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1979年春庭ケニア日記1979年8月

2010-07-31 09:51:00 | 日記
2011/05/18
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(22)ナイロビからキスム経由カプサベットへ

 去年の6月に、1979~1980年にケニアから出した手紙の書き写しを行いました。
 1979年7月27日の成田出発から、8月13日に従妹ミチコの赴任地に行くための電車の切符を買いにいくところまで書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/201006A
 今回はその続きです。1979年8月14日から。
================

1979年8月18日発行アフリカ通信7号その1
 8月14日の夜行でミチコといっしょにキスムへ8月15日の朝にキスム駅につきました。ミチコが協力隊の人に渡す書類をあずかっていたので、キスム市内の金丸隊員の家に行きました。ミチコはケニア人の感覚になっているので、歩いてすぐだなんて言うので20kgのリュックサックかついでついていったけど、いけどもいけども着きません。ついに40分重い荷をしょってあるいたのでした。

 金丸さんの家にはY.W,C,Aでちょっと立ち話をしたことのあるワタナベ隊員がいました。ちょうど朝ごはんをたべるころだったのですが、ミチコは遠慮して「もう食べてきました」と言うのです。ミチコが手洗いに行っているとき、おくさんが「本当はまだ食べてないんでしょう」っていうから、「ええ」といいました。何も遊びに来たんじゃなし、書類届けて40分も歩いたのだから朝めしくらい食べてもいいと思うのです。それで、ベーコンエッグと紅茶とヨーグルトとオレンジをもらいました。

 キスム市内はモイ大統領が来ているとかでハタや電球でハデハデしくかざってあります。大統領の宿舎の前に一目みようという人々が待っているので私も少しまってみたのですが、ケニア人の感覚でもうすぐ大統領がでてくるというのは、夕方まで待つことかも知れないと思ってやめにしました。

 駅にもどって帰りの切符を予約してからマーケットまで行くことにしました。マーケット前からカプサベット行きのバスが出ているのです。バスといっても「マタツ」というワゴン車を改造した小型乗り合いバスです。マーケットまで、また30分歩くというので私がタクシー代出すからといってタクシーに乗りました。駅前でよろけてひざこぞうすりむくし、ジーパンはやぶけるし、とてもあと30分歩く気分になれなかったのです。タクシー代は7シル200円くらいなもんです。マーケットでミチコはパンとかバナナとか買いものをしました。マタツにのって二時間くらいでカプサベットにつきました。

 カプサベットは町とはいっても郵便局と小さい病院と市場がチョコちょこっと並んでいるところです。山奥の田舎と変わりありません。木や緑が多く、小鳥がさえずっています。キスムからはヴィクトリア湖がみえ、朝焼け風景がとても美しかったのですが、重い荷物のため風景を 味わう余裕がありませんでした。

 ミチコがおひるを作っている間にせんたくをしました。一年間、独りで暮らして、料理もなかなかうまくできるようになっているようです。おひるはパンとジャガ芋、肉、にんじんの醤油煮。夕食はカレーと味噌汁。昆布、椎茸の煮つけ。朝は肉をショウガ醤油につけておいてからあげにして食べました。

 (ケニア・カプサベットの)ミチコの部屋は、みな8畳くらいで、4つあります。台所も広いし、いい家です。ここは電気、ガス、水道がそろっているけれど、何も無いところに住んでいる隊員が多いそうです。ミチコは病気がなおったばっかりのころは、雑用夫をやとったのだそうですが、物を盗むのでクビにしたそうです。
(注:ミチコはケニアに着任して最初の研修地で、地元の人が差し出した水を飲んで肝炎にかかり一ヶ月入院していた)

 3時頃から夕立がありました。黒い雲がみえて、ぴかぴか雷が光り出しそのうち雨がふってきました。毎日夕立がある季節だそうです。
 教頭先生の息子と娘というこどもがドアのところでモジモジしていたのですが、例によって破れ服にハダシというケニア流子供スタイルなので、まさか教頭の子どもと思わずにいたら、お客が見えたのであいさつに来たんだそうです。

<つづく>
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2011年05月20日


ぽかぽか春庭「ナイロビでスリにあう」
2011/05/20 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(23)ナイロビでスリにあう

1979年8月18日発行アフリカ通信7号その2
 今まであまり見慣れない物は買わずにいたので、食べた果物もバナナとパパイヤとオレンジくらいでしたが、ミチコがいろんなくだものを買ってきてくれました。アボガドはわさび醤油でさしみみたいに食べたら、とてもおいしかった。パッションフルーツというのとアップルパパイヤというのとミチコも名前を知らない中がピンク色したくだものなどいろいろ食べました。名前や食べ方がわかったので、こんどは自分で買ってみようと思います。

 8月16日のおひるは私が残っていた玉ねぎと人参と卵でヤサイイタメをつくってみましたが、例によってぐちゃぐちゃしたヤサイイタメになりました。二時頃ミチコの家を出て学校の事務所やら水道の事務所に寄って、いろんな用をすますのを待って三時にカプサベットからまたマタツにのって、キスムにむかいました。

 バス停にくると、焼きとうもろこしやバナナ売りが窓のそばへ走ってきます。うしろの乗り合い席はどんどん混んできて、生きたニワトリをかかえたおばあさんだの、混んでる中でゆうぜんと編み物をするおっ母さんだの、ぎゅうぎゅうずめで足も伸ばせません。かんしんなことには年寄りは必ずすわり、歩けるこどもは必ず立ち、赤ん坊をだいた母親は年寄りの次にすわれます。

 運転手のとなりに座っていた人が降りたので前の席に移りました。マタツは120kmくらいですっとばすので助手席は危険なんだそうですが、混んでるよりはいいと思ったのです。いったい何キロぐらいだすのか、速度計をみたら、なんとこわれていて動かないのです。途中夕立があったのであまり速度はださなかったようです。

 バナナ売りが来たのですが、ことわったところ、運転手が「バナナはきらいか」とききます。「好きだけど、お金がない」といったら、運転手が買ってくれました。4本食べました。しんせつな運転手で、ほんとうはマーケットでおりるわけなのに、駅までのせて行ってくれました。キスムからカプサベットにいく時は15シル450円でしたのに、帰りは12シル360円でした。はじめ20シルというので「高い」と文句をいったら、急に12シルにまけたのです。へんな料金体系です。

 キスムからナイロビに向かう夜行に乗りました。二等寝台車で今度は三人部屋です。ところがふとったおばちゃんが子供二人も連れて乗り込んできたので又ぎゅうぎゅう詰め。赤ん坊がふぢゃふぢゃ泣いてうるさかったけど無事ナイロビにもどりました。

 リュックが重いので、エンドさんの家に不要の荷物をあずかってもらいにバスに乗りました。ひどく混んでいて身動きもとれず、車掌が回ってきません。バス停についてそのままおりて、バス停で「やあバス代払わなかった」と思ったら、ハンドバックの口が開いています。あれっと思ったら、スリにあっていました。まったくゆだんできません。とられたのは化粧品などをいれた小さい袋で、見ためにはいい物が入っていそうにスリに思えたのでしょうが、口紅とかおしろいとかメンタムとかが入っていたのです。そしてくやしいことにスリには無価値でも私には2万円の価値があるコンタクトレンズが入っていました。

 くやしいから警察に届けて旅行保険もらおうと出向きました。うまくしゃべれないのに、必至で取られた物とか場所とか説明して書類を作ってもらっている間に、保険の書類をよくよく読んだら、現金とか小切手とかコンタクトレンズは落としても取られても当社は保険を払いませんと書いてありました。まったくよりによって保険のないものを盗むとは気の利かないスリです。しかしパスポートと有り金いっさい盗まれた人もいるのだから、これを教訓にもっと気をつけようと思います。

 しかし、いつもバッグはひっしでにぎりしめていたのに、混んだバスで重いリュックに気をとられていたほんの一瞬の間の手口なのですから、スリも年期が入っていると思います。お金とパスポート、旅行小切手は無事です。これからミチコと午後5時発のモンバサ(海岸地方)に出かけます。夜行の2等寝台で1800円です。ミチコといっしょだと「ホテルはへんな所はいやだ」とか、「海外協力隊員の家にはめいわくをかけたくないから泊まらない」とかいうので、かえってものいりです。私独りならどんな所にも泊まれるのに、まあ今はミチコにまかせて少しぜいたくをします。

<つづく>
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2011年05月21日


ぽかぽか春庭「ナイロビからモンバサへ」
2011/05/21 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(24)ナイロビからモンバサへ

1979年8月18日発行アフリカ通信7号その3
 駅おじさんに姉ちゃんあての手紙とフィルム3本あずけたので、みてください。フィルムにはマサイ族やナイバシャ湖が写っていると思います。(注:母の弟は駅長だったので駅叔父さんと呼んでいた。ミチコの父。)
 こちらの子供を見ていると、つくづく日本の子供はぜいたくで甘やかされていると思えます。さとうきびをかじるくらいがおやつで、日曜日に教会へ行くときだけくつと破れてない服をきて、ヤキモチ(チャパティ)やトウモロコシ(ウガリ)のごはんです。ミチコの観察によると、日本のように子供がまとまって集団で遊ぶのをみたことないそうです。せいぜい二、三人で自転車の車輪ごろがしのような遊びをするくらいですって。

 私は一度、ナイロビ市内で三人のこどもが歌いながらとうりゃんせのようなことをしているのをみましたけど、それは白人二人に黒人ひとりでしたから、たぶん西洋流の遊びでしょう。鬼ごっことかカクレンボとかかごめかごめなんかしないみたい。10才くらいの子供でも働いているから集団で遊ぶ余裕なんかないのかもしれません。

 ナイロビは、晴れれば昼間は半袖シャツで十分なくらい暑くなるのですが、私がついて以来あまり晴れません。くもりか雨です。今8月17日も重い雲がたれこめているので、ジーンズ(デニム)の上着をきています。もう18日たったのですが、ミチコの家へ行ったくらいでナイロビから出ていないせいか、少しも外国へ来ているとか特別な感じがしません。行き交う人の顔が黒いだけで、他は日本にいるのとまるっきり同じ気持ちです。サバンナ風景を一度みただけで、ナイロビやカプサベットは木の緑が多く、風景が日本と同じだからだと思います。モンバサなどの海岸地方は、白い沙漠や椰子の木やアラブ風の服や家だということなのでもう少し異国情緒もあるだろうと思います。

 4時にナイロビ駅でミチコと落ち合いました。一国の首都の駅といえども田舎町駅くらいのものです。午後5時の夜行寝台車でモンバサへ向かいました。

 この前キスムに行くときも、ナイロビに帰るときも、夜中の出発だったのであまり風景を見られずすぐ寝てしまいましたが、今度は午後5時なのですこし景色が見られました。だいたい7時に日が没し、日が沈むとすぐ暗くなります。日本のように日が沈んだあとも少し明るい黄昏時があれば情緒があるのですが、赤道近くですから、ぱっと明るくなって、ぱっと暗くなるのです。朝は6時にはまだ暗くて6時15分に見えるようになって6時半に昼と同じに明るくなります。

 5時に出発して、30分ほどは木と草のナイロビ郊外風景でしたが、そのうちサバンナ草原が見えはじめました。たぶんナイロビナショナルパークのわきを通っているのでしょう。ナイロビパークにはあまり動物はいないという話でしたが、なるほど二度ダチョウを見ただけでした。一度は十羽くらいいて、もう一度は大きいのが一羽だけで立っていました。それからしばらく走ると、なだらかな丘が起伏するサバンナに出ました。

 遠く地平線まで、黄色く枯れた草原のところどころに灌木がはえている風景が続きます。そして時々、たぶんトムソンガゼルという名だと思いますが、かわいい鹿の群れに出会いました。鹿はそれだけで見れば茶色い毛皮に白と黒の一本のシマもようがあって目立つ色なのに、夕方の草原の中で見ると、なるほど保護色になっていて、灌木と見分けがたい色です。しかしぴょんぴょん跳ねているので、近くにそして遠くに何度も見ることができました。汽車(じょうき機関車です)は危険でないと知っているせいか、すぐ線路脇でゆうゆうと草を食べているのもいます。だいたい十頭から十五頭くらいの群れを作っています。雄の一頭はりっぱなツノを持っています。群れのボスでしょう。

 一度だけ牛カモシカ(ヌー)の群れがいました。ここらは、もうただまっ平らのサバンナが見渡す限り続いています。牛カモシカは二十頭くらいの群れで地平線上にシルエットを作っていました。
 雲が天井に広がり、地平線の上、わずかだけ雲が切れて明るいオレンジ色とブルーの色を見せています。太陽は雲の中で数畳の光を雲間からサバンナになげかけています。美しい夕暮れ。背の低い灌木の群れは、一日の活動を終えて眠りにつこうとしているかのように、暗いシルエットを見せ、夕闇に紛れ込もうとしています。鹿は夕食をいそいですませ、家路につこうとしています。そして日が地平線に沈みました。

 二等は6人部屋、三段づつの両側にせまいベッドがついています。わたしとミチコは一番上に寝ました。
 同室の人たちはアフリカ人女性で、三人が若い娘で一人はとなりのへやに夫がいる若妻。この夫が、ちょくちょくこちらの部屋を覗きに来ます。
 車掌にお茶をたのみました。ミルクとティとさとうを運んできてくれて、一人3シル40セントでした。町の店よりちょっと高い。
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(手紙の終わりに、車窓から見た「サバンナの天使の梯子」の光と、トムソンガゼルが立つ草原の風景が描いてある。絵はとびきりへたくそである)

<つづく>
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2011年05月22日


ぽかぽか春庭「海岸の町モンバサ」
2011/05/22 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(25)海岸の町モンバサ

1979年8月23日発行アフリカ通信8号その1
 8月19日は、モンバサの町をぶらぶら散歩しました。オールドタウンというイスラム教の住人が多い地区やマーケットを見て歩きました。布地屋でケニアの女性が腰に巻いて着る布を買いました。カシューナッツの模様がプリントしてあります。夜は、ミチコの同僚の海外協力隊員の家に泊めてもらいました。モンバサの中心地にあるアパートで広い家です。この家に住んでいるのは平山さんという電気の工事でケニアに来ている人ですが、いま、マリンディという町に出張中なので、ミチコと二人で大きい顔をして泊まってしまいました。

 8月20日は、モンバサの浜辺に家を借りている北之薗さんの所へ遊びに行きました。通称キタさんは、漁業の仕事です。日中は仕事をしたり現地の人に空手を教えたり忙しく、私とミチコは勝手に家を利用することができました。浜辺のすぐそばに家が建っているので、テラスに座るとヤシの木陰に青く澄んだ海が見えます。沖合に茶色にサビた汽船が座礁したままになっています。浜は白い細かい砂。砂と言うより粉のようです。ハダシで歩くとキュッキュッと音がします。

 ミチコは泳げないので、私独りで泳ぎました。誰も居ない海。海が全部私のもので、とても気分よかった。遠浅です。ずっとむこうの浜には海の家があるので、観光客たちが背中を焼いたりヨットを走らせたりしているのが見えます。ケニア人はあまりいません。泳いで遊んでいられるほどヒマじゃないのかもしれませんけど、日中、公園の芝の上で昼寝をしている人はたくさん見ます。
 元海外協力隊員だった人で、今はケニアの自動車会社に勤めている方のお家が近くにあって、ミチコと夕食をもらいました。好きでケニアに永住することにしたとはいえ、やはり日本人と話し合うのが楽しいようです。奥さんにはもうすぐ赤ちゃんがうまれるそうです。夜はまた平山さんの家に泊まりました。

