春庭パンセソバージュ

野生の思考パンセソバージュが春の庭で満開です。

20150417

2015-04-17 | 日記
20150417

ぽかぽか春庭「横浜鎌倉洋館めぐり」

2014-03-16 | インポート

| エッセイ、コラム



2014/03/02
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(1)外交官の家

 1月17日、横浜美術館の下村観山展を見に行きました。美術館に入る前に、「横浜洋館めぐり」を楽しみました。一日天気もよくて、冬の散歩もなかなか楽しいものでした。うれしいことに、横浜市は太っ腹。横浜市所有の西洋館は、すべて見学無料です。

 東京で、お金持ち私有のお屋敷見学には、入館料を払わねばなりません。例えば文京区音羽の音羽御殿、鳩山会館(元鳩山一郎邸)は、入場料金500円です。結婚式場運営などで儲けているのだし、去年亡くなったママは、政治家兄弟にポンと選挙資金おこずかい数億円をあげるくらいお金持ちです。実家の石橋家からの相続財産100億円。鳩山家からの相続150億円。ブリヂストン株の配当金だけでも年間3億。由紀夫邦夫への相続はどうなったのやら。見学料くらい無料にしたらいいのに。なんてぶつくさ言いながら、横浜へ。

 JR石川町駅のホームから、前方の高台に洋館が見えます。駅で洋館めぐりの地図がもらえます。(インターネットダウンロードもできます。)

 ホームからは近くに見えますが、あれだけの高台だとかなりの登りになるだろうからゆっくり歩くことにして、ゆるゆると坂道を上っていきました。

 横浜山手地区の高台には、イタリア山アメリカ山などの名がつけれれています。イタリア山には、「外交官の家」と「ブラフ18番館」があります。駅のホームから見えたのは、「外交官の家」でした。



 内田定槌(うちださだつち1865-1942)は、ブラジル移民事業などに力を尽くした明治・大正時代の外交官です。福岡県(豊前国)小倉に生まれ、帝大法科卒業後、外務省に勤務してブラジル公使トルコ大使などを歴任しました。
 親交があったJ・M・ガーディナーに私邸の設計を依頼して、1910(明治43)年に、渋谷区南平台に洋館が完成。アメリカン・ヴィクトリアン様式にアールヌーボーやアールデコなどの意匠をとりいれた家です。

外交官の家、南面


 最初の任地がニューヨークだった定槌と陽子夫人にとって、居心地のいい家となり、1924(大正13)に職を辞してから1942年に亡くなるまで住み続けました。
暖炉

 渋谷周辺が東京大空襲で焼けた際も運良く火災にあわなかったため、戦後は例によってGHQによって接収され、米軍将校の住まいに。
 米軍から返還後、内田定槌の孫、久子が相続しました。(久子は宮入進と結婚)
 老朽化した家を取り壊してマンションを建てる計画が進んでいたとき、建築史家の陣内秀信と出会い、横浜市への寄贈が実現しました。

 イタリア山への移築復元後、ガーディナー設計の個人住宅として重要文化財の指定を受けました。貴重な建物が壊されてしまわずに、ほんとうによかったです。陣内さんと宮入久子さんの出会いは偶然のこと。
 陣内さんが建物探訪散歩をしていたら、入り口でばったり家の持ち主と出あったのだそうです。建築史にとっては幸運な偶然の出会いでした。



ドアの模様もすてきです。 

 老朽化して住むには適さなくなっていた家でしたが、資料に基づいて新築当時そのままに復元されています。また、アーツ&クラフツの影響があったという家具調度品も復元展示されていて、ひととき「明治大正の外交官の生活」をしのびました。

階段室

駅のホームからみえる丸い部分の内側は、

明るい談話コーナーです。


<つづく>
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2014/03/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(2)ブラフ18番館

 ブラフ18番館は、外交官の家の横に移築復元されています。ブラフとは、「切り立った岬」という意味で、横浜山手が外人居留地だったころに、山手地区をブラフと呼んだことにちなむそうです。

 1923年の関東大震災で、居留地時代から横浜に住んできた西洋人の家は、ほとんどが倒壊、または火災で消失してしまいました。そんな中、山手町45番に住んでいたR.C・バウデンは、倒壊した材木の中から使用できるものを選んで、新しく家を建て直しました。バウデンはオーストラリア人貿易商として、活躍したそうですが、館が完成してまもなく母国へ帰ってしまいました。そのため、正確な竣工年や設計者施工者が誰であったかなどの記録が失われてしまっています。
 震災前の古い木材が再利用されていた、ということも、横浜市が復元のために行った解体作業の過程で判明したということでした。



 オーストラリアにバウデンの孫夫妻が住んでいて、このブラフ18番館に来訪したことがあるということなので、もしかしたらオーストラリアに、設計図などの記録が残されているのかもしれません。




  
食堂

 戦後は、現カトリック横浜司教区の所有となり、教会の司祭館として使われてきました。イタリア山に復元後は、「横浜外国人の暮らし」を再現する展示となっており、横浜に集まっていた「西洋家具職人」たちが制作した「横浜家具」のテーブルと椅子、箪笥などが室内に配置されています。
 復元された横浜家具

 赤い屋根に緑の窓。横浜に「異人さん」たちが住んで西洋の生活スタイルを見せていた頃、それを近隣で見ていた人にとって、どれほどの驚きであり、魅力的な光景に思えたことでしょうか。風に窓の白いカーテンがゆらめく。そんな光景を遠くから見ただけで、自分たちとは異質な世界に胸ときめいた人もいたのではないかと思います。

 世界は近くなり、飛行機に乗ればあっというまに世界中のどこにでも行ける時代になった現代ですが、「自分とは異なる世界へのあこがれ」を持ち、「どこかここではない場所」を夢見ることができた人たちは、それだけでもしあわせだったのではないかと思います。

<つづく>
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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(3)ベーリックホール

 イタリア山から山手本通りを歩き、代官坂上に出ると、横浜洋館の中で最大のベーリックホールがあります。イギリス人貿易商B.R.ベリック(1878生まれ)氏の邸宅として建てられたスパニッシュ様式の邸宅です。
 J.H.モーガン(Jay Hill Morgan 1873- 1937)の設計により、1930(昭和4)年に建築。

 ベリック氏は52歳から8年間この家に住みました。1938年にカナダに移住。
 戦後は、GHQ接収、米軍将校の住まいとなりました。米軍より返還後、遺族から1956年に宗教法人カトリック・マリア会に寄付されました。2000年までセント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使用されてきました。壁には寄宿舎時代の記念写真なども資料として飾られていました

玄関

 ベリック邸設計者のモーガンは、アメリカ出身の建築家。1920(大正9)年に来日して以来、横浜を中心に建築の仕事をつづけました。存続の危機にあるという横浜外人墓地の入口正門もモーガンの設計によります。モーガン自身もこの墓地の中に眠っています。

モーガン作の横浜外人墓地正門


夫人の寝室



浴室

 2001年横浜市が元町公園の拡張区域として土地を買収し、カトリック・マリア会から寄贈された建物は、横浜市が復元・改修工事を行いました。2002年から建物と庭園を公開、建物は、コンサートなどのイベント会場や結婚式場やなどとして使われています。

食堂

 私が見学したおりには、ピアノの演奏が行われていました。これから先のコンサートのリハーサルかと思って係員に尋ねたら、ピアノは弾かないでいると悪くなるので、定期的にボランティアが来て演奏をしているのだそうです。

天井の木組み。部屋の奥のピアノ、演奏中




 すてきな音色をバックに見学できて、洋館めぐりもいっそう気分良く、1階2階を見物してきました。

階段



 広い居間の北側に『パームルーム』と呼ばれる部屋があります。壁面に水が流れ落ちる壁泉があり、ライオンの口から水が出るようにしつらえてあります。

ライオンの壁泉

バームルーム


<つづく>
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2014/03/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)エリスマン邸


 エリスマン邸は、スイス人F・エリスマン(Fritz Errismann:1867~1940)の私邸として1926(大正15)年に建てられました。
 エリスマンは1967年、スイスチューリヒに生まれ、1888(明治21)年、21歳のとき来日。シルクタウンとして生糸貿易の拠点だった横浜の生糸貿易商社「シーベル・ヘグナー商会」横浜支配人格として働きました。
 1940(昭和15)年に亡くなり、山手の外国人墓地に埋葬されました。

 チェコ生まれの建築家アントニン・レイモンド(Antonin Raymond, 1888 - 1976)設計で、洋館と和館が併設されていました。和館は妻となった日本人女性が使用し、洋館はエリスマンの居間や客間として使用されていた、ということです。

 エリスマンが亡くなったあと、すぐに人手に渡ってしまったのか、40年間は家族が暮らしていたのか、調べていませんが、和館洋館の建っていた土地は1982(昭和57)年にマンション分譲会社の手に渡り、マンション建設が始められました。和館は解体。洋館は近隣の人々の保存運動によって、解体後すべての建築部材が横浜市に寄贈されました。



 1988(昭和63)年に、現在の地に移築復元されました。
 エリスマン邸は横浜市が「解体された洋館の部材」を使って復元建築を行った最初の建物で、その後、洋館移築復元が続き、横浜の新名所となっています。




 このことは、建物見物趣味の者にとってたいへんありがたいことなのですが、欲を言うなら。
 新築当時の資料を元に復元されているので、復元建築物はどこもぴっかぴかなのです。建物ファンは、100年前の建物は百年分古びたようすで目にしたいのが本音。移築復元とわかっていても、あまりに新築然としているより、ちょっとペンキなんぞ禿げていたほうが趣のある洋館ぽい気がするのです。勝手な思いであることはわかっているのですが。

 久しくだれも住んでいない、古びた洋館、というだけでなんだか物語ができそうです。古い和館と洋館が並びたち、和館には老婦人がひっそりと住んでいます。洋館はかって老婦人の夫が貿易商として活躍していたときのそのままにしておかれ、ときに婦人は足音もひそやかに夫の書斎、寝室をめぐります。かっては夫が招いた客とともに談笑し、ときにダンスに興じた居間。老婦人はそっとカーテンを腕にとらえてステップを踏んでみる。
 夫が亡くなってから、もう40年もの年月が過ぎ去った。やがてこの身も夫のもとへいくであろうけれど、ついに来るその日までは、夫の使ったタイプライターも、夫のパイプケースも、そのままにしておきたい、、、、

 なんてね。妄想しながら見学し、そっか、新築当時に復元されたとはいっても、それからすでに25年は経っているのだなあと計算してみる。法隆寺が建てられてから1300年経っているのに比べれば25年というのは、建物の寿命からいけばまだまだ若造なのだろうけれど。

<つづく>
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山手234番館

2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(4)えのき亭&山手234番館、山手資料館

 横浜山手地区の洋館めぐり。
 市の所管になっている建物のほかにも、横浜開港当時からのさまざまな建築物が市内各所にあります。1月17日は「個人の邸宅」を中心にめぐったのですが、
外観を見るだけで中に入る時間がなくてちょっと残念だったところがあります。

 えの木亭本店。
 1927(昭和2)年建設の洋館を利用したカフェレストランです。
 現在の所有者は、自宅用として1970年に買い取ったあと、1979年にスイーツ&カフェの店としてオープンしました。


 お店サイトの建物説明では、となりに建つ山手234番館と同じく朝香吉蔵の設計で、アメリカ人検事の家だったとのこと。



 山手234番館は、朝香吉蔵の設計により、1927年頃に建築された外国人向けのアパートメントハウスでした。戦後の米軍による接収を経て、1980年頃までアパートメントとして居住されてきました。1棟の建物の中が、右と左に1戸ずつ、上下1階と2階。計4戸の共同住宅でした。1989(平成1)年に横浜市が買収。1999(平成11)年から一般公開されています。現在は、市民サークル活動などに利用されているそうです。







 朝香吉蔵(1889 - 1947)は、1907(明治40)年、山形県立米沢工業学校建築家を卒業し、岐阜県富山県の営繕課、横須賀海軍などの勤務を経て1923(大正12)年に独立。作品は、この山手234番館、山手89番館(現・えの木亭)のほかは、知られていません。(求む情報!)

 外人墓地の手前に山手資料館があります。旧中澤兼吉邸です。


 中澤家は、兼吉の父親・中澤源蔵が始めた居留地外国人相手の牛乳販売が大成功して以来、資産家となりました。源蔵は、横浜市諏訪町11番地に、中澤牧場を開設しました。



 次男の兼吉は、父の始めた牧場から事業を拡大していきました。牛の繁殖業、食肉処理場をはじめ、牛肉保存のために冷凍工場(横浜冷凍の前身)、アメリカからホルスタイン種の乳牛の輸入し日本各地に転売し、三宅島酪農組合に協力して三宅島バターの生産をする、など食肉に関する事業のほか、それらの事業のための工場を建てることから、学校から橋梁までの建設工事と発展しました。

 1909(明治42)年、横浜市本郷町(本牧上台57番地)に広大な邸宅を建設。諏訪町の牧場が市街化によって動物飼育に適さなくなると、大正年間に牧場をやめ、1929(昭和4)年、諏訪町に邸宅を移築しました。
 戦後の中澤家は、不動産業を事業の核とし1975年に、山手に外人用マンション「山手ハウス」を建設。現在も中澤事務所は不動産管理業を主な事業にしています。

 1月17日の横浜散歩、帰り際に「クリーニング発祥の地」という記念碑を見ました。
 横浜は、江戸時代まで日本にはなかったさまざまな新事業が始められた町です。外人相手の洋裁店もクリーニング店も横浜からはじまり、外国人の食生活のために、食肉や牛乳、バターなどの生産も横浜の新事業となりました。中澤兼吉も外国人相手の事業を成功させた人物のひとりであったのです。

 1899(明治32)の条約改正によて、諏訪町を含む山手地区は外国人居留地ではなくなりましたが、多くの外国人が山手地区に住み続けました。

 山手資料館になっている建物は、兼吉が明治年間に地元の大工(戸部村在住)に建てさせた、いわゆる「擬洋風建築」のひとつです。大工の名などは記録も残されていないようです。(求む情報!)



 1月17日は、内部を見ることができませんでした。(美術館にまわる時間が迫っていたので)また横浜巡りをするときは、山手資料館のとなりの山手十番館でランチ、えの木亭でケーキ&お茶。優雅な一日を過ごしたいです。

 山手資料館の玄関に置かれていた飾りの乳母車。私が子供の頃自分も乗せられ、妹を乗せて押して歩いた我が家では「ゴーゴー」と呼んでいたのと形が同じようだったので、しばし郷愁にひたりました。うちのゴーゴーは上部の籠のところは籐を編み込んでありました。
 横浜居留地の幼児たちも、こんな乳母車に乗って山手あたりを散歩していたのでしょうか。
 

<つづく> 
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2014/03/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(6)山手111番館の蝶々さん

 山手111番館はJ.E.ラフィン (John Edward Laffin 1890-1971)邸として、1926(大正15)年)に建てられました。アメリカ人建築家、J.H.モーガンの設計で、ベーリックホールと同じく、スペイン風の外観です。



 ラフィン一家の物語、調べてわかったことを記録しておきます。
 J.E.ラフィンは、港湾関係の陸揚げ会社や両替商を経営する実業家でした。横浜で1890年12月29日に生まれて、1971年5月13日にカリフォルニア(グラナダ・ヒルズ)で死にました。シベリア生まれのマリアLVANOVA(1899 -1967年8月30日)と結婚。現在、山手111番館となっている邸宅は、結婚に際して、父トーマスMラフィンが息子に贈った家です。

 ジョン・E・ラフィンの父、トーマスMラフィン(トーマス・メルヴィン・ラフィン Thomas Melvin Laffin 1862-1931)は、アメリカの海軍士官として航行中、艦船修理のために横浜に寄港しました。修理の間、休暇を利用して行った箱根湯本で、運命の出会いが。
 ひと目で石井みよとの恋に落ち、日本に残ることを決意しました。

 トーマスは1886(明治19)年に日本郵船に入社し、その後独立して、ラフィン商会を設立しました。1990年に長男ジョン・エドワードが誕生し、みよとの間に8人の子女をもうけました。





 ジョンの8人の兄弟姉妹のうち、3歳下の妹のエセル・ラフィン・スティルウェル(Ethel Laffin Stillwell 1893年11月1日-1965年8月16日)は、Charles Stillwell と結婚してシアトルで暮らしました。晩年、未亡人となったエセルは、1952年に、生まれ故郷の横浜への帰国を果たし、横浜でなくなりました。

 もうひとりの妹、エレノア・ラフィン(Eleanor Laffin 1897-1944年6月26日)は、横浜で47歳でなくなっています。
 日米混血のため日本で暮らしにくくなったためと思われますが、エレノアは、太平洋戦争中、スイスのパスポートを取得しようとしました。しかし、それが果たされないうちに、横須賀発の電車に轢かれ、病院に運ばれて2時間後に亡くなったのです。自殺にも思えるのですが、調べはついていません。エレノア死去の知らせは、シアトルに住むエセルのもとに届きました。

 戦時中に電車事故で亡くなったエレノアの死は悲劇的でしたが、両親のトーマス・メルヴィン・ラフィンと石井みよの恋は、まさしく「蝶々夫人」のハッピーエンド版です。海軍士官だったトーマスが箱根湯本に遊山に出かけてみよに出会う。トーマスはたちまち恋に落ち、日本で暮らすことを決意。海軍を退職し、日本郵船に入社。仲睦まじく、8人の子供を育てた、、、、。

 テーブルや椅子は復元ものの横浜家具かと思いますが、ラフィン一家が仲良く囲んで食事をしたのかと想像される食堂


 オペラ『蝶々夫人』の原作短編小説を書いたジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long1861 - 1927)は、日本に滞在したことのある姉サラ・ジェーン・コレル((1848-1933)から日本の話を聞きました。サラは、夫の宣教師アーヴィン・ヘンリー・コレル(Dr.A・H・Correll 1851-1926)とともに東京、横浜、長崎で暮らし、布教と教育活動を行いました。ロングは姉から日本の話を聞いて1895年に短編小説として執筆しました。

 蝶々夫人のモデルには、シーボルト夫人滝やグラバー夫人ツルなどがあげられていますが、サラの日本滞在期間1891~1895を考えると、ジョンEラフィンが1890年に生まれた時期とぴったり合います。

 小説としては、涙の悲劇にしたほうが受けます。
 蝶々夫人は息子の将来に希望を託して自殺しますが、トーマスMラフィンと結ばれた石井みよは、幸福な「異人さんの妻」であったのでしょう。
 ただ、戦時下にアメリカ国籍であることに不安を感じたエレノアの死は、電車事故という痛ましいものだっただけに、物語の最後を悲しい色にしています。

 今、山手111番館は、J.H.モーガンが腕を振るったすてきな洋館として、私たちを迎えてくれます。港の見える丘公園に建つ白いスペイン風の洋館に、ラフィン一家はどんな風に暮らしていたのでしょうか。


 ジョン・E・ラフィンは1971年にカルフォルニアで亡くなったとのことですが、家族子孫は日本にいるのでしょうか。この次山手111番館を訪れることがあれば、もっとくわしい資料を探してみます。

 私は仕事があって行くことができませんが、3月11日には、日頃は非公開の2階までガイドが案内してくれるそうです。お近くの方、山手111番館に行って、2階がどうだったか、リポートしてくださいませ。く~、見たかったけれど、教科書編集の仕事が入っている日でした。

<つづく> 
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2014/03/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>横浜鎌倉洋館散歩(7)イギリス館

 1月17日の横浜洋館廻り散歩。
 朝からぐんぐんと歩いて、駅でもらった「横浜洋館めぐり地図」の順にめぐっていましたが、17日のメインは横浜美術館の下村観山展の観覧でした。2時間くらいは見ていたいから、6時閉館から逆算すると、みなとみらい駅には4時に戻らないと。もう残り時間は少ない。

 港のみえる丘公園に建つ、山手111番館とイギリス館は、大仏次郎記念館と神奈川近代文学館を見たときにいっしょに見学したので、今回はパスしようかなとも思いましたが、ささっと見てまわることにしました。



 イギリス館は、1969年(昭和44)からは横浜市の公共施設となり、1999年からは一般公開されています。
 1937(昭和12)年に、英国総領事公邸として建築。上海におかれていた大英帝国工部総署の設計です。ジョージ六世(GeorgeVI 『英国王のスピーチ』の王さま。エリザベスⅡの父)時代、大英帝国威光の最後のがんばりを見せたコロニアル建築でした。



 1931年(昭和3年)総領事公邸建設の7年前に、英国工務省の設計によって英国総領事館がたてられています。総領事館は、現在、横浜開港資料館旧館です。

 大英帝国として世界中を植民地にしたイギリス。最盛期には全世界の4分の1を領有するほどでした。20世紀のふたつの世界大戦第1次と第2次世界大戦の間、イギリスは世界でアメリカと並ぶ超大国として存在していました。 
 諸外国に駐在する大使や領事も、絶大な力を誇っており、大使館領事館も入念に建てられました。横浜の領事館、領事公邸は、上海にあった英国工務省が建築部材もすべて上海から船で運び建てたということです。



 イギリスは相手国の「格」によって、大使館領事館の建物に露骨な差をつけることで、赴任する大使や領事への「待遇の違い」を表すことが多かったそうで、1923年に日英同盟が失効したとはいえ、当時はアジア圏最大の独立国であった日本の領事館は、イギリスにとって重要拠点とみなされていたことが、領事館、領事公邸からもうかがえる、とのことです。

 他の国の領事館がどのような建物だったのか資料を見たことないので、「へぇそうかあ」としか思わずに、デザイン的にはすっきりしているイギリス領事邸を見てきました。
 コロニアル様式というのがどのへんにあらわれているのか、建築史的なことはわからないのですが、ひとつはっきりわかるのは、領事やゲストが出入りする玄関や客間からは、使用人が出入りする裏口や裏口からの通り道は見えないように工夫されていることです。「身分の差」ということを出入り口ひとつとっても身にしみて出入りするように使用人をしつけていたのでしょう。



 イギリスは今も王室とともに爵位制度を維持し、国民に身分差をつけています。国の制度はそれぞれの国民が選べばよいことですが、私は国民はすべて平等であるべきだと信じています。出自で差をつけるのは好みません。その点個人の功績によってナイト(Knight)の称号を与え、「サー&デイム」を名乗るのは、まあ、日本の文化勲章みたいなものかなと思います。
 日本人では、イギリス外交官のパートナーとして活躍するピアニストの内田光子さんがデイムの称号を与えられています。

 私が近代建築の洋館を見て歩いて、考えることのひとつに「近代国民国家成立と民衆の目にうつる洋館の記号学」ということがあります。だいぶややこしい考え事です。まとまるとは思えませんが、考えていきます。

 3月8日のマレーシアの飛行機事故。一番先に報道されたのは「乗客名簿に日本人の名前なし」でした。中国へ向かう飛行機で、大半の乗客は中国国籍。事故の続報は、テレビでも少なくなりました。たぶん、この飛行機事故のことを来年の3月8日に思い出す人もごくわずかだろうと思います。

 2011年3月11日に亡くなった人たちのことを思っています。まだ行方不明のままの方もいらっしゃる。1945年3月10日に東京大空襲で亡くなった人々のこと、70年がすぎても、私は追悼の黙祷をささげます。
 乗客乗員239人の人が亡くなった飛行機事故は、わずか2日で新聞にも報じられなくなり、3年前の津波地震で亡くなった2万人と、70年前の空襲で亡くなった10万人は忘れない。と、したら、この差は「同胞であるかないか」であり、この「同胞意識」の形成過程について、私は興味があるのです。

 「故郷に住めなくなった人たちは気の毒だけれど、わが町に原発除染のゴミや震災ガレキを持ち込むのは大反対」というときの同胞意識と、新大久保ヘイトスピーチや、「まおちゃんが金取れなかったのに、キムヨナが銀は憎ったらしくてたまらない」と発言した知り合いの男性とか。

 同胞意識ってなんだろうとか、国民国家形成時の民衆意識とか、最小社会単位としての家族が共に生きる場所としての住居とか。洋館めぐりながらぐるぐるととりとめもなく、考え続けています。

 むろん、散歩しながら「洋館、すてきな照明器具だなあ、きれいなステンドグラスの窓だなあ、面白い形の屋根だったなあ」と思いつつも、「さて、それはそれとして明日のコメ買う金がない」というのが、一番の関心事だったりしますが。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2014年2月 目次」

2014-03-16 | インポート

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2014年2月 目次

02/01 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>早春賦-春の言葉集め(1)春隣の御所車
02/02 早春賦-春の言葉集め(2)アルプスの乙女とピンクレディ
02/04 早春賦-春の言葉集め(3)光の春と霾ふる日

02/05 ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(12)旧前田侯爵家駒場本邸
02/06 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(13)ワイン王・神谷傳兵衛稲毛別荘
02/08 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(14)旧福本邸、江戸東京博物館
02/09 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)
02/11 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について
02/13 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸
02/15 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(19)番外・スタジオジブリ社屋

02/16 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(1)天の祭・銀盤に咲く花
02/18 十四事日記2月光の春(2)私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず
02/18 十四事日記2月光の春(3)東京の大雪
02/20 十四事日記2月光の春(4)ハッピーバースデイ89回目
02/22 十四事日記2月光の春(5)如月の空
02/23 十四事日記2月光の春(6)東京駅オフ会ビジョ×2
02/25 十四事日記2月光の春(7)恐竜展2014in科博
02/26 十四事日記2月光の春(8)学習院地学標本室見学
02/27 十四事日記2月光の春(9)学習院散歩

ぽかぽか春庭「十四事日記2月光の春」

2014-03-16 | インポート

2014/02/16
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(1)天の祭・銀盤に咲く花

 「雪」   堀口大學
雪はふる! 雪はふる!
見よかし、天の祭なり!

空なる神の殿堂に 冬の祭ぞ酣(たけなわ)なる!
たえまなく雪はふる、をどれかし、鶫等(つぐみら)よ!
うたへかし、鵯等(ひよどりら)!ふる雪の白さの中にて!

いと聖(きよ)く雪はふる、
沈黙の中(うち)に散る花瓣(くわべん)!
雪はしとやかに 踊りつつ地上に来(きた)る。

雪はふる! 雪はふる!
白き翼の聖天使!

われ等が庭に身のまはりに ささやき歌ひ雪はふる!
ふり来(く)るは恵(めぐみ)の麺麭(パン)なり!小さく白き雪の足!

地上にも屋根の上にも いと白く雪はふる。

冬の花瓣の雪はふる!
地上の子等の祭なり!


 東京に「冬の花弁」の雪が降る中、ソチでは見事、金色の花が咲きました。羽生選手、堀口大學がうたう「白き翼の聖天使」のようでした。

 2月15日午前1時から4時まで、テレビ観戦。東京しんしんと雪。
 羽生結弦選手の金メダル、すばらしかったです。町田選手5位高橋選手6位入賞も立派な成績だと思います。特に高橋大輔は、右膝に故障を抱えての挑戦でした。完全に怪我を治してからの演技を披露したかったことでしょう。

 フィギュアスケートは、昨年9月のグランプリシリーズ開始から、放映された全試合全選手の演技をすべて見て、徹底応援。娘と息子は、テレビにはなかなか演技を写してもらえない世界の選手までよく知っています。私は昨年末の日本選手権をさいたまスーパーアリーナで観戦できたので、出場選手表をもらって、30位くらいまでの選手の名を知りましたが、世界ランキング30位は誰?と聞かれてもわかりません。世界フィギュア男子の30位あたりというと、なかなかテレビで演技を放送してくれないからです。

 私はこれまでテレビでも見たことがなかったのですが、今回のソチオリンピックでがぜん注目したのが、ミーシャ・ジー(Misha Ge、ウズベキスタン)です。合計203.26点で17位と、検討しました。派手な衣装とボイス入りの音楽(これまでの試合ではマイナス1点となっていたけれど、今回のソチでは歌詞ボイスではないと判断され、マイナスはなし)を使った自身の振り付けによる個性的な演技がとても目立ちました。

 中国韓国の血も混ざっているロシア生まれですが、現在はウズベキスタン選手として登録されています。ソチでは黒髪を紫がかった赤に染めて登場。「オリンピックは競技なのだから、派手なことがやりたければ、アイスショウでやったらいい」という批判もあるそうですが、私は、ジーの個性、いいなあと思います。真面目に技術を磨く個性があってもいいし、ジーのように「減点されてもかまわないから、ボイス入りの曲が気に入ったのだから、それを使う」という個性も好き。

 私は、演技全体の雰囲気や美しさを楽しむ、芸術点本位に見るだけなので、ジーの派手な演技、おもしろいと思いましたが、スケートを競技として見る娘と息子は、技術点などをチェックし、「あ~あ、ここがアンダーローテーション取られなくて、クリアに着氷できていれば3点UPして、メダルに届いていたのに」なんぞと評しながら見ています。私にはサルコーやルッツなどの種類の別も定かではないけれど、回転に入る構えの姿勢だけで、どの種類を飛ぼうとしているのか、わかる娘と息子に技術面のことを教わりながら応援しています。

 今回一番残念な人は、「のぶなりっていたフェルナンデス」だって。フェルナンデスは、演技構成を変えて4回転を回避したのに、同じ3回転サルコーを2度飛んでしまったために、最後の回転は0点になりました。そのため、3位のデニス・テンには1.18点及ばず4位。
 同じジャンプを跳んでしまうミスは、かって織田信成がよくやったので、我が家ではこのミスのことを「のぶなる」と呼んでいるのです。

 悔いの残る人、力を出し切って自己ベストを更新し大喜びしている選手、それぞれの思いはあるでしょうが、それぞれが自分の色の花を咲かせてほしい。女子フィギュアも応援します。徹夜で。

<つづく>

2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(2)私の好きなタレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず

 41歳の葛西選手、ジャンプ銀メダル、すごい!
 7度目のオリンピックというだけでもすごいと思っていたのですが、銀メダル獲得とは、ほんとうにすばらしい。「次は金を狙う」という葛西選手のコメント、何もしないうちに「もう年だし」と諦めている私にカツを入れてくれました。

 とは、言っても、明日からがんばりますから、今日のところは、だらっとタレていたいと思います。
 だらっとタレているパンダも好きなんです。

上野動物園のパンダ。↓のたれているパンダ、メスのシンシンだったかオスのリーリーだったか、忘れてしまいました。上野動物園、美術館散歩のついでにふらっと立ち寄ります。美術館入館割引の「ぐるっとパス」に上野動物園の入場券も含まれているので、どうせならチケットを使わないと損、といういじましい精神で、ひとり動物園見物をよくするのです。

 美術館を見終わって、まだちょっと時間がある、というとき閉館間際の動物園に飛び込みます。閉館間近に寄ると、人気のパンダ舎にも行列はいなくなって、ゆっくり見ていられます。


 ウェブ友くちかずこさんの作品、シャドウボックスの「タレパンダ・春眠に限らず暁を覚えず」です。
 

 春庭も春眠に限らず、「毎日が暁を覚えず」のタレHAL生活ですけれど、でも、パンダのタレぐあいを見ていると、うん、こんなふうにタレているのもまた良きかな、と、安心気分。
 伝説のジャンプの鉄人「レジェンド・カサイ」もすごいけれど、私はやっぱり春眠に限らず暁を覚えない生活が似合っているかな?

