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ニーハオ春庭中国日記「世界遺産高句麗遺跡」

2011-05-29 07:12:00 | 日記
2009/05/22
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(1)高麗

 中国の地名の名付け方についてお話ししてきました。名付けの方法のひとつが、山の南側と河の北側を「陽」とし、山の北側と河の南側を「陰」とする陰陽五行思想によることを学生の説明から知ることができました。

 さて、日本国内の地名について。
 かって友人が住んでいたのでたびたび訪れたことのある町、東京都狛江市。また、埼玉県に高麗川、高麗駅があり、関西には高麗寺、巨摩郡などがあり、山梨県や鹿児島県にも高麗、巨痲など、文字はそれぞれですが、「コマ」と呼ぶ地名が日本各地にあります。この「高麗(コマ)」は、古代の渡来人朝鮮半島の高麗(コウライ・コリョ・コリア)の子孫が集まって住んでいたと考えられています。高麗は、古代日本史のなかで特に朝鮮半島、中国との交流史に深い関わりを持つ地名です。

 古代史に興味を持つものにとって、高麗コーライときくと、高麗人参より先に思い浮かぶのは、高句麗です。高句麗第19代の王、好太王(広開土王)の事跡を記した「好太王石碑」が日本史の最初のところに写真が載っていたのを覚えている方も多いでしょう。

 石碑には、朝鮮半島の北を高句麗が領有し、南側には新羅、百済のほか、ヤマトの任那(みまな)が存在していたことが、立派な漢文で書かれています。この石碑の碑文は一時は捏造説もありましたが、最新の研究では、石碑に改竄などはなく、千数百年前に好太王の息子長寿王が建てた碑文そのままが保存されていることが立証されています。碑文研究も多くの進展を見ています。

 現在の朝鮮・韓国は、新羅や百済よりも高麗の流れを組む人々が多いと言われています。言語でも、現在の朝鮮語韓国語は、高麗語の系統だったであろうと想像されますが、新羅語も百済語も高麗語も記録が残されていないので、想像の域をでません。ハングルの話の中で申し上げたように、ハングル文字ができたのは14世紀のことで、古代朝鮮語をどう発音したかという記録がありません。朝鮮の文書はすべて漢文で書かれたためです。日本に置き換えて言うと、『日本書紀』だけが書かれて『古事記』はない、『懐風藻』だけが編纂されて『万葉集』はない、ということです。

 私は、教科書にある高句麗遺跡をみて、これらの遺跡群は朝鮮半島の北側、すなわち北朝鮮の中にあるのだと思いこんでいました。高句麗=朝鮮半島、と思ったので。

 しかし、今回、中国東北部のガイドブック「地球の歩き方」を見ていて、好太王石碑は鴨緑江(おうりょくこう・ヤールージャン)の西側、すなわち、中国吉林省集安市の中にあることに気づきました。

 好太王石碑の発見は、1880年。
 周囲の「高句麗遺跡群」とともに1961年に「中国重点文物保護単位」に指定されました。
 2005年にはユネスコの世界遺産にも指定されたため、集安市の観光資源として保存復元がはかられ、中国の観光地指定では「AAAA級」の指定となっています。

 私は、2007年に「中国世界遺産の旅(1)」として、孔子の故郷、曲阜市「三孔・孔子一族の墓所=孔林、孔子一族の広大な屋敷=孔府、孔子を祭る廟=孔廟」を見学しました。
 今回2009年は、古代高句麗の遺跡を訪ねて、集安市の旅、車中一泊二泊三日の旅をしてきました。
 
 集安市には、旧満州帝国時代に建設された朝鮮半島への通路があります。鉄道が平壌まで続き、鴨緑江を渡る鉄橋も日本人が関わって建設された近代建造物です。橋も鉄道も現役で中国朝鮮をつないでいます。
 集安は、古代史にとっても近代史にとっても見所のある町です。人口は23万人ほどでそれほど大きな町ではありませんが、隣接する通化市に、大きな漢方薬製造所やワイン工場があるため、町周辺の畑には葡萄や薬草などの換金作物が栽培されており、農村地帯も豊かに見えました。

 また、鴨緑江を隔てて、対岸に北朝鮮の市、満浦(まんぽ)市があるため、北朝鮮への出入り口のひとつとして、重要な交通要所となっています。
 鴨緑江の川辺には、大型望遠鏡を並べて、一回2元で北朝鮮側の川岸をのぞかせる「望遠鏡屋」がいて、けっこういい商売になっているようでした。私も望遠鏡をのぞき、北朝鮮の人々の暮らしをかいま見てきました。川辺での洗濯、畑を耕す人、自転車修理屋さんなどなど。

 旅の報告、(1)古代史遺跡。高句麗・好太王碑文と古墳群について、(2)近代史・満鉄の線路、ダム(3)現代史。北朝鮮・満浦市の人々について
の3つを中心にお知らせします。

<つづく>
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2009年05月23日


ニーハオ春庭「好太王石碑」
2009/05/23
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(2)好太王石碑

 1880年に、集安市郊外の畑で巨大な石碑が見つかりました。高さ約6.3メートル・幅約1.5メートルの角柱状の碑の四面に総計1802文字が刻まれています。第一面には、700年にわたり朝鮮半島を支配した高句麗(高麗コーライ、コリョ、コリア)の歴史、第二面には石碑の建立者である長寿王の父、第19代高句麗王好太王(こうたいおう・ハオタイワン)の事跡を刻んであります。好太王は、三国史には広開土王として記述された人物で、在位は391 - 412年。姓は高、諱は談徳。石碑を建立したのは、好太王の息子長寿王です。

 『三国史記』は、漢文で書かれ、朝鮮三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅末期までが紀伝体で記されています。
 この石碑には、12世紀に編纂された朝鮮半島における最古の歴史書『三国史記』と重なりあう記述とそうでない部分があります。

 日本の大和朝廷が朝鮮半島に任那(みまな)と呼ばれた領土を所有していたことを裏付ける記述が好太王石碑に書かれていたため、日本が朝鮮半島に進出することを正当化するために、石碑の文面が改竄されたという論が出されたこともありましたが、現在の研究では、石碑が改竄されたというのは事実ではなく、石碑は長寿王が建立したそのままの文面であることが立証されています。

 「好太王が任那のヤマト軍と戦って勝利した」という記述により、『日本書紀』や『古事記』に書かれているヤマト朝廷の任那進出と撤退が裏付けられたのです。
 神功皇后が軍を率いて朝鮮半島へ渡ろうとしていた、などの日本書紀の記述が、伝説というだけではなく、歴史的事実を反映して書かれていることがわかります。

 好太王石碑は、風化によって文字が読みにくくなった箇所もあるので、現在は保存のためにガラス張りの建物で覆われています。何人かまとまると遺跡事務所のガイドが説明をします。ガイドの言葉のなかで、私に聞き取れたのは、「日本リーベン」だけでしたが、ガイドが話している程度のことは、旅行ガイドブックに書いてあるので、説明を聞いているより、一字一字の文字をなめるように眺めてきました。「なめるように」は勿論比喩で、実際になめたら、警備兵に叱られます。大切な文化遺産なので、ガラス張りの建物の中で写真を撮ることも禁止。写真は外からガラス越しに撮影するのみなので、文字については、記念館の拓本を撮影してきました。

 記念館には1880年に発見されたあとの石碑のようすを撮影した写真や、何種類かの拓本の写真があります。拓本は、日本の国立東京博物館にも数種類保存されているのですが、めったに公開されません。前回2004年の公開時には、見ることができませんでしたが、次回のチャンスには必ず見たいと思います。

 1600年前の古代に、島国日本と朝鮮半島と中国大陸を結んで、戦ったり交易したり朝貢したり、さまざまな交流がありました。
 高句麗20代の王、長寿王によって414年に建立されてから、石碑は1802の漢字によって古代事跡の記録を保存してきました。

 高麗王朝は668年に滅亡しました。唐と新羅の連合軍によってに滅ぼされたのです。その後、高麗の人々はヤマトに亡命してきました。ヤマト政権は高麗の人々を受け入れ、各地に「高麗」「巨痲」などの地名が残されました。高麗という姓の人々も各地にいます。

 高句麗遺跡の宮殿跡を見ていたとき、日本人の一行に出会いました。高麗恵子さんというスピリチュアル系芸術家とパートナーのスピリチュアル音楽家いだきしんさんの一行でした。高麗さんは、「先祖は高麗王族」とホームページのプロフィールに記しています。
 いだきしんさんによる即興音楽と高麗さんの即興の詩作朗読をコラボレートするというフージョンコンサートを開催していて、この高句麗遺跡のビデオを次のコンサートで映写しながら演奏や詩の朗読を行うというお話でした。

 高句麗遺跡の映像を背景にどんな芸術作品が演じられるのでしょうか。日本人ツアーなどがあまり行かない観光地で、それも平日金曜日という時間に、たまたま高句麗遺跡で出会ったというのも、好太王のお招きによる御縁だったでしょうか。

 私とほぼ同じラインナップで撮影されている集安旅行ブログをリンク。
http://4travel.jp/traveler/enyasu/album/10177985/

 こちらのブログの石碑写真は、どう考えても、禁止を無視して内部撮影したとしか思えない角度です。
http://4travel.jp/traveler/minagaki/album/10237553/

<つづく>
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2009年05月24日


ニーハオ春庭「通化から集安へ」
2009/05/24
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(3)通化から集安へ

 集安への移動は、夜行寝台車で。
 私の住む町から11時発の夜行寝台車に乗り込み、通化(tong hua)に朝の6時着。寝台車は4人部屋コンパートメントの「軟臥」という種類。ベッドひとつが110元(約1700円)。高いので、観光客や上層市民しか乗らない。出稼ぎ客や学生は硬座という座席。ちょっとお金がある人は「硬臥」6人部屋の寝台車。

 車掌が身分証の提示を求めに来ました。私はパスポートも持ってきたのですが、大学が発行した「工作証(職業証明書)」の提示だけでOKでした。相客は、瀋陽市から出張で旅行中という軍人さんでした。軍事大学を出て5年目というイケメンの若い士官。日本のオバハンがイケメンへの興味丸出しで、「あなたの階級は、軍人のなかでどのくらいの位置なのか」とか、ずけずけ聞くのに、ややとまどいながらも答えてくれました。中尉に相当する階級(たぶん)。結婚はまだだけど、恋人はいるそう。彼は朝4時に下車していきました。

 通化市は、市内人口50万人、周囲の農村地帯も合わせると237万人が住む吉林省で第4番目の都会です。吉林省最大の鋼鉄工業基地があり、採鉱・機械・冶金・電子・木材加工・製紙・酒造・紡績・製薬などの工場が建ち並ぶ新興工業都市で、経済力では第2位という。また、葡萄酒の産地としても有名で、通化ワインはこの40年の間に30ヶ国へ輸出される一大産業になりました。薬草や朝鮮人参の栽培基地としても有名で、郊外には葡萄畑や薬草畑が続いていました。

 通化から集安までは約116キロの道程で、バスで約2時間半かかりました。通化集安間には、旧・満鉄が敷設した鉄道路線があり、現在も稼働しています。乗ってみたくはありましたが、一日一便だけなので、通化駅前のバスターミナルから集安行きのバスに乗りました。24元。
 通化集安線は、集安から北朝鮮の満浦を経て平壌まで続いている国際路線です。日本人は、北朝鮮のビザがないから、満浦市の手前、すなわち集安までしか行けません。

 集安のバスターミナルに9時過ぎに着き、目の前の朝鮮料理屋で朝ご飯。タクシーでホテルへ。タクシーの運転手は良さそうな人で、観光客とわかると名刺をくれました。
 予約したホテルは、ガイドブックでは当地で一番由緒正しきホテルと書いてあった集安賓館というところですが、2階の部屋に上がるのにエレベーターはなし。町中には、もっと新しげなホテルも、安そうなホテルもありましたが、面倒なので移動もせず2泊。バスタブにちゃんとお湯がはれるホテルなら、私はそんな豪華な部屋じゃなくても十分満足です。
 観光客誘致に力を入れ始めたところなので、これから星つきホテルも建設されていくことでしょう。

 集安は日本の青森と同じくらいの緯度に位置し、鴨緑江の流れを隔て朝鮮と接する国境の街です。高句麗の都がおかれたのは今から1600年前のことで、好太王の息子長寿王が集安から平壌へ首都を移したのちも、8世紀に唐王朝に滅ぼされるまで夏の行宮として利用されていた古都でした。
 国内城、丸都山城、兎山貴族墓群、好太王石碑、将軍墳など、数々の高句麗遺跡が市内に集まっています。

 第10代山上王(197-227)がこの地に都を置いた209年から第20代長寿王(413-419)が平壌(ピョンヤン)へ遷都した427年までの200年間、王都として高句麗文化の最盛期を彩りました。平壌遷都後も別都として高句麗滅亡の668年までの約230年、計430年間繁栄を誇りました。

<つづく>
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2009年05月25日


ニーハオ春庭「鴨緑江観光」
2009/05/25
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(4)鴨緑江観光

 集安賓館の部屋に荷物を置いたあと、鴨緑江までタクシーで移動。小型車タクシーは初乗り3元(約50円)という安さですが、乗って数分もすれば畑地へ出てしまうような小さな町です。最初に乗ったタクシーがぼったくりで、ほんとうなら歩いても行ける距離を大回りして10元ふんだくりました。最初は距離感もないので、すなおに払いましたが、まあ、町中を見物して、鴨緑江の土手道を延々ドライブしたので、鴨緑江見物をしたと思えば腹も立たない。3倍の10元払ったといっても、150円だし。川岸の土手で降りました。

 鴨緑江の川縁には望遠鏡屋がいて、一回2元でのぞかせてくれます。対岸に、こぎれいな白壁の朝鮮民家が立ち並んでいます。2007年に延吉市の「朝鮮民俗園」へ行ったときの民家と同じ形、同じ雰囲気で、すぐに「これは、観光客に見せるための家であって、本当の民家ではないな」と、感じました。はたして望遠鏡屋も「ほんとに人が生活している家ではない」と、言ってました。
 鴨緑江観光をした日本人ツアーのブログなどに「北朝鮮の家を見た」と書かれているのは、ほとんどこの「こぎれいな見せ家」です。

 川岸のモーターボート屋で、鴨緑江観光の船に乗りました。一人15元。中国人のオッサンたちの一行にまぎれて切符を買う。『地球の歩き方』には、モーターボート15分で40元と出ていたのを思い出し、アハハ、地球の歩き方バックパッカー君、外人値段をぼられているよ、と、いささか得した気分。わたしゃ、15元ですんだ。しゃべらなきゃ外国人だとばれない。

 オッサンたち順にボートに乗り込み、前から座っていったので私は一番後ろの席になる。オッサンたちタバコをふかしているので、後ろの席じゃ、煙がくるじゃん、と思って、「前の席がいい」とわめいてみたら、オッサンが席を替わってくれました。謝謝。
 切符買ったあとなら、めちゃくちゃな発音でしゃべって、外人とばれてもいいもんね。

 鴨緑江の北朝鮮側をモーターボートはすっ飛ばしていきます。岸辺の道を歩いている人がはっきり見えます。川をへだてて、中国側の山は緑深いのに、朝鮮側の山は、はげ山。木は燃料として切り出されたり、木材輸出用にしてしまったあと、逃亡者監視のため、わざと木を植えずにはげ山のままにしてあるのだと聞きました。

 しかし、鴨緑江は、狭いところなら百メートルくらいしか川幅がなく、実際には川を渡って中国側へ抜け出ることはそんなに難しくない。中国側で、身分証もなく生活することが困難なことがわかっているから、こちら側にこないのであって、生活の手引きする者があるなら、皆川を渡る。
 中国では、学生証や工作証(職業証明証)などの身分証の携帯は全国民の義務であり、提示を求められたときには出さなければなりません。日本で、車の運転者にとって免許証不携帯が交通違反になるのと同じ感覚です。私の身分証には、「外専(外国人専門家)」と書かれています。

 朝鮮側対岸で、何人かのオモニたちがいたので、手をふりました。あちらも手を振ってくれたので「アンニョンハセヨー」と叫んでみましたが、モーターボートの音にかき消されて、オバサンたちに聞こえたかどうか。

 ホテルのすぐ側にある集安市博物館まで歩いて行ってみました。閉鎖中。川岸に建設中の新博物館への移転準備のためだったのだろうと思うのですが、建設中の博物館はまだ半分もできあがっていないのに、、、、。新博物館は、観光客誘致をはかってのことでしょうが、なかなか立派な建物でした。

<つづく>
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2009年05月26日


ニーハオ春庭「丸都山城遺跡群」
2009/05/26
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(5)丸都山城遺跡群

 鴨緑江観光のあとは、ホテルの北側に位置する丸都山城遺跡へ向かいました。このときのタクシーは女性運転手でよさそうな人だったので、2日目のタクシー・チャーターを頼みました。9時から2時間半で80元。その後は延長料金だという。百元としても、一日タクシーに乗って、1500円です。
 
 丸都山城(ガンドゥシャンジャン)は、高句麗王朝が築いた町を守る外壁です。中国語で「城」というのは、万里の長城を代表とする「町を守るための城壁」のことで、日本語の「城」が天守閣を持つような単独の建築物を指すのと異なり、長く延びた城壁のことを言います。「城内」というのは、城壁で囲まれた町の中のことであり、異民族の襲撃から安全に守られる暮らしができる地域が「城内」なのです。

 丸都山城には、見張り台や夏の行宮跡などの遺跡が点在しています。貴族の古墳も数多く存在していますが、ほとんどの古墳がまだ研究途上未発掘。ただし、ほとんどの古墳は盗掘されていて、中味はカラッポ。

 この丸都山城の宮殿あとで、高麗恵子&いだきしんというスピリチュアル系芸術家を見かけたことは、すでに書きました。(スピリチュアル系芸術家というのは、あえて言えば元Xジャパンのトシみたいな感じ?宗教とはちがうけれど、なんか宗教的な。コンサートに行って音楽聞くと不治の病いが治る、みたいな)

 丸都山城遺跡で雨が降り出したので、一度ホテルに戻りました。少し休憩してから、町の中心部へ。メインストリートも、10分タクシーで走れば終わってしまう規模ですが、なかなかにぎわっていました。夕食前ですが、「関東煮」と書かれたおでんのような串にさした食べ物を買ってほおばりました。昆布と、高野豆腐みたいな干豆腐(ガンドゥフ)と、海老シンジョみたいな蝦丸というのを指さしで買いました。2串で1元(15円)。日本のおでんと違うのは、唐辛子とか入っていて、ちょっと辛いこと。

 夜のメインイベントは、町の中心地にある高句麗演芸広場という劇場での観劇です。どんな内容か全然分からないまま、劇場へ行きました。なにせ、丸都山城遺跡で買った入場券は、1、好太王碑と好太王陵 2,将軍墳(好太王の息子長寿王の陵墓) 3,兎山貴族墓群 4、丸都山城 5,高句麗演芸広場 というのがセットになっている入場券で、遺跡ひとつひとつは30元の入場料ですから、バラ買いすれば150元になる計算で、割安っちゃ割安なんだけど。中国物価の感覚からすると百元(1500円)は高いものだから、内容にかかわらず、劇場もとにかく見ておいて、モトとらないと。と言っても、他に夜の娯楽といってもカラオケくらいしかない町なので、セットになっていなくても見るつもりだったんですよ。

 演芸劇場は、まあおまけみたいなもんですから、まったく期待せずに劇場の椅子にすわりました。500席くらいはありそうな中型の劇場ですが、お客はまばら。メーデー休暇のときなどは満席だったかもしれませんが、3連休後の週末の金曜日の夜ですから、お客が少ないのはわかるとして、500席にお客が20人くらいってのは、なんだかさびしい。出演者も気合いが入らないだろうと思っているうちに、場内暗くなって舞踊劇が始まりました。

<つづく>
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2009年05月27日


ニーハオ春庭「高句麗文化演芸広場」
2009/05/27
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(6)高句麗文化演芸広場

 上海辺玉寛芸術団という劇団による舞踊ショウ。高句麗の初代王の誕生伝説からはじまり、高句麗をイメージした舞踊が続きます。歴史の説明ナレーションはぜんぜん聞き取れませんが、電光掲示板に文字が出る。漢字文化圏のありがたさで内容はわかる。
 観客は20人ほどなのに、男性ダンサー20人強、女性ダンサー20人強が、実に見事なダンスを繰り広げました。まったく手抜きをせずにきちんと踊っていることは、ジャズダンス歴30年の私が見ればわかります。

 冬のシーン。男性ダンサーたちが、雪のなか狩りをするダンス、迫力ありました。春のシーン、男女デュオが恋物語を繰り広げます。クラシックバレエの基礎をきちんと訓練されているダンサーであることがわかります。基礎はクラシックバレエですが、そこは中国ですから、雑伎団のようなアクロバティックな動きが随所に入り、なかなか見応えがありました。少林寺や空手など武道をアレンジした高句麗武術のシーンでは、長い棒をうち割ったりのアクションもありました。

 高句麗のダンスショウと言っても、高句麗の文化でわかっているのは、古墳の壁画に残されている衣装くらいで、実際に高句麗でどんなふうな踊りがあったのかなんてことはわかりません。でも、高句麗をイメージした振り付け師の腕は、相当なものと見受けました。

 トップダンサーは男性ふたり。ひとりは今井翼似、ひとりは十代のころの東山紀之似で、ダンスの腕前は翼君のほうが上みたい。でも、私はヒガシに惚れました。ヒガシは初代王さまの役を踊り、実にカッコよかった。
 女性ダンサーもきれいな人がたくさんいましたが、とりあえず、女性ダンサーはどうでもいい。なんと言ってもヒガシくんです。

 たった20人の観客のために、こんなに力を入れて踊ってくれて、なんていいダンサーたちなんだ、と感激している内にフィナーレ。フィナーレの音楽が終わらないうち、観客がまだ出口にでていかないうちに、怒鳴り声が聞こえました。「だめだ、だめだ、なってない!もっと真面目にやれ!」芸術監督のダメだしが始まりました。
 そうか、ダンサーたちが手抜きせずに熱心に踊っていたのは、観客のためではなく、今日は芸術監督、舞台監督のダメ出し総見の日だったから?

