春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「2014年11月目次」

2014-11-30 23:00:01 | エッセイ、コラム


20141130
ぽかぽか春庭>2014年11月目次

1101 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月(1)藁葺き屋根はなつかしいか
1102 十四事日記11月(2)レリゴー in 東京芸術劇場
1104 十四事日記11月(3)建物めぐり散歩with yokoちゃん
1105 十四事日記11月(4)上智大学ソフィア祭
1106 十四事日記11月(5)モミジ色・ママの嫁入り

1108 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(1)和種在来馬の去勢
1109 十四事日記午年尽(2)流血のファントム
1111 十四事日記午年尽(3)グッバイレール、さよなら都会の星
1112 十四事日記午年尽(4)昔話もおわりになるのか
1113 十四事日記午年尽(5)ブログのおわりブログ人終了

1115 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年おい老い笈の小文(1)本でたどるわた史あ~お
1116 おい老い笈の小文(2)トリックスターとネット航海
1118 おい老い笈の小文(3)ラグナグ国とえぞ松の更新と赤ワイン
1119 おい老い笈の小文(4)歴史の語り部
1120 おい老い笈の小文(5)読書記録
1122 おい老い笈の小文(6)ロンリーウーマンの罪と罰
1123 おい老い笈の小文(7)わたしも散歩と雑学が好き、、、、晩年の恋も!
1125 おい老い笈の小文(8)芭蕉忌&寵児

1126 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記11月冬支度(1)駅のホームでころぶ
1127 十四事日記11月冬支度(2)珈琲を飲みながら
1129 十四事日記11月冬支度(3)オペラとエスニック料理めぐり
1130 十四事日記11月冬支度(4)水織ゆみのシャンソンin三越劇場


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「水織ゆみのシャンソンin三越劇場」

2014-11-30 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141130
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十四事日記11月冬支度(4)水織ゆみのシャンソンin三越劇場

 11月21日は、ジャズダンスサークルでごいっしょしている水織ゆみさんのシャンソンリサイタル。プロシャンソンプロ歌手として40代でデビューしてから早や20余年。私もゆみさんファンとして、コンサートやリサイタルにでかけてきました。
 今回は、日本橋三越本店の7階、三越劇場です。

 ゆみさんも、冒頭のトークで「このような伝統ある立派な劇場でリサイタルが開けることになり、感無量です」と、言っていました。1927年にオープン。1958年に今の内装に改築したとのことで、天井や壁の装飾、扉などもとても立派なつくりです。ゆみさんが「区民ホールからスタートしたコンサートも、ついに三越劇場での上演となりました」トークする気持ち、わかります。

 金曜日の仕事を終えてから日本橋に行ったので、私が着いたときは、3時の開演ぎりぎりでした。
 シャンソン教室のお弟子さん達が受付やCD発売などを引き受けています。
 「お江戸日本橋」の歌でオープンし、ゆみさんは、神田の生まれのちゃきちゃき江戸っ子であるというナレーションからスタートしました。神田や日本橋は、ゆみさんの生まれ故郷であり、遊び場だったと。

   

 ゆみさんがシャンソンコンクールで優勝してプロ歌手になる以前、「歌の上手な主婦」として、いっしょにジャズダンスを習っていた頃からのおつきあい、もう30年になります。
 今回のリサイタルは「Ole!シャンソン パリ・日本橋編」という内容で、構成、台本、衣装、ステージング、訳詞、全てをゆみさん一人でこなしています。すごい才能だなあと、いつも感心します。
 伴奏はアコーディオン桑山哲也、センセサイザー砂原嘉博のおふたり。

 「枯葉」「ドミノ」などのおなじみのシャンソンから、「バスティーユの街で」など、私には初めての曲もありました。

 プログラム外のサービス歌唱として、アナと雪の女王からありのままでを歌ったゆみさん


今回の曲目
第1部
・街角 COIN DE RUE
・1927年のシャンソン
・バスティーユの街で
・枯れ葉
・ブエノスアイレスの影
・鏡の中のつばめ
・アプレトワ
・ドミノ
・愛してくれるなら
第2部
・ターザンはすてき
・ブルージーンと皮ジャンパー
・リベルテ
・パダンパダン
・ポリュシカポーレ
・会いしか亡い時
・この街で
・息子よ
・水にながして

 「ターザンはすてき」のときは、客席に見に来ていたイケメンの俳優さんに、いきなりの「ターザン役をやって」と、むちゃブリ。でも、さすがにプロの芸能人、「アアア~~!!」というターザンの雄叫びがとてもすてきでした。
 、
 いつもながら、酸いも甘いも、たっぷり豊かな人生の味にして味合わせてくれるゆみさんの歌声に聞き惚れました。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「オペラとエスニック料理めぐり」

2014-11-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141129
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十四事日記11月冬支度(3)オペラとエスニック料理めぐり

 友人の歌を聴くためにコンサートに出かけました。
 11月16日は、地元のホールでオペラの会。元ダンス仲間のT子さん、校長先生退職後は、子ども達のお話朗読会や、オペラアリアを歌う会で、美しい声を生かしています。
 32回目のコンサートという長年オペラアリアの練習を続けている会です。今回T子さんは、三重唱でモーツァルトの魔笛から「さあ死ね、大蛇め!」というタイトルは威勢のいい歌。

 この三重唱は、夜の女王に仕える3人の侍女の言い争いの歌です。怪我をした王子のために、3人の侍女が力を合わせて大蛇を打ち倒したまではよかったのですが、3人のうち、ひとりはイケメン王子の付き添いとして残り、あとの2人は、城へ助けに呼びに行く、という場面で、それぞれが、自分が王子の付き添い役になりたくて、言い争うという女心の争い。「あんたが、助けを呼びにいきなさいよ」「いいえ、私は王子様のおそばに残るべきだわ」というような言い争いをしてらちがあかず、結局一人が残って抜け駆けは許さないと言うことになり、3人とも夜の女王のもとへ。

 T子さんの独唱曲は、プッチーニの「修道女アンジェリカ」
 我が子を失った悲しみの歌です。T子さんのやわらかな声で歌うと、悲しい歌ではありますが、心の中にしみてきて、子を失った母親が聞いたなら、きっと心が癒やされたのではないか、そんな気がしました。

 この素人たちのオペラアリアを歌う会の先生、オペラ歌手の水野洋助さんのサービス独唱もありました。すてきなバリトンの歌声です。ホールいっぱいに朗々と響く声、さすがプロの歌声でした。

バリトン水野洋助


 11月20日は、久しぶりに出身校の文化祭をのぞきました。
 文化祭の期間、教師にとってはありがたい「授業が休講になる時間」ですから、家でのんびりしたりお出かけしたりできます。しかし、今年は、文化祭の間に、今加わっている教科書編集のプロジェクトを進めておきましょうということになって、出勤しました。

 お昼ごはんは、学生達の模擬店に出かけて、それぞれ好きな食べ物を買ってきましょう、ということになりました。
 木曜日からスタートする学園祭、木金土日月と、5日間も続きます。都内の大学の大学祭のうちでも、一番長期間やっている大学のひとつかと思います。というのも、外国語や各国文化、国際関係、国際紛争と平和解決(Peace and Conflict Studies) などを学ぶ学生にとって、日頃の教室での学習と同じくらい大学祭への参加が、よい経験の機会になっているからです。

 1年生は、各国料理の模擬店を出して、自分が習っている国の料理を作って提供する。2,3年生は、習得した言語で劇を演じる。また、フラメンコ、ベリーダンスなど、各国の踊りの発表、各国民族衣装のファッションショーなど、5日間にわたって、大賑わいのお祭りです。近所の人たちも、日頃食べられない民族料理店を楽しみにやってくるので、木曜日のお昼ごはんを買うにも、早くも行列が出来ていました。一日めの木曜日には、まだ学生が接客になれておらず、もたもたしていて時間がかかるってことも原因の行列ですけれど。

 私は、行列がまだない店を選んで、ビルマのサモサ、モンゴルのボーズ、などを買いました。独特の香辛料が使われているので、「この国の料理はダメ」という先生もいますが、わたしはもともとエスニック料理が大好きなので、よほど辛いものでなければ大丈夫です。みなで分け合って、おいしくいただきました。
 チェコのビールをおみやげに買いました。ビールも各国それぞれのものが楽しめるので、飲み比べもおもしろいかも。

 今年は、清泉女子大、上智大と大学祭を見て、最後に出身校のも見られて、大学祭づいている秋でした。 
 
<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「珈琲を飲みながら」

2014-11-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141127
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十四事日記11月冬支度(2)珈琲を飲みながら

 茶飲み話のできる友達がいる人といない人の、「余命」を疫学調査した研究があります。話し相手のいない人が残りの人生を生き続ける年数は、友達がいる人の余命よりずっと短いそうです。わざわざ研究しなくても、経験的にわかっていたことですけれど、きちんと科学的な調査でわかった、というところが大事。笑うと長生きできるってことも、免疫力の増加などで検証されたように、友達力もちゃんと証明されました。

 しかし、人付き合いの下手な私は、気楽におしゃべりできる友達がごく少ないです。高校同級生のやっちゃんとも、大学同級生のK子さんともそう頻繁に会えません。
 私にとって、顔を合わせてのおしゃべりの代わりがこのブログです。どうということのないとりとめもない内容のおしゃべりをここにぶちまけているので、読んでくれる人がコメントなどくだされば、ほんとうにありがたいことだと思います。