 8月21日は、バスでマリンディまで出かけました。バスで二時間の道のりです。ヤシは竹やバナナ畑や麻畑やとうもろこし畑がつぎつぎと見え、大きなバオバブの木もたくさん生えています。大きなかごを頭にのせ、こどもを背負い、手にはふろしき包みのような袋を下げた女たちがミチのわきを歩いてゆきます。

 マリンディに着いて、宿をさがしたけれど、現地人宿の安いホテルは今はイスラム教の断食の月にあたるせいで、夕方まではあかないのです。観光客用のホテルへ行ってみたら、一人100シル3000円なので、高いと思ってやめました。
 みやげものをひやかしていたら、ちょうどマリンディに出張していた平山さんに会って、協力隊員の田本さんの家につれていってもらいました。田本さんは農業の指導に来ています夕食はバス停のそばの現地人の食堂(といっても、木のテーブルといすがならべてあって、壁はなくて屋根だけ)で、ウガリ(とうもろこしの粉だんご)と、牛肉のにこみを食べました。紅茶をのんで120円くらい。

 夕方、田本さんの家のまわりはヤシの木やバオバブの木がたくさん生えていて、とても美しい夕暮れでした。田本さんは、さすが農業指導員だけあって、これが綿の苗、これが胡麻、これがカシューナッツの木、こちらはマンゴーの木と、いろいろ説明してくれました。夕日はバオバブの木をかすめて、マンゴーのこんもりした丸い木の陰にしずみました。

 綿の木というのもありました。実がなっていて、綿そっくりのふわふわしたのがついています。以前は実際に糸につむいでつかっていたそうですが、綿の中にたねがたくさんあって、それをとりのけるのがめんどうなので、綿を畑に植えるようになってからは使わなくなったそうです。サイザル麻の畑も見ました。気ままに生えているように見えるけれど、こうしてみるとケニアに生えている木や草は、すべて食用になったり、生活に利用できたりします。
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(マンゴーの木、バオバブの木、ヤシの木、バナナの木、ソーンツリーの絵が描いてある。絵はとびきり下手である)

<つづく>
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2011年05月24日


ぽかぽか春庭「モンバサの海とマリンディ」
2011/05/24 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(26)モンバサの海とマリンディ

1979年8月23日発行アフリカ通信8号その2
 8月22日、マリンディの町をぶらぶら散歩しました。海岸を歩いたり魚市場へ行ってみたり、バスコダガマが上陸したという所へ行ったりしました。田本さんが仕事を休んで案内してくれたので、悪いことしたと思って、夕食をミチコと二人で作りました。しかし、目玉焼きと粉ふきいもとヤサイイタメというへんな組み合わせになりました。(作るのが簡単なものを選んだため)料理が下手だったので、田本さんのオヨメさんになりそこねたと思います。残念!

 夜はナイロビから遊びに来ていた海外協力隊の人々4人といっしょに田本さんの案内で現地のどぶろくのようなヤシ酒を飲みに行きました。ミチコが入院していたときにたいへんお世話になったという人も来ていて、にぎやかでした。しかし、ヤシ酒はちょっとすっぱいような味がして飲めませんでした。焼き鳥のような肉の串刺しにしたものをつまみに売っているのでもっぱらそれを食べていました。

 8月23日は、ゲディという町の見物に生きました。アラブ時代の古い遺跡があります。レンガ作りの城壁や宮殿や寺が、ほとんど崩れ去り廃墟になっています。中は思ったより広く、あちこち歩いているうち、ミチコとはぐれ、もうこの廃墟からでられないかと心配になって30分くらい歩いていたら、ひょいと出口にでました。ミチコはすぐそばに協力隊員の教えている学校があるからと、見に行きました。
 ではまたね。

1979年8月31日発行アフリカ通信9号その1
 8月24日、マリンディの町で海外協力隊の田本さんにお世話になったので、午前中はそうじをしたりお昼ご飯を作ったりしてお礼のかわりにして、午後、またモンバサに戻りました。今日は、一ヶ月続いたイスラム教の断食があけた日なので、何かお祝いでもするのかと思っていたら、何もなくてがっかりしました。

 モンバサの協力隊員の平山さんの家に泊まりました。(成田からナイロビへ向かう)飛行機の中で老夫婦といっしょになり話をいろいろした時、ケニアに教え子がいるといっていましたが、それは平山さんのことでした。世の中せまいなあと驚きました。

 8月25日は、ミチコとタマラレストランというモンバサで最高のレストランへ行きました。今まで隊員の家にばかり泊まって食事もあまりお金をかけずにきたので、一度くらい豪華にいってみようということになったのです。

 オードブルはカキ。これは一皿を二人で食べたけど、量があるので十分でした。次にシーフードキャセロールというのを一つずつとりました。大きな木の器に魚や海老やその他の海の幸、野菜などをココナッツミルクであえたものが山盛りあります。そして大きな蟹が半身入っていました。それにパンとライスとパパイヤがつきました。とてもおいしかった。もう二度と食べられないと思っていっしょうけんめい食べたけど、量があまりにもあるので、ライスはのこしました。これとビール一本で100シル3000円でした。いつも300円くらいの食事をしているのだから、夢のような豪華版でした。夕食は食べられなかった。夜行に乗ってナイロビに向かいました。

<つづく>
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2011年05月25日


ぽかぽか春庭「マサイに一泊」
2011/05/25 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(27)マサイに一泊

1979年8月31日発行アフリカ通信9号その2
 8月26日は朝ナイロビについて、Y.W.C.Aに荷物を置いて、ミチコと二人で別にすることもなかったので、ジョントラボルタのグリーズをやっていたので、これなら字幕なくてもいいと思ったので、360円の席に入りました。あと300円の席と600円のいい席があります。内容はとてもたわいなくて、踊ったり歌ったりするので、ことばはわからないけど楽しめました。

 8月27日、680(シックスエイテイ)ホテルのロビーで山崎さんと亀山さんと三人で待ち合わせて、マサイのへ行きました。モンバサに行く前にミチコの知り合いというマサイ族の男と出会い、彼が「私はミチコの親友であり、あなたはミチコのいとこだから、特別にマサイのへ連れて行ってあげる。前払いとして100シル3000円払えば、酋長にお土産を買っていって、踊りを見せてくれるように頼んであげる、というので、払ってあったのですが、タクシー代使って村へ一泊しただけで、結局踊りはなかったのです。

 マサイの村は、村中牛の糞だらけで、ハエが地面黒く見えるほどいます。女や子供たちの顔や身体にもわんさとハエがたかっています。私たちはマサイ語で「ソバ(こんにちは)」とあいさつして右手で握手しながら左手でハエを追い払うのに忙しい。
 マサイの家は泥で固めた丸い家。エスキモーが氷で丸い家を作りますが、それを泥にしたようなもの。しかし、外にはわんさとハエがいるのに、ふしぎなことに家の中には5ひきくらいしかいません。だから、マサイが伝統を変えずにこういう家を作るのは、それなりの理由があるのだろうと思います。

 家の中はまっくらですが、お客が来たので灯油のアラジンのランプのようなのをともしてくれました。いろりで木を燃やすのが、いぶくてたまりません。明かり取りの小さな穴が空いているだけなので煙の出口がないのです。それでもお湯をわかしてミルクティをだしてごちそうしてくれました。わたしたちのとまった家の主婦がマサイのビーズのうでわをくれたので、私は日本で買ったプラスチックの腕輪をあげました。山崎さんは別の家で首飾りをもらったので、シャツをあげました。山崎さんは長くてまっすぐな髪をしていたので好かれたのですって。
 
 マサイの女と子供は、頭をそってしまいます。のみ、しらみを考えるとそってしまった方が衛生的です。一日よその村を見たりして終わってしまって、約束の踊りは見られませんでした。寝袋をもっていったので牛の隣のへやに寝ました。夜、牛のおしっこの音がよくきこえました。
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(マサイ族の家の絵、家の中の配置図、ボーマ村の配置図の絵。三度目に書くとしつこいけれど、、、、下手である)

1979年9月2日発行アフリカ通信10号その1
 8月26日の夜はマサイに泊めてもらったのですが、さすが安眠はできませんでした。外にたくさんいるハエは、家の中にはいないのですが、なにやら私の知らない虫がとんでくるし(蚊取り線香はたいたけれど、そんなのきかない虫みたい)、となりの部屋で寝ている牛の子はちょっちゅうじゃあじゃあおしっこの音をたてるし。犬が寝てる上に入り込んでワンワンわめいて走り回るし、家の外にいる親牛が、夜目がきかないのか、家にどしんとぶつかる。なかなかよそではできない体験でした。

 8月27日には、マサイのセレモニーがあって踊りがみられるという約束で前払いしてあったのに、結局会議だけして踊りはないのだといわれて、見られませんでした。同行の亀山さんは、マサイのに泊まっただけでもいい体験だから、お金はそんなに惜しくないというのですが、私は踊りを見に行ったのに見られなかったのだからブンブン怒って、ガイドとけんかしました。ガイドは話がこじれたら自分だけタクシーで帰ってしまって、私たちは置き去りにされました。

 てくてく草原の一本道を歩いていたら、親切なトラックが来て乗せてくれたので、帰ることができました。もしトラックが来なかったら、夜になってもウゴングヒルという山道(山といっても日本のように木はなくて草や灌木だけ)をとぼとぼ歩くハメになったのだから、やはりうかつに喧嘩はできないと反省しました。
 しかし、のマサイ族の人はわりに親切だったのでよかった。

<つづく>
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2011年05月27日


ぽかぽか春庭「マラリア」
2011/05/27 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(29)マラリア

1979年9月2日発行アフリカ通信10号その2
 8月29日にYWCAにかえって寝ていたら、モウレツに寒くて吐き気がして熱が出ました。風邪かと思って一日寝てれば治ると思い、8月30日は一日中寝ていました。8月31日に寝たり起きたりして9月1日 もあんまり調子よくないけど、ケニアシリングがなくなったので、ドルを替えに行ったりして少し動いたら、また夜は気分悪かった。9月2日にエンドーさんの家に置いてあった荷物を取りにいったら、エンドーさんに、軽いマラリアじゃないかと言われました。海岸地方はわりに蚊が多いから、刺されたのだろうと思います。しかし予防薬を毎週飲んでいたから軽くすんでよかったと思います。

 YWCAの6人相部屋です。風邪だと言って寝ていたら同室のオランダから来た女の人がタオルを濡らしてくれたり薬をくれたりして、とても助かりました。浮世絵のハンカチをあげました。
 別のへやには玉井さんと下川さんという日本人がいて、いろいろ仲良くしてくれます。下川さんは獣医学科の学生でケニアは3度目だそうです。英語がぺらぺらです。タマちゃんはもう獣医の資格を持っていて、ケニアの動物保護区で動物の病気を診たりする仕事をしたいと言って張り切っています。スワヒリ語がじょうずです。
 私ときたら英語もスワヒリ語もカタコトで食事の注文ができる程度だし、何の紹介状も無しにいきなりケニアに来て、やはり準備が不足だったかなと反省しています。何もすることなくベッドに寝ていると、反省ばかりしています。

 写真1は日本人と結婚しているウガンダ女性のティナ・モリタさんといっしょにニュースタンレーホテルの前でとったもの、うしろに丸く見えるのがヒルトンホテル。(注:タカ氏撮影の写真です)
 その他は、木彫のみやげ品を作っているキカンバというところで、彫刻師やガイドといっしょに取ったものです。

 お金はたくさん送ってくれるのにこしたことはありません。ハハハ。
 まだ動物保護区へ行くツアーに出たことがありません。マサイマラという、いちばんたくさん動物のいる動物公園で五泊のキャンプで四万五千円というのがいちばん割安というので、再来週あたりは身体の調子もいいようだから行ってみようと思います。キャンプじゃなくてホテルを使うのは一泊で三万円くらい。

 やっぱり金額が書きたくなる。値段をいちいち書くなと言っても、これは性分で、こまかく金額を書くことに意味はありません。しいていうなら、日記を書かずにかわりに手紙を書いているのだから、小遣い帳の代わりです。ふだん2シルのお茶を飲んでいて、たまに1シル(30円)のお茶にめぐりあうと、私としてはとてもうれしい気分なのです。

 それからミチコといっしょに海岸へ行った時、ミチコのつごうにあわせたので、ギリヤマ族の踊りも見なかったし、ラム島というみんながいい所だという島にも行かなかったのでいってみようと思っています。

 ケニア人に、「私は貧乏だ」というと、「いいカメラ持っているじゃないか。オレに売ってくれ」と言われます。私はケチケチ暮らしているようでも、ケニア人は月に1万円の給料で暮らしてくる人がたくさんいるし、収入のない人もいるのだから、やはりぜいたくだと思ってくらしをひきしめているのです。あんまりみじめに思わないでください。お金はミチコの銀行号座に振り込んでもらうのが一番安心だと思うから、ミチコの家に今月下旬に行ったら、どういう方法で送るのか聞いて、書き送ります。東京銀行を通じて送るというようなことを聞きました。
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(2011/06/11付記:私のアフリカ通信にいちいち細かい金額の記載があるのを、姉は「せっかく外国に滞在しているのだから、ケチくさい生活をするな。必要なお金は日本から送金するから」という手紙を書いてきました。私は貧乏旅行を気にしていないのに、姉はケチケチ旅行を「せつない」と悲しみ、送金すると言ってきたのです。
 私が金額をかき込むのは、小遣い帳記録なのだからと言い訳をし、こののちも貧乏生活を変えることはありませんでした。姉の送金のおかげで、3ヶ月の滞在予定が9ヶ月に伸びました。)
===========
<つづく>
06:29 コメント(0) ページのトップへ
2011年05月28日


ぽかぽか春庭「ナイロビナショナルパーク」
2011/05/28 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(30)ナイロビナショナルパーク

1979年9月2日発行アフリカ通信10号その3
 9月1日から15日まではYWCAの半月契約というのが取れたのです。ふつう、一泊35シルで食事がつくと50シルなのですが、15日分で朝昼夜の食事がついて2700シル(8100円)になるのです。だから、15日までは食べるものと泊まる所の心配をしないですみます。やはり、食う寝るは旅で大きな問題です。

 しかし安いだけあってYWCAの食事は半分は現地食(キャッサバとか芋とか)朝はトースト、紅茶、卵またはソーセージで、決まっています。
 同室の人たちはケニアやウガンダから来ていて、学生か堅い仕事の人が泊まるので、物を盗られたり洗濯物が無くなったりということはないので、へたなホテルより安心です。しかし、相部屋なのだけれど、彼女らには日本的な気の使い方や遠慮はないので、こっちが病気で寝ていても歌いたいときは歌い,大声でしゃべって笑い、ラジオをガンガンかけて踊っています。こちらの人は音楽が鳴ると腰を振って踊ります。とても陽気です。
 YWCAの前は庭になっていて、その向こうは公園です。ナイロビは町が小さい割に公園がたくさんあります。

 病気のことは、短期の旅行でなければみんなマラリアくらいかかるのだけれど、私は軽いのだし、全然心配いりません。しばらく本でも読んでのんびりしています。今までものんびりしていたけど。ではまたね。9/2(日曜)