 ダンサーたちは、この日の出来ぐあいで、役を入れ替えられたり、トップや准トップに昇格したり決まるんじゃないかしら。あんなに力をこめて踊っていたのは、自分自身のためだったのだと納得されました。
 私の場合。ジャズダンス練習のとき、発表会の前、練習が厳しくなったときなど、先生の視線がこっちに向かっているときはピシッと手足を伸ばし、ターンもフルでやりますが、先生の視線がはずれていると思ったときは、2回転ターンも1回転にしておくとか。まあ、私はシロートなのだから、これでいいんです。発表会、金取って見せる訳じゃない。

 監督は、男性ダンサーのひとりに、ジャズダンスではエアプレーンと呼ぶターンをやらせて、「そんなんじゃダメだ、百回繰り返して練習しろ」と怒っていました。エアプレーン、難しいんですよ。私から見たらじょうずにターンしているように見えましたが、監督は厳しい叱責をつづけます。

 もっとダメだしを見ていたかったのに、もぎりのおばちゃんが来て、もう出ていけって感じでせき立てる。「走吧ゾウバ=行きなさい」って言われて追い出された。ヒガシくん、また会いにくるからね。
 日本の劇場なら入り口の売店で売っている劇場パンフレットがあって、振り付け師や衣装デザイナー、ダンサーの名前が書いてあるんだけど、そのようなものは売っていなかった。くすん、ヒガシくんの名前もわからない。でも、君の顔を覚えていて、将来有名ダンサーになったら、「私は集安という田舎町で、この人の踊りを見たんだ」って、自慢するからね。

夕食は劇場前の蒙古族食堂へ。串焼き肉と野菜焼き。8時過ぎにはほとんどの店が閉店してしまう田舎町なので、蒙古族食堂もほとんどのメニューが「もうないよ、没有メイヨー」でした。
 
<つづく>
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2009年05月28日


ニーハオ春庭「高句麗の古墳と壁画」
2009/05/28
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(5)高句麗の古墳と壁画

 洞溝古墳群は、集安の洞溝河の河畔にある高句麗時代の古墳群です。総数で1万近くも遺跡あり、遺跡の中に町があると言ってもよい。
 古墳は、古い年代の石墓と新しい年代の土墓(4~6世紀)に分類され、石墓の代表的なものは、将軍墳(長寿王古墳)。

 土墓は、更に前期と後期に分類され、前期のものは貴族の生活を題材とした壁画が、後期のものは四神(青龍・白虎・朱雀・玄武・)が描かれている壁画が多い。後期の代表的なものは、五塚五号。高松塚古墳などに見られる四神像壁画との影響関係もこれからどんどん研究が進められていくことでしょう。

 好太王石碑のすぐ側に、地元の人に「将軍墳」と呼ばれた古墳があります。だれか偉そうな人のお墓のようだから、きっとショーグン様に違いないと長年呼ばれてきた古墳でしたが、調査によって、将軍ではなく、好太王の息子長寿王の墓であったこと、またその陪葬墳であることがわかりました。1600年の間に、墓の副葬品も遺体もとっくの昔に盗掘され、石の棺台だけが残されています。

 ただ、墓そのものは盗み出せないので、棺を収めた墓室の壁画や、重い大きな石をつか石室は残りました。華麗な壁画が残されています。現在は保存のために、観光客に公開されている壁画は兎山古墳群の中の5号墳の内部だけです。
 
 5号古墳の入り口から地下に降りていくと、空気がひんやり冷たくなります。ガイドさんが照らす懐中電灯に、石室内部の壁画が浮かび上がりました。

 壁画には、人類始祖の神様や農耕の神様が描かれています。青龍白虎などの形はよくわかります。玄武の亀、朱雀の赤い顔料も残っています。写真撮影は禁止ですが、ガイドは懐中電灯で照らすし、人の体温だって壁画に影響があるのではないかと心配です。高松塚古墳には黴が生えてしまったし。

 自分で見ておいて言うのも何ですが、観光客には模写を見せておけばよい。
 上野の国立博物館で玉虫厨子や国宝仏像のレプリカ展を見たとき、そうそう、研究者以外の観光客にはレプリカを見せたほうがいい、と思いました。貴重な本物は、失われたら二度と取り戻せないのだから。フランスのラスコー壁画などは、観光客用のレプリカ洞窟が作られています。それでいいのだと思います。

 兎山貴族古墳群の特徴は、1号から5号までが、一直線上に位置していることです。奈良県の飛鳥古墳群が、天武持統天皇陵や草壁王子陵などが一直線上に並べられ、王都を守る風水思想に基づいて築かれていたことを何かの本で読んだことがあるのですが、きっと高句麗の王族もさまざまな陰陽五行思想の影響を受けていたことでしょう。

 高句麗が唐朝に滅ぼされた668年とは、天武持統朝が、「飛鳥浄御原宮」を造営した時期とぴったり重なります。天智天皇天武天皇の母、斉明皇極天皇が道教や中国風水思想に深い関心を持っていたことはよく知られていますが、飛鳥奈良の都建設にあたっては、高句麗の大工などの技術者が活躍したことと思われます。

 古代、高句麗滅亡に伴って、たくさんの技術者がヤマト王朝へ亡命してきて、大和政権が強大化するのに一役かいました。飛鳥浄御原宮のころまでは、天皇が代替わりするごとに宮を新しく築くのが伝統であったのに、天武・持統朝の飛鳥浄御原宮からは数代に渡る固定した大きな宮家となりました。これは、高句麗から高い技術を持った大工が渡来してきたことを伺わせます。

<つづく>
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2009年05月29日


ニーハオ春庭「中国朝鮮国境大橋」
2009/05/29
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(6)中国朝鮮国境大橋

 古代に高句麗の技術者が日本へやってきたことと逆の流れが、近代史においてありました。日本の高い近代技術を持った人々が朝鮮半島や中国大陸に渡り、ダム、鉄道、橋などインフラ整備に貢献したのです。

 満州帝国建国という歴史上では「鬼っ子」のように扱われる時間のなかで、中国側からはほとんど紹介されていない、出来事があります。中国の近現代史で語られていることと語られないこと。日本軍が中国の一般人民を虐殺した平頂山事件現場などについては、博物館を作るなど詳しく史実を記録していますが、日本人が現在の中国の人々の生活に貢献した事実もある、ということは、ほとんど語られません。

 1930年代に日本人技術者によって建設された橋やダムは、現在も現役の設備として中国の人々の生活の役にたっています。しかし、中国側は日本人が建設したインフラであることは表に出さず、地元の人は昔からある中国人が作ったもの、と思っています。

 台湾の嘉南平野に建設された烏山頭ダムについて、下記URLに書きました。台湾の人々がこのダムを築いた八田與一を長年顕彰し、台湾に眠る八田夫妻の墓を守っていてくれることと比べると寂しい気もしますが、国の方針というのはそれぞれに違いがあり、仕方がないことなのでしょう。
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/nipponjijou0608ac.htm

 1930年代に開通したのが、旧満鉄敷設の通化平壌線です。通化から集安を経て、朝鮮の満浦(まんぽ)へ。満浦市から平壌まで路線は続きます。
 現在、日本人は集安から先に行くことができませんが、中国の人々は貿易のために行き来している国際路線です。

 この国際路線が鴨緑江を渡るために建設されたのが、国境大橋です。入場料20元かかるけれど、朝鮮との国境線が引かれているところまで入れるということなので、タクシーで橋のたもとまで行きました。軍が管理している出入り口で、入場券の発券を待つ間、売店で飲み物のペットボトルを買いました。このとき、つい日本語をしゃべってしまいました。

 入り口へ戻ると、さっきは「入場料は20元だ」と言っていた軍人さんが、こんどは「何人だ」と聞いてきました。こわいから正直に日本人と答えると、「外国人は橋の中に入れない」と、追い出されました。ペットボトルを買った売店の人が「あいつはガイジンだ」と、告げ口したのです。ああ、しゃべらなければよかった。
 2007年のときは圖們(ツーメン)市の橋の中央にある中国朝鮮の国境線をまたげたし、あのときは日本人同僚とふたりだったので、盛大に日本語をしゃべりまくっていたのに、何も言われなかった。2年の間に政治情勢が厳しくなったのか。この国境大橋の建設は日本人が関わっていたことが問題なのか。

 でも、橋の真ん中まで行って日本人であることがばれて拘留でもされたら大変でしたから、まあ、事前に入場を断られてよかったのかもしれません。橋は遠くから眺めました。
 この橋をどの技術者が設計し、どんな人々が鉄を運び石を築いて作り上げたのか、今となっては私に詳細はわからない。でも、こうしてこの橋はここに残り、中国と朝鮮半島をつないでいる。
 古代の仏像や寺も造った人の名が残ることは稀で、多くは無名の人の仕事とされますが、美しい塔や仏像は後世の人にも感銘を与えます。近代の鉄橋も無名の人が造り、現代の人の役にたっている、それでいいのかもしれません。

<つづく>
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2009年05月30日


ニーハオ春庭「旧満鉄の線路と満浦市」
2009/05/30
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(7)旧満鉄の線路と満浦市

 鴨緑江の川岸。中国の集安市と朝鮮の満浦市が両岸に向かい合っています。満浦は、朝鮮で七番目に大きい都市だということですが、小さな集安市の集落よりさらに小さい町です。川岸に見える工場は、銅の精錬所かと思うのですが、望遠鏡屋さんも何の工場か知らないようでした。
 町並みは割合にきれいで、ここも中国側からのぞかれていることを意識した「見せ町」という目的があるのでしょう。しかし、一般の観光客が行くモーターボートから見えた付あたりの「見せ家」と異なり、ぼろいところも見えます。

 人々が川岸で砧を打って洗濯しているようすも見えるし、子どもたちが遊んでいるようすもわかる。子供が自転車に乗って走っているようす。こぎれいな服を着ているし、やはりここは朝鮮のなかでも、「朝鮮の人民イルミンは中国の人民レンミンより良い暮らしをしている」と見せるための町だろうなあと思います。ほかの町や村で一般人民ピープルの子供が自転車に乗って走っているとは思えない。

 町の一角に自転車修理屋がいて、自転車を直しているようす、人々が何人かあつまっておしゃべりしているのかゲームをしているのか、のんびり休日を楽しんでいるようすもうかがえました。
 満浦市を見ている限りでは、餓死者も出たという貧困ぶりは感じられません。はげ山の中腹にはハングル文字の巨大な金日成をたたえるスローガンがかかげられ、川岸から手をふる人々は、主体(チュチェ)思想を守り、将軍様の指揮のもとに生きていく人生をおくるのだろうなあと思います。
 東北地方の各地にある朝鮮直営のレストランで、女子服務員が逃亡してしまうのは、「別の世界」を知ってしまったゆえであり、この満浦市の中で望遠鏡でのぞかれているだけの生活なら、自分たちの世界に満足しているのではないかと感じました。

 集安2日目、土曜日の夕方、集安の美容院で染髪とカット。50元(750円、日本の価格から比べれば激安ですが、シャンプーのゆすぎが不足したのでしょう、枕が黒くなりました)。なぜわざわざ集安でカットしたかというと。自分の町で暮らしていると、ちょっとでも時間があればパソコンに向かい、仕事のためにパワーポイント資料を作成する時間にあててしまう。集安にはホテルにインターネット設備もないし、パソコンに向かう時間がとれないので、まあ、その時間をヘアカットにあてた、という次第。

 そのほか、靴磨きとか、なかなか日本ではしないことをしてみました。
 朝、ひとりでぶらぶら歩き散歩をしていた途中でのこと。靴磨きは3元というのを2元に値切ってみたら、まけてくれました。1元15円安くしてみたところで、私の生活は変わるわけでなく、靴磨きのおっちゃんにとっては大きな1元だろうと思うのですが、何でも値切ってみるのが中国式なので。値切ったあとはちょっと心が痛んだのですが、たぶん、地元の客だったら、1足1元だったろうと思うので、ま、いいか。

 さて、2日目の夜の過ごし方は、、、、、。もう一度高句麗演芸広場へ行って、もう一度高句麗ダンスショウを見たのです。どんだけヒガシが気に入ったんだって。
 2日目は、他のダンサーには目もくれず、ひたすらヒガシくんだけ見ていました。写真もアップでとりました。
 土曜日夜なので、金曜日夜よりは客の入りがよくて、100人くらいは、入っていました。決め所では「好ハオッ」という掛け声もかかり、ダンサーたち、昨日と変わらずいっしょうけんめい踊っていました。
 
 フィナーレのあとは、やっぱり監督がダメ出しをしていました。なんだ、毎晩ダメだしがあるんじゃん。
 監督はこの演目を成功させ、上海とかの大きな町で上演するとか、全国巡演、テレビ出演するとか目論んでいるようでした。私が興行師なら、ヒガシくんを日本へ連れてきて踊らせるのに。

<つづく>
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2009年05月31日


ニーハオ春庭「涼水朝鮮族の村へ」
2009/05/31
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(8)涼水朝鮮族の村へ

  集安3日目、日曜日の朝の散歩。遺跡公園では、人々がチェンズをして遊んでいました。チェンズは、錘のついた羽を足で蹴る遊びです。紀元前5世紀の中国で始まったという「ティーチェンズ(Ti Jianzi)」羽根突きの羽を一回り大きくしたものを蹴鞠のように蹴り上げる。何人かが輪になって、羽を蹴ってパスしていき、下に落とさないように続けます。私も学校でやってみたことがありますが、上手に蹴り上げてラリーするのはなかなか難しい。

 市場を歩き、果物を買いました。生きた鶏、鳩も売られています。豚もそのまんま横たわっていましたので、写真をとりました。日本では豚を豚のまんま売っていることはないので。漢方薬売りの露台には、イタチのような動物のミイラも売っていました。どんな病気に効くのやら。

 朝散歩から帰ると雨が降り出しました。最初の金曜日に名刺をもらっていた運転手が誠実そうだったので、電話をかけてもらい、チャーターしました。涼水という集安から90分くらい車を走らせたところにある村まで行ってみるためです。市内は一日チャーターで百元が相場ですが、涼水は離れていてガソリン代がかかるので、半日で90元です。

 朝鮮族が住む郷村といっても、現在は満州族も朝鮮族も漢族とほとんど変わらぬ暮らしをするようになって、あまり独自の民俗などは残されていない、ということでしたが、せっかく朝鮮国境付近の町にきたのですし、朝鮮族居住区と地図に書かれている地域があるのですから、行ってみて悪くはない。雨の中広い遺跡群を歩くのも困難だし、ドライブというのはいいアイディアです。

 ときおり強い雨が降る中、最初は鴨緑江に沿って、それから山の中の七曲がりの道を通って、1時間強。10時すぎに涼水地区に着きました。なるほど、家々は、他の漢族の家と造りが変わっているわけでもなく、鴨緑江対岸の「見せ家」が伝統的な朝鮮式の形を見せていたのに比べれば、何の変哲もない村です。

 集安市生まれの運転手さん。現在奥さんは大連へ出稼ぎに行っています。働きながら日本語を学んでおり、今年7月28日に大連から大阪へ働きにいくことが決まっています。5月のメーデー連休のとき、大連まで奥さんに会いに行って、次に会うのは、大阪出発の直前。子供は中国に残して、奥さんだけが日本へ行きます。寂しいけれど、これから子供の教育費のことなど考えると、仕方のない選択だといいます。このあたりの朝鮮族の人はほとんどが韓国へ出稼ぎにいき、漢族の人はアメリカや日本へ出稼ぎに行くのが、金を稼ぐもっともいい方法なのです。あれこれと身の上話を聞きながら、タクシーは山道から集落に入っていき、涼水朝鮮族郷村に着きました。

 雨のなか、タクシーが止まったところは、バス停にでもあたるのか、道ばたの小さな家の前で、大きな袋を持った人が雨宿りしていました。どこへ行くのか聞いてみようかとタクシーを降りました。集安へ行くのか、通化へ行くのか。

 そしたら、運転手が、「この家には誰も住んでいないようだから、中をのぞいて見るかい」と言って、勝手にドアを開けました。小さな倒れそうな家です。
 誰も住んでいないどころではなく、おっちゃんがテレビを見ていたし、おばあさんがふとんをかぶって横になっていました。

 ニーハオ、アンニョンハセヨ。とりあえず挨拶をすると、おっちゃんは「入れ,
はいれ」と言う。雨宿りの人と思ったのかもしれません。

 朝鮮族の農家の暮らしを見てみたい、と運転手には言ってあったのですが、町ぐらしの運転手にも、知り合いの農家があるわけでなし、まあ、この家でいいかと、おっちゃんの言葉に甘えて上がり込みました。
 おっちゃんは、何のためにこの村に来たのかわからない、というふうでしたが、テレビを消して相手をしてくれました。この村に言葉が通じない人が来ることもないので、テレビより面白い見ものだったと思います。

<つづく>


2009/06/01
ニーハオ春庭>中国・世界遺産の旅2(11)涼水朝鮮族・金希紅さんの家

 金さんの家は、6畳一間の居間と土間。金さんと年老いた母親のふたり暮らしです。
 市場で買った油桃という果物や、お菓子類をおみやげに渡しました。金さんは、自分の畑で作っているという落花生をふるまってくれました。おばあさんに挨拶しました。オモニは79歳です。若い頃朝鮮から中国側にきた人で、中国語はひとことも話せません。朝鮮語も方言が強いのか、私にはひとことも理解できない言葉でした。私のカタコトの挨拶はわかってくれたのだけれど「ナヌン、イルボニムイムニダ」と、言ってもよくわかってもらえませんでした。

 たぶん、私の発音が悪かったのだと思います。韓国語を習ったとき激音濃音という発音ができずに挫折したので。と、いうふうにでも思わないと。
 もしかして日本人にひどい目にあったという記憶があって、日本人という言葉に嫌な気分をもったのかもしれないとも思ったのですが、いやがっている感じはありませんでした。

 おっちゃんは、金希紅さんという名です。足が悪いので、畑に出ることができず、79歳のオモニがひとりで畑仕事をしているのだ、と涙ぐみながら語っていました。政府からの障害者年金は、ごくわずかで、たぶん涼水の郷村の中でももっとも貧しい家だったろうと思います。でもそこは朝鮮族の家なので、どんなに貧しくても雨の肌寒い日にはオンドルをたいて、ビニールカーペットが敷いてある6畳間ほどの部屋のなかは暖かい。家は、この6畳ほどの広さの部屋と、同じくらいの広さの土間のみ。家具はテレビと布団がしまってある押入箪笥のみ。土間には台所の設備がなかったので、煮炊きは裏口から外に出て行うのでしょう。

 金希紅さんは、「生まれてはじめて日本人を見た」と言っていました。そうだろなあ。涼水朝鮮族郷村に、韓国人が稀に来ることがあるかもしれないけれど、日本人が来ることとはビジネスでも観光でも考えられない。
 金さんは、韓国の旗とハングル文字が描かれたTシャツの上に古いジャケットを羽織っていました。昨年の北京オリンピックの際、参加各国の旗がプリントされたTシャツが売られたので、このあたりでは韓国の旗が出回ったのだろうと思います。

 貧しい暮らしかもしれませんが、顔つきはキリッとしていて誇りを失わない人のようにお見受けいたしました。

 オモニと金さんと私の3人で写真をとってもらいました。住所を聞く口実ができたので、紙に住所を書いてもらい、写真を送る約束をしました。
 金さんにとっては、初めて出あった日本人との記念写真。私にとっては、いきなり知らない中国朝鮮族の家を訪問して、いやがられもせず、お話ししてもらった記念の写真です。
 
 集安は、高句麗の遺跡がすばらしい土地でしたが、私にとっては、金さんの家訪問は、どんなツアーにもできない特別な体験になったということで、いちばん貴重な思い出になりました。

 集安旅行、楽しかったです。車中1泊、2泊3日でおみやげ代も含めて3000元(約45000円)かかりました。日本のツアー旅行から見ればなんということない出費ですが、私にすれば現地給料一ヶ月分です。ちょいと贅沢して命の洗濯した気分。
 鴨緑江の水は、私には温かかったです。

<おわり>

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ニーハオ春庭中国日記「日本事情の授業&母の日」

2011-05-21 23:57:00 | 日記

2009/05/08
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(1)藤式部と藤野先生

 「日本事情クイズ」として、日本の文化や社会習慣を知らせるクイズをときどき学生に出しています。
 日本人でもひっかかるクイズをひとつ出してみましょう。
第1問 日本のお札に最初に登場した肖像は女性です。○?×?
第2問 現在使われている日本のお札の肖像画に、女性は二人います。○?×?

正解。
第一問 ○ 明治時代に発行された最初のお札肖像画は、神功皇后でした。
第二問 ○ 五千円札の樋口一葉は皆知っています。もうひとり、二千円札の裏に、紫式部の後ろ姿が描かれています。こちらは知らない人のほうが多い。二千円札は出回っていないし、裏までじっくり眺める人もいないので。

 「『源氏物語』の作者は、藤原氏出身の父親が式部の身分を持っていたから藤式部と呼ばれていました。光源氏と呼ばれた貴公子が主人公の小説が、藤式部によって書かれました。紫色の花が咲く桐や藤の花にゆかりの女人、また、紫の上と呼ばれいる人と恋愛をする小説が、藤式部によって書かれたので、藤式部は紫式部という名で呼ばれました」
(受身形の練習としての例文提出です。)

 「日本事情」の授業だと、紫式部や『源氏物語』を時間をかけて紹介をするのですが、今回は初級日本語の学生なので、『源氏物語』について取り扱う時間はありません。しかし、日本の至宝である『源氏物語』をなんとか学生に紹介したい。今回は、「受け身文」の復習応用をする時間に、少しだけ紹介しました。
 「『源氏物語』は、紫式部によって書かれました」という文。日本語ギョーカイでは、このような文を「非情物主語の受け身文」と呼んでいます。人ではなく、物を主語とする受け身文。「日本語は日本で話されています」の類。

 受け身文の練習をしながら、『源氏物語絵巻』をスライドで見せて、「『源氏物語』は、千年前に書かれた世界最古の小説です」などのあらましを解説し、「日本の漫画が大好き」という学生のために、『あさきゆめみし』という漫画を紹介しました。『あさきゆめみし』は大和和紀によって描かれました。『源氏物語』を漫画化した作品で、1993年に完結し単行本も大いに読まれています。とくに、若い人々に読まれています」と、ふたたび非情物受け身文を練習。

 教科書『実力日本語』に提出されている非情物主語の受け身文の例文は、「『狂人日記』は魯迅によって書かれました」です。
 私は岩波文庫版の『狂人日記・阿Q正伝』をスライドで紹介し、教科書に出ていない文として「魯迅が書いた『藤野先生』は、日本でよく知られています」という「知られている」という受け身文を提出します。

 藤野先生は、魯迅の仙台留学時代の恩師。藤野先生は医学授業ノートの日本語誤用添削を誠実に続けました。魯迅は医学者にならず、文学者になりましたが、藤野先生について小説を書き、発表しました。学生たち、魯迅については「中国ではこどもにも知られています」というのですが、藤野先生については知っている学生は少ない。

 「魯迅は、藤野先生に日本語を教えてもらいました。」「藤野先生は魯迅の日本語の間違いを直してくださいました」と、苦手な「やりもらい文」も復習。
 「私も、藤野先生のような教師になりたいです。私は藤野先生のように、学生の日本語誤用を添削します。みなさんは魯迅のような立派な人になるでしょう」と、「~のような」「~ように」の復習もします。
 日本語授業にとって、どんなことも「授業のネタ」です。

<つづく>
05:51 コメント(1) 編集 ページのトップへ
2009年05月09日


ニーハオ春庭「迷惑がられる話」
2009/05/09
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(2)迷惑がられる話

 1904年9月、清国留学生周樹人(のちの魯迅)は仙台医学専門学校(現東北大学医学部)に入学しました。
 当時の日本は、日清・日露戦争後。「日本のほうが強い」と中国を蔑視する風潮があり、清国人留学生は「中国をなんとか近代的な国にしたい」という強い意欲を持っていました。周樹人は、医学を学んで中国のために役立つ人間になろうとしていました。