 でも、やはりリアルおしゃべりの相手もいてほしい。
 いちばん頻繁に顔を合わせるのは、毎週金曜日夜にいっしょにジャズダンスの練習をしてきたミサイルママでした。

 長いことおつきあいしてきたジャズダンス仲間のうちでも、「女手ひとつで子どもを育ててきた苦労仲間」のミサイルママは、誰よりも気兼ねなく気軽に貧乏話も話しあえる人でした。ブランドの服とか豪邸とか、そういう「もの」に興味をもっていないし、「もの」の価値で人の価値を決めない、というところも共通している人だったので、ほんとうに気安くおつきあいが出来たのです。ふたりとも、ジャズダンス仲間がくれる「お下がり服」を平気で着ている、というところも共通点。

 「子どもが結婚して自立を見届けたら、子育て完了」という人も多いですが、ミサイルママと私は、「子どもが結婚しそうもない、孫を持つ身になりそうもない身の上」、ということも共通していました。

 そのミサイルママが、「いつまで待っても、子どもが結婚しそうもないので、自分が結婚して、先に自立することにした」、ということになって、いよいよ子育て卒業。
 「これから毎週パートナーのうちへ泊まりに行って、来年の夏ぐらいに向こうの家に同居するつもり」ということになりました。

 おしゃべり相手をパートナーさんにとられてしまうような気もありますが、ここはひとつ、大人の友情らしく「パートナーゲット記念お食事会」でお祝いしようと思い立ちました。

 ディナーのレストランは、ミサイルママの次男さんが働いている東京駅前のビルの店。
 次男さんは、大学では教員免許を取得し、アルバイト先の珈琲店ではバリスタ(コーヒー・マスター)の資格をとった頑張り屋さん。今は、専門学校のバリスタクラスの先生をしています。しかし、調理コース入学者は大勢いるけれど、バリスタコースの生徒さんは少ないから、今のところ、バリスタ講師業は週に1回だけ。あとは、レストランでバリスタとしてコーヒーを淹れ、レジなど接客の仕事もする。

 これまで、ミサイルママは、演劇をやっている長男さんの公演のときには、真っ先にチケットを買って、ほとんどの公演を見てきました。私も、半分くらいの公演につきあってきました。美人のミサイルママの長男さん、とてもハンサムです。

 しかし、次男さんは20代のうち、「親が店に来ると恥ずかしいから、ぜったいに、来るな」と、母親の「参観日」を拒否してきました。それが、30歳を過ぎたら、ようやく反抗期も終わったのか、「うちの店に来てもいい」というお許しが出たのですって。
 それで、私もようやく次男さんを見る機会ができました。
 東京駅前のビル、1階で待ち合わせて、カジュアルイタリアンの店へ。

 ワォ、長男さんもハンサムだけれど、次男さん、もっとイケメンだわ。
 いつもは和食の大戸屋で定食を食べるのがミサイルママとの会食なのですが、この日はパートナーゲットのお祝いなので、ちょっとだけ奮発。ディナーコースを注文しました。生ビールで乾杯して、前菜、副菜、パスタ、メインの魚、デザート。満腹になりました。コーヒーもおいしかったです。

 前菜は、半分以上食べてから、あ、写真撮っておこうと思いついたので、お皿がさびしくなっています。右は、エビのアヒージョ(えびのガーリックオイル煮)。
  
 メインの魚ソテー
ナスときのこのパスタ、撮影するのを忘れてしゃべっていました。

 デザートは、あんのう芋のアイスクリーム


 お会計を済ませると、次男さんは「お店からサービスです」と言って、パンとジャムのセットを持たせてくれました。レストランのお土産セットをもらうなんて、初めてのことです。次男さんの好意、ありがたくいただきました。

 ミサイルママは「息子ふたりとも、ちっとも稼げない仕事を選んだ」と言うのですが、わたしは「ふたりとも、演劇とバリスタ、自分の好きな道を選んで人生を進んでいるんだから、偉いわあ、立派に育て上げたじゃないの」と、感想を言いました。むろん、イケメン好きの私ですから、その分ポイントかさ増しです。

レストランバルコニーから見た夜の東京駅


 あとは、ミサイルママも自分の幸せを追求していくのみ。
 合唱、水彩画、ジャズダンス、登山という多彩な趣味のどれも「パートナーとの生活が安定するまで、しばらくは全部休む」と言って、私たちのジャズダンスサークルも退会する、と言っていたのですが、「やっぱり、健康のためにダンスだけは続ける」と、思い直してくれました。
 よかった!

 数回、ミサイルママがいないサークルで自主練習をやってみました。しかし、私も含めて皆、振り付けを覚えていなかったので、曲の振り付け練習ができず、柔軟体操や体幹づくりの基礎練習しかできませんでした。
 ミサイルママがやめてしまうのなら、来年は私もやめようかと思っていてたのです。でも、ミサイルママが練習を続けてくれることがわかって、私も続けることにしました。

 老い支度は体力づくり。体力づくりはジャズダンスで。
 ジャズダンスサークル参加者を募集中です。

<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「駅のホームでころぶ」

2014-11-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141126
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>十四事日記11月冬支度(1)駅のホームでころぶ

 2003年の秋に、「この先老いていく心の支度」として「おい老い笈の小文」を書き始めました。老いに関わるニュースや本を巡りながら、自分の老いを見つめ、老人になっていく準備をしようと思ったのです。冬になる前の冬支度のような、老いを目前にしての老い支度。

 しかし、実際に11年たって、私も保険証で年齢を提示すれば、美術館常設展を無料出見られる年になりました。日頃は特に身体的精神的な老いを感じることなく過ごしているのですが、確実に体は衰えているのだなあと思います。今月、駅で思わぬ怪我をしました。以下、ウェブ友yokoちゃんのブログコメント欄に書いたことをもう一度。
~~~~~~~
 近頃、電車の中で本を読もうとしてもつい居眠りをしてしまうことが多くなりました。ときどき乗り越します。
 中央線、新宿に近づき、新宿の次はもう、降りなくちゃと思っているのに、目をつぶってしまいました。目を開けるとお茶の水。しまった。乗換駅の四谷を過ぎていました。お茶の水で反対方向に戻るには、階段を上り下りして隣のホームへ行かなければなりません。

 大きく膨らんだ超重いトートバッグをキャリーにのせて運んでいるので、階段は苦手です。ようやく階段を降りきると、目の前に総武線が止まっていました。ま、いいか、これに乗れなくても、夕方のラッシュ時間帯には中央線総武線、5分と待たずに次が来るのです。階段を降りて一息いれたとき、初老の男性があわてて階段を降りてきて、私の脇をすり抜けました。きっと是が非でも目の前の電車に乗らないと、新宿駅での乗り継ぎが悪くなるという人だったのかも知れません。乗り継ぎを1本逃すと、次までしばらく待たなくては成らないってことは、私も経験することなので、この男性が大急ぎで新宿方面への電車に飛び乗った気持ちはわかります。

 私は、その男性にぶつからないように、よけようとしました。ところが、荷物の重さもあって、バランスを崩してしまったのです。前のめりにバタリところがり、ホームの黄色い線の上に、うつぶせ大の字になりました。最後尾にいた車掌さんが降りてきて「大丈夫ですか」と声を掛けてくれました。ホームにいた乗客の人たちが、散らばったバッグやキャリー、スイカカードなどを拾い集めてくれました。

 私は、「ありがとう」とお礼を言うのがせいいっぱいで、車掌さんには「大丈夫です」といいました。なにしろこんなふうに転ぶなんて思ってもいなかったので、恥ずかしい思いでいっぱいでした。私の脇をすり抜けた男性が一度乗った電車を降りて「すみません」と言いに来ました。私は「大丈夫ですから」と言いました。この男性が私にぶつかったのなら、抗議するところですが、男性はぶつかってはおらず、私がよけ損なって、バランスを崩したのです。

 車掌さんが「ただいま、ホームでお客様の安全確認をしていたために、この電車の発車が2分遅れましたことをお詫びします」というアナウンスをしました。うわぁ、この安全確認って、私のことだ、と思うとまた恥ずかしくなりました。
 バランスを失ってころぶなんて、なんてことでしょう。長く感じた「安全確認」も、2分間の出来事だったのね。

 帰宅して足を見ると、膝小僧がすりむけて血がにじんでいました。すりむけ程度でよかったのですが、冷静に考えてみると、ころんで恥ずかしいと思うばかりだったのは、無能なことでした。このような出来事にあったときしておくべきことを、何ひとつしていませんでした。私がころんだのは、私がバランスを崩したからですが、男性が階段を駆け下りて突進してこなければ、私はよろけなかったはず。
 気づかないうちに内出血とか骨にヒビがはいっていたとか、重大事故になったかも知れませんでした。
 この男性の住所氏名くらい、車掌さんに聞いておいてもらうべきだった、と気づきました。
~~~~~~~~~~~

 yokoちゃんが遭遇した地下鉄の乗車下車に伴うトラブルについて、そのときは重大事故にはならなくても、起こった出来事は駅の係員に報告した方がいいのではないか、というコメントを残したところでした。しかし、実際に自分自身がこのようなトラブルに巻き込まれてみると、何も出来なかったなあとあきれてしまいました。