 16日日曜日は、くちかずこさんとのOff会、楽しい一日を過ごしました。三菱一号館でのオフ会報告はまたのちほど。
 シャドウボックス教室の先生でもあるくちかずこさんの傑作の数々はブログ「しろつめ楚々くちかずこ姫のお部屋」でも拝見してきたのですが、そのうちのひとつをいただきました。感謝!みていると心なごんでくる作品です。

 春庭ヘタレ生活、女子フィギュアも生中継応援するし、当分「暁まで眠らずテレビ応援」の日々が続きます。

<つづく>

| エッセイ、コラム



2014/02/18
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(3)東京の大雪

 2月毎週毎週、雪が降り14日15日は記録的な大雪。被害も相次ぎました。
 まだ2月8日土曜日の大雪では、久しぶりの大雪に、足元を心配しつつもみなが雪に浮かれている気分もありました。



 私も、10日朝、キャンパスの中の芝生の上、まだ足跡のついていないあたりを踏みしめて足跡をつけながら歩いてみました。凍った道だと危なくて歩くにも慎重にしんちょうにとなりますが、芝生の上の雪なら転んでも骨折にまで至らないだろうと思っての浮かれ歩き、長靴ではなくいつものウォーキング用スニーカーだったので、足が濡れました。でも、楽しかったです。雪合戦に興じた子供時代も、息子娘に小さな雪うさぎを作ってあげた子育て時代も遠くになりましたが、雪がうれしい気持ちがはまだまだ残っています。

 8日の雪には、まだ「大はしゃぎ」の気分だったのですが、14日金曜日から15日の朝にかけての大雪には、もはや「降り振りすぎだよ」という気分。

 線路も雪におおわれて


 雪国の人は「この程度で首都機能がマヒするなんて、弱っちい」とおもうでしょうが、ほんとうに雪が降るとすぐに高速は渋滞、新幹線は止まる。
 雪でブレーキがきかず、東急線で電車追突事故。湿った雪の重みで体育館の屋根が崩落するという事故も起きました。

 15日、町内ひとめぐり。町内の雪かき状況はというと。お店や一戸建て住宅の前は、みなが雪かきに励んでいました。「あの家の前の雪かきがしてなかったから、ころんで大怪我をした」なんてご近所のうわさになるといやだから、みなせっせと雪をどけていました。しかし、マンション裏とか、だれがこの雪の責任を負うのかというのがはっきりしていない道では、だれも雪かきなどしていない。都会というのはそんなもんだろうと思います。

 都会の雪をみながら、中原中也の詩を一篇。「汚れっちまった悲しみに」   

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の皮裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる


東京都下のキャンパスに残った雪


<つづく>
エッセイ、コラム


2014/02/20
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(4)ハッピーバースデイ89回目

 2月4日節分の日は、姑の89歳誕生日を祝ってお食事会。姑の誕生日は7日なのですが、7日は私が仕事に出る日なので、4日に前倒し。ランチを食べてお祝いしました。
 姑希望の駅前フレンチの店へ。姑があまり和食好きでないのを知っていて、これまでお祝いごとには中華の店を選ぶことが多かったのですが、一度駅前フレンチの小さな店に入ったら、すっかり気に入ってしまい、「お誕生日もあそこがいい」というので、食べに行きました。2階の店へ入るのに、エレベーターがなく、足元が弱っている姑を連れて上がるのが一苦労ですが、娘息子が介護して席につきました。

 誕生日プレートに「Happy biruthday ゆきこさん」とチョコで書いてもらいました。メインは各自好きなものを頼むというコースで、デザートのピスタチオクリームのロールケーキもおいしかったです。

前菜

ポタージュ
姑のメインはお肉、私のメインは魚
デザート

 2月11日、夕方姑の家へ。3時ごろまで姑とすごした夫とすれ違い交代。大根人参こんにゃくの煮物と、ブロッコリーとトマトのサラダを作って帰る。私が行けるのは休日しかないけれど、姑は病院通い歯医者通いをしながらも、一人暮らしを続けています。
 寒いさむいと言って、雪だるまのように着膨れしている姑。エアコンやガスストーブは嫌いで、一番好きな暖房は昔ながらのこたつ。年をとればとるほど、新しいものは受け付けなくなっていて、昔風の生き方を続けたがります。
 「こたつで昼寝」が一日のうちの一番大きな仕事です。

 料理はすきじゃないHALですが、2月18日には豚肉の煮物を作りました。「冷蔵庫の中のタッパにまだ入っていますから明日も食べてね」と、いうのですが、姑は、冷蔵庫の中に入っていることを忘れてしまうこともあるのです。

 少量の服でも一日に2回も3回も洗濯機を回すのですが、どうしても昔ながらの手動二層式洗濯機を使い続けたいと言うのです。「全自動に変えたほうが水が節約できるから」という意見を受け入れません。そして、すすぎ水を流していることを忘れてしまうので、一晩中、水を流しっぱなしにして、水道代が一ヶ月に4万円とか5万円になって、一昨年の夏以来、全自動洗濯機の数台買えるくらいの水の無駄遣いをしています。

 それでも「死ぬ前には食欲が衰えるって聞いたけれど、私、すぐおなかがすいていくらでも食べられるから、まだ死なないわね」といいながら、豚肉の煮物で夕食を食べたあと、夫が来たら「いっしょに焼きおにぎり食べよう」と言って、もういちど夕御飯を食べていました。まあ、息子といっしょに食べたいのでしょうけれど。

 娘がいうには、「毎回病院の行き帰りに付き添って介護しているのは私なのに、おばあちゃんはお父さんが一番かわいいみたい。お父さん、薬の管理をするだけで、あとはなんにもしてくれないのに。世の年寄りって、子供よりも孫をベタ可愛がりするって聞くのに、うちのおばあちゃんは、孫を猫可愛がりするってことがなかったね」

 足が弱ってからは、習いに通っていた書道教室も童謡を歌う会も詩吟もみなやめてしまって、病院通いとデイサービスの体操教室のほかは出歩かなくなってしまいました。ああ、年寄りはこうやってひとつずつ社会との接点を失っていくのかと、これからの老いの行くすえの参考になりますが、洗濯機のこともそうですが、いっさい新しい物、新しい考え方を受け付けなくなってくるようすを見ていると、年を取るって寂しいことだなあという気になります。

 70歳からスキューバダイビングをはじめたレニ・リーフェンシュタールとか90歳から詩を書き始めた柴田トヨさんはやはり例外なのでしょうか。
 私は、毎年何かしら新しいことに挑戦していきたいと今は思っているのですが、心身気力衰えればそうも言っていられなくなるのかも。少なくとも、89歳の姑が、最後まで「私は、家族に恵まれて幸せだ」と言うのを聞いていたいと思います。

<つづく>
2014/02/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(5)如月の空

 国立大学の授業も全部終わったけれど、日本語教科書改訂作業が残っています。中国で使用する中国語版の日本語初級教科書と、日本で使う「アカデミックジャパニーズ」というのと、2冊同時進行なので、ちょっときつい。仕事がきつい日程でも遊び回りたいし、テレビは見たいし。

 フィギュア女子の応援をしながら、教科書を執筆し、その下書きをまおちゃんのショートが終わった4時半にメール添付で送ったら、「徹夜で仕事なさったのですか、すみません」という返信をもらいました。こちらこそ、フィギュアの合間の日本語教科書で、すみません。

 まおちゃん、フリーの最後まで、せいいっぱい応援しました。バンクーバー以来、浅田選手がどれほどの努力を重ねてきたかを4年間ずっと見続けたファンとしては、「あの子は大事なところで必ずころぶ」なんてことを言う、アホ元首相の首を絞めてやりたい。選手の心を汲み取れない人にオリンピックに関わってほしくない。

 ジュニア選手の時代からずっと見てきた浅田真央選手。まおちゃんの努力する姿から、たくさんのすばらしい宝物をいただきました。21日午前のまおちゃんのフリーの演技、終了して娘も息子も涙ぐんで、自己ベストの演技をたたえました。ありがとう、まおちゃん。これからも応援するよ。

如月のロシアの空に燃える火を飛べ跳べ翔べと祈りつつ見る(春庭)

 ソチオリンピックの月。我が家、メインはフィギュアスケートですが、娘息子はジャンプもスキーもスノボも複合も全部応援しています。
 深夜、息子娘といっしょになって開会式前のフィギュアスケート団体戦の応援からはじまり、開会式もリアルタイムで全部みました。3時までテレビ見ていて、5時には起きて6時半には家を出て仕事へ、そりゃ一日中眠いはずですよね。午前中の授業を終え、午後、学生が提出した宿題のチェックをしながら居眠りしてました。何やってんだか。ま、授業はなんとか終わったし。

 19日は、竹内智香選手のスノーボードパラレル大回転を応援。見事銀メダルを獲得。ジャンプ団体銅メダル、スキーフリースタイルハーフパイプで小野塚選手銅、など、つぎつぎにメダリスト誕生。みなよくがんばっていると思います。

 フィギュア団体はよく健闘して5位。高橋成美木原龍一組、ペア結成1年でよくここまで成長できたと思います。ジャンプの高梨沙羅選手は惜しくも4位、スケートボードハーフパイプの平野歩夢選手銀メダル平岡卓選手が銅メダルなど若い選手が活躍していて、テレビ観戦に力が入りました。カーリングも5位。よい試合でした。

 メダルに届かなかった選手もそれぞれに健闘してきたのです。それぞれの努力に対し、敬意を表し、選手をせいいっぱいたたえたいと思います。

 国民をあきれさせて首相をやめた過去を持つあの方、今後も失言を繰り返すであろうことは想像にかたくない。国際社会で恥をかかないうちにオリンピック委員長なんぞはやめてもらいたい。

<つづく>
2014/02/23
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(6)東京駅オフ会ビジョ×2

 私のサイト、そもそも読んでくださる方はごく限られた人たちですし、みなそれぞれの事情を抱えているので、なかなか「オフ会」という機会もなかったのですが、くちかずこさんとのオフ会が実現しました。
 くちかずこさんの娘さんも長男さん次男さんも東京方面にいらっしゃるので、何かと東京に出てくる機会が多くなったとブログでは在京日記を拝見していましたので、次に上京なさる折、お目に掛かりたいと思っていたら、「思っていれば願いはかなう」です。

 しかし、ちょっとためらいもありました。日頃知ったかぶりで書き散らしていても、実際に会ってみれば、私の浅薄非才パープリンはたちまちバレるので、会ってのち「なんて馬鹿なやつだ」と思われたらどうしようと。おまけにこの体型このご面相。美女と出会うには勇気がいります。

 くちかずこさんのお顔は、ご自身の写真も娘さんとのツーショットだったり、ご主人とのラブラブ写真だったり、西の美女ここにあり、と知っていました。私は「夜目遠目」の写真公開しかしていないので、私がくちかずこさんを見つけるという約束だったのですが、東京駅のホームでもたもたしているうち、「春庭さ~ん」と、声をかけていただきました。

 そして、会ってみれば、たちまち十年来の知己のごとし。
 30年も隣に住んでいるおとなりさん、未だに趣味など知らぬ朝夕の挨拶するだけのおつきあいという団地に住んでいるので、私にとっては、ブログを通じて家族の事情から趣味、どこに旅行に行ったか、何を食べたかまで、逐一知っているブログ友達のほうが、親しいトモであるのです。

 いっしょに2012年に復元成った東京駅の見物をしました。
丸の内南口側


 1914(大正3)年、辰野金吾設計の東京駅、今年は「東京の顔」の駅舎ができてから百年目。1945年5月の戦災で焼け落ちた部分を不完全な形で再建して、戦後60年以上そのまま利用されてきました。GHQ命令による応急処置的な再建だったということですが、60年もそのままになったとは。
 2012年の秋に、ようやくもとの形への復元が完成しました。復元といっても、免震構造などをとりいれた新しい工法で工事され、地震に強くなりました。復元なった左右対称のドームを持つ姿は、とても美しいです。

 外観は復元工事中から何度か見て、完成を楽しみにしていました。完成後も何度か外観とドームは見てきました。
 ドーム下を通過して丸の内側へ出るとき、ドーム2階の回廊を歩いている人がいるのに気づいていました。今回はステーションギャラリーから入って、この回廊を歩いたのです。

北口ドーム


 天井ホールには、、辰野金吾が十二支ののレリーフを装飾しているのですが、そのうち、10の動物だけがある、というので、4つ不足している動物は何なだろうと、ぐるりと見上げながら探索しました。遠目なのでよくわかりませんでした。
 テレビの番組、『東京駅百年の謎ー近代建築の父辰野金吾』というドキュメンタリーで菊川怜たちが謎を解いていました。クイズの答えは、次回、東京駅を訪問するとき探してみます。

北口ドームの天井を真下から見上げる


 東京駅丸の内側北口にあるステーションギャラリーの中に、初めて入りました。
 北口ドームを見下ろすことができるギャラリーです。





 ブリティッシュカウンシルの所蔵現代美術展をやっていたのですが、現代美術はささっと見て、今回のウォッチングは復元駅ビルをしげしげと眺めること。レンガの壁や階段室などを見て歩きました。

ステーションギャラリー開設時にあつらえたという照明

レンガの壁




階段室

 東京駅ウォッチングの次は、コンドル設計の三菱一号館。



まずは、ランチ。入店してから席に着くまで30分待ちましたが、ちょうどいいおしゃべりタイムになりました。家族のこと、趣味のこと、いろいろお話していただきました。春庭も、ブログでは書けない上司の悪口なども遠慮なく。

 三菱一号館、こちらも東京駅と同じく、復元です。保存しておいた昔の建材をそっくり同じように造り、昔の設計図の通りに復元した、という記録、前回三菱一号館を見学した時に資料室のビデオで見ました。

 今回は、「ザ・ビューティフル」と名付けられた英国唯美主義の画家たちの作品展。美女ビジョふたりにふさわしい展覧会でした!!

「ザビューティフル」ポスターになっている目玉の絵。アルハ?ート・ムーア 《真夏》 1887年



 くちかずこさんからのいただきもの。もみじまんじゅう、おいしゅうございました。私のほかに食べたのは、姑と、去年の教え子留学生とその両親。半年だけで帰国したのですが、チェコから両親を連れて日本を再訪し、姑宅で会いました。 


<つづく>
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2014/02/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(7)恐竜展2014in科博

 東京では、毎年何らかの恐竜展が開催されます。幕張メッセが会場だったり、科学博物館だったりしますが、週末にはちびっこよい子の恐竜ファンが押し寄せて、どの恐竜博も大賑わいになります。こんなに恐竜大好きな子供がいる国ってほかにもあるのかしら、って思います。

 今回の東京科博の「大恐竜展」。行こうかやめておこうかギリギリまで迷っていましたが、ついに会期終了前日になって「うん、やっぱり見ておこう」ということになりました。迷っていた原因は、招待券が手に入らず、大人1500円の入場料金は高いなあと感じていたからです。

 娘と息子は、小学生のころから毎年「化石掘りツアー」に参加して、貝化石などを掘り出す体験をしてきました。それも「いつか恐竜の化石を掘りに行きたい」というのが娘の夢だったからです。娘は地学や古生物学を専攻したいところなのに、物理や化学が苦手で入試突破は無理とわかって、自然地理学専攻に変え「神津島の黒曜石分布」調査を卒論にしました。地理学にも地学にも縁遠くなった今も、恐竜大好きは変わりありません。

 今年の科博恐竜博は、「大恐竜展-ゴビ砂漠の驚異」というタイトルです。世界の恐竜発掘史の中でも、保存状態のいい、価値ある化石がつぎつぎに見つかったモンゴルのゴビ砂漠での発掘成果を中心に展示されていました。



 ゴビ砂漠の発掘成果を最初に世界にアピールしたのは、アメリカのアンドリュース調査隊です。アンドリュースたちは、1922年から1930年にかけてゴビ漠を探索し、砂漠の岩と砂の中から、数々の恐竜化石や恐竜の卵化石を発掘しました。
 ロイ・チャップマン・アンドリュース(Roy Chapman Andrews、1884 - 1960)は、インディ・ジョーンズのモデルの一人として知られた、アメリカ自然史博物館の館長だった古生物学者です。
 今回の恐竜博の一番最初の展示は、アンドリュースの使用した「探検用品」でした。

 アンドリュースのあと、モンゴルの地質学者、日本の古生物学者、さまざまな調査隊が砂漠に入り、貴重な発見を続けました。
 他種の巣穴に入って卵を盗んでいた、として「卵どろぼう=オビラプトル」と名付けられてしまった恐竜、実は自分の巣穴で自分の卵を温めていたのだ、などの新発見も相次ぎ、恐竜ファンにとっては、目が離せないゴビ砂漠。

 大型植物食恐竜「サウロロフス」の全身骨格、アジア最大の肉食恐竜「タルボサウルス」全身骨格と、タルボサウルスの子どもの頭骨など、「本物!」がずらりと展示されています。
 レプリカが少なくて、90%が実物化石、というのが、今回の展示のウリになっているのですが、ガラスケースの中の実物を眺める感激もいいけれど、レプリカによってもっと身近に「わあ、でかい!」というのを実感させるのも、子供にとってはいいんじゃないかしら。
 私、子供が見学する展示を別仕立てにして、レプリカ展示でいいから、子供がさわれるようにしてほしい、という意見です。「恐竜の化石にさわろう」というコーナーもあったのですが、子供コーナーに全身骨格のレプリカを展示し、触らせてやったらいいと思うのです。



 大人の恐竜ファンにとって、学術的に有意義なのは、ホロタイプの展示です。発見された新しい化石がどの種に属するのか、ということを決定する基となる「ホロタイプ標本」が約10点展示されていました。
 どこかで新しい化石の骨が見つかったとき、このホロタイプと比較することで、これまでに見つかった種に属するのか、それともそれらとは別の新しい種類の恐竜であるのかがわかるのだそうです。

 以前読んでおもしろかった巽孝之『恐竜のアメリカ』。
 なぜ恐竜に惹かれるのか。『ジュラシックパーク』など、恐竜が登場する作品がつぎつぎに生み出されてくるのはなぜか、ということを考察していました。
 巽の考察では「かつて地球を席巻した巨大生物を圧倒したのは人類である。人類は、自分の生存圏を拡大して現在の繁栄に至った、というアメリカの「We are the champions」的な開拓者精神、征服者的冒険精神の延長上に、アメリカにおける恐竜人気がある、としています。

 私は、日本の恐竜人気は巽の考えとは異なる面もあるのではないか、と思うことがあります。
 圧倒的な自然の力を確認する喜び、みたいな。草木虫魚に魂が宿り山川草木が神である日本の自然であるならば、恐竜は人間にとって圧倒的な自然力の象徴とも受け取れるのではないか。6000万年まで大繁栄を謳歌していた恐竜がいっせいに滅んだ原因が、たった1個の「地球に激突した巨大隕石」であるのなら、人類の力なんてほんとうにちっぽけなもの。そもそも人間が地球の王者のような顔をするのさえおこがましい。
 もっともっと謙虚に、地球の自然を畏敬し、地球の片隅で生かしてもらうために、恐竜の巨大な姿をながめて、「わあ、大きい」と感嘆することが、我々に必要なのです。

 今、思いついたのですが。
 正月に獅子舞を見たあと、獅子の口で噛んでもらう風習があります。人の邪気を払い、ご利益を得るという意味があるという。わあわあ泣き叫ぶ幼い子供を獅子の前に押し出して、獅子の大きなくちで噛んでもらい「獅子の強さを注入してもらったこの子は、今年1年丈夫に育つ」と考える、あの信仰。あれって、私が「巨大な恐竜の前で人間の小ささを確認する」というのと通じているなあと思うのです。

 恐竜が滅んでから6000万年の間に、王者の足元でちょろちょろと逃げ回っていた哺乳類の中からホモサピエンスが誕生し、600万年の間に、地球を痛めつける力を持つまでに脳が巨大化しました。人類にとって「たった1個の巨大隕石」はなんでしょうか。願わくは、この隕石を自ら呼び寄せることのないように。


 人間の力の限界まで生身のからだで挑戦するスポーツ選手にも、過去の地球の姿を明らかにすべく、砂漠でこつこつと発掘を続ける学者にも、私はただただ敬服いたします。
 恐竜をみれば、ただただ「わあ、大きい」と見上げているだけの恐竜ファンにすぎないですけれど、人類は地球を守っていける大きさを獲得しているのだと、信じています。
 放射能垂れ流しのまま、利益優先させている人たちへ。地球を壊さないでほしい。

<つづく>
2014/02/26
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(8)学習院地学標本室見学

  2月23日、学習院見学会に参加しました。
 娘息子が化石掘りツアーに参加するため入会した「地学ハイキング(地ハイ)」の2014年最初の例会が、「学習院地学標本室見学」でした。私は、子供たちが「化石掘りツアー」から卒業してしまったあとも、「地ハイ」にひとり参加しています。

 「学習院中高等科地学教諭にして地学研究会顧問」であった先生、教諭定年退職のあとも嘱託非常勤講師として生徒の指導にあたってこられたのですが、この3月に嘱託職からも引退されるというので、最後に地学標本室を見せてくださることになったのです。

 地ハイを主催している地学研究会の先生たち、それぞれが自分の分野の研究をこつこつと続けている、という人たちで、私の好きな「もうかりもしないことをこつこつと」という人々が集まっています。
 2009年のI先生の発表論文タイトルは、「ドイツジュラ系産ヒトデ・クモヒトデ類の生痕化石ー現生ヒトデ・クモヒトデ類の行動との比較」
 そんな立派な研究をしている先生が、23日の地ハイ例会では、お弁当タイムにおしるこをふるまってくださり、「おはし、無い方いませんか」などとお世話してくださるのです。おしるこ、おいしゅうございました。

 地学講義室実験室は校舎の5階ですが、標本室は地下1階。乃木希典院長以来の「質実剛健」を旨とする校風ゆえか、エレベーターは中高等科校舎にひとつしかありません。生徒は日頃は5階の地学教室まで階段を使って上り下りしているのでしょう。「お元気な方はどうぞ階段で」という説明があったけれど、やわな私はむろんエレベーター利用です。おしるこ食べた分しっかりと階段上り下りする気になればやせるのでしょうが、そういう気にならないので、おしるこ分はすべて体に蓄えました。

 地階の標本室には、明治時代の学習院開校以来の収集標本が保存されています。ここが貴重なのは、よその新しい博物館と異なり、100年前に購入したり寄贈されたりした古い標本が残されていることだそうです。

 「デーナ氏岩石標本」というタイトルの棚。


 明治の帝室博物館が国立博物館に変わるとき、歴史や美術専門の博物館に組織替えされ、それまでに収集された科学関連の標本などは、ほとんどが東京科学博物館へ。一部が東京大学理学部と学習院に分納されました。
 学習院にも収納されたのは、よその国から皇室への寄贈品などがあったからではないかと想像しています。

 現在、東京大学の標本は、東大総合博物館などで見ることができますし、科博の標本もさまざまな方法で展示されていると思うのですが、学習院標本室に入ったものは、地下1階にひっそり収蔵されているままです。学習院の生徒しか見ないのでは、もったいない気がします。

 古い標本箱


 標本室の入口には、この標本類のなかで、キウイ剥製と肺魚剥製が貴重なものである、という説明書きがありました。
  ニュージーランドの飛べない鳥、キウイの剥製標本がありました。キウイという鳥の餌になるのでキウイフルーツと名付けられた緑色の果物。私が子供の頃果物屋で見たことなかったですが、今では日常の食生活になじみになりました。フルーツほどなじみはないものの、キウイのほうはニュージーランドに行くか動物園に行けば生きた鳥を見ることはできます。私はNHKの番組「ダーウィンがきた」で、ちょうどキウイの生態記録を見たところだったので、キウイの姿をすぐ目の前に見ることができて、よかったです。

 学習院標本室に保存されている剥製は100年も前のものですから、専門家が見れば、現在の鳥と比較して何らかの知見が得られることもあるのではないかと思います。

 2月22日に東京科博で恐竜展のあと、出口へ回るついでに、ミニ企画展「ダーウィンフィンチ」展を見ました。
 このミニ企画展では、アメリカの自然史博物館から借用している14種のフィンチの剥製が展示されていました。ダーウィンが進化論を思いついた各島ごとに別々の発達を遂げた小鳥フィンチが、今もなお少しずつ島ごとに変化していることがわかるのだそうです。14種のフィンチそれぞれの嘴や羽の違いがわかるように展示されていて、専門家が見ればきっといろいろな発見があるのでしょう。
 ガラパゴス諸島から動植物を持ち出すことは禁じられているため、たいへん貴重な剥製であり、展示期間が終わったら、アメリカに返却されます。科博は、剥製をもとにバードカービング(木製の鳥彫刻)でフィンチの姿を残して展示するのだそうです。

 100年前のキウイ剥製が日本に保存されているという事実、動物学者なら知っているのかもしれませんが、とにかく私ははじめて見ました。将来の研究に生かしていければいいのに、と思います。秋篠宮は家禽にわとりの研究で博士号を得ていますから、きっとこのキウイのこともご存知だったでしょうけれど。

 帝室博物館から学習院に移譲された標本のひとつ。中生代クスの植物化石と大楢の化石。「明治37年購入75銭」と値段がかき入れらています。



 東京大学の理学系の実験室などで埃をかぶってほったらかされていた古い実験道具や標本が「驚異の部屋」というタイトルで立派な博物館展示に蘇りました。
 学習院も一般の人も見ることができるような設備を儲けて、標本類などを整理展示してくれたらいいのになあと思います。棚の中、古い天秤量に「ハイキ」とマジックで書かれ、ほこりにまみれていました。こんな道具も整理整頓して、明治時代の顕微鏡などとともに展示してあれば、立派な博物学の道具展示です。


 後ろの木箱には明治時代の顕微鏡が収蔵されています。手前の天秤量には「ハイキ」と記されています。


 こちらの道具には、寄贈者の名が記されているので、ハイキされることはないでしょう。今上天皇が中学卒業記念に学年記念品として寄贈したものです。


<つづく>
2014/02/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記2月光の春(9)学習院散歩

 2月23日午後からは、ウェブ友yokoちゃんも参加しての学習院たてもの&構内見学。
 山手線内の私立大学では最大の敷地だ、と学習院の先生が説明していました。都下の大学では三鷹のICUなど、広い敷地の大学はありますが、山手線内にうっそうと木が茂る林や目白崖線からの湧水をたたえる池、馬場などを備えた大学、さすがに贅沢な作りだとおもいました。私は学習院大学内に馬場があるということも知りませんでした。

 目白崖線の崖側に広がる林によって、隣接のビル群と隔てられています。


 構内の池は、通称「血洗いの池」。
 赤穂浪士47士のうち、随一の剣術使い堀部又兵衛が高田馬場で叔父の敵討ちをした際、この池で刀を洗ったという伝説により「血洗いの池」と名付けられたという話があります。これは作り話で、学習院高等科の生徒が毎年下級生に伝える習わしになり、みなが信じるようになったということです。高田馬場から目白まで刀を洗いにわざわざ来るというのもおかしな話なのに、大正時代の先輩からつぎつぎに伝えられ、昭和になると伝説が出来上がっていた、ということらしいです。
 平成の現在では、そもそも堀部安兵衛を知っている学生が少ない。

血洗いの池 


 思えば弘法大師伝説なども、全国津々浦々、空海が足を踏み入れたことのない地方はないというくらいにさまざまな「弘法様」の事跡が伝わったのも、こういう仕組みだったのだろうと思います。日本中に弘法様が農業用水や溜池を作って、人々の尊敬を受けていますが、果たして実際に空海の仕事であったのはどこらなのだろうと思います。
 今、『空海の風景』を読んでいるところなので。

 乃木院長が学生とともに寝泊りしていた寄宿舎「乃木館」や旧皇族寄宿舎などを見ました。建物紹介はまたのちほど。

 地ハイが14時に早めに解散になり、その後yokoちゃんと地ハイの見学コースからは省略された厩舎見学に行きました。青学vs学習院対抗馬術試合がおわったところということで、馬をトラックに乗せて運ぶところでした。今日の試合では青学勝利。アウェイでの勝利に、部員たちは嬉しそうでした。

厩舎に戻ったお馬さんたち。
  

馬場


 yokoちゃんは、私の最初の大学の後輩です。おとなりさんと言えるくらいの所にあるキャンパスなのに、文学部キャンパスと本部キャンパスを合わせても、こんなふうにキャンパス内に林や池や馬場がある環境とは大違い。スロープ下の学生食堂の安かろうまずかろうだったという話などしながら、環境抜群の学習院の構内を歩きました。

 たてもの見学の部は、日曜日で校舎内に入れなかったのがちょっと残念。内部もいつか見学し、先生が「おいしい」と自慢していたキャンパス内の「松本楼学習院支店」でランチを食べてみたいと思います。

 yokoちゃんとの散歩は、このあと、豊島区宣教師館マッケレーブ邸や護国寺墓地などへ足を運びました。漱石、荷風のお墓にお参りもできて、一日18000歩の散歩になりました。yokoちゃん、おつきあいありがとう。これからも元気に歩き回りたいですね。 

<おわり>

ぽかぽか春庭「洋館編 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅」

2014-03-16 | インポート
   

2014/02/05
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(12)旧前田侯爵家駒場本邸

 東京駒場にある旧前田侯爵邸は、前田利為(まえだとしなり 1885-1942)が本邸として建てた邸宅でした。戦後は米軍将校公邸として接収されていましたが、返還後、東京が取得。近代文学館博物館として利用されてきました。(1967-2002)
 私は、文学館で興味がある展示があると、ときどき出かけました。

 今では、建物は洋館和館合わせて「旧前田侯爵駒場本邸」として公開されています。
 ここが好きで何度も訪問しているのは、「見学無料」!である点、ボランティアガイドが組織されて丁寧に案内してくれる点、写真撮影が許可されている点。
 ほかの文化財指定建築も、こうして欲しいです。



 旧前田邸は、旧古河邸や旧岩崎邸などと並び、ドラマのなかで「お金持ちの住まい」という設定があると、ロケに使われる家でもあります。私が訪問している間に、この旧前田邸の階段を使ってロケをしているのにであったことがありました。



 旧岩崎邸は、たとえば、『謎解きはディナーのあとで』の主人公お嬢様刑事、宝生麗子が住む屋敷だったり、『明日ママがいない』で、あこがれのジョリピ(ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー夫妻。いろいろな国から養子を受け入れることで有名)が住む夢の家だったり。
 旧前田邸も、2007年のテレビドラマ『華麗なる一族』のなかで、安田太左衛門邸として登場しました。

 一般公開が休館となる月曜日火曜日のうち、火曜日は撮影場所として公開されているため、映画やドラマロケのほか、結婚式前撮り写真などに人気なのだそうです。(一日借り切って7万、半日だと3万5万円くらい。値段も良心的と思います)





 1階にはカフェがあり、「カフェ・マルキス」という店名。マルキスとは英語で侯爵のことです。コーヒーに小さいクッキーがついてきました。

カフェ店内


 隣に建つ和館もとても落ち着いた雰囲気の近代和風住宅です。前田家では、洋館2階の洋室を家族の住まいとして用いており、和館は客のおもてなし用だったということです。



 竣工は1928年。設計は、日本橋高島屋や学士会館を手がけた高橋貞太郎。共同設計者は塚本靖。東洋一の大邸宅と謳われ、敷地1万坪、洋館建坪600坪というお屋敷です。
 現在公開されているのは、1階2階のみで3階部分は非公開ですが、和館もあわせてゆっくり見て、もとは邸宅の敷地だった駒場公園散策して、休日をのんびり過ごせます。なんといっても、無料!!