 そのような周樹人を、解剖学講座の教授・藤野厳九郎(ふじの げんくろう)は誠実に指導しました。若い師は30歳、弟子は23歳。藤野先生は、解剖学のノートを提出させ、誤字誤記をひとつひとつ丁寧に添削してやりました。
 周樹人は、医学では中国を救えぬ、中国人の心を救うには文学が必要だと思うようになり、医学を捨てて仙台を去りました。しかし、藤野先生の教えを深く心にとめ、二十年後の1926年に自伝的短編小説「藤野先生」(小説集『朝花夕拾』に収録)に仙台時代のエピソードを書き残しました。

 「藤野先生」が発表されると、先生の名が日本でも知られるようになりました。文学者として成功し有名になった魯迅は、仙台時代に世話になった恩師に会いたいと思い、途絶えたままになっていた藤野先生の消息が伝わってくるかと期待しました。そのころ藤野先生は妻の実家で開業医としてひっそり生活していました。藤野先生は決して名乗り出ることをせず、魯迅が自分の教え子であることを他言しないよう、家族にも口止めしていました。藤野先生が魯迅について語ったのは、魯迅の死後です。

 誰かのために、自分のできることを尽くし、その人のためになることを誠実にやりぬく、そして、してやったことを吹聴せず、決して自慢などしない。明治の男の気骨がよくわかるエピソードです。
 この晩年の藤野先生の話は、学生には伝えなかった。
 なぜ学生には伝えなかったか。藤野先生のように誠実に日本語を教える教師になりたいと学生には言ったのですが、晩年の藤野先生のマネは出来ませんから。

 もし、私の教え子が有名になったら、サインをもらいにいって、「ねぇ、私、あなたに日本語教えたよねぇ、覚えてる?」と、いっしょに写真でも撮りたがるでしょう。
 「え、覚えてないの?私、あなたに宿題たっぷりだして、いやがられたでしょ?私がやたらに添削したがってばかりいるって、あなた、迷惑がっていたじゃないの」と、ガンガン言い立てて、いやがられるのがオチでしょうね。

 「~がる」「受け身文」の復習、しっかりやっておいてね、と学生達には言っておいたのですが、、、、、先週先生が教えたこと、今週は忘れられているでしょうねぇ。いいです、教えても教えても忘れるのが学生の仕事。
 さて、今週の文法は「使役文」です。先生は学生に宿題をたっぷりとやらせますよ。ほら、そんな迷惑がらないで、、、

<つづく>
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2009年05月10日


ニーハオ春庭「スピーチ・お母さんありがとう」
2009/05/10
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(3)スピーチ「お母さん、ありがとう」

 8月に、学生たちは日本語の授業の仕上げとして、「日本語による専門の発表」を行うことになっています。ロボット工学について、ナノテクノロジーについてなど、自分の専門について日本語で説明するのが、最終課題です。

 最終課題にむけて、初級日本語のクラスでも、スピーチ発表を行っています。最初は、「自己紹介、私の町の紹介」「清明節のできごと」「私の趣味」など、宿題で書いた作文をもとにしての発表でした。
 学生たち、スピーチメモをにぎりしめ、懸命に発表を続けてきました。作文ネタは使い終わり、3巡目に入ったので、「スピーチトピックはそれぞれの自由」ということにしました。

 「私の専門」というタイトルで、「化学薬品と漢方薬」についての解説あり、パワーポイントをつかって本格的に「制御工学とは何か」を説明する人あり、「日本の結婚式のマナー」「ごみの分別収集」「日本人の好きな血液型性格判断」など、日本社会の情報をクラスメートに知らせる人あり、「東京ディズニーシーで遊んだこと」「北京<鳥の巣>でパラリンピックを見た」など、貴重な経験を語る人あり、トピックはさまざまになってきました。(パラリンピックの時の「鳥の巣」入場料は50元だったそうです)

 メーデー休みあけの5月4日には、「メーデーの起源」など、時節ネタも登場しました。学生たち、まだまだ日本語の発音や文型のまちがいはたくさんあるものの、「人前で日本語を話す練習」を続けています。

 5月8日、朝のクラススピーチの時間。クラス委員長(班長)さんのスピーチのタイトルは「母の日の起源」でした。うん、時節ネタ、いいね。
 班長さんは、南北戦争後のアメリカで、アン・ジャービスの娘アンナが母を偲ぶ会を始めたことがアメリカでの母の日の最初となったことを紹介していました。

 じょうずなスピーチに拍手して、「はい、次は会話暗誦です」と次の学習項目に移ろうとすると。班長さんが、「先生、ちょっと待ってください」と、言います。班長さんは窓のカーテンのうしろに隠してあったカーネーションの花束を取り出し、「先生はクラスみんなのお母さんです。私たちはお母さんに花を贈りたいです」と言いました。

 クラス全員が立ち上がって、「先生、いつもありがとうございます。母の日、おめでとうございます。」と、声を揃えて言ってくれました。びっくり。うれしかったです。
 「先生、花は18本あります。一人1本です」と、班長さんの解説つき。すてきな赤いカーネーションの花束。「たっぷり宿題」をありがた迷惑がりながらも「お母さん」へのプレゼントを忘れない、すてきな学生たちに囲まれて「幸福な母」です。

 日本にいる娘からのプレゼントメールも、前にもらってありました。「手作りコサージュ」の写真がメール添付されていて、「帰国してから渡すので今は写真だけね」というメッセージつき。ビーズや造花のきれいなコサージュです。写真をパソコンの待ち受けにしました。

<つづく>
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2009年05月11日


ニーハオ春庭「つまらない話」
2009/05/11
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(4)つまらない話

 1994年には頻繁にあった断水。2007年には新しい水源地のおかげで断水はほぼ解消され、助かりました。

 ところが、5月8日土曜日の夜、予告もなくいきなりの断水。9日の土曜日10日日曜日丸二日間、一日中水が出ませんでした。台所に水のボトル(20リットル12元180円)が常備されているから、飲み水には困らないですが、断水で困るのはトイレ。

 私は、お風呂に水を貯めておき、次にお風呂に入る直前に排水しています。今回の断水でもバスタブの水を汲んでバケツでトイレに水を流して何とかなりましたが、他のお部屋の方々、断水で困ったのではないかしら。こればかりは、トイレの中味を捨てないで貯めておくってこともできないし。尾篭な話ですみません。

 9日に部屋のくず入れを掃除してくれるオバサンが「明天、~~~、対不起トィブチー(すみません)~~~」と言っていました。私に聞き取れたのは、「水、シュィ」「明天、ミンティェンあした」くらいでしたが、断水をわび、明日には復旧すると言っているのだと解釈して、「明白了ミンパイラ(わかりました)」と、言ったのですが、さて、中国の明天は、つぎの日になっても「明天」で、いつになっても、「あした」が続く。
 11日朝の状況。台所断水継続。浴室。洗面台と浴槽トト入れの水復活。お湯はでない。という状況です。台所と浴室は水道管が別系統なのかもしれません。

 さて、日本事情クイズのつづきです。
第3問 日本では、トイレットペーパーはゴミ箱に入れずに水に流します。○?×? 

 学生たち、そんなことをしたら、トイレが詰まるだろうと心得顔で「×」いいえ、日本では、ペーパーは水に流してしまうのです、と説明します。
 中国の一般的なトイレでは、トイレットペーパー(手紙)は、トイレの中に捨てずに、ゴミ箱に入れます。(水洗トイレでなくても同じ)日本でも、排水環境のために紙を流さないところがありますが、私などつい、ゴミ箱にいれるのを忘れます。
 トイレの中のことは、日常生活で目に触れる機会がありませんから、ペーパーを日本でもゴミ箱に捨て続ける学生も多い。別段それでも問題が起きなければいいのだけれど、ある中国人留学生の多い学校では、トイレ用汚物入れのゴミ箱が小さくて、どの個室でも紙があふれてしまい、掃除のおばさんが困った、というエピソードも聞きました。

 日本のトイレットペーパーは、水に溶けるように作られているから、水に流してもトイレがつまることはない、と、教えておきます。
 中国でも外国人が泊まる大きなホテルや中央の公官庁などのトイレでは水に流れるペーパーがありますが、地方の一般的な水洗トイレで紙を流すと詰まることがある。2007年赴任のチュンツォン先生はトイレが詰まってしまい、大弱りでした。なぜ大弱りかというと、詰まったトイレを服務員に何とかしてもらうには、自分の○○を見られてしまうので、、、、、。私は今のところ、人様のご覧に供したことはありません。

 また、女性たちには、トイレットペーパー以外のものをゴミ箱に捨てるときは、必ずペーパーで包んでから捨てるようにも伝えておきます。この習慣も教えられなければ、行われません。日本では、小学校の保健の先生が4年生5年生くらいの女子を集めて指導していますが、中国ではそのような指導は行われず、家庭でもそのような躾をしない。これは習慣の違いですから、しかたがありません。

 郷に入っては郷にしたがえ、ですが、このトイレ習慣のちがいには、3度目の中国赴任の私も、最初はついつい紙を流してしまって「あ、しまった、紙がつまらないといいな」と思うのです。
 はい、つまらない話、お読みいただきありがとうございました。

<つづく>
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2009年05月12日


ニーハオ春庭「捨てる話」
2009/05/12
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(4)捨てる話

 私のクラスのソケツさんは、環境工学を専門としており、日本のごみ分別収集のことを調べて、クラススピーチのトピックにしていました。
 ソケツさんのスピーチでは、「生ごみと紙は燃えるごみです。生ゴミというのは、料理した野菜や肉の残りです」と説明があったのですが、分別意識のない中国人学生には今ひとつどれが燃やせてどれが燃やせないか、ピンとこなかったみたい。
 東京の私の住まいでは去年からプラスチックごみは紙といっしょに「燃えるごみ」になったし、自治体によって分別収集の方法がちがうので、気をつけてね、と学生には言っておきました。

 さて、捨てることのあれこれ。クイズ日本事情のつづきです。
第4問 日本では、古くなった家具や家電製品を捨てるときに、お金を払います。

 ほとんどの学生が「×です、お金をもらえると思います」と、答えました。日本も私の子供のころ、古物屋に家具や家電品をひきとってもらうとき、お金をもらっていたように思います。中国では、どんなに古くても再生利用する人はいるので、古物は売り物であり、古い物を持っていってもらうとき、お金をもらえます。

 去年の夏、我が家の冷蔵庫ひとつ捨てるのに、2千円かかったというと、学生達、びっくりしていました。ドアパッキンが古くなって、冷気漏れがしていた冷蔵庫ですが、パッキンを取り替えればまだまだ使えたはず。でも、パッキン取り替えのような簡単な修理でも、頼めば新しいのを買えるくらい修理代がかかるときいて、やむなく新型にかえたのでした。新品5万円くらいで買える製品があるけれど、修理代4万円(出張費やら何とか費やら込みで)、ですって。新しいほうは、省エネタイプなので、電気代を考えれば、新しいほうがエコだ、地球にやさしいとか言われて、新型にしました。

 中国は「地球にやさしい」は、まだまだ人々の意識にありません。
 また、中国ではまだ環境意識が薄くて、残った料理油は、他の水といっしょに下水に流しているそうなので、油を水道下水にそのまま流してはいけない、また米のとぎ汁だって、環境を汚すもとになるから、庭の花にでもやるようにしなければいけない、と教えます。我が家は地球環境のために無洗米使用。(ほんとは、お米とぐのが面倒だからだけど)

 中国の環境問題。水と空気の汚染、真っ先に改善してほしい問題です。環境と健康問題では、まだまだ中国人の意識は薄い。
 中国ではごみを分別収集せずにペットボトルもビール瓶もいっしょくたに捨てていると言っても、ごみが収集される前に、古雑誌もペットボトルもビール瓶も必ずだれかが分類して持ち去っていきます。売れるものはごみにはしない。

 家の中で粗大ゴミと化しているオトーサン、燃えないゴミの日に捨てられる前に、中国へ来て有用利用される人間になるのもいいかも。こちらには、定年退職後に生き甲斐を求めて日本語教師として働く方々も多い。現地給与は日本の物価からみれば安いですが、こちらで生活する分には十分な金額ですから、自分は現地給与で暮らし、年金はそっくり日本の奥さんに渡しているという方もいました。妻も「毎日が日曜日の粗大ゴミ」と成りそうな夫の世話もいらず年金はひとりで使えるし、文句なし、夫婦円満。
 ついでに言うと、現地給与生活に「愛人」が付帯している方の噂もちらほらですが。中国語では、「愛人アイレン」とは夫婦の片方のことですから、問題なし?

 私も、今のところ現地給与のみで生活しています。旅行の前に円を元に替える必要があるでしょうが、毎日の生活には不足なし。これで愛人がついていればもっと文句なしなんですが。え、この「愛人」は、中国語か日本語か?そりゃもちろん、、、、、

<つづく>
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2009年05月13日


ニーハオ春庭「煙ったい話甘い話」
2009/05/13
ニーハオ春庭>日本事情中国事情(5)煙ったい話、甘い話

 学生たちは、留学した後、日常生活で中国と日本の生活習慣のちがいに少しずつ気づいて慣れていきます。日本事情クイズは、文型の復習を兼ねた復習クイズです。

 中国では、日本より喫煙者数が多いと感じます。勤務校の校舎内は構内禁煙で入り口の脇の灰皿のところで吸わなければなりませんが、一般的な場所だと、高級レストランでもどこでも喫煙OKが多く、分煙意識はまったく普及していません。タバコに関する注意も学生達にしておきます。

第5問 日本では、地下鉄や都会のJR駅のホームでタバコを吸うことができません。路上でタバコを吸わずに、灰皿の有るところで吸います。 ○?×?

 JRホームで終日喫煙禁止になったところも多いし、千代田区港区などで、路上での喫煙禁止のところもありますので、日本でタバコを吸うときは、かならず灰皿をおいてあるところを探して、喫煙してよい場所かどうか確認してから吸うように教えます。もっとも、日本へ行って、路上で歩きタバコしたうえ吸い殻を捨てる日本人を見れば、「先生は路上で吸うなと言ったけれど、日本人も守っていない人がいる」と思うかもしれません。

第5問 日本では、バスや電車の中で携帯電話で話してはいけません。お年寄りや病人の近くの席ではメールもしません。

 中国はこの数年の間にものすごい勢いで携帯電話が普及しました。家庭電話の普及は遅々としていたので、家に電話がない時代から、一気に携帯電話時代に突入です。もともとバスや電車の中でも、知り合いのふたりは大声で会話する習慣だったために、バスにのると必ず大声で電話している人がひとりふたりいます。日本のバスは携帯電話禁止、電車の中でも、であのように大声で話すと、乗客から顰蹙を買うと教えます。

第6問 日本では、水道の水が飲めます。レストランでお茶と水は無料です。

 まずいと言われ続けた東京の水も、今では水道局がペットボトル「東京の水道水」を売り出すほどおいしく水質改良されました。しかし、世界的に見ると、水道の蛇口から出る水を直接飲めるほど水質がよい地域は稀です。
 日本では、この10年ほどで、お金をだしてペットボトルの水を買う習慣が根付きましたが、昔モノの私は、今でもお金を出して水を買う気になれず、飲み物が欲しいとき、緑茶や烏龍茶を買うことが多いです。

 さて、中国事情クイズ。
第7問 中国のペットボトル緑茶、値段は2元(30円)ほどですが、お味は、苦い?甘い?
 答えは甘い、です。ほとんどの緑茶ペットボトルは砂糖入り。無糖のものを見かけません。発売はされているということですが、実際に販売しているお店に入ったことがない。熱い緑茶は中国でも無糖ですが、ペットボトル入りの飲料は熱いお茶とは別の嗜好飲料となるので、甘いほうが好まれるのでしょう。コーラやジュースが甘いときは何ともないのに、甘くないと思いこんでいる緑茶のペットボトルを買ってひとくち飲んだ日本人は、たいてい「なんじゃこりゃあ」と思うみたいです。

 食べ物と飲み物、生活習慣、それぞれ違うところアリ同じ所アリ。所変われば品かわる。 最近、日本の「ネズミ講禁止」などを知らない留学生が、マルチ商法の甘い話に引っかかる例が増えたので、甘い話にはのらないように、注意しておかなければ。
 気をつけよう、甘い話と夜の道。鼠は講に入らず、料理して口に入れましょう。 

<おわり>
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2009年05月14日


ニーハオ春庭「肚皮舞」
2009/05/14
ニーハオ春庭>九年母(くねんぼ)日記中国版(1)肚皮舞

 5月10日締め切りの論文も不出来ながら出し終わり、初級日本語の教科書も終わりに近づいてきて、少し精神的に余裕もでてきました。そうなると気になるのが、ストレス解消のために食べ続けて、ぽっこり出てきたおなかです。
 まあ、ふだんでもビヤ樽体型なのですから、食べ続けても見た目の太さはかわらないですが、やはり自分自身で体が重くなったことを感じます。

 ずっと部屋に籠もりきりで仕事を続けてきたので、筋肉が固まってきたと感じるし、ここらで体を動かすことにしました。
 日本では週1回のジャズダンスサークル参加でストレッチやダンス、ヨガをしていますが、今回、同僚の先生に誘われて、ホテルの4階にある体育クラブに入会しました。7月末までしか中国にいないのに、同僚の先生のおすすめにより、1年分の会費を前払いしました。

 ホテルの4階にある体育クラブというと高級そうですが、たぶん、中級ホテルの中級体育クラブです。
 どこで中級と判断しているか。体育館のトイレ、個室の壁やドアが胸の高さまでしかない方式で、隣の個室の人とお話しできるタイプ。そして、トイレットペーパーが常備されていない。高級ホテルならトイレットペーパーがおいてある。

 中央にバスケットボールとバドミントンのコートがあり、周囲に小さな運動教室が並んでいます。小教室のなかで一番大きいのは(跆拳道テコンドウ)の部屋で、幼稚園くらいの男の子が20人ほど柔軟運動をしていました。ガラス張りの教室の外側廊下には、子や孫を送迎している親や祖父母が、我が子わが孫が運動している姿をじっと見つめていました。うちの息子や娘がスイミングスクールに通っていたころ、ふだんは送迎バスに任せていたのですが、たまにプールへ迎えにいくと、同じような光景を見たことを思い出しました。 

 1ヶ月の会費は300元3ヶ月だと割引になるから500元、でも、1年分だと、団体割引がきくので750元。私は3ヶ月分の500元コースにしようかと思ったのです。3ヶ月しか通えないので。でも同僚のリー先生が交渉して、1年分の利用カードを、私の帰国後に同僚の先生に引き継いで、利用してもいいってことになりました。同じ職場の人が5,6人も来ているので、特別なのだということで、まあムダにならないなら、750元でもいいかな、と1年分の前払いをしました。

 月~日の日替わりで午前中の部と夕方の部に瑜伽(ヨガ)や拉丁(ラテンダンス)肚皮舞(ベリーダンス)のコースがあります。同僚の中国人教職員たちは、ベリーダンスに参加しています。週に何度でも来てもいいし、午前と午後2回やってもいい。先週の水曜日の初心者ベリーダンス体験をしました。金曜日は健身球という大きなボールを使ったストレッチに参加してみました。

 来週はヨガ教室にも行ってみるつもりです。ヨガはいつもジャズダンスの練習のときに準備運動として体をうごかすときに、亀のポーズ、猫のポーズ、駱駝のポーズなどを先生に教えてもらってきたので、初心者ではないのですが、ベリーダンスはどんなもんだか、と、おそるおそるやってみました。まあ、動きについていけないことはない。ジャズダンス歴は30年、ダンスの基礎的な動きはどれも同じです。

 何よりも、私以上におなかぽっこりやら三段腹でも、みな堂々とへそをだし、プルプルと豊富なお肉をゆすって踊っていたので、私もおそれず、たっぷり脂肪をゆすることができました。へそだしはまあ、当分しないつもり。

 中国の物価から考えると運動クラブ会費750元(12000円)は贅沢なこと。私がこれまでに支払ったお金のうち、一番の「高額商品」です。
 高額なこと、これは運動のためにはよかったとも言えます。根が貧乏性なので、「こんなに払ったのだから、モト取って帰国しなきゃ」と思うから、運動回数が増える。同僚たちは週1回ペースのクラブ通いだというのですが、私は週3回は通うつもり。
 13日水曜日はチャンリー先生リジュン先生といっしょにベリーダンスの基礎クラスに参加しました。いい運動になりました。ベリーダンスの腰くねくね運動でおなかが引っ込むといいのですが。

 週末、金土日3日間、カフェ日記更新をお休みするかもしれません。休まないかもしれません。未定。

<つづく>
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2009年05月17日


ニーハオ春庭「世界遺産の旅・高句麗遺跡」
2009/05/17
ニーハオ春庭>九年母(くねんぼ)日記中国版(2)世界遺産の旅・高句麗遺跡

 ただいま。車中1泊2泊3日、金土日3日間の旅を楽しんできました。町で一番由緒正しきホテルだというところに泊まったのですが、由緒正しすぎたのか、ちょいと設備も昔風で、自分のパソコンとランケーブルを自分の持ち込みでつなげばインターネットはつかえるけれど、ホテルに備え付けの客が使えるパソコンはない、ということを事前に聞いていたので、まあ、ブログ更新のために自分でパソコン持っていくほどのことはないし、中国の町に増殖中のワンバー(网吧・網吧インターネットカフェ)がひとつくらいは有るかもしれないと思ったのですが、そのようなものは見あたらない小さな町でした。

 ということで、3日間の更新お休みのあいだ出かけていたところは、好太王石碑と高句麗古墳群。世界遺産のひとつを訪ねる個人旅行をしてきたのです。

 高句麗遺跡だから、北朝鮮にあるとばかり思いこんでいたのですが、鴨緑江の中国側にあることに気づき、古代史ファンとしては絶対に見ておきたいと思って出かけてきました。
 行きは夜行寝台で7時間+バス2時間半。帰りは高速バス5時間半の長距離移動でいささか疲れましたので、楽しかった旅の報告は、月末にお届けします。

<おわり>

23:38 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月18日


ニーハオ春庭「地名さまざま」
2009/05/18
ニーハオ春庭>中国地名由来 (1)地名さまざま

 中国の地名由来について質問をいただきました.
========
投稿者:a**** 2009-04-24 05:55
言葉が社会に定着するに、例えば「地名」
此れなどは、川に近いから「川辺」とか、家が五軒あるから「五軒家」とか、
直接的な表現、いい替えると「自然発生的」要因と、時の権力者などにより名付けられた名称だったりしますが、
中国でも同じでしょうか?
=========

 中国の学生に、日本人は中国のこんなことも知りたがっている、ということを知らせるために、学生への宿題として、「自分の町名の由来について調べて作文しなさい」という課題をだしました。それぞれ調べ、故郷のついて知っている情報や中国のインターネットサイトなどで得た知識を一生懸命日本語にして作文してきました。

 私としては、村の字(あざ)にあたるような、地方の小さな地域の地名の由来を知りたかったのですが、私が教えている大学院修士課程修了者たちのクラスには、農村の出身者が少ない。ほとんどは都会育ちです。