 老いは確実に身体能力を奪っていくのだということも身に染みました。もっと若い頃であれば、突進してくる人をよけようとしたくらいでバランスを崩すことはなかったでしょう。
 ジャズダンスの練習中、目をつぶって片足で何秒立っていられるかを数える、ということをやっています。目を開けていれば1分くらい片足で立っているのはなんていうこともないのに、目をつぶると30秒も立っていられません。それが、先週数えたとき、10秒で片足をついてしまいました。ああ、バランス力が弱っているのだと自覚した矢先の「ホームでバッタリ」でした。

 油断大敵。老いの迫る身体を自覚し、日々是鍛錬。転ばないようにしなくちゃなあ。
 みなさまも、お出かけにはくれぐれも気をつけてくださいね。

<つづく>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「芭蕉忌&寵児」

2014-11-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141125
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(7)芭蕉忌&寵児

「芭蕉の忌」五十代の死と早世について
at 2003 10/14 06:48 編集

 春庭は名前を本居春庭に借り、このコラムのタイトルを芭蕉の紀行文『笈の小文』に借りている。大それたことである。

 309年前(1694年)10月12日は、芭蕉が亡くなった日(ただし、旧暦だから、新暦に直すと、季節は11月の初め)

 芭蕉が『笈の小文』の旅に出たのは、44歳のころ。
 旅立ちの送別会での句

 「旅人と我が名呼ばれん初しぐれ」。

 この後も『更級紀行』『奥の細道』などの旅を続け、永遠の旅立ちとなったときは、51歳。

 辞世「旅に病んで、夢は枯野をかけ廻る」

 芭蕉というと、頭巾をかぶったおじいさんが、笈を背負い杖をついている旅姿を思い浮かべるが、旅を続けていた頃は、五十前だったのだ。
 人生五十年の時代には、五十代は老人であったが、現代は、「四十、五十は、鼻垂れ小僧」。私は、芭蕉の享年をすでにすぎてしまったが、まだまだ、ひよっこなのだ。

 2003/09/30付、富岡多恵子のエッセイでも、同時代に生き同時期に亡くなった西鶴と芭蕉にふれている。
 ご自身の50歳になった感慨を語り、今の時代、80歳で逝くとしても、西鶴のように52年の生涯を「我にはあまりたるに」と言って死ねるか、こころもとない、と結んでいる。

 母が55歳で、姉が54歳で亡くなったせいもあり、50歳すぎ、自分の老いと行く末を強く意識するようになった。
 家族の早世というのは、残された者にほんとうにつらく重いものを与える。私の母は心不全をインフルエンザと誤診されて、姉は子宮肉腫を子宮筋腫と誤診されての早世だった。

 家族が寿命を全うすることなく早世した場合、残された家族の悲痛の思いは計り知れない。しかし、私が生きて母と姉の思い出を語れるうちは、二人はこの世に生きている。思い出をできる限り長くとどめておくためにも、私は長生きをするぞ。

 何歳まで生きたとしても、果たして「我にはあまりたるに」と言えるかどうか。120歳まで生きたとしても、「まだまだ、、、」と、はいずり回っている気もする。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.19
(つ)津島佑子『寵児』

 津島佑子は、赤ん坊のときに39歳だった父を、自らが38歳のときに9歳だった息子を失っている。父は太宰治。佑子が1歳のとき、太宰は愛人と入水を遂げた。

 悲痛な思いに沈んだのは、夫の命を奪われた佑子の母美知子であり、佑子自身が、父の死を意識したのは、少女から作家へと成長する途上でのことであったろう。
 「大夢」と名付けた息子の成長は、佑子にとって文字通り「大きな夢」の存在であり、心の支えとなっていたと思う。その息子までが早世してしまった。

 私が最近読んだ津島佑子の作品は、読書遍歴を語った『快楽の本棚』。このあとがきでも津島は「ある不幸があり、40歳すぎの人生を余生のように感じていた」と、記している。息子の死の衝撃がいかに大きかったか察せられる。

 そんな過酷な運命を経て、津島の近作はますます凄みを増している。『火の山 山猿記』『笑いオオカミ』など。
 私が好きな作品は、娘との二人暮らしを連作短編として描いた『光の領分』、未婚の母として生きる女を描いた『山をかける女』など、比較的明るい感じのものだが、小説家としての津島の本分は、私には読みこなすのがむずかしい、果てしなく深い作品群の中にあるのだろう。

 『寵児』は、離婚前後の津島が「想像妊娠」をキーワードにして「母、女、肉体」としての人間の存在をつきつめている作品。
 柄谷行人は『反文学論』の中で、『寵児』について、こう評している。

 『「本当のわたし」なるものこそ冗談なのだ。アメリカのフェミニストの作家たちは、いわば「本当のわたし」があるかのように思いこんでいる。したがって、「母」や「女」を歴史的・社会的におしつけられた意味としてしりぞけ、「本当の生き方」を求めようとする。それはもう一つの「意味」にとらわれることでしかない。

 たとえば、愛は観念であり、確かなのは肉体だけだ、というような人がいる。だが、『寵児』の主人公は、”想像妊娠”をするではないか。いいかえれば、肉体そのものが観念的なのである。すると、人間の存在そのものが「冗談」であるというほかはない
。』

 私は「日本語文法研究」を続けるより「母として生きる」ことを選んだ。
 語学教師として細々と日々のタツキを得ながら、「子供がすべったころんだの毎日」を生きてきた。

 そのこと自体に悔いはないが、子育て中の多くの若い母たちが「本当の自分」を探したい気分もまた、ようくわかる気がする。柄谷が『本当の生き方を求めようとするのは、もう一つの「意味」にとらわれることでしかない』と、言い切れるのは、柄谷が、すでに「自分の意味」の確立をなしえた男だからのような気がするのだが。
~~~~~~~~

20141125
 「阿吽本巡り自分語り」は、12月に再開します。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「わたしも散歩と雑学が好き、、、晩年の恋も!」

2014-11-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141123
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(7)わたしも散歩と雑学が好き、、、、晩年の恋も!

散歩と雑学が好き!晩年の恋も好き
at 2003 10/12 08:52 編集
 現在の趣味で老後も続けようと思っているのは、散歩と自転車ポタリング。
 読書は趣味ではない。人が酸素を断たれると5分で死んでしまうように、水を断たれると1週間余で死んでしまうように、食を断たれると1ヶ月余で死んでしまうように、私にとって、読書は趣味ではなく、「活字を断たれたら死んでしまう」生きるための「絶対必要物」なのだ。

 小学校のころは、欠食児童のごとく、一日にルパンとホームズとベルヌを三冊読むというようなガツガツとかっ込む読書をしたが、今はさすがに「絶対必要物」の読書とは言っても、ぽっくりぽくぽく散歩を楽しむのと同じように、楽しくゆったり読むのが好き。

 「散歩と雑学」は、生きる糧。本を読み散らし、トリビア雑学を仕入れては孫に披露して「それ、トリビアの泉でやってた、もう知ってる」なんて、うるさがられる晩年もいい。
 しかるに「晩年は雑学蘊蓄」もいいけど「晩年の恋」のほうがもっといいですぞ、というご意見にも一票!です。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.17
(ち)千野栄一『言語学の散歩』

 『言語学の散歩』を読んだときには、ただただ、言葉というものの面白さを無心に楽しんだ。

 70年代はじめ、徳永康元に言語学を教わったとき、言語学とはなんて面白い学問なのだろうと思い、期末レポートとして「サピア・ウォーフの仮説」について書いた。徳永先生から優をもらった。
 しかし、言語学をやるためには、言語に強くなければならない。いかんせん、私は日本語以外のことばには、まったく弱かった。大林太良の神話学の方法でやろうとした卒論の『古事記』は大失敗作だった。

 千野栄一は、日本の中でも最も「言語に強い人」の一人。
 私が千野先生に言語学を教わっていた80年代後半、先生から「言語学徒、語源と学生に手をつけるな」「不倫と日本語起源論に嵌ったら命取り」と諭された。
 しかし、まもなく先生は離婚を成立させ、ふた回り年下の教え子と結婚!
 我々素人が手を染めたら泥沼になることだから、と諭してもらった訓戒だったが、先生にとっては逆転のレトリックなどお手のものであった!

 晩年をふたまわり年下の人を愛してすごすのは、男性だけではない。フランスのシャンソン歌手エディット・ピアフ、作家のマルグリット・デュラスなども、晩年を若い恋人と共にすごした。

 日本でも、漫才師の内海桂子師匠は、60代のとき20歳年下の方のファンレターから愛をはぐくみ、正式に結婚した。新婚をからかう若手漫才師の「師匠、夜のつとめは?」という質問に「そりゃあ、結婚したんですから」と自信たっぷりに答えて、からかいを堂々とかわしていた。

 散歩と雑学、そして晩年の恋!
~~~~~~~~~~~

シルバー劇団
at 2003 10/13 09:12 編集
 映画『ぷりてぃうーまん』を見逃してしまった。淡路恵子主演『ぷりてぃうーまん』は、名古屋の実在の”おばあちゃん劇団”「ほのお」をモデルにした話。 

 「ほのお」だけでなく、シルバー劇団で活躍している人、市民ミュージカルに参加する人など、演劇は老後の生き甲斐として、人気の高いものの一つ。私もやりたい。
 転職13回を数える私の職歴の中で、最も短い期間ではあったが、最も印象に残っている仕事は旅回り一座の役者。
 小学校を廻って、小学生にミュージカルを見せ、九州山陰を巡業した日々のこと。演じる場所は体育館、楽屋は体育館の道具置き場、という一座だった。

