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黙す春2011年3月

2010-06-19 23:56:00 | 日記
東日本大震災
春庭と家族にけがはありません。棚が倒れたとき、頭をうちましたが、たんこぶ程度です。

春庭の自室と廊下は、本棚が倒れ、大量の本が堆積しています。
台所では食器棚のガラス戸が割れ、食器が落下。コップ、皿などが割れて散乱しました。

ガラス類は片付けましたが、大量の本が1メートルの高さで部屋中に堆積しているので、整理にはしばらくかかります。

当分更新を停止します。
皆様のご無事をおいのりし、被災された方にこころよりお見舞い申し上げます。
14:06 コメント(7) ページのトップへ
2011年03月22日


ぽかぽか春庭「漁師アトムさんの無事祈る」
2011/03/22
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(1)漁師アトムさんの無事祈る

 東北関東大震災。被災した皆様、原発から避難中の方々、お見舞い申し上げます。愛する人を失った方へ、ことばがありません。
 東京のわが家も本棚が倒れ、6畳間が数千冊の本で埋め尽くされてから11日。静岡地震のときだったか、本の下敷きになって亡くなった女性がいて、私の行く末もそんなものかと覚悟はしていました。わが家の場合、天災プラス人災でした。

 去年上階からの漏水事故があり、家具を全て取り出して畳の入れ替えをした際、本棚など家具の出し入れを業者に頼みました。「家具は転倒防止の金具で止めてあります。再びへやに戻したとき、その金具留めもきちんと現状復帰してください」と依頼していたのですが、業者は時間に追われ目に見えるところだけ留めたのみで、現状復帰ではありませんでした。転倒止め金具にねじ釘を2本留めるべきところ1本だけで、まったく留めてないところもありました。揺れによってそれらのクギがすべて抜け落ち、本棚が頭の上に降ってきたのです。天井まで届く本箱にぎゅうぎゅうに詰め込まれていた本。畳に散乱したのを見ると、狭い部屋によくもこれほどの本があったものだと我ながらあきれると同時に、業者がいいかげんな家具設置をしたことを点検しないまま放置したのは自分の落ち度だったと反省しています。

 幸い本棚がぶつかった私の石頭にはたんこぶができたくらいで、痛みや腫れも1週間でおさまりました。数日間、めまいがしてゆらゆら揺れるような気持ちが続いたので、打ち所が悪かったのかと心配しましたが、息子にも同じような症状があり、新聞の解説を読むと「地震酔い」というもので、三半規管のバランスが悪くなりストレスや不安から揺れる感覚が続いているのだとわかりました。
 風邪の咳も悪化したので、1週間は何もせずただ寝ていました。

 ようやく片付けをはじめ、積み重なった本の下になっていたパソコンを取り出しました。メール連絡だけは息子のパソコンを借りて必要最低限してきたのですが、自分のパソコンが救出でき、一番最初にしたことは、被災者安否情報を確認することでした。南三陸町の漁師さん。ブログハンドルネームは漁師アトムさんです。

 宮城県南三陸町。町の人口18000人のうち半数9000人以上の安否がいまだに不明というニュースが続き、なんとかアトムさんの消息を知りたいとテレビの安否情報も気をつけてきました。しかし、手掛かりはありません。電話などの公的な安否情報を利用するのはご家族親戚の方が優先であって、私のようなブログファンにすぎない者は控えるべきであろうと、心配ながらただ祈るのみでした。しかし、ネット情報の中にアトムさんの情報はみつかりません。

 漁師アトムさんは、南三陸町に家族と暮らし、八戸漁港で漁師として30年間働いてきた人です。体調のこともあり、昨年12月いっぱいで30年続けた船を下り、2011年は心機一転の年でした。私はアトムさんの秋刀魚漁、サワラ漁などの記録を楽しみに読ませていただいてきた「漁師アトムブログファン」のひとりでした。

 ただのファンにすぎない私に、アトムさんは大漁の秋刀魚のお裾分けをしてくださいました。大きな発泡スチロール箱いっぱいに秋刀魚を詰めて冷蔵宅配便で東京まで送り届けてくれたのです。自家製ヒラキを作ったり、圧力鍋いっぱい煮物作ったりして、おいしくいただきました。
 漁師アトムブログhttp://atom128-2.blogzine.jp/

 
  地震から9日目に、壊れた家の中から80才のおばあさんと孫の青年が救出された、というニュースがありました。希望です。アトムさんも必ずどこかで救出を待っているのではないかと思います。
 アトムさん、どうぞご無事で
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2011年03月23日


ぽかぽか春庭「元気だせ」
2011/03/23
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(3)元気だせ

 火葬場が間に合わないので、震災で亡くなった方々の土葬が行われたというニュースを見ました。亡くなった方のご冥福をお祈りするとともに、「今ある命」のありがたさをかみしめています。なんとしても、この命を自分のためだけでなく、人々のために役立てたいと思いますが、今私にできることは今ここで生き抜くこと。
 4月からの仕事については、出講先によっては授業開始時期を延期するかもしれず、予定が立ちませんが、若い世代の育成に力を注ぐことが、私にできる社会への恩返しだと思っています。

 これまで「ちょっとコワモテで親しみにくい」と感じていた松山千春ですが、今回の地震に関して、次のようなメッセージを出したそうです。

知恵があるやつは知恵を出そう
力があるやつは力を出そう
金があるやつは金を出そう
自分は何も出せないよ
というやつは元気を出せ

BY 松山千春

 「軽いお笑いタレント」としてテレビの中で見て来た江頭2:50は、放射能を恐れて物流関係者が入らなくなったいわき市に、自らトラックを運転して支援物資を運びこんだそうです。事務所の活動とは別に一人で行動し、物資を受け取った人のツイッター情報で、この話が伝わりました。

 そうですよね。いつまでも落ち込んでいないで、せめて元気ぐらいださなければ、せっかくある命だから。
 それぞれの立場でそれぞれの人が、人を元気づけたり自分が元気になったりしています。

 mackychanさん、conparu さん、コメントをありがとうございました。「息子の卒業式」は3/30に再掲載します。

<つづく>
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2011年03月24日


ぽかぽか春庭「原発レベル5」
2011/03/24
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(4)原発レベル5

 福島産茨城産の牛乳を飲むな、ほうれん草を食べるなという指示が出されました。また、東京の水道水から規定以上の放射線が検出され、乳児幼児には水道水を飲ませないようにという指示が出されました。未来ある子供は守らなければなりません。でも、わが家は成人だけですから、スーパーへ水のペットボトル買い占めに走る人を横目に、水道水を飲み続けます。

 「これで健康被害がおきても、それは福島の原発から電気を供給して貰っていた東京の人が共に負うべき賦課だ」と考えます。また、原発反対運動をしておらず、福島原発からの電力供給を受けて電気の恩恵を消費してきた東京都民は、放射能被害を受けても仕方がないと覚悟すべきだと思います。

 具体的な反対行動をとってこなかったのは、私もいっしょ。私は広瀬隆の著作を読んで、原発については「アブナイ」という認識をしつつ、それでも反対運動に身を投じてきたのではないのですから、もっと罪は重い。数々の原発事故を隠蔽してきた東電役員と同じくらい重い。

 原子力発電所から送電される電気を使うということは、「万が一事故が起きて放射線漏れがあったとき、その被害を受ける可能性がある、ということを覚悟の上で電気供給を受けるべきだ」と、「原発反対運動」を続けてきた友人に言われたことがあります。それが現実のこととなった、ということ。

 私は「太陽熱や地熱発電、潮力利用などの自然エネルギー利用の発電に切り替えていくべきだ」という考えに賛成しながらも、現実生活では原発からの電気供給を受けてきたのですから、「万が一事故が起きたときに原発推進政府や電力会社に文句を言っちゃならない、国民は東電にだまされた、なんて言ってはならない」中の一人です。何も考えずに電気を消費し喜んでだまされてきたのは自分たちではないか。

 私がこれまで原発に関して読んできたのは、主として広瀬隆の著作です。広瀬の「そんなに絶対安全な原発なら、東京で使う電力は、東京の埋め立て地に原発を建てて発電したら、送電線による無駄な電気を消耗することもない。東京に原発を!」という主張に、私もそれはもっともなことだと思いました。東京で消費する電力を、福島や新潟の原発によって供給されてきた私たち。(東京電力の総出力6300万kWのうち、福島第一原発500万kW、福島第二原発440万kW)。

 現場で命をかけてメルトダウンを防ぐ冷却放水作業に携わっている方々にはほんとうに頭が下がります。一方、本社の会議室などに安全に座り続ける東電役員には、全員現場に立ち会って下さいと言いたい。
 各地の原発で数年ごとにおこる事故を電力会社がひたすら隠蔽し「日本の高い技術で何段階にも守られている原発は絶対に安全」と言い続けてきたことに対して、「日本では本当に放射能漏れ事故が自分の身に迫らない限り、本気で原発について考えようとする人は増えないだろう」という絶望も感じてきました。原発反対者がどれほど危険を訴えても、「日本の科学技術を信じられない非国民」扱いを受けるだけでした。

 東京電力が隠蔽改竄してきた原発事故は、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、柏崎刈羽原子力発電所の原子炉計13基地などで、29件にのぼります。1980年代後半から1990年代にかけて自主点検記録が改竄され、部品のひび割れを隠すなどしてきました。

 電力会社は原発事故を隠蔽し、「反対運動をしている人々は科学というものがわからない原始人」と揶揄し排斥してきました。
 今回の福島原発放射能漏れ、関東一円に放射線が漏れている、という事態に至って、原発を告発してきた人々の言説が、ようやく一般にも注目されるようになりました。momosuke2seiさんがカフェ日記にリンクしてくださった平井憲夫の「原発がどんなものか知ってほしい」も、原発推進派原発安全神話信奉派の人々から手ひどい中傷を受け続けてきました。平井さんを「嘘つき」と決めつけている論調もあります。

 平井さんは原発内で配管の仕事をして20年働きました。被爆の影響でガンを発症し、命をかけて原発内の現実を書きつづった人です。ただし、原発の現場は知っていても理論家ではないから、原発のすべてを学者のように理路整然と「科学的に」述べているわけではない。
 平井さんが97年に被爆を原因とするガンで亡くなったあとも、この文章はネット内に流布し続け、現在はfacebookによって世界に広がっています。
http://www.iam-t.jp/HIRAI/pageall.html
平井さんの論調に対しては、原発事故が現実になった現在でも、「科学的でない」と批判を浴びせている人々も多い。

 私は専門家ではないから、平井さんの文章のどこが事実に基づくことで、どこに記述の誤りがあり、どの考え方が現実の原発の実際の稼働と合わなかったのか検証することはできません。重要なのは、平井さんが指摘した通りの事故が実際に起こり、放射能が現実に漏れているということです。二重三重に守られているはずの安全装置はすべて働かず、チェルノブイリ事故を上回る被害の危険は、まだまだ予断を許しません。
 明日は、これまでに起きていた福島原発の事故と東電の事故隠蔽について。

<つづく>
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2011年03月25日


ぽかぽか春庭「福島原発3号機爆発の動画」
2011/03/25
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(4)福島原発3号機爆発の動画

 3月12日に福島第一原発1号機で爆発が発生したのに続いて、3月14日11時01分福島第一原発3号機が爆発しました。水素爆発する瞬間のリアルな動画が福島中央テレビ(FCT)のニュース番組などで放映されました。しかし、私は、NHKニュースや新聞で、リアルタイムの爆発映像を見た記憶がありません。爆発後の煙が収まった頃の衛生写真などを見た記憶はありますが、爆発瞬間の映像はNHKでは放映されなかったように思います。私が動転していて見逃した可能性もありますが、どなたかNHKニュース3月14日11時過ぎ、またお昼のニュースで3号機爆発の動画を見たでしょうか。ずっと震災ニュースを見ていた私ですが、3月14日に日本のニュースで見た記憶がないので、私だけが見逃したのか、福島中央テレビ以外のニュースでも放映されたのか、わからないのでいるのです。福島中央テレビでは放映できた爆発映像が、なぜNHKニュースでは画面になかったのでしょうか。

 以下の動画は、福島原発3号機水素爆発の瞬間を捉えた映像です。世界中の人が唖然としてこの映像を見たのに、日本の人々には煙が収まった後の衛星写真が公開されたのみでした。

イギリスのスカイニュースで放映。
http://www.youtube.com/watch?v=T_N-wNFSGyQ&feature=related

 福島中央テレビのニュース
http://www.youtube.com/watch?v=2bPi6aHmd88
 
 人々の間にパニックが起こるのを防ぐためにNHKなどでは放映が禁止された、という説もあります。ネット情報なので、本当かどうかの裏もとっていない情報ですが、確かに、この映像を見れば、30km圏内屋内待避なんて悠長なことを言っているわけにはいかず、アメリカがいうように、80km圏100km圏の人も必死で逃げ出したくなる迫力です。隠したくなる側の事情もあったのでしょう。これまでも事故はずっと隠蔽されてきたのですから。

 過去に出来した福島第一原発(F1)第二(F2)の事故。
(レベル2相当以上の事故)
1978年11月2日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故(日本初の臨界事故)
1989年1月1日 東京電力福島第二原子力発電所3号機事故 (原子炉再循環ポンプ内部が壊れ、炉心に多量の金属粉が流出した事故。レベル2。
1990年9月9日 東京電力福島第一原子力発電所3号機事故。主蒸気隔離弁を止めるピンが壊れた結果、原子炉圧力が上昇して「中性子束高」の信号により自動停止した。レベル2。
2010年 06月17日午後、第一原発2号機であわやメルトダウンの事故が発生。東京電力は事実経過を明らかにしておらず、真相は闇の中。レベル不明。

 これまで起きた原発の事故。隠蔽されてきた事故のうち内部告発などで公表されたものだけが記録に残されているのですが、ここにあげたほかに事故はまだまだあったでしょう。 平井さんは97年に亡くなるまで、福島原発でレベル2以上の事故が起こることを懸念していました。現在はレベル5の段階です。(レベル6に上方修正。スリーマイル島原発以上の被害拡大必至)

 もはや原発が「絶対安全」と主張できる人はいないでしょう。しかし安全神話が崩れたあと、私たちはどう考えどう行動していくのかが重要です。

<つづく>
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2011年03月26日


ぽかぽか春庭「安全神話の人災」
2011/03/26
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(5)安全神話の人災

 福島原発の事故はすでにレベル6に達し、スリーマイル島原発以上の被害に及ぶことが懸念されています。
 「想定外の地震だから、予定以上の津波だったから仕方がない」と「安全神話」を担いできた学者はいいわけをはじめています。「想定外」ってなんでしょう。「どんなことがあっても安全」と、電力会社は言っていたではないですか。

 福島原発の「津波想定」が5メートル以下のものでしかなく、これではとうてい大津波には対処できず事故が必死であることはすでに90年代に専門家によって指摘されていたことでした。明治時代1896年、2万人が亡くなった三陸沖大地震では38mの大津波が来たのに、福島原発の備えは明らかに不足でした。しかし東電は「大津波を起こす地震など千年に一度のことだし、そんな大津波対策をするには費用がかかりすぎる」として、対策をあと延ばしにしていました。確かにマクニチュード9.0という大地震は、推定9世紀と1500年に起きただけでしたから、「そんな大地震はめったに起こるはずがない」ことでした。しかし千年に一度が今年3月11日だったのです。

 電源復旧活動に当たっていた作業員に3人の被爆者がでました。案の定その方たちは東電社員ではなく、協力会社すなわち下請けの人でした。被爆被害についてどのような説明を与えられていたのか知りませんが、命をかけて作業をしていた人が下請け作業員だったということ、何かやりきれません。防御服や靴などの安全対策も不完全だったようです。被爆により2~8シーベルトの放射線を浴びたとのことですが、過去の例でいうと5シーベルトの被爆では半数が死亡。3人の被爆者のうち1人か2人は死に至る恐れがあります。

 福島第一は1970年代に建設された日本で最も古い原発の1つです。3号機はウランとプルトニウムを混合したMOX燃料を使用しており、最も危険。万が一、圧力容器が爆発した場合、ウラン燃料よりも危険性が高い。3号機は炉心が一部融解し、大爆発一歩手前です。まだメルトダウンの危険が去ったわけではありません。放射線は今も出つづけており、すでに「以後、人が住むことのできない地域」も生まれています。

 老朽化が著しいポンコツ原発を地震大国で使い続けるには無理があった。しかし、東電は福島原発を使い続けた。利益優先だから。
 1号機2号機6号機はアメリカのゼネラルエレクトリック社製です。GE社製の原発には欠陥が多いことがこれまでにも指摘されてきました。しかし、アメリカの原子力産業とパイプを持つ自民党政権は、しっぽを振って原子力発電を推進してきました。

 プルサーマルは和製英語です。熱中性子によってプルトニウムを核分裂させるMOX燃料。万が一にも炉心融解に至れば、中性子が拡散するため、人体への被害ははるかに大きく、放射能が半分まで減る半減期は、プルトニウム239の場合約2万4000年もかかるのだそうです。

 プルサーマル利用すると、事故が発生する可能性が飛躍的に高まり、再処理によって核廃棄物は却って増える、原子炉の運転や停止を行う制御棒やホウ酸の効きが低下する、などの数々の問題点が指摘されてきました。しかし東電は「絶対に安全だ」と言い続けて福島原発を運用してきました。
 原発に疑問を呈した佐藤栄佐久に収賄嫌疑をかけて辞職させ、佐藤雄平現知事(渡部恒三議員の甥)が当選。プルサーマル導入を決定し、その補助金60億円を福島県にもたしたことを「手柄」にしていました。

 原発の問題について詳しく知りたい人は西尾漠さんの著作を参照してください。西尾さんは、私の知人が関わっていた「反原発新聞」の編集長をしていたジャーナリストで、大地震が起きたときの原発の危険性をずっと警告し続けてきた人です。

 日本電気協会から出版されている『やっぱり原子力』という本には、「いま運転中の原子力発電所は、その地域で考えられている最大の地震に襲われても安全な状態を保つように作られている」と書かれています。この本を書いた新保新吾さん飯高季雄さん、ぜひ福島原発の現場に立ち会ってください。行って、「貞観年間に起きた大津波のような千年に一度の災害がなければ、安全の予定でしたが、千年に一度の大津波が来たから爆発しちゃいました」と、次の本を書いて下さい。
 「人間の作り出す科学を過信し、自然の力を見くびるとどんな結果になるか」ということを実感したら、「御用記事」の本を書いたことに少しは悔いがでるでしょうか。
 今回の原発事故は、「大津波が来たら福島原発は危ない」という警告を無視し続けた東電による人災です。

