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ニーハオ春庭中国日記「北朝鮮への旅&中国村めぐり」

2011-10-31 06:02:00 | 日記

ニーハオ春庭「北朝鮮へ1メートル 」
2007/07/17 火
ニーハオ春庭中国通信>北朝鮮へ1メートル
 
 ついに、北朝鮮に足を踏み入れました!
 年に一度の逢瀬を果たすのが七夕ですが、2007年の七夕は、私にとって「国境侵犯記念日」となりました。
 
 北朝鮮へ。と、言っても、将軍様と年に一度の逢瀬を果たしたわけではありません。
 国境の町へ旅行し、二つの国を分ける川にかかる橋の真ん中、国境の線が引かれているところまで行ってきた、というだけにすぎませんが。

 国境の線を越えてどこまで入ったら警備兵にしかられるかと思って、実験してみたところ、、、、。
 国境線をまたいで、一足、もう一歩、う~逮捕されたらどうしよう、もう一歩。

 1メートル、国境の外側、北朝鮮側に入ったら、しかられました。
 若い中国の兵士が厳しい顔つきで、アホな国境線侵犯者を制止。きゃっ、こわかった。
 でもこれで、北朝鮮に足を踏み入れたことになった!

 中国側の町は図們市、北朝鮮側の町は南陽市。
 二つの町の間には図們江(朝鮮語では豆満江)が流れています。それほど大きな川ではなく、泳いでも簡単に対岸に着く距離だし、冬に川が凍れば歩いて渡れる。

 南陽市と図們市の間には鉄道も通っているし、私が渡った図們大橋も、車が行き来しています。中国と北朝鮮は国交があるのですから、中国側からパスポートとビザがあれば、入っていけます。
 しかし、脱北者にとっては、図們市は「すぐ目の前の遠い町」。川を渡るのも命がけです。中国側から北朝鮮側へ入るのは、警備兵にどやされるくらいで済みますが、北側から中国側へ1メートルでも入ろうとするのが見つかったら、確実に逮捕。監獄行き。

 私のように、「1メートルだけ、北朝鮮に入った」なんてはしゃぐのは、顰蹙モノでしょう。でも、単純に、知らないところへ足を踏み入れるのは、興味津々で楽しかった。
 橋の上には展望所があり、急な階段を登っていくと、望遠鏡が備えられているテラスに出ます。展望所の入場料は、橋の入場と込みで20元。

 北朝鮮南陽市、望遠鏡からのぞいてみると。
 並んでいる建物は、国境警備にあたる人々の宿舎でしょう。2階建て3階建ての建物。人が外に出ているようすがありません。道は見えますが、人の姿は見えません。車は行き来しているのですが。
 たぶん、中国側の望遠鏡から見られる範囲には、一般の北朝鮮の人は立ち入り禁止になっているのだろうと思うし、警備担当者も、決められた部署以外に道をうろうろしたりできないのでしょう。

 20元は高いから、地元の人は展望所に入ったりしないでしょうが、観光客はけっこうバスでやってきて、皆うれしそうに橋の国境線をまたいで写真を取りあっていました。
 「国境をマタにかけた」と、はしゃぐのは、私だけじゃありません。

 「いっしょに写真撮って」と頼んだら、私をしかった若い警備兵は、「ダメ」と言いました。当然だよね。ほんとずうずうしい日本のおばちゃん、厳格な警備の仕事をなんとこころえているのやら。
 でも、「北朝鮮をバックにして私を写して」と、カメラを渡すと、ちゃんとシャッターを押してくれました。
 「将軍様マンセー!はい、チエズ(茄子)」パチリ。

 橋のたもとにずらりと並んだおみやげ屋。金日成バッチや金正日肖像画も売っています。北朝鮮記念切手アルバムを買いました。15元。

<つづく>
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2007年07月18日


ニーハオ春庭「朝鮮族の町延吉市」
2007/07/18 水
ニーハオ春庭中国通信>朝鮮族の町、延吉市

 図們市内の移動は、自転車の後ろに座席をくっつけた「自転車タクシー」に乗りました。アジアに多いリキシャタクシーです。
 愛知万博でも自転車タクシーが活躍し、「エコロジカルタクシー」として紹介されていたなあ。

 おっちゃんが足ふんばって自転車をこぐ。後ろの座席で風に吹かれながら、ガソリン代いらずの自転車タクシー、体力使う分、食費もかかるだろうから、普通車のタクシーと同一料金なのも、ま、しかたないかと、納得。

 自転車タクシーのおっちゃんに「乗っているところ、いっしょに撮ろう」というと、にこにことOK。いっしょに記念写真を撮りました。

 図們市で北朝鮮国境侵犯をしたあとは、延吉市へバスで移動。72km離れている隣町、高速バスで40分ほど。
 延吉は、延辺朝鮮族自治州の首府です。

 中国には最大民族の漢族約12億人のほか、1億人の少数民族がいます。その中で、朝鮮族は、中国全体で約200万人いますが、そのうち延辺朝鮮族自治州に62万人が集中して住んでいます。延辺だけでみると、朝鮮族が人口の59%、漢族は40%、残りの1%はモンゴル族、満族など。つまり延辺だけでいうと、朝鮮族が最大民族です。

 そのため、町中の看板はほとんど漢字とハングル文字が平行表記されており、私にとってはとても便利です。漢字で意味がわかり、ハングルで発音がわかるから。ハングルは、表音文字なので、原則として、書かれているとおりに読めば、通じる。

 「延辺朝鮮族自治州」の発音は、「エンペンチョウセンゾクジチシュウ」と、日本語漢字読み方では全然通じないし、中国語の読み方で「イェンビンチャォシャンズーヂチューチョウと読んでも、私の四声発音はいつも間違うので、通じない。けれど、ハングルをたどれば「ヨンビョン・ジョソンジョク・チャチジュ」と読めて、会話でも通じる。

 四半世紀も前に「対照言語学」という授業で習ったハングル。韓国語はほとんどわすれてしまったけれど、ハングルの読み方だけ覚えていたのが、やっと役に立ちました。(韓国語と中国朝鮮語は、少し発音が違います)

 今回の延辺旅行、往復はちょっと贅沢をしました。
 片道500kmの移動。夜行10時間に、一等寝台車(軟臥)片道200元(176元プラス切符購入手数料20元)、往復で約6000円を支払い、私にしてみれば、これは、贅沢旅行です。

 でもって、ホテルはケチりました。星なし。一泊120元(1800円)
 四つ星級ホテル「国際飯店(インターナショナルホテル)」と「白山大厦(ベイシャンホテル)」が並び立つ向かい側に、私が泊まった全州賓館があります。ロケーションは、町の中心地でいいところなのですが、ホテルそのものは、外観も内装も星つきに比べれば、もちろん貧弱。

 しかし、国際飯店にご飯を食べにいったところ、フロントに日本語ができるスタッフはいないし、サービスは最低だったし、ほんとにこれで星ついてる?と、感じました。まあ、ほかの人へのサービスはよかったのかもしれませんが、Tシャツジーンズの、私にはよくなかった。

 国際飯店は、去年開店したばかりの新しいホテルで、施設は新しいけれど、ホテリエ育成はまだまだ、という感じ。延吉市ではじめて5つ星ホテル誕生か、といううわさもあったけれど、実際には三つ星もどうかってとこ。設備はいいけれど、ホテルは、サービス命!のはず。チマチョゴリの服務員がロビーを行き交っているだけじゃ、サービスとはいえません。

 トイレはまあまあきれいだった。わたしにとって、星つきホテルって、ロビーで休憩するのと、トイレを使うところで十分。

 一方、全州賓館は、フロントの男性も、厨房担当の女性も日本語ができるので、助かりました。
 延辺には、日本語会話堪能な人が多い。

シングルの部屋は、バスタブ無しシャワートイレと、セミダブルベッド、鏡台、洋服ダンス、テレビ、エアコンつき。広くはないけれど、一人で寝るには十分です。

<つづく>
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2007年07月19日


ニーハオ春庭「延吉の夜、歌と踊り」
2007/07/19 木
ニーハオ春庭中国通信>延吉の夜、歌と踊り

 延辺の朝鮮族の人が、中学や高校で外国語科目を選択する場合、これまでは、英語ではなく日本語を選択する人が多かった。
 日本語と朝鮮語は語順が同じで、学習にそれほどの苦労がなく、英語選択者より高得点を得られて、かっては、進学に有利でしたから、日本語学習者が多かったのです。
 現在は、中国全体が英語優先になっているので、朝鮮族の中でも、日本語学習者は減っています。

 70代、80代の人で日本語を話せる人は、かって日本語教育を強制された世代なので、自分からすすんで日本語を話そうとはしませんが、日本語を外国語科目として学んだ、20代、30代の世代の人は、積極的に日本語を話そうとします。

 町を歩いて、たどたどしい中国語で道をたずねると、きれいな発音で「日本人ですか?私、日本語少し話せます。あ、ここに行くのはですね~」と、教えてもらえます。

 英語だけで世界観光をしているアメリカ人の「何の不自由もない旅行」を批判して「その国に行ったら、その国のことばを少しは覚えんかい!」と、思ったものでしたが、外国の町で不自由なく日本語が通じる便利さを実感しました。

 観光ガイドブックには、「朝鮮族の町、延吉市には、このようにチマチョゴリで歩いている女性も多い」なんていう写真が出ていたのですが、日本で、普通に町を歩いていて振り袖姿の女性にそうそうは出会えないのと同じ。

 ここらの女性も、結婚式や特別なイベントではきれいな民族衣装を着るけれど、普段はごく普通の洋装です。
 結婚式にでも招かれない限り、チマチョゴリの写真はとれそうにないなあと思っていました。

 私が延吉の夜、ぜひ行ってみたいと思っていた延辺芸術劇場、延辺歌舞団。
 全州賓館のスタッフに聞いたところ、現在は、改装閉鎖中でした。

 な~んだ、と、がっかりしながら夜、朝鮮料理を食べに出ました。
 行きはタクシーで店まで行ったけれど、近いので帰りは地図をたよりにぶらぶら町見物がてら歩いて帰ろうとしたら、、、にぎやかな音楽が聞こえてきました。

 大型スーパーの前の広場に野外ステージがあり、大勢の人が取り巻いています。なんのイベントか分からなかったのですが、地域の人々が出演する歌や踊りのステージでした。

 あでやかな赤と緑のチマチョゴリを着ている司会の女性と、何人かの歌手はプロの歌い手。朝鮮や中国の踊りを披露したのは、地元の舞踊学校の生徒たちのようでした。

 プロなのか素人の趣味グループなのかわからなかったけれど、朝鮮打楽器、太鼓と鉦のパーカッショングループが出演し、その音は圧巻でした。4人の打ち鳴らす大太鼓、小太鼓、鉦が見事なリズムを刻み、ほんとうにすばらしかったです。

 韓国では、韓国伝統音楽のサムルノリのリズムを取り入れた「ナンタ」というパーカッショングループが人気をよんでいます。延辺打楽器チームの音もとてもよかった。
 朝鮮民族の魂がうち鳴らすリズムは力強く、心の底が震え上がるような響きでした。

 ダンスも、小さな水瓶を頭の上に載せ、くるくる回る朝鮮族の踊り、大きな扇を使いこなしながら舞う中国の踊り、どれもとてもきれいで、上手でした。

 延辺朝鮮族自治州の夏の夜。
 「無料観覧イベント」を見ている人々は、ビールや焼肉の串を片手に、おおいに楽しんでいます。

 ステージの前は椅子を並べた観覧席、その周りを立ち見の人々が取り巻いています。私はステージ脇から見ていました。ライトが目に入るので、まぶしいですが、近くで見られたので、よかったです。

 司会の女性歌手も歌い終わり、アンニョンイガセヨ!と、挨拶してステージは終わりました。
 思いがけなく、市民の踊りや太鼓演奏が楽しめて、いい延吉の夜になりました。

<つづく>
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2007年07月20日


ニーハオ春庭「延吉市の民俗園」
2007/07/20 金
ニーハオ春庭中国通信>延吉市の民俗園

 日曜日の朝、5時半。
 大連の公園で、「太極拳」をいっしょにやらせてもらったので、延吉でも公園でやっているかとでかけてみました。
 ホテル脇の、青年湖公園。音楽がなっている方へ行ってみたら。
 太極拳でなく、社交ダンスのグループが二カ所で踊ったりステップ講習会を行ったりしていました。
 
 下手なカップルも上手な組も、楽しそうにステップを踏んでいます。
 社交ダンスデビュー?も、考えたのですが、ステップが複雑そうなので、わきにすわって見ているだけにしておきました。
 新しいステップを皆に教えていた師範格の女性が、私の隣にすわって話しはじめました。

 彼女は朝鮮族で、彼女の子どもは、現在日本の「ゴンダオ」に留学している、など、話してくれました。最初「ゴンダオ」と聞いてもどこだか分からなかったのですが、紙に字を書いてもらったら「広島」。

 私が日本で受け持っていた私立大学日本事情のクラスにも、中国東北地方出身の朝鮮族の人がいて、ある年度など、クラスの四分の一が中国朝鮮族、ということもありました。
 朝鮮族の人は、中学高校の外国語選択で日本語を選択する割合が高く、日本へ留学することを多くの人が望んでいます。

 日曜朝の青空ダンス講習会の先生、日本へ留学しているお子さんを誇りにしていました。

 7月8日、日曜日。
 午前中は、ガイドブックにでていた「延辺国貿延吉民俗園」へ、バスで行ってみました。
 帽児山という延吉市にある山を、バスで30分くらい登っていったところにある、「テーマパーク」と、ガイドブックにはあります。

 テーマパークというところがちょっとあやしいなあ、と思いましたが、私が持っていた「地球の歩き方」の延吉扁には、この民俗園と人民公園のほかに紹介されている場所はありません。人民公園は、まあ、どこの人民公園とも同じようなものだろうと思って、民俗園に行ってみたのですが、、、、、

 森林公園入り口で5元。朝鮮民家を復元している民俗園の入場料が20元。合計25元払ってわざわざここまで来る人は、地元の人はそうはこないだろうし、観光客といっても、どんどん人が押し寄せてくるような場所ではなありません。

 森林公園の中の道を歩いていたときは、日曜日なのに、全然人もおらず、最初は、「日本のガリバー王国とか、田舎のテーマパークのように、さびれてつぶれてしまったのではないか」と思いました。

 でも、「朝鮮民家」が復元され立ち並んでいるあたりには、ちらほらと観光客もみえ、まあ、つぶれてしまったのではないということはわかってきました。
 復元農家には、農家の暮らしを再現する人形が置かれていて、臼と杵で粉を作っていたり、牛を引いて畑を耕すようすが表現されています。

 うん、テーマパークっちゃ、テーマパークなんだけれど。なんだろこの「安い」感。
 明治村などのように、実際にあった記念的な建築を移築したのなら、それなりの重厚感があるのだけれど。

 一軒の復元農家の縁側で、朝鮮族のおばあさんと話をしました。話したといっても、おばあさんは、ハングル文字は書けるけれど、漢字は書けないので、筆談はできません。筆談もできず、互いに相手のことばを聞き取ることもできず、でも、手真似と笑顔でなかよくなり、いっしょに写真をとってもらいました。

 私が、唯一これだけはできる「ハングル文字で自分の名前をかく」をしてみせると、おばあさんはものすごく喜んで、「私の娘のようだ」と、抱きしめてくれました。私からみても、30年前に亡くなった母が生きていたら、このくらいの年齢かなあ、と思える年頃の方です。

 「カムサハムニダ。オモニ。アンニョンイゲセヨ(ありがとう、お母さん、さようなら)」
 「アンニョンイガセヨ!イルボニチング(さよなら日本のともだち)」

<つづく>

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2007年07月21日


ニーハオ春庭「延吉の民族冷麺」
2007/07/21 土
ニーハオ春庭中国通信>延吉の民族冷麺

 民俗園の近くにあるレストランは、朝鮮料理の店として知られているらしく、門前には高級車が何台も駐車していました。チャングムの朝鮮宮廷料理?
 ここで食べようか?
 いや、やっぱり、お昼ご飯は「冷麺」!
 延辺へきたら、何はともあれ、冷麺!です。

 一旦市内に戻り、海蘭路の「金達莱飯店」へ。
 数々の料理コンテストで、ここの冷麺が入賞しているという冷麺専門店です。有名店だけあって、お昼時をすぎているのに、つぎつぎに客が入ってきて、テーブルの席は満杯。
 有名店といっても、気取ったところはまったくない、ごく普通の店内。冷麺は庶民の食べ物ですから。

 私は、メニュー表の一番上にある「民族冷麺」を注文。これが一番高い。先に食券を買います。30元(450円)。
 私が普段食べる冷麺は、3元ですから、冷麺は庶民の食べ物といっても、その中でも30元はちょい高級。

 麺の上に海老や肉、卵など、いろんな具がのっていて、ほかに小皿に10種類くらの具がついてくる、豪華版でした。
 具が多いだけでなく、たしかに、スープがうまい!

