春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭 2012年12月 目次

2012-12-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


ぽかぽか春庭 2012年12月 目次

12/02 十二単日記2012年秋(19)区民コンサート&合唱祭

12/04 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>音楽映画(1)オーケストラ
12/05 音楽映画(2)ドン・ジョバンニ&カストラート
12/06 音楽映画(3)永遠のマリア・カラス

12/08 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>悪人映画(1)ピカレスク
12/09 悪人映画(2)悪人
12/11 悪人映画(3)赤と黒・大陽がいっぱい

12/12 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>移民映画(1)オレンジと太陽-児童移民の悲劇
12/13 移民映画(2)ミリキタニの猫と尊厳の芸術展
12/15 移民映画(3)ルアーブルの靴みがき

12/16 ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年のケニア便り(45)ケニアの踊るモンキー娘
12/18 1979年ケニア便り(46)ソマリ族の結婚式
12/19 1979年ケニア便り(47)エンブタウン
12/20 1979年ケニア便り(48)タマちゃんと動物孤児院
12/22 1979年ケニア便り(49)イスラム女性の割礼
12/23 1979年ケニア便り(50)キクユ族の結婚式でいねむり
12/25 1979年ケニア便り(51)田舎町カプサベット

12/26 ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年10月~12月読書メモ

12/27 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年末(1)年末整理整頓
12/29 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年末(2)じねんじょ
12/30 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年末(3)2012年回顧

東京都庁南展望室から、2012月12月の西の空を望む


 肉眼では見えていた富士が写真ではよくわからないですが、外人さん達が「サイコー」と大喜びしているのを見て、富士はやっぱり最高の日本ブランドだなあと思いました。
 西の空に差す光、「天使の梯子」(薄明光線、英語: crepuscular rays))が、希望を運ぶように感じました。
 
 みなさま、よいお年をお迎えください。
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ぽかぽか春庭「2012年何もなかった回顧」

2012-12-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年年末(3)何もなかった回顧

 世間様ではいろいろあったようだけれど、私自身の今年はどうだったかと振り返ると、振り返るほどの年ではなかったと、毎年年末に思うのです。まったく、たいしたことのない毎日で、ささやかな日常が続くだけの日々。
 2012年の1年をふりかえるほどのことはない年だったとは思うのですが、でも、振り返っておきましょう。ささやかな人生のささやかな日常を。

 これはクリスマス定番のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生! (原題:It's a Wonderful Life)』を見て、どんなささやかに思える人生であっても、やはりすばらしいものと、自己肯定できる気分になった効果です。いやあ、映画ってすばらしいですね。
 『素晴らしき哉、人生!』は、毎年、クリスマスシーズンにアメリカでくり返し上映されるという映画です。

 世界へ飛躍したいという若者らしい夢をあきらめ、父の事業を継いだジョージの物語。小さな田舎町を出ることなく、妻と4人の子のために黙々と働き、友人を助けてきた人生。絶望の淵にたったとき、そのささやかな人生がどれほどすばらしいものであったかを、クリスマスに降る雪の中で気づく、というストーリーです。1946年の白黒映画。今はパブリックドメイン(著作権切れ)になっています。

 私は、毎日の日誌はmixiに掲載しています。(読めるのは私ひとりですが)
 日誌は、仕事に行ったこと、映画館や美術館へのおでかけメモのほか、たいしたことは書いてありません。何事もない平凡なのがありがたいことなのだと思いますけれど。

 2012年、夏に姑の体調が悪くなったけれど、なんとか持ち直しました。娘がおばあちゃんの病院通いなどによくつきあってくれて助かりました。

 娘が報告するには、「おばあちゃんが、病院で患者仲間のお年寄り達とおしゃべりすしているのを聞いていたらね。衝撃の発言をしていたの。おばあちゃんが言うにはね」。

 孫が5人いて、上の4人は期待はずれだったのだけど、一番下の孫がまだがんばっているから、希望が残っていると。
 「その期待はずれの上の4人のうちの一人は、私だよ。私が今ここにいて、おばあちゃんの病院付き添いをしているのに、期待はずれの孫って、平気で言えるおばあちゃんってとこが、父の母親らしいとこだよね。でも、その父に一番似ているのが私だから、、、」

 保育園小学生のころは天才かと思うくらい頭が良かった娘。中学生のころは普通の秀才になり、生徒会役員になったところ、教師と生徒の対立に巻き込まれました。その教師から「内申書に悪口をいっぱい書く」と脅されて不登校になったけれど、内申書を成績判定に用いない単位制高校から大学へ進学。かろうじて大学卒業したけれど、社会でばりばりに働くキャリアウーマンというものにもならない娘は、おばあちゃんの期待にはそえなかったというわけです。でも、私は、料理上手で心やさしい娘が大好きです。このクリスマスにも、とってもおいしい苺ショートケーキを作ってくれました。いつもの年よりおいしくできたと思うので、そう言うと「いつもよりも高い苺を買ったから」と言います。甘王という種類、ほかの苺の倍以上の値段なのだって。

 息子はこの12月に「不満足な出来」と言いながらも、修士論文を提出できてほっとしています。お祖母ちゃんは「孫が博士号とるまで長生きする」と言っているので、これもばあちゃん孝行のひとつ。「イマドキ、博士号とったくらいじゃ就職できないことはわかっているけれど」と、息子は将来を悲観しつつの日々ですけれど。

 息子、新しいブルーレイを置くにあたって、古いビデオテープを捨てるべく整理整頓しました。見たかった映画や演劇などをアナログテープ録画して、結局「いつかもう一度見るかもしれない」と、とっておいただけのものなど、多数でてきました。「野田秀樹の赤鬼ロンドンバージョン」とか「歌舞伎二十四孝」とか。「これ捨てるよ」と言われると、なんだかもう二度と手に入らない気がしてしまうのですが、思い切って断捨離してしまいましょう。

 私自身は、相変わらず失敗つづきの日常。
 この12月にもあれやこれやの失敗。叔父の葬儀のために故郷へ帰ったときのこと。いつも駅まで迎えにきてくれる妹が「NPOの会議で四つ角にいるから、時間があるなら四つ角まで歩いてきて」というので、久しぶりに故郷のメインストリートでも歩こうかと、ビュウビュウと北風の吹き付ける中を歩きました。新しい道路ができていて、そちらの道に入ってしまったらしく、違う方向へ進んでしまいました。道なりにずっと進めば四つ角と思ったのに、自分がどこにいるのかわからなくなりました。

 方向音痴は若い頃からの習性だから、とくにボケたとも思わないのですが、さすがに自分の生まれ故郷の道がわからなくなったのには、感慨深く「故郷は遠くなりにけり」と思いました。
 ものがどこかにカクレンボしてしまい、あの本も鍵も、どこかにしまわれたまま、出てこない、というのもしょっちゅうです。

 あれやこれやの失敗もあるけれど、事故や事件、病気で身近な人を失った方、仕事を失った人などに比べれば、一病息災ながら生きていられて、家族もなんとか暮らしているという今の環境に感謝しなければなりません。
 
 政権変わったけれど、何も期待できないし、政治、ますます悪くなる予感。
 何事もない1年だったけれど、何事もなかったことに感謝して、新しい年を迎えたいと思います。

 みなさま、よい年をお迎え下さい。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「じねんじょ」

2012-12-29 00:00:01 | エッセイ、コラム

2012/12/29
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年末(2)じねんじょ

 友人との「忘年おしゃべり会」。27日には、同窓のA子さんと食事しました。
 「体にやさしい食べ物」志向のA子さんが選んでくれたお店は、「自然薯料理」。じねんじょの酢の物やとろろ汁など、自然薯尽くしコースと、生ビールと日本酒で話が弾みました。
 
 A子さんやミサイルママとのおしゃべりでは、気兼ねなくシングルマザー家庭(&その、もどき)の家庭生活の愚痴や不満なども話せるので、気楽なおしゃべりができます。
 ミサイルママは、「同じジャズダンス仲間といっても、ほかの奥様たちはご主人の給料や年金で何不自由のない生活をおくっているので、母子家庭でお金が足りない話ばかりしたのでは気がひけるけど、e-Naちゃんちも同じようなものだと思うと、愚痴も平気で言える」と打ち明けます。

 いろんな人がいろんな考え方を持ち、いろんな感性でものごとを見て、私の気づかなかったものの見方感じ方を教えて貰えるひとときも貴重な時間ですし、同じ環境で同じ愚痴をこぼせる相手との愚痴合戦も必要なこと。
 A子さんとのおしゃべりは、母校が同じというだけでなく、いろいろな考え方が近いということで、政治や宗教その他、「相手の考え方を否定しないように」などと気をつかう必要もなく話せます。

 A子さんもひとり息子さんの大学進学の問題点などの、同級生の親御さんなどには言いにくいぶっちゃけ話もしてくれるので、私も、あのときは、ああすればよかったのかも、こうすればよかったのに、という反省点も含めて、「子育て失敗組」のひとりとして、経験談ができます。

 A子さんの今年の課題は、原発問題。子ども達の将来に不安を残さないよう活動してきたのですが、結局のところ、選挙では原発問題は人々の選択肢にはならず、ひたすら「景気よくしてもらいたい」ということを望む結果となりました。

 新政権党の「景気対策」は、とにかく今をよくして、ツケは将来に回す方式。ばらまき行政、お札をじゃんじゃん印刷してインフレにする、国債を制限無しに発行する、というような政策をとって、ツケはあと回し、将来、子ども達が幸福な未来を迎えられるのでしょうか。
 と、心配していても、人々にとっては、若者全体の雇用問題なんぞを考えるよりは、うちの子うちの孫によい就職先を世話してくれるコネの作れる議員さんが必要なのだ、ということなのかもしれません。まあ、これもそんなコネをひとつも持たないわが家のひがみかもしれませんけれど。

 A子さんとのおしゃべりとおいしい料理は楽しかったですが、将来のことを思うと、気が沈みます。
 コンクリートの防壁では海岸は守れませんでした。フクシマでは津波が襲う以前に、地震そのもので原発は破壊されていました。それでも、人々はコンクリートで固める国土や原発の稼働を選んだ。小選挙区制度により全国得票率27%で衆議院過半数議席を確保した与党が、これからこの国をどう切り回すのか、