駒場公園が広がる庭園側から見た前田邸
赤ちゃん連れの公園散歩のお母さんがベランダのベンチでのんびりしていました。


 邸宅の女主人という気持ちで座ってみましたが、どうみても、「臨時のお手伝いに雇われた物慣れないおばさんが、うっかり椅子に座ってしまったら、すぐに女中頭の老女に叱られて、困っている図」という雰囲気の写真になりました。



<つづく>
| エッセイ、コラム 




2014/02/06
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(13)ワイン王・神谷傳兵衛稲毛別荘

 千葉市稲毛にある旧神谷伝兵衛別荘は、近代和風建築の紹介としてとりあげた「ゆかりの家(愛親覚羅溥傑と浩の新婚の家)」の近くにあります。



 神谷伝兵衛(旧字は傳兵衛1856(安政3)~1922(大正11))は、明治の実業家。家が没落したために幼い頃から丁稚奉公をし、酒樽造りの弟子、横浜にあったフランス人経営フレッレ商会酒類醸造場の従業員などを経て、東京麻布にあった天野酒店で働いて酒取引の実務を学び独立。浅草に一杯銘酒売り「みかはや」を立ち上げます。この店が、現在の浅草「電気ブランの神谷バー」です。

 神谷伝兵衛は、輸入ワインを日本人の口に合う甘口に仕上げ、1885(明治18)年に「蜂印葡萄酒」、翌年1886年に「蜂印香竄葡萄酒」 (はちじるしこうざんぶどうしゅ)の名で売り出し大成功を収めました。
 一般の日本人が口にしようとしなかった「血の色の酒」を、家庭内でも飲める飲み物にして普及させ、ワインを日本に定着させる第一歩となりました。第二歩目は、壽屋(現在のサントリー)が1907(明治40)年に売り出した甘味果実酒、赤玉ポートワイン(スイートワイン)になりましょう。

 伝兵衛は輸入ワインでの成功に満足せず、さらにワイン醸造へと向かいます。1898(明治31)年に、茨城県牛久にぶどう畑を開き、1903(明治36)年には醸造場を設立。ぶどう畑から一貫して醸造するワイン酒造家として「シャトーカミヤ」を建てました。シャトーという名が与えられるのは、ぶどう畑を持つ醸造所のみなのだそうです。

 稲毛の別荘は、伝兵衛が「迎賓館」として使用しました。邸内の意匠には葡萄模様があしらわれており、館内で「ここにも葡萄発見!」ゲームをするのも楽しいです。

ぶどうの古木を使ったという床柱


欄間もぶどう模様






 外から見える円形の壁。内部は廊下の突き当たりでした。


 ベランダは、カフェになっていましたが、私が訪れた時は休業時でした。


<つづく>
 
 
2014/02/08
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(14)旧福本邸、江戸東京博物館

 東京に保存された個人住宅の紹介、つづきです。
 ひとつは、博物館の建物の中にすっぽりと収まって復元された旧福本邸。
 もとの所有者は、福本貞喜。福本は、山下新日本汽船の役員だった人です。(1917年の山下合名会社設立のときは、副支配人、のち専務)

 東京五反田に建っていた旧福本邸は、江戸東京博物館の東京ゾーン「モダン都市東京」の展示の一つとして博物館の館内に一部復元され、解体をまぬがれその姿をとどめました。
 復元された木造の近代住宅、外見はハーフティンバー(半木骨造り)風ですが、それほど目を引く外観でもなく、「モダン東京」の代表的住宅だと解説を読んでも「ああ、こういうのが、モダンだったのね」と、思うくらい。多くの見学者はさっと、家のなかを覗いて、写真を一枚パチリ、それでおしまし。

 武蔵小金井公園にある分園の江戸東京たてもの園は、たてものがメインの展示ですから、建築好きの見学者も多いですが、江戸東京博物館は、歴史好きの人と「東京観光のついで」の人が多いので、建物には特に興味を示さない人もいます。

 一般の個人住宅とはいっても、福本貞喜は、山下新日本汽船の専務でしたから、東京の中でもお金持ちの家、と言えるでしょう。でも、外観はほんとにそんな「お屋敷風」でもなく、「一部のみ復元」のせいもあるけれど、こじんまりした印象を受けました。



 旧福本邸は、建築家大熊喜英(おおくまよしひで1905-1984)のデビュー作(1937)です。大熊は、大熊喜邦の息子。父の喜邦1877-1925)は、国会議事堂建設の統括者でしたから、良英も父と同じ建築家の道を歩んだものとみえます。喜英は、今和次郎の弟子として、全国各地の民家を研究し、モダン都市東京にふさわしい住宅を数多く手がけました。

 よく「デビュー作は、一生の作品の原点」と言われますが、福本邸も大熊らしさがよく表現されているのだそうです。むろん、これは受け売りで、私は大熊の他の作品を見ていないので、「大熊らしさ」は、この福本邸を見て想像するしかありません。
 解体されて消滅してしまうよりはずっとよかったと思うものの、博物館の空間の中に押し込められた邸宅は、もともと個人住宅だったとはいっても、外観はなんだか縮こまっているようで、私には「大熊らしさ」のいいところがどこなのか、外観からはあまりわかりませんでした。

 当時のモダンな家の多くがそうであったように、和洋折衷で、和室と洋間が並んでいます。

和室

 洋間の内部は、モダン!と思えるすてきな空間を作っています。昭和後期にはこんなふうな「名曲喫茶」みたいな店があったなあ、みんなこういう空間に憧れていた時期だったのだなあと思います。
 山小屋風のロフト付きの居間です。



 家の所有者福本貞喜が山下汽船専務であったと知ると、なにがなし、ご縁があったのかも、という気がします。私は、1972年ごろ、半年間だけ山下新日本汽船の「英文タイピスト」として働いたことがあるからです。

 毎日「Dear Captain」で始まる英文レターをタイプし、船長あてに「シンガポールでの荷あげは、延期になった」とか、「香港で○○を積込め」などの指示書を書いていました。書くといっても、新米の仕事は、雛形に従って、もとのレターの数字や荷物の名を書き換えるぐらい。でも、このころにタッチタイピングを身につけたおかげで、いまワープロ打つのが、人の会話のスピードでできる。

 そのころ、会社は皇居お濠端のパレスサイドビルの最上階にあり、皇居の景色を毎日見てすごしました。私がいま、近代美術館の4階休憩室で休むのが好きなのは、このお濠端のビルからの眺めを思い出すっていう理由もあります。

 英文タイピストとして働いていたころ、専務なんて雲の上の人であり、むろん顔も知らない人でした。と、いっても、私が働いていた頃は、福本専務は何らかの事業不審の責任をとって、とっくの昔に辞任していたらしいですが。
 福本貞喜さん、こんなモダンな居間で家族とすごしたなんて、きっと「モダン紳士」として暮らしていたんでしょうね。1937年の新築から福本一家が50年をすごした家、今は博物館のなかで人々に見つめられて、「モダン都市トーキョー」の姿を示しています。

 1952年、我が家の父は、借金をしてようやく「ささやかなマイホーム」を建てました。畳の和室、縁側、納戸という家。娘3人は「こういう和風の家じゃなくて、暖炉のある洋間の居間で暮らしたかった」なんて文句ブーブーたれながらこたつに集まっていました。
 あこがれのロフトも暖炉もない家で、暖房といえばこたつと石油ストーブだけ、という居間でしたが、両親、三姉妹、犬のコロと猫のクリ、寄り集まってあったかく過ごせた子供時代を思い出すにつれ、今は亡い父母姉の顔が思い浮かびます。

 福本さんのご家族も、ときには博物館に顔を出して、過ぎ去った日々を思い返すことがあるのでしょうね。

<つづく>
2014/02/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(15)山本記念館(旧山本有三邸)

 私邸の保存、所有者が自治体や博物館に建物を寄贈することで保存が決まることが多いですが、元の土地にそのまま保存し記念館博物館文学館などとして利用する方法、別の公園やテーマパークに移築復元する方法があると述べました。

 記念館として保存されているひとつが、三鷹の土地にそのまま保存され、所有者山本有三の記念館として公益財団法人が管理している山本有三記念館。



 この洋館、当初は清田龍之助邸でした。清田龍之助(せいたりゅうのすけ1880-1943)は、立教大学を卒業したあと、米国オハイオー州ケニオン大学とエール大学に留学。帰国後は東京高等商業学校(現・一橋大学)教授として、英作文・英文購読・商業英語の指導にあたりました。一度退職し、キッコーマン醤油の濱口商事で総支配人して働き、実業家として成功しました。しかし、濱口商事の事業がうまくいかなくなったのち、再び東京高等商業学校で教職についたとのことです。
 清田は、1926(大正15)年にこの家を竣工、1931(昭和6)年まで住みましたが、清田が事業から引退する際、競売にかけられました。

 記念館の建物説明でも、設計者施工者不明とあります。屋根裏ロフト利用の地上2階建て、地下1階。一部は木造で、他の部分はRC(鉄筋コンクリート)の混構造。



 山本有三(1887-1974)は、『路傍の石』『女の一生』『米百俵』などの作品で知られ、参議院議員も努めて文化勲章を受けた、功成り名遂げた文学者です。
 山本有三は、1936(昭和11)年に土地建物込で購入。それまで住んでいた吉祥寺から隣町の三鷹に引っ越しました。当時の三鷹は、1930年に中央線三鷹駅が開業して、田畑や林が広がる田園地帯から東京のベッドタウンへと変貌を遂げている最中。駅の南口から徒歩10分ほどの山本有三邸の周辺にも家が立ち並ぶようになりました。

 山本が1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで家族とともに暮らした洋館は、戦災にあわなかったために、戦後は米軍によって接収されましたが、返還後山本一家はこの洋館には戻りませんでした。
 一説によると。米軍将校が他の接収住宅でも行われたように、ペンキを家中に塗りたくったことに辟易し、もとの状態に戻すには修復費用だけで新築の一軒家が買えるくらいかかるらしいと聞いて、居住をあきらめた、ということですが、まあ、そういうこともあったかもしれないと思うものの、山本の日記とか家族の証言記録で確認したわけではありません。



 1956(昭和31)年山本有三は家を東京都に寄贈。東京都の施設(教育研究所分館、都立有三青少年文庫など)として利用されできました。

 現在の管理者は、公益財団法人です。自治体所有の建物が財団法人管理になると、とたんに内部撮影禁止措置となります。写真をめぐっていろいろ面倒なことになるよりは、一律撮影禁止にしてしまったほうが、管理が簡単だ、ということだろうと思います。


おうちの前に座っている家なき子HAL

 三鷹の山本有三記念館も、内部撮影禁止でした。内部写真を見たいかたは、下記HPへ。
http://mitaka.jpn.org/yuzo/about.php    記念館公式HP

建築関係者とかなら、許可されて写真撮影ができるみたいです。
http://yuwakai.org/dokokai3/idesanzuihitu2007/idesan20080105/YamamotoYuuzou.htm 
 (山本有三記念館の建物紹介) 
http://isidora.sakura.ne.jp/aries/ken270.html

<つづく>
2014/02/11
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(16)番外、建物の写真撮影について

 くちかずこさんからのコメント「写真、どなたかに撮影してもらったのですか?」というお尋ねがあったので、お答えします。「春庭が建物写真をUPする場合、基本、春庭撮影の素人写真」です。
 しかし、建物によっては、内部写真の撮影が禁止のものも多く、どうしても内部の写真を紹介したいときは、ネットから写真をお借りした写真を「借り物」としてUPしています。

 春庭自身を撮した写真は、石や切り株などの上にカメラを置いてセルフタイマーで撮影したか、周囲の人に「すみません、シャッター押してください」と頼んだ写真。旧前田邸の室内で撮影したのは、新人ボランティアガイドさんが移してくれました。旧山本邸の前の写真は、たしかセルフタイマーだったように思います。自分が写っていない建物の写真は、春庭撮影です。古いほうのデジカメで撮したときは、日付の入れ方をしりませんでした。今のカメラは、息子に日付が出るように設定してもらったので、撮影日がわかります。自分のメモとして写真を撮っているので、日付が入ったほうが記録としてはいいと思っています。

 ここでちょいと、公益財団法人の建物管理について、文句を言っておきたいです。
 建築写真は、専門家のすばらしい写真集も出版されています。適切な照明と見やすいアングルで上手に撮れている写真。美しい建物のようすがわかります。

 でも、私は私自身がこの目で見た記録として素人なりに建物の写真を撮りたい。
 しかし、自治体が直接管理している施設は「撮影自由」のところがあるのにたいして、財団法人管理だと、「撮影者の心無い行為によって建物が痛んだりしたら大変。財産である建物の価値を減じてはならじ」と、思うのか、やたらに「内部の写真撮影禁止」という措置をしているところが多いです

 絵画や彫刻ならば、作者の死後50年で著作権が消滅します。西洋美術館、近代美術館、東京国立博物館では、それらの作品の撮影について「フラッシュ禁止、三脚禁止」などの条件をつけながらも許可し、撮影してはならない作品の前には「撮影禁止」のマークを出しています。私は、この措置は「人類公共の文化」のありかたとして、妥当なものと思います。
 ルーブル美術館は、モナリザでもミロのビーナスでも、撮影自由ですし、申し込みをして許可されれば、模写も自由です。人類財産の公開は、こうあるべきです。

 公益財団法人の管理下にある美術館博物館は「申し込みをして身分証明しえた者」には、模写も撮影も許可すべきだと考えます。
 前にも書きましたが、私は、文化財として公開している家や、国や自治体から文化財認定を受けて家の補修改築に補助金を受けている建物は、少なくても外観の撮影は許可すべきだし、内部公開している建物については、フラシュや三脚の禁止と、人物の撮影禁止を盛り込めば、撮影していいのではないかと考えています。
 ですから「館内撮影禁止」と書かれている場所でも、顔認識ができるような人物が入り込んでいない場合、「確信的」に、室内などを勝手に撮影してきました。

 前後左右、まったく車の影も見えない道路でも、きちんと「赤信号は止まれ」という交通規則を守る人がいます。「決められた規則には従う」ことを実践している人たち。私は、自分自身の考えでそうしているなら、その信念は尊重すべきだと考えます。

 しかし、「いま渡って危ないか危なくないか」ということを自分で判断するのが面倒だから、いつも信号通りにしている、というだけならば、1930~40年代の「大日本小市民」がそうであったように、「ごく普通に暮らしていたのに、あらまあ、いつのまにか戦争になっていたなあ」ということにもなるやもしれません。自分で考えること、自分のことは自分で決めること。という基本がこのごろ崩れてきて、「上意下達」だったり「自己決定の放棄」に見える出来事が続いています。

 私は、「法律は弱者を守るために存在する」という考え方の持ち主です。憲法は、国民にたいして圧倒的な権力を持つ国家権力が暴走しないよう、国民を苦しめないように、規制をかけるための最高の法規です。他の法律も、常に弱い立場の者の見方をするために存在するのだと思っています。

 弱者にとっての悪法は、法律ではない、ということを「障害者自立支援法」の成立のときに思い知らされました。「自立支援」を標榜しながら成立したこの法律によって、真に自立できた障害者を、私はまだ知りません。単に障害者援助金を減らしたい、という予算のためだけの法だったように思います。

 現在は高齢者への予算がどんどん減らされていく時代になりました。高齢者の医療補助は健康保険介護保険、2倍になるそうですね。

 話が広がってしまいました。もとにもどすと、私は、「人類文化は皆で享受し、皆で守るもの」という信念のもと、保存運動や維持活動にもエールを送り、作品を保護しつつ写真を撮りたいと思っています。

 先日訪問した鎌倉近代文学館(旧前田侯爵家鎌倉別邸)も、館内撮影禁止でした。バチバチ自由に写真を撮っている女性がいたので、お尋ねすると「私は新聞記者ですから」と胸を張っておっしゃる。報道機関には撮影を許可が出るのを知って、係りの人に「身分証明書などで姓名明らかにして申し込みをすれば、撮影許可が出るでしょうか」と質問したら「いいえ、一般の方の撮影はご遠慮願っています」という説明でした。

 「一般人は”報道を行う記者”に比べると下等生物なんだわあ」と、思いましたが、「ご遠慮願う」ということなら、遠慮しなけりゃいいんじゃん、と思って、人がいない時、室内を撮影しました。なぜならば、「この建物のお部屋を撮影した絵葉書があれば買いたいのですが」という申し込みに対し、「ありません」というそっけないお返事だったので、絵葉書もない、ということなら、写真撮っちゃダメって言われても、遠慮しないことにしたのです

 管理している財団法人が「写真を撮るな」と規定するのは、管理の都合上必要なのだろうと察します。しかし、禁止を承知で、「ここなら誰にも迷惑をかけることもなく、建物を傷めることもない」と確信して写真をとるのは、私の自主的な判断によります。
 自分で、考えて自分で行動するので、何らかの責めを負うのも自分です。責任はとります。

 ときには、「決まりを守ることは金科玉条、絶対のものである」と考える人がいて、「おい、ここは撮影禁止だぞ!」と、大犯罪者を見つけたという勢いで注意してくださる御仁がおられます。外国で軍事施設の写真を撮っていると逮捕されることがありますが、それとは事情がことなりましょう。
 決まりを破るものを告発する人、きっとこういう人は、ナチ時代、隠れ家にひっそり暮らしているユダヤ人を告発したり、スターリン時代に「ここに反スターリン的な言動をしている者がいるぞ」と密告した人と同じ体質なんだろうなあ、と思います。
 こういう人には、吉野弘(1926-2014)の『祝婚歌』を朗読してあげることにしましょう。

 「互いに非難することがあっても、非難できる資格が自分にあったかどうか あとで疑わしくなるほうがいい
  正しいことを言うときは 少しひかえめにするほうがいい
  正いことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気づいているほうがいい 」
という詩を読んであげることにすればよいだけ。むろん、自分でも繰り返し読んで自戒しなければなりませんけれど。私、どうして「もひかえめにするほうがいい」というところがうまくできないんでね。いつも大音声。

 先日見た再放送の「知られざるロシアアヴァンギャルド」にとても勇気づけられました。スターリン時代に弾圧され粛清されていったロシアアヴァンギャルドの画家たち。多くの芸術家も市民もスターリンの権力を恐れていたなか、弾圧をかいくぐってロシアアヴァンギャルド画家の作品を収集し続けたひとりの男、イゴール・サヴィツキー。

 サヴィツキーは、抑圧されたロシア・アヴァンギャルドの作品を収集し、中央アジアのカラカルパクスタン共和国の首都ヌクスに美術館を建てて保存しました。
 多くの画家が「反スターリン的である」として銃殺刑に処せられたり、シベリア強制収容所送りになったとき、危険を冒しても作品を保護し続けたサヴィツキー。スターリン側から見たら、「スターリンの意向に違反する行為」だったわけです。
 また、別の例をあげれば、杉原千畝は外務省からの訓令に違反して、ユダヤ人たちにビザを発行しました。

 こういう崇高な例とはいっしょにすることもできないですけれど、「撮影はご遠慮願います」なんて言われたって、私はめげない、ってことです。
 まあ、早い話が、私が撮影したい時に「ここは撮影禁止ですよ」なんて言われることに腹が立つ、というだけのことでして。

 最後にひとこと、私の信念では、本日は決して「建国の日」ではなく、「神話と伝説の日」です。

<つづく>
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(17)和敬塾本館(旧細川護立邸)

 東京近辺「おやしきめぐり」のつづきです。以前に紹介した洋館和館、写真を掲載したお屋敷もあるけれど、2012年以前のカフェ日記へには写真をUPしていなかったので、改めて写真を載せたいと思って、古いファイルを引っ張り出しています。

 今回は、2011年の東京文化財公開のおりに、ウェブ友yokoちゃんといっしょに訪問した和敬塾本館の写真をUPします。
 このときの訪問記は、以下ををご参照ください。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_8890.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_1e5c.html

 旧細川邸であった和敬塾本館


 和敬塾は、東京文京区に建つ男子学生寮です。地方の由緒正しき良家の子弟を預かり、東京大学早稲田大学などに進学した坊ちゃまたちを卒業まで寄宿させます。
 村上春樹(芦屋の坊ちゃまだった)のように、自ら「合わない」と感じて出て行く学生もいますが、おおむね共同生活のなかで生涯の友を得たり、年に一度の大運動会に熱を入れたり、楽しい学生生活を送るようです。

 文京区の元細川侯爵邸跡地の7000坪に東西南北と乾(いぬい北西)巽(たつみ南東)の6寮が建ち、600名の男子が学生生活を送っています。
 6畳か7畳の部屋に2食つき光熱費込み1ヶ月10万の寮費は、東京の物価では良心的な寮費ですが、我が家が応募しても決して息子を預かってはもらえないでしょう。我が家の息子くん、良家の子弟ではないんで。(ひがみ全開)



 春庭が数年前に和敬塾のなかを部外者としてうろうろしたときも、寮生たちは寮の決まりをきちんと守って、「こんにちは」と気持ちのいい挨拶をしてくれました。みな、育ちのよさそうな賢そうな坊ちゃまたちでした。

 本館は、1936 (昭和11)年に竣工した細川家第16代当主細川護立侯爵(1883-1970)の邸宅。現在は、寮生の教養講座や結婚式が行われています。
  設計は、大森茂・臼井弥枝(ひろし)。地上3階・地下1階、建坪は約300坪。

食堂

階段室1階から

階段室2階




 芸術家のパトロンとして画家や作家との付き合いが深かった細川護立侯爵。その孫が、細川護煕です。芸術好きな遺伝があったとみえて、政界引退後は陶芸三昧なんぞの趣味に生きていました。なのに元ライオン宰相に背中押されて木に登ろうとして、あえなく落下。

 う~ん、意気込みはよかったと思うけれど、なにせ殿が首相をやめたときの原因が、年末にやめた知事と同じく「金をもらったのもらわなかったの」ということだったから、それについてはっきりした経緯を示さないままでは、なんだかすっきりしなかった。また、わけわからないお金もらって「やめる」となっても、困るし。
 話がそれました。どうも、品性のない育ちだもんで。

 おやしきは品格たかい、立派な邸宅です。

玄関ホール

 居間(暖炉の上には「和敬」の額が。どなたか、立派な御仁の書でしたが、誰のだったか忘れました)(*ご一緒していただいたyokochannからのご指摘がありました。満州国ラストエンペラー溥儀の書だそうです2014/02/13)


 一番気に入ったのは、3階の天井木組み。トラス構造が美しい。


 そう、美しいものは万人がタダで楽しめるようにしていただかないと。
 ちなみに和敬塾本館見学料は、お茶つきで千円でした。日頃は結婚式などに利用されている大食堂でのおちゃ、、、招待客の気分でいただきました。

<つづく>
2014/02/13
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(18)飛鳥山の渋沢栄一邸

 岩崎家など明治時代に財閥としてのし上がった家や、華族皇族の残した大邸宅にいささか斜めに構えた見方をしてきたひねくれ者の春庭。明治の財界人のなかで、なぜか渋沢栄一(1840-1931)にだけはあまり反感を持たず、素直にその事跡を受け止める気になります。
 明治財界人のなかで、栄一は「自家の繁栄」だけに執着せず、社会活動に力を注いだということもあります。著書『論語と算盤』のなかで「道徳経済合一説」を述べ、晩年は福祉や教育に力を注ぎました。

 栄一の後を継いだ孫の敬三(1896-1963)も社会文化への貢献を果たし、特に民俗学民族学への寄与は大きいものでした。民俗文化研究を続けた宮本常一(みやもとつねいち1907-1981)らは、敬三のもとで在野の研究者として民俗調査を続けました。研究拠点であった日本常民文化研究所は、神奈川大学移管後は、網野善彦らに受け継がれています。

 一方、栄一の長男篤二は、公家華族橋本伯爵家出身の妻と結婚したものの、一子敬三をもうけたのちは、放蕩三昧。ついには廃嫡され、芸者玉蝶を囲う気ままな暮らしを選びました。廃嫡されたといっても、篤二が玉蝶と遊蕩生活を続けた家は、のちに実業家松岡清次郎が買い取り、現在の松岡美術館になっている土地ですから、庶民のせがれが放蕩して勘当されたというのとはケタが違いますが。

  渋沢家の本邸は、深川から三田に移築されましたが、篤二廃嫡後は敬三が引き継ぎ、洋館を増築しました。現在は青森県三沢市に移築されているので、見学に行きたいと思っています。
 栄一は、1901年(明治34)に飛鳥山に渋沢家別邸「曖依村荘(あいいそんそう)」を建て、亡くなる1931年(昭和6)まで住みました。

 曖依村荘は東京大空襲で焼け落ち、現在は跡地に渋沢史料館が建てられています。
 飛鳥山別邸内の建物のうち、「晩香廬」と「青淵文庫」は戦災をかろうじてかいくぐり、一般公開されています。

晩香廬は、栄一喜寿の祝いに贈られた洋風茶室で、清水組技師長田辺淳吉の設計。


 晩香廬の室内。2012年に訪問したとき、下の写真を写しました。この時は「建物の外からフラッシュを使わずに撮影するのは許可」といわれたのですが、2013年には、外から内部を写すのも不可」と変わっていました。



「青淵文庫」は栄一の傘寿祝いに、弟子たち「竜門会」に集う人々から贈られた書庫(1階は閲覧室)
 栄一が収集した論語はじめ漢籍が書庫に収められています。



 渋沢栄一は、賓客を晩香廬でもてなしました。渋沢史料館の保存フィルムには、タゴールらが訪れたときの記録が残されており、史料館1階のホールで上映されています。
 
 2013年11月に青淵文庫でミュージアムコンサートが開催された際は、氏名住所を書いて申し込みをした人々の集まりであったためか、室内撮影が許可されました。









 こんなお部屋で一日読書をしていたら、がさつな私も少しは落ち着いた気分になれるんじゃないでしょうか。

青淵文庫1階閲覧室

 建物めぐり、2月後半から3月くらいに「横浜と鎌倉の洋館」シリーズと「コンドル、レツル、ヴォーリズ、ライト、レーモンド、ル・コルビジェ」シリーズを予定しています。

<つづく>
2014/02/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(19)番外・スタジオジブリ社屋

 明治大正昭和前期に個人の住宅として建てられたおやしきのある町を徘徊し、写真を撮ってきました。
 時代別に並べたり、地域別に並べたりしたほうがわかりやすいと思いましたが、アトランダムに紹介してきたので、少々ごちゃごちゃしたおやしきシリーズになってしまいました。ごちゃごちゃついでに、個人住宅でもない会社の建物を紹介して、都内のおやしき紹介をひとまずおひらきにいたします。

 一番最近に訪問した建物、スタジオ・ジブリ。
1992年夏、小金井市梶野町にジブリの新社屋が完成しました。



 2月12日の夕方、まだ駅前に雪のなごりが残っている東小金井駅前からぶらぶらと歩いて5~10分くらい。スタジオジブリの社屋を見にいきました。



 すてきな外観でした。正式な書類上では専門の設計者が図面をひいたのでしょうけれど、「このような外観、このような間取り、内装」という実際の設計を手がけたのは、スタジオ所長の宮崎駿ご本人だということです。

第二スタジオ   

 夕方、もう社内の人もあらかたは退社したところだったのか、夜に備え晩御飯を食べに行っているときだったのか、私が中を覗いた時には、社内の製図台のようなデスクに張り付いている人は見当たりませんでした。
 NHKのドキュメンタリーで、夜まで仕事をしている人たちに宮崎駿がラーメン作っているようすなどが撮影されていました。もしかして、みんなしてラーメン食べていたのかしら。

 ジブリ社屋は、なかなかすてきな建物でした。近くにジブリ社員のためのかわいらしい外観の保育園があると聞いていたのですが、保育園まで行き着かないうちに、東小金井駅に戻りました。講師仲間の今期打ち上げ食事会の時間が迫っていたので。

 まだ、「風立ちぬ」も「かぐや姫」も見ていませんけれど、これからもジブリのアニメ、よい作品が生まれてくることを期待しています。



<おわり>

ぽかぽか春庭「早春賦-春の言葉集め」

2014-03-16 | インポート

20140201
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>早春賦-春の言葉集め(1)春隣の御所車

 立春とは、太陽黄経が315度になったとき、と説かれてもよくわからないけれど、日が一番短かった冬至から約45日、一ヶ月半と言われると、わかりやすい。ああそのころには、ちょっとは日脚が伸びてきたなあ、と実感できるので。
 2014年は2月4日。立春前の、少しは春が近づいた実感がするひとときが春隣。春隣は冬の季語になるのですが、まだだ寒いけれど、もう春は目の前、少しずつ近づいてくる春を待つここちがします。

 寒くても「叱られて目をつぶる猫春隣(万太郎)」なんてつぶやいてみるだけで、ちょっとは春の気配もしてくる気がする。
 春のことばを集めて口ずさんでいると、それだけで少しは暖かくなってくる気がするので、春めくことばを集めてみたり、春隣の気分はもう春。でもないですが、言葉を集める遊びをしてみます。類語あつめ、という分野のクイズで遊びましょう。

 クイズです。次のことばはどんな「ことばの仲間集め」をしたものでしょうか。
 Aの3語でわかったら50点。Bの3語でわかったら30点。Cの3語までで10点。
A: 菊 笹 御所車     B: 菱 四目結 柏      C: 藤 牡丹 扇  

 女優じゃないほうの前田 愛(まえだあい1931-1987 国文学者・文芸評論家。本名はまえだよしみ)は、上のことばの並べ方について、著書のなかで「分類学からいうと、珍妙なめちゃくちゃな配列である」と言っているのですが、へぇ、近代文学の泰斗、碩学と言われた物知りの前田先生にも、わからないことがあったんだ、と、思ったことでした。
 うふふ、前田先生が零点だったと思うといい気分。春庭は、Aでわかったので50点!