 ナッツ好きの私にとっては、一段と冷麺の味を引き立てたように思えた小皿の品は、松の実です。とても冷麺と合っているように思えたので、こんど3元の冷麺を食べるときに、自分で松の実を持っていって、振りかけてみようっと。

 なぜ「民族冷麺」というメニュー名なのかというと、1950年代にこの店が創建されたときには、「延吉市第一民族飯店」という店名だったから。
 店名も重々しい国有企業でした。従業員は「公務員」ですから、たぶん、この時代の国有デパートやレストランがそうであったように、店員さんも、エラソーだったのではないかと、往時が思われます。

 経済開放後、1989年からは一企業となりました。企業努力が実って、現在は韓国やアメリカに支店をもつまでに発展しています。
 服務員は、忙しそうにチャッチャッと冷麺を運んでいます。
 朝鮮民族の誇りをかけた「民族冷麺」ほんとにおいしかった。

 金達莱飯店のある海蘭路は、延吉市の繁華街のひとつ。どの店も、看板は漢字とハングルの両方の表記があることが、中国の町とも韓国の町ともちがっていて、通りの雰囲気も「バイリンガル」(?)な感じ。

 町の人々は、中国語と朝鮮語の両方をつかいこなし、さらに日本語ができる人も多い。
 もともとふたつの言葉を併用する町であるから、別の言語を使っている人を抵抗なく受け入れてくれるのか、町の人々がだれも、とても親身に思えました。
 道を尋ねても、ひとりひとりが気持ちのよい応対をしてくれます。

 延吉賓館のドアマンは、泊まり客でもない私が地図を広げて尋ねたのにこたえて、金達莱飯店への行き方を教えてくれました。その上、道順が飲み込めないようすを見て、通りを走るタクシーをとめて、「この客を金達莱飯店まで乗せていって」と、指示してくれました。

 白山ホテル前に待機していたタクシーは、ぼったくろうとしたし、全部がいい人というわけではないでしょうが、延吉の人々、あたたかいよい人たちでした。 
 
<つづく>

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2007年07月24日


ニーハオ春庭 延吉のおばあさん
2007/07/22  日
ニーハオ春庭中国通信>延辺の村と延辺大学

 私がいつもしている「市内から郊外へ向かうバスに乗って終点まで行く」を、延吉でもしてみました。

 着いたところは、「依蘭鎮利民村」という小さな村。延吉からミニバスで30分くらい走ったところにある 面積 52平方km、人口1800人ほどの村です。
 村役場とおぼしき建物の看板に、漢字とハングル併記で「利民村人民委員会」と書かれています。 

 バスがとまったところから十字に道があり、両側にパラパラと家がある。「民俗園の復元農家よりよっぽどこっちのほうが古い家」と思える家が並んでいます。

 大学専家公寓の自室に戻ってからインターネット検索で中国サイトを調べると、利民村は、今年から新しく住宅団地の建設が始まることが出ていました。

 延吉市からバスで30分ほどのところにある地の利が生かされ、これからベッドタウンとして発展していくのではないかと思います。
 10年後にきたら、今のこののんびりした田舎の光景も激変しているのかもしれません。

 道を行ったりきたりして、草葺きの家の写真をとったり、道のわきにつながれている牛を眺めたりすれば、それで村内観光おわり。

 道の脇に五人のおばあさんたちが座り込み、おしゃべりしています。
 いっしょに写真をとってほしいと頼むと、こころよく並んでカメラにおさまってくれました。

 素朴な笑顔のおばあさんたち、村が住宅団地へと変わることがあっても、おばあさんたちの笑顔とにぎやかな道ばた会議のおしゃべりは変わらないでほしいなあと思います。

 どこへ行ってもいい人に会えて、ラッキーな私ですが、事件事故にあわないよう、十分気をつけて歩いているつもりです。
 気をつけていても、どこでどんなことに出会うかはわかりませんが、私が延辺の村を歩くにも、安心して歩けたのには、わけがあります。
 
 現在私が受け持っているクラスに、朝鮮族出身者の女医さんがいます。
 家庭では母語の朝鮮語で話します。小学校から中国語の授業を受け、学校や社会では中国語で生活します。
 中学からは外国語科目として日本語を学び、日本の大学医学部博士課程進学のために必要なので、現在は日本語と平行して英語も学んでいます。朝鮮語中国語日本語英語、4カ国語ができるお医者さん、生理学の専門家です。

 今回、私が安心して延辺旅行に出てこられたのは、彼女が「何か困ったことがあったら、私の主人に電話してください」と、ご主人のケータイ番号と延吉市内の自宅電話番号を書いた手紙を言付けてくれていたからです。

 なにかわからないことがあったとき、電話をすれば、どうしたらよいか日本語ができる人に教えてもらえる、という安心感があったので、村歩きものんびりとできました。

 彼女は、平日は大学の寮で暮らし、留学に備えて日本語学習を続けています。週末はお子さんとご主人が暮らす延吉市に帰宅することもあり、今回も「私が延吉市内をご案内します」という申し出をしてくれました。

 しかし、学生が在学中、私が成績をつける教師という立場である間は、クラス全員といっしょに過ごすのならいいけれど、特定の学生との個人的なおつきあいをしないことを信条にしているので、お礼を言い、「できるだけ自分の足と目で歩いてみます。万が一、困ったことが起きたら、連絡しますから、そのときは助けてください」と、話しました。

 彼女は、日本留学にあたって、最初の半年はお子さんをご主人に託し、半年して日本に慣れたら、お子さんを日本に呼び寄せるつもりだと言います。しかし、ご主人、彼女と同じ大学の医学部のお医者さんなので、仕事を離れられない、と話していました。

 彼女とご主人が医学部教師として働いているのは延吉市の延辺大学。
 延辺大学は、中国の大学がみなそうであるように、正門から見ると実に堂々とした立派な建物が建っていて、地域のランドマークになっています。

 延辺大学の本部キャンパスに入ってみました。本部キャンパスの中には、理工学部、教育学部などはあったけれど、医学部キャンパスは別の地域にあるらしく、地図をみても、どこにあるのかわかりませんでした。

 私の受け持ちクラス、この女医さんのほか、男性1名がこの延辺大学の教師です。日本ではそれぞれ、医学と情報処理の博士号を目指します。
 ふたりとも歌がとてもじょうずで、クラスパーティではいっしょに朝鮮族の歌を披露して場を盛り上げてくれました。

 四カ国語を駆使して医学研究にあたる女医さん、小さな村の素朴なおばあさんたち、延吉市内の道を教えてくれた方、美しい民族衣装で踊った若い娘たち、社交ダンスを指導していた奥さん、、、、
 延辺の女性、みな笑顔が美しい、すてきな女性たちでした。

 今回の延辺旅行、北朝鮮にも行けたし、すてきな笑顔に囲まれた楽しい旅ができました。

<おわり>
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2007年07月26日


ニーハオ春庭「中国的OFF会」
2007/07/26 木
ニーハオ春庭中国通信>中国的OFF会

 Off会でウェブ友と顔をあわせたことは数回しかない、というOn Line専門の私なのに、中国に来て、Off会をすることになりました。

 この地に赴任する前に、市の名前で検索をかけたら出てきたサイト。その後、市の中の地名や出来事で検索するたびに行き当たったサイトがあります。

 2006年8月から中国に留学している女性のサイト。留学日記を読み続けているうちに、留学生といっても、企業か公官庁から派遣されて「公費留学」している人らしいこと、既婚者で、ご主人が中国に会いにきたりすることもある、など、わかってきました。

 私と同じく、固有名詞は極力文章に載せないよう気を遣って書いていることがわかったのですが、それでも、長くひとりの人の文章を読んでいれば、あちこちの記述から、思い当たることが次々と出てきて、この留学生は、私が教えている大学の本部キャンパスで学んでいることに気づきました。

 とても簡潔明瞭な文体で、的確に町のようす、人々のようすを知らせてくれます。
 赴任後も、ちょくちょくサイトにおじゃまし、いろんな市内情報を参考にさせてもらいました。中国クマ、というハンドルネームです。

 中国クマさんも太極拳を練習していることが書いてあったのですが、私の推理で、どうやら、同じ先生の相弟子ではないか、と気づきました。

 私の太極拳の先生は、本部キャンパスの留学生にも太極拳を教えています。毎週金曜日午後のクラスで、正式に単位をもらえる授業だということを聞いていたので、そのようなクラスが何種類もあるとは思えないので、たぶん、同じ先生に習っているのだろう、とわかったのです。

 何度かコメントを書き込むうち、ついに「同じ先生に太極拳を習っています」ということを書き込みました。
 彼女が中国語を習っている先生たち、何人かの先生といっしょに太極拳の練習を続けてきたので、彼女がブログにのせた「我的老師的太極拳」の写真に、私も写っていることをコメントしたのです。

 発表会のとき、私のうしろに並んでいた年配の先生は、彼女の「口話(会話)」の先生。そのほか、漢文読解の先生とか、共通に知っている先生が何人もいました。

 彼女の留学派遣期間は1年間。7月いっぱいで帰国するというので、帰国前にぜひ会いたいと、メールしました。

 大学正門の前で待ち合わせの約束。「黒いリュックサックを背負っている」という目印を教わっただけでしたが、図書館前から正門に向かって歩いてくる女性、すぐに中国クマさんだとわかりました。

 さわやかな笑顔で、文章から想像していたとおりのすてきな女性でした。でも、、、、思っていたより若い。

 公官庁から派遣されて来ている、既婚者の女性ということで、もうちょっと年配なのかな、と思っていたのですが、知性のなかにも若さが光っている、という感じで、私のようなオバハンと話が合うかな、と、ちょっと心配。
 でも、話し始めてみると、初めて会う人でも、10年来の友のようです。

 これは、Off会というものが、そうであるのかもしれません。会う前に、サイトやブログで、相手のものの見方や考え方を十分に知っていて、また、ある程度のプライベートな背景も知っていて会うのですから、毎日顔を合わせていても、挨拶程度しか話さない近所の人より、よほど相手のことをよく知っているわけです。

 私の宿舎近くにある韓国料理店で食事をしながら話すことにしました。
 このあたりには、朝鮮族が多く住んでいて、朝鮮料理の店がたくさんありますが、中韓国交回復後は韓国資本が急激に中国に進出してきて、韓国ドラマも放映されるし、韓国から輸入された物を扱う商店も、韓国料理店も、どっと増えました。

 韓国人が経営している店のひとつで、ビビンバや焼き肉を食べました。
 私にはその差がわかるほど、朝鮮料理と韓国料理を食べ比べたことはないのですが、1年この地に暮らしたクマさんによると、微妙に味が違うそうです。

 中国の自治体と日本の自治体が姉妹都市など、友好交流関係を結んでいるところが増えてきましたが、クマさんが勤務する県も、この町と長年の交流活動を続けてきました。
 クマさんは、国際交流課の仕事をこなすために中国語が必要で、交流課の仕事の一環として留学することになりました。

 お給料をもらいながら留学できることを、単純に、「うらやまし~い」と思っていましたが、クマさんの話をきくと、仕事として留学するというのは、絶対によい成績を残さなければならないし、中国語学習のほか、自治体交流課の現地事務所に顔を出して、課の仕事も手伝わなければならない。こちらが思うほど楽ではないようです。

 交流課の仕事もこなしながらの留学生活、クマさんは、中国語もしっかり上達したうえで、中国各地への旅行も楽しみ、充実した1年間の中国生活になったことが、ブログからもわかります。

 本当は、最終試験の最中なのに、試験が終わったらすぐに大連旅行へ出かけるので、試験初日に会うということになったのです。
 交流の話、太極拳の話、クマさんの出身地と私の舅姑の出身地が同じことから、「地元トーク」など、話がはずみました。

 本当はもっと話していたかったけれど、なにしろ明日も中国語の試験が続きます。公費留学のクマさん、絶対に単位を落としたりできません。勉強にさしつかえるといけないので、話はつきないけれど、「再見」となりました。

 ブログの文章からも感じられましたが、会ってみると、ほんとうに知的でさわやかで、人をあたたかい気持ちにさせてくれる人柄なので、留学を終えて県の交流活動の仕事にもどったら、きっと外国の人にも日本の人にも好かれる、すてきな国際交流職員になるだろうと思います。

 これから帰国までの間に、出張で中国へ来るご主人と待ち合わせたり、大連、内モンゴルに旅行したり、忙しいスケジュールになり、27日には帰国、というメールが届きました。この次会うとしたら、日本で、ということになりそうです。

 こうして出会えたのも、この町にいるご縁。ブログがとりもつ縁がまたひとつ増えました。

<おわり> 
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2007年07月27日


ニーハオ春庭「お仕事完了」
2007/07/27 金
ニーハオ春庭>お仕事完了

 連日「村に宿泊した」「延辺へ旅行した」というエッセイを掲載しているので、「仕事はどうした」と、ご心配くださった方のコメントもありましたが、もちろん、旅行などは週末だけ。平日月曜日から金曜日までは、毎日仕事を続けてきました。

 旅行に行けたのは、5月に山東省へ2泊3日(往復寝台車2泊)、6月に大連へ3泊3日、7月に東北地方の延辺へ1泊2日(往復寝台車2泊)。
 この3回の旅行、それぞれ思い出深いものとなりました。
 あとは、平日、仕事が終わってから市内バスに乗っての「夕食を食べに行くミニバスツアー」です。

 平日は、朝8時から5時まで勤務。家に帰っても翌日の授業準備、授業プリント作りや作文の添削などで夜寝るまで仕事を続けなければ、こなしきれない仕事量でした。

 日本でも、週日は毎日授業を受け持っている私ですが、大学の授業は一日に90分2コマ。授業時間以外の授業準備は、拘束されることなしに自宅でも図書館でも行うことができます。
 
 13年前に私が参加した同じ文部科学省プロジェクトは、午前中90分2コマの授業をしたあと、午後は自宅で授業準備ができる比較的自由なプログラムでした。
 しかし、今回は8時~5時の拘束、さらに仕事が残って、夜も自宅に持ち帰り残業。
 本当にたいへんでした。

 4月は毎日ため息をつき、「こんなはずじゃなかった、これほど仕事がたいへんと思わずに中国へ来てしまった」と、愚痴と涙の毎日。

 5月6月、日が延び、夕方8時近くまで明るさの残る町で、夕食ツアーを始めました。
 夕食を食べに、他の人たちは専家公寓の食堂や近所のレストランで食べていたところを、私ひとりバスに乗り、終点までいってそこでご飯を食べて帰る。

 ささやかなバスツアー。バスから町を歩く人々を眺め、繁華街でショッピングを楽しむ人たちを見て通る。
 細民街の細い道を通るバスから、傾きかけた家の中で暮らす人々のようすが丸見えだったり、田舎道の辺り一面トウモロコシ畑の中、デコボコ道をゆられたり。
 夕食、町はずれや村の小さな食堂で冷麺やチャーハンを食べ、ほっと一息、気持ちを切り替えて家に帰りました。

 こうして毎日仕事に励んだ結果。

 中国教育部と日本の文部科学省共同プロジェクト「赴日本国、国費留学生日本語教育」という留学生教育、基礎教育の部を終了し、7月26日、基礎教育最終試験「日本語能力試験2級レベル」が、実施されました。
 ドキドキしながらの採点。私の受け持ちクラス、ひとりでも不合格者がでたらどうしよう。

 どんなに練習問題や模擬試験で練習しても、聴解試験の成績が伸びない人が各クラス何人かはいます。
 私の受け持ちクラス19名のうち、どうしても2、3人は聴く力が弱く、聴解試験の模擬テストで合格ラインに達しないのです。

 彼らの気持ちがよくわかります。私も中国語、文で見ればだいたいの意味がわかっても、耳で聞くとなにがなにやらさっぱり分からない、「听不懂 チンブートン=理解できない、わからない」でしたから。

 でも、本番試験では皆、がんばりました。
 結果。
 103名全員合格。バンザイ!よかった、よかった。ほんとうにほっとしました。

 2週間の夏休み後、学生たちは東大、東工大の先生を迎えて専門教育を受けることになります。
 それぞれが自分の専門について習うのは、基礎日本語ほど修得が難しいものではありません。

 たとえば経済問題の研究者にとって、「経済分析師→経済アナリスト」「内幕交易→インサイダー取引」「貼牌生産/定牌生産→相手先ブランド生産」などの専門用語を覚えるのは、英語もできる彼らには、それほどむずかしくありません。

 基礎日本語の学習で、「どころか」と「ところが」を、いつも間違えてしまう、とか、「きっちり」「きっかり」をどのように使い分けるか、「彼は学者らしい人だ」と「どうやら彼は学者らしい」という文では「らしい」の意味が異なるとか、頭をひねってきたことに比べれば、2週間の短い「専門日本語研修期間」でも、十分に日本での研究生活に備えることができるでしょう。

 専門日本語の修了認定は試験ではなく、「専門研究発表会」での日本語による発表ですから、大学の教師である彼らには、皆の前で発表するのは慣れたもの。

 専門教育が終了したあと、9月は留学準備期間。
 10月、彼らは日本の各地の大学へ向かいます。

 さて、日本語基礎教育担当の私の仕事はこれにて完了です。お疲れさま!

<つづく>
09:47 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2007年07月28日


ニーハオ春庭「植物園風レストラン合格祝賀会」
2007/07/28 土
ニーハオ春庭>植物園風レストラン合格祝賀会

 27日に終了したコースで、昨年10月から日本語の授業を受けてきたのは、中国の大学で教えている若手教師たち。
 昨年10月に「あいうえお」の発音、ひらがなカタカナの書き方からはじめて、私が3月に赴任したときは、初級コースを半分おえ、4級レベルになっていました。

 皆、優秀な大学教師たちですから、ここまでは余裕で上達してきたのです。しかし、ここからの急坂を登るのは、本当に過酷でした。
 もともと「新幹線授業」だったのに、6月7月は「ジェット機授業」
 旅行カバンには詰め込む、詰め込む。乗り込んだと思うと、あっという間に走りすぎる。

 最後の2週間は、朝日新聞に掲載されたエッセイ、投書や「天声人語」の読解が中心でしたが、アップアップでした。

 まったくこれまで知らなかった言語の学習をはじめて、一年間で英検なら2級に相当するレベルに相当する力を培う、私なら「やれ」といわれても、たちまち挫折しそうなコースです。

 私の受け持ちクラスでは、19名が、北海道大学、東北大学、東京大学、東京工業大学、名古屋大学、神戸大学など、各地の大学院博士課程に留学し、医学や情報工学、環境科学、ロボットビジュアルシステム、カーボンナノテクノロジーなど、多方面の専門で博士号取得をめざします。
 
 文系の人もいます。東大大学院で美術史研究を行う人もいれば、名古屋大学大学院で教育経済学大学運営論を研究する人もいます。

 一橋大学で経済学の研究をする人は、今月出産したばかり。6月末から授業を欠席し、毎日友達が宿題プリントを届けて自宅学習を続けました。産後の体で最終試験を受けましたが、優秀な人ですから無事合格。

 10月には生後3ヶ月の赤ちゃんをお母さんに託して留学します。半年して日本に慣れたら、お母さんと赤ちゃんを東京に呼び寄せるそうです。3ヶ月から9ヶ月までの、日に日に大きく育っていく時期のかわいい赤ちゃんをだっこできないのは、母親にとってつらいでしょうが、せっかく得られた国費留学のチャンスを失いたくない気持ちもわかります。

 ご主人は上海に単身赴任中。出産立ち会いも、3日間赤ちゃんのそばにいられただけですぐに仕事先へ帰ったそうで、超多忙のようです。

 最終試験合格発表のあと、7月26日夕方は、クラスの皆が集まってクラス写真撮影大会。教室や蓮の花が美しいキャンパスの池の前で、思い出アルバムの写真を撮りました。

 夜はそれぞれのクラスで合格祝賀会。
 私のクラスは、市内の海鮮レストランで豪勢な宴会となりました。
 体育館のような広い建物の中が植物園風に設計されていて、さまざまな木や花が植えられ、池には錦鯉やオシドリが泳いでいます。
 植物園の中に中国風のコテージが点在し、コテージ内で宴会。

 「今、中国では、このようなレストランが、え~、はやし、、、はやい、、、え~」
「はやっていますって、言いたいのかな?辞書形は流行る、テイル形は、流行っている、でしたね。ま、活用間違えても単語忘れても、もう合格しちゃったからいいさ」
 2級レベル試験に合格したといっても、聴き取りや会話はまだまだ弱い人もいます。

 「はい、はやる。流行っています。日本にもこのようなレストランがありますか」
「東京の木場に熱帯植物園があって、その中のレストランで食べたことはあるけれど、そこは植物園が主体で、レストランは付属の施設。ここは、レストランが主体で、植物園はレストランの付属の施設ですから、このような種類のレストランは、日本では私は行ったことがありません」

 学生たちは、思い思いに園内を歩いたり、池のそばのテーブルでトランプをしたり、ここ数日間続いた、連夜の猛勉強の疲れをいやしています。
 学生たちの宴会といえば、夕方5時半開始、6時開始が多いのに、今日は明日遅刻する心配もなく、翌週月曜日に提出の作文宿題もなく、ゆっくり7時すぎに開始、魚料理、ホタテ料理などがテーブルに並びます。

 美味しい海鮮料理をいただき、乾杯を繰り返しながら、本当に心晴れ晴れとおひらきになりました。

<おわり>
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2007年07月29日


ニーハオ春庭「動植物公園・東北虎とニセ縞馬」
2007/07/29 日
ニーハオ春庭中国通信>動植物公園・東北虎とニセ縞馬

 7月27日「日本語能力試験2級レベル全員合格」のお祝いをして、私の中国での仕事とは完了。
 あとは、自由な夏休み2週間。

 仕事を終えた後の休暇、まず最初の2日間は。
 この町で出会った「若い友人」ふたりを招待して、市内でのんびりすごすことにしました。

 ひとりは、私の中国語の家庭教師をつとめてくれた大学3年生ジョウさん。
 一生懸命に中国語を教えてくれましたが、私は予習も復習もしない不出来な生徒で、結局「指さし会話」以上に上達することができませんでした。

 私の「指さし会話」、けっこう生活できます。タクシーに乗れば、前方、右、左を指さし「走[口巴]ゾウバ(行こう)」
 買い物にいけば、欲しいものを指さして「多少銭?ドゥオシャオチェンいくら?
 これだけで生活はあまり不自由はしませんでした。