 (中国の戸籍法では、かっては、都市部の戸籍と農村戸籍は厳しく区別されていました。農村の出身者は、農村戸籍しか持てず、都会に出て就労するには、パスポートの「労働ビザ」にあたる就労許可証が必要で、原則農村から都会への居住地移動の自由はありませんでした。
 都会に出稼ぎに出ている農民のほとんどが就労許可証をもたない、いわば不法滞在の人々であり、住民票がないため彼らの子どもたちは学校にも行けない状態でした。現在は、北京市上海市のふたつの特別市のほかは、移住や就労に差別がなくなったということですが、特別市の住民への権利や福利と他の地域との間にはやはり格差があるようです。

 北京オリンピックのとき、オリンピック開会式会場に入れる人は「原則北京市民に限る」というお達しがあったとき、「国家の税金でオリンピックをするのに、北京市民だけ特別扱いするのは、国民平等に反する」という意見を言う論者もでてきました。
 「お上の言うことに従う」という昔の民に比べると、堂々と自分の意見を出せる場が増えてきたように思います。

 かって、都市戸籍を獲得するすなわち農村戸籍から都市戸籍への切り替えは、都市にある大学・高専に入学するケース以外には、稀でした。農村出身者が大学に入学するのは、数多くありません。農村から大学に入学するときは、村をあげて祝宴をあげるような、名誉のある大きなできごとでした。
 今回「私のふるさとは小さな村です」という学生も何人かいます。

 そのような中国の変化を感じながらの今回の赴任ですが、クラスの学生たちは、みな自分の生まれた土地や大学のある町に誇りをもち、「自分の生まれた土地の名前の由来」や省の名前の由来を調べてきました。
 誤用のある文もご愛敬としてそのまま紹介します。誤用はありますが、学習をはじめてから半年しか日本語を学んでいない学習者の文をしてはたいへん上手だと思います。

<つづく>
01:32 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月19日


ニーハオ春庭「川の顔色」
2009/05/19
ニーハオ春庭>中国地名由来 (2)川の顔色

 中国地名由来の作文紹介。
 中国全土から選抜されてきている学生達ですが、私のクラスにはなぜか山東省出身者が3名。レイトウさん、エンテイさん、「山東は、太行山という大きな山の東側に位置するから、山東というなまえを(が)つかわれています」と書いていました。
 ソケツさんは、「泰山は中国五大名山のひとつ」と書いていました。山東省の泰山は、中国五岳のなかで最も尊ばれる東岳にあたります。私は、2007年に泰山登山に挑戦したのですが、頂上まで行き着かなかったので、もう一度チャレンジしたいと願っています。今年は無理かな。

 同様に「江西省は、准河の西にあるので、江西省というなまえを(が)つかわれています」コウキさんの作文。
 「名前」を主語にした受け身文であるべきなのに、どうしても「なまえをつかわれます」になってしまいます。「私は名前を勝手に使われました」という受け身文なら「名前を使われる」でいいのですが、受身形の助詞をクラスで復習しないといけませんね。

 質問者が「時の権力者などにより名付けられた名称だったりします」と書いている例が中国でもあることを、天津市の出身者エイケイさんが書いてきました。
 「天津市というのは、中国で、皇帝に呼んばれました。(名付けられました)明朝の皇帝の朱糠が戦争したとき、河津という川を渡りました。皇帝は、役人にこの川の地方に名前をあげるといいました。役人は「皇帝は今の天子です」といいました。それで、天子は河津の川をわたし(り)ました。だから、名前は「天津」です。

 貴州省出身の学生シンランさんによる「赤水セキスイChìshui 」の紹介。
 私の町は「赤水」といいます。私の町の回りに大きい川があります。気候のために川の上游(上流)の地方に大雨がいつも降ります。だから、川の水の顔(表面)は、赤くなります。西南の地方には、土の顔色(表面の色)は赤いです。東北のと違います。

 学生が「顔色」と書いているのは、春庭コラムに4月上旬に連載した「中国と日本で同じ漢語でも意味のずれている語」の典型的な例としてあげた「顔色」の誤用例です。学生は、漢語なら日本語と同じ意味だろうと思ってつい使ってしまうのです。中国語の顔色は、「さまざまなものの色彩・様相」のことで、日本語の顔色は、「頭部の表面、目や鼻のある側の色」という意味です。

 赤水河という名は、夏になると泥で赤茶色に濁ることから付けられています。支流・風溪河の上流には十丈洞瀑布という幅の広い滝があるのをはじめ、多くの滝があり、沿岸は深い森や竹林、崖や急流が多く、美しい景観を求めて日本からもツアーが出ています。
 クラス・スピーチ発表で、シンランさんは「赤水地方の千の滝」を紹介していました。赤水の千滝は、、有名な観光地。滝マニアの私もぜひ行ってみたいと思っています。
 赤水河の流域の赤水市は、酒造りの郷として知られ、茅台酒などの名酒の産地だと、シンランさんは紹介していました。

<つづく>
05:41 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月20日


ニーハオ春庭「陰陽五行による名付け」
2009/05/20
ニーハオ春庭>中国地名由来 (3)陰陽五行による名付け

 私が2007年に訪れることができた曲阜(孔子の故郷)のある済寧市の地名紹介。リューカさんの作文です。
 「昔、済水という川がありました。この川の水源は済源と呼びます。済源市は、河南省にあります。済水は河南省から山東省まで流れました。そして、この川の南の市と(を)済南と呼びます。私のふるさとは済宁(済寧)市です。山東省の町です。済水は昔、時々洪水がありました。洪水を止めるために、私のふるさとは済寧市と呼びます。」

 ショウケンさんは、故郷の遼陽市の地名由来を書き、陰陽五行思想による地名の付け方を説明してくれました。
 「私の故郷は遼寧省の遼陽市です。遼寧という名前の遼というのは、広いの意味ですが、寧の意味は平和です。そして遼寧は、戦争に受けられない(戦火を受けない)ように祈ります。平和に発展することです。遼陽という町の名前は遼河の北にあることです。古代漢語によると、山の南と川の北は「陽」です。山の北と川の南は「陰」です。例えば「准陽」は、准河の北にありますが、江陰は長江の南にあります。」

 陽や陰がつく地名は、この陰陽五行によって名付けられています。
 レイショウさんの故郷「瀋陽市」
 「私の故郷に河があります。古い時(時代)この河は瀋水と言いました。今は渾河といいます。古い中国の時、河の北の所は「陽」と言いました。川の南のところは「陰」と言いました。私の故郷は瀋水の北にあります。それで、名前は瀋陽です。」

 ゴタンさんも同様の作文。
 「すっと前から遼河という大きい川は遼寧省の地方を流れています。この川の辺に住んでいた人々は生活がずっと平和になるように願っていたので、遼河の遼と平和の意味の寧でこの省の名前を(が)作られました。だから遼寧省といいます。」

 チョウケツさんの岳陽市も同様の陰陽思想です。
 「中国では、高くて大きい山は岳といいます。山の南の地方は「陽」と言います。岳陽市は、天岳山の南にあります。だから岳陽と言います。そのほかに岳陽市が洞庭湖の隣にあって、交通は、とても便利です。2000年前に岳陽市が大きい町になりました。」

 同じ遼寧省でも、大連の地名はロシア語から名付けられました。クラスの学習係カショさんの大連紹介。いつも完璧な文法修得を誇るカショさんです。
 「私の町は大連市です。大連は清朝から関東州(大連・旅順など)を租借したロシアが東清鉄道の終着駅を設け、ダーリニーと名付けたので、中国語でDalianになりました。」

 カショさん、「租借した」「設ける」なんていう初級では絶対に習わない語彙も使いこなしています。漢字に強い中国語話者ならでは。
 大連は、中国の歴史の中では比較的新しい町です。一方、1000年2000年という長い歴史を持つ町も多い。

<つづく>
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2009年05月21日


ニーハオ春庭「黒しいふるさと」
2009/05/21
ニーハオ春庭>中国地名由来(4)黒しいふるさと

 建築史が専門の女性、レイリさんの故郷地名紹介。
 「私の故郷は荊州ともうします。州というのは、昔の省のことです。それに、荊山の北側だ(な)ので荊州になりました。」

 レイリさんの故郷、荊州とは、現在の湖北省の一帯を指す地名。古代中国史ではおなじみの、「楚」の古名です。映画『レッドクリフ』にも描かれた「赤壁の戦い」の赤壁は、荊州市の東部、烏林にあります。
 
 子供の時、常徳市の模型自動車制作競技会のチャンピオンになったことがあるというシンショウさんはフェラーリ(菲拉力)大好き。そしてもちろん、故郷も大好きです。洞庭湖の西側に位置する常徳市。シンショウさんの紹介は漢詩から始まりました。
 「長沙沙水水砂、常徳山山有徳、というのは、長沙の白砂井水中で、砂がありません。常徳の徳山で人徳があります。徳山は、崇高な人格を持っている善巻先生の(を)記念するために、名前を得ます。それで、徳山の周りの町は、だんだん常徳市になりました。」

 偉大な漢詩人を排出してきた常徳市も、春秋時代からの歴史を誇る古い都市です。
 シンショウさんのスピーチによると、常徳市郊外には桃源郷のモデルになったという桃花源(桃源県)があり、常徳市の人々は春になると、桃の花見にでかけるそうです。

 日本語の文法はめちゃくちゃだけど、いつも書きたいことを思いっきり書くロクさんの作文。まあ、ロクさんの言いたいことは伝わってきます。
 「河南he nan省と河北hei bei省。黄河のきたの辺から、河北省というです。これ、河というのは、日本語で川の意味です。ただし黄河のみなみの辺から、河南省というです。」

 ヨウショウさんの紹介。説明だけあって町の名前が書いてないのは、ヨウショウさんらしい。たぶん、黒竜江省の漠河 (Mòhéモーホー)市のことでしょう。
 「漠河には、漠川があります。その川の水は、黒鉛のように黒しいです。その川の水も石のように周りが流します。墨と磨は、漠河の漠が同じ発音ですから、その名前を貰いました。」
 ヨウショウさん、「黒しいです」という誤用がなんだか愛らしいですが、柔道選手のような体つきの男性、クラスの体育委員です。

 クラスでのスピーチ発表で、故郷紹介をした学生達、みな故郷を誇りに思っています。故郷から大学のある町へ移住した人は「故郷の町も、大学のある町も両方好きです」と言っていました。広い中国全土から縁あってひとつの学舎に集まったクラスの仲間たち。スピーチを発表しあうと、それぞれの趣味や故郷のことがよくわかるようになり、よりいっそう仲良くなれるように思います。

<おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「メーデー休暇&中国食材事情」

2011-05-17 05:45:00 | 日記


2009/05/01
ニーハオ春庭中国日記2009>メーデー連休(1)イミテーションゴールドからアイアンへ

  日本もゴールデンウィークに突入ですね。「4月29日から12連休」という足跡コメントを見て、うらやましく思っております。皆様楽しい行楽の毎日をおすごしのことでしょうね。ああ、うらやましい。
 
 中国は、5月1日のメーデーから金、土、日の三連休です。2007年は、4月末の土日に授業をして、その代休をメーデー休暇に続けてとって5連休にするという裏技ゴールデンウィークでした。土曜日日曜日にも授業をしなければならなかった学生達は「日本はゴールデンウィークですが、中国はほんとうのゴールデンウィークではありません。イミテーションゴールドです」と言っていました。そして2009年は、イミテーションゴールドにもならない、働き過ぎ鉄人のアイアン(鉄)休暇、三連休。

 それでもめったにない三連休ですから、同僚の先生方は、それぞれ旅行にでかけました。が、私は5月9日締め切りの論文を仕上げねばならず、どこにも行かずに部屋に缶詰です。論文が仕上がったら、ちょっとは遊びたいです。

 当地も、今週になってようやく暖かくなり、やっとコートを脱ぎました。5月に入ると、一気に半袖シャツ。
 半袖で歩けるようになると、夕方の行動が自由になります。北にある当地は、寒くてもすでに夜は7時すぎまで明るい。5月6月7月は、8時くらいまでは暗くならないですから、5時半に仕事を終えたあとの外歩きができます。当地は治安がよいので、くらくなったあとの外歩きも、他のアジアの国のように「暗くなったら、女性の一人歩き厳禁」という土地ではないのですが、それでも、安全対策は外国暮らしの基本ですから、私は暗くなったら近所の繁華街やスーパー以外のところにはでかけないようにしていました。

 これからは、行き先がどこなのか知らないバス(市内1元、郊外2~5元)に終点まで乗って、終点で夕ご飯を食べ、また同じバスに乗って帰ってくる、という「1元バスツアー」を始めたいと思っています。

 ぜんぜん中国語できないおばちゃんが、簡体字の菜単(メニュー)を見て四苦八苦で注文するようすを、おもしろがる店の人たち。それらの町の人々を観察するのは、楽しいです。だいたいどこへでかけても、「南方人(ナンファンレン)か」とか「韓国人(ハングォレン)か」と、聞かれます。日本人など見かけないところへ行くので。

 今回の赴任では、中国語を覚えようという気がまったくおきません。話は筆談で、あとは、「これ」「いくら」「ください」などのカタコト中国語で生活するのに慣れてしまって、とりあえず不自由していないってこともあるし、今回は中国語を勉強する時間さえ取れない一日中、仕事だけの日々でした。
 まずは、労働者の日、メーデーには、日頃の労働の疲れをとって、ゆっくりと休んだり、買い物したりしましょう。

<つづく>
07:21 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年05月02日


ニーハオ春庭「浅き夢みし酔ひもせす」
2009/05/02
ニーハオ春庭中国日記2009>メーデー連休(2)浅き夢みし酔ひもせす

 ゴールデンウィーク、楽しんでいますか。ああ、うらやましい。
 「外国人専門家宿舎」の同僚たちはみな旅行中。ひとり宿舎に残り、食堂のランチをテイクアウト(打包ダーパオ)している春庭です。休暇中も宿題の添削をつづけている働く春庭。

 今週の「日本語文型」の新しい表現のひとつは、「~がる」でした。感情感覚・心的状態を表す形容詞、たとえば、「うらやましい」は、「私は日本のゴールデンウィークがうらやましい」と言えるけれど、「彼は日本のゴールデンウィークがうらやましい」と言うことができません。(これは、オーソドックス日本語の場合。若い人は平気で言っていますが)
 教科書の文法解説には、「私」以外の第三者を主語とする場合「彼はうらやましがる」と言わなければならない、と書いてあります。「春庭さんは、日本のゴールデンウィークをうらやましがっている」と表現するのが、オーソドックス日本語です。

 でも、学生は、何を学んでも、「日本語って、わけわからん」と感じます。さまざまな質問を出してきます。
 短文作りの練習問題。「母の話では、幼稚園の時、私は犬をーーーーーーーーー」という問題文。後半に「こわい」の形を変えて記入し、文を完成させる問題です。
 ほとんどの学生が「母の話では、幼稚園の時、私は犬をこわかったそうです」とまちがえて書いていました。

 理由は、「彼」「彼女」など三人称のときは「~がる」をつかい、「私」のときは形容詞をそのまま使う、と文法解説に書いてあり、そう教わったから。
 この文で「怖い」という感情の持ち主は「私」。そして、「幼稚園のとき」は過去形になるから「こわかった」と、学生は考えました。

 学生への春庭解説。「こわい」や、他の心的状態の形容詞は、自分自身の現状について言う。その場合の助詞は「が」になる。「犬がこわい」。過去のときは「犬がこわかった」
 「私は犬がこわかった」これは、正しい文。しかし問題文は「犬を~」だから、「犬をこわかった」は、ダメ。
 問題文で「犬」を怖いと思っている主体は、「母の話の中に登場した幼稚園のときの私」だから、三人称として扱う。「現在の私」ではない。そして、「こわがる」の助詞は「を」になるから、「幼稚園の頃の私は、犬を怖がった」になる。

 濁点があるかないかのちがいだけで、「こわかった」「こわがった」の主格が決まり、助詞が変わる。学生達は「ああ、日本語ってややこしい」と言います。
 学生達、「日本語は難しい」と言いながらも、一生懸命宿題をこなし、会話を暗誦しています。そんな学生達に、うれしい三連休。

 私も、日本のゴールデンウィークをうらやましがりつつ、打包(ダーパオ)の昼ご飯を食べています。味気なく?いいえ、どんな食べ物もおいしいです。なにせ食べる以外に楽しみがないので。

 さて、せっかくの連休ですが、論文書きや宿題添削に飽きたからといって、遊びに出かける気にはなれず、昼寝でもして、あさき夢みし、といきますか。それともビールでも飲むか。
 今私が愛飲している中国ビール(啤酒ピージゥ)。「青島啤酒」「雪花啤酒」「哈爾濱啤酒」「銀瀑啤酒」など、日本のビールに比べてアルコール度数が低い。今飲んでいる北京燕京ビール、瓶ビール500mlでアルコール度数は3.6度です。(缶ビールだと2.5度くらい)これで酔うには、10本くらい飲まないと。
 連休とはいえ、中国ビール1本じゃ「酔(ゑ)ひもせす」「ん?」

<おわり>


2009/05/03
ニーハオ春庭>中国食材事情(1)カレー、すき焼き、貝さしみ

 今回の赴任3月以後、私が作った日本食は、味噌汁のみ。味噌はまだ日本から持参したのがあと数回分あります。終わったら、近所の日本食品輸入店で買わなければ。
 あとは、「S&B金牌[ロ加][ロ厘]、特売8元」を使ったカレーライス。(さまざまなスパイスをいれていく本格インドカレーではなく、固形のカレールゥを使うのは、日本国民食であるとみなす)。

 昨夜の夕食。誰もいない宿舎を出て、近所の「[ロ加][ロ厘]工房」という店へ。カレーライス、ハンバーグやステーキ、ピザ、スパゲッティなどがメニューにある店です。中国料理と朝鮮料理以外のものを、とりあえずラインナップしてみました、みたいなメニューで、英語がメニューについている。うなぎの蒲焼き丼とすき焼きがあったので、注文してみました。すき焼きは英語メニューでもSukiyakiです。

 出てきたモノは、、、、
 スキヤキは、完全に「これはすき焼きとは言わぬ」という料理法で、鉄鍋に醤油ベーススープを入れ、唐辛子を数本放り込む。これで、白菜、ほうれん草、しいたけ、春雨、豚肉ちょっぴり、豆腐、をぐつぐつと煮込んだもの。上に缶詰のコーンをトッピング。なぜか、韓国の餅である「トック」が入っている。韓国料理のトッポギとハイブリットしている。ちがうとは思ったけれど、全部食べた。

 鰻丼のほうは。うなぎ(たぶん)の蒸し焼きに日本のとはちょっと違うが、まあそれなりのタレがかかっている。ごはんの上にキャベツの千切り塩漬けが載せられ、その上にウナギが鎮座している。う~ん、キャベツは余分なんだけれど。キャベツだけ食べて、あとは打包。
 すき焼き18元、鰻丼18元にデザートのチョコレートパフェ10元。計46元の夕食。これなら、和食店「プチ北国」の「刺身定食50元」のほうがよかったかも。

 3月以降、私がこれまでの食べた一番高い食材は、カナダ(加拿大)産のバカでかい貝です。ウェイターが「これでいいか」と、テーブルまで食材を持ってきました。赤ちゃんの頭ほどの大きさで、日本では水族館でしか目にしたことがない種類の貝なので、メニューの「168元」という値段を確かめて注文しました。たまには贅沢しないと、と思って。

 最初は刺身が出てきました。醤油の皿がついていて、これにつけて食せ、というので、素直に醤油につけて食べたら、ものすごい量のわさびが入っていて、一口食べてすっ飛び上がって泣きました。サービス満点のつもりで大量に入れたのかもしれないけれど、多ければいいというもんでもない。
 次はしゃぶしゃぶ。これはとてもおいしかった。貝のほか、野菜や肉も入れて食べます。それから、貝スープ仕立ての雑炊。お腹一杯になってきました。

さて、「マイタン=お勘定」という段になって請求書をみてびっくり仰天。貝は500元という値段がついています。ビールやしゃぶしゃぶの肉や野菜と含めて、3人で700元(9500円)というけっこうな値段でした。貝を運んできたウェイターにとっては、自分の月給分と同じ値段です。日本だったら一人分3000円程度の会食はごく普通ですが、中国物価に慣れてしまうと、一人3000円は超贅沢な値段に思えます。

 メニューをもう一度みると、貝は「一斤(500g)168元」なのでした。ばかデカイ貝、ひとつで3斤(1,5kg)あったのです。今回は私のおごりとか言っておきながら、持ち合わせは250元しかなかったので、ワリカンにしてもらいました。もし、貝を注文しなければ、私の持ち合わせ分でおごれる値段でしたが、まあ、おいしかったから、いいか。一人では食べられない量と値段でした。

<つづく>
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2009年05月04日


ニーハオ春庭「四つ足のものは机以外何でも、の話ふたたび」
2009/05/04
ニーハオ春庭>中国食材事情(2)四つ足のものは机以外何でも、の話ふたたび

 「空飛ぶものは飛行機以外何でも食べる、四つ足のものは机以外何でも食べる」と言われるほど食材なんでもアリの中国ですが、火を通していないものは食べない。
 私が食べた貝も、刺身は要注意ですが、あれだけわさびが入っていれば、消毒にはなっていることでしょう。

 では、ここで中国食材クイズ。
 私は中国でこれまでに、サソリの唐揚げ、蚕サナギの唐揚げ、鳩、兎、犬、鶏の足とトサカ、豚の血の煮凝り、など、チャンスがあれば、何でも食べてきました。
 では、問題です。私がまだ食べていないもので、中国で食べることができる食材は次のうちどれでしょう。

(1)蚊 (2)鼠 (3)猿 (4)駱駝のこぶ (5)白鼻芯(ハクビシン)

 正解。全部食材。ただし、野生のハクビシンは数年前のサーズSARS大流行のとき、サーズウィルスの感染源の疑いが出て、捕獲が禁止され、市場に出回っていたハクビシンは処分されました。サーズさわぎも収まった今、食材として復活したかどうかは不明ですが、野生動物でなく、食用に飼育された動物は全部食べられると中国人は信じています。

 (2)の鼠も、野生の鼠を捕まえて食べるのではなく、食材として飼育された鼠の、毛がまだ生えていない赤ん坊を食べるのだと聞きました。鼠を食べるというと、「やだぁ」と言う人もいますが、私が「馬の肉の生、馬刺と言います、美味しいです」というと、中国人は、そんなゲテモノ、日本人はよく食べられるね、といいます。生肉なんて信じられないと。長野県では蜂の子が「珍味」となって、おいしく食べられている、と言っても、「ヤダァ」です。

 何を食べるかは、それぞれの食文化であり、自分たちが食べない食材は珍奇に感じられる、というだけの違いです。フランス料理ならエスカルゴ(かたつむり)も蛙肉も食べるのに、中国料理の鼠や朝鮮料理の犬はいやだ、というのは偏見です。