 前田愛は、『商売往来刊誤』をデータバンクの一覧、と紹介して、この本の事物の並べ方について述べています。そして、「菊、笹とふたつ植物名が並んで、次に御所車が出てくるのが、わけがわからない。そのあとに出てくる菱と柏,藤はまた植物名だけれど、なにゆえ突然「四目結」というのが、その間に挟み込まええいるのか、理解に苦しむ。分類学からいうと、めちゃくちゃなのである。いや、そもそも分類という思想が完全に欠落しているのではないか、とおもわれるほど、この配列は珍妙である。」(前田愛・加藤秀俊『明治メディア考『2008河出書房新社)
と、これらのことばの並べ方を「めちゃくちゃ」と断じています。

 でも、着物好きな女性ならすぐにピンときたことでしょう。着物は持っていないけれど、染物織物を見て歩くのが趣味の春庭も、Aで気づきました。
 この『商売往来刊誤』のことばの並べ方、前田愛が「植物名の分類法としてはめちゃくちゃ」と言っているけれど、植物名を分類して並べたのではありません。
 「日本伝来の文様の名前」が並べられているのです。着物や手ぬぐいなど、染物などに用いる代表的な文様が、菊 笹 御所車 菱 四目結 柏 藤、なのであり、分類の方法としては、実によくまとまった語が並んでいるのです。

 南方熊楠以来の碩学と謳われた前田先生にも不得意の分野があったのだと思うと、あれもこれも知らぬ事だらけの春庭も、ちょっとは安心します。年齢だけは前田先生がなくなった56歳をとっくに過ぎてしまったのに、な~んもまとまった知識がない春庭だけれど、少なくとも、染物織物の伝統文様という分野に関しては、春庭の雑学もちょっとは役にたちます。
 菊 笹 御所車 菱 四目結 柏 藤 牡丹 扇  
は、植物分類を表しているのではなくて、文様を表している「言葉集め」なのです。

 今日の言葉集め
千鳥 波 青海波 流水 雲 霞 麻の葉 亀甲 七宝 籠目 矢絣 鹿の子 市松 沢瀉 唐草 竹 松 梅 桜 瓢箪 虫   

今日の一冊:『日本の伝統文様』CD-ROM素材250(2007エムディーエヌコーポレーションズ)

<つづく>

2014/02/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>早春賦-春の言葉集め(2)アルプスの乙女とピンクレディ

 言葉あつめクイズ第2回 Aでわかったら50点 B 30点 C:10点

第2問 ヒントは「赤」
A: アルプスの乙女 ピンクレディ レッドゴールド   B: 茜 梓 ふじ   C: 千秋 津軽 紅玉

第3問 これもそんなに難しくない。20世紀までは女性のほうがよく知っていたけれど、今はどうでしょうか。
A: 銀杏 半月 輪    B: 拍子木 短冊 小口  C:微塵 千 さいの目

第4問 太宰の「津軽」を読んだ人には簡単。カラオケで新沼謙治の「津軽恋女」を歌う人にはもっと簡単.
A: 粒 粉 綿     B: 氷 水 ざらめ       C: ぼたん あわ ささめ

第5問 難問です
A: 男  本  米    B: 蝶々 ねじ  碇     C: もやい なかし あや

第6問 もっと難問 専門の職人さんでないと、知っている人は少ないかもしれません。ヒント:庭にあるあれ
A: 利休 遠州 茶筅     B: 桂 御簾 木賊   C: 鉄砲 鎧 矢来 

答え
2) りんごの品種  3)やさいの切り方  4)雪 5)ロープの結び方  6)垣根の結い方  

 専門家にはすぐにわかることなのでしょうが、知らない人にとっては、なんのことやらと感じます。

 日本語言語文化では、季節のことばを集めた歳時記、季寄せという語彙集が親しまれてきましたから、一定の種類のことばを集めて並べる辞書がたくさん出ています。abcやあいうえお順で並んでいる辞書ばかりでなく、たまにはことばを集めて遊んでみるのもおもしろいでしょ。

 「宮沢賢治の本に出てくる鉱物のことば」を集めた辞典とか、幕末から明治初期に翻訳された英語から翻訳された日本語を集めた辞書とか、逆に世界の辞書に搭載された日本語を集めた辞書とか、眺めて楽しい辞書がたくさんあります。

<つづく>

2014/02/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>早春賦-春の言葉集め(3)光の春と霾ふる日

 立春です。如月、早春、春めく、春寒などを並べると、春の初めの二月を感じさせてくれます。今日の課題は「歳時記に載っていない季節のことばを集める」です。

 古くからあった季節のことばを集めたもののなかで、江戸時代なかばには、俳句のための歳時記がまとめられて普及しました。
 その後、時代に合わせ社会に合わせて歳時記搭載のことばの変化しました。江戸時代には「卒業式」も「入学式」もなかったけれど、明治期以後は春の季語として定着しました。9月入学が論議されている昨今ですが、さて、「入学式」が秋の季語に変わるのかしら。

 最近出た新しい編集の季語集には春の季語としてバレンタインデーなども載っているそうです。クリスマスは冬の季語として定着したのですが、さて、ハロウイーンなどは日本の季節に定着するでしょうか。

 季節を感じる人の感性は、十人十色。「このことばは、私にとって春を感じさせる」というオリジナル季語を編むのも楽しい遊びです。
 まず、季節の分け方ですが、気象庁が「3,4,5月」が春、「6,7,8月」が夏、「9,10,11月」が秋、「12,1,2月」が冬、とおおまかに分けたことに従っておきましょう。地方によっては、冬は「11,12,1,2,月」で夏は「7,8月」というところもあるでしょうけれど。
 また、2013年のように、10月11日には、日中の気温30度の夏日を記録したのに、11月11日には木枯らし1号が吹くという年もありましたが、便宜的に3ヶ月ごとに季節が移るとして。

 新しい「季節を感じることば」集め。
 江戸時代の歳時記では「西瓜」は秋の季語ですが、現代感覚では夏の季語として感じます。
 食べ物だと「桜餅」「蕗味噌」など、いかにも春というのがありますね。お酒でも「白酒」は春の季語だし、生ビールなら夏。「ボージョレヌーボー」なんていう新しいことば、秋を感じる言葉として定着したでしょうか。

 衣服だと、ミュールを夏の季語にしているという若い女性のネット句会の記事を見たことがあります。ほかにもタンクトップとかホットパンツなんていうのも夏でしょうね。ファッション用語はすぐに変化するので季語としては定着しにくいですが。

 冬の衣類で新しいことばだと「ダウンコート」「ヒートテック」なんていうユニクロにはめられたようなことばしか思い浮かびません。
・ダウンコート脱いで洋館見物に(春庭)
と、詠んでも、春めいた日なのか、小春日和なのかわかりにくい。

・花柄のワンピース着てショパン弾く(春庭)
春庭の即興句も、いまいち「ずばり春」ではないですね。
 
 今は何をどんな季節に着てもいい時代なので、春袷とか花衣というような従来の季語のほかに衣服で春を表す語が見つけにくいです。

 芭蕉忌は冬、利休忌は春の季語として歳時記に載っていますが、現代社会で芭蕉忌が冬の季語(旧暦の十月。太陽暦では11月28日)とすぐにわかる人も少ないのでは。利休は旧暦二月(太陽暦では4月21日)に亡くなったという知識がないと、言葉から季節を感じるのもむずかしい。
 新しい忌日としては、桜桃忌(太宰治忌日)や菜の花忌(司馬遼太郎命日)が、ぴったり季節を表したネーミングなので季語としてもいいんじゃないかと思います。

 季節のことばが入っていないと、たとえば、映画人にとって黒澤忌が大事な日であっても、一般人にはそれが9月の出来事だとすぐにはわからず、秋の季語にしにくいです。
 私的季語では、4月10日の姉の命日を「花吹雪忌」と名づけています。今年は13回忌です。

 従来の歳時記に載っていない語のうち、冬の季語に入れた,らいいのか春に入れたら,いいのか迷うのが「光の春」です。「春隣」は冬の季語ですが、「光の春」は、私には2月の早春です。

 どんなに寒さが残っていても、空はいちはやく春の到来を感じ取り、真冬の空の光とは異なっている、温度より先に「光」に季節の変化を感じ取る。
 ロシア語の「весна светаベスナー・スベータ」を知った倉嶋厚さんが、気象用語として「光の春」と翻訳なさった、という話を何度か書きました。私の大好きな「新しい季節のことば」です。
 従来の季語「風光る」よりも、もっと春らしい感じがします。

 ほかに、春を感じさせることば、それぞれあることでしょう。
 俳人、坪内稔典(つぼうちとしのり)さんは、新しい季語として「レタス」を春に入れています。1年中ハウス栽培のものを食べ続けたせいで、露地物のしゃきっとみずみずしいレタスに縁遠くなってしまい、レタスの旬が春という感覚がなくなていました。

 夏の季語として「リラ冷え」、これはいいなあ。賛成。梅雨のない北海道で、リラ(ライラック)が咲く時期に、冷え込む日もあります。それをリラ冷えとしゃれて言ったのが、内地にも広まりました。

万緑(ばんりょく)の中や吾子の歯生え初むる(中村草田男)
と、草田男が詠んで以来、「万緑」は夏の季語として定着しました。
 松尾芭蕉は「季節の一つも探り出したらんは、後世によき賜(たまもの)となり」(『去来抄』)と述べました。自分なりに季節を感じて、ことばを取り出せたら、俳聖も喜んでくれるでしょう。

 春は黄砂の季節でもあります。「霾風ばいふう」「霾天」は黄砂のことを言い、訓読みでは「霾ふる(つちふる)」ということを「はじめて知った」と書いたことを思い出します。(検索してみると2008/05/19に書いたとわかりました)
 
 新しい語も知らなかった古い語も、大切な言語文化のひとつ。
 新聞に若い世代には「縁側」が通じなくなった、と出ていました。私も昨年の「日本語学」の授業で「キセル」を見たことのある人がいるか挙手させたところ、皆無でした。それでも「キセルというのは、お金をごまかすときに使うんじゃないか」と発言した学生がいたので、煙管は廃れて死語になっても、「キセル乗車」はかろうじて「瀕死語」くらいなのだとわかりました。

 話し言葉は世につれ人につれ。季語も社会の変化に従いますが、縁側もキセルもそれを知って育った世代にとっては、消えて欲しくないことばです。郷愁にすぎないのでしょうか。

・昔語りの春の縁側夕暮る(春庭)
・煙草王の建てし洋館霾ふる日(春庭)
・レタス食み行楽プランはまだ成らず(春庭)

<おわり>


ぽかぽか春庭「2014年1月 目次」

2014-03-16 | インポート

| エッセイ、コラム



2014/01/30
ぽかぽか春庭>2014年1月 目次

01/01 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(1)騎
01/02 謹賀新年2014十四事(2)棒
01/04 謹賀新年2014十四事(3)石火箭
01/05 謹賀新年2014十四事(4)一本槍と自由な槍
01/07 謹賀新年2014十四事(5)弓矢で射て食うヤバいラーメン
01/08 謹賀新年2014十四事(6)鉄砲&無鉄砲

01/09 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(1)年の初めのためしとて
01/11 十四事日記1月(2)踊る寒冷前線
01/12 十四事日記1月(3)冬ごもり
01/14 十四事日記1月(4)89歳の三婆

01/15 ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(1)古ガラスから見る景色
01/16 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅・拝島三井別邸&ゆかりの家
01/18 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(3)小石川の銅御殿
01/19 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(4)新潟&山形の近代和風建築
01/21 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(5)遠山記念館
01/22 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(6)鎌倉の旧松崎邸
01/23 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(7)高橋是清邸の復元
01/25 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)デ・ラランデ邸のネーミング
01/26 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(9)前川邸大川邸・江戸東京たてもの園
01/28 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(10)旧千葉常五郎邸(レストラン・ロアらブッシュ)
01/29 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(11)旧原邦造邸-原美術館

ぽかぽか春庭「明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅」

2014-03-16 | インポート

2014/01/15
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(1)古ガラスから見る景色

 都内ほか各地に残されている近代建築を巡るのが、趣味のひとつ。1月12日は、広尾に出かけたついでに、広尾小学校を見てきました。1932(昭和7)年に建てられた「関東大震災後の新建築、復興小学校」のひとつです。
 恵比寿駅から歩きました。歩く途中でいつくもの長い建築クレーンを見ました。
 地価の高い東京では、いつもどこでもクレーンが空に伸びていないところがなく、ビルの建設が続いています。これから2020年にかけて、さらに東京の景色は変化していくのでしょう。それでも東京には、保存された建物が多い面もあります。

 1945年の東京大空襲で焼けた東京駅を、大正の建設当時の姿に復元するプロジェクト、空中権(上空権)売買によって容積率の移転ができるようになった結果、東京駅の上空権を売ることによって改築改装の費用が出て、歴史的建造物としての付加価値を活かせるようになりました。東京駅の上空を利用する権利を他のビルに売って500億円を捻出。東京駅周辺のビルは、空中権を買って容積率が増えた結果、軒並み高層化を果たしました。 

 江戸や明治の個人住宅、貴顕の大邸宅や名主庄屋などの大農家の家は保存されているところがありますが、江戸時代明治時代の普通の庶民が暮らした家は、ほとんど残っていません。古写真に残る庶民の家。風が吹けば吹っ飛び、大雨が降れば崩れる、火事が起こればたちまち燃え尽くすという風情です。残しておくべき歴史的な景観も多かったでしょうが、普通の古い家は残されていかないことが多いです。
 2008年春の台東区。上野近辺の大通りをひとつ入ったくらいの道筋にまだ残されていたこんな理髪店としもた屋も、次のオリンピックまでに消えているでしょう。あれ?もうないかもしれません。確かめていませんので。


 建築の思想としては、東京は新陳代謝(メタボリズム)の町だと思うのですが、大邸宅や神社仏閣だけでなく、「普通の暮らしの家」が残されることも大切なことだったと思うのです。
 都心部からはずれた地域には、昭和の家がここかしこに残されています。有名建築家が設計したとか、有名人が住んだという家以外でも、普通の庶民の普通の暮らしを保存することも必要だと思います。

 たとえば、足立区保木間の「昭和の家 平田邸」。1939(昭和14)に建てられた木造平屋建て住宅。金属加工業を営む家で、登録有形文化財として申請。現在はギャラリーやミニコンサートの会場として使われています。
 杉並の斎藤邸、辻邸、練馬の佐々木邸、なども保存がはかられています。
 個人で古い家を維持保存しているところも、2011・3・11の大震災で家の一部が壊れりして、修復がたいへんなところもあるようです。公的な援助があればいいなあと思います。

 明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅。
 お金持ちたちは、自分たちの住まいとして贅を尽くした洋館を建てて迎賓館とし、お客様を迎えました。一方、家族が生活する場として和館を建てて畳の部屋で生活しました。たとえば、東京不忍の池近くにあるコンドル設計の旧岩崎邸も、洋館和館が並んで建てられています。同じコンドルが設計した旧古河邸は、1階が洋室、2階の私室部分は和室です。

 これらの古い邸宅を回って、いいなあと思うことのひとつ。古ガラスが残されている窓があること。古ガラスには、微妙な歪みがあります。オートメーション工場による板ガラスの大量製造大量消費の時代になってからは均質なガラスでこのような歪みはなくなります。
 古いガラスを通して外の景色を眺めると、その微妙な空間の歪みが、なんともいえない光景を見せてくれます。直接に外を見るのとはまた異なる、少し歪んだ外界。なんだか懐かしく、心のゆらめきも感じさせてくれます。

 ポーランド映画ドロタ・ケンジェジャフスカ監督『木洩れ日の家で Pora umierać(Time to Die)』2007
 91歳のダヌタ・シャフラルスカの演じるアニェタが住む古い家のガラスにもこの歪みがあって、ここを通して外をみるとき、独特の雰囲気がありました。 
 私が古い家が好きなのは、この「ガラス窓を通した景色」が好きという理由もあるのかもしれません。

 学校や公官庁などの公的な建物のUPは、またのちほどにして、今回のシリーズでは、2008-2013に春庭が撮った写真のうち、個人の住宅として建てられた洋館&和館の写真をUPします。建築写真の専門家や、アマチュアでも写真の上手な人が撮った建物は、とても美しい表情を見せてくれます。私の写真は「ここに行ってきたよ」というのを忘れないためのメモです。

<つづく>

2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(2)近代和風住宅

 江戸時代、家を新築するには届け出が必要であり、商家などいくらお金があっても、2階建ては立てられない地域もあったし、身分によって玄関の造りに差があったり、贅沢な造りが禁止されたりしました。明治から昭和前期、庶民の住環境はまだまだ十分な状態にはなっていませんでしたが、お金持ちたちはお好みで家を建てることができるようになりました 

 接客用には洋館を建て、家族がくつろぐ日常生活用や別荘などでは和館が好まれました。熱海や日光などの別荘地域には、洋館を立てる人有り、和風建築に凝る人あり。
 和館は「近代和風建築」と呼ばれ、西洋建築技術を取り入れながらの建物が工夫されました。例えば、従来の障子にガラスを取り入れたり、和風の家の内部に絨毯を敷きソファとテーブルを置いた居間を設けるなど「和洋折衷式」の住まいが近代和風として広がりました。

(1) 2011年11月06日に旧三井家拝島別邸(啓明学園北泉寮)を見ました。東京都文化財公開の日程で見学会があったので、参加したのです。

 北泉寮、元は、1892(明治25)年、千代田区永田町に建てられた鍋島直大(なおひろ)侯爵家和館で、江戸時代の大名屋敷の伝統を残しています。鍋島公爵家も、洋館(1881建設)と和館の両方が建てられていたのですが、関東大震災(1923)のとき、洋館は崩壊、大正期に増設補強をした和館は残りました。この和館を、1927(昭和2)年に三井八郎右衞門高棟が買い受け、三井家別荘として東京都下拝島に移築しました。
 三井高棟の三男高維(たかすみ1905~1979)英子(19051997)夫妻は帰国子女のための学校、啓明学園を創立し、三井家別荘は学生寮として利用されました。現在は、在学生の夏季合宿などに用いられています。










私の好きな古いガラスがはめ込まれた南側廊下のガラス障子。

 千葉市稲毛区の「ゆかりの家」旧愛親覚羅溥傑仮寓を訪ねたときの記録です。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_49c5.html
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/11/post_668e.html

(2) ゆかりの家は、ラストエンペラー愛親覚羅溥儀の弟、溥傑と妻の浩が仮寓した家です。朝鮮王家の李垠が日本の皇族扱いとされ、宮殿(現 赤坂プリンスホテル・トリアノン)を建てたのに比べると質素な家という印象でした。しかし、政略結婚にもかかわらず互いに愛を育んだ溥傑と浩にとっては、思い出深い新婚の住まいでした。溥傑夫妻が住んだのは、1937(昭和12)年ころ。






 どんなに贅沢な御殿でも、寒々とした愛のない家に住むよりは、愛に満ちた家に住みたいと、私も思います。とはいっても、現在の私のすまい、愛とともにさまざまなものが積み重なり折り重なり、ごみ箱状態なのはなんとかせねば。

<つづく>

2014/01/18
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(3)小石川の銅御殿

 2013年3月に埼玉県近代美術館主催の近代建築見学会に参加し、小石川の旧磯野家住宅を見学しました。
 事前レクチャーを受けた翌週、一行は、地下鉄丸ノ内線の茗荷谷駅に集合。旧東方文化学院(現・拓殖大学国際教育会館)を見たあと、近代和風建築の中でも「銅(あかがね)御殿」として知られている旧磯野家住宅へ。

 現在は大谷美術館が管理しており、重要文化財指定後、文化庁の指導による措置、というお断りがあって、内部見学はできない、との説明がありました。一般の見学日では外部参観だけになるということは、ネットの情報を見て知っていたのですが、近代美術館と建築会埼玉支部との共催なので専門の方々が多く、内部見学もできるかもしれないというので、ほのかな期待はありましたが、やっぱりダメでした。内部見学ができるのは年に一度だけみたいです。



 銅御殿の施主は、千葉県夷隅に生まれた磯野敬、日本全国で植林事業を展開し広大な山林を所有していました。山林王と呼ばれた磯野は、設計費用も工期も、棟梁が好きなだけ時間とお金をかけてよい、という破格の条件を提示し、北見米造にすべてをまかせました。磯野の依頼を受けたとき、北見米造は若干21歳。よほど施主に信頼されての抜擢だったのでしょう。米造は全国の山を見て歩き、木曽のヒノキや屋久島のスギ、御蔵島のクワなどを「この山の木ぜんぶ」という買い方をし、また、ベルギーから輸入ガラスを取り寄せるなど、7年の歳月をかけて最高級の材料を集めました。

 施主からの設計注文は、「外観は寺院風。地震や火事に耐える建物」でした。米造は、寺院建築の構造に、耐震耐火を組み込んだ入母屋造に、銅葺きの屋根をのせました。銅板の外壁。
 書院棟と応接棟・旧台所棟が独立した構造になっており、それをつないで一軒の家にしています。棟を分けたのは、火事が出たとしても、他の棟への類焼をとどめるためでしょう。

玄関

 米造は100人の職人を統べ、床下の湿気対策、雨樋の水処理など、施主の注文に応じて工夫をかさねました。
 1912(大正元)年に竣工。竣工当時は、壁も屋根もあかがね色に輝いていたことでしょう。
 11年後、1923(大正12)年の関東大震災時に、11回も塗を重ねた内壁に一本のヒビも入らなかったそうです。

 外からしか見られないと言っても、開け放たれた障子の内部は見ることができ、縁側天井の見事な組み方など、美しい意匠を楽しめました。





 家は、山林王磯野敬から石油王中野貫一の手へ。(中野は、新潟の石油事業で財をなした人)
 ついで、この家をホテル王大谷米次郎の息子大谷哲平が購入。現在は、大谷哲平の息子大谷利勝氏が館長を務める大谷美術館が管理しています。子供時代にこの家で暮らしていたという大谷利勝さんの次女さんは「冬はとても寒い家でした」と、感想を述べていました。銅御殿の重要文化財指定後は、ガイドとしてこの家の説明掛かりを引き受けているとのこと。

 北見米造(1984(明治16)~1964(昭和39))は、大工修行をしつつ現在の蔵前工業高校にあたる学校の夜間部で建築や木工技術について学び、伝統の大工技術に近代的な設計施工技術も身につけたのだそうです。米造は茶室建築に関心を抱いて茶道修行も続け、茶名「北見宗国」。のちに、新宿区高田馬場にある茶道会館を建てました。現在は米造の子孫の北見宗峰が宗匠として指導しているということなので、たぶん、茶道会館に行けば、米造についてもっと知ることができるだろうと思います)。

 米造は、銅御殿を建てたことを死ぬまで誇りにしており、晩年の1961年に「50年後には文化財となり、100年後には国宝になる」と語っていたということです。米造がそう語ってからほんとうに50年後の2005年、重要文化財指定を受けたので、100年後の夢もかなうかもしれません。
 惜しむらくは、茶道会館のほかに米造が建てた茶室や住宅が残されていないこと。茶室などを建てたそうですが、東京大空襲などで焼けてしまったのかもしれません。銅御殿のほかの建物も見てみたかった。

 銅御殿は、当初の敷地の半分以上が売却されたり駐車場になるなど、御殿の庭としては手狭に縮小してしまったのは、時代の流れでしかたがないとして、美術館管理となって保存が継続することになりました。しかし、敷地に隣接してマンションが建てられて、日当たりや景観に影響が出ることがわかり、建設反対運動も起こされました。
 マンション建設反対運動は、銅御殿の景観保全を願う近隣の人を中心にして、建設会社側との裁判になりましたが。結局、裁判では、敗訴。マンション高さを多少減らすことなどを条件に完成しました。

 都内での古い建物は、郊外や地方や公園などに移築してしまうなどの方法があるとは思いますが、住んでいた地域の中に残せればそれに越したことはありません。
 都内に残っているうちに、もっと見て歩こうと思います。

<つづく>

2014/01/19
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(4)新潟&山形の近代和風建築

 建築用語として「近代和風住宅」という語が一般にも浸透したのは、そう古い時代ではありません。建築専門家でも、専門の論文などに使用するようになったのは、20年ほど前からだそうです。明治期から昭和戦前までのあいだに建てられた、近代工法も含む和式の建物を指すことばです。

 建築に関心を持つようになったのが遅い私など、最初はあこがれの洋館にばかり目が行き、和館にはあまり魅力を感じなかったのです。和館ならもっと古い江戸時代の武家屋敷などのほうが見所があるのではないか、という気がしていて、近代和風住宅をそれほど熱心には見てきませんでした。

 昭和時代には、まだまだ「古びた木造住宅」よりも、「有名建築家の設計によるピカピカのビル」のほうが地域のランドマークでした。戦前の建物など、単に「古びたお屋敷」としか見なかった人々にも保存の意義が理解され、保存運動が盛んになったのは、ここ四半世紀のことにすぎません。従来は、明治村などテーマパークに移築復元、一部再建という保存方法がほとんどでしたが、ようやく地元にそのまま保存しようというさまざまな動きが結集してきました。
 地域の人々に「地元の文化財」として見直され、さらに地域おこしのひとつとして古建築の保存公開が図られるようになって、それほど日はたっていないのです。

 建築史家による研究も、日本全国の建築物すべてを研究し尽くしたということでもないらしい。
 最近「トリック新春スペシャル4」というテレビドラマの中に登場した旧家に見覚えがあったので、最後のクレジット撮影協力のところを注意して見ていたら「旧堀田家」と出ていました。さっそくネット検索。
 佐倉市にある旧堀田家は、最後の佐倉藩主堀田正倫が明治時代に建てたお屋敷でした。

 あれ、私は佐倉市の旧堀田邸を見に行ったことはないのに。同じような造りのお屋敷を見た気がしたのです。もしかして、同じ大工の棟梁が手がけた?あるいは弟子筋で同じような意匠になったか。
 しかし、大工さんの名前などはなかなか記録されていないものらしく、堀田家を建てたのが大工棟梁西村市右衛門ということは紹介されていましたが、私がこの夏に見て歩いた和風建築の棟梁名などは見学先でもらったパンフレットなどを見ても書いてないのです。擬洋風建築の場合、公的な建物が多いので大工棟梁名は残っていることがほとんどでしたが。

 江戸末期から明治期に一大発展を遂げた左官の漆喰鏝絵の系譜なども、創始者とされる伊豆の入江長八の名は残っていても、その弟子筋にあたるのか、地方の屋敷で鏝絵を残した左官の名はわからないことが多いのです。
 職人にとって、作り上げたものが後世に残ればそれで満足であって、「名前なんざ残っても残らなくても同じこと」なのかもしれませんが。

 一匹狼の大工が、腕ひとつを頼りに全国を飛び回り、各地に家を建ててゆき、名は残さない。そんなドラマがあったらおもしろいだろうなあ、なんて想像してしまいました。

 この夏、新潟と山形、日本海側を旅しました。鶴岡市、酒田市、新潟市をめぐって、洋館、和館を見学しました。

(1) 山形県鶴岡市 旧風間家住宅「丙申堂」は。1896(明治29)年に竣工。風間銀行を設立した豪商の家です。風間家は、鶴岡城下で庄内藩の御用商人として呉服、太物を扱い、明治時代には銀行業に手を広げました。
 風間家七代当主(幸右衛門)が、住居及び営業の拠点として建築し、1896年が丙申の年だったので、丙申堂と名付けられました。

 屋根が独特で、杉皮葺の屋根一面に石を置いています。20万個もの石がのせられているそうで、石と石のあいだには苔が生えるなどするため、四半世紀に一度くらいの割合で屋根の葺き替えをするなど、建物の維持管理が続けられています。近年では、1981年、2005年に葺替えが実施されたので、次は2030年前後でしょう。

2013年8月に見学しました。
玄関



縁側

階段箪笥を上がった上には、大工部屋がありました。大工が常住して普請を続けていたとみえます。


天井のトラス構造

石屋根

庭園

(2) 2013年9月に訪問した新潟の豪商の齋藤家。
 港町新潟は、中世から「新潟津」として物資輸送の拠点でした。明治になって外国へも開港されると商都としてますます発展し、大正時代にかけて、洋館の官庁や豪商たちの豪勢な住宅が立ち並びました。齋藤家は、そんな豪商のお屋敷のひとつです。齋藤家四代目の齋藤喜十郎(庫吉1864~1941)が1918(大正7)年に別邸として建て、2009年に新潟市が市有の文化財として整備しました。 
 木造二階建て、茶室と庭園が公開されています。

庭から見た齋藤家


座敷



二階から見た庭

(3) 新潟市新津記念館和館は、新潟の石油事業で財をなした新津恒吉が、1928(昭和3)年に建てた住まいです。来客用には洋館を建て、現在は新津記念館として公開されています。和館は庭園のみの公開ですが、外観はみることができました。



 

<つづく> 

2014/01/21
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(5)遠山記念館

 2013年5月に参加した建築探検ツアー。入間市のヴォーリズ設計、日本基督教団武蔵豊岡教会を見学したあとバスで川島町へ。車を持たないお一人様が移動するにはちょっと不便な土地で、このようなツアーに参加できて、ありがたかったです。

 埼玉県川島町の遠山記念館は、日興證券の創立者である 遠山元一(1890-1972)が、建てた近代和風住宅です。1935(昭和8)年 竣工。
 遠山は川島町の豪農の家に生まれましたが、父親の放蕩により、家は没落。日興証券創業者として成功を収めたのちに、故郷の地に大邸宅を建て、苦労を続けた母を住まわせたという、泣かせる立身出世譚の家です。
 東棟(豪農の屋敷風の茅葺き屋根の家)と、中の棟(書院風)、西棟(茶室)の3棟が連結しています。

中の棟(書院)


母、美衣の部屋

座敷



縁側

 アールデコを取り入れたデザインの近代和風ということで、さいたま近代美術館建築探訪ツアー引率の先生にいろいろ説明を受けながら回ったのですが、建築シロートの私、何を見ても、「あら、すてき」ってなことで、歩いて回っただけでした。これまでに見た近代和風の家のなかでも、「モダン」な意匠がとてもよかったと思います。まあ、解説が必要な方には、2013年に公益財団法人になった記念館発行のパンフレットなどもありますので。

二階ベランダのてすりもモダンなデザイン


書院窓

 特に印象深いのが、左官職人の最高の腕で仕上げられたという壁。現在の材料や職人の腕では再現不可能なので、地震などでヒビが入ってしまったら修復がむずかしく、前回修復したときは、納戸裏などの見えない部分の壁材などを削りとり、新しい材料に混ぜてなんとか修復したとのこと。古い建物維持管理にもご苦労が多いのでしょうね。
 

