャンパスと別のところ。

 両親の家から大学まで歩いても20分くらいなのですから、日本なら自宅通学するところですが、勉学の時間確保のために、あえて大学内の寮に入っています。
「少しでも多く勉強の時間をふやしたい」というジョウさん、がんばりやさんです。

 寮の費用は、1年間で600元(9000円)、大学食堂での食費は一食5元(75円)。
 週末には自宅に帰りますが、親元にいるより、寮で友達と励まし合いながら勉強した方が能率がいいという、中国の学生。一生懸命勉学に励むようすがわかります。
 大学にはいってしまえば、勉強よりバイトや遊びの比重が増える日本の大学生に比べるとずいぶん違います。

 ジョウさんは、「本当は英語学科に進学したかったのだけれど、英語学科は一番人気で、私は成績が足りなかったから、第二希望の日本語学科になったんです」と正直に告白。

 東北地方は中国で一番日本語教育が盛んな地域で、日本語を学ぶ人が大勢いるため、日系企業へ就職するに際しても競争が激しくて、なかなか思い通りの就職はできない。
 日系企業に就職できたとき、日本語能力試験1級をとっている人といない人は、一ヶ月の給与が500元以上差がつくそうです。

 ジョウさんは、すでに去年日本語能力試験1級に合格しています。それで、最初の目標であった英語を学ぶために、土日には大学外のダブルスクールとして、英語学校へも通っている、といいます。

 はじめて会ったのは、市内に春の雪が降ったとき。女子学生というより高校生くらいに見えたので、え、これから中国語教えてもらうの大丈夫かな、と心配になったほどでした。
 1級に合格したといっても、中国の学生が往々にしてそうであるように、文法や語彙はしっかり学んでいるけれど、聴き取りと会話がまだ十分でない。

 私たち日本語教師は、初級中級の学習者と日本語で話すときは、学習レベルに合わせた語彙コントロール文型コントロールをして話します。学習者がまだ習っていないことは、言わないようにするのです。
 1級以上の上級、超上級になると、日本語母語話者と話すときとそれほど変わらない話し方にするのですが、ジョウさんは、最初、私の話し言葉を聞き取れないことがありました。

 これも、学習者がよく言うことですが、「話すときの日本語は、教科書の日本語とまったくちがいます」
 それでも、中国語話者の有利な点。筆談をすればたいていのことは通じる。
 筆談も交えながらの中国語練習がスタートしました。

 一ヶ月たって、お互いに気心もわかってきた今では、中国語練習と日本語おしゃべりが半々になっていますが、まあ、それでもいいのではないかと思っています。
 私の中国語はいっこうに上達しませんが、ジョウさんの日本語会話は、かなりよくなってきました。
 
 明日5月13日は母の日、という前日12日の夜、ジョウさんは香石竹(シャンシーツォー=カーネーション)の花束と、チーズケーキを宿舎にもってきてくれました。

 毎年母の日に作ってもらっていた、私の娘が手作りするチーズケーキ。世界で一番おいしいと思う、大好きな味です。
 けれど、今年は食べることができないので、ちょっと寂しい、と、何かのおしゃべりのついでに話したことを覚えていて、「味道85」というこのへんではちょっと高級なパン屋さんのチーズケーキを選んでくれたのです。

 「いつもいろいろ教えていただいているので、私の感謝の気持ちです」というメッセージもじょうずに言えました。
 お母さんへのプレゼントのついでだったかもしれないけれど、母の日に娘息子と離れて暮らす私を思いやって花束を届けてくれた気遣いを、とてもうれしく思いました。

 う~ん、これではますます、中国語会話練習より日本語会話練習が増えてしまうかも。
 
<おわり>



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ニーハオ春庭中国日記「2007年3月4月」

2011-09-18 11:32:00 | 日記
ニーハオ春庭「半皿餃子」
2007/03/24
ニーハオ春庭中国通信>半皿餃子

 中国、東北地方にやってきて、1週間。

 18日の夕方に着任して、ようやく休日になり、おちついてパソコンにむかえます。

 中国は、日本の60年代から現在までの発展の過程を、この十数年で駆け足で一気に発展したと聞いていましたが、ほんとうにそうです。

 13年前に半年暮らした同じ町ですが、町並みもすっかり変わり、浦島太郎気分です。
町は高層ビルが増え、車が激増しています。

 私が暮らす省都の町は、300万人都市の活気にあふれています。東京の23区にあたる中心の区部の人口は300万人ですが、郊外の区部以外も含めれば、人口600万人もの大都市です。

 地上3階地下1階の大型スーパーマーケットをひとめぐりすれば、たいていのものは手に入ります。
 人々の服装もおしゃれになって、若い娘たちは、「時装」のチェックをおこたりません。

 13年前は、政府幹部やトップビジネスマンだけが使っていた携帯電話を、町歩く人々が手にして、話をしています。

 ネット事情も、日本と変わりなく通信できるのですが、私の居室の通信速度はとても遅いので、ネットサーフィン閲覧だけで、書き込みや足跡つけをする余裕はありません。

 でも、手紙でも電話でも連絡がたいへんだった13年前に比べれば、快適に家族とも連絡がとれ、通信技術の発達のありがたさを実感しています。

 中国通信事情で、事前にきいていたことなのですが、ウィキペディアなど、「自由に情報を書き込んだり閲覧したりするサイトは見ることができない」というのは、ほんとうでした。

 「ガセネタ」まじりを承知のうえで、ちょっとした調べものに、ウィキペディアを重宝に利用していたので、「情報に制限がある」というのは、ちょっとショック。

 仕事は、想像以上にハードで、休日以外に日記書き込みをするのは無理みたい。
(というと、毎日更新していた日本での生活がよほど暇だったみたいですが、ま、気持ちの余裕の問題ということで)

 中華料理はもちろん美味しいですが、大盛りの皿でしか注文できないので、ひとりでふらりと食べ歩きしたい私には不便です。ひとりで行けるマクドナルドもケンタッキーもありますが、何も中国まできてハンバーガー食べなくてもいい、、、

 ひとりで入店し、水餃子を注文したとき「一皿か」と小姐(シャオジェ)が聞いてきたので、ためしに「半皿」と答えました。
 おおぶりの餃子が30個くらいでてきました。一皿にしなくてよかったです。
 日本で焼き餃子30個を15分で完食した記録を持つ私ですが、そんなに毎日30個完食するわけではなく、、、

 太りそうです。
10:59 コメント(16) 編集 ページのトップへ
2007年03月31日


ニーハオ春庭 ドアなしトイレは自由か不自由か
2007/03/31
ニーハオ春庭>ドアなしトイレは自由か不自由か

 日本では桜が満開なんでしょうね。
 こちらは昼は暖かくなってきて、川や池の氷が溶けてきました。しかし、日が落ちると、まだまだ冷えます。

 3月24日には、春の名物、黄砂が吹き荒れ、砂埃で息が苦しかった。
 25日には、春の淡雪。日本では「狐の嫁入り」という「日がさしているのに雨がふる」天気がありますが、この春の淡雪では、「日がさしているのに雪がふる」という現象をはじめてみました。「風花」とも違う雰囲気です。日が明るい中を、大きなぼた雪が降っていました。

