2012/12/13
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>移民映画(2)ミリキタニの猫と尊厳の芸術展
日曜日12月9日に、叔父の葬式に行って来ました。1946年生まれ66歳というまだ死ぬには早い年代だったから、友人知人も多く、師走の慌ただしい時期なのに大勢の会葬者が故人を悼みました。仲間と山菜採りやバーベキューなどで楽しい時間をすごし、面倒見のよいよき友であったことが弔辞に述べられていました。幼い孫が「じいじ、ありがとう」と泣きじゃくりながら読む作文が皆の涙を誘いました。
叔父は私の父の末弟です。父方の祖父は、最初の妻(私の父の母)が24歳で病死してしまったあと、後添えのと間に3男2女をもうけました。叔父は末っ子で、2歳のときその後添えの母親も亡くなり、10歳のときには父親(私の祖父)も死んでしまうという二親の縁薄い、寂しい境遇でした。私の父とは27歳も年が離れていて、兄というより父のようでしたから、小学生時代は私の家に入り浸りで、私の母を母親代わりに慕っていました。姉と私も、年の離れていないこの叔父を兄のように思って遊んでもらいました。
中学生になって男の子同士で遊ぶ方が面白くなると、あまりわが家には寄りつかないようになっていき、たまに町で顔を見た折りなど「ヨネおじさん」と呼ぶと、「おじさんって呼ぶな」と怒ったものです。「だって、おじさんじゃない。うちのお父さんの弟なんだから」と言っても、いくつも年の離れていない姪っ子から「おじさん」と呼ばれるのは中学生高校生の男の子にとって、恥ずかしかったのでしょう。今となっては、笑い話です。
私の母は、誰にでも深い愛情を注ぐ人でしたから、叔父が成人するまでよく世話をしていました。叔父は、母の死後も折に触れて「しずえ姉さん」への感謝の心を述べていました。
幸せな家庭を築いて、友にも恵まれた生涯であったことを、今頃は母に報告していることでしょう。
今年もいろいろな方々の訃報を聞いた年でした。若くして惜しまれながらの急逝もあるし、十分な年齢を積み上げての大往生もあります。
大往生と言えるひとりは、ジミー・ツトム・ミリキタニです。ミリキタニは、2012年10月21日に、92歳での往生を遂げました。ミリキタニ追悼の会は、叔父の葬儀と同じ12月9日に、ニューヨーク日系人会によって行われました。
ジミー・ミリキタニは、日本名、三力谷勉。カリフォルニア・サクラメントで生まれた日系二世で、3歳から18歳までは日本の広島で育ちました。1938年にアメリカへ戻ります。アメリカで出生し、アメリカ国籍を持っていたからです。画家になるという夢を持っていましたが、1940年に太平洋戦争が勃発。1942年には、トゥールレイクの日系人の強制収容所に入れられました。
1940年以後、アメリカの日系人は次々と各地の強制収容所に送られました。
日本から遠くアメリカに移住して、それぞれが苦労を重ねて、大農園を経営するに至った人もいたし、工場や店を経営していた人もいた。それを全部接収され、無一文にさせられて収容されたのです。ほとんどの人が着の身着のままで、「永住権を持っているのだから、簡単な検査を受けて、米国に敵意を持っていないことが証明されればすぐにも帰れる」と思って、家に財産を残したまま収容所のキャンプに入ったのでした。
ミリキタニはアメリカ国籍を持っていたのに、「国籍放棄したほうが、今後のためになる」と説得され従いました。ミリキタニが収容所から解放されたのは、終戦後1947年になってから。数ヶ所の収容所に拘留され続け、解放後もアメリカ各地を放浪する生活になりました。
1959年に「強制的に奪われた市民権を回復する」という通達が出ていたのに、放浪生活を続けたミリキタニには、この通達が届かなかったのです。1980年代まで、ミリキタニは各地のレストランで働くなど放浪を続けました。
80年代の後半、市民権のないミリキタニを隠れて雇ってくれていた雇い主が亡くなると、ニューヨークで「ホームレス」として、路上で絵を描いて売る生活を続けました。
絵の具が買えないのでボールペンで書いた絵。その絵を買ったひとりの女性映画監督がいました。リンダ・ハッテンドーフは2001年からミリキタニの生涯と生活をドキュメンタリーとして、撮影しました。
『ミリキタニの猫』は、2006年の東京国際映画祭の「ある視点最優秀映画賞」をはじめ、各地の映画祭で受賞。私は、2008年に飯田橋ギンレイホールで見ました。
映画の中だけで知っていたミリキタニの絵、本物の絵をはじめて見ました。東京藝術大学美術館で開催されていた「尊厳の芸術」展。
2010年にNHKクローズアップ現代で放送された「The Art of Gaman 我慢の芸術」が反響を呼び、今回の「日本での開催が待望されていたのだそうです。
私は、見ようかどうしようか迷っていましたが、ダンス仲間のともこさんから「ことばにならないくらい感動した。e-Naちゃんも見てきて」と、メールをもらったので、仕事帰りに見てきました。