<つづく>

2014/01/22
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(6)鎌倉の旧松崎邸

 2012年の春に、鎌倉の建物散歩に出かけたおり、華頂宮邸の洋館を見て、同じ敷地内にある旧松崎邸も見学しました。


 元は東京上大崎に建てられていた茶室と門を、1971(昭和46)年に、鎌倉浄妙寺近くに移築。その後和館が増築されました。移築された年月は出ているのですが、上大崎に建てられたときの年代や設計者などの資料について、くわしいことはどのパンフレット類にも書いてありませんでした。
 現在は鎌倉市の所管となり、華頂宮邸といっしょに公開されています。建築年代も1929(昭和4)年に建てられた華頂宮邸と同じ頃ということですが、元の図面などの記録はなくなっているのかもしれません。

 茶室の奥に接続しているのが増設された和館。


 外観のみの見学で、室内に入ることはできませんが、外から中をのぞくことはできます。しかし、私はぐいっとなかに首をつっこんで撮影するということができなかったために、室内写真のうち、天井の撮影ができていません。八角形の美しい天井だったのに。次に出かけるチャンスがあったら、天井の撮影もをしてこようと思います。

玄関から中をのぞく

天井が写っていないのが残念。
 

<つづく>

2014/01/23
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(8)高橋是清邸の復元

 昨年の遠山記念館見学のおりには、壁の修復時、壁材がすでに手に入らないものであるので、納戸などの見学者には見えない部分の壁を削り取って、見える部分の修復に使用した、という裏話を聞くことができました。
 古建築の修復保存には、さまざまな苦労があります。

 東京大空襲の際、都心の古いお屋敷の多くが消失しました。たとえば、永井荷風は、麻布にあった自邸「偏奇館(へんきかん」が焼け落ちるようすを書き残しています。麻布の偏奇館周辺、どこも焼け野原になりましたが、赤坂にあった高橋是清邸は、現在、江戸東京博物館のたてもの園に移転復元されています。この建物が往時の姿のまま残されたのには、訳があります。

  二・二六事件で暗殺された高橋是清(1854-1936)の邸宅は、事件後、遺族の意思により赤坂から多磨墓地に移築されました。遺族も悲劇の館を壊すにしのびなく、だからといって当主の血の流れた屋敷にそのまま住み続ける気にもならなかったのでしょう。そのため、都心部が焼け野原になったのに消失をまぬがれ、小金井市江戸東京たてもの園に母屋部分が移築されました。

 1902(明治35)年に竣工した母屋は総栂普請。母屋和館の中に洋間もしつらえてある和洋折衷の住まいで、接客に用いた洋間の床は寄木張り。2階は是清の書斎や寝室として使われていました。

 移築にもいろいろな問題が生じるようです。高橋是清邸がたてもの園に移築された過程を知った建築専門家が「こんな保存方法があるものか。貫に釘を打ってしまうなんて、乱暴な!」と怒っている文章を読みました。貫(ぬき)とは、柱と梁などを組み合わせるとき、一本に穴をうがち、そこに差し込むを尖った部分をつくって組み合わせ固定する方法です。在来の伝統工法では、鉄の釘を打ちません。法隆寺でも東大寺でも、古い建築はこの貫の工法により、地震のゆれを吸収し、長く残ってきたのです。

 それが、高橋邸の移築では、「貫部分に釘が打たれてしまった、これでは大地震のときには、柱は梁を支えきれず、倒壊するだろう」という建築家の意見でした。
 たてもの園には建築専門家が学芸員として大勢います。専門家が移築に携わってきたのですから、この、「貫」に釘を打ち付けてしまうという工法も、なんらかの根拠があってのことだろうと思います。


 建築技法について何も知らない素人の想像ですが、昭和の多磨霊園移築時に、古い工法などに考慮せず新式工法で釘を打ち、見た目は同じにしたのかと。当時は復元の方法などについてまだ、「在来の工法のみで復元する」という考え方自体がなかったと思うのです。
 そして、たてもの園への移築復元にあたっては、釘を打ってある部分には、そっくり同じに釘を打ったのではないかと思いました。赤坂に最初に建てられた時の図面などは、焼けてしまって残されていなかったのではないか。そのため、たてもの移築復元するにあたっては、多磨霊園にあったときのまま復元するしかなかったのではないかと想像するのです。

 人が住み続けた古い家の場合、何度も増築や改築が加えられている場合が多いです。復元するときに、「増改築後の最後の姿」「最初に建てられたときの姿」「有名人が住んでいたころの姿」など、さまざまな建物の姿が考えらえるでしょう。建物の持ち主が何代かかわったときなど、ことに変化があったことと思います。

 現在では古建築保存への考え方もしっかりしているので、今後の建物復元には細心の注意が払われることと思います。

高橋是清邸玄関


<つづく>

| エッセイ、コラム



2014/01/25
ぽかぽか春庭@アート散歩>明治の館、大正のお屋敷、昭和の邸宅(7)デ・ラランデ邸たてもの園のネーミング

 旧岩崎邸の貴重な金唐革紙の壁紙にペンキを塗って「ぴかぴかに新しくなった」ことをよしとした米軍将校の話をしました。
 家作りや補修において、「ペンキを塗る」というのは、芝刈りと並んでアメリカではとてもポピュラーな「男の家事」。将校夫人は「そうね、ここはクリーム色のペンキを塗って」なんて、夫や部下の兵士に指示していたのでしょうね。
 金唐革紙、今では復元製作すると1平方メートルあたり、百万円もするそうです。(畳2枚分の屏風仕立てで500万。いつものことですが、すぐ値段の話になってしまって、すみません)

 西洋住宅のうち、木造の場合、素木のままになっているのはあまりみかけません。とくにアメリカの木造一般住宅だと、好みの色合いにペンキを塗るのが、各家の個性にもなっているようです。
 「下見板張り(したみいたばり)」または「押縁下見(おしぶちしたみ)」と呼ばれる薄く細い板を下から順に少しずつ重ねていく壁にペンキが塗られます。

 文明開化後、一般住宅が洋館にデザインされたとき、この下見板張りが数多く採用されました。
 前回、永井荷風(1879 -1959)の「偏奇館(へんきかん」が東京大空襲で焼失した話を書きました。
 1920(大正9)年から1945年空襲で焼け落ちるまで、荷風41歳から65歳の20余年のあいだ住んだ家です。二階建て瓦葺木造洋館を新築したので、外観内装ともに荷風自身の好みが反映していたと見てよいでしょう。この洋館には「偏奇館」と名付けたのは、荷風が自分自身を偏屈偏奇な人と任じていることの表現であると思っていたのですが、それだけではなく、ネーミングに理由がありました。

 荷風が住んだ洋館、下見板張りの外壁に青いいペンキが塗られた家だったのだそうです。(出典は、歴史学者の森銑三(1895-1985)の『明治人物夜話』講談社文庫1973ということですが、春庭は原典にあたっていませんので、孫引き伝聞です)
 青いペンキでペンキ館=偏奇館、なんだ、ダジャレだったんじゃん。荷風先生、案外おちゃめな人だったのだと、親しみがわきました。

 書院や茶室の建物には、昔から「銀閣」とか「如庵」などと名前がつけられてきました。現代も、大邸宅だけでなく、作家などの家にもしゃれた名前が付けられます。
 白洲次郎正子夫妻が町田に建てた家の名「武相荘(ぶあいそう)」は、「武蔵の国と相模の国のあいだにある」という理由と、「無愛想」を掛けたものというので、やっぱり、ダジャレネーミング。まだ訪問したことないので、行ってみたい家のひとつです。 

 武蔵小金井の江戸東京たてもの園は、仕事先のひとつから近いので、仕事が早くおわったときにときどき散歩する場所です。
 たてもの園内のいちばん新しい移築復元の建物は、2013年5月に公開されたデ・ラランデ邸です。私は、2013年9月に見学しました。



 デ・ラランデ邸は、その名称について、各方面に異論が沸き起こりました。もとは、新宿区信濃町近くに建っていた三島食品工業(カルピス創業者三島海雲の会社)の所有だったから、旧三島邸とすべきだ、いや、明治時代に最初にこの邸宅を建てたのは、気象学者・物理学者の北尾次郎だから、旧北尾邸とすべきだ、など。
 北尾次郎からデラランデが家を引き継ぎ、1914(大正3)年にデ・ラランデが死去し、何人かの所有者を経て三島海雲が1956年この家を手に入れました。三島食品は、1999年まで所有していました。東京都が買い取ってから、復元が完成するまで14年かかりました。研究者は元の図面が残っていないかなど、いろいろ調査を続けてきたことでしょう。

 たてもの園のパンフレット解説によると、北尾次郎が建てた1建てを、1910(明治43)年ごろ、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが、3階建てに増改築し、現在の姿にしたのだそうです。 
 改築者がデ・ラランデであったかどうかについては、建築史研究者から異論も出ています。ドイツで設計の勉強もした北尾次郎自身が改築も行い、デ・ラランデは一時的に借家として北尾邸に住んだだけだ、という説もあり、素人は何をどう信じたらよいのやら。
 しかし、ネーミング理論からいうと、デラランデの名が採用されたこと、理解できます。

 たてもの園には、近代和風住宅として高橋是清邸や三井八右衛門邸があります。また、昭和のアトリエ兼住宅として前田邸があり、田園調布の家の大川邸、堀口捨己作品の小住宅、小出邸など移築復元されています。しかし、本格的な洋館はなかったのです。北尾邸や三島邸では、大川邸、小出邸などとの差別化ができません。ここはひとつ「いかにも洋館」のイメージがほしいところ。改築者デ・ラランデの名前こそ、洋館をアピールすることができます。



 横浜市が市内に残された洋館を修復復元し、エリスマン邸、イギリス館などのネーミングで公開している例があります。文明開化の魁を担った横浜市のイメージが、カタカナ名前の洋館の存在でアピールされ、観光に役立っているのです。

 復元プロジェクトに関わった人々は、「たてもの園のいちばんあたらしい復元住宅は西洋館ですよ」と来園客に知らせるには、デ・ラランデの名がもっともインパクトが強いと、考えたのではないかと、建築素人ですが、ネーミング理論はいちおうかじった春庭は推測いたしました。

 デ・ラランデ邸の復元。スレート葺きのマンサード屋根(腰折れ屋根)と下見板張りの外壁、1階の下見板張り部分は白い塗装で、屋根は赤い塗装で印象的な洋館です。





 階段室

 1階は、武蔵野茶房の店舗、お茶や軽食があります。田無にある店の支店で、私は武蔵境駅の駅ビル支店のカレー半額の日にのみ利用。
 「デラランデ邸に招かれた大正ロマンの奥様」という気分でランチをいただきました。
 あ、大正ロマンの奥様は、ランチ食べながら店内の写真を撮るほうがいそがしい、なんてことはしないわね。やっぱり私は「奥様」にはなれないから、奥様ごっこをする「女中たち」でもいいわ。

武蔵野茶房が営業している、元の客間





<つづく>

春庭「十四事日記1月」

2014-03-16 | インポート

2014/01/09
ぽかぽか春庭日常飯事典>十四事日記1月(1)年の初めのためしとて

 ♪年の初めのためしとて~、という歌を元日に歌うこともなくなって、「ためしとて」を「試しとて」と受け取る人も増えてきました。年初に今年したい新しいことを「お試し」でやってみること、と考えてのことです。 旧文部省小学唱歌の「年の初めの例として」の「例(ためし)は、「先例」の意味であって、「年のはじめに先例のとおりに」の意味です。
 「あんた、毎年、元日には今年こそダイエット、と誓うけれど、成功したタメシがないじゃないの」というときの例(ためし)

 と、言うと、私の年代の人でも「え~、ためしって、先例だったの?お試しだとばっかり思っていた」と言う人もいます。続く「終わり無き世のめでたさを」は、「尾張泣き代の」だろうとか、
 生前の父がお正月になるとひとつ話で語っていた思い出。父の子供時代、戦前の悪童は「♪まつたけ立てて門ごとに」を「松竹つっころがして角たてて」と替え歌にして、元日の学校から帰ったもんだ、と話していました。
 唱歌は替え歌のほうが生き生きとしていておもしろいから、♪あおげばとーとしい和菓子の餡~、もいいんですけれど。

 さて、春庭は、大みそかの朝、起きてみたら何やら腰が痛い。
 腰痛が年のはじめの先例になっては困るので、正月うちずっと腰痛悪化させない努力ですごしました。いつも通っている整形外科のマッサージは年末年始休みなので。
 おおみそかに紅白歌合戦みたあと、1日は寝正月のはずが、寝てばかりいたら腰痛悪くなるんじゃないかと心配で、寝正月もできず。2日、午前中箱根駅伝テレビ応援、午後は痛い腰さすりながら写真美術館観覧。3日午前中箱根駅伝復路応援。午後江戸東京博物館。5日は、姑宅で家族の新年会、というスケジュールでした。どうして2日が写真美術館、3日が江戸東京博物館の観覧かというと、入館料無料の日にあわせて行くから。今年も無料趣味生活のタメシとて、です。

 写真美術館は、年始恒例の「写美雅楽」の演奏をしていました。

 3人の楽師のうち、真ん中の笛の人は、写真美術館の学芸員さんなのだそうです。最初はいつもの越天楽。最後の曲は、唱歌の「ふるさと」でした。雅楽演奏では、なにやら、いにしえよりの由緒正しきふるさとにきこえました。
 「ふるさと」、我が夫、大人になるまで♪ウサギ美味しい可能山~、と思って歌っていた。

 5日の姑との新年会は。
 去年、「はじめてのおつかい」をして、姑に褒めてもらったタカ氏、今年もすきやき材料をおつかいしてきました。去年、娘に「正月なんだから、普段よりいい肉買ってよ」と文句言われたので、今年はまあまあのお肉を注文してきました。たぶん、一般の家庭では普段でもすき焼きのときはこれくらいおごるのだろうけれど、何せ我が家は貧困家庭。我が家にしては「ちょっといい肉」の「霜降り肉」の食べ比べをして、どちらも美味い、という結論に達しました。我が家、娘以外は舌音痴(?)で、アンチグルメ。夫のように豚肉食べても牛肉食べても「どちらもカレー」としか思わないのは論外ですが、私も息子もあまり味の差に敏感でない。貧乏なのに味に敏感な娘は、かえってかわいそう。

 毎年変わらぬ年始めの我が家。代わり映えもなくありきたりの光景ですが、こうしてありきたりの変わらぬ日々をめぐることができることこそありがたいことだと思い知りながら、今年もめでたくはじまりました。

 姑は、あと1か月で89歳。来年は卒寿になります。土曜日のデイケアセンター体操教室を楽しみにして1週間をすごしています。姑は百歳くらいは行けるでしょうが、嫁は最近少々バテ気味です。腰痛もなんとかして、体重管理もしっかりして、姑に負けないようにがんばります。
 第一にかんばらねばならぬのは、もちろんダイエット。年のはじめのタメシとて、今日もおもちは1個におさえて、、、、おせんべひと袋とピーナッツひと袋食べました。だいじょうぶ、ダイエットできる今年の日々はまだ355日ある。 

<つづく>

2014/01/11
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(2)踊る寒冷前線

 今年も、いろいろな楽しみごとをささやかに続けていきたいと願っています。
 私の趣味、なんと言っても「お金がかからない」ことが第一の条件です。
 「本を読む」ことは趣味というより、呼吸のようなものなのですが、これはほとんどお金がかからない。図書館で借りるか、古本屋で100円、3冊250円の文庫本で十分楽しめる。音楽も無料コンサートが都内にいろいろある。建築散歩は街歩きのついで。花散歩も都内の公園や植物園で。唯一お金が少々かかるのが、ジャズダンスの練習。

 10日金曜日夜は、ジャズダンスサークルの新年総会。今年の活動方針や会費などについて2時間協議してから和食屋さんで食事。今年の文化センター発表会に出るかでないか、などわいわいと話し合いました。
 昨年、会員が2名骨折や靭帯の故障で休会になり、ひとりはそのまま退会。2人は仕事や家庭の都合で退会。最年長のT子さんも「今日、お医者さんに行ったのだけれど、去年からどうも足の具合が悪かったのは、半月板の故障だという診断が出たので、当分休会します」ということで、実質活動できる会員は4名のみという事態になってしまいました。4人だとサークルを維持する会費にも足りず、このまま会を休止せざるを得なくなるかも。残念ですが、怪我などはなりたくてなるものじゃなし、しかたがありません。

 なんとか会を維持してダンス練習の場を維持したいと思うのですが、さて、どうなりますか。私たちのような自主サークル、妹が携わってきたNPO活動など、行政とは別の市民組織を維持していくというのは並大抵のことではない、ということが身にしみます。
 先細りになりがちなこれらの組織を維持運営するためには、どのようにしていったらいいのか、悩み多いところです。

 会員が少なくなると、会費値上げしないと、活動が維持できない。会費を上げると、ますます会員がやめてしまう、という悪循環に陥ってしまいます。私たちのサークルは、ストレッチやジャズダンスの練習を通じて体力維持筋肉維持をはかることを大きな目的にしていますが、なかなか新入会員もこないし、やっと新加入した人も定着しないし。レディガガやマイケルジャクソンの曲で踊る、というのも若い人には「ふる~い」と思われてしまうし、落ち込む一方です。

 なんとか今年も踊り続けたいのですが、冷え込む一方。。
 会員募集中で~す。いっしょに踊ってください。

<つづく>

2014/01/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(3)冬ごもり

 新年の抱負というようなものを考えたかったのに、どうしたことでしょう何も思い浮かばない。仕事も、趣味も中途半端なまま。ダンスサークルの新年会では、ミサイルままは「ことしも登山、がんばります」と抱負を語るし、S子さんは「娘が結婚します。10月にハワイで挙式なので、10月は休会します」とか「孫のお守りがあるので」とか、みなそれぞれに今年の目標をうれしそうに語っていました。私はといえば、人様に語れるような目標が何もありませんでした。

 一病息災、家族元気に、という程度の目標だけで、百名山登ろう、ということもないし、全国廃線めぐりとか、全国郵便局消印集めとか、何かを達成するというめあてもない。元気に踊りたいというのぞみにも赤信号がともり、何か目標をさがさなければと思うばかり。
 もうちょっと暖かかくなったら少しは元気出てくるだろうから、もうちょっと冬眠しています。

  新しい年に新しい気持ちで飛び出していきたいけれど、今日も一日冬ごもり。ベランダに洗濯物干すのも、寒い寒いと震えながら。
 この3連休は、新成人にはうれしい休日。大人になって、何かいいことあるといいね、と祈るばかりで何をしてやれることもない。みんな頑張って!

 ちょっとは明るく輝くように、恵比寿ガーデンプレイスのバカラのシャンデリア写真です。
 輝く未来が新成人の前途にひろがりますように。

   
2014年1月2日恵比寿ガーデンプレイス

<つづく>

2014/01/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記1月(4)89歳の三婆

 人間、一生ごきげんで元気でいられたらこんないいことないけれど、どうしたって、浮き沈みはあるし体調の好不調、波があるのは仕方がありません。ましてや我が家のような貧困家庭では、好調でいられる日のほうが数少ない。

 体調よかったり気分上々の日が少なくて当然なのですが、1年のうちせめて正月小正月のうちくらいはにこにこしていたいと思って毎年過ごしてきました。それが、今年は正月そうそう気温と同じように気分が落ち込み、まあ、こんな年もあるさと思ったり、ここまで年をとってくれば、機嫌よく正月をすごせなくても当たり前とも思います。

 例年、冬休みが終わって、仕事が始まる。朝寝坊ができなくなり、ああ、つらいつらい、冬の朝も早よから仕事に行かにゃならず、安い日雇い賃でこき使われる、と嘆き、暖かくなるまでぼやいてはきたのですが、今年は例年以上に我が身の卑小さケチ臭さ、しみったれたいじましさ、なんてものがしみじみと情けなく、嘆きつつひとりぬる夜の明くるまは、、、、あれれ、毎晩夜はバタンキューと3分で落ちる。そうか、朝寝坊できなくなるのでこんなにぐずっていたのね。

 成人の日までの3連休、真ん中の12日は山種美術館に行って目の保養。招待券があったので。11日と13日は冬ごもり。一日家にいて、何をするでもなくボウ~とテレビを見てすごしました。

 我が家、テレビを放映時間に直接ライブで見ることはほとんどなくなりました。ドラマとバラエティは録画してみます。ライブで見るのはスポーツ中継くらい。13日は、大相撲のラスト6番を観戦。

 録画して見たドキュメンタリーのうち、1月12日放映の再放送『京の“いろ”ごよみ~染織家・志村ふくみの日々~』は、元日放映を録画できずに残念に思っていたので、再放送があってよかった。もうひとつの作品『天のしずく 辰巳芳子 “いのちのスープ』は、2012年11月12月に写真美術館に行ったとき上映していて、そのときは時間がなくて見ることができなかったので、1月13日の放映を録画しました。

 志村さんは1924(大正13)年9月生まれの染織家。89歳。人間国宝(1990年)文化功労者(1993年)。2013年から染と織りを学ぶ「アルスシムラ」を設立し、後進の指導にあたっています。番組の中で「木苺の葉で染めてみよう。初めてよ」と、新しい草木染めに挑戦する姿がみずみずしく映されていました。89歳で、新しいことへの挑戦。草木染めの学校を設立したことも大きな挑戦でしょう。

 辰巳芳子さんは1924(大正13)年12月生まれ。89歳。料理研究家としてテレビの料理番組でおなじみですが、お父さん病床に届け続けた「いのちのスープ」を全国の病院などに広め、自然たっぷりの滋養あるスープの普及を行っています。また、「大豆100粒運動」の活動によって、自分の食べるものを自分で育てることの大切さを子供たちに教えています。

 治癒した今も長島愛生園で暮らしている元ハンセン氏病患者の方と話し合っているなか、「80歳すぎてから眺めると、世界はとてもちがう」と辰巳さんが語っていたのが印象深かったです。
 そうよね、80歳すぎで見える景色は80歳過ぎなければわからない。

 うちの姑、1925年2月の早生まれなので、志村さん辰巳さんと同学年です。お二人の偉大な女性とは異なり、銀行員の妻としてささやかな家庭で娘息子を育ててきた平凡な主婦でした。舅の死後、「お父さんといっしょに建てた家を守りたい」と、建て直しをひとりで手配しました。私は中国赴任中。夫は改築反対でまったくタッチせずというなか、改築を仕上げました。水回りが古くなったことや耐震の問題が解決できて、姑が安心して暮らせるようになりました。

 新しくなった家で、2月に89歳を迎える今も一人で暮らしています。夫と娘が交代で「見守り」は続けていますが、週1回、ヘルパーさんに階段とおふろの掃除をしてもらう以外は、身の回りのことは自分でやっています。たいしたもんだと思います。
 姑には姑の「80歳をすぎて見える」景色があるのでしょう。

 衣の志村ふくみ、食の辰巳芳子、住の姑、3人の89歳を見ていて、まだまだひよっこの私、修行が足りぬと反省しました。
 さて、明日からまた仕事です。とりあえず89歳まで生きてみよう。

<おわり> 


ぽかぽか春庭「謹賀新年2014 十四事ことはじめ」」

2014-03-16 | インポート

2013/01/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(1)騎

 みなさま、新年おめでとうございます。
 ぽかぽか春庭、今年も無事新しい年を迎えることができました。昨2013年は、2003年にブログをはじめて、10年目。今年はまたあらたな1ページから始めたいと願っています。
 みなさま、どうぞよろしくお引き立て賜りますよう。
 相変わらずの誤字誤変換が続きますが、ご指摘いただければ幸いです。

 今年の日記は「十四事日記」と題します。
 「十四事」とは、江戸時代武士の武芸心得のうちの代表14を並べたものです。14種類の武芸とは、流派によって異なるものがあるかもしれませんが、おおむね、射(弓道)・騎(馬術)・棒(棒術)・刀(剣道)・抜刀(いあい)・撃剣(刀剣、槍などで相手を切るのではなく、打って倒す)・薙刀(なぎなた)・鎌・槍・鉄砲・石火箭(いしびや)・火箭(ひや)・捕縛(とりで)・拳(やわら)。

 武芸十八般となると、これらに加えて、水術(泳法)、手裏剣などを加えるようですが、いずれにせよ、春庭の十四事となると、武芸は単なる比喩であります。十四事の第2番「騎」となれば、話題は競馬へ移るか馬術の法華津寛選手の話題か、まあ、私自身には武芸の心得はこれっぽっちもありませぬ。
 いささかでも関わりのある「言語文化」の世界で、「騎」をいくつか。短歌俳句の馬を並べてみましょう。


・来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに 万葉集巻11 2425 柿本人麻呂歌集
・たまきはる宇智の大野(おほぬ)に馬並(な)めて朝踏ますらむその草深野(くさふかぬ) 中皇命(万葉集巻1)
・鈴が音の早馬(はゆま)駅家(うまや)の堤井(つつみゐ)の水をたまへな妹が直手(ただて)よ 万葉集巻14、3439 東歌
・さざれ石に駒を馳させ心痛み吾が思ふ妹が家のあたりかも 万葉集巻14 3542 
・駒とめて袖うち払うかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ  藤原定家 新古今 巻6
・ぬばたまの黒毛の駒の太腹に雪どけの波さかまき来たる 正岡子規
・夏の風山より来たり三百の牧の若馬耳ふかれけり 与謝野晶子
・馬!馬!馬に乗りたし種吉とむかしかけくらをせし 石川啄木
・我と共に栗毛の仔馬を走らせし母の亡き子の盗みぐせかな 石川啄木
・ひつそりと馬は老いつつ佇ちてゐきからだ大きければいよいよ悲し  齋藤史
・馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ 塚本邦雄
・<馬>といふ漢字を習ひみづからの馬に与ふるよんほんの脚 大口玲子

・馬をさえながむるゆきの朝(あした)哉 松尾芭蕉
・春駒のうたでとかすや門の雪 小林一茶
・馬に乗って元朝の人勲二等( 夏目漱石1998(7明治30) 
・駆くる野馬夏野の青にかくれなし 橋本多佳子
・夏の雲に胸たくましき野馬駆くる 橋本多佳子
・蜜柑むく初荷の馬の鼻がしら 中村汀女
・仔馬駆けみちのく低き牧の柵 中村汀女
・綱垂れて馬あそび居り馬子昼寝 星野立子
・親馬のあしあとの辺を仔馬ゆく 星野立子
・緑陰に馬は草食み人は臥し 星野立子
・泉飲む仔馬に風の茨垂れ 飯田龍太
・野菊咲き少女が馬を野へ駆らす 寺山修司
・冬暁の馬の尻さわやか戸の間より 寺山修二



2014年9月にこの切手の値段と同じになります。

<つづく>

2013/01/02
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(2)棒

 いろはカルタのいの一番、「い」は、「犬も歩けば棒に当たる」です。しかし、昨今のこどもたちは、盆も暮れも正月もゲーム。いろはカルタで新年を遊ぶ、ということもなくなりました。
 この「犬棒」は、「流れに棹さす」「情けは人のためならず」と並んで、「現在では元の意味と正反対に受け取られるようになった「成句&諺」の代表例です。

 もとの意味は「犬がうろつき歩いていると、人に棒で叩かれるかもしれない」で、意味なくでしゃばると災難にあうという意味でした。しかし、 現在では、「当たる」の意味が「出くわす」「遭遇する」という意味でなく、「宝くじに当たる」「競馬の大穴が当たる」のように、思いがけない幸運があるという意味に受け取られるように変化しました。犬棒は、「用がなくても歩き回っているうちに、何か幸運にめぐりあうかもしれない」という意味で受け取られるようになりました。

 「情けは人のためならず」は、若い世代には「やたらに情けをかけてやると、その人の自立心をそこない、その人のためにはならない」という解釈が広がり、「人に情けをかけることは、めぐりめぐって自分もそのなさけを受けることになる」とは、思われないのです。
 「流れに棹さす」は、「流れに棒を突っ込んで、流れをせき止めてしまう。船の通行が遅くなる」と受け取られるようになりました。棹を流れに入れて舟をこぐようすを見たこともない世代にとっては、「棹さす」ことによって船が進むとは思えないのも無理ありません。

 「犬棒」の解釈変化も時代の流れでしかたなし。さて、この「言語文化」の流れに棹さしたら、舟は早くすすむのか、遅れるのか、、、、

 現在の日本語教育において、日本語教科書の動詞可能形は、「今夜、テレビでアイドルのドラマが見られる」「正月にはお節料理がおなかいっぱい食べられる」と載っています。これに対して、私は「若い人の可能形は、見れる、食べれる、です」という現代語解説も付け加えています。

 「違う」の否定形「ちがくない」、「きれいだ」の否定形「きれいくない」、「白い」の否定形「しろいじゃない」には、まだ「ちがくない、ではありません。ちがわない、ですよ」と、訂正を入れていますが、さて、これらの否定形が日本語として定着するのが、私の生きているうちになるのかどうか。100歳までは生きるつもりなので、たぶん、生きているうちに変化すると申し上げておきましょう。

 二千年五千年の月日を、営々連綿と続いてきた日本語。現在の社会に、だれも紫式部が話していたのと同じ平安語を話していないように、現代と同じことばを話す人は消えていくのですし、新しい言い方新しい話し方が生まれていくのです。
 しかし、その芯棒をつらぬくことばが残されていくかどうかが問題。

 去年と今年を結び合わせる時間の棒を、心の中に感じるか否か。今年は去年の続き、しかし、ふたつの時間を貫く棒が、棒高跳びの棒となってしなやかに時空を飛び越えるのか、しんばり棒となって扉を閉ざすのか。

・去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

<つづく>
2013/01/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(4)石火箭

 十四事のうち石火箭(いしびや)とは、鉄の武器。江戸時代の武芸指南では、とくに大砲、砲術をさしました。現代、日本の社会で大砲が武器として使用されるところなど目にすることはなく、日常生活からはかけ離れているように、思います。
 しかし、現実の問題として、日本でごく普通に働きごく当然として所得税やら消費税やらを収めてきた善良な市民全員が、昨年、戦争に手を染めたのです。税金によって購入された武器が輸出されたからです。私が働いて収めた税金が、南スーダンで武器として使われることになったのです。

 政府は「国連軍要請に従って、緊急事態の例外として」南スーダン駐留の韓国軍に弾薬を供給しました。しかし、韓国側の説明では緊急でもなんでもなく、武器は「予備」として要請したものだといいます。これらの両国の談話の食い違いについての説明もなされていません。

 PKO法案が議会を通過したときも、その後も、政府は「PKO法に従って提供される物資は、平和構築のための物資に限り、戦闘のための物資は供給しない」という説明を繰り返しました。1998年、国会で「『武器弾薬の物資協力は、あり得ない』と、条文に書かなくても大丈夫か」という質問が提出されたのに対して、与党政府側は「万が一つにもない」と答弁。武器供給がないことを確約しました。しかるに、たった15年でこの約束はホゴにされました。
 特定秘密保護法、政府は「一般市民の生活に不自由が生じることはまったくない」と答弁していますが、これは「10年後15年後には、どうなるかわからない」と同義だと言わなければなりません。