 食の本場広州市では、法律で野生動物の食用を禁じていますが、市場では、堂々と売られているそうです。野生か食用養殖かは不明ですが、朝暗いうちに売り子が市場に運び入れた生きている鼠、朝6時頃には売り切れる人気の食材です。広東人に言わせれば、生きている新鮮なものが一番だそうです。(魚の活け作り感覚?)
 レストランで供するネズミ料理、さまざまな料理方法があるけれど、「紅焼ホンシャオ・肉が赤くみえるくらいに唐辛子その他のスパイスをたっぷりつけて焼いた料理」が一番人気。値段は、一皿40~50元が相場で、結構高いのですって。
 鼠の旺盛な繁殖力が「人にもエネルギーをもたらす」と考えられているのか、薬膳料理にも使われるのだといいます。

 「生の魚を食べるなんて信じられない」という中国人がいると「そんなこと言わずに、一度食べてみればおいしいことがわかるよ」と言っています。私も、機会があれば、鼠料理も食べてみるつもりです。
 
 次回は蚊の料理紹介。

<つづく>
05:53 コメント(2) 編集 ページのトップへ
2009年05月05日


ニーハオ春庭「蚊の目玉のスープ」
2009/05/05
ニーハオ春庭>中国食材事情(3)蚊の目玉のスープ

 さて、今回の食材は、蚊です。「日本と中国の習慣、生活文化の異なる点を書いてきてください」という宿題を出したところ、学生のひとりは「中国では蚊を食べます」と書いてきました。え?蚊?英語のモスキートーのことですか?学生は、にこにこして「はい、中国では食べます。特別な料理です」
 蚊を食べるというのは、学生の説明によると、もともとは雲南省の少数民族料理だったらしい。それが四川料理にとりいれられたのだといいます。
 開高健は、世界食べ歩きの記録『最後の晩餐』に「蚊の目玉のスープ」を紹介しています。開高によると、世界で最たる珍味と言えるのが、四川料理の「蚊の目玉のスープ」
 これは、どんな料理かというと。

 コウモリのたくさんいる洞窟で蚊を食べるコウモリの糞を集め、それを水で洗う。蝙蝠の餌の蚊、眼玉だけは、固いキチン質なので消化されずに残っていて、それを集めてスープ仕立てとする。これが風味よく、コリコリとした食感が絶品だというだというのですが、、、、、

 中国薬膳3千年の伝統によれば、「蚊の目玉」は、漢方薬「夜明砂ヤメイシャ」として昔から薬効ありとされており、この漢方薬を使ったスープを「夜明菜心湯」、「夜明谷精湯」と呼ぶのだそうです。
 漢方薬「夜明砂(ヤメイシャ)」は、漢方薬の中国古典『本草備要』や『血証論』には、薬効が次のように書かれています。

 蝙蝠屎也 食蚊 砂皆蚊眼 故治目疾」『本草備要』、「蝙蝠食蚊而眼不化 其屎為夜明砂」『醫方集解』、「夜明砂 是蚊被蝙蝠食後所化之糞 蚊食人血 蝙蝠食蚊 故糞能去血」『血証論』
 日本語訳(春庭の拙訳なので、間違っている部分があるかもしれませんが)
「コウモリが蚊を食べると、糞中に砂のように固い目玉が残る。夜の明かりに見える砂のような目玉は、目の病に薬効がある。また血行に薬効がある」

 蝙蝠の糞の中にある蚊の目玉が風味がよい、というのは、理解できます。世界で一番高価なコーヒー豆、「コピルアック」というインドネシア産のコーヒー豆があります。ルアック(イタチ・狸に近い動物)がコーヒー豆を食べる。ルアックの糞を集め、消化されずに糞の中に残っていた豆を洗って使う。ルアックの体内で半ば発酵した豆は、特別な風味があるとされ、たいへん貴重品です。私はコピルアックを一回しか飲んだことがありません。

 蚊の目玉も、蝙蝠の体を通過することで、特別な風味をもつだろうと想像されます。辛いモノが苦手な私、日頃は町中の四川料理店にはあまり入ることがないのですが、機会があって、メニューに「夜明砂湯」があったら、注文してみます。高そうですね。

 今のところ食べるしか楽しみがないので、連日食べ物の話を続けています。
 昼ご飯は、大学職員食堂(大学から食券を無料でもらっている)で食べるか、宿舎食堂のランチ打包(ダーパオ=テイクアウト)です。宿舎のランチは、一食6元(90円)で、主食は米飯か蒸しパン(饅頭マントウ)かを選ぶ。おかず3品のうち、一品は肉か魚の料理。二品は野菜料理。家常菜と呼ばれている東北地方家庭料理です。

 ピーマン(青椒チンジャオ)と茄子(チエズ)ジャガイモ(土豆)を炒めた「地三鮮」、ジャガイモを糸のように細く千切りにしたものとセロリの炒め物、卵とトマトの炒め物などが私のお気に入り。卵は高いので、ごちそう食材になります。私は蚊の目玉より、鶏の玉子のほうが食べたい。
 次回は卵について。

<つづく>
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2009年05月06日


ニーハオ春庭「生麦生米生卵」
2009/05/06
ニーハオ春庭>中国食材事情(4)生麦生米生卵

 5月5日こどもの日、皆様は祝日を楽しくお過ごしになったことと存じます。春庭、4日も5日も6日も仕事です。
 日本の空には鯉のぼりが泳いでいることでしょう。授業でも、鯉のぼりの写真を見せて、日本の風習として紹介しました。
 こどもの日の思い出。三人姉妹の家なのに、幼い妹は鯉のぼりを欲しがりました。父が小さ目の鯉のぼりを買ってきて、毎年庭の洗濯物干しの柱の上に飾ってくれました。「鯉じゃないよ、鰯だよ」なんて笑いながらこどもの日をすごしたころを思い出します。

 中国では旧暦の端午の節句を祝います。6月はじめに「端午節」としてお祝いし、三連休になります。端午の節句には、粽(ちまき)を家族そろって食べるならわし。日本の中華ちまきは、中に豚肉などを入れてある肉粽が多いですが、中国粽は、何もいれずに、餅米にほんのり甘みをつけているのが基本です。どの家にも「我が家のチマキ」があり、みな「うちのおかあさんの粽が一番」と思っています。

 子供のころの「我が家の味」の思い出。朝ご飯は何と言っても「生卵かけご飯」です。
 子供の頃、我が家の庭では鶏を飼っていて、毎朝、産みたてのまだあたたかい卵をご飯にかけて食べていました。母がフスマ、刻んだ野菜やトウモロコシなど天然自然のエサを与えていました。抗生物質をエサにまぜるような現代の卵とは大違いの新鮮な卵、今思えば、最高の「ぜいたく朝ご飯」だったのだと思い起こします。毎朝「また卵?」なんて文句言っていたのは、罰当たりなことでした。
 母が鶏を飼っていたのは、当時は卵が高くて我が家の経済では毎日なんて買えなかったから。毎朝食べるには、鶏を飼うのが一番。10羽くらいいたので、家族5人分は産み立てが食べられました。

 中国人学生が私の話をきいて「信じられな~い」と言った食べ物の話。日本事情クイズのひとつとして出題した卵の自動販売機について。
 「自動販売機は、どこにでもあります」という教科書にのっている例文の解説に、ずらりと並んだ自動販売機の写真をパワーポイントスライドで見せて、「日本には、自動販売機がどこにでもあります。富士山の頂上にもあります。自動販売機では、何でも売っています。ではクイズ。」
 
 クイズ日本事情:日本では自動販売機で卵が買えます。○?×?

 日本の自動販売機普及は、世界でも珍しい光景です。とにかく何でも自動販売機で売っている。私の東京の住まいの近くには、卵の自動販売機があったと話し、「産地直送の生卵なので、スーパーで買うより新鮮」と話すと、みな信じられない、という顔をします。「日本の卵は、新鮮なら生で食べることができる」という話も、半信半疑で受け止められます。
 「生卵をご飯にかけて食べるのが、子供の頃の私の毎日の朝ご飯でした」と話したのですが、そんな食べ方があるとは「信じられな~い」なのです。
 朝鮮料理のビビンバの上に生卵がのせられて出てきますが、器が熱々の鉄で、かき混ぜて熱を通すので、卵は煮えてしまいます。ご飯茶碗に生の卵を入れてそのまま食べるという食べ方は、「蚊の目玉を食べる」と聞いたのと同じくらい、奇妙な食べ方に思えるみたい。

 中国で、生卵は食べてはいけません。卵の衛生管理が行き届いていない場合があるので、賞味期限が切れていないとしても、生で食べることは厳禁。2007年の赴任時、チュンツォン先生は韓国料理屋で食事し、ビビンバの上に乗っていた生卵にあたって入院しました。

 卵は、1個1元くらいのものは、高いほう。もっと安いのもあります。私は8個で6元というのを購入。1個1元(15円)という値段は、中国食品物価にすると高いです。高いものでも必ず火をとおす。というか、中国では、火を通して熱々を食べるのが食事であって、生の魚などは食べる人がいません。都会の高級和食店では、刺身がメニューにありますが、一般の人は食べません。熱々でない料理はおいしいと感じないのです。刺身がコースにあるとしたら、涼菜(前菜)扱いで、メインディッシュにはならないでしょう。

 毎朝の卵に文句を言ってもバチに当たったことはなかったけれど、チュンツォン先生のように生卵にあたるような目にもあいたくないと願いつつ、中国食生活を楽しみたいと思います。

<つづく>
04:31 コメント(6) 編集 ページのトップへ
2009年05月07日


ニーハオ春庭「猿脳」
2009/05/07
ニーハオ春庭>中国食材事情(5)猿脳

投稿者:w******* 2009-05-05 20:30
蚊の目玉はともかく、猿の目玉でも出てきたらどうします?
スープの中からジッと睨む目を食べられますか?

 という、コメントをいただきました。中国ではむろん、スープの中から見つめる猿の目玉をにらみ返しつつ、おいしくスープをすするのです。私はたぶん、にらめっこに負けてしまうだろうけれど、猿の目玉ごときに負けていては、中国食生活はまっとうできません。本日は、猿の頭の料理について。

 「食は広州にあり」とも言われ、広州の「何でも食べる」は、中国でも有名。猿の脳みそ料理も、広州料理では「高級食材」として知られています。猿脳は、中国南方、ベトナム、台湾では、薬膳食材です。
 19世紀に、清の張海漚 (チャンハイオウZhang Hai Ou) によって著された『曼陀羅軒話』には、中国中の様々な地域の漢方薬や食材について記されています。16世紀に中国全土を旅した将軍によって記述されたものを転記した記述のなかに、将軍が出席した祝宴で生きた猿脳が供される描写があるんですって。(漢文を直接読んだわけじゃありませんので、あくまで伝聞)

 この話は後代に伝わり、だれもそれを食べたことも食べるところを見たこともないのに、「生きた猿の脳味噌料理」として有名になっているのです。
 「生きた猿をテーブルの下にくくりつける。穴をあけたテーブルから頭だけが出ている。頭蓋骨を割って、新鮮な脳に酒を混ぜて食べる」という食べ方が、「だれも見たことないのに、ほんとうのこととして信じられている」話のひとつになっています。

 う~ん、信じがたいが。机以外の四つ足、何でも食べるのですから、ほんとうなのかもしれません。私にはウェ~と感じられる食べ方ですが、「日本では、馬の肉を生で食べる」と言うと、「ウェ~」と、気味悪がられるので、どっちもどっちです。

 私が牛の脳みそ料理を食べたのは、遙か昔、30年前のケニア東海岸でのことでした。モンバサという海岸の町へ遊びにいき、イスラム料理の店に行って注文しました。いとこのミチコや夫もいっしょにいたのですが、同じ料理を注文したのだったと思います。豆腐のようなフワフワした食感で、おいしく食べました。現代ではメニューにあっても、牛の脳はBSEを警戒するから、猿脳よりも食べるには勇気がいるかも。

 牛脳は食べられましたが、マサイ族の家に行ったとき、牛の血に薬草を入れてかき混ぜたものを「体にいいから」とすすめられたときは、「仏教徒だから、血は飲めない。これは宗教上の理由なので、しかたがない」とか言って、断ってしまいました。エセ仏教徒、どんな肉でも食べているのに、生血だけはだめでした。薬草をまぜて、風味よくしてあるというのですが、、、。もう一度マサイ族の家にいくチャンスがあったら、今度こそ。

 今回の中国滞在で、同僚に高級料理店でおごってもらい、豚の血の煮凝りを食べました。やみつきになるというほどではなかったけれど、おいしかった。ヨーロッパでも血を腸詰めにしたおいしいソーセージが何種類もあります。
 食材、火を通してあればとりあえず何でも食べられる。

 アジアのある地方では、特大サイズのゴキブリ(の一種だろうと思う)を唐揚げにして、ぱりぱりとスナック菓子のようにおつまみにするというし、何をどう食べるのか、ということは、その地域の食文化なので、私としては、地元で食べられている食材は何でも食べてみたいとは思っています。

 さて、16世紀の中国将軍が賞味したという「猿の脳」を供されたら、、、、、、
 う~ん、やっぱり「仏教徒なので、これはちょっと、、、」とか言うかもしれません。「ノウ・サンキュウ」
 エヘヘ、今回のシリーズのオチは基本的オヤジギャグ。

<おわり>


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ニーハオ春庭中国日記「円明園の話&食べ物の話」

2011-05-15 11:12:00 | 日記
2009/03/23 
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(1)円明園のネズミウサギどろぼう

 貧富の差が大きくなるに連れ、泥棒も増えています。昔は窓を開け放しで出かけることもできた専家楼(大学外国人専門家宿舎)ですが、今回、支配人さんから入り口ドアと各室の窓を確実に施錠するよう固く言い渡されました。

 バスの中ではバックをしっかり胸にかかえること。道を歩くときショルダーバックのベルトは肩にかけるのではなく、首を入れて斜めにかけ、バックを手でおさえること。海外生活の基本です。
 2007年に、大連でひったくりにあい被害届を出しましたが、旅行保険でも現金の補償はしてもらえません。バッグと財布と、財布の中に入れておいたアクセサリーの分が旅行保険で補償されました。

 現在の中国は貧富の階層差が大きくて、スーパーの店の前には物乞いもいます。一方、豪邸をぽんと建てて高級車を乗り回す人たちもいます。
 世界のお金持ちのなかでも、最近話題になった人がいます。サンローランコレクションを競り落とした中国人富豪のこと。

 北京オリンピック後に中国関連の話題が世界的なニュースになったひとつといえば、サンローランコレクションのオークション落札の話題でしょう。
 イヴ・サンローラン(フランスのモードデザイナー)の遺産、競売で売れた美術品だけでも463億円。マチスの絵「黄水仙と青・ピンクの敷物」が1枚で38億円。
 春庭は、「モリスデザインのクッションがひとつ6000円もするから買えない」ってときは、しみじみ貧乏が身につまされたのですが、400億円となると頭が金額についていかず、貧乏をひがんでいる余裕もなく腹も立たない。とはいえ中国政府は腹を立てています。

 オークションに出された「十二支ブロンズ像ウサギとネズミの頭部像」は、北京の円明園から英仏連合軍が略奪した品だからです。牛、猿、虎、猪、馬の5体は中国政府がとりもどしていますが、竜、蛇、羊、鶏、犬の5体は今も行方不明で所在があきらかではありません。

 円明園からの略奪美術品のうち、サンローランのコレクションに含まれていたネズミとウサギの頭部像について、中国側は「盗まれた文化財は国際法で返還が義務づけられている」と主張しましたが、フランス裁判所は「このネズミとウサギ頭部像は、きちんとした売買履歴を持ち、正当な所有者による出品である、という判断で競売を認める判決を下しました。

 新華社通信が3月2日付けで報じたところによると。ウサギ&ネズミ頭像を電話参加で競り落としたのは中国人富豪。落札者は「支払い(日本円で34億円)は拒否。ブロンズ像は中国に返還されるべきなのでオークションに参加した」という声明を出したそうです。
 円明園泥棒の一件。「盗まれた文化財は国際法で返還要求できる」というほうも、どうやら100年200年たつと時効みたい。時効ということにしないと、大英博物館など展示品がほとんどなくなってしまう。

 支払い期日がすぎたら落札者の権利は消える契約でしょうから、もう一度オークションをやり直すことになるのでしょうか。私のひったくり被害は保険でカバーできましたが、円明園泥棒の後始末は処理が長引きそうです。

<つづく>
00:01 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年03月24日


ニーハオ春庭略品博物館」
2009/03/24 
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(2)略奪品博物館

 150年前、ウイリアム・モリスは、結婚の翌年1861年にモリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などの制作販売をはじめました。「苺どろぼう」と名付けられたデザインの壁紙やカーテンなどは、大人気商品となりました。150年たっても、同じデザインの商品がスカーフやブックカバーになって売られています。

 イギリスでモリスのアーツ&クラフツ製品が売れ出したころ、中国は1842年のアヘン戦争後のドサクサ時代。清朝末期の混乱の中、円明園は1860年に英仏連合軍によって焼き討ちされ、円明園内の大量の美術品が略奪され国外へ流出しました。私は1994年に北京に滞在したとき遺跡公園としてにぎわっている円明園を訪れ、往時をしのびました。中国政府は国の遺産として一部の復元を決めています。略奪された美術品の回収をはかり、返還要求や買い戻し活動をしているところです。

 モリスの代表作「苺どろぼう」は、小鳥がイチゴをついばんでいる美しいデザインです。このパテント、モリスの死後誰が管理しているのでしょうか。著作権は死後50年、意匠権は20年保護されますが、モリスが亡くなって113年も経っていますから、使いたい放題?使ったもん勝ち。モリスの「苺どろぼう」は150年たっても、私たちの生活に美しいデザインを与えてくれているのですが、各地の略奪美術品に関わる問題は、解決がむずかしい。

 略奪された世界遺産、大英博物館など各地で保存されています。大英博物館からエジプトの博物館へ返還されたものなどもあります。エジプトできちんと管理され、公開されていくのなら、返還は妥当なことだと思います。
 略奪の運命にあった各地のお宝、その後の運命はさまざまです。世界の文化遺産を博物館で保存していなかったら、はたしてきちんと保全していくことができるのかという微妙な問題もあります。タリバーンによって破壊されてしまったバーミヤン渓谷の磨崖仏像の悲惨を思うと、現地に残したからと言ってそれが最善の方法とも思えないのです。

 バーミヤン磨崖仏像、崖を削るのはたいへんだから、そのまま現地に残されました。運び出せる大きさの仏像は、バーミヤン渓谷から国外へ流出したものも多い。発掘者がそのまま持ち帰って各国に残したものもある。東京国立博物館の東洋館などに展示されているバーミヤン仏像の中にも、きちんとした購入記録がある品だけでなく、来歴不明のものもあります。でも、これらの仏像がタリバーンの地に残されていたら「すべての偶像を否定する。仏像は壊されなければならない」と考えるイスラム原理主義タリバーンによって破壊されていたかもしれません。

 購入記録や来歴の残されていない略奪品と思われる品は、本国できちんとした管理がなされることを確認して返還されるべきだと思いますけれど、国家による国宝の保全は、とても難しい問題です。政情安定していない国では、しばしば政変やクーデターがおこり、前代の遺産は略奪散逸するからです。

 国立科学博物館チームがアフリカで恐竜化石の発掘作業をしたときのこと。発掘者側が半分を持ち帰ってよいと許可されて日本に化石を持ち帰ったのに、為政者が変わったら約束が反故にされ、全部返せといわれました。出土地の国の要求に従って貴重な化石資料を返却したところ、その国の政変後にはすべて資料が散逸し、せっかくの恐竜化石が未研究のまま消えてしまいました。科博にあったレプリカが唯一の研究材料になった、ということを下記のコラムに書きました。
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/d424#comment

<つづく>

06:09 コメント(3) 編集 ページのトップへ
2009年03月25日


ニーハオ春庭「紫禁城どろぼう」
2009/03/25 
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(3)紫禁城どろぼう

 北京の故宮博物館は、建物(紫禁城)は残されていますが、中にあった100万点以上の宝物は、蒋介石の大陸脱出時にほとんどが台北に持ち出されました。宝物の多くが流入したはずの台湾。台北の故宮博物館に飾ってあるのはレプリカが多いそうです。「本物はいつのまにか流出し、政治資金や宋美齢(蒋介石夫人1893-1981)のドレスやアクセサリーに化けてしまった」と、ツアーの台湾人ガイドさんから聞きました。

 レプリカ説は台北雀のおしゃべり噂にすぎないのでしょうが、案外真実をついているのかもしれないとも感じます。台北の本省人の中には、蒋介石を恨んでいる人もいるので、蒋介石憎ければ宋美齢のドレスも憎いのでしょう。蒋介石ら外省人(大陸系台湾人・大陸から国共内戦前後に移住してきた人々)と内省人(もともと台湾に移住していた中国人)の対立は最近は緩和してきましたが、まだまだ、外省人が権力武力を楯に本省人を迫害したことを恨みに感じている人もいる。宋美麗の華麗なファッションに悪口を言いたい、という気持ちはわかります。

 北京政府は、中国から流出した美術品の回収を行っていますが、紫禁城や円明園から流出した膨大なお宝は、行方のわからないもののほうが多いでしょう。北京の故宮博物館で皇帝の衣装や西太后(1835-1908)のアクセサリーなどの展示を見た覚えがあります。本物だったのかどうかはさだかではありません。

 豪奢な副葬品がぎっしりあったという西太后(1835-1908)のお墓。西太后は清朝末期に絶大な権力をふるった皇太后です。もともとは身分が低い妃でしたが、咸豊帝の嫡男を出産したことから、皇后(東太后)を圧倒する権力をにぎりました。夫の死後幼い息子を帝位につけ権力を手にし、日清戦争や義和団事件前後の清朝政治に関与しました。西太后の辣腕によってかろうじて保たれていた清朝は、西太后の甥、溥儀を最後の皇帝として滅亡しました。清朝の最後の威厳を示す葬儀は盛大で、お墓の副葬品も豪奢なものでした。

 清朝滅亡した後に、西太后のお墓はたちまち盗掘でカラッポになってしまいました。内乱が続いた時代でしたから、お墓を守る人もいなくなってしまったのでしょう。
 西太后のお墓を紹介している『天津イガ栗』というサイトによると、「副葬品の宝物は、蒋介石の国民党軍が全部略奪した」と、説明が書いてあるそうです。共産党政府としては盗掘はすべて国民党の仕業、とするのが「政治的に正しい言説」になるのだろうと思います。
http://igaguri.sakura.ne.jp/kanko/sintoryo.html

 光緒帝(西太后の甥、ラストエンペラー溥儀の従兄1874-1908)は、3歳で即位してから30年間は西太后の傀儡皇帝でしたが、しだいに傀儡であることにあきたらぬ思いをもつようになりました。自立した権力を持つ皇帝になろうとしたため、それを察知した西太后が毒殺したのではないか、と言われてきましたが、病死説と毒殺説の両方が出て100年、どちらとも決着がついていませんでした。思いがけず死因が判明したのは、盗掘で何も残されていないとされたお棺に残されていたわずかな髪の数本の分析によるそうです。

<つづく>
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2009年03月26日


ニーハオ春庭「墓盗人」
2009/03/26 
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(4)墓盗人