 最後の授業は、四つ星ホテルの和食レストランにご招待して、刺身、すし、天ぷら、うどん、鯖塩焼き、茶碗蒸しなどがセットになった「和食セット」をいっしょに食べました。どのメニューが一番お口にあったかきいたら、「和風さいころステーキ」、ああ、やっぱりね。

 もうひとり、友達になった「若い友人」は、14歳のシャンユエ。合隆鎮という田舎町に行ったときに出会った子。中学1年生。9月からは2年生です。

 28日の朝、合隆鎮までシャンユエを迎えに行きました。バスで60分ほどのところです。

 市内に戻って、まず、肯徳基(ケンタッキー)で、ハンバーガーやフライドチキンのランチ。

 麦当勞(労のツをとった上に草冠・繁体字では麥當勞=マクドナルド)は、混んでいたので、肯徳基へ行ったのですが、ここでもしばらく待ちました。

 土曜日の昼をマクドナルドやケンタッキーでランチしようという親子連れがワンサカ集まっています。
 ジョウさんの説明では、この近くに英語塾がたくさんあって、午前中子どもに英語の勉強をさせた親が、ランチは「洋風に」と考えて集まってくるのだとか。

 ランチのあと、動植物公園に行きました。
 入場料がひとり10元、動物ショウの観覧料が10元。1m以下の子どもは半額。中国では、年齢ではなく、身長で半額になります。鉄道などは1,4m以下なら半額。

 動物「表演」
 ライオン、虎、オオカミ、熊、猿、山羊、象たちが、自転車に乗ったり火の輪くぐりをしたり、綱渡りや縄跳びをしたり。
 子どもたちは大喜びです。

 大人ぶりたい年頃の中学生には「子どもっぽい」と思われるんじゃないかと心配しましたが、シャンユエも、けっこう喜んで、芸がきまると拍手して見ていました。
 
 鞭で叩かれたりしながら芸をする動物を見ていると、かわいそうな気もしますが、マクドナルドランチをご褒美に英語塾でしごかれる人間の子どもも、似たようなものだと思えばいいのかも。

 ショウのあとは、河馬、縞馬、頸長鹿(きりん)などを見て回りました。
 私の一番のお目当ては、「東北虎(シベリアンタイガー・アムールタイガー)」
 絶滅危惧種のひとつで、現在、中国政府は黒龍江省の東北虎林園で、繁殖をはかり、700頭まで回復したのだそうだけれど、パンダと並び、絶滅して欲しくない貴重な動物です。

 もうひとつ、見ておきたかったのは「偽縞馬」、白馬にペンキで白黒模様を描き、馬車を引いています。
 日本のニュースでこの「偽縞馬」の姿が放映されたということを、ネットニュースで知りました。
 日本で注目されたという、この「偽縞馬」の写真を撮っておきたかった。

 私の感覚では、馬車を引くのは白馬のほうがいいと思うのに、しっかりペンキで縞馬に変身していました。

 さて、中学生シャンユエと出会ったいきさつについて。

<つづく>
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2007年07月30日


ニーハオ春庭「農安県合隆鎮」
2007/07/30 月
ニーハオ春庭中国通信>農安県合隆鎮

 ミニバス185路線で1時間ほど北へ行ったところにある農安県合隆鎮。
 以前、一度、バスで行くだけ行って、そのまま折り返して帰ってきたことがあり、どこらへんにあるところなのかは、地図を見て確認してあるし、町のなかに旅店があることもバスから見て確認してありました。
 伊通鎮よりは小さいけれど、富峰鎮大屯よりは大きい田舎町。農安県の中心地が合隆鎮です。

 夜、仕事を終えてから、バスの終点へ夕食を食べにいく「どこへいくのか、自分でもわからない夕食ツアー」を続けてきました。
 7月13日、金曜日のこと。合隆鎮行きは、「遠いので、夕食を食べたあと、市内に戻るのはむずかしい」と、判断して、泊まりの準備をしてバスに乗り込みました。

 準備と言っても、歯ブラシ、タオルなど、「簡単お泊まりセット」のみ。元バックパッカーは、パジャマに着替えないでそのまま寝ても、翌朝は同じ服ですごしても平気。荷物は極力少ない方が安全。身なりはボロいほうが安全。
 カメラも持たない方が安全なのはわかっていますが、これだけはデイザックに入れておく。知り合った人と一緒に写真をとってもらうのは、私の楽しみのひとつ。

 近くのバス停からまず鉄道駅(火車站)へ。駅の中をのぞいてみる。金曜日の夜、どの窓口も長い列を作っています。出張や旅行の人もいるでしょうが、当日券を買うために並んでいるほとんどの人は、省都の出稼ぎ先から我が家へ戻る人。田舎へ商売モノを持って行く人もいて、皆大きな荷物を抱えています。

 鉄道駅から少し離れたところにあるバス発着所まで、少し歩きました。こんなに遅く、185路線のバスはまだ動いているかしら。夜6時には営業を終えてしまう路線もあります。
 あ、185路線の発着所、まだバスが泊まっています。

 7時15分に185路線のバスに乗りこみました。でも電車と異なり、田舎へ向かうバスには正確な発着時間というのはありません。「人数がある程度集まったら出発」です。
 7時45分まで待ち、やっと出発。

 合隆鎮についたのは、9時少し前になりました。こんなにおそくなっちゃって、夕ご飯食べられるかしら。一般の夕ご飯タイムは午後5時~6時です。9時は、食後のビールタイム。

 バス発着所には、さらに田舎へ向かうための人をあてこんだオート三輪タクシーやモーターバイクタクシーがたくさん停まっています。
 モーターバイクは、後ろの席にふたり乗せることもあり、オート三輪より割安なので利用する人も多いですが、私はまだ乗ったことがありません。交通事故が多い中国の道路では、もっとも危険な乗り物と思うので。

 ぐるりと見渡して、まず、「旅店」と看板が見えるところを探しました。

<つづく>

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ニーハオ春庭中国日記「一元バスツアー」

2011-10-22 16:15:00 | 日記

2007/07/04 水
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・見知らぬ村へ

 1元バスに乗って市内を巡る、ひとりツアーを続けています。

 3月4月は、仕事が終わって帰宅する5時半には薄暗くなってきて、夕食を食べに出るともう真っ暗だったので、1元バスツアーも、週末、日が明るいうちにしかできませんでした。
 しかし、日が延び、北国の夏、夏至の前後は8時近くまで明るいのです。週末だけでなく仕事が終わってからバスに乗って一回りすることができるようになりました。

 1元バスツアー。
 5時半に宿舎に着いて、6時に夕食を食べに出ます。
 バス停から、どこへいくのかわからずにバスに乗って、終点で食事、また折り返してバスでもどってくる。宿舎に着く8時ごろまで、外はまだ明るい、という夕食ツアーです。

 車窓を流れていく街並を眺めているだけで、楽しく過ごすことができましたが、そろそろ、だいたいの町並みは「あ、ここは前に通ったことがあるな、見覚えがある」ということが多くなり、「どこへいくかわからないドキドキ」は少なくなりました。

 6月末、明日は中間試験、という日。試験の準備は済んでいるし、翌日の授業準備に追われて夜遅くまで仕事を続けることもないので、気分はのんびりしていました。

 124路線のバスに乗車。
 車内の停留所表を見ると、いつもより停留所の数が多いので、どこまでいくのかなあと思いながら乗っていました。
 終点は「大屯」。大きい村?

 7時。まだ明るいから大丈夫。途中で下りてしまうと、帰りのバスに乗りはぐれる心配もあるから、とにかく終点まで行って、このバスで折り返して市内に戻るのが一番確実。
 だんだんあたりは暗くなって来ました。まだバスは走り続けています。7時半。
 
 あたりは田園地帯になり、畑が広がっています。
 いったいどこまで来たのやら。
 いくつかの村に寄りながら、やっと終点に着いたときには8時すぎ。もう暗くなっていました。

 バスを下りた所の横の広場では、東北地方名物の「ヤンガー( 秧歌)」という盆踊りのような踊りのお囃子がにぎやかに聞こえてきました。ヤンガーの音楽は、チャルメラの種類の笛がメインで、太鼓や鉦がリズムをとります。
 次々に変わるリズムに合わせて、赤やピンクの派手な色あいでひらひらした大きな扇子と、くるくる回す独特な布を手に持って、年配の人たちが輪になって踊っています。

 バスの運転手に、「このまま乗っていて、市内に戻りたいが、出発時間は何時?」と尋ねました。
 バス出発まで時間があるなら、ヤンガーを見物して時間をつぶそうと思い、戻りの時間を確かめておこうと思ったのです。

 ところが。
 バスの運転手の返事は「これは、もう戻らないよ。明日の始発まで、もう市内に戻るバスはない」

 あらま、こりゃたいへん。  

<つづく>


07:07 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2007年07月05日


ニーハオ春庭「1元バスツアー・村の広場]
2007/07/05 木
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・村の広場

 見知らぬ村で。
 明日のバスの始発は、朝5時20分。始発に乗れば、仕事に穴をあけることのない時間には、市内に戻れる。
 
 バスの運転手にこの村に泊まるところはあるか聞いてみた。
 「大酒店(ホテル)没有(メイヨー=ない。旅店(旅館)没有」
 あらら。

 「でも、向かいにある浴池(銭湯)、あそこの二階に泊まれる」
 なんだ、泊まれるところがあるんじゃないの。

 バスの終点前に「浴池」があります。浴池は、公衆浴場。ただし、湯船はなく、シャワーが並んでいるだけ。13年前に、中国の公衆浴場はどんなところかと思って、一度だけシャワーを浴びたことがありました。
 村の浴池。そこの2階に宿泊スペースがあるという。
 バス停留所をはさんで、通りの向こう側に浴池があり、その反対側が「公安=警察の交番」です。

 この、「公安」市内の街角ところどころで見かけましたが、これまで道を尋ねるために利用したこともありませんでした。中国語で道順を説明されても、わからないから。
 泊まるところがあって、公安がある。ちょっと安心して、それならと、広場の 秧歌(ヤンガー)を見に行きました。

 普段も、宿舎の近所でヤンガー踊りを見かけます。
 繁華街の銀行の前のちょっとした広場で、毎夜20~30人くらいのおじいさんおばあさんが集まって踊っている。赤や青の派手な民族衣装を着たり、ズボンにTシャツの普段着に扇子だけ派手な色のを持っていたり、服装はそれぞれ。

 村のヤンガーもひらひら扇子や布をくるくる回すのは同じ。でも、服装は普段着の人が多く、民族衣装を着ている人は少数派。

 広場の中央でヤンガー、その周りに見物人。その外側には、炭火の四角いコンロの上に網をのせ、網焼きを食べさせる露天の店がずらりと並んでいます。それぞれなじみ客があるらしく、客がコンロを取り囲んで腰掛けに座っています。

 おばさん、たまに若い娘が、網焼き係り。おじさんは、ビール出したり、お金受け取ったり、離れて座っている人のところへ焼き上がった串を運んだり。

 豚のしっぽ、茄子、じゃがいも、ピーマン、鶏の頭、鶏卵などを串にさして炭火の網にのせ、焼いています。煙がもうもうと上がっている。
 みな、ビールを片手に焼き上がった茄子や肉をほおばっています。

 おばさんのコンロの前へ。試しにじゃがいもをひと串頼んでみました。5角(1元の半分、7円くらい)
 2本と言えばよかったかな。でも、ちょいと衛生面が心配な露天だから、肉系はやめたほうが無難。腹をこわしても、病院がある村かどうか、わからない。旅館がないくらいだから、病院もないかも。そのかわり、薬局は交番のとなりにありました。

<つづく>
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2007年07月06日


ニーハオ春庭「1元バスツアー・風呂屋に泊まる」
2007/07/06 金
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・風呂屋に泊まる

 8時半にヤンガーが終わったので、交番へ行ってみました。
 交番の看板は、「富峰鎮派出所」
 おまわりさんは、非番のようで、制服を着ている人は見かけません。でも、交番の中にいるのだから、一応警察官でしょ、と思って、泊まる場所について聞いてみました。
 
 「向かいの浴池に泊まれる」と、お巡りさん。
 うん、それは知っている。

 運転手に聞いて、すぐにひとりで宿泊交渉に出かけてもよかったのですが、私のカタコト中国語と筆談の交渉では、すぐに中国語が話せない外国人だということが、分かってしまいます。
 お巡りさんに浴池の宿泊についてわざわざ尋ねてみたのは、お巡りさんに、浴池へ連れて行ってもらおうとしてのこと。

 日本は、世界の中でもっとも安全な国で、女性がひとり旅をし、ひとりで宿に泊まる時、心配なことはありません。しかし、そうでない国も多い。

 中国は、アジアの中で、安全な国のほうです。他のアジアの国では、安宿に宿泊した場合、日本人とわかったら、持ち物を抜き取られたり、宿賃を3倍請求されたりということもあると聞きますが、中国では、旅行者が誘拐などの事件に巻き込まれたという話はまれです。スリや置き引きはいますが、それは、日本も同じ。

 盗難は、バスの中でも道ばたでも、よくあります。同僚のひとりがバスで財布を取られてしまったし、にぎやかな街角で、いきなりバックを引っ張られて、あやうく取られそうになった、という、同僚の体験談も聞いています。
 どの国にも、悪い人は必ずいるし、いい人もいる。

 危険な事件がまれとは言っても、どこで何がおこるかわかりません。
 個人旅行者にとって、常に安全に対する自己責任が必要なのはいうまでもありません。
 最初に交番へ寄ったのは、万が一の場合を考えて、私がこうしてこの村に来たことを、警察官に知らせるためです。

 ちょっと夕食を食べに出た、という姿ですから、パスポートはむろんのこと、仕事先からもらった工作証(身分証明書)も、宿舎に置いてきており、私がどこの誰かを証明するものは、何もありません。万が一の場合、私がここにいることを、誰にも知らせていないのでは、身元証明がありません。

 お巡りさんに、私が日本人であること、市内の大学で教師として働いていることなどを告げ、浴池に泊まりたいと、話しました。

 お巡りさんが浴池までいっしょに行って、フロントのおばちゃんと交渉してくれました。単純な思いこみかもしれませんが、お巡りさんが私を連れてきてくれたことで、盗難に遭う可能性も減ったような気がします。

 宿泊料、銭湯こみで10元(150円)。
 30年近く前に、ケニアで泊まった宿が一泊500円くらいの所だったことがありますが、私の「安宿記録」を更新しました。

<つづく>
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2007年07月09日


ニーハオ春庭「あか抜けた宿泊」
2007/07/07 土
ニーハオ春庭中国通信>1元バスツアー・あか抜けた宿泊
 
 村の風呂屋宿泊。
 フロントで、小さな石けん、薄いタオル。使い捨ての小さなパンティをもらいました。
ペナペナ化繊のバスローブとロッカーの南京錠は貸与。

 風呂場係りのおばさんが、私の南京錠の番号をチェックして、ここに服をいれろ、と示します。ロッカーに服を入れ、南京錠をかけて、鍵は腕にブレスレットのようにはめておく。

 シャワー室は、15畳くらいの部屋の三方の壁にシャワーが取り付けてあります。
 先客が3人。おばさんひとりと、若い娘二人組。自宅にシャワーや風呂の設備がない家が多いので、市内でも浴池は、街角ごとにあります。

 先客、悠々と念入りに体をこすっています。友人の調査では、夏でも蒸し暑くない東北地方、シャワーを浴びるのは夏でも3~4日に一回、冬は一週間に1回程度の「浴池行き」が平均なのだとか。
 
もらった石けんでチャッチャッと汗を流したあと、2階へ。
 泊まるスペースは、大部屋を低い板で仕切り、一人分の寝床スペースを区切っています。日本で言うなら、山谷の木賃宿か、終夜営業ネットカフェか。

 1階フロントから、日本人には個室を用意するよう連絡があったらしい。お巡りさんのおかげかな?
 2階フロントのとなりの宿直事務室のような部屋。ベッドと事務机がある。
 ドアの鍵が壊れているのがなんだけれど、ま、大丈夫でしょう。どこでも眠れるのが特技。

 外がいつまでもがやがやしていたけれど、いつの間にか眠ってしまい、朝5時前に目が覚めました。いつもの起床時刻です。

 5時20分の始発に乗り、市内に戻りました。来るときは知らずに、1元払っただけで乗り続けてしまったのですが、帰りは、料金を確かめると3元でした。来るときの分、自己申告しようかなと思いましたが、運転手が違う人だし、事情を中国語で説明するのもたいへんだし、ま、今回はいいかなと、3元だけ払いました。

 今回の風呂屋泊まり、何事もなく無事に専家公寓(外国人専門家宿舎)まで戻れましたが、あまり人に大声で吹聴できる体験ではありません。(と、言いつつ、こうして書いているんですけど、小声でこっそり書いた文章だということにして)
 万が一の場合、事件事故に巻き込まれてもしかたがない、という覚悟をもちつつ、それでも地元の中に入って過ごしてみたい人にだけ、「こんなお泊まりもありますよ」と、お知らせ。

 う~ん、昔の山谷界隈簡易宿泊所に泊まったことある人だったら、ここでも眠れる。あるいは、アジアアフリカ旅行バックパッカー御用達の安宿に泊まったことがある人なら。
 星のついてないホテルには泊まったことがないって人には絶対無理。って言っても、星つきホテルに宿泊している人は、風呂屋の2階に泊まろうなんて気は起こさないよね。

 風呂屋だけに、私は、あか抜けたいい女になって、一皮むけたと思っているんですけれど、、、、、   

<1元バスツアーつづく>
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2007年07月11日


ニーハオ春庭「中国的村めぐり」
2007/07/11 水
ニーハオ春庭中国通信>村めぐり

 中国では、国→省→市→県、となっており、県は、市より小さい行政単位です。
 東京に23の区と、三鷹市などの市、大島町などの町、檜原村などの村があるように、今、私の住んでいる省都の市の行政区画は、7つの区、3つの市、ひとつの県を含んでいます。
 区や県、市の中に、さらに「鎮」という村が含まれます。

 私が住んでいるのは、市の中心地の「区」部ですが、区の行政区域のなかにも、さらに、鎮などがあります。
 風呂屋にとまった富峰鎮大屯は、朝陽工業開発区のなかの村です。

 市内を巡るバスは1元だけれど、郊外の村へ行くバス(郊線)は、3~5元だということがわかって、いくつかの村へ行って見ました。

 123路線は、市の北側へ向かいます。
 終着は焼鍋嶺(シャオグォリン)という村。1時間くらいバスにのって、料金は5元。(75円)
 道路は、ところどころ舗装が剥がれていたり、穴ぼこがあちこちにあったりして、のろのろ運転のことも多かった。だから、60分走っていたといっても、市の中心部からは30キロくらいしか離れていないのではないかと思います。正確なところはわかりません。こちらで買った地図には縮尺や1cmが何キロにあたるのかのスケールがついていないので。

 乗客は、市内で買い物をしたのか、売り物を村に持って帰るのか、大きな袋をかかえて乗り込んでいます。

 市内、北のはしにある「監獄」の前を通りすぎると、あとは、街道筋にときどき小さな集落が見えるだけで、どこまでいっても、トウモロコシ畑。
 町に売りにくる葱や茄子を作っている畑もあるのだろうけれど、とにかく、目に入るのは、全部トウモロコシ。どの畑の苗も50センチくらいに伸びたところです。
 
 トウモロコシ=玉米(ユイミー)は、東北地方の主食のひとつ。
 大連の友人ハンさんは、「子どものころ、毎日毎日玉米のおかゆで飽き飽きしていたから、大人になってからしばらくは食べたいと思わなかった」と言っていました。
 日本のように、粒がぎっしり並んだまま茹でたり焼いたりして食べることもありますが、小さな粒に刻んでお粥にしたり、粉に挽いて饅頭(マントウ)や麺にしたり。

 トウモロコシ畑の中のでこぼこ道、道の両側に並木が続いています。
 日本では田舎道の両側が並木になっているのは、昔の街道筋が松並木になっているくらいで、並木といえば都市の光景が多い。
 畑の中の道に並木がずっとつづく光景。バスで走っていくと、木と木の間から広がる緑のじゅうたんが心地よい。緑豊かな景色をのんびり楽しんで眺めていました。

<つづく>


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2007年07月12日


ニーハオ春庭「焼鍋嶺村」
2007/07/12 木
ニーハオ春庭中国通信>焼鍋嶺村

 焼鍋嶺の村に近づくと、雨が降ってきて、終点停留所に着いたらどしゃぶり。5月6月、2ヶ月間も雨が降らなかったのに、私が村に来たら、大雨だなんて。
 私はトウモロコシ畑に恵みの雨をもたらす雨女かも。

 筆談用のボールペンを忘れてきたことに気づき、まずは停留所前の食品雑貨店に入りました。

 小さな手帳を出して、手で書くマネをし、「我想買鉛筆(ウォーシャンマイチァンビー)」と言ってみる。おばちゃん、ボールペンを出してくる。お、私の中国語、通じてるよ。書く物を買いたがっていることが伝わった。
 って、ノートに手で書くマネをしていたら、消しゴムやちり紙は出してこないよね。

「ヅィガ(これ)、ドゥオシャオチェン(多少銭=いくら?)」
「ウーマオ。あんた、見かけない顔だね。どこの人?雲南人?」

「おや、ウーマオ、5角か。おつりもらうの面倒だな。2本買えばよかった」と、思う間もなく、おばちゃんは、5角コインをボールペンといっしょにこちらに渡してくれました。
 1元は、正式にはイーユェンと言いますが、日常会話では「イークヮイ」。1角は「イーマオ」と呼ばれています。5角は「ウーマオ」

 このあたりの方言では、標準語で「ヂェ(これ)」と言うところを「ヅィ」といいます。
 でも、私の発音は下手で、標準語とも違っているし、方言としてもへんな発音なので、「あんたは雲南人か」と、聞かれたりします。「雲南省の少数民族出身で、普通話(プートンファ=標準語)が下手な人なのだろう」と思われているのかもしれません。

 昔は、はるか南の雲南省の人間がこのあたりに来ることはまれだったので、雲南人ではなく南方人(ナンファンレン)か、と尋ねられたものでしたが、最近は、台湾人か、と言われたり、雲南人と言われたりします。
 私の発音は南方系に近いのでしょうが、とにかく言える言葉は、ニーハオ、シエシエ、ドゥオシャオチェン?