 ドイツナチスは、選挙で政権を獲得し、「ドイツ国民のために」を標榜しながら、ついには罪なきユダヤ人数百万人を虐殺するにいたりました。麻生太郎は、「ナチのやり方がいい」と発言しました。すなわち、「国民のために」と言いながら国民を飼い慣らしていくのがよいという与党側の考えがようくわかりました。2013年07月29日、東京都内で行われたシンポジウムに出席した麻生太郎副総理兼財務相が憲法改正問題に関連し、「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね」と述べたと報道され、批判の多さにあわてて撤回しましたが、本音を吐いた事実は残ります。

 今回、「緊急、例外的」として武器輸出したことに関して、国民からの反対の声は大音声でもなかったことを錦の御旗にして、これからはPKO法案の拡大解釈、ひいては憲法九条拡大解釈に進むのではないかと懸念されます。

 特定秘密法案が通過し、戦争に向かう政策が足元にひたひたと浸し始めたけれど、人々は溺れるまでは溺死の危険はないと信じています。
 今、石火箭は直接目に見えないけれど、すでに眼前を飛び交っているのです。

<つづく>
2013/01/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(4)一本槍と自由な槍

 「一本槍」とは、ただ一本の槍を突き刺すことで勝負に決着をつけること、また、ただひとつのやり方やワザでことがらに当たり押し通すこと。
 私には「ことば」が槍であり、たった一本の槍を振り回すことでかつかつ人生を支えてきました。

 「振り回す槍」について、以前に書いたことがあります。シェークスピア(Shakespeare,)についてです。シェイクShakeは振り回すこと、スピアspeareは、槍。英国の文豪シェークスピアとは「振り回す槍」という意味だ、ということを書きました。私が学生にシェークスピアをネタに教えたかったのは、語源ではなく、日本語音節のリズムについてです。英語では、シェーク・スピアと二つに分かれることばが、日本に輸入されると、日本のリズムによって、「シェー・クス・ピア」というふうに生まれ変わる、日本語には日本語独特のリズムがある、ということを教えるためのネタです。

 シェークスピアの生まれは、少なくともジェントルマン階級の出身ではなかった。ですから、当然紳士階級や貴族階級の家の印である「家紋」など持っていませんでした。しかし、エリザベス一世のお気にも召して売れっ子作家となり財産もそれなりに出来たあとは、名誉が欲しくなり家紋を持つことを熱望しました。念願かなってウィリアム・シェークスピアが家紋を許されたのは、30歳すぎ。新しい家紋として、家族の名前がデザインに取り入れられました。槍一本が誇らしげに家紋に掲げられています。

シェークスピア家の家紋

 私には、この槍はシェークスピアが誇りを持って掲げたペンに見えます。

 さて、私は、フリーランサー(freelancer)として働き、賃金を得てきました。
 フリーランス(freelance)の語源は「特定の主人を持たない、流れの槍騎兵」です。フリー=自由、ランス=槍。馬と何本かの槍を持ち、いくさごとに契約をして戦いを請け負う。

 現代では、特定の企業や団体、組織に所属せず、短期間の契約によって、自らの才覚や技能を提供する労働者を言います。独立した個人事業主もしくは個人企業法人として収入をえる人。私の場合、毎年1年契約で、次の1年の担当授業を契約します。1時間時給いくらで授業をするか契約を交わし、1年で何時間授業をするかによって、年間賃金が決められます。

 食うや食わずであっても、かろうじての食い扶持稼ぎ、娘息子を育ててきたのは、私にとって誇りでもあり、「愚痴の元」でもあります。
 夫の稼ぎだけでゆうゆう生活できる主婦や、夫の給与で十分に生活できるのに、「生きがい」やら「自己実現」やらを求めて働く女性に比べて、とにかく食っていかなければならず、子を飢えさせないために働くという働き方は、ときに労働をつらいものに感じさせることもありました。
 「お金は十分にあるけれど、自己実現のために働いていますの」ってな奥様に出会うと、「ケッ」て思ってしまう、私はイヤな女です。

 ただ、働き詰めに働く毎日ではあっても、みじめな思いをすること、人としての尊厳をふみにじられるような思いをすることは少なかったのは、私が自由な働き手であったからだと感じます。私は組織につながれてはいなかったから。つまり、「正社員」「常勤職員」という身分を得たことがなかった。
 現代の日本で、「何らかの組織に所属して働く」という方法以外で暮らしていくのは、なかなかにしんどいことです。私は自ら「無所属」を選んだのではなく、どこも私を雇ってくれなかったから、仕方なく日雇いを続けたのです。

 フリーランス=自由契約勤務者は、現代日本ではときに「落ちこぼれ」として扱われます。「あそこんち、長男はそこそこの企業に就職できたけど、次男は未だにフリーターなんですって」という具合に、ご近所の噂話にされ、悪口のネタにされる存在です。

 
 日本の多くの大学は、助教(専任講師)、准教授、教授というヒエラルキーで大学の教育を組織していますが、実際の授業担当の多くは1年契約の非常勤講師が請け負っています。請負授業担当者の職名が「非常勤講師」です。

 私は、長いところでは25年も続けて非常勤講師として毎年契約を更新してきました。しかし、これからの若い人には、これすらできなくなります。「5年雇い止め」という方針が出されたので、大学は5年以上続けて非常勤講師を雇う場合、常勤講師として採用が求められることになったのです。結果、多くの非常勤講師は、5年続けて働くと、次の年には契約を更新してもらえない、ということになってしまいました。大学は、常勤講師を雇わずに安い給与でこき使えることで人件費削減を測ってきたのに、5年目に常勤講師に雇うなら、人件費がかかって損するから、契約更新しない。別の人を雇えばいいだけです。博士号を得たものの、働き口がない博士課程修了者はごろごろいますから、大学側にとって、特に不自由はない。

 困るのは、これまで非常勤講師の働き口を、掛け持ちで仕事をしてきた講師たち。私は、月曜から金曜日まで、5つの国立大学私立大学を駆け巡って、7種類の異なる内容の授業を受け持って、「人間業じゃない」というようなアクロバット労働をしてきましたが、25年も続けていればなんとかやりくりする方法もわかってきました。学生には好評を得た授業もありますが、どんなに授業に熱意を傾けても、それが評価されたことはありません。大学の評価は、紀要掲載の論文本数や学会発表の回数で決まるのですから。

 「新任に誰を採用するか」は、「どの教授の推薦があるか」とか、「どの理事の後ろ盾があるか」という学内政治やら力関係やらで決定されるのです。このへんの裏事情は、人文系教授会の裏側なら、筒井康隆の『文学部唯野教授』、医学部なら山崎豊子の『白い巨塔』を読んでもらったほうが、話が早い。小説だから、嘘っぱちだろうと思うなら大間違い。実によく取材できたと感心する内容です。事実は小説以上のすごいことになっていて、ポストを得るために長年艱難辛苦をたえたあげくに昇進させてもらえなかった恨みから、国立大学でも私立大学でも大学内で殺人事件が起きて、上司の教授が殺されています。殺人に及ばないまでも同種の恨みは全国の大学に多々あろうことがわかります。

 シェークスピアの家紋のように、高々と槍を掲げたいけれど、「自由な槍、フリーランス」として働いてきた私の労働形態も、ついに槍をへし折られる日も近い。
 次の働き口を探さなければいけないのだけれど、さてさて、一本槍振り回しながらの野垂れ死にも、それはそれで我が運命、、、、
 企業に所属して自由にものも言えない勤労者として30年働けば、少ないながらも食べていくほどは厚生年金がもらえます。
 フリーランス、自由な槍は、請負個人企業なので、年金はありません。ここに来て、自由な槍はぽっきりとへし折られます。

 我が生涯、ことばの教育ひとすじ、言語教育一本槍。と、言うのはかっこいいけれど、折れやすい一本槍でした。刀折れ矢尽きて、槍はへし折られる、老残兵は足引きずりながら立ち去るのみ、、、、といきたいところですが、老残兵の物語はまだまだ終わりなく、だらだらと、、、、。

<つづく>
2013/01/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(5)弓矢で射て食うヤバいラーメン

 江戸の十四事の第一番目が「射」。
 弓矢は、旧石器使用の狩猟採集時代から、人類にとって大切な道具でした。
 この列島に「いくさ」が起きて以来、弓矢はもっとも強力な武器であり、平安期から鎌倉時代の源平合戦など、南北朝、戦国時代前期まで、徒歩(かち)雑兵ではない、ひとかどの武士(騎馬武者)にとって、主な兵器は弓矢だったのです。「海道一の弓取り」と評されることは武士にとって名誉なことでした。

 この「騎馬武者による弓矢の戦い」を徹底的に変えたのが、尾張の織田信長だということは、どの歴史教科書にも載っていることなのですが、徳川の安定時代になると、武士の十四事においては、鉄砲術は弓矢より上に見られることはありませんでした。鉄砲はあくまでも雑兵の武器でしたから。
 私がこどものころに見たチャンバラ映画でも、ピストルを構える武士に対しては「なぬっ、飛び道具とは卑怯な!」と嘲りの叫びが浴びせられるのが常で、「騎射」すなわち馬術と弓術や剣術のほうが武士らしい術と思われていました。

 武士の武芸十四事のうちの「射」が庶民に渡れば「射的」となり、「矢場」といういかがわしさも含む場所に様変わりしました。「射」の腕前が賭け事の対象になり、矢場は「不健全さも含む娯楽」に変わったのです。

 言語文化を追求した一本槍の教師として、「現代日本語」という科目を学生に講じるとき、シェークスピアの振り回す槍の話のほか、「やばい」も主要なネタです。言語の変化、流行語と時代語などについて話す、社会言語学基礎をテーマにしたときに、学生に問いかけます。

 行列ができる有名なラーメン屋に入ったグルメタレントがひとくちラーメンを食べて「う~ん、これはヤバい!」と叫ぶテレビ番組を見たとき、このラーメンは「うまい」「まずい」どちらでしょう、というクイズを出します。平成以後の生まれが大学に入学するようになった数年前から、学生の反応は100%「うまい」であって、「まずい」に手を上げる学生はいなくなりました。
 「やばい」は、ここ50年のあいだに、意味変化を遂げた代表的な日本語です。

 「すごい!」が、平安時代の「すごし=ぞっとする、気味悪いようす」から「ぞっと鳥肌立つほどすばらしい」に意味が移行しました。現代語では、「彼はすごいよ」と言えば、「彼はぞっとするような冷たい人だ」という意味ではなく「彼はすばらしい」という褒め言葉の方にしか受け取られなくなりました。
 
 20世紀のあいだは、「ヤバいラーメン」と言えば、怪しげな骨のだしなんぞをつかっていて、腹下しなど起こしかねない調理法のラーメンでしたが、21世紀も四半世紀すぎてしまえば、「やばいラーメン」は、褒め言葉。

 語源は、諸説あるなかで流布している説のひとつがあります。「江戸時代元禄期以後に広がった矢場で接客する女性を矢取り女、矢場女と呼ぶ。矢場で働く「矢場女」から、「矢場い」が危険な、良くない、という意味になった、という説。弓を射て当たれば景品を得る娯楽の場だった場所が、接客の女性を置くことによって次第に私娼窟化し、吉原などの管理された公娼に比べて、病気にかかっている率の高い危険な女性に接する場、というわけです。

 もっとも、「矢場い」が実際に掲載されている江戸期の黄表紙本赤表紙本などの出典が見当たらないので、未検証の説ではあります。語源学にとって、文献に出ていない「推測」による説は、おもしろくはあっても、学説にはなりません。

 1915年には、やくざが警察官を「矢場」と読んで危険視したという説もあります。こちらは明治以後の小説、暗黒社会探報ルポなどの記事をたんねんに探せば、掲載文献が見つかるかもしれません。どなたか、デジタル化した新聞のなかから「やばい」を探し当ててください。当たるも当たらぬも、弓矢しだい。江戸の矢場では見事マトを射抜けば、矢場女がドドンと太鼓鳴らして「あたりい~」と大声で褒めてくれましたが、「矢場い」が江戸時代の文献中にみつかれば、春庭が「大当たりい~」と褒めてさしあげます、、、景品がでないんじゃ、やるきでませんね。 

 和弓弓道を極めた人によれば、大切なのは精神修養ということになるらしいですが、江戸時代の娯楽としては、どうもやばかった。
 矢場は、明治末期の浅草奥山でも繁盛していた娯楽でした。

 現代のスポーツとしては、アーチェリー、射撃、馬術、フェンシング、どれをとっても西洋由来のもので、弓道、剣道などは、柔道が世界的なスポーツになったのに比べて、「ガラパゴス化」というか、日本国内競技にどどまりました。スポーツとしての和弓が衰退してしまうとしたら、ちょっとやばくね?

 下の人形は、弓を引いてマトに当てる動作をするからくり人形です。人形が矢を選び、弓につがえて「よっぴいてひょう」と放ち、的を射るまでを自動で行います。
 からくり儀右衛門こと田中久重の作った「弓曳き童子」。160年前に田中久重が作った最高傑作のゼンマイ式からくり人形が世界に2体だけ保存されていたものを複製復刻した人形です。


 私が新年の江戸東京博物館3日15時の最終回で見たときは、4本の矢のうち最初の1本だけが的に当たりました。太夫さんの口上では、2日3日続けての実演で人形童子も疲れたのだそうです。
 新年にいいものを見せてもらいました。日本のものづくりの実力を感じました。日本のものづくり、やばいよ(ほめことば)。

疲れていない方の弓曳童子をきれいな画像で(借り物:この弓曳童子が日本の2013年度機械遺産に登録されたというニュースの画像)


<つづく>
013/01/08
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>謹賀新年2014十四事(6)鉄砲&無鉄砲

 前回の「弓矢」コラムにコメントをいただいたので、今回の文につなげさせていただきます。

(まっき~)2014-01-07 05:36:45 
あんまりこっちへ来るんじゃねぇ!
そういい放ちながら鉄砲を構える仲代に、三船はニヤッと笑いながら刀一本、ずんずん前に進みましたね。
三十郎だから出来るのでしょうし、あるいは三十郎は、鉄砲を知らなかったのかな、そんなことないよね。

<春庭回答コメント>
 鉄砲の射撃精度があがるのは、幕末のゲーベル銃 スナイドル銃スペンサー銃などの輸入とそれを模した国産銃のころからだと思います。戦国期の鉄砲戦術では、多量の鉄砲で一斉に撃ちかかる集団戦でこそ威力を示すことができました。
 三十郎は、当時の銃では相当の射撃専門の使い手でなければ、そうそうは当たらないことを知っていたのだろうと思います。仲代の半兵衛じゃ、おそらく当たらないだろうと、三十郎は半兵衛の腕前を見抜いていたという設定だったのかも。

 「1対1」の戦いになったとき、正確に当たるほど近寄るならば、剣で立ち向かうことも可能になるということを、黒沢は知っていたのかどうかわかりませんが、知らなくたってたぶんあのシーンを撮ったんでしょう。1人で30人斬りという殺陣が可能かどうかのほうはちゃんと考慮したみたいだけれど。

 2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』。主人公の八重は、砲術師範の家の娘で、女には触らせてもらえなかった銃を男と同じように使えるようになりたいと熱望し、会津戦争のおりには、女性ながらも最前線で銃撃戦を演じました。最初の夫とは銃の改造などで共に働き、二度目の結婚では夫新島襄を助けて同志社大学を創立する。晩年は看護婦として日清日露の戦いに傷ついた兵士を看護。

 私の郷里の群馬県では、郷土かるた(上毛かるた)の「へ」は、「平和の使い新島襄」なので、新島襄の名と同志社大学の名は、子供でも知っていました。しかし、新島夫人の八重のことはほとんど知りませんでしたし、会津戦争についても「白虎隊」「婦女隊(娘子隊)」の名を知るのみでしたから、幕末の東北を知ることができて、よかったです。
 八重の最初の夫川崎尚之助が晩年に「会津戦記」を書き残していた、というような脚色は歴史実証主義の人には不評でしたが、まあ、ドラマだからそれくらいは、、、、、

 鉄砲に関することで2013年に印象に残ったこと。年末12月にミハイル・カラシニコフ(1919 - 2013)が亡くなったこと。私の父と同じ1919年生まれのカラシニコフ。今まで生きていたことにびっくり。

 2003年か2004年だったか、新聞連載の松本仁『カラシニコフ』の連載を興味深く読みました。AK47突撃銃通称カラシニコフ銃のことがくわしくルポされていました。
 彼が設計した銃が世界中で1億丁も存在して紛争の渦中にあること。子供でも簡単に扱えて、徴兵された少年がたちまち兵士に仕立てあげられていくこと。
 人が生きていくのに当然あるべき平和な暮らしが、ただ一丁の鉄砲の一発からたちまち紛争へ、市民戦争へと突き進んでしまう。紛争の渦中にいつもカラシニコフ銃がありました。銃を回収して代わりに農具を配布する運動もあることなど、安全な町や村で平和な生活が安心しておくれるようにする努力が続けられてきたこともルポされていました。

 「彼らは剣を打ち直して鋤とし槍を打ち直して鎌とする」という一文が「イザヤ書」2章4節にあります。
 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。

 世界中の銃が鋤に打ち直される日が近いように。わが子が銃を持つことなく生涯をすごせるように。

 「親譲りの無鉄砲で子供の頃から損ばかりしている」は、夏目漱石の『坊ちゃん』の冒頭です。
 中学国語に載っていたこの冒頭で、国語教師は「無鉄砲とは、鉄砲も持っていないのに戦場に飛び出していくような、分別のない蛮勇」と解説していました。私は長い間、それを信じて使っていました。
 日本語教師になって、何事も原典や語源をさぐる癖がつき、無鉄砲とは「鉄砲が無い」のではなく、無手法=やりようのない状態でことをはじめる、無点法=返り点なども知らないのに、漢文を読むような無分別。ということなのだと、ものの本で知りました。

 無手法が言いやすいように促音が加わって、「ほ」がho→poとなって、「むてっぽう」が成立。当て字として「無鉄砲」になった、ということらしいです。

 世界中から鉄砲も地雷もなくなって、兵器武器のない世にしたい、と願うのは、武器を世界に売りたいと願う今の政府から見ると「無鉄砲」な無分別なことになるらしい。
 理想論と笑わば笑え。私は世界中から武器をなくしてほしいと願い続けます。

<おわり>

ぽかぽか春庭「2013年12月 目次」

2014-03-16 | インポート


みなさまよいお年を!!

2013/12/31
ぽかぽか春庭2013年12月目次

12/01 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>明かりを灯す人(1)キルギスの電気どろぼう
12/03 明かりを灯す人(2)ハンナ・アーレントその1
12/04 明かりを灯す人(3)ハンナ・アーレントその2
12/05 明かりを灯す人(4)星の銀貨実験-お金なしに生きる方法

12/07 ぽかぽか春庭今日のいろいろ>表明します

12/08 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(1)師走、HALセンセも走るついたち
12/10 十三里半日記12月(2)等々力渓谷を歩く・日曜地学ハイキング
12/11 十三里半日記12月(3)田園調布古墳群・日曜地学ハイキング
12/12 十三里半日記12月(4)お屋敷町の衣装並木、地元のバレエフェスティバル
12/14 十三里半日記12月(5)ミッドナイトタウンイルミネーション

12/15 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>文型指導・語彙指導(1)誤用研究、朝起きたり洗濯したり
12/17 文型指導・語彙指導(2)酒が飲めます
12/18 文型指導・語彙指導(3)ドーデモいい話

12/19 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(6)オペラ『秘密の結婚』
12/21 十三里半日記12月(7)ビックリスマスコンサート
12/22 十三里半日記12月(8)さいたまスーパーアリーナで全日本スケート第一日目を見た
12/24 十三里半日記12月(9)年末イルミネーション
12/25 十三里半日記12月(10)クリスマスミサ

12/26 ぽかぽか春庭ブックスタンド>2013年9月~12月の読書メモ

12/28 十三里半日記12月(11)世情-シュプレヒコール入り
12/29 十三里半日記12月(12)雨の金曜日に

ぽかぽか春庭「2013年9月~12月の読書メモ」

2014-03-16 | インポート


2013/12/26
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2013年9月~12月の読書メモ

@は図書館本 *は図書館リサイクル本 ¥は定価で買った本 ・はBookoffほか古本屋の定価半額本&100円本。

<日本語・日本言語文化論>
・阿辻哲次『漢字社会史』1999PHP新書
・濱口恵俊編『日本社会とは何か』1998NHKbooks
@A・ゴードン『ミシンと日本の近代』2013みすず書房
・加藤周一他『日本文化のかくれた形』1991岩波同時代ライブラリー

<小説 戯曲 ノンフィクション>
・井上純一『中国嫁日記一、二』2011、2012 エンターブレイン
・大江健三郎『二百年のこども』2003中央公論新社
@井上ひさし『言語小説集』2012新潮社
@井上ひさし『わが友フロイス1999文藝春秋
・藤沢周平『橋ものがたり1999新潮文庫

<評論 エッセイ>
・長森光代『ブルゴーニュの村便り』1983中公文庫
・林直美&篠利幸『シエナ-イタリア中世の都市』1998京都書院
・関川夏央『司馬遼太郎の「かたち」―「この国のかたち」の十年 』2003文春文庫
・澤地久枝『家計簿の中の昭和』2009文春文庫)
・須賀敦子『地図のない旅』1999新潮社
・司馬遼太郎『神戸横浜散歩・街道をゆく21』1988朝日新聞社
・司馬遼太郎『沖縄先島への道・街道をゆく6』1978朝日新聞社
・齋藤愼爾『寂聴伝―良夜玲瓏』2011新潮文庫
・村上春樹『遠い太鼓』1997講談社文庫
* 安冨歩 『生きる技法』201青灯社
・藤森照信『日本の近代建築 上・下』1993岩波新書
・藤森照信『建築探偵奇想天外』1997朝日文庫
・藤森照信『アール・デコの館―旧朝香宮邸』1993ちくま文庫
・東京建築探偵団『建築探偵術入門』1991文春文庫ビジュアル版 
@内田青藏『お屋敷散歩』2011河出書房新社
@五十嵐太郎『現代日本建築家列伝-社会といかに関わってきたか』2011河出書房新社
@増田彰久『西洋館を楽しむ』2007ちくまプリマー新書
@増田彰久『棟梁たちの西洋館』2004中央公論新社
@阿部編集事務所『東京古き良き西洋館へ』2004淡交社
@亀田博和『教会のある風景』2000東京経済


 今年後半の読書もまとまったものは読めず、いきあたりばったり、電車の中で読むのに手軽な文庫本ばかり。古本屋の百円本や3冊200円なんて本を適当に買って読むので、まとまったテーマにはなりっこない。

 それでも図書館で借りた本は、建築本をまとめて借りました。これまで「見ること優先、なまじっかな知識は不要」と思ってきた建築関連の本をいくつか読みました。それでこれから先の建物散歩がより楽しくできるかどうかはわかりませんが、とにかく建物の写真を見ているだけでも面白かったです。
 たとえば、年末にライトの自由学園明日館と遠藤新の自由学園講堂を見たとき、藤森照信の「日本の近代建築」や「現代日本建築家列伝」を読んだあとで見たので、ライト遠藤の師弟関係の意匠の系譜などをよりくわしく見ることができたと思います。

 来年も読む時間は電車のなかでしょうけれど、電車の中で寝てしまうことが多くなった今日この頃、どんな本とめぐりあうのか、楽しみにして新しい年を迎えましょう。

<おわり>

ぽかぽか春庭「十三里半日記12月後半」

2014-03-16 | インポート
2013/12/19
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(6)オペラ『秘密の結婚』

 12月12日、溝の口の洗足学園前田ホールで文化庁委託事業のオペラ公演『秘密の結婚』を見ました。若手のオペラ歌手育成のために文化庁がお金を出しています。見る人は整理券をもらえば、無料でオペラが見られます。無料大好きの私、ジャズダンス仲間のコズさんに誘われて、仕事を終えた足で溝の口に向かいました。コズさんが所属している女声合唱団の指導者が、洗足学園の先生なので、無料鑑賞券をもらえたのだそうです。

 定年退職したあとのこの2年間、のんびりすごしているコズさん、「平日だから、みんな仕事あるし、付き合ってくれる人いないんだ」というので、いっしょにオペラ鑑賞となりました。現地集合の約束の前田ホールへ向かおうとしたのですが、例によっての方向音痴、地図を見つめながら、北口南口西口東口と、溝の口駅の周りを2周しました。ぐるぐる回ったので、どこがどこなのかわからなくなりましたが、どっちかの出口はイルミネーションがきれいでした。

 溝口から徒歩7~8分とかいてあったのだけれど、あきらめてタクシー拾おうとしていたら「e-Naちゃん」と呼ぶ声。現地集合のはずのコズさんとばったり会えたのでした。

 『秘密の結婚』は、ドメニコ・チマローザ作曲のオペラ作品です。
 チマローザ(1749 - 1801)は、ナポリ近郊で生まれたイタリア人で。18世紀後半にウィーンの宮廷音楽家として活躍した人だそうです。チマローザと同時代の作曲家としてはモーツァルト(1756 - 1791)があまりに傑出して有名。モーツァルトはチマローザより7年遅く生まれ、10年早くなくなっています。私は、チマローザをぜんぜん知りませんでした。
 まったく同じ演目が、10月に東京芸大の(新)奏楽堂でS席5000円で上演されていましたから、今年はチマローザブームなのかしら。

 『秘密の結婚』は、1972年、チマローザ42歳の作品で、オペラ・ブッファの代表作。貴族の娯楽であったオペラの中に、市民を登場させたオペラブッファは、市民階級の男女や下男女中までが主役を担うという点で、それまでのオペラから見ると「庶民的」なものになっていました。

 『秘密の結婚』の台本は、ジョバンニ・ベルターイ。
 商人階級ながら成金の大金持ちとして次は名誉と名声をと狙っているジェロニモが、娘を貴族階級と結婚させようとはかります。長女のエリゼッタは、伯爵との見合い話に大喜び。しかし、次女のカロリーナは、下僕のパオリーニと愛し合い、すでに秘密裏に結婚しています。身分下の男との結婚を父親に認めさせるためには、姉が貴族と結婚し、父の機嫌がよいときに打ち明けるのがいいと考えています。しかし、ジェロニモの招きで家にやってきたロビンソン伯爵は妹のカロリーナに一目ぼれしてしまったので、話はこんがらかり大騒動となります。

 お話は、オペラブッファの定番通りに、わいわいと楽しく、大騒ぎも最後には大円団。それぞれの人に見せ場の歌があり、重唱あり四重唱あり。舞台の上部に字幕が出るので、イタリア語での歌唱でも大丈夫でした。これまでオペラの舞台を敬遠していたのは、オペラチケットが高い、ということと、原語で歌われても意味わかんない、ということがあって、オペラを見るのはもっぱらテレビの舞台中継のみでした。テレビだと字幕が出るので。日韓合同公演の舞台や聴覚障碍者といっしょに楽しもうとする舞台で、字幕付きの上演を見てきましたが、そうですよね、オペラも字幕で楽しめるんでした。

 出演者は、若手オペラ歌手からオーディションによってえらばれています。音楽大学やオペラ歌手養成所の卒業生であっても、なかなか主要な役にはつけない現状がありますが、文化庁は、「若手オペラ歌手育成」のために、公演を企画したのです。
 ロビンソン伯爵の従僕役で舞台に登場したダリオ・ポニッスィ、実は、この公演の演出家です。6名の主要出演者たち、厳しいオーディションを勝ち抜いた歌手だけあって、それぞれ役柄に合っていて、とても上手でした。父親ジェロニモの役の人もほんとうは33歳ですが、立派にと老け役をこなしていました。
 
 出演者たちは、オーディションから3か月の間けいこを続けたそうで、たった一回の公演ではもったいないと思いました。
 見ている層は、若い人はおそらく出演者のおともだちか、オペラ志望の音楽大学学生。あとの観客は、ほとんど、中高年でした。これは、他のクラシックコンサートも同じ。そりゃ、若い人はロックやアイドルのコンサートに出かけるのに忙しくて、オペラなんぞ見ないわねぇ。思うに、文化庁は「若手歌手育成」と同時に観客育成もしておかないと、われわれの世代がいなくなったあと、オペラを見る客はいなくなるんじゃないかしら。

 また無料の公演があったら見に行きたいです。むろん、外国歌劇団の引っ越し公演なんぞのS席ウン万円のチケットをお持ちのからのご招待も受付中。

<つづく>
2013/12/21
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(7)ビックリスマスコンサート

 12月15日、池袋の芸術劇場で、ビックリスマスと銘打ったコンサートがありました。中島啓江、江原啓之、渡辺真知子という、いったいこの組み合わせは何なんだと、首をかしげながらも、私が出かけたのは、ジャズダンス仲間のミサイルママが区民合唱団の一員として出演するからです。

 合唱団の指揮指導を続けている坂本和彦さんの音楽事務所に所属するG.dream21というオーケストラ。女性ソリストが22人集まってオーケストラを結成した、というチームです。予定の演奏曲目として、ボレロ、リベルタンゴ、ダニー・ボーイ、アメージング・グレースなどが並んでいましたので、女性オーケストラによるソフトミュージックの合間に坂本先生とゲストのトークでつなぐ構成なのだろうなあ、でも合唱団は何を歌うんだろうと思って出かけました。

 最初は、「女性オーケストラによる女性を主人公にした音楽」カルメン、江、篤姫など、物語や歴史上の女性のうち「強い女性」がテーマです。司会&指揮の坂本先生はテレビを見ないそうで、「江は、13代徳川将軍の奥さん」と紹介していました。観客の多くは中高年女性です。女性が主人公の大河ドラマが大好きな年代の奥様方が大半ですから、「あらあ、違うわよね」と、ざわついていました。坂本先生は、NHK大河ドラマのテーマ曲ばかりを集めたコンサートも指揮したことがあるそうです。

 休憩をはさんで、第2部は合唱団も登場し、「もろびとこぞりて」などプログラムにないサービスのクリスマスソング。ミサイルままは合唱団のいちばん後ろの列でしたが、「今回はクリスマスだから、いつもの黒いロングスカートに白いブラウスという定番の衣装のほかに、光り物を身につけていいっていうお許しが出たの」と、おしゃれしてきて、歌声にも気合が入ったようすでした。

 第二部は、ゲスト3人が順にうたいました。渡辺真知子「かもめが翔んだ」、中島啓江「アメイジンググレイス」は、予想通りの曲目でしたが、江原啓之、私はスピリチュアルなんたらという活動しかしらなかったので、「オペラ歌手もしているんです」というのを初めて知りました。