 新政権、早くも威勢のいいことをぶち上げています。安倍首相は「戦争できる国になるには、平和憲法はじゃまだから廃棄しよう。自衛隊を国防軍に。」という持論ですが、その他の議員さんたちも、目には目を歯には歯をという考え方みたいです。
 文科省副大臣になった谷川弥一議員は、記者会見で「いじめを防止するには、ボクシングとかプロレスとかできる怖い先生を各学校に配置すること。格闘技出来る先生がいないなら警察OBを配置すればよい」と、述べたというニュースに、口あんぐりです。
 小学校中学校に警官を配置すればイジメはなくなる、という考え方の人たちがまた学校をいじくり回して、大津いじめ事件の一応は決着したというこの後も、いじめも暴力も続くことが懸念されます。

 銃社会アメリカでの小学校での銃乱射事件。26人もの先生と生徒の死亡事件のあと、全米ライフル協会は「銃を持った悪い奴を倒すのは、銃を持ったよい人しかいない。全学校に銃を持った警察官を派遣すべきだ」と述べました。12年前の1999年、コロラド州のコロンバイン高校で起きた乱射事件のことを思い出してほしい。コロンバイン高校には、武装した保安官代理が駐在していたにもかかわらず、乱射事件は起き、13人が射殺されたのです。
 100人の生徒が在籍する学校に警察官100人を配備したところで、100人の生徒のうちの一人が家から銃を持ち出して教室に隠し持ち、授業中に乱射すれば、クラス中を皆殺しにできるのです。問題は武装警官配備するかどうかではないことを、全米の人も考え始めたところです。なのに、日本は「プロレスできる先生を配置すればイジメはなくなる」と考えるお気楽さ。

 副総理兼財務・金融相は、ミゾーユーのあの人だけれど、ほんとに大丈夫なのかしら。考えれば考えるほど暗くなってしまう師走でしたけれど、せめて希望だけは胸に灯し続けて新年を迎えたい、と帰りの地下鉄に乗りました。

 おいしい店を見つけておしゃべりにつきあってくださって、A子さんありがとう。少しは希望のタネを見つけて、なんとか新年を迎えましょう。

 自然薯(じねんじょ)の自然(じねん)とは、仏教用語のひとつ。「あるべきままにあること」その他、深遠な仏教哲学を含むことばのようです。人為を加えずそのものが本来的に備えている性質によって、一定の状態や特性を生ずること、ということみたいですが、さて、有るがママなら無しがパパ。とろろ汁麦ご飯、おいしかったです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「年末整理整頓」

2012-12-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/27
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2012年末(1)年末整理整頓

 お酒を飲んで今年の憂さを忘れる、というほどのことはできなかったけれど、なんとか気持ちよく新年を迎えられるよう、いっしょにごはん食べてしゃべって、今年の懸案事項をすっきりさせようと。
 ひとつは、ジャズダンスサークル仲間のともこさん&ミサイルママと。21日の年内最後の練習のあと、食事会。年明け最初の練習日に行う「サークル総会」の打ち合わせです。

 一番の懸案事項は、来年度、練習場所の文化センターが改修工事に入り、1年弱、練習場所をほかに確保しなければならなくなったこと。区民センターホール、福祉センターホールなど、いくつかの候補地の中、メンバーにとって遠くならず、広さもある程度あって、会場借り賃が安いという条件を全部満たすところはなかなかありません。

 サークルの主な出費は、会場を借りる費用と先生への謝金ですが、先生謝金は数年来据え置きにしていただいています。ここに来て、他の高い会場を借りる費用が捻出できません。
 会費値上げというのも、年金暮らしが多数派になってきた会員老齢化、という状態から見て難しいことです。

 そして、サークル立ち上げ以来会長を務めてくれていたともこさんが、「私も年金生活になったし、来年は区民オペラに出演するほうを優先するから、会長をおりたい」と、言うのです。副会長のミサイルママも、会長は荷が重いというし、困りました。「e-Naちゃん、やってよ」と二人に責められても、私も仕事を続けながらの活動だから、社会教育団体登録をしている区役所との折衝とか会議出席とか、そういうのは大の苦手。

 格安ファミレスのGストで食べていたら、カキグラタンの牡蠣が合わなかったのか、Gストの油が合わなかったのか、ミサイルママが「なんだか気持ち悪くなった」というので、結論は出ないまま、来年に持ち越し。
 7年間続けてきたサークルですが、会員減少&高齢化などで維持が難しくなってきました。

 娘、息子との「整理整頓新年の準備」は、「壊れてしまったビデオデッキ」の買い換え。娘が言うには、「今のビデオデッキは、5年前に買い換えたんだよ。前のはビデオテープしか入らない機種で、DVDも使えるのがいいってことで新しいのを買ったんだから。それが2007年のこと」
 このビデオデッキは家電製品の中でも「ハズレ」もので、DVDを出し入れするところがすぐに調子が悪くなりました。息子がネットで家電レビューサイトを調べたら、同じ不具合を生じている機種多数の声があったそうで、評判の悪いものだったことが判明。5年で買い換えというのは、わが家の家電品のなかでは、寿命が短いほうです。(最長はオーブントースターの38年)

 今つかっているこのパソコンだって2008年からでもうすぐ使いはじめてから5年になる。よそは知らないけれど、テレビやビデオなんて10年くらい同じ物が使えると思っいました。と、愚痴を言っていてもしかたがないので、有楽町の大型家電店に買いにいきました。

 銀座にある大衆フレンチレストランでランチ。生ハムのオードブルとプチポタージュ、私は鱸、娘と息子はチキン。デザート、コーヒーで1050円というのを食べてから、家電店でビデオやらセレクターやら何だかわからないいろんな周辺機器を買いました。
 買い物を終えて娘と息子はすぐに帰宅。私は、有楽町に来たのだからと、入場券があったので閉館30分前に「相田みつを美術館」に寄りました。
 
 相田みつをは、書家としては、美術館が「贋作が多数出まわっておりますのでご注意ください」という警告アナウンスを出しているほど、マネしやすい書体。そこに書かれたことばも、実に分かり安く、「このわかりやすさが安っぽくて嫌い」という人と「難解なことを言わずに心に染みることばを伝えていて好き」という人に別れます。

 万人向きというわかりやすさは、マニアックな世界を好む人には好かれないでしょう。みつを嫌いな人は、「こういうわかりやすいことばで癒されてしまえる感性の持ち主が集まっているから、この社会は変わっていかない」と怒るのでしょうが、みつをのことばに癒される人がいるのは事実。
 「どじょうがさ、金魚のマネすること、ねんだよな」も、展示室にありました。このことばを座右の銘とした首相率いる内閣、この日、総辞職。う~ん、マニフェストとかいっぱい掲げて、実現しないままこけた羊頭狗肉内閣。「犬がさ、羊のマネすることねんだよな」と、みつをさんも天国で揮毫しているかも、

 さて、この年末の政治整理整頓はできたのでしょうか。どうにもそりの合わなそうな寄り集まりだった未来の党は、一ヶ月も経たずに離婚。参院選の前あたりで分裂するとは思っていたけれど、ここまで早い別れ話とは予想していなかった。整理整頓、難しいモンですね。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「読書メモ2012年10~12月」

2012-12-26 00:00:01 | 読書・本・ログ


2012/12/26
ぽかぽか春庭ブックスタンド>2012年10月~12月の読書

 2012年秋冬の読書メモ。
 読んだ本をメモしておこうと思うたびに、3ヶ月前に何を読んだかなどは、すっかり忘れている。毎度ながら、記憶力のなさを痛感します。おととい何を食べたのかも忘れているけれど。

 本のタイトルなど、読んだときにメモしておけばいいのだけれど、週に5ヶ所の大学へ出講する、その大学別にトートバッグを用意し、それぞれに1,2冊の文庫本やら出版社の宣伝雑誌(「図書」とか「波」とか「UP」とか)を突っ込んでおく。電車の行き帰りに読んで、読み終わると本をどこかにつっこんでしまうので、どれが読了したのやらしてないのやら、もとより整理整頓は大の苦手なので、忘れた本は、まあそれくらいの印象しか残さなかったのだろうと思って、とりあえず、目に見える範囲にころがっている本を拾い上げてメモしておきます。

 奥のほうにつっこまれてしまったものなどは、3年後くらいにひょっこり出てくるかも。去年、息子が大学卒業式総代になった記念品の時計をもらって、それを母へプレゼントしてくれたのですが、半年ほどでどこかにしまい忘れてしまい、こりゃ3年は見つからないかと思っていたら、ひょっこり出てきました。時計が見つからなくなったことを息子に隠しているうちに出てきてほっとしました。

 「部屋の中を整理しておかないとベッドまで行き着くための通路がなくなる」という気持ちにならないと、なかなか失せものは出てこない。
 思いがけず、出てくる本もある。
 『日本精神分析』は、雑誌掲載時にコピーをとって読んだだけで、単行本発行時には買わなかった。コピーなどはすぐにどこにしまったか、わからなくなる。ちょっと必要があって図書館で単行本を借りました。1行2行、引用文を確認して、読みさしたままにしておいたら、ぐちゃぐちゃの室内でどこに隠れてしまったのか。図書館から返却せよという催促が来たけれど見つからなくなって、困ってしまいました。

 図書館の規定では、貸借本を紛失した場合、同じ本を買って返すことになっています。アマゾンで注文したのが届き、図書館に持って行こうとした矢先のこと。部屋の中のぐちゃぐちゃの本のうち、娘と息子が夫からもらって読んでいる「モーニング」「ビックコミックオリジナル」という漫画週刊誌が山積みになっているのを、団地1階の不要品集積所に持っていこうと紐で縛ったら、ビッグコミックの下から『日本精神分析』が出てきました。「遅れてすみません」と図書館に返却し、かくて『日本精神分析』は私の手元に一冊残る事になりました。最初から図書館本でなく、買っておけばよかったのです。