 一座の中で一番好きだった役者森下由美さんは、今も「だるま食堂」というコントトリオの一員として活躍している。
 由美さんは、1990年NHK新人演芸コンクールで優勝したあと、即席麺のCMに出演した。持ちネタの「金髪女」の扮装でパレードカーから愛嬌をふりまく由美さんにテレビのこちらから声援をおくりました!
(だるま食堂ホームページはhttp://darumashokudou.com/

 由美さんは、本当にすぐれた才能と役者魂をもつ人だったが、私には、役者稼業もアフリカ縦断旅行の資金をかせぐためのアルバイトにすぎなかった。
 アルバイト気分で始めた仕事だったが、演劇に一生をかけている由美さんたちといっしょに日々を過ごし各地をまわるうち、一瞬一瞬が出会いであるということを教えられ、二時間の舞台を真剣勝負で生きることの真髄がわかった。「一期一会」の字句の意味が心身に染みた。

 たった半年足らずではあったが、「役者をして食べている」と言える生活をした思い出は、私の来し方の中で、誇りに思うことのひとつだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.18
(つ)つかこうへい『小説熱海殺人事件』

 唐十郎、鈴木忠志、寺山修司など、私が学生時代に見た「アングラ」は、私より少し上の世代の演劇人たち。私より1歳年長のつかこうへいが演劇界に登場し、怒濤の活躍を始めたとき、私は、国語教師兼演劇部顧問として中学生クラブ活動の世話で手一杯。自分の楽しみのために演劇を見る余裕はなかった。

 だから、つかの作品は、テレビで見たくらいで、リアルタイムで初演を見た作品はない。もっぱら小説作品を読むだけだった。

 つかの芝居をよく見たのは、息子が「つかこうへい劇団児童教室」に在籍して、「教室在籍児童保護者への招待券、割引券」などを使えた数年前のことである。『幕末純情伝』などを見に行った。

 初演から何年たっていても、つか作品は古びない。すごいな。もっとも、近松、シェークスピアは400年たっても古びないし、世阿弥は600年、雅楽伎楽は1000年たっても古びない。

 年ごとに古びていく、我が顔の皺がうらめしい。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ロンリーウーマンの罪と罰」

2014-11-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141122
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(6)ロンリーウーマンの罪と罰

罪と罰、悪霊の町
at 2003 10/10 06:44 編集
 「とはずがたり」二条は、全半生の激しい愛欲生活を罪と感じ、自身の浄化を求めて仏道遍歴の旅をつづけた。
 年をとれば、「未熟なころのあれもこれも、罪なことやったなぁ」と思うことが、いくつも出てくる。

 高齢になるまで、生涯に一度も罪を犯したことはない、という人がいるだろうか。私なぞ、罪だの罰だのが、いっぱい!
 「罪と罰」「犯罪」「資本主義という妖怪」とか、「陰陽師、悪霊退散!」などという言葉を聞くと、私の目の前には、生まれた町の古びた警察署が頭に浮かぶ。「悪いことするとお巡りさんに連れて行かれるよ!」という大人のおどしが効いていたころ、罪人、悪者、悪霊!などがすべて、この警察署の中に詰まっているように思っていたからである。

 小学校の「社会科見学」で訪問した警察署の内部は、カビくさく、薄暗く、罪と罰の匂いに満ちていた。この庁舎は取り壊して、別の場所に新庁舎を建てる予定があったから、署内は古くさいままにしてあったのだ。

 警察署の隣には「スター小間物店」があり、化粧品やアクセサリー、リボンなどの小間物類、女の子があこがれるような品物がたくさん並んでいた。そんなに高級品でない小間物とはいえ、子どものこずかいではめったに買えない品物だった。「鉄鋼労連」の娘には敷居の高い「資本主義という妖怪」の象徴のように思える店だった。

 1度だけ、この店の小さな化粧水の瓶を「黙って借りて」しまったことがある。化粧品のおまけとして販促キャンペーンでついてくる、化粧水見本品のガラス小瓶が気に入ってしまい、欲しくてたまらなかった。母は、クリームひとつ顔につけない人だったから、販促おまけつきの化粧品など買うはずもない。それで化粧品は買わないで、販促おまけを「ちょっとだけ借りて」しまったのだ。

 私が犯した生涯最初の窃盗罪。最初である故40余年たっても罪悪感が消えない。20代のある日、新宿にあった喫茶店の小さな灰皿が気に入って、煙草も吸わないのに、「黙って借りて」しまったこともあるが、こちらは、まったく罪悪感が残っていない。

 スター小間物店の娘とは、中学で同じクラスになり、文芸部でもいっしょだった。高校でも2年間同じクラス。中学、高校を通し、美貌と頭のよさでスターだった彼女は、今「明治女性文学研究」のトップ研究者となっている。

 新警察署庁舎ができて、署長署員一同が移転した後、スター小間物店の隣の旧警察署が一度だけ脚光を浴びたことがある。高橋和己原作の『日本の悪霊』が映画化されたとき、ふるさとの田舎町がロケ地に選ばれからだ。刑事落合が勤務している警察署として、旧警察署が登場した。

 私は一度だけ映画を見たが、ストーリーよりも「知っているあの場所」が、画面のどこにでてくるかに気を取られて見ていた。
 映画は、黒木和雄監督。刑事落合と六全協活動中に地主を殺す罪を負ったやくざ村瀬の二役を佐藤慶。ほか、観世栄夫、渡辺文雄、舞踏の土方巽、フォーク歌手岡林信康(ファンだった)が出演している。原作と脚本は、別の作品というくらい内容が異なると評されている。DVDで、見直したいと思っている。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.15
(た)高橋和己『日本の悪霊』   
 高橋和己が癌を患って入院したとき、私は彼が入院している病院で働いていた。友人の一人は毎日病室の近くに行って、中に高橋が横たわっているであろう病室の窓を見つめていた。当時、高橋和己は「ファンにとっては神様以上の存在」だったのだ。

 半年後、高橋が亡くなったとき、友人はビルの屋上から飛び降りて死んだ。
 友人が死んでから半年後、私は病院勤めをやめた。1971年のこと。
~~~~~~~~~~~~

ロンリーウーマン
at 2003 10/11 09:42 編集
 時々聞く、老人の孤独死ニュース。だれにも看取られず、気づかれず死んでいるお年寄りのニュースは胸にせまる。高齢者にとって、孤独は一番いやなもの、おそろしいものなのだろうか。

 友人の何人かは、自身の子育てや親の介護を卒業した後、ホームヘルパーの資格をとって、老人介護の専門家になっている。また、昔中学校で同僚だった友人は、民生委員になって、町内の老人宅を訪問している。彼女たちに話を聞く機会があると、孤独がどれほど老人たちの心をむしばみ、つらい思いにさせているか、ひしひしとわかる。

 確かに、老後を孤独で過ごすより、友人や孫子といっしょににぎやかに過ごせたら、こんなありがたいことはない。でも、私は「老い支度」のひとつとして、「孤独を楽しんですごす準備」も怠りなくレッスンしておきたい。
 大勢で楽しく過ごすことも必要だが、一人自分をみつめ、一人遊びもできるように。女の一人暮らしで、身ぎれいに、食生活もきちんとして、、、などなど思うのだが。

 今でも子どもたちが出かけていない日など、面倒くさくなると、昼も夜も同じTシャツとジャージですごし、スーパーで買ったおかずを食器に入れ替えるのさえせずに、パックのまま食べているのだから、「おしゃれで、かわいい生き生きしたおばあさん」になることは「夢」かもしれない。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.16
(た)高橋たか子『ロンリーウーマン』
 高橋和己夫人、高橋たか子は、夫和己と共に文学活動を始めていたが、私が彼女を知ったのは「高橋和己の思い出」というような、「夫を語る未亡人」としてだった。

 夫と関係のない彼女自身の作品として読んだのは女流文学賞を受けた連作短編集『ロンリーウーマン』から。そのあと、『ロンリーウーマン』より前の『彼方の水音』『空の果てまで』へ戻り、『没落風景』『人形愛』へと読んでいった。

 たか子は、キリスト者となり、女の孤独と絶望を深い思いの底から描き出している。一番好きなのは『誘惑者』
 フランスへ行って修道女になってしまったときは驚いた。帰国後の作品は読んでいない。精神の高みへと登ろうとする高橋に対し、私は「精神のごみため」のような日常。

「ごみを捨てらず、ごみにまみれて暮らすおばあさん」が、時々テレビに映ったりする。我がロンリーウーマン暮らしは、ああなるかなぁ、と思って見ている。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「読書記録」

2014-11-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141120
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(5)読書記録

読書記録
at 2003 10/08 07:33 編集
 乱読、読みっぱなしの私の読書方法を見て、「せめて読んだ本の題名と著者だけはメモを取っておきなさいよ」と、忠告してくれた友人がいる。
 アドバイスに従って1977年からは、読んだ本の記録を残した。かれこれ26年、四半世紀を越す年月がたったが、忠告を受けて良かったと思っている。

 文庫本は引っ越しのたびに散逸し、単行本の中で、売って金になりそうな本は古本屋行きとなって、日々のおかずに変わってしまった。メモがなければ、読んだかどうか、忘れている本もある。

 一つ残らずメモしたわけではないが、おかげで今、本が手元になくとも、いつ、どの本を読んだか、おおよそがわかる。
 1977年以前に読んだ本については、本が残っているものはわかるが、大半は図書館で借りた本なので、忘れてしまったほうが多い。

 春庭千日千冊では、1977年以前に読んだ本の記憶をたどり、どんな本を読んだか思い出しながらの自分語り、というのを「老いの楽しみ」にしようと試みている。

 1977年以前に読んだ本の著者名をあいうえお順にたどって、読んだころを思い出す。脳の活性化によい。「あいうえお」が何巡できるだろうか。まずは、一巡目から。
 さて、例外として、1977年以後に読み始めた作家を記しておきたい。アイウエオ順でいくと、石牟礼道子、澤地久枝が出て、もう一人好きな作家を「1977年以後に読んだから登場させない」のでは、残念で。

 1990年発行の『ミラノ霧の風景』が出会いの一冊。須賀敦子、たった十年余の作家活動だったが、亡くなるまで次々とすばらしい本を私たちに与えてくれた。
 イタリアのこと、育った関西での思い出、東京での学生生活、フランスへの留学。何を語っても、須賀の日本語で読むと、イタリアや関西が自分のふるさとであるかのごとく、親しくなつかしく目の前に現れる。『トリエステの坂道』『ヴェネツィアの宿』『地図のない道』などなど。

 『遠い朝の本たち』、いつか私もこんなふうに読んだ本のことを語れるようになりたいけれど、ま、こればっかりは、身の丈にあわせて、才無き者は才なきままに、おしゃべりしましょ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.13
(す)須賀敦子『コルシア書店の仲間たち』

 若い頃出会い、共にすごした仲間たちを、30年のときを隔てて回想し、生き生きと描き出している。熱い議論を交わす仲間たち、キリスト者による社会変革をめざして苦悩する仲間たちが、一行一行から、行間から、立ち上がる。

 須賀は、棚卸しをする本の革表紙の匂いまで伝わるように、思い出をいとおしみつつ書き綴る。「珠玉のような」というありきたりの形容しか思いつかない自分がなさけなるような、美しい日本語。
 『コルシア書店の仲間たち』あとがきから。書店をともに切り盛りしたイタリアの友の死の知らせをうけて。

 『ダヴィデの死を電話で知らせてくれた友人にたのんで、私は新聞の記事を読んでもらった。葬儀のミサ参列者の名を、彼は、ひとりひとり、ゆっくり読んでくれた。カミッロをはじめ、この本に出てくる人たちの名が何人もあった。記憶の中の、そのひとたちの、ちょっとした身振りや、歩き方のくせが、ゆっくりと私の中を通って行った。』

 亡くなった友を思い出す、友人たちの名を聞き、彼らのしぐさや姿を思い浮かべる、そういうひととき、私たちは遠くへ去ってしまった人々と共に生き、今はそばにいない人たちが私たちの中によみがえる。

 須賀敦子も、その死後なお、どんどん作品が出版される作家のひとり。味わいつつ、いとおしみつつ、読んでいきたい。
~~~~~~~~~~~