 ボールペン1本購入し、ま、これで筆談ができると、2軒あるうちの片方の食堂に入りました。
 バス停留所前の店は、この食料雑貨店のほか、食堂が2軒、ガソリンスタンド1軒。それで全部。

 メニューを見て、指さし注文。並んだ漢字から料理や食材が想像できるものもあるけれど、何が出てくるのか、まったく見当がつかないものもあります。
 見知らぬ料理名をひとつ注文してみる。ちょっと冒険。それから、これまでに何度か注文したことがあって、無難な食べ物であることが分かっているものをひとつ注文。

 「ヅィガ、ターラー(大辣)マ?我不要大辣」一応、辛い食べ物が苦手なことは言っておかないと。唐辛子で真っ赤っかな料理が出てきたら食べられない。

 ちょこっと口を開けば、たちまち「よそ者」であることがばれてしまう。「あんたは雲南から来たのか?」
 また、「雲南人」かい?どうして、ここらの人は、「発音がへんな人なら雲南人」と思うのか。どうしようかと思ったけれど「我是、日本人(リーベンレン)」と正直に言いました。
 
 「この村に来て、この食堂でごはんを注文する初めての日本人」になるのかもしれないと思うと、ちょっと緊張。
 私が出会ったほとんどの人は、日本人に対し好意的で、私自身がいやな思いをしたことはないけれど、東北地方には、まだ先の戦争の痛みを抱えた人々も多く残っているし、日本人は嫌いと公言する人もいる。
 反日運動が吹き荒れたころとは違うといっても、日本人と表明したあとは、ちょっと緊張する。

「へー、日本から来たの?仕事?」
「中国に来たのは仕事だけれど、今日は仕事の日じゃないから、旅行だよ」
「ひとりで旅行?誰かに会うために来たの?」
「会う人はいない。ここでご飯食べたら、またもとのところへ帰るの」

 わざわざ辺鄙な田舎にご飯を食べにきた、へんな人だと思われたでしょうね。でも、昼ご飯夕ご飯を食べるために出かけてくるのが、私の1元バスツアー。

<つづく>
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2007年07月13日


ニーハオ春庭「村の食堂」
2007/07/13 金
ニーハオ春庭中国通信>村の食堂

 村の食堂のおばちゃん「おかずは、地三鮮と鍋包肉だね。あいよ、わかった。主食はどうする?米飯も饅頭(マントウ)もあるよ」
 このあたりでは、おかずプラス主食の米飯、饅頭、水餃子などを注文するのが標準。

 米飯は、日本の米とは違うので、私にはちょっとボソボソに思えます。米飯はおいしいと思えず、たいてい水餃子を主食にする。餃子は、日本では「おかず」ですが、中国では主食。
 
 マントウは、小麦やトウモロコシの粉をこねて、平たい円形やまん丸、俵型など、さまざまな形にしたパンのようなもの。日本の肉まんのように、肉餡が入っているものもありますが、これも主食のうち。日本でいえば、「かやく混ぜご飯」みたいなもの。

 また、小豆の甘煮が入っているのもあり、これは日本のまんじゅうの原型になったもの。さまざまな種類がある饅頭(マントウ)のうち、日本ではこの小豆甘煮入りだけが「まんじゅう」として広まったのです。
 中国の人が、日本で饅頭という文字を見て「主食」として買ってみたら、甘い餡が入っているものばかりで、おかずといっしょに食べるものがなくて困るかもしれません。

 注文してから料理ができるまでの間、雨も小やみになってきたので、「厠所 在 那里?(トイレ、どこ)」と、たずねました。
 「この店にはないよ。向かいのガソリンスタンドにあるから、連れて行ってあげる」

 店の人が連れて行ってくれたガソリンスタンドの裏手。
 裏庭が菜園になっていて、じゃがいもや葱が植えてある。畑のすみっこが厠所。
 4角に棒を立て、板を打ち付けて囲ってある。地面に穴を掘って踏み板を渡した、昔ながらの作り。穴は深くないから、人様の残したものが、おしりに届きそうに盛り上がっている。う~、ごはん前に来るんじゃなかった。

 とは、言っても、来てしまったからには、利用しなければなるまい。板を並べたドアを一応閉め、目をつぶって用を足す。
 次に、店の人も利用する。見事にドアは開けっ放し。私がドア前に立っていても平気。
 ドアなしトイレを利用する人、老いも若きも恥ずかしいとはだれも思っていない。

 「日本の温泉では、皆が人前で裸になるでしょう。知らない人の前に裸をさらして恥ずかしくないの? 」と、逆に聞かれたことがある。
 「う~ん、温泉に入るのは慣れているからね」
 「中国の人は、ドアがないトイレに、慣れているんだよ」

 そうだよね。恥ずかしいという感情は「これは恥ずかしいことだ」と、教わったことに対して恥ずかしいのだもの。
 中国の小学校のトイレ。
 十分な数はないトイレを、大勢の子どもが順番に利用するため、もともとドアを設けてていないところが多く、顔を次の人が順番に並んで待っている方に、おしりを奥に向けてしゃがむ。次の順番の人を目の前にして用をたす。みんなそうしているから、温泉で裸になるのと同じで、恥ずかしいなんて言ってはいられない。

 食堂に戻って、茄子(チエズ)の炒め物を食べました。
 写真を撮るとき、日本で「いちに、さん、はい、チーズ」と、笑顔を作るところを、ここらでは、「イーアルサン、チエズ」と言います。ナスは笑顔のもと。
 笑顔を作りながら、茄子、おいしくいただきました。
 
 雨もやんで、薄暗くなってきた村のトウモロコシ畑の中を、元きたデコボコ道、バスでトロトロと戻りました。

<おわり>

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2007年07月14日


ニーハオ春庭「新立城水庫」
2007/07/14 土
ニーハオ春庭中国通信>伊通河の新立城水庫

 村めぐり。
 長距離バスで、ちょっと遠出してみました。
 と、いっても、予定をたてて出かけたのではなく、たまたま長距離バスが止まったのを見て、乗り込んでみたのです。

 バスのフロントガラスに、行き先が伊通と書いてありました。
 地図を頭に思い浮かべて、それほど遠くでないことを思い出したので、いつもの「行きあたりばったりツアー」開始。
 行き先の伊通(イートン)鎮は、「伊通満族自治県」中心地で、80キロほど離れたところの町です。

 長距離バス、500km、800km先まで行くことは当たり前。でも、そんな遠くまでいくバスだったら、日帰りで戻れなくなります。80kmは、日帰りコースにちょうどいい。
 高速道路利用料金込みの高速バス代15元。約90分。

 満族(満州族)は、東北地方を中心に住んでいます。
 遼寧省の瀋陽市には、満族の首長から、清朝の皇帝となった愛新覚羅(アイシンギョロ)一族の最初の宮殿があり、13年前に見学したことがあります。今回行ってみようとおもいついた伊通には、そんな名所はなく、ただ、満族が多数集まっている自治県の町、というだけです。

 満州族自治県といっても、特別変わった町ではありません。
 満州族は、漢族でない少数民族の中では人口1千万人を越え、最大の少数民族なのですが、満州族が清朝を立てて以来、漢族と同化していて、話す言葉も皆、中国語=漢語(ハンユエ)です。

 「満州語」は、すでに死語になっていて、日常生活で満州語を使う人はほとんどおらず、モンゴル文字から改良された満州文字を読み書きする人も、研究者以外にはいません。
 満族出身の清朝皇帝ラストエンペラー溥儀も、満州語を儀礼的に習いはしましたが、日常生活ではすべて漢語でした。

 伊通へは、伊通河に沿って南下します。伊通河の途中、広い湖が見えました。湖の周りは灌漑が行き届くせいか、田植えのすんだ田圃が広がっています。
 この湖、実は人工湖で、伊通河を堰き止めて作られた、水資源確保のための湖です。

 名前は、「新立城水庫」といい、私の住む町の水、四分の一は、この人工湖から取水しています。
 13年前に、半年間暮らしたときには、水不足で、しょっちゅう断水騒ぎがありましたが、現在水不足が改善されたのは、この人工湖のおかげ。
 1970平方キロ、貯水量は5.92億立法メートルだそうですが、数字を言われても実感わかないので、写真をみてください。海のように水平線のかなたがかすむ湖です。

 日本語サイトで「新立城水庫」について言及している唯一のサイト。鳥取県から交流派遣された人が取った写真が、サイト画面の下のほうにあります。 
 http://www.pref.tottori.jp/kokusai/koryu/trend/2006/0607.html

<つづく>
14:28 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年07月15日


ニーハオ春庭「満族の町の床屋」
2007/07/15 日
ニーハオ春庭中国通信>満族の町の床屋

 伊通鎮は、満族(満州族)自治県(人口46万人)の中心地なのですが、要するに田舎町です。通りの両側に店が並んでいて、通りを抜ければ、あとは何もなし。
 見物するような名所もなく、町をぶらぶらすれば、見学おわり。

 私の住む町と違うところは、タクシーの車種。
 私が普段利用している中国で一番安いという初乗り5元のタクシー、第一汽車製造のジェッタ(捷達)という臙脂色の車が大多数。

 伊通のタクシーは、オート三輪。後ろに座席用のいすをとりつけて、ビニールの幌をかけた乗り物です。市内1元(15円)。

 夏は風通しがよいだろうが、冬は寒そう。あのビニールで雨はふせげるのかしら。オート三輪にのって町をひとまわりしようと思いながら歩いていたら、ほんのちょっと町をぶらぶらしただけで、突然雨が降り出しました。
 しかたがないので、軒先に入りました。そこは床屋の軒先。隣は風呂屋。風呂屋は富嶺鎮で入ったので、雨宿りがてら床屋で髪を切ることにしました。

 「我要剪髪」だけ言って、あとは手真似で髪を切るジェスチャー。店の人、うんうん、と納得のようす。分かってもらえたらしい。鏡の前のいすをすすめられたので、はい、ヘアカット、大丈夫よね、、座りました。

 そしたら、いきなり頭にシャンプーを振りかけられた。水とシャンプーを交互に振りかけながら、頭をごしごし。
 美容院では、シャンプー台に仰向けに寝てシャンプーします。
 日本でも、床屋では、このように洗髪しているのを見たことはあるのですが、これまで私は一度も床屋でシャンプーしたことがありませんでした。
 鏡の前の椅子に座ったままのシャンプーは初めてだったので、びっくりしました。

 いすから流しへ行き、お湯をじゃーじゃーかけられて、すすぎ。
 うん、中国に来て、こんなシャンプーしたことも、初めてのいい経験だなあ。カットが少しくらい下手でも、とにかく、シャンプーとカットで5元(75円)だ、文句も言えまい。

 シャンプーは若いオネーサンでしたが、カットはおばさん。
 シャギーを入れたり、段カットしたりというような面倒なものでなく、私のはただのオカッパ。ボブスタイルというものなので、失敗はないだろうと思うものの、まあ、失敗しても「もともと、ヘアスタイルの善し悪しで見栄えが変わるほどの顔でもなし」と、おまかせ。
 
 おばさん、はさみに集中してくれればいいのに、やはり「どこから来たのか、何しに来たのか」と、見なれない客に質問をしてくる。その程度の受け答えはできるけれど、早口で複雑なこと聞かれても、答えられない。
 あとで、紙に書いて筆談するから、複雑な質問はしないでよ。きまった文型しか言えないのだから。

<つづく>
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2007年07月16日


ニーハオ春庭「伊通のオート三輪タクシー」
2007/07/16 月
ニーハオ春庭中国通信>伊通のオート三輪タクシー

 中国、田舎町の床屋。
 ここでも「あんた、雲南人か」だった。よほど、私の顔は、雲南省のどこかの少数民族と同じ顔立ちだと見えるのか。みんなで「雲南人か」と、聞く。それとも、「どこのだれだか分からない人」という意味で「雲南人」と言われるのだろうか。

 ものすごく熱いブローが吹きかけられた。「很熱(ヘンルゥァ)、熱いよぅ!」
 私の発音が悪いせいか、雲南人にとってこれくらいじゃ熱いうちに入らないと思っているのか、おばちゃん、気にせずブローを続ける。っく~、5元だからって、やけどしちゃたまらん。それでも一応終わりました。

 合わせ鏡でヘアスタイルを確認し、ま、こんなもんだろうと「とてもいい。很好(ヘンハオ)」と言いました。

 昔、夫が私に「どんなヘアスタイルをしても似合う女性と、どんなヘアスタイルしても代わり映えしない女性は、どんなヘアスタイルをしてもいいのだ。だから、あなたは、どんなヘアスタイルをしてもいい」と、言ったことを思い出しながら、支払い5元。
 ええ、もちろん私は、どんなヘアスタイルしても~~の方ですとも。く~っ!

 ヘアカットは終わっても、雨がやみそうもない。
 おばさんは、片隅のソファを勧めてくれて、あれこれ聞いてくる。「ウォーシーリーベンレン我是日本人」ま、言えるのはこれくらい。あとは、筆談。

 隣の風呂屋と中がつながっていて、風呂屋とセットで髪を切りにくるようだ。風呂屋の1階にいた人たちが、皆床屋に移動してきた。「めずらしい日本人」を見物に。

 たぶん、この床屋に入った唯一の日本人でしょう。というか、日中国交回復後、この伊通鎮に何人の日本人が来たことがあるのやら。

 雨はますます強くなってきました。よくよく私は雨女?
 これでは町歩きもできないし、帰るしかないかな。

 床屋のおばさんも、風呂屋から私を見物に来ている人たちも、くちぐちに、帰るなら、オート三輪タクシーで、長距離バス駅まで行くとよい、駅までなら1元だから、といいます。よし、雨のなか、バス発着駅まで行くとするか。

 オート三輪を停めて乗り込んだ。
 行き先をいう発音が悪いから、2元取られた。
 いつもなら、「1元のはずだろ、おっちゃん、ボルんじゃないよ!なめんなよ!」と、ケンカするところ(金額だけ中国語、あとは日本語で)なんだけれど、雨だし、隣町だし、おとなしく「よそ者料金」2倍を払いました。2倍といっても、15円のところが30円になった、というだけなんですけれど。

 長距離バス、もう人が乗り込んでいます。
 バスの隣では、白タクが「10元でいくよ」と客引きしている。長距離バスの15元より安いけれど、途中で「高速道路代金50元」とか言うのかもしれないから、やめておく。

 建物の中の窓口で切符を買いました。11元。あれ?来るときは15元だったのに、帰りは安い、と思ったのだけれど、バスのなかで、車掌に「これは高速道路代がついてない」と、言われて、5元払った。あれ?合計16元だ。なんだかよくわからんが、元来た道を戻りました。

 あとで調べると、午後4時半発の長距離高速バス、これを逃したら、またまた「泊まり」になってしまうところでした。
 オート三輪タクシーのおっちゃんとやりあって時間をかけていたら、乗り遅れるところだったので、2倍料金をおとなしく払った甲斐があったというわけです。

 今回の村めぐり、満族の町だけに、満足満足。
 ~くー、寒いダシャレかな。床屋のブローは熱かったのだけれど。

<おわり> 
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ニーハオ春庭中国日記「大連・友有り遠方よりたずねる」

2011-10-07 22:50:00 | 日記
2007/06/18 月
ニーハオ春庭中国通信>朋あり遠方より大連へ

 週末を利用して、大連へ行ってきました。老朋友(ラオポンヨー=長年友情が続いている古い友人)を訪ねての旅。
 13年前に知り合った中国で一番の友人、ハンさん。老朋友といっても、私よりずっと若い、今35歳です。(中国の数え年では37歳ですが)

 13年前に私に中国語を教えてくれた家庭教師であり、9歳だった娘と4歳だった息子が夏休みに中国へきたとき、私が仕事中に世話をしてくれた、子どもたちにとっても大事な人でした。

 このとき、彼女は大学日本語学科に在籍する3年生でした。
 卒業後は日本語教師として働き始めましたが、日本語の上達を願って、日系企業に転職、日本での1年半の勤務を経て、帰国。日本語教師に戻りました。

 子育てをしつつ、かつ日本語を教えながら大学院修士課程に進み、立派に修士号を得た努力家です。今は大学の中堅教師。
 現在、助教授昇進を控えて、授業にも研究にも忙しい時期です。

 論文提出や英語試験の忙しい時期にあたるのに、私を気遣って大連へ招いてくれました。
 (中国の大学では、一般的に、講師昇進時には「中国標準語」の試験、助教授昇進時には英語の試験があるそうです。日本では論文審査だけというところが多いので、昇任システムがちがいます)。

 実は5月のゴールデンウィークにも「いっしょに青島へ旅行しよう」との招待を受けたのですが、この時は彼女が旅行にでかける日と私が仕事を終える日が合わず、残念ながらあきらめた経緯がありました。

 6月中旬、私もようやく仕事がやりくりでき状態になりました。火曜日と金曜日の仕事を交換して、金曜日を休んでもいいことにしてもらい、木曜の夜、内陸から海辺の街へ向かいました。
 1時間遅れで出発した飛行機。夜間飛行の最後、大連の町の灯りがきれいに見えました。