1979年9月7日発行アフリカ通信11号その1
 九月に入って調子が悪く寝たり起きたりしていましたが、5日は誕生日だし、ベッドに寝てばかりいるのも一週間やれば飽きてくるし、カイキ祝いと兼ねて、ニューフロリダクラブににぎにぎしく繰り込もうと言うことになりました。

 栄養学を専攻している木村まさみさんと行ったらエンドさん(DoDoワールド)たちも来ていて、お祝いにビールをおごってくれました。身体が自由に動かせるのは楽しいことです。
 たいたい映画とディスコのほか夜に遊びに行くところはないのですから、選択に迷わないですみます。(お金持ちはカジノにいくけど)

 9月6日は、エンドさんのツアーに加えてもらって、ナイロビ・ナショナルパークに行きました。ナイロビから30分くらい車で行った所にある動物保護区です。他のナショナルパークに比べ、動物の種類や数は少ないのですが、ナイロビのすぐそばにあるのが利点です。
 シマウマの頭越しにナイロビのビル群が遠望できるのですから考えてみると不思議な光景です。

 入り口を入るとすぐヒヒに出会いました。カメラを出そうとモタモタしてたらよく見ないうちにいなくなってしまいました。イボイノシシの三頭連れは、しっぽをピンと振り立ててちゃんとポーズをとり、シャッターを押し終わった頃合いを見はからって逃げていきました。愛嬌あるやつです。三等が列を作ってちょこまかと走ります。次に水辺でつるのようなのや蛇食い鷲とか小さな鳥とかたくさんの鳥を見ました。普段はいないというエランド(大きな鹿)を、遠くからですが見ることができて幸運でした。キリンはまったく近くで見ることができました。五頭くらいがあちらの木こちらの木で葉っぱを食べているのです。270ミリの望遠レンズをつけてしまったので、ドアップのキリンを写しました。

<つづく>
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2011年05月29日


ぽかぽか春庭「ジャカランタの花」
2011/05/29 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(31)ジャカランタの花

1979年9月7日発行アフリカ通信11号その2
(ナイロビ・ナショナルパークの)シマウマの群れとトムソンガゼルやグランドガゼル(しかの仲間)は、近くに遠くにたくさんいました。一度などは車の道にガゼルが出てきて、鼻つきあわせて観察しあいました。全然こわがりません。

 川辺を歩いて見ることができ、カバがのんびりと水につかっていました。10分くらい水に潜って背中だけ見えているのです。オーイでてこい、と呼んでも出ないので、みんなでバカカバチンドンヤと言ったら、鼻を水面に出してフファーと息をしました。小さなサルもたくさんいました。

 チータやライオンなどの大型動物はみられませんでしたが、草食動物はたくさんいたし、楽しい一日でした。キリンなんか、みきさよに見せたら大喜びだろうな、と思いながら見てました。

 9月7日はボーマス・オブ・ケニア(ケニアの家・民家園)に行きました。三度目です。今日は早く行ったので、民家をゆっくり見学できました。土と草の家ですが、部族によって内部は何もしきってなかったり、編んだ竹で区切ってあったり、土壁で仕切って真ん中に柱があるのとないのとあったり、少しづつ様式が違います。
 天井の作り方ではルオ族のが一番きれいで、日本でも茶室なんかこんなふうにしたあるのがあるなと思いました。
(民家の絵。いつも通り、絵は下手)

 踊りは前に土曜と日曜にみたので今日は金曜だから、あらかたのプログラムは見たことになると思います。単純な踊りですが、けっこう疲れると思います。もうだれがうまく踊る人だか顔を覚えたので、その人の動きをよくみて、足の動かし方とか見てました。
  
 ナイロビは一年中花が咲いているそうですが、今ジャカランタという木の花が盛りでとてもきれいです。ウフルーハイウエイという大通りにはこの木がたくさんあって、遠くから見るとぼうっと薄紫に重なって見えます。

 YWCAの庭にも咲いています。色が落ちてしまうけど押し花にしました。赤いのはブーゲンビリアと皆が言ってるけど、よく知りません。それとおもしろいのにほ乳ビンを洗うブラシにそっくりの赤い花があります。タワシフラワーと名付けました。

 自分への誕生プレゼントとして、360シルの本を買いました。「アフリカン・ダンス・アート」という大きい本です。320シルに値切った。一般の本屋では、ダンスの本はこれしか出版されていないのです。
 よくよく考えてみると誕生日などとうれしがっている年ではないのでありまして、花の中年乙女になったからは、フンレイコッキドリョクを重ねて生きていかねばと身をひきしめ心ふるいたたせ、がんばっていこう!
 同室の19才の子が「わたしより年下だろう」というので「ちがう」というと、「じゃ、いくつだ」とくい下がるのですが、あまりにもあまりの年なのでことばをにごしております。

 夜になると男の子たちが大勢入り口に立って、ガールフレンドをむかえに来ます。みんないそいそと遊びに出かけ、日本人組はしょぼんと、はるか日本へあて手紙など書いてすごしております。木村さんとタマちゃんと私、21才と25才と30才の3人組です。
 ではまたね。

<つづく>
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2011年05月31日


ぽかぽか春庭「ナマンガへ」
2011/05/31 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(32)ナマンガへ

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その1
 9月9日から18日まで、ケニアとタンザニアの国境の町ナマンガに行っていました。途中着替えを取りに二日間ナイロビに戻ったのですが、一週間以上滞在していたことになります。ナイロビは都会ですが、ナマンガは小さな町(というより)なので、おもしろかった。

 9月9日日曜の朝、高橋和枝さんが、私のYWCAに尋ねてきました。高橋さんとタカ氏と二人でナマンガに行って帰ってきたのだけど、もう一度行くからいっしょにいかないかと誘ってくれたのです。10日にナマンガ小学校を見学する約束をしたというので、おもしろそうだから行くことにしました。

 買い物をして必要なものをそろえたり(小学校へのおみやげとか)荷物を作ったりして、午後三時ごろの乗り合いタクシーで行きました。乗り合いタクシーは8人のりで、ナイロビ-ナマンガ間160kmを2時間で行きます。バスは、タクシーの半値で4時間かかります)。バスは朝7時と12時の2本だけなのでタクシーになりました。タクシーは1000円くらい。

 高橋さんとタカ氏は、タンザニアに行くつもりでナマンガへ行っていたのです。現在、資本主義国のケニアと社会主義国のタンザニアは国交を閉ざしているので、隣同士の国なのに、直接行き来できません。ケニアからエチオピアへ行って、エチオピアからタンザニアへ行くとか、ルワンダやブルンジなどの国を通ってからでないと行きません。

 安い飛行機は、ウガンダのエンテベ空港を通って行くのがあるのですが、ウガンダは今、アミンが追放された後もめちゃくちゃでたいへん危険で、毎日人が殺されているというウワサだし、なんといっても飛行機を使えば片道10万円くらいかかります。国境さえ通れれば1500円でタンザニアに行けるのです。

 ナイロビからナマンガまでは、マサイランドというマサイ族が住んでいるサバンナ草原を通っていきます。サバンナといっても、今は乾期なので黄色く枯れた草が地平線まで続き、日本でいう草原とはだいぶちがいます。所によって、枯れ草の中にまばらに灌木がはえている所もあれば、草だけで見渡す限りに何もはえていない所や、ソーントゥリーというとげのある木がたくさんはえている所や、いろいろあります。

 しかし、なんといっても広いので、けしきはいつまでも同じようで、ずっと見ていたら眠くなりました。起きたら今までは地平線があったのに、今度は低い山が草原のまわりを取り囲んでいる景色になりました。
 5時ごろナマンガに着きました。
 (ウガンダ・ケニア・タンザニア、インド洋の略図にナイロビとナマンガの位置を示した手書き地図つき)

 まず、国境の事務所にあいさつに行きました。
 ケニア側はどうということないのだけど、タンザニア側の事務所はなかなかきびしいという高橋さんの話です。ナマンガの町は、道の両側に何軒かの店があるという田舎の町です。
(ナマンガの町のケニア側、タンザニア側の店や施設の略図手書き)

<つづく>

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1979年春庭ケニア日記1979年9月

2010-07-27 04:55:00 | 日記
2011/06/01
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(33)国境の町ナマンガ

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その2
 (ナマンガは)小学校がひとつ。郵便局がひとつあって、銀行なし。タンザニアと国交があったときは人々が行き来して、もっと活気があったのでしょうが、今はごくわずかの警察許可を持っている人だけが通れるので、町の人はみんな眠そうでヒマそうです。近くにアンボセリ国利地公園があるので、動物を見に行く観光客が泊まるナマンガリバーホテルとみやげ物屋が何軒かあるのが儲かっているだけで、特別な産業とかもうけ口はない町です。

 道の両側にある店の前には、ひるまから人々が何もせずにすわってごろごろしています。ここらはマサイ族の土地なので人々のほとんどはマサイ族で、白地に赤のチェックもようの布地を体に巻き付けた衣装を着て、杖を持ったかっこうをしています。耳に大きな穴をあけてじゃらじゃらたくさんのイアリングを下げ、首にも腕にもビーズのかざりをつけています。

 あとはソマリア族とキクユ族がいます。ソマリア族は、色は黒いけど顔立ちは西洋風のほりの深い鼻筋のとおった顔で美人ぞろいです。キクユ族はケニアで一番大きい部族で、政府の要職か公務員、教員などはキクユが占めています。高橋さんの話では、キクユは農耕民族なので、日本人と同じように勤勉であくせく働くということです。マサイは牧畜民族だから、昼間寝ていて朝夕に牛の世話をすればいいのでしょう。

 タンザニア国境事務所の係官は皆、割合に若い人たちでした。思うに、公務員に成り立ての人がこういう辺鄙な所にやられて、出世したら都会に行けるのでしょう。
 ジャンボとあいさつして、アルーシャに行きたいというと、警察許可がなければダメだという型どおりの答え。三人で事務所の外でしばらくねばろうということで待っていました。アルーシャには、ドゥドゥワールドの駐在員のハセベさんがいて、警察許可をもらいに奔走していてくれているそうです。うまくいったら、国境事務所に電話をしてくれるということいになっているのです。

 外で待っていても退屈なので、ダンスの練習をしばらくしていないで体が硬くなっていることだし、一人で踊っていました。そしたら係官がラジオを持ってきてアフリカンミュージックをかけてくれたのでディスコダンスを踊ってみせました。今まで硬い表情で社会主義の見本のような顔をしていた係官たちが出てきて、にこにこ見ています。そして、名前は何だとか、なぜタンザニアに行きたいのかとか、話しかけてくれるようになりました。スワヒリ語を話せるのは私だけなので必死で、アルーシャに友だちがいるしスワヒリ語を勉強したいので行きたい、とか話しました。

 タカ氏も「今まで冷たい態度だったのに、ダンスひとつでころっと変わるなあ。ともかく芸は身をたすけるよ」なんて感心しています。
 夕暮れは美しい風景で、日はタンザニアにしずみました。

 ナマンガリバーホテルは観光客用の高いホテルなので、マサイホテルに泊まりました。高橋さんとツインの部屋で、タカ氏はマイシャロッジに泊まりました。

 9月10日月曜は、午前中はナマンガ小学校に見学に行きました。
 人々の暮らしもちょうど戦前の日本の暮らし程度ですが、小学校も戦前の田舎の小学校のようです。一年生から七年生まであります。一年生が一番人数が多くて、毎年何人かやめてしまうので、五年生、六年生七年生となると20人くらいのクラスになってしまうようです。校長先生はキクユ族で、先生が7人いまいした。

<つづく>
05:48 コメント(1) ページのトップへ
2011年06月03日


ぽかぽか春庭「ナマンガの小学校」
2011/06/03 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(34)ナマンガの小学校

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その3
 (ナマンガの)学校に入ったら、ワッと一年生二人年生くらいのが取り囲みました。外国人が学校にくるなんて、珍しいのでしょう。しかし、日本の学校だったら、見ず知らずの外国人が何の資格も紹介状もなしに見学に行っても、見せてくれないと思います。

 一、二年生が次々と握手をしてくるので、手がくたびれました。こちらの小学校では、制服を政府が支給するので皆同じ服を着ます。支給された服のほかは、親が金なくて買えないので、みんなぼろです。ナマンガのスクールカラーは、シャツが黄色で半ズボンとスカートは青です。握手したついでに、ずいずいずっころばしをして遊んだら、皆喜んでいました。

 授業は、はじめ五年生の音楽。要するに唱歌で、先生が歌詞を黒板に書いて、最初にうたい、生徒があとからついて歌って覚えます。楽器は何もなくて、子供達が手をたたいたり机をたたいたりして、拍子をとります。
 アフリカ人はどんな歌でも自然に二重唱になります。日本人のように斉唱で同じ高さの音にそろえて歌うのは、アフリカ人にとっては、かえってむずかしいのです。
 高橋さんは、子供達の歌をテープレコーダーで録りました。若い男の先生でした。

 次は、六年生の英語の授業で、校長先生が教えました。はじめ20分くらい単語の説明。ギブアップとはどういう意味かなどと教えます。女の子に壁を押させて「壁が動いたか」などと聞きます。「だめだ」と答えると「こういうふうにいくらやってもダメで、あきらめて、だめだとおもうのがギブアップである」と、先生が教えます。
 後半はso-that構文を使った作文練習。彼女はたいへん太っているので、早く走れなかった、とか、波がとても高いので泳ぐことができなかった、とかの文。タカ氏は英語がぜんぜんしゃべれないので、「いやー、いい授業だった。勉強になった」と喜んでいました。

 校長先生が教師用の指導書を見せてくれたのですが、おもしろいことに、まるっきり指導書のとおりの授業で、指導書に「ここで黒板にハーモニカの絵を描く」と指示してあると、先生はその通り絵を描き、「生徒を指名し答えさせる」と指示してあると、生徒に答えさせるのです。これなら私も英語の授業をやれると思いました。

 次は七年生の歴史の授業ですが、ケニア史を英語で先生がべらべらしゃべり、子供たちは教科書も何もなくて聞いているだけです。英語もよく知らないし、ケニア史もよく知らないから全然わかりませんでした。

 午後は、国境事務所に行って、ハセベさんに電話をかけてみたのですが、ハセベさんはいませんでした。係官たちとムダ話をして、だいぶ打ち解けてきました。

 食事は、町の店屋で食べます。じゃがいもと肉の煮込み、チャパティ(昔のやきもちとにたようなもの)、お茶で300円くらい。気に入りの店が3軒できて、一軒はジャガイモがごろごろ大きくて、一軒は肉がごろごろ大きい。ナマンガサファリ肉屋という店なので肉ががおいしい。もうひとつは肉もじゃがいもも細かく刻んであるけど、冷蔵庫がある唯一の店なので、冷たいものが飲める。

 ナマンガサファリ肉屋はソマリア人の店で、ソマリア美人が店番をしているので、タカ氏が行きたがります。じゃがいもごろごろの店はキクユ族のおばはんがやっていて、キクユの村に行っていた高橋さんが行きたがります。朝はパンとゆでたまごを食べます。「たまご」と注文すると、子供がつかい走りでたまごを注文の個数だけ買いに行って、それからゆでるのです。一度だけソマリア人の店に運良く米があって、ごはんを食べられました。塩と油で少し味付けしてあったけど、おいしかったです。