 しかし、図書館から借りて読むという習慣を失いたくない、という気持ちもほんとう。図書館文化が根付いている、ということ、江戸の貸本ブーム以来、日本が誇る「読書文化」の源だと思うので、 
@は図書館本 ¥は定価で買った本 ・は、ほとんどBookoffの定価半額本&100円本。
 今回、☆マークはあまり意味がない。読書の趣味はそれぞれ。私は読んで面白かったけれど、趣味の異なる人様にまで勧めたいと思うほどの本がないので、ほとんどが☆みっつ。ほかにも何冊か読んだ気もしますが、タイトル思い出さない本は、読んだ本のうちにいれなうてもいいんじゃないかと思います。

<日本語・日本語言語文化関連>
・中嶋尚竹内清己(編)『概説日本文学文化』2001/05おうふう☆
・宮腰賢『日本語の難問』2011宝島新書☆☆
 
<評論・エッセイ、その他>
・米原万里『ガセネッタシモネッタ』2006文春文庫☆☆☆
・杉本苑子『片方の耳飾り』1983中公文庫☆☆☆
・森茉莉『私の美の世界』1984/2007新潮文庫☆☆☆
・柄谷行人『日本精神分析』2002/2007文藝春秋☆☆☆
・インゴ・F・ヴァルター『ポール・ゴーガン』2001タッシェンジャパン☆☆☆
・柴田トヨ『くじけないで』2010 飛鳥新社☆☆☆☆


<小説・戯曲・ノンフィクション>
・吉田修一『悪人 上下』2010朝日文庫☆☆☆
・李相日・吉田修一『悪人シナリオ版』2010朝日文庫☆☆☆
@大岡昇平『武蔵野夫人』1953/1999新潮文庫☆☆☆
・椎名麟三『永遠なる序章』1970日本文学全集56筑摩書房☆☆☆
・野上弥生子『海神丸』1929/1992岩波文庫☆☆☆
・井伏鱒二『珍品堂主人』1977/81中公文庫☆☆☆
・井上ひさし『頭痛肩こり樋口一葉』1999集英社☆☆☆
・司馬遼太郎『妖怪』2007講談社文庫☆☆☆
・村上春樹『アフターダーク』2004講談社☆☆☆
・西村賢太『落ちぶれて袖に涙の降りかかる』2010新潮11月号☆☆☆

 ほとんどの本に☆三つつけた中、たったひとつ「趣味が何であろうと読んだら好きになる本」すなわち「万人向け」だろうとオススメするのは、柴田トヨさんの『くじけないで』一冊。今さらお勧めしなくても、たいていの人はもうすでに読んでいるんだけれどね。160万部出ているので。

 やさしい言葉で綴られた90歳から始めた詩が並んでいます。 3・11で悲しみにあった人々をもなぐさめ勇気を与える言葉になった、というのもうなずけます。1911年生まれ。2012年は101歳。いつまでも輝く感性で詩を作り続けてほしいです
 
 著者が精魂込めた研究結果を世に問う専門書は、千冊程度しか売れないので、印税を納めないと著者に悪いから一冊5千円ときには1万円する場合でも新刊書を買います。古本屋に出ることは少ないし。
 息子から「2012年の誕生日プレゼント兼クリスマスプレゼント」としておねだりされているのは、吉川弘文館発行、奥野高広『織田信長文書の研究』上下巻+補遺・索引の3巻。修士論文を書くために図書館から借りてやりくりしたけれど、この先、博士論文を書くには手元に置きたいというのです。でも、3巻合計で52,500円なので、まだ買えていません。

 どの本を単行本定価で買うか、どの本を文庫になってから買うか、どの本を古本屋に並ぶまで待つか、それぞれの見極めをしながら、本を読む楽しみは、自分が読んで楽しむだけでなく、他の人の感想ブログを読んだり、ああ、こういう本があったのかと気づかされたりするのも楽しみのひとつ。私の「ネット読書サークル」と、勝手に思っている仲間は少数ですが、私の気づかなかった本のタイトルを教えてもらうことができてうれしく思っています。ナタリーさん、ホークさん、いつもありがとう。

 私の読書リスト、並べてみると系統やら傾向というものがなくて、雑駁な読み散らしですが、もし、あなたのお好みにかないそうな本が一冊でもお目にとまれば幸いです。

<おわり>
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ジャンボ春庭1979年ケニア便り「田舎町カプサベット」

2012-12-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/25
ジャンボ春庭日常茶飯事典>1979年ケニア便り(51)ケニアの田舎町カプサベット

1979年アフリカ通信第20号 1979年11月29日
 お待たせしました。ひさびさのアフリカ通信発行!
!(ケニアに来て以来、毎週送信していた手紙を1ヶ月間休んだので)
 今、みち子の家に来ています。みち子が明日から学校が休みになるので、いっしょにトルカナ湖へ言ってみようと思います。

 8月にカプサベットへ来たときは、夜行の汽車だったので、風景が見られませんでした。それで、今度は夜行寝台車2等の2倍ふんぱつして、乗り合いタクシーに乗りました。(7人のりなのに、8人詰め込む)

 ナイロビからエルドレッドまで80km2400円。ケリチョ付近のお茶畑のけしきがきれいだと聞いていたので、キスム行きというタクシーに乗ったのに、ナクル湖で乗り換えになって、エルドレッド行きに変えられてしまいました。それでケリチョは通らず、がっかり。でもリフトバレーの広大なけしきや遠くにナイバシャ湖が見えて、きれいでした。ナクル湖は、フラミンゴの群れで有名だったのですが、さいきんはいないという評判通り、一つも見えませんでした。もっと奥地に移ったのかも知れません。リフトバレーの草原にはトムソンガゼルがいました。

 11月の少雨期のあとなので、草の芽が青くふいています。今は黄色い枯れ草の方が多いですが、2月の大雨期のあとには、一面に緑色になるのでしょう。途中でねむくなって一眠りしたら、お客は皆居眠りをしていて、運転手も眠そうなので、いっぺんに眠気が覚めました。バックミラーでちょうど運転手の顔が見える席だったので、にらみつけていました。ずっと100kmくらいのスピードで走っているのにときどきアクセルをふむ足に力が入らないくらい眠くなって、40kmくらいにスピードがすーと落ち、ハッと気づいてまた100kくらいにあがります。ひやひやしました。

 エルドレットに着いて、お昼を食べて,シティマーケットでみちこの家に持っていく食糧を買いました。米、ジャガ芋、玉葱、にんじん、なす、ピーマン、トマト、たまごを買っておみやげにしました。

 朝8時半にエンドさんの家を出て、午後4時ちょっと前にみちこの家に着きました。みちこは、もう仕事が終わるので、張り切ってパンを焼いていました。アンパンを作って食べた。おいしかったよ。
 私は、夕飯に厚焼きたまごと茄子のシギ焼きを作りました。

 久しぶりにナイロビを出たので、今日は少し旅疲れ。ナイロビに一ヶ月いて、いいかげんあきあきしていたので、トルカナ湖へ行くのが楽しみです。ナイロビは選挙が終わった後の組閣がすんで、すったもんだの大騒ぎ。みんな自分の出身部族の中から大臣が出たかどうかが興味の対象です。

 みちこは12月12日から海外協力隊員の総会があるので、そのときいっしょにナイロビに帰って、総会が終わったあとラム島に行くというので、いっしょに行こうかと思います。皆ラムはいいと言うので、一度は行ってみなければ。

 おばさんから手紙が来て、みんなは日光に行ったそうですがね。けっこうでしたか。
 保険証(海外旅行保険)が届いたので、姉ちゃんに言ってくださいね。いろいろお世話様。私の銀行通帳は、本棚の「高橋和巳全集その一」という本の間にあります。はんこは机の引き出し。よろしく。


<つづく>


もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/12/25

 ナイロビについて初日に迷子になって、タカ氏に町を案内してもらい、2年後、結婚してしまったのが私の運のつき。子供たちにクリスマスプレゼントも買ってやれない人生が待っていました。

 この年末も、タカ氏は、「年末進行で、忙しくておばあちゃんの顔を見に行ってられないから、ご機嫌伺いに行ってこい」と娘に命じ、娘はおばあちゃんの家に行って夕食を作り、息子とふたりでお話し相手を務めてきました。
 ちゃんとおばあちゃん孝行をしてくれる娘と息子を得たことだけが、私のケニアでの収穫です。まあ、私の人生にとって子どもを育てるという経験は、一番よい収穫だったのですが。
 なにはなくとも、師走の寒空に寄せ合う肩があるというだけで、今日も元気に働ける。
 ケニアで過ごした青春の光の中の日々を思い出すだけで、心はぽかぽかに温まってくるのです。

 みなさまにとって、よきクリスマスの一日であったことを思いながら、2012年のあと数日をすごしましょう。
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ジャンボ春庭「キクユ族の結婚式で居眠り」

2012-12-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/23
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(50)キクユ族の結婚式で居眠り

11月3日
 結婚式に招かれました。キクユ族の結婚式で、YWCAの事務長(ミセス・ジェリダ)の妹が結婚するのです。私は、前にくす玉を作ってお祝いしてあげました。1時開始というので、あせってタクシーで行ったら、これはケニア時間なので、始まったのは、1時半。花ヨメと花ムコの車が教会から帰ってきて、車をかこんで丸くなった女たちが次々とキクユ族の伝統の歌を歌って、祝福します。30分くらい歌っていました。

 しかし、おもしろかったのはここまでで、室内に入ってからは退屈の一言。まず、食事がでました。キクユ族の伝統料理であるイリオ(豆とじゃがいものつぶしたもの)、肉ひときれ、米、バナナ、カップケーキ、コカコーラと出ました。女たちが共同で作ったものです。
 食べ終わると、あとはキクユ語によるスピーチばっかり。たまに歌うと教会の歌。スピーチといっても、日本のようい2時間たつと次の花ヨメ花ムコが入口の外で待っているというのではないので、延々と続くのです。延々なんてものでなく、エンえん延々という感じで、2時から6時まで、出席者の一人ひとりが花ヨメ花ムコにプレゼントを直接手渡してプレゼント品を公開し、一人ひとりが大演説を続けます。女も男も、よくまあしゃべると思うほどしゃべり、いいプレゼントの時は、花ヨメ花ムコといっしょに写真を撮ります。