太平洋戦争中、強制収容された日系人が、厳しい収容所生活の中で、もちまえの手先の器用さ、美しいものをめでるこころねを発揮し、ゴミとして捨てられた空き缶や木ぎれ、石、砂を掘り起こして出てきた貝殻などを利用して、こつこつと日用品や工芸品を作り上げた、その作品の展覧会です。
多くの日系人は、これらの作品を「自分たちの心を支えた記念の品」として大事にし、ガレージなどに保存していましたが、子どもや孫にこれらの作品を見せることはしない人が多かった。つらく苦しかった収容所の話をすると、子ども達がアメリカに反感を持ってしまうのではないか、その結果アメリカ社会で生きにくくなってしまうのではないか、そんな気持ちで、多くの日系人は、作品は密かにしまっておくのみでした。
一人の日系女性が、両親の死後、これらの「収容所作品」に気づきました。日系人の間を歩いて調査すると、多くの作品がひっそりと保管されていたことがわかりました。作品が集められ、スミソニアン博物館で「The Art of Gaman」として開催されると、大きな反響を巻き起こしました。クローズアップ現代での紹介も、この時のこと。
何もない収容所で、人々は石ころや木ぎれから見事な作品を作りあげていたのです。それらの展示については、見た人の多くがブログなどで「感動した」という感想を書いています。私も、また後ほどひとつひとつの作品について書きたいと思います。
人は、どのような環境にあっても、人間としての尊厳を失わずにいるためには、「ことばを交わすのが人」であり「ものを作りあげる」のが人であることを忘れずにいること、という大切なことを伝える展覧会でした。
私は、一枚の絵の前に釘付けになりました。三力谷萬信というサインの入った「トゥールレイク収容所」の風景です。萬信は、ジミー・ツトム・ミリキタニの画号。収容中のミリキタニが描いたものでした。
「画家になろう」と、生まれた地アメリカに戻って数年。思いもよらず収容所で暮らすことになったミリキタニは、収容所の中にあっても、こんなふうに絵を描いていたのだと思いながら、絵を見つめました。
ジミー・ツトム・ミリキタニの絵「トゥールレイク収容所」
晩年、路上で絵を描く生活になった彼がユニークな個性を失わず、映画『ミリキタニの猫』の中でも、強烈な存在感を放っていたことを思い出します。
「どんな逆境にあっても、美しいものを愛で、こつこつと生活を豊かにする道具や日用品を作りあげる心を失わない。その心を、今、つらい時代のなか、思い起こそう」というようなメッセージが込められていた展覧会でした。
仕事帰りに入館して、しばらくすると、わさわさとスーツ姿の一団が入ってきました。あれま、これは誰かが見にくるので、警備が入ったなと思ったら、予想通り、5時の閉館になると、人々が玄関前に集まってきました。
行幸行啓があるということなので、私も「物見高いおばさんたち」の一人として待っていました。5時すぎてほどなく、白バイ先導車が到着し、両陛下同乗のお車が美術館前に横付けされました。天皇皇后ご夫妻が周囲の人たちに手をふりながら、美術館に入館。周囲のおばさんたちは「おきれいねぇ」「気品があるわねぇ」と感無量のようすでした。
当日翌日のニュースでは、両陛下、展示の作品を熱心に鑑賞されたとのこと。
↓の代表撮影の写真、おふたりが見ているのは、ブローチのケース。土中から掘り出した貝殻や木の実を丹念に組み合わせて花などを形づくったブローチや髪飾りが並べられていたケースです。とぼしい材料で造られたとは思えない出来映えの美しいアクセサリーが並んでいました。
熱心な皇室ファンの人は、「尊厳の芸術」展観覧後のお見送りをしたいと残っていましたが、私は暗くなった上野公園を通って上野駅へ。
12月6日、よく晴れた日でした。上野公園、午後の青空に金色の葉を輝かせていた銀杏の大木も、すでに夕闇の中に黒くなって立っていました。
銀杏は、中国が原産地とみられ、仏教寺院に多く植えられました。日本にも仏教とともに伝えられ、ギンナンが有益な堅果であったこともあって、日本各地に伝播。
銀杏は、西洋にも、シルクロードなどを通って伝えられたのですが、病原菌により木々が枯れてしまい、西洋の銀杏は絶えてしまいました。その後、江戸時代、長崎出島の医師として来航したケンペル(1651 - 1716)が日本のギンナンをヨーロッパに持ち帰り、西欧各地に銀杏が再び植えられました。現在ヨーロッパやイギリスで見るイチョウは、ほとんどがこのケンペルイチョウの子孫です。英語で銀杏を「ginkgoギンコー」というのは、「ギンナン」から来ているのではないかしら。
銀杏も、中国から日本へ。日本から西欧へと、伝播の歴史を持つ「移民」です。
どの土地にあっても、そこから根を張り枝を広げます。
移民も、それぞれの土地に行き、そこで根を下ろす。生まれた場所の記憶、先祖の文化を継承しながら、新しい自分たちの文化を創り上げていく。
移り住み変えながらも、人としての誇りを忘れず、ルーツも大切にしつつ、今の果実を産みだしていきます。それが人間の尊厳だろうと思います。
<つづく>