<つづく>
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2011年06月04日


ぽかぽか春庭「ナマンガのみやげ物屋」
2011/06/04 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(35)ナマンガのみやげ物屋

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その4
 (ナマンガ)町のみやげ物屋は、マサイ族の作ったビーズかざりや人形を売っています。若い男の人たちが店番をして、マサイの女達が店の前にすわってのんびりビーズさしをしています。
 はじめは普通の観光客のように、みやげ物を買え買えと言われましたが、金のない連中だとわかってからは、言われなくなりました。
 日本語を教えろというので「いらっしゃいませ」とか、「高くない」とか、数字の数え方を教えてやって、ペンダントをもらいました。

 10日の晩もマサイホテルに泊まりましたが、いっしょの部屋の高橋さんが「あなた、寝言でスワヒリ語しゃべっていたよ」と言いました。我ながらたいしたもんです。ナイロビでは英語で喋ってしまうのですが、この町でいろんな人と無駄話をして、ずいぶん楽にスワヒリ語がしゃべれるようになりました。たいしたことは話しませんが。

 高橋さんは、国○院大学を出て、そのまま大学の職員をしているので、長い夏休みが取れるのだそうです。お母さんが先生なので自分も先生になりたいそうです。お母さんが働いてお父さんがご飯作りや洗濯をして家にいるというおもしろい家庭に育ったそうです。三人姉妹の真ん中なので、(私と同じで)かわっていると思います。

 11日は国境事務所に顔を出した後、マサイのボーマに行きました。マサイのおばさんたちが歩いていたのであとをついてぶらぶら歩いていたら、家に着いたのです。英語を話すおじさんがいて、家や畑を案内してくれました。マサイは牧畜をしていますが、政府は定住を勧めていて、マサイも畑を耕し始めたのだそうです。泊まっていいかと聞いたら、いいという話なので一度ナイロビに帰って寝袋や食糧を準備してからまたくる、という約束になりました。

 夜、マサイホテルの部屋がなかったので、マイシャロッジにかわりました。マイシャは三軒のホテルのうち一番格が悪いところですが、シングルで20シル600円です。4畳くらいの部屋にベッドがひとつあるだけで、あとは何もないのです。でもシーツが買えてあるから上等です。私はがんばって値切って、3部屋で40シル、一人13.6シルに負けさせました。

 12日の12時のバスでナイロビに戻りました。今度はバスなので4時間かかるし、客の大部分は布を二枚まきつけたマサイ族です。病気の子供の隣に座ったら、こどもがあげちゃって、たいへんだったし、マサイ族は牛とミルクで暮らしているせいか独特の匂いがします。乗っている間は気が付かなかったけど、バスを降りてYWCAに帰ったら、上着にニオイがうつっていました。

 木村さん(栄養学の学生)が13日に日本に帰るので、500ドル(10万円)残った分を貸してくれました。13日の昼間は木村さんがおみやげをかうのにつきあって、夜は飛行場に見送りにいきました。

<つづく>
===========

もんじゃ(文蛇)の足跡;
6月11日掲載予定の分を6月4日に掲載してしまいました。で、昨日掲載の「ナイロビのパンツ」は11日に再掲載することにして、4日の記事「ナマンガのみやげ物屋」にさしかえました。
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2011年06月05日


ぽかぽか春庭「ナマンガのルーカス家」
2011/06/05 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(36)ナマンガのルーカス家

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その5
 9月14日12時に下町のバスセンターに行って、ナマンガ行きのバスに乗りました。
 ナマンガに着いて国境事務所に顔出ししてからマサイのボーマに出かけたのですが、もう夕方で途中で暗くなって道がわからなくなりました。マサイの家は細い道をくねくね曲がった先にあるし、電気なんかないから灯りも見えないし、わからなくなっちゃいました。

 アンボセリへ行く大通りまで戻ってボーマで飲むつもりだった紅茶を飲んでいたら、トラックが来たので、止めて乗せてもらいました。そしたら、トラックのおじさんが、オレの家に泊まれというので、泊まることになりました。
 おじさんはルーカスと言って、キシイ族です。クリスチャンだそうです。おばさんと子供が4人いました。おばさんの話では、上の6人は働きに行ったり学校へ行ったりしていて、今はいないとのことです。

 ルーカスの甥のチャールズがトランプをしようと言って、今ナマンガで流行っているゲームを教えてくれました。12時までトランプをして遊びました。
 現地の人の家に泊まって生活を知るのは、はじめてなので面白かったです。
 ルーカスは戦前の日本のおやじのように大声で妻や子供に命令していばっています。ケニアの水準からいえば、いい暮らしの方だと思います。おやじさんは工場の監督をしていて、畑はチャールズにまかせているそうです。

 私たちは紅茶とパンを持ってきたから食事はいらないというのに、親父さんが命令して卵を買いに生かせて、ゆでて食べさせてくれました。

 15日土曜、ルカスおやじが仕事でアンボセリの近くに行くというので、いっしょに行くことになりました。アンボセリ湖の近くに工場があって、トラックで一時間くらいで行くとのことです。九時に家を出て十時すぎに工場に着きました。工場を見学させてくれたのですが、割に広い工場なのに、人はあまりいなくて、何人かいる人もヒマそうにぶらぶらしています。

 おやじは、機械の説明をしたり何を作っているか説明してくれるのですが、エッソ何とかという物から何かを作っているということはわかったものの、その製品は何かというのがわかりませんでした。袋に白い粉が入っていて、さわってみたけど、よくわからなかった。袋にNa2CO3と書いてあったけど、その時は何だかわからなくて、あとで聞いたら炭酸ソーダらしかった。

 仕事が一段落ついたら、会社の車でアンボセリ国立公園に連れて行ってくれるというので、待っていました。ガソリン代と公園の入場料金を払わねばならないと言われたけれど、一人1000円もだせばいけそうなのでO.K.しました。もし、ツアーに乗れば、アンボセリ一泊で三万円くらいかかるから、安上がりだと思ったのです。

 しかし、結局ただになってしまいました。ガソリンスタンドなんかないので工場のガソリンを入れてもらったから、ガソリン係の人がタダにしてくれたし、今は工場で働いているけど、前は公園の案内人をしていたという人が動物のいそうな所へ連れて行ってくれたのですが、この人が顔見知りの役人に話をつけて入場料もタダになりました。   
あとでビールやコーラや煙草をあげて、ルーカスおじさんの家には紅茶やせっけんや砂糖を持っていったのですが、500円もかかっていないと思います。
 私の好みにぴったりあったケチケチ旅行ができました。三万円のツアーもタダのり旅行も見られる動物は同じですもの。

<つづく>

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2011年06月07日


ぽかぽか春庭「アンボセリ国立公園」
2011/06/07 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(37)アンボセリ国立公園

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その6
 (アンボセリ国立公園に)キリンやシマウマやヌーはたくさんいました。道の右側に母キリンがいて左側に子キリンがいてのんびり立っていましたが、車が近づいたら子どもが驚いてママーといちもくさんに母さんの所に走っていって、母キリンにすり寄っていきました。

 背景には、キリマンジャロ山が頂上に雪をかぶって立っています。キリマンジャロは朝と夕方見えて、昼間は雲に隠れてしまいます。
 ガゼルというシカはとてもたくさんいました。

 案内の人が「静かに」と言って、そっと車を動かしていったら、離れゾウが一匹で立っていました。普通ゾウは群れでいるので、一匹だけの離れゾウを見られるのは珍しいということでした。背中に小鳥が何羽か止まっています。それからサイを見ました。
 高橋さんは一番動物がたくさんいるというマサイマラにも行って来たのですが、サイは見られず、今度がはじめてだと喜んでいました。しかし、今日はライオンがアンボセリには現れませんでした。

 何が見られるかは案内人の腕にもよりますが、その日その日の運です。最後に展望台のある丘にのぼってアンボセリのパノラマ風景を楽しみました。川のまわりに緑が濃く、あとはずっとサバンナ。
 キリマンジャロ山が美しく、まさnアフリカの絵はがきに出てくる景色でした。川のほとりにゾウの群れが見えました。

 しかるにこの日一日で一生分くらいのほこりをかぶりました。ツアー用のいい車でなくて、工場の車を借りてきたのだから、ほこりくらいはしかたないものの、髪は真っ白になって「あなたがあと10年してシラガになったら、こういう感じになるのか」なんて(タカ氏に)つくづくと見られてしまいました。
 黒人の顔は、済みに灰をかぶせた色になりました。
 ルーカスおじさんは、今日も泊まれと言ってくれたけど、遠慮してマイシャロッジに泊まりました。

 15日に、前に行くと約束したマサイの家にもう一度出かけました。前は暗くなって道がわからなかったのですが、今日は昼間に出かけたので、途中まで何とか行けました。しかし、途中でやっぱりわからなくなって、道で会ったマサイに案内してもらいました。この人は、「マサイは紹介者がいっしょでないと他人を泊めないし、泊まったら身ぐるみ剥ぐから気をつけろ」と、教えてくれました。

 前に行ったボーマに着いたけれど、私たちを泊めてくれると約束したマサイがいないので、家の外にあるヤギを飼っている広場で待っていました。今年生まれたばかりの子ヤギは親といっしょに草を食べに行かないで、子どもだけで留守番をしています。私たちが座っていても、木の一種くらいに思っているのか、まるで平気でオニごっこして遊んでいます。日向は暑いけど、木陰は涼しく風邪が気持ちよいので、のんびり紅茶を飲んだり、ひるねしたり、子ヤギと遊んだりしました。昼寝していても、子ヤギはお腹の上にあがってきたりします。

 夕方になって去年生まれた山羊の集団が帰ってきました。マサイの子どもが群れの晩をしています。それから親の群れが帰ってきました。今年生まれの子ヤギは一日親から離れて保育園で遊んだあと、仕事から帰った親ヤギに会えるわけです。親子がそれぞれ我が子我が母をさがしてペアになってみると、おかしいほど親子の模様がそっくりなのです。頭だけ黒くて体が白い母ヤギのおっぱいを、それと同じ頭だけ黒くて体が白いヤギの子がいっしょうけんめい飲んでいるし、茶と白のまだらの母の下には、茶と白のまだらの子がいるし、遺伝とはおそろしいのものだと言って笑いあいました。
 中には出来の悪い子ヤギがいて、「かーさん、どこよ」と、泣きながら探しています。親のほうがさがしあてる時もあるし、マサイが親を見つけてやるまでお互いに会えない不出来な親子もいます。

 ヤギを見ているうちに日暮れになってきて、紹介者なしに泊まるのはやはり危ないし、と話し合って帰りました。泊まれなかったけど、おもしろい一日でした。

<つづく>
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2011年06月08日


ぽかぽか春庭「ルーカスの煙草畑」
2011/06/08 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(38)ルーカスの煙草畑

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その7
 (9月15日)夜はマイシャロッジのマネジャーをしているモーゼズとトランプをして遊びました。モーゼスは、午前中いっしょに教会へ行ったので親しくなったのです。ルーカスはカトリックのキリスト教とだと言っていましたが、モーゼスはルスラン派のキリスト教徒です。ルスラン派の教会は、タンザニア側にあるというので、見学したのです。

 いっしょに歌を歌ったのはおもしろかったけど、スワヒリ語で神父が説教しているのをきいてもおもしろくなかった。献金がまわってきたので2シルくらいあげました。貧しい教会だから私がたぶん一番たくさん献金したのだと思います。モーゼスは、この次の日曜にはタンザニアからたくさんお祈りにやってくるからぜひ来週もくるようにとすすめてくれました。国境を超えて教会に行くなんて、おもしろいようですが、ここらの土地の人には国境なんて関係なく、生活があるのです。

 町の人たちはケニアのお金とタンザニアのお金とごっちゃにして使っているし、子ども達は国境事務所で仲良く遊んだ後、半分はケニア側の家に帰り、半分はバイバイとタンザニア側の家に帰ります。国境が通れないのは、よそ者です。警察許可を持たずに通ろうとしたら、その場で中で撃たれてもしかたないのです。

 毎日一度はタンザニアの国境事務所に顔を出しているのですが、16日も行きました。そしたらハセベさんから電話がかかってきて、結局警察許可はとれないということでした。観光客は絶対にダメだというので、仕事ということにしたのだけれど、証明がないので取れないようでした。

 午後は、ルーカスの甥のチャールズが「俺の畑を見に来い」というので、見に行きました。町からすぐ近くだというので歩いて行ったのですが、ケニアの近くは歩いて一時間以内のことを言うので、40分くらい歩いて畑につきました。川のほとりにあって、今は乾期なので機会で川から水をくみ上げて潅漑しているということです。

 今は煙草の花の摘み取りの時期で、花を摘まないと大きな葉にならないそうです。チャールズは得意になって畑の説明をします。二人の男と二人のマサイの女をやとって畑仕事をやらせているそうです。

 夜はみやげ物屋のジョゼフの家で夕食をもらいました。奥さんと生まれて一ヶ月の赤ん坊と美人の妹がいました。ジョゼフは妹をタカ氏の妻にしたいというので、いっしょうけんめい売り込んでいました。ジョゼフはあとひとり妻が欲しいそうです。ジャガイモと肉の煮込みをもらいました。家は6畳くらいの土間で布をぶら下げて半分に区切ってあって、半分の方にベッドがひとつ。網のもう半分側に戸棚ひとつ。七輪ひとつ。小さいテーブルと椅子ふたつがあります。ホテルやガソリンスタンド、役所以外は、夜はランプです。

 ジョゼフは明日写真を撮ってもらうという希望で私たちを招待してくれたのです。日本人からみると先に招待してあとで要求をだすのはあたりまえのようですが、ケニアではふつう要求だけしてお礼なんかしないというのがいつもの例だから、ジョゼフは遠慮深い方です。

<つづく>

=========
もんじゃ(文蛇の足跡):
このときルーカスの煙草畑でチャールズがシャッターを押した手ぶれの一枚が、結婚前に私とタカ氏がツーショットで写っている唯一の一枚。タカ氏、写真を撮るのは好きだけれど撮られるのは大嫌いだったので。
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2011年06月10日


ぽかぽか春庭「ナマンガの保育園」
2011/06/10 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(39)ナマンガの保育園

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その8
 17日の朝は、マイシャロッジのとなりの保育園を見学しました。
 5才と6サイの子がいます。30人くらいのこどもに先生ひとりだからたいへんで、先生は棒で子どもをびしびし叩いています。先生はいつも私たちがごはんを食べるナマンガサファリ肉屋の店番をしているソマリア美人の姉妹のひとりです。交替で店番と保育園の先生をしているらしいです。

 はじめに、衛生検査があって、一列に並んだ子どもの爪を先生が調べて、「きたない」と言って、棒で子どもの手のひらをたたきます。それがすむと、「書け」と命令。子どもは棒や意志で地面に絵や時を書いています。先生は、「今日は部屋の鍵をなくしたので、見つかるまで中に入れないのだ」と、すましたものです。

 そこで、私と高橋さんでかごめかごめや花いちもんめを教えたのですが、アフリカの子どもの波長にあわないようでした。
 ケニアの子どものゲームを見せてくれといったら、輪を作って地面を手でたたいて歌を歌って、立ったり走ったりするのを見せてくれました。日本でいう「手紙おとし」のゲームもありました。

