春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「3024年7月目次」

2024-07-30 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240731
ぽかぽか春庭7月目次

0702 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩梅雨(1)西洋版画展 やっちゃんと西洋美術館散歩
0704 2024アート散歩梅雨(2)新展示のゴーギャン ・ピカソ in 西洋美術館
0706 2024アート散歩梅雨(3)ル・コルビジェの絵 in大倉集古館

0707 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記梅雨時(1)東京Citypop花火
0709 2024二十四節季日記梅雨時(2)夏ーゲリラ豪雨、選挙
0711 2024二十四節梅雨(4)雑草園の手入れ by 95歳庭師

0713 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(1)ひとつふたつ
0714 数え方の世界(2)ここのつ、とお
0716 数え方の世界(3)指で数える
0718 数え方の世界(4)助数詞の教え方
0720 数え方の世界(5)無量大数

0721 ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(1)アクセサリーとドレス in アクセサリー美術館
0723 2024アート散歩ファッションの夏(2)中原淳一展 in 松涛美術館
0725 2024アート散歩ファッションの夏(3)高田賢三夢をかける in オペラシティアートギャラリー
0727 2024アート散歩ファッションの夏(4)日本にミニがやってきた in 杉野学園衣装博物館
0728 2024アート散歩ファッションの夏(5)世界のビーズ展 in 文化学園服飾博物館
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ぽかぽか春庭「世界のビーズ展 in 文化学園服飾博物館」

2024-07-28 12:00:01 | エッセイ、コラム

20240727
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(5)世界のビーズ展 in 文化学園服飾博物館


 文化学園服飾博物館の口上
 衣服や装身具に幅広く用いられるビーズ。その素材は、木や石など入手がたやすいものから、宝石のような貴重な鉱物、ガラスやプラスチックといった合成素材など、地域や時代によってもさまざまです。ビーズで身を装うことは単なる装飾にとどまらず、民族や社会的立場といったアイデンティティーを表したり、富や権力を象徴することもあります。また、連なる玉に祈りを込める数珠など、精神世界とつながるための役割を果たすこともあります。
 本展では、交易品として珍重されたガラス・ビーズ「とんぼ玉」、ヨーロッパのきらびやかなビーズ刺繍のドレス、象徴的な意味を持つアジアやアフリカの各民族の衣服や装身具など、約40か国のビーズを紹介します。


 入り口では2階の民族衣装から見るよう案内を受けたのだけれど、1階の現代の衣装から観覧。ビーズや刺繍をほどこした美しいドレスが並んでいます。


ビーズや刺繍に彩られたドレスハンドバッグ、イブニングドレス、ケープなど。

 文化学園大学特任教授田川啓ニがデザインした刺繍やビーズを取り入れたドレスの展示を見る。田川は文化学園ではなく明治大学法学部出身という異色のデザイナーです。1989年 株式会社チリアを設立して、インドにアトリエを設置。  
 ジュエリードレス2007、ペイズリードレス2004などの展示。

 2階は、民族衣装に使われたビーズの展示。 ビーズや刺繍の民族衣装と、魔除けを目的としたネックレスなどの装身具をみました。



 民族衣装の刺繍とビーズ
 ポーランド、アフガニスタン、ケニアマサイ族、さまざまな布や帽子などにほどこされたビーズ。 

 近代現代のビーズは、装飾として使われることが多いですが、古来、これらのビーズは魔除けなどの身を守るための意味が強く、人々の歴史とともにあったことがよくわかりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「日本にミニがやってきた in 杉野学園衣装博物館」

2024-07-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240725
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(4)日本にミニがやってきた in 杉野学園衣装博物館

杉野学園衣装博物館の口上
 昨今「Y2K」ということばを盛んに耳にするようになりました。Y2Kとは若いひとたちの間で流行するファッションの呼称であり、「Year 2000」、すなわち2000年代の流行を取り入れた装いのことを指しています。へそ出しルックや厚底のくつ、アームカバーやルーズソックスなど、平成の装いを特徴づけるアイテムは多々ありますが、なかでも象徴的なのが「ミニスカート」ではないでしょうか。
 平成、令和と流行を繰り返すミニスカートですが、初めてファッション界に登場したのは1960年代のことであり、パリ・モードから大きく離れたロンドンのストリートファッションから生まれたこの装いは世界的に大流行し、1960年代後半の日本でも女性たちの間でミニスカート旋風が吹き荒れました。本展ではミニスカート流行のただ中にドレスメーカー女学院で制作されたミニ丈の装いと共に、日本におけるミニスカートの登場について紹介します。

 Aラインだとか、サックスタイルだとか、ファッションは次々に新しい流れが生まれ、流れ去っていきます。
 夏ははだかでなければよし、冬は寒くなければよし、という方針だった20代のHALが流行に乗ったのが、ミニスカートでした。なんとなれば、スカートを作るにあたり、生地代が安く済んだからです。姉はおしゃれで、アヤ伯母が毎月買っていた「装苑」の付録の型紙を重宝して自分でミシンを踏んで好みの服を作っていました。ミニスカートは生地代半分で済み、姉はせっせと服を作ります。私はそのお下がりを」もらって着ていたので、必然的に70年代はミニを着ることになりました。

 くるぶしまでの長さのロングスカートから解放されて社会進出を始めた女性たちは、より活動的な衣装を求めていました。ミニスカートは、女性の活動をより自由にするファッションと受け取られました。マリー・クワントのストリートファッションは、パリのオートクチュールにも広がり、日本にもミニがやってきました。

 文化学園「装苑」、杉野学園ドレメという、洋裁の2大潮流のうち、我が家はドレメに縁が薄かったのですが、今では文化学園服飾博物館も杉野学園衣装博物館も、ぐるっとパスで入館できるので、よく訪れます。

 ドレメ式洋裁の学校を成功させた杉野芳子も、1960年代のおわりころ、盛んにミニスカートのデザインを発表しました。
 7月24日、内科検診をすませた足で、目黒駅からドレメ通りを通って、杉野衣装博物館に行きました。1階と2階に杉野芳子がデザインし、ドレメの学生たちが仕上げたミニワンピースが並んでいました。


  

 

 

 ミニ衣装に活動性を見出した女性たちは、パンタロンスーツも受け入れました。
 女性ジャーナリストの俵萌子が園遊会に招かれたとき、「パンタロンスーツで出席してもかまわないでしょうか」と、ドレスコードについて宮内庁に問い合わせをして許可された、というエピソードを書いていました。パンタロンは保守的な場面ではまだ正式な衣装と認められていない時代でした。私も、結婚式はともかく、葬式では年配の人が多いのだから、目くじら立てられぬよう、和装でないまでも黒のスカート喪服で参列せよ、というアドバイスを受けたことがあります。50年もたった今、街行く女性の半数以上がパンツ姿で、スカートが少数派になっているのを感じます。
 ミニスカートも見かけますが、ミニの下にレギンスを合わせていることが多い。生足で闊歩しているのは、女子高校生くらいか。

 杉野芳子のミニデザインを眺めながら、時代の変遷にしばし浸りました。
 ドレメ通りは、ドレメ出身の森英恵や島田順子につづきたい学生たちが、行きかっていましたが、服装はごく普通の感じ。人目を奪うような突拍子もない服装は見当たらない。いいけどね。自分は地味な服装でも、人をあっと言わせるデザイン考え付くデザイナーもいることだろうし。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「高田賢三夢をかける in オペラシティアートギャラリー」

2024-07-25 00:00:01 | エッセイ、コラム


20240723
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(1)高田賢三夢をかける in オペラシティアートギャラリー

 高田賢三、没後最初の大規模個展に出かけていきました。ファッションの世界でいち早く世界に打って出た高田賢三の名は、ファッションに縁遠い私でも知っていました。

 中原淳一にあこがれてファッションの世界に入った、という展示もありました。私の好みは、中原の「夢見る乙女」ではなく、高田の「世界中を取り込みながら世界を飛び出していこうとする意志」です。

 オペラシティアートギャラリーの口上 
 髙田賢三(1939-2020)は、日本人のファッションデザイナーとしていち早くパリに進出し、斬新なアイデアで常識を打ち破るスタイルを次々と生み出しました。単身で渡仏後、1970 年にパリで自らのブランドを立ち上げた髙田は、木綿の新しい可能性を打ち出したことで「木綿の詩人」と称され、早くから注目を集めます。その後も、身体を衣服から解放させることを意識し、直線裁ちの着物袖やダーツをなくしたゆとりある服を生み出したり、独特の色使いや柄の組み合わせを用い「色彩の魔術師」と称されるなど、日本人としての感性を駆使した作品を数多く発表しました。それらは、国境や文化、性別を自由に超え、これまでの西欧中心の伝統文化にとらわれない新しい衣服を示唆することとなり、今もなお世界中で愛されています。

