春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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2009/04/30

2009-04-30 18:56:00 | 日記
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2009/04/28

2009-04-28 19:02:00 | 日記
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2009/04/24

2009-04-24 19:10:00 | 日記
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2009/04/23

2009-04-23 18:57:00 | 日記
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2009/04/14

2009-04-14 19:19:00 | 日記
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2009/04/13

2009-04-13 05:57:00 | 日記
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2009/04/12

2009-04-12 06:45:00 | 日記
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2009/04/10

2009-04-10 05:54:00 | 日記
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2009/04/07

2009-04-08 19:28:00 | 日記
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2009/04/05

2009-04-05 05:55:00 | 日記
2010/04/11
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>サヌい氏は存在するか

 自分が書いたことを訂正しなければならないとき、単純な誤変換などではあとからそっと訂正し、いちいち「訂正した」という記述は残していません。しかし、本論の主旨に関わる記述で間違いに気づきとき、訂正するときは、文末に「○○という理由で、△△を××に訂正」という注記は入れなければならない。
 訂正する必要はないと感じるけれど、訂正ではなく注記を入れておきたいことも生じます。

 映画『デイアフタートゥモロー』の中の東京が災害に見舞われるシーンで、お店の入り口が鳥居であったり、バイク屋の看板に「オートツョップ」と書かれていたりすることの違和感から、これはハリウッドが見よう見まねで作り上げたセットの東京だから、このような違和感が生じるのだ、という感想を述べたことがあります。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d1018#comment
 
 店名の看板文字が「サヌい」となっていたことにも違和感を感じました。日本人名の表記で、漢字、平仮名、片仮名それぞれの表記があります。選挙用ポスターの人名表記など、書きやすさを重視して、漢字と平仮名を併用することもあります。しかし、平仮名とカタカナを混用するのは、名前のほうには見たことがあるけれど、苗字ではあまり見たことがありません。名前ではたとえば「マサゑ」とか「ツね子」なんていうのも私の母の世代まではありました。

 でも、店の名の看板に「サヌい」とあるのに違和感を感じたのは、日本語表記で語尾の「い」をそれだけ平仮名で表記した場合、「この語は形容詞である」という感覚になるからです。「サムい」「マルい」「ヌクい」「カタい」「ヤバい」など。
 店の名として「讃井」「さぬい」「サヌイ」ならば、違和感はありません。「さぬい」は名詞や人名と感じることもできる。しかし「サヌい」と書いてあると、この「サヌい」は、形容詞であると私は感じてしまったのです。「サヌい」なんていう形容詞は見たことありません。だから、店の看板の文字として違和感を覚えました。

 「苗字の表記には、漢字を用いる」という規定は、つい最近まで行政指導として存在しました。以前は、義務ではなかったものの、外国人が日本に帰化するとき姓名を日本風に直すよう指導され、漢字表記のほうが帰化申請が通り安いとされていましたが、現在は その指導もなく、カタカナの姓でもOKです。(使用漢字は日本漢字の常用漢字と人名漢字の範囲内に限られているので、中国簡体字などを使うことはできません)。

 トンガ王国出身のラグビー選手ルアタンギ・バツベイ(Luatangi Vatuvei)さんは日本国籍帰化後の戸籍名をカタカナ表記そのまま、ルアタンギという姓にしました。名前は「侍バツベイ(さむらいバツベイ)」です。ラストサムライにあこがれて日本に留学したことから、「侍」を名前に加えました。かって私が出講していた大学の出身ですが、スポーツ特待生なので、私の日本語クラスには在籍したことがなかったのは残念。怪我のため2009年にラグビーの一線からはいなくなりましたが、日本の戸籍名に「ルアタンギ」という新しい姓を加えた侍バツベイさん、これからも日本国民として活躍してほしいです。
 両親の国籍両方を持ち、成人後に国籍を選ぶ人もいます。野球選手のダルビッシュ有は2008年に日本国籍を選び、母親の旧姓によって戸籍を作り「東本有(ひがしもとゆう)」となりました。
 
 かっては、国籍変更の帰化申請時に、「姓は、既存の日本人の姓のなかから選ぶ」という行政指導ありました。あくまでも指導であって義務ではなかったですが、法務局は新しい姓を記載することに慎重でした。ソフトバンクの孫正義は、帰化申請をしたとき、「孫は日本人の苗字にない」という理由で、既存の姓を選ぶよう指導を受けました。そこで彼はまず、家庭裁判所へ妻の姓の変更希望を届けさせました。奥さんは規定通りの手続きを経て元々の日本人の姓から「孫」という苗字になりました。その次に「日本人が有する既存の姓」となった「孫」で帰化申請を出し、法律に則って「孫」という苗字が認められたのです。