 おもしろい演説には皆笑い、いい話には拍手がおこりますが、私にはおもしろくもなんともなくて、なんと、途中でいねむりをしてしまいました。(キクユ後はあいさつ程度しかわからないので)となりの席のおばあさんに起こされました。
 ベッドと柱時計が一番いいプレゼントで皿やらナイフやら籠やら、お金の人もいました。6時にようやく終わってほっとしました。

 夜はヒルトンホテルで、ルオー族の踊りを見ました。あとで、控室へ行って、衣装をつけさせてもらったりしました。腰みのです。

11月4日
 ひっこしをしました。YWCAが年間契約の人でいっぱいになったので、日払いの旅行者は追い出されたのです。
 郊外のルルの家に間借りしました。ルルというのは、真珠という意味だそうです。2歳の女の子と三カ月の赤ん坊の母親です。夫のブランディンは、会社の不景気で自宅待機になり、ケリチョへ仕事を探しに行っています。家は、ほんとうは、社宅なんだけど、ないしょで貸し間にしています。

 へやは10畳くらいで、ベッドといすひとつ貸してもらいました。台所は自由に使ってよくて、自分で日本食を作ったりできます。おしょう油や味の素は高いけど、売っています。片栗粉はありません。

 11月5日からナイロビ大学の夜間英語スクールに通います。せっかくのことだから、英語など一丁前に喋れるようになって帰ろうというわけです。月謝は、三千円ですから、日本の英語学校より安上がりの計算。みち子の同僚の協力隊員の田村みゆきさんが別のクラスにいます。
 したがって、旅行通信は、これで終わり。
 これからは、毎日英語のことばかり書いても仕方ないので、休信。
 ジーパンは届いてないようです。お金は足りています。手紙は日本インフォメーションセンターに出してください。お父さんにはうまいこと行っておいてください。(別に帰りを待っているようでもないけど)

 ナイロビの町中は、今、選挙のポスターだらけですが、ひとつおもしろいのを見ました。コマーシャルポスターですが、サンヨー電気の広告です。
 こちらの戦況ポスターには「ジュー!カマウ!(カマウを上げろ)」とか書いてあります。サンヨーのは「ジュー!サンヨー!サンヨーは、選挙後のアフターサービスもする」というのです。ケニアでも候補者が選挙後には公約なんかわすれてしまうのは、日本と同じらしく、選挙後もアフターサービスをするというのは、強烈な皮肉になっているわけです。

 日本のニュースは、選挙のことと台風のことがちょっと載って以来、何の記事もありません。してみると日本にとりたてて大ニュースはないわけでしょうね。

 私は、もうナイロビの顔役になって、いつも一皿135円のサラダをお昼に食べにいく店では、私が入っていくと、サラダのもりつけをはじめています。この間は、お金がなかったので、「おひるすぎに銀行へ行って、ドルをケニアシルに換えてくるから、今は貸しにして食べさせてくれ」と言ったら、「OK、OK」と言ってくれました。

 でも、本当にナイロビはちっぽけな町です。博物館のちっこいのがひとつだけで、美術館はないし、デパートはないし、もうディスコもあきたし、英語の映画はわかんないし、楽しめる場所はゼロです。
 東京というのは、ゴミゴミしているといつも文句を言っているけど、世界一退屈しない町だと感心しています。
 ナイロビに一生住む人には別段、これはこれで満足できるのでしょうけど。
 それから、日本の主婦は、三食ひるねつきとはいえ、よく働くもんだと思います。(こちらの都会の主婦に比べれば)母親は、子供のあそび相手をしないので、子供はいつも退屈しています。子供同士でもあまり遊ばないし、ケニア子供は退屈の塊。
 では、またね。


<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/12/23
 
 「11月5日からナイロビ大学夜間スクールで英語を習う」と手紙に書いたのですが、習いに通った記憶はありません。たぶん、父親に「年内に帰国せよ」と言われて、帰国しないための、何かもっともらしい言い訳をしなければならず、「英会話に熟達すべく、学校に通う」という大義名分を思いついたのだろうと思います。従妹のみちこから、同僚が通っている英会話学校の話をきいて思いついたことでしょうが、この英会話学校の申し込みを正式にしたのかどうかも覚えていないのです。たぶん、してない。

 私の英会話は、下町の人々とのブロークンイングリッシュでの会話でしたから、このころから33年たっても、いまだに「完全にぶっこわれた英語」を授業でも使っていて、文法めちゃくちゃ発音はケニア式(すなわち開音節5母音の日本式英語と同じ)です。だいたい、三単現のSとかいう文法が不合理です。私が愛するとLOVEで、彼が愛するとLOVESと、変えなければならない理由はない!!(これを言い出すと、愛するの否定形は「愛するない」でいいじゃないかどうして「愛さない」と変えなければならないのだ、と、日本語学習者に逆襲されますが。)

 1979年11月、私はナイロビの町の郊外で、プールで泳いだり、一日中本を読んですごしたりという無為徒食の日々をすごしました。あとさきのことは何も考えず何事にもわずらわされず、ノンビリと過ごせた日々はこのときのほかにないと思うので、一生のうちに、この「なんにもしない日」があって、よかったと思っています。ずっと働きヅメ人生でしたし、他の時期の「何者でもなく、何もしない毎日」は、不安や焦燥感のあるものでしたから、何も思い煩うことなく何もしないで過ごせた時間は、貴重でした。

 スワヒリ語は、9か月のケニア滞在のうちには上達しましたが、日本に帰国後はいっさい使うことがなかったので、もうすっかり忘れてしまいました。
 「演劇人類学、舞踊人類学の現地調査」というふれこみで、ボーマスオブケニアでアフリカンダンスを習ったのも中途半端の尻すぼみになりましたし、私のケニア滞在は、ただ「楽しくすごした」というだけで終わりました。
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ジャンボ春庭1979年ケニア便り「イスラム女性の割礼」

2012-12-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/22
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(50)イスラム女性の割礼

1979年アフリカ通信第19号 1979年11月1日~11月4日
11月1日
 アルフィの家へイディの祭りに招かれました。イディというのは、日本のお正月のようなもので、イスラム教の正月みたいなもんです。別に歌や踊りではなく、正月のように着飾って、ごちそう食べて、初もうで、という感じ。
 まず、朝のうち、神様に感謝しつつ羊を一頭殺し、肉を作ります。私は11時ごろ行ったのですが、もう、レバーとか肉とかに仕分けられていました。せっかくだから、殺すところも見ておけばよかったと思います。

 アルフィは、男2人と女2人の子の母親です。一番下の子は三カ月の赤ん坊で、下から二番目のフィラヒィアは、3歳くらいで、私のことをマミーマミーと呼んでなつくので、ついついチョコを買ったりおもちゃの時計を買ったりしてしまいす。
 アルフィがごちそうを作っている間、寝室の方で、米のより分けを手伝ったりしながら、女たちと話をしていました。米に石やら混じっているので、選別しなければ食べられないのです。

 イスラム教の男が割礼を受けるのは、知っていたけど、女もするのだということを聞き、おどろきました。今はもうしないけど、少し前まで、嫁入り前の女は、割礼を受けないと一人前に結婚できなかったそうです。私が、日本には昔も今もそういう習慣はないと言うと、17歳になる女の子が、やおらパンツを脱いで、切ったあとを見せてくれるというのです。見ろみろと言われても、そうまじまじと見るわけにもいかず、しかし、産婦人科の医者でもないのにこういう事実を見て、幸運というべきか。
 しかし、困ったことに、「日本のはどうなっているのか、見せろ」と言われてうろたえました。こればっかりは「ではおかえしに、どうぞ」というわけにもいかないので、あきらめてもらいました。

11月2日
 買い物をして一日おわり。


<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/12/22
 33年前、日本には女性割礼のことはほとんど知られていませんでした。私は、この1979年に初めて女性割礼のことを知ったのです。このときは、割礼の意味が分かっていなくて、男性割礼と同じようなものと捉えていました。
 男性割礼は、亀頭を蔽う皮膚を切り取り、男児の健康な発達に役立つものです。割礼をしないと、「包茎」のままになり衛生上もよくないとされています。
 しかし、女性割礼は、女性の陰核を切り取り、女性の健全な発達を損ねるものです。結婚前の女性の処女性を護り、結婚後は、女性の性欲を減らして夫への貞節を守らせるものと考えられていました。女性は男性に従属するというイスラムの教えにのっとる行為として、行われていた慣習です。

 現在では、女性の人権をおとしめ、女性の健康状態を悪くすると捉えられて、国際的には廃絶がもとめられている慣習です。しかし、現実問題として、イスラム社会で一般的な男性が結婚しようとするとき、女性割礼をほどこした女性を求めることが続く限り、すなわち男性の意識を変えない限り、女性割礼はなくならなりません。
 日本では、この人権侵害があまり知られていません。女性はむろんのこと、男性にも割礼の習慣がない国ですから。
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ジャンボ春庭1979年ケニア便り「タマちゃんと動物孤児院」

2012-12-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/20
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(49)タマちゃんと動物孤児院

1979年アフリカ通信第18号 1979年10月25日~10月31日
10月25日
 出入国管理事務所に行って、ビザの延長をしてきました。10月28日で滞在3カ月になりビザがきれるところだったのです。二か月延長のハンコをもらいました。
 タマイさんがバスの中ですりにあい、3000円とられたのはあきらめるとして、住所録の手帳をとられて、あちこちに連絡できないで困ったと言ってました。私は一度とられたあとは、スリにあっていません。

 フィルムの現像だけしてプリントはまだしません。こちらのプリントは一枚100円もするので。動物の写真だけど夕方撮ったので、どの程度うつっているかわかりませんが、プリントしてみてください。ライオンがキスしているフィルムなんか、コンテストの入賞ものだと思うけどなあ。サルの表情もいいと思います。ナイロビナショナルパークの動物孤児院で撮ったものです。

10月26日
 本日は、死ぬかと思いました。タマイさんが動物孤児院にあいさつに行くというので、いっしょにバスに乗りました。私は孤児院の2km先にあるボーマスに行こうかと思ったのです。ケニアのバスは、日本の「田舎のバスはおんぼろ車」が高級車に見えるほどボロバスで、ちょっとした坂道でもヨタヨタと登れなくなり、乗客がおりてバスの尻押しをさせられたりするのです。
 今日も坂道でよたよたしだしたので、タマイさんと「ひょっとすると、尻押しでもさせられるんじゃないの」なんて冗談を言いあってました。そのとたん、ボンと音がして運転席の隣にあるエンジンからラジエーターの水が噴き出しました。私は運転席のすぐ後ろだったのです。私は一瞬ボケっとして、吹き出る水をながめて、次にエンジンが爆発するなと思いました。