 空港にはハンさんと、ハンサムなご主人が出迎えてくれました。
 木曜日と金曜日の夜は、大学内の「国際会議中心招待所」に宿泊。

 彼女は、登山やハイキングが趣味のご主人、歌と踊りが大好きな娘のシンシアといっしょに大学職員住宅で暮らしています。

 毎週のように土日には登山に出かけるご主人、この週末も友人とキャンプに出かけると言います。
 たぶん、私が気遣いなく土曜日の夜、彼女の家に宿泊できるように、出かけるスケジュールを組んでくれたのではないかと思います。

<大連つづく>



2007/06/19 火
ニーハオ春庭中国通信>大連の大学キャンパス見学

 大連は、北京や上海の次くらいに、日本人にもなじみの深い町。遼東半島の先端にある港町です。

 1899年にロシアが中国から租借地を得て、海辺の辺鄙な地だった青泥窪に、極東経営の要として都市を建設、「遠い東の地」という意味のロシア語「ダーリニー・ヴォストーク」と名付けました。
 日露戦争後、日本が租借権を得て、ダーリニーに大連の漢字をあて、中華人民共和国建国後も大連の名のまま発展してきました。
 人口650万人、経済開発区には、1000社もの日系企業が進出し、投資額も大きいため、若者の日本語学習熱も他の都市を上回って盛んなようです。

 彼女の勤務するソフトウェア学部(軟件学院)は、数年前に本部から経済開発区ソフトウエアパーク(軟件園)に移転しました。
 大連市西部にある本部キャンパスから車で1時間(ラッシュ時の渋滞時間を含む)離れた場所にある、経済開発区の中の「大連ソフトウェアパーク(大連軟件園)」は、中国のシリコンバレーにすべく開発された特区です。

 外国語学部日本語学科だけではなく、理系の学部でも、日本語は第一外国語、第二外国語として学ばれています。
 ハンさんが教えている学部では、専門のソフトウエア研究のほか、卒業時には日本語能力試験2級合格と英語検定試験合格を義務づけており、日系企業その他の就職に有利なようにはかられています。
 
 ハンさんは、現在1年生の「初級後半」の授業と視聴覚授業を受け持っています。
 90分のうち、普段は教科書60分、テレビドラマ視聴30分のメニューですが、15日の金曜日、視聴覚の時間をさいて、スペシャルゲスト「3月に日本からやってきた日本人教師」による日本語特別授業を行うことになりました。

 最初はそんな予定はなかったのです。
 最初は、ただ「大学内を見学したい」と、ハンさんの仕事場までついていきました。
 ハンさんの教科書の授業を見せてもらう計画だったのですが、せっかく日本人がやってきたのだから、学生たちのために何かしゃべってもいいんじゃないか、ということになりました。

 30分の持ち時間のうち、15分はコンピュータのパワーポイントで写真を見せながら日本の生活文化について解説。
 食文化、衣文化など、身近な生活について、中国と同じところ、同じように見えて違うところなど話しました。
 また、質疑応答では活発に質問が出て、日本語を学ぶ学生たちの日本への強い関心がうかがえました。

 学生たちは、日本の生活のうち表面に見える部分については、よく知っています。この日の授業でも、教科書に入る前に視聴していたのは、日本のテレビドラマ『医龍』です。

昨年2006年に日本で放映された病院を舞台にしたドラマで、むずかしい医学用語なども出てくるのですが、学生たちはヘッドフォンで日本語をきき、中国語字幕で内容を確かめながら、視聴していました。

 生死を直接扱うドラマのストーリーを楽しむと同時に、テレビドラマのなかに表われている現代日本の社会や家庭のすがたが、よい学習材料となっています。

<大連つづく>
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2007年06月20日


ニーハオ春庭「大連で授業」
2007/06/20 水
ニーハオ春庭中国通信>大連で授業

 私の写真での日本紹介は、テレビドラマから学べるような、生き生きした現代社会を反映したものとはすこし違っていて、生活文化の歴史についてからはじめました。

 衣服の文化について。
 日本の衣服はどのような歴史を経て現在のようなスタイルになってきたのか、源氏物語絵巻の十二単や、浮世絵の女性の着物などを紹介し、着物の着付けはこのようにやる、というスライドショウを見せました。

 着物の着付けの複雑さに、学生たちびっくり。
 日頃、着物を着ている女性はテレビドラマのなかで見ることができても、このように、長襦袢、着物、帯の着付けの仕方を紹介することはありません。
 学生たち、和服の帯は、背中に座布団をくくりつけているのではないことが、初めて分かったのではないかと思います。

 食文化の紹介。
 弥生時代の食事メニューを再現した写真。奈良時代のメニューなど、日本人の食事の紹介。

 和食の献立。代表的な料理の写真。
 食材や調味料。醤油やマヨネーズは、同じように見えても、中国で売っているものは、微妙に味が違うことなども話しました。キューピー合弁会社のマヨネーズ、日本のより甘みが強い。

 昨年9月に入学した1年生の学生たちは、日本企業で働くことや日本留学に興味を持っているので、「日本の生活は物価が高いだろうけれど、留学生たちはどのように暮らしているのか」とか「日本企業でソフトウェアエンジニアとして働くとしたら、初任給はどれくらいか」とか、質問がでました。

 初任給は会社によって異なるけれど、大学卒初任給は20~30万円くらい、というと、「すご~い」と、その「中国に比べると高給」に驚いていました。

 「でも、中国で1元で売っているペットボトルの水は、日本では10元しますよ。食べ物は中国の10倍から20倍するし、東京近辺で風呂付き部屋を借りるなら、30~50平米の狭い部屋でも一ヶ月に10万円くらの家賃を払わなければならないから、中国で3000元(4万5千円)の給料をもらう方が、ずっと豊かな生活を楽しめる」というような解説をしました。

 給料の高さだけで日本を選ぶなら失望することもあるでしょう。
 でも、若いうちに外国で勉強したり働いたりすることは、とてもいい経験になるから、ぜひみなさん、日本へ来てください、とすすめて話をしめくくりました。

 次の1年生クラスの授業では、前半は「一番日本語が上手な学生」が「日本人と会話できる特権」を得て、キャンパスを案内してくれました。その間、他の学生たちは、教科書の復習授業。

 一学部だけのキャンパスなのに、広い、広い。歩き疲れました。
 案内してくれた1年生は、「水曜日に体育の授業があるので体育館まで歩いていくけれど、寮の部屋から同じキャンパス敷地内の体育館まで15分くらいかかる」と、言っていました。  

 後半は1コマ目と同じように写真スライドでの日本紹介と質疑応答。
 最後に学生たちと記念写真をとって、お別れしました。

 日本の大学では語学授業は「単位をとるためにしかたなく」学ぶ学生も多いし、設備も整っていません。せいぜい、ビデオ、CDや録音テープくらい。
 でも、さすがに最先端のソフトウェアパークにある大学だけに、ハンさんの語学教室の設備のすばらしさにびっくりしました。

 ハン先生は、DVDやパワーポイントを駆使して授業を行い、私たちが日本の大学で黒板にチョークで説明を書くところを、パソコンのキーボードでささっと打ち出した文字をスクリーンにうつして説明していました。

 私は中国にきて、今の勤務校で初めてパワーポイントをつかった授業をしてみたのです。日本ではまだまだ各教室にパソコン、スクリーン、DVDプロジェクターなどを完備したところは少ないです。
 理工大学ソフトウェア学部の設備は、勤務校を上回るものでした。

 ハン先生と学生食堂で米繊(ミンシェン)を食べて、午前中のスケジュール終了。

<大連つづく>
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2007年06月21日


ニーハオ春庭「大連の山と海」
2007/06/21 木
ニーハオ春庭中国通信>大連の山と海

 金曜日午前中に訪れた、経済開発区の軟件学院(ソフトウェア学部)。
 すぐ後ろには大連で一番高い山、大黒山がそびえています。標高663m。
 山をバックに写真を撮ったあと、バスで、いったん宿舎の国際会議中心招待所へ戻りました。
 午後は、海辺へ。

 私は、「どこへ行くのか知らないバス」に乗って、終点まで行って折り返してくる「ミニ・ミステリーツアー」や、「ただ電車に乗ってまわりの景色をみている」ことが好き。今、住んでいる町でも、週末にバスに乗って町中をただ走っているだけで楽しいです。
  私がハンさんに「大連でやってみたいこと」と、希望したことのひとつは、「トラム(路面電車=市電)」やバスに乗って町の中を走り回ること。

 大連には、昔ながらの路面電車が残っています。
 3系統のうち、町の西部を走る202系統は2両連結の新型トラム。流線型の新幹線のような形。
 大連駅から左右に伸びている201、203両系統は、海老茶色や緑色のレトロな車両が多いです。

 6月14日、金曜日午後。大連西部地域に位置する大学から、まず202系新型トラムで市の中心地へ行きました。
 それからバスとトラムを乗り換えながら、旧満鉄時代の駅舎がそのまま利用されている沙河口駅を見て、次は201系統トラムで大連駅へ。203系統に乗り換えて、魯迅路を通って終点の東海公園へ。市の、西から東へ、トラム全部に乗ったことになります。

 東海公園は、大連市の東端にある海辺の公園です。海も眺められるし、台子山、東山という山でハイキングもできる風光明媚な市民の憩いの場です。
 早朝と夕方7時からは無料ですが、私とハンさんが入場したのは6時20分だったので、入場料ひとり20元きっちり取られました。
 海之韵広場やゴマフアザラシの飼育池などの名所を散歩しながら海辺を回りました。

 台子山は、標高189mにすぎないのですが、海辺に立つ189mの石の山は、なかなかの偉容です。近づいていくと、地学・地質の先生たちなら、きっといろいろな発見があると思うような地層や柱状節理の岩があるのですが、私にはどの地層を見ても、区別がつきません。

 「大連山の会」のメンバーであるハンさんは、何度も歩いているコースなのだそうです。「でも、階段ばかりの山道なんでしょう?」と、泰山登山で階段登りに疲れてしまった私が聞くと、階段の道も坂道もあるとのこと。

大連東端の東海公園から、大連港の方向に沈む夕日を眺めました。
 夕暮れの海には、釣り船が浮かんでいます。海岸の堤防から釣り糸をたれている人もいます。

 そうだ、魚!9年ぶりに会う朋友とながめる夕日もロマンチックですが、花より団子、夕日の海より海鮮料理! 
 というわけで、夕ご飯は大連名物の海鮮料理へ。

<つづく>
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2007年06月22日


ニーハオ春庭「大連海鮮三昧」
2007/06/22 金
ニーハオ春庭中国通信>大連海鮮三昧

 私が暮らしている内陸地の町でも、冷凍冷蔵輸送の発達した現在では、魚や貝も豊富に手に入れられるようになっていますが、なんと言っても海辺の町大連に来たからには、海鮮料理が楽しみのひとつです。

 大連に住む朋友ハンさんのご招待で、「東海明珠美食城」という海鮮レストランへ行きました。大連でも評判のいい店だそうです。
 注文コーナーには、生け簀や水槽に、各種の魚、貝、蛸、蝦などがウニョウニョと動いています。客は料理してほしい食材を選んで、料理方法などを注文します。

 ハンさんは、海草と蝦の和え物、ホタテの煮物、蝦と野菜の鍋、赤貝の刺身、などを注文してくれました。
 ビールはこの店独自に作っているハウスビール。ちょっと変わった風味でおいしかった。

 赤貝の刺身、わさび醤油でいただきました。おいしいおいしいとぺろりと食べてしましましたが、あとで聞いてみると、やたらな店で刺身を注文してはいけないのだって。
 新鮮な材料を清潔に料理できる信用できる店でないと、生の海鮮でひどい下痢になった日本人の話は数知れず、、、、とか。

 実をいうと、私の上司もゴールデンウィークに大連に来て、最初の日に腹痛。6日間の大連滞在のうち、中4日間は病院で点滴を受けていたといいます。
海鮮料理にあたったのではなく、ビビンバの上にのっていた半熟卵が原因らしいこと。ついに海鮮は食べずじまいだったと、悔しがっている上司に、海鮮のうまさをたっぷりと土産話にしてやろっと。意地悪な私。

 高い店だから清潔で安全、というわけでもなく、客の目に見える店の中がいくらこぎれいでも、厨房は別。

 繁盛していて客の回転がよく、常に新鮮な食材をおいていること。料理人が生の食材を扱い慣れていて、包丁やまな板まな箸にまで気をつけていること。衛生観念が一般の中国の厨房より高く、下働きの調理人や服務員にまで衛生教育が行き届いていること、、、、、

 鍋や煮物は食べきれないので、残った分はテイクアウト(ダーパオ=打包)。
 気軽に「ダーパオ」と言えるのは、最近の中国のいいところ。昔は「残しておくのが、礼儀」でした。

 全部食べたら「私はまだ満腹していない、あなたのもてなしは不足している」という意味になるから、皿の上に半分は残しておくのがもてなしへの感謝の表し方でした。もてなすほうは、太っ腹を表すために、皿の上をそのままにしてレストランを去る。

 私にはもったいなく思えて、昔はいつも「残った分を持って帰りたい」と思ったもんですが、今は、親しい人同士の会食なら、ダーパオOKです。
 おなかいっぱい食べて、二人で150元ほど。日本円にするとひとり千円ちょっとくらいです。

<大連つづく>
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2007年06月23日


大連家庭料理
2007/06/23 土
ニーハオ春庭中国通信>大連家庭料理

 土曜日の夕食は、まず、海鮮市場へ買い出しに行きました。玉華市場という、生きのよさで知られる市場なのだそうです。
 店先の木箱には、さまざまな魚、貝、海産物がうごめいています。魚はピョンピョン跳ねているし、蟹や海老、貝などもモゾモゾと動いています。

 ばふんウニ(馬糞雲丹)、殻に入っているもの、1斤(500g)20元。アワビ1斤25元。貝(はまぐりの一種だそうだけれど、日本で見る蛤よりずっと大きかった)のむき身1斤20元。
 中国の食材の中では、「ぜいたく」なもののほうですが、生きて動いているアワビが1個100円くらいで食べられるなんて、文字通り有り難いこと。

 夕食はハンさん手作りの水餃子。
 中国では焼き餃子はめったに食べません。ほとんどが水餃子。たくさん作った水餃子が残ったときに焼き餃子にする程度。餃子本来のうまさを味わうには水餃子が一番といいます。

 中国の女性が「餃子を作る」といえば、皆、小麦粉を練るところから始めます。
 小麦粉に塩や水を入れてこね、棒状にします。小さめの団子にちぎって、粉をひいた台の上でころころと転がして球にし、その球を綿棒でくるくるとのして皮を作ります。くるくるの具合が、皆手早く、あっという間に薄い円形になります。

 具は、家庭によって「おふくろの味」がちがいます。どの中国人にとっても「うちのおふくろの餃子が最高」なんだって。
 50年も昔のこと、私の母親が最初に覚えた中華料理が「八宝菜」、次だか次の次だったかが「餃子」だったので、私にとっても、餃子は思い出の「おふくろの味」のひとつです。

 ハンさんは、ナマコと貝と蝦を細かく切ってニラと混ぜ合わせ、海鮮餃子の具を作りました。包むところは私もほんのちょびっと手伝いました。
 こどものころ、母に半分邪魔にされながらも一生懸命皮に具入れて包んだことを思い出しながら。

 ハンさんは、「センセー、お上手ですね」とほめてくれましたが、10個くらい包むと、「先生、居間でゆっくりなさっていてください」と、丁重な「休憩のすすめ」をいただきました。アハッ、半分邪魔というより、全面的におジャマになってしまうお手伝いだったんですね。

 ばふんウニの殻を、はさみでジョキジョキ切ってお皿に並べると、朱色の実(?)が鮮やかです。
 ウニョウニョ動いていたアワビ、茹でただけの超カンタン料理ですが、お醤油をたらしてかぶりついたら最高!
 山国田舎育ちの身には、夢のような海鮮三昧でした。

<大連つづく>
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2007年06月24日


ニーハオ春庭「大連さくらんぼ」
2007/06/24 日
ニーハオ春庭中国通信>大連さくらんぼ

 大連周辺は、遼東半島の中で「果物名産地」のひとつです。
 りんご、梨、桃など、いろんな果物がおいしい。ハンさんの実家も、りんご果樹園をもっている農家でした。

 6月15日土曜日、ハンさんが「大連サクランボ狩り」に連れて行ってくれました。
 ハンさんの同僚たち、ソフトウェア学部(軟件学院)の、英語の先生日本語の先生が家族同伴で郊外のさくらんぼ農園へ行くツアーに、私も「ハンさんの家族」として混ぜてもらったのです。

 行き先は、旅順方面へ50kmくらいのところ。「大学職員バス」貸し切りで1時間ほどで、龍頭鎮という地域にあるさくらんぼ農園につきました。
 
 バスを降りてさくらんぼや桃の木の間を歩き、「どの木からとっても、直接口に入れるのは食べ放題、おみやげに持って帰るのは1斤10元から15元(500g、150~200円くらい)」という注意を受けて、サクランボ狩り開始。

 見慣れたソメイヨシノとは違う種類の木。幹は太いですが余り背が高くありません。どの枝にもびっしりと実がついています。
 緑の葉の間の赤い実が、日の光を受けて、宝石のように輝いています。
 私はこの真っ赤なルビーのようなさくらんぼを取っていましたが、「こちらの黄色い種類のほうがおいしいよ」という人がありました。

 黄色にほんのり紅がさしている種類、こちらは実が堅いけれど、美味しい。赤いほうは実がやわらかく、口に入れた感じはこちらのほうが甘い気がするのだけれど、おみやげなら、実が堅い方がモチがいいのだと、あとでききました。

 私は赤い方ばかり摘んでいて、「混ぜると計量できないから、赤と黄色は別々に袋にいれたほうがいい」というので、摘むのはもっぱら赤いほうにして、黄色い方は、おなかの袋に入れました。

 黄色いさくらんぼを食べるとつい、♪若い娘がウッフン、お色けありそでウッフン♪なんて鼻歌歌いたくなってしまうところが、若くない証拠ですね。

<大連・つづく>


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2007年06月25日


ニーハオ春庭「あんな夢こんな夢いっぱい」
2007/06/25 月
ニーハオ春庭中国通信>あんな夢こんな夢いっぱい

 職員親睦のさくらんぼ狩りに「同行の家族」は、ハンさんと小学校2年生のシンシアちゃん。ほかの先生たちも、お子さんを連れています。

 シンシアは、中国名は「シンシン」ですが、幼稚園のときから習っている英語教室のクラスネームがシンシアなので、そちらが気に入って「シンシア」を呼び名にしています。

 とてもかわいらしいお嬢さんで、歌と踊りがじょうずです。毎週土曜日にダンスのレッスン、日曜日には英語とピアノのレッスンがあり、多忙な小学生。

 日頃は、お母さんは朝早くの通勤、帰宅も遅いので、おばあちゃんと過ごすことが多いので、週末はお母さんにいっぱい甘えたいシンシアちゃん、母娘、仲良くさくらんぼを摘んでいます。

 みな、おなかいっぱいサクランボを食べたあとは、木陰で休憩。
 ハンさんが紹介してくれた同僚のうち、ハンさんの上司にあたるリュウ先生は、私の勤務校に大学時代のクラスメートがいるのだそうです。
 日本の日本語教育業界もそうですが、中国も、この業界けっこう狭い。どこに行っても知りあい同士がいる。

 日本に留学して博士号を得たリュウ先生、出産子育てをしながら仕事を続けてきた人で、ハンさんにとって「大学では先輩であり、大学院では指導教官であり、仕事では上司」そして仕事を持つ女性としてライフスタイルを学ばせてもらった、という大事な人です。
 リュウ先生の息子さんはシンシアの通っている小学校の1年生。

 シンシアちゃんや、同僚の子どもたちが、かわるがわるお得意の歌や踊りを披露してくれました。
 最初は恥ずかしがっていたリュウ先生の坊ちゃんも、大きな声でうたいました。