 光緒帝の恵陵は、1938年に盗掘され、皇帝と皇后のお棺の中はからっぽにされてしまいました。
 砒素中毒という死因が発表されたのは、1980年代に国家文物部門が再調査した際に、からっぽだったお棺に光緒帝の遺骨と遺髪が残留していたのが発見され、2003~2008年に分析結果が出たことによります。
 「光緒帝は遺髪分析により急性砒素中毒した」という死因が報じられています。中国ニュース通信社による記事は下記URLに。
http://www.recordchina.co.jp/group/g13391.html

 包振遠(北京市公安局(警察)調査研究員)が、2008年5月発行の歴史専門誌「近代史研究」に「清末の光緒帝の死因はヒ素中毒だった」との論文を発表したことに対し、北京市公安局刑事捜査総隊政治処と北京市公安局法医学検査実験鑑定センターは、包振遠氏は調査に加わっていない、包氏が持ち出したデータには改竄が加えられていると発表しました。包氏はこの発表に対して名誉毀損訴訟を起こしており、砒素中毒死説の真偽をめぐって決着がつくのはまだ先になりそうです。

 いずれにせよ、毒を盛ったと噂される西太后も盛られたほうの光緒帝も、墓のなかでは等しく丸裸にされてしまった、、、、
 静かに永遠の眠りにつくには、墓のなかに骨しか残らない庶民のほうがいいのか。いや散骨して骨ものこさないほうがさらに安眠できるかも。

 西太后(1835-1908)と同じ時代に生きた人、14代徳川将軍の正室となった静寛院宮/和宮親子(かずのみやちかこ1846-1877)がお墓の中に持ち込んだ物は、愛する夫の写真でした。
 増上寺墓地改装の際、徳川歴代の墓地が改められ、和宮のお墓にも調査が入りました。143cmの遺骸の胸に直垂姿をした若い男性の写真乾板が胸に抱かれていました。
 日にあたったその写真は翌日には薄れて見えなくなってしまい、だれの写真だったのかわからなくなってしまいました。公武合体という政略結婚であったにもかかわらず、親密な夫婦の愛情を育んだと言われている徳川家茂の写真であったという説に一票。
 家茂の写真を盗んだのは、日光だともいえますが、保存法を考えずに乾板写真を日光にさらしてしまった調査団一行。

 幕末の歴史も現在さまざまな資料が発掘され、日本の近代史に新たな光が当たっています。
 私は日本と諸外国の交流史のうち、ことばの交流史に興味をもっています。古代の漢字流入と漢字をもとにする仮名表記の成立、日本語への外来語の流入過程などです。
 2008年に語彙論を1本まとめました。外来語「ミシン」の日本語語彙への定着の過程を記した論文です。明治時代、ほとんどの英語単語は翻訳されて和製漢字語となりました。
 A steam locomotiveは蒸気機関車と翻訳され、Postal servicesは郵便制度と翻訳されたのに、なぜ、ミシンは縫製機や裁縫機という翻訳語が普及しなかったのか、について考察した論文です。春庭、カフェ日記にエッセイを書いているだけじゃなくて、ちゃんと日本語研究もしているんです。

 最初にミシンを使った人と言われているのが天璋院(1836-1883)です。ミシン論を書く中で、ハリスの献上品というミシンが、幕末から明治へと移り変わる際にどのような運命をたどったのか調べたのですが、ミシンの行く末について記された文献は見つかりませんでした。天璋院は1863(文久3)年の大奥の火事で焼け出され、このとき、おもだった大奥女中たちを退職させています。おそらくは火事の際、重いミシンは運び出せずに焼けてしまったのではないか、と推測されるのですが、真相はわかりません。

 天璋院が江戸城を立ち去るとき、身の回りの品以外は持ち出しを禁止し、すべてを江戸城に残したと伝えられています。徳川将軍の書籍コレクションである紅葉山文庫の所蔵品は、国立文書館にそっくり保存され、われわれ国民が閲覧できます。政変に際しても略奪者や墓盗人が出なかったのは、歴史を伝える上で喜ばしいことです。

 中国書籍は、政変のたびに散逸消滅して中国本国には残されていないものも多い。宋代・明代・清代の貴重な書籍のうち、紅葉山文庫にだけ残された書物もあります。代々の将軍が中国書籍の輸入をはかり、保存したおかげです。鎖国政策をとって他藩が中国や西欧から新しい知識や文物を輸入できないようにしたのは、輸入品を幕府が独占し、新しい知識文物を将軍の権威を高めるための道具としたからと言えますが、輸入書をはじめ将軍家の宝物の多くがそのまま保全されたこと、文化的文物の保存について考えさせられる事例です。

<つづく>
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2009年03月27日


ニーハオ春庭「サンローランの水着」
2009/03/27 
ニーハオ春庭中国通信>苺どろぼう(5)サンローランの水着

 千年前の正倉院宝物がそっくり残されている日本は、世界でも稀な例といえるでしょう。
 たとえば、フランスではマリーアントワネットの衣装やアクセサリーのコレクションなどはたちまち散逸しました。だれが、どうやって手に入れて売りにだされたのか知りませんが、マリーアントワネット所有物は、ときどきオークションに登場します。
 チャールズ英国皇太子が、離婚前のダイアナさんにプレゼントとして贈った品のひとつも、「マリーアントワネット愛用の天蓋つきベッド」でした。

 ルイ16世は、ベッドの中であまり王妃と親密ではなかったと歴史は伝えていますし、マリーアントワネットもルイ16世もギロチンに消えたことを思うと、不吉なプレゼントだったのかもしれません。ダイアナさんは、離婚後に謎の交通事故死。あのベッドは今どうなっているのかしら。

 フランスの法律についてはよくわからないけれど、円明園から運び出されたウサギとネズミ頭像は、サンローランコレクションのオークションで2800万ユーロ、34億円で落札。

 20世紀後半のファッション史に大きな足跡残したサンローランの衣装。
 ピエール・ベルジュさん、イヴのモード資料が散逸しないように、しっかり保存してくださいね。オークションで436億円も売り上げた分、一部をゲイ団体に寄付するということですが、サンローラン博物館の維持管理もしっかりとお願いします。

 イブ・サンローラン博物館、パリ市内にあります。
 サンローランは現役時代、服飾デザインのアトリエを構え、数々の作品を生み出しました。2002年に引退した後、このアトリエはサンローランの作品をはじめとするファッションや芸術、美術作品などを展示するモードの博物館となりました。イブ・サンローランがこれまでに発表したオートクチュール・コレクションの代表作、デッサン、デザイン画、型紙、アクセサリーなど、貴重な記録が特別保管室に保存されています。

 サンローランコレクションの出品者ピエール・ベルジュは、サンローラン社の元会長で、イヴ・サンローランの公私にわたる長年のパートナーでした。ピエールは、二人三脚でサンローランのデザインを世界的なモードにし、ふたりして50年にわたって美術品を収集してきました。

 イヴが2008年6月に亡くなり、ピエール・ベルジュは相続した美術品のほとんどをクリスティオークションで売り払うことにしました。オークション収益金の一部はゲイ・コミュニティーに贈られるほか、エイズ研究などに寄付されるそうです。一部ってどれくらい?あのぅ、日本の貧乏な教師に贈られる分なんて、ないでしょうね。ほんの一部でいいんだけれど。ぱちもんYSLロゴのスカーフでも買いますから。

 値段のことばかり言ってなんですけれど、中国製のバスタオル、近所のスーパーで30元(450円)ほどで売っています。日本のデパートで、サンローランロゴがついていれば、バスタオル1枚で3000~5000円。むろん、私は日本でも中国でも中国製を愛用しています。安物はそれなりで、品質のよいものは少ないけれど。
 たった一枚、私のタンスの中にあるYSLロゴのついているものといえば、姉からもらった水着のみ。近頃はプールに行くこともないので、タンスの奥深く保存され、散逸することも略奪されることもないでしょう。

 さて、タオルは間に合っているとして、果物を仕入れに市場へ行ってみましょう。果物が安い近所の青果市場に出ている苺を買うときの注意。農産物は日本に比べて格安とはいえ、うまさ甘みはそのときどきで変わります、苺が山に盛られている中から一個だけ、つまみ食いして、甘さを確かめてから買いましょう。甘くなかったら買うのをやめるけど、そうなると苺ひとつぶ、苺どろぼう?1個なら試食を許してくれるかしら。
 薄給の貧乏教師だけれど、略奪などせずにきちんと買い物をして中国生活を過ごすつもりです。

 薄給なので、衣料品はまだ何も買っていません。例年女性教師たちは当地でチャイナドレス(旗包チーパオ)を誂えるのですが、チーパオは、すらりとした人でないと着こなすのが難しい。私が着るとビヤ樽にチーパオ。はい、ご想像の通り、どんどん太っています。26日夜は、近所の「東方餃子王」という有名チェーン店へ行きました。おいしい焼き餃子水餃子をお腹一杯食べて16元(250円)ほどでした。タンスの奥のサンローラン水着、帰国したらこの身が入らなくなっているかも。 

<おわり>
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2009年03月28日


ニーハオ春庭「食べ歩き」
2009/03/28 
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(1)食べ歩き

 中国生活、最初の第1週は、当地の気候と生活に慣れること、第2週は授業が開始され、授業のリズムに慣れること、これだけでせいいっぱいでした。
 宿舎と大学の間を往復するだけ。近所のスーパーと大学内の学生用スーパーで必需品を買い物するだけ。

 中国にきても、春庭のショッピングは日本と同じく、「安物買いの銭失い」です。
 失敗の買い物第一号お茶ボトル。空気が乾燥していてのどが渇くので、人々はお茶のボトルを持ち歩いています。日本の百円ショップで売っているようなプラスチックの水筒は7~10元(100~150円)です。ステンレスの保温ボトルは30~50元。ぐっと割高になります。
 大学内の店にあったステンレスボトル、15元だったので、「お、これはお買い得品、でもほかの品は30元なのに、どうしてこれだけ15元なんだろう」と思いつつ買いました。

 お茶を入れて教室に持っていきました。飲んでみると、猫舌の私にちょうどいい冷め具合。保温がきかない保温ボトルだった。欠陥商品について、なんの説明もなくほかの商品といっしょの棚に並べておいたら、割引値段だとしても日本なら苦情がいくところですが、中国では、「なぜ、これは値段が安いのか」と質問しないで飛びついた私が悪いということになるのでしょう。猫舌春庭は熱いお茶は苦手だってことで、ま、いいか、という買い物でした。

 なにしろ中国語ができないので。買い物は商品を指さして「これ=チュィガ(東北なまりなので、標準中国語普通話とちょっと発音が違う)」といって、「多少銭ドゥオシャオチェン」これだけですませる。 まだ、市場にもデパートにもでかけていません。歩いていける近所のスーパー、ハンクーロンのほか、市内にはウォルマートやカルフールが出店しているので、もう少し暖かくなったら、ショッピングに出かけてみましょう。

 ご近所食べ歩き、27日夜は、韓国料理の店。まずは定番。石焼きビビンバ、冷麺、サムゲタン、チャプチ(春雨と肉野菜の炒め物)を食べました。東北地方には朝鮮族が多く住んでおり、朝鮮料理の店はもともとたくさんありましたが、経済開放後、韓国資本がどっと入り込み、韓国料理店も市内に増えてきました。韓国料理と朝鮮料理、値段はそれほど変わらないけれど、朝鮮族の人たちに言わせると味付けは微妙に異なるのだそうです。でも、私の舌には、どちらも「マシッソヨ=おいしい」で、違いはわかりません。

 先週の土曜日21日の夕食は、「火鍋」を食べに行きました。同じ留学生教育部で仕事をしている日本人教師の食事会。留学生教育部は、中国に留学している日本人学生への中国語教育、英語圏へ留学する中国人学生への英語教育、日本へ留学する中国人学生への日本語教育を行っている学部です。文科省派遣の私たちは、国費留学生担当です。

 私たち短期文科省派遣教師6人と、大学現地採用組の日本人準教授とその夫人。非常勤講師の若い女性教師ふたりとの「どうぞよろしく」の顔合わせ。この女性ふたりは、私が1996年から2007年まで出講していた大学の卒業生なので、埼玉キャンパスの話など、地元トークができます。

 火鍋は中華風鍋料理です。ひとりひとり個別の鍋にしてもらいました。私は大鍋にみんなが直箸をつっこむ鍋を食べることができないのです。取り箸を用意しておいても、必ずだれかが直箸をつっこむ。お茶の稽古ができなかったのも、ひとつの茶碗を回し飲みすることに耐えられなかったから。これは私のビョーキです。

 大テーブルにひとりずつの前に鍋がおかれ、野菜や肉はテーブル中央の回転部分に大盛りになっているので、ほかの人の箸が触っていないであろう部分をねらって、とります。
 それぞれ豆腐や湯葉、好みの野菜を鍋に入れて煮ながら食べます。煮ながら食べるといっても、猫舌の私はしばらくタレの中につけておいて、さましてから食べる。タレはバイキング方式で様々な味のタレと薬味を自分で選びます。私はごまだれと酢醤油ダレにしました。ビールもいっぱい飲んで、一人50元750円ほど。

 お昼ご飯は、大学職員食堂でセルフサービスのランチ。無料の食券をもらっています。中華おかずが4、5品と、スープ。ご飯と饅頭(マントー=蒸しパン)が並んでいます。
 毎日たくさん食べていて、ちょっと体重も心配になってきたので、そろそろダイエットも考えなければ。それじゃ、ダイエットは来週から。

<つづく>
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2009年03月29日


ニーハオ春庭「停電」
2009/03/29 
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(2)停電

 3月25日木曜日は、午前中いっぱい停電でした。日本でも停電がありますけれど、落雷や送電線の事故で停電になることがニュースとして報道されるくらいの頻度。当地では昔はしばしば電力不足のための停電があったけれど、最近は電力事情も改善された、と喜んでいた矢先、25日には半日間の停電。朝6時から12時まで大学内に電気がつきませんでした。副校長先生の説明では、電力不足なのではなく、大学内電気工事のための停電だったというのですが、日本のように、授業のある平日は電気工事を避けるということはないらしい。

 エレベーターが動かず3階講師室まで階段を上るくらいはダイエットにもなることでかまいませんが、教室内設置のコンピュータシステムが作動しないのはこまりました。教室に自分のパソコンを持っていき、自分ではUSBファイルを見ながら授業ができますが、プロジェクターには投影されません。システムの中にあるCDやビデオも動きませんから、日本でやっているように、黒板に文型を書いたり絵カードを使って文型提示したり、なんとか授業をこなしました。

 学生達は昔と変わらず優秀です。去年の10月にアイウエオの読み方書き方から日本語教育を初めて、実質5ヶ月間日本語を練習してきました。5ヶ月の間に、日本の中学生が3年間の初級英語教育を終えるのと同じほどの能力を獲得しています。ただし、中国の学生は文字にたよるので、読むのは皆じょうずですが、教科書を見ないでする会話や聞き取りが下手です。
 私の授業では、自分で日本語文を産出したりペアで会話をかわす練習を中心にしています。

 27日夜は、1週間の仕事を終え肩こりをほぐすべく「盲人按摩院」へ行ってみました。「盲人按摩院」という大きな看板を掲げた店が1分以内に歩ける範囲で3~4軒もあり、まずは一軒ずつ回ってみて、いちばん相性のよさそうなところを贔屓にしようと思います。
 2週間の疲れをほぐしてもらう全身保健コース、80分で50元でした。2007年には90分40元だったので、値上がりしていることになりますが、まあ、ほかの物価も上がっているので、按摩代も上がっているのは仕方がない。

 仰向けで頭から足へとすすみ、うつぶせになって首から足へ。最後に腰掛けて肩と首筋。揉むというより、ものすごい力で押すやり方で、痛かったけれど、ほかの按摩院でもこういう押し方だったから、これが中国按摩の標準なのかもしれません。「痛いからもっと弱く」と言えないので、そのまま押されていました。

 ほかの場所なら「因為疼所以請使変得更加軟弱」と紙に書いて渡すところですが、残念ながら、盲人按摩院では筆談ができない。
 四声が苦手なので、発音が下手です。「自分が語学下手だと、日本語ができない学生の気持ちがわかる」と、言い訳しつつ、今回も中国語は少しも上達しないでしょう。
 
<つづく>
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2009年03月30日


ニーハオ春庭「中国的咖喱飯」
2009/03/30 
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(3)中国的咖喱飯

 28日の昼ご飯は、仕事でペアを組む中国人先生との食事会。2007年にペアを組んだリー先生と2009年今年のペアのシャ先生。リー先生はご主人と中学生の息子さんの3人家族。シャ先生は30代の独身男性です。博士論文執筆中で、結婚は博士号取得後に考えるそうです。

 日本人教師と中国人教師がペアでクラスを担任し、中国人先生が文法の説明をします。基本的には日本と同じく直接法(ダイレクトメソッド=日本語だけで日本語を教える)で教えることになっていますが、中国語での説明もあります。

 日常会話ならなんとかこなせるようになっている学生もいますが、まだまだ耳が弱く、十分に文の産出ができない学生も多い。私は最初から、「私は日本語とスワヒリ語がわかります。中国語はできませんから、教室では日本語で話してください」と言ってあります。

 学生は、どうしても中国人の先生には中国語で話してしまうので、日本語で質問させることは、会話の訓練になります。
 口は回らないけれど、ほとんどが理工系の学生なので、理屈で理解しないと納得しない学生も多く、いろいろ質問がでます。

 A:「お出かけですか」B:「ええ、ちょっと病院へ」という会話をしたあと、(1)Aが「えっ、どうして病院へいくんですか」と質問するのと、(2)A「えっ、病院へ?どうしたんですか」
とたずねるのでは、どう違うのか、という質問がありました。

 (1)は、病院へ行く理由をたずねています。Bの答えは(1)「風邪をひいたんです」「友達のお見舞いに行くんです」など、なぜ病院へいくのかを答えます。(2)の「どうしたんですか」は、Aの状態、体調をたずねています。自分の体調が悪くないときは「ええ、ちょっと友達が入院しているのでお見舞いに」と、答えるし、体調が悪いときは「ええ、風邪をひいてしまって」など、自分の体調を答えます。

 結果的には同じことを答えることになっても、「どうしてですか」と「どうしたんですか」という質問の内容は異なります。 日本語母語話者は「どうしてですか」と「どうしたんですか」の使い分けを自然に身につけていますが、日本語学習者は、この区別をひとつひとつ覚えなければなりません。

 金持ちで余裕のありそうな友人に借金を申し込んだら相手が断ってきました。金持ちなのに。そういうときは「え、どうして貸してくれないんですか」と質問します。
 「どうしたんですか」とたずねるときは、相手の状態をたずねています。相手がいつも快く金を貸してくれていたこれまでの経緯があり、金を貸してくれないってことは、よほど相手の経済状態が悪くなったのだろうという推測をした場合に「え、どうしたんですか」「どうかしたんですか」などと質問できる。単純に金を貸してくれない理由をきくときは「どうしたんですか」とは聞けない。

 文法説明や表現の微妙なちがいを解説するのも日本語教師の仕事ですが、初級のうちは「理屈はいいから、とにかく覚えないと先に進まない」という状況もあります。

 中国人先生とペアを組んで、中国語で説明したほうがさっさと理解してもらえることは説明をしてもらって、私たち日本人教師は、できるかぎり実際の場面を設定して、現実の会話をしていけるように工夫をしていきます。

 貧乏春庭、早くも半月分の給料が終わりそうです。4月上旬の給料日までに足りなくなったら、ボスが貸してくれると言ってくれました。経済問題は中国でも春庭の最大関心事ですが、なんとか工夫をしています。

 28日土曜日は、カレーライスを作りました。近所のスーパーで普段は10元というカレールーが特売で売られていました。昔は日本式カレーをつくろうとしたら、日本食材店で輸入品の割高なカレールーを買わなければなりませんでしたが、日本式カレールー(SBゴールデンカレー)が「SB金牌咖喱・日式調味[土夬]」として売られています。120g6皿分で8元。ジャガイモ6個4元、タマネギ6個3元にんじん2本2元と肉かたまり500g15元。合計30元450円。

 肉は骨付きの固まりなので、ぐつぐつ茹でておいしいスープもとれました。できあがった半分は冷蔵庫にとりおき、土曜日の夜と日曜日の朝、カレーを食べました。骨付き肉のだしがきいたのか、日本で作るよりおいしくできたと思います。

 どんどん「丸く」なっていく教師を見た学生から「どうしたんですか、その体」ときかれるかもしれません。このときは「どうしてですか、その体」とは聞けない。
 質問に対して、現在の状態を答えなければなりません。「ええ、毎日食べ過ぎて。中華料理もおいしいし、日式咖喱飯もおいしくて、体重がちょっと、、、、」
 「体重がちょっと」どういう状態なのか、ご想像の通り。

<つづく>
06:23 コメント(4) 編集 ページのトップへ
2009年03月31日


ニーハオ春庭「行列のできる店」
2009/03/31 
ニーハオ春庭中国通信>中国的日常生活(4)行列のできる店 

 日本は花冷えとのこと。当地でも30日の帰宅バスは、風花の舞う中を走りました。西の方に沈む夕日が曇り空を通してもわかるのですが、ふわふわした小雪が道に落ちていきます。池や川の氷はほとんど溶けたのですが、まだまだ花には遠い。
 花より団子の春庭。当地でも「花より豆餅」の生活です。今回は行列のできる豆餅店のご紹介。
  
 中国人留学生が日本に来て、最初に感心することがあります。日本の電車ホームの整列乗車です。これまで中国では列をつくる文化があまりなかったので、列を作るお店というのは珍しかった。どんなことでも我先に行おうとする結果、かえって混乱しものごとの遂行が遅くなるのが中国式やりかたで、列を作って粛々と待つ、ということがなかなかできない国民性でした。

 2007年から2年ぶりに中国へ赴任して、驚いたことのひとつ。町に「行列のできる店」ができたこと。近所の人気「緑豆餅店」には、いつ見ても20人くらいが列を作って買っています。昼はいつも行列が途絶えませんが、夜7時すぎると列が5人くらいになるので、そのころをねらって買いにいきます。が、運が悪いとすでに売り切れで買えない。列が少なくてまだ餅が残っている時間を見計らうのが、微妙なタイミングとなります。

 ストレス解消には、食べまくることが何よりという春庭です。今いちばんのお気に入りは、この緑豆餅屋で、緑豆餡と小豆餡が入った焼き餅を買うこと。さめてもおいしいけれど、熱々の焼きたての味は格別です。難点は、薄い餅皮がぼろぼろこぼれること。餅といっても、日本のような米餅ではなく、小麦粉の薄皮餅だからと思います。

 「清宮・緑豆餅」。人民広場にもチェーン店があり、私が買うのは桂林路にある支店。「添加剤、防腐剤無添加」というのがウリで、緑豆と小豆の2種類だけ。あんこを薄い皮で包み、焼いてあります。中国には珍しい「ほんのりした甘さ」で、豆の本来の味が生きている。お菓子といえば何でもメチャ甘なのが中国菓子だと思っていたので、この「ほんのり甘い」に行列があることが、驚きでした。
 食生活も充実して、昔はお正月や結婚式に食べるごちそうだった水餃子を日常的に食べられるようになった中国の人々が「甘くない餡」を求めるようになったのかと思います。