 部屋のなかは集中暖房で、半袖シャツ一枚ですごせますが、外との温度差が大きいので、外出時には、まだダウンコートをきています。
 もっとも、私のような厚手ダウンコートはもう町ではみかけなくなっています。
 若い人は厚ぼったいコートなど早々と脱ぎ捨てて、春めいた服装になっているのですが、若くない私は、寒さ対策第一主義です。

 13年前と大きく変わった街のなかをあちこち見物したかったのですが、この1週間は、大学と専家楼(招待所=外国人専門家宿舎)をバスで往復するだけで、街歩きもできませんでした。

 以前と変わったことのひとつ、街の中心地の大通りの名前が、斯大林大街(スターリン大街)から人民大街に変わっていました。(その昔ラストエンペラーがいた頃は大同大街と呼ばれていた通りです)

 大通りは車がぎっしりです。
 トヨタと中国第一汽車集団公司の合弁会社が設立されている市なので、町中で見かける車はトヨタ系列が多いですが、外車も多いです。
 合弁会社では、プリウスとトヨタランドクルーザーを生産しているそうです。

 大きい工場がつぎつぎとできて雇用が増え、近隣の人々の生活がとても豊かになっていることが、スーパーの品揃えでもわかります。
 まだまだ農村全部が豊かになっているのではない中国ですが、町の人々の生活は、飛躍的に向上しています。

 同時に、水や空気の環境が悪くなったことを、皆が指摘します。
 ベンツやトヨタレクサスなどの高級車が我が物顔で往来する大通りのわきの路地で、ロバがひく荷車を見かけました。
 さすがに町中では少なくなっているのでしょうが、農村から野菜や果物を運ぶにはまだ現役で活躍しているロバも残っているようです。無公害のロバくん、がんばって!

 昔と変わっていないのが残っているんだなあと、感慨にふけったことのひとつが、ドアなしトイレ。
 スーパーのトイレ。入り口にはドアがありますが、個室のドアがありませんでした。
 掃除人兼用と思いますが、監視人がトイレのなかへの商品持ち込みに目をひからせています。

 スーパーでも、大型書店でも、入り口に手荷物預かり所があって、大型バッグは、ここに預けなければなりません。中型バッグは、大袋をわたされて中にしまわなければなりません。袋はパッチ止めされて、レジの精算がすむまであけられないようになっています。

 買い物のたびにバッグをいちいち袋にいれること、私たちには不自由にも思えますが、いつでもどこでも監視カメラにさらされている私たちのほうが、ほんとうは不自由な社会に生きているのでしょうね。

 パソコンやケータイの通信記録、クレジットでの買い物記録、健康保険利用記録など、すべての記録を一括管理されるなら、私たちは、生まれてから死ぬまでの一生をすべて記録され管理されるかもしれないのですから。

 私の住む招待所は、人民大街と自由大路の交差点近くです。(地図の縦方向に走るのが大街、横方向の通りは大路)
 自由大路を自由に闊歩できる社会がいいです。
 さて、週末の自由な街歩きに出かけくるとしましょうか。


2007/4/6
鉄鍋うどん高いか安いか

 4月4日、朝から一日中、雪が降ったりやんだりでした。
 あたり一面の雪景色。溶けかかった川の上に雪がかぶさり、白い帯が流れていくようでした。でも、さすがに4月、つもることはなく、翌朝には全部融けていました。
 つづいて東京でも雪になったというので、やっぱり天気は西から東へ移っていくんだなあと思いました。

 久しぶりの中国、変わったこと変わらないことたくさんある中、変わらないのは中華料理のおいしさです。
 変わったのは、街のなかにレストランが増えたこと、外食を楽しむ人が増えたこと。おいしいものを食べて食を楽しもうとする人が多くなりました。
 日本では中華料理というと、四川料理北京料理が代表的ですが、広い中国、各地の名物料理の店がいろいろあります。

 招待所の近所にもレストラン街ができ、さまざまな料理店があります。このあたりにたくさん住んでいる朝鮮族の名物、狗肉料理の店、ウィグル族(回族)のイスラム料理の店。
 そのほか、中国各地の料理、庶民の気軽な店あり、四つ星の喜来登大飯店(シェラトンホテル)レストランあり。(シェラトンにはまだ入ってみていませんが)

 4日の夜は、雪の中を歩いて、鍋うどんを食べに行って来ました。中国の南方、チベットやベトナム・カンボジアに近い雲南地方の名物だという鉄鍋うどん。
 うどんといっても、米の粉でつくるミィェンシン(米繊)という緬です。ビーフンより太くて、見た目はうどんです。

 客はまず、具を選んで注文します。雲南地方独特の野菜という酸菜(サンツァイ)という菜っぱや、うずらの卵、豆腐、もやしなど、うどんとセットの具のほかに、エビ、鶏肉、牛肉、海鮮団子などからお好みの具を選べます。一人前10元(約150円)だと1種類、15元だと2種類の具が選べます。

 汁は「清湯」「微辛」など、お好みの味を選びます。私は辛いのがだめだから、「清湯」で。よくだしがきいたスープです。
 日本の鍋焼きうどん一人前の大きさを想像していると、でてくる鉄鍋の大きさにびっくりします。

 待つことしばし。服務員(フームユェン)が、セットの具の皿と熱した鍋に熱々の汁をいれて運んできます。お好みの具は小皿に入っています。
 服務員が鍋に具をチャッチャと放り込み、さいごにミィェンシンをドボンと入れて、料理はできあがり。あとは客が自分でうどんと具をかきまぜます。かき混ぜているうちに、具が煮えてきます。テーブルではまったく火をつかわないのに、鍋の熱だけで、ほどよく具に火が通ります。

 ふたりで食べるなら、ひとつの鍋で、緬を二人前にすることもできます。40元(約600円)なら、緬二人前に7種類の具が入ります。友達同士、恋人同士でひとつの鍋からうどんをすくいあって食べられます。
 ふたりで食べて40元、さて、このうどんの値段は、高いか安いか。

 中国の物価、高いとも言えるし安いともいえます。
 ものの値段、衣服、靴、電化製品などは、日本の値段とそう変わりません。日本で3000円くらいのジーンズを買おうとすれば、こちらでも200元くらいの値段です。
 15万円のパソコンなら、1万元。

 安いのは、人件費と農産畜産物海産物などの食材。したがって、レストランでの外食は日本よりずっと安い。
 
 日本の社員食堂にあたるような、招待所食堂のランチ。日替わり6種類の中華おかずの中から3種類を選び、ご飯とスープ突き出し野菜がついて5元(75円)です。(大学学生食堂のランチは形式は同じで3元(45円))
 食生活だけを考えるなら、一ヶ月1万円あれば、外食だけでも十分においしいものが食べていける。

 人件費は、大学新卒初任月給が1000元(1万5千円)から2000元(3万円)ほど。
 したがって、大学新卒者が1万元のパソコンを買おうと思ったら、数ヶ月分は給料を貯めなければなりません。