 シンシアちゃんは、踊りをならっていて発表会などにも出ているので、木陰のにわかステージでも、ものおじもせず、にこにこ笑顔で歌と踊りを見せてくれます
 シンシアのお得意の歌のひとつは、日本語の「ドラエモンの主題歌」。ドラエモンは、こちらのテレビで放映されていて、子どもたちの人気者です。
 テレビから流れてくる主題歌は日本語ですが、中国なまりの発音の中国女性の歌声です。

 ♪「こんなこといいな、できたらいいな、あんな夢こんな夢いっぱいあるけど~♪」シンシアの日本語の歌、とてもじょうずです。

 宝石のようなさくらんぼの実が輝く木の下で、かわいい歌声を聞くことができて、ほんとに「あんな夢こんな夢」を、「みんなみんなみんな、かなえてくれる不思議なぽっけでかなえてくれる~」いう気分でした。

 おみやげは、不思議なポッケいっぱいのさくらんぼ。
 ドラエモンのおなかについている四次元ポケットからは、便利な道具がいろいろ出てきますが、私のおなかの不思議なポケットは、さくらんぼ食べてもビール飲んでも、それを脂肪のかたまりに変えてしまう不思議なポケット。

 さくらんぼをいっぱい詰め込んで、、、、 不思議だなあ、いつのまに、こんな脂肪のかたまりにかわっている、、、、って、毎日食べ過ぎた結果というだけですね。

 <大連つづく>
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2007年06月26日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(1)」
2007/06/26 火
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(1)

 サクランボ狩りからの帰り道、大連市内へ戻る同僚たちと分かれ、バスを下車。「近頃はやりの東北田舎料理の店」へ行きました。
 駐車場には車がいっぱい。大連やもっと遠くからも、グルメを乗せた自家用車が押し寄せてくる、名物店なのだそうです。

 一種の「食のテーマパーク」になっているレストランで、オンドルを備えた東北の田舎風の家を模して立ち並んでいる客室に、服務員が行き交って厨房から料理を運んできます。
 中庭には、実際に水くみをしている井戸、粉やトウモロコシを挽く回転式の大きな石臼などがおいてあって、田舎の暮らしを再現しています。

 ハンさんの思い出話。
 「母が豆を石臼でつぶして豆腐をつくるとき、あそこにあるのと同じような石臼を、自分たちの力だけで回して豆を呉にしていました。
 本当は大きな石臼をロバに引かせてぐるぐる周らせて動かす方式だったんですが、個人が豆腐を作るためには、ロバを使わせてもらえなかった。
 私が子どもの頃の農村は集団農場方式で、ロバは村の共同財産でしたから、個人利用ができなかったんです。母は、苦労して石臼を挽き、子どもたちもお手伝いしました」

 お母さんが豆腐を作ってお父さんが町に売りに行き、村のなかでも「現金」を得ることのできる一家だったので、ハンさんは農家の出身でも大学まで進学できました。
 ハンさんの頭のよさから、ご両親の才覚あるようすがうかがえます。
 自由に経済活動ができなかった昔の農村を考えると、ハンさんが優秀な人であるとしても、娘を大学に進学させてやるのは、ご両親にとってなかなか大変なことだったのではないかと思います。

 シンシアは、楽しそうに石臼の前で写真を撮っていました。
 シンシアと私の会話は片言英語と片言中国語です。シンシアの英語、週に一回のレッスンだそうですが、日本の大学生より上手に英語の会話ができます。
 お母さんが日本語の先生なのに、シンシアは日本語より英語のレッスンが好きで、日本語は「ドラエモンのうた」だけ覚えたんだって。

 一番大きい棟では、結婚式が行われていて、テーブルの上には次々とごちそうが運ばれてきます。
 白いウェディングドレスを着た花嫁さんは、花婿さんと、腕を廻し合って飲み物を飲むようすを、皆に披露したりして幸せそうです。

 伝統的な中国の花嫁衣装は赤いチャイナドレスでした。
 赤はお祝いの色で、「白はお葬式の服の色」だったので、結婚式には使わなかったのに、最近は白い西洋風のウェディングドレスが主流。
 女性は「プリンセス(小公主)のようなドレスを着たい」と、小さな女の子だったころに夢見たような、すてきなドレスに身を包んで結婚式を迎えるのでしょう。

 スピーチをする花婿の前にシャボン玉が吹き出したりする演出もあり、昔に比べて結婚式も年々派手になってきたようです。
 13年前も、日頃は倹約していても結婚式などのイベントでは、派手に客を招待するのが中国式でしたが、豊かになってきている都市近郊農村の結婚式、どんどん「ド派手度」がアップしてきたのかも。

 結婚式の棟をぬけて、生け簀の棟へ。ここも、食材が水槽や生け簀に並んでいる中から、客が食べたいものを選ぶ方式です。
 さよりの唐揚げ、田舎風の麺、羊肉の焼肉串、寒天料理などが私たちのいるアウトドアテーブルに運ばれてきました。

 日本で私は、寒天を食べるときトコロテンとか牛乳羹などのデザートで食べるくらいでしたが、中華料理では、料理の素材として使われ、煮物や和え物、いろんな調理がなされます。
 ダイエットにもいいので、もっと寒天料理をたべたほうがいいのかも。

 メインディッシュは「東北干しきのこと鶏肉の煮込み」、ここの名物料理とか。
 どれもおいしかったです。

<大連つづく>
07:22 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月27日


ニーハオ春庭「石臼と小公主(2)」
2007/06/27 水
ニーハオ春庭中国通信>大連・石臼と小公主(2)

 土曜日の夕方、シンシアは「ダンスのレッスン」へ。
 レッスン後半を見学させてもらいました。レッスン前半の、柔軟体操や基礎訓練の部分は見学禁止。
 私が日本で練習しているダンスも、前半は柔軟運動や、ルルベプリエ、ジュッテ、ピルエットなど、バレエ基礎運動が中心なので、見学しなくてもたぶん、同じような基礎訓練だろうと、想像がつきます。

 シンシアたちの踊りは、日本の「創作児童舞踊」と同じ雰囲気です。
 5時半から7時までは小学生のクラス。7時からは中学生以上の人のクラスです。
 大学付属幼稚園の中にある「舞踊練習場」で行われているレッスン、三方の壁に鏡とバレエレッスンバーが取り付けてあります。

 月末にダンスの競技会があるそうで、先生の指導は実に厳しいものでした。
 先生が模範の演技をやってみせたあと、先生のようにできない子を、容赦なくしかりとばします。日本だったら、こんな厳しい先生だと生徒が逃げ出してしまうのではないか、と心配になるのに、ハンさんは「厳しければ厳しいほど、生徒の技量があがり、親は先生を評価します。もし、甘い先生だったら、親は先生を信用しないでしょう」と、いいます。

 この話を聞いて、腑に落ちたことがありました。
 学生の作文に日本語授業の感想が書いてあったのですが、「日本人の先生たちは、とても厳しく私たちを指導してくださいます」と書かれていて、「え、私、そんなに学生に厳しくしているつもりはないのに、宿題出し過ぎているかしら」と、ちょっと心配したことがあったのです。まあ、それ以後も、宿題はバンバンだしているんですけど。

 ハンさんにだずねてみると、「厳しい先生」と評価されることは、学生たちが先生の指導を「いいかげんではなく、きちんと指導している」と認めていることになり、日本語で「先生は厳しい」と表現するニュアンスとは異なる、ということでした。
 そうだったのか!

 シンシアはレオタードに長いレッスンスカートをはいて練習していますが、本番のときにはお姫様のようなスカートをはくのでしょう。
 母親が「シンシアには踊りの才能がある」と、いうように、レッスン生の中で、動きが一番よかったです。

 シンシアは、ダンスと英語とピアノを習っています。ピアノレッスン、月謝は月に100元と聞きました。共働きの夫婦であっても、月謝100元はそう安くはない出費になります。シンシアは、大学付属小学校に通い、ピアノや英語のレッスンを受け、恵まれた教育を受けています。

親の服を買う費用を削っても、大事な大事な一人っ子のため、教育費につぎ込むのが現代の中国。一人っ子は、両親、祖父母の愛情を独り占めして小皇帝、小公主(王女さま)のように育てられています。

 石臼を挽くにも苦労の連続だったハンさんのお母さんの時代から、楽しそうにダンスに興じるシンシアちゃんの姿まで、中国の移り変わりの大きさにびっくりします。
 豊かさを満喫するようになったシンシアの世代。でも、おばあちゃんたちがどれほど苦労を重ねてきたのか、新しい世代にも忘れてほしくないと思います。

<大連つづく>
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2007年06月28日


ニーハオ春庭「小公主と、星に願いを(1)」
2007/06/28 木
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と、星に願いを(1)

 土曜日夜、ハンさんが夕ご飯を作っている間、シンシアちゃんといっしょに過ごしました。家族のアルバムをみせてもらったり、シンシアがピアノをひいているところを写真にとったりしました。

 シンシアは、大好きな絵本「小公主(シャオゴンチュァ)」をみせてくれました。
 ディズニープリンセスが出てくる絵本で、シンシアは「これは愛麗儿(アリエル)、これは愛洛(オーロラ)」と、小公主(プリンセス)の名前を教えてくれます。
 
 ハンさんは、「私が子どもの頃、お姫様にまったく興味がなかったのに、この子はお姫様とかきれいな服やアクセサリーとか、女の子らしいものが大好きで、私とぜんぜん違ってます」と、言います。

 シンシアが日本語ではなく、英語のほうが好きなのは、「大きくなったら、ディズニープリンセスになりたい」からのようです。

 日曜日の朝、シンシアはおばあちゃんに連れられて英語とピアノのレッスンにでかけました。
 自慢の孫がかわいくてならないおばあちゃんと、教育に心を砕く両親に囲まれて、シンシアはすくすくと成長しています。

 一人っ子の娘に十分な教育を与えてやれると思う一方、ハンさんは「シンシアに弟か妹がいたらなあ、と、かなわぬ願いを持ったこともあります」と、言います。

 1979年以後、「漢民族の場合、子どもはひとりだけ」という政策が厳しく指導され、80年代以後の子どもたちは、兄弟がいない。シンシアも、もちろん一人っ子です。
 ハンさんの知りあいは、アメリカ滞在中に二人目を出産したことを隠したまま帰国し、仕事に復帰しました。しかし二人目の子がいることが露見したとたん転勤(という名の左遷)させられ、結局仕事を辞めざるをえなくなったとか。

 また、農村では「二人目の子を役所に届け出られず、戸籍に入っていないため教育も受けられない子」もいると聞きます。
 出生前に男女の区別を知ることができる現代、新生児は男児の出生が多い。男の子が家を継ぐことを願う中国の伝統的な考え方から、胎児が女児だとわかると、出産をやめてしまう夫婦もあるからです。男女比率のアンバランスから、将来は、「嫁不足」という問題も起きてくると考えられます。

 中国13億の人口のうち、55ある少数民族は二人以上の子を持つことが認められています。
 人口のほとんどを占める漢民族の場合、夫も妻も博士号を持っていると、二人目の子が認められる。
 少数民族については、まあ、納得だけれど、「夫婦とも博士号」というほうは、優生思想みたいで気分悪い。

 今、80年代以後に出生した一人っ子が結婚適齢期を迎えています。一人っ子同士が結婚した場合は、二人目の出産が許可されています。

<大連・つづく>
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2007年06月29日


ニーハオ春庭「小公主と星に願いを(2)」
2007/06/29 金
ニーハオ春庭中国通信>大連・小公主と「星に願いを」(2)

 人口そして食料問題は中国の大きな課題なので、これからも当分人口抑制政策が続くのではないかと思いますが、余裕がでてきた中産階級には、「二人目の子をもてない」ことの不満がくすぶっています。

 60億人の全地球人口のうち、13億人は中国人。つまり地球にいる4人にひとりは中国人です。全体の人口問題を考えるなら、「自由に生んでよくて、どんどん中国人が増えていったら、地球のほとんどは中国人」になるだろうと思うし、食糧問題など深刻になるという政府の政策もわからないではないですが、個人の人生をみると、「子どもに兄弟を与えてやりたかった」「子どもの出産をどうするかは、個人の人生に属する人権問題」というのもわかり、複雑なところです。

 生まれた子にできるかぎりのよい環境を与えてやりたいのは、どの親も同じ。皆、夜には星に願いをかけ、こどもの将来が明るいものになるよう、祈ります。

 ディズニー版ピノキオでは、こおろぎさん(ジムニークリケット)は、♪輝く星に心の夢を、祈ればいつか叶うでしょう♪と、やさしく歌い、ピノキオの「よい心」を表現しています。

 ところが、イタリアのカルロ・コローディーが書き、1883年に発売された初版本では、コオロギがピノキオに「よい心」を持つように話しかけると、ピノキオは「うるさい!」と、コオロギを叩き殺してしまう。
 監督ロベルト・ベニーニ自身がピノキオを演じた実写映画版は、原作に忠実だったので、大甘のディズニー版を見慣れた観客には評判が悪かった。

 「一人っ子政策」が、人口抑制の成功例となるのか、さまざまな問題を引き起こす原因となるのか、まだわかりません。
 一人っ子の未来は、ディズニーの「星に願いを」の甘い歌声になるのか、原作本やベニーニの映画のように「良い子になりなさい」と説教するウットーシイやつをたたき殺してしまう結果になるのか。

 ディズニーのお姫様が大好きなかわいいシンシア。
 大きくなったらディズニーのお姫様になりたいという夢、かなうといいね。

 星に願いを 祈ればいつか あなたの夢が かなうでしょう
   ♪When You Wish Upon A Star Your Dream Comes True. ~♪ 

<大連つづく>

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2007年06月30日


ニーハオ春庭「大連住宅事情」
2007/06/30 土
ニーハオ春庭中国通信>大連住宅事情

 ハンさんのご主人がつとめる日系企業も経済開発区の中にあります。ふたりの通勤時間を考えれば、経済開発区のなかにあるご主人の社宅に住む方が便利です。
 しかし、ふたりにとって一番大切なことは、「一人っ子」の娘シンシアちゃんの教育のこと。

 シンシアが大学本部キャンパス近くにある付属小学校に通っているため、娘の教育を第一に考えて本部キャンパス大学職員住宅のほうで暮らしてきました。経済開発区の職場まで、夫婦とも通勤に1時間以上かかります。
 東京の感覚でいうなら、国立市から東京を抜けて、幕張メッセへ通勤するっていう感じかな。

 ハンさんが出勤中、朝夕のシンシアの世話は、すぐ近くに住む姑さんがしてくれます。 朝6時には家を出なければならない通勤ですが、おばあちゃんが孫の朝ご飯を世話し、学校から帰ったあと預かってくれるおかげで、共働きを続けることができます。
 住宅は、何よりも娘の小学校に近いところ、というのが第一条件です。

 日系企業に勤務するご主人の会社から支給されている住宅は人に貸して、お金を貯め、ようやくローンで家を買う手続きが完了したと、うれしそうでした。
 引っ越す予定の新居は、中古アパートメントハウスの5階。現在の住居から数分のところにありますが、今よりもっと付属小学校に近くなる。

 「88平米で42万元(約630万円)で、半分が頭金、半分がローン。今のふたりの給料でだせるぎりぎりの値段で住宅を探しました。古くてもいいから安い物件という条件で選んだので、内装も全部直さなければ住めないのだけれど、大連は、今どんどん家の値段が上がっているので、これ以上掘り出し物を待ってお金を貯めてからと考えていると、手が届かなくなってしまうから」と、住宅の値段も教えてくれました。

 大連の海辺の高級住宅地。1平米1万元。平均100平米のマンションが100万元(1500万円)くらいで、一般的な共働きの夫婦にはとても手が出ない値段です。
 しかし、日本人にとっては、100平米で1500万円ならお手頃な値段なので、日系企業などが社用にどんどん住宅を買う。で、住宅高騰が続き、住宅ブームといっても、一般の中国人にとっては高値の花になってしまう。

 新居の前まで連れて行ってくれました。まだ、現在の居住者が入居中なので、中は見せてもらえません。
 7月いっぱいで前住者出ていくので、内装リフォームが済みしだい、大学が夏休みの8月中には引っ越しするそうです。

 広さからみたら「お買い得」なアパートメントハウスですが、難点は、「ここの5階に入居しますが、エレベーターがないんです。以前の中国建築基準では、7階くらいの高さまでエレベーターなしのビルが許可されていたので、一般住宅にエレベーターがついている物件はほとんどありません」

 う~、2階へ行くにもエレベーターを使いたくなってしまう、階段大嫌いの私にはつらい仕様かも。ダイエットにはよさそうだけれど、いくら食べても太らないという細いハンさんが、ますます痩せてしまうと困ります。

 今のハンさんの住宅は、居間が日本風にいうと15畳くらい、夫婦の寝室が12畳くらい、子ども室が6畳くらい、ダイニングキッチンが4畳半くらい。トイレシャワー室が2畳弱くらい。
 日本の一般的な団地サイズよりずっとひとつの部屋が広いですが、日本人にはバスタブがないのがつらいかも。お湯にひたって一日の疲れをとる人が多いので。
 たぶん、他の大学職員住宅の部屋も同じようなつくりでしょう。シャワーのみのほうが多く、バスタブを備えている家は、中国のアパートメントハウスでは少ないのかもしれません。
 
 こうして、中国の一般家庭の中を見せてもらえるのも、今回中国に来て始めてのことでしたから、とても興味深く泊めてもらいました。
 
<大連つづく>



2007/7/02 月
ニーハオ春庭中国通信>大連・星海広場の漢白玉華表

 シンシアがピアノの練習に出かけた後、ハンさんと星海公園へ行きました。
 シーズンには海水浴客でにぎわう「海辺の公園」で、大連最大の広場が名所になっています。
 ハンさんと「二人乗り自転車」で、星海広場を散歩しました。

 ロシア租借地の街としてダーリニー・ヴォストークが建設された1899年から百年目にあたるのが、1999年。大連が都市として出発した節目の年でした。

 星海広場は、それを記念して星海公園に作られた新しい広場です。
 節目の年に合わせて、直径が1999メートルの円形の広場。一周すると6km強ほどのちょうど散歩によい距離になっています。

 中央に高さ19、97mのトーテムポールの大型のような記念柱が立っています。こちらは香港返還の年1997年を記念しています。白い柱石が、夏の陽を受けて輝いています。

 この記念柱は、「漢白玉華表」と呼ばれているもので、昔、皇帝が馬を停める際に、馬のひもをつなぐ柱として使用されのだそうです。皇帝が馬を停める、すなわちその地が皇帝に所属し、皇帝の権力のもとにあることを、この漢白玉華表でしめしました。

 皇帝だけが建てることができ、中央への統一、中華民族統合の象徴として建てられたのだといいます。
 星海広場の漢城玉華表にも、皇帝の象徴である龍が彫り込まれています。

 大連市がこの柱を立てたとき、「漢白玉華表は国の代表者の象徴」だから、北京以外の地に建設するのはいかがなものか、という中央からのクレームが市長に届いたのだそうです。

 市長は「大連が都市として建設されてから百年目の1999年を記念する」というと、中央に反対されると思って「香港返還の市民の喜びを表現したものであり、国の統合の象徴である」という大義名分を考え、香港返還の1997年にちなんだ高さにしたという知恵者。
 「市のお祝いではなく、国家全体の慶事を記念している」という名分が認められ、無事「漢白玉華表」が大連の広場に立てられました。

 知恵者はどこにもいるもんですが、このエピソード、東北地方随一の貿易都市、産業都市として発展してきた大連のしたたかさを象徴しているように思いました。

 広場の海辺よりに「大連名士、千人の足跡」が、レリーフとして床に並べられています。海辺へ向かって進んでいく千の足跡の先端には、未来を目指す男の子と女の子の像。大連の未来を象徴している像なのだそうです。