 2020 年に惜しまれつつ逝去した髙田賢三の没後初の大規模個展となる本展では、髙田のファッションの変遷を衣装展示でたどるとともに、幼少期から描いていた絵画やアイデアの源泉となった資料、衣装のデザイン画などを紹介し、多角的な視点で人物像を浮かび上がらせ、日本人デザイナーのパイオニアとして世界で活躍した髙田賢三の生涯にわたる創作活動を回顧します。

・髙田賢三 略歴
 1939年、兵庫県姫路市生まれ。文化服装学院に入学し、1960年に若手デザイナーの登竜門「装苑賞」(第8回)を受賞。渡仏して5年後の1970年、パリに自らのブランドを立ち上げる。その自由で華やかなデザインで瞬く間に人気が広がり、世界を代表するトップデザイナーとして活躍した。1999年に「KENZO」ブランドから退いた後も、企業とのコラボレーションやオペラ衣装の制作、新たなブランドの立ち上げなど、精力的に活動した。
2020年、81歳で逝去。

 第一室は、高田賢三の生涯を年代別にたどっていました。公的な生涯紹介ですから、きれいごとのみの一生になっていますが、インタビュー記事をまとめた「高田賢三自伝」に語った内容なども加えて作品を見ていきます。

 賢三は、姫路市の生まれ。両親は、浪花楼という待合を経営し、芸者などの粋筋の女性に囲まれて育ちました。長男次男とは年が離れており、長女次女と共におはじきや人形遊びをして成長。感性は女性として育ったと自認。

 姉たちが購読していた「それいゆ」や「ひまわり」を見て育つ。
 
 
 美術系の進学がかなわず、神戸市外国語大学へ進みましたが、文化学園が男子学生の受け入れを始めたことを知り退学して上京。父親は大学を卒業して手堅く会社員になってほしいと退学に反対だったので、アルバイトに励み、文化学園デザイン科9期生として卒業、同期にコシノジュンコら。1960年上期にコシノジュンコ、同下期に高田が装苑賞を受賞しました。

 住んでいたアパートが建て替えのために立ち退き料が支払われ、そのお金をもって1964年にパリに出ました。
 70年代のパリで売り出して、出世作となったウエディングドレス。⒛年集め続けたリボンをつなぎ合わせて民族衣装っぽいドレスに仕立てたもの。このあと高田は木綿使いや色使いにおいて、これまでのファッションの常識を飛び越えた衣装をつぎつぎにデザインし、パリに進出する日本人デザイナーのトップスターとなりました。

 リボンつなぎのウエディングドレスとわたし


 パリコレクションで活動する高田賢三は、グザビエ・ドゥ・カステラという同姓の恋人とすごすようになりました。マネジャー格のピエール・ベルジュをパートナーとするイブ・サンローラン、カール・ラガーフェルドにはジャック・ドゥ・バシェールというように、同姓の恋人を持ちましたが、イブはジャックに横恋慕という男性同士の三角関係。バイの賢三はイブの女性モデル、ルル・ド・ラ・ファレーズ とも一時期恋愛関係になり、人間関係はもつれる。イブ・サンローランの映画ほか、ココ・シャネルの伝記に基づく映画やグッチのお家騒動など、ファッション業界はエピソードに富み、映画もいろいろ作られていますが、パリコレクションの3人+その恋人3人の人間模様も、映画にしたらいいと思う。ピエールカルダンの映画は、そんなドロドロじゃなくほんとにファッションを追いかけてるので、私的には「どろどろしてこそのファッション業界でしょがっ」とそんなに見る気なし。

 スタイル画とドレス
 

 




 賢三は、グザビエへの愛の証としてバスティーユ に、グザビエの日本趣味を生かす数奇屋造りの大邸宅を建設します。広大な日本庭園には竹林や桜。池には緋鯉。流水プール、ゲストルーム、カラオケルームも完備する。部屋にはアンティーク家具や美術品。贅をつくした家の建設には7年もかかり、完成したのは1989年。建築の借財も原因となったのか、「ケンゾー」の経営は悪化し、しかも1990年にグザビエは死去。翌年には賢三の母親がなくなる。1993年、ケンゾーの全株式は、LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンによる買いしめとなりました。

 1993年、宝塚の衣装を担当。
 
 
 LVMHアルノー会長との確執を経て、賢三は1999年に株式会社ケンゾーから追われる。1999年に完全撤退してから2年間は株式会社ケンゾーからファッションに関わってはならない、というアルノ―からの厳命を受けて、賢三は布地ではなくキャンバスを相手にする。
  
71歳の自画像

 2004年、アテネオリンピックの日本選手団ユニフォームをデザイン。
 賛否両論だったというこのユニフォームを私はまったく覚えていませんでした。かたっ苦しいユニフォームが多かった従来のものと比べ、パジャマっぽい気楽さがいいと思います。自分自身の制作部門はなくなっていたので、制作はユニクロ。2009年にバスティーユの自宅売却。

 急性膵炎に罹患後、回復し病み上がりの身ながら、2016年株式会社セブン&アイ・ホールディングスにデザイナーとして迎えられ「セットプルミエ バイ ケンゾータカダ(SEPT PREMIÈRES by Kenzo Takada)」を一年間限定で発表。
 2019年、宮本亜門演出のオペラ『蝶々夫人』の衣装を担当。
 2020年1月にはラグジュアリーホームウエア&ライフスタイルブランド「K三」を立ち上げるなど、復活を果たそうとしたが、22年にコロナ罹患により死去。
 
 ケンゾーの衣装展示。
 
 

  

  

 

 

 ファッションの展示ですから、なかなかおしゃれな女性の観覧者が多いなか、いつものTシャツ(娘が抽選で当てた賞品のトムとジェリー柄)と色落ちしたパンツ。


 オペラシティの中の大戸屋で、娘は爆弾丼、私はチキンサラダ定食。ひさしぶりの大戸屋で、私が「これ、まだ使えますか」と店員さんにたずねた紙のポイントカードは、とっくの昔に廃止されたみたいでした。そりゃそうだよね。よれよれのポイントカード、おしゃれにほど遠し。
  
<つづく>
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ぽかぽか春庭「中原淳一展 in 松涛美術館」

2024-07-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240721
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(2)中原淳一展 in 松涛美術館

 7月12日、松涛美術館で「111年目の中原淳一」展を観覧。ぐるっとパス利用。
 前回の松涛美術館のエミール・ガレ展を見たとき、あることに気づいて、その後、電車の中でも待ちゆく人をぼうっと眺めているときも、同じ感想を持ちました。私は子供が生まれてからスカートを履いたことがほとんどなく、パンツスタイルを貫いてきました。仕事に出かけるときも子連れで遊びにいくときも。
 エミールガレ展で、金曜夜間公開という時間帯だったせいで仕事帰りの人が多かったからかもしれません。半数以上がパンツスタイルだったのです。スカートの女性はカップル来館が多く、ひとり観覧でスカートの女性は少数派でした。驚き!少数派だと自認してきたパンツスタイルが、最近の社会の中で主流になっていた。

 今、町の中を行きかう女性の10人のうち半数以上がパンツスタイルなのです。 コロナ禍の数年で外に出ることが少なくなり、自宅でオンライン仕事に慣れたせいかもしれないけれど、日常がコロナ禍前に戻っても、人々のファッションは「自分が心地よく、動きやすい」というスタイルを続けています。「おしゃれで女らしい華やかな衣装」を取り戻そうという動きにはなっていなかったことが、街を歩く人のファッションを見て納得できました。

 私は、小学生だったころ、王女様のドレスもかぐや姫の十二単も好きだったけれど、おしゃれが大好きな姉と異なり、服を買ってもらうより本を買ってもらうほうが嬉しかったから、本の中に見るドレスで十分でした。少し上の世代の女性たちは、映画のオードリーヘプバーンに憧れたり「それいゆ」や「ひまわり」に描かれたファッションを真似したり、おしゃれに余念なかったけれど、私はシャーロックホームズや巌窟王の冒険に胸おどるほうでした。

 中学校と女子高の制服はスカートだったけど、暖房が十分でない田舎の女子高で、冬場はズボンも認められていました。家のなかではパジャマを室内着として暮らしていました。外出するときは姉のおさがりがたくさんあって、スカートをはきましたけれど。姉のファッションセンスは、セブンティーンなどの雑誌で鍛えてあり、高校生になると「装苑」などを見て、自分で服を作っていました。私は自分に似合うとか合わないとか考えることもなく、お下がりの服を着てすごしました。