出家という老後
at 2003 10/09 07:23 編集
 『源氏物語』のヒロイン紫の上が、晩年に強く願ったことが「出家」だった。極楽浄土へ旅立つことが、人生究極の望みとして人々の意識にのぼってきたのが、紫式部のころから。

 現代も「老後は仏門に入りたい」という言葉を聞くことがあるが、私の知る限りでは、女性には少なく、男性に多い。男性の出家者は、多くの宗派の住職が妻帯し、普通の家庭生活をおくるのに対して、女性の出家者は、文字通りの「出家」を求められることが多いからではないだろうか。だったら、在家の優婆夷(うばい=清信女)のままでいいかと。

 仏門に入った作家で、思い浮かぶのは、近くは立松和平、玄侑宗久、古くは今東光。
女性では、今東光を得度の師として晴美から名を変えた瀬戸内寂聴。
 瀬戸内は五十を境に、前半は激しい愛憎の中に生き、後半は仏門修行と文学を両立させた。

 寂聴は『源氏物語』の現代語訳や、『女人源氏物語』の中で、出家願望に共鳴しつつ紫の上の姿を描いている。平安時代の一夫多妻制度の中で、紫の上が真に自分だけの精神的自立を求めるには、出家しかありえなかったと。しかし、光源氏は最後まで紫の上を手放すことを拒み、出家を許さなかった。
 「とはずがたり」をもとにした、瀬戸内の『中世炎上』の主人公二条も、前半生は激しい愛憎の生活、後半生は仏門へ。瀬戸内と通ずる人生だった。

 瀬戸内の作品、前半生の自身の激しい愛憎生活を描いた自伝的小説類よりも、後半生の仏教エッセイや源氏などの古典エッセイが好き。そして、激しい生を生き抜いた女たちの評伝作品が好き。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.14
(せ)瀬戸内晴美『余白の春』

 私の若い頃の「アイドル(偶像神、崇拝物)」、外国人女性ではローザ・ルクセンブルグ、日本の女性では、菅野須賀子、伊藤野枝、金子文子(すごいラインナップ!)男性では、チェ・ゲバラ。最近ではアフガニスタンのマスード(チェに風貌が似ている気がする)。

 須賀子や野枝は、歴史上の人物として、瀬戸内の評伝『遠い声』や『美は乱調にあり』を読む前から知っていたが、文子については、この『余白の春』を読むまで、遺書となった獄中手記『何が私をかうさせたか』の書名のみを知っていて、その生涯についてはあまり知らなかった。

 須賀子、大逆罪により刑死。野枝、関東大震災の混乱の中、甘粕中尉により虐殺。文子大逆罪により逮捕、獄中で自殺。あまりにも激しい生を生きた女性たちを前にして、私は、ただ、自分のふがいないぐうたら人生をぼやくだけで五十余年がすぎた。
~~~~~~~~~~~

(そ)の項なし

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「歴史の語り部」

2014-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141119
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(4)歴史の語り部

歴史の語り部
at 2003 10/06 04:49 編集
 赤ワイン効果に続けて、脳の老化を防ぐよい方法をもうひとつ。
 思い出を語ることが、高齢者の生活活性化にたいへん良い影響があることが、最近の研究の結果、明らかになっている。

 『100歳回想法』(黒川由紀子著)には、100歳前後のお年寄りの回想が記録されている。遠い過去のできごとを、生き生きと思い出し、語り続けるお年寄りたち。

 心理療法として開発された「回想法」であるが、専門家だけの療法ではなく、家庭でもできる。「家庭でもできる回想法入門」。自分の周囲に高齢の方がいたら、回想法を取り入れよう!

 高齢の方や、そのご家族にインターネットホームページを活用してほしいことのひとつに、「歴史の語り部」がある。

 21世紀の今、高齢となっている方々は、先の戦争や戦後復興を体験した、それぞれが貴重な経験の持ち主。来し方の思い出を、ご自身の文章、家族の聞き書き、語りおろしの録音などで、残してほしい。小さな思い出も、些末に思える記憶も、貴重な歴史の証言。

 私は、舅が残した「山東省出征記録画集」という、中国戦線をスケッチした画集を、いつかまとめて公開したいと思っている。「

 私など、実家の父には「おじいちゃん、その話、もう何回も聞いた!」などと、冷たく言ってしまったこともあり、亡くなった後になって、「もっと熱心に話を聞いておくんだった」と後悔している。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.11
(さ)澤地久枝『妻たちの二・二六事件』

 石牟礼道子、須賀敦子と共に、女性作家の中で、愛読してきたひとり。
 『妻たちの二・二六事件』は、澤地久枝が、長年の『戦争と人間』の資料助手の時代を経て、ノンフィクション作家として世に出た最初の作品。

 この後の作品、文庫本になったものは、ほとんど読んでいる。中国へ行く前は『もうひとつの満州』に感銘を受けた。
 戦争ドキュメンタリーや『石川節子』の評伝など、歴史に翻弄されながらも自分の生き方をつらぬいた女性を描いた作も好きだが、一番好きなのは、彼女自身の自伝エッセイ。

 澤地さんは、67歳のときにスタンフォード大学で1年間聴講生として学び、続けてさらに琉球大学の大学院で2年間、国際関係論を学んだ。72歳になった2003年3月には卒業した早稲田大学から、芸術功労者表彰を受けた。

 授賞式(2003/3月の早稲田大学卒業式)での、記念スピーチから

 『私は、卒業論文が万葉集十四巻の東歌の研究でございました。ご存じのように、これは東国の無名の人たちの歌を短歌の形式に採取したものでございます。考えてみますと、私はいつも名前の知られないような底辺の人たち、しかし、その人たちを抜きにしては歴史は一日も成り立たなかったという人たちのことに心を惹かれ、そういう人たちのことを文章にする仕事をしてきたという感じがいたします。

 しかし、これは地味な仕事でございます。私自身としては、だれも認めてくれなくても自分の気持ちが済むようなきちんとした仕事をしたいという思い一筋に生きてまいりましたけれども、今日こういう席にお招きいただいて、母校とは何とありがたいものかというのが私の実感でございます
。(中略)私たちの身近なところで、歴史はさまざまな人間の物語を刻んでいるんでいるということを思わずにはいられません。

 どうぞ、あなたの近くにいる歴史の語り部から、さまざまな人間の物語を、受け取ってください。そして、受け止めた物語をインターネットで世界に発信してください。
~~~~~~~~~~~

