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ぽかぽか春庭「2018年3月目次」

2018-03-31 00:00:01 | エッセイ、コラム

by PJ.TaKo

ぽかぽかは庭>2018年3月目次

0301 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(1)もうすぐ春、ソダネー
0303 2018十八番日記春盛り上がる(2)Metooひな祭り
0304 2018十八番日記春盛り上がる(3)コッドピース
0306 2018十八番日記春盛り上がる(4)啓蟄の労働裁量制
0308 2018十八番日記春盛り上がる(5)男女格差ランキング
0310 2018十八番日記春盛り上がる(6)我が家のミステリーとんかつ消失事件
0311 2018十八番日記春盛り上がる(7)再会の春
0313 2018十八番日記春盛り上がる(8)再会の春その2
0315 2018十八番日記春盛り上がる(9)国際交流フェスティバル
0317 2018十八番日記春盛り上がる(10)ミッドタウンオフ会
0318 2018十八番日記春盛り上がる(11)芳賀日出男展+山村健児斎藤朱門展 in フジフイルムスクエア
0320 2018十八番日記春盛り上がる(12)澤地久枝講演会

0322 ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(1)表慶館ドーム
0324 春の建物散歩(2)なごり雪&名残の雪の庭園美術館
0325 春の建物散歩(3)庭園美術館アールデコの室内
0327 春の建物散歩(3)小笠原伯爵邸その1
0329 春の建物散歩(4)小笠原伯爵邸その2
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ぽかぽか春庭「小笠原伯爵邸その2」

2018-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム

小笠原邸シガールーム

20180329
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(4)小笠原伯爵邸その2

 小笠原伯爵邸の見学メモの続きです。

 1階シガールーム


 シガールームは、晩餐会後に男性のみで集まり、談笑しつつパイプやシガーを楽しむための部屋でした。ヨーロッパに喫煙嗜好が入ったのは、トルコやエジプト経由だったそうで、西洋館喫煙室はイスラム風の部屋にするのが習わしだったそうです。全体はスペイン風の作りになっている小笠原邸も、喫煙室はイスラム風の装飾です。

 天井

 床と扉飾り


窓と照明


 グランドサロン。小笠原伯爵家の正餐用食堂。この部屋のテーブルは、唯一小笠原家が実際に使用したものです。メロンレッグというテーブルの太い足が特徴。(あとの家具は当時の写真を参照して復元したものや、アンティークショップで当時の家具を購入したもの。)



 1階応接間 家具カーペット照明具は写真をもとにアンティークを購入


階段


2階小部屋。
 2階のこぶりの部屋は使用人の控室だったそうです。1927年竣工当時は、使用人室は和室でしたが、現在はレストランの個室として洋間になっている。


2階化粧室


2階客間からテラスを見る


2階テラス。奥に見えるパーゴラは、写真をもとにした復元ですが、2階テラスの床タイルは当時のものを、ボランティアが磨きなおして使用しているそうです。


2階テラスのへり瓦(スペイン瓦)


1階玄関装飾(鉄製ファンライト)


玄関中側クロークの飾り

 この鉄製飾りも、ボランティアたちはせっせと磨いたのだそうです。ボランティアさんには、このお屋敷の「永久いつでも見学できる権」くらいあげてほしい。

 照明器具のうち、唯一破損せずに残されたランプ。ランプシェードには小笠原家家紋の「三階菱」が刻まれています。(三階菱はよく見えなかったけれど)
 これ以外の照明器具は、当時の写真をもとにした復元品やアンティーク購入品。


ステンドグラス作家小川三知が天空に舞う鳩をモチーフにして制作した玄関明り取り。写真をもとにイタリアで復元制作したもの。


同じく小川三知のステンドグラス。3面の窓全部がステンドグラスになっていたけれど、現在写真が残されて復元できたのは、中央一面だけ。


 建て主の小笠原長幹は、彫刻家朝倉文夫に師事するなど、芸術志向が強い人だったそうです。
 今はパティオの隅に置かれている女性像彫刻。かってパティオ噴水として置かれていたこの彫刻は、長幹の作品ではないかと言われています。
 小笠原長幹は、芸術家の心をもっていたので、このようなスパニッシュ邸宅を建てたのだと思いますが、彫刻家として世にでるのはちと無理だったかも。

食堂(1階だったか2階だったかすでに記憶なし)


 小笠原邸1階図面

 小笠原邸2階図面


 最後にもう一度修復後のタイル装飾と修復前のシガールーム外壁



 これほどボロボロだった小笠原邸をボランティアの力も借り、よくぞここまで修復してくださった。お礼として、次に訪問するときは、ディナーウン万円は無理としても、せめてカフェタイムのコーヒー1300円はお支払いいたす心づもりにて、以後、「小笠原邸でお茶する貯金」に励みます。
 見学会申し込みのご足労をいただいたyokoちゃんには何のお礼もできませんでしたので、次回お出かけには、せめてお茶の一杯くらいはおごらせてね。

 1階客室小川三知ステンドグラス前で、伯爵家客人の気分で1枚。
 隣のいすのひざはyokoちゃんです。写真嫌いなのに、いっしょに撮ってくださりありがとう。思い出になりました。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「旧小笠原邸その1」

2018-03-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

レストラン小笠原伯爵邸(新宿河田町)

20180327
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(3)小笠原伯爵邸その1

 建築散歩趣味の春庭、都内にある「お屋敷」シリーズ、駒込の旧前田侯爵邸、小石川の旧細川侯爵邸(和敬塾本館)、上野の旧岩崎邸、白金の旧朝香宮邸など、おもな都内の近代建築お屋敷シリーズを見てきました。ですが、いまだに見ていないのが旧小笠原伯爵邸と鳩山邸。

 前田邸や朝香宮邸は、東京都の所管になっているので、無料公開。一方鳩山邸は私邸ですから仕方ないのかもしれませんが、入館料金500円を払うのがちょい惜しくて。(総資産500億円という鳩山家に比べて、悲しき貧乏人)

 小笠原邸は、小倉藩下屋敷跡地に、旧小倉藩主の伯爵小笠原長幹(おがさわらながよし)の邸宅として1927(昭和2)年に現在地・新宿区河田町に建てられました。建物はスパニッシュ様式です。

 小笠原邸は、長い間、荒れ屋敷になっていたのが、改修工事を終えたあと、高級レストランになりました。2002年レストランとして開店。開店してからずっと見たいと思っていたのですが、ランチ一人前7千円、ディナーコースウン万円という値段におそれをなして食べに行く気にもならず、たまに公開される一般公開日は公開に気づいたころにはいつも人数制限ですでに申し込みが終わっているという状態でした。

 yokoちゃんが申し込みをしてくださって、お連れにつれていってもらえることになりました。見学無料!

 日本のお屋敷には珍しいスパニッシュ様式の建築を請け負った曽禰中條事務所。曽禰達蔵(1853-1937)がコンドルの弟子1期生4人組のひとりであることは、コンドルを知ったときから知っていました。しかし曽禰達蔵晩年に建築事務所をともに運営していた中條精一郎(1868-1936)が宮本百合子(旧姓中條)の父親だということ、福島県に旅行して安積疏水の歴史展示を見るまで、気づいていませんでした。
 (2014年夏の「郡山・安積開拓資料館」見学のことは
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/335009838f9780e67860569a60f5d6ed

 曽禰中條事務所の作品は、都内では、慶応大学図書館、明治屋京橋ビル、講談社ビルなどを見ることができます。

 1927年に竣工して以来、小笠原長幹伯爵とその一家、妻(貞子1887-1966)と四男三女が暮らしました。
 しかし敗戦後は、お決まりのGHQ接収。接収解除後、法務省管轄となり1953-1975まで福祉局中央児童相談所として使用されました。老朽化のため児童相談所が移転したのちは、東京都は修復費用負担を条件として邸宅借り受け者を募集し、現在はインターナショナル青和株式会社が借り受けてレストランを経営しています。

修復前の写真


 私は1970年に東京へ出てきて1年半、このお屋敷のとなりで働いていたことがあります。それなのに、お屋敷があることもまったく気づかず、外観の特徴である高い暖炉の煙突にも気づきませんでした。このころ児童福祉に興味を持っていたら、修復前のお屋敷を目にする機会があったのに。