 ファッションをアートとして眺めて楽しめるようになるまで、私が町のファッションに同調したのは、70年代前半のミニスカートブームだけでした。ぞろりと長いスカートより活動的に思えたからです。
 私が中学生高校生だったころには中原淳一ブームは終わっていました。雑誌の中の夢見る美少女にあこがれたことは、一度もありませんでした。
 
 私は、ファッションを「着るもの」ではなく「見るもの」として興味を持ってきました。この40年の間にはさまざまなファッションが流行しすたれて、またリバイバルしてきました。ココ・シャネルの服もディオールも、ファッションショーでなく、美術館の展示で見てきた私。今回の中原淳一展も、アートとして楽しめるだろうとでかけました。

 戦時色も強まってきた1930年代後半から敗戦まで、色鮮やかな服装で街に出ることは非難の的。おしゃれを封印し、もんぺを履いて銃後の女としてすごしました。

松濤美術館の口上
 イラストレーション、雑誌編集、ファッションデザイン、インテリアデザインなどマルチクリエイターと呼ぶべき多彩な活動で知られる中原淳一(1913-1983)。彼は、戦前に雑誌『少女の友』でデビューをし、挿絵や表表紙を手がけ人気を博したほか、編集にも関わっていきました。1937年に日中戦争が勃発すると、戦時色が強まる中で同誌を去ることを余儀なくされます。しかし、中原の雑誌制作への情熱は絶えることはなく、終戦の翌年の1946年には自身が編集長を務める『それいゆ』を創刊。その後も『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』、『女の部屋』などの雑誌を手がけていきました。
 中原の生誕111年目を記念し開催される本展では、こうした数々の雑誌に掲載された挿絵や表紙の原画をはじめ、デザインした衣服、アーティストとして制作した絵画や人形など、中原の仕事の全貌に迫ります。「再び人々が夢と希望を持って、美しい暮らしを志せる本をつくりたい」という想いのもと、中原が生み出したこれらのクリエイションの数々を通じて、今もなお色褪せることのない魅力を紹介します。

 1章新しい少女のために 2章「美しい暮らしのために」3章「平和な時代のために」4章「中原淳一の原点と人形制作」が、2階と地下1階に展示されていました。、

 「それいゆ」や「ひまわり」の挿絵や表紙絵、雑誌の付録やグッズとして売られた小物が並んでいました。

    

  

    

  


七人の姫より「シンデレラ」


 制作された着物とスカート
 

 初期から作り続けられた人形
  

 今回の展示で一番心惹かれた作品は、「三人のスリ」というタイトルの若くて悪い顔をした3人組のスリの人形でした。三人の友情と葛藤と破滅と。物語が立ち上がってくるようなすてきな人形でした。

イラストから作られたパネル
 



 モンペしか許されないような時代に、こっそり雑誌を開き、美しいスカートやブラウスの絵を見て心なぐさめていた少女がきっといたに違いない。どんな服もOKの時代に育ちながら、私は「動きやすいジェンダーフリーな服」が子の実でしたから、中原淳一風のフェミニン少女とは無縁でした。人には向き不向きがあるから、私には数字とファッションが合わなかった。これは仕方がない。でも、人が数字に魅了される気持ちもファッションに心躍る人の気持ちにも寄り添いたい。「美しい暮らし」など、中原淳一が人々の暮らしの豊かさ美しさを求めてきた中原淳一。

 あいかわらずのぐうたらで部屋中が床上収納になっている日々を送る私には、遠い夢のような少女、女性たちのスタイルでしたけれど、たまには「心の中だけ美しい日々」に浸るのもまたよきかな。

<つづく>
コメント (2)
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ぽかぽか春庭「アクセサリーとドレス in アクセサリー美術館」

2024-07-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240721
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩ファッションの夏(1)アクセサリーとドレス in アクセサリー美術館

 7月10日、アクセサリーミュージアムへ出かけたのは、オールドノリタケの企画展があったからです。ノリタケ展示は、2階の2室のみ。
 常設展示室では、コスチュームアクセサリーもさまざまなネックレスやブローチの展示があります。王政時代の貴族たちがきらびやかな宝飾品を権力の証も兼ねて王冠やドレスの飾りに用いたのとはことなり、市民の時代になると、デザイン性を重要視したアクセサリーがつくられるようになりました。ガラスやベークライト、プラスチックなどがアクセサリーの素材になったのです。

アクセサリーミュージアムの口上
 当館の主要コレクションであるコスチュームジュエリーも同時代の大きな経済的繁栄とともに生まれ、アメリカで開花した文化のひとつであり、流行を反映したものが多く存在しています。本展ではオールドノリタケや同時代の雑誌やドレスなどの文化資料をともに展示し、当時のアメリカ文化の魅力を紐解きます。

 ヴィクトリア女王が喪のアクセサリーとして愛用したことから西欧に広まったジェット(木の化石)


 前時代の貴族女性たちの豪華なドレスに比べ、19世紀20世紀のドレスは、シャルル・フレデリック・ウォルトやポール・ポワレの登場、ココ・シャネルの斬新さによって大きく変わりました。

 アクセサリーミュージアムの主要な展示はコスチュームアクセサリーです。時代に合わせた衣装の展示もありました。
 
 ココ・シャネルのライバルであったエルザ・スキャパレリのコスチュームアクセサリー。服の大胆さからみると、スキャパレリのアクセサリー、ぶっとんではいない。


 19世紀南北戦争後のアメリカでは、北部の工業発展とともに、大金持ちたちがニューヨークに集まり、かつ大量消費時代となりました。デザイナーたちはドレスもアクセサリーも個性を競い合い、大衆もファッションやアクセサリーの動向に注目しました。

ファッションイラスト
  

  

  

レース襟のドレス 前 後ろ
   

 18世紀までの重厚な宝石のアクセサリーとコルセットで形作る重いドレスから、19世紀終わりごろから20世紀にかけて、女性の衣装はより軽く動き安く、パーティでのアクセサリーも軽やかなプラスチックをデザインしたものなどに変わりました。
 ファッションは時代を映す鏡として、人々の脳裏にきざまれます。私の今のスタイルはほとんどがTシャツとパンツスタイル。動きやすいがそっけない。でもロングドレスもデザイナーズブランドのスーツも、見る楽しみは続きます。

 何度も通ったアクセサリー美術館なのに、自信をもって反対方向に歩いてしまいました。方向音痴はいつものことなので気にしませんでしたが、こっちでいいのかなあ、とぼうっとあるいていたら、South   Norht という方向を示す看板の角に思いっきり頭をぶつけ、おでこにこぶができました。コスチュームジュエリーで飾って目立つより、ふくらんだおでこで目立という勝負。勝負したくはないけれど。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「無量大数」

2024-07-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240718
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(5)無量大数