 「非常時だからみな節電せよ」と東電からのお知らせが届きました。わが家は冬場はもともとエアコンを使いません。11日以来、石油ストーブも封印して、被災地に雪降るようすを見ながら、いっさいの暖房を使いませんでした。冷え込む夜もあったけれど、一家3人でダウンコートを着込み、肩寄せ合ってすごしました。水もこれまで通り水道水を使います。

 もしも放射能による健康被害が出て働くこともできなくなったら、歴代東電社長と原発推進派議員の家を順番に乞食行脚して過ごします。高い給料を得てきた彼らは、原発の危険な仕事を下請け業者や季節出稼ぎ労働者にさせ、所内被爆を隠蔽し使い捨てにしてきました。仕事ができなくなった私を養うくらいのことをしてもいいでしょう。

 大震災から半月たっても、余震が続く中、私は地震酔いの症状が止まりません。
 症状そのものについては新聞などで報道されたので、理解はできました。余震で気分が悪くなったり、地震が起きていないのにめまいやふらつきを感じたりするのが「地震酔い」。今回の大震災では東北で避難生活をしている人は特にですが、関東圏でも地震酔いの続く人が多いとか。乗り物酔いと同じで、目で見た視覚情報と平衡感覚がずれた状態になると、気分が悪くなったり、めまいを感じたりするのですが、ストレスなど心理的な要因が大きいそうです。

 私も、少しの揺れでもとても不安に感じたり、揺れていないのにめまいのようにフラフラすることが続いています。心身丈夫なことだけが取り柄と思って来たのに、今回の震災の影響はズシンと心にきたようです。
 津波や原発で被害を受けた方々に比べれば、部屋の本棚が倒壊したくらいは、何でもない、がんばって片付けなければと心では思うのですが、なかなか手が付けられない。避難経路確保のため玄関前に積み上がった本を捨て、トイレの出入りにドアが開かないと困るから、トイレ前に山になった本をお風呂の浴槽にぶち込み、さて、それからはとんと片付けがはかどりません。

 ぼうっとテレビで被災のニュースを見ているだけだったり、横になって本の世界に逃避したりの時間が多くなっていました。これまで3時間も4時間もテレビを見続けることはなかったのに、BSで「グレートサミット」とか「ダーウィンがきた」とか、テレビの前に座りっぱなしで見ているので、自分でも変だと感じています。地震アパシー、または原発事故アパシーとでもいうのでしょうか。

 ひとつには、我が部屋の本棚倒壊が、昨年の漏水事故後の業者まかせの後片付けで、地震対策の家具転倒防止の現状復帰をきちんと点検しなかったという「防災対策の怠り」によって起きた人災であるということが堪えています。目の前に迫っている仕事の準備や博士論文執筆のほうを優先させてしまい、安全対策の確認が十分になされていませんでした。
 福島原発事故も、地震と津波による天災を受けたのが直接の原因であるのと同時に、これまで大津波対策を怠り、数々の事故を隠蔽してきた東電の奢りによる人災だと思います。

  最低限、これから私がすべきこと。エネルギー政策の転換を政府に要求し、原発推進派であった議員の態度を見極める選挙行動を訴えていくこと。私自身は過去原発推進派議員に投票したことはありませんでしたが、自分自身の地元の議員がこれまでどういう政策に賛成し反対してきたのか、今後ともチェックする必要があります。
 また、直近の選挙で言えば、「今回の震災は天罰だ」と発言した現職東京都知事を絶対に当選させたくありません。

  今回の福島原発の事故はおいおいと検証がなされるでしょうが、絶対に隠蔽させてはなりません。すべてを国民の前に明らかにすることが今後のためです。

 人が築き上げてきた文明が、最後の崩壊を迎える前に、私たちがやるべきことは何か、もう一度考える春なのだろうと感じます。

<おわり>

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必ず春は来る2011年3月

2010-06-13 09:08:00 | 日記
2011/03/27
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(1)博士号授与式

 3月25日金曜日、学位伝達式は13時から行われ、私は博士号を授与されました。私が在籍している大学院も、武道館での卒業式は中止になり、大学会館で学位伝達式だけが行われました。大学院修了祝賀会も中止。交通の便も悪く放射能拡散も心配な中、授与式欠席も考えたのですが、指導教官にお礼も申し上げたかったので、出かけてきました。

 30年間の日本語学日本文学研究と3年間の博士論文との格闘の結果、論文が審査を通過し、晴れの博士号授与です。このようなときに私事で喜ぶのは気がひけますが、素直にうれしいです。

 2008年に大学院博士後期課程に入学したのは、その前年の2007年の中国赴任がきっかけでした。私が2007年に中国で教えた学生は、中国のトップ大学の若手教師として働いてきた人たちでした。中国の大学院で修士号を得た後、教師として働いていた人のなかから選抜され、日本の大学院で博士号をとるために留学する人たち。彼らは2007年10月に来日し、2008年4月から博士後期課程に入学しました。

 私は1988年に日本語教育能力検定試験に合格し、大学院修士課程を終えて修士号を得ていましたから、大学で日本語学や日本語教育学などを教える仕事を続けるために、特に博士号が必要ではありませんでした。しかし、教え子たちが次々に「大学院博士後期課程の試験に合格しました2008年4月に博士課程に入学し、2011年3月の博士号取得をめざします」というメールを寄せてきて、刺激を受けました。
 そのメールを見ているうちに、「教え子が博士号をめざして頑張るのだから、私も挑戦してみよう」という気持ちが生まれたのです。

 なんとか出願に間に合った大学院の試験を受けて、2008年4月から大学院博士後期課程の学生になりました。仕事を続けながらの「勤労学生」ですが、修士課程に在学していたときは、娘と息子の子育てと日本語教師の仕事と夫の会社の手伝いを同時にこなしながら通学していたのです。今思い出せばよくもあんな忙しい毎日をこなせたものだと感慨にふけってしまいますが、当時はそれがつらいなどと思う余裕もありませんでした。
 今は娘も息子も成人し、もう子育ての忙しさはありません。仕事をしながら博士論文を書くことも不可能ではありません。この3年間のたいへんだったことと言えば、「楽しみのための読書」の時間が減ったことくらい。研究に必要な本を読むのでせいいっぱいでした。

 博士課程在学中、2009年3月から8月まで中国赴任の仕事もありましたが、在籍のまま仕事と研究を続けることができました。
 3年の間に、規定の紀要論文5本、学科12単位のために小論文10篇を書き、4回の中間発表会。最終論文提出は2010年10月28日。12月の最終口頭試問を終えて、2011年1月30日に博論正本を提出。2011年2月、審査委員会の審議を通過しました。

 晴れの式ですが、すべて自粛ムードとなったのもやむを得ません。大切な人を失ってしまった人も、家族の安否がわからない人も、大勢いるなか、お祝い事によろこぶ気持ちも晴れ晴れというわけにはいきません。
 私にとっての晴れのお祝いは、博士号を手にしての祝賀会でよりも、故郷の両親と姉の墓前で「お母さん、私、博士になりました」と報告したことです。2月27日、母の命日に墓参りしたおりに報告できました。

<つづく>
00:36 コメント(8) ページのトップへ
2011年03月28日


ぽかぽか春庭「母への報告」
2011/03/28
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(2)母への報告

 2月27日は母の命日です。
 27日朝東京を発って群馬へ帰郷。故郷のお寺へお墓参りに行ってきました。毎年寒さが続くころなので、お墓参りも「今回はパス」と省略してしまう年も多かったのですが、今年は2月25日には春一番も吹いたし、温泉にも入りたいし、両親への報告もあるので、出かけてきました。
 墓前に、母が私に望んだことをひとつ達成できた、と報告しました。
 「お母さん、お父さん、私はハカセになりました」

 3月25日の博士号授与式の一ヶ月前ではありましたが、報告できてよかった。2月末はまだ寒いので、学位授与式のあと春休み中に帰郷するという案もあったのですが、そうしていたら、震災後の交通混乱によって両親への報告は当分できないことになっていたでしょうから。

 父は、私が本ばかり読んでいると「目が悪くなる。女の子がメガネをかけると嫁のもらい手が減る」と心配しましたが、母は私の本好きを応援してくれていました。母は「そんなに本が好きなら、本を書く人になったらいいよ。作家になればいい。それとも勉強して、学者になってハカセになるかい」と、私に勧めました。

 私は3、4歳のころ、姉が絵本を読み聞かせしてもらっているのを隣で聞いていて、ひとりでに字を覚え、本が読めるようになりました。母は苦しい家計からも本だけは、やりくりして毎月の子供雑誌のほか童話集などを買ってくれました。お気に入りはアンデルセンとラングでした。

 私が縁側でおやつを食べながら本を読んでいると、母方の祖母は「私のおっかさんを育てた中郷のひい爺さんは、いっつも本を読んでいる人だったそうだよ」と昔話をしました。幕末か明治初期にさかのぼるころの話です。私の祖母の母親は早くに親を亡くしたため、じいさまに育てられました。そのじいさま(私の祖母の曾祖父)は、お百姓ながら本が大好き。しかし、百姓に座って本を読む時間など与えられず、本が読めるのは畑や田んぼへの行き帰りに大きな籠を背負って歩きながら読むか、食事をしながら目を本に注ぐかしかなく、「中郷のひい爺さまは、いつも食べながら読んでいたそうだ」と話していました。

 私が本から目を離すことができずに、おやつの饅頭などを口に入れたまま読むのを「行儀が悪い」と父に叱られると、祖母はこの「食べながら読んでいたじいさま」の話をしてかばってくれました。母も、「本を読むのをやめられないのは、5代前のおじいさんからの遺伝だからしかたがない、と言っていました。母も本を読むのをやめられずにいて、鍋を焦げつかせることがありました。 
 母自身も本が大好きでしたが、自分の本を買うのは「婦人公論」を定期購読していたくらいで、単行本は市立図書館で借りていました。私も市立図書館が利用できる4年生になると、小学校の図書館のほか市立図書館へも自転車で行くようになりました。

 アンデルセンの童話が大好きだった小学校1年生のころ、「大きくなったらアンデルセンになる」と言っていました。自分のノートに幼い文字で自作の童話を書き続け、母は私が童話を書くのをたいそう楽しみにして読んでいました。
 私が大学3年生のとき、母は医者の誤診のせいで亡くなりました。私は生きる気力を失って、もう何にもなりたいものなんて無くなりました。

 大学卒業後、父が「女が仕事を持つなら、教師が一番無難だろう」というので、父がそう言うなら教師がいいのだろうと中学校国語教師になりました。国語教師なら本を読む時間がとれるのではないかと思ったのですが、好きな本など読む時間がとれないほど、日々ただただ忙しい勤務の3年間でした。

 父は私に「無難な人生」を望んで、私はそれに応えようと思いながら応えられず、平穏無事な人生からは外れてしまいました。単身ケニアに行ったことや、ナイロビで出会った元地方新聞の記者、その後はずっと収入が不安定な男との結婚、父には不安なことばかりだったでしょうが、天国の母ならわかってくれると信じて、私は突っ走ってきました。
 母が私に望んだことは、私が生き生きと人生に立ち向かい、自分自身を貫いていくことだったと思います。

 墓参りのあと、妹一家と温泉に行きました。市内には伊香保温泉石段の湯、赤城温泉天地の湯、白井温泉こもちの湯など、各地区ごとに日帰り温泉があります。今回は吾妻川のほとりにある「小野上温泉さちの湯」に入りました。
 妹、姪、姪の次男(1歳半)と露天風呂につかりました。男湯には妹の亭主、姪の亭主、姪の長男が入っています。

 故郷はまだ春浅い。白梅紅梅は行き帰りの車の中からきれいに咲いているのが見えましたが、2月28日帰京する電車に乗る頃にはみぞれがふりました。待合室で耳にする故郷なまりのおしゃべりはあたたかかったですが、電車を待つホームは吹きさらし。風邪は東京に戻ってから発症しました。

<つづく>
10:33 コメント(6) ページのトップへ
2011年03月29日


ぽかぽか春庭「母への誓い」
2011/03/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(3)母への誓い

 母の命日。2月27日。お墓にお花やお線香を供え、妹の孫ふたりが小さな手を合わせて、ママに言われた通りに「なむ~」と言っています。上は5歳。下は1歳半。上の子は仮面ライダーカブトの大ファンで下の子はアンパンマンに夢中。
 妹は、孫息子ふたりにメロメロで、下の子が人見知り最盛期でママにしか抱かれたがらないのをやきもきしています。「バアバに抱っこしよう」と誘っても「カーチャン」と言われて振られてしまい、「もう!」と、怒っています。

 私の母は55歳で、孫をひとりも見ることなく死んでしまいました。死の間際にも、結婚して1年ほどの姉に「赤ちゃんは?」と、尋ねていたそうです。「あのとき、嘘でもいいから赤ちゃんができたよって言っておけばよかった」と、姉は悔やんでいました。
 こうして墓前にひ孫が手を合わせているのですから、きっと千の風に吹かれながらも喜んでいることでしょう。私の両親にとって、孫は6人、ひ孫も6人になっています。

 母は農家の出身だったので、町場の会社員と結婚したことを周囲からうらやましがられていたのですが、母自身は本当は看護師さんになりたかったようです。母が結婚前、行儀作法などを仕込んで貰うため「行儀見習い」(という名目の女中奉公)に行ったという話を伯母から聞いたことがありました。奉公先の医院からは、何をするにも覚えの早い母を見込んで「看護婦」の勉強をさせたいと申し入れがあったそうです。しかし、母の父親は「女は嫁に行け」という方針。親にさからえず、見合い結婚しました。

 母は、「自分の腕を頼りに一人で生きていく自立した女性」にあこがれながら、「子を持って母として生きる人生」以外に、選択肢がなかった。自分ではかなえられなかった「自立した人生」を娘達には望んでいたのです。「手に職をつけよ」というのが、母の願いでした。父は「女性は結婚して子育てをするのが最も幸福な人生」と思っていたので、女性が仕事を持つことに積極的ではありませんでした。父と同居した末の妹は、出産を期に会社を退職し、以来NPOなどの仕事をするほかは専業主婦&パート主婦でした。父にとっては末娘が安定した結婚生活を過ごしたことで安心できたことでしょう。

 姉は母より若い54歳で亡くなりました。孫4人を得て、孫達の生い立ちに心残りもあったでしょうが、「私は十分に自分の人生を生ききった。自分の生きてきた道に何一つ悔いはない。満足している」と言って死にました。2度結婚して2度離婚し、2人の娘と2度目の相手の連れ子の世話もし、美容院を経営してお客さんに慕われていました。きっちり自立して生き、4人の孫をかわいがっていました。

 姉は高校卒業後、専門学校に進学して美容師となり、管理美容師の資格もとりました。2度離婚したので、父が願うような「穏やかな女の幸せ」とは違ったかも知れませんが、手に職をつけたおかげで「イヤだと思ったら我慢せずにさっさと離婚を決意できた」と言っていました。姉は姉で、54年という短いものではあったけれど、自分の人生を精一杯生き、全うしたのです。
 最後の日を迎えたとき、私も姉のように、自分の人生に誇りと満足を持って死にたいと願っています。

 世間様からは「今時、ハカセ号がなんぼのもんじゃい」と思われるのはわかっているけれど、私は何のためでもなく、ただ、母に会えたとき胸を張って、「自分は自分に与えられた時間を生ききった」と言うために頑張ったのです。博士号に何の実利がなくとも、私自身が「母の前で恥ずかしくない自分でいたい。精一杯自分の時間を自分のために使った」と言うために、この3年間、博士論文と格闘したのです。

 博士号をとったからといって大学非常勤講師の時給が上がるわけでもなく、イマドキ博士号を持っていても何の役にもたたないのは承知で、2008年4月から3年間大学院博士後期課程で研究を続けました。

 女の細腕で稼ぎ、娘と息子を育てたこと、博士号を得たこと。私は自分に与えられた時間を真摯に生きてきました。週5日月曜日から金曜日まで働き、土日は洗濯や茶碗洗いと翌週の仕事の準備。金曜日夜にはジャズダンスの練習。毎日ブログを更新。
 部屋の掃除は思いっきり手抜きだし、人とのつきあいも省略していて、十分でない部分も多々あることは承知ですが、母は「よく頑張りました」と言ってくれるのではないかと思っています。
 「お母さんの分まで長生きして、もっともっとがんばるからね」と、母に誓いました。

<つづく>

 春庭にお祝いのメッセージを寄せていただき、ありがとうございます。大学院修了生主宰の祝賀会が中止になったのですが、ウェブ友の皆様に祝っていただき、「ウェブ依存症(by むすめの春庭評)」の私になによりのこととうれしく思っております。


09:16 コメント(4) ページのトップへ
2011年03月30日


ぽかぽか春庭「息子の卒業式」
2011/03/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(4)息子の卒業式(再掲載)

 3月の卒業式。関東東北地方の多くの大学で中止になりました。卒業生にとっては旅立ちの春に晴れ晴れと式に参加できなかったことは残念でしょうが、その気持ちは4月から社会に貢献することで生かしていってほしいと思います。

 3月15日、息子の大学卒業式も、予断を許さない原発への不安と計画輪番制停電の実施の影響で卒業式は中止。「卒業証書配布」だけが実施されました。
 私は息子の入学式のときには行けなかったので、「あんたが来るなって言っても、卒業式には行くからね」と、息子には言っていたので、卒業式中止はなんとも残念でした。

 息子は文学部総代に選ばれたと連絡があり、代表として卒業証書を受け取ることになっていたのです。また、4年間のトータル成績優秀者として表彰され、記念品を授与されることになっていました。
 14日になって、「卒業式は中止になるけれど、会議室での博士号授与式のあと、卒業生総代には卒業証書授与があるので、出席してください」という連絡を受けました。せっかくの博士号授与式なのに、地震後の交通状況で新博士にも欠席者が何人もいました。
 息子は文学部総代として名を呼ばれ、学長から証書を渡されました。

 4年前、2007年4月は私は中国に赴任中で、入学式には行けませんでした。息子が入学したのかどうかもわかりませんでした。
 センター試験を受けるときの息子が出した条件は「センター試験の成績のみで合否判断する大学の、史学を学べるところに願書を出す」「もし、合格通知が来ても、入学するかどうかの判断は本人に任せる。母は絶対に、あの大学がいいとか、ここへ入れとか言わないこと。どこにも入学しないという決断をしても文句いわないこと」という条項でした。