 保育園は、月に子ども一人210円、三ヶ月で600円の月謝だそうです。
 このソマリアの美人姉妹はとても頭がよくて、日本語を教えてくれと言うので少し教えたら、どんどん覚えてしまいます。みやげ物屋のお兄さんなんか、あいさつと数字だけでせいいっぱいでしたが、英語の文法を知っているので、少し教えるとどんどん応用していきます。それで、ノートに基本分野の単語を書いてあげました。

 店のおやじさんも喜んで、娘を日本に連れていってくれ、とか、ここはおまえたちの家と同じだからすきなように振る舞ってくれと言って、きげんがよかった。一日に一回か二回はこの店で食べたのだからすごいお得意さんのわけです。

 午後、最後だからというので、高級の方のナマンガリバーホテルで食事をして休んでいたら、ハセベさんがタンザニアのアルーシャから来てくれました。いろいろやったけれど、どうしても警察許可がとれないという事情やら、タンザニアには物が不足していて、うっかりしていると石鹸も髪も食べ物もガソリンも変えなくなってしまうという国内事情を話してくれました。タンザニアとウガンダで戦争していたわけですが、今はアミンが負けてタンザニアが勝ったものの、戦後処理がうまくできていないみたいです。

 ハセベさんはパスポートを国境事務所に預けて特別にケニア側に出してもらったので、すぐ帰らなければなりません。国境事務所の役人たちともう仲良くなっていたので、今日ナイロビに帰らなくてはならないというと、特別にタンザニア側の茶店に連れて行ってくれて、お茶をごちそうしてくれました。国境を越えて、一歩タンザニアに入れたわけです。

 しかし、タカ氏は、警察に「ちょっと来い」と言われて、「オマエは、日本赤軍のメンバーに似ている」と疑われました。5分くらいで疑いは晴れましたが、ハセベさんも前に言われたそうです。
 夕方、乗り合いタクシーでナイロビに帰りました。

<つづく>
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2011年06月11日


ぽかぽか春庭「ナイロビの平凡な女たち」
2011/06/11 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロビの平凡な女たち

1979年9月20日発行アフリカ通信12号その9
 9月19日は、高橋さんタマちゃんにつきあって買い物の値切り係をさせられました。ナマンガで部屋代を負けさせた実力をかわれて、みやげ物のアクセサリーやハンドバッグの値切り係をしたのです。アホな特技を認められたもんです。これはけっこう疲れるのです。なまじな神経では値切れません。でも高橋さんやタマイさんにいろいろ世話になったから、必至で「安くしろ安くしろ」と、値切りました。

 おひるは久しぶりにブルジョアになって、高い食事をしました。1200円でビールとポークソテーとパンを食べ、「高かったから、おまけをもらっていこう」と相談がまとまったので、トイレに入ってトイレットペーパーを一巻きずつもらいました。皆、アフリカにくるとたいした神経の持ち主になると感心しています。

 タカ氏が、「だいたいアフリカに来たと言うだけでほかの日本女性とは変わっているんだ」と言ったら、高橋さんは「いや、私は平凡な女だ」と、怒っていましたが、やっぱり私から見て、皆、変わっていると思います。中でもやっぱり私はいちばん変わっているとつくづく感心しています。ハハハハ
 ではまたね。9月いっぱいはYWCAに泊まっています。一ヶ月で540シル一万四千円の払いで、朝・夕食つきです。土日は昼食もつきます。

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2011/06/11
 「フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980」の書き写し作業は、このあとも続けて行きます。
 私がすごしてきた人生の断片を、孫に語って聞かせるという楽しみは実現しそうにありません。(30代への調査によると、年収400~500万以上は既婚率70%を超え、年収300万以下で生涯独身率(50歳以上で未婚の人)がぐんと増えるのだとか。要するにカネの切れ目が結婚できるかどうかの切れ目らしい。娘も息子も結婚できそうにない)
 せめて私の中の記憶として書き残しておこうと、32年前に出した手紙の書き写しを始めたのですが、30年昔のこととなると、記憶と事実の違いもわかりました。記憶というのは常に改編されるからです。

 たとえば、私とタカ氏が「日本から来た夫婦」という触れ込みで泊めてもらったルーカス一家。私はルオー族だったと記憶していて、オバマ大統領の父親がルオー族出身だというニュースを聞いてすぐにルーカスを思い浮かべたのですが、手紙を読んだら、ルーカスはキシイ族だと書いてありました。

 また、タカ氏がタンザニア側の国境管理事務所で「国際手配書にある赤軍派と顔が似ている」とか言われて取り調べを受けた件も、私の記憶では、とても長く一晩中くらい取り調べが続いたように感じていたのです。これは、思わぬ嫌疑にショックを受けて「はたしてタカ氏の疑いは晴れるのだろうか」と心配していた時間が、記憶の中では増幅されたもののようです。実際は、パスポートを見せてすぐに疑いは晴れたと書いてありました。
 「思い出話を孫に聞かせる」という場合、爺さん婆さんの記憶にとって、都合のよい改編がなされてしまうということがよくわかりました。シビアな事実も、老後に思い出すときや孫や子に語るとき、甘美な思い出となっている。

 自分のための備忘録として若い日の姿を書き写したのですが、
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2011/06/05 06:45 toukuro おはよです♪このシリーズ見て外国旅行は若い内にこんなスタイルじゃ無いと嘘だとつくづく思っています 一生忘れないでしょうね♪
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なんていう感想コメントをもらったりすると、「私のささやかな旅の記録も、誰かに読んでもらうことによって、いっそう若い日の思い出が胸の中に大きくなるなあ」と、うれしく思いました。ほんと、何十年たっても、一生忘れない思い出です。

 「結婚から十年ごとに子ども達にケニアを見せに連れてこようね」と、タカ氏が約束したことなどとっくの昔に反古にされてしまって、私は1980年から30年たってもケニア再訪の機会はありませんでした。タカ氏は結婚後、2度友人といっしょにケニアを再訪していますけど、、、、。

 いつか必ず、あのナイロビやモンバサやナマンガを再訪する日が来るかも知れないと夢見ながら、月曜から土曜まで週6日の授業をこなしています。赤道直下の光を浴びれば、青春の日のときめきや輝きが取り戻せるかもしれません。今はセコセコと日々の仕事をこなすのみ。

 このあと、ナイロビからの便りは、ボーマスオブケニアでのアフリカンダンス修行の記録になります。タカ氏と映画を見に行ったり、地方への旅行、サファリパークでの動物見物など、赤道の日々の記録、では来月以降も少しずつ書き続けます。次回からは「薔薇さんぽ」について。都内薔薇名所めぐりの記録です。

<つづく>
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1979年春庭ケニア日記1979年9月

2010-07-25 09:39:00 | 日記
2011/07/17 
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロビ・ロングバケーション

 2011年7月18日海の日は、出講日。4月にできなかった分をこなすべく、授業をすることになっています。18日が出講日なので、今日中に19日に実施する私立大学学部留学生向けの期末試験をつくらねばなりません。Nテスト(日本語能力試験)1級レベルの「語彙テスト」をすると予告してあります。
 本日の最高気温36度という予報を見て、半分やる気も失せていますが、試験問題作るのも給料のうち。がんばりましょう。今朝の新聞で「家族は心配したけれど、日本に留学してよかった」という留学生の投書を読みました。私が担当している学生たちにも「日本語の授業、受けて良かった」と思ってもらえているかどうか、心配はありますが、さてと、試験問題を作らねば。

 ロングバケーション、9ヶ月の夏休みが続いた1979年~1980の夏がつくづくなつかしいです。というわけで、1979年のケニア滞在日記のつづきです。
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1979年9月20日発行アフリカ通信13号その1
 9月21日金曜は、暑かったのでYMCAのプールで泳ぎました。ちょうど白人学校の小学生が水泳教室に来ていたので、白人の女教師にじゃまにされて頭にきました。「ちゃんと入場料240円を払ったのだから、泳ぐ権利がある」と言ったのに、「今日は私の学校が貸し切りにしたのだから3時までプールサイドで待ってろ」と言うのです。白人は、いばっていると思います。

 9月22日土曜。日本で私たちにスワヒリ語を教えてくれたカヒィンディとワイナイナは、日本からケニアにもどってきているので、YWCAに訪ねてきてくれました。カヒィンディのおばさんと弟に会いに行くからというので、ヒマだからついて行きました。おばさんはキクユ族の小さな町で雑貨屋をしています。
 ケニア人の生活を知りたかったら、いつでも一週間くらい泊まりに来ていいということになりました。
 カヒィンディの弟はウゴングというマサイ族の町でやはり店をしていて、私にビーズの腕輪をくれました。

 カヒィンディは、町の飯屋で肉とジャガ芋の煮込みをごちそうしてくれたのですが、しきりに「ケニアはまだ貧しい」と恐縮し、ハエが多いと「日本でハエを見たのは一度だけだった」と、言います。やはり、彼らにとって、東京生活の印象は強烈だったのだと思います。明治維新のころヨーロッパに行った日本人留学生もこんな気持ちだったかと思います。

 9月23日日曜は、一人で下町を散歩しました。今まで何人かで行ったことはあるのですが、一人では危険だと言われていました。しかし、真っ昼間なら大丈夫だし、盗られて困るものは持っていかなければいいからと、出かけました。市の中心街から30分も歩くと、日用品や衣類を地面の上に広げた露天市場があります。服なんか古着というよりボロ市と言ったほうがいいようなのも、堂々と並んでいます。巻きスカートが一枚あったら便利と思って見てあるいたけど、いいのはありませんでした。

 こちらのパンツは木綿がなくて白いのがありません。男のも女のも原色のハデハデしいのが好みです。ブラジャーも特大の赤や青がぶら下がっています。
 露天の床屋に頭を刈っていかないかと言われました。ジーパンはいてて胸ぺちゃんこだから、男と思ったのかもしれません。
日曜なので、町の辻に説教している宣教師の黒人がいたり、救世軍の行進がありました。
 
 YWCAには、おふろないけど、シャワーがあり、私は毎日シャワーを浴びるし暑い日は二三度あびているから、日本にいるときよりよっぽどきれい好きです。洗濯も毎日するので、おそうじのおばさんにジャパニーズは働き者だと誉められました。YWCAの同室の学生達はとてもよく勉強します。私も踊りの本なんか読んでみるけど、英語の本をいちいち辞書をひきひき読むのでは差が付きます。私は22才ということになっています。

<つづく>
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2011年07月19日


ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンス」
2011/07/19
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(41)ボーマスオブケニアのダンス

1979年9月アフリカ通信第14号その1
 9月24日にまた、ボーマスオブケニア(ケニア民族家屋展示園)に行きました。私は4度目で、タマちゃんは2度目ですが、高橋さんが一度も言ったことがなかったので、いっしょに行ったのです。今日は月曜なので、土日に比べお客が少なかった。

 踊りを見終わった後、民家の展示場へ言ったら、今まで踊っていた踊り子たちが、すばやくみやげ物屋の売り子に変身して観光客にみやげ物を売っていました。私はもう4度も見て、誰がどの踊りに出たかとか、誰が上手いかなどわかるようになったので、踊り子達と話をしました。ケニアの人件費は安いので踊り子も給料が安く、みやげ物を売って小遣いかせぎをするのでしょう。中に私が一番動きがいいと思った人がいたので「私はあなたが一番うまいと思う」と言って握手しました。
 あとでわかったことに、その人は皆から「ムワリム(先生)」と呼ばれている人でした。

 もう帰ろうとしたとき、高橋さんの友人と知り合いだというムハメッドが追いかけてきました。23歳か24歳くらいで、もう7年ここで踊っているそうです。踊りのステージの建物のうしろに踊り子達のアパートがあって、前にシミズさんといったことがあります。ムハメッドがぜひ寄っていけというので、少し寄っていくことにしました。

 ムハメッドの知人というのは、去年ケニアに来た園子さんという人だということです。紅茶をいれてくれて、日本の伝統的歌を聞かせるといって、カセットを入れたら、聞こえてきたのは「女の道」とか演歌だったので笑ってしまいました。午前中に練習をするというので、水曜に練習を見に来ることになりました。

 9月25日は一日中あちこちに電話をかけていました。ナイロビはとても電話ボックスの少ない町で、大勢の人が列を作って待っています。15円でいくらでも長くしゃべれるのでみんな長電話です。たまにだれも待っていないすいているボックスがあると思うと、たいてい故障しているので、だれも待っていない電話は無視します。待たないでかけられるのは、ホテルの電話ですが、75円かかります。ボックスは30分くらい待つことが普通です。

 なぜ電話しなければならなかったかというと、ナイロビ・ショウ(産業博覧会)に行きたかったのです。ナイロビはバスの便が悪いし、ことに夜にバス停から歩くのはたいへんです。ナイロビショウで伝統芸能を見せるというので、ぜひ見たかったのですが、帰りが夜になるので、タマちゃんと手分けして知っている全部の人に車で送り迎えしてくれないかと尋ねたのです。しかし、なかなか電話がつながらないし、車を持っている人がモンバサに行っていたりで、手配がつきませんでした。

 郵便局のYMCAとセレナホテルと三箇所であちらこちらに電話して、木曜は私の知人のパイヤ氏の車、金曜はワイナイナさんが送り迎えしてくれることになりました。ワイナイナさんはタマちゃんの友だち。日本に来ていてとき、タマちゃんがスワヒリ語を教えてもらって友だちになった人です。一日中電話をしていただけなのに、ひどくくたびれました。

 9月26日にボーマスに練習を見に行きました。9時から10時まで歌の練習。指揮している人は本格的な西洋式発声を習った人らしく、自由自在の声を出します。しかし、踊り子達は途中で抜け出してみたりタバコを吸ってみたり、あくびをしたり、勝手気ままに練習しています。

 しかし、太鼓のリズムだけですが、みんなの気がのると、とてもすばらしい歌声になります。部族のことばで歌うので意味はわかりませんが、リズムと重唱やかけあいのハーモニーがとても生き生きしています。歌いながらついつい踊りの振りをしてしまう人もいます。ボーマスにはいろんな部族の人が集まっているので、たとえば、ルイヤ族の歌の練習の時はルイヤの人が先に歌って、皆に教え、皆がついて歌って覚えます。ギリヤマの歌の時はギリヤマ族の人がリードします。

<つづく>
07:44 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月20日


ぽかぽか春庭「ボーマスオブケニアのダンスレッスン」
2011/07/20
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(42)ボーマスオブケニアのダンスレッスン

1979年9アフリカ通信第14号その2
 10時半から踊りの練習になりました。振り付けの先生がきたら今までわりに自由に練習していた人たちがぴしっとしまりました。振り付けの先生は大きな権限を持っているらしいです。このボーマスは株式会社になっていて、社長は普段はここにいなくて、支配人がふだん一番えらい人です。その次の次くらいに振り付けの先生がえらいみたい。

 今日は、ギリヤマ族の踊りの練習でした。ギリヤマの女の踊りは、ちょうどフラダンスのように腰を振るのですが、簡単そうに見えてやってみたらなかなかうまくいきません。一人の女の人が、腰を振るのではなくて、回すのだと教えてくれました。みんなは丸いステージの上で練習しているのですが、私はステージのまわりのコングリートの所で動いていたのですが、足が冷えました。