 考え方にもよりますが、ふたりで食べて40元のうどんは、普段の食生活からみると、「プチ贅沢」なのかもしれません。
 雪の日にちょっと奮発して、ふたりであったかいもの食べるっていうには、ちょうどいいのかな。店はけっこう混んでいました。

 私も、また食べにいくつもりです。残念なのは、二人でいっしょにうどんをすすってあたたまりたい相手がいないってことですけど、ま、ひとりで熱々をすすります
08:06 コメント(8) 編集 ページのトップへ
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2007年04月08日


ニーハオ春庭「鑑真東渡」
2007/04/08 
中国テレビ事情>鑑真東渡

 東京都知事選、現職続投ですね。
 私の1票が無駄になったせいでもないだろうけれど、私としては東京を変えてほしかった。

 ネットやBSのおかげで、日本のニュースもリアルタイムで手に入ります。
 仕事場のテレビにはBSが入っているのですが、宿舎のテレビにはBSがなく、中国のテレビを見ています。
 ケーブルテレビと思いますが、1チャンネルから50チャンネルまであり、広い中国各地の放映を見ることができて、おもしろいです。

 「歌と踊り晩会」「中国語を話す外国人による芸能大会」の気軽なものから、ニュース、スポーツ中継、クイズ番組、料理、健康相談、映画、ドラマ、、、、

 チベット自治区に近い青海(チンハイ)省制作の歴史ドラマなど、字幕がなければ、他の地方の人にはことばがわからないと思います。青海地方の踊りの番組、女性たちは美しい民族衣装のスカートをはき、頭には座布団のような大きな頭巾をつけています。

 重慶テレビや四川省のテレビでは、繰り返し「西遊記」を放送しています。三蔵法師はふくよかな風貌の男性。孫悟空は猿そのものの顔、猪八戒は豚顔の特殊メークをしています。

 テレビ番組の発音を聞き取ることなんてまだまだ無理ですが、中国のドラマ放映や地方放送の場合、方言の差が大きいこともあり、中国語標準語の字幕が画面に出ます。中国語がわからなくても、字幕の文字を追っていけば、インタビューやドラマのせりふ内容がおおよそわかってきます。

 漢字文化圏とひとくくりにすることに批判もありますが、テレビを見ている限りでは漢字が表意文字であることのありがたさを実感しています。
 
 中国共産党中央宣伝部が、11日からの温家宝首相の日本訪問に合わせ、日本について積極的に報道するよう促す通達を国内報道機関に出した、ということで、日本関連の放映報道が多くなっています。

 今夜、4月8日夜の中央電視台は、1時間にわたって、安倍首相特集を放映。
 中国トップキャスターによるインタビューのほか、明治維新期からつづく山口県長州閥の歴史、安倍首相の祖父叔父、父親などの家系につながる山口県出身政治家紹介と安倍晋三生い立ちの紹介と、念入りでした。
 小泉前首相の靖国神社参拝の映像も流し、中国への配慮をまったくしなかった小泉氏に比べて、安倍首相が対中国関係を重視している姿勢を見せていることに、好意的な報道内容でした。 

 この「日本への理解を深めるための放映」の一環なのか、中央電視台TV1は、中日友好30周年記念ドラマ「鑑真東渡」を連続放映しています。

 中国で高僧としてあがめられていた鑑真が、日本からの要請を受け、あらゆる妨害や困難を乗り越えて日本の仏教発展のために一身を投げ出すようすを描いています。

 今夜の第十集は、中国の大事な宝である鑑真が、遠い日本へ出国してしまわないように、唐の国策として妨害するようすの続き。日本へいくのを思いとどまらせるために、軟禁状態になっている鑑真の周辺におこる出来事のいくつか。

 日本から遣唐使とともに渡唐し、在唐14年の留学僧も鑑真をとりまく人物のひとりです。唐から鑑真を連れ出そうとした罪により、迫害を受け瀕死の目にあうなど、苦難に耐えています。
 このあと、何度も難破の苦難に遭い、失明の悲劇に遭いながら日本へ到着するまでが放映されるでしょう。

 今のところ、出てくる人がお坊さんばかりで、派手な活劇や美人が画面にあまり出てこないので、中国では視聴率はあがらないのではないかと思いますが、鑑真を演じる俳優が慈愛深そうな風貌で、鑑真びいきの私としては、日本でも放映してほしいと思います。

 大唐国から荒波を乗り越えて日本渡海を果たした鑑真。

 昨今の日本と中国の間には、鑑真が渡った時以上の荒波が起こっていましたが、11日の温首相訪日が両国の間によい方向を開くことを願っています。


22:43 コメント(11) 編集 ページのトップへ
2007年04月14日


ニーハオ春庭「中国テレビ事情続き」
2007/04/14
中国テレビ事情続き

 今日14日、午前中はテレビの「中日友好大型歌会・同一首歌 走迸日本」という歌番組を見てました。久しぶりに日本語の歌を聴きました。

 渋谷のNHKホールで開催されたということですが、日本での放映はあったのでしょうか。 こちらでは、温首相訪日にあわせての放映と思います。

 「千の風になって」を、作曲者である新井満が歌ったり、中国人歌手が中国語で「襟裳岬」や日本語で「さくらさくら」を歌ったり。日本の子供たちと中国4人組の若手共演の「そーらん節」などもありました。
 トリはジュディ・オング(翁倩玉)の「エーゲ海に捧ぐ」と、中国語の詞を書いてくれたというジュディの父親紹介のあと、中国語の「竹田の子守歌」。

 番組のあと、浜崎歩(あゆみを漢字で意味をとって表記している)、谷村新司、栗原小巻のコメントがありました。
 谷村新司は、04年3月に上海音楽学院 教授に就任、05年9月より常任教授となって中国で音楽教育に貢献しているので、日中友好というと、何かと名前がでてきます。

 「昴」は、「北国の春」と並んで、こちらのカラオケの定番で、「中国のオリジナルの歌」と思っている人も多い。日本語の歌詞があると聞いて、「中国語から日本語に翻訳されたのか」と、思っています。

 「日本のアニメとは知らずに、ずっと子供のころドラえもんやドラゴンボールを見ていた」という中国からの留学生が大勢いたので、中国のアニメチャンネルも、ときどき見ています。
 15チャンネルはアニメが中心の子供番組専門。
 15チャンネルで放映中の「ドラゴンボール」を見てちょっとびっくり。

 登場人物の名前が変えられているのは納得。ブルマとかピッコロってのも漢字で表記する。
 ブルマ、亀仙人、餃子、ピッコロなど、でてくるキャラクターは「ドラゴンボール」そのものだけれど、あれれ、微妙に顔や背景の絵柄が日本のアニメと違う。
 これって、日本のドラゴンボールを放映しているんじゃないなあ。中国制作の「そっくりパクリ版」なんじゃないの。
 キャラ設定やストーリーを使う権利を得て中国でアニメ制作しているのか、それとも「勝手にパクリ」なのかわからないのだけれど。
 鳥山明は、こういう形で「微妙にちがうドラゴンボール」が放映されていること、知っているのかなあ。