 すると、後ろの席の人たちが、キャーと言って逃げ出し、せまいドアがパニックになりました。私はぼやぼやしてそれでもキャーと叫びつつ、半分以上の人が逃げ終わってからドアから飛びおりました。上着をドアに落しましたが、拾えませんでした。私の隣には子供が座っていたのですが、他人の子を連れて逃げる人道的余裕はなく、自分だけ逃げました。よく見ると、その子の親も子どもほっぽって逃げていました。降りてから自分を見ると、顔にもバッグにも服にも灰がいっぱいかぶっていて、なんの灰だかわかんないけど、エンジンから出たのでしょう。しかし、エンジンは、爆発なんかしないで、水が出ただけでおさまったのです。

 この事故の逃げるときのどさくさで、めがねをこわした人やバックをこわした人が被害者で、ラジエーターの水そのものの被害をこうむった人はいなかったみたいです。灰をかぶった私が一番ひどく見える程度。でも、水が出た時は、本気で死ぬかと思いました。

 黒人たちは、ポケッとバスの外に立っていましたが、一人乗っていた白人の女の子は、うしろから来た車をさっさとヒッチしました。それを見て、私とタマイさんもその車に「乗せてのせて」と乗り込み、いっしょに動物孤児院へ行きました。

 ライオンとかひょうをひとまわり見たあと、動物病院に先週つれてこられたという子象を見に行きました。子象は二頭いて、オスが生後二カ月、メスが生後3週間くらいということです。ふつうの人は病院の方へは入れないのですが、タマイさんは、前にここに通って獣医の見学をしていたので顔がきくのです。

 子象はほんとうにかわいくて、おもちゃのゾウみたいです。ママがいなくてさびしいのか、小さな鼻を私たちの体中おしつけてきて、おっぱいを探します。体のキズに青い薬を塗られているのでおかしいです。母ゾウたちが畑を荒らしいきて、それをおっぱらったら、子供をおいて逃げて行ったので、ひきとったのだそうです。
 それを聞いて、「さっきのバスの中で、こどもを置いて逃げた親もいたから、象も子どもをおいて逃げて当然だろう」と、タマイさんと言い合いました。

 おっぱいの時間になり、係の人がミルクを作り始めるとちゃんと知っていてそばで待っています。人間用の粉ミルクにビタミン剤なんかをたして与えるのだそうです。しかし、小さい方のメスは今病気で、消化できないのじゃないかと心配になりました。一日、子象と遊んでいました。

10月27日
 きのう、タマイさんに動物孤児院でいろいろ楽しませてもらったので、おひるごはんをおごりました。アルトロというイタリアレストランでスパゲティと魚のフライを一つづつとって、二人で半分こづつ食べたので、まわりの人がじろいろ見ました。半分づつでもおなかいっぱいです。
 あとT氏(=タカ氏)やエンドさんたちもいっしょになったので、セレナホテル(YWCAのとなりにあって、トイレと電話をタダで利用するところ)で、お茶を飲んでおしゃべりしました。タマイさんはいろいろタンザニアのことについて聞いていました。

10月28日
 タマイさんとワイナイナ氏の家へ行って、料理をおそわりました。ウガリはとうもろこしの粉をお湯に入れてかき回すだけ。私は、チャパティを作りました。チャパティは、小麦粉を水で練って、ウドンのような玉にしてめんぼうで丸く薄く伸して、油で焼きます。肉の煮込みは、肉と玉ねぎとトマトの輪切りを痛めて、ジャガイモと人参の蘭切りを足して水で煮て、煮えたころキャベツを入れて塩で味付け。だいたいの味付けはトマトと塩だけで単純です。献立の変化や味付けの変化にはあまり興味がないみたい。

 奥さんは看護婦ですが、女中は三食付き月に五千円くらいで雇えるということで、日本の主婦よりよほど楽してます。

10月29日
 ついにあこがれの日本食レストラン「赤坂」へ行きました。さしみとひき肉風味焼きというのとごはんを食べました。だいたい、一品900円で、ひじきの煮つけが300円なので、これも食べたけど、うまくなかった。メニューにはいろいろ書いてあったけど、材料不足なのか、トウフとかいったものは、品切れというふうになっていました。
 二人日本人の女の人がいて、あとは黒人のウエイトレスやボーイでした。

10月30日
 ワンピースをクリーニング屋に出したら60円でした。いよいよタマイさんが、タンザニアにたつので、夜、セレナでビールで乾杯して壮行会をしました。タマイさんは、動物孤児院の一番えらい人にタンザニアの動物保護区のえらいさんあてに紹介状を書いてもらえたと言って、喜んでいました。

10月31日
 朝、エンドさんの車でタマイさんを飛行場まで送っていきました。今までずっとYWCAに二人でいっしょに泊まって、私がボーマスに踊りを習いに行くときは、いっしょにつきあうし、タマイさんが動物孤児院に行く時は、私もついて行くし、というように仲良くしてきたので、彼女が行ってしまうと、さびしくなります。
 カメルーン航空という聞いたこともない飛行機で行くというので、もし落ちたら追悼文集を出してやると、約束して別れました。

 11月になったらすぐ、みちこの所にでも行こうかと思っていたら、YWCAの事務長らしいミセス・ジェリダという人が、私を気に入って、(浮世絵のハンカチなんかあげたからかもしれません)妹の結婚式というのが11月3日にあり、招待してくれたので、それまではナイロビにいることになりました。
 おりがみのくす玉を作って結婚いわいにあげたら、とても喜んでいました。だいたい、くす玉は好評です。

 11月2日には、ヒルトンで踊りを見ることになっています。(ボーマスじゃないことは確かだけど、どの踊りのグループかはわかりません)
 じゃ、またね。

<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡:
 予定稿掲載順を間違えました。順序入れ替え。
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ジャンボ春庭1979年ケニア便り「エンブタウン」

2012-12-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/19
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(48)エンブタウン

1979年アフリカ通信第16号 1979年10月16日~10月24日

10月16日 ジャパンインフォメーションセンターに日本の選挙結果を知らせる手紙が届いたので、T氏とケンケンガクガク議論しました。社会党がたらしないということになりました。(T氏=タカ氏)

10月17日
 カヒンディの家へ行って泊まりました。子供達に折り紙を教える約束をしたので、行きたくなかったけど、日本人は約束を守るからしかたなくいきました。
 子供は12歳を頭に、女男女男と4人です。つるを教えたけど、皆不器用で、きちんとおれません。それで、子供達は一層私を尊敬したようであります。

10月20日
 カヒンディの家族が、奥さんの実家に里帰りするのに連れていかれました。村の中の親せき知人の家へひっぱりまわされて、握手したりあいさつしたり、まるでたいくつしました。
 頭に来たので、一人で散歩に出ました。エンブの付近は、日本と同じ黒い土で日本と同じ稲田の風景です。黄金色に穂をつけた稲田を見ると何かしら豊かな気分になれます。
 一面のコーヒー畑を見ても、見渡すかぎりのトウモロコシ畑を見ても、広いなあと思うだけですが、稲田を見たときに感じる満足感はやはり日本人だからでしょう。しかし、そこはケニアで、収穫期の稲田のむこうには田植えを終えたばかりのたんぼもあって、日本とは違います。

10月21日
 朝、おりづるのモビールを作って、奥さんのお父さんにあげました。カヒンディがまた知人の家に紹介に連れていったので、頭にきて逃げだし広場へ行きました。日本人の友達がいるというので、得意になって紹介したい気持ちもわかりますが、限度があります。
 広場では、若者がサッカーをしていたけど、ヘタなのでヤジをとばしていたら、彼らはやめてバレーボールをはじめました。そこで「私も入れて」と行って、いっしょにバレーの試合をしました。私もバレーはまるでヘタだけど、彼らもヘタでちょうどいいぐあいでした。しかし、サッカーボールでバレーをしたので、レシーブをするたびに手の皮がむけてひどいありさまでした。風邪をひいて帰りました。

10月22日
 鼻かぜがひどく、くしゃみ、鼻水の世話で一日終わりました。

10月23日
 モンバサへ行っていたタマイさんが帰ってきたのでひとしきりおしゃべりして、ワイナイナの家へ二人で行って、夕食をもらいました。ワイナイナはキクユ族です。でも、カヒンディとちがい、こちらを気遣ってくれます。奥さんは看護婦をしています。タマイさんはYWCAにへやがとれないので、ワイナイナの家に泊まりました。

10月24日
 タマイさんと待ち合わせをして、彼女が来るまでこの手紙を書いていました。今、タマイさんがきたところ。
 では、またね。


<つづく>

もんじゃ(文蛇)の足跡;
 どうしてこのとき、こんなに「カヒンディの親戚回り」に連れ回されることがいやだったのか。
 「珍しいペットが手に入ったので、友人親戚に見せびらかす」というようなカヒンディの得意顔が気に入らなかったのだろうと思うのですが、この場合、「珍しいペット」の役割を引き受けて、逆に、「エンブタウンの農民達のようすをきちんと調査する」というくらいの気持ちになれば、文化人類学フィールドノートを書くチャンスになったかもしれません。でも、このときの気分としては、自分が「見世物」にされることに、ただただうんざりしていたのです。若くてバカでしたね。
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ジャンボ春庭1979年ケニア便り「ソマリ族の結婚式]

2012-12-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/18
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年ケニア便り(47)ソマリ族の結婚式

1979年アフリカ通信第16号 1979年10月13日~10月15日
 10月13日の日曜に、ソマリア族の結婚式に出席しました。花ヨメ花ムコとは無関係ですが、出席者の一人と知り合いというだけでずうずうしく出席したのですが、期待に反して伝統的なスタイルではなく、モダン・スタイルで、日本の結婚式とかわりありませんでした。花ヨメ花ムコは、家でイスラム教の式をあげてYWCAのとなりのセレナ・ホテルで披露宴をしたのです。まず、一時からランチがあり昼食を食べましたが、花ムコしかいなくて、花ヨメには会えませんでした。ひとつおぼえのソマリ語で「おめでとう」とあいさつしました。