 春庭過去ログの中から数え方についてのコラムを再録しています。
~~~~~~~
20130605
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(4)無量大数

 子どもの頃、生活をしていて必要な数はせいぜい千の単位であり、小学生の時、はじめて父が1万円札の給料袋を持って帰ってきたときは、家中で新しいお札を眺めました。そして、マンの上には億という単位もあるのだと父に教わり、途方もない数だと思いました。億の上の兆は、中学生くらいで国家予算の額などを社会科で習ってはじめて身近な数になりましたが、日常の生活で億という単位が身近な話題になったのは、多くの人にとって1968年の三億円強奪事件がはじめてのことでした。

 兆の上に京という単位があることを知ったのは、いつごろのことだったのか、覚えていません。京は日常生活とまったく関わりのない、宇宙の果ての単位でした。
 それが、コンピュータを使うようになると、スーパーコンピュータの名前が「京」と名付けられ、一気に京が身近になりました。京とは、計算速度が毎秒1京回(10ペタフロップス)という能力を持つことを表しています。

 私にはつい最近まで縁遠かった「大きな数」。しかし、ものごとを宇宙的な規模で考える仏教哲学の世界では、そのはじめから大きな数も哲学のうちにちゃんと存在しており、サンスクリット語でそれらの数をあらわすことばがありました。そのサンスクリット語を音漢訳したのが、漢字の数単位です。仏典により、そして古代の数学書などにより数の名前と大きさが異なっていますが、一般的には、以下の通り。

「下数」一 十 百 千 万 億(10の8乗)兆(10の12乗) 京(10の16乗) 垓 杼 穣 溝 澗 正 載 極(10の48乗)
「上数」恒河沙(10の52乗)阿僧祇 那由他(10の60乗)不可思議(10の64乗)無量大数(無限大)

小さい方の数、小数もあります。「1」を10ずつ割っていくと、
一、分、厘、毛、糸、忽、微、繊、沙、塵、挨、渺、漠、模糊、逡巡、須臾、瞬息、弾指、刹那、六徳、虚空、清浄、阿頼耶、阿摩羅、涅槃寂静

 これでいくと、「刹那(せつな)の時間」とは、10の-18乗の時間にあたります。0.000000000000000000 1秒です。

 子どものころの私には、大きい数も小さい数もとんと考えられず、二桁以上の数字の暗算もできない。今でも数字が出てくると、からきしわからず、頭が混乱してしまいます。

 しかし、日本社会では、江戸時代の中頃、1627年に『塵劫記』という数学書が出版され、かけ算九九のような初歩から微分積分にあたるような高度な数学計算まで学べる数学書として、ベストセラー、ロングセラーになっていたほどで、数学に魅せられた人が大勢いました。

 絵馬を神社に奉納したなかに、算額という数学の問題を書いて神様に奉る、というものがあります。参詣者は算額を見て、その問題を解こうとします。庶民の間にも数学熱が根付いていたのです。

 全国の中でも、福島県埼玉県とならんで数多くの算額が現存する群馬県。
 昔の群馬県の子どもは、「上毛カルタ」という郷土カルタを暗唱したもんですが、その中に「和算の大家、関孝和」という札がありました。よみ手は「わさんのたいか、せきこうわ」と発声していましたが、「労農船津伝次平 ローノーフナツデンジヘー」とともに、いったい何をした偉人なんだか、大きくなるまでよくわからなかったふたりでした。
 関孝和は、吉田光由の『塵劫記』を独学して数学に才能を現しました。17世紀の世界において、西欧にも関孝和ほどの高度な数学者は数少なく、17世紀当時では世界最高峰の数学家のひとりでした。

 遠藤寛子『算法少女』(初版1974復刊2006)によって和算の魅力が知られ、冲方丁『天地明察』(2009)によって渋川春海の名が知られるなど、和算への認知が深まっている昨今、私の大の苦手の数字ですが、ときには数の世界に身を浸してみるのもよいひとときの過ごし方だろうと思います。

 ただし、私にとっての数とは、、、、月末支払い締め切りの家賃光熱費がない、、、、、、ああ、あと5000円あったら、、、、という小さな数字の世界に留まっております。相変わらずの小さな数字の世界。

~~~~~~~~~~~~~~
20240718
 2013年から10年たっても、相変わらずの貧乏暮らし。つらい数字の日々は続いています。7月10日に、初めての新札入手。北里柴三郎の千円札です。裏には北斎のグレートウエーブ。お初のものはなんでもうれしい。
 無量大数。頭で考えられるのは、宇宙の星の数くらい。そごう美術館で見たKAGAYAが撮影した星の写真も美しかった。↓の星写真は、ぐんま天文台の画像「夏の大三角と天の川」です。東京ではほとんど星を見ることができませんが、せめて画像の星を数えて、無量大数を感じましょう。数えないけど。


<おわり>
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ぽかぽか春庭「助数詞の数え方」

2024-07-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2024718
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(4)助数詞の数え方

 春庭の過去ログから、数字に関するコラムを再録しています。
~~~~~~~~~~~~~~~
20130604
 大学の留学生センターで教えていたころ、ジェスチャーや絵カードなど視覚的に日本語を導入すると効果がありました。
 文字ではなく耳からことばを覚える言語の母語話者にとって、文字は意味をじゅうぶんに把握してから身につけるもの。
 「くるま いちだい、 くるま にだい」の音(発音)を頭にいれてから「車一台、車二台」を覚えます。
 絵カードを多用して助数詞を導入しました。

 助数詞をもたない英語圏の学生は、ものを数えるたびに、紙は1枚2枚。リンゴは1個2個、車1台2台はわかるけど、小さなカメラも1台2台は納得できない、とか、とてもややこしくて覚えるのに苦労していました。

 しかし、アジアなどでは、助数詞の表現が日本語より多様な言語あります。たとえばベトナム語では

・無生物全般 cái=~個
・生物 con =~匹、~頭
・丸い物、果物など quả= ~個
・紙 tờ = ~枚 
・本 quyển,  cuốn =~冊
・細長いもの     chiếc   = ~本

 あまり混乱もなく、「そうか、紙を数えるときは、tờ=まい」と、覚えるだけで、混乱はありません。
 助数詞がない母語の学生は「スライスしてある食パンは1枚2枚と数えるのに、アンパンは1個2個とかぞえなくちゃならない。こりゃ迷うよ」となりました。昔の欧米のパン屋では、食パンを切り分けて売っていることも少ないらしいのです。(今はどうですかね)

 さて、現在の日本語教室で、クラスの多数を占めている中国。中国語には、量詞(助数詞)があります。
 一番多用される助数詞は「~个」です。个は日本語の個にあたり、若い人は何でも数えるときに「1个イーガァ、2个リャンガァ」と数えてすましています。日本の若者が何を数えるのも「1個、2個」ですませているのと同じ。
 若い日本人は「カンビール、1コ飲んだ」「きのうパソコン1こ買った」「ボールペン1こ失くした」と言います。

 ところで、一ケ月、二ケ月というとき、なぜ「ケ」を使うかご存じですか。「ケ」は、もとの漢字は「箇」でした。正式な表記は、一箇月、二箇月。
 それを簡略にした異体字が「ケ」であり、中国簡体字では「个」と表記します。个=ケ=箇

 助数詞にとまどって「ものを数えるのに、こんなややこしいことば使わなくてもよい」と投げ出す欧米出身の学生とはことなり、中国学生は、理屈さえわかれば、助数詞を毛嫌いすることはありません。

 「个=個」は、いちばんなじみやすい。
・ 一 个 人(イーガ レン)「ひとり」
・ 一 个 苹果(イーガ ピングヮ)「リンゴ 1 個」
・一 个 目的(イーガ ムーダ) 「ひとつの目的」

 たいていのものは「 个 」でOK。そのほかのものも、覚えるのに欧米学生のようには、苦労しない。馬は、現代日本語では1 頭と数えるが、中国では牛は一頭だが、馬は一匹、などの違いを飲み込めば、OK。
 日本では電車や地下鉄の車両は「一輌、二 輌」と数えますが、中国語では 自行车(自転車)も「一辆、二 辆」です。(辆は輌の簡体字)

・ 一 匹 马 「馬 1 頭」 
・一 头 牛 「牛 1 頭」 「头」は「頭」の簡体字
・ 一 辆 自行车 「自転車 1 台」 
・ 一 架 飞机 「飛行機 1 機」 「飞」は「飛」、「机」は「機」の簡体字
・一 支 烟 「たばこ 1 本」
・ 一 盒 烟 「たばこ 1 箱」
・一 条 烟 「たばこ 1 カートン」
・ 一 把 雨伞 「雨傘 1 本」 「伞」は「傘」の簡体字

 「把」は、「持ち手のある道具」に使いますから、「剪刀はさみ」も「菜刀ほうちょう」も、「把」。

・一台电脑=一台のパソコン
 これなどは、「台」は日本語とまったく同じなので、覚える苦労はなし。

 以上、助数詞のある母語の学生がいるクラスと、ない母語がいるクラスでは数え方の出てくる課の導入の仕方も変わってきます。(教科書「みんなの日本語」では11課)
 日常生活では「なんでも1コ2コ」ですませても通じますが、日本語能力試験に出題されることもあるので教えておかないとね。

 私は絵を自分で書くのは超チョー苦手なので、ネットの無料イラストを利用しています。助数詞も楽しみながら絵カードなどを利用して教えていきます。
 さて、今年の学生は、どのくらいで覚えてくれるかな。
~~~~~~~~~
20240727


 この絵カード、留学生用じゃ、ありません。最初に教えるのは「紙」と「車」の数え方。何度も書いてきたので、「なぜ車と紙なのか」の答えは正解がでると思います。 

 正解。紙は「枚」で数え、1から10まで「まい」。車は「台」で数え、1から10まで「だい」。発音が変わりません。鉛筆は、ほん、ぼん、っぽん、と発音が変わる。ジュースは、はい、ばい、っぱい、と変わる。椅子の一脚二脚やボートの一艘二艘は、中上級にならないと数えない。舟&ボートと客船汽船で数え方が変わるというのは上級。上級になると、箪笥はサオ、墓は基、豆腐は丁、などの助数詞マニアも出てきます。蝶々を一頭二頭と数えるのは、昆虫標本の英語数え方1head、2headを直訳したから。
 初級では、ひとり、ふたり位牌の次はみたり、よたり、いつたり、むたり、とは数えず、三人以上は~にんで数えると教えますが、ななたりのサムライなんて数えたがる留学生もいるかも。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「指でかぞえる