 現在、アニメ制作では世界有数の制作数を誇っている日本。でも、中国アニメは人件費の安さを武器に猛追してきています。中国アニメおそるべしです。
 中国アニメ制作の中心は上海だと聞いたけれど、マーケットとしても、アニメ制作産業の人材提供地としても、中国はこれから大きくなっていくことでしょう。

 ドラゴンボールの孫悟空ではなくて、西遊記の孫悟空。
 各地の放送局で繰り返し放映されている『西遊記』は、中国中央電視台が80年代に制作したもの。
 孫悟空を演じるのは、六小齢童。孫悟空役者として有名な人なんだそう。これ以上の孫悟空役者はありえない、という評価が高く、20年前の特撮が少々古めかしく感じられるようになっても、リメイクなどはされずに「原作に忠実に映像化され、中国文化の神髄を伝える」と評判の六小齢童子の悟空が繰り返し放送されています。

 日本では、1978年から80年にかけて制作された堺正章孫悟空と、昨年香取慎吾孫悟空の両方とも、三蔵法師は女優さんが演じました。これは、中国の人にとっては「原作を無視している。三蔵法師を女優が演じるなどあり得ない」と、評判が悪いのだって。
 だから、特殊効果などは最新の技術を投入した香取慎吾悟空の映画版「西遊記」も、この夏に完成したとしても、中国では上映放映されることはないみたい。

 テレビ番組、日本に比べて新旧東西の映画がやたらに多くて、週末のテレビ、ザッピングしていると50あるチャンネルのうち半分以上、映画の放映をしています。文革時代に作られたのかと思う「中国の独立万歳」みたいなのもあるし、派手なアクションものも恋愛ドラマ、涙を誘う「母もの」も。

 比較的新しい欧米映画の放映もあります。「悪しき西欧文化」を排除した上で、いろいろな制約をクリアして放映できる欧米映画、どんな内容なら放映が許可になるのか。
 輸入映画、音声は全部中国語吹き替えになって、その上に字幕が出ます。
 先週は、「グリム兄弟」をやっていました。字幕がなかったのですが、日本で見た映画なので、内容はわかるかと見ていましたが、やっぱり字幕がないと、グリム兄弟が話す中国語、よくわからなくて、おもしろくありませんでした。

 14日午後、「白色巨塔(白い巨塔)」を見ました。日本では評判だったのに放送時に見なかった私ですが、中国語吹き替えに字幕つきなので、ちょうど裁判をやっているシーンの回を見ました。石坂浩二演じる東貞蔵が頭を下げていました。
 次回の放送がいつなのかわかりません。連続ドラマ、日本のように「毎週火曜日」「毎日」というような1週間単位でプログラムが組まれる放送の仕方と異なっています。
 夜、一回55分のドラマを3話分続けて放送したり、同じドラマが各地の放送局で日にちをかえて繰り返して放映されたり。
 
 こんなふうに、週末もでかけずにテレビをかけっぱなしにしながら授業案作りをしています。
 こちらの乾燥したほこりっぽい空気にやられたのか、この1週間のどが赤くはれて痛いから、週末も外出もひかえてこもっているんです。
 ものを飲み込むのに、難儀していますが、ま、痛みをこらえながらもしっかり食べていますから、やせることはないでしょう。私の辞書に「痩せる」の文字はない。

 中国語でコカコーラは「可口可楽」と書きます。ダイエットコカコーラは「可口可痩(コカコーショウ)」楽しく口にして痩せるっていう意味になる。

 苦しくとも痛くても口にする私。
 「苦痛口不痩。
17:54 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年04月18日


ニーハオ春庭「未来へ」
2007/04/18
中国学芸会「未来へ」
 
 4月13日夜、勤務校で「学生主催の歓迎会」がありました。
 私が教えている人たちは「日本国文部科学省招聘留学生(日本国費留学生)」に選ばれた、中国各地の大学の若手教師たちです。
 大学院修士課程を修了し、大学で教師として働いている人の中から、優秀な人を厳選して文部科学省が奨学金を出します。
 留学後、日本の大学で博士号を取得することを目的としています。13億人の中から、最高頭脳の持ち主百人が選ばれて、すでに半年間の日本語学習を終えています。
 
 私は、文部科学省派遣講師として、彼らが日本で順調に研究生活をおくるための、基礎日本語を教えます。
 基礎教育終了後に、東大や東工大の先生たちが「専門日本語」を教えます。医学研究、情報処理研究、メディア研究など主として理科系を専攻する学生たちが、専門的な日本語を理解できるようになるまでを、11ヶ月(毎年10月から翌年の8月まで)で行うのです。

 たいへんなハードスケジュールです。
 英語を習う場合に置き換えて考えてみるとわかりやすいかも。ABCの書き方から習いはじめて、1年足らずの間に、英検2級に合格する、という集中プログラムに相当します。

 私がフランス語とかロシア語など、新しいことばを習い始めると考えてみると、11ヶ月で専門的な内容がわかるまでに上達しなさいと言われたら、たちまち挫折してしまいそうです。

 連日の過酷な学習を優秀な頭脳でこなしている学習者たち。書き取り、作文、会話の暗記など、宿題も毎日たっぷりでるし、毎晩遅くまで復習予習をしていると言います。

 そんな過酷な学習生活のなか、一晩のお楽しみ会が開催されました。
 5つのクラスがそれぞれに歌や踊りのだしものを披露しあって楽しむ歓迎学芸会、私たち日本人教師団の歓迎会をかねての、学生主催の会です。

 学生といっても、地元ではそれぞれが大学の教師なのですから、1週間の準備期間ですごい集中力を発揮して、それぞれのクラスがすばらしいだしものを用意しました。

 私が中国人先生とペアで担任になっている2組のだしものは、男性4人の日本語での「昴」合唱と、クラス全員18人に日中の先生を加えた20人での「花(中国では花心)」(喜納昌吉作詞作曲)の合唱。これは一番を中国語で、二番を日本語で歌いました。

 2組学生は、全員「♪花は流れてどこどこいくの~」と日本語の歌詞を暗記して歌詞の紙を見ずに歌ったのに比べて、私は中国語の歌詞をカンニングペーパーにカタカナで書いて歌いました。女性は手に一輪のバラを持って歌う演出だったので、カンペはバラに隠して持つことができ、助かりました。

 また、2組の有志によって、太極拳演武も披露されました。連日の練習成果をみせて、ゆるやかな中に力強い動きを見せる太極拳を上手に演じていました。
 学生たちに太極拳を教えてくださった鄭先生は、教職員にも教える機会を作ってくださるとのことだったので、私もこれから太極拳の練習をはじめたいと思っています。

 日本人教師団6名は、中国語の歌詞がつけられてカラオケ曲の定番になっている歌「未来へ」(女性デュオきろろのヒット曲)を歌いました。

 「未来へ」は中国語では「ホウライ后来」というタイトル。后来は、未来という意味ですが、日本語の歌詞でも「ほうら」と始まるので、音と意味を両方とも表しているいい訳と思います。