 広場に憩う人々、かわるがわるこの像の前で写真を撮っています。
 海辺の明るく開放的な大連の町、未来へ向かって前進、また前進、という感じでした。

大連・星海広場と漢白玉華表の写真「大連は今日もいい天気」より
http://www012.upp.so-net.ne.jp/kidalian/luyou/xinggu/xinggu.htm

<大連つづく>

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2007年07月03日


ニーハオ春庭「大連マラソン」
2007/07/03 火
ニーハオ春庭中国通信>大連マラソン

 星海広場から市内の洋服屋へ行こうとしたら、道はどこも大渋滞。交通規制がかかっていて、前進また前進どころか、のろのろ運転です。
 6月18日の日曜日は、ANAが主催する「大連国際市民マラソン」の日。2007年は、第21回目、大連市民には毎年おなじみの大イベントです。 

 ANAは、2007年が、中国線就航20周年にあたるので、2007年を「ANA’S CHINA YEAR」と称し、いろいろなイベントを企画しているのですが、この大連マラソンもそのひとつです。日本からもマラソン参加ツアーが来ています。

 金曜日にオーダーしてもらった夏服を受け取るためにタクシーで市の中心部へ向かうおうとしても、どの脇道へ入ってみても大渋滞。
 マラソン、朝8時スタートというから、2時間ちょっとかかるとして、お昼前には交通規制がなくなるだろうと思ったのが大誤算。マラソンを2時間で走るのはトップ選手であり、市民マラソン、7時間8時間かかるのは当たり前。その間ずっと交通規制です。 

 動かないタクシーを乗り捨てて、ハンさんは裏道を歩き出しました。スラムのようにごちゃごちゃしているところ。零細民の零細な商いをする店が道の両側につづいています。ごみなども片づけられていないので、表通りとは雰囲気がちがいます。
 「大連の裏側を見せちゃいましたねぇ」と、ハンさんは言いますが、発展している表通りのすぐ裏手に、このようなごちゃごちゃの街があること、普通の観光ツアーでは見ることができないだろうから、貴重なひとときとなりました。

 ほんとうはもっとゆっくり「裏側」も見たかったのですが、なにしろ飛行機の出発時間がせまっています。どんどん歩くハンさんのうしろを、迷子にならないように必死についていきました。

 夏服をオーダーメードで注文するなんて、日本ではなかったこと。
 イージー縫製ではありますが、金曜午後に生地を買って採寸し、日曜昼には縫い上がっている。ハンさんが「大連のおみやげに」と、自分のなじみの洋服屋に無理を言って、「金曜日に注文、日曜日に仕上げ」という強行注文をしてくれました。

 おなかはたっぷり13号、胸はぺちゃんこ9号、という「洋梨スタイル」の体型。胸のお肉が全部おなかに下がってしまったという具合なので、夏服つるしを、おなかに合わせて買うと、胸や肩幅はぶかぶか。レディメードの宿命ですが、オーダーメードなんてこと、考えもしてきませんでした。
 はじめて、胸のあたりはぶかぶかじゃなくて、おなかはちゃんとおさまる夏上着ができあがりました。

 大連の空港につき、国内便小型機(乗客33人、パーサーひとり)に乗り込んだのは、なんと離陸10分前でした。ぎりぎりセーフ。
 たくさんの楽しかった思い出を、胸に(そしておなかに)いっぱいにして、離陸しました。

 大連の海鮮やさくらんぼがつまったおなか。
 はい、さっき、ちょっと見栄を張りました。おなかは13号じゃなくて、17号。

 号、轟、Go!、小型飛行機、私の重さにも耐えて、無事大連の空を飛んで北へ向かいました。

 大連の市民ランナーが黙々と自分のペースで走り続けている姿を胸に納めて、私も、まだまだ続く中国での仕事をマイぺースで走って行かなくちゃ。

<大連おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「偽皇宮&太極拳」

2011-10-03 19:23:00 | 日記
2007/06/02 土
ニーハオ春庭中国通信>偽満皇宮見学・『観光コースでない満州』

 13年前に比べると、きちんと整備された偽満皇宮博物館。
 そのかわり、入館料は、80元(1200円)という高さ。たぶん、冬季アジア大会開催時の観光客増加をねらって、倍額値上げされたのでしょう。2006年発行のガイドブックには40元と書いてあったので。

 レストランのウェイトレスの時給が4元から5元。入場料分を稼ぐには、20時間働かなくてはならない。
 上野の東京国立博物館、2007年4月から値上げされ、通常展示の一般・大学生入館料が600円になったことを、「高い!」と思っていますが、それでもウェイトレスが1時間働けば、入場料を払える。

 みやげ屋のおばちゃんには閉口したけれど、会場案内係の服務員さん、皆とても親切でしたし、門の守衛のカッコいいお兄さんは「いっしょに写真撮って」と頼んだら、ならんでカメラにおさまってくれました。

 若くて元気のいい守衛さんたち。彼らが守る「元皇宮正門」は、彼らの若さと同じように、明日の旧満州研究の未来へ開かれているように思いました。
 これから、旧満州時代の歴史評価に関しても、さまざまな観点での歴史研究が広がっていくのではないかと思います。

 溥儀は1906年の生まれ。2006年は溥儀生誕百年の記念の年でしたから、2005、2006年に、さまざまな旧満州関連の書籍が、「この機会に」と、出版されました。 
 その中から、元ジャーナリストで、現・アジア共生学会会長小林慶二の『観光コースでない満州』を持ってきました。

 ほぼ1ページに1枚の写真があり、「観光コースではない」と謳っているけれど、私にとってはよいガイドブック。本を片手に満州時代の建築物をみて回ろうとおもっています。

 旧満州時代の主な建築は、ほとんどそのまま、現在も病院や大学施設、政府施設として利用されています。「保存建築物」に指定され、これらは、今後も利用されていくと思うのですが、今回私が見て歩こうと思っているのは、「一般住宅」としてたてられた家。

 建てられてから、ほぼ70年を経た一般住宅は、老朽化しています。市内のあちこちで古い建物の取り壊しが行われており、つぎつぎに「旧満州時代の住宅」は姿を消し、高層アパートに建て替えられている最中。
 東京も70年前の一般住宅が残っている地域はほとんどなくなり、同潤会アパートのように、惜しまれながらも取り壊されるということが続いています。

 日本の国会議事堂を模して建てられた旧満州国務院(現・吉林大学)、旧ヤマトホテル(現・春誼賓館)などの写真を写して帰る観光客は多いですが、古くてぼろぼろになっている住宅を写す人は少ない。

 私は、そんな住宅地を写しておきたいと思っているのですが、まだ町歩きの余裕もなく仕事仕事の毎日。すでに赴任期間の半分はすぎています。
 これから先、どれだけ時間がとれるかわかりませんが、過去をきちんと見つめる目を養いつつ、町歩きをしたいと思います。

 13年前は、まだ「暗く陰鬱な満州時代」というイメージのみが残っていた偽皇宮。
 今回、展示もわかりやすく、整備がすすんだ博物館を見学して、過去の歴史について、「難しい問題があるから触れないでおく」ではなく、「お互いの理解のために、真実を追究する」ということを、もっと進めて行かなくてはならない、と感じました。

<偽満州皇宮見学おわり>
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2007年06月03日


ニーハオ春庭「牡丹アカシア君子蘭」
2007/06/03 日
ニーハオ春庭中国通信>牡丹、アカシア、君子蘭(1)

 日本では、地方自治体が、地元を代表する花や木として「県の木」や「我が市の花」を制定しています。
 中国でも、町や市のシンボルとなっている花があります。

 たとえば、『アカシアの大連』で知られるように、大連市のシンボルはアカシア。
 5月中旬から6月はじめにかけて、市内のアカシア並木は白い花房をたわわに下げて、通りは甘い花の香りに包まれます。
 養蜂業者がミツバチをアカシアの中に放ち、集められた蜂蜜があちこちで売られているそうです。

 私が13年前に大連を訪れたとき、まだアカシアの花には早くて、残念だったので、今回こそ「アカシア祭り」が行われている最中に訪れたいと思っていたのに、毎週末学校行事などがあるので、なかなか都合良くいきません。

 大連のアカシア花盛りは見逃しになるかもしれませんが、大学本部キャンパスの並木になっているアカシアをながめることで、大連の並木を想像しています。

 大連のアカシアに対して、この町は「君子蘭」をシンボルにしています。冬季アジア大会の際、市内のあちこちに君子蘭を模した巨大なオーナメントが置かれ、それがそのまま残されています。通りのあちこちに、オレンジの花をつけた大きな君子蘭型の置物が飾られているのです。

 大連のアカシアはわかるけれど、こんな北国のシンボル花がなぜ君子蘭なんだろうと、疑問に思っていました。蘭は南方の花ですから。
 「旧満州」関連本のひとつを読んでいて謎が解けました。

 日本の皇室のシンボル「16弁の菊の花」に対して、満州帝室のシンボルとして制定されたのがオレンジ色の君子蘭でした。
 「えっ、満州国時代のことは、偽満と呼び習わし、否定的にとらえるのに、君子蘭はそのままシンボルとして採用するの?」と、思わないでもないのですが、歴史研究者でもない一般の人は、君子蘭と満州帝室の関係などまったく知らず、気にする人もいません。

 韓国は、旧植民地時代に日本側が建てた建造物を、ほとんど打ち壊しました。
 暗い時代の建築物を徹底的に否定し、名建築と謳われていても、惜しげもなく破壊しました。

 ところが、中国では、旧満州時代の建物を、ほとんどそのままそっくり現代まで利用しています。
 日本国関東軍司令部だった、日本風お城とヨーロッパ近代建築を折衷したような、「和臭ぷんぷん」の建物も、現在は吉林省共産党委員会の本部として利用されています。

 王朝が変わっても、王都は前代のものをそのまま使ってきた中国の歴史。
 北京の故宮(紫禁城)は、元、明、清の三つの王朝が引き続き利用した皇宮です。
 関東軍司令部が、共産党委員会本部に衣替えするくらいは、当然のことなのでしょう。

 まあ、建物は破壊するより利用した方がいいと思うのですが、満州帝室のシンボルとして決められた君子蘭をそのまま「市のシンボル」に制定するおおらかさは、さすが「支配者は交代しても、人民は大地に根付いている」中国だと思われます。

<牡丹アカシア君子蘭つづく>

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2007年06月04日


ニーハオ春庭「牡丹アカシア君子蘭(2)」
2007/06/04 月
ニーハオ春庭中国通信>牡丹、アカシア、君子蘭(2)

 さて、現在、町の中では牡丹が花盛り。
 牡丹は、中国全体の「国の花」候補のひとつ。中国を代表する花です。
 中国の国花は、清時代に牡丹とされていましたが、清朝が倒れて以来、正式な国花は制定されてきませんでした。

 北京オリンピック前だから、というわけでしょうか、国花を制定しようという運動が起こり、梅、蓮、牡丹などの中国を代表する花が候補に上げられており、どうやら現在は梅と牡丹のどちらにするか、というところまできたようです。
 梅の清楚さ香りのよさも捨てがたいですが、牡丹の豪華さ富貴の象徴という印象のほうが一歩リードというところらしい。

 日曜日の午後。人民広場近くの牡丹園を散歩しました。
 日本の牡丹園なら、ひとつひとつの株に品種名を高々と掲げて置かれていることが多いのですが、こちらでは、「牡丹は牡丹」

 赤、白、ピンク、色混ぜの花、色とりどりの牡丹が、咲いています。
 園内は、デジカメやビデオを構えて記念写真を撮ろうとする市民でにぎわっています。

 園の周囲には、さまざまな食べ物屋台が出ています。アイスキャンディ屋、果物屋、、、、。くだものは、梨もパイナップルも、皮をむいて割り箸にさして売られています。パイナップル四つ割のひとつが1元。

 こどもがうれしそうにほおばっている綿飴、ちょっと懐かしくなったので、機械にざらめをいれて綿飴を作っているおっちゃんに聞くと、1元。
 あいにく細かいお金なし。零細な露天の商いに百元札を出すと、「おつりメイヨウ没有」と断られるかもしれない。
 百元は高額紙幣で、物価感覚からいうと、日本の1万円札に相当。偽札も出回っているので、受け取った人はだれでも、裏表確かめ、すかしを確認し、偽札でないか十分にチェックします。

 1元の半分の5角があったので、「これだけで、小さいのを作って」と頼んでみました。
 おっちゃんは、「よし、わかった」と言って、私が「小さいのでいいよ、小さく小さく」と言っているのに、普通の大きさに作ってくれました。わ~い、おっちゃん、ありがとう。
 ふわふわの綿飴をなめなめ、牡丹を見て歩きます。

 牡丹園内で十数組の「ウェディングドレス&タキシード」のカップルをみかけました。
 中国では、結婚式の前に、貸衣装に身を包み専門の撮影業者に「結婚記念アルバム制作」を頼むことが流行中。
 部屋の中で、また屋外で、さまざまなポーズをとって、まるでスターの写真集のような立派なアルバムが作られるのです。

 富貴の象徴である牡丹を背景にして写真を撮ったら、さぞかしカップルの将来は、豊かで明るいものとなることでしょう。
 幸せいっぱいの顔で、撮影業者の注文にあわせて、顔と顔を寄せ合ったり、二人で牡丹を見つめたり、いろんなポーズをとっていました。
 牡丹のような華やかな幸福にめぐまれますように。
 永久幸福!(いつまでもお幸せにね)。

<牡丹、アカシア、君子蘭おわり>

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2007年06月05日


ニーハオ春庭「揚琴、木琴、腹鼓」
2007/06/05 火
ニーハオ春庭中国通信>揚琴、木琴、腹鼓

 中国に来る前、「次に中国へ行ったら、練習したい」と思っていたことのひとつは楊琴(Yang chin)です。

 楊琴は、ピアノのルーツとも言われる打弦楽器。
 グランドピアノのふたをあけると弦が張ってあります。88の健を指で打つことによって健の先のハンマーが弦をたたき、音がでるのがピアノ。

 170本前後の弦を直接ばちでたたくのが楊琴。木琴とピアノの両方の特徴を持っていると思えばいい。
 170本の弦がありますが、マンドリンのようにひとつの音を数本の弦で出すので、音階は5オクターブ前後です。

 揚琴はこんな楽器。
 http://www.chinamusic.gr.jp/catalog/yokin.html

 私は、ピアノも木琴(マリンバ)も、子どもの頃に練習しただけで、今は楽器の練習から遠ざかってしまいました。
 習字と楽器演奏は、老後のぼけ防止用&老後の生き甲斐として、楽しみにとってあります。
 
 年取ったら練習すると言っても、木琴は、ピアノより高いので、年取ったら買えないかもしれません。
 昨年、東京の滝野川会館で行われた、日本木琴協会による「東京マリンバコンサート」の演奏を聞いた時もらったパンフレットでは、マリンバ(大型木琴)に200万300万円という値段がついていて、びっくりしました。ピアノに比べて需要が少ないから割高なのかもしれません。

 ピアノは、高級グランドピアノは高いけれど、アップライトはそれほどでもないし、なにより、今は電子キーボードがどんどん安くなっている。
 私が幼い娘のために、当時としては「食費を切りつめて買った」程度のキーボード、今ではおもちゃ屋で売っています。

 で、揚琴も、日本で買うと普及品で15~20万、高級品だと30万~50万します。中国で買う10倍です。
 中国で買うなら、高級品5000元(7万5千円)、普及品2000元(3万円)程度。
 仕事を無事おえたら、自分へのご褒美として、買って帰ろうと思っていました。

 ただ、大きいので持って帰るのは難しい。
 それに、調律がとても難しい楽器で、毎回演奏する前には、演奏者自身が30分以上かけて、170本の弦を1本1本調律しなければならないと知り、「わぉ、演奏はしたいけれど、私には30分も調律する几帳面さがない」と思い、あきらめかけています。
 毎回、誰かが調律してくれたあと弾くだけならいいですけれど、それじゃ演奏者仁義に悖るということになるのでしょう。

 今のところ、揚琴も木琴も演奏できず、鼓の演奏ばかり。
 はい、腹鼓。
 中華料理食べすぎて、ぱんぱんになったおなかを叩くと、いい音がします。ポポン、ポ~ン!腹鼓。自前の打楽器。
 少しひっこめ!この腹!ポポンぽんポン。
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2007年06月06日


ニーハオ春庭「二十四式太極拳」
2007/06/06 水
ニーハオ春庭中国通信>二十四式太極拳

 勤務校には、日本へ留学する学生への日本語教育部門の他、「教育部出国留学生培訓」という部門があり、副校長がふたりいます。
 日本語教育担当の副校長と、留学生教育担当の副校長のふたり。

 留学生教育担当の副校長テイ先生、専門は「政治経済学原理」ですが、太極拳の名手でもあり、胡弓を奏でる趣味人でもあります。
 昼休みの副校長室から、胡弓の練習の音が流れてくると、中国情緒いっぱいになります。

 テイ先生は、本部キャンパスの留学生に太極拳を教えています。留学生の正規の授業なのだそうですが、体育の単位になるのか、「中国文化」授業の一環なのかは聞き逃しました。
 胡弓を弾きこなし、太極拳は名人級のすらりとした副校長先生、ファンが多く、留学生にも大人気。

 「中国らしいものを身に付ける」計画、揚琴はまだ練習できませんが、5月中旬からテイ先生に太極拳を教わっています。

 私たちが習うことになったのは、「二十四式」というもっとも代表的な動きの太極拳です。
 野を駆ける馬のたてがみの動き(左右野馬分鬣)、鶴が羽をひろげた動き(白鶴亮翅)など、24の姿勢があり、ポーズとポーズの間は、ゆったりゆっくりとしたつなぎの動作があります。

 「二十四式簡化太極拳」は、太極拳の基本の動きを体系化して定められました。応用がさまざまにある中の、もっとも基本的なものです。
 国家体育委員会が、全中国国民の体力向上をはかって制定したものなので、多くの中国人に親しまれており、各地の公園などでは、朝早くから人々が集まって練習を続けています。

 日頃練習しているジャズダンスの振り付けに比べれば、それほど複雑な動きではありません。しかし、約10分間、ひとつひとつの動作をきちんと筋肉をつかって動かしていくと、ゆっくりとした動きでも、24の動作を終えると、気持ちのいい汗が吹き出します。
 
 先生は各ポーズの手の位置、背骨、足の向きなど細かい注意をしながら、つなぎの動きについては「慢、慢、ゆっくりゆっくり」と、指示します。
 日本舞踊もそうですが、太極拳も、重心を低く、ずっと中腰、ひざを曲げているポーズがつづき、ゆっくり動くのはかえって難しい。
 テイ先生の動きは、なめらかな中に力強さがあります。

 太極拳を紹介しているサイト。
 言うてはなんですが、私の先生は、このインターネットの先生の動きよりはるかに上手で美しいです。
http://chinalife.fc2web.com/texts/24/index.htm

<太極拳つづく>

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2007年06月07日


ニーハオ春庭「太極拳練習」
2007/06/07 木
ニーハオ春庭中国通信>太極拳練習

 太極拳、音楽に合わせて美しく動く、という点では舞踊に通じる要素もありますが、元々は「拳法」のひとつですから、要所要所は、この形を応用すれば、相手を一撃で倒せる、という武術です。
 先生が模範をやってみせると、本当に人を倒せてしまえる、と思えます。
 私が同じ動きをしても、まねっこですから、「拳法」にはほど遠いのですが。

 太極拳は、「気」を利用した武術のひとつです。
 日本の太極拳教室は、少林寺、カンフーなどを合わせて教える「武術」としての太極拳を重視しているように思いますが、中国の公園などで行われているのは、健康法のひとつとして。日本の「ラジオ体操」にあたるような、「健康な身体をつくるために」と、練習するグループが多いです。