 ムワリムが上でいっしょにやれと言ってくれたのですが、高橋さんがいっしょなのでやめました。私だって腰を回しながら歩く、というのがとても難しかった。足を一歩出すときに腰を二度回すのです。ゆっくりだといいのですが、速くなると腰がついていきません。皆でジャンプする動きがあるのですが、太鼓の音にあわないと振り付けの先生が怒って何度も何度もジャンプをやりました。しまいにどうしても合わない人が残されて特訓を受けました。去年の発表会の時、私だけ振り付けを覚えられないで、残り勉強したことを思い出してしまいました。
 12時に練習が終わりました。お昼を食べたあと、ショウを見たのですが、あんなにきびしく練習したギリヤマのジャンプのところが、本番には結局合わなくてバラバラなので笑ってしまいました。

 高橋さんが先に帰ったので、タマちゃんと二人でムハメッドの部屋に寄りました。4畳半くらいの部屋にベッドとソファがあって、服は壁にかけてあって、石油コンロとプラスチックのおけに入った食器が全財産です。今日は緑茶のティーバッグを持っていって、お湯を沸かしてもらってお茶を入れました。
 日本人はお茶に砂糖もミルクも入れないのだと言ったら、何も入れないで一口飲んでみたものの、ムハメッドは砂糖を3杯いれて、おいしいと言って飲みました。私たちも久しぶりに緑茶が飲めました。

 私は今までに4回もボーマスのショウを見たけれど、ムハメッドは見かけなかったと言ったら、お父さんが病気なので、田舎に帰っていたのだそうです。ムハメッドはボラナ族で、背が高くて手足がやたらに長くてひょろひょろしているので、踊りは上手い方なのに、不器用そうに見えます。バス停まで送って来てくれました。

 ほかの踊り子達が、私たちを珍しいと思って、いつもアフリカ人が聞くように「いくつだ、結婚しているのか、どうしてしないんだ、どういう男が好きなんだ。アフリカ人とでも結婚できるか」という同じパターンの質問をしたがるのですが、ムハメッドは日本人は自分のお客だという顔でほかの人を邪魔にするのです。質問のパターンは決まっていて、次には「お前はとてもきれいだ。おれはお前がとても好きだ。俺と結婚してくれ」と続くのです。

 はじめはおもしろがって「どういう男が好きか」の質問に「ハンサムで金持ちでやさしくて、利口で強い男がいい」なんて答えていたのですが、だいたいだれも同じパターンを繰り返すので、このごろは「日本に夫がいる」と言って終わらしています。しかし、アフリカ人の考えでは「日本に夫がいるなら、アフリカでは独り身で、独身だ」というのです。あと、だれでも聞くことは「お前はカラテができるか」
 もっとほかの会話はないものかと疑ってしまいます。
 高橋さんは日本へ帰りました。

<つづく>
07:52 コメント(0) ページのトップへ
2011年07月22日


ぽかぽか春庭「ケニアのヤマトナデシコ」
2011/07/22
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(44)ケニアのヤマトナデシコ

1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その4
 ボーマスで踊りを教わるのは面白いので、来週一週間通うことにしました。振り付けの先生が来週は全部いっしょにやっていいと言ってくれました。振り付けの先生というのは、南アメリカ出身のアフリカ人です。部族の踊りは単調なものが多いので、うまく組み合わせたり削ったりしてショウに向くように演出しています。ボーマスの踊りは本当の部族の踊りそのままではないけれど、動きの勉強にはなります。単調で単純そうに見えて、簡単には動けません。

 ボーマスは海外へもショウをやりに出かけていって、ムハメッドはロンドンやパリに行ったことがあるそうです。ムハメッドは7年踊っていて古株の方なので、演出助手をやる7人の中に入っているそうです。ムワリムはもう中年ですが、やはり動きはいちばん決まっています。私が「あなたがいちばん」と言ったので、わたしのことを気に入ってくれて、いろいろ気を遣ってくれます。

 土日は午前中の練習はなくて、午後のショウだけなので、月曜の朝またくると言ったら、月曜はムワリムの家でお昼を食べるように言ってくれました。
 土曜の夜YWCAでディスコ大会があるので、ムハメッドに来るかと聞いたら、仕事があるからだめだし、ヒマなときは映画を見に行くんだと言われました。もっともなことで、毎日毎日踊って仕事にしている人に、ディスコなんか必要ないわけです。しかしYWCAディスコ大会は、要するにボーイフレンドの見せ合いだと聞いたので、やはり一人で踊ってたら、みじめだろうと思います。
 ではまたね。
~~~~~~~~~~~~~~~
2011/07/22
 ケニアではいっしょにディスコに連れ立っていくカレシもいない「やまとなでしこ」だった私。思い出は時が経つにつれてセピア色に変色していき、美しく楽しい思い出ばかりが鮮やかになっていくといいます。30年前のケニアの日々。忘れかけて退色しかかっていた思い出が、こうしてかの日に出した手紙を書き写すことで「デジタルリマスター」されてあざやかな色を取り戻すようです。

 若かった日は取り戻すことはできないけれど、この赤道の下の日々があったからこそ、現在の「しょうもない日々」も生きていける。あ、「しょうもない日々」なんて言ったらバチが当たるのだった。震災以後、この毎日も「かけがえのない日常」と言わなければならないのだと、身に染みたはずなのに。凡人の悲しさでついついのど元過ぎればなんとやらになってしまいそうですが、「流されゆく日々」にならないよう、気を引き締めなければ。

 今期は国立は土曜日にも授業をしたり一日に90分授業を4コマも詰め込んだりでなんとか予定のコースが修了しました。私立は8月最初の週まであります。夏休みまであと少し。がんばりましょう。
 今週は、「なでしこ」の大活躍でみな元気が出てきたところです。ヤマトナデシコは、カワラナデシコの別名。セキチクの花を「唐撫子(からなでしこ)」と呼ぶのに対して、ヤマトナデシコとよばれて、日本の女性の代名詞にもなりました。従来は、可憐、清楚、貞淑というイメージで親しまれてきましたが、これからは「粘り強く最後まで諦めない、はつらつとして果敢にチャレンジする」というイメージになっていくかもしれません。私もはつらつと最後まで諦めずにチャレンジしたいです。

<おわり>

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1979年春庭ケニア日記1979年9月

2010-07-19 18:53:00 | 日記
2011/10/01
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(45)ケニアのダンス修行

 アフリカ・ケニアでダンス修行をした9ヶ月、私にとっては大切な思い出であり、なつかしい青春です。
 1979年のアフリカと現在では隔世の感があるでしょうけれど、私の脳裏には、いつまでたっても、サバンナに沈む夕日が輝いています。
 これら日々を書き留めておくことも、私にとっては、「I am still alive.」のあかし。

1979年のケニア日記書き写し、つづき。
~~~~~~~~~~

1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その3
 9月27日は、午前中、ボーマスでまた踊りの練習をしました。今日はキクユ族の割礼儀式の踊りでした。簡単だからいっしょにやれと言われて、女の人の踊りをいっしょにやりました。動きは少なくて、歌を聞かせるのが主なので、振り付けは簡単でした。
 次のカレンジンの踊りの時は振り付けの先生に「お前は見てろ」と言われて見てました。男と女とペアになって順番に前に出たり引っ込んだりする踊りなので私がうろちょろしてたら邪魔なわけです。
 最初英語で言われてきょとんとしてたら、誰かが「あの子は英語知らないからスワヒリ語で言ってやれ」と言って、もう一度スワヒリ語で「あとで教えるから今はどいてろ」と言われました。

 女の人がおひるをごちそうしてくれました。シクマウィキという菜っ葉と肉の煮物とウガリ。おなかがすいていてとてもおいしかた。4畳半くらいの部屋にベッドを二つ置いて、女の人とその友だちの女の人と、子どもといっしょに住んでいます。子どもは、女の子で2歳。夫はいないらしかった。未婚の母はふつうで、周りの人も父親のない子を特別な目では見ません。しかし「ボーマスに来てから2年で、前は陸軍のオフィスで働いていた」という話から考えると、やはり政府関係とか堅い仕事は未婚の母に向いてないみたいです。

 午後はタマちゃんとナイロビショウに行きました。下町のバス停から特別バスが出ているので乗って行きました。
 入場料450円。高い。中に入って踊りがいつあるのか調べたら、もう終わっていて、今日も明日もないことがわかりました。まったく頭にきました。ほかに見たいものなんかありません。羊の品評会だとか、テレビや車の展示とか「鉄道の発達」の展示だとか、どこが面白いかって。しかし、ケニアの人にとっては、伝統の踊りなんて日本人がお神楽をあんまりおもしろがる人がいないのと同じように、たいして面白いものでなくて、車やテレビに興味があるのでしょう。

 出店があって安売りしています。皆がほとんど買っていたものは、プラスチックの赤や青のバケツ、たらい、オケ。町の半値で買えると言って、みんな買っていました。ふだんは900円もするプラスチックのバケツが450円くらいで買えたそうです。みんなが安いと言うから、私とタマちゃんも洗濯用にひとつ共同で買おうかと思ったのですが、やっぱりやめました。とにかく、私たちには何もおもしろくない産業博覧会でした。

 踊りを見に行けばおそくなると思ってパイヤ氏に迎えに来るよう頼んでおいたのですが、6時ごろならバスで帰れると思って、電話で断りました。金曜ももう見たくないので、ワイナイナさんに断りました。
 ワイナイナさんは、女房がシクマウィキの作り方を教えるから、来週、家に遊びに来るようにと言ってくれました。

<つづく>
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2011年10月02日


ぽかぽか春庭「ワイルドギース」
2011/10/02
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(46)ワイルドギース

1979年9月28日付けアフリカ通信第14号その4

 9月28日は、午前中、ボーマスに行きましたが、練習はありませんでした。小学生の団体見学があったので、練習がなくてショウがあったのです。私も小学生といっしょに見てましたが、もう踊り子と顔見知りになったので、皆が私の方を見て、笑ったり首を振ったりします。小学生の見学なので、気をゆるめていたのかも知れません。

 午後はタマちゃんと洗濯やらおしゃべりやらで終わってしまいまいた。タマちゃんともう一ヶ月同じYWCAに泊まっているので、ずいぶん仲良くなりました。高橋さんは、男の人に対して態度が変わって女の色気を振りまくので、何となく気が合わなかったのですが、タマちゃんは男の子みたいにさっぱりしていて、気が合います。

 いくら日本人が少ないと言っても、やはり気の合わない人とはあまり喋りたくないです。タマちゃんはスワヒリ語が私よりうまく、英語は私とどっこいどっこいです。獣医だから、本当はボーマスで踊りの練習につきあうことないのだけど、一人では行きづらいだろうと、つきあってくれています。歌の歌詞をムハメッドから借りて一生懸命写していました。(タマちゃんは)家から手紙が来ていて、親がもう日本に帰れと言ってきたけど、タンザニアにも見たい動物があるんだと、がんばっています。

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その1
 9月29日土曜。朝、タマちゃんがナマンガの町へ行って国境を見たいというので、下町のバスセンターまで送っていきました。12時発のバスはマサイ族でもう満員。2時発のバスの方にさせられました。タマちゃんは12時から2時まで、バスの中で待っていたんだそうです。それから4時間かかってナマンガへ行ったのですから、ごくろうなことです。

 私は、午後は映画に行きました。戦争映画だから、英語はそんなにできなくてもいいというし、アフリカを舞台にしているから見といた方がいいなんて言われて、その気で見たのですが、確かに戦争アクションの部分はバンバン撃ちあって死ぬんですから英語はろくに必要ないので、よくわかりました。しかし、その前後のアフリカの政治的な背景の説明を台詞だけでペラペラやられて、なぜ捕われの黒人政治家を救出しなければならなかったか、なんてさっぱりわかりませんでした。やっぱり字幕つきでないとだめだと痛感しました。
~~~~~~~~~
2011//10/02
このとき、見た『ワイルド・ギース(The Wild Geese)』は、1978年制作のイギリス映画。タカ氏といっしょに見たのですが、英語ぜんぜんできないタカ氏は、「わからないところは、あとであなたに日本語で説明してもらえばいいやと思ったから、いっしょに見にいったのだ」ですって。

 私は買い物でも道を尋ねるのでも、ブロークンイングリッシュとブロークンスワヒリ語を適当にちゃんぽんにしてしゃべっていたのですが、どちらもぜんぜんしゃべれないタカ氏から見ると、私が英語できるように見えたのでしょう。でも、私だって当時の英語力では、アフリカの政治問題について早口の英語でかわされる台詞などほとんど聞き取れず、ふたりとも内容がわからないままだった、という今でも笑い話のひとつになっている「いっしょに見たはじめての映画」の思い出です。
~~~~~~~~~~~
<つづく>
01:28 コメント(1) ページのトップへ
2011年10月04日


ぽかぽか春庭「ナイロビ下町エチオピア人ソマリア人地区」
2011/10/04
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(47)ナイロビ下町エチオピア人ソマリア人地区

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その2
 夕方、(私やタマちゃんと同じYWCAに泊まっている)下川さんが紹介してくれたハッサンに会いました。ハッサンがエチオピア&ソマリア族の住んでいる下町へ連れて行ってくれました。私たちが行った下町キカンバよりもっとずっと離れた方にあって、案内人なしにはひとりで行けません。ハッサンはエチオピア人とソマリア人のハーフです。ソマリアは美人の産地として有名ですが、ハッサンも色は黒いけどたいへんハンサムです。旅行社につとめて9年だそうです。

 ハッサンの友だちの エチオピア人の家庭を訪問しました。
 夫婦と子ども三人の家ですが、ナイロビ市内というのに、ランプなので驚きました。ナマンガのような田舎町なら電気がないのはわかりますが、一国の首都の中に電気がないなんて。

 しかし、とてもよい人たちで、エチオピア料理を出してくれました。私にはちょっとからかったです。子どもはランプのあかりでいっしょうけんめい英語の勉強をしていました。この国では、英語ができないとよい仕事につけないから、子どもを日本の受験勉強とまではいかなくても、うかうか遊んでいられないわけです。
 奥さんは、エチオピア語しか話せないらしく、だんなさんは、私がケニアに来て二ヶ月だというと驚いて、「この人はたった二ヶ月でスワヒリ語がじょうずにはなせるのだから、おまえも少しは覚えたらどうだ」というらしいことを奥さんに言ってました。

 それからハッサンとヒルトンホテルでビールを飲みました。そしたらハッサンの旅行社のお客だというアメリカからきた黒人女性に会いました。ハッサンは、日頃白人の旅行者を相手に仕事をしているわけで、白人に対して複雑な感情を持っているようです。
 ケニアの男たちは、もし白人女性を妻にできれば自慢のタネであり、YWCAの女子学生たちも、白人のボーイフレンドを持っていると写真を見せて自慢します。そのくせ白人にコンプレックスを持ち、白人を恨んだり嫌ったりしているのです。

 長い間白人に支配され、今なお白人の助け無しに自力だけでは経済がやっていけない国だからか、黒人の宿命なのかわかりません。森鴎外や伊藤博文なんかが、はじめてヨーロッパへ行ったころ、白人に対してあこがれと劣等感を同時に持ったろうと思います。そして今、私たちの世代が別段、白人だからといってエライとも思わずコンプレックスを感じていないように、あと30年したらケニアの子ども達は白人に対等の意識を持てるようになると思います。