 高校1年2学期から学校には行かず、翌年夏に文科省の高校卒業資格認定試験に合格すると退学届けを出しました。昼夜逆転生活でゲーム三昧の引きこもり生活を2年半続けての大学入試でしたから、とにかく試験を受ける気になっただけでもよしとして、「入学したくなかったら入学しなくてもよいから」ということで、ようようセンター試験を受けました。
 学校授業をきちんと受けたのは中学2年までで、英語では点数はとれるはずもなく、引きこもり中、戦国シュミレーションゲームのために読んだ歴史書の読解力だけが頼り。国語と日本史の成績だけでの勝負でした。

 合格通知を都内の2校から受け取り、どちらに入るのかもわからないまま、私は中国へ単身赴任で出国してしまいました。果たして入学する気が起きるのかどうか、心配もつのりましたが、息子が自分で判断でき、よかったと思います。半年の中国赴任を終えて帰宅すると、息子は大学生になっていました。
 家から自転車で15分のところにある大学なので、息子は風邪をひいたときと、大学がはしかの流行で封鎖になったとき以外はほぼ無欠席で、精勤賞もの。大学に精勤賞はなかったけれど、成績優秀者として表彰されました。

 2月半ばごろ。息子が「母は、今何か買いたい物があるかい」と聞いてきました。「誕生日のお祝いとか母の日のプレゼントは、いっしょに旅行に行くこととか、いっしょに食事にでかけるのがいいって母はいうけれど、今回のはそういうのはダメなんだ。時計とか万年筆とか、物として買えるものじゃないとダメだから、何がほしいか考えといて。予算はきっちり3万円」と、言うのです。

 でも、私は服もバッグも興味がない。何も考えないでいたら、「もう、プレゼントの締め切り日だから、なんでもいいから欲しい物言って。そうじゃないともらえなくなる」と、締め切りが迫ってようやく、どうして予算3万円なのか話してくれました。成績優秀者として表彰されるにつき、副賞として3万円相当の記念品が贈られる。その品は万年筆とか時計などの「記念品っぽい」ものがよいと言うのです。その記念品は母へのプレゼントにするから、母の好きな物を言わなくちゃだめなんだ、という説明でした。

 そういうことならと、ネットであれこれ検索し、一番「記念品っぽい」ものとして時計を選びました。自分が稼いだ成績で、自分が貰うはずの記念品なのに、それを「母にあげる」という。「はじめての親孝行」?
 いいえ、親孝行は、生まれてきてくれたことです。予定日の40日前の早産で、帝王切開で生まれたときは仮死状態。生後3日間は生死さえわかりませんでした。また、乳児検診では仮死状態で脳内に酸素が行かなかったことの影響がどれほど出てくるかわからないので、成長過程でどんな身体的知能的な障害がでるかわからないと言われました。その子が、こうして生きていてくれるのですから、それだけで大きな親孝行です。

 息子、3月中、初めて「お他所」でのアルバイトをしました。これまでは夫の自営する事務所での校正の手伝いなどでしたから、アルバイトといっても「人様の釜の飯を食う」修行にはなっていませんでした。今回も在籍している大学での「学生スタッフ」というアルバイトですから完全には「人様の釜の飯」ではありませんけれど、人間関係が苦手な息子なので、他所で勤まるのかと案じていました。
 仕事は「一日中パソコン使う仕事」だったそうで、息子は「人には疲れるけれどパソコンには別段疲れない」と言うのです。家にいたって、一日中パソコンゲームしている息子ですから、そうか、こういう仕事があるなら、なんとか生きて行けそうだという見通しもついて、ほっとしました。

 しかし、この身の丈にあったアルバイトも計画停電の影響で短縮され、あまり稼げない見通し。余震に驚いておきた23日も。体調も万全ではないので、「風邪が治りきっていないのだから、電話して仕事を休んでもいいんじゃないの?」と言ってみたのですが、息子は「行くと約束したから行く」と、いつもの自転車で出かけていきました。
 4月からは大学院生。史学研究の道に進みます。どういう未来が待っているのかわからないけれど、とにかく、生きているだけで親孝行!です。

 我が子が生きていてくれることの幸運を思えば、家族を失った人々の悲しみがよりいっそう身に染みます。
 ただ祈り続けています。 

<おわり>

mackychanさん、conparu さん、コメントをありがとうございました。「息子の卒業式」は3/30に再掲載しました。

08:52 コメント(2) ページのトップへ
2011年03月31日


ぽかぽか春庭「アトムさん無事」
2011/03/31
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(5)アトムさん無事!

 3月11日以後、ずっと心配を続けていた三陸の漁師アトムさん。
 避難者名簿にもお名前がなく、お知り合いの方からの安否情報を求める文がヤフー質問箱その他に載せられているのに、まったく情報が入らないので、案じていました。

 今夜、アトムさんご本人からメールが届きました。外洋の遠洋漁業に携わっていたのだそうで、ご家族も無事との連絡をいただき、ほんとうに嬉しく、震災以後、被災者のことや原発のことなどでずっと心が晴れ晴れしない気持ちになっていたのが、春の日差しがさすような温かい気持ちになりました。

 わが家の片付けは遅々として進みませんが、それでも今日は浴槽に投げ入れてあった本の片付けをして、3週間ぶりにお湯につかりました。
 もっと早く片付けをすれば早くにお風呂にも入れた環境です。私の区はガスも電気も滞りなくインフラの不自由はない地区なので。でも、避難所にいる方々は、お風呂に入るのも不自由をなさっているという記事を見て、わが家は3週間いっさいの暖房を使わず、お風呂もシャワーを5分ほど浴びるだけで済ませてきました。

 我慢大会のようなことをしていて何か被災者の役に立つのかと言われれば、わが家が家の中でダウンコートを着込んで過ごすことに意味がないのかもしれませんが、これは一種の祈りのような気持ちです。私だけがぬくぬくと豊かさを満喫するような生活はしない、避難所の人々とまったく同じにはできないけれど、少しでも不自由さを共有することで共感の気持ちを表したかった。水のペットボトルもトイレットペーパーも買わなかった。トイレットペーパーは生協の買い置き品があったから不自由はありませんでしたが、牛乳が買えないのは困りました。わが家の息子、マサイ族の人々のように主な栄養源は牛乳という偏食家なので。
 
 そんなこんなの不自由はありましたが、それくらいのことは何のその。アトムさんからの「無事」メールで、4月のさくらを心待ちにする気分が出てきました。
 避難所のみなさん、花咲く日を待ちましょう。

<おわり>
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あなたを忘れない2011年4月

2010-06-08 08:49:00 | 日記
2011/04/01
ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>良寛様の地震後記

 新潟出雲崎に住んでいた良寛さんが文政11年(1828年)の真冬に越後を襲った地震のあとに作った漢詩の紹介です。11月12日辰の刻。陽暦では12月18日午前8時頃。「三条地震」はあとの余震が半年以上も続いたそうです。三条、燕のあたり、良寛の住む出雲崎も大きな被害を受けました。震源付近の集落は全戸倒壊し、あたりの惨状は目をおおうばかりであったといいます。
 良寛様は地震後を漢詩に詠みました。

日日日日又日日
日日夜夜寒裂肌
漫天黒雲日色薄
匝地狂風巻雪飛
悪浪蹴天魚龍漂
墻壁相打蒼生悲
四十年来一廻首
世移軽靡信若馳
況怙太平人心弛
邪魔結党競乗之
恩義頓滅亡
忠厚更無知
論利争毫末
語道徹骨痴
慢己欺人弥好手
土上加泥無了期
大地茫茫皆如斯
我独鬱陶訴阿誰
凡物自微至顕亦尋常
這回災禍尚似遅
星辰失度何能知
歳序無節己多時
若得此意須自省
何必怨人咎天效女児
(意訳:春庭)
日(にち)日日日又日日 (幾日も幾日も)
日日夜夜寒さ 肌(はだえ)を裂く (日ごと夜ごとの寒さが肌を裂くようだ)
漫天の黒雲 日色薄く (空一面の黒い雲で日の色も薄い)
匝地の狂風 雪を巻いて飛ぶ (あたり一面に狂ったように風が吹いて雪を巻き付ける)
悪浪天を蹴りて魚龍漂ひ (激しく荒い波が天を蹴って、大きな魚も漂流する)
墻壁(しようへき)相打ちて 蒼生悲しむ (土壁が打ち合って人々はおびえ悲しむ)
四十年来一たび 首(こうべ)を廻らせば (過去四十年間を振り返ると)
世の軽靡(けいび)に移ること信に馳するが若し (世の中が浮わつきぜいたくになっていくありさまは、まことに馬を走らせるような速さだった)
況んや 太平を怙んで人心弛(ゆる)み (ましてや太平の世に慣れて人の心は用心を怠って弛み)
邪魔は党を結んで 競ひて之に乗ず (よこしまなやからは徒党を組み 争ってこれにつけこんだ)
恩義頓に滅亡し (情けや正しい道は立ちどころにすたれ)
忠厚更に知る無し (まごころや思いやりを知る人もさらさらいない)
利を論ずれば 毫末を争ひ (もうけ話をすれば 毛の先ほどのわずかな利益を奪い合い)
道を語るを徹骨の痴とす (人の道を説く人を底ぬけの愚か者とみなす)
己に慢り 人を欺くを好手と称し (自分をえらいと思い、人を騙すのをやり手だとする)
土の上に泥を加へて 了期無し (土の上に泥を加えるような浅ましい行いをして、終わる時がない)
大地茫茫として 皆斯(かく)の如し (大地は果てしなく もの皆このようなことだ)
我独り鬱陶(うつとう)たるも 阿誰(だれ)にか訴へん(独り鬱々として、いったい誰にこれを訴えようか)。)
凡そ物微より 顕に至るも亦尋常 (目に見えないようなかすかなことが やがてはっきりと目に見えるようになるのが 尋常なこと)
這(こ)の回(たび)の災禍尚 遅きに似たり(このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、なお遅かったといってよい)
星辰度を失ふこと何ぞ能く知らん (日月や星の運行が乱れていることに誰が気づいていたか)
歳序節無きこと 己(すで)に時多し (四季のめぐりに節度がなくなってから、すでにずいぶん時がたっている)
若し此の意を得ば須(すべから)く自省すべし (もしわたしの言っている意味を理解したならば、すぐに自分をかえりみなさい)
何ぞ必ずしも人を怨み 天を咎めて女児に效(なら)はんや (どうしてこんどの災害を、他人のせいだとして怨んだり、天のせいだとして悪くいったりして、いくじのない女の子の口ぶりをまねてよいものか)

 このたびの震災を「天罰だ」と言った都知事に、良寛様のこの詩を読んでほしい。天をとがめたり人にせいにするのは、情けない物言いであると良寛様はおっしゃっている。
 「安全、絶対に安全」と言い続けた原発の災禍も、良寛様が「このたびの災害は、人々の心の持ち方が招いたもので、気づくのが遅かったのだ」という通りで、気づくのがおそかった。

 地震のあと津波のあとの光景は、言葉を失うほどの衝撃でした。でも、自分の見たこと感じたことを言葉にして表現して残して置くことも大事なことです。
 「傾聴ボランティア」の方は、被災者に声をかけ、どのような恐ろしい思い悲しい思いをしたか語ってもらうそうです。心の中に押さえ込んでいた感情を話すことによって解き放つことも被災後の大事なケアだそうです。

 とくに、子供達にはこころに感じたことを、絵に描いたり詩にしたりすることはこれから生きていく希望の道をさぐる前提になるのだと聞きました。
 良寛さんの「地震後詩」のような傑作でなくとも、心のうちを語っておくことが必要です。

<おわり>


2011/04/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(1)桜吹雪忌2011

 その人がいたことを忘れないこと、思い出すこと。これが私なりのご供養の方法です。
 東日本大震災。余りにも多くの方が被災され、命を落としました。その死も「数字」として表されています。4月9日までに警察が把握している人数だけで死者1万2898人、行方不明者は1万4824人で、合わせて2万7722人。合計3万人近くという膨大な数字のひとつひとつに、一人一人の価値ある人生があり、思い出が残されていることを、決して忘れてはならないと心に刻んでおります。

 東日本大震災の大報道のさなか、40日前、2月22日のニュージーランド、クライストチャーチの地震でなくなった日本人犠牲者のうち、若い留学生の名前の何名かが確認されたのですが、とても小さな紙面で報道されていました。人の死に大小はなく、遺族にとっては我が子の死が最大の事件でしょう。しかし、私も3月11日に我が身を襲った地震被害、倒れた本棚で頭を打ち、メガネがつぶれて吹っ飛んでいった、ということと、津波被害第一報のあまりの甚大さに、英語学習や看護学をめざして留学した若い人々の追悼をしている余裕がありませんでした。

 クライストチャーチでの地震で、最初の遺体確認となった富山市魚津市の平内好子さんは、昨年3月まで滑川高校の校長先生でした。定年退職のあと、生物学研究者としてダニの研究を続けるため、英語を学びなおそうとしてニュージーランドに留学しました。
 還暦を機に、自分の追求してきた分野の研究をまとめておきたいと志したところは、私も平内さんと同じです。

 私は博士後期課程に在学中、実践研究の一環ともなるよう、中国に半年間赴任しました。その間、同僚にも学生にも恵まれ、自分の研究を深めることができました。何事もなく無事帰国したことを当たり前のことのように感じていましたが、平内さんを思うと、私はものすごくラッキーだったのだと思います。

 私は中国から無事帰国でき、博士号も取得できた。平内さんは、クライストチャーチで命を落とされた。この違いは、ほんの少しの運です。与えられた運命を避けることはできなかったとしても、悲運にあった方のご家族の嘆きは量り知れません。私が還暦を機に研究をまとめたいと志して完遂できたことを嬉しく思うとき、私は必ず、還暦を機にダニの研究を完成させようと志し、しかしそれを果たせなかった平内さんのことを思い出します。

 東京の桜は6日には満開となったのですが、8日は強風、9日は雨。週末に花見日和とはなりませんでした。東北の酒蔵が「花見自粛のために東北産のお酒も売れず、地震被害の次は自粛経済被害」と訴えていたので、できるだけ福島や東北の産品を買うことでと東北支援をしたいと思っています。
 震災のためお彼岸プラス3月25日の舅命日の墓参りを中止にしました。地震片付けが終わったと報告したら、姑がどうしても家族で墓参りをしたいというので、4月9日、雨の中でしたが、夫、娘、息子、姑とそろって墓参り。舅を偲びました。

 4月10日は、姉の命日。菩提寺の裏山に一本の枝垂れ桜があります。10日前後は、桜吹雪が美しい。

 姉は美容院を経営していました。姉のおおらかで温かい人柄を慕って来るお客さんが大勢いました。なかにひとり、2ヶ月か3ヶ月に一度、髪を切りにくるおばあさんがいました。乏しい生活費の中から少しずつお金を貯めて、髪のカット代が貯まると姉の店にやってきます。「うちの近所にもいろいろ美容院があるけれど、ここの先生と話しているとほんとうに元気が出て、寂しい人生でももうちょっと生きてみようという気持ちになれるから」と、話して通っていたそうです。
 姉はカット代だけで染髪やパーマもしてあげていたようですが、「タダってことにすると向こうが遠慮して来なくなっちゃうから、カット代だけはもらうのよ。ちゃんとお金を貰えば、お客さんとして堂々と来られるから」と姉は言っていました。

 お客さんと話しながら髪をカットしたりセットしたり。姉はほんとうに腕のいい美容師でしたが、美容の腕もさることながら、お客さんの心をなごませ、やすらぎを与えるセラピストとしての能力も高かったのだろうと思います。

 姉は医者の誤診によって54歳で亡くなりました。病理検査の結果、肉腫の細胞があったという病理医の報告をを、臨床医は無視しました。「中年女性の子宮の病気は筋腫」という予断によって子宮筋腫だからすぐ治る、と診断したのです。ガンより臨床例が少ないという子宮肉腫という症状を見抜けなかった藪医者。しかも、誤診を隠そうとしてセカンドオピニオンを求めた姉を脅し、姉が亡くなってから説明を求めた私と姪を恫喝しました。

 地震や津波という天災を受けてしまうのも、誤診という人災を受けてしまうのも人の運命なのかも知れませんが、姉が亡くなって9年もたつのに、いまだに医者を許す気持ちになれません。医者も人だから、間違いを犯さないことはありません。しかし、誤診がわかったあとのひとかけらの誠実さもない態度、患者を人として扱わない尊大で自己保身にのみ走った医者を、許せないのです。

 自社が責任を負うべき重大事故を前にして、病院に雲隠れしてしまった社長や、自分たちが政権担当政党であったときに「安全安全」と言い続けて導入を主導したことに口をつぐむ前政権担当政党を許せない気持ちなのと同じ。
 自分自身の不注意な運転で他者を事故に遭わせ、心身を傷つけておきながら、自分は「弁護士と保険会社に一任」すればもう責任ないとばかり、身勝手で危険な運転を続ける運転者も、世の中には存在することを知りました。

 相手を許すことも必要です。しかし、それは罪を悔い、自分にできることで償おうとしている場合です。私が遭遇した誤診をごまかそうとする医者や、交通事故で他者を傷つけておきながら相変わらず身勝手な運転をする人を許すことはできません。

 姉御肌で、誰かれとなく人の世話をしていた姉。ぽんぽんと口は磊落だけれど、心が温かい人だということは皆が知っていました。
 
 姉の命日を桜吹雪忌と名付けています。散りゆく花をみつめながら姉を偲びます。
 花の季節を前に散っていった、多くの命の冥福を祈ります。

<つづく>
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2011年04月12日


ぽかぽか春庭「『怒濤の虫』の芸術家追悼文」
2011/04/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(2)「怒濤の虫」の芸術家追悼文

 4月11日午後5時17分、26分。私は入浴中。大きな揺れ、お風呂のお湯は揺れて浴槽から右に左にこぼれました。こわかったです。いざとなったら裸のまま外に飛び出さねばと思いつつ、風呂場のドアが開かなくなると困るから、ドアを押さえているのがせいいっぱい。
 震源近くのいわき市では土砂崩れがあり、潰された家の中に人がいるかもしれないというニュース。原発のすぐ近くの震源地。注水が止まってしまったけれど、作業員に退避命令が出たので作業ができなくなったと報道され、大きな災害へ進まないことを祈っています。
 地震への不安が続き、長く続いた地震酔い(揺れていなくてもゆらゆらめまいのような症状がおきる)が少しずつおさまったと思ったら、再び大きな揺れと津波警報で、また不安がつのります。