 生活の変化。1994年には、教室の机の上にはコーヒーなどの空き瓶が並んでいました。空き瓶をどこからか手に入れてお茶の葉を入れ、ポットのお湯を入れて飲むのが「教室文化」でした。それが、2007年には「空き瓶のお茶」が教室に1つか2つくらいになり、プラスチックの水筒が机の上に並んでいました。2009年には空き瓶は完全に姿を消し、プラスチックの水筒も少数派。多数派はステンレス保温ボトル。30元~50元するボトルを学生の身分で気軽に買えるようになっていることが、中国経済の急成長をあらわしているように思います。

 昔の学生たち、農村の出身だったりすると、貧乏生活をよく知っていました。
 「使役受け身文」の練習で「こどものころ、野菜がきらいでしたが、母に食べさせられました」という例文があります。この例文を示すために、前提として野菜の好き嫌いを質問することにしています。
 「○○さん、子供の頃、野菜が好きでしたか嫌いでしたか」と質問すると、「先生、私たちが子供の頃、農村は野菜しかおかずがありませんでした。嫌いも好きもなく、野菜だけ食べていました。野菜しかないのですから、野菜を食べさせられる、ではなく、野菜を食べるしかない、でした」という話が学生から出て、みな「うん、うん」とうなずいて教室に笑い声がおきました。

 今教室にいる学生の大半は「ひとりっこ」で、子供の頃から大切に育てられてきた「小皇帝」「小公主」たちです。中国全土から選抜されている優秀な学生たちであることは昔と変わっていませんが、私にとっては「貧乏時代を知っている」人のほうが、つきあいやすい。なにせ春庭は、「結婚以来、どん底貧乏」を続けているので。

 そんな貧乏春庭ですが、今朝もストレス解消のために、朝、起きたら一番に買い置きの緑豆餅を食べました。朝起きたらといっても、午前1時半に目が覚めてしまった。夕べは眠くて8時半に寝てしまいましたから、まあ、睡眠時間は5時間ほどとれているのですが、ストレスが睡眠にあらわれているのかもしれません。1994年には、拘束時間は朝8時から11時半までで、午後は宿舎に帰ってよかったのです。授業準備は自室でおこなうことができました。2007年は、留学生教育部のキャンパスがバスで30分のところに移転しており、7時半の専用通勤バスに乗って17時のバスで帰る生活になりました。

 8時から17時まで拘束時間。そのうち11時半から13時半まで、2時間も昼休みがあるので、中国人先生達は昼寝をしたり、スポーツをしたりします。校舎の4階に職員専用のジムがあり、卓球台、ビリヤード、ベンチプレスなどの筋トレマシーンがあります。
 でも、日本人講師室内では、昼休みの間も皆、授業準備や書き取りテスト、漢字テストの採点などをしており、休むどころではありません。私も授業時間以外は、学校でも家でもパワーポイントの授業スライドを作ることで、全時間を使っています。これじゃ、食べる以外にストレス解消の時間がないのも当然。
 はい、緑豆餅、今朝も食べます。今朝といっても、3月31日、午前2時。うん、ほんのり甘くておいしい。ストレス解消には、緑豆餅をたべるしかない。

<おわり>
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ニーハオ春庭中国日記「出発&中国的経済生活」

2011-05-02 21:58:00 | 日記
2009/03/14 
ぽかぽか春庭九年母日記>いってきま~す
 
 春庭、本年も中国へ赴任いたします。2007年に2度目の中国赴任をしたとき、「中国での教師生活、これが最後になるだろう」と思っていたのですが、思いがけず、3度目の中国生活をすることになりました。15日、中国東北の赴任地に出発します。
 不景気の昨今、文科省も予算削減をしており、講師派遣費を削っているため、前回に比べ派遣期間が短縮されたので、行ったとおもったらすぐに帰国。7月末には帰国します。

 日本国文科省国費留学生として選ばれた中国の若手研究者たち、日本の大学院で博士号をとろうとしている人たちへの日本語教育を担当する仕事です。
 中国の大学院で修士号を取得したたちの中から選抜され、日本の最先端の医学や工学などを学びたいと希望に燃えている若者達。昨年の10月に日本語学習をスタートしています。2月は春節休みなので、実質4ヶ月の学習をしてきた学生です。たった4ヶ月の日本語学習ですが、日本語能力検定4級レベルに達しており、残り4ヶ月で2級レベルをめざします。この日本語教育プログラムは、約10ヶ月の日本語教育だけで、日本の中学校高校6年間で教える英語の分量(英検2級レベル)と同等の日本語を習得するという集中コースです。

 非常に優秀な若者たちへの教育なので、過酷な詰め込み教育が可能です。ほとんどの理工系の学生は英語で博士論文を書くので、日本語学習は日常会話ができる程度でいいのですが、文系の学生、日本語で博士論文を書かなければならない学生には、日本の大学院で研究生活を続けるに足る日本語を文字通りたたき込まなければなりません。

 このプロジェクトに非常勤講師として3度も採用されたのは私ひとりだそうです。事務方の人にも「公用旅券なんか一生に一度も使わない人も多いのに、外務省関係者でもないのに3度も公用旅券を使う人は、記録ですね」と言われました。これって、私に人気があって中国へ行けるみたいでしょ。実をいうと、だれも行きたがらないから、ほいほいと行きたがる私が採用されたのです。

 今回文科省からプロジェクトに参加した講師に振り込まれるお金、文科省の予算が縮小し、かなり目減りしました。私の場合、前期の国立大学授業はお休みしなければなりません。非常勤講師というのは、授業を行ってナンボのパートタイマーですから、減収となります。他の非常勤講師たち、減収を覚悟してまで海外で教えたくないので、私に3度目の赴任の声がかかったのです。ま、私自身が行きたいから行くのであるけれど、、、。

 「単身赴任するかしないか」を、私自身の意志のみで決定できるのも、家族にまったく関与しない夫をもったおかげなのかも。普通の家庭だと、妻の単身赴任を認めてあげるご主人はそう多くないかもしれない、、、、にしても、まったく関心を持たれていない妻ってのもいいんだか悪いんだか。

 通信事情安定するまでお休みします。といっても、中国の通信事情も格段によくなっているので、たぶん、そう間をあけずに「ニーハオ春庭中国通信」を再開できると思います。なにより毎日コラム更新しないと元気がなくなる春庭なので、数日も休むと萎れてくるかも。皆様に読んでいただくことが春庭の元気のモトですから。
では、中国だより「ニーハオ春庭通信」をお楽しみに。2,3日ほどお休みします。

<おわり>
00:21 コメント(15) 編集 ページのトップへ
2009年03月17日


ニーハオ春庭「我買東西ウォーマイドンシー」
2009/03/17 
ニーハオ春庭中国通信>中国的経済生活(1)我買東西マイドンシー生活必需品の買い物

 中国からニーハオ!これから中国に4ヶ月半滞在します。前回2007年にすごした中国とはどんな点が違うかなど、いろいろ感じたいと思っています。町のようす、中国での仕事に関わる話、話題のニュースや中国の文字である漢字についてなど、お伝えしたいと思います。日本と中国の時差は1時間。日本の午前6時は中国では午前5時になります。

 中国生活のスタートは、近所のスーパーでの買い物。1994年にこの地に来たときは、「中国製のトイレットペーパーはごわごわしているし、歯ブラシは毛先がすぐにだめになるから、日本から持っていったほうがよい」などのアドバイスがあり、歯ブラシトイレットペーパーから衣料品まで山ほどの荷物を担いで中国入りしました。

 前回2007年の赴任で、ほとんどの日用品はスーパーで売っている中国製で間に合うことがわかりました。今回は極力荷物を減らし、現地購入できるものは日本から持っていかないことにしました。だいたい、私が日本で使っている衣料品雑貨品食料品の多くが中国製です。

 中国元、16日の中国銀行レートで1元=13.9円。計算しやすくするために1元15円で換算します。まずは、日常生活に必要なものを買いました。2007年に比べると全体的に1割~2割くらいものが高くなっているのは仕方ないのでしょう。
 こちらでも品質のよいものを買おうと思うといくらでも高いものがあるのですが、私は中国でも手ごろな値段なものを買います。16日の家計簿を、忘れないようにメモしておきます。物価の比較になると思います。

3月16日
<食費>
朝食(招待所食堂 パン ゆで卵 トマトと卵の炒め物 ソーセージ 卵とキュウリのスープ コーヒー) 10元≒150円
昼食(近所の米線屋ミンシン米粉のうどんとビール)若い同僚におごったので二人分30元。米線は、ビーフン鍋焼きうどんと思ってください。緬に茸、肉、青菜などが熱々の鉄鍋に入っています。
夕食(北朝鮮経営のレストラン「平壌館」でボスのおごり)ボスが払った総額6人分360元≒5000円。平壌館については後ほどレポートします。
17日の朝ご飯2人前おかず(3種類)とご飯、12元

<スーパーで食品購入>
ネスカフェインスタントコーヒー(雀巣珈琲)200g 66,8
ジャスミンティ(茉莉花茶)100g  7,50   
パン(主食面包)2,70
トマト(西紅柿)大3個 5,46
ジャガイモ(土豆)t中6個 4,46
バナナ(芭蕉果) 4.48
牛乳(牛奶)200ml×3個 5,40
バター(奶油)125g  10,80
ドリンクヨーグルト(生菌酸牛奶)1000ml  8,90
ジュースペットボトル350ml 1,90
缶ビール([口卑]酒)350ml×4  10,40
煎餅(旺旺仙貝)2袋  8.50
白糖400g 2,80
塩350g 1,00
<日用品>
ハンガー(プラスチック10本)7,80
丸形洗濯ばさみ物干し 9,90
ハンドタオル2枚(ぞうきん用) 3,80
サランラップ(保鮮膜)2,00
浴用アカスリ 1,90
トイレットペーパー(手紙)10ロール 19,90
テッシュペーパー 5,90
<化粧品屋で>
Avon(雅芳)クリーム   16,00
16日の合計 約320元≒約4800円

 16日はいろいろ足りない生活用品を買いそろえたので、けっこうお金をつかいました。
 17日以後は、食品以外にはあまり買わない生活をしなければなりません。なぜなら、今回私は現金をほんのわずかしか持ちこまず、両替したら135元にしかなりませんでした。前回日本の銀行カードでお金がおろせることがわかっていたので、カードだけ持ってきたのです。でも、中国の暗証番号は6桁なのを忘れて4桁の番号を打ち込み、お金が出ないのでまちがえたと思ってもう一度押したのにダメ、「4桁の前に00をつけて」というアドバイスを受けて、数字押したら押し間違えて、3度まちがえたので、エラーになってお金をおろせませんでした。

 3月の半月分の給与はもうもらったのですが、最初は何かと買い物も多いので、お給料だけでは足りません。ピンチです。節約生活しなければ。

<つづく>
00:39 コメント(11) 編集 ページのトップへ
2009年03月18日


ニーハオ春庭「西紅柿vs雀巣珈琲」
2009/03/18 
ニーハオ春庭中国通信>中国的経済生活(2)西紅柿vs雀巣珈琲

 1回目の中国行きのときは、9歳の娘と5歳の息子を妹夫婦に預けて、親子泣き別れの単身赴任でした。夫が自営する会社は倒産寸前、私が働かなければ一家で飢えるという、背水の陣の仕事で「単身」という条件を飲まざるを得ませんでした。
 1994年、まだ中国は経済発展をはじめたばかりのころで、町に建設ラッシュが始まっていましたが、まだマクドナルドもウォルマートもなかったし、町から一歩外にでると農村は貧しかったです。農村でテレビを備えている家は、珍しかった。

 二度目の中国赴任。2007年の中国は大きく様変わりしていました。私の赴任地の町、大きなデパートがいくつもできており、新しい交通システムが町を貫いて電車が高架を走っていました。ペキンオリンピックを前にして、国中が建設ラッシュに沸き立っていました。農村も出稼ぎ効果で豊かになっている地域が増えました。私の赴任地も2007年アジア競技会冬季大会の会場として、建設ブームがわき上がった直後でした。

 2009年、オリンピック景気が終わってさらに世界同時不況となって、今はまた中国農民の出稼ぎが厳しい状況になっています。で、現在の中国をしっかり見てこようと思います。驚異的な経済成長率を誇っていた中国の伸び率にかげりが見えて、経済問題は人々に大きな影響を与えています。

 まずは、お金の話から。
 16日に買ったものの値段を見て気づくように、野菜は日本に比べて半値から十分の一以下の安さで大助かりです。農産物を加工せずに売っている場合、日本よりずっと安い。トマト(西紅柿)は大きなものが1個30円くらい、ジャガイモ(土豆)1個15円くらい。これはスーパーの中の野菜コーナーで買ったので割高で、野菜市場まで行って買えばこの半値。
 しかし、バター(奶油)125gで約150円、ドリンクヨーグルト(生菌酸牛奶)1000ml約130円など、加工食品になると生鮮食品に比べてぐっと割高。

 日用品も日本の百円ショップのほうが安いイメージがあります。17日に買った浴用タオル、生地のしっかりしたものは20~30元します。約300~450円。日本の百円ショップの品のほうが安い。私が買った特価品7元というのは、ペナペナの生地です。

 カップラーメンもありますが、1つ6元(90円)もするので、割高な食べ物です。6元あれば、一食分食べられる食堂もありますから。私の宿舎のランチはおかずが3品とご飯で6元です。私はこれを2人前注文して打包(ダーパオ=テイクアウト)して部屋に届けて貰い、翌日の朝ご飯に電子レンジで温めて食べます。余った分は冷凍して後日食べます。私が2人前頼んでいると知り、これはまた一段と太って帰るだろうと心配してくださった方もいるのですが、ご心配なく、2人前を3回くらいに分けて食べていますから。

 さらに、外国資本製品となると、ネスカフェのインスタントコーヒー(雀巣珈琲)が200gで、66元約1000円。日本の買値より高い。私は200g入りの大瓶を490円で買っていました。でも、他のコーヒーは、中国製も韓国製も砂糖と植物性クリームの混じった甘いものしかないので、割高だけれどしかたなく買いました。

 中国人はお茶を愛飲するので、コーヒーはまだまだ普及していません。中国の大きな町なら、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンのフランチャイズが進出していますが、スターバックス(星巴克)は北京上海のほかの町にはまだ少ないです。青島にできたと思ったら、勝手に名乗っていた店だったので、米国本社から訴えられました。

 16日17日にいろいろ買い物して、ふところがさみしくなってきました。文科省からの振り込みは日本の通帳に入るので、当地では赴任先の大学が支払う現地給与で生活します。現地給与は中国の一般教員給与と同程度の額で、現地採用の外国人専門家も同じ額。私の赴任校には現地採用の日本人準教授もいます。
 一般的な教員の平均月給額は3000~4000元(4万5千~6万円)で、レートでは日本の十分の一に見えますが、物価から見た生活水準レベルでは、日本の教員より生活に余裕があります。

<つづく>
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2009年03月19日


ニーハオ春庭「中国的給与」
2009/03/19 
ニーハオ春庭中国通信>中国的経済生活(3)中国的給与

 共働きをしている私の同僚は、30代後半の妻=大学専任講師と40代前半の夫=高校副校長、中学生の息子の3人家族。夫婦合わせると1万元(約15万円)前後の給与が得られます。さらに、夫の高校,妻の大学からは、それぞれに教員住宅を貸与されているので、そちらは(非公式に)貸家にして家賃収入を得ることもできるので、生活レベルとしては日本の教員共働きより余裕がある暮らしに見えます。

 日本の生活水準に換算すれば、日本の教員夫婦がふたり合わせて100万円くらいの月給を得て生活しているレベルに相当しているように見えます。市内の高級マンション200 m² の住まいを購入し、家電製品をそろえ、夫婦それぞれの車を持っています。一人っ子の息子は、市内の大学付属中学校に通っています。

 教員といっても、この同僚夫妻は恵まれているほうで、地域によっては、月給千元という町や村もあります。教師達が「もっと給料よこせデモ」をした地域もあります。
 宿舎の入り口には「服務員募集、一ヶ月1000元(15000円)」と、張り紙があります。町の食堂のウエイトレスが600~800元くらいのお給料ですから、大学服務員はずっと割がいい。

 町の食堂のウエイトレスは、農村から働きに来ている女性も多い。ベッドひとつの範囲だけとはいえ自分のスペースがあり、食事がまかないでついて800元(約12000円)の月給は、彼女らにとってはまたとない現金収入です。
 大学卒業した人の初任給は千元~2000元くらいです。最近の不況で、中国でも大卒者の就職は厳しく、よりよい働き口を求める若者たち、就活がたいへんです。これは日本も中国も同じです。

 私の生活。住まいと光熱費は大学からの提供によって無料。80m²ほどの2DKの宿舎にハウスメイド(清掃服務員)つき。家具は12畳大の寝室にダブルベッドとサイドテーブル。クローゼット。15畳大の書斎に執務机と椅子。テーブルとソファ。書棚。シングルベッド。テレビ。6畳大の台所に冷蔵庫など台所用品一式。バスルームも6畳大でバスタブ、シャワー、洗面台、洗濯機。そのほか、勤務校備品貸与として、電子レンジ、オーブントースター、炊飯器、アイロン、ドライヤーなど。

 食事は昼食は教職員食堂でバイキング形式のランチが無料。朝食と夕食にお金を使うほかに何も買わず節約すれば、一ヶ月千元もあれば十分に暮らしていけます。というか、一般的な中国人は千元以内の月収でやりくりしています。もちろんお金持ちもたくさんいますし、貧富の差が激しいので一概には言えませんが。
 私はごく普通の中国的生活をしていくつもりです。たまにはちょっと贅沢な中華料理を食べることもあるでしょうが、普段は節約生活を心がけましょう。

 しかし、旅行、スポーツなど趣味の領域にお金を使おうとすれば、3000元の給与では足りなくなります。前回2007年のときは、給与は使い切り、ほかに旅行費用として日本から持ち込んだ円を元に両替して、泰山、大連、延辺、西安、北京などの旅行をしました。あちこち旅行した分が20万円くらいでした。カフェ日記の中に「上海2泊3日19500円ツアー」なんていう旅行を楽しんだと書いてあると、うわあ、日本からのツアーで旅行したほうが、中国国内旅行として旅するより割安!と思います。

<つづく>
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2009年03月20日


ニーハオ春庭「日本式乾杯」
2009/03/20 
ニーハオ春庭中国通信>中国的経済生活(4)日本式乾杯

 数字がからむと頭が混乱することと、忘れ物落とし物と方向音痴は、子供の頃からきってもきれない私の三大弱点ですが、中国でもむろんこの困り癖は発揮されています。
 18日は、大学講師室の机の引き出しにサイフとケータイとカメラとパスポートを入れたまま、帰宅しました。夕食を外に食べに出ようかと思ったのですが、サイフをポケットにいれようとしてお金がないことに気づき、残り物ですませました。

 豚肉とキクラゲの炒め物と白菜と春雨の煮物は打包(テイクアウト)して冷凍しておいたおかず。冷蔵庫買い置きのジャガイモをチンしてマッシュ。トマト。ご飯は雑炊にしました。ま、今夜はこれでよかった、けっこうおいしかったし。と思ったら、サイフに全部のお金を入れておいた訳じゃなくて、家に給料の半分を入れて置いたのだから、お金が全然無いってわけじゃないと思い出しました。もう、食べちゃったから、いまさら外に出る気にもならず。

 何でも忘れる春庭です。今はまだ忘れたことを自覚することもできますが、そのうち忘れたことも忘れてしまって、完全に「忘却とは忘れ去ることなり」となるのでしょう。老人力がますますついてきた春庭、缶ビールでひとりカンパ~イ!

 生活用品で不足しているものの買い物、だいたい買いそろえることができましたが、あと、靴べらと爪切りを買いたいです。
 中国製品のなかで、質がよいと思うものも何種類かあります。たとえば中国製魔法瓶は昔からそうですが、お湯が翌日になってもさめずにしっかりと保温がされています。湯温がほとんど下がらないので、子供の頃うちで使っていた魔法瓶より優秀です。

 中国製品のなかで困るのは、中国製トイレットペーパーは水に流れるように作られていないこと。中国では水洗でない時代から、落とし紙は中に落とさず、わきのゴミ入れに棄てることになっていました。水洗式のトイレになっても、ペーパーを中に棄てることはないのです。
 水の中に流すより、ゴミ箱の中に棄てて燃やしたほうがエコなのかもしれませんけれど、どうもこの習慣には慣れることができません。トイレの脇にあるゴミ箱に使用後のペーパーを棄てるように言い渡されているのですが、つい落としてしまいます。今のところかろうじて流れてはいるのですが、2007年のときダンチョー先生は紙をトイレに詰まらせてしまい大弱りでしたから、今回私も気をつけなければ。

 トイレットペーパーは、中国語で「手紙」といいます。好きになった人に「手紙くださいね」と書くと、水に流れないトイレットペーパーを送ってもらえるかも。二人の出会いを水に流さないよう、気をつけましょう。

 水について。
 宿舎の各室や教室には、18,9リットル入りの水のボトルが常備されています。ボトルひとつが10元(150円)。飲み水はこのボトルをつかっています。2007年のダンチョー先生は「水が心配」と言って歯磨きで口をすすぐにもこのボトルの水を使用していました。私は直接飲むときはボトルの水を飲みますが、お皿を洗うには水道水で十分と考えるし、あまり神経質にならないようにしています。

 外に出たとき、水350ml入りペットボトルは1~2元(15~30円)。お茶は2~3元。他の飲み物もだいたい同じくらい。

 外食は圧倒的に日本より安い。6人で1テーブルを囲み、10皿ほどの大皿料理とビールを注文でひとり100~200元(1500~3000円)くらい。日本で同じような料理を中華街などで注文したら、コースひとり分が5000~10000円くらいかかってしまうでしょう。(2月に横浜の開港記念館を見にいった帰りに中華街へ行って見た値段では、だいたいこのくらいでした)

 宿舎のキッチンには料理道具がそろっているのですが、よほど和食が食べたくなったら近所の日本食品輸入店へ行って食材をそろえて和食を作るかもしれませんが、私は中華料理が大好きなので、当分外食します。
 しばらくは行かないでしょうが、「日本式ラーメン」の店や「日本式牛丼」の店も近所にあります。牛丼は20元(300円)、ラーメンも同じくらいします。割高な外食です。

 中国初日15日の夕食は赴任大学の副学長を接待主とする歓迎宴。中華料理とビールで乾杯。中国式乾杯は文字通り「杯を乾す」という意味で、紹興酒でもビールでも一気飲みでコップを空けなければなりません。でも、日本人教師団を招いての宴会で、日本式の宴会のやり方も十分に知っている人たちですし、なによりも私たちが仕事をする学院の李校長は、中国人男性には珍しい完全下戸なので、乾杯も日本式に一口グラスに口をつければいいというやり方でした。

<つづく>
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2009年03月21日


ぽかぽか春庭「ピョンヤンカンのおねえさん」
2009/03/21 
ニーハオ春庭中国通信>経済生活(5)平壌館のおねえさん

 中国生活3日目の18日水曜日の夜は、予報通り雪がふりました。2007年2008年の冬と比べると暖冬だと聞いていたのですが、厳冬期には零下20度になる土地ですから、3月下旬、年によっては4月に雪が降ることもあります。
 3月に雪が降ってもそのあと雨に変わることがないので、つもった雪が溶けずに残り、溶けたとしても水たまりが夜にまた凍るので、道路を歩くにも気をつけないとすべってころびます。