 私は歌詞カードに「♪ホウライ ウォツォンサンシュエ~」と、カタカナでふりがなをして、どう聞いても中国語には思われないだろうという発音でしたが、まあ、ご愛嬌。

 未来へ、そして后来へ向かって、日本へ学びに行こうとしている学生たちを励ます歌声になっていたらうれしいのですが。
06:44 コメント(10) 編集 ページのトップへ
2007年04月21日


ニーハオ春庭「四つ足のものは机以外なんでも」
2007/04/21 土
「四つの足のものは机以外なんでも」 

 イスラム文化圏では豚肉を食べない、日本は馬は食べるのに犬は食べない、など、それぞれの文化園にさまざまな食に関する伝統があります。

 私は馬刺が好きなので、日本の教室で「日本では、馬肉を生で食べる」というと「ウェー、気持ち悪い」という反応を受けたりします。
 気持ち悪いと言った学生の国では、蟻や蜂の子、芋虫などの昆虫は貴重なタンパク源だったりしますが、自分の慣れた食材は「ごくふつうの食べ物」であり、食べ慣れていないものは「えっ、そんなもの食べるの?」ということになる。

 そんな世界の食材事情のなかで、中国は別格。
 「空飛ぶものは飛行機以外なんでも、四つの足のものは机以外なんでも食べる」というのが、中華料理です。
 スーパーの食材コーナーでも、広いスペースにあらゆるものが並べられているので、圧倒されます。
 地元のスーパーチェーン店「恒客隆超市」でも、繁華街にアメリカから進出してきた「沃尓王馬(ウォルマート)」でも、大勢のひとがワンサカと多様な食材を買い込んでいます。 町一番の繁華街重慶路にデンとかまえたウォルマート、13年前はありませんでしたが、にぎわっています。

 中国は広いですから、果物も豊富。東北で多く産するリンゴや梨、さんざし。、南方のマンゴー、バナナ、ドリアン、パイナップル。西方で多産されるスイカ。冬でも果物コーナーには大きなスイカが山積みになります。
 内陸地方の町ですが、冷凍空輸が発達した今では、エビも魚も貝もさまざまなものが売られています。

 豚肉コーナーでは、豚足コーナー、豚頭コーナー、豚耳コーナー、豚鼻コーナー。丸い穴がふたつあいた鼻が並んでいるコーナー、見ていると思わずひとつ買ってみたくなりますが、まだ食べたことありません。たいていイージン(一斤=500グラム)単位での売買で、そんなに豚の鼻ばかり山盛りに買う気になれないので。
 かりっと料理された鼻、おいしいという話ですが。
 お総菜コーナー、ほかにも、家鴨の頭がくちばしをこちらにむけて行儀よく並べられているし、鶏の足のお総菜も並んでいます。

 ウォルマートでペキンダックを買ってみました。味見程度で十分なのですが、一羽分か、半分での売買になります。アヒル一羽分だと30元。半分で18元(300円)くらい。
 日本の中華屋さんで食べるときは、ぱりっとした外側の皮を薄餅に包んで食べるだけですが、半羽分のまるごと、骨も頭も入っています。

 皮も肉もおいしかった。頭や骨の部分もきっとおいしく食べる方法があるのだろうけれど、私は半羽分を買ったものの、皮と肉の部分だけ食べて、骨とか頭はどうやって食べたらいいのかわかりませんでした。

 そのほか、これまで食べた食材のなかで、日本では食べないものをご紹介。

 1,狗肉
 犬肉は食用として特別に育てたものだそうです。
 でも、町を歩いている犬を見て、人々は「あいつはウマそう」って、考えたりすることないのかなあ。だって、私が水族館へ行ったとき、鰺や鰯の群が回遊している水槽前で一番に思うことは「おいしそう」ですから。

 朝鮮料理の店で、「狗肉湯」犬肉スープを頼みました。からいスープのほうに気をとられて食べたせいか、肉はくせもなく、おいしくいただきました。

 市場では、しっぽつき犬の下半身がまな板に横たわっていました。じっと見ていたら、包丁もったおばちゃんが「どの部分を買いたいのか」というようなことを聞いてきたのだけれど、「ブーヤオ不要」と、おことわり。さすがに自分で料理する気にはなれない。

 2,鶏のトサカ
 大学食堂のランチにあったので、食べてみました。柔らかく煮込んである。鶏は、トサカも足も大事な食材。一羽の鶏で、足は2本しかないし、トサカはひとつしかないのだから、肉よりも貴重。

 3,蛹
 スーパーの「おそうざいコーナー」に山盛りになっている天蚕のさなぎ。4~5センチくらいで、ひとつずつがたて半分に切ってある。
 名前は、「ジァン(草冠の下に虫)ヨン(蛹)jian yong」という。
 
 一度はどんなものか食べてみようと思っていたんだけど、1斤(500g)が標準の量り売りで、最小売買単位の2両(アーリャン100g)と言って買っても、食べられないと無駄になるかもと思っていたら、宴会の皿にあったので、ひとつつまんで食べてみました。
 唐揚げにしてあって、カリカリして美味しかった。
 
 それで、ゆうべ20日夜は、スーパーおそうざいコーナーで「1両(イーリャン=50グラム)でもいいか」と頼んでみました。一斤(500グラム)40元のさなぎ唐揚げ、他の豚肉や鶏肉のお総菜に比べて高級な食べ物です。
 50グラムといっても、軽い唐揚げなので、どんぶりいっぱい分くらい袋につめられました。4元(60円)。

 家に帰って袋をひらくと、さすがに、蛹のにおいがしました。私が子供のころ、農家だった母の実家が、まだ養蚕をしていたころに嗅いだ蚕のさなぎのにおいです。

 温めて食べたら、蛹っぽい匂いもなくなり、宴会で食べたのと同じで、かりっとしていて、中身は別段、虫っぽくもなく、酒のつまみによさそうでした。

 次は何を食べてみようかな。
 仕事しごとのハードスケジュールの毎日で、スーパーでの買い物のほか、土日も家にこもって翌週の準備。こんなはずじゃなかった、と、ぼやきながら、楽しみは食べることくらい。

 寒い日があったと思うと、春ももうすぐかと思う日差しの日もあります。街路の並木がようやくうっすらと芽吹きの薄緑を帯びてきました。
 こちらでは花も緑も5月から。あと少しで、いっせいに緑と花が見られると思います。 5月半ばには、もう半袖の夏支度。冬服と夏服だけで、春服はほどんど着る時期がない、という気候です。
 あまりに春が短いので、「もっと長い春を望む」という人々の気持ちから町の名前がつけられたのだとか。

 では、私も冬ごもりの蛹から、蝶になれる日を楽しみに。蛹を食べて羽化のパワーをもらった思うことにします。
11:05 コメント(12) 編集 ページのトップへ
2007年04月24日