 それから解散してめいめいヒマつぶしをします。私は公園の池でボートにのりました。7時からまたはじまって、ミュージックパーティーというのがあって、これはなんのことはないディスコ大会でした。
 はじめに少しあいさつがあって、ソマリアの詩の朗読とか歌なんかがあったことろは少し日本と似ていますけど、仲人による花ヨメ花ムコの経歴発表なんてのはありません。お互いに親せきみたいに知り合っている人々のあつまりだから、必要ないのでしょう。始めに、白いウエディングドレスにベールの花ヨメとタキシードの花ムコが一曲踊ったあとは、出席者が勝手に楽しむといったふうで、ディスコ大会になり花ヨメはひどくたいくつそうで、途中で二人とも何のあいさつもなくいなくなってしまいました。

 ソマリ族は政治的に力がないし、概して貧しいので、キクユ族などに比べると、差別を受けているみたいです。
 キクユ族の友達の一人は「ソマリアは貧しくてしかも頭がいいので人をだます」といっていました。

 7時にパーティがはじまる前、ホテルでビールを飲んでいたら「エンブ族だ」というよっぱらった男がソマリ族たちにからんで議論をはじめました。部族に関することで私には全部は話がわかりませんでしたが「15年前の独立の時、ソマリ族は、自分たちの地区だけの独立をめざして、政府に反対して戦った。今も信用できない」と男がいい、ソマリ達は「昔はいざしらず、今はオレ達もケニア国民の一人なんだ」と主張して、からみあいませんでした。

 「日本は、日本民族ひとつしか部族がなくて、皆同じ日本語を話す」と、日本のことを説明しても、納得してもらえないくらい、「部族の差」というのは、ケニアにとって大きい問題だと思います。

 ソマリ族の結婚式が伝統的なものでなかったように、しだいに部族の伝統はなうなりつつあります。一方では、そういうのがなくなるのがおしいと思いますが、一方では、それは他国人の感傷にすぎず、この国の発展のためには、部族をこえなくてはいけないとも思います。

 10月15日の月曜は、ソマリ地区へまたいって、おひるをもらいました。私には別の皿でフォークを出してくれたのですが、ほかの人は大皿にチキンミートスパゲッティを山もりにもって、手で食べます。まわり中からわっと手が出て、あっというまに食べてしまいました。女の人は台所で食べるみたいでした。イスラム教のぼうさんがきたら、ぼうさんにもごちそうしてました。こども達に紙風船や折り鶴を織ってあげたら、とりっこのけんかをして大騒ぎになりました。

 エンドさんのはなしでは、「ソマリ地区はこわい所だ」ということですが、私は昼間のせいか、それほどこわいとは思いませんでした。夜、一人で歩いたりしたら「時計を盗むために手首を切断する」なんて話が現実になるのかもしれません。

 日本の選挙の話が少しだけこちらの新聞にのりました。自民党が過半数とれなくて、共産党が伸びたとだけありましたけど、くわしくはわかりません。そのうち日本の新聞がエンドさんの家にでも送られてくるでしょうけど。
 あと、予定では今週17日18日にマガディ湖へ行って、20日21日はカヒィンディ氏とその妻とこども4人がエンブに行くのにいっしょにつれていってくれるそうです。来週はラム島に行こうかと思っているけど、今、雨期になりつつあり、雨がふるとバスは通行止めになるので、行けないかも知れません。それからみちこの所へいっておしまい。
 ではまたね。(10/16)


<つづく> 
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ジャンボ春庭1979年のケニア便り「ケニアの踊るモンキー娘」

2012-12-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/12/16
ジャンボ春庭アフリカ通信>1979年のケニア便り(45)ケニアの踊るモンキー娘


 10月の「9年前の日記」「20年前の日記」に続き、33年前、1979年のケニア日記の続きを書き写します。20年前の日記以後、ワープロで書くようになったので、コピーは簡単ですが、33年前にケニアのナイロビから故郷の家族あてに出した手紙は、切手代節約のために、薄紙に小さな文字がぎっしり書かれていて、老眼には読みとりがつらい。
 33年前の私にタイムスリップで出会うことがあったら、「30年後は老眼になるのだから、もっと大きな字で書け。どうせ33年後も貧乏なままなのだから、ここで切手代節約しても、たいした違いはない」と、教えてやりたい。