 3月大震災。倒れた本棚で頭を打ち、本は部屋の中に山積みになってあふれる。3月中、地震酔いと地震アパシーで片付けもせず、ふとんにもぐりっぱなしだった間、数千冊の本が部屋に山積みのまま。その山に、ふとんの中からもぞもぞと手を伸ばし、手に届いた本を寝床に引っ張り込み、うつらうつら読んでは眠り、また目をあけては読む。何度目かに読み返す本もあったし、ツンドクにしておいたまま十何年もほったらかしていた本もありました。1週間寝ている間に20冊くらい読めた。

 という中の一冊に西原理恵子『怒濤の虫』がありました。これもツンドク本でした。私は「まあじゃんほうろうき」の頃の西原理恵子は知らず、読み出したのは「ぼくんち」からです。だから、『怒濤の虫』は読んでなかった。
 『怒濤の虫』は、サイバラが初めて「文章も書いた」本。ただし本人が書いた「ナマ西原文」は一篇だけで、あとは「半・西原文」だったり「全・担当文」だったりという初期の西原理恵子なのだけれど、余震に震えてながらも笑いながら読んでおりました。
 そんな「半・西原文」、「全・担当文」の中、一篇だけ他とテイストが異なる文がある。「死んだのはひとりの芸術家でした」

 1991年3月16日、立川市で起きた工事現場の事故。100トンのくい打ち機が横転し、アパートの上に倒れました。アパートの住人ふたりが下敷きになって亡くなりました。そのひとりが野村昭嘉さん。西原理恵子が土佐から上京し、美術大学受験のために通っていた美大受験予備校の同級生でした。

 西原は野村が事故で亡くなった一報を知り、翌日17日に追悼文を「怒濤の虫」連載中のサンデー毎日に書いた。翌日書いたということは、一晩泣き明かした西原が語ったことがらを、サンデー毎日の担当編集者「担当S」「毎日のシマ」こと志摩和生がまとめて書いた「全・担当文」という気もする。
 サイバラは、ニュース記事が「フリーター野村昭嘉さん死去」と書いていたことに腹を立て、いっそう涙が倍増してしまったのだった。「その日暮らしではあったが、野村さんは高い志を持って絵を描き続けていた画家なのだ」とサイバラは思う。しかし、世間はその絵が売れていなければ、「絵を描くのを趣味にしているフリーター」としてその死亡記事を書く。

 美大予備校時代から純粋に絵に打ち込んでいた青年の姿を、サイバラは語る。『怒濤の虫』以外のエッセイ漫画でも繰り返し語る。生前は1枚の絵も売れず、その日暮らしを続けた。食べるための賃仕事の時間のほかはすべてを絵を描くことに注ぎ、クレーンの下敷きになって26才で早世した野村昭嘉。新聞には「フリーター」としか出なかったその人を、西原は「ひとりの芸術家」として追悼した。

 おそらく、サイバラのこの追悼文が作品集出版のきっかけのひとつだろうと思うけれど、「野村昭嘉作品集」は亡くなった2年後、1993年に発売されました。
http://www2.odn.ne.jp/tuyu/gorin/shuhen-nomura.htm

 西原の元には、野村の遺族から著作の中に紹介してくれたことへの感謝の手紙が届いたという。野村昭嘉は26才で亡くなってしまったけれど、その作品と作品ノートの文章は、『野村昭嘉作品集』として、残された。作品集を見た人の心に永遠に生きて行く。

 野村昭嘉の場合はたまたま、追悼文→出版界の目にとまる→遺作集出版、という過程を経たけれど、友達がただひっそりと追悼してくれる、それだけでも遺族にとってはなぐさめになると思います。ことに、病気で、事故で、災害で、早世した家族がいるとき、遺族はいつまでたってもその悲しみを背負います。亡くなった人を思い出してくれる人がいるとき、つかの間、遺族の心も共に亡き人を偲ぶ心で満たされるのです。

 アパートにいた野村さん、家の中にいる一番安心している時間に、よもやの事故で命を失うとは思ってもいなかったことでしょう。私もお風呂の最中にこれほど揺れたのは初めてですけれど、いつ何時どのような災難に遭うのかは、予測もできず、家の中に閉じこもっていたから安全だとはいえません。

<つづく>
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2011年04月13日


ぽかぽか春庭「笠松登のこと」
2011/04/13
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(3)笠松登のこと

 12日夜、福島原発事故は、ついにチェルノブイリと同じ規模のレベル7の危険度であると発表されました。目に見えない放射能、「ただちに健康に被害を及ぼすものではありません」という決まり文句も、白々しいだけ。チェルノブイリは、事故発生から25年経た今も、原発を覆い隠した「石棺」の劣化による放射能漏れの危険が続いているのです。そして25年たった今も、子どもの甲状腺ガンの増加などは続いています。

 12日も、地震が続きました。何度も地震警報が出て、そのたびにこわい思いをする。揺れに耐え、もう大丈夫かなと、警戒心をほどいても、安心はできません。震源地近くの、もっと揺れが大きかった地域の人々はどれほど不安な気持ちだったろうと思います。
 不安を紛らわすための心理だろうと思うのですが、長く音信していなかった人に、突然メールであいさつを出したりしています。年賀状を出さなくなってから、音沙汰をしないことが増えてしまったので、地震見舞いはメールを出すのにひとつのきっかけです。

 12日は、このところ活動から遠ざかっていた「日曜地学ハイキング」の世話役の理科の先生に地震見舞いかたがた、近況報告をしました。先生からは「私は2年前に退職して、クモヒトデ三昧の生活をしています」という返信をいただきました。以前にいただいた「クモヒトデ」についてのリーフレットからさらに研究が進んで、仲間との共著も近々出版になるとのこと。日曜地学ハイキングは、14年前、娘が1年半不登校だった間、家から外へ出て行く活動の場として、我が家にとって大事な居場所でした。2ヶ月に一度ほど、化石掘りや鍾乳洞見学などに出かけたのがとてもよい「外歩き」になっていました。

 ふとしたきっかけで人と出会い、あるはすれ違う。たった一度の出会いを一生の宝物として大切に記憶の中にとどめておくこともあるし、長い間忘れていた人をふと思い出すこともある。どの人との出会いも、今の私を作ってくれた大事なひとときであったにちがいない。
 何かの記念写真で親しげにいっしょに写されている人の顔を見ても、さっぱりと思い出せない人もいる。私は、これまでに出会った人のうちの何人の人を覚えていられるだろうか。出会ったことを手紙で家族に知らせた人もいる。日記に書き留めた人もいる。でもたいていはその後のつきあいが続かなければ、忘れてしまう。

 人と人とのかすかな出会いを、確かな文章で書き留める。そんな出会いの数ページを読んだ。読み終わると心震え、私もこれまでに出会った誰彼のことを、一行でもいいから書き留めておきたいという気持ちになる。

 「記録を残す選手になるよりも、記憶に残る選手になりたい」とは、新庄剛志はじめ、多くのスポーツ選手が口にしている言葉だという。しかし、なかには記録は残したもののまったく人の記憶には残っていない選手もいるだろう。
 笠松登という陸上選手を覚えている人はどれくらいいるだろうか。確かめていないのだが、TBSで笠松についてのドキュメンタリー番組が作られたことがあったらしいので、私が知らないだけで、記憶に残ってるという人もいるのかもしれないが、私はまったく知らなかった。

 どのようにして笠松は「記録」に残ったか。
 1955(昭和30)年第30回陸上競技選手権大会で、走り高跳び1m85で中央大学の笠松登が優勝。1956年メルボルンオリンピック代表選手に選出される。しかし事故のため選抜から降ろされる。1958(昭和33)年リッカーミシン所属選手として1m95で優勝。だが、選手として活躍できなくなり引退すると、会社勤めもやめてしまった。その後失踪。不確かな情報ではあるが、ホームレス生活ののちに凍死したともいう。ドキュメンタリーで話題になるときも、「スポーツ選手の末路」というような話題でのみ取り上げられる扱いとなってしまった。

 どのようにして笠松は人の記憶に残ったか。世間が覚えていることと言ったら、次のような新聞三面記事だろう。
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<東京・新宿>五輪代表選手を襲った輪禍
昭和31年10月15日午前1時30分、新宿区歌舞伎町879のバーやまで友人と飲んでいたメルボルン五輪走り高跳び代表選手で中央大経済学部4年の笠松登(22)が、店内にいた大学生7、8人が持っている時計で酒を飲ませろと経営者の呂にからんでいるのを自分が喧嘩を売られたと思い込み、外へ出ろと乱闘になって叩きのめされた。そこへ酔った男性医師(48)の運転する車が倒れていた笠松に乗り上げ、笠松は頭部内出血と内臓損傷で入院1ヶ月、全治6ヶ月のけがを負った。10月16日、笠松はショックのあまり錯乱して自分で判断が出来ない事から、大学側によって勝手に五輪辞退届を提出されてメルボルン五輪への道を絶たれた。
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 私が笠松登のことを知ったのは、ノンフィクション作家保阪正康の『回想わが昭和史』(月刊百科No.579 2011年1月号)による。
 保阪が小学校6年生のとき、父親は北海道根室の高校に勤務していた。その高校のグランウンドで黙々と練習に励む走り高跳びの高校生がいた。保阪は弟といっしょに練習を見つめた。
 保阪は、貧しい生活の中で死んでいったと聞かされた笠松を、記憶の中に反芻する。
 「夕闇の中に身体を横にしてバーを越えていく笠松選手の姿に、私と弟の二人だけが拍手を送った。飛び終えて下からバーを見上げる姿が、今も私の記憶の中にあるのだ。」

 小学生の保阪正康が、高校生だった笠松登の走り高跳び練習を見つめている。保阪はその姿を記憶にとどめ、何十年もたってのち、その名を記録する。
 オリンピック候補になりながら不運にも出場はできず、記録は残しても一般の人の記憶には残されなかったスポーツ選手。
 その姿を見つめていた少年が、自らの半生を振り返るとき、夕日に照らされるグラウンドの中に一本の棒を越えようと努力を続ける選手の姿を記憶の中から掘り起こし、書きとどめる。
 私たちは、夕日の中に一本の線を描き、そのバーを越えようとする青年のシルエットを描く。なんだか泣けてくる。私は笠松を知らなかったが、今は知っている。一本のペンがそれを記録したから。
 
 私も、出会った人の姿をこのように書き留める人でありたい。
 美しいシルエットの中に描かれる人もいようし、つらい記憶とともに吐き出す姿もあろう。でもそれらの人々すべてが、私とつながっているのだ。

<つづく>
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2011年04月15日


ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏」
2011/04/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(4)渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏

 地震で倒れてきた本棚で頭を打ったせいで、どうも調子が悪いと思っていました。仕事の新学期開始が4月下旬からになったのは幸いでしたが、授業開始も目前に、いつもの仕事モードに戻さなければいけないとあせりつつも、なんだかやる気がでず、自分では「地震アパシー(無気力)」と名付けていました。
 また、ほんのわずかの募金をしてみて、「世の中には100億円も寄付するお金持ちもいるのに、ほんとうに貧者の一灯で、ささやかだなあ」と、自分の貧しさを情けなく思ったり、原発の新聞報道や自粛騒ぎの世間の動向に無闇と腹を立てたり落ち込んだり。

 これはへんだ、、、、、、と、精神科医香山リカの「こころの復興で大切なこと」というウェブ連載エッセイを読みました。(toukuroさんの絵日記で教えていただきました)

 私の陥った無気力や落ち込み、被災した人への「こちらは被害が少なくて申し訳ない、感」というのも、災害時心理学ではとうに分析されていた心理状態なのだと納得しました。
 被災した人に共感していっしょに泣いていると、普通の人は「共感疲労」状態に陥ってしまう。精神科医は、患者の話を聞くとき、どんな悲惨な体験談であっても、いっしょに涙を流したりするなどの過度の共感を心に持ち込まない訓練をしているのだ、と香山リカは書いています。
第1回http://diamond.jp/articles/-/11751 「一日も早く」にとらわれない
第2回http://diamond.jp/articles/-/11844  被災していない人にも「共感疲労」という苦しみがある

 3万人近くも死者行方不明者が出た、そのひとりひとりに、つらく悲しく感じている人はその数倍にも十数倍にもなるでしょう。
 私が特に気になっているのは、避難誘導に失敗したという宮城県石巻市の市立大川小学校です。教師に引率されての避難途中、全児童108人の7割にあたる74人が津波に襲われ亡くなっています。当時校内にいた11人の教諭のうち9人が死亡、1人が行方不明、助かったのはひとりだけ。

 自分の娘の卒業式に出ていたため、避難誘導の場にいなかったという校長をはじめ、たったひとり助かった教諭と、児童十数人、これからずっと心に深い傷を残すのではないかと案じられます。津波警報が出た場合の避難誘導の方法を、「これから話し合う矢先だった」という校長は、辛いことでしょう。

 それにつけて、思い出すことのひとつ。35年前に勤務していた公立中学校で教えた中学生の死について。この中学校で3年という短期間しか勤務しなかったのに、私が担当した演劇部の生徒がふたり亡くなりました。ひとりは病死でひとりは交通事故死です。そのふたりを思うにつけ、一度に7割もの児童を失ったのでは、残された親も先生もいたたまれないだろうと感じます。

 私が新任の国語科教師として中学校に赴任したとき、渋谷君は1年生でした。クラブ活動紹介のとき、演劇部を紹介する3年生といっしょに、私も「1年生のみなさん、演劇部は楽しいですよ。俳優やりたい人はもちろん、舞台装置を作るために大工仕事が好きな人、音楽が好きな人、いろんな人が必要です。得意技がない人も、大歓迎」と、参加を呼びかけたら、「ぼくは、何も得意なことも好きなこともないから」と、入部してきました。

 渋谷君ともう一人「何もできないから」と、演劇部を希望してきたのですが、その年の演目「夕鶴」の舞台背景の田舎家や囲炉裏などの舞台装置を、夏休み中いっしょに作ってくれました。いつも青白い顔で、入部してきたは暗い顔つきだった渋谷君。「ぼく、女の子に気持ち悪いからそばに来ないでって言われたことあるんだ」と、悩みを打ち明けてきたこともありました。思春期のはじめの、女子生徒を意識し始めた悩みかもと軽く受け流し、「そのうち渋谷君の良さをわかってくれる子も絶対にいるから、君は君のしたいことを一生懸命やっていればいい。今はこの鶴の影絵を作っていればいいさ」などと言って聞き流しました。渋谷君はサボりながらもクラブはやめないで続けていました。

<つづく>
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2011年04月16日


ぽかぽか春庭「渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎」
2011/04/16
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(5)渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎

 ものを作ることに興味が出た渋谷君は2年生になったら「もっといろいろ作りたくなったから、演劇部やめて、技術部に入ります」と、言ってきました。それもひとつの成長なのだろうと思って、「じゃ、技術部で工作とか旋盤とか、いろんな制作を楽しんでね」と、送り出しました。相変わらず顔色はさえないけれど、女の子から「気持ち悪い」と言われても、表情は男の子らしくしっかりしてきたように思えました。今の女子生徒用語なら「キモかわいい」くらいになってきたところだったでしょう。

 渋谷君2年生の秋、「渋谷君、なんか風邪みたいで、1週間くらい欠席が続いている」と、同じクラスの女の子が渋谷君のようすを知らせてきました。「あらま、来週あたりは出席できるかな、担任の先生に聞いてみようか」と言っているうち、担任の英語の先生が「うちのクラスの渋谷が再生不良性貧血のため亡くなりました」と、朝の連絡会で報告しました。そんな急に人があっけなく死んでしまうのかと、信じられませんでした。当時、再生不良性貧血には治療法がなかったのです。(現在は骨髄移植や免疫療法などがあります)

 お葬式に出るのは、同じクラスの生徒の代表と、教頭、担任、現在所属しているクラブ顧問の技術科の先生、というお達し。私は、「遺族の気持ちを考え、学校関係者が押しかけることは避ける」という学校方針に従いました。クラブの生徒には「文化祭や地区演劇発表会をやり遂げること、自分たちの頑張っている姿を届けることで渋谷君の冥福を祈ることにしましょう」と言いました。
 
 教師2年目の夏休みは『夕鶴』と同じ、木下順二作『三年寝太郎』の練習で連日稽古と舞台装置作り。と、言っても、三年寝太郎の舞台装置は、囲炉裏とか、ほとんど『夕鶴』で作った物の使い回し。
 主役の寝太郎を演じたのは、3年生の野村君でした。私が赴任する前の年、1年生のとき、彼は2,3年生の女子が主役を演じているのを、端役でささえました。2年生のとき、唯一の男子俳優希望者ですから、『夕鶴』の与ひょう役に抜擢し、彼は宇野重吉風のひょうひょうとした演技で与ひょうを演じました。3年生になった彼のために、それまでの女子生徒中心だった演目から、男性が主役を張れる演目に変えて『三年寝太郎』を選びました。野村君は、三年寝太郎もがんばってくれました。

 教師3年目。卒業した野村君は第一志望の高校に入りました。自宅からは通学に不便な高校でしたが、高校入学祝いは、前々からねだっていたバイク。16歳になったらすぐ免許をとるのだと言い、免許をとるとバイクで通学するようになりました。しかし、通学途中、トラックと衝突して、野村君は16歳で世を去りました。このときは、元クラスメートである卒業生たちといっしょにお葬式に参列しました。(現在は、たいていの高校がバイク通学を禁止するようになっています)

 教え子が先に亡くなるなんて、教師にとってはつらいことです。でも、「この死を嘆いていたら、他の生徒の指導が先に進まなくなってしまう」と感じ、生徒とともに泣くことを自分に禁じました。このことは、ずっと私にとって「私は冷たい教師だったのか」という心の負担になっていました。野村君が亡くなった翌年の3月には退職しました。
 あれ以来、折に触れて渋谷君と野村君を心の中で追悼してきました。中学生のままのふたりが思い出されました。

 精神科医やカウンセラーは、残された者にも、心の手当が必要だといいます。「こころの復興」について読んでいると、私が生徒の死に対して「ずっと泣いていてやれないのは冷たい態度だろうか」と思っていたのは、誤りだったとわかります。亡くなった人の追悼は、いつまでも泣いていることではないのです。