 さて、「サヌい」への違和感と、その訂正についてです。たぶん、片仮名と平仮名を混ぜた「サヌい」も戸籍表記上、現在では認められないことはない、と思います。したがって、私が「サヌい」なんていう苗字が店の名として看板に書かれることはない、と感じたことは、間違いでしょう。しかし、私が違和感を感じたことも事実であって、これは訂正する必要はないと思います。私の違和感は、「日本人の苗字は、漢字またはひらがな、カタカナによって表記され、漢字かな交ぜ書きの姓や平仮名カタカナ交ぜ書きの姓はないとは言えないが、少数である」という一般的な見方によるものでありました。
 
 日本語表記もこれから変わっていく部分もあると思います。「てふてふ」という歴史的仮名遣い、現代表記では「ちょうちょう」と書くことになりました。私の変化予想のひとつは、平仮名の長音表記が、カタカナと同じ「ー」になる、というものです。「おかーさん」「おねーさん」などの平仮名長音表記がメールの中などでは若者に使われているので、やがてはこれが標準表記になるという予想。当たるかな?

<つづく>


2010/04/12
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>どゆしていますか

 2003年公開の『ラストサムライ』あたりだと、日本人俳優やスタッフががんばって、「アメリカ的思いこみの日本」像をずいぶんと訂正して撮影に臨んだというエピソードが伝わっています。1987年公開のラストエンペラーだと、満州皇帝溥儀の弟溥潔の妻嵯峨浩の着物姿がなんともだらしない。妊婦姿ということなのだけれど、前あわせがダラ~としていて、とても人前に出られる着物姿ではなかった。髪型も変。江戸時代の浮世絵の花魁の結髪をさらに崩したようなおかしな後ろ姿でした。ヘアメイク担当者は、日本の浮世絵を参照しながら「これぞ正しい日本女性の髪」と思って鬘を作ったのかも知れませんが。

 映画『ラストエンペラー』の衣装やメイクで、私には嵯峨浩の奇妙な結髪が気になったけれど、中国清朝の宮廷を知る人々にとっては、あんなのはあり得ない、と感じる衣装や髪型もたくさんあったことでしょう。今見ているテレビドラマ『蒼穹の昴』では、清朝時代の満州族宮廷の時代考証がかなり史実に近くきちんとなされている感じがするので、『ラストエンペラー』の宮廷人たちの衣装やヘアスタイルが、これは、きっと「西洋から見た中国清朝なのだろう」とわかるようになりました。

 こういう違和感は、映画の中に描かれる各国の文化それぞれに感じられるものなのでしょう。この春庭カフェコラムでも、映画『ビルマの竪琴』のビルマ僧の僧衣がタイ仏教の僧衣であり、ビルマの人々には違和感を感じさせるものであったことを書きました。
 
 文化の紹介や翻訳は、ほんとうに難しいものです。
 2007年の新聞記事に、ボストンレッドソックスのオープン戦デビューの松坂についてのニュースがあり、日本語を書いたボードを持つマツザカファンの少年の写真が掲載されていました。少年が手に掲げるボードには「松坂氏、あなたはどうか私の野球に署名できます」と書かれていました。(2007/03/03朝日新聞)

 おそらく「Mr.Matsuzaka, Can you sign my ball, please.」とかの英語を、あまり性能のよくない機械翻訳で日本語にしたものか、日本語をちょっとだけ勉強した人に頼んで日本語を書いてもらったのか。少年は、「ちゃんと日本語で頼んであるんだから、きっと松坂選手のサインをもらえるに違いない」と信じてうれしそうにボードを持っているのでした。

 日本語では「アリエネー」表現が、留学生の作文や海外のおみやげ屋や、日本にあるエスニック料理店のメニューなどにも書かれていることがあります。そんな日本語を見つけるのは愉快で楽しみなことですが、逆に言うと私たちが書いている英語英文もおかしな表現がたくさんあるのでしょう。