 2002年開店当初から庶民には足が向きがたい高級レストランでしたが、修復費用を負担したことを考えると、その費用も料理の一皿の中に含まれているのかもしれません。ただし、修復を担ったのは、ボランティアたちの力もあったと、建物解説パンフレットに書いてありました。

 以下、無料公開日(3月19日)のメモです。外観と外回り、パティオ、1階室内、2階室内装飾の順にご紹介。公開時間は15:30-17:00。
 外観は見学会前にひととおり見て写真撮影をしました。庭への入り口には「関係者以外立ち入り禁止」と書いてありましたが、玄関受付の女性にたずねたら、「庭はいつでも一般公開しています」とのこと。要するに「自分は関係者であるとの信念をもって立ち入る者は関係者だから立ち入りOK」ということなのだと解釈しました。

 西側から玄関を見る


 地下鉄都営大江戸線若松河田駅のすぐ近くなのに、入り口まわりにはレストランを思わせる看板などはでていません。ここがレストランだと知っている客以外は、入ってこないと思います。駅を降りたらレストランがあったので、「ふらりと立ち寄ってみた」というのフリの客は想定しておらず、予約と結婚式場利用の客だけで経営なりたっている、という感じでした。

レストランの看板がわり

 正面玄関



 玄関上のキャノピー(外ひさし)葡萄の実、蔦と葉がデザインされています。
 

 丑寅の鬼門には魔よけの像。解説パンフレットには、このお猿(山王社の使い)と逆向きの写真が載っていましたので、現在の御幣をかついだ猿像は復元ものかも。


 小笠原邸のシンボルとも言える、シガールーム外壁のタイル装飾。
 小森忍(1889-1962)の作品「生命の讃歌」。小森は大阪生まれ。戦前は大連市に小森陶磁器研究所を設立し、中国古代陶磁器を研究家でもありました。戦後は、金沢美術工芸大学(現)講師をつとめたのち、北海道で陶芸家として暮らしました。


 修復前は1600パーツのほとんどが剥がれ落ちていましたが、奥田武彦(1962-)直子夫妻が当時の色タイル発色を確認しながら1枚ずつ焼き上げたそうです。奥田さんは、現在も文京区の自宅内の窯で陶芸作品を作っています。



 修復前の地下ボイラー室に残されていたボイラー口(ドイツ製)と、現在このボイラー口が取り付けられている焼却炉。でっぷりした鶏?。ただの飾りなのか、本当に焼却炉として使われているのか、あとで聞こうと思っていたのだけれど、聞くのを忘れた。


 曽禰達蔵は、定礎板を建物に取り付けることをほとんどしていない人だったそうですが、このお屋敷には定礎銘板を入れました。自作として残す価値のあるお屋敷と感じたのでしょう。
 

 1階パティオ(中庭)

 パティオから2階へ上がる外階段


 2階から見たパティオ


 次回は室内(1階、2階)をご紹介します。

 yokoちゃん撮影の見学者


<つづく>
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ぽかぽか春庭「庭園美術館アールデコの室内」

2018-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

旧朝香宮邸南面

20180325
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(3)庭園美術館アールデコの室内

 庭園美術館(旧朝香宮邸)見学記の続きです。館内撮影OKのラッキーな日。装飾部分など、見学者で混雑しているときには撮りにくい部分を撮ることができました。
 
 旧朝香宮家は、明治時代後期、久邇宮朝彦親王の第8皇子である鳩彦王(やすひこおう)(1887-1981)が1906年に創設した宮家です。1908年には明治天皇第8皇女允子(のぶこ)内親王(1891-1933母は園祥子)と結婚。2男2女に恵まれました。

 朝香宮夫妻は1925年に開催されたパリのアールデコ博覧会を視察し、帰国後アンリ・ラパンに邸宅の装飾を依頼。ラパンは、ルネ・ラリックらアールデコの装飾作家を動員し1932年に邸宅が完成しました。允子妃は、宮邸に住むことたった1年。竣工の翌年になくなってしまわれました。

 1932年に完成したアールデコの館が、米軍接収、外務大臣公邸(吉田茂が居住)などを経て、庭園美術館として公開されています。

 以下の写真、1932年竣工当時のままの室内装飾もあるし、復元されたものもあり、新しく買い付けたアンティークものなどが入り交じっています。しかし、その区別が私にはつきませんので、ただ撮ったものをUPしています。
 しかも写真の整理整頓が下手なので、撮った装飾品が、どの部屋のものだったのかごちゃまぜになっているので、いろいろご指摘いただければ、幸いです。

 くわしい説明が必要な方は、朝香宮邸の解説書が各種でているのでご参照ください。
 私の手元にあって参照しているのは、藤森照信『アール・デコの館 旧朝香宮邸』増田彰久(写真)ちくま文庫1993です。


 室内の装飾デザインは、ラパンやラリックなど担当したデザイナーの名前がわかっているものもあるし、宮邸建築を担当した宮内庁内匠寮工務課のだれか、ということもあります。建築の全体設計は宮内庁内匠寮工務課の権藤要吉(1895〜1970)が担当しました。

 1階と2階の主要な7室は内装をフランス人デザイナーのアンリ・ラパン(1873〜1939)が担当。ラパンはガラス工芸のルネ・ラリック(1860〜1945)、マックス・アングラン(1908〜69)、鉄工芸(鍛金)のレイモン・シューブ(1893〜1970)、彫刻家レオン・ブランショ(1868〜1947)等の作品をうまく組み込んで、フランスのアール・デコの美しさを生かした邸宅に仕上げました。アールデコで装飾された建築は、世界にあまり残っていないということで、世界的にも貴重な建物です。

 玄関床モザイク模様のタイル


 小玄関の丸窓から外を見る


 大広間の壁に掛けられていたラパン『サントヴィクトワール山麗ふたりの子どものいるプロヴァンス地方の風景』1920-1930


 大広間のレリーフ


 大客室の暖炉とドア


 大客室の天井にはルネ・ラリック作のシャンデリア(ブカレスト)が2基


 大客室の扉。上部に、レイモン・シューブによる鉄製のタンバン装飾。ドアの部分にはマックス・アングランによるエチング・グラスのパネルが嵌めこまれています。


 大食堂天井には照明器具が3基。ラリックが果物(パイナップルとザクロ)をモチーフに製作。


 大食堂内にあるマントルピースとその上に飾られている壁画です。この壁絵には、赤いバーゴラのある噴水の庭が描かれています。


 階段の模様を裏側階段横から見る。


 2階プライベートな空間(殿下居間、書斎、若宮寝室、姫宮寝室、妃殿下居間、寝室など) 各室のさまざまな照明器具。


 ラリック作花瓶「オラン」1927


 アールデコ時代のティーセット1921セーブル製陶所アンヌマリーフォンティーヌ絵付け


 ドア上装飾と大客室の装飾


 大食堂のドアと壁装飾


 天井に接する柱の装飾


 ラジエーターカバー、暖炉カバー。日本的なモチーフが多いです。


通風孔カバー


ドアの飾り


 家具
カップボード、テーブルと椅子(レイモン・シェーブ作)


 テーブルの装飾


 椅子2脚アンドレグルーデザイン、マリーローランサン絵付け1927ごろ


 大客室に置かれていた家具の装飾



 2階階段上のロビーに飾られていた允子妃肖像写真マヌエル兄弟写真館1927年撮影


パリでの自動車事故で入院中の朝香宮鳩彦王を見舞う允子妃1923年
(入院した夫を見舞うためにパリへ行き、アールデコ万博視察がかなったため、アールデコ屋敷が建設されることとなった)


 エッフェル塔視察の允子妃とおつきの女官。


 アールデコの時代のファッション。


 アールデコ時代のドレス(允子妃が着用したものではないみたい)


 明かりがともった邸宅




 庭から見た邸宅


 日本庭園


 雨の中、水もしたたるいい女(の気分)


<つづく>  
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ぽかぽか春庭「なごり雪&名残の雪の庭園美術館」