 今はまだ、どのように追悼したらいいのかさえ、わからず、3万の死者行方不明者の「みたま安かれ」と祈っているばかりです。でも、きっと亡くなった方々も、残された人が長く嘆き悲しみ、立ち直れないことを望んではいないでしょう。
 三年寝太郎は、寝続けていても最後は明るく自分の運命を切り開きました。残された人たち、泣き続ける日からきっと立ち上がって、最後に寝太郎が笑えたように、笑顔を取り戻して欲しいと思います。

<つづく>
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2011年04月17日


ぽかぽか春庭「西方さんのこと」
2011/04/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(6)西方さんのこと

 16日11時すぎ、また地震。東京は4でした。余震疲れなのか、レベル7パニックなのかわかりませんが、春庭が、神経過敏ぎみにいちいち周囲のことがらに反応してキンキンキャンキャンとわめき散らすのも、地震反応と思って大目に見て下さい。(春庭BBSでわめいています)
 泰然自若というのはほど遠い、ちょっとのことで怖がったり不安に思ったり。
母が死んだ年55才をとうに超えたのに、相変わらず人間の小さい春庭は、まだまだ修行が足らぬことわかっております。

 母にまつわる思い出の中で、よく覚えていることのひとつが、「縁側から上がらなかった人たち」です。(何回か同じエピソードを記していますが)。
 母を慕って「お茶飲み」にわが家に立ち寄る人々は多かったのですが、その中でいくら母が「今日はちょっと冷えるから、縁側でなく座敷にどうぞ。おこたがあったかいから」なんて勧めても、部屋へ上がろうとしない人たちが何人かいました。
 そんな客が帰ると、母は「あの人はいつも遠慮して、、、、」と残念そうにしていました。

 私が高校に入学したあと、母は、ようやく私がものごとを理解できる年頃になったと思ったのか、なぜ縁側から座敷に上がろうとしない客が来るのかを話してくれました。母の生まれ在所近くの地域に差別を受けている地区があったのです。母が通った小学校でもその地区の子供は差別を感じて育っていたのですが、母だけは絶対に同級生を差別するような言動をとらなかった。そのためにその地区の人たちは母を慕って、わが家に立ち寄ってひととき話をして帰って行きました。しかし、「私らが座敷に上がると、他の人たちが寄りづらくなるだろうから」と遠慮して、いつも縁側に立ち寄るだけにしていた、というわけでした。

 この「どんな人にも温かい態度で接する。決して人を差別しない。できる限り人の世話をする」という精神は、姉にも妹にも伝わっています。私は、姉や妹のように世話好きにはならず、伯母(母の姉)に似て、人とうまく交際できない遺伝を受け継いでしまったのです。伯母は、子供の頃は家から一歩外に出ると他人と話ができない「場面緘黙症」でしたし、大人になっても職場の人と親しいつきあいはできず、家族以外に友達とつきあうようになったのは、晩年になってからでした。人から攻撃を受けるということについての防御心理というのが、伯母や私に強いように思います。「あの人が私を悪く思っている」と感じてしまうことの心理的なストレスが、伯母も私も大きく、世間からは身をひいて引きこもりがちに生きてきました。

 一方、母は町中の人に慕われていました。誰にでも親切で、いつでも親身になって人の世話をしていた母。
 でも、母が死んで40年近くなるので、母のことを記憶していてくれる人々も、どんどん死んでいっていることでしょう。母が自分の身体を放り出すようにして助けた、鉄道線路を歩いていて汽車にひかれそうになった幼子も、母のことを思い出すこともないかも知れません。
 私と妹が死ねば、母を覚えている人もいなくなる。さびしいけれど、それでいいのでしょう。

 私が出会った人。市井の、無名の、どこにでもいそうな人々。記憶の断片の中のひとりひとり。
 今日思い出すのは、西方さんのこと。西方だったか、西潟だったのかも覚えていなかったのですけれど、母に出した古い手紙の束が出てきて、その中には「西方さん」と書いてありました。

 私と西方さんは、母が亡くなる数年前に出会いました。私は、初めて東京に出てきて、一人暮らしを始めたところでした。母と離れた心細さもあって、母に似ているふっくら体型と、いつもほほえんで周りの人を包み込んでくれるような西方さんに親しみを感じました。

 私は、医科大学の内科検査室に「研究補助員」として勤務し、試験に合格して「衛生検査技師」という資格を得ました。衛生検査技師は、「臨床検査技師の業務のうち、生理学検査以外の検査、すなわち検体検査を行うことができる」と定められた資格で、私は「病院等に1年以上勤務し、内科検査に従事した者」が受験できる特例によって試験を受け、資格を得ました。この特例制度は、臨床検査技師が短大卒でなく4年生大学卒資格になって以後、廃止されており、現在ではすべて臨床検査技師に統一されています。検査技師が不足していた時代に特例の資格を与えた、いわば「代用教員」のような制度でした。

 西方さんは、私が検査技師の試験に挑戦することがわかると、専門学校や短大を卒業して取得できる資格への挑戦に対して、「私もね、学校行きたかったんだけれど、家が没落しちゃったから、行けなかった。試験で資格取れるなら、がんばりなよ」と、励ましてくれました。

<つづく>
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2011年04月19日


ぽかぽか春庭「思い出し供養」
2011/04/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(7)思い出し供養

 「高校時代、科学部に所属し、部員として読売学生科学賞を受賞したことがある」ということを評価して採用して貰ったのに、もともとが文系の私は、医学には向かない人間でした。
 私の仕事は、血液検査と尿検査でした。血液像を検査して白血病の診断につなげるなど、医学的に重要な仕事であったゆえ、生き甲斐と誇りを持って勤務している検査技師が多かったのに、私は「短期アルバイト」の気持ちが抜けず、資格取得後まもなく退職してしまいました。

 急性白血病の患者が入院して1週間もたたないうちに死んでしまう、という生と死を見つめる仕事を続けるには、医学への強い心が必要です。患者の死に打ちのめされているような心情の持ち主は、医学の仕事を続けられない。医学は死の衝撃を乗り越えて進まなければならない仕事です。
 40年前、私が病院の検査室勤めを続けられなかったのも、検査を担当した人が死んでしまったりしたときに、いちいちショックを受けてしまうようなヤワな精神だった、というのも理由のひとつでした。

 20歳という多感な時期に、生と死と向き合う病院の仕事に従事したことは、私には大きな影響がありました。この内科検査室でのたった1年半に出会った人々。内科検査室の斎藤主任、検査技師の涌井さん、杉本さん、林さん、諏訪さん、、、、病院勤務を辞めたあと、何度か検査室に遊びに行って、「今は公立中学校の国語教師をしています」など、報告もしました。検査室での仕事を続けている元の仲間は温かく迎えてくれました。

 西方さんは、内科検査室の試験管を洗ったりする係員でした。とても働き者で、いつも生き生きと仕事をして、仕事の合間にはご家族の話もよくしてくれました。ちょうど母と同じ年頃だったので、とても親しみやすくて、慣れない東京暮らしの私も、西方さんのおしゃべりを聞きながら仕事をすると、気持ちも落ち着きました。

 西方さんのお得意の話はいくつかありましたが、繰り返しの昔話のなか、自慢話とも愚痴ともとれるお話に「亀の子束子」の話がありました。江戸っ子のきっぷのよい話しぶりでした。
 「うちの爺さんってぇ人は、亀の子束子を考え出して、今で言う実用新案をとって大もうけした人なんだけど、20年の実用新案が切れるとたちまち貧乏になっちゃって、私もこんな試験管洗いの仕事をするようになってさ。実用新案が切れる前に、切れた後のことを考えてお金を貯めるような人だったら、あたしらもこんな苦労はしなかったろうに、なんせ江戸っ子だったからねぇ。あればあるだけ、宵越しの銭は持たないってのが江戸っ子だからね」

 現在も続く亀の子束子の会社が東京の滝野川にあります。初代社長は西尾正左衛門という名で、詳しい伝記も会社沿革に書かれています。立志伝中の人物であったようで、実用新案が切れたあとは、すっかり貧乏になってしまったという西方さんの話とは一致しません。西方さんの実家が西尾商店だったのかどうかも今は確かめる方法もわかりません。

 検査室退職後、検査室以外の場所へ西方さんに会いにいきました。大学病院の癌病棟でした。私が勤務していた頃、小説家高橋和巳が入院していた病棟です。
 娘さんが付き添っていました。試験管を洗っていたころは、ふっくらおおらかな身体をゆすって話込んでいた人だったけれど、「こんなに痩せちゃってねぇ」と言い、頭には毛糸の帽子を被っていました。おそらく抗がん剤で髪の毛が抜けてしまったのだと感じました。
 「ここは一流の病院だし、優れた先生が大勢いるのだから、きっと治りますよ」と声をかけて病室を辞したけれど、高橋和巳も結腸癌に勝つことはできず39歳で死んだことが思い出されました。

 西方さんとの出会いはほんとうに短い期間だったし、西方さんについてあれこれを知っていたわけでもありません。でも、私が西方さんを覚えていて、その笑い声や昔語りが好きだったこと、そのことは私の中でセピア色になっても確かに心の中にあるのです。もし、西方さんの病室にいた娘さんが「私の母を覚えている人がどれほど残されているのだろう」と思うことがあったら、私は「西方さんを覚えていますよ。西方さんのやさしい笑顔が大好きでした」と伝えたい。

 子どもの頃読んだメーテルリンクの『青い鳥』。チルチルとミチルが最初に行った国は、「思い出の国」です。二人は思い出の国で、亡くなったおじいさんとおばあさんに出会いました。おじいさんは「人は死んでも、みんなが心の中で思い出してくれたら、いつでも会うことが出来るんだよ」とチルチルたちに語りました。

 私が西方さんを忘れないでいる限り、私の母を覚えていてくれる人がこの世にいることを、信じられるような気がします。

<おわり>


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新緑散歩2011年5月

2010-06-05 18:39:00 | 日記
2011/05/04
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(1)ささやかな行楽

 ロシア開催の世界フィギュア選手権。テレビ放映を楽しみました。安藤美姫の世界一位獲得、よかったです。安藤美姫選手は2007年に世界選手権で優勝して以後、2008年には世界選手権途中棄権するなど不調が続き苦しみました。粘り強く復調をはかり、4年ぶりに世界選手権のトップになったこと、多くの人を励ましたことでしょう。
 実は、生でフィギュアを観戦したいという娘息子のリクエストに応えて、4月に横浜で開催されることになっていたフィギュア国別対抗戦を見に行く予定でした。3月はじめにはチケットが届いていたのに、震災の影響で、対抗戦は中止になってしまいました。

 そのほか、いろいろ予定変更があった中、4月23日には三春の滝桜を見に行く計画で、旅行社に申し込みをしたのもキャンセル。4月生まれの妹への誕生日プレゼントとして「日帰りバスツアー」を申し込んだのです。しかし、3月11日のあと、ぐちゃぐちゃになった部屋がまったく片付かない状態や、私の地震酔いのめまいへの不安から、キャンセルしてしまいました。

 「滝桜はまた来年のお楽しみ」ということで納得したのですが、新聞に「平年は30万人の人出があるのに、今年の滝桜見物客は5万人」という記事が出て、見事な桜の写真を見ると、あれま、ちょっとキャンセルを待っていればよかった、と残念です。満開日の予測がぴたりと当たって、満開の2日後の土曜日という絶好日のバスツアー予定だったのに。
 福島は風評被害もあって、観光が打撃を受けたということなので、キャンセルして悪いことしたような気分です。

 それで、「行ったつもり行楽」をすることにしました。滝桜ツアーに参加すれば、日帰りバスツアーひとり7000円、妹と私の二人分の旅行代金14000円を払い込むはずでした。できる限りお金をつかわずに一日行楽をし、使ったお金と14000円の差額を福島県への義援金にしようと思いついた次第。行楽の足は自転車。乗り物代をかけず、買うのは食べ物飲み物のみという一日自転車ツアーです。

 4月29日、ママチャリ自転車ポタリングに出発。
 ママチャリポタリングは私の趣味のひとつ。でも、この3年間、週に5日働き、土日は家事と翌週の仕事準備、論文執筆やゼミ出席などで、なかなかゆったり気分でポタリングはできませんでした。

 ほんとうに何年ぶりかの、目的地も決めずに出かける「行き当たりばっ旅」
 「自転車で出かけて、あちこちぶらつく」というポタリング。
 ポタリングは、パターゴルフなどのputterから来た和製英語、という説を長いこと信じてきたのですが、米語口語ではputterまたは potter とも綴られ、 potter around, potter overなどの表現で、ぶらつく、だらだらすごす、などの原義があることがわかりました。(研究社New collegiate English-Japanese Dictionary)。
 サイクリングが、「自転車を走らせること」に重きを置く移動手段であるのに対して、ポタリングは「ぶらぶらとあちこちをめぐる自転車移動」をさしています。ただし、米語口語といっても、あまり一般的な表現ではないようです。英語母語話者のカナダ人留学生ふたりに聞いてみたところ、やはり使ったことのない語だと言っていました。日本でしか使われていない表現という意味では和製英語に近いのかも。

 29日金曜日。ゆっくり起きてから、しばらくは見沼田んぼとか荒川土手サイクリングコースなどを走ったポタリング記録のサイトを眺めていました。どうしよう。東京近郊の緑の中、自然を求めて走るか、街中の公園めぐりをしながら走るか。

 小石川植物園、後楽園、新宿御苑などの庭園めぐりをしようかなと考えて、最初、旧古河庭園へ行きました。入園料150円払って入ったけれど、まだバラの開花には早くて、キモッコウバラ(黄木香薔薇)のほかは咲いていませんでした。それで「緑の中を走る自然と親しむポタリング」というのは変更。結局、今まで何度か走ったことのある、「街中商店街めぐり食べ歩き」ということにしました。めぐった商店街は、霜降銀座、染井商店街、駒込さつき通り商店街、駒込アザレア通り商店街、田端銀座、谷中銀座などです。

 旧古河庭園近くの霜降銀座商店街とそれにつながっている染井商店街を往復。霜降銀座は、「名探偵・浅見光彦の住む街」としてミステリーファンにはおなじみの商店街です。私は、推理小説とテレビの2時間番組ミステリーは、「仕事リタイア後のお楽しみ」にとってあり、ほとんど見ていないのですが、震災後、「ぼうっとテレビばかり見てすごしたころ」に、『浅見光彦シリーズ、漂白の楽人』というのを見ました。沼津と新潟越後妻有アート村が出てきましたが、このときは霜降銀座は出ていませんでした。

<つづく>
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2011年05月05日


ぽかぽか春庭「食べ歩きポタリング」
2011/05/05
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(2)食べ歩きポタリング

 霜降銀座の、駒込側入り口近くの「西尾中華そば」。12時前なのに、店内のカウンター席7席は満杯、すでに5人ほど並んでいます。う~ん、並ぶのはどうだろうと思っていたら、3人が中に入り、私の前は2人になりました。これならそれほど長くはかからないかと思って待つことしばし。カウンター席が7つあるだけの小さな店ですが、どうやら「ラーメン小僧」たちの行脚地のひとつになっている模様。「魚介だし醤油味」がウリみたい。

 「本日のラーメン、鯛ニシチュウ」というのを食べました。おいしかったけれど、私にはラーメンに千円払うのは贅沢のうちです。ま、ポタリングエネルギー補給のため、千円を許しましょう。
 食べ終わって、さあ、自転車こぎに出発です。

 商店街めぐりのポタリング。
 霜降銀座の次は、駒込駅北口のさつき通りと、駒込駅南口のアザレア通り商店街を通り抜ける。花卉に詳しい人によれば、西洋アザレアの原種は台湾つつじだそうですが。わたしにはさつきもつつじもアザレアも区別がつきません。

 田端銀座商店街の豆腐屋で厚揚げとがんもどきを一つずつ買いました。250円。愛想の悪いオッサンが、ビニール袋に入れて渡してくれました。
 それから谷中銀座へ。1996年にNHK連続テレビ小説『ひまわり』の舞台になり、松嶋菜々子とともに全国区になった地域です。テレビのタウンガイド番組で時々特集放送されるので、上野観光のあと足を伸ばすお客がどっと増えた商店街です。地元の住民相手の素朴な商店街ではなく、観光用になっている店が増えたのはいたしかたないところでしょう。

 店前のビール箱にお客が座って、生ビールやラムネを飲んでいる酒屋さん。ラムネ130円を買って、ビール箱に腰掛ける。お客たちが隣の揚げ物屋で買ったらしいチキンカツをほうばっているのを見て、田端銀座で買ったがんもどきを囓ってみた。うん、やっぱり焼いてちょっとお醤油を垂らしたり、煮付けにするほうがおいしいみたい。

 「夕焼け段々」へ向かい、途中の総菜屋でコロッケとメンチカツを買う。総菜屋「いちふじ」は、一個30円のコロッケが有名らしい。30円コロッケ4個と、ためしにメンチカツも買ってみる。150円。う~ん、こぶりなコロッケは30円なら許そう、という味。メンチはうちの地元の肉屋のほうがおいしい。ま、観光客相手になってくると、どこも味が落ちるもんです。店前には「撮影禁止」と札が下がっている。コロッケ買わずに写真だけ撮影するヤカラへの警告であろうけれど、買った側からすると、写真くらい好きに撮らせてもいいんじゃないの、と思う。30円でお高くとまるというのも何だし。

 谷中墓地を抜ける。鳩山一郎の墓の隣に横山大観があったり、高橋お伝の墓の前を通ったりして、上野桜木町へ。前から気になっていて、一度は入ってみようと思っていたショコラティエ・イナムラショウゾウという店へ。パティスリー・イナムラショウゾウの姉妹店。ここも5人ほど並んでいました。
 待っている間、出来上がったキャラメルチョコケーキを若いパティシエが切り分けるようすを見ていたので、かなり長く待ったけれど、退屈はしなかった。いっしょうけんめいモノを作るようすを見ているのは大好きです。ここまでは、いい気分でした。

 ショコラティエ・イナムラショウゾウの店の喫茶部。ようやく入り口ドア前の席があいて、座りました。キャラメルミルクチョコレートケーキとレモネードを注文。
 あっという間にケーキ(めちゃ甘)を食べ、レモネードは「甘くしないで」というのを忘れてしまい、やたらに甘いので、半分だけ飲んでトイレへ。トイレから出てみたら、テーブルの上はすべて片付けられていた。

 お客さんが列を作って待っている状態なので、一人客はテーブルひとつ占領する割にひとり分しか払わないのだから客単価が低いし、早く出ていってもらいたい店側の気持ちはわかるが、レモネード、あと半分飲みたかったのに。ちょい気分悪い。他の2人組やグループ客が長々おしゃべりしているのはお構いなしなのに、一人客がそんなにジャマかい、と思って、ケーキとレモネード代1200円払って出た。

 いい感じの店だったら、娘と息子といっしょに上野の科博に来たときにでも寄ってみようと思っていたのだけれど、どんな店かわかったから、もう来なくてもいいや。客あしらいというのは、接客業の基本。どんな客にも気持ちよく楽しくすごしてもらうのがお店の価値を上げると思うのに。
 ま、有名店だから、私ひとりが二度と行かないとしても、この先、繁盛をつづけることでしょう。かように、一人旅というのは肩身狭い思いをすることも多いのですが、めげません。おひとり様を大事にせんで、日本の未来はないっ、って白髪振り立ててのお一人様の主張。

<つづく>
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2011年05月06日


ぽかぽか春庭「干し柿と羽二重団子」
2011/05/06
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(3)干し柿と羽二重団子

 上野桜木町で、いつも立ち寄るのが、下町風俗資料館付設展示場の「酒屋・吉田屋」。江戸時代の出桁造り(だしげたづくり)の木造建築。旧谷中茶屋町(現谷中六丁目)にあった酒屋が改築する際、台東区が上野桜木町に移転保存した建物です。自転車を店先に置いて、ちょっとベンチでひと休み。家から持ってきた飲み物は、「東京の水道水」を空きペットボトルにつめたものです。(倹約!)