2024-07-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240716
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(3)指でかぞえる

 数と数え方についての春庭コラムを再録しています。
~~~~~~~~~~
20130604
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(3)指で数える

 かって、ネパール人がクラスにいました。彼は「私の母語はネワール語です。私は、ネワール語とネパール語と英語が話せます」と言っていたので、ネワール語というのは、ネパール語の方言なのだろうと思っていました。「青森弁と京都弁と英語が話せます」と似たような感じなのかなと。

 しかし、今年ネパール語を母語とするネパール人とネワール語を母語とするネパール人の両方がクラスにいたので、ちょっと気になって、両方の語の言語系統樹を調べてみました。すると、ネパール語はヒンディ語などとおなじようにインドヨーロッパ語族であるのに対して、ネワール語は、シナチベット語族で、全く別の言語であったことを知りました。

 ネワール語もネパール語も、ネパールの公用語になっているけれど、ネワール語母語話者は、ネパール語を学ばねばならず、小学校教育から英語教育が始まるので、義務教育修了者なら英語も話せるとのことでした。

 ネパール語の数字の言い方を教わり、書き方も知りました。「q 」というのが、「1」のことなので、びっくりです。「q 0 」とは、「90」のことかと思いきや「10」のことなんです。

 世界中の数え方でおもしろいのは、指で数える方法。
 日本人はたいてい、握り拳をつくり、1は人差し指を立て、2は人差し指と中指をたてます。薬指、小指の順に建てて、親指を立てるのが5にあたります。

 しかし、国によって文化によって指の折り曲げ方が異なる。握り拳を作って、1は小指を立て、2は薬指、3が中指、4が人差し指、5が親指、という数え方がふつう、という国もあれば、1が親指立て、2が人差し指立てと、いく国もある。この方法だと、私はどうしても、4ができない。薬指を立てるのがむずかしい。しかし、この方式で数えている文化だと、容易に薬指を立てられるのです。自分が出来ないからといって、他の人もできないと思うことはない。逆もまた真。日本語母語話者にできることで、外国人学習者にとっては難しくてたまらないことはたくさんあります。

 中国の指数え方法も独特です。5までは日本と同じですが、6は、親指と小指を建てて、中の三つを折る。7は、親指人差し指中指を立ててくっつける。薬指と小指は折る。8は親指と人差し指を立てて、あとは折る。(漢数字の八を表している)9は、人差し指だけを立てて、指先を少し折る。10は、人差し指と中指を立てて、二つの指を絡ませて重ねる。

 留学生クラスのなかで気づいた、数え方の「指サイン」。指を折るのではなく、左手を広げて、右手の人差し指でタッチして数えるのもありました。日本語の数え方の指導をするとき、それぞれの指で数える方法を教え合って、小さな「異文化交流」の時間を楽しみます。

 指の数え方もそれぞれの文化で多様だなあと思います。自分のやり方が唯一ではない。世界にはさまざまな文化があり、それぞれを尊重しあっていきたいと教えるのが、日本語教育学の第一歩です。

 かって「日本がアジアの覇者になるべきだ」という為政者を信じて、強制的に日本語を押しつける教育を行った暗い時代がありました。「日本文化が最高のものである。文化の遅れた人々を指導してやるのが日本の役目。そのために日本語を教え、土地のことばなど話させないようにする」という方針でした。姓名までも固有の名を奪い、日本名を押しつけた地域もありました。「よだか」という固有の名を奪われ「あしたからはイチゾー」と名乗れと鷹に命じられた鳥には同情の涙を流しても、固有の名を奪われた人々がいたことを忘れようとしています。

 私が担当する留学生のための日本語教室内では「その人がこう呼ばれたいという名で呼び合う」ことを基本にしているのは、「固有の文化を大切にし、互いの文化を尊重することが言語教育の基本」と信じているからです。
 日本の数え方や助数詞を教えるとき、それぞれの文化の指での数え方を披露しあうのは、「みんな違ってみんないい」を確認するためです。

 日本の小学校の教室では、金子みすずの「わたしと小鳥と錫と」が壁に貼ってあったりする所も多いのですが、現実には、ちょっとでも「教室内の空気」に反することをやろうとしたり、「大勢」と異なる態度であろうとすると、強い圧力が働き、排除される。クラスメートからも教師からも。

 運動会の入場行進でバラバラに歩くのもダメ。音楽の時間に使うリコーダー、指定業者外の笛を購入するのもダメ(他の子とちがうと指導する音楽の先生が困る、という理由だとか)

 むろん、教室では「みんなそろって」をやらないとダメな場合もあるのです。日本語教育でも「コーラス・リピート」といって、センセイの発音をクチをそろえてまねする練習があります。語学の基礎練習において、リピートは大切な方法です。
 基礎ができてはじめて「自由発話」に応用ができるので。

 センセイが「いっぽん」と言ったら学生も「イッポン」センセイが「にほん」といったら学生も「ニホン」。「さんぼん」と言ったら学生もくりかえして「サンボン」
 イチボンや、ニポンやサンホンでは、今のところ「ダメです」とやりなおし。将来、すべてのものをいっこ、にこ、さんこで数える時代もくるでしょう。今のところは、「多様な数え方」を確認した後、「日本語ではこう数える」というのを、声を揃えて学ぶ毎日です。

 そして、日本語教師は、留学生が「どうして、ホンとボンとポンと変わるのですか。不合理です。全部ホンでもいいのに」と質問してきたら、それにきちんと答える力量は必要です。漢字音の発音変化には、きちんとした法則があるからです。母語として自然にこの変化を身につけた人は気づかないうちに習得しているけれど、短期間で学ばなければならない日本語学習者には、「法則」を教えたほうがいい場合もあります。

~~~~~~~~
20240716
中国指数字 3は、日本と同じ指数字もあります

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ここのつ とお」

2024-07-14 00:00:01 | エッセイ、コラム

2024015
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(2)ここのつ、とお

 春庭過去ログの再録です。11年前の数え方についてのコラムを再掲載いたします。
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2013/06/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(2)ここのつ、とお
 
 人は言葉を使わずには生きられない生物。ネアンデルタール人も未熟ながらことばは持っていたというし、生きとし生けることばを持つ人すべてが私にとっては、ことばの先生です。あちこちお邪魔するブログの書き手から学ぶことも多い。方言を教わったり、流行の若者言葉を教えてもらったり、言葉遣いのあれこれなど。

 先日のブログで、すみともさんが「つばなれ」について書いていらっしゃいました。年齢の、「ひとつ」から成長して「ここのつ」まで育ち「とお」になると、「つ」がつかなくなる。十になると、幼かった子も、ようやく手が掛からなくなり、独り立ちへ向けてまたあらたな成長を始める。そんな内容でした。

 私は、「つばなれ、なるほど!のことばですね。これをうかがって「ようか、ここのか、とおか」は、「か(日)」が「とお」にもつくのに、どうして「やっつ、ここのつ、とおつ」にならなかったのか、気になりだしました。
「ふつか、みっか、よっか」には「か」がつくのに、どうして一日は「ひとか」ではなくて「ついたち」なのか、という質問には答えられるようになったのに、どうして「とおつ」とはいわないのか、気になりましたので、連休後半は、しばし「下手の考え休むに似たり」をやりたいと思います。」
というコメントを寄せました。
 気にならなければ、何気なく使ってほうっておく日本語、気になり出すと調べたくなります。

 さて、「とお」です。古代日本語には、いろいろな説が出されており、学者によって言うことが違っているものなのですが、これまで調べた範囲では。

 縄文語あたりでは、片手を出して、ひー、ふー、みー、よー、いつ。これでひとまとまり。むー、なな、やー、ここの。ここまでで数えるのは、終わり。
 「あとはいっぱい」「たくさん」「おおぜい」の意味が「とお」だった、という説があります。
 1個2個の個にあたる和語が「つ」ですが、現代語で「3個、4個」「5人、6人」と数えて言って、「たくさん個」や「おおぜいにん」などと言わないのと同じく、「とおつ」とは言わなかった、という説、なんとなく納得できました。
 ひとつ、ふたつと数えていき、「ここのつ」まで数えれば、それ以上は「たくさん」で済ませていた数え方があった、ということです。
 パプアニューギニア奥地などでは、つい最近まで「ひとつ、ふたつ、みっつ、あとは、いっぱい」という数え方で十分生活できました。