 ナイロビで「アフリカンダンス修行」に励んでいた「1年間の夏休み」から33年。1979年7月30日、ナイロビ初日に出会ってしまったタカ氏と、1982年10月28日に結婚式をあげてから30年目の秋。
 もちろん1年目も10年目も30年目も、結婚記念日などしない夫婦です。まあ、こういうふたりが夫婦と言えるなら、ということですけど。
~~~~~~~~~~~~~~

春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(45)ケニアの踊るモンキー娘

1979年アフリカ通信第16号1979年10月07日~10月12日
 10月7日から12日まで、午前中は毎日ボーマス・オブ・ケニアに行って、踊りの練習をしました。伝統舞踊というのは、日本の盆踊りといっしょで、技術的にはむずかしくありません。今は、キクユ族とギリヤマ族の踊りが踊れるようになりました。私は女性のグループと練習するので男性の方の振り付けが覚えられませんけど、だいたいできると思います。

 午後は、洗たくをしたり映画みたりでヒマつぶし。今までいっしょにYWCAに泊まっていたタマイさんがモンバサへ行ってしまったので話し相手がいなくてたいくつです。私はギカンブラ村で少しキクユ族のことばを覚えたので、今はYWCAの職員たちに受けがよくなっています。彼らは皆キクユ族なので、キクユ語を話すと親近感を持つようです。

 キクユ族は、ケニア最大の部族で主要なポストを握っています。キクユ族が自民党的与党とすると、社会党的野党部族はルオー族です。(ケニアでは政党は、ケニア国民統一党というのがひとつあるだけで、それ以外は非合法です)
 今度、ケニアで統一選挙がありますが、キクユ族はさらに部族の独占をはかってルオー族の候補者を排除しようとしたので、ナイロビ大学の学生が「それはフェアなやり方じゃない」とさわぎ出しました。すると政府は、大学を封鎖してしまいました。選挙がおわるまで封鎖がつづきます。

 ほかにマサイ族、カンバ族などが大きい方で、小部族はキシイ、ルイヤ、ナンディ、キプシギス、タイタ、ギリヤマ、トルカナ、ボラナと、たくさんあります。大統領は、小部族の出身で「部族にこだわってはいけない、他部族と結婚するのがよい」といっていますが、日本だって関東の人間にとって関西の人はなじみがないと思うのですから、まして言語や文化が違う部族との結婚は国際結婚と同じです。人々は部族語とスワヒリ語と英語を家庭、社会、職場で使い分けてくらしています。しかし、たいていのケニアにいる白人は、アフリカの中ではケニアが最もいい国だといいます。政治が安定し、経済は向上しつつあり、発展が望めるといっています。20年後がたのしみなのは中国とケニアだといいます。

 ボーマスはナイロビ・ナショナルパークの入り口あたりにあるので、時々近くに動物がやってきます。11日にはキリンとアントロープ(鹿の仲間)をみました。キリンはわりに近くまでのっそりやってきて、アントロープは遠くに群れをみました。12日にはさるが4ひきやってきてさくの上のくいに一本に一頭ずつ座って、私の方を見ています。仲間だと思ったのかも知れません。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ルアーブルの靴みがき」

2012-12-15 00:00:01 | 映画演劇舞踊


2012/12/15
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>移民映画(3)ルアーブルの靴磨き

 移民にもいろいろあります。移民した先に根を下ろし、2世3世と子孫も増えていく成功組もあります。国策として移民募集が行われ、南米中米の入植地に行ってみたら、耕作には適さない荒れ地だったことが判明した、いわば「棄民」のような移民たちもいました。
 今回の移民映画「ルアーブルの靴磨き」アキ・カウリスマキ監督2011(は、不法移民の話です。
 以下、ネタバレを含むあらすじです

 ルアーブル(Le Havre)は、フランスの北西部に位置し、海の向こうはイギリスという港町です。
 ルアーブルの街中で靴磨きをしているマルセル・マックス。裏通りの住まいに妻アルレッティと犬のライカといっしょにつつましく暮らしています。ご近所の八百屋やパン屋につけが溜まっているし、日々の靴磨きの収入は乏しいものですが、靴磨き仲間のチャングと並んで働く毎日をせいいっぱいすごしています。アルレッティがいてくれさえすれば、マルセルは幸せなのです。
 
 アルレッティは外国出身ですが、今はご近所さんとも仲良く、マルセルとの間に子はなくても、犬のライカと共に貧しいながら落ち着いた生活をおくっています。しかし、このところ、アルレッティは体の異変を感じることが多く、不安がつのっています。
 ついにアルレッティは病院に運ばれ、重い病であることが宣告されました。しかし、アルレッティは、医者からマルセルへの告知を拒みます。マルセルが気落ちすることを懸念したのです。医者は、「奇跡が起きれば生き続けることができるかもしれない」と慰めてくれましたが、アルレッティは「そんな奇跡は、うちの近所じゃ起きたことないわ」とつぶやきます。
 
 ある日、ルアーブルの港に事件が持ち上がりました。アフリカから着いたコンテナ船の中に不法移民と見られる一団が乗っていたのです。警察と赤十字はこの密航者たちを保護し、キャンプに送ります。やがては強制送還しなければなりません。しかし、アフリカの少年イングリッサは、警察の追っ手をかいくぐって逃げ出しました。コンテナ船にいっしょに隠れていた祖父が「逃げろ」と目配せしたからです。

 マルセルはそんなイングリッサをかくまうことになりました。外国からの移民であった妻を思うと、不法入国の少年が他人に思えなかったからです。マルセルは手を尽くして、イングリッサの母親がイギリス在住華僑のもとで働いていることを突き止めました。イングリッサはガボンで教師をしていた父と暮らしていましたが、母の元へ行きたいと願い、祖父とともに出国してきたのです。イングリッサはよく気が利いて頭もよく、いっしょうけんめい働く少年でした。

 アルレッティと仲良しの近所のパン屋イヴェットもイングリッサをかくまうことに協力してくれ、ツケがたまっているためにマルセルに冷たかった八百屋も、アルレッティの病気を知ってにわかにマルセルに同情するようになりました。アルレッティの真の病状を知らないのは、ご近所でマルセルだけなのです。
 この裏町の人々のあたたかいつながりこそが「生きて行くうえの奇跡」なのかもしれません。

 マルセルはイングリッサを母親のいるロンドンに送り出すための密航費をかせごうと計画します。妻との仲違いで気落ちしている伝説のロックンローラー、リトル・ボブを奮起させ、チャリティコンサートを開くことにしたのです。さて、イングリッサはロンドンへたどり着けるのか。アルレッティの病気は、、、、、奇跡は起きるのでしょうか。

 ヨーロッパやアメリカなど、先進諸国はどの国も、移民の労働力が必要であり、かつ不法移民の増加に頭を悩ませるという二律背反の中に存在しています。政治的な解決はどの国もできていません。
 映画は不法移民や密航を扱ってはいるけれど、その解決法をさぐるのではなく、近隣の人のつながり、人と人とが心を通わせ合うことに重きをおいて描いています。
 この先も豊かさを求め安定した平和を求めようとする移民難民はあとをたたないでしょう。解決には遠いけれど、つかの間、人の善意のあたたかさを味わうだけでも、一歩すすんだと思わないではいられません。

 映画はフランスでの話ですが、日本にも不法滞在者は年ごとに増えており、在留期限の切れた不法滞在者は社会不安のもとにもなっています。彼らが犯罪予備軍となる可能性もあるからです。
 これまではそれほど身近ではなかった不法入国、不法滞在の問題を、しっかり考えなければならない時期になったと言えるでしょう。

 でも、現実問題として、今の私には明日の行動さえ決めかねているところです。考えれば考えるほど、見えない明日、、、、、

<おわり> 
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ぽかぽか春庭シネマパラダイス「ミリキタニの猫と尊厳の芸術展」

2012-12-13 00:00:01 | 映画演劇舞踊


2012/12/13
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>移民映画(2)ミリキタニの猫と尊厳の芸術展

 日曜日12月9日に、叔父の葬式に行って来ました。1946年生まれ66歳というまだ死ぬには早い年代だったから、友人知人も多く、師走の慌ただしい時期なのに大勢の会葬者が故人を悼みました。仲間と山菜採りやバーベキューなどで楽しい時間をすごし、面倒見のよいよき友であったことが弔辞に述べられていました。幼い孫が「じいじ、ありがとう」と泣きじゃくりながら読む作文が皆の涙を誘いました。

 叔父は私の父の末弟です。父方の祖父は、最初の妻(私の父の母)が24歳で病死してしまったあと、後添えのと間に3男2女をもうけました。叔父は末っ子で、2歳のときその後添えの母親も亡くなり、10歳のときには父親(私の祖父)も死んでしまうという二親の縁薄い、寂しい境遇でした。私の父とは27歳も年が離れていて、兄というより父のようでしたから、小学生時代は私の家に入り浸りで、私の母を母親代わりに慕っていました。姉と私も、年の離れていないこの叔父を兄のように思って遊んでもらいました。

 中学生になって男の子同士で遊ぶ方が面白くなると、あまりわが家には寄りつかないようになっていき、たまに町で顔を見た折りなど「ヨネおじさん」と呼ぶと、「おじさんって呼ぶな」と怒ったものです。「だって、おじさんじゃない。うちのお父さんの弟なんだから」と言っても、いくつも年の離れていない姪っ子から「おじさん」と呼ばれるのは中学生高校生の男の子にとって、恥ずかしかったのでしょう。今となっては、笑い話です。
 私の母は、誰にでも深い愛情を注ぐ人でしたから、叔父が成人するまでよく世話をしていました。叔父は、母の死後も折に触れて「しずえ姉さん」への感謝の心を述べていました。
 幸せな家庭を築いて、友にも恵まれた生涯であったことを、今頃は母に報告していることでしょう。

 今年もいろいろな方々の訃報を聞いた年でした。若くして惜しまれながらの急逝もあるし、十分な年齢を積み上げての大往生もあります。
 大往生と言えるひとりは、ジミー・ツトム・ミリキタニです。ミリキタニは、2012年10月21日に、92歳での往生を遂げました。ミリキタニ追悼の会は、叔父の葬儀と同じ12月9日に、ニューヨーク日系人会によって行われました。


 ジミー・ミリキタニは、日本名、三力谷勉。カリフォルニア・サクラメントで生まれた日系二世で、3歳から18歳までは日本の広島で育ちました。1938年にアメリカへ戻ります。アメリカで出生し、アメリカ国籍を持っていたからです。画家になるという夢を持っていましたが、1940年に太平洋戦争が勃発。1942年には、トゥールレイクの日系人の強制収容所に入れられました。
 
 1940年以後、アメリカの日系人は次々と各地の強制収容所に送られました。
 日本から遠くアメリカに移住して、それぞれが苦労を重ねて、大農園を経営するに至った人もいたし、工場や店を経営していた人もいた。それを全部接収され、無一文にさせられて収容されたのです。ほとんどの人が着の身着のままで、「永住権を持っているのだから、簡単な検査を受けて、米国に敵意を持っていないことが証明されればすぐにも帰れる」と思って、家に財産を残したまま収容所のキャンプに入ったのでした。

 ミリキタニはアメリカ国籍を持っていたのに、「国籍放棄したほうが、今後のためになる」と説得され従いました。ミリキタニが収容所から解放されたのは、終戦後1947年になってから。数ヶ所の収容所に拘留され続け、解放後もアメリカ各地を放浪する生活になりました。
 1959年に「強制的に奪われた市民権を回復する」という通達が出ていたのに、放浪生活を続けたミリキタニには、この通達が届かなかったのです。1980年代まで、ミリキタニは各地のレストランで働くなど放浪を続けました。

 80年代の後半、市民権のないミリキタニを隠れて雇ってくれていた雇い主が亡くなると、ニューヨークで「ホームレス」として、路上で絵を描いて売る生活を続けました。
 絵の具が買えないのでボールペンで書いた絵。その絵を買ったひとりの女性映画監督がいました。リンダ・ハッテンドーフは2001年からミリキタニの生涯と生活をドキュメンタリーとして、撮影しました。
 『ミリキタニの猫』は、2006年の東京国際映画祭の「ある視点最優秀映画賞」をはじめ、各地の映画祭で受賞。私は、2008年に飯田橋ギンレイホールで見ました。

 映画の中だけで知っていたミリキタニの絵、本物の絵をはじめて見ました。東京藝術大学美術館で開催されていた「尊厳の芸術」展。
 2010年にNHKクローズアップ現代で放送された「The Art of Gaman 我慢の芸術」が反響を呼び、今回の「日本での開催が待望されていたのだそうです。
 私は、見ようかどうしようか迷っていましたが、ダンス仲間のともこさんから「ことばにならないくらい感動した。e-Naちゃんも見てきて」と、メールをもらったので、仕事帰りに見てきました。


 太平洋戦争中、強制収容された日系人が、厳しい収容所生活の中で、もちまえの手先の器用さ、美しいものをめでるこころねを発揮し、ゴミとして捨てられた空き缶や木ぎれ、石、砂を掘り起こして出てきた貝殻などを利用して、こつこつと日用品や工芸品を作り上げた、その作品の展覧会です。