ニーハオ春庭「一元バス」
2007/04/24 火
市内交通事情>一元バス
 
 赴日留学生に選ばれた学生たち、中国全土から集まってきています。去年の10月までは地元の大学で先生をしていた人たちですから、自分の大学や住んでいる町に強い愛着をもっていて、郷土自慢もなみなみならぬものがあります。

 先週の2分間スピーチで発表したリュウさんは、中国地質大学武漢校の先生。
 「我がキャンパスの桜は、中国で一番美しい」と自慢し、「我が校の有名な卒業生」として、日本訪問の成果をあげた温家宝首相をあげました。
 温首相の次に将来有名になるのは、学長になった未来のリュウさんだ、と言ってクラスメートを笑わせていましたが、本当に学長になるかもね。専攻は「高等教育運営学・大学財政学」どのようにして大学の財政を切り回し、大学を効率的に運営していくのか、日本で研究するそうです。

 2分間日本語で話す、という練習なのですが、パソコンであれこれ大学の写真をみせながら、10分くらい説明していました。
 日本語はまだまだ十分ではない学生でも、聞き手を前に説明を始めると、そこは日頃の仕事で慣れていることなので、止まらなくなってしまうみたい。

 暖かい地方から来ている学生にとって、はじめて体験した東北地方の寒さはなかなか厳しく、こたえたようですが、「ここに来て、はじめてたくさんの雪を見ました」と、北国での体験を積極的に楽しんでいるようすも語ってくれました。

 そんな学生たちが、一様にこの町のいいところとして認めているのが、乗り物料金の安さ。他のどの町と比べても、大幅に安いみたい。
 
 タクシーは初乗り5元(75円)。
 郊外にある勤務地と招待所の往復は、招待所専用の送迎ワゴンバスを利用しますが、仕事で遅くなったりして乗り遅れたときは、タクシーで30分、25元(375円)。

 30分も乗って400円足らずですむのだったら、毎日タクシーでもよさそう、なんて、最初は思いましたが、一食10元~20元あれば食べていける生活に慣れてきたら、タクシー25元はもったいないと感じるようになりました。送迎バスに乗り遅れないようにしています。

 市内公共バスの料金は、一律で一元(15円)。郊外まで行くバスは二元(30円)です。
 市内路線バス、370路線があり、乗り換えをすれば、市内どこでもバスで行けます。
 日本のこぎれいな真新しいバスに比べると、「これで目的地まで壊れずに動くのか」と思うくらい古いものもありますが、座席シートの汚れとかに目をつむるなら、1元で移動できることはありがたい。

 市内での買い物に、バスを利用して感心したことがあります。それは、車内にすわっている若者が、自分より年上の人や小さな子供連れの人が乗ってきたとき、さっと席を立って譲ってくれること。
 日本では、シルバーシートにさえ若者が足を投げ出して座り、席を譲る気などさらさらなさそうなのを見てきたので、ああ、こういうのも、社会習慣と教育によるんだなあと思います。
 昨今の中国では「悪しき拝金主義が横行してきた」と、よく聞かされてきたことですが、年上の人を敬い大事にするという習慣は、まだまだしっかり根付いているように思いました。

 そのほか、旧市街を一周する「軽軌電車」があります。
 スキーやスケート競技で盛り上がった今年2月の第6回アジア冬季競技大会の開催に備えて、昨年の12月に完成したばかりという新らしい鉄道。市内の競技場をつなぐ路線として開通しました。

 高架線路の上を、かわいらしいデザインの2両連結の電車が走っています。勤務しているキャンパスのすぐ近くにも、駅があります。
 今年8月までは、「開業記念、一律2元」の料金ですが、8月以後は距離に応じた料金体系になるそうです。2元のうちに乗ってみることにしましょう。
07:07 コメント(7) 編集 ページのトップへ
2007年04月30日


ニーハオ春庭「一元旅行」
2007/04/30
ミステリーツアー・1元旅行

 宿舎のインターネットがまたまた不通になって1週間。
 毎日毎日「あした(明天ミンティェン)は直る」と言われ続けたのですが、ついに直らず、今日は職場のパソコンからの更新です。

 4月下旬、ようやく市内の花木が咲き出しました。ピンクや白の「花桃」。実はならず花を観賞する種類の桃だそうです。
 ああ、やっと春らしくなってきた、と思う間にも寒い日もあったりしながら、4月末日になると、昨日までは寒々とした裸木だった街路樹、ポプラや柳が、いっせいに萌え出しました。
 今朝の通勤ワゴンバスから見る街路樹は、初々しい若葉が枝を飾っています。

 北国もようやく春です。
 日本はゴールデンウィーク真っ最中、皆さん、おでかけを楽しんでいるところでしょうね。

 週末に遠出もできない「かごの鳥」状態で仕事をつづけてきましたが、買い物に出るついでに、バス停から「とにかく最初に来たバスにのって、終点までいってみる」という「プチおでかけ」をしています。
 新しい町で、どこに行くのかも知らないでバスに乗るのはけっこうドキドキで、ちょっとした「ミステリーツアー」の気分です。

 買い物に出たあと、いつもと違う道筋のバス停から、「どこへ行くのか知らないいバス」に乗り込みました。
 左側通行の中国、運転手席は左側、バス乗車口は車体の右側です。乗車ドアの前に料金投入箱があり、一元を入れます。バスカードを持っている人は、カードリーダーにタッチします。
 若者に譲ってもらった座席の窓から外を眺めながら、ドキドキしながらミステリーツアーの開始。

 紅旗街というこの町第二の繁華街を通りました。買い物帰りの大袋を下げた人々が乗ってきて、バスは満杯になりました。
 「紅旗」というのは、中国の要人が専用車にしていた「高級国産車」の名前です。かっては毛沢東や周恩来が、車の前部に五星紅旗をはためかせて「紅旗」に乗車していたものでした。

 紅旗を生産していたのは、「中国第一汽車製造廠」。
 最大規模の国営企業でしたが、解放改革後はかっての勢いをなくし、一時期は「旧弊な老朽会社」の代名詞のようになっていました。

 ところが、「国営企業」から脱却して、各国との合弁会社を設立すると、見事に息を吹き返しました。フォルクスワーゲンとの合弁会社、トヨタとの合弁会社などに分かれ、昔を上回る大企業に成長しています。略称「イーチー(一汽)」
中国語では、「汽車」は自動車という意味。「火車」が日本語の「汽車」にあたります。

 私だけのミステリーツアーバスは、この地方の医療拠点のひとつ「省人民医院」前を通過。
 大病院だけでなく、町のあちこちにやたらに病院が多い都市です。

 「電影城」前を通過。
 電影城は、映画の撮影所。13年前に一度見物したことがあります。
 戦前には、李香蘭たちが映画を撮影したところです。
 内部は、戦前とはもちろん、13年前とも変わってしまって、昔の面影はないでしょうが、もう一度見物してみようと思っています。 

 外国語学院前を通過すると、あとは10階建てくらいのアパートが続く住宅街になりました。停留所ごとに、乗客はぼつぼつと降りますが、ほとんどの客は下車しません。
 どこへ行くのかわからないけれど、こうして人が大勢いるってことは、それほど郊外まで遠出するバスでもないのでしょう。まあ、とにかく、皆が降りるところまでいってみましょう。