 胡桃の木の管理、栃の実などの木の実栽培がはじまり、やがて米作りが始まって、大きな数が必要になってきました。両手の数が「とお」に確定し、11は「十 余り ひとつ(トオマリヒトツ)」。19は、「十余り九つ(トオマリココノつ)」。「165」は、「もも余りむつとおあまりいつつ」、長たらしく面倒なので、漢字到来とともに、漢数字「いち、に、さん、しー、ごー」の方が普及しました。156なら、「ひゃくごじゅうろく」で短くてすみます。

 原日本語を話す人たちの間で、「とお」が「いっぱい」を表すのではなく具体的な数「10」を表す数え方が確定しました。
 その後に日付の呼び方が出来上がったので、「とお」にも、ふつか、みっかの「か=日」がついた、ということになります。

 ちなみに、一日を「ひとか」と言わないのはなぜ?というのも、日本語語彙論の定番クイズです。
 太陰暦を使っていたころは、月のはじめは必ず新月、月が立ち上がる日でした。「月立ち→ついたち」
 こちらも、日本人学生は「どうしてツイタチというのか、考えたことなかった」と言います。

 ついでに日本語の倍数体系について。hiの倍数がhu。miの倍数がmu。yoの倍数がya。倍数がちゃんとわかっていて、倍数同士で対になっている数え方。これを教えると、留学生は、古代日本語の知恵にちょっと感動します。
~~~~~~~~~
20240714
 六文銭。大河ドラマ「真田丸」、おもしろかったな。ななつ星。いまや天道虫の異名ではなく、九州電車クルーズの高級旅。八宝菜。子供のころ、醤油砂糖で煮しめる味付け以外の料理を、母が最初に覚えた料理。誕生日などに好きな料理を所望していい時、三姉妹それぞれ「八宝菜」とリクエストしていた母の味です。九曜紋。熊本細川家の家紋です。今回永青文庫の「九曜紋展」にも出かける予定です。
       

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ひとつふたつ」

2024-07-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240613
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>数え方の世界(1)ひとつふたつ

 数と数え方についての春庭コラム再録です。
~~~~~~~
20130603
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ことばの知恵の輪・数え方の世界(2)ひとつふたつ 

 世界中にさまざまな数え方があります。
 日本語学や日本語教育学を学ぶ日本人学生には各国の数え方を調べて発表してもらいます。

 まず、学生に英語で数えさせます。英語では12までがセットになっていることが確認できます。13は「3と10」19は「9と10」という数え方をしています。
 そのあと私から、スワヒリ語の数え方を紹介します。ジャンボ!と挨拶してから、「モジャ、ンビリ、タトゥ、ンネ、タノ、シタ、サバ、ナネ、ティサ、クミ。11はクミナモジャ(10と1)クミナンビリ(10と2)という数え方なので、日本の数え方と同じしくみであることを確認します。次に「アイヌ語とフランス語の紹介をします。

 母語の他の言語を学ぶと言うことは、自分の属していない文化の考え方を学ぶと言うこと。多様な世界の多様な考えからさまざまな文化があることを意識し、決して日本語の考え方が世界の中で特殊でもへんでもなく、日本語はごく平凡な言語であることを知らせます。ただ日本語の漢字仮名交じり表記は世界のなかで、めずらしい表記方法であることもあとで学生には知らせます。3種類の文字を混ぜて表記するのは、世界では特殊なやり方ですから。

 12進法が主流であったラテン語系の言語。英語も12までが特別な言い方で、13からは、規則的で覚えやすい。
 フランス語では、1~15までが特別な数え方で、17,18,19は、日本語の「じゅう、しち」「じゅう、はち」「じゅう、く」というのと同じ数え方。20は英語と同じく別の言い方になるのはいいですが、70は「60+10 soixante-dixソワサント ディス」となり、71は「60+11ソワサンテ オンズ」。80は「4×20 quatre-vingts キャトルヴァン 」90は、「4×20+10 quatre-vingt-dix キャトルヴァン ディス」
 これじゃ、かけ算九九を唱えるのがたいへんだと日本語母語話者の私は感じてしまいますが、子どもの頃から使っていれば、何不自由ないのでしょうね。不思議。

 とりあえず、20までは、フランス語もふつう。
0 zero ゼロ
1 un,une アン、ユヌ
2 due(X) ドゥ
3 trois トロワ
4 quatre キャトル
5 cinq サンク
6 six シス
7 sept セット
8 huit ユイット
9 neuf ヌフ
10 dix ディス
11 onze オンズ
12 douze ドゥーズ
13 treize トレーズ
14 quatorze キャトルズ
15 quinze キャーンズ
16 seize セーズ
17 dix-sept ディセット
18 dix-huit ディズユイット
19 dix-neuf ディズヌフ
20 vingt ヴァン

 アイヌ語の数体系も、十進法に慣れた身から見ると、ちょっと不思議。7までは、日本語と同じ進み方。日本語の「個」にあたる「ペ」をつけて数えてみましょう。

1シネプ 1 個
2 トゥプ 2 個
3 レプ 3 個
4 イネプ 4 個
5 アシクネプ 5 個
6 イワンペ 6 個
7 アラワンペ 7 個

 8は「トゥペサンペ あと 2 個で 10 個 」と言います。9は「シネペサンペ あと 1 個で 10個」、10は、 ワンペ 10 個。ホッネプ 20 個 。
 40になると、フランス語と同じくかけ算が出てきます。40「トゥ・ホッネプ 2 × 20 個」。50は、「50 ワンペ・エレ・ホッネプ あと 10 個 で 3 × 20 個」。

 100「 アシクネ・ホッネプ 5 × 20 個 」
 世界の多くの文化では、両手の数「10」を基本単位とする数え方が主流ですが、アイヌ語は両手両足の数「20」が基礎単位であることがわかります。「100」が「5×20」でよいのなら、なぜ「50」は「5×10」じゃないのだ、と思いますが、それぞれの文化にそれぞれの数え方。「20」が基礎単位なので、50は、「20×3にあと10個足りない」すなわち、「手足の指が3人分にはあと10個たりない」と表現するのです。

 このような数え方の違いを認識させるのは、「日本語学基礎」として、思考方法や言語表現は、それぞれの文化によって独特であり、自分の考え方ややり方がすべてではない、世界には多様なもののとらえ方があり、多様な文化があるのだと知らせるためです。数の表現と色彩表現は、文化によって様々です。

 かって、石原慎太郎氏はフランス語の数の数え方を馬鹿にしたことがありました。この発言があったのは、都庁内で開かれた首都大学東京の支援組織の設立総会。祝辞のなかで「フランス語は数を勘定できない言葉だから、国際語として失格しているのも、むべなるかなという気もする。そういうものにしがみついている手合いが結局、反対のための反対をしている」と述べて、フランス語関係者から批判を浴びたのです。
 自分のやり方考え方だけが正しくて、他者はダメだと決めつける。こういうのを夜郎自大と言います。