 多くの日系人は、これらの作品を「自分たちの心を支えた記念の品」として大事にし、ガレージなどに保存していましたが、子どもや孫にこれらの作品を見せることはしない人が多かった。つらく苦しかった収容所の話をすると、子ども達がアメリカに反感を持ってしまうのではないか、その結果アメリカ社会で生きにくくなってしまうのではないか、そんな気持ちで、多くの日系人は、作品は密かにしまっておくのみでした。

 一人の日系女性が、両親の死後、これらの「収容所作品」に気づきました。日系人の間を歩いて調査すると、多くの作品がひっそりと保管されていたことがわかりました。作品が集められ、スミソニアン博物館で「The Art of Gaman」として開催されると、大きな反響を巻き起こしました。クローズアップ現代での紹介も、この時のこと。

 何もない収容所で、人々は石ころや木ぎれから見事な作品を作りあげていたのです。それらの展示については、見た人の多くがブログなどで「感動した」という感想を書いています。私も、また後ほどひとつひとつの作品について書きたいと思います。

 人は、どのような環境にあっても、人間としての尊厳を失わずにいるためには、「ことばを交わすのが人」であり「ものを作りあげる」のが人であることを忘れずにいること、という大切なことを伝える展覧会でした。

 私は、一枚の絵の前に釘付けになりました。三力谷萬信というサインの入った「トゥールレイク収容所」の風景です。萬信は、ジミー・ツトム・ミリキタニの画号。収容中のミリキタニが描いたものでした。
 「画家になろう」と、生まれた地アメリカに戻って数年。思いもよらず収容所で暮らすことになったミリキタニは、収容所の中にあっても、こんなふうに絵を描いていたのだと思いながら、絵を見つめました。

ジミー・ツトム・ミリキタニの絵「トゥールレイク収容所」


 晩年、路上で絵を描く生活になった彼がユニークな個性を失わず、映画『ミリキタニの猫』の中でも、強烈な存在感を放っていたことを思い出します。

 「どんな逆境にあっても、美しいものを愛で、こつこつと生活を豊かにする道具や日用品を作りあげる心を失わない。その心を、今、つらい時代のなか、思い起こそう」というようなメッセージが込められていた展覧会でした。

 仕事帰りに入館して、しばらくすると、わさわさとスーツ姿の一団が入ってきました。あれま、これは誰かが見にくるので、警備が入ったなと思ったら、予想通り、5時の閉館になると、人々が玄関前に集まってきました。

 行幸行啓があるということなので、私も「物見高いおばさんたち」の一人として待っていました。5時すぎてほどなく、白バイ先導車が到着し、両陛下同乗のお車が美術館前に横付けされました。天皇皇后ご夫妻が周囲の人たちに手をふりながら、美術館に入館。周囲のおばさんたちは「おきれいねぇ」「気品があるわねぇ」と感無量のようすでした。
 当日翌日のニュースでは、両陛下、展示の作品を熱心に鑑賞されたとのこと。

↓の代表撮影の写真、おふたりが見ているのは、ブローチのケース。土中から掘り出した貝殻や木の実を丹念に組み合わせて花などを形づくったブローチや髪飾りが並べられていたケースです。とぼしい材料で造られたとは思えない出来映えの美しいアクセサリーが並んでいました。


 熱心な皇室ファンの人は、「尊厳の芸術」展観覧後のお見送りをしたいと残っていましたが、私は暗くなった上野公園を通って上野駅へ。
 12月6日、よく晴れた日でした。上野公園、午後の青空に金色の葉を輝かせていた銀杏の大木も、すでに夕闇の中に黒くなって立っていました。

 銀杏は、中国が原産地とみられ、仏教寺院に多く植えられました。日本にも仏教とともに伝えられ、ギンナンが有益な堅果であったこともあって、日本各地に伝播。
 銀杏は、西洋にも、シルクロードなどを通って伝えられたのですが、病原菌により木々が枯れてしまい、西洋の銀杏は絶えてしまいました。その後、江戸時代、長崎出島の医師として来航したケンペル(1651 - 1716)が日本のギンナンをヨーロッパに持ち帰り、西欧各地に銀杏が再び植えられました。現在ヨーロッパやイギリスで見るイチョウは、ほとんどがこのケンペルイチョウの子孫です。英語で銀杏を「ginkgoギンコー」というのは、「ギンナン」から来ているのではないかしら。

 銀杏も、中国から日本へ。日本から西欧へと、伝播の歴史を持つ「移民」です。
 どの土地にあっても、そこから根を張り枝を広げます。
 移民も、それぞれの土地に行き、そこで根を下ろす。生まれた場所の記憶、先祖の文化を継承しながら、新しい自分たちの文化を創り上げていく。
 移り住み変えながらも、人としての誇りを忘れず、ルーツも大切にしつつ、今の果実を産みだしていきます。それが人間の尊厳だろうと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「オレンジと太陽-児童移民の悲劇」

2012-12-12 00:00:01 | 映画演劇舞踊
2012/12/12
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>移民映画(2)オレンジと太陽-児童移民の悲劇

 移民が登場する映画。
 移民が主人公であったり、移民問題を扱ったりする映画の数々、このサイトに「移民映画」として並んでいます。
 http://www16.plala.or.jp/koffice/cinema/thema/emigration.html

 このサイトにUPされている映画の中で、アフガニスタンからイランへ出稼ぎにきた少女一家を扱った「少女の髪どめ」
 2003年7月に書いた感想は、こちら↓
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/0307c7mi.htm

 『オレンジと太陽』(Oranges and Sunshine)は、イギリスとオーストラリアの「児童」の問題を告発した原作『からのゆりかご―大英帝国の迷い子たち』を元にしたジム・ローチ監督作品。実話をもとにした作品で、原作者は、印税をもとに今も活動を続けているという現在も進行中の問題なのです。以下、ネタバレを含むあらすじ紹介です


 原作者マーガレット・ハンフリーズは、イギリス・ノッチンガムに住むソーシャル・ワーカー(社会福祉士)として働いてきました。理解ある夫に恵まれ、仕事が忙しいときは娘と息子の世話を頼むこともできます。
 マーガレット(エミリー・ワトソン)は、 幼児に里子や養子にだされた人々のためのグループ・カウンセリングなどを運営しているしているうち、オーストラリアから来たシャーロットという女性の依頼を受けます。「私の母親を捜して下さい」という、ソーシャルワーカーの仕事の範囲を超えた依頼に、マーガレットは一度は「それは私の仕事ではない」と断ります。

 気になったマーガレットが調べてみると、おかしな点が次々に分かってきます。シャーロットたちは、養子縁組によって国籍を変えた、という通常の子どもとは違う、過酷な人生を歩んでいたのです。それまでまったく知られてこなかった事情が潜んでいました。

 イギリスで生まれた、薄幸の子ども達。両親に死なれた子ども、未婚の女性から生まれた子ども、貧しさのために親が子どもを育てることができなくなった子ども。さまざまな事情から養護施設に預けられた子どもが、世間にまったく知らされぬうち、「労働者」としてオーストラリアに移民させられていたのです。
 5歳から15歳くらいまでの子どもが、児童施設から有無を言う機会もなく船に詰め込まれ、オーストラリアに運ばれました。オーストラリアは、白人の移住者を欲しがっており、文句を言うこともできないまま働く従順な子どもが労働者として重宝されたのです。
 1920年代から1970年代まで、なんと50年間にわたって、イギリスからオーストラリアへの非道な児童移民が行われてきたのです。被害を受けた子どもは13万人に上ることがわかりました。

 マーガレットが面談した女性のひとりは、8歳でオーストラリアに来て、その日にモップを渡され床を磨くように命じられました。それ以来40年間、床を磨く以外の生活を知らなかったと。教育を受ける機会を奪われて幼いころから床磨きだけをさせられたのです。
 ある人は、「イギリスの児童施設で母親が迎えに来ると信じて耐えていたら、母は死んだと聞かされ、わけも分からないうちに船に乗せられた」と証言しました。たった5歳では、何も抵抗できなかったと。
 何もわからないまま船から降ろされた子ども達には、重労働や雇い主からの暴力が待っていました。荒涼としたオーストラリア沙漠の中の修道院に収容された子ども達には、性的虐待、反抗すると暴力による制裁、という運命が待っていました。

 キリスト教倫理が社会を強く縛っていたイギリスで、女性が未婚で産んだ赤ちゃんを生み、自分で育てたいと望んでも、それは叶えられないことでした。赤ちゃんを児童施設に送られてしまった母親が、我が子を取り戻したいと望んで児童施設にたどり着いても、「もう、あの赤ん坊は、養子にだされ、しっかりした立派な家庭で幸福に育てられている」と説明を受け、諦めさせられた、というケースもありました。
 しかし、幸福な家庭で育てられているというのは、本当はありませんでした。13万人もの子どもが、「移民」の名のもとにオーストラリアへ送られ、過酷な労働に従事させられていたのです。

強制移民させられた子どもたちの写真の一枚。移民船の前で


 教会の事業のひとつとして、「親のいない児童への福祉」であるとして行われたことなのですが、教会内では、子どもが告発できないことをいいことに、児童への性的な虐待、過酷な労働、教育の不完全などの非道が続けられてきました。ある男性は、神父から性的虐待を受けたことによって、大人になってもPTSTに苦しみ、ある人は精神が不安定な状態のままその日暮らしをしてきました。

 過酷な労働の中からチャンスをつかみ、仕事の上で成功したレイは、お金は出来たものの、「自分がどのような親から生まれたのか、自分は誰なのか」という不安を持ち続けました。親が誰かということが不明なままの人々は、自分のアイデンディティが確立できずに、自分が誰なのかという不安に追い込まれるのです。
 レイは私立探偵を雇って親探しもしましたが、私的な調査では、わからずじまい。「児童移民」という事実が、イギリスとオーストラリア両政府によって隠し続けられ、資料などが隠されたままだったからです。

 マーガレットの本が出たあと、マーガレットはさまざまな誹謗中傷を受けました。この事業を行っていたのが教会だったからです。教会のやることは「不幸な児童を幸せにしてやるための事業だ」と信じる人々は、教会の神父によるこの非道な行為を明るみに出したマーガレットを脅迫し、マーガレットはPTSTになるほど追い詰められました。

 児童移民被害者に会い、面談を重ね、わずかな資料を手掛かりに、彼らの実の親を捜す毎日。児童移民の子ども達は、パスポートも国籍も持たされずに豪州へ入国しているため、教会が資料を隠してしまえば、自分のルーツを探す手掛かりは皆無となってしまうのです。マーガレットは根気よく彼らのために家族を探しました。

 マーガレットの娘と息子は、母がオーストラリアに長期出張している間、母親が不在の父子家庭の状態で暮らし、寂しさを我慢する毎日。クリスマスに、元児童移民の人々とのパーティで「あなたからみんなへのプレゼントはないの?」と問われ、「僕からのプレゼントは、ママだよ」と答えました。ママが一番欲しい年頃なのに、ママを「児童移民被害者」のために貸し出していたのですから。
 マーガレットの娘と息子の子役は、マーガレットが暮らしていたノッティンガムでのオーディションで選ばれたそうです。

 マーガレットが原作『からのゆりかご Empty Cradles」を出版したのが1994年。さまざまな反響を呼び、ついに、2009年11月にオーストラリア首相がこの問題に関して公式に謝罪。この謝罪を受けて、2010年2月にイギリス首相が公式謝罪しました。
 マーガレット・ハンフリーズは原作の印税をもとに基金を設立しました。まだなお親が不明な元児童移民が残されており、その人々の家族を探す活動は続けられています。

原作「からのゆりかご」


 オーストラリアでは、アボリジニの女の子を親から無理矢理ひきはなし、強制収容して白人経営牧場の労働者として送り込む事業も行われました。この事業を行った側は、アボリジニの子どもが、無学歴の親に育てられるより、「教養ある白人の雇い主」のもとで働いたほうが、ずっと幸福だと信じていました。白人の雇い主のもとでは、『オレンジと大陽』と同じように、強制労働や性的虐待が行われていたのです。
 オーストラリア政府は、アボリジニ強制収容に関しても、謝罪を行っています。

 新興国家オーストラリアでは、数々の政策ミスがありましたが、政府は、謝罪すべきことにはきちんと謝罪しています。
 政府の音頭取りで原発を「安全だ」と言い続け、原発事故で被害を受けた人に公式な謝罪もないどこかの国とは大違いです。しかも、「復興のために」という税金を、別の事業にまわすありさま。さて、次の選挙でどんな政府ができるのか。

 映画『オレンジと太陽』によって、私は初めてイギリスオーストラリア間の児童移民の問題があったことを知りました。そして、キリスト教国における「教会の不正」という、とてつもなく大きな問題を敵に回しても、迫害に一歩もひかずにこつこつと真実にたどり着こうとした、ひとりの女性の姿に心うたれました。

<つづく> 
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