 寛平大路から東風大路へ進むと、あたりのようすが変わりました。このあたりは、第一汽車集団公司の拠点地、経済開発区のひとつです。
 大路の両側は、「第一汽車」設立の小中学校や医院、文化宮(文化センター)。
 会社がひとつの町を形成し、「企業城下町」になっている地帯です。
 愛知県の豊田市が「トヨタ企業城下町」となっているみたいな感じ。

 本社にあたるのか、立派な建物の門前には、毛沢東の筆で「ここに、第一汽車製造工場を設立する。毛沢東」と記された由来記念の石碑がありました。

 終点地は、この第一汽車集団公司の社宅地の中でした。
 毎月の月給で安定した現金収入がある社員たちは、週末になるとバスで繁華街まで出かけていって、デパートや大型スーパーでの買い物、映画やレストランでの外食を楽しんで帰るのでしょう。

 そのおかげで、町のレストランも繁盛し、レストランでの雇用も生まれます。
 先日、出かけたちょっと高級な海鮮レストランに「従業員募集」の掲示がでていました。「服務員、一ヶ月800元(1万2千円)」とあります。レストランの服務員で800元の月給は、高いほうです。そういった雇用も、大会社が地元にあることから生じてくるのでしょうね。

 朝陽区、南関区などの区部(東京の23区にあたる区域)で300万人、郊外の市域(東京の市部にあたる)を含めると700万人にもなるという大都市に発展したこの町の、経済原動力のひとつが、この「第一汽車」合弁会社。

 私の勤務校では、トヨタとの合弁会社で働く「優秀社員」の日本語教育も請け負っています。
 第一汽車の勤務が終わったあと、火・金の夜と土日に日本語の授業を受けている優秀社員に選ばれた人たち。将来会社を背負っていく社員として期待されての選抜なのでしょう。

 来年のオリンピックが中国発展のひとつの目安となっているように、第6回アジア冬季競技大会の開催を成功裏に終わらせた自信が、この町をさらに活気づけていくようです。
 経済発展がよい方向に向くだけではなく、環境問題、農村との格差問題など、さまざまな問題をはらんでいることは確かですが、経済発展と同時に公害問題などに苦しんだ日本ほかの先例を知り、解決策をさぐりながら最大多数の最大幸福をめざしてほしいです。

 ドキドキのミステリーバスツアー、次の路線では、どこへ向かうでしょうか。
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ニーハオ春庭中国日記「目次&出発」

2011-09-12 05:11:00 | 日記
目次

03/17 遠くへいきたい(1)出発(たびだち)は何度あってもいい
03/18 遠くへいきたい(2)行って来ます

03/24 半皿餃子
03/31 ドアなしトイレは自由か不自由か

04/06 鉄鍋うどん高いか安いか
04/08 鑑真東渡
04/14 中国テレビ事情続き
04/18 中国学芸会「未来へ」
04/21 四つの足のものは机以外なんでも
04/24 市内交通事情・1元バス
04/30 ミステリーツアー・1元旅行

05/05 イミテーションゴールデンウィーク
05/06 世界遺産めぐり国内ツアー、畑も野原も畑も野原も畑も、、、、
05/07 しのたまわく曲阜三孔
05/08 孔子の墓で温故知新
05/09 我、十有五にして学に志し、五十にして惑いっぱなし
05/11 世界遺産、霊峰泰山登山
05/12 泰山登山は階段登り
05/14 東京タワーに10回のぼって泰山登山
05/15 泰山登山修行中バス待機2時間半も修行のひとつ

05/17 中国語のセンセイ
05/18 母の日の香石竹

05/19 日本文化祭
05/20 コピークロサギ(海賊版天国について)
05/21 大足シンデレラ(美人の基準について)
05/22 七夕・天の川の鳥
05/23 背中に座布団日本舞踊(イメージの違いについて)

05/24 夏の雪、柳絮

05/25 偽満皇宮(ウェィマンファンゴン)見学・ラストエンペラー
05/27 我が名はエリザベス
05/28 廃后婉容
05/29 帝国の光と闇
05/30 帝国の闇、身ぐるみ脱いですってんてん
05/31 我不是台湾人

06/02 観光コースでない満州

06/03 牡丹アカシア君子蘭(1)
06/04 牡丹アカシア君子蘭(2)

06/05 揚琴、木琴、腹鼓

06/06 二十四式太極拳
06/07 太極拳練習
06/08 太極拳発表会
06/09 太極拳金賞

06/11 綱引き大会

06/13 般若寺と清真寺(1)
06/14 般若寺と清真寺(2)

06/18 朋あり遠方より大連へ
06/19 大連の大学キャンパス見学
06/20 大連で授業
06/21 大連の山と海
06/22 大連海鮮三昧
06/23 大連家庭料理
06/24 大連さくらんぼ
06/25 あんな夢こんな夢いっぱい
06/26 石臼と小公主(1)
06/27 石臼と小公主(2)
06/28 小公主と星に願いを(1)
06/29 小公主と星に願いを(2)
06/30 大連住宅事情

07/02 大連・星海広場の漢白玉華表
07/03 大連マラソン

07/04 1元バスツアー・見知らぬ村へ
07/05 1元バスツアー・村の広場
07/06 1元バスツアー・風呂屋に泊まる
07/09 1元バスツアー・あか抜けた宿泊

07/11 中国的村めぐり
07/12 鍋嶺村
07/13 村の食堂

07/14 伊通河の新立城水庫
07/15 満族の町の床屋
07/16 伊通のオート三輪タクシー

07/17 北朝鮮へ1メートル
07/18 朝鮮族の町、延吉市
07/19 延吉の夜、歌と踊り
07/20 延吉市の民俗園
07/21 延吉の民俗冷麺
07/24 延辺の村と延辺大学

07/26 中国的OFF会

07/27 お仕事完了 
07/28 植物園風レストランで合格祝賀会

07/29 動植物公園・東北虎とニセ縞馬
07/30 農安県合隆鎮
07/31 合隆鎮の旅店

08/01 合隆鎮の串焼き店「魏味佳」
08/03 合隆鎮の串焼き肉と饂飩
08/06 合隆鎮の中学生
08/07 麻辣麺と兎おいしかの山
08/08 中国的家族パーティ、シャンユェの一族
08/09 動物園で性転換して南湖公園
08/11 南湖公園
08/12 長影世紀城3Dムービー
08/13 長影世紀城ヒーローショウ
08/14 夏休みの思い出

08/15 ただいま!