2018-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム


20180325
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(3)なごり雪&名残の雪の庭園美術館

 「なごり雪」が気象庁の気象用語として認められたのは2013年になってからのことです。伊勢正三がかぐや姫として「なごり雪」を歌い始めたのは1975年のことですが、それ以来ずっと「季節のことばとしては名残の雪という季語がある。なごり雪というのは日本語として間違っている」と言われてきた、ということについて、昨年冬に書きました。
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/98b8fdb1e709e68804cdc3cc8cfc7adb

 今週21日は、ひどい風と雪が日本全国を吹き荒れた春分の日になりました。友人のシャンソン歌手ゆみさんからは「奄美大島もひどい天気でした」という旅だよりも届きました。
 21日は第3水曜日ですから、ミサイルママに「白金植物園で開花したての桜見て、庭園美術館で絵本展見たい」と「大人の遠足復活2回目」の希望を出していました。しかし、現在は仕事優先に生活しているミサイルママは「雪降るっていうし、こんな天気の悪い日に出かけて、翌日の仕事に差し支えると困るから」と、フラれてしまいました。木曜日には「いっしょに演劇を見る」という約束もあったので、婆デートを2日間続けてやることもないし、ということもあったのだけれど。

 それでも、朝方窓の外はそれほどの大降りには見えませんでしたので、ひとり遠足決行。
 雪が降ったら降ったで、「なごり雪をまとったアールデコのお屋敷」という写真が撮れるかもしれないというシャッターチャンスへの色目もありました。

 山手線から外を眺むるに、雨はみぞれになっていました。えびすガーデンプレイスの39階から眺めた雪景色。壁の桟に雪が積もりだしました。
 
 えびすガーデンプレイスの39階外壁の桟に積もった雪と窓外に降りしきる雪。


 39階では雪だったのに、地上に降りたら外はみぞれ。そういうもんなのでしょうか。
 写真美術館から目黒駅まで霙の中を歩きました。みぞれが雪になったら、東京の雪景色をとるチャンスがあるかもと思ったのですが、庭園美術館につく頃には雨になっていました。なかなか思うようにはいきません。

庭園美術館入り口の咲き始めの桜と傘をさしている一団


玄関前は雨に濡れているので、邸宅が鏡のように映り込んで、雨ならではの写真になりました


 この天気ですから、祝日なのに庭園美術館は思った以上にすいていました。いつもは、館内撮影禁止だったり、撮影OKでも、観覧者を画面に入れないように気をつかうので、室内写真はあまり撮れないのですが、今回は撮影OKだったし、だれもいない室内を撮ることができました。

香水塔(ランプを灯すとランプの熱によって香水が香る)普段だと鏡に観覧者が映り込むのですが、21日は鏡像が撮れました。


 新館で「鹿島茂フランス絵本コレクション」の展示がありましたが、本館では絵本展示は一室だけで、「アールデコの館」そのものを見せています。館そのものをじっくりながめることができるのは久しぶりです。

 まずは、日ごろは一般立ち入りができない3階ウインターガーデンを。四季折々に旧朝香宮邸を訪れている私も、入室するのは2回目です。

 ウインターガーデンに上る階段と踊り場


ウ インターガーデン(冬のサンルーム。家具は、観覧者を窓に近づけないためにおいてあり、当時の家具ではありません)


 家具は新しいものですが、壁から直接出ている水道蛇口は、当時のもの(と思うけど)。90年以上前のものと思えば、貴重な気がしてくる。


 玄関を入ったところの大広間。大広間の照明は40個の白熱灯。


 正面はイタリア産の大理石を用いたマントル・ピースと鏡、壁はワォールナット材。


 2階へ上がる階段


 階段の装飾


 2階ホール


 観覧者のいない室内が撮れました。立っている監視員は、撮影していると陰に隠れる人もいましたが、映り込んでもしかたないですね。


 大食堂


ベランダサンルーム


廊下


允子妃居間


允子妃居間の外側テラス


鳩彦王書斎


 次回は室内のアールデコ装飾を紹介します。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「表慶館ドーム」

2018-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム

東京国立博物館表慶館ドームの内側

20180322
ぽかぽか春庭アート散歩>春の建物散歩(1)表慶館ドーム

 見たいと思える展覧会、絵画や写真を全部見にいけているわけではありませんが、おそらく平均的な高齢者よりは数多く美術館博物館に足を運んでいるかも。いろいろな楽しみ方のうち、図書館で本を借りるのはただですし、古本屋の文庫本は百円。美術館は行くのは招待券が手に入ったときと、65歳以上無料の通常展。たまにどうしても見たい展示に1600円とか払うと、高いなあと感じて「もととれるよう、一枚一枚しっかり見ておこう」なんて、およそ美の鑑賞にはふさわしくないイジマしいホンネが出てしまう。

 ゆったりのんびりした気持ちで見たいものを見てあるきたいです。、
 見たものをその都度メモして、記録しておいたら、それなりに自分のメモワールになったでしょうに、たいていは、「珍しもん」ながめて、満足して終わり。いつ見に行ったのか忘れてしまう。でも、見たもののひとつくらいは心に残っていれば、出かけていった甲斐もあったと思うことにして、覚えていることを少々ながらメモしておきます。

 65歳以上無料日の第3水曜日、ミサイルママと東京都美術館で待ち合わせる前に、ひとりで東京国立博物館へ寄りました。
 表慶館で「アラビアの道」展をやっていて、通常料金で入れるので、久しぶりに表慶館をゆっくり見学したいと思ったからです。

 表慶館は、1900(明治33)年、皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と九条節子(後の貞明皇后)のご成婚を記念して建設されました。建築費用は国民からの奉納金。40万8501円(現在の価値では20億円)が集まり、1908年竣工。設計は、片山東熊。

 片山は、ジョサイア・コンドルが育てた弟子のひとりで、東宮御所(現在の迎賓館)なども片山の設計です。
 1909(明治42)年に日本ではじめての本格的な美術館として開館しました。

 明治末期の洋風建築を代表する建物として、1978(昭和53)年に重要文化財に指定されました。
 2005年には、耐震工事と改修が行われました。
 改修工事を行った大林組のサイトから借り物の表慶館(本館の屋根の高さから撮影した角度で、一般観覧者には撮影できない姿なので、お借りしました)

 
 中央と左右に美しいドーム屋根。上層部の外壁面には製図用具、工具、楽器などをモチーフにしたレリーフがあります。

2018年2月の表慶館正面玄関、入り口左右に獅子像



 四季折々に東博を訪れ、本館東洋館法隆寺館にはよく入館しますが、招待券がないときは通常展だけ見て帰ります。表慶館は特別展の開催が多いため、内部には入る機会が少なかったです。
 今回のように通常展料金で入れるという太っ腹なことがないと、本館の国宝室だけささっと見て出てくることも多く、2005年の修復完成後、中に入ったのは2014年以来、久しぶりのこと。

 「アラビアの道」展、評判上々で、3月までの展示を5月まで延期するそうです。表慶館見たいから、もう一度行こうっと。

 中央屋根ドームの内側

ドーム2階の手すり


 ドーム上層部のレリーフ




 床タイル


階段

 表慶館の内部見学、前回は、2014年5月2日に、娘といっしょに入館していました。平成館で娘とキトラ古墳の壁画を見たとき、あまりにキトラ古墳図が混んでいたので、人が減るのを待つあいだ、表慶館のキトラ古墳の関連展を見ていたのです。

 2014年の表慶館ドーム屋根の内側(キトラ古墳の関連展開催中)

床タイル

階段


2018年2月
正面左側(南側)のドーム

2018年2月の裏から見たドーム


2017年7月、夕暮れ時の表慶館


<つづく> 
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ぽかぽか春庭「澤地久枝講演会」

2018-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180320
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(11)澤地久枝講演会

 3月17日土曜日、東京早稲田のAVACOチャペルで開催された澤地久枝トークショウに行ってきました。14:00~16:30
 友人A子さんが申し込みをしてくださり、私はひょいと足を運んだだけ。

 澤地さんは、1930年9月3日生まれ87歳。
 私にとって、生き方のお手本のひとりと思って作品を読んできた作家のひとりです。戦争に反対する信念を貫き、何度もの心臓手術を乗り越えて、現在も毎月3日には、首相官邸前に立ち、憲法改悪反対、戦争へ向かおうとする政権への違和を表明しています。