 橋下大阪市長が「軍隊に慰安婦は必要だった。他国でも同じコトをしたのに、日本だけが非難を浴びせられることはない」と自分の主張を変えずに、世界中から総スカンをくらいました。6月中旬にアメリカ訪問する予定だったのに、アメリカの要人は、「こんな危険人物と会談したのでは、自分までが愚かな人間と思われてしまう」と、会談拒否が相次ぎ、ついに訪米断念。
 石原氏も橋下氏と同意見だそうで、「維新の会」のものの考え方がよく表れた舌禍事件と思います。(橋下氏は発言によって傷ついた人へのおわびはするけれど、主張を変える気はないとのこと)。
 夏の選挙シーズンに向けて、今後の票の数え方、さて、どのように数えるのでしょうか。

~~~~~~~~~~~~
20240613
 子供のころから数字が苦手。数とは70年以上、相性が悪かった。数字が絡むと思考停止になってしまう。
 人をちゃんと見ていない夫は、ごく最近になって「母は、数字がわからないんだよ」と新発見のように言ったというので、娘はあきれていました。そんなことは子供の頭でもわかっていた、と。父が今まで気づかないでいたのは、人をちゃんと見ないで、自分の思い込みだけで判断しているからだ、と娘は両親を冷静に観察していました。

 この程度の数字は小学生でもわかる、と夫が思い込んでいてそれをすべての人に当てはめようとするから、妻が数字に弱いことに目をくれないでいた。私が仕事をリタイアして、いままで仕事先の計算に任せていた収入支出の計算を夫に頼みました。計算大好きな数字に強いと豪語する夫は張りきって計算し、私に説明しようとしましたが、私に説明しても理解できないことがようやくわかったみたいです。
 「投資詐欺なんかに引っかからずに来たことだけでも上出来だ」と、夫も納得したようす。でも、うまい儲け話にのってみたいと、思っているので、気をつけないと。

 とにかく数は苦手。夜寝るときも。ひつじが一匹羊が二匹、、、、あれ、これって一匹なの三匹なの?

 トイストーリーのボーピープ羊

<つづく>
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ぽかぽか春庭「雑草園の手入れ by 95歳庭師」

2024-07-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240711
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024に十四節梅雨(4)雑草園の手入れ by 95歳庭師

 毎年お世話になっている庭師のスズキさんに、今年も雑草園の手入れをお願いしました。2015年に90歳で死去した姑の4歳年下ということで、スズキさんは1929年生まれ、今年95歳。現役の庭師です。ほんとうにお元気で鋏を使いこなす姿、立派だなあと思います。

 7月8日、朝8時半から剪定開始。楓の木が隣の敷地まで枝を伸ばしてしまったのを切ることと、ぼうぼうに広がってしまったガクアジサイの剪定を依頼。
  炎天下、東京市中も37度まで気温上昇という予報だったので、1時間ごとに休憩していただき、冷茶や冷おしぼり保冷剤などをお出ししてしのいでいただきましたが、梯子をかけて楓の伸びすぎた枝を切ってもらうときは、はらはらしながら見守りました。

 楓も伸びすぎた南天もガクアジサイも、すっきり剪定してもらい、雑草伸び放題の庭もきれいになりました。

 久しぶりに雑草がなくなって地面が見えた

 作業が終わって一息つくいつもの世間話。変わらず元気に仕事を続けるスズキさんに元気をもらっていることを話すと、鈴木さんは「私、10年前からボランティアもやっているんです」と、区の広報6月号のボランティア紹介特集に載ったことをちょっと得意そうに話してくれました。そして、「今も持ち歩いているんで、さしあげます」と、広報誌をくれました。

 もともと理科教師だったスズキさん。10年前80歳半ばでボランティアに誘われ、植物や環境保全についての知識を生かしたいと、区立公園内のビオトープで、池の手入れ、巣箱作り、腐葉土つくりなどの活動を月2回行っているという区報の記事でした。

 区広報誌のボランティア特集のスズキさん
  

 3月発行の区報に100歳の現役薬剤師さんが紹介されていました。百歳の薬剤師も95歳の庭師もみんな元気。75歳高貴幸齢者、まだまだひよっこです。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「夏ーゲリラ豪雨、選挙」

2024-07-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20240709
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記梅雨時(3)夏ーゲリラ豪雨、選挙

 猛暑日の6日、郷さくら美術館を出て渋谷へ。松涛美術館で中原淳一展を見ようと思ったのです。渋谷着午後3時前。松涛まで歩くかどうか迷いましたが、ちょうどハチ公バスが来たので乗りました。ところが、行先違いでした。神宮の杜コースに乗ってしまい、原宿千駄ヶ谷代々木を回る。ハチ公バスのルートをよく知らないので、乗っていればそのうち渋谷駅前に戻るだろう、と渋谷周辺の観光をするつもりで乗っていました。100円で観光できる。渋谷から青山通りは、世界の有名ブランドが集合して店を構えている。へぇ、このブランドも、と買ったことないブランドの店構えを眺めて、東京体育館や国立能楽堂など、車窓観光をしているうちに、なんだか空がへんな色だなあと思っていたら、スマホの狭い地域の天気予報を見ているカップルが「落雷注意報だって」と話している。果たして渋谷に戻るとものすごい稲光と雷鳴。どしゃぶり。

 「雷と空っ風」が名物の田舎に育った私でも、これほどのカミナリは初めて、と思うくらいでした。駅の通路は、降り注ぐ豪雨で一帯が1~2cmくらい冠水しています。みな、この豪雨をスマホで撮影している。帰宅後ニュースを見ると、マンホールから溢れた雨水が2階くらいの高さまで吹きあっているし、もうめちゃくちゃなゲリラ豪雨でした。これまでニュースで見てきただけで、ゲリラ豪雨のまっただなかにいたのは初めてだったので、ただただ口あんぐり。松涛はまたの機会にして帰宅しました。最寄駅から家までは降られなかったですが、ひとり留守番の娘は「近所に雷が落ちたみたいで、こわかった」と。
 郷さくら美術館の涼しさを味わう絵画展でしたが、最後は涼しい以上に激しい気象でした。

 夏の天気、長梅雨もいやだろうけど、雨が降らないのも水不足や農業のために困る。いつもニュースで見て「たいへんだな」と思っていたゲリラ豪雨。出先で経験し、実際の土砂災害などの被害にあわれた方、お気の毒にぞんじます。渋谷は暗渠になっている渋谷川も危険水域まで増水したとニュースで言ってましたが、被害はなかったようです。
雷鳴。どしゃぶり。

 7月7日は、猛暑の中、緑道を歩いて投票所へ。ボランティアグループが世話をしているのか、そこここに花もさいていました。
 

 

 

  30分ほどの選挙散歩から帰り、シャワーを浴びたあと、夕方まで昼寝。高齢者の熱中症予防と言い訳しつつ、やはり昼寝はぜいたくだなあと感じてしまいます。働かざる者、食うべからずが染みついている貧乏人。60年近く働いたのだけど、年金じゃ食っていけないことを思うと、選挙結果がどうであれ今よりよいことは起きないとぼやきながらの昼寝。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「東京Citypop花火」

2024-07-07 00:00:01 | エッセイ、コラム

20240707
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2024二十四節季日記7月(4)東京Citypop花火

 毎年の花火見物。去年は荒川花火の打ちげ場所近くの席でした。ビール会社の懸賞に当選してのビール飲み放題の快適花火見物。
 年をとると、日が高いうちから場所取りをする体力がなくなる。今年は娘が「府中市制70周年記念CityPop花火大会」の有料席を奮発。
 府中の東京競馬場で開催された、音楽と花火のコラボ演出の進化系花火です。


 5時開場の府中競馬場。京王線で行くかJRで行くか迷ったけれど、JR府中本町に6時に到着。府中本町競馬場口から競馬場までは直結の歩道橋があるので、初めての競馬場へ迷うことなく到着。

 夜の大井競馬場でイルミネーション見物したことはありますが、明るいうちの競馬場を見るのは、娘は初めて。私は50年前に一度府中競馬場で競馬見物をしたことがあって、それ以来。「へぇ、競馬場ってこんなに広かったんだ」と、娘は競馬場の広さに改めて感心。

 私たちの席は、府中本町側の西口から一番近いGエリア。はじっこなので、曲名と歌手名の大型ボードはちょっと斜めになりましたが、打ちあがる花火はとてもよく見えました。屋根の下の席だと、空高く打ちあがった花火が屋根に遮られたところもあったということなので、Gエリアはよい席だったと思います。

 シティポップは、70年代後半から80年代に街に流れていた都会的で洗練された流行の歌。学園紛争当時の60年代後半70年代前半の暗めのフォーク調からうってかわった明るい曲調でした。私は子育てと2度目の大学の学生と夫の仕事の手伝いと日本語教師という4足の草鞋の真っ最中でしたから、音楽を楽しむ余裕も無い生活。この時代の曲は、ほとんど90年代以後にリバイバルやカバー曲で聞いたものばかり。最近は、昭和ポップスやシティポップスが若い人にも聞かれているらしく、テレビの音楽番組でときどき聞いています。

 出てきた楽曲は、大型パネルに曲名と歌手名が表示されましたが、はじめて聞く曲も多くて、あまり覚えていません。娘も生まれたころの歌ですから、カバー曲で聞いたほかは、知らない曲もあったそうです。ユーミンの中央フリーウエイは、府中の東京競馬場とビール工場が歌詞になっているのだからぜったいにかかると思っていたけれど、と。夏のイメージの曲が大音量で流れました。