 「2015年に大阪で夕鶴を上演するんですが、私は運ずの役をやります」とオペラ歌手として実力があることを強調していましたが、私はあまり江原さんの声が好きじゃなかった。ちょっと魅力に欠ける声のように思いました。会場には熱狂的な支持者がいるらしく、私の一列前の女性は一曲おわるたびに立ち上がって「一人スタンディングオベーション」をやり「ブラボー」と声張り上げていました。腕には天然石ブレスレット。なんだかいかにもの信者っぽい人なので、ちょっと興ざめしました。どうも、私はこの手の熱狂に醒める人なので。
 彼のスピリチュアルに共鳴する人にとって、すばらしい歌声に酔いしれることができるのでしょうが、まあ、声というのはすきずきですから。

 最後の曲は合唱団とオーケストラの共演で「ボレロ」。クレッシェンドの大盛り上がり、大迫力で終わりになりました。ああ、でも私はボレロはやっぱりバレエとともに味わいたい。

 年忘れのコンサート、せわしない年末に心楽しいひとときでした。

<つづく>
2013/12/22
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(8)さいたまスーパーアリーナで全日本スケート第一日目を見た



 12月21日、全日本フィギュアスケート選手権第一日目を見てきました。
 妹が入場券をとってくれたので、「1年間いっしょうけんめい働いた私へ、わたしからのクリスマスプレゼント」として、出かけたのです。


 さいたま新都心駅で妹と待ち合わせ。中華店で「ランチコース」を食べました。前菜、フカヒレ入り中華スープ、北京ダック、チンジャオロース、エビチリ、チャーハン、坦々麺、杏仁豆腐など、どこにでもあるものを並べたコースでしたが、おなかいっぱいになりました。

 食べながら、妹と「こどものころ、伊香保スケートリンクへすべりにいったね」と、思い出話。冬になって湖氷結のニュースを心待ちにしていて、いちばん最初に凍るのが赤城大沼、そのあと榛名湖、それから伊香保スケートリンク。姉と私は赤城大沼までバスで片道2時間の山道が我慢できるのですが、妹は体が弱かったので、バスで1時間でいける伊香保スケートリンクが凍るまでは滑れなかったのです。
 昔のフィギュアスケートは、氷の上に八の字や円を描いてすべり、3度すべって3度とも同じ線の上を正確にすべれたら勝ち、という競技でしたから、私はフィギュアスケート靴ですべっていても、フィギュア競技には関心がなくて、スピードスケート靴ですべっている男の子のグループに混じって競争するのが楽しみでした。男の子に勝てるのがうれしかったのです。

 息子が小学生のころ、いっしょにリンクへ通いましたが、それもはるか昔のことになり、今は見る専門です。それもテレビ観戦ばかりで、ディズニーオンアイスなどのショウは見に行ったことがあるけれど、競技会を生で見るのは初めてのことなのです。

 1万8千人収容できる、というさいたまスーパーアリーナがほぼ満員。2014年冬期オリンピック最終選考会を兼ねる大会というので、異様な熱気で盛り上がっています。
 3時15分にアイスダンスから競技が始まりました。
 アイスダンスは4組が出場。リード姉弟が最初の滑走で、日本ではほかに対抗馬はいないという実力を見せました。紫色の衣装もとてもきれいでした。

 ペアは、ジュニアペアが2組、女子選手と外国人男性選手のペアです。シニアは高橋成実木原龍一ペアだけ。木原は、シングルからペアに転校して1年で、すばらしい成長を見せました。世界に伍していくにはまだまだ課題があるでしょうが、挑戦し続けてほしいです。
 以前、高橋成実が怪我をして試合を休んでいた頃、一度駅で見かけたことがありました。お母さんといっしょでしたが、小学生にしか見えないくらいの小さな体つきでした。しかし、氷の上では堂々としていて、とても大きな存在に思えます。

 さて、いよいよ男子シングル。第一滑走の日野龍樹は緊張してしまったのか、成績が伸びませんでしたが、二番目の田中刑事はいい出来でした。第2グループの若い選手たち、高校生の宇野昌磨もすばらしかったし、2000年生まれの13歳、山本草太も、これからの時代をになっていく勢いを感じました。

 第三グループ、あまり知っている選手がいなかったので、妹は「トイレタイム」。第4グループの演技を見落とすわけにはいかないので、それにそなえてのトイレ。整氷時間の15分間に並んでも、みな考えることは同じなので、第3滑走グループと第4グループの間の時間、トイレ前は長蛇の列。私は諦めて席に戻り、妹は第3グループの演技を見るのをあきらめてトイレの列に並び続けました。第3グループの出場者のみなさん、ごめんなさい。でも、ちゃんと見ていた私も、第3グループの演技はまだまだに思えました。全日本選手権に出るというだけですごいことなんだけれど、世界のトップに立っている現在の日本の男子シングルトップとはだいぶ差があるなあという感想でした。

 いよいよ第4グループ。町田樹は93点いう高得点で、あとに続く選手にプレッシャーをかけました。無良、織田、中村健人らは、少し調子悪かった。
 第5グループ、羽生結弦がミスなくすべての回転もきめて103.10の高得点。小塚も90点代をマーク。
 私が祈りを込めて見守ったのですが、高橋は残念ながら転倒もあって82.57 。でも、きっとフリーで盛り返すと思います。とにかく会場は「DISK」タオルがずらりと並ぶ。みんな、どんだけ高橋が好きなんだよ、というくらい高橋ファンが圧倒的でした。

 高橋も織田も、今シーズンで競技生活からは引退ということなので、最後のがんばりを見せています。
 テレビでは顔の表情などもよく見えるのですが、競技場では、オペラグラスで見るよりも全体を見渡していたほうが楽しい。リンクのはしからはしまで滑っていくスピード感がすばらしいです。

 妹は、前橋で行われた東日本大会も見て、安藤美姫の逆転2位に感激したそうで、来年の世界フィギュア選手権のチケットもすでに先行予約してあるのだって。私はそんなに入場券買えないから、明日の浅田真央ちゃんほか女子ショートと男子フリー、テレビで応援します。 
 
<つづく>
2013/12/24
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(9)年末イルミネーション 

 12月22日は、20年ほど前の教え子とランチ。ずっと日本に残って勉学に励み、昨年ようやく博士号を得たのに、就職口がなかなか見つからなくて、という悩みを夏休みにきいたあと、私も何人かの先生に、どこかよい勤務先がないか声をかけてみたのですが、今は文系もオーバードクターの氷河期、そうそうすぐには専任の口はない、ということで、彼女の身の振り方を気にしていました。

 冬休みになって「1年任期ですが、特任研究員のポストが見つかりました」という連絡。おおやけの機関での研究員、1年更新で3年までは連続更新できるそうなので、きっとその先の展望もあることでしょう。
 ランチのパスタをいただきながら、来し方行く末の話をしました。故国で日本語をある程度学んでから来日し、日本の専門学校に入学、私立大学の日本語学科に転入しました。私が彼女に教えたのはこの頃。とても真面目で優秀な学生でした。さらに国立大の修士課程、博士課程に進み、博士号取得までがんばりました。

 故郷の両親は、このまま研究ひとすじに生きていくことを了承し、がんばりなさいと言っているそうで、私もこの先、よい研究を続けていけるよう応援しようと思います。

 年末、街のあちこちに鮮やかなイルミネーションが輝いています。今年、志を得た人、思うようにいかなかった人、さまざまな思いが重なる年末です。私にとっては、仕事も日々の生活も、自分なりにせいいっぱいやった、という思いと、今年もなにも人様に誇れるようなことはできなかったという思いと。

 そんな達成感もない年末に、自分をはげましてくれる映画のひとつが、フランク・キャプラ監督『素晴らしき哉、人生!It's a Wonderful Life 』です。今年も年末に見ました。
 特別な栄誉栄典に恵まれることもなく妻と子とのささやかで平凡な生活を営んできたJ・スチュアート扮するジョージ・ベイリーが、一度は絶望したあと、自分の人生の価値を知ります。ささやかな人生をおくるすべての人へのクリスマスプレゼント。

 ほんとうは、全ての人が、街角のイルミネーションのように輝いているのだと思いながら、ソチオリンピックフィギュア代表選手決定をテレビでみました。
 だめかと案じていた高橋大輔選手も代表入り。ショートもフリーも4回転が決められなかったので、もうだめかと心配していました。全日本3位に入賞しても選ばれなかった小塚選手は気の毒でしたが、決まった代表選手は、来年に向けてさらに演技に磨きをかけるべく練習を続けることでしょう。がんばれ代表選手!

 さいたまスーパーアリーナ前のけやき広場のイルミネーションです。すべての人が輝く笑顔で行く年を送れますように。





太めのシルエットは、輝かないHAL版「素晴らしき哉、人生!
   


<つづく>
2013/12/25
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(10)クリスマスミサ

 今年の「建物さんぽ」のテーマのひとつは、明治期の棟梁たちが在来の大工技術で西洋建築を建てた「擬洋風建築」。ほかに「明治大正昭和のおやしき」「教会と学校」など、さまざまな近代建築を見て歩きました。

 教会を見て歩くうち、感じたことがあります。お寺や神社は、外からお賽銭投げている限りでは追い出されたりしませんが、内部を拝観するには祈祷料をおさめるとか、法事でお布施を収めるとか、拝観料を払うとかしないと中には入りづらいことが多いのに、教会はドアの前に「どなだでもお入りください」と、書いてあり、信仰について書かれたパンフレットなども「ご自由にお持ち帰りください」と書いてあります。
 無料大好きの私、最後に献金箱にワンコイン入れるだけで、ずいぶん自由に写真も撮らせてもらいました。ありがたいことです。

 年のおわりに、いままで無料で見せてもらったお礼に、ミサに参加して「ありがとう」を言っておこうと思い立ちました。お礼をきいてくださるのが、マリア様かイエス様か大天使様なのかわかりませんけれど。シンクレティズム神仏習合主義の私としては、マリア観音、イエス如来、ミカエル菩薩、きっと私のお礼の気持ちを受け止めてくださることと信じます。信じるものは幸いなれ。

 クリスマスイブの教会めぐり。
 最初は、自由学園明日館。日本では数少ないフランク・ロイド・ライトの作品として国の重要文化財指定になっている建物です。ライトの弟子遠藤新設計の講堂は、道を隔てた反対側に建っています。遠藤は、ライト帰国後に建築を引き継ぎ、本館右側の教室棟も建て継ぎました。

 講堂でのクリスマスミサに参加していこうかと、室内楽グループが練習中の講堂を覗いたら、「主よ人の望みの喜びよ」を演奏中。素人なのだから、ハイレベルを求めてはいけないと分かっていたのですが、「あ、この音、パス」と思ったので、ミサイルままが仕事終わるのを待って、ふたりで目白関口の東京カテドラル教会へ行きました。

 子供の頃教会の日曜学校へ通ったことのあるミサイルままは、これまでに何度か、この東京カテドラルのクリスマスミサに参加したことがあるのだそうです。でも、私はカトリックもプロテスタントも、とにかくクリスマスミサなどに参加するのは初めてです。Zenぶっディストなもんで。信徒以外のもんがミサなんかに出るのはまずいかと思っていました。でも、「どなたもお入りください」が教会の主張だから、ちょっと覗かせてもらいました。

 東京カテドラルのクリスマスイブミサは、夜5時7時10時の3回行われます。私たちは7時のミサに参加。
 「きよしこの夜」は、「しずかな真夜中」という歌詞になっていましたが、最初のこの曲と最後の曲「グロリア」だけ知っている賛美歌で、あとは初めての曲でした。途中90分信徒たちは休まず歌っていましたが、知らない曲の楽譜を見てすぐに歌えるほど歌が上手じゃないので、私は歌えませんでした。ミサイルままは何度か参加したことがあるというし、区民合唱団で楽譜にもなれているので、歌っていました。すぐに歌える人、うらやましいです。

 信徒代表による聖書の朗読はあまりじょうずじゃありませんけれど、朗読専門家でもないからこれでよし。神父さんの説教はオペラのセリフのようにメロディがついていて、信徒はアーメンやら何やら合いの手をいれる。途中、聖体拝受というのがあったけれど、私は信徒でないから、出ていきませんでした。信徒じゃない人は助祭さんの前に出ていっても聖体を拝受せずに「祝福をお願いします」と口上を述べよとのこと。ミサイルままは祝福を受けました。わたしは教会建物めぐりのお礼言上だけとなえて、献金袋が回ってきたので献金。
 初ミサの感想。歌えたらもっと心洗われ清らかな年末になったかもしれないのに。

 パイプオルガンの音色はよかったし、丹下健三設計のコンクリートうちっぱなし大空間は、今でもすごい迫力なのですが、「ああ、私にはやっぱり相性が悪いなあ」という雰囲気。この空間内にいることが、なんとも居心地さだまらない感じ。そりゃ、私が信者じゃないのに、ミサに出ているからかもしれないのですが。丹下健三ファンにはこの空間が「荘厳壮大」と感じられるのでしょうが、ファンじゃない私には、なんともいえぬ圧迫感。「ひれ伏しなさい、ありがたがりなさい」という強迫観念がおそってきてしまう。これは好みの問題でしょう。それに今回は丹下建築の鑑賞会ではなくて、あくまでも教会建築見物のお礼参りだし。

 教会の外の建物では、信徒さんがクッキーとココアのおふるまい。お・も・て・な・し、してくださった。 
 おふるまいのクッキー、もうひとつ欲しかったなあという気分が残る私は、やはり俗人です。
 「おふるまい」ボランティア信徒さんたちの「クリスマスおめでとう」ということば。むろん、「イエスが生まれた日にちは歴史的には解明されていない」などと言うのは野暮ですね。信じるものこそ幸いなれ。メシアはやはり冬至の太陽と共に生まれ、日に日に光の量をまして行ったのだろうなあと思います。

 世界中の地域で、冬至の太陽を「弱まってきた光が新たな生命を得て再生し、復活する」ことを祝います。私も、共に祝います。クリスマスおめでとう。世界中のよいこにサンタさんがきますように。

<つづく>
2013/12/28
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(11)世情-シュプレヒコール入り

 中島みゆき「世情-シュプレヒコール入り」を聞きながら、春庭の年末拾遺をお読みください。
http://www.youtube.com/watch?v=q12S3ggaEIw

♪世の中はいつも 変わっているから 頑固者だけが悲しい思いをする
変わらないものを 何かにたとえて その度 崩れちゃ そいつのせいにする

※シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて
時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため※

世の中はとても臆病な猫だから 他愛のない嘘をいつもついている
包帯のような嘘を見破ることで 学者は世間を見たような気になる

※シュプレイヒコールの波、通り過ぎてゆく 変わらない夢を、流れに求めて
 時の流れを止めて、変わらない夢を 見たがる者たちと、戦うため※

※くりかえし※


 この歌の冒頭に聞こえるのは、三里塚闘争の農民側の声です。
 今、三里塚とまったく同じ構図が繰り返されています。福島原発周辺をふるさととしていた人々の故郷が奪われようとしているのです。札束さえ見せておけば、人と人とのつながりや、土地への愛着や、そんなものはどうでもいいだろう、という「ふるさとを奪う側の論理」が、復活し、より強大な力をふりかざしているのを、今現在まのあたりにしています。

 以下の文章は、2013年1月に見た東京都写真美術館の感想文なのですが、UPせずに放置してありました。何も行動していない現在の自分が感想だけ書く事にためらいがあったからです。
~~~~~~~~~~~~~
 2013年正月に見た写真美術館。3Fは北井一夫の昭和の光景。最近の作品の船橋での撮影などは特に何も思わなかったけれど、「抵抗」、「バリケード」、「三里塚」は、大学紛争や三里塚闘争を同時代に生きた者としては感慨深く見ました。これらの写真を、「歴史的なドキュメンタリー写真」として見る者と、我がこととして見るのでは、見方が違うのかも知れないけれど、ある歴史の瞬間に、「報道する立場」の人が外側から撮影したのとは異なる迫力を感じました。「内側から」というのは、同じ炭坑を記録するのでも、会社側や政府の調査団が記録するのと、炭鉱夫として坑内にいた山本作兵衛の記録では異なる光景となる、というのと似ていると思う。

 地下一階の「映像をめぐる冒険vol.5 記録は可能か」では、三里塚闘争の記録として余りにも有名な、小川紳介『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』を上映していました。
 私が小川伸助の名を知ったのは、1960年代のおわりごろ、ドキュメンタリー『圧殺の森』でした。高崎経済大学の学生闘争を記録したフィルムです。しかしながら、『圧殺の森』を一度も見ていないのです。地元のことなのに、名前だけ知っていて、見るチャンスがなかった。

 小川の『日本解放戦線 三里塚の夏』や『日本解放戦線 三里塚』は、どこで見たのか記憶もさだかではありませんが、1970年代に見た気がするのに対して、『三里塚 第三次強制測量阻止斗争』は見た記憶がまったくなく、この上映ではじめて目にしたのです。

 農民たちの顔、迫力ありました。キョウビの俳優でこの顔の迫真を演じられる人、思い当たりません。肥を我が身にぶちまけ、その肥にひるむ測量隊の人々に「俺たちの土地だ、出て行け」と叫ぶ農婦農夫たちの顔。総武線に乗ると時どき見かける顔に、このドキュメンタリーに出てくる人々の面影を持った人たちを見かけることがあります。もちろん現代の電車に乗っている人々はこぎれいなかっこうをして、親の世代がこのような闘争を繰り広げたことなどまったく表情には表れていません。たぶん、彼らはこのドキュメンタリーを見たいとも思わない、そういう時代になっているのは確かなのでしょう。

 小川作品は、写されている人々の肖像権問題などがクリアされていないのかも知れませんが、DVDなどになっていません。これから上映会などの情報に注意して行きたいと思いますが、私の情報網の網の目は粗いので、2010年にも2012年にも上映会があったのに、網に引っかかっていませんでした。(武蔵大学が小川作品のフィルムを所蔵していることがわかりました)。

 「記録する魂」というのは、私が追求していきたいテーマのひとつです。
 写真美術館での映像収集と上映、ありがたいです。
 忘れ去ってはならない、風化させてはならない光景が、私の中にたくさんある。ささやかな土地に必死にしがみついて生きてきて、いきなり「土地を差し出せ、それが世のため国家のためなのだから」と、農民に有無を言わさず、札束で面をはたいて土地を収容した側に対して、「最後まで戦い抜いたことを記憶する人々」を、私は忘れない。

 成田の滑走路の脇でジェット機の騒音ストレスに耐えながら農業を続ける農家のことも、山形に移り住んで農業を記録しつつ死んだ小川伸助のことも、私は忘れない。

~~~~~~~~~~~~~

 20代のころ。多くの若者がデモに参加していました。政治活動社会活動として参加する人もいたし、「みんなが行くっていうから、暇だし、参加してみるか」という人もいたし、団塊世代でデモに一度も出たことがない人は珍しいくらいにみんなスクラム組んでデモに行きました。私も、「医療労連」の一員で「医療労働者の環境かいぜ~ん!」と叫んだり、ベ平連デモのしっぽにくっついて「ベトナム戦争はんた~い!」「米軍基地はんた~い」とシュプレヒコールに唱和したり。

 しかし、最近の国会周辺金曜日デモには、ずっと参加しないできました。関心がなかったのではなくて、金曜日夜は、ジャズダンスの練習日なので、私にしてみれば、ダンス練習を休んでまで参加しなくても、ほかにいくらでも私の意思を表明する方法はあると思っていたのです。また、政党やなんらかの主義主張の派閥に組み込まれるのもいやだ、と思っていました。学生時代にもベ平連のような「軟弱」といわれる団体のデモに参加していただけの私、ノンセクトを貫いてきたのに、今更どこかの団体に巻き込まれるのもいやだと思って。

 一時は、20万人が参加して、首相官邸のまわり国会の前を埋め尽くしたという反原発のあつまりも、年末、この寒さの中、尻すぼみだというので、それならちょっくら出てみようという気になりました。天気予報は「ときどき雨、北国では大雪」の予報。雨で低気温、年末のこの時期に、いったりどんな人たちが集まるのか覗いてみようというやじ馬参加です。

 というわけで、反原発国会周辺デモ。HALデビュー。2013年12月27日金曜日。
 雨が降ったりやんだりのなか、国会議事堂前駅から、しょぼしょぼとあたりをうろつきました。
 ご報告は次回に。

<つづく>

「世情」引用については、1.引用部分の長さは、全体の論述の三分の一以下である。2.論述を立てるために、引用が重要な要素である。3.引用部分に対して、節度ある引用をしている。
という、引用の要件を満たしていると思いますが、問題が生じれば削除いたします。
2013/12/29
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(12)雨の金曜日に

 2013年11月の自民党幹事長石破茂発言、特定秘密保護法案に反対する市民のデモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」が出されるに及び、おお、そういうことなら、私もテロリストだあ、と思いました。権力側の人間が、反対者に対して「反対することはテロ行為だ」と言い出したのなら、「反原発、反特定秘密保護法案、反武器輸出」を主張する私も、石破氏側から見たら、テロリストだとみなされてしまう。

 批判の高まりを恐れて、石破氏はこの発言を撤回したものの、発言したという事実は残りました。
 驕れる与党のあまりの物言いに、私も決意しました。一度は金曜日に「石破氏のいうテロリスト」になっておかなければ。

 年末、突然の安倍首相の靖国神社参拝。中韓からの反発は予定していたでしょうが、アメリカ頼みの外交なのに、アメリカからも「失望した」と反発されて、これからの外交、どうするつもりなのでしょう。それほど「個人の信念」が大切なら、国の行く末を左右する立場にいることをやめて、辞職ののちに毎日でも参拝に通ったらいいでしょう。

 原発再開へ向けて安全確認がはじまり、特定秘密保護法成立、武器輸出OK。これでいいのでしょうか。
 「大量の票で国民に支持された与党なのだから、何をしようと好き勝手。すべて国民が望んだこと」と、いう思い上がり、許せません。「戦争への道を許さない」という思い、なんとかしなければ。

 12月27日金曜日、午後、5時ごろに首相官邸前は、警察官ばかりが大勢いて、人はぜんぜんいませんでした。国会議事堂のまわりをぐるりと歩いてみました。小雨が降ったり止んだりの中、国会周辺を歩く人はほとんどいません。霞ヶ関近辺の通勤客は、効率よく地下鉄の駅に向かうから、国会議事堂の前を5時すぎにうろうろしていたら、それだけで監視対象みたいです。6時前に地下鉄の国会議事堂前駅に戻ったらぼちぼち人が集まってきていました。

 6時にドラムが鳴り、シュプレヒコールがはじまりました。「原発いらない」「子供を守れ」「再稼働反対」などを、マイクの声ががなり、それに周辺の人々が唱和する。集まっている人々、若い人はほとんどおらず、私くらいの中高年がほとんど。年金暮らしとおぼしき世代ばかりです。
 六本木通りから首相官邸前までの歩道の半分は通行者通路、半分はシュプレヒコール参加者が立っている場所。途中三ヶ所にドラムやサキソホンの「にぎやかし組」がいて、シュプレヒコールが乱れないようにドラムがリズムをとっています。

 私は、最初は歩道に立っている側になってようすを見ていました。「年寄りばっかりだなあ。現役で仕事している人にとっては、年末のかき入れ時にお暇なことやってられないのだろうし、若い人にはもっと楽しいことで集まるのだろう」と思いながら見ていました。シュプレヒコールがなんだかショボイのです。どうにも、のれない感じでした。

 じっと立っていると寒くなるので、反原発とマジックで書いておいた「東京都推奨ごみ袋」に首と腕を出す穴をあけてすっぽりかぶり、歩くことにしました。六本木通りから官邸前のあいだを二往復したら飽きました。こんなことじゃ、いけないなあ、もっと熱心にやらにゃあ、と思ったけれど、私の心情として、つまらないと感じたことをいやいや続けることはないと思い、二往復で歩くのをやめました。

 警察発表とデモ参加側発表の人数はいつも食い違いますが、だいたい1500人~2000人くらいの集合数だったと思います。もっと少なかったかも。
 それぞれが、反原発の思いにかられて、毎週集まっている人、私のように初めて参加した人、いろいろな感情を含んでの参加でしょう。

 人々が立ち並んでいるところを2往復して観察した結果。ほとんどの人が黒っぽい色のダウンコートを着ていたのです。かくいう私も、バーゲンセールで買ったウルトラライトという黒いダウンジャケットにリュックサック背負っている。同じような色合いの同じようなスタイル。警察官が制服着ているのはわかるけれど、てんでんばらばらに集まった人がかくも同じような服装であったことに、一種ショックを受けました。同じような趣味趣向精神状態の人が集合していたということでしょうか。

 それにしても、この薄ら寒い感じは、気温5度というだけでなく、小雨降っているというだけでなく、この人々がショボショボとシュプレヒコール叫ぶのが首相官邸から見えるとして、ああ、反対者はこんなに少数なり。大多数の国民は私の政策を支持している」と、思うだろうなあというところからくるのではないかと思います。お金で横面はたけば、「沖縄に基地を、どうぞどうぞ」となるのだ、という現実。反原発も「福島を返せ」というスローガンのプラカードも、なんだか物悲しくなってきました。



 今の日本、人々はただ物質の豊かさを求めて、「誰かがふるさとも家も失うとしても、自分は電気をめいっぱい使いたい」のだし、自動車業界をはじめ、業績回復の会社にいたら、年末のボーナスをたくさんもらうことのほうが大事。「子供が放射能の危険にさらされる」ことなど他人事、そういう世の中なんだという気がしてきて、歩いている足も重くなる。

 寒そうなおっさんおばさんたちの、ショボショボとしたシュプレヒコール。日本の現実はこういうもんだということが身にしみたけれど、しかし、、、、

 もうちょっと景気いい話で年末を締めたかったのに、しょうがないな、これが現実。
 来年はもう少し元気出していけるよう、年末英気をやしないます。英気といっても、私の場合は、半額セールの焼き芋なんぞを食いまくる、というくらいが関の山なんですけれど。

 焼き芋の売り声、「くりより美味い、十三里半」のはずでしたが、どうにもおいしくない年の暮。これにて「十三里日記」はおひらきです。おつきあい、ありがとうございました。

<おわり> 

ぽかぽか春庭「文型指導語彙指導」

2014-03-16 | インポート

2013/12/15
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌典>文型指導・語彙指導(1)誤用研究、朝起きたり洗濯したり

 日本の社会文化を知る、日本事情の授業。
 日本の紹介の手始めに、お札やコインを見せます。学生が持っている千円、五千円、一万円などの人物紹介、樋口一葉や紫式部の説明をします。紫式部の肖像、二千円札の裏にありますが、留学生が見ることはほとんどないので、いつも財布に一枚入れておき、紹介できるようにしています。二千円札の紫式部、お札界ではマイナーな扱われようですが、日本言語文化にとっては大きな存在。

 日本のお札には偽札防止のいろいろな技術が使われ、世界でも最高峰の印刷技術が注ぎ込まれています。コイン製造にもいろいろな技術が。
 500円玉の00の部分に斜め線が入っているけれど、ここを斜めにして見つめると、00の中には縦に「500円」という文字が刻まれていること、気づいていましたか。また、1円玉1個作るには3円もかかる。だから、ぜったいに偽1円玉はない、なんていう話を留学生にします。

 コインに描かれている絵の紹介。1円玉。若木が描かれたアルミニウム貨で、5円玉は稲穂。50円は菊。百円は桜。500円は桐と竹。さて、10円玉には何が描かれているか。10円だけ金額表示の10に常盤木が描かれ、裏面は他の硬貨が植物であるのに対して、建物が描かれています。このたび、50年ぶりに全面修復がなった宇治平等院です。(2014年4月から再公開)

 「500円玉の00の中に、文字が見えることがわかったら、今度は10円玉を見つめてみましょう。ある不思議なことがあります」
 「なんだろう」という顔が、帰ってきたら、「10円玉に描かれているのは、宇治平等院鳳凰堂です。じっと見つめてください。瞬きをせずにじっと見つめていると鳳凰堂の扉が、とじたりしまったりします」
 さあ、あなたもやってみましょう。

 しばらく見つめていた人が、「ダメだ、瞬きしちゃった」なんて言ったら「諦めたら、試合終了です。さあ、もう一度。じっと見つめていると、こんどは平等院鳳凰堂の扉が、ひらいたりあいたりしますから」
 ここらで、たいていの人は、あれっと言う顔をします。

 「閉じたりしまったりする扉」「開いたりひらいたりする扉」同意語の反復にすぎませんね。これは、「~たり~たり」という日本語表現を利用した冗談です。飲んだり食べたり、踏んだり蹴ったり、行ったり来たり、上がったり下がったり、このような表現をよく使うので、「閉じたりしまったり」と言われると一瞬、ふたつの事象があるような気がしてしまいます。
 
 「~たり~たり」はなじみの表現で、いつもは意識せずに使っているのですが。

 日本語教授法受講の学生に、「~たり~たり」の文型で、留学生がよく間違えて書く作文を例にして、誤用について考えさせます。
 「関西へ旅行にいきました。平等院を見たり金閣寺を見たりしました」という作文はOK。しかし「関西へ旅行にいったり、金閣寺を見たりしました」という文は、日本語文としておかしい、なぜなのか説明してください。
 日本語母語話者は、日頃無意識に日本語を使っています。しかし、日本語教授者は、ことばを意識的に見直すことが重要だ、ということを考えさせる場面です。

 「日曜日に何をしますか」という質問。日曜日にいろいろなことをするうちのふたつを例として出してください、という注文がつきます。
 テ形(連用形)をつなげて、継起的に行動を説明する文型はすでに習っています。「日曜日の朝、7時に起きて、新聞を読んで、コーヒーを飲みます」これはみな言えるようになっています。

 日本語学習者は、日曜日の行動を思い浮かべて、ふたつの動作を選びます。日曜日のふたつの行動を思い浮かべた留学生が次のように言います。
「日曜日、洗濯をしたり、宿題をしたりします」これはOK。
 次の学生、「日曜日、朝起きたりコーヒーを飲んだりします」こちらはダメ。なぜか。

 この留学生誤用について日本人学生に考えさせます。
 「日曜日に、朝起きたり新聞を読んだりします」という文が、日本語としておかしい感じがする、というのは、皆感じるのです。しかし、なぜダメなのかを説明する段になると、「あれ?どちらも日曜日にする行動なのに、なぜふたつ並べて~たり~たり、にするとおかしくなるのか」と考え込みます。無意識に使っている日本語を文法面から意識化することから、日本語教師としての第一歩が始まります。