 上野桜木町から上野公園へ。東京芸大の正木記念館平櫛田中コレクション。前回見たのとは展示替えになっているのもあったので、ゆるゆると見た。(無料!)芸大美術館は入場料1200円だったので、今回はやめ。食べ物以外にはお金を使わない主旨の散歩なので。
 上野の奏楽堂のコンサートも29日は有料だったし、(5月1日には、いつもの無料コンサートもあったのだけれど)博物館も気乗りしなかったので、不忍池へ下る計画をとりやめて、再び谷中墓地の方面へ戻りました。

 霊園の日暮里側の出口で「干し柿パックふたつ千円」と言って、自転車の上に干し柿を載せて売っているおっさん。産地表記なしで、なにやら怪しげな干し柿っぽかったけれど、ま、いいかと3パック千円にしてもらって買った。近所のスーパーでは1パック200円くらいの品(たぶん中国製)だけど、いいや。谷中霊園の霊気払い、ということにする。(墓参りにいくと「私は霊感が強いので、毎回だれかの霊が私にくっついてきてしまう」という妹と違い、霊も人を選ぶので私には誰もついて来ることはないのだが。霊にも嫌われている私)

 干し柿、母が大好きだった。母が子どもの頃の「一番甘いおやつ」だったから、母は家の玄関脇に柿の木を植えて、毎年甘柿がたわわに成るのを楽しみにしていました。私は子どもの頃は好きじゃなかったのに、年をとったら生の柿も干し柿も食べられるようになりました。
 でも、わが家では私しか食べないので、市田柿の干し柿とか、たまにしか買いません。霊園前のちょいあやしげな干し柿だけど、キャラメルチョコケーキよりは体にいい気がする。(そんなにカロリー気にするなら、食べなきゃ良かったんだけど。ショコラティエのケーキ)。

 谷中からJRの跨線橋を下りたところ、東日暮里の羽二重団子の店がありました。ええい、リベンジだっ。
 なんのリベンジかっていうと、カロリー気にしつつ蛮勇ふるってケーキ食べたのに、店の人にジャマにされたことのリベンジ。もうちょっとゆっくりとした気分で帰りたかった。さっきのケーキはおひるのデザートで、こんどの羽二重団子はおやつってことです。そろそろ3時すぎたし。

 あんことみたらし焼き団子の2本セットに、急須の煎茶がついて525円。店奥のお庭を見ながらほっこりできました。と、思ったら3時のせいか、急に女性グループがごったがえしてきた。またジャマにされると、せっかくの「リベンジのんびり気分」が台無しだから、お団子食べ終わったところで、退散。

 西尾久から尾久橋あたりへ自転車を向け、地図を見て確かめると、たしかこの先に荒川遊園地がある。
 20年以上も前のこと。奨学金でカツカツ食べていたころ、幼い娘と息子にこどもの日の行楽もプレゼントできない生活の中、よく遊びに出かけた遊園地です。都電で行ったこともあったけれど、自転車の前に取り付けた座席に息子、後ろの荷台の座席に娘を乗せて出かけることも多かった。私は疲れるけれど、電車代を浮かせた分で遊園地の乗り物代をまかなうことができたのです。荒川区の区営遊園地なので、アトラクションも1回50円とか100円程度で安かったのですが、麦茶を水筒につめて、おにぎりや鶏唐揚げを作って、節約モードで一日、観覧車や動物コーナーで遊べる所でした。

 なつかしいので荒川遊園地に寄って行こうと思ったら、天気雨がぱらつきました。本格的な降りになると、私は傘を差して片手運転ができないので、困ってしまいます。もしかして放射能入りの雨かもしれないし。あわてて帰り道へ。

 「食べ歩き商店街さんぽ」一日の行楽費用。
 ラーメン1000円、豆腐とガンモ250円、ラムネ130円、コロッケとメンチ270円、キャラメルチョコケーキとレモネード1200円。干し柿1000円、羽二重団子煎茶セット525円。合計4405円。
 滝桜見物ツアーへ払うはずだった14000円から差し引き1万円の義援金が用意できました。これまでも、震災援助募金の箱に入れる金額はささやかな気持ちばかりのものでしたけれど、今回の「旅行したつもり寄付」も、もともとがたいしたことのない行楽費ですから、「100億円の寄付」などに比べれば、「貧者の一灯」です。けれど、まあ、気は心、となぐさめながら、おみやげの「あやしい干し柿」を食べました。

<つづく>
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2011年05月07日


ぽかぽか春庭「みどりの日ポタリング」
2011/05/07
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(4)みどりの日ポタリング

 5月4日、みどりの日、庭園めぐりをしました。
 4月29日は商店街めぐりだけにとどめて、庭巡りをしませんでした。なぜなら、旧古河庭園に入ったとき、「そうだ!みどりの日は4月29日じゃなくて5月4日になったんだった。庭園入園料が無料になるのは4日じゃ」と、気づいたから。「移動の足は自転車。食べ物飲み物以外にお金を使わない一日」という「節約行楽」をするには、「入園料無料」の日を選ばなくては。

 朝、9時前に家を出ました。旧古河庭園の前には、開門を待つ人がすでに並んでいました。でも、古河庭園はバラがまだ咲いていないのを4月29日に確認したので、パス。

 駒込六義園へ。しだれ桜の花見の時は開いていなかった駒込駅前の染井門が開門していました。いつもは正門から入って、池の周りをぐるっと回って出てくるのですが、染井門側から入ったので久しぶりに北側の木立の中を歩きました。外の車の音を気にしなければ、深い森の中を通り抜けているような気分になります。
 藤代峠と名付けられている築山の斜面に赤、白、ピンク、薄紫など色とりどりのツツジが鮮やかに咲いています。立て札に、八重霧島、大紫などの種類が書かれているのを見ながら、30分ほどツツジの間を歩き、写真をいっぱい撮りました。

 白山通りから小石川植物園(東京大学大学院 理学系研究科附属植物園)へ。ここもツツジとサツキ、フジがきれいに咲いていました。藤の種類も、長崎一才、野田長藤など、藤色もさまざまな色合いで花房も長短いろいろに咲いています。そうか、藤って豆科の植物なのか。そういえば、スイートピーなどと花の形が同じだ。
 白いハンカチのような、「ハンカチの花」も見頃でした。11:30分まで1時間ほど広い園内を散歩。

 東京ドームの脇を通って小石川後楽園へ。
 園内は地震で壊れたところの補修工事が行われているところもありましたが、つつじ、藤は例年のように咲いて、2月に見た梅は青い実をつけていました。
 園内順路の中、段差があるところで、お年寄りを乗せて車椅子を押している方が難儀していたので、お手伝い。補修工事のついでに、段差をなくして、バリアフリーにしてくれたらよいのに。女性ふたりで車椅子を持ち上げるのは、かなり重かった。
 12:30まで、「水戸のご老公」になった気分で散歩。

 後楽園のお庭のはじっこに、水戸藩家臣・藤田東湖の碑があります。東湖は、徳川斉昭(15代将軍慶喜の父)の腹心として、幕末の水戸藩政を支えました。若き日の西郷隆盛など有為の若者が水戸藩邸の東湖の元に教えを請いに集まり、多大な影響を受けています。
 東湖は、安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した安政の大地震の際、母とともに崩れるかかる家から逃れました。しかし、東湖の母親は、「火鉢の不始末から火事をだしたら、申し訳ない」と、邸内に戻ったため、東湖も後を追いました。家は崩れ、鴨居が落下し、母を襲います。東湖は、母を守る為に自らの肩で鴨居を受け止め、母親を脱出させましたが、力尽き、瓦礫の下敷きとなって圧死しました。享年50歳。西郷隆盛は、東湖の死を悼む手紙を書き残しています。

 3月11日の大津波の際、寝たきりの老人を介護していたため、「親を置いて逃げるわけにはいかない」と家に残り、ともに波に呑まれたご家族が少なくなかったと聞きます。家族を大切に思い、一命に代えても守りたいというのは藤田東湖ばかりでなく、だれも心に思うことでしょうが、助けられた家族の思いは悲痛なものであるでしょう。残された人々、亡くなった方の分まで生き抜いて欲しい。東北震災の避難所のニュースで、小学生の男の子が「お母さんはいなくなってしまったけれど、お母さんの分まで生きる」と決意を語っていたのをテレビで見ました。残された人々が強く、家族の分まで生き抜いていけるよう、応援していきたいです。
 震災義援金を作るための自転車ポタリング、続けます。

<つづく>
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2011年05月08日


ぽかぽか春庭「みどりの日つつじ巡り」
2011/05/08
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(5)みどりの日つつじ巡り

 水道橋から湯島へ行く道、少し迷いました。神田神社も湯島天神もお参りせず、お腹も空いたので、13:00に湯島の天ぷら屋天久へ。店の外に2人連れが並んでいたので、うしろにつく。以前に旧岩崎邸へ来たとき、近くにあるこの天久に寄ったことがあります。山のようなかき揚げが名物の店。畳席6人分。カウンター席7人分の小さな店ですが、そのときはすぐに食べられたので、2人並んでいても、そんなに待つと思わなかったのです。

 しかし、これがたいへんでした。入り口の外でまつこと15分。ドア内に入って立って待つこと10分。待ち席の椅子にすわって10分。カウンターの一人席が空いたので、腰掛けて待つこと。45分。列に並び始めてから天丼を口にするまで、1時間と20分かかりました。連休で大忙しのところ、下ごしらえの職人さんひとり、揚げ方の女性ひとり、お運びひとりで回しているので、客を待たせてしまうのもしかたのないところなのでしょうが、私がこれまでに食べ物を待った最長記録になりました。

 やっと運ばれた5色天丼1500円は、食べるのはいつもと同じ早さで20分で食べ終わってしまい、なんだかあっけない。これなら私は待たずに食べられるチェーン店「てんや」の580円天丼のほうがいいわ。天ぷらネタも油も専門店よりは味が落ちるのかもしれないけれど、待たずにすぐ出てくるイージーさが私向き。食べ終わって出たら、もうまもなく3時。

 旧岩崎邸は、洋館前に並ぶ列が長く伸び、「入館までの待ち時間は30分」というので、それなら、こんな混んでいる時でなくてもいいや、と庭から洋館の南側を見ただけで出ました。土曜日にコンサートをやっているときに来ようと思います。
 不忍池の周辺を自転車で走る。3時半。

 上野動物園の忍ばず口に臨時駐輪場があったので、自転車を止めて入って見ました。動物園もみどりの日、無料です。園内、私がこれまでに上野動物園に来たなかで一番の混み混みでした。人の頭越しにレッサーパンダやオカピをみながら、東園へ。パンダはどうなっているかを見ると、園内ぐるりとパンダ待ちの列。2時間待ちというので、象をちらりと見たりラマを見たりしてまた西園にもどって出口へ。

 29日に、なつかしい荒川遊園地へ寄れなかったので、子どもが小さい頃よく来た動物園に寄って見たのですが、往時をなつかしんでいる余裕もないくらいの人混みでした。昔は子ども料金、低額ながら有料だったような気がしているけれど、都内在住の小学生、上野動物園は今はいつでも無料。無料だったら毎週行ったかも。子どもが少し大きくなってからは科学博物館がよく行くところになりました、今も毎年恐竜展などに親子で出かけます。4時半。

 根津神社のつつじ祭りへ寄りました。甘酒や酒饅頭を売っていたけれど、ここは買わずにつつじだけ見ました。5時。
 日本医大の前を通って本郷通りへ。六義園の染井門前へ戻りました。

 染井門の斜め向かいのパン屋。ベーカリーカフェに入って、イートインでコーヒーだけ飲むつもりだったのだけれど、おみやげに買ったパンを3個食べちゃいました。おやつにパン3個は多かったか。5時半まで休憩。今日もカロリーオーバーな一日行楽でした。

 6時。「夕焼けチャイム」が鳴るころ、家に着きました。
 本日の支出。小石川植物園でマンゴージュース130円。天久五色天丼1500円。ニキベーカリーでコーヒーとパン600円。合計2230円。東京花巡り昼食付きという日帰りバスツアー5200円に参加したつもりで、差額の3000円を寄付することにします。

 今回のひとり散歩でよかったこと。2年前に買ったデジカメ。はじめてセルフタイマーを使うことができました。機械に弱くて、何の機能も使えなかったのが、本日はきれいなツツジの前で、セルフポートレートスナップ撮影。いやあ、花のように美しいスナップが撮れました、、、、、とはいかず、食べ歩きで一段と膨らんだ太鼓腹が、ど~んと写っております。

 5月7日。娘息子と池袋に行き、サンシャインビル59階でランチ。ぼんやりしていた高層からの眺めが、雨が上がりかけると、だんだんにはっきりしてくるようすを見ながら、フレンチのランチコースを楽しみました。3人分で5400円。帰りにコージーコーナーのケーキをおみやげに。1000円。
 
 こうして、2011年のゴールデンウイーク、4月29日からの5月7日まで、行楽飲食費用、13000円なり。同額の13000円を義援金にあてることにします。
 自分が楽しんだ分と同額寄付するってのは、いい方法じゃないかしら。自粛するよりは、自分も楽しく消費し、被災地応援もできる。

<つづく>
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2011年05月10日


ぽかぽか春庭「母の日」
2011/05/10
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(6)母の日

 私は日替わりで出かける大学ごとに違う鞄を持って出ます。鞄の中にはペンケースが二つずつ入っている。そのうちのふたつは、娘が小学生のころに使っていたペンケースを「捨てるのはもったいない」と拾い上げたもの。蛙のキャラクターが描かれたのや、「インクの染みがついてしまってから捨てる」と、捨てられるところだった品です。

 「もう、その古いペンケース、いいかげんで、やめれば」と言って、娘が手縫いの布製ペンケースをプレゼントしてくれました。
 今のところ、娘にとって毎日の「家事手伝い」は、家族の夕食つくりで、趣味は手芸です。荷造り紙ヒモを編んだ籠作りとか、刺繍や刺し子をほどこした手作りグッズなどを作っています。母の日に向けて娘が作っていたのは、クロスステッチをあしらったペンケース。「クロスステッチの模様の位置をちょっと間違えちゃった」と言うのですが、見た目にはまたくそんなことはわからないので「それが手作りの味だもの」と言ってありがたく受け取りました。一泊旅行にちょうどよさそうな大きさのバックといっしょに、母の日のお祝いの品です。

 5月8日、姑のところへ母の日のご機嫌伺いに出かける私に、息子が同行してくれました。姑が詩吟を吹き込むために使っているカセットレコーダー。「録音してみたら前にテープに吹き込まれていた先生の声が消えてしまった、どうしたらいいの」というおたずねがあったのだけれど、私には機械のことはわからないので、息子にいっしょに行ってもらったのです。息子が、姑にもう一度録音手順を説明し、先生の詩吟を録音済みのテープは、上書き録音ができないようにテープの爪を折って上書き防止措置をとるなど、してくれました。

 私も、授業用のビデオテープをDVDに焼き直すなどの措置を息子に任せきりで、私自身はちっとも機械の扱いが進歩しません。しかし、息子にまかせて、やってもらうことがあるってのも、「親孝行させてあげるも、一苦労」のうちかもしれません。
 姑に孝行すべき夫は、一日早く7日にご機嫌伺いに行って用足しをしてきたようで、姑は「電球のタマを取り替えてくれ」とか「古新聞をまとめて資源ゴミのところに持っていってほしい」とか、「親孝行させてあげる」用足しを、タカ氏に言いつけています。何かというと「仕事が、仕事が」と忙しがるタカ氏も、86歳の姑の言いつけには逆らえません。
 私はいつもの「必要なものがあったら、買い足してください」というお祝い包みを渡すのみで、楽なヨメです。

 姑宅に行く前に、前から気になっていたフレンチトースト専門店「Cafe Haru&haru(カフェ・ハルハル)」へ、息子と入ってみました。
 「マリアージュ・フレール」というフレンチティーの茶葉をつかっている、紅茶とフレンチトーストの店です。昨年の12月にオープンした店で、東急線の踏切脇にあるのですが、その場所、前は蕎麦屋、その前は何の店だったかわすれてしまったけれど、何業の店がオープンしても、だいたい1年くらいたつと店が変わってしまう場所なのです。「カフェ・ハルハル」も早くお試ししておかないと、入ってみないうちに別の店になってしまうかもしれず、寄ってみました。