 麻布十番にあるポルトガル料理店の宣伝葉書の日本語。
 「ポルトガルを愛される方に、ちょうどア、タシカオープンして1年になりました。OBRIGADA! ランチパーティとティーパーティとディナーパーティどゆしていますか。ATASCAの料理はおいしい!お店もエレガントである!あなたにぴったりです。」
 「エレガントである!」と言い切るところが、何とも自信にあふれている感じがして笑えます。
   
 おもしろがりつつ、世界に広がっていくいろんな日本語に触れ、相手の文化を尊重しつつ世界のさまざまな文化とふれあっていきたいと思っています。
 
<つづく>



2010/04/13
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>4月のことば(1)施無畏

 4月からの出講大学、国立2校、私立3校になりました。毎日日替わりでキャンパスを駆けめぐっています。留学生に教えているのは、日本語初級文型教科書、中級作文。日本人学生に日本語学概論。私立大学3校のうち、2校は仏教系の大学であり、講師室には仏教用語の辞典類も備えてあるのですが、私自身は1年に1度か2度墓参りをする程度の仏教徒ですから、日頃仏教用語を目にする機会もなく、まだまだ知らないでいる語が数多くあります。

 3月13日の新聞記事のなか、芸術選奨を受けた文学の部の『施無畏 柳宣宏歌集』を見て、施無畏(せむい)という語に目がとまりました。仏教語としては珍しくもないよく使われる語らしいのに、また、私もどこかで目にしたことがある語のはずなのに、意識して注目したのは初めてでした。
 「どこかで」のひとつは、浅草の浅草寺。私も浅草寺の観音さまにお参りしたことがあり、本堂正面に「施無畏」と書いた額が掲げてあるのを無意識に見ていたはず。でも、大きな額の有り難い文字も、気にとめていなければ、心に残らない。施無畏とは観音様の別称でもあります。サンスクリット語(梵語)のabhayamdadaを漢語訳したのが「施無畏」です。
 両親と姉が眠っているお寺は曹洞宗で、お参りにいくと曹洞宗が発行している小冊子を渡されます。故郷から東京へ帰る電車のなかでさっと目を通し、家につくと捨ててしまっていたのですが、きっとその中にも施無畏について解説してある文章があったにちがいありません。衆生(生きとし生けるものすべて)の一人として、施無畏について復習しました。

<広辞苑>梵語abhayamdada ①三施の一。衆生を保護して畏怖の心を無くさせること。②観世音菩薩の異称
<大辞泉> 仏語。仏・菩薩(ぼさつ)が衆生(しゅじょう)の恐れの心を取り去って救うこと。観世音菩薩の異称。
<仏教語大辞典(中村元編集)>無畏を人に施すこと。人の厄難を救うこと。おそれなき状態を与えること。一切衆生に恐怖の念をなからしめること。獅子・虎狼・怨賊・水火などから人を救って恐れることのなからしめること

 仏教でいう三施とは、三種類のお布施。法(真理)を施す「法施」は、寺の僧侶が檀家の衆生に施す法(真理)の教え。読経など。それに対して檀家が僧へお礼を渡すのが、財(金品)を施す「財施」。今ではお布施といえば、もっぱらこの「葬式や法事で読経してもらったお礼のお金」を指します。残りのひとつが「無畏施」です。

 『観音経』。お経の最後の方に「慈眼視衆生、福聚海無量、是故応頂礼」(じげんじしゅじょう、ふくじゅかいむりょう、ぜこおうちょうらい 慈眼をもって衆生を視、福聚の海無量なり、是の故に応に頂礼すべし。一切の人々を救おうという大慈悲心の功徳は海の水のように無量である。この故に、まさに一心に礼拝して汝らの模範とせよ。)と書かれています。
 観音さまは時と場合と相手に応じ、姿を変じて現われます。その姿は33にも変ずるので、三十三観音と言います。観音は「無畏」の布施をおこない、衆生の不安や恐怖を取りのぞきます。不安のない状態「無畏」を施す者、施無畏者が観音様です。

 このような仏教語は、仏教に詳しい人には常識であり、そうでない私には「この年になってようやくわかった」という語です。新しい言葉を知ることは、心の窓がひとつ開くこと。

 現実には、この世は不安だらけ。健康も明日の米も仕事も、当てにならないことばかりで、毎日を不安とともに生きているような人生。「施無畏」の慈悲には遠いような暮らしの日々ですが、なんとか生き抜きましょう。

<つづく>
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2009/04/04

2009-04-04 13:02:00 | 日記
2009/04/04
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