 「~たり~たり」は、同じ範疇の行動をふたつ並べることによって、他にも同じような行為行動があることを例示する文です。
  京都旅行の作文。「京都へ行きました。清水寺へ行きました。金閣寺を見ました。八つ橋せんべいを買いました」
 「京都へ行きました」と、「清水寺へ行きました」は、同じ「行きました」という動詞を使っていても、行動の範疇からいうと同じものではありません。「京都に到着したあとの「清水寺へ行く、金閣寺を見る」は同じ範疇の行動。しかし、「京都へ行く」と「清水寺へ行く」は同じではありません。「京都に行く」と同じ範疇の行動は、「帰る」です。
 「彼はいつも新幹線で京都に行ったり帰ったりする」という文なら成立します。
 
 日曜日の朝、起きて、また二度寝して、また起きて、というときなら「日曜日、起きたり寝たりします」と言えます。しかし、「起きる」と「宿題をする」は、同じ範疇の行動ではないので、「日曜日、起きたり宿題したりします」は、誤りなのです。

 日本語の動詞、文法活用の面から、五段活用(1グループ、u動詞)一段活用(2グループ、ru動詞)、変格活用(3グループ、する、くる)に、分けられることは、古典文法を習った人にはおなじみ。現代日本語を教えるときも、留学生にとってこの活用のグループ分けは、第一の関門になります。「京都に*行きないことにしました」「京都に*行くばよかった」などの誤用は、初級後半になっても多々出てきます。
 しかし、活用については、日本語母語話者も意識化しやすいので、教える側にとって、説明はむずかしくありません。

 教える側にとって難しいのは、無意識に日本語を使っていると気づかない日本語の法則を意識化することです。
 日本語学習者が間違えたとき、あれ?どうしてこういう表現は日本語として使えないのだろうと考えることから、日本語文法研究が始まるのです。

<つづく>

2013/12/17
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>文型指導・語彙指導(2)酒が飲めます

 日本語を学びたい留学生のための日本語教育の仕事をはじめて25年、日本語教師になりたい人のための日本語学及び日本語教育学を担当して13年。
 日本語教師になりたいと本気で思っている学生には、「留学生の日本語授業を見たことがない人、私の授業を見たいとき、来ていいですよ」と話しています。私が公開している授業は月木金なのですが、その曜日にはほかの必修授業などに出席しなければならないことも多く、なかなかうまくマッチングしないのですが、今期は、木曜日金曜日に授業を見てもらうことができました。

 長年日本語教育を続けてきました。学生の国籍や語学学習歴などを考慮して、クラスに合わせて毎回バージョンを変えて授業を工夫しても、うまくいく授業ばかりではなく、学生が見に来た授業でも多々失敗はありました。ですが、25年続けていてもこの程度の授業なのだ、ということを見てもらうのも、学生にとって学びのきっかけにはなるだろうと思っての公開です。

 10月31日に他大学学生たちの授業参観があったときは、大学行事としての公式の参観なので、いやだいやだと思いました。それは、引率の教授や他クラスを担当している専任教員やらが監視する中での授業だったから。「長年やってるってわりにはヘタな授業ですね」なんて思われるのがオチです。

 幸い、あとで送られてきた参観レポートによると、参観学生たちには参考になったようで、楽しい授業だったとの感想が書いてありました。あまりに褒めてあるので、引率教授が礼儀として「褒めて書きなさい」という指導をしたのかと疑ったくらいですが、他のクラスで参観授業担当した先生は「的外れの批判も書かれていた」とプンプンしていたので、礼儀として褒めたのではないこともわかりました。学校行事としての授業参観をさせられるなんて、いやだったけれど、学生たちの役にはたったのだと胸をなでおろしました。

 金曜日の授業を参観にきている学生は、男の子ふたりを子育て中のママさん学生。私も子供ふたりを育てながら、二度目の大学、大学院と学びを続けてきたので、彼女の意欲も苦労もよくわかります。と、言っても、子供たちを食わせるために奨学金で生活しようとして大学院へ進んだ私。一方の彼女は、港区のタワーマンションの25階に住んで、働かなくても夫の収入でくらしていけるのだそうです。しかし、自分の学資くらいは自分で出したいので、グラフィックデザインの仕事を、家でできる分だけは続けている、という恵まれ立場。

 でも、タワーマンション奥様族の多くは、子供を有名小学校に入学させるだけが生きる目的みたいになるのに対して、自分自身が大学で学ぼうとし、日本語教師になってみようかという意欲を持った彼女、すばらしいと思います。
 「社会人入学したときは、特別日本語教育に興味があったわけではなかったのだけれど、入学後、実際に日本語教育に携わってみたい気持ちが大きくなってきた」というママさん学生の心意気を買いたいと思っています。

 年内最後の日本語教授法の授業では、学生たちに模擬授業を課しました。目的は授業案執筆練習なのですが、せっかく授業案を書いたのだから、案の通りに授業をやってみて、授業案の通りにはいかないのだということも知ることも必要、と思っての課題です。模擬授業そのものは、うまくできなくてあたりまえ。

 日本語母語話者にとっては空気のように当たり前で、なんの不思議も感じずに話したり書いたりしてきた日本語が、日本語学習者にとっては難しくてわけのわからない言語であるのです。「ドアをあける」と「ドアがあく」のふたつも動詞を覚えるだけで負担感が増します。中国語はどちらも「開」の一語英語はどちらも「open」一語、ですむのですから。

 日本語母語話者にとって、どこがわからなくて、どこでつまずくのかわからない。何がわからないのか、というところから日本語を教えだします。学習者がどまどったりつまずいたり、することによって、何がわからないのかがわかってきます。
 
 模擬授業を担当した日本語教授法受講生、動詞の可能形を学習者に教えようとして、「読みます、読めます。読めますは、可能形です。はい、リピートしてください。私は英語が読めます、私は漢字が読めます」これだけで、学習者に「動詞の可能形」の意味が伝わったと思っています。

 教師は、出来の悪い学生役になって、「センセー、カノーケーって、何ですか。私の友達、カノークンです。カノケーとカノークンは同じですか。読みますと読めますは同じですか」と質問します。先生役の学生「あ~、可能は、出来るってことです」「デキルは何ですか。ナイフで切る。ナイフ、デキルですか。フォーク、デキル、スプーン、できる。いいですか」

 クラスの学生全員に英語が通じるのなら「can」と説明してしまったほうが、てっとり早いし、全員が中国人学生なら「能」を出して「私は中国語が読めます=我能看中文」と、翻訳方式で教えられる場合もあります。

 しかし、クラス設定は、世界中いろいろな国から来た留学生が集まっており、英語も中国語もわからない学生もいる、ということにしてあります。ロシア語が話せるポーランド人、ポルトガル語がわかるモザンビーク人、スペイン語を話すペルー人、フランス語ができるハイチ人、などが在籍するという設定で、英語で説明しても、中国語で説明してもダメな場合どうするのか、これを考えるのが、「直接法による指導」です。

 どのように指導したら、日本語がまったくわからない学生に、日本語だけで日本語の意味を理解させることができるのか、この工夫が「直接法ダイレクトメソッド」による教授法の醍醐味です。

 絵カードをつかったり、ビデオ動画をつかったり、さまざまなやり方があります。
 私のお得意は、TPR(トータルフィジカルレスポンス)を使うやり方。身体表現と語学学習を結びつけて、体の動きで練習したり教えたりします。過去の経験が今の仕事に生きている」と感じることのひとつが、役者をやって暮らしたことがある、ということです。人前で声を出すこと体を動かすことを訓練としてやったので、日本語学習者の前で一人芝居をすることが得意です。「~ができる」ということの意味も、いろいろな動作によって示すと面白いです。

 「私は酒を飲みます」と「私は酒が飲めます」このふたつの文のちがいを、日本語を知らない学生に理解させ、「可能」の文型を教えるにはどうするか、年末の忘年会で酒を飲みながら考えてみてください。

<つづく>

2013/12/18
ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>文型指導語彙指導(3)ドーデモいい話

 12月、電車の中で高校生が参考書や単語帳を開いて必死に暗記している姿を見ることが多いです。2学期期末試験の時期なのでしょう。高校2年生の後半の成績と3年生1学期の成績で大学推薦枠などを決める高校が多いせいか、高校生の顔も真剣です。のんびりおしゃべりしているグループ、まだ1年生なのかもしれません。

 私は電車の中で、他の人の会話を聞いているのが好きです。同じ会社同士のおっさんの会話も、買い物帰りのオバハンの会話も、大学生高校生の会話も面白いです。日本語ウォッチング日本語リスニング、楽しいですよ。
 今生きて使われている日本語、同時代日本語観察は、気楽な娯楽でもあり「現代日本語学」を講じている者の仕事の一環でもあります。

 ある日の高校生の会話。「日本語って、おもしろよね。あの人はいい人って、いい意味だよね」
 そうね、性格いい人も頭いい人も、気持ちいい人もいるけれど、いい人はいい人よね。
 高校生は、新発見したという顔で「でもさあ、ドーデモをつけると、いい人じゃなくなるよ。ドーデモいい人って、いい意味じゃないもん」
 話している高校生は、「いい人」の意味が反転してしまう日本語表現を見つけて面白がっているのですが、ケータイに目を落としながら聴いていた仲間たちは、「あのさ、そういう話ばっかしているおまえがドーデモいい人なんだよ」と、あしらっていました。

 「いい・よい」は、プラスイメージの形容詞です。
 しかし、古川柳の「母親はもったいないがだましよい」の「よい」は「~やすい」の意味で、息子に甘い母親を「騙しやすい」とからかっています。ほかにも、「いい」「よい」を使っていてもプラスイメージにならない語を並べてみましょう。

 「調子いい男」はどうでしょうか。「調子悪い」の対義語「調子いい」は、「仕事や体調が順調である」「成り行きや身の回りのことが思い通りにいく」というもとの意味から「相手に迎合しながら事態が順調にいくようにはかる」という意味まで含みます。「調子いい男」は、中味はないのに、うわべの取り繕いだけがうまい男、という意味になっています。
 「いい」の意味範囲が拡大しているのです。

 とくに、反語的に「いい」をつかう場合があります。
 悪い事態に陥った相手に対して溜飲を下げる気持ちで表現する「いい気味だ、いいザマだ」。年齢相応の振る舞いではない年配者に対して不満を表す「いい年をして」。本来とはことなる待遇を不当に得ていると感じる相手に対して「いい御身分だね」など。

 「お茶をもういっぱいいかがですか」とホームステイ先のお母さんにすすめられ、「いいです」と答えたら、お茶をもらえなかった、という話を留学生がしていました。「おちゃ、いいですね。お願いします」という、肯定の意味を伝えようとしたのに、相手には「いや、必要ないです」の意味に受け取られたのです。「いいです」や「けっこうです」が持つ、多義性による誤解。

 本名登録が基本というフェイスブックで、会社の上司に名前を検索されて「友達登録」をするハメになった会社員。上司が何ごとかをUPするたびに速攻で「いいね!」ボタンを押さなにと、翌日に上司から「君、最近僕のコメント、ドーデモよくなってるみたいだね」なんてイヤミを言われるのだとか。ああ、疲れる。

 年末かわいい我が子が家で待っているのに、「どうかね、今夜いっぱい」と上司に言われると「いいですね」と返さなければならないサラリーマン。内心では「上司なんてどーでもいい」と思っていても、答えはいつも「いいね!」ボタン。たいへんですな、ご同輩。 

 で、忙しい年末にドーデモいい話をしてしまいました。

<おわり>


ぽかぽか春庭「十三里半日記12月」

2014-03-16 | インポート
2013/12/08
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(1)師走、HALセンセも走るついたち

 この1年にしなければならぬことを「し果たす」のが「しはす」となり、「しわす」となまったというのが、一番妥当な「師走」の語源と思います。しかし、当て字として「師走」が当てられて以後、なんとなく「日頃あわてぬ師匠も走り出す」というイメージが定着し、日頃ダメダメ教師のHALセンセも走り出す、、、、
 12月1日、まず第一番にしたことは、春庭第一番の趣味であるジャズダンス・サークルのために、練習場所の抽選会に出席したこと。抽選の結果、2014年2月の練習場所が3回分確保できました。
 私は今、サークル会長なので、8,9,10,11月と連続して抽選会に出ています。12月はほかの方に行ってもらうはずでしたが、その人が怪我をしてしまい、ギプスをはめている状態なので、12月も抽選会に出ることになりました。
 そのため、参加を予定していた12月1日の日曜地学ハイキングには途中参加することになりました。

 抽選会が行われた5階から降りてくると、ビルの入り口で「酒田市友好物産展」をやっていました。山形羽黒産庄内柿の「弥右ェ門の干し柿」を自分のおやつ用に買いました。6コ入りパック550円。それから、山形出身の姑へのプレゼントとして、「豆菓子」を買いました。12コ入り480円。

 抽選の時間に間に合うように、朝ごはんも食べずに家を出てきたので、「山形芋煮汁」の列に並ぼうかどうしようかと迷いました。11時に東急線等々力駅につかねばならず、食べていたら遅くなるかもしれません。迷っていたら、「はい、整理券」と券を渡されました。この芋煮汁は、「無料サービス」でした。無料大好きの私。無料なら食べるに決まっている。具だくさんの発泡スチロールのどんぶりを受け取りました。熱いのでフーフー吹きながら、10分で完食。酒田の皆様、芋煮汁、おいしゅうございました。ごちそうさま。

 大急ぎで地下鉄の駅へ。気があせり、電車の中で走る気分の師走。焦るくらいなら、芋煮汁をパスすればよかったのに、無料だからついつい。
 11時に等々力駅に着くのが目標だったのに、10分遅れました。11時10分に等々力駅改札で、日曜地学ハイキング担当のI先生に電話したら「今、九品仏から電車に乗ったところ、等々力に向かっています」とのこと。よかった。遅刻はしませんでした。

 2013年12月01日の「日曜地学ハイキング」。
 日曜地学ハイキングは、「地団研(地学団体研究会)」に所属する地質学化石学古生物学などの研究者たちが、一般の人への普及活動の一環として運営している「化石掘り、地層見学などを通じて、地学に親しむ」ための団体です。

 高校の時は科学部に所属して、「実験少女」のひとりだった私が、唯一現在も続けている「ちょっとは科学とつながっていたい」活動が、「日曜地学ハイキング」です。この会に所属したのは、恐竜大好き少女だった娘が「化石掘りたい」と希望して、「地学ハイキング」の化石掘りツァーに参加するようになったからです。

 娘は今でも「恐竜なんたら展」というのが開催されると、毎年一回は見に行く恐竜ファンなのですが、化石掘りの熱はとっくに醒めてしまい、日曜地学ハイキングに参加するのは、今では私ひとりです。
 今回は、「等々力渓谷の湧水と地層、及び多摩川台古墳群を見るハイキング」。

<つづく>
2013/12/10
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(2)等々力渓谷を歩く・日曜地学ハイキング

 日曜地学ハイキング、他の参加者は、10時に東急大井町線九品仏駅集合し、「九品仏浄真寺」の阿弥陀如来見学からスタートしています。
 まあ仏像拝観は、この日でなくても一人でもできます。それよりも、等々力渓谷で見られるという地層の解説や古墳群の解説を、専門の先生方にお聞きしたい。

 ひとり遅れて参加の私は、等々力駅から「日曜地学ハイキング」一行に合流し、渓谷入り口でまず、武蔵野礫層などの地層の説明を受けました。


 東京は、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の上にあります。武蔵野台地は、多摩川の扇状地の上に火山灰である関東ローム層が重なっています。いくつかの河岸段丘があり、そのうちの武蔵野段丘南面が、昨年の日曜地学ハイキングで観察した「立川崖線、国分寺崖線=ハケ」でした。ハケからの湧水が何か所にも見られ、それらの湧き水を見学してあるきました。

 今回の地学巡見は、武蔵野段丘の南側の多摩川沿いの地形観察です。
 まず、等々力渓谷。20年前に娘と息子の書道展が等々力であったとき、ついでに渓谷見物をしたきりです。都内にある渓谷、姑の家の近くなのでいつでも来られると思っていたのに、なんと20年もたってしまいました。20年前にも「こんな都会の中に溪谷が、、、でもそのうちに開発されてしまうのかなあ」と思いました。渓谷の川沿いは公園になっているのですが、台地の上はもうすべて住宅地に開発されてしまっていました。

 そのため、昔、滝の音があたり一帯に轟いたため「とどろき」と名付けられたという「等々力の不動の滝」は、今では水道の水のような細い流れがチョロチョロと出ているだけのものになってしまっていました。20年前を思い出すと、この流れを肩に受けて修行している白装束の人を見た覚えがあります。今のこのチョロチョロの流れでは、肩に受けてもあまり修行にはならないだろうと思います。

 この不動の滝のところに見えている地層、一番うえは関東ローム層。よく水を吸い取る地層です。水はその下の軽石層を通り抜け、下の粘土層に至って吸い込まれなくなり、その地層の隙間から水が湧き出してくる。これが「ハケの湧水」です。武蔵野礫層と東京層シルト岩の不整合面から水が湧き出てくる、という説明を受けました。

地層の重なりを表した展示板

 この湧水を原始時代の人も利用し、縄文時代の人もこの武蔵野台地に住みました。そして古墳時代になると、ここら一帯を総ていた族長は、大きな円墳や前方後円墳を築きました。等々力駅から歩くと、不動の滝の手前、等々力渓谷の中程に、「等々力渓谷三号横穴」があります。このあたりの古墳は6基以上あり、埋葬されていた男女子供あわせて3体が確認されています。発掘調査により、金属製の耳環やガラス玉、須恵器などが出土しています。

 現在、横穴の前面にはガラスが嵌められていて、墓の中のようすが見学できます。この崖に横穴を掘り、お墓を作った一家、どんな生活だったのだろう、男女と子供3体は、家族だったのだろうかなど、大昔このあたりに住んだ人々の暮らしに思いをはせました。

 多摩川土手に出て、玉堤小学校前からバスに乗りました。バスは、多摩川グラウンドを見下ろして走ります。二子玉川のビル群が見えると、となりに座っていた地学サークル参加の年配のご婦人は「まあ、久しぶりにこのあたりに来たら、びっくりすることばかり。二子玉川がこんな大きなビルが立つ都会になるとは思いませんでした」と言っていました。私は昔の二子玉川を見たこともありませんけれど、「そうですねぇ、東京はどこもかしこも、ちょっと見ないでいるあいだに変わってしまいますねぇ」と、相槌をうちました。

 ことばのキャッチボールが苦手な私。「こういう相槌でよかったのだろうか」と、しばし悩む。私の会話は、「ことばのキャッチボール」ではなくて、しばしば「ことばのドッヂボール」になってしまうらしく、どしんと投げられた言葉をさっとよけられてしまったり、受けそこねた相手に痛い思いをさせてしまったり。親しくない相手とは「一般的な世間話」というものができないタチなのです。

 多摩川駅ちかくの多摩川台公園でお弁当タイムになりましたが、ことばのドッヂボールをしないために、だれも座っていないベンチを探して、きのうの残り物のチーズサンドイッチと、梅干おにぎりというへんな組み合わせのお弁当を食べました。

多摩川のながめ


 世話役のI先生が参加者のあいだを回って「ドイツみやげのお菓子です」と、広げた手のひらの上にチョコ菓子をのせてくれました。
 I先生は、ドイツでの学会に参加するため10日間の旅行に行ってきて、昨日帰国したという忙しい毎日。I先生は、高校の地学教師を定年退職してから、専門の「クモヒトデ研究」を東京科学博物館で続けています。ドイツの学会でも棘皮動物の専門家は少なくて、学会に集まったのも30人ほど。そのうちクモヒトデの研究者は、30代の研究者ひとりだけ。その彼と共同研究ができることになり、学会参加の成果があったというお話をしてくださいました。

 私は、こういうお話ならとても興味深く聞くことができるのですが、どうもそれ以外の「世間話」になるとダメみたい。「クモヒトデの四番目の足の話」なら、一日中でも聞いていたい。でもI先生は、他の参加者にもお菓子を配らなきゃならないから、そう長くはクモヒトデの話を聞いていられませんでしたが。

 I先生が「クモヒトデ」について執筆している本を紹介します。
『化石から生命の謎を得-恐竜から分子まで』2011朝日選書


<つづく>


 地学ハイキングは、地層、化石掘りなど、地学に関する知識を普及する目的の会ですが、近年、開発などにより化石が掘れる場所もなくなってきて、地学に関連する要素を広げながら活動を続けていると、I先生にお話をうかがいました。15年ほど前に、娘と息子が水晶や化石掘りに、あちこちに連れて行っていただいたのは、運のよいことでした。

 去年11月の「立川崖線と国分寺崖線、ハケの湧水と地層の観察」に続き、今年も、「武蔵野台地湧水周辺に築かれる古墳」という、地学とは少し離れたテーマでのハイキングになったのも、テーマを広くとっているからなのだそうです。水の湧き出る崖線が人の暮らしと深い関わりを持つことを観察するのが「古墳観察」の目的。

 私は、東京に住んで30年になるのに、田園調布といえば高級住宅地というイメージしか持たず、「田園調布古墳群」という史跡があることなどまったく知りませんでした。調べてみれば、よく行く上野公園の摺鉢山は5世紀ごろにに築かれた前方後円墳でしたし、東京タワーの足元には芝丸山古墳があるのに、摺鉢山の脇を通り抜けても、それはコンサートや美術展に行くために歩いているのであって、古墳と認識して見つめたことはなかったのです。

 私がこれまでに東京で古墳として認識して見学したのは、赤羽台第3号古墳石室が移築された横穴式古墳です。中央公園の文化センター脇に移築されているのですが、建物の脇にひっそりと目立たぬように置かれているので、脇の道を通る人で、ここが古墳の展示なのだと思って覗いている人はほとんどいません。

 近づいてよく見れば、古墳の説明があるのですが。きっと地元の小学生が社会科見学の折にながめる程度と思います。
 私も何回かこの赤羽台第3号古墳石室をガラスの見学窓から覗いて見たことはあるものの、移築展示であってもともとの古墳の場所ではないということもあって、さして古代に思いが及ぶという感想はありませんでした。

 私のふるさとの群馬では、「上つ毛の国」の史跡である古墳は県内各地にあり、人々も地元に古墳があることを誇りに思って大切に守っています。

 東京には古墳以外にたくさんの史跡があるから、観光資源にもならず、ひっそり「ちょっと小高い山」くらいに思われているのでしょう。
 田園調布を開発した渋沢栄一の邸宅は、現在の飛鳥山公園の地にありました。飛鳥山のなかにも古墳がありましたが、栄一翁は、これを「自庭の築山」として利用したそうです。田園調布開発にあたって、この地域の古墳群が平にされてしまわずに残されたことは、ありがたいことでした0。他の東京の古墳群のほとんどは、平にされて開発され、今では跡形もないのです。

 東京の地形と都市形成の関わりについて、中沢新一の『アースダイバー』を読んだとき、発想はとても面白かったけれど、なにかピンとこない部分があったのですが、専門の地学の先生の説明を聞くと、地層地形と人々の暮らしがぴったり重なって感じられました。

 多摩川台公園の中に、多摩川台古墳資料館があり、一行がそれぞれに見学しました。私は、田園調布の古代史について何も知らずに見学したので、とても興味深くおもろしろく見て回りました。
 多摩川台古墳資料館には、古墳の説明や出土品が展示され、発掘出土した古代の鏡や腕輪、鉄器などが展示されていて、館内の写真も商業利用する場合でなければ撮影して良いとのことでした。

 古墳の前で「墓前の儀式」を執り行った人々のようすを埴輪風にして並べてある展示


 多摩川台古墳資料館見学のあと、まとめのレクチャーがあり、自由解散になりました。多摩川台駅から電車に乗りたい人は、ここで解散。
 多摩川台古墳群の円墳と宝莱山古墳を見学したい人は、そちらを回ってから田園調布駅に行って、そこからそれぞれ帰宅という二手にわかれました。

 多摩川台円墳1号墳から8号墳までを、円墳の中程に続く散歩コースを通ってながめ、最後に宝莱山古墳を眺めました。


 宝莱山古墳は4世紀後半に築かれており、亀甲山古墳に眠る豪族とは親子関係にあったのかもしれない、という説明がありました。亀甲山古墳と同じく前方後円墳で、国産の四獣鏡などが出土しています。

 今回「東京の古墳」についての説明を受けながらの見学で、ようやく武蔵野台地の古代を想像することができました。
 地学ハイキングに参加したおかげで、東京の古墳を訪ねる散歩の楽しみが増えました。

<つづく>
2013/12/12
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(4)お屋敷町の衣装並木、地元のバレエフェスティバル

 宝莱山古墳から宝莱公園へ。公園からは、大通りがまっすぐ田園調布駅へ向かっています。
 田園調布駅に向かう通りは、銀杏並木になっていて、傾いてきたお日様が銀杏木立を黄金色に輝かせていました。銀杏は東京都の木。都内各所に銀杏並木の名所があるのですが、この田園調布銀杏並木も「地元民にしか知られていない名所」なのでしょう。私が田園調布地元民になることはないと思うので、ハイキング帰りに目にできてよかったです。


 旧田園調布駅舎は、これまでビデオでは何度も見てきました。授業で時々学生に見せている『ヤンさんと日本の人々』という日本語教育ビデオの中にたびたび登場するのです。ヤンさんは、田園調布にある鈴木家の離れの一室を間借りして日本の生活を始めます。ヤンさんの通勤風景シーンなどで、最寄り駅であるこの田園調布駅が出てきます。私にとっては、自分の最寄駅以上に目に焼きついている駅舎なのです。


 今では新駅が出来て、この旧駅舎は、駅のシンボルゲートになっています。
 天井の照明器具なども由緒ありげな旧駅舎。1924(大正13)年にでき、駅の地下化に伴い、2000(平成2)年に現在の場所に解体移築されました。田園調布の開発を行った田園都市株式会社多摩川園所属の建築家、矢部金太郎の設計です。矢部は田園調布の地に渋沢秀雄邸などを設計した人ということです。(渋沢秀雄は渋沢栄一の四男)

 黄金の美しい銀杏の並木も見事でしたし、シンボル旧駅舎は可愛らしかったですが、立ち並ぶ邸宅の一軒一軒が「うちは、有名建築家の○○に設計を頼みましたのよ、オホホ」という家やら「あら、タクは新進デザイナーの○○さんの作品ですのよっ」というような家並みに、「へぇ、わしらは、東京のはずれの団地住まいでゴゼーマスだ」という気分になって、どうにも庶民には居心地悪いかんじ。単なるヒガミですけれど。

 田園調布駅から東急目黒線に乗り、王子駅下車。北トピアさくらホールへ。バレエフェスティバルを、ジャズダンス仲間のコズさんと見ました。地域の文化祭のひとつなので、大人の踊るモダンバレエ、モダンダンスに見ごたえのある作品もあり、幼稚園児小学生の踊る「家族以外には耐えられない」バレエ発表もあり。

 まいったこと。日頃はバレエなど見る気はないジーサンバーサンが「うちの孫」見たさに押し寄せ、孫の出番の前も終わってからも、他のグループの演技中であろうとお構いなしに席に出入りしていて、純粋に踊りを見たい私とコズさんは顔を見合わせてしまいました。

 「うちの孫」さえ見られれば、「ああ、やっぱりうちの孫が一番かわいい」と、満足して座ったり立ったり出入りできるのでしょうけれど、私もコズさんも、子も孫も出ていないバレエを作品として見ているのです。コズさんは、演技中もおしゃべりをやめないバーサンふたりに「話したければ、ロビーでどうぞ」と注意していました。

 お金をとってのバレエ公演ではなく、「地域の文化祭にうちの孫が出る」という人にとって、他の出演者の出番などドーデモいいのでしょうけれど、他者を思いやる気持ちも持てない人の孫の踊りは、きっと衣装がかわいいだけのことと思います。あ、衣装がかわいければ、「うちの孫が一番」と満足できる人たちが見に来ているのでした。

 たぶん、田園調布の住人たちは、たとえ地域文化祭の小さな発表会であろうと、バレエ鑑賞のマナーはてっていしているんでしょうね、、、、と、田園調布の「うちらは、文化的生活をしているのよね」という街全体の雰囲気に負けマケの気分で、どうにもヒガミがとれない春庭であります。

 まあ、そんなこんなで、師走ついたち。HALセンセは、場所取り抽選会、無料の芋煮汁、等々力渓谷ハイキング、古墳見学、バレエ見物と、まさに走り回るスケジュールの一日でした。
 12月いっぱい、走りまわります。 

<つづく>

2013/12/14
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十三里半日記12月(5)ミッドナイトタウンイルミネーション

 アイソン彗星は太陽に近づきすぎて消えてしまいました。東京の冬空、照明が明るすぎてシリウス星とオリオン座くらいしか私の目には見えないのですが、それでもたまには夜空を見上げます。
 夜空に光が乏しいからなのか、東京の冬は、地上のイルミネーションがそこらじゅうで輝きます。もちろん、イルミネーションも好きです。LED電球開発後は、「電力無駄遣い」という批判もなくなってきましたしね。



 12月09日、仕事がいつもより早く終わったので、六本木のミッドタウン、サントリー美術館に寄り道。6時の閉館時間まで宇治平等院の飛天像などをみたあと、ミッドタウンイルミネーションを見ました。


 
 28万個の青いLEDが2000㎡の芝生広場に敷かれて、光のアーチと組み合わされて、青から緑へ、ピンク、赤の光と光のショウがきらめきます。一回のショウは5分くらいのものなのですが、わーきれい!と見続ける人たちとともに、私も20分くらい眺めていました。

 先日電車の中でギャルがふたりで会話していました。「○○のイルミネーション、見に行くんだよ」「え~、誰とぉ」「友達とだよ」「カレシできたのかと思った」「なら、いいけどね。でもさぁ、イルミネーションひとりで見る人って悲しいよね」「だよネー」
 ヘェヘェ、わたしゃ一人で見ましたとも。一人でキレイダなーと見とれてました。
 すみませんね、カナシーヒトで。




 12月中、いろんな光ものを楽しもうと思います。ひとりで。
 むろん、誰かといっしょに見るのも楽しいし、それが恋人であるなら寒さなんて感じないでしょう。でもね。一人ですごす楽しみ方もあるってことを知らずに年をとってしまうと、それこそカナシー人になるんじゃないかしら。大勢でも、ふたりでも、ひとりでも、楽しい時間があったほうが、どんな時でも楽しめる。

 私の場合、基本ひとりで旅もするしごはんも食べるし、イルミネーションも見る。最近ようやくカメラの使い方がわかって、セルフタイマーで自分を撮れるようにもなったし。残念なことに、この日、持ち歩いているデジカメが電池切れ。ガラケー内蔵カメラにはセルフタイマーついてなくて、イルミネーションを背景に「光る私」を取れなかったのが残念。
 
 おひとり様生活、あと、やってみたいのが、ひとりでバーに入ってお酒を飲んでみること。おひとり様バー・デビュー、いつになるやら。
 あ~、毎度の発言ながら、バーでマッカラン1939とか、山崎50年ウイスキーなどおごってくれる方も募集中です。ぜひ、ごいっしょに。

<おわり>