澤地久枝講演会


 私は、『14歳〈フォーティーン〉満州開拓村からの帰還』(2015年、集英社新書)をまだ読んでいないのですが、講演会があると聞き、澤地さんから見れば20歳も若いのに、ぐうたらぐうたらと生きている自分にカツを入れるべく、出かけました。

 澤地さんは、私の最初の大学の先輩にあたり、講演会の申し込みをしてくださったA子さんは、2度目の大学の同窓生です。

 A子さんとの出会いもブログを介してのものでしたが、息子さんが8歳小学生だったときからのおつきあいも、もう息子さんが大学を卒業する年になりました。互いに仕事を持つ母親ですから、15年の間そう頻繁に会えたわけではないのですが、半年に1度ずつくらい会って、シングルマザー準シングルマザーの愚痴も言い合えることが子育ての励みにもなってきました。

 市川房枝、石牟礼道子、澤地久枝、など、好きな女性が共通している、すなわちめざす女性像がいっしょ、というところも気が合う理由の一つでしょう。
 市川房枝も石牟礼道子もすでになく、澤地さんも87歳という年齢を考えると、少しでもそのお声に触れておきたいと思うので、今回のお誘いはありがたかったです。

 トークショウの会場は教会の礼拝所なので、椅子に座れたのは200人ほど。入れなかった人は別室で同時中継のモニターを見る、ということでした。私とA子さんは、ギリギリに会場に入り、すでに椅子席が埋まった状態でしたが、4人掛けの教会椅子に3人で座っているところを係の人が「4人ずつお詰めあわせください」と言ってくれたので、一番前の席に座ることができました。

 澤地さんがいちばんよく見える席。ギリギリに会場についたのに、得しちゃいました。お得はもうひとつあって、入り口で新書本『14歳満州開拓村からの帰還』を買うことができました。私の次の人で「完売で~す」
 なぜ、会場で本を買うことにしたかというと、もしかしたらサインもらえるかもと思ったから。狙いはぴったり。

満席の会場


 澤地久枝は、14歳のとき、満州吉林で敗戦を迎えます。聖戦と信じ日本の勝利を疑わずに「食べるものがなくても我慢するのが正しい皇国の子供」と思って育ちました。周囲の子供はつぎつぎに栄養失調で死んでいく。久枝の弟や妹も病気になり、自身もしょう紅熱にかかり生死をさまよいます。

 ソ連軍が侵攻してくると、軍関係者は「皇国を守る」どころか、いち早く満州開拓民や満州在住日本人を見捨てて逃亡し、残された女子供に危機が迫りました。
 難民としてさまようなか、澤地に大きな恐怖が襲い掛かりました。

 澤地久枝が70年間口にできなかった、ソ連兵によってレイプされかかった記憶。「消したい消したい、忘れたい」と封印してきたことを85歳になっての著作ではじめて公にしました。命がけで娘を守っれくれた母もない今、このことを記憶しているたった一人の人になって、やはりこの事実を伝えずには死ねないと思ったのです。

 『1972年の冬、私は旅行でモスクワを訪れたのですが、空港でソ連兵の姿を見つけたとき、私の体が凍り付き、動けなくなったのです。寒さからではありません。あの日の恐怖心が、よみがえってきたからです』
 サーベルを突き付けて娘に襲い掛かろうとする兵士に、命がけで抵抗した母の姿。頭では忘れようとしていたのに、体は恐怖が残っており、PTSDによって恐怖心でいっぱいになったと澤地久枝は告白しています。

 今回のトークショウでも、この時よみがえった恐怖について語られていました。
 いつまで戦争のうらみつらみを言い立てているんだ、いつまで加害者を攻め続けるんだ、と、被害者に対して批判する一団もいます。でも、その人々は、被害を受けた側にとっては、70年たっても、その恐怖が蘇ってしまうということを真に想像したことはあるでしょうか。

 父や母の戦争体験を聞いて育った私の世代「戦争を知らないこどもたち」も、すでに70歳前後となった今、もっと若い世代は「美しい国を守ろう」と声高く叫ぶ人々に違和感すら感じなくなっているみたいです。
 「悪者が核開発しているのに、へいわ平和とバカのひとつ覚えで唱える馬鹿ども」と、平和を語る人に四方から罵声が飛びます。澤地久枝もそういう罵声を浴びてきました。それでも、毎月3日(3日は澤地の誕生日)に、澤地は首相官邸前に立ちます。

力強いことばで講演する澤地久枝さん


 澤地は、今年88歳になります。心臓手術を4度も行ってきた満身創痍の身体です。それが、14時開始の講演を15時50分まで、途中休憩なしに話し続けました。火のような強いことばで、現政権のモリトモ問題のごまかしや原発処理のごまかしを弾劾し、ジャーナリストとして誠実に仕事をした本田靖春(ほんだやすはる1933-2004)や原寿雄(はらとしお1925-2017)を紹介しました。

 私は本田の著作は読んだことありましたが、原の著作は読んでいなかったので、機会があれば読もうと思います。原が「ジャーナリズムの存在意義は権力監視」と言ったことば。権力者の御用新聞のような現在のジャーナリズム横行をどんな思いで空から眺めているのでしょうか。

 15分間の休憩時間、「14歳」にサインをしてもらえるというので、ささっと前へ。一番前の席でしたから、並んだのも2番という間のよさ。サインしてもらった上に、並んで写真をとってもらいました。私のあと「写真撮影はご遠慮ください」ということになったので、写真とってもらったのは、1番に並んだ人と2番の私だけ。
 ミーハー行為を恥ずかしがらずに敢行できたのも、年取るにつれてずうずうしさが増してきたおかげ。澤地先生ありがとうございました。おかげさまで「先生のあとをおいかけていくぞ」の決意もより強くなりました。

 春庭はミーハー丸出しのアホ面ですが、サインをしてくださった澤地さんとのツーショットうれしかったです。


(このページの澤地さんの肖像権について、許可なしの写真掲載ですから、引用は固くお断りいたします。また、肖像権について不許可になった場合、削除いたします)

 3月17日は白木蓮が満開になりました。
 国会を欺く文書の提出にものらりくらりと「官僚が勝手にやったこと」とうそぶく政権に、擁護のツィッターやジャーナリズムも出ている昨今。
 澤地さんのことば、そして日に輝いて咲く白木蓮に力づけられた思いの一日になりました。



 春の気持ちは盛り上がりました。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「芳賀日出男展+山村健児斎藤朱門展 in フジフイルムスクエア」

2018-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム

芳賀日出男展

20180318
ぽかぽか春庭茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(11)芳賀日出男展+山村健児斎藤朱門展 in フジフイルムスクエア

 くちかずこさんと地下鉄改札で別れて、私も帰宅しようかと思ったのですが、久しぶりの六本木、そうだ、いつもミッドタウンに来たときは、富士フイルムの展示コーナーを見ていくことにしていたんだっけ、と思い出しました。ミッドタウンの道路沿いに富士フイルムスクエアがあります。地下鉄の駅に降りる途中に芳賀日出男の展示ポスターを見て、せっかく六本木まで出てきたので、見ていくことにしました。



 写真を見るのが好きなのですが、写真美術館とこの富士フィルムスクエアで見るのがほとんどです。
 3時半にスクエアに入ったら、ちょうどボランティア解説員さんの「写真の歴史解説」というのが始まったところでした。

 フェルメールが絵を描くときに使ったというカメラ・オブスクラの話から。
 スクエアの展示室には、レプリカのカメラ・オブスクラが置いてあります。解説員さんは「フェルメールは、絵を描くときにカメラ・オブスクラを覗いて、画面構成に使用した」という一般に流布している説を紹介しました。

 実際にはフェルメールの描画法には諸説出ていて、フェルメール没後の財産目録の中には、カメラ・オブスクラはなかった、ということまで研究されています。でも、カメラの歴史の最初のところに、フェルメールを出しておくのは、カメラ史を語るうえで、言いたくなるエピソードだろうと思います。

 前半は、写真の発達史。タゲレオタイプ(銀板写真)など、写真美術館で習い覚えた写真史の復習ができました。中盤は展示室に並べてあるさまざまなカメラについての紹介。最後は、スクエアの現在の展示である芳賀日出男の写真の解説で1時間強のレクチャーでした。