 アメリカからきた黒人女性は、やはり「ルーツ」意識でケニアにやってきたようです。ハッサンは同じ黒人だから白人に対して同じ感情を分かち合えると思って、議論をはじめました。それに対して黒人女性が反論します。彼女たちは黒人とはいっても、アメリカの中でも最も成功した人たちであり、すくなくとも、飛行機でケニアに遊びに来る余裕とカネがあるわけです。ハッサンの複雑な感情はぜんぜん彼女たちに伝わらなくて議論は平行線をたどるばかり。

 といっても私に議論の全部がわかったわけではありません。アメリカなまりの英語はとっても聞きとりづらく、ケニア人の英語のようには理解できません。スワヒリ語は日本語の発音とまったく同じですから、ケニア人の英語は日本人の英語と似ています。(注:スワヒリ語も日本語も、5母音開音節)しかし、ハッサンはソマリアなまりで議論が白熱するとすごい早口で、私にはわかりません。それなのに、彼は黒人女性に納得させられないと、私にあいづちを求めるので、何と言ってよいかわからず、困りました。昼の映画といい、夜の議論といい、英語には悩みます。

<つづく>
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2011年10月05日


ぽかぽか春庭「ハッサンの議論」
2011/10/05
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(48)ハッサンの議論

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その3
 黒人女性は、要するに「黒いか白いかは関係ない。とにかく本人が能力を持ってさえいれば、どこまででものし上がれるのだ」というアメリカ流の考え方をしているし、ハッサンは「いくら能力があっても、黒人であるというだけで低く見られるし、能力を正しく評価してもらえないのだ。もし一つの仕事に対し黒人と白人が同じ能力で仕事をこなしたとしたら、白人の方が先に出世するだろう」と差別意識を持っているのです。

 私は、「私は日本人だからハッサンともアメリカ人とも別の考えを持っている。しかし、私は英語がヘタだから、うまく表現できない」と逃げました。そしたらアメリカ黒人女性が「それではスワヒリ語で言って、ハッサンに通訳してもらおう」と言い出して、なお困りました。私には差別と能力という問題に対してうまい考えがないのです。アメリカ人が、能力さえあれば出世できると考えるのも当然と思うし、ハッサンが黒人コンプレックスを持つのも当然と思えます。

 私はずっと日本にいて、差別されたことがなかったけど、もしアメリカなんかにいて、理由もなくただ黄色いからといってバカにされたり差別されていたら、もっと違う感情でいると思います。議論の全部はわからなかったけど、黒人の意識の持ち方が少しはわかって、おもしろかった。(夜)12時すぎまで議論がつづきました。

 そのあと、オマケがあって、ヒルトンのむかいに黒人のディスコがあり、ハッサンが踊りに行こうというのです。私はもう12時すぎて遅くなって、YWCAにかえらなければならないと言いました。YWCAは、門限にうるさくて、遅いときはノートに理由やら書かなくてはならないのです。しかし、ハッサンは「おれが黒くて醜いから行けないのか」というのです。「そうじゃない。黒いか白いかなんて関係ない」と言っても、ハッサンはひどくこだわります。実際、彼はハンサムで背がすらりと高く、私など恐れ多くて近づけないくらいカッコいいのです。それで、明日必ず一時に会うと約束して、一人でタクシーでYWCAに帰りました。

 9月30日、日曜に、午後一時に約束したのでソーンツリーコーヒーショップに行ってみたけど、着いたら一時半になってしまいました。ハッサンはいませんでした。日曜の午後、ツアーの仕事があると言っていたから、時間を守らなかった私の方が悪いのですが、ふつう、ケニアの約束では、1時に会おうというと、1時に家を出るのです。30分くらいは待たなかったハッサンの方がケニア的でないのです。でも、黒人相手だから約束を守らなかったと思われると嫌だなと、後味悪い気がしました。

 夕方、玉ちゃんがナマンガからかえってきて、いろいろ話を聞かせてくれました。ナマンガの人たちは、私のことを「ひっきりなしにしゃべって、よくビールを飲んで、ひっきりなしに踊っている日本人」として覚えていたそうです。そんなにぺらぺらしゃべったおぼえはないのですが、高橋さんとタカ氏がスワヒリ語をしゃべれないから、一人でしゃべりまくるほかなかったのだし、ビールは、ナマンガはひどい埃で、のどがよく乾くけど、コーラやファンタは甘いし、生水は飲めないしで、ビールしか飲むものがなったのです。日本人二人、陸路でタンザニアに入ったという情報があったそうです。私は陸路はあきらめました。

<つづく> 
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2011年10月07日


ぽかぽか春庭「ギカンブラ村へ」
2011/10/07
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(49)ギカンブラ村へ

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その4
 10月1日(月曜)。午前中はタマちゃんとボーマス・オブ・ケニアに行って、私は踊りを習って、タマちゃんは歌を習いました。
 午後、村へ行く支度をして、荷物を作りました。夕方、カヒィンディがむかえに来て、いっしょにカヒィンディのおばさんの家に行きました。キクユの町の近くにあるギカンブラマーケットという小さな田舎町です。私が民宿をしたい、ケニア女性がよく持っているバスケットの作り方を習いたいと希望を述べてあったので、おばさんの家に一週間泊まることになったのです。

 おばさんは、正式の名前はグラディス・ンゲンドゥというのですが、皆、「ママ・アンボイ」と呼びます。おばさんのだんなさんは「ムゼー」と呼ばれています。ムゼーというは、長老に対することばで、ママは、フランス語のマダムと同じ。私も「ママ」と呼びかけられます。女性を尊重した呼び名です。ふたりは雑貨屋を経営しています。田舎町では金持ちのほうです。
 ここらの土地はキクユ族ばかりなので、皆キクユ語を話します。しかしスワヒリ語ももちろん通じます。おじさんとおばさんは英語はだめですが、若い世代には英語も通じます。 
 おばさんに日本から持っていった扇子を、おじさんに(私が作った折り紙の)くす玉をあげました。喜んでくれました。
 店は昔の日本の田舎の雑貨屋と同じ感じ。よろず何でも売っています。台所は七輪のほか、ガスレンジがあります。このガスレンジとラジオがこの家の中のピカイチの文化製品です。水は屋根の樋からタンクに集めた雨水で、洗濯なんかは川から直接ひいた水道があります。この水道は川の機嫌しだいで、澄んだりにごったり止まったりします。水は貴重で、ムダにできません。電気はもちろんありません。おふろも水浴室でタライで水浴するだけ。
(ンゲンドゥ家の間取り図が書かれています。
 道に面して店。ミルク、飴、煙草、薬、石鹸、油などが、店の壁の棚に並べられいる。平台には、豆、ジャガ芋、粉、砂糖。秤。会計所の前に石油缶。店の奥に居間と台所。そのまた奥に細長く、おじさんとおばさんの部屋、女性教師の下宿部屋。その奥が私が泊まらせてもらった部屋。部屋は8畳間くらいの広さで、ベッドとテーブル、いす。裏庭に鶏小屋、水道小屋。トイレと水浴小屋)。

 10月2日(火)。朝は6時半から7時の間に明るくなるので、この頃起きます。私が泊まっている間、ギカンブラの気候は、朝は必ずくもり又は霧で、9時すぎには晴れだし昼頃には快晴という天気でした。毎朝、私は台所と店のそうじをしました。ほうきは、すだれの木のような細い茎を束ねたものです。おばさんは、せんたくのある日は、朝からせんたくします。雨が降ってても、雨の中で平気でせんたくして干してしまいます。昼までには必ず晴れてカンカン照りになると知っているからです。

 それから七輪にすみをおこしてお湯をわかして紅茶の準備をします。ケニアのなべは、ちょうど日本のタライの小さいのみたいな形で、もち手がありません。このなべでお湯も煮物もみんなまかないます。紅茶の作り方は、ふっとうした湯の中に、ひとつかみの茶葉をぶちこみ、ぐらぐら煮ます。別に沸かしといた牛乳と、砂糖を混ぜてできあがり。ミルクなしのお茶はありません。ママ・アンボイは、砂糖をあまりいれないので、助かりました。ふつうはひどく甘いのです。

<つづく> 
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2011年10月08日


ぽかぽか春庭「ギカンブラ村ホームステイ」
2011/10/08
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(50)ギカンブラ村ホームステイ

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その5
 七時半におじさんが店をあけると、もう外にミルクを買いにきたお客がまっています。たいてい子どもがおつかいに使われます。しかし、ミルクはその日の牛の気分しだいで、たくさんあったり、少なかったりするので、10人に売れる日もあれば、3人に売っておしまいの時もあります。カンに入っているしぼりたての、まだ生あたたかい牛乳をジュースのあきびんに入れて売ります。700ccで15シル(45円)です。終わってしまうと、いともかんたんに「もう、おしまい」と言います。

 ケニアでは買い手の方が「ありがとう」と言い、売り手はいばっています。それは「まとめて買う資金のない者に、小売りしてくれてありがとう」という意味です。たばこを一本ずつ、薬を一錠ずつ売っているのです。大人が10円持ってきて「タバコ一本くれ」とか3円もってきて「飴ひとつ」とか買って行きます。
 ふつう、朝は紅茶だけですが、私だけのために玉子焼き作ってくれました。悪い気がしたけど、ひとりで食べました。おばさんはクリスチャンなので、必ず食事の前に長たらしいおいのりをします。午前中はずっと台所で食器を洗ったりバスケットをつくったりしていました。

 食器はなべ兼タライの中に水を入れてこちょこちょと洗い、もうひとつのなべでこちょこちょとゆすいでおわり。あんまり清潔ではないけれど、水のムダづかいができないのでがまんです。そうじと食器洗いは、ずっと私の仕事でした。ケニアではお客だからといってえんりょせずこき使います。

 バスケットは、単純な編み方なんだけど、初めは編み目のそろえ方がわからず、めちゃうちゃに力を入れたのでとても不細工でした。一週間かかって一つ作りました。たぶん日本のむしろの編み方と同じだと思います。

 午後、おばさんと畑へ行って、ボガという菜っ葉を摘み取りました。ケニアで野菜というと、この菜っ葉をさします。シクマウィキという菜っ葉の煮込みを作ります。あと野菜はジャガ芋と人参くらい。ねぎや玉ねぎは、細かく刻んで肉のニオイ消しに使うので、食べるときは影も形もありません。トマトも味付け用専門で、生でサラダにして食べるのは、西洋風レストランだけです。

 シクマウィキを作り手伝いをしたのですが、畑からとってきた菜っ葉を、手でうらおもてパタパタたたいて、土とアブラムシを落としたたあと、水にちょっとつけただけでザブとも洗わないで料理しちゃうのです。熱を通すからだいじょうぶとも思うけど、日本人はなんて清潔好きなんだろうと思います。みそぎの観念でも染みついているのか、水で清めるという考えが何事にも抜けないのですね。

 菜っ葉をきざむのもジャガ芋をきざむのも、まな板というものはありません。菜っ葉はまとめて握ってこそげるように細かく手のそばできざむし、ジャガ芋にんじんは、手の中で乱切りにします。私がやってみたら、さっそく親指を切りました。
 
 11時ごろお茶をまた飲んで、おひるは1時から2時の間です。シクマウィキとウガリを食べました。そしたら、タマちゃんがやってきました。カヒンディにバスの乗り方を聞いて、バスで来たんだそうです。
 何事かと思ったら、私たちがYWCAを追い出されかかっているのだそうです。私たちは9月28日に、10月1日から15日までの半月分を予約してもうお金も払ったのですが、急に「半月払いはできない。一ヶ月分まとめて払うか、毎日払うかのどちらかだ」と言い出したのだそうです。

 一ヶ月全部はいないから一ヶ月分だったら損をするし、毎日払いは、とても割高なのです。思うに、8月と9月は学生が言えに帰省していたので、YWCAもすいていて、私たちが泊まれたけれど、10月になって学生が学校に通うためナイロビに戻ってきたので、私たちがじゃまになったらしいです。確かに私たち通りがかりの旅行者より、一年間住んでいる学生の方に権利はあるのですが、それならお金を払うときに言ってくれればいいものを、今さらだめだと言い出すなんて。

 なぜYWCAがいいかというと、鍵付きのロッカーを確保して安全に荷物を保管できるし、せんたくものなんかも絶対無くならないからです。
 タマちゃんと相談の結果、毎日払いでも仕方ないということになりました。エンドーハウスに移るかどうか、また相談することになりました。今、エンドーハウスは、今まで住んでいた川井夫妻や佐々木さんがスーダンへ出発したので、人がいないのだそうです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ギカンブラ村ホームステイ」
2011/10/08
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(50)ギカンブラ村ホームステイ

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その6
 七時半におじさんが店をあけると、もう外にミルクを買いにきたお客がまっています。たいてい子どもがおつかいに使われます。しかし、ミルクはその日の牛の気分しだいで、たくさんあったり、少なかったりするので、10人に売れる日もあれば、3人に売っておしまいの時もあります。カンに入っているしぼりたての、まだ生あたたかい牛乳をジュースのあきびんに入れて売ります。700ccで15シル(450円)です。終わってしまうと、いともかんたんに「もう、おしまい」と言います。

 ケニアでは買い手の方が「ありがとう」と言い、売り手はいばっています。それは「まとめて買う資金のない者に、小売りしてくれてありがとう」という意味です。たばこを一本ずつ、薬を一錠ずつ売っているのです。大人が10円持ってきて「タバコ一本くれ」とか3円もってきて「飴ひとつ」とか買って行きます。
 ふつう、朝は紅茶だけですが、私だけのために玉子焼き作ってくれました。悪い気がしたけど、ひとりで食べました。おばさんはクリスチャンなので、必ず食事の前に長たらしいおいのりをします。午前中はずっと台所で食器を洗ったりバスケットをつくったりしていました。

 食器はなべ兼タライの中に水を入れてこちょこちょと洗い、もうひとつのなべでこちょこちょとゆすいでおわり。あんまり清潔ではないけれど、水のムダづかいができないのでがまんです。そうじと食器洗いは、ずっと私の仕事でした。ケニアではお客だからといってえんりょせずこき使います。

 バスケットは、単純な編み方なんだけど、初めは編み目のそろえ方がわからず、めちゃうちゃに力を入れたのでとても不細工でした。一週間かかって一つ作りました。たぶん日本のむしろの編み方と同じだと思います。

 午後、おばさんと畑へ行って、ボガという菜っ葉を摘み取りました。ケニアで野菜というと、この菜っ葉をさします。シクマウィキという菜っ葉の煮込みを作ります。あと野菜はジャガ芋と人参くらい。ねぎや玉ねぎは、細かく刻んで肉のニオイ消しに使うので、食べるときは影も形もありません。トマトも味付け用専門で、生でサラダにして食べるのは、西洋風レストランだけです。

 シクマウィキを作り手伝いをしたのですが、畑からとってきた菜っ葉を、手でうらおもてパタパタたたいて、土とアブラムシを落としたたあと、水にちょっとつけただけでザブとも洗わないで料理しちゃうのです。熱を通すからだいじょうぶとも思うけど、日本人はなんて清潔好きなんだろうと思います。みそぎの観念でも染みついているのか、水で清めるという考えが何事にも抜けないのですね。

 菜っ葉をきざむのもジャガ芋をきざむのも、まな板というものはありません。菜っ葉はまとめて握ってこそげるように細かく手のそばできざむし、ジャガ芋にんじんは、手の中で乱切りにします。私がやってみたら、さっそく親指を切りました。
 