 松任谷由実「中央フリーウェイ」大滝詠一「夢で逢えたら」EPO「うふふ」杏里「悲しみがとまらない」南佳孝「スローなブギにしてくれ」など、私でも知っている曲がありました。ほかに、山下達郎竹内まりや杉山清貴稲垣潤一吉田美奈子大貫妙子など。
 曲にぴったりと打ち上げのタイミングが合わせてあるし、寺尾聰 「ルビーの指輪」では、大きなルビーがついた指輪がそらいっぱいにいくつも出て見事でした。

 インターバルなしに、次から次に打ちあがる花火に見とれて、ビールを飲むあいまもありませんでした。 娘が言うには、ホームページには、持ち込み飲食はできない、との注意書きがあったとのことでしたが、花火開始の前の周囲のようすでは、みなおにぎりとかサンドイッチとか、持ち込み品を食べています。私も、ゆでてきたとうもろこしをたべました。持ち込みの缶ビールは、花火を見ながらと思っていたのですが、飲む時間がなかったので、終了してから規制退場の待ち時間に飲みました。規制退場、Gエリアは西口に近いので、ほとんどの客は終了と同時に出口に向かい、規制退場がGエリアになったときに残っていた客はごくわずか。

  

  

 さまざまな色や形を工夫した花火師さんも、曲と合った演出をした演出家も、すばらしいアーティストだと感じ入りました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ル・コルビジェの絵 in 大倉集古館」

2024-07-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
ル・コルビュジエ《奇妙な鳥と牡牛》(タピスリー、1957
20240616
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩梅雨(3)ル・コルビジェの絵 in大倉集古館

 上野にある世界遺産の西洋美術館を設計したル・コルビジェル(1887~1965)。西洋美術館でル・コルビジェ展があったとき(2019年2月19日-5月19日)、140点展示されたのを見逃しました。
  次に国立西洋美術の近代絵画室に特集が組まれ、ル・コルビジェの絵画が展示されました。ル・コルビジェの絵画を収集してきた大成建設からの貸与展示でした。写真撮影自由の西洋美術館の中、ル・コルビジェは、一部の絵が撮影は禁止でしたが、自由に撮影できた絵もあり、楽しく鑑賞できました。2022年5月25日に鑑賞。
 このときは、コンポジションなどの抽象的な絵がほとんどで、私の興味も建築との相関関係でしたので、絵が好きだからもっと見たいという感じではありませんたした。

 今回のル・コルビジェ展は。西洋美術館にも貸し出していた大成建設所蔵の絵画のうち130点が、大成建設と大倉集古館の共同開催で「特別展 大成建設コレクション もうひとりのル・コルビュジエ~絵画をめぐって~」として展示されました。(2024年6月25日ー8月12日)
 
 大倉集古館の口上
 まもなく没後60年を迎える建築家ル・コルビュジエは、20世紀を代表する建築家として知られていますが、同時に数多くの美術作品を残大成建設株式会社(社長:相川善郎)は、公益財団法人 大倉文化財団 大倉集古館(東京都港区)と共同で「特別展 大成建設コレクション もうひとりのル・コルビュジエ~絵画をめぐって~」を2024年6月25日(火)から8月12日(月・祝)の期間、大倉集古館にて開催いたします。 したアーティストでもあります。本展では、世界有数の点数を有する大成建設のル・コルビュ・kkジエ・コレクションの中から、美術作家としての業績をご紹介いたします。彼の素描やパピエ・コレがまとまって公開されるのはおよそ30年ぶりとなります。 

 でかけた6月28日は、東京や神奈川にも大雨警報が出たどしゃぶりの一日。六本木一丁目駅からエレベーターで住友王国を抜け、スエーデン大使館前からスペイン大使館前を通り、アメリカ大使館前で曲がってホテルオークラエリアへ。このあたりでは、歩行者は少数派。大雨の道、スペイン大使館前の水たまりでは、スピードを落とさないで走り抜ける車が大きく水をはじき、びしょ濡れ寸前。あやういところでした。高級車というのは、歩く人のことは目に入らぬものか。ぷんぷん。雨のため見えにくかったんだろうと、貧乏人の心優しき解釈をしてひたすら歩く

 明治期日清日露戦争時に、武器を売りまくって大財閥となった大倉喜七郎が、収集した美術品を一般の人のために開館した大倉集古館。日本最初の私立美術館です。関東大震災で焼失した代大倉集古館の二代目として伊藤忠太の設計により完成し、2019年に耐震設備と地下展示室を加えてリニューアル開館。大倉集古館は、ぐるっとパスで入館できるので、パスを買うたびに訪れる美術館です。日本や東洋美術の展示が多かったので、ル・コルビジェの絵画展示は意外でした。娘は美術展で必ず買っている記念のクリアファイルを買い、私はめったに買わない図録を買う。

 2階展示の初期作品から観覧。
ピュリズムから詩的なオブジェまで
展示はル・コルビジェの油彩、素描、パピエ・コレ、版画、タピスリー、彫刻など。素描やパピエ・コレ作品がまとまった公開は約30年ぶりだそうですが、私は30年前には見ていないので、今回がお初です。
 
 ル・コルビュジエは、本名シャルル=エドゥアール・ジャヌレ・グリとして 1887年にスイスに生まれました。1917年に故郷を出てパリに定住し、画家アメデ・オザンファンとともにキュビスムを批判的に継承しました。「ピュリスム」を提唱。ピュリスム(ピューリズム。Purisme、Purism。純粋主義)とは、シャルル=エドゥアール・ジャヌレ(ル・コルビュジエ)とアメデエ・オザンファンが、フランスで、その著作『キュビスム以降』(Après le Cubisme, 1918年)およびその雑誌「レスプリ・ヌーヴォー(エスプリ・ヌーヴォー。新しい精神)」(L'Esprit Nouveau, 1920年から1925年にかけて28冊を刊行)において主張した、絵画の形式です。ピュリスムは、機械時代に即し、大量生産の工業製品を普遍的なオブジェとしてそこに美を見出し、対象を幾何学的な形態にまで単純化し、黄金比や正方形を基準にした厳格な構図によって画面を構成しました。 

 ル・コルビジェの絵。初期にはヴァイオリンや瓶などの形を画面にコンポジションとして構成することに主眼がおかれていました。

 静物 1921      ファベーラ(リオデジャネイロのスラム)1929
 

犬とコップのあるコンポジション1932    レア 1931
  

 2階の初期絵画の次の進展は、「女性像」。豊満な女性像、レジェに似ているなと思ったら、ル・コルビジェは1920年にレジェと出会っていました。 
 ルコルビジェは、1929年の船旅で客船の中で出会ったジョセフィン・ベーカーに惹かれました。ジョセフィンは黒人公民権運動や女性の地位向上に活動する歌手。積極的に活動する生き方と豊満な肢体。ル・コルビジェの好みの女性像は、以後一貫しています。ジョセフィンと結ばれることはありませんでしたが、残された女性像の素描は、以後に描かれたたくましく力強い女性像のプロトタイプに見えます。「レスリングをする女」など、強い女性が好きなのは妻イヴォンヌ・ガリとの結婚後も一貫しています。イヴォンヌとは1922年に出会い、1930年に43歳で結婚しています。結婚後フランス国籍取得。

イヴォンヌ・ガリ 1929

 イヴォンヌは1957年、ル・コルビジェ70歳のときに。先立ってしまいました。

サーカス馬と女 1929

 踊る女性歌う女性、スポーツなどの体を動かす女性へのまなざしは強い女性への讃仰 に満ちています。
 女性のアコーディオン弾きとオリンピック走者 1928-1932

しかし 具象的な女性像は、しだいに変形していきます。最愛の妻イボンヌを描いた「長椅子」に座るイボンヌの姿は、ソファの上に溶けかかっているようです。
 長椅子ソファに座る裸婦と犬 1934

 アコーディオンに合わせて踊る女 1949
 

 第二次大戦後のル・コルビジェは、建築の仕事と並行して絵画制作もすすめていました。

 コンポジション 1963

 女と手 1948-1949

 チャンディガール 1953

 インドのパンジャブ州チャンディガールは、ル・コルビジェが都市計画を手掛けた都市です。ル・コルビジェが町のシンボルとしてデザインした鳥と手のモチーフは、ル・コルビジェの死後、チャンディガールにモニュメントとしてつくられました。

女のいるコンポジション 1955

 1950年ころからル・コルビジェは、パピエ・コレの制作を始めます。パピエ・コレは、折り紙や新聞紙を貼り付けていく作品です。

 リトグラフ「行列」1962



 また、タピストリー産業が衰えたことを憂えて、タピストリーの原画を提供するようになりました
タピストリー「奇妙な鳥と牡牛」1957


 地階には、ル・コルビジェの著作も並んでいました。

 ル・コルビジェは、 1965 年に77歳で死去。葬儀はルーブル宮で国葬として営まれました。

 ル・コルビジェの最初期から晩年の仕事まで年代順に作品を見ていくことができ、特に女性像は初めて見ましたから、強くたくましい女性像を好ましく思いました。
 水彩画の公募展ですらりとした美しい女性像が並んでいるのを見た2日後のル・コルビジェでしたから、レボリューション婆は強いレスリングで取っ組み合いをしている女性像に心惹かれました。

 世界遺産「西洋美術館」設計者というほか、これまで知ることがなかったコルビジェについて、全貌を知ることができ、私好みの女性像の描き手であったことがわかってよかったです。

<つづく>
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