 中国2日目、16日の夕食は日本人教師団の団長ヒミツノ先生のおごりで「これから5ヶ月、よろしくね」という結団式みたいな夕食会。会場は北朝鮮国家直営のレストラン。「平壌館」と赤いネオンが煌々と輝くレストラン。入り口の警備員に「アンニョン」と挨拶して入ります。

 6時半から食事をはじめて焼き肉やキムチを食べていると、7時からお目当てのショウがはじまりました。チマチョゴリ姿のウエイトレス(接待員)は、給仕の順番をかわるがわる交替して、舞台にあがり、歌をうたいます。みな美人で歌がじょうずなので、「喜び組」の候補生か、なんて冗談を言いながら聞いていました。

 ドラムとキーボードの伴奏で、アリラン、トラジなどのなじみの朝鮮民謡。私にはなつかしいフォーククルセダーズの歌「臨津江(イムジンガン)」(若い世代には映画『パッチギ』の中で歌われリバイバルした歌というと思い出してもらえるかも)や、韓国ドラマ「チャングム」の主題歌まで、30分間歌が続きました。スピーカーの音が大きすぎたのはちょっと閉口でしたが、なかなかの歌唱力でした。
 
 キレーなお姉さんに好意をもった男性が「休みの日に何しているの?今度いっしょに遊びに行ってみないか、ドライブはどう?」なんてことを言ってみても、「北朝鮮で私を待っている恋人がいます。彼は○○川のほとりで私を毎日待っているのです」というのが、マニュアルに決められているオネーサンの答え方なのだそうです。
 ほんとうかどうか確かめてみようと、若い独身の同僚バンブー先生に「遊びにいこうって言ってみて」と、皆でけしかけました。しかし、ロシア語と英語が堪能な彼はシャイで、中国語と朝鮮語は話せないからと、お姉さんには話しかけてみませんでした。

 今回の教師団6名。ボスのヒミツノ先生は、私の出身校の後輩であり、ゼミ仲間でした。九州出身の若い女性イェンチュワン先生は中国語が上手、博士論文執筆中で、授業実践や中国人へのアンケート調査なども行っています。大阪から来た同じく若い女性のダオベン先生は中国語と韓国語両方が話せる。日本語しかできない私は気がひけるので、スワヒリ語なら日常会話ができるということにしておこうと思います。当地でスワヒリ語は何の役にもたたないですが。

 イェンチュワン先生とダオベン先生は中国語と朝鮮語でかわるがわる接待員のおねえさんに話しかけます。私たちのテーブルの係りになった接待員は黄色のチマチョゴリを着こなした美人です。
 歌でだいぶウエイトレスたちの表情もなごんできたので、イェンチュワン先生やダオベン先生はさかんに朝鮮語と中国語で質問を始めました。「肌がとてもきれいですね、どんな化粧品を使っているのですか」という質問には、化粧品に関するマニュアルがなかったのか最初は答えてもらえなかったのですが、何度も「綺麗ですね」と褒めるうち、「朝鮮は空気と水がきれいなので、肌もきれいになるのかもしれません」というお答えが帰ってきました。

 確かに農村地帯の空気はきれいだろうと思います。テレビのCMに人工衛星が映し出す夜の地球が出ていますが、南側のあかるさ日本列島の明るすぎるのと比べると、朝鮮半島の北側はまっ暗でした。工場の排煙も少なそうだし、空気は澄んでいるだろうと思われます。

 中国の農村。私の赴任地の周囲の農村のように都市近郊の農村は、都市部に農産物を売りに行くことができ、現金収入が得られるので、生活水準は格段に上昇しています。テレビも各家庭標準装備になり、都市部では小学生もケータイを持っています。日本で高度成長期に「三種の神器」ともてはやされて家電製品が普及しました。現在の中国で三種の神器をいえば、車、パソコン、次世代DVDでしょうか。学生三種の神器はパソコン、ケータイ、MP3プレイヤーだと、ビジネス日本語専攻の学生(日本語講師室アシスタント)が言っていました。
 北朝鮮の三種の神器は何でしょうか。将軍様お手製の映画、将軍様の人工衛星とテポ○ンかな?

<つづく>
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2009年03月22日


ニーハオ春庭「石焼きビビンバ脱北味」
2009/03/22 
ニーハオ春庭中国通信>経済生活(6)石焼きビビンバ脱北味

 接待員お姉さんに聞いてみたいことはいろいろあったのですが、、、イェンチュワン先生が「ここの接待員さんは、音楽学校などで歌唱の教育を受けた女性ですか」という質問したおねえさんのお答えは「特別な音楽教育は受けていません。選ばれてここに来てから歌を覚えました」というものでした。やはり、歌がうまいかどうかより、家庭の出自や容姿が選抜の重要ポイントなのでしょう。

 一番聞きたいことは「休みの日には何をしていますか」「いっしょに町を歩いてみませんか」ですけれど、とうとう聞けませんでした。ずばり「他の国へ行ってみたいと思いますか」なんてのも聞きたいけれど、もちろんマニュアルは「わが祖国は、世界一すばらしい将軍様のいらっしゃる国ですから、よその国へ行ってみたいとは思いません」でしょうね。
 韓国のことは韓国と言ってはならず、「南朝鮮」と表現しなければならない、など、制約はありましたが、ダオベン先生の韓国語はとても達者で、朝鮮語の会話で接待員ウエイトレスさんの口もだんだんほぐれてきました。

 友好国である中国にはこれまで各地に北朝鮮直営レストランがあったのですが、最近次々に閉鎖されています。さまざまな憶測が流れていますが、一番大きな理由は、「国家公務員である服務員(レストラン従業員)が、つぎつぎに脱北をはかり、逃亡が相次いだから」というところらしいです。

 2000年には、北朝鮮と中国の国境に近い町、延吉市にある「平壌食堂」が女性接待員の脱出により営業中止、現在まで営業が再開されていないといいますし、2006年12月には青島にあった北朝鮮直営「平壌牡丹館」から女性接待員が逃亡し、とうとう逮捕を免れ脱北成功。北朝鮮政府は見せしめのため同店の職員らを全て本国に帰国させ、食堂閉鎖。
 瀋陽市にあった「直営レストラン」が最近になって閉鎖されたのも、たぶん同じような理由なのでしょう。

 当地の「平壌館」もいつ閉鎖になるやもしれず、閉鎖されないうちに、また食べに来ましょう、ということになりました。入り口の警備員(若くてハンサム)は、お客の警備とともに服務員の出入りをチェックしているのでしょう。

 チマチョゴリ姿の綺麗で若いオネーサンたち。有力国家幹部の娘達であるとも言われていますが、仕事の場でも日常生活でも厳しく管理されており、宿泊所からいっしょにバスでレストランへ来て、勤務が終わればいっせいにバスに乗って戻る。この中で逃亡するには相当な覚悟が必要です。確実な手引きをしてくれる人がいるなら成功する場合もあるけれど、もし逮捕されて北朝鮮に連れ戻されれば、一生強制労働所暮らし、家族にも類が及びます。

 石焼きビビンバも冷麺も、私が中国で食べた朝鮮族料理のどこよりもおいしかったので、また食べにきたいと思いました。「ウエイトレス逃亡により閉鎖」とならないうちに。

 今のところ特に和食が恋しいということもないのですが、19日夜はじゃがいもと葱のみそ汁を作りました。(味噌は日本から持ってきました)
 20日夜は日本式ラーメンの店「888ラーメン」で「昔風ラーメン」というのを食べました。どこをとって昔風というのかわかりませんでしたが、ごく薄味のラーメン。日本だったら、3ヶ月で店がつぶれると思う味でしたが、私が2007年に当地にいて帰る頃に開店した店がまだ営業しているということは、それなりに儲かっているのでしょう。
 もう一度食べにいくなら、だんぜん北朝鮮冷麺のほうです。

<おわり>

2009/04/06
ニーハオ春庭中国通信>日本語でどづぞ(1)清明節休暇三連休

 中国に赴任してから3週間がたちました。赴任して最初の週は「気候と中国生活に慣れる」ための準備期間。2週目から授業が始まり、授業準備に追われました。パワーポイントを授業教材の表示に使うため、パソコンスライド作成に追われました。
 3週目は、さらに臨時の仕事として「開発中の日本語教科書」のために読解教材のCD音源を作りました。

 若い頃、俳優をやったことがあるとか、朗読の訓練を受けて視覚障害者のための朗読ボランティアをしたなどの経歴を、2007年にペアを組んだリー先生に話したことがあるので、協力を要請されたのです。上巻の朗読吹き込みは日本のプロが行っています。下巻もいずれはプロが本格的な朗読CDを作るのでしょうが、開発中の現在は試用版として、CDも試用版が必要で、私は「プロが吹き込むまでの臨時音声教材」のために録音したのです。

 ラジオ局のスタジオのような立派な録音室で、へたくそな朗読ながら吹き込みをしました。私はテイク1,テイク2、うまくいかなかったらさらにテイク3と吹き込むつもりだったのですが、テイク2までで、「あとは、間違えた部分抜けた部分だけ取り直せばいい」と、OKになりました。まあ、試用版だから、それほど厳密な朗読でなくても大丈夫だったのでしょう。私は鼻濁音ができず、「が」の音の鼻濁音にすべき所をところどころ濁音で発音したので、気になったのですが、担当のチャンリー先生は、「いいです。問題ないと思います」とおっしゃるので、訂正しませんでした。

 ボランティアのつもりだったのだけれど、謝金をもらえました。半月分の給料がすでに終わりそうだったので、給料日までの生活費にできます。校長先生や副校長先生が「いやあ、先生の朗読はプロ並みですね」なんて褒めてくれたのは、日本式おせじの使い方をよく知っている日本通のことばであったとしても、臨時収入はありがたい。

 祝日が日本のように多くない中国では、なかなか3連休はとれませんが、4月4日から土日月は、うれしい4月の3連休です。季節の「清明」を祝う清明節。5月は五一節(メーデー)が、4/30,4/31,5/1,5/2と四連休になります。
 この2週間ハードな勤務でしたから、ちょっとのんびりできる三連休がうれしいです。

 遠出はできないまでも、町の中心地へでかけて映画でも見ようかと思った清明節ですが、結局宿舎で昼寝とテレビ、読書ですごしています。読書、『自動詞文と他動詞文の意味論』を読んでいます。執筆予定論文の参考文献のひとつとして持ってきたのに、中国赴任以来まった読む時間などとれなかった。

 せっかくの休みなので旅行したくもありましたが、この2週間、旅行の計画を立てる余裕はなく、直前になって大学内にある電車の切符を買うオフィスに行ってみたところ、学生たちが長い列を作っており、行きたかった町への切符はとっくに売り切れでした。まだ寒いこともあるし、遠出は五月の連休までおあずけです。

<つづく>
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2009年04月07日


ニーハオ春庭「掃墓節」
2009/04/07
ニーハオ春庭中国通信>日本語でどづぞ(2)掃墓節

 連休中に行きたいと思っていた所は集安市。バスに8時間乗り続けて行かねばなりませんが、古代史ファンにはおなじみの古代高句麗の王、好太王の石碑があり、世界遺産となっています。朝鮮族が多く住む地域の、北朝鮮との国境付近にあり、世界遺産登録時には、石碑の所有をめぐって北朝鮮とひと悶着あったみたいです。歴史的には古代朝鮮、高句麗の王だった好太王ですが、現在は鴨緑川を国境とするので、石碑は中国領土内に存在しています。

 当地の中国人に聞いても「好太王?広開土王?知らないなあ」というのです。この世界遺産を訪問するのは、古代史好きの日本人ツアーか、韓国人ツアーの一行がほとんで、中国人はあまり訪れないようです。
 暖かくなったら、ぜひ行ってみたい世界遺産です。

 当地の寒さはだいぶ薄らいできました。氷が溶ければ「もう暖かい」と感じる地元の人たちの中には、昼中はコートを脱いで歩く人も出てきました。私も、昼うちはダウンコートを脱いでオーバーになりましたが、陽が落ちて以後はまだまだ冷えるので、ダウンコートです。

 日本はもう桜満開でしょうね。娘からのメールでは、住まいの五丁目団地に咲いた桜の画像が届きました。「父、弟と、これからおばあちゃんの家へ行くところ」という文面に添付されていたものです。
 「留守中、おばあちゃんのこと、よろしくね」と、娘に頼んできたのを、ちゃんとやってくれているみたいで、ほっとしています。「母親の世話はヨメまかせ」の夫を連れだして、いっしょにおばあちゃんの家へ行くことになったのは娘の手腕です。私が夫に「自分の母親なんだから、ちっとはおかあさんのところに顔をだしなさいよ」と言っても「仕事が忙しい」を錦の御旗にするのみなので。

 さて、清明節(せいめいせつqīng míng jíe,)は、二十四節気の1つ清明を祝う日です。太陽黄経が15度になる4月5日前後に当たりますが、中国では4月5日を清明節として6日月曜日まで三連休になりました。

 これは、去年からはじまった休日です。2007年にはこの休日は実施されておらず、そのかわり五一節(メーデー休暇)が5日間ありました。去年、北京オリンピックとのかねあいという意味もあったのか、休暇が4月と5月に振り分けられたのです。

 清明節の日から穀雨までの期間全体を「清明の季節」と呼びます。草芽が伸び花が咲き、万物が清々しく明るい季節。緑の若草を踏んで春の到来を感じるため、「踏青節」とも言います。

 中国では、この春先の季節に家族みんなで祖先の墓へ行き、線香をあげ祖先を供養します。そのため、清明節のことを「掃墓節=お墓を清める節句」とも言います。お墓を清めたらお供え物をして、紙で作ったお金や飾りを燃やして先祖を弔います。
 多くの中国人が先祖の墓参りをする掃墓節。テレビでは、お墓参りに関するニュースが流れました。最近、何かと雪解けムードの台湾との交流ニュース。国民党とともに台湾に移住した人々が、大陸に残されている先祖の墓にお参りした、というニュースもありました。
 日本のことはめったにニュースになりませんが、京都にある周恩来の石碑に集まった人々のようすが報道されていました。墓への参拝ではありませんが、これも清明節にふさわしい「故人を偲ぶ」ニュースとして報道されたのでしょう。

 清明節さいしょの土曜日4月4日、私は「寝てよう日」でした。いつものように早起きをして、お昼過ぎに眠くなったので、夕方まで昼寝しました。ゆっくり疲れをとることができました。

<つづく>
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2009年04月08日


ニーハオ春庭「XXXL」
2009/04/08
ニーハオ春庭中国通信>日本語でどづぞ(3)XXXL

 清明節当日4月5日の日曜日、近所の「昔からの繁華街」である桂林路は、大勢の買い物客でにぎわっていました。「今いちばんの繁華街」はウォルマートスーパーやデパート映画館などがたくさんある重慶街ですが、バスで行かねばならず、徒歩数分の桂林路でたいていの買い物は間に合うので、今回の中国滞在では、まだ重慶路に出かけていません。

 現代の中国人にとって、消費が最大の娯楽とも言えますから、洋服屋も靴屋も大勢の人たちが品定めをしています。食品は日本より割安な中国ですが、良質な衣料品や靴は日本の値段とそう変わらない。ナイキの高級スニーカーは千元していました。15000円のくつ、招待所の服務員の月給分にあたります。ということは、中国物価の中で、衣料品は高い買い物になります。品定めにも熱が入ろうというわけです。

 私は、道ばたの露天で下着を買いました。売り子は「日本への輸出品だよ。品は確かだよ。パンティ1枚5元、2枚で10元だ」ってなことを叫んでいます。(私に聞き取れたのは、値段とリーベン(日本)だけですが)
 露天で売るくらいですから、おそらくは日本向け輸出衣料の中で、検査にはねられた製品なのだろうと思います。外貿処理(外国貿易処理品)といいます。

 「2枚組みショーツ」と、日本語で書かれたタグの紙がついていて、「丈長タイプゆったりらくらくXXXL」と文字が入っています。XXXLと書いてあっても、それほど巨大でもないパンティ。文字がきちんとしているので、つい買ってしまいました。日本向け輸出衣料であったことは確かなようです。10元程度で売られている中国製の安いパンティは、化繊の派手な色のものがほとんどで、肌色木綿の「ゆったりおばはんパンツ」はなかなか安物の中にはない。

 XXXLなんか買って、ぶかぶかだったらどうしようか、とも思ったのですが、見た目、わたしが普段買っているLサイズパンティと同じくらいに見えたし、まあ、XXXLでも、大は小を兼ねると思ったのです。
 家に帰って履いてみたら、サイズピッタリ!うわぁ、XXXLがちょうどいいってどういうこと、とか思いましたが、ストレス解消に食べつつけた3週間が表れているのだから仕方ないのか。

 いや、負け惜しみで「これはLサイズの製品に、間違ってXXXLという表示の紙がつけられたので検査にはねられたのに違いない」と、思うことにしました。見たくない現実にはフタ!

 日本向け商品というと、品がよい、と思われるのか、日本向けではない品にも日本語が書かれていることがあります。でたらめな日本語なのですが、中国人は見慣れない平仮名片仮名を見て、「日本向け輸出品なら、高級品だろう」と思う人もいるのかもしれません。

 つまようじの袋に書かれていた日本語、面白かったので、つい買ってしまいました。
 「高級つまじうよ」と製品名が書かれています。おいおい、「つまじうよ」と書いてある時点で、すでに高級感ゼロだろうが、と思うのですが。
 「夏荷特潔牙簽 使用上の注意 ①本製品の湿気は少ないは所に保存てし下いさ ヒカのはたなつょヒはべ使用さたちあ様お原いいたいまょ ②一度使用たしつょは捨てて下さい」

 ああ、「ヒカのはたなつょヒはべ」とは、いったい、どんな意味を言いたかったのだろうか。
 おおいに笑える「高級な日本語」でした。ほかにも時々愉快な日本語を見かけます。2007年におもしろい「テキトー日本語」を集めておきました。まとめて本にしたら笑えると思って。でも、同じことを考える人はいるもので、すでに『日本語でどづぞ』という「笑える日本語」を集めた本が2008年に出版されてました。2007年に柳沢有紀夫さんが連載した記事をまとめたものです。一歩おそかった。

 日本語を正しく表記するのは、日本語を知らない人にとって難しいことだろうと思います。次回は、テレビドラマの中にみつけた「日本語でどづぞ」の紹介です。

<つづく>
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2009年04月09日


ニーハオ春庭「中日友好お原いいたいまょ」
2009/04/09
ニーハオ春庭中国通信>日本語でどづぞ(4)中日友好お原いいたいまょ

 2007年の赴任時には、温家宝首相が日本訪問をしている時期だったので、『鑑真東渡』など、日中友好をテーマにしたテレビドラマが放映されていました。今、日本が登場するドラマは、いつもの「日本帝国軍人はこれほど非道いヤツラだ」として描くドラマが多い。何が行われてきたのかという現実は知っておかなければいけないことだけれど、あえてこの地で見る気もおきなくて、、、、。

 1本だけ『関東大先生』というドラマを見ています。趙本山(チャオ・ベンシャン)が監督し、弟子の張暁飛(チャン・シャオフィ)が主演した東北コメディドラマ『関東大先生』、中国CCTV8が2009年1月22日から放映したものを、CCTV3で再放送しています。
 趙本山は、映画『落葉帰根(帰郷)』に出演し、台湾金馬賞にノミネートされるなど、俳優としても実力を認められている中国トップの俳優です。天才コメディアンと言われる趙本山(チャオ・ベンシャン)ですが、『関東大先生』では監督を務めています。

 『関東大先生』に登場する日本人も、軍の特務機関軍人なので悪者になっていますが、「東北コメディ」という内容なので、それほど「日本鬼子リーベングィズ」が強調されていることもなさそうだし、ときおり登場する日本家屋などの描写に「中国から見た日本」がわかるので、見ています。北京普通話(標準語)のセリフに中国標準語の字幕がでるので、内容は追っていけます。漢字文化のありがたさ。

 佐藤大先生という日本人の家のシーン。先生に大をつけて呼びかけるところが、すでに「日本語でどづぞ」になっています。日本ではどんな大先生を呼ぶにも、直接「田中大先生」とか「佐藤大先生」とは呼びかけません。まあ、これは中国でのお話ですから、大先生も許容の範囲でしょう。

 部屋の置き棚に載っている日本酒一升瓶。「日本盛」とラベルが貼ってある。酒の銘柄については日本事情を理解している。でも、日本の家庭で酒を飾っておくのは特別な菰樽などで、あまり一升瓶を飾ることはしないけれど、ま、いいか。
 佐藤大先生と特務軍人板垣の秘密会談が行われているシーン。部屋の壁に亜細亜大地図が貼ってありますが、漢字はいいとして、カタカナがおもしろい。ロシアの地名ハバロフスクは「へぺ口フスワ」と文字が入っている。クとワの違いなど、日本に留学する日本語を学んだ留学生もしょっちゅうすることなので、中国ドラマの美術さんも間違えて当然か。
 日本列島の南方には「シヤル群島」。たぶん、マーシャル群島の「マー」が何かの具合で抜けてしまったのでしょう。まあ、それらしい雰囲気がでればOKなので、中国の人はカタカナのまちがいなど気にしないでこのドラマを見るでしょう。

 佐藤大先生の部屋に掲げられている横長の扁額。右から左へと書いていく額字が、「中日友好」と書かれている。日本人帝国主義者の家に掲げられているのなら、中日友好と書くことは考えられず、「日中友好」となるはずですが、中国ドラマ制作の美術さんは、そこまで気にしない。

 佐藤大先生は中国人俳優が演じています。河田という特務軍人の役を演じているのは齋藤卓也とあるので、日本人かと思います。中国で活躍する日本人俳優も増えてきたのでしょうね。
 佐藤大先生と河田との日本人同士の会談シーンでも、むろんのこと中国語で会話するのですが、佐藤大先生の家の用心棒役のふたりは、袴に裃をつけ、頭には白い鉢巻き。佐藤大先生からの命令には「はいっ」「わかりました」とやや発音不明な日本語で返事を返す。

 河田と佐藤大先生とのセリフでは日本酒のお猪口を持って、河田が「かんぱいしましょ」というところが日本語でした。佐藤大先生のセリフ、「乾杯!」は、やはり「かんぱい」ではなく「干杯カンペー」になっています。
 
 「手紙」のように日本語では「便り、書簡」を意味しているが、中国語では「トイレットペーパー」のこと、また、日本語ではものを作ること「工作」が、中国語では「仕事」の意味、というように、意味が大きく異なる語の場合、中国人学生も気をつけますが、「先生」や「収集」など、基本的な意味は重なる部分がありながら意味のズレがある語だと、その意味のちがいに気づかないこともあるのです。

 中国語の「干杯カンペイ」は、文字通り杯を干す、杯を空にすることだ、と、中国式乾杯について3月に書きました。
 同じだと思っている中国語漢字熟語と日本語熟語の意味の違いについてのお話を、次回りよ連載し致すま。日本語でどづぞ、ご笑読お原いいたいまょ。

<おわり>
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