 ラジオ体操も、動きのうまさを競うコンクールがあると聞いたことがありますが、太極拳も、各地でコンクールや発表会があります。 

 今回、大学内で、大学教職員による「学部対抗、教職員身体表現発表大会」が行われることになりました。

 学部対抗の大学内発表会に、勤務校も毎年参加しており、去年は「合唱大会」が行われて、私の所属部署は一等賞を獲得したそうです。今年は、「身体表現」がテーマ。
 私が太極拳を習うことになったのは、この「教職員行事」に参加するためなのです。

 私の勤務校は、師範大学の郊外キャンパスの中に設置されています。
 師範大学は国立ですが、日本の国立大学と同じように、現在は独立行政法人になっています。従来のように教師養成の教育学部だけなく、歴史文化学部、商学部、数学統計学部、物理学部、計算機学部、生命研究学部、文学部、体育学部など、さまざまな教育部門があります。

 私の所属部署には、師範大学学部として「留学生教育」を行う部門と、「日本国文部科学省国費留学生」への日本語教育を行う中国教育部直属の部門のふたつがあります。

 外国からの留学生は、本部キャンパスで学んでいるため、日頃は日本語教育を行う先生と、留学生に中国語を教える先生は、あまり交流がありませんでした。
 今回、このふたつのキャンパスの先生がいっしょになって、太極拳の練習を行いました。

 大学内競技会の中国語の名称は、「教工健身操比賽」
 「教工=教職員」「健身操=健康な身体を作る体操」「比賽=競技会」

 「健康な身体」を作るための競技ですから、太極拳だけでなく、エアロビクスを発表する部や新体操あり、日本のラジオ体操のような音楽に合わせての体操あり。
 各学部や「図書館」「国際学術交流センター」など、所属部署ごとにさまざまな出し物を披露します。

 私の所属部署は「太極拳」を、テイ先生プラス教職員代表24人で披露する、ということになりました。

 「留学生教育部」には、中国から日本へ行く留学生に日本語教育を行う先生、英語圏へ留学する中国の学生に英語教育を行う先生、中国にきた留学生へ中国語を教育する先生がいます。
 アメリカ人のマリー先生は、練習には何回かきたけれど、大会には参加しないことになりました。

 所属部署には、日本人教師が8名います。
 3月から7月まで赴任する私たち6人は、日本の大学院博士課程進学の国費留学生たちへの日本語教育担当。
 あとふたり、若い女性教師がいます。このふたりは、日本から派遣されてきた私たちとことなり、学校が独自に契約して採用する、いわゆる「現地採用」の先生です。

 若いふたりの女性教師は、トヨタ合弁一気自動車社員への日本語教育担当なので、授業は社員の勤務が終わってから行われます。
 そのため、なかなか練習に続けて出られず、大会参加はあきらめましたが、大会参加用の中国服は、いっしょに誂えてもらい、「記念になる」と、大喜びです。
 文部科学省派遣組の私たちは、肩を痛めているひとりを除いて5名が、「大会参加選手」になりました。

<太極拳つづく>
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2007年06月08日


ニーハオ春庭「太極拳発表会」
2007/06/08 金
ニーハオ春庭中国通信>太極拳発表会

 日本人先生たち、中国の人は全員太極拳ができるだろうと思っていて、「初めてやって、動きが覚えられるかしら」と心配していたのですが、練習に参加したほとんどの先生たちが「太極拳は初めて」と聞き、「それなら、条件は同じだね」と、おっかなびっくり体を動かしはじめました。

 練習の回を重ねるうちに、「日頃の運動不足も解消されるし、動きがわかるにつれて楽しくなってきた」と、ノリノリになってきました。
 最初は「練習だけは参加するけれど、大会出場はとても無理」と言っていた人も、皆「大会、がんばりましょう」と、言うようになりました。

 太極拳の練習、最初は、毎週月曜と木曜日が練習日だったのですが、発表会が近づくと「連日練習」「土曜日午前中も特訓」になりました。

 男性陣は、テイ先生のほか、日本語教育担当の副校長先生、通勤バス運転手のリョウさん、女性陣は録音室担当のホウさん、経理担当のオウさんほか、教職員みんな熱心に練習に取り組みました。

 6月6日水曜日、師範大学本部キャンパス音楽ホールで、「教工健身操比賽=師大教職員身体表現発表大会」、午後1時、開始!
 20組の演技チームが参加したなかから、金賞(一等賞)が7チームに、銀賞(二等賞)が数組に与えられのだだそうです。

 全員が髪をきれいな編み込みにして、髪飾りをじょうずに編み込んで、おへそを出したキュートなエアロビ衣裳のチームもあるし、スポーツシャツにジャージズボンのシンプルなスタイルもあり、どのチームも、「自分たちこそ金賞だ!」と、意気込んでいます。

 私たち留学生教育学部のいでたちは。太極拳用のそろいのスポーツシューズ、赤と白の巴マークがついています。そろいの白い太極拳衣裳。

 私が誂えてもらったのは、象牙色がかった白の中国服です。ひとりひとり採寸して、体型にあわせて縫ってあるので、私のメタボリックなおなかでも、ちゃんと体にあっています。
 
 テイ先生はきれいな黄色。どうやら、色の入った太極拳服は、柔道の黒帯にあたり、師範格が着用、生徒は白い服になるらしい。

 私たち以外の太極拳チームは三つありましたが、そのひとつのチームの師範格は、下のサイトの先生のような水色の中国服でした。
http://www.chqa.com/taiji24_1.htm
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2007年06月09日


ニーハオ春庭「太極拳金賞」 
2007/06/09 土
ニーハオ春庭中国通信>太極拳金賞

 参加20チームのうち、私たちは9番目に出場。
 二十四式太極拳発表。
 テイ先生のかけ声に合わせて、胸の位置で、右手のこぶしを左手の手のひらに合わせる拳法の挨拶。少林寺やカンフーの映画で見たことがありますが、自分でやってみると、カッコいいです。

 6人ずつ4列24人の動きがぴたりとそろって、手の位置足の向き、動作のスピード、正しく美しくできるよう、練習を積んできました。
 野を駆ける馬の鬣のように、白鶴が羽を広げるように、、、、琵琶を抱えて奏でるように、、、、雲のように両手を動かし、、、足を高く蹴り上げて、、、

 私は、2列目の真ん中。一番前中央にいるテイ先生の動きがよく見える位置なので、先生の動きをまねっこしながらできる恰好の場所。
 で、私はジャズダンスの発表会と同じように、振り付け順番はまったく覚えずに、「じょうずな人の動きをまねする」という日頃の方針でいけたので大助かりでした。

 練習通りにはいかないところもあったけれど、無事演技終了。
 結果は。
 見事、私たちのチームは金賞を受賞しました。

 他の金賞チームは、ダンスや演技を専門に学ぶ学科がある音楽学部チーム、2008年北京オリンピックを表現した演出が光っていた図書館チームなど。
 師範大学付属実験幼稚園の先生たちによる、ボールを持って演じる新体操風エアロビも入賞しました。動きもよかったですが、なにより、全員おへそをだした衣裳がかわいかった。

 金賞銀賞のほか、「特別栄誉賞」という表彰がありました。
 選ばれたのは、、、、。

 「1ヶ月足らずの練習で、中国人にとけこんで、そろって演技ができた太極拳チームの5人の日本人」に与えられると発表されました。
 壇上で、大会役員から立派な賞状をいただきました。

 大学ホームページには、さっそく私たちのチームが演技している写真や、5人の日本人教師が賞を受けたという記事が出ていました。
  
 中国の先生や職員たちといっしょに練習することで、友好も深まり、日頃は交流がなかった中国語の先生たちとお話もできました。
 太極拳の練習と発表、とてもよい「中国的体験」になりました。

<太極拳おわり>

http://www.nenu.edu.cn/nenunews/gonggao/20070607008.jpg

 中央一番前に立つテイ先生の頭の上に手をのばしているのが私です。
 太めの体がちょうど隠れる絶妙のカメラアングル。
 見せ場でシャボン玉が吹き出す演出なので、シャボン玉が飛んでます。 


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2007年06月11日


ニーハオ春庭中国通信「綱引き大会」
2007/06/11 月
ニーハオ春庭中国通信>綱引き大会(抜河比賽)

 私が出場した「太極拳」チームは、教職員の「健康な身体作り」を競う競技会(教工健身操比賽=教職員健康身体表現競技会)に参加してのものでした。

 中国の大学は、日本の大学以上に「身体の健全な育成」という面に力を注いでいます。
 私が教えている日本への国費留学生(若手大学教師たち)のクラスでも、「スポーツは嫌い」「スポーツをあまりしない」という学生はいません。
 みな「勉強のあいまにスポーツに励んでいる」と言うのです。

 大学内の行事でもさまざまなスポーツ競技会があり、教職員、学生こぞって参加しています。
 3月、赴任して早々に私の担任クラスで行われた親睦会も、「バドミントン大会プラス夕食会」でした。

 本日6月11日は、クラス対抗「綱引き大会」が行われました。

 国費留学生博士号取得コースの5つのクラスのほか、他のクラス、学部進学コースや、英語コースなどのクラスが、女性6人男性7人のチームを作り、勝ち抜きトーナメントを行うのです。

 私のクラスは、それほど力じまんが集まっているというのでもなさそうで、「絶対に勝たなくちゃ」というような悲壮な雰囲気はまるでなく、「ま、参加しようや」くらいの雰囲気でした。

 若手教師たち、家庭をもち子育て中の人もいるクラスですから、そんなに本気になって綱を引くとは思っていなかったのに、いざ綱引きがはじまってみると、皆力いっぱい。
 男性たちは足をふんばり、女性も汗びっしょりになってがんばっていました。

 結果は残念ながら2敗。負けてしまいました。
 でも、クラスが一丸となって力をあわせてがんばる姿は、若者らしくてさわやかな汗が光っていました。
 いつもスッピンさんが多い中国の女性たちですが、どんな最新のメイクも、この「がんばっている人の汗」に勝る美しさはないと思えます。
 応援しているほうも声援に力が入りました。

 三島由紀夫が祭りに参加したときの高揚感を「力を合わせて御輿を担ぐことの恍惚」とエッセイに書いたことがあります。
 太古の昔から綱引きは、各地で「村の行事」として続けられてきました。
 すたることなく続いてきたのは、勝敗によって農耕の豊作を占うという民間信仰の一面があったこともさることながら、三島が指摘しているように、「皆で力を合わせること」を、人類文化は必要としているからではないかと思います。

 クラス一同が力を合わせて一本の綱を引く。「イー、アール、イー、アール」のかけ声に合わせて、力を出し切る。
 応援する方は「加油!チャーヨゥ!」と声を張り上げる。

 北国の6月にしては記録的な暑さ34度となった一日でしたが、暑さを上回る熱気で、盛り上がった午後となりました。 

<おわり>
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2007年06月13日


ニーハオ春庭「般若寺と清真寺」
2007/06/13 水
ニーハオ春庭中国通信>般若寺と清真寺(1) 

 市内の名所として地図やガイドブックに載っている場所のうち、ふたつの寺に出かけてみました。

 般若寺は、人民広場の近くにあり、寺の横の通りはバスターミナルのひとつになっています。
 「どこへ行くのか知らないバス」に乗ってでかけ、終点まで行ってみると、この般若寺の横に到着したことが何度かありました。
 でも、いつも夕方から夜にバスをおりるので、寺の門は閉まっていました。

 3時半に門が閉まるのだ、とわかり、日曜日午前中に出かけました。開門は、朝8時半から午後3時半まで。

 門前には手相見、姓名判断、土産物売り、数珠売りなどがずらりと並んでいます。
 若い人も熱心に改名相談などをしています。
 バスターミナルと反対側の寺の横は、仏具売りの店が連なっていて、窓から仏像などが見えます。

 般若寺の門のそと、バスターミナル側からながめると、境内に立っている大きな観音像の背中が見えます。
 朱塗りの門を通って、境内からお顔を拝観すると、大観音、なかなかの迫力です。

 観音様の前には香やお花が供えられ、熱心な信者が、立て膝に座ってから額を円座につける礼と起立を繰り返して祈っています。この祈り型は韓国で見た作法と似ています。

 チベット仏教の五体投地ほどではないけれど、この立ったり座ったりの祈りの型も、なかなかハードだと思うので、日本で仏教が一般民衆に広まった鎌倉時代、この祈りの方法ではなく、ただ座って手を合わせる方法になったのは、どういう経緯だったのかなあ、なんて思いました。

 私の実家の宗派は曹洞宗で、他の宗派のことを余り知りません。禅宗だからただ座っていればよかったのか、他の宗派でこのような立ったり座ったり、ひたいを地につける祈りの作法があるのでしょうか。
 日本ではどのお寺に参拝しても、信者もお坊さんもただ座っているだけで、立ったり座ったりを繰り返すことはなかったように思うので。

 境内には茶色の僧服を着たお坊さんが行き来し、先祖供養のお札なども取り扱っているようです。
 本堂や、羅漢像が並んでいる仏堂の中には、釈迦三像や四天王像が安置されています。
 日本の仏像に比べるとずいぶん金ぴかで派手。16羅漢も生々しく写実的な気がする。そういえば、テレビの孫悟空の中にでてくる「おしゃか様」の顔もなんだか生々しかったなあ。

 御堂の中には唯摩経と地蔵経の本がおいてありました。「ご自由にどうぞ」の本でしたが、1元を喜捨して地蔵経のほうをもらってきました。唯摩経のほうは漢字だけでしたが、地蔵経は、経文の一字一字にピンイン(発音アルファベット)が書いてあったので、中国語の練習がてら読んでみようと思い立ってのこと。
 地蔵経の本を開いてみると。

 日本のお坊さんたちがワケのわからないことをありがたそうに唱えていることの内容が、要するにサンスクリット語から中国語に訳された仏典を、中国語の発音のまま読んでいたのだ、とよくわかりました。
 教典が輸入された時代の、呉音・漢音だったり、唐宋音だったり、現代中国語とは発音が異なるでしょうが。

 地蔵経の最初の部分、「香讃」は、ルー、シャン、ジャ、ルオ、ファ、ジエ、マン、スン、シュ、フォ、ハイ、フイ、シ、ヤオ、ウエン、、、、
 と、あの独特の抑揚をつけて読めば、何やら悪鬼も成仏しそうに思えてくる。

<つづく>

07:06 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2007年06月14日


ニーハオ春庭「般若寺と清真寺」
2007/06/15 木
ニーハオ春庭中国通信>般若寺と清真寺(2) 

 般若寺拝観を終え、バスを乗り継ごうかと思案したあと、道順が複雑そうなので、タクシーで清真寺へ。
 タクシーの運転手も一度道を間違え、会社に無線で連絡して、やっと清真寺へ着きました。
 あんまり知られていない場所なんだろうか。

 境内に入ってみると、般若寺が善男善女の参拝客でにぎわっていたのとうって変わって、閑散としてます。
 あらま、門の前には「清真寺、保存重要建築」と書いてあるのに、なんだか寂れたお寺だこと、と思いながら、注意書きを読んで入り口で靴を脱ぎ、建物の中に入ってみたら、、、、、

 仏教寺院ではなくて、イスラム教の寺でした。外観は、仏教寺院のようなのに。
 そういえば、市内のイスラム教徒用のレストランには「清真肉」と、書いてあったのですが、清真寺の寺名から、イスラム教を想像できませんでした。日本のお寺の名前にも「清真寺」というのがありそうなので、すっかり仏教寺院だと思いこんでいたのです。
 改めて入り口をよく見れば、漢字でなくてアラビア文字風の看板が軒下に掲げられていました。

 寺の建物自体は中国化していて、外から見たのでは、イスラム寺院とは気づきません。
 イスラム寺院といえば、丸いタマネギのような屋根を持つ建物だという思いこみもありました。中国では、このように中国寺院の建物と同じつくりになっていたんですね。
 明時代に建てられたイスラムモスクなのだそうです。
http://sekitori.web.infoseek.co.jp/Houses/ie_cn_krks_cho2.html

 建物の内部には敷物と説教台のほかにはなにもなし。メッカの方向にくぼみがついた床の間みたいな空間が作られているだけ。
 お祈りには市内の回教徒が大勢集まるのだろうなあと、想像しながら建物から出ました。
 市内には新疆ウィグル族(回族=フイズー)の人々も大勢住んでいます。

 私の勤務校には、新疆ウィグル地区から日本語を学ぶためにこの地にやってきた学生が大勢いて、顔立ちがはっきり漢族と異なっています。イラン、イラクあたりの人々に似た顔立ちです。

 東北地方に何代も住み続けている回族は、漢族と通婚がすすみ、内地回族(漢化したモスレムウィグル族)となっていて、顔立ちは漢族とほとんど同じです。

 通りの軒下に「清真焼肉串」という店が出ていて、焼肉を2本1元で売っています。イスラムの慣習では「知り合いには安く売り、よそ者からは、ぼったくる」のが商売の正道なので、私は最初1元出しても焼肉を1本しかもらえませんでした。今もこちらの発音の悪さがばれると、1本しかよこさないことがあるのですが、「もう1本」と言うと、ちゃんとくれます。

 入ってくるときは誰もいなかったのだけれど、出てくると、ほんとうにメッカに行った人だけが被れる帽子(ハジの白帽子)をかぶった若者がいました。
 彼は回族の顔には見えません。イスラム寺院が中国化した寺院建築となっているように、回族も、漢族と同化しているので、彼がイスラム寺院におらず、よそで見かけたのなら回族と思わないかもしれない。

 新疆吾尔(シンチャンウィグル)自治区では、ウイグル語が話されています。また、青海省のテレビ放送を時々見ますが、中国語のほかにウィグル語の字幕が出ています。
 ウィグル語は、アラビア文字をもとにしたウイグル文字を使います。
 شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونى, (Shinjang Uyghur aptonom rayoni)

 お寺の入り口に、アラビア文字の額がかかっていたので、入り口の若者に、読めるかきいてみました。
 中央の額が「清真寺」という寺名を書いてあるということは、私にも見当がついたのだけれど、その両脇の額は、分からない。
 聞いてみてわかったのは、彼はアラビア文字は読めない、ということだけ。

 中国政府は新疆吾尔(シンチャンウィグル)自治区独立運動を警戒していて、回族のメッカ巡礼を許可していないと思うのに、若者がハジの帽子をかぶっているので、「メッカに行ったことがあるのか」と、聞いたのだけれど、私の中国語では通じなかった。筆談で質問してもだめ。メッカを中国語でどのように書くか、わからなかったから。

 私が拝観のお礼の気持ちをこめて、入り口で、手を合わせたら、「ここはイスラム寺院だから、部外者が祈るな」と、怒られてしまった。
 仏教徒じゃなくても、だれでも受け入れている日本の仏教寺院のつもりで行動してしまい、すみません。

 イスラム教は戒律も厳しいけれど、祈りの作法も厳しい。一日に5回の礼拝。礼拝の前には沐浴斎戒を欠かさない。
 ここの寺にも、別棟に沐浴室があります。ちゃんと沐浴斎戒してないのに、寺内に入ってしまった私、罰当たるかも。

 般若寺に詣でて祈りを繰り返す人、イスラム寺院で部外者に目を光らせている人、中国の信心模様もさまざまでした。

 一時期は宗教に非寛容だった中国ですが、現在では信仰も、各自の心のままに許されているようです。市内にはキリスト教の教会(天主教会)もあります。
 気功集団として有名になった法輪講などの新興宗教へは、まだ厳しい措置が執られていますが、一般の宗教に関しては、信仰の自由が保障されている印象を受けました。

<おわり>
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