 私はベーコンエッグとソーセージ付きフレンチトーストとアールグレイ、息子は苺のデザートつきフレンチトーストと、マルコポーロというお茶。中国とチベットの花とフルーツを入れた紅茶、という説明をしてもらいました。
 むすこの感想は「とても好みのセットで、おいしかったけれど、セットで1300円もするなら、ボクはサンシャインのオザミで食べたフォアグラリゾット1500円ランチのほうがいいな」と言います。貧乏性は親ゆずり。
 そんな22歳、彼女いない歴22年の男子が、母の日にいっしょにフレンチトーストとマリアージュフレールティーなんていうしゃれた紅茶の店に同行してくれるのも、親孝行と言えばいえる。他のテーブルはほとんどおしゃれなデートを楽しむカップルか、ご近所のマダムグループのおしゃべり会で、天丼屋ならひとりで入れる私も、こういう雰囲気だと一人では入りにくかったから、息子を連れてきてちょうどよかった。
 お店のサイトはこちら。http://haruandharu.com/

 86歳の姑がひとり暮らしを続けている家。母の日に訪ねれば、姑は「腰が痛い」などと言いながらも、山かけ丼を作り煮物をならべ、せいいっぱいごちそうしてくれる。姑は月曜日は歯医者通いや定期検診のほか、火曜から土曜まで、詩吟、老人会、童謡を歌う会、お習字、体操の会と、毎日出歩いている。
 私も一病息災ながら、仕事も続け趣味のジャズダンスも続けている。夫はあいかわらずひとり気ままに生きている。娘と息子は、祖母にも母にも気遣ってくれる。

 あれもないこれも足りないと思えば、不足にきりはないけれど、親子なんとか生きていると思えば、有り難い今の状態なのですから、今週から「週に6日、12週連続で働く日々」をなんとか乗り切ろうと思います。早くも思いは12週間後の夏休みに飛んでいますが、せいぜい老骨むち打って働きましょう。

<つづく>
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2011年05月11日


ぽかぽか春庭「探検家になりたかった」
2011/05/11
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(7)探検家になりたかった

 震災後、息子の大学は卒業式を中止しました。卒業式といっしょに実施されるはずだった22年度卒業生成績優秀者表彰式も中止になったため、息子が母にプレゼントする予定の記念品の時計ももらっていませんでした。「あれ?時計くれるっていうの、どうなったのかな。中止のまま?」と思っていたら、成績優秀者表彰式が5月11日に行われるので出席するよう、息子のところへメール通知があったそうです。
 息子は、大学院の授業があるのでどっちにしろ大学へ行く日だからと出席し、記念品をもらうことにしましたが、卒業後地方に就職して東京にはいないという人たちにとっては、平日の出席が難しい人もいることでしょう。あとで郵送か何かで記念品が届くのではないかと思います。

 息子は「母にあげると言っていた記念品、母の日のプレゼントと兼用になった」と、言います。母の日プレゼントと兼用?、、、、う~ん、ま、いいか。母としては、息子が中世史を研究する、という好きな道を見つけて「この先も貧乏な暮らしを続ける」覚悟の記念品と思うので、喜んでプレゼントを受け取ることにしましょう。
 ひとつの道を見つけて、黙々と目標に向かって歩き続ける、山の頂上を目指して一歩一歩前へ進む、頂上は果てしなく遠く、途中で下山を余儀なくされることもあるけれど、再挑戦は何度でも。 

 3月5日に、登山家栗城史多(くりきのぶかず)さんのドキュメンタリーを見ました。無酸素単独登攀によるエベレスト山頂からの生中継を目指して、挑戦し続けている登山家です。2009年9月チベット側、2010年9月ネパール側から挑んだが、8,000mに達することが出来ず撤退。2011年後期に3度目の挑戦を予定しているそうです。

 無酸素で8000m級の山に登ることは私にはできないことですが、見知らぬ土地へ。トロッコに乗って、ローカル電車に乗って、路線バスに揺られて、自転車のペダルを踏んで。いつもどこかに行きたいと思っています。ここからどこか遠くへ行ってみたいと思うことは、人が持つ特性のひとつなのかもしれません。
 太古から、人は小さな舟で海を渡り、沙漠を越えて駱駝を駆った。

 小学校1年生のときはアンデルセン童話集やラング編集の「世界童話集」が大好きでした。アンデルセンの飛行かばんのように空を飛び、世界中から集められたラングのお話のように、見知らぬ土地を旅したかった。小学校4年生から、市立図書館に通うようになると、探検物語冒険物語に好みが移りました。アマゾン奥地、アフリカ大陸、アジア最奥部などの見知らぬ土地を探検する探検家があこがれの的でした。

 将来はアフリカでリビングストンを救出したスタンリーのようなジャーナリストになるか、シルクロードを探検したスウェン・ヘディンのような考古学者地理学者になるか、どちらが探検家として有利だろうかと悩みました。当時は「アフリカ探検」がアフリカに奴隷貿易などの厄災をもたらしたことや、帝国主義による植民地分割が行われたことなどは語られず、「探検」の血沸き胸躍る冒険譚のみが流布していたのです。(リビングストン自身は奴隷貿易に身を以て抗し、そのため暗殺されかかったこともある)

 小学校6年生の卒業作文集には「私の将来の希望」として「ジャーナリストになりたい」と書きました。本当は「探検家になりたい」と書きたかったのですが、そんな昔でさえ、すでに地理的な探検の時代は終わっているから「探検家」という職業が成り立たないことは知っていたのです。

 探検家希望は、ずっと続きました。高校のころはインカ帝国探検を行った泉靖一のような文化人類学者こそ目指すべき目標と思い、文化人類学者になることが探検家への近道と思いました。20歳のころはコンチキ号や葦船ラー号で大西洋太平洋を航海した人類学者ヘイエルダールがmy heroでした。
 植村直己や関野吉晴らをあこがれの目で眺めつつ、私に出来たのは、アフリカに1年弱滞在し、楽しくダンス修行することだけでしたけれど。
 
 現代では、文化人類学や考古学などの学問上の発見はあるけれど、地理上の発見はすでに探検家の手には残されていない、という現実を知り、探検家になる夢は遠のいていきました。アフリカもアマゾン奥地も北極も南極もすでに人類未到の地はなく、すべてが地図の上に書き尽くされていた、、、、未知の土地は宇宙か海底にしかない、、、、

 ところが、現代にも「地図上の空白を埋める地理的探検」が残されていたことを知りました。
 あまたの登山家探検家が挑み、越えられないで来たチベットの山奥、ツアンポー峡谷です。5マイルが地図上に空白地帯として前人未踏の地となって残されていました。

 2010年第8回開高健ノンフィクション賞を受賞した『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』。著者は角幡唯介(かくはた ゆうすけ34歳)。朝日新聞に書評が載ったときの肩書きは「早稲田大学探検部OB」
 「OB」を肩書きにするなんて、へんな著者だと思ったが、これは「元朝日新聞記者」とは書きにくい朝日の苦肉の策だったみたい。別に「元朝日記者」という肩書きであったとしても「朝日新聞だからひいきして書評を載せた」なんて思わないのに。
 角幡さんのブログhttp://blog.goo.ne.jp/bazoooka

 七大陸最高峰踏破最年少記録を打ち立てた野口健さんとか、犬ぞりで北極点を通過した高野孝子さんとか、現代にも冒険家と呼ばれる人々はいるけれど、地図の空白地帯を踏破し、地理上の探検を成し遂げた人がいることは、「元探検家志望」としては胸躍る。

 最後の地理上の空白地帯が踏破され、これで本当に「地理的探検家」は最後になりました。でも、この地球上に、冒険や探検のタネはつきません。きっと。
 植村直己さん星野道夫さんら、忘れがたい方々の残された足跡を見つめつつ、そして現代の探検家に胸おどらせつつ、私は知の空白地帯、知の最高峰をめざして探検を続けます。

 探検家冒険家の偉大な足跡には遠いけれど、私なりの「私も散歩と雑学が好き」精神で歩き回ろうと思っています。

<おわり>
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薔薇散歩2011年6月

2010-06-04 05:56:00 | 日記
2011/06/12
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(1)庭園美術館のバラ

 4月の桜さんぽ、ゴールデンウイークの新緑さんぽに続き、5月後半は、薔薇さんぽを楽しみました。
 
 5月18日、港区白金の庭園美術館で「森の芸術展」を見たあと、久しぶりにお庭を歩きました。近代建築の庭園によくあるように、日本庭園と洋式庭園の両方を取り入れて二部式になっている庭です。西洋庭園の端にバラが植えられていました。株の数は多くないものの、きれいに咲いていました。ちょうど私が訪れた5月18日の庭園美術館の薔薇の写真をUPしているブログがありました。薔薇の手入れをする園芸家らしいです。
http://wplusl.exblog.jp/16349452/

 実は、もともとはあまりバラの花が好きではありませんでした。私が子どもの時代、豪華絢爛な花と言えば「牡丹芍薬薔薇の花」でした。母が庭に植える花は「コスモス、水仙、都忘れ」という「清楚系」の花々。母が好きだという花は「白萩、フリージャ、るりからくさ」
(瑠璃唐草は、オオイヌノフグリの別名。在来種の「犬のふぐり」は、実が陰嚢(フグリ)の形に似ているというので名付けられ、その「犬のふぐり」に似ているので「大犬のフグリ」という小さな青い花には似つかわしくない名になったのですが、別名はきれいな瑠璃唐草ルリカラクサ。こう言うほうがかわいらしい気がします。唐草というのはここでは「唐草模様」のことではなく、「唐(外国)から来た草」という意味。オオイヌノフグリは幕末開国から明治にかけて西洋船によって運ばれた外来種だというので、びっくり。江戸の時代劇で、黄門様やらが旅する野辺にこの花があったら、おかしいということになる)。

 母がバラや牡丹などの豪華系の花を好まないのに影響され、長い間「バラを好きになるのは気恥ずかしい」と思い込んでいたのです。「ベルサイユのバラ」も、ロシアの歌の「百万本のバラ」も、物語や歌の中では楽しめるけれど、実際のバラの花は、私には文字通りの「高嶺の花=高値の花」と思っていました。

 確かに、日本での薔薇栽培の歴史を見ると、明治以後のオールドローズもモダンローズも、「お金持ちのための花」というイメージで作られ、栽培が行われてきました。「我が庭のバラ園が花盛り」なんていう描写があったら、お金持ちの家に決まっていたのです。
 明治26年、貧困生活にあえいでいた樋口一葉は、日記に「下谷龍泉寺丁の借家家賃は一ヶ月1円50銭」と記録しています。それより少し時代はあとになりますが、「興農雑誌第83号1901年(明治34)発行」には、「白天國香」という種類のバラ苗木は1本1円、新品種は1本2円、と記載されています。東京下町の一軒の家賃と一本の薔薇の苗木が同じ値段だったのです。樋口一葉には決して手の届かない花でした。

 私にとっても、「百万本のバラ」どころか「誕生日の本数のバラ」をプレゼントするさえ、「豪華優雅な贈り物」の印象がありました。
 今、切り花ならバラ一本百円。苗木も一鉢500円。値段からみると、だいぶ庶民的な花になりました。私のイメージの中で「バラ=豪華絢爛」という印象は変わらないのですが、もう「お金持ちの花だから、私らのような庶民には縁遠い」とは思わずに、見て歩ける時代になったようです。年齢の数だけバラを買うとしても、清水の舞台から飛び降りなくても買えそうです。(誕生日に年齢の数のバラの花束をプレゼントされたことなど一度たりともなかったですけど、そう遠くはない古稀祝いには自分で自分にバラの花束を贈りましょう。まっき~さんには青いバラをリクエスト。夫には、、、、、私の誕生日など覚えていない人なので、リクエストしようもない)

 白金の庭園美術館のバラを見て、5月下旬は都内薔薇めぐりをしようと決めました。
 バラを訪ねて、文京区の本郷給水所公苑、調布市の神代植物公園など都内薔薇名所をさんぽしました。
「薔薇」といえば次にくっつくことばは、私には「イコノロジー」です。絵画の見方をならった若桑みどりの著作『薔薇のイコノロジー』。25年ぶりに読み返しました。(若桑先生の『クワトロ・レガッツーノ(四人の若者)』天正少年使節を描いた方は、あまりに分厚い本なのでまだツンドクです。若桑先生、ごめんなさい)。『薔薇のイコノロジー』、やはり、すごい本です。では、薔薇のイメージをめぐらせながら、バラ散歩を楽しみましょう。

<つづく>
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2011年06月14日


ぽかぽか春庭「都電のバラ」
2011/06/14
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(2)都電のバラ

 5月22日日曜日は、都電バラめぐりを楽しみました。
 都電の線路沿いがバラ名所になっているということを、これまで知らずにいました。都電は我が町の電車であり、大学への通学にも、子ども達を遊園地へ連れて行くにも利用した電車ですが、最近は利用することがなく、バラの新名所になっていたことを知りませんでした。沿線住民によって線路際にバラが植えられたのは、ここ数年のことのようです。
 都電の一日乗車券を買い、乗ったり降りたり、一日中都電に乗っている日曜日にしようと思い立ち、出かけました。以下、一日の記録。

 7時すぎ、出発。都電IC一日パス400円を運転手さんに申し込む。スイカカードにチャージができた。
8時15分 早稲田着。~8:45 早稲田甘泉園さんぽ。40年前もこの公園はあったのに、一度も入ったことがなかった。文学部キャンパスと本部キャンパスは離れているとは言っても、数分歩けば来られた場所にあったのに、当時は都電に乗ったこともなかったし、公園をさんぽするなどという気持ちもなかった。都内の公園を歩くくらいなら、田舎に帰って故郷の山を見たほうがよかったから。

~9:15 神田川沿い遊歩道散歩。ここも、歩いたことのなかった道。樹齢の古そうな桜並木が続いている。こんなに木が太いのだから、40年前もこんなふうに川沿いに桜並木があったのかしら、と思って案内板を読んだら、豊島区側の桜は1982年(昭和57)に整備された、という説明が書いてあった。樹齢は30年。それじゃ、私が見たことなかったのも頷ける。当時「神田川」といえば、恋人と安アパートに住む貧乏ぐらしのイメージがすべて。安アパートでもいいから恋人と住んでみたかったけど、当時「非モテ系」に徹していたからなあ。

 早稲田から三ノ輪行きの都電に乗るのは初めてのこと。鬼子母神や学習院下を通り、住宅地の間を抜けていく。
 向原から大塚まで、沿線にバラが植えられている。もう一度ここで降りるつもり。西ヶ原四丁目で降りてみたいと思ったのだけれど、今日は「バラ」の日だから、移転した大学跡地がどうなったのか、の探索は別の日にしよう。

 北区から荒川区へ入ると、都電沿線はバラの花が咲き誇っている。沿線住民のボランティア活動で、このように線路際にたくさんのバラが植えられたのだという。運転手さんの後ろの席に座れたので、両側のバラを楽しめた。
 北区の木はさくら、区の花はバラ。荒川区の木もさくら、区の花はつつじ。それなのに、北区側にはバラは一本もなかった。北区側沿線も植えるべし!
~10:30三ノ輪橋着 駅周辺にはたくさんのバラ。写真を撮っている人もたくさんいた。私も「都電とバラ」のシーンをたくさん撮った。

 三ノ輪橋の商店街を抜け、浄閑寺へ。遊女無縁仏の碑と荷風記念碑参拝。
~11:20まで、地下鉄三ノ輪駅前マックでコーヒー120円。マックのコーヒーがおかわりできるということをt******さんのカフェ日記で初めて知って、飯田橋駅前のマックで試してみたら、ほんとうにおかわりができたので、ここでも店内で一杯のみ、おかわりしてテイクアウトし、飲みながらさんぽ。ほんと、無料おかわり、いい制度だわ。

~12:00 三ノ輪橋ジョイフル商店街。古本屋で文庫3冊300円。どこに出かけても入りたい店は古本屋。商店街の中の「釜飯玄」でイナダ味噌漬け焼き定食500円。

 昼ご飯のあとも、バラ散歩つづきます。

<つづく>
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2011年06月15日


ぽかぽか春庭「荒川遊園地のバラ」
2011/06/15
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(3)荒川遊園地のバラ

 商店街から荒川二丁目へ。都電沿線のバラをもう一度楽しみました。
12時半から13時まで、荒川自然公園。
 幼い娘を連れ、遊びに来たことがあるけれど、娘はこの公園を覚えていないと言う。三河島水再生センターの2階屋上に土を入れ、公園にした施設だけれど、階段を上って公園内に入れば、ここが人工地盤で人工池ということも忘れるほどの豊かな緑。入り口の階段の壁際を覆っていたつるバラの前でセルフタイマーで写真を撮った。バラといっしょに自分が写るのは初めてのことかも知れない。バラの似合う婆になってきたかしら。ベルサイユの薔薇、ウルサイユの婆ら。はい、婆ギャグのおそまつ。

 13:00再び、都電沿線のバラを眺めながら、荒川遊園地へ。ここは娘も息子もよく覚えている、わが家の行楽の定番だった。なにせ、安かった。今も安い。入園料大人一人200円。遊具は100円か200円。ポニーに乗るのは昔も今も無料。
 地震と節電の影響で、乗りたかった観覧者とスカイサイクルは停止中だった。
13:30まで、園内の売店で生ビール一杯400円を買って休憩。
 園の入り口でバラ苗木の鉢を販売していた。21日のバラ祭りで販売した残りかも。遊園地入り口から都電の駅までの公園にも薔薇の花がいっぱいだった。調子にのって、セルフタイマーで「婆バラ写真」をたくさんうつす。中に一枚くらいはバラのような笑顔があるに違いない、、、、。

~14:00 大塚駅前。
~14:30 大塚駅前マックコーヒー120円。また、おかわりをもらった。フフ、無料おかわりがやみつきになったかも。向原までコーヒー片手に歩こうと思っていたのだけれど、天気予報の通りに雨が降り出した。ここでバラさんぽは中止。
~15:00 王子駅着
 5月22日の行楽費用。都電一日切符、昼ご飯、コーヒー、ビール、遊園地入場券ほか、合計2000円ほど。同額を震災復興へ寄付予定。

荒川区のホームページより
http://www.city.arakawa.tokyo.jp/kanko/miryoku/arakawasenbara.html

 家に戻ってから、バラ蘊蓄をチェック。
 バラは、野生種としては和名「うまら、うばら、いばら」として、万葉集や風土記にもその名が記載されており、「いばらぎ(茨城)」の地名のもとになった伝説が『常陸国風土記』に以下のように書かれています。(原文は変体漢文体。抄出本の写本なので異文あり)