 11時ごろお茶をまた飲んで、おひるは1時から2時の間です。シクマウィキとウガリを食べました。そしたら、タマちゃんがやってきました。カヒンディにバスの乗り方を聞いて、バスで来たんだそうです。
 何事かと思ったら、私たちがYWCAを追い出されかかっているのだそうです。私たちは9月28日に、10月1日から15日までの半月分を予約してもうお金も払ったのですが、急に「半月払いはできない。一ヶ月分まとめて払うか、毎日払うかのどちらかだ」と言い出したのだそうです。

 一ヶ月全部はいないから一ヶ月分だったら損をするし、毎日払いは、とても割高なのです。思うに、8月と9月は学生が言えに帰省していたので、YWCAもすいていて、私たちが泊まれたけれど、10月になって学生が学校に通うためナイロビに戻ってきたので、私たちがじゃまになったらしいです。確かに私たち通りがかりの旅行者より、一年間住んでいる学生の方に権利はあるのですが、それならお金を払うときに言ってくれればいいものを、今さらだめだと言い出すなんて。

 なぜYWCAがいいかというと、鍵付きのロッカーを確保して安全に荷物を保管できるし、せんたくものなんかも絶対無くならないからです。
 タマちゃんと相談の結果、毎日払いでも仕方ないということになりました。エンドーハウスに移るかどうか、また相談することになりました。今、エンドーハウスは、今まで住んでいた川井夫妻や佐々木さんがスーダンへ出発したので、人がいないのだそうです。

<つづく>
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2011年10月09日


ぽかぽか春庭「ギカンブラの村の生活」
2011/10/09
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(51)ギカンブラの村の生活

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その7
 (ンゲンドゥ家の下宿人の)学校の先生がやってきて、私とタマちゃんを学校に連れて行くと言い出しました。私は、ナマンガで学校を見たのでどちらでもよかったけど、おじさんとおばさんの手前、日本語で二人だけで話すのが気兼ねなので、散歩がてら出かけました。
 しかし、学校まで遠いし、この先生がひどいおしゃべりで、ひっきりなしに話しかけて私とタマちゃんの会話をじゃまします。ふつう、二人が日本語で話していれば他の人はだまってしまうのに、この先生はぜんぜん気にせず割り込んできます。

 おまけに、学校ではクラスをひとつひとつ回って、そのたびに同じ自己紹介をさせられ、英語とスワヒリ語で挨拶させられてうんざりしました。ナマンガでは先生が紹介してくれて挨拶なんかひとつもしなかったのに。
 そして「この人たちは私の友だちで、日本から来たんだ」なんて言われると、友だちになった覚えはない!と腹がたちました。帰り道は、この人をまったく無視して二人でしゃべったり歌ったりして帰りました。
 好意はわかるけれど、押しつけがましいのには嫌気がさします。

 夜は7時半に店をしめて、8時頃夕食。9時半には眠くなって10時には寝てしまいます。

 10月3日(水)。台所の手伝いのほか、バスケットを編みながら店の手伝いもしました。キクユ語を少し覚えて「ウレンダ、ケイ(何がほしいの)」「シガラ(たばこ)」「シガラ、ガニ、ニシェガナ(銘柄は何?いくらいるの)」「スポーツマン、イゲレ(スポーツマンを2本)」なんて調子で売りました。皆、めずらしがって、タバコを一本づつ3回も買いに来たりします。

 タバコ、飴、砂糖、塩、ジャガ芋、ウガリの粉なんかがよく売れて、次にせっけん、石油、薬なんかが売れます。飴ひとつ、砂糖250グラムなんて小売りをします。子どもがたいせつそうに3円にぎりしめて、あめ一つ買っていきます。
 困るのは、銘柄を言われて、わからないことです。朝、「グッドモーニング」と言うから、私も「グッドモーニング」と返事をしていたら、「グッドモーニング」という名の整髪ローションを買いにきた人だったりしました。 

 あと、おつりをよく間違えました。お客に、英語やスワヒリ語やキクユ語で値段を言うので、つい頭の中で「フィフティファイブ引くサーティシックスは、、、、」なんて数えると計算できないのです。日本人というのはよっぽど簡単な計算もできないと思われたことでしょう。
 ムゼーは、お客のひとりひとりに「日本からきたお客で、バスケットの作り方を習ってるんだ」なんて説明します。

<つづく> 
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2011年10月11日


ぽかぽか春庭「ギカンブラの村のボーイフレンド」
2011/10/11
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(52)ギカンブラの村のボーイフレンド

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その8
 (雑貨屋に)ジミーという手伝いの男の子がいますが、少しとろいらしく、お客にバカにされています。ムゼーも、私にはお金のやりとりをさせるのに、ジミーにはさせません。ジミーは重いものを運んだりするほかは、ポケーとひなたぼっこをしています。あとでこっそり聞いたら、給料は一ヶ月で30円とのこと。昼と夕食、二食付きですが、私がウガリと肉じゃがの煮込みを食べさせてもらっているときでも、ジミーはさつまいもだけの時もありました。

 いくら仕事ができないといっても、ちょっとかわいそうな気がするけど、本人は満足しているようです。家はどこか聞いたら、ずっと遠くで、バスで4時間もかかると言っていました。家にいても、きつい農作業をしても収穫は少なく食うや食わずだけど、ここにいればとにかく腹が減って困ることはない、ということだろうと思います。

 「ここの仕事が好きか」と聞くと、「とても好きだ」と言っていました。この家のとなりの炭置き場に壊れた車が置いてあって、その中で寝泊まりしているのです。まるっきりちぎれていて、布地の部分より肌が見える部分の方が多いシャツを着たきりに着ています。この次来るときは、おみやげにシャツをやりたいと思いました。

 籠作りに飽きたので、午後、散歩にでました。ギカンブラマーケットというのは、バス停とお店が広場を囲んで10軒くらいある町で、まわりは畑と農家です。
 ぶらぶら歩いて「ニアティア」「ネクエガモノ」と、キクユ語で挨拶しながら見て歩きました。昔ながらの土と草葺きの家は、少なくなってきていて、四角い家が主流をしめています。金のある家は、屋根をトタン葺きにして雨水をタンクに集められるようにしてあります。山羊、羊、鶏は自由に歩き回っています。子どもは例外なくボロを着て、私を見かけると集まってきます。道はすごいほこり。

 男の子が「ヤァ」と声をかけてきたので挨拶したら、家に寄れというので寄せてもらいました。お茶をだしてくれました。英語が話せるので、キクユ語をいくつか教えてもらいました。
 台所のまんなかに四角い石を三個並べた炉があって、薪を燃やします。とてもけむかった。食器は、このへんはだれの家もほうろうびきのコップと皿を使っています。

 男の子は、病院のボイラー係をしているとのことで、一人前にタバコをすったり「恋人は日本人の娘がいい」とか言うので、17,8歳にはなっているかと思ったけれど、あとで聞いたら、たった13歳というので驚きました。母親に会ったとき、とても若い母親なので、いくつか聞いたら、27歳だというので驚いて、じゃ、あんたはいくつ、と聞いたら13だというのです。母親が14歳の時に生んだ長男だそうです。しかし、父親は老人で、三人の妻のうち、はじめのは死んで、二番目のはインド人だったけど離婚して、今は彼の母親だけが妻だそうです。

 父親の家という昔ながらの丸い家の中も見せてくれました。蛇よけにモルモットを飼っていて、ヤギが家の中にいました。台所の中にはニワトリの小屋がありましたし、動物といっしょに住むのが平気なようです。ウサギ小屋を見せてくれました。何もお茶のお礼がないので、さんざんほこりの手や顔を拭いて真っ黒になっていたハンカチを出して「洗ったら使えると思うから」と、あげました。
 男の子は、フランシス・ジョロゲという名で、店まで送ってきてくれました。

 夕方は、また店の手伝いをしたりかごを編んだりしました。おばさんは朝からうさぎをつぶして私に肉をごちそうしてくれました。

<つづく>
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2011年10月12日


ぽかぽか春庭「ギカンブラ村の畑仕事」
2011/10/12
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(53)ギカンブラ村の畑仕事

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その8
 10月4日(木)。朝、仕事を終えたあと、畑に行きました。とうもろこしとさつまいもを取り入れました。ふたつの籠を持って帰るとき、おばさんは「私は年寄りだから」と、私に重い方をしょわせるのです。こういのは日本の感覚にはないことです。しかし、アフリカ式にひたいにヒモをかけて、背中に背負うと、そんなに重く感じません。それでも、家に帰ったら頭がへんに感じました。
(ケニアのカンガ(腰巻き)を着て、籠を背負っている自画像つき)

 夕飯前にとうもろこしを焼いてくれました。ナイロビで一本1シル(30円)で売っているのは固くて甘くないので、「一本全部食べられない」と、言ったのですが、食べて見たらやはり取り立ての味で、柔らかいし甘いので、全部食べてしまいました。

 困るのは、こちらのトイレです。ケニアのトイレは、落とし口がレンガ一枚分くらいの大きさしかないのです。ナマンガで経験済みでしたが、伝統とはいえ、どうしてこんな小さい口しか開いていないのかと思います。ハエをよけるためかもしれません。

 町の広場には、日曜と木曜に市が立ちます。近辺の農家のおばさんが、畑でとれたトマト、ジャガ芋、豆、サトウキビ、米なんかをムシロの上にひろげて売ります。売っている間も手をやすめず、かごやマフラーを編んでいます。おばさんと買い物に行って、トマトや名前を知らない芋を買いました。米を食べたいなあと思っていたら、夕食にごはんと肉じゃが煮込みが出ました。腹ぐあいがよくなかったのに、いっぱい食べました。

 10月5日(金)。午前中、野菜(ボガ)の畑で水まきの手伝い。午後、またタマちゃんがやってきました。日曜の朝、モンバサに行くので、私が日曜の夕方帰っても、行き違いになるからと、会いに来たのです。
 YWCAとの交渉の結果やらを知らせてくれました。7日から12日まではYWCAにいられるし、タマちゃんはモンバサから帰ったあと、4日間はいられるそうです。二人でまたフランシスの家を見にいったりしました。フランシスは、私にバナナの葉で入れ物を編んでくれると約束しました。

 10月6日(土)私のバスケット作りも、今日明日のうちに完成させなければならないので、精出して編みました。一日中店番と籠作りをして、少し疲れて,村暮らしもそろそろ飽きてきました。

 10月7日(日)午前中は、おばさんにつきあって、教会へ行きました。ナマンガのルスラン教会は、とても貧しいボロい教会だったけど、歌がすてきにハモって、楽しかった。しかし、このPCA教会というのは、建物は大きくてりっぱだけど、キクユ族は歌がへたな民族なのか、ぜんぜん歌わず、二曲だけ歌った歌も、ぜんぜんそろいもせず、ハモりもせず、ひどい歌でした。やたらに説教ばかり長くてたいくつしました。キクユ語の説教なんか聞いても、神のことを「ンガイ」というのしかわかりません。

 でも、おもしろいのは、献金のほか、現物も受け付けていて、セリ売りをして教会の資金にすることです。さっきまじめくさって説教を述べていた人が、「さあ、トマト、買ったかった。10シルでどうだ」なんて、セリ売り人になって、ヤギ一頭とかサトウキビ一束とか売っていました。教会前の広場にみんなのんびり座って、説教よりこちらが楽しみ、という感じで、セリの声をかけていました。

<つづく> 
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2011年10月14日


ぽかぽか春庭「アフリカの父さん母さん」
2011/10/14
春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(54)アフリカの父さん母さん

1979年10月08日付けアフリカ通信第15号その8
 午後、カヒィンディが、奥さんと子どもさんを車に乗せてきて、私を迎えにきました。カヒィンディの家に二度行ったので、奥さんや子どもと挨拶しました。畑へ行って、カヒィンディの家に持って帰るとうもろこしやサツマ芋を取り入れました。またかごを背負いました。
 こちらでは、5才でも2才の弟妹を背負うし、6才でも10kgの水を背負って運びます。大人の女は30kg40kgは平気で背負います。

 私の作ったバスケットに皮のへりと持ち手をつけました。店の前のくつ屋でつけさせたら、20シルでした。くつ屋のおっさん、タバコを一本ずつ何回も買いに来て、私をからかってしゃべるのを楽しんでいたくせに、高いことふんだくりました。20シルなら、ナイロビで籠ごと買えます。でもまあ、自分で作ったと言うところに価値があると思います。

 帰りにカヒィンディのうちに寄るように言われたけれど、疲れていたのでYWCAに帰りました。奥さんにも扇子をあげました。

10月8日(月)一日せんたくやら棚の整理。ロッカーのかぎを中に入れたまま棚の鍵をかけてしまって、困りました。台所のおじさんに頼んで毀してもらったのですが、そのまま付け直しに来ないので、参りました。

 本当は、今日からまたボーナスにまた通って、踊りを習うわけだったのですが、疲れていたので、さぼってしまいました。
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2011/10/14
 ギカンブラ村でのホームステイ、ほんとうによい経験をしたとなつかしく思います。
 30年経ち、今後、ケニアを再訪できたとして、ムゼーとママアンボイにはもう会えないかもしれません。
 世話になったカヒィンディは、日本にビジネス研修にきた経験を生かして、今ではケニアの電話会社でえらくなっているのではないかしら。小学生だったカヒィンディの家の子ども達も、今ではケニア社会の中堅として働いているでしょう。日本から来た娘と花火をして遊んだことなど、覚えているかしら。

 日本に来ている留学生達、日本の家庭にホームステイするのをほんとうに楽しみにしています。
 以下、5月に来日し、ひらがなカタカナの練習からはじめて2ヶ月半たったあたりで、日本の家庭にホームステイしたエチオピア人の感想文です。まちがいはたくさんありますが、ケニアに行って2ヶ月目の私は、スワヒリ語でギカンブラ村の感想文を書いたとしても、こんなふうに書けなかったと思います。
 漢字がまったく苦手だったエチオピア人留学生ファーさん、文集によせた作文は次のように、平仮名のみの文章です。誤用添削前の作文はこんなふう。
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 ホームビジット 
 にちよびは1じかんでホームビジットにいきました。おとさんはえきでもちました。それからバスでうちへこきました。うちはきれいとしずかとべんりです。ワインのプレゼントをあげました。おちやをのみました。おとさんとおかさんと3じかんはなしました。えいごをはなしました。おとうさんはだいがくせんせいです。おかさんはこうこうせんせいです。かぞくとともだちとしやしんをとりました。それからへへやにかえりました。ホームビジットはおもしろいです。
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 日本の中学生が3年間に学んでいる初級英語と同じ分量の初級日本語を5、6、7月のたった3ヶ月で詰め込みで学び、これだけ書けるようになったというだけでも、すごいと思います。
 家が広くないからとか、英語しゃべれないからと、ホストファミリーになることをためらう人もいるのですが、留学生たちは、日本の家庭に招かれること自体を楽しみにしているのですから、どうぞ、ふれあいの機会を与えてやってください。

 私にとって、32年たっても、ギカンブラ村のムゼーとママアンボイが「なつかしいアフリカのお父さんお母さん」であるように、きっと日本のお父さんとお母さんが留学生の心に残ると思います。
 ケニア通信は、まだまだ続きます。しばらく間をおいた後、再開します。

<つづく>
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2010/07/09

2010-07-09 07:02:00 | 日記
2010/07/09
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2010/07/03

2010-07-03 23:06:00 | 日記
2010/07/03
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