 芳賀日出男は、1921年満州の大連で生まれ、慶応大学入学のためはじめて内地の土を踏みました。小学生のとき父にカメラを買ってもらってから写真を撮り続け、大学でもむろんカメラクラブに所属。大学で折口信夫の講義を受け、民俗写真を撮るようになりました。以来60年にわたって、日本の民俗を撮り続け、今では消えてしまった祭りや民俗行事の貴重な記録となっています。

 1970年代、私が民俗芸能に興味をもっていたころから、芳賀日出男の写真に触れてきました。遠野の早池峰神楽や奥三河の花祭などを見にいきましたが、出かける前の予習としてながめた写真集にその名を見ていました。

 今回の写真展は、代表作の30点を展示。点数は少ないですが、芳賀の傑作が並んだのを見渡すと、日本の中に残してゆくべき光景が心に響きます。(すでに失われたものも多いけれど)
 「民俗写真の巨匠 芳賀日出男 伝えるべきもの、守るべきもの」
 2018年1月4日(木)から3月31日(土)


 写真展だと、撮影禁止のことが多いですが、撮影自由、ブログ掲載OKでした。

代表作のひとつ「十三参りの少女 沖永良部島」


 スペース1では毎日写真コンクールの入賞者作品展示。素人の作品ですが、それぞれに渾身の1枚を出品していて、みな上手な写真でした。

 スペース2では、山村健児と齋藤朱門の自然写真。大画面の写真、美しく迫力満点の写真に圧倒されました。
 会場では斎藤氏は売り物の写真にサインをしていて声をかけにくかったですが、山村氏は自身の作品の前で、来訪者と記念撮影に応じており、私もいっしょに撮ってもらいました。



 山村氏と斎藤氏は、カリフォルニアで知り合い、自然写真の神髄を目指してフォトフラファー道をともに歩んできました。すごい迫力と美しさの自然写真ですが、山村さんは「デジタルで加工した写真を認めない」という日本の主流派の考え方とは一線を画し、独自の自然観による撮影をしています。

 私は写真は好きですが、写真界の動向にはうといので、デジタル加工の可否もわからないのですが、わかったことは、山村健児さんはイケメンで、最初来訪者との写真撮影に応じている姿は、モデルさんかと思いました。
 イケメンといっしょに撮ってもらってうれしいです。

山村さんの作品の前で


<つづく>
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ぽかぽか春庭「ミッドタウンオフ会」

2018-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180315
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(10)ミッドタウンオフ会

 友達少ない春庭、ブログのコメントおつきあいもごく少ないので、若い人たちがラインのお付き合いで、何百人も友達がいる、ということを聞くとすご~いと思います。

 facebookなども友達の友達というのをたぐっていくと、5人たどれば世界中の70憶人とつながりができるそうです。
 私は、とりあえず顔見てしゃべる人とのおつきあい優先なので、70億人とはおつきあいしきれないとおもうので、この3月も友人との顔合わせの時間を大切に。

 娘は「母と友達づきあいしてくれる人って、よっぽど人間ができた良い人たちなのだから、大切にしなさいよ。こんな性格の悪い母、私なら友達になったとしても、もう10回は絶交しているもの」
 はい、友達でなくて娘だったので、絶交は今までに10回もしていなくて、5回くらいですんできました。娘が私に腹を立てて、3か月とか半年くらい口をきかない期間て、今までにたぶん5回くらいあったと思うけれど、最近は娘のほうが腹立ちを抑えているのか、この3年くらいは口をきかなくなったことはない。

 というわけで、その貴重な友人のひとりであるブログ友達と、久しぶりにオフ会です。
 前回東京駅で会ってから、もう4年たちました。その間、互いにブログ読みコメントしあって写真も見ているので、法事でしか会わない親戚よりはよっぽど互いの動向はわかっていて親しみは感じてきましたが、やはり実際に顔をあわせるとおしゃべりもはずみます。

 今回は、東京に住む娘さん宅の子守助っ人に東京へきたので、外出もひかえて、お孫さんの保育園への送り迎えが優先というスケジュールなのだそうで、東京にいてオフ会をやりたがっているブログ友達もまだ日程を抑えていない隙間、急遽「明日会いましょう」と、突撃オフ会実施です。
 これまで、東京に来る、ということをブログで知っても、いつもスケジュールがいっぱいそうなので、遠慮してきましたが、連絡してみるもんです。保育園までのお迎え時間まで、という時間制限はありましたが、オフ会できました。
 11時から3時までの逢瀬、くちかずこさん、楽しいひとときをありがとうございました。

 場所は、六本木ミッドタウン。
 サントリー美術館の『寛永の美・江戸の宮廷文化と遠州・仁清・探幽』(2018年2月14日~4月8日)の招待券2枚ゲットしてあったので、ランチと美術館散歩のオフ会です。

 ランチはサントリー美術館の中にある金沢にある老舗の出店です。
 11時ごろ地下鉄六本木駅、改札での待ち合わせだったのですが、私が早めに着いたので、先に店に入り、席をゲットしておきました。六本木周辺は、12時-13時は、どの店も混み混みだ、という情報をくちかずこさんはお婿さんから得ていて心配していましたが、ランチ難民になることないように、早めの座席確保です。さすがにお店オープン11時には、私が一番乗りでした。(12時には満席だったので、早めの抑えは正解)

金沢に本店がある不室庵。「ふ」の料理が名物。


早く注文しておかないと、お昼時には品切れになってしまう「ふ」の定食
 

 お店の席を確保してさて、改札までお迎えに行こうかとしたら、「駅到着、これから美術館に」向かいます」とメールが来たので、お店で待ちました。 
 くちかずこさんは、いつも素敵なワードローブをブログでも公開していますが、この日もとてもかわいいスタイルでした。

 私は、ファッションに興味はありますが、それは美術館で絵を見るのと同じように、「見るためのアート」としての興味なので、わが身をアートする気はまったくないのが欠点のひとつ。夏は裸でなければよい冬は寒くなければよいということでしか装わないので、衣服で自己表現できる人は尊敬します。
 いつもおしゃれなミサイルママは「e-Naちゃん、もうちょっと服装に気をつかったほうがいいよ」と忠告してくれるのですが、おしゃれに気がまわらないところが私の人生ですので、しかたありません。

 ファッションへの興味、ちょうど深井晃子「きものとジャポニズム西洋の眼が見た日本の美意識」と、松田毅一の「天正遣欧使節」を読み終わったところだったので、東西の交流についての興味がいっそう高くなっていました。
 フェルメールが17世紀に描いた「天文学者」が来ているヤポンセ・ロッケンと呼ばれたガウンは、16世紀末のヨーロッパに宣教師たちがもたらした日本の着物が影響して部屋着になった、なんて話には興味シンシンだけれど、自分の衣服にはいっこうに目が開かず、相も変わらず各所各位からのいただきものおさがりを着まわしています。

 おしゃれなくちかずこさんと並んで、サントリー美術館の入り口で写真を撮ってもらったときは、さすがにちょいとわが身のダサダサぶりは気がひけたけれど。

 くちかずこさんは、高校時代にお茶の免許は取得済みで、お茶の先生をしているお友達もいて、お茶をまったく知らない私より、小堀遠州や狩野探幽の茶道具などへの興味も深かったことと思います。私はいつも通り、「こんな茶杓ひとつでも高いんだろうなあ」ってな見方。

 ふたりが一番興味をひかれたのは、小袖を貼り込んだ屏風でした。
 白綸子地鳥字繋模様絞小袖屏風

 
 本日の「寛永の美」の小堀遠州の美意識は「きれい寂び」だそうです。利休が極めた寂びの美意識にさらに「きれいであること」を否定しない。
 小堀遠州が打ち立てた「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面」というのを、お茶碗を見てまわっても本当に理解できたかどうかは、わからぬけれど、とりあえず、くちかずこさんの「きれい」と、春庭の「錆びついたおさがりの服」が並んで、「きれいさび」ってことで。



 ほら、春庭の頭の上に、「きれい極まる」って書いてある、、、、。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「国際交流フェスティバル」

2018-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180315
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(9)国際交流フェスティバル