 「或るもの曰へらく、山の佐伯(さへき)、野の佐伯、自(みづか)ら賊(あた)の長(をさ)と為(な)り、徒衆(ともがら)を引率(ひきゐ)て、国中(くぬち)を横しまに行き、大(いた)く劫(かす)め殺しき。時に黒坂命(くろさかのみこと)、此の賊(あた)を規(はか)り滅(ほろぼ)さむとて、茨(うばら)を以(も)ちて城(き)を造りき。所以(このゆゑ)に、地(くに)の名を便ち茨城(うばらき)と謂(い)ふといひき。(常陸国風土記)」
 (春庭訳)ある者が語ったことである。山の佐伯と野の佐伯は、山賊の頭となって、仲間を引き連れて国中で盗みや殺しなど悪行を働いていた。あるとき、黒坂命が、この山賊を滅ぼそうと計画を立て、茨(うばら)の刺によって柵(城)を施した。このゆえに、このあたりを茨城と言うようになった、という。

 薔薇は古代から愛好されてきた植物ですが、ヨーロッパで近代以後バラの新品種産出が盛んになりました。交配種のもとになった8種類のうち、3種類は日本に自生していた「野茨ノイバラ」「照葉野茨テリハノイバラ」「浜茄子ハマナス、浜梨ハマナシ」です。
http://www.hana300.com/noibar.html
http://had0.big.ous.ac.jp/plantsdic/angiospermae/dicotyledoneae/choripetalae/rosaceae/hamanasu/hamanasi.htm

現代は、次々に新しい品種が開発され、公募して名前を決定したり、有名人の名を冠したり。
 もっとも難しいとされた「青い薔薇」も登場しています。もっとも、私の目には青い薔薇ではなく、「青に近い青紫色」に見えます。
http://www.suntory.co.jp/company/research/hightech/blue-rose/index.html

<つづく>
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2011年06月17日


ぽかぽか春庭「本郷給水所のバラ」
2011/06/17
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(4)本郷給水所公苑のバラ

 5月の第4週は、仕事の帰りに寄り道をして、都内のバラ名所を見て歩くという一週間にしました。
 23日月曜日は、文京区の本郷給水所公苑を訪ねました。ここは、東京都水道局の本郷給水所の2階上部に作られた公苑です。(公苑の管理は文京区)。5月22日に行った三河島水再生センターの2階屋上が荒川区の自然公園に整備されているのと同じように、建物の2階に人工地盤を作って公苑にしているのです。荒川自然公園ほど広くありませんが、給水所公苑の半分は日本庭園、半分はバラ園にしつらえてあるので、バラの時期に訪ねれば華やかな色と香りが楽しめます。

 普段は近所のオフィスビルの人々が昼休みに休憩しに来る程度で、あまり一般の人には知られていない公苑です。バラの時期だけは大勢の人で賑わうのかと思いきや、雨の予報が出ている月曜日の夕方、バラを見るでもなく所在なさそうにベンチに座っている人が数人。カメラ三脚を持ってバラ撮影に励む人がひとり。バラのわきに全財産とともに昼寝中のホームレスさんひとり。

 通り道ならバラの花が目に入って、「あれ、こんなところにバラが咲いている」と思って立ち寄る人もいるのでしょうけれど、階段登っていく建物の2階屋上にバラ園があるとは気づかず、「知る人ぞ知る、秘密の花薗」なのかもしれません。
 しばらく一人バラ園を独占して様々な種類のバラを楽しみました。オバサンふたり組が入ってきたときには、予報通り雨がぱらついてきたので、急いで公苑を出ました。

 文京区の本郷給水所公苑お知らせページ。
http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_kouen_annai_kuritukouen_kouen_hongoukyuusuijyokouen.html

 5月25日は、都内バラ新名所のひとつとして、「ビル屋上のバラ園」を訪ねました。銀座ファンケルビルの10階ロイヤルルームと屋上にバラ園をしつらえ、この時期に一般客に公開しているというので、見に行ったのです。
 ファンケルは自然食品や化粧品を扱っている会社ということで、企業イメージを高めるためのバラ園。武蔵野バラ会という団体が世話しているバラの鉢植えを屋上に並べています。

 小さなビルの屋上なので、花の数は少なかったですが、バラ作りを趣味とする人たちが丹精込めた花々、特に「盆栽仕立てのバラ」という鉢を面白く見て来ました。ジェミニという品種のバラがとてもきれいでした。
 ウーロン茶のペットボトルと紙コップがおいてあり、「ご自由にどうぞ」とあるので、一杯いただきました。「ご自由に」が好き!23日25日のバラ巡り行楽費、無料。
http://www.fancl.co.jp/fh/shopinfo/presummer10/index02.html

 バラは季語としては夏です。以下、バラの句あつめ。
・夕風や白薔薇の花皆動く (正岡子規)
・薔薇深くぴあの聞ゆる薄月夜 (正岡子規)
 子規と薔薇では、「くれないの~」の短歌が有名ですが、夜遅くどこからかひそかに聞こえてくるぴあのの音の中で聞く薔薇というのもつややかな印象です。闇も深く薔薇の色も深く、見入っている子規の心もふかくふかく静まっていきます。

 散り敷いたバラの花びらも美しい
・見るうちに薔薇たわたわと散り積もる(高浜虚子)
・薔薇散るや拾ふ子挘(むし)る子かがやかに(渡部水巴)
・散る薔薇に下り立ちて蜂吹かれけり (渡辺水巴)
・バラ散るや己がくずれし音の中(中村汀女)
・一片の薔薇散る天地旱の中 (西東三鬼)
・朝日淡し厨の土間に薔薇散りて (香西照雄)
・朝焼おそき旦薔薇は散りそめぬ (種田山頭火)

 バラを見てののち、家族への思いもさまざまに
・薔薇の辺やこたびも母を捨つるがに(石田波郷)
・バラ挿して眠る家族に嗅がせたり(秋元不死男)

 朝のバラ。夜のバラ、雨の日のバラ。
・薔薇熟れて 空は茜の 濃かりけり 山口誓子)
・日の出の薔薇呟き癖も癒えて止む(加藤楸邨)
・月いでて 薔薇のたそがれ なほつづく (水原秋桜子)
・咲き満ちて 雨夜も薔薇の 光りあり (水原秋桜子)

 バラの花を手に持てば、豊かで満ち足りた気分にもなり、半円の門に仕立てたつるバラのアーチをくぐるにも華やかであたたかい気分になります。異国情緒をかきたてられたり、ほの暗い花屋の店にいてさえ気分は高揚します。
・手の薔薇に蜂来れば我王の如し(中村草田男)
・とほるときこどものおりて薔薇の門(大野林火)
・薔薇を撰り花舗のくらきをわすれたる(橋本多佳子)
・サルタンの妃の墓に薔薇もあり (横光利一)
・一束の緋薔薇貧者の誠より (杉田久女)

 薔薇は多品種創出の中、春咲きのほか、四季咲きとなり、秋にも冬にも花を咲かせることができるようになりました。
 ついでに冬薔薇の句。
・冬枯の垣根に咲くや薔薇の花(正岡子規)
・冬薔薇の一輪風に揉まれをり(高浜虚子)
・尼僧は剪る冬のさうびをただ一輪(山口青邨)
・冬薔薇(ふゆそうび)石の天使に石の羽(中村草田男)
・夫とゐて冬薔薇に唇つけし罪(鷹羽狩行)

・わが乳腺よりほとばしる乳の色の薔薇白き(春庭)
・花びらの腐され散るや薔薇の園(春庭)
・我が罪の緋文字の如き薔薇散りぬ(春庭)

 自作の駄句はどうも景気が悪い。やはり私には薔薇が似合わない。薔薇を見に行って、「ご自由にお飲み下さい」のウーロン茶ごときに喜んでいるようでは、薔薇を楽しむ身分にはまだまだ遠いということでしょう。

<つづく>
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2011年06月18日


ぽかぽか春庭「神代植物園のバラ」
2011/06/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(5)神代植物園のバラ

 5月26日夕方、神代植物園へ行きました。なんと、40年ほど昔に行ったことがあるきりで、2度目の訪問でした。
 38年前に行ったときは、友人のK子さんといっしょでした。1973年の春、花盛りのつつじや藤の花の前でいっしょに撮った若かりし日の写真が残っています。二人とも若い!そりゃそうだ、今はジャズダンスのレッスンでいっしょに「足が上がらない、ターンができない」と言っている二人ですが、40年前は若かったんです。

 園内は、何度か模様替えが行われてきたのだろうと思いますが、中のようすにまったく記憶がありません。昔もこんなに木がうっそうとしている森があったかしら、と思うのですが、残された写真のチューリップ花壇がどこだったのか、藤の花がどこに咲いていたのか、当時のことはまったくわかりませんでした。いつか、K子さんを誘って来てみよう。今回は、仕事の帰りにふらりと立ち寄ったのだし、雨の予報が出ていたので、K子さんを誘わず、残念だったので、いつの日かまた。

 入園して、まずはバラ園をめざしたのですが、その手前にある芍薬園も見事な花盛りでした。牡丹にいろいろな種類があることは各地の牡丹園を見ていましたが、芍薬にも様々な種類の花があるのだと知りました。これまで芍薬は芍薬としか知らなかった。
 で、私には牡丹と芍薬の区別がつきません。私の座っている姿が牡丹で、立っていれば芍薬とは思うのだけれど!?立っても座っても、ぼってり重い私なので、牡丹と芍薬の違いもその程度かと。

 バラ園は、ちょっと盛りを過ぎた感じですが、今回のバラ散歩で見たどこよりも広く、バラがたくさんあり、さまざまな品種のバラの色や香りを堪能しました。
 つるバラのコーナー、大輪バラのコーナーなどがあり、なかでも「オールドローズとバラ原種のコーナー」で、現在のバラの原種となった中国のコウシンバラや、日本のハマナス、テリハノイバラなどが植えられているところ、さすが植物園だと思いました。ハマナスは花がありませんでしたが、テリハノイバラはかろうじて数輪、花が咲いていました。
http://aoki2.si.gunma-u.ac.jp/BotanicalGarden/HTMLs/teriha-noibara.html

 バラは、さまざまな園芸植物のなかでも、もっとも園芸家が腕をふるった植物のひとつです。新品種の開発に、育種家は人生を賭け、さまざまな色と香りの新しい花が開発されました。
 以前は、バラが好きではなかったと書きましたが、その理由のひとつは、子どもの頃に読んだ小説にあります。バラ育種家が、「真っ赤な血の色のバラ」を栽培するために、「若い女性の血」がもっともよい肥料だという妄想をいだき、つぎつぎと女性を殺してバラの根本に埋めていく、というホラー小説を読んだのです。なんていう作家のなんという小説だか、タイトルも忘れてしまったのだけれど、ものすごく恐ろしくて、もうバラをみる気になれないほどでした。日頃からこわがりの私が、どうしてそんなホラー話の本を手にとったのだか。「きれいなバラを咲かせる人の話」だと思って読み始めてしまったのかもしれません。
 
 白、黄色、ピンク、深紅、さまざまな色と形の薔薇、ひとつひとつネームプレートも読んだのだけれど、さて、どれがどれやら覚え切れません。園内の休憩所で、クレープとお団子を買って食べました。あはっ、やっぱり私は「花よりだんご」みたい。おだんごは「クルミ味噌だれ」のみたらしで、おいしかったです。クレープ400円おだんご300円

 神代植物園は5時に閉園になりました。深大寺のほうへ出て、山門そとの蕎麦屋で食べたいと思ったのですが、「名代深大寺生蕎麦」とか「十割そば」と看板が出ている店はみな5時に閉店してしまい、「本日は終了」の札。平日は植物園終了と共に、客もいなくなるので、それに合わせての閉店みたいです。

 門前の観光客用の広い座敷が2階にあるという店(140席)だけが開いていたので、「野草山菜てんぷらそばセット」を食べました。お値段1800円は、普段は立ち食い蕎麦派の私にしてみれば、高額!ですが、バラの美しさに酔ってという理由で大盤振る舞いしたのです。
 お味のほうは、、、たぶん私が蕎麦の味がわからない人間だからかもしれませんが、普段はもっぱらこっちばかりである立ち食い蕎麦と比べて、特別おいしいという気もしなかった。創業は文久年間という老舗らしいですが、蕎麦ファンのランキングサイトなどをみると、「俗にいう観光地にありがちな味」というCランクにもランクインしていない店だったので、ま、私が「立ち食い蕎麦と変わらない」と感じたのも、あながち舌オンチというわけでもないかも、、、、
 5月26日の行楽費、植物園入園料、クレープ、団子、蕎麦、合計3000円。

<つづく>
09:13 コメント(1) ページのトップへ
2011年06月19日


ぽかぽか春庭「薔薇のうた」
2011/06/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心日記2011年6月>薔薇さんぽ(6)薔薇の歌

 神代植物園、6月16日にも仕事帰りの散歩をしました。薔薇巡りの次のさんぽテーマ紫陽花華菖蒲巡りで行ってみたのですが、薔薇もまだまだ咲き残っていました。5月の花盛りのころに比べると花数はぐんと少なかったのですが、遅咲きの品種や原種に近い種類はきれいに咲いていました。ハマナスは赤い花もあり、クスリとして利用されてきた丸い実をつけていました。テリハノイバラも白い素朴な花を咲かせていました。

 神代植物園の再訪、実は5月26日の深大寺蕎麦がイマイチだったので、蕎麦リベンジのために出かけたという理由もありました。昼ご飯を食べにわざわざ行ってみたのです。仕事を終えてからの昼ご飯なので3時すぎの食事になりましたが、6月16日は、植物園の深大寺出口の前にある「松葉」という店に入りました。深大寺蕎麦ランキングの上位にあった店です。10割蕎麦せいろというのを食べました950円。
 評判の店の蕎麦ですが、私にはやはり「これが最高!」という味には思えない。

 結局のところ、私にとって「母や父が蕎麦打ちした、そば粉10割でとろろをつなぎに使った家の味」が最高の蕎麦であって、それ以外のものはどれも「立ち食い蕎麦と変わらない」という味覚になっているのだろうと思います。もう二度と味わえない、母が打った蕎麦、父が打った蕎麦。母の死後蕎麦打ちをはじめた父は、知り合いから譲ってもらった蕎麦の実を自分で石臼で挽いてそば粉にするという懲りようでしたが、いつも「まだまだお母さんの味にはならない」といいながら晩年をすごしました。
 よくある「地球最後の日に食べたいものは何」という質問に、私は「母が打ったうどんと父が打った蕎麦」と答えます。

 せっかくの薔薇見物なのに、食べてばかりの春庭で申し訳なく、最後に「薔薇の歌」をご紹介しましょう。古代から現代の「薔薇族文学」まで、薔薇は文学の中に入りこみ、愛されてきました。
 近代短歌で一番有名なのは、正岡子規の歌。たいていの国語教科書に載っていました。
・くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やはらかに 春雨のふる (正岡子規)
 60センチほどに伸びた薔薇の枝。薔薇のとげもふっくらと伸び、まだ人を傷つけようとする堅い気配を見せずに春雨にぬれています。明治33年4月21日、子規はじっと茅屋の庭の薔薇に目を向けています。この半年ののち肺病が悪化、大量喀血のあとは床に横たわる日々となります。

・目を開けて つくづく見れば 薔薇の木に 薔薇が真紅に 咲いてけるかも (北原白秋)
・大きなる 紅ばらの花 ゆくりなく ぱっと真紅に ひらきけるかも (北原白秋)
・ゆくりなく 庚申薔薇の 花咲きぬ 君を忘れて 幾年か経し (北原白秋)
 コウシンバラは、薔薇の原種のひとつ。中国雲南地方の原産だそうです。神代植物園の「原種薔薇コーナー」にも植えられていました。コウシンバラは、古代にすでに日本へ入ってきており、『源氏物語』(少女、賢木)に「薔薇(さうび)」として出てくるのはこの庚申薔薇だろうと言われています。

 また、『能因本枕草子』には「草の花は」の段に「さうび」が出てきており、能因本を底本としている『日本古典文学全集』の『枕草子』には、第七十段にあります。「『広辞苑』の「薔薇」(そうび)の解説で、出典として能因本が引かれており、「①ばら、しょうび。能因本枕草子(草の花は)「さうびは近くて枝のさまなどはむつかしけれどをかし」と記載されています。しかし、私が持っている岩波文庫版の『枕草子』だと、柳原紀光自筆本を典拠にしているので、第67段の「草の花は」に出てきません。

・羽ならす蜂あたたかに見なさるる窓をうづめて咲くさうびかな(橘曙覧)
 江戸時代の和歌、野茨、木香薔薇、庚申薔薇、どれかはわかりません。橘曙覧は、窓いっぱいに咲くバラの花を見て、さぞかし「楽しい」思いになったことでしょう。

 近代短歌 女のバラ歌。
・たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ (斎藤史)
・妹のパレットを見し夜のゆめ紅さ異る幾百の薔薇 (石川不二子)
・あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇 (葛原妙子)
・ためらひもなく花季となる黄薔薇何を怖れつつ吾は生き来し(尾崎左永子)

 近代短歌 男のバラ歌。
・みづからの光のごとき明るさをささげて咲けりくれなゐの薔薇 (佐藤佐太郎)
・薔薇抱いて湯に沈むときあふれたるかなしき音を人知るなゆめ (岡井隆)
・剪花の紅ばら挿せば美しかるむらがりつくれり壷いっぱいに (木下利玄)
・舞踏会みにくき母の復讐のため少年が胸にさす薔薇 (寺山修二)

 冬の薔薇も。
・寒き日に濃きくれなゐの薔薇を愛でしばらくにして昼寝ぬわれは (斎藤茂吉)
・はらはらと黄の冬ばらの崩れ去るかりそめならぬことの如くに (窪田空穂)

春庭の腰折れ歌。 
・薔薇ぞのに埋めしロザリオ若き日の罪はつみなれ許されずともよし(春庭)
 (エヘヘ、私もマリアと同じく結婚前の懐胎でしたよん)。
・防人の君の足刺す道遠く野のウマラ我が胸に刺してむ(春庭)
 (夫を防人に出した東歌の妻になった気持ちで)。
・湯に浮かべし薔薇の花びらことごとく我が肌(はだえ)より剥がれし如散る(春庭)
 (西安で見た楊貴妃風呂の主人公になった気分で、、、、)。

<おわり>

=======
もんじゃ(文蛇)の足跡:
植物としての場合は「バラ」、イメージのときは「薔薇」と用字を替えて表記したつもりなのですが、たぶん、ごちゃごちゃの表記になっているかも。
01:45 コメント(4) ページのトップへ
2011年06月21日


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