歴史紀行
at 2003 10/07 08:28 編集

 「子育て卒業後または定年退職後にしたいことは何ですか」という質問への回答として、多数派のひとつが「旅」。

 旅のテーマにはいろいろある。「温泉でのんびり」「よい景色をながめる」「鉄道の旅」「百名山を登る」など、ファンが多いテーマもあるし、「おいしい地酒を探す旅」「マリア像に出会う旅」「世界の動物園を巡る」など、自分の趣味を極めるテーマもある。
 私がテーマにしたいのは、「巨樹に会う旅」「橋めぐり」と「歴史・文学紀行(世界遺産の旅を含む)」

 歴史をたどる旅に、携帯したい本がある。いっしょに旅をしたい作家がいる。その中のひとりは司馬遼太郎。

 「たくさんの人に、自分の歴史を語り、残してほしい」と、願うと同時に、何人かの作家が書き残した歴史小説や歴史エッセイを順々に全集で読みたいと思っている、その作家のひとりが司馬遼太郎なのだ。

 『この国のかたち』は全冊読んだが、『街道をいく』シリーズは、まだ半分も読んでいないし、歴史小説で未読のものもたくさん。
 一番最近読んだ司馬の小説は2001年文庫発行の『ペルシャの幻術師』だが、初出は1956年「講談倶楽部」。雑誌に掲載されたまま、本にはなっていなかった。

 専門的な歴史家の著作でも網野善彦のように、素人にも面白くわかりやすく書いてくれる人もあるが、専門的なことは、歴史好きな方にまかせて、私は、楽しく読める歴史小説から。
 今や「国民的歴史作家」と桂冠がつく司馬遼太郎なので、亡くなったあとも、どんどん著作が増えていく。通勤の電車内しか読書時間がとれない読者としては、新しい本を横目に、「悠々晴耕雨読」の日が来るのを待つしかない。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.12
(し)司馬遼太郎『歴史を紀行する』

 たくさん出版されている司馬の歴史エッセイの中で、比較的早い時期に読んだ一冊。風土と、風土が育てる人物について、人物が織りなす歴史について。初出は1968年に文藝春秋に連載された。私が読んだのは1976年発行の文庫本。

 あと何年かして旅行三昧の日がきたら、旅を楽しみつつ、旅先で歴史の本、エッセイ、小説を読み散らしたい。旅から帰ったら、写真を見せながら、孫たちに知ったかぶりで蘊蓄を披露してうるさがられる、そんな旅がしたいです。
~~~~~~~~~~~

20141115
 この文を書いた11年前には、あと10年くらい働けば、好きに旅行して歩けると思っていたのですね。とんでもなかった。働いても働いてもワーキングプアの貧乏暮らしは続き、旅行どころではない。娘も息子も結婚できない結婚難民。
 21世紀になれば、子ども達は月へ修学旅行へでかけ、自動車は空を飛んでいると信じた10歳の頃の夢が、かなわなかったのとおんなじです。未来はかなたにある。
<つづく>
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ラグナグ国とえぞ松の更新と赤ワイン」

2014-11-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2014118
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(3)ラグナグ国とえぞ松の更新と赤ワイン

ラグナグ国とグナえぞ松の更新
at 2003 10/04 06:41 編集
 中願寺雄吉さん逝去の報と同じ日の夕刊(2003/09/29付)に掲載された富岡多恵子のエッセイ「ラグナグ国」について。同じ日の新聞だというのは、何かの偶然?
 エッセイのラスト『高齢の人に、「いつまでもお達者で、、、」などと何気なくいったあとで、「いつまでも」の残酷に慄然とすることがあるが、ここはラグナグ国ではないので、怒るひとはいない

 ラグナグ国は『ガリヴァー旅行記』に出てくる架空の国。その国では稀に「不死の人」が生まれる。不死の運命を持つが、不老ではないため、200歳300歳ともなると、記憶も失い「ただ生きているだけ」の状態になる。
 「作者スウィフトは不死人間の凄惨さをくわしく書いてゆく」と富岡の記述。
 私は、おおかたの人と同じく、子ども向けの「ガリバー」しか読んだことがなく、巨人と小人の国くらいしか覚えていなかった。ラグナグ国を知ったのは阿刀田高の『貴方の知らないガリバー旅行記』による。

 伯母がいろいろ忘れていっても、それでも楽しく生きて欲しいと願うのは、周囲の者のわがままだろうか。本人は失われていく記憶におびえ、自分が自分でなくなっていく過程におののいているのだろうか。天の采配によってお迎えがくるその日まで、命のかぎり生き抜いてほしいと願うのみ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.9
(こ)幸田文『えぞ松の更新』初出「學燈」『木』所収 (け)の項なし

 死すべき生物の運命を享受し、いのちの輪廻を納得するために、何度でも読み返す一文。幸田文のすばらしい日本語文体を堪能し、倒れ伏した老木が若木の栄養となって、新しい命を育てる永遠のめぐりを味わえる。

 読んでないけれど、たぶん『葉っぱのフレディ』も主題は同じじゃないかしら。フレディも勿論、いい本だろうが、幸田文の日本語は、「言文一致」以後の言語表現のひとつの到達点。
~~~~~~~~~~~~

アルツハイマーには赤ワイン
at 2003 10/05 07:56 編集
 フランスなどで、定期的に赤ワインを飲んでいる人にアルツハイマー病を含む痴呆症の危険が少ないということは、従来からの疫学調査で報告されていた。この調査が、「神経化学」の研究によって証明された。(2003/09/29付)

 痴呆症のひとつアルツハイマー病の患者の脳には、βアミロイドというたんぱく質が繊維状になって沈着する。赤ワインに多く含まれるミレセチンなどのポリフェノールは、βアミロイドを分解するという実験結果が確認されたのだ。赤ワインのポリフェノールは、アルツハイマーの予防治療に応用できる可能性があるという。

 1日に500ccの赤ワインで効果が上がる。私もビール党から転向しようかな。でも、ビールも研究が進めば、きっと何かの効果があると思うよ。緑茶のフラボノイドやカテキン、コーヒー、ココアにも、医学的効果。「1日にりんご1個で医者いらず」「骨粗鬆、牛乳飲んで骨太に」など、食べ物飲み物はすべて天の恵みなのだ。

 ただし、酒を飲んでも飲まれるな。「アル中の乱暴」は、アフリカに死す。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.10
(こ)小林秀雄『ランボオ(「作家の顔」所収)』
 高校の国語教科書で『面とペルソナ』を読んで以来、晩年の大著『本居宣長』まで、読みふけった。志賀直哉が「小説の神様」なら、小林秀雄は「批評の神様」だった。
 私が読み出したころには「小林の批評の方法はもう古い」と言われ、小林を乗り越えることが批評をめざす人の目標になっていた。

 フランスの詩人、アルチュール・ランボーの批評「ランボオ」は、1948年に発表。
 ランボーが『酩酊船』を掲げて登場し、フランス文学界の旋風となったのは1870~1873年、ランボー16歳から19歳の間のたった3年間だった。

 19歳で「文学的な死」を遂げたランボーは、アフリカの地で病に倒れるまでの20年、アフリカアジアヨーロッパを放浪し、ときに探検家、ときに志願兵、ときに隊商の頭、としてすごした。アフリカからマルセイユの病院へ移され、足を切断する手術を受けたが、1891年12月10日に死去。看取ったのは、妹イザベルただ一人だった。

 『彼(ランボー)は、あらゆる変貌を持って文明に挑戦した。然し、彼の文明に対する呪詛と自然に対する讃歌とは、二つの異なった断面に過ぎないのである。彼にとって自然すら、はや独立の表象ではなかった。
 或る時は狂信者に、或る時は虚無家に、ある時は風刺家に、然し、その終局の願望は常に、異なる瞬時における異なる全宇宙の獲得にあった。定著にあった


 このような小林の批評のことばに、我々は酩酊し、悪酔いし、ときに吐いた。小林の言葉を乗り越えようと多くの「自称、批評の革命家」が飲み比べに挑戦し、あえなく破れた。

 学生コンパ。これから大いに飲むぞ、といういうときには「アル中の乱暴!」と、わめいたりするのが当時のオヤクソクだった。

 数年前の映画、デカプリオがランボーを演じた『太陽と月に背いて』では、ベルレーヌとランボーの関係が私の想像と逆だった。映画では、ベルレーヌが女役、ランボーが男役だった。そ、そうだったのか、、、1

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「トリックスター&ネット航海」

2014-11-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141116
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(2)トリックスターとネット航海