 冬季パラリンピック、盛り上がっています。
 成田緑夢選手のスノーボード銅メダル、おめでとう。長野オリンピックで4歳のときのかわいらしい姿を見た時から、「親戚の子」のように、その成長と失意のときを見てきましたから、とりわけ思い入れがあります。怪我、そして障害。つらいときがあったことと思いますが、けがや病気で苦しい思いをした人にとって、とても励みになりました。東京での夏季パラリンピック出場もめざしているそうで、がんばってほしいです。

 東京オリンピックに向けて、「国際なんたら」というイベントが各地で盛り上がっています。
 中身はいろいろですが、国際社会や異文化への理解がすすむなら、国際なんたらも大いにけっこう。

 春庭は、3月11日「国際交流フェスティバル」という催しに参加してみました。
 プログラムは、近隣に住む外国人の日本語スピーチ大会、昼食と交流、バンド演奏、ゲームなどです。
 
 日本語スピーチは、ベトナムの旧正月紹介、中国の春節紹介など、2月の春節が終わったところだったので、時期的に盛り上がる話題があり、ふるさとの紹介(少林寺拳法の本拠地紹介あり、シンガポールの多民族文化紹介ありなど)、日本に来て体験したことの紹介もありました。テレビ番組のオーディションを受けて、忍者体験などをしたガーナの学生、忍者の剣づかいと侍の剣さばきの違いなどの実演入りでした。テレビ番組の放映、私は見ませんでしたが、なかなかの人気番組なんだとか。

 ほとんどのスピーカーは、手に日本語やローマ字で書いた原稿をもって読み上げるスタイルのスピーチでしたから、来日してまだ日の浅い人であっても、原稿にはちゃんと担当の先生の手直しが入っていたようで、発音のおぼつかない部分がある人もいましたが、日本語としてはとてもわかりやすく聞きやすいスピーチになっていました。

 いちばん感心したのは、ウガンダから来た学生のスピーチ。原稿を手にもっておらず、自分のことばで語っている感じがありました。スピーチタイトルは「がんばります」
 彼は、ふるさとのアフリカの村で、食べるものに不自由する生活をしていました。満足に学校にも通えない暮らしの中。家族のために働き、母の励ましを受けてがんばりました。
 がんばる彼は、日本の「あしなが育英会奨学金」を受けるチャンスに恵まれました。
 現在は日本語学校で日本語を学び、日本語能力試験に挑戦中だそうです。

 私はこれまで百か国の留学生に出会ってきました。大学院生や大学院進学をめざす留学生が多かったため、アジアアフリカ出身で「食べ物も不自由なくらし」という学生は少なかったです。アジアやアフリカで大学に進学できる層は限られていて、故国でかなり恵まれた生活をしていた学生がほとんどでした。私が教えてきた国費留学生というのは、日本の文科省が日本の税金による奨学金を投じて招聘する留学生ですが、教える教師より金持ちの奨学生もいました。

 20年以上前のことですが、大学お手洗いの水道が水しか出ず、お湯がでないことに驚いて不満をぶつけてきたアラブ石油国のお嬢様もいましたし、「日本ではじめて電車に乗った」と初体験を語る学生に、故国での暮らしを聞いてみたら、故国では運転手付きの専用車で通学していたので、日本で初めて公共の乗り物に乗ったということだったり。

 ひとりだけ、インドネシアからの留学生で、インドネシアで研究を続ける学者の助手(植物採集や昆虫採集の手伝い)を長年勤めて、その学者の推薦を得て国費留学生に選ばれた学生がいました。「子供のころ、靴を履いたことがなかった。研究所の助手になって、靴を買ってもらってうれしかった」と、作文に書いたのを読み、こういう学生にこそ奨学金をおくるべきだと感じたものでした。

 ですから、あしなが奨学金を受けて来日した学生の故国での生活を聞いて、これこそ生きた奨学金の使い方と感じたのです。
 ウガンダの東部地方ではスワヒリ語も話されているので「Una sema Kisuwahili?」と話しかけてみましたが、残念ながら彼はスワヒリ語が通じる地域ではなくて、日本語か英語でした。
 
 交流会ランチは、地元野菜を使った料理、ハラルミートを使った肉料理などが並べられました。(会費500円)
 私は、お皿に遠慮がちに盛り合わせました。レストランのバイキングだと、これでもかって山盛りにするんですが、ちょっと上品ぶったのです。
 ハラルミートやさつまいもサラダをおいしくいただきましたが、スピーチをした方々に「とてもすてきなスピーチでした」なんて感想を述べているのを優先していた間に、あっという間にテーブルの上は空になり、上品ぶったのを少々後悔。大食い人間なので、もの足りず、帰り道にラーメン屋に寄りました。

 消防署による「119への電話連絡効果的なかけかた」という日本での暮らしに欠かせない生活情報の紹介もありました。
 私も知らなかったこと。どこか出先で事故などを目撃して、119に連絡するとき。固定電話なら場所を探知できるけれど、ケータイでは難しいことは知っていました。おおよその目印になるランドマーク建物を伝えるのもひとつの方法ですが、電信柱に書いてある住所が見当たらないとき、自動販売機には設置場所の住所が書いてある、という情報を知りました。
 2005年から自販機に住所表示ステッカーを貼る活動を自販機業界が社会インフラ活動としてやっていたこと、知りませんでした。

 本日の参加目的である国際交流協会会長との名刺交換ができたので、最後のじゃんけんゲームには参加しませんでしたが、日曜日に出かけてきていろいろ収穫がありました。

 いよいよ暖かくなってきて、来週には桜も開花とか。春、盛り上がっています。お花見、どこで見ようかな。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「再会の春その2」

2018-03-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180313
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(8)再会の春その2

 3月9日夜は、娘が予約をとってくれたエキナカのレストランで晩ご飯。何度か利用している上野駅の元貴賓室を改装したレストランです。洋食なので、ランさんの口に合うか娘は気にしていましたが、ランさんは、料理より久しぶりに会う娘と息子に大喜びしてくれました。

 私の妹は、私が2007年に中国赴任したときにいっしょにランさんの家を訪問したことがあるのですが、このとき息子は大学入学の年で、夏休みもなにかと用事があり、中国には来ませんでした。
 電話では娘も会話していましたし、写真は何度か送っていて、成長過程は見てもらっていましたが、娘息子がランさんに会うのは久しぶり。20年前と比べると、娘がすっかり太ってしまったこと、小学生だった息子が無精髭など伸びたおっさん顔になったことは、写真でもわかっていたでしょうけれど、実際に目の前に現れた「昔お世話した小さな坊や」が、無愛想なアラサーになったこともなにもかもなつかしく、しばし再会の喜びにひたっていました。

 手作り大好きっこの娘。いろんなもの作ってプレゼントするのが楽しみだったのに、おばあちゃん亡き後は、少々失敗もある手作り品を大喜びで受け取ってくれる人がいなくなってしまいました。ランさんに会えたらあれこれプレゼントしたいと張り切って作り置いたもの、オリジナル毛糸で編んだマフラー、藤蔓で編んだバスケット、牛皮の手縫いバッグなど、どれも喜んでもらえて、よかったです。藤蔓で編んだバスケットなど、思い通りには編めていなくて、少し形がいびつなところがあったりするのですが、ランさんは気に入ってくれました。

 晩ご飯は、娘チョイスのコースです。コースのおまけで、スパークリングワインの小ボトルが1本つきましたが、最初の乾杯のほか、飲んだのは私ひとり。ランさんは、11日土曜日の朝早く京都に帰るので、ほんとは飲めるけれど、「おしゃべり優先」の食事会でした。

 サービスでもらえばうれしスパーリングワイン(シャンパン地方で醸造されたもの以外は、シャンパンと呼んではいけないのだ、と、娘の解説。ワインの知識など皆無で、私はひたすら飲むだけ。スパーリングワインとシャンパンは別物だと思っていました)


晩御飯のコースは。
プチサレケーキ(塩味のひとくちケーキ)、冷菜(本鮪海老スモークサーモンのタルタル)、
ムール貝とシャンピニョンの香草バター焼き



函館産あんこうのポワレうにバターソース、国産牛のグリエ ソースサンクリストフ


デザートとコーヒー


 中国の思い出、上田城に行ったときの思い出、話はつきず、7時から10時近くまで、食べながらしゃべりながら旧交温める時間、楽しかったです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「再会の春」

2018-03-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180311
ぽかぽか春庭日常茶飯事典> 2018十八番日記春盛り上がる(8)再会の春

 出会いは1994年。私がはじめて中国に赴任したとき。
 国費留学生に日本語を教える学校が私の赴任先でした。この学校は、中国東北地方の大学のキャンパス内に設立されていました。ランさんは、この大学で日本語を学ぶ学科の3年生でした。最初は、私の「中国語家庭教師」として週1回、私の宿舎まで来て中国語をおしえてくれました。

 この「中国語家庭教師」の制度は、実は、中国語ができない日本語教師のために、いっしょに買い物に行ったり旅行に同行したりする「お世話係」という一面がありました。
 「週1回の家庭教師」は、決められた報酬を学校を通じて支払ったと思います。その他の外出同行などでは、それぞれの教師が日本語学生と「個別契約」を結び、世話をしてもらっていました。

 このとき、中国語がまったくできなかった日本語教師のうち、日本語教師団の団長さんは他大学の女子学生と仲良くなり、帰国後は日本に呼び寄せて結婚。もう一人の女性教師は家庭教師役の男子学生と大げんかをした、なんぞのあれこれがありましたが、私は家庭教師のランさんと、その後25年つづく友情を築くことができました。

 私は、この初めての中国赴任の半年間、群馬の実家に9歳の娘と息子を預かってもらいました。私の妹は、半年間自分の子として幼い娘と息子を世話してくれ、夏休みに自分の娘二人、姉の娘ひとりといっしょに、私の赴任先までやってきました。

 2週間の中国滞在の間、私は仕事がありますから、妹一行の世話をしてくれたのはランさんでした。ほんとうにありがたかったです。妹が日本へ帰国した後、私の仕事中にランさんは娘と息子のシッターを務めてくれました。娘にとって、ランさんはお姉さんのような存在でした。

 ランさんは、もともと日本語能力がとても高かったですが、さらに高度な日本語を身につけたいと、日本での仕事を見つけ、就職しました。ランさんの滞在先の町へ、娘と息子を連れて泊まりに行ったこともありました。

 中国に帰国したランさんは、日本語教師の道を選びました。新設の日本語学科に応募して採用され、大学で順調に仕事を続け、現在では准教授として大学で日本語を教えています。

 私が2度目に中国に赴任した2007年、3度目になる2009年、何度もランさんの家に遊びに行き、歓待してもらいました。結婚し子育て中の忙しいなか、ランさんのお姑さんともなかよくなりました。お姑さんは私より何歳か若い人。

 ランさんが2010年に日本に研修にきたときは、短時間の滞在でしたので、私が滞在先のホテルに出向き、いっしょにごはんを食べました。娘と息子は学校の用事があったので、会うことができませんでした。「ザ・スカイ」という「食べ放題の回転展望レストラン」に行きました。

 2016年に、ランさん来日のおりは、あいにくと私はミャンマー滞在中で、会うことができませんでした。

 そのランさんが、2018年は、国費留学として京都で日本語研究に携わることになりました。こんどこそ、中国で歓待してもらったお返しをしたいと思ったのですが、今回も、ランさんはたいへん忙しいスケジュールです。東京滞在中も、研修や研究会がびっしり。

 3月8日は国立国語研究所で研修、3月9日は、日本語教育センターでのワークショップに参加するということで、大忙し。
 私は、ワークショップのご案内が来たときには参加するつもりはなかったのですが、あわてて、参加希望の返信メールを出しました。 

 9日午前中はランさんとキャンパス見学。キャンパス案内といっても、図書館、研究棟など、狭いキャンパスの上に、春休み中の改修工事で入れないところもありました。ランさんは、図書館見学でも熱心にこれから参考になりそうな本の背表紙をアイフォンで撮影して、あとで、本サイトで検索してみると研究熱心でした。

 ランチは、大学前のピザ屋で。退職前にいっしょに教材開発をした先生とも再会して、ピザを食べました。子育てをしながらの日本語教師生活という3人の共通点もあるので、話がはずみました。

 ピザランチをとったあと、いっしょに日本語教育センターへ。
 3月9日の午後のワークショップ。
 私は「お連れ」の参加なのですが、1年間の国費留学期間中に「SPOCを用いた環境下の言語能力の評価、映像作品を用いた日本語教育の実践研究」という研究をやるのだというラン先生は、とても熱心にワークショップでの学びを活用していました。グループごとに質問をするコーナーでは、発表者への質問も引き受けてくれました。

 留学生にとってもっとも身近で使いやすい学習ツールの勉強でした。
 ランさんが日本語を習っているころ、辞書一冊買うにも「日本の書籍は高い」と、やりくりしながらでした。今では、アイフォンひとつあれば、辞書機能もついており、日本の地図も旅情報もクリックひとつでできます。
 では、学生が日本語を学ぶために、これらの学習ツールをどのように効果的につかわせるか、その問題、私も興味がありましたから、お連れのおまけ参加でしたが、勉強してよかったです。特に、ネットの辞書ツールの開発は私が想像していたよりずっと進んでいて、世界には開発したソフトを無償で提供しオープンソースとなっているのだとわかりました。

 ワークショップ後の茶話会。先生方にご挨拶して国費留学中のランさんも紹介でき、一日、よい時間となりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「我が家のミステリーとんかつ消失事件」

2018-03-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
30180313
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(8)我が家のミステリーとんかつ消失事件

 いろんなものが消えて無くなる。どうしたものか。
 理由はわかっています。整理整頓できていない家の中。私と息子は無意識に行動することが多いので、なにをいつどこにおいたか、まったく覚えていないことが多いのです。
 なんでそんなところに、と思うところからメガネが出てきたり、(先日は、炊飯器のおかまのなかからひょっこりと)息子の資料図書など、探すより買ったほうが早いと、同じ本をまた買ったり(専門書なので高い!!)

 先週は、金曜日に買って帰ったとんかつが見当たらないので、娘息子と「母が買い物してきて、無意識に置きそうな場所」をそれぞれに探してみたのですが、2DKのさして広くもない家の中で見つかりませんでした。
 「私、確かに買ったのに。ほら、レシート見てよ」

 スーパーのとんかつ、普段は一枚400円なのに、金曜日夜は300円だったんです。さてうれし、特別食べたいものじゃなくても、割引なら買おうじゃないの。半額だったらなおよろしし。
 とんかつ3枚は、翌日土曜日にかつ丼にしよう。金曜日の晩御飯は、昼のうちにチキンの香草焼きというのを主菜として作り置きしておいたので、ジャズダンス練習の帰りに、なにか副菜になりそうなものを割引タイムセールで買おうとしたら、カニクリームコロッケが半額になっていました。3つ買って、ついでに翌日食べればいいからと、とんかつを3枚。

 私がレタスやきゅうりでサラダを作っている間に、息子が買ってきたものを冷蔵庫にいれてくれました。チキン香草焼きをお皿に並べて、あれ?私の分のクリームコロッケがない。そうか、私、3個買ったつもりだったのに、2個しか買い物カートのかごに入れなかったんだね。じゃ、しょうがない、お母さんはコロッケなしね。レタス、ようやく1玉300円から250円くらいになったけど、まだまだ庶民の感覚では高いよ、なんて文句言いながら食べる。

 土曜日、買ってきた出来合いのとんかつ使ってかつ丼作ろうと思ったら、冷蔵庫にカツがない。息子に聞いても、金曜夜に買ったものを冷蔵庫にしまったときに、なかった、という。さあて、家じゅう大捜索。玄関に買ってきたものをひょいとおいてしまうことが多いので、娘が念入りに探す。ガス台の前とか、探したけれど、見つかりませんでした。

 念のために、スーパーのサービスカウンターに電話して、忘れ物はないことを確認。「でも、これだけ探して見つからないのは、買ったものをビニール袋につめる台のところに忘れてきちゃったんだね。それを、だれかがごみと思って捨てちゃったのか、自分で食べようと思ったのか。母はなにか忘れ物を見たときは、必ずサービスカウンターにもっていってあげるのに、そうしない人もいるのかも」
 だれかがもって帰って食べたのならあきらめもつくけれど、ごみと思われて捨てられたのなら残念至極。