08/16 こつこつ
08/16 帰国報告

08/17 大連でスリに遭遇(1)
08/18 大連でスリに遭遇(2)
08/19 大連でスリに遭遇(3)
08/20 善悪功罪勝敗陰陽、なんでもアリが「地球歩くコツ」

08/21 でこぼこ珍道中in西安
08/22 西安・鐘楼
08/23 西安・城壁
08/24 西安・書院門通り
08/25 西安・道教の寺
08/26 西安・道教寺院門前の青石
08/27 西安・華清池
08/28 西安・秦始皇帝陵
08/29 西安・司馬遷と始皇帝
08/31 西安・兵馬俑博物館

09/02 西安・公共トイレと足浴マッサージ
09/03 西安・おみやげいっぱい
09/04 大連賓館スィート宿泊&ひとり75円の夕食
09/05 大連老虎極地海洋動物館の座席
09/06 大連老虎極地海洋動物館の白鯨ショウ

09/14 北京南苑空港
09/15 北京の鼓楼
09/16 鼓楼近辺・浦安ラーメン
09/17 北京故同めぐり
09/18 北京故同・共同井戸と共同厠所
09/19 北京故同めぐり・四合院
09/20 北京故同めぐり・千竿五号
09/21 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(1)
09/22 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(2)
09/23 「千竿五号 明清老宅」日本語解説(3)
09/24 四合院・宋慶齢故居
09/25 宋慶齢の和服
09/26 宋家の三姉妹
09/27 青い葡萄・ふたりのファーストレディ
09/28 夜の故同
09/29 再見中国、打ち上げ花火横から見るか裏から見るか

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2007/03/17 土
やちまた日記>遠くへ行きたい(1)出発(たびだち)は何度あってもいい

 人生という旅、細い曲がりくねった道を、迷いながら行きつ戻りつしながら、とぼとぼと歩き続けています。
 ときどき、「ああ、毎日の生活をぜんぶほうり出して、どこか遠くへ行きたいなあ」という気になります。

 そんなとき、JRの旅番組の主題歌『遠くへいきたい』がふと口をついてでてきます。
 ♪知らない町を歩いてみたい ど~こか遠くへい~きいたあい♪

 映画『旅の贈り物0:00発』の感想文を、「春庭映画いろいろあらーな2007」にUPしました。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0701a.htm

 週末やゴールデンウィーク夏休みに、人々はつかの間の「遠くへいきたい」願望を満たしに旅に出ます。
 二泊三日の温泉旅行もいいし、1週間の休暇がとれるなら海外へも行ってみたい。
 私も、人並みに「この細々とした日常生活を全部振り落として、ちがう場所で生活してみたい」と、思います。

 思っているけれど、子供のご飯を作り、茶碗をあらい、洗濯物ほして、あっという間に一日はおわり、一週間はすぎ、一年がたってしまう。
 どこへも出かけられないまま、「どこか出かけてみたなあ」と、地図帳を広げます。

 今、私のお気に入りは、昭文社発行の『なるほど知図帳・日本2007』です。大判の地図なので、片手にもって旅行に持って行くには不向きな地図ですが、家でながめているだけで、日本中を知った気分になれるテーマページが充実しています。

 「なるほど知図帳」の奥付に夫の会社の名があります。
 「知図帳2007」をめくれば、息子が校正の仕事を手伝ったページがあります。「テーマ特集」の大半、息子が校正を手伝いました。

 息子は、地理歴史に関して親よりも知識を持っているので、校正にかり出されたのです。
 去年の夏休み、夫の事務所に通って、校正を続けました。アルバイト代はすずめの涙だったようですが。

 「このページ、まちがいだらけで、校正するの、ほんとたいへんだったんだ」と、息子が示すテーマページを開くのは、母にとって、旅行したのと同じくらいワクワクする気分です。

 たとえば、「日本のローカル線」を特集したページや「温泉100選」のページ、「地野菜」「地酒」の特集、「各地の特徴ある動物園・水族館」「絶滅危惧動物」、「鍾乳洞」「日本各地で発掘された恐竜化石」などのページをみていくと、そんなテーマに沿った旅もいいなあ、と思えます。

<つづく>
00:05 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2007年03月18日


ぽかぽか春庭「行ってきます」
2007/03/18 日
やちまた日記>遠くへ行きたい(2)行ってきます

 気分だけでなく、ほんとにどこかへ出かけたいと思っても、「えいやっ」と踏ん切りをつけない限り、仕事を持つ母親が「今とは違う場所で生活する」なんていう機会には、めぐり会えません。

 私も、仕事して、家に帰れば、あけてもくれてもメシをつくり、茶碗を洗い、洗濯して、、、、
 で、「えいやっ」と、踏ん切りをつけてしまいました。
 3月から8月まで、中国で生活します。二度目の海外単身赴任です。

 前回の海外単身赴任では、4歳の息子と9歳の娘を妹一家に託して、背水の陣で家計負担のために出稼ぎをしました。
 今回は息子18歳娘24歳になっているのですから、それぞれが自分の身の振り方はなんとでもするだろうとは思うのですが、、、、。

 13年前と変わらないのは、出稼ぎの理由です。年中「父さんは倒産しそう」の会社経営を続ける夫はあてにせず、家計を支えなければならないってこと。
 夫は「趣味の会社経営」で、妻は「食いブチ稼ぎの出稼ぎ」です。

 後顧のうれいなく単身赴任を選んだわけではありません。
 我が家、娘も息子も、まだ一人前になっていない状態です。
 またまた「きちんと自立するまで子供を育て上げない失格母親」「未成年の子供の世話もしないで、なんていう母親だろう」という非難を受けるかもしれません。

 息子も4月からは大学生。まだ未成年。とはいえ、18歳で親元を離れて暮らす人は大勢いるのですから、母親が毎日ごはん作ってやらなくても、自分でなんとか命つなぐくらいはするだろうとは思ういます。
 でも、うちの場合、起こされて、ごはんを作ってもらい、「ほれほれ」と尻をたたかれない限り、相変わらずのゲーム三昧歴史オタクをつづけるのでしょう。

 「甘やかすな」という非難囂々ふりかかろうとも、仕方ありません。私の育て方がわるうございます。
 私は、「きちんと自立へ向かうように育てなかった母親」ということになるのでしょうね。

 人はそれぞれ。とはいっても、「母親」のありかたをめぐって、厳しい意見を持つ人もいます。成人した子供が何か問題を起こしたのでさえ、母親の育て方に目をむけられます。ちょっとでも人と違う面があれば、ワイドショウコメンテーターはマナジリけっして母親を糾弾する。
 ましてや未成年の子供、きちんと生活できるように育てあげずに、単身赴任していいのか、一人で仕事にでかけても大丈夫か、ずいぶん悩みました。

 結論として。
 私は、とにかく遠くへいきます。家を離れて働いてきます。

 子供が自立して出ていくのを、笑顔で見送るのでなく、まだまだ自立できないでいる娘と息子を家に残して、母親が出稼ぎに行ってしまう家庭、きっといろんな非難がまっているのだろうなあ、と思いつつ、でも、決めました。

 本日、中国へ出発です。
 中国での単身赴任半年の間、更新不定期となります。

 更新できない期間が長くなることもあると思いますが、ご容赦ください。
 では、中国からの更新がうまくいくよう祈りつつ。
 みなさま、お元気で楽しいネットライフをお続け下さい。

<遠くへいきたい おわり>
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