OCNカフェブログの再録、読書メモのつづきです。
~~~~~~~~~~
74歳強盗トリックスター
at 2003 10/01 05:57 編集

 老後の目標について「20年後に、日本人3人目のノーベル文学賞受賞者になります」と冗談を言うと、日本人学生は「ワッハッハ」と笑ってくれるが、留学生は真剣に「That's great!」と感心したり、応援してくれたり。あの、、、ここは笑って、、、。

 笑っちゃったりしんみりしたりのニュース。2003/09/29のNHK昼ニュース。コンビニ強盗の報道。
 中野区のコンビニ、サンクスで「金を出せ」と店員を脅した強盗、他の店員が奥から出てくると、何も盗らずに逃げた。コンビニからの通報でたちまち逮捕。
 犯人は74歳の男性だった。所持金数十円。ほんとうに強盗をするつもりだったのか、それともただ、捕まりたかったのかは、まだわからない。

 74歳という年齢で強盗ときいて、「そんなに困っていたのか」としんみりしたり、よくある「食い逃げ」などをせずに「強盗」すると決めたのはなぜなのか、と面白く思ったり。
 悪さをしまくり、沈んだ世の中の澱をかき混ぜるトリックスターのようだと感じたり。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.6
(か)川田順造『こう野から』(「こう」は、日ヘンに廣) 
 川田順造は、ケニアに行く前に読んだ「アフリカ関連本」の中で、トリックスター(道化)を広めた山口昌男と並んで、文化人類学的なものの見方考え方を教わった人のひとり。
 川田の『マグレブ紀行』も好きな本だった。ケニアから帰国してから2年後、資金を貯めやっとモロッコからアフリカ縦断の旅に出ることになった。
 いざ、マグレブへという寸前で、出発をとりやめ、飛行機もキャンセル。
 駆け込みできちゃった婚をすることになり、未だにマグレブは遠い。

~~~~~~~~~~
老後はインターネットの海を航海
at 2003 10/02 07:31 編集
 「老後を豊かにすごしたい」というのは、すべての人の願い。
 でも、「豊かさ」の意味は人によって異なる。ある人にとっては、「ある程度の金」、また、「健康」。「人とのふれあいが一番」という人もいるし、「趣味をきわめたい」という人も。

 さまざまな老後の過ごし方の中で、「ホームページ作成」は、自己表現の喜びと、人とのふれあいを得られる、一挙両得の趣味。多くの高齢者がウェブ上で活躍している。

 カフェで見つけた堀田昭夫さんも、ホームページ作りを楽しんでいる75歳の方。 (まもなく76歳)
 お孫さんの成長を楽しみにするよきおじいちゃんでもある堀田さん、ご自分のホームページhttp://members.goo.ne.jp/home/horitaakio)に、30年続けてきた趣味の切り絵を発表したり、自作の曲をBGMとして流したり。

 昭夫さんのように、ホームページを楽しむ生活。ゆうらゆらりと、ネット海の航海を楽しめたらいいなあ。
 ネットサーフィンはもちろん、ときにはヨットで、ときには豪華客船でクルージング、ときには小さな漁業調査船に乗り込んで、、、

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.7
(き)北杜夫『どくとるマンボウ航海記』
 「ここではない、どこか」に行きたくてたまらなかった少女のころ、母の勧めで読んだ本。どくとるマンボウシリーズのほとんど、『牧神の午後』をはじめとする初期作品、どんどん読めた。
 北杜夫作品中一冊だけ選ぶなら、やはり斎藤茂吉一家をモデルとした『楡家の人々』

~~~~~~~~~~~~
長寿世界一と「元気がなくてもええやんか」
at 2003 10/03 09:16 編集
 ギネスブックに載っている長寿世界一、女性は116歳本郷かまとさん、男性は114歳中願寺雄吉さん。
 男女とも日本人だったが、残念ながら、雄吉さんは、2003/09/28に永眠された。家族が見にいったら、布団の中で大往生をとげていた、という114年の見事な生涯。
 でも、だれもがこんなふうに大往生できるわけでもないし、晩年までシャンシャンと過ごせるわけでもない。

 私の伯母も米寿を超えて、姪たちの顔や名前がわからなくなってきた。それでも伯母に最後まで楽しく生きていってほしいし、好きなものを食べておいしいと感じてほしい。もう、がんばらなくてもいいから、ふんわりとゆったりと、すごしてほしい。

 そんな思いでいるとき、数学者森毅さんの近著『元気がなくてもええやんか』の紹介と著者インタビューが2003/09/14の朝日読書欄に載った。
 天声人語にも引用されたことば、「みんなが毎日ハイになることないやんか。元気がない人もいてええんや」

 こんなふうに言ってもらうと、年中落ち込み、しょっちゅう元気をなくしている私は、ほっとする。元気出さなくちゃ、と自分にはっぱをかけつつ、「元気がなくてもええやんか」とつぶやいて、明日を迎えることにしよう。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.8
(く)串田孫一『光と翳の領域』
 若い頃、あんなに熱心に読んだのに、今、本を手にとって目次を眺めても、どんなことが書いてあったのか全然思い出せない、という本もある。
 山登りが好きだった頃、せっせと読み、味わい深く心にとめた串田孫一のエッセイ類。
 伯母が姪の顔を忘れるように、私も好きだったエッセイの内容を忘れている。

 でも、いいのだと思う。全部が全部記憶にあって、すべてのことをくっきりと思い出さなくても。ぼんやりとしている記憶。おぼろげな思い出。それもこれも自分の一部。
 「忘れちゃってもええやんか」と言いながら、ページを閉じる。

<つづく>


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「2003年おい老い笈の小文 あ~お」

2014-11-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年おい老い笈の小文(1)本でたどるわた史あ~お

2003年9月26日~9月30日
あ:足立巻一「やちまた」
い:石牟礼道子「椿の海の記」
う:上田正昭「日本の原像」
え:永六輔「遠くへ行きたい」
お:大江健三郎「個人的な体験」
~~~~~~~~~~~~

at 2003 09/26 13:54 編集
 21世紀になって、2003/09/25は、1000日目の日(数字と計算に弱いので、もしかしたら数日のずれあり。でも、春庭にとっては千日目の記念ということで、OCNカフェネットデビューの晴れの日。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.1
(あ)足立巻一『やちまた』

 『やちまた』は、春庭が名前を借りている本居春庭の評伝です。本居春庭は、江戸時代の盲目の語学者、本居宣長の息子。失明をのりこえ、『ことばのやちまた』『ことばのかよいじ』を著わしました。
~~~~~~~~~~~~

オータムニュース
at 2003 09/27 14:22 編集
今日のニュースから
 各地からコスモス満開のニュースが。昭和記念公園のコスモスは、見に行ったことがありますが、葛西臨海公園へは、いつも春休み、夏休みのお出かけコースで、秋にいったことがなかったので、出かけてみようかな。
 2003/09/25のニュースから。
 ファンだった、有馬秀子さんがなくなってしまいました。享年101歳。9月はじめ、敬老の日にむけたインタビューでは、現役銀座バーのマダムとして、元気な姿をみせていたのに。

 あんなふうに年をとっていきたいなぁ、という目標の一人でした。
自分ではもう十分年をとってきたつもりだけれど、有馬さんからみたらまだ、ひよっこの年。これからもがんばらなくちゃ。

宇宙(コスモス)へ旅立つ人へ一輪の秋桜たむけてグラスほす夜(春庭)

イラクへ自衛隊年内派遣決定。春庭はすべての戦争に反対。
☆☆☆☆☆☆☆
春庭「千日千冊」今日の一冊No.2
(い)石牟礼道子『椿の海の記』

 石牟礼道子の文章は、私にとって、命そのもの、魂そのもの。『苦海浄土』とともに、何度でも読み返したい。
~~~~~~~~~~~~

災害
at 2003 09/28 14:06 編集
 9/26朝の十勝沖地震、明け方の夢を破りました。被災地の方々、まだ、たいへんでしょうね。
 アメリカではハリケーン「イザベル」の被害。南太平洋では、昨日は998ヘクトパスカルの熱帯低気圧が、今朝、990ヘクトパスカルの台風16号に成長しています。

 そして、日本のスポーツ界では、人災?老害?公害?の某オーナーが台風の目に。私、特別野球に興味ないけど、こういう人事って、すっきりしないなあ。スポーツって、もっと人の心をすっきりさわやかにするものであって欲しい。(2014注:原某監督の人事に関して騒動がありました)
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.3
(う)上田正昭『日本の原像』

 春庭、最初の卒論のタイトルは『古事記』でした。古代文学の参考文献の一冊。「原」像に哀惜をこめて。

マスターズ100歳100M
at 2003 09/29 07:53 編集
 2003/9/28のニュースから
 24回マスターズ陸上に、大会最高齢97歳石川喜一さんが参加。100M39.66で完走。次の目標は100歳で100M完走だという。
 いいですねぇ。私も100歳まで走り、、、いや走るのは苦手だから、歩き続けたい。遠くへどこまでも遠くへ。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.4
(え)永六輔『遠くへいきたい』