 と、ひと騒動ありまして、5日もたったとき、テーブルの下の、なにやらごちゃごちゃ積みあがっているところに、スーパーのビニール袋が見えました。ありゃりゃ、なんだこの袋。だいたい、テーブルの下は、雑誌やらなにやらの雑然とした物置状態になっている家です。

 ビニール袋のなか、とんかつ3枚とクリームコロッケ1個でした。買った翌日にみつかったならともかく、これだけ日にちがたったものは、さすがの私もあきらめて泣く泣く廃棄しました。なにか落としたり見つからなくなった時、悪いのはたいてい私です。

 だいたい、家の中ごちゃごちゃで、どこをとってもごみ箱状態、というのがいけないのです。ものがどんどん見当たらず、爪切りとか、ゴム紐通しとか「みつからないから百均で買ってきた」というようなのがゴロゴロ。

 春になったら、あったかくなったら、片付けよう、と、もう10年も言っています。
 テーブルの下、相変わらずいろんなもんが盛り上がっています。

<つづく> 
 
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ぽかぽか春庭「男女格差ランキング」

2018-03-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180308
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(5)男女格差ランキング

 3月8日、世界女性デーです。国の休日にしているところもあるみたいですが、日本は、祝日にするなら3月3日のほうが支持されるかも。5月5日と並べて3月3日を祝日にするなら、4月4日LGTB祝日もほしいな。

 日本のLGTB法的な整備は、各地で「パートナー認定」なども進んできたところもありますが、実態はまだまだ。男女格差も、実態はまだまだ大きい。

 さて、日本の男女格差の実態について。
 世界男女格差ランキングは、経済・政治・教育・健康の4ジャンルで男女の平等度合いを指数化しています。上位国は格差が少なく、下位国は男女格差が多い。北欧の国には男女格差が少ないことがわかります。

 上位30カ国
1位: アイスランド
2位: ノルウェー
3位: フィンランド
4位: ルワンダ
5位: スウェーデン
6位: ニカラグア
7位: スロベニア
8位: アイルランド
9位: ニュージーラン
10位: フィリピン

11位: フランス
12位: ドイツ
13位: ナミビア
14位: デンマーク
15位: イギリス
16位: カナダ
17位: ボリビア
18位: ブルガリア
19位: 南アフリカ
20位: ラトビア

21位: スイス
22位: ブルンジ
23位: バルバドス
24位: スペイン
25位: キューバ
26位: ベラルーシ
27位: バハマ
28位: リトアニア
29位: モザンビーク
30位: モルドバ
 下位になった主要国
49位: アメリカ
71位: ロシア
100位: 中国
108位: インド
114位: 日本
118位: 韓国
最下位(144位): イエメン

 さてさて、国連加盟190カ国余りある中で、日本は114位。世界の経済的有力国の中では、中国の100位、インドの109位、韓国の118位と並ぶ男女格差の激しさ。
 下位国は、ほとんどがイスラム社会であるので、法的には男女平等をうたっている国なのに、114位というのは、本来なら考えられない結果です。
 これは、恥ずべきランキング結果と思うのに、政治家はだれも恥ずかしがってもいない。

 日本の女性達、世界で男女格差の大きい国に生まれ育って、自分自身の可能性を押しつぶされてきたけれど、それを黙って受け入れてしまっている人の方が多い。
 男女差を受けいれるほうが「女としてのしあわせを得られる」という社会。

 まあ、たしかにわが身を振り返ってみるなら、男女は平等であるべきだと主張した私には、今までヒトサマからみれば「女としてのしあわせ」なんてもんは薄かったように見えるに違いない。
 若いころはまったくモテず、食うや食わずで働き詰めだった人生。なにをもって「女性の幸福」と感じるのかは人によるので、ヒトサマから見て「幸薄い女」と見えようと、私は別段、これで不幸だとも思ってはいないのだけれどね。ただ、もうちょっとお金があったほうが、生活は便利だったろうって、、、ほらほら、そういうこと言うから、「強がる女は幸うすい」って言われちゃう。
 
 なにはともあれ、男女格差114位の国で、かろうじて親子3人の食い扶持かせいで生き延びてきました。まだつづくこの道。

 自分の生き方は自分で決める、自分のしたいことができる社会であってほしいと思うけれど。戦争や貧困という女性にとっても大きな問題が解決していない地域も多いので、そちらの解決が先だ、となるところがあるとは思いますが。
 世界中の女性達が、自由と平等のもとに人生を自らの手でつかみとって行けますように。

 <つづく>
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ぽかぽか春庭「啓蟄の労働裁量制」

2018-03-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20180306
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2018十八番日記春盛り上がる(4)啓蟄の労働裁量制

 立春を季節の第1とする二十四節気の季区分では、第2の雨水につづく3番目の季節のことばが「啓蟄」です。2018年は3月6日。

 「蟄」は、虫が冬ごもりのために穴にもぐること、「啓」は、開くこと。よって啓蟄とは、「土中に隠れ閉じこもっていた虫などが、冬ごもりを終えて這い出てくること」
 中国では、よつ足ではない動物、蛇なども虫の仲間でしたから、冬の間見かけなかったものどもが土の上をうろちょろするのを見たら、冬の終わりを実感し、春気分も盛り上がってきたことでしょう。

 中国周代の官制をしるした『周礼』という書物には、「蟄始聞雷声而動」と出ていて、啓蟄のころ立春後の初雷を聞くことによって季節を知った、ということが書かれています。 

 二十四節気の4番目「春分」が祝日となってカレンダーに載っているのに比べれば、認知度は高くないけれど、たとえば、芒種とか処暑なんていう二十四節気の語句よりは浸透している気がする啓蟄。これも、春分のひとつ手前の季節のことばで、春よ来い、と待たれている気分のことばであるからいいのです。春気分を盛り上げる々の心に浸透してきたものなのでしょう。

 なじみになった季節のことば、とは言っても、このことばが人口に浸透してきたのは、明治以後のことで、江戸時代に一般の人にはなじみの薄いことばであったことは、知りませんでした。
 自分の使っていることば、カタカナ語なら近年のものとおもうけれど、漢字やひらがなの語句ならば、大昔から使われていたものと思いがちです。

 文献をあたってみるならば、「啓蟄」は、江戸初期の歳時記にも載っているのに、『近世俳句大索引』に「啓蟄」を季語として詠まれた句はひとつもないのだそうです。
 以上は、暉峻康隆の『季語事典』をぱらぱらめくっていたら、出てきた「啓蟄」の項のまとめ。 暉峻康隆先生、教室で教えを受けていた遙か昔、江戸文学について習ったような気もするのですが、当時は「女子大生亡国論」に反発していたので、まともに授業を聞かなかった覚えあり。ちゃんと聞いて勉強しておけばよかった。

  明治俳句の時代「ホトトギス」の俳人たちが季語として読み始めたのが、啓蟄流布の端緒らしい。現代では多くの人に詠まれる語になっています。

啓蟄の蟻が早引く地虫かな 高浜虚子
啓蟄の風さむけれど石は照り 加藤楸邨
啓蟄のすぐ失へる行方かな 中村汀女
啓蟄の大地月下となりしかな 大野林火
啓蟄の童女を抱く羅漢あり 山口青邨
啓蟄の夜気を感ずる小提灯 飯田蛇笏
啓蟄の庭とも畠ともつかず 安住敦
啓蟄の地の面濡らして雨一と日 稲畑汀子

 なにやら虫でも蛇でもゾロゾロとはい出てくる趣で、近代俳句では人気の啓蟄です。

 3月4日は東京21度、5日は18度まで最高気温が上がり、虫たち穴から顔をのぞかせたと思いますが、さて、5日午後からは雨、再び冬並みの気温に戻る予報。
 三寒四温とはいうけれど、高齢者には体調管理も不安定になってきてしまいます。

・啓蟄も春分もなく労働は裁量制なりぢっと手を見る 春庭

 年金抑えるために「70歳まで働ける社会」と、政府が言い出しました。はい、68歳春庭、政府の政策先取りして、残業代なしに働いております。

・啓蟄の丸の内線もほの暗き穴より出でて四谷に止まる 春庭
 アハハ、啓蟄じゃなくても、地下鉄電車丸ノ内線は四ツ谷駅では必ず穴からはい出るんですが。

<つづく>
コメント (2)
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