 六輔さんは、テレビラジオに出ている人の中で、一貫した姿勢を保ち、その姿考え方生き方に、ずっと変わりなく共鳴できる、数少ない人のひとり。
 テラインコグニダ!10歳の頃から、私の一貫して変わりない「姿勢」は「遠くへ行きたい」でした。
~~~~~~~~~~~~

バードウオッチング検定「これはクイナです」
at 2003 09/30 12:23 編集
 日本野鳥の会が主催する「バードウオッチング検定」。鳥の種類、鳴き声などのほか、環境問題やウォッチングマナーについても出題される。
 1級合格者は、過去2回の試験で397人。これまでの受験者最年長は92歳、最年少は7歳。おじいちゃんと孫が並んで双眼鏡をのぞいている光景が想像される。

 私が『野鳥観察図鑑鳴き声CD付き』を買ったのは、ウオッチング目的ではなく、「クイナ」の鳴き声を知るため。
 我が子が生まれてから最初に発したことばが「これはクイナです」だった、という本を読んで、、、。最初のことばが「これはクイナです」だった人は、大江光。
☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.5
(お)大江健三郎『個人的な体験』

 『個人的な体験』の冒頭
 「鳥(バード)は、野生の鹿のようにも昂然と優雅に陳列棚に収まっている、立派なアフリカ地図を見下ろして、抑制した小さい嘆息をもらした。」から始まる。
 大江の小説に光をモデルにした子どもが登場する最初の作品だ。
 バードは障害のある子と共に生きていくことを選択し、あれほど行きたかった東アフリカ行きを断念する。

 この本を読んでいるときには、私自身がその10年後にケニアで1年すごすことになるとは思っていなかった。
 大江の本、絶版本『政治少年死す』を含めて、ほとんどの作品を読んだ。いまも続けて新作に注目できる作家の中のひとり。

 ノーベル賞受賞以後は「余生」であって読むべき作品は無し、という人もいるし、「障害のある我が子をモデルにするのがちょっとね」と、息巻く留学生もいた。いろいろ言われているが、私は好き。
~~~~~~~~~~~
 
20141115
「あ~お」の項、ブログをUPする作業だけでせいいっぱいで、まだ何事も語っていませんが、「あ~ん」後半では一回の更新で4000字~5000字をUPするようになり、「こんなにだらだら長いのは、だれも読まない」と、娘に言われました。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ブログのおわりブログ人終了」

2014-11-13 05:24:32 | エッセイ、コラム
20141113
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(5)ブログのおわりブログ人終了

 西洋の墓碑に「○○ここに眠る、○○の良き妻であり○○のよき母であった。幸福な生涯を○○の家で閉じた」とか「書いた、愛した、生きた」とか、残された人たちは、個人にふさわしい文言を石に刻みます。
 私は墓石を買うお金もないし、残された息子娘が気の利いた文言を石に彫ってのこすとも思えないので、墓はなくてもいいかなと思って生きています。

 しかし私が「書いた、愛した、生きた」という痕跡はどこかに残したいという未練も持ち合わせています。
 ブログという簡易な発表形式を知ったときには、これこそ私の「生きた」痕跡だ」と思ったのです。駅前で配っているティッシュペーパー、無料の音楽会、招待券で行く美術展とか、無料が大好きな私にふさわしい、お金のかからない痕跡作りだと思いました。

 姉が54歳で亡くなって、両親の眠る墓に遺骨を納めたあと、2003年9月の私の誕生日に思い立って、ホームページビルダーというソフトで自分のHPを作りました。そのあと、OCNカフェという簡易ブログがあることに気づいて、毎日の更新はこのカフェブログを利用することにしました。
 OCNカフェブログのころから、ずっと交流が続くブログ友だちもいて、私にとっては、リアルライフと同じくらい、ブログでの交流は大切です。

 しかし、思い込みと外れたところもあります。墓石がわりになると思ったブログ、プロバイダーの都合で、突如閉鎖されてしまうということがわかりました。
 OCNカフェが閉鎖されるとき、gooかブログ人のどちらかに移行せよ、というお達しがきました。私は、毎日の更新はgooで、過去ログ倉庫はブログ人を利用することにしました。
 ところが、OCNカフェ閉鎖から2年で、こんどはブログ人閉鎖のお知らせ。

 墓碑である過去ログ、どうしたものか。もう一度、gooに移転することになりました。息子に作業をやってもらいました。とりあえず、一括して。

 この先、過去ログは(1)日本語文法、日本言語文化の分野(2)日本語教育、日本語教授法(3)アート散歩、日常茶飯事典(4)その他、と分けて、格納しておくことにしました。
 私はブログアクセス解析を利用していないので、たまに無料お試し期間に、アクセス検索元のキーワードを知るくらいです。でも、検索キーワードを見ると、思いがけないことばによってこのサイトを知り、やってくる人もいるのだ、ということがわかりました。

 このサイトの記事を読んで参考になったかどうかは知る限りではありませんが、残しておけば、誰かの参考になるのだ、ということは、書くことの励みにも成ります。私も、調べ物をするときに、さまざまなサイトのお世話になっています。
 たとえば、四谷の上智大学クルトゥルハイムを見たあとは、上智大学のサイト、建築史家のサイトによって、この建物の歴史的な来歴やら工法やらについて、これまで知らなかったことを学ぶことができました。

 私が残しておけば、日本語を学ぶだれかの役にたつことがあるかもしれないし、さえないくすぶった一生をおくった一人の女性が、日常生活で何を不満に思い、愚痴をこぼしていたのか、わかるじゃないですか。まあ、金がない、という愚痴がほとんどですけれど。
 そんなつまらぬ文ではあっても、消してしまわずに、残しておきたい、というのが墓碑がわりとして2003年から11年間、毎回1200字ほどの駄文を更新し続けてきた今の気持ちです。

 2003年9月にOCNカフェブログを始めたときの「阿吽本の思い出」を再録します。
 最初のブログタイトルは「おい老い笈の小文」でした。
 枕として、「老い」に関わる最新ニュースを書く。第二段落に、1977年までに読んだ本を思い出して、本にまつわるあれこれを書く。どうして1977年までに読んだ本を思い出そうとしたかというと、1977年以後は、原則として読んだ本のタイトルをメモしてあります。
 1977年以前に何を読んだかは、記録にとってなかったのです。いつでも読みっぱなしでした。何を読んだのだっけなあと、思い出すことからはじめました。

 「あ」足立巻一『やちまた』からスタート。『やちまた』は、本居春庭の評伝です。本居春庭が44歳、1806年ごろに完成した国学書『詞八衢(ことばのやちまた)』からタイトルがつけられました。
 『やちまた』を読んだのは、1977年以前ではないのでが、例外として一番最初の本に選びました。ぽかぽか春庭は、国文法の先達本居春庭にちなんだブログネームですから。
 本居春庭の「詞八衢」は、動詞活用の研究。ぽかぽか春庭も本居春庭を仰ぎつつ他動詞再帰構文の研究をしたのですが、研究中断のままうちすぎました。

 次回から2003年の「おい老い笈の小文」より、「あ」からの著者名と著作をたどりながらの自分語りを採録します。

<おわり>
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「昔話もおわりになるのか」

2014-11-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20141112
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記午年尽(4)昔話もおわりになるのか

 今年限りで終わってしまうものごとが、ひときわ身に染みて感じられるのも、私の仕事、来年の3月で半分おしまいになってしまうからです。
 独立行政法人国立大学の仕事、2015年3月で「雇い止め」になります。
 パート講師には退職金もなしだから、「定年退職」なんて言いたくありません。パートや派遣の「雇い止め」です。まあ、規定の年齢に達したので仕方ないのですが。

 同年齢の人々は、とっくに退職しています。私の女子校同級生なども、みな小学校長で退職とか、中学校教頭で退職とか、引退してたっぷりの退職金と年金で優雅に暮らしています。いろいろなツテで、退職後も教育相談所などの勤務を続けている人も多い。
 私は年金なし退職金なし再就職のコネなし。退職後食べていく手立てはまったくないのです。

 元ダンス仲間T子さん、小学校校長を退職してからも、教育相談の仕事を週に2回続け、週に1回は合唱、1回はオペラ練習。また別の曜日に図書館児童室で子ども達への読み聞かせを続けています。年に一度はご主人と海外旅行。とても充実したシルバーライフに思えて、私はうらやむばかり。
 T子さんは、校長としても教育実績があり、パート講師の私とは月とすっぽんなので、うらやむことさえはばかられる、しがない私の身の上です。

 11月8日、区立図書館での「大人のためのおはなし会」という朗読発表の会に行ってきました。
 T子さんは、民話を語りました。とても聞きやすいやさしいお声で、お話がすっと心に入ってくる語り口です。

 村中の人から「居眠り和尚」と邪魔者にされて、村のお金持ちのお葬式にも呼ばれない年老いたお坊さん。長年いっしょに暮らした猫の導きで、長者の娘のおとむらいをやりとげて、あばらやだったお寺が門前町ができるようなにぎわう寺になった、というおはなし。 おはなしをきいて、ほっこりとしました。

 ただ、世の中の傾向として、「家の文化」として、縁側やいろり端で、こんなふうにおばあちゃんが孫や子どもたちに語って聞かせるお話文化というものは、もう一般の家庭では継承されていないのではないか、ということにが思いが至りました。
 おばあちゃんが語る昔話を聞いて育ったのは、私が最後の世代じゃないだろうかと思うのです。御伽草子、昔話を、引退した世代が小さな子や孫に語って聞かせ、子や孫は、親や祖父母が語るおとぎ話、わらべ歌をきいて育つ、、、、そういう文化が家の中に残っているなら、おばあちゃんの昔話を聞いて育つ子どもはとっても幸せです。

 私も、仕事がすべて退職になったら、民話語り部や「図書館のおはなしボランティア」などができたら、どんなにいいだろうかと思います。
 しかし我が家は、息子まだ学生で、自立していません。まだまだ一人前にはほど遠い。学費は奨学金でまかなっていますが、たとえ博士号が取得できたとしても、昨今のポストドクターの就職難で、文系博士に仕事はないことでしょう。自立できるのはいつになることやら。

 今年ももう終わり、どころか、我が職業生活も終わりになるかも、という暗いお話でした。蓄えも底をつき、と言いたいけれど、蓄えなんかもともとない一家ですから。

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする