春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2021年2月目次」

2021-02-28 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210228
ぽかぽか春庭2021年2月

0202 ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩回顧(12)分離派建築会100年展 in パナソニック美術館
0204 2020アート散歩回顧(13)ミレーから印象派への流れ展 in そごう美術館
0206 2020アート散歩回顧(14)ヨコハマポリフォニー展 in 展横浜美術館
0207 2020アート散歩回顧(15)近代絵画 in 八王子夢美術館
0209 2020アート散歩回顧(16)キングとクイーン展 in 上野の森美術館


0211 ぽかぽか春庭アート散歩>アート散歩2021(1)日本初期写真史&瀬戸正人展 in 写真美術館
0213 アート散歩2021(2)美を結ぶ美をひらくエミールガレ in サントリー美術館
0214 アート散歩2021(3)美を結ぶ美をひらく古伊万里鍋島 in サントリー美術館
0216 アート散歩2021(4)美を結ぶ美をひらく琉球紅型 in サントリー美術館
0218 アート散歩2021(5)描かれた女たち in 宮本三郎記念館

0220 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>21世紀日記光の春にコロナかよ(1)服を買う
0221 21世紀日記光の春にコロナかよ(2)お茶飲みながら新しくもない日常
0223 21世紀日記光の春にコロナかよ(3)
0225 ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽん語日誌>2021日本語学校の春(1)春節餃子パーティ
0227 2021日本語学校の春(2)
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ぽかぽか春庭「日本語学校早春」

2021-02-27 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210227
ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽん語教師日誌>日本語学校早春

 2018年9月に分厚い書類を整えて学校設立申請。(2度目

)2019年1月に文科省で、面接審査。例年なら4月半ばには許認可が出るのに、令和への変換ごたごたがあったためか、文科省からの学校設立許認可の通達が遅れにおくれ、5月下旬に許可通達があったのですが、1ヶ月間の募集手続き作業では、6月に入管にビザ申請をするときに10人ほどしか応募者を提出できませんでした。

 その中で、留学生ビザが出たのは5人。10月に入学してきました。そのうちの2人は、すでにオンラインで当校の授業を受けて初級前半の範囲は終わっている学生でしたが、いかんせん5人を2クラスに分けることもできないので、初級1課からもう一度学習することになり、午後、初級後半を補講。

5人は熱心に学習を続けました。半年後1人が加わり6人に。2020年4月5月は、コロナ過で学校は閉鎖。中級に進んだ2か月は寮でオンライン授業を受ける、ということになりましたが、たいへんにできる学生たちだったので、ぐんぐんと日本語力が伸びました。

 残念なことに、6人のうちひとりは家庭の事情で、1年たった20年9月に帰国。ひとりは体調悪化のため、休学。卒業式にのぞむのは4人のみ。

 ふたりは国立大学大学院修士課程に進学。ひとりは公立大学大学院修士課程へ。ひとりは国立大学大学院研究生(10月に修士課程に進学予定)と、進路も決まり、4月からはそれぞれの進学先に行きます。

 2月23日、卒業生は、祝日を利用して、日帰りのスキー旅行にでかけました。ほんとうは2泊か3泊で京都旅行へ行きたいと希望していた学生たちでしたが、中国にいる親に報告したところ、親たちは全員「日本ではまだコロナが収束していないのに、旅行先のホテルでコロナ感染するかもしれない。ぜったいに泊まりの旅行はダメ」という意見だったそうです。

 日本はまだワクチン接種も一般の学生には実施されていないのですから、心配する親の気持ちもわかります。

 卒業生たち、卒業アルバムを企画し、その中に教師の写真と「おくる言葉」をのせることにしました。アルバム委員が用紙をもってきて「先生のことばを書いて、写真を一枚つけてください」というのです。

 どの写真も帯に短し襷に長し。卒業アルバムは長く残すものでしょうから、少しでも笑顔のものなどと思うと、適切な写真がありません。

 ようやく校長先生が学校HP用に撮影した「教員室風景」に仕事をしているっぽい写真がありました。

 教員室の私。がんばって働く古希婆です。

 卒業式も広い会場を借りて、在校生や来賓と卒業生を送り出すのはまだ無理な情勢で、教室で卒業生と教職員だけの出席による卒業式になりそうです。

栄えある第一期生の卒業式、私にとっても、うれしい最初の卒業式です。

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ぽかぽか春庭「春節餃子パーティ」

2021-02-25 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210225
ぽかぽか春庭ニッポニアにっぽん語教師日誌>2021年の日本語教室(1)春節餃子パーティ

 カレンダーは世界中で西洋暦(グレオリオ暦)が使用されていますが、実際に世界各地ではそれぞれの文化にあわせてさまざまな暦が使用されています。イスラム暦などもそう。

 留学生の故郷でも、新年を旧暦で祝う地域があります。中国では日常生活に「農暦ノンリ-」が浸透しています。1月1日は一応休日としていますが、12月31日も1月2日も平日で何事もなし。そのかわり、旧暦大晦日にあたる2月11日から2週間の「春節休み」があり、例年なら民族大移動とも言われる故郷に帰る人々でごった返す時期。しかし、昨年今年は帰省も控えられ、春節に親戚一同が会する機会も少ないとのこと。韓国では5人以上の会食禁止、例年は無料になる高速道路を有料にするなどの「三密対策」が施行されました。

 勤務する日本語学校には中国ベトナムネパールの学生が在籍しています。
 中国とベトナムは旧暦の新年を祝います。
 昨年2020年には、学生達が暮らす寮の一室に集まり、みなで餃子を作って春節を祝いました。今年は学生の数も多くなった上、集まって餃子パーティをする時間も密や集合時間を考慮しなければなりません。

 普段の教室に大鍋を持ち込み、午前中クラスは11:35-12:30、午後クラスは1530-16:30に分けて、冷凍餃子を茹でて水餃子にして「食べるだけパーティ」をすることになりました。

 紙皿紙コップなどのゴミを出さないために、餃子を入れる皿と箸は各自で持参、学校の水道で洗ったりすると洗面所密になるから、そのまま寮に持って帰り、寮のキッチンで洗うことなどを学生に申し伝えました。
 男子用の寮は一軒家6室+DKを13人でシェアしています。ほかにアパートに住む者もおり、女子寮にはネパール人女性などが入居しています。

 2020年4月生は来日できず、夏から秋はオンライン授業を続けました。2020年10月生も、11月半ばから2週間の隔離を経て、2020年12月からようやく授業開始となりました。
 イベント自粛で、入学式も中止になり冬休みの外出もできないなど、不自由な留学生活を続けてきました。
 冬休みに入る前日、12月25日金曜日に冬祭り会を楽しんで以来、学校行事を控えていましたが、2月12日春節の日の餃子パーティ、学生達にしたら久しぶりのお楽しみ会となりました。

 大鍋で餃子をゆでる。中国では水餃子がメイン。焼き餃子は水餃子をみなで食べて残った分を焼いて食べるので、日本の中華食堂で餃子を注文したら焼き餃子だったので、どうして最初から残り物を出すのかと思った人もいます。

 鍋で餃子をゆでる


 産休中のベトナム人事務職が赤ちゃんを連れてベトナム春巻きを差し入れてくれました。こちらは焼いてナンプラーをつけて食べました。ひさしぶりの米粉皮の春巻き、おいしかった。

 

 教室ではみな、わいわいと食べ、ほんの少しでも春節気分が出たなら、これから3月の学期末までがんばって日本語を覚えていこうという気にもなるでしょう。

 4月からまた16名の新入生を迎えます。コロナ禍で留学生入国が減少し、倒産する日本語学校も出ているという中、20名留学生ビザ申請して16名の入学生確保ですから、学生募集担当の部署は健闘したのではないかと思います。

 4月からも学生に寄り添って歩んでいきます。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「光の春にもコロナかよ」

2021-02-23 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210223
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>21世紀日記光の春にもコロナかよ(3)コロナ下の光の春

 新しい季節のことば「光の春」については、何度か由来を解説してきました。
 まだ暖かくはならないけれど太陽の光が冬のそれとは異なってくる早春を、ロシア語でベスナー・スベータ「光の春」と呼ぶことを気象予報士の第1世代倉嶋厚さんが紹介したことから、日本でも季節のことばとして定着してきました。

 2021年の立春は通常年よりは1日早く、2月3日。
 124年ぶりに節分2月2日になったとのことで、春の立つ日も1日早い。光の変化も感じられる2月、とはいえ、緊急事態宣言は3月7日まで1ヶ月の延長。春、いまだし。
 春待つ期待の心も、緊急事態へのストレスで押しつぶされそうです。
 通勤時間に不愉快な思いをすることが多くなりました。人々のストレスも大きくなっているのでしょう。不愉快を避けるために、マスク忘れに備えて、鞄の中には予備マスクが10枚は入れてあります。

 帰りの電車の中、髪がボサボサで無精ひげ面、スカートに突っかけサンダルというスタイルの人が自分の座席のわきにスーパービニール袋をふたつ置いてスマホいじっていたので「すみません、席にかけさせてください」と、頼みました。するとその人(たぶん、夜の店に行って髭を剃り、きっちりメイクすれば美しい接待姿に変身するのだろうと思われる人)は、なんと急に眠気がさしたというテイで寝たふりして「聞こえません」アピール。40分の間、車内混雑してきても、ビニール袋で席を占有。マスクはしているものの、顎にかけているだけ。コロナ時代なので、密を嫌い、隣に人が来るのが嫌だったのかも知れません。でも、だったら電車に乗らずにタクシー利用したらいい。
 電車利用するなら相身互いにしてほしい、と、腹立てながら、こんなことにむちゃくちゃ腹立つのも、ストレスたまる日常で、寛容さを失っているのだろうなあ、と反省。
 
 朝の出勤下車駅から勤務先までは市役所経由のバスに乗ります。二人がけの座席にリュックサックを置いて一人で腰掛けている人がいたので、「すみません、ここ、いいですか」と尋ねますと「他へ行ってください」と言われました。
 電車の中のビニール袋さんのことも思い出して、嫌な気分になりましたが、その人が市役所前で降りるとき提示したのは障害者の都営交通利用パスでした。(どうして障害者パスがすぐわかったかというと、夫が腎臓透析患者になったら、障害者交通パスを発行されたからです)。腎臓透析患者も、見た目には外からは障害があるとはわかりません。おそらくバスの中の人も、目に見えない障害があって、隣に人が来ることがいやだったのだろうと思います。たとえば、人との接触を極端にいやがる心理の人もいます。でも、だったら「体調問題があるので、ひとりで腰掛ける必要があります」と言ってもらったほうが、「ほかへ行け」よりは気持ちよく対応できます。

 そんなこんなのストレス増大の日々、1ヶ月延長となった緊急事態、果たして3月7日に終了するのかもわかりませんが、日の光が少しずつ明るくなるのを感じて、耐えていこうと思います。

 毎月のやっちゃん定期便電話。2月のやっちゃん電話も、いつもの「生きてるか~イ」と、安否確認から。やっちゃんは女子高校時代のクラスメート全員から慕われる人気者でしたから、私だけでなくクラスメートそれぞれに電話をいれているのだと思いますが、私もやっちゃんの元気な声を聞くとほっとします。

 クラスメートほとんどが退職して年金暮らしをしているのに、私だけが古稀すぎても働き続けているのを案じて、やっちゃんは「無理するな、通勤電車に気をつけよ」と、毎回心配してくれます。

 やっちゃんは、18歳から50年以上、馬術競技に生きてきました。群馬県の馬術競技に関わり競技会の審判を続けてきましたが、現在は大会も開かれず、大学乗馬部での学生指導も自粛。馬と離れている生活で、大好きな山歩きや海外旅行も1年間出掛けていないので「ヒマだぁ」。
 貧乏暇なしの私とは違う優雅な日常ですが、コロナ収束するまでがんばろうと、励まし合いました。 

 1ヶ月後に「ホテル2泊宿泊券」を娘と使う予定。春よ来い!
 クリスマスイブイブ祝日がなくなって残念ですが、光の春祝日もいいですね。

 旅に出て、おいしいもの食べたのも今は昔。1年前のつま恋で。


<おわり>

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ぽかぽか春庭「お茶飲みながら、新しくもない日常」

2021-02-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210220
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>21世紀日記光の春にコロナかよ(2)お茶飲みながら、新しくもない日常

 毎日マスクをして通勤する。
 通勤電車は、寒くても窓が開いていて換気が考えられている。電車内、みなマスクをしている。外国では公共の場でマスクしない人に科料罰金を加える、ということですが、日本は同調圧力があるので、マスクをしないで電車に乗るなんてことできない。人の眼が怖い。
 よく自分で飲み込んだつばが気管に入ってしまい、むせて咳き込みます。隣の席の人がすっと立ち上がってよそへ行くのを見たりすると、「違います、これはコロナの咳じゃありません」と言いたい。ぜんそくの咳や花粉症のくしゃみもの人にも、つらい世の中です。マスクに「花粉症です」というハンコを押すためのスタンプが売り出されたそうだけど「飲み込んだツバが気管に入ってしまいむせています」というハンコはないみたい。

 授業もマスクをして行うので、よく通る声と口の形によって伝えたい語学教師としては、やりにくくってしかたない。
 教室の外では、マンション新築工事と市職員用の駐車場工事がガンガンドンドンと騒音を立てているけれど、うるさくても窓を閉め切ることはできない。外の工事の音に負けない大声を出して一番後ろの席の学生にも声が届くように張り上げる。


 9時から45分授業を9コマ続けたときは、のどがつぶれるかと思った。声帯の丈夫さを遺伝子に感謝。あ、面の皮が厚いことや、ツバキ分泌量が多くて歯が丈夫なことも遺伝子に感謝。胃腸の中にいろんな腸内細菌が住んでいるらしいこと、血管が人より太いことも。背が低いことや顔の造作がまずかったことなど、若い頃には遺伝子に不満を持つことが多かったのですが、古稀すぎてみれば、顔の作りが少々まずいことのデメリットはたいしたことなく、身体が丈夫だったことのメリットはありがたい。

 そんな遺伝子も年には勝てないことが日々増えています。運動量が減っているので、筋肉が弱っているのだろうけれど、先日は下車駅でエレベーターのドアが閉まりかけているので慌てて乗り込もうとして、エレベーター前でばったりと前のめり腹ばいにこけました。あらまあ、こんなことで骨折寝たきりになるのだろうなあ。気をつけます。階段をゆっくり上り下りするようになったほか、エレベーター乗り込みも慌てず乗り降り心がけます。
 
 確かに、1年前とはいろいろが異なる日常になりましたが、基本的に買い物は、近所のスーパーでちゃっちゃっと半額セールシールが貼られている食品を選んで買って帰り、家で娘とふたりで食べる。

 スーパーに入って、暖房効いていたので毛糸の帽子を脱いで手提げ袋に入れた。つもりだけだったらしく、帽子は落としたもよう。家でも学校でもさんざん探して、きっとスーパーで落としたのかなと電話したら、落とし物として保管していると。よかった。娘が買ってくれたものだから、なくしたらがっかりされる。ぼうっとしているので、落とし物もどんどん増える。

 会員が減り続け、存続が危うくなったジャズダンス金曜日夜のグループ。
 昨秋私が足指脱臼して休会したこともあり、みわこ先生に払う謝金の工面がつかなくなり、サークル解散を決めました。ミサイルママは、水曜日午前中に練習しているAサークルでみわこ先生のレッスンを受けることにしたので、ジャズダンスを続けていけるけれど、私は半年間、ジャズダンス練習ができなくて、身体を動かすのは、ラジオ体操のみ。

 出勤前に6時35分まで10分間テレビを見てラジオ体操して出勤します。往復で約3500歩ほど歩くのですが、運動したと言うほど歩くのは1万歩必要というので、明らかに運動不足。
 食べるのは相変わらずの早食いの大食いですから、運動不足はてきめんに身体に現れる。でも、ケーキを食べにでかけました。

 娘といっしょに自由が丘の紅茶専門店へ。シンガポールに本拠地を置くTWGという店。東京では銀座や二子玉川高島屋店にもティールームがあるということです。はじめてTWGのティールームに入店。店は3分の1が茶葉の売り場。奥のティールームは、テーブル4人掛け2つと二人がけ3つ。
 この客席数に対して、サービス員は5名いて、ほかに紅茶の茶葉やティーバッグの販売員2名。

 娘が注文したアフタヌーンセット


 娘が紅茶の種類についていろいろ尋ねたりケーキの材料について質問すると、的確に答えてくれました。紅茶リストに出ている500種類の紅茶について、こちらの質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれて、娘はウエイトレスの対応に感心。コーヒーバティスタやワインソムリエのような資格が紅茶にもあるに違いない。

 娘はホリデイインニューヨークという甘い味がする茶葉を選び、私は魚のディナーセットにもデザートのオペラとマカロンの両方にあうというペティアガラという紅茶。アフタヌーンセットとディナーセットが同時間帯に選べるのは、客数制限をしている現在の期間だけなのだそうです。娘のアフタヌーンセット、私のディナーセットあわせて6800円。まあ、お高い。

 ディナーセットのメインは鮭。


 帰りに「紅茶の葉を買って帰ろうか」と言っていたのですが、スーパーで買う紅茶ティーバッグとはあまりに違うお値段にびっくりして買いませんでした。我が家は、リプトンティーバッグ100袋500円というのを買うのが標準。1袋当たり5円。TWGは15袋で3000円。1袋当たり200円。おいしい茶葉であることはわかりましたが、こりゃうっかり買えませぬな。
 テーブルに提供されたティーカップは4000円。ティーポットは20000円で売られていて、ワォ、紅茶カップ落として割ったりしなくてよかった。貧乏人がそうそう行けるお茶の店ではないということがわかっただけでも社会勉強でした。

 私のデザートはオペラとミニマカロン。


 ストレス発散のための非日常を娘にプレゼントしたのですが、緊急事態宣言が終了して「さらに新しい日常」がやってくるのでしょうか。
 紅茶1ポット1000円だったTWGの非日常を「身分不相応だった」と思い出しながら、リプトンの1袋5円の紅茶飲んでのどをうるおし、外の工事音に負けない声を張り上げようと思います。

<つづく>

 

 

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ぽかぽか春庭「服を買った」

2021-02-20 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210220
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>21世紀日記光の春にもコロナかよ(1)1年ぶりに服を買う2着で1280円

 宮本三郎記念館で絵を見た後、自由が丘で買い物。
 スーパーで食料を買うほかに買い物をするのは久しぶりでした。
 スーパー2階のユニクロに入ったのは、2月28日閉店、というお知らせがあったからです。閉店記念セールをやっているとは書いてなかったけれど、割引品を見つける気まんまんで入店。

 「食品以外のものを買うのは、2018年、京都ひとり旅に行く前にカーディガンを買って以来だ」と娘に言ったら、「去年の5月にユニクロで500円のTシャツと300円のTシャツを買ったでしょ」と言う。あらま、すっかり忘れていました。そうそう、その合計800円のTシャツを「よそ行き着」として掛川旅行に出たのでした。

 晴れ着のミッキーマウスTシャツ300円を着て、掛川城竹之丸御殿の客室でお弁当をいただく。ホテルのイベントで、自分でお弁当を詰め合わせるというイベントがあったのです。
 第1回目の緊急事態宣言が終わったあとの旅でした。


 2月6日土曜日の自由が丘は、昨年の緊急事態宣言のとき、町にほとんど人がいなかったのに比べれば、かなりの人が出ており、昼間の人出はそう減っていないように感じました。夜の人出は少なくなっているのでしょうが。

 服など探してみることができない私がぼうっといているあいだに、娘は「母、これ着られるか試着してみたら」と見つけてくれたのは、裾広がりのキュロットパンタロンと、短めの冬コートです。今はダウンコートを着て通勤していますが、立春もすぎ、4月並みなどという気温もあるなか、春コートに移る前にちょうどいい。

 パンタロンは500円。コートは780円でした。ユニクロはときどきこういうお買い得品があるので好き。普段の値段でもそうそう高い物はないのですが、私が買うのは季節外れで半額になったものを買って、次のシーズンで着る。ウルトラライトダウンコートも、今年の新デザインは5900円でしたが、昨年のデザインは1980円という値段になっていました。ちょっと迷ったのだけれど、やめました。3月になったら、もっと安くなるかもいれないから。

 何にお金を使うかは、ひとそれぞれの好み。職場の若い同僚は、毎日ひらひらフリルやピカピカラメのかわいらしいピンクのミニスカートや上着をとっかえひっかえ着て出勤する。マスクもピンクにしています。7歳の娘さんとおそろいのおしゃれするのが楽しみなんだそうです。
 新しいファッションを見るたびに「かわいいね」と言ってやれればいいのに、私は服にまったく興味がないため、つい褒め言葉を忘れてしまう。ネイルも指ごとの色違いやラメ入りにしており、ミニスカートにピンヒールシューズ。
 わぉ、私が中学校国語教師だったころなら校長から厳重注意されてしまったであろう服装だなあ、と思いだすのだけど、今は時代が違うし、ま、いいか。

 お金をパチンコに使いたい人もお酒に使いたい人も、お楽しみはさまざまです。
 私がお金を使うのは、旅行と外食がほとんど。11月12月は毎週外食を続けて、クレジットカードの合計金額は「史上最高額」になっていました。金額を見ればびっくり!だけれど、娘の「ああ、おいしかった」と言うことばが聞けると私も嬉しいのです。老い先短い身、おいしいものを食べて寿命が延びた、と錯覚するのもいいんじゃないかしら。人それぞれ。

 2021年になってからは、1月6日水曜日にサントリー美術館併設のレストランでのランチと精養軒でランチしただけ。緊急事態宣言が出て、百合子さんが「夜の会食でなければ良いというのではないのです。昼間も会食を控えて」と言うので、2月は6日にユニクロで買い物したあとも、スーパーで割引きになっていた寿司弁当を買って帰り、家で食べました。

 家の中でゲームをするのが好きとか、人それぞれの楽しみがありますが、私はお出かけが好きだし、一所懸命働いたご褒美においしい外食を楽しみたい。
 旅行に出たい、という楽しみを持つ者には、不自由な世の中ですが、そろそろ春の足音が。

 春分すぎたら旅に出ようと計画しています。上記のお弁当詰め合わせイベントに参加した際に「美味しそうなお弁当を作ったで賞」というのをいただきました。賞品として「ふたりで2泊ホテル宿泊券」というのをもらったんです。そろそろいいかと、2月に予約したら緊急事態宣言になったので予約キャンセル。3月に予約し直しました。
 3月、あたたかくなっていますように。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「描かれた女性像 in 宮本三郎記念館」

2021-02-18 00:00:01 | エッセイ、コラム


 宮本三郎「描かれた女たちチラシ」

20210218
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(5)描かれた女たち in 宮本三郎記念館

 世田谷美術館の「沿線物語」という展示の説明にもあったように、世田谷区には多くの画家美術家たちがアトリエ兼住まいを建て制作活動を行っていました。
 画家が亡くなったあと遺族によって、アトリエと土地、作品などがまとめて区に寄贈され、世田谷区はアトリエをそのまま展示室にしたり新たに展示館を設立しました。向井潤吉、宮本三郎、清川泰次の記念館が世田谷美術館分館として公開されています。

 各地の茅葺き屋根の風景を残した向井潤吉の記念館は何度か訪れて、季節ごとに展示替えされる茅葺き家屋のある風景画をみてきました。

 2月6日、初めて宮本三郎記念館に行ってきました。自由が丘に買い物に出たついででしたが、開催中の企画展、「描かれた女性たち」を観覧しました。
 アトリエ兼住まいがあった土地に世田谷区が記念館を建てたということで、展示スペースは2階の2室のみ。展示数もそう多くはなく30分ほど絵を眺めて、買い物にいきました。
 
 宮本三郎記念館の口上
 画家・宮本三郎(1905-1974)は生涯にわたって、数多くの女性像を描きました。モデルとなった女性たちに目を向ければ、その実像は時代によってさまざまです。絵画上の身体表現の追求のため、要求に応えポーズをとったのは、アトリエに呼ばれたプロのモデルたちでした。戦中の疎開時期など、そうしたモデルの手配が困難な時期には、妻や娘など家族が題材となり、家庭内の場面が描かれています。やがて戦後日本の復興期には、歌手や女優、バレリーナといった、華やかな表舞台で活躍する表現者たちが多く描かれました。また、浅草の踊り子など、エネルギッシュな都市文化の担い手たちを、舞台裏まで取材し描くこともありました。

 作品にあらわされた女性たちは、それぞれ異なる社会的立場を持っています。宮本の絵筆は、そうした「役割」をまっとうする彼女たちの姿を描きながら、次第に、その奥底から輝き発せられるエネルギーをも表す方向性へとむかっていきました。理想化された美の体現ではなく、自らに内在する生の力を画面の外へも表出させるような、逞しさを感じさせる女性たち一画家・宮本を制作へと駆りたてたのは、そうした女性のなかにある強さだったのかもしれません。


 展示室1


 宮本三郎は、1938年に渡欧し洋画の研鑽に励みましたが、第2次世界大戦の激化により帰国。軍の嘱託となり小磯良平藤田嗣治らと戦争画を描きました。1943年 「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞。「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞など、戦争画でも高い評価を受けました。
 戦後の美術界は、戦争協力の罪を藤田嗣治一人に負わせました。藤田は日本に見切りをつけ、夫人とともにフランスに脱出。レオナルド・フジタとして生き直しました。

 藤田ひとりが画壇を追われることで、他の戦争画を描いた画家同様、宮本が非難されることはありませんでした。私は、この「藤田をスケープゴートとする」戦後画壇のあり方に釈然としないものも感じるのですが。

 戦後を生き抜いた多くの人が、国民を戦争へと駆り立てたことなどなかったように戦時中の言動を封印したのです。一度は戦犯となった岸信介が首相として返り咲いたくらいですから、日本社会というところはそういう社会なのでしょう

 自分の言説をくるりと反転させて「戦後を生き抜く」のは、第2次世界大戦だけのことじゃない。

 60年代末から70年代に医療労働者教育労働者として働いていた私をさして「日和見主義者」だの「ブルジョア主義から抜け出せない奴」だのと非難を浴びせた学生運動の先端で旗振っていた人々が、大学卒業したあとは、一転忠実な会社人間モーレツサラリーマンとなり、今ではけっこうな年金をもらってゆうゆう暮らしています。一方、私はパート講師を続け、国民年金しかもらえない。資本社会の正社員として給与ボーナスをもらえる人間とはならなかった私は、71歳の今も必死で働いている。国民年金というのは、孫のおこずかいに渡してやる分くらいしかもらえない仕組みですからね。孫を持てないのは、年金少ないせいかも。

 宮本三郎は、戦後は金沢美術工芸専門学校、多摩美術大学などで教鞭を執る傍ら、婦人公論の表紙として女優や歌手の肖像画を描き、日本美術家協会会長になるなど、画家人生として家庭も画業も順風な69年の生涯でした。私、どうしてもナントカ会長という肩書きを身につけた人に点が辛い。
 女を入れると会議が長くなる、と女性蔑視を発言したショーモない老害の会長が、トップとして君臨してきた社会ですから、私ごときが何を言っても世の中動かないのかもしれませんが、それでも言いたい。なめんなよ。(言うことがいちいち古いが、古稀すぎた人間ですから、古いのもお許しあれ)

 女性蔑視発言して世界中からの非難を浴びても、会長の座に居座る気満々だった人を「これまでの功績に免じて」と守ろうとした与党です。ようやくやめることになったのは祝着でしたが、老害の仕事納めらしく、密室で自分と同じタイプ同じ年代の老害2を後釜にごり押ししようとした姿は、まさに「晩節を汚す」

 宮本三郎記念館、65歳以上は100円。私の収入でも入場できたし、さまざまな女性の姿の絵を楽しむことができました。
 宮本の作品の女性像は、踊り子や女優ほかさまざまな女性が描かれていました。

 展示室2


 戦時中「非常時」としてモデルを雇うこともままならない時代、家族をモデルにした絵も多く描かれました。
 展示作品中、娘が最も気に入ったのは、妻の文枝をモデルとして描いた看護婦像。踊り子や舞妓を描くと眉をひそめられた時代でしたが、看護婦ならOK。娘はモデルが夫人と知って「奥さんは看護婦さんだったんだね」と言っていましたが、私はモデルを雇えない頃のコスプレだと思います。文枝夫人が看護婦をしたことがあったのかどうか、記録を調べればわかることでしょうが、実際の看護婦だったとしたら、絵のモデルを務める余裕はなかったでしょうから。 

《看護婦立像》1941年

 
 戦後、宮本は金沢疎開から東京に戻り再出発。戦争勃発で中途半端に終わった洋行も、再度渡欧を果たしました。
 婦人公論や週刊朝日の表紙絵を描くことで収入も安定し、専門学校や大学で教え、後進指導に当たりました。

 演奏者 1956


 私はモデルを特定できませんでしたが、このバイオリニストは巌本真理だそうです。

《薪を運ぶ人》1957年


 《女優》1961年


 私が見てモデルがはっきりわかった絵は、「鰐淵晴子像」と「雪村いづみ像」です。私が子どものころの人気女優、人気歌手でした。展示にはただ「歌い手」というタイトルしかついておらず、私は「雪村いづみだと思うけど」と娘に言いました。娘が手に取った図録のデッサンのほうに「雪村いづみ」と出ていました。

《歌い手》1964年


 「若き妊婦」1964


 雪村いづみがわかって嬉しかったから、この展示の絵ともう一枚雪村いづみモデルの絵ハガキを購入。花の絵のセットも、いずれ青い鳥さんに送ります。

 宮本三郎記念館の紹介ンフレット

 宮本三郎記念館の入り口


 今回は宮本作品のうち、女性像の特集企画でしたが、風景のときも花の特集も見に行きたいと思いつつ、自由が丘の駅に向かいました。

<つづく> 

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ぽかぽか春庭「美を結ぶ美をひらく その3琉球紅型 in サントリー美術館」

2021-02-16 00:00:01 | エッセイ、コラム


 紅型きれの展示
20210211
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(4)美を結ぶ美を開くその3琉球紅型 in サントリー美術館


 サントリー美術館コレクション展第3部、紅型の型紙展示も充実した展示でした。
 紅型は琉球の伝統染色技法です。近代美術館工芸館や民芸館でまとまった紅型の着物を見たことはありますが、紅型型紙をまとめて見るのは初めてです。伊勢型紙がまとめて展示してあるのは見たことがあるのですが。

 琉球紅型の鮮やかな色彩。染料は多くが中国などからの輸入だったそうです。琉球の文化は中国との交易が支えのひとつでした。その琉球を押さえた島津藩薩摩が幕末明治に力を得たのは、中国との交易があったからです。

 布地に型紙のうえから糊を置き、さまざまな染色の技法を施して染めます。糊を落として華麗な模様鮮やかな色彩の布地が完成。琉球王家の着物などに仕立てられるました。しかし、沖縄では戦災などにより、古い紅型布地の保存が数少なくなっており、収集も難しくなっているようです。

 紅型型紙
 「芒に雁模様白地型紙」


 「流水に貝藻桐水葵梅紅葉散し模様白地型紙」


 「流水に梅楓手綱模様裂地型紙」


 「上記型紙を使って染めた布地」


 紅型きれ
 「黄色地牡丹蝶鳥に桐桜模様裂地」


 「染分地桜波連山模様裂地」


 「水色地牡丹桜に連山流水模様裂地」


 型紙は、染色に使うものであり、染め物職人にとっては仕事の道具のひとつかもしれません。しかし、型紙のデザインを見ていると、型紙を切り出す職人の小刀の先ひとさしひとさしにアートの魂が宿っていると感じます。
 型紙を作る工房の親方の中には、名を残した人もいるのでしょうが、無名のまま一生をこつこつと仕事を続けた数多くの職人がほとんどでしょう。ひとりひとりの姿を思い、「うつくしいものを残してくれて、ありがとう」と声をかけたいと思います。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「美を結ぶ美をひらく その2エミール・ガレ in サントリー美術館」

2021-02-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210213
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(3)美を結ぶ美をひらくその2エミール・ガレ in サントリー美術館

 新年最初の美術館めぐり、娘が見たがったのは、エミールガレのガラス器。
 古代から、色ガラス、クリスタル、切り子、さまざまな美しいガラス製品が作られてきましたが、エミールガレやルネラリックなど、モダンガラスの制作者たちの作品はその洗練されたデザインと色によって現代でも人気が高い。

 エミール・ガレ(1846–1904)は高級食器ファイアンス焼きと家具の工場の息子として生まれ、ドイツでガラス工芸技術を習得しました。1878年、パリ万国博覧会にガラス製品を出品し好評を得ました。ガラス工房のほか家具工場も経営し、58歳で亡くなるまでデザイナーとして、また企業家として活躍しました。
 しかし、白血病により59歳で死去。死後30年近くは遺族のもとでガラス器製造などが続けられましたが、1931年にエミールガレ工房は閉鎖しました。現在ガレ作品と伝わっているものの中には、エミールの手になるものと、ガレ工房の作品とがある。
 
 サントリー美術館のエミールガレコレクション。名品が並んでいました。
 エミール・ガレコレクションのコーナー


 ガレデザインの家具


 ガレの飾り棚下部の模様


ガレのガラス器
 花器「木立」1900頃 


 花器「アイリス」  花器「おだまき」


 花器「木立」 花器「かわせみ」


 花器


 花器
 

 植え込み鉢「水景」


 「ひとよたけランプ」
 
 
 ひとよたけランプと私


 エミール・ガレは、ガラス器や家具のデザイナーとしても、工場経営の企業家としても成功を収めました。たいていはデザインの才能がある芸術家気質の人は企業を経営する才能に恵まれないものですが、ガレはその両方の才に恵まれ、工房がガレ亡き後も製作できるよう経営も安定させてきました。

 初期の時代のガレは、まだ自分の様式を確立しておらず、伝統的なロココ様式やゴシック様式、オリエント様式などを混交したデザインの花器などを制作していました。

 エミールガレが独自の作風を確立したのは、浮世絵などの日本美術に出会ったことによります。積極的に日本美術の意匠や要素を取り入れ、独自の表現を作り上げました。
 1878年のパリ万博に出品した『鯉魚文花瓶』は、北斎漫画の『魚濫観世音』の鯉の図をそのまま引用し、梅や桜の文様を散らしたデザインでした。

 北斎『魚濫観世音』

 エミール・ガレ『鯉魚文花瓶』


 あまりにもそっくりそのまんまの鯉の形。現在ならデザイン盗用で著作権にひっかかるところでしょうが、100年前のことだし、フランスのデザイナーが日本の絵の図案をそのまんま利用したことが公になっていたとしても、パリ万博での好評はかわらず、ジャポニズムデザインは人気沸騰となったことでしょう。エミール・ガレの北斎漫画利用からゴッホの浮世絵模写もマネの和服を着た女性像も生まれてきました。

 「美を結ぶ美をひらく」の展示は、日本と西欧東洋の美が交流しあい、新たな美を生みだすことを美術史シロートにもわからせてくれ、よい展示だったと思います。
 次回は、琉球中国日本の交流によって生み出された紅型について。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「 美を結ぶ美をひらく その1古伊万里鍋島 in サントリー美術館」

2021-02-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210214
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(2)美を結ぶ美をひらくその1古伊万里鍋島 in サントリー美術館

 1月8日に出され1ヶ月の延長が決まった緊急事態宣言。今回はお酒を伴う飲食の場での営業時間短縮が中心とのことで、前回のようにエビデンスもなしに学校も図書館も美術館も閉鎖されたというむちゃくちゃな事態にはしない、ということらしく、美術館は閉鎖にならないだろう、と予測はしました。が、万が一の美術館閉鎖に備えて1月6日にあわててサントリー美術館に出掛けてきました。

 2021年最初の行楽。いつまで宣言が続くのか、延長やどんなイベントが中止になるのかわからないので、美術館が開館しているうちに出掛けたのです。
 去年サントリー美術館の年間パスポートを買ったのは、リニューアルオープンコレクション展の第3部、すなわち現在の展示を見たいからでした。年間パスポートだから第1部と第2部も見に行きましたが、今回の展示を見ないでは何のための年間パスポートだか。

 日本の陶磁器が中国朝鮮の高い技術を知って向上し、その技術がヨーロッパに伝播する、そしてヨーロッパの新しいデザインを日本がまた取り入れる、という文化の交流に視点を置いた展示でした。
 サントリー美術館自館コレクションのなかから、展示されていた古伊万里をUP。自館所蔵品展なので、撮影はフラッシュなしならOK.
 日本の伊万里が西欧に輸出され、西欧でも陶磁器が作られるようになる。その洋物デザインを日本の陶工が取り入れ、さらにそれがジャポニズムとして西欧に影響を与える、という文化交流が見てとれる展示になっていました。

色絵美人紋大皿


色絵花鳥文八角大壺(重要文化財)
色絵美人花車文蓋物


 モダンなデザインセンスに目を見張ります。
色絵毘沙門亀甲文皿
青磁染付七 





色絵五艘船文独楽型大鉢(重要文化財)


・色絵椿文皿




染付雲雷文大皿

染付唐花文皿 ・色絵唐花文皿(鍋島)


 私と同じく、陶磁器の鑑定眼は皆無の娘は「お茶をやっている人なら志野とか地味な色合いを珍重するのだろうけれど、私は見た目だけで伊万里や有田の華やかな色合いがいいなあ」と見入っていました。

 柿右衛門など、名を残した陶工もいますが、多くは無名の職人がもくもくと形をつくり絵を描き釉薬をほどこした。その静かな工程から鮮やかな壺や皿ができあがり、ジャポニズムに熱狂した西欧の人々も、現代に生きる私たちをも魅了する。

 今も有田焼などの窯元では脈々と美しい器が作られ続けていると思います。
 サントリー美術館のショップで、直径15センチほどの有田焼が28000円でした。娘は800円の小さな豆皿を買いました。ティーバッグで紅茶を飲んだ後の袋の置き皿にするといいます。
 これで紅茶を飲むときの楽しみがさらに増えた、という娘、自分へのお年玉です。28000円の有田焼が買えるようなお年玉をあげられない母ですが、豆皿を喜ぶ娘とともに過ごせることが、私のお正月の喜びです。

<つづく>

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ぽかぽか春庭「日本初期写真史 in 写真美術館2021正月」

2021-02-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210211
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(1)日本初期写真史&瀬戸正人展 in 写真美術館

 毎年お正月に写真美術館へ出かけてきたのは、写真研究家の学芸員さんが雅楽の演奏を聴かせてくれたからです。しかし、さすがに今年は雅楽演奏は中止になっていました。残念。
 正月の3日、無料公開の写真をじっくり見てきました。

 3階は「日本初期写真史」
 写真術が発明されて間もない幕末から明治初期、日本でもさまざまな写真が撮影されました。3階の写真は、写真技術の紹介とともに、関東を中心とした風景や人物写真が展示されていました。ナダールやベアト、下岡蓮杖ら初期写真の大物の写真は何度か見てきました
が、初めて見る写真もたくさんありました。写真美術館の収集の成果、年ごとに充実していると思います。

 東京工部学校の建物を写した写真
 

 亀戸天神の藤棚


 2階展示室では、「瀬戸正人 記憶の地図」展が開催されていました。瀬戸は敗戦後もタイに残留した父とベトナム系タイ人女性とのあいだに1953年に生まれ、8歳までトオイの名でタイで暮らしました。父は帰国後、故郷福島県で写真館を営み、正人にも写真機を与えました。
 写真専門学校卒業は写真スタジオアシスタントを経て、1981年にフリーランスとして独立、1996年第21回木村伊兵衛写真賞受賞しました。

 小林紀晴監督作品の「TOOIと正人」を展示室外のビデオコーナーで見ました。日本に来てから20年たって、はじめて生まれ故郷ウドーンタニに戻り、親戚達と交流したり、ふいに言葉を思い出したり、という記録です。

 「記憶の地図」は、アジアと日本を行き来した瀬戸正人の「記録と記憶」の写真。最初のコーナーは、若い女性のポートレート。ものすごい数に圧倒されます。タイやベトナムの風景と人々の営みを捕らえたコーナー、台湾のビンロウジュ売りのスタンドをひとつひとつ撮影していったコーナーなど、見応えがありました。

 ビンロウジュ売りの売り子



 出稼ぎの部屋

 瀬戸正人の撮影現場。中央が瀬戸


 ロビー展示のポートレート集の前で


<つづく>
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ぽかぽか春庭「キングとクイーン展 in 上野の森美術館 」

2021-02-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210209
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩回顧(16)キングとクイーン展 in 上野の森美術館

 2020年最後の美術館散歩は、上野の森美術館のKing&Queen展でした。ぐるっとパス利用だと100円引きになるだけなので、上野のチケット屋で平日割引券を購入。ふたりで3400円。チケットを買ったときは、娘も図録をがまん。

 私も図録がそれほどほしくなかったのは、期待した「チューダー朝から現在のウインザー朝までの肖像画がずらり」という展示ではなかったから。半分以上は現在のエリザベス2世ファミリーのグラビアなどに載ったことのある見慣れた写真。これではパパラッチ写真集のほうがよほど見ごたえがあるっていうものです。

 たった1枚撮影OKのものは、1952年に撮影された戴冠後のエリザベス女王公式肖像写真のみ。  
エリザベス2世公式肖像画


 公式肖像画をもとにしたアンディ・ウォーホルの作品は、はじめて見ました。


 チューダー朝のヘンリー8世やエリザベス1世の肖像も、「アルマダ海戦後のエリザベス」のようなよく知られた肖像です。以下画像は借り物。多くの美術館は所蔵絵画画像をネットに公開しています。

 ヘンリーー8世


 アルマダの闘いに勝利したことを誇るエリザベス。アルマダ海戦の絵が上部に描かれています


 エリザベス1世の母、アン・ブリーン。1000日間王妃の座にあったのち、夫によって処刑されました。


 「おおこれはお初!」というのは、レディジェーン・グレイ。王位継承のごたごたのさなか、王位継承権ありと主張して担ぎ出されたジェーンはわずか16歳。9日間女王としてすごしたのち、エリザベス1世の異母姉女王メアリーによって処刑されました。
 これまでポール・ドラローシュが描いた「レディジェーングレイの処刑」を中野京子の「怖い絵」などで目にしてきましたが、National Portrait Galleryが所蔵する肖像画ははじめて見ました。


 ヘンリー8世がとっかえひっかえした6人の王妃。最初の妻はもともと兄の婚約者だったから、「姉に当たる人との結婚は無効」と主張し、ローマ教皇の反対を押し切って離婚。侍女だったアン・ブリーンの妊娠を期に皇子誕生との期待をもって結婚。しかし生まれたのは娘エリザベス。どうしても世継ぎがほしい王はアン・ブリーンに姦通の濡れ衣をきせて処刑。3番目のジェーンシーモアは、待望の世継ぎを生むも産褥熱によって死去。

 ヘンリー8世はすぐに4番目を物色。廷臣クロムウェルが連れてきた肖像画家ホルバインが花嫁候補の肖像画を描きました。肖像画はなによりも国と国との結びつきを作る政略結婚の必須アイテムでした。それの中で、フランドルのクレーフェ公国皇女アンナが一番気に入りました。
 ホルバインの腕のよさは、本人だとわかる確かな肖像ですが、絶妙に美化して描くことができること。アンナ肖像も彼女のロバのような長い鼻面を巧みに美しさに変えて表現。王は新しい花嫁に期待して迎え入れたのに、床入りもせず半年もたたずに離婚。「フランドルの雌ロバ」を押しつけた罪により、クロムウェルを処刑してしまいました。美化の上手なホルバインは、その後もヘンリー8世の姿を美化しつつ描いています。

 なんの罪もなく離婚されたアンナですが、罪をきせられて処刑されたアン・ブリーンよりはましな生涯をおくりました。ヘンリー8世も「鼻が長すぎる」と離婚したことに多少はうしろめたくあったのか、「王の義理の妹」という身分や住まいを与え年金で余裕の生涯をすごせるように手当しました。
 アンナは5番目の妃キャサリンや嫡子エドワード、庶子に落とされ不遇だったエリザベスとも仲良く行き来し、エリザベスの王位継承権を復活させました。エリザベス1世が処女王としてイギリスの繁栄をもたらした第1歩には、アンナが剥奪されていたエリザベスの王位継承権を復活させた功績があったのです。

 5番目のキャサリン・ハワードは、こちらは本当の姦通をして処刑されました。6番目のキャサリン・パーは、ヘンリー8世の死後再婚しましたが、36歳での出産後産褥熱で死去。結局ヘンリー8世の享年より長生きしたのは、「フランドルの雌ロバ」と夫にけなされたアンナのみ。王妃の座に座るのもたいへんです。

 ほかに初めて見たのは、チャールズ1世の5人の子供が居並んだ絵。


 チャールズ1世は、清教徒革命(イングランド内戦)で敗れて処刑された王様。その子供たちも、それぞれがさまざまな運命をたどりました。この絵の中の犬に手を置いている嫡男(夭逝したち長男にかわって次男が跡取りになった)は、チャールズ2世として即位しましたが、正式な王妃との間に子はできず、数多くの愛人との間に公式に認知しただけでも14人、非公式ではそれ以上の子を設けました。が、愛人の子(庶子)には王位継承権がなく、王位は弟のジェームズ2世が継ぎました。

  ジェームズ2世の次女が「女王のお気に入り」に描かれたアン女王です。
 アン女王、即位後は太りすぎて歩けず、宮廷内の移動にも輿に乗っていたということですが、この肖像画はまだ即位前ですから美化は当然ですが、1790年アン25歳のころに描かれたということですから、まだすらりとしています。



 イギリスの王室、映画「冬のライオン」に描かれたプランタジネット朝ヘンリー2世にはじまって、さまざまなゴシップ満載で、裏歴史読み物としては面白いのですが、現代の王室肖像写真では、エリザベス2世のダイアナ妃いじめ問題とか、ゴシップはおおむねカットされているご清潔な写真肖像の羅列でした。

 チャールズ皇太子が再婚したカミラ(結婚後はコーンウォール公爵夫人という称号を得た)の高祖母が、チャールズの高祖父である英国王エドワード7世の「公式愛人」として遇されていたことを知ると、あれまあ、女性の好みっていうのも遺伝の法則だねという娘の感想。
 カミラとの関係を清算しないままダイアナと結婚したチャールズ、「公式愛人」という世間の認知がない時代だったのがいけなかったか。

 王様女王様と私


 2020年内最後の美術館巡り、それなりに面白かったです。帰りは上野駅エキュートの台湾カフェ騒豆花で「台湾ごはんセット」を食べて帰りました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「近代絵画 in 八王子夢美術館」

2021-02-07 00:00:01 | エッセイ、コラム


20210207
ぽかぽか春庭アート散歩>ア2020アート散歩回顧(16)近代絵画 in 八王子夢美術館

 2020年12月27日、八王子駅からバスに乗り、八王子市夢美術館へ。「近代西洋絵画名品展」を観覧するためです。
 1度来たことがあるのですが、十数年前のことなので、バスを降りた後、右へ行くのか左へ行くのかわからなくなっていました。そんなとき便利なのがスマホの位置情報、自分がどこにいるのか地図に出してくれる。

 で、地図を見ながら歩き、通り過ぎてしまいました。2015年に八王子夢美術館はビュータワー八王子ビルの2階に移っており、見逃したのです。ともあれ、元に戻ってたどりつく。娘といっしょでなく自分一人だと、いつもこんな具合でしたが、この2ヶ月間は娘がいっしょだったので、娘のあとを着いて歩けばよかった。一人だとたちまち迷う。

 展覧会の情報を全く知らずに来ました。八王子市夢美術館の所蔵品展ではなく、笠間日動美術館の所蔵品展でした。

 美術館の口上
 19世紀後半にフランスで印象派が生まれ、近代絵画は大きな変革期を迎えました。印象派という名称、移ろう光と影を追い求めたクロード・モネの作品に由来します。当初は否定的に名付けられたものでしたが、今日、その名は美術史上の輝かしい名称として私たちに受け入れられています。更に20世紀に入るとアンリ・マティスに代表されるフォーヴィスム(野獣派)など、次々に新しい表現が現れ、フランスはヨーロッパ芸術の中心として確固たる地位を築くことになりました。
 1914年に勃発した第一次世界大戦によってヨーロッパ各地は戦禍に見舞われますが、戦後の復興とともに、芸術の都パリには世界中から多くの芸術家が集まり、エコール・ド・パリと呼ばれる時代が訪れました。モーリス・ユトリロ、マルク・シャガール、そして藤田嗣治。この時代には多くの日本人画家もパリに学び、日本の近代絵画にも大きな影響を与えています。
 本展覧会では茨城県笠間の笠間日動美術館西洋絵画コレクションより、近代西洋絵画の魅力を紹介いたします。


 日動画廊は1928年に創業された日本の「画商」の草分け的存在です。創業者長谷川仁(1897- 1976)は、絵を売り買いすることをビジネスとして成功させたほか、新しい画家を見いだすことなど日本のアートシーンに大きな存在でした。
 長谷川仁は、1965年に財を投じて茨城県笠間市に日動美術館を設立します。今回の八王子夢美術館の展覧会は日動美術館所蔵の近代絵画でした。



 展示室


 藤田嗣治
 
 
マルク・シャガール「花束とカップル」1969


笠間市にある日動画廊美術館にも、行ってみたいと思う充実した展示でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「ヨコハマポリフォニー展 in 展横浜美術館」

2021-02-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20210206
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩回顧(15)ヨコハマポリフォニー展 in 展横浜美術館

 12月28日横浜美術館の休館日は木曜日あったので、年末年始休館に入る前、28日月曜日は年内最後に観覧。「ヨコハマポリフォニー」展
2020年11月14日 ~ 2021年02月28日

 1910年代から60年代に横浜に生まれたあるいは住んだゆかりの美術家の作品が所蔵品のなかから選ばれて展示されています。自館コレクション展なので、撮影OK。

 序章「あこがれの西洋美術」 西洋絵画を学びたいと憧れる画家達は横浜から「洋行」していきました。彼らは印象派や野獣派など、新しい西洋絵画を学びたいと望んでいました。

 ギュスターブ・モロー「岩上の女神」1890


 ポール・セザンヌ「ガルダンヌから見たサントヴィクトワール山」1892-95


第1章 横浜美術協会創設前後
 川村信生「早春風景」1929


 椿貞雄「夏蜜柑図」1939


 藤田嗣治「腕を上げた裸婦」1923


 川口軌外「作品」1925


 佐伯祐三「渡船」1926


第3章 関東大震災からの復興 
片岡球子「緑陰」1939


第4章 新版画の興隆
 石渡江逸「横浜萬国橋」1931


第5章横浜懐古 第6章横展写真部創設 第7章ニューヨークでの活躍 第8章前衛芸術のパイオニア は、駆け足で観覧。

 娘はこの2ヶ月の絵を見た中で、「ミレーが一番好きかも」という感想。写実が好きだけど、ただ写し取っているんじゃなくて、深い心が感じられるから。
 私は、画家ではなく作品を1点選べということなら、片岡球子の「緑陰」をあげます。和服の少女ふたりとチマチョゴリの少女ふたりがならんでいます。

 1939年、和服の少女とチマチョゴリを着た少女とが、二人ずつ葡萄棚の下に立っています。4人の表情は固く、中国戦線拡大の不安な世相を表しているのかもしれません。でも、固い表情ではあって、ふたつの民族の少女がいっしょに画面に収まっている構図、私は好きでした。ときには不安もあり仲違いもあっても、緑陰にともに憩う少女たちには未来があります。

 横浜に生まれた画家、住んだ画家、さまざまな横浜ゆかりの画家達の作品を見てあるき、横浜から広がった世界への飛躍の歴史を感じさせる展示、横浜に関わる作品を収集を続けてきた横浜美術館ならではのコレクション展でした。

<つづく>
 
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ぽかぽか春庭「ミレーから印象派への流れ展 in そごう美術館」

2021-02-04 00:00:01 | エッセイ、コラム

ジャン=フランソワ・ミレー《冬、薪集め》1868-75年

20210204
ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩回顧()ミレーから印象派への流れ展 in そごう美術館

 12月28日、横浜のそごう美術館へ。「ミレーから印象派への流れ」展を見るためです。
 現代美術が苦手な娘も、近代美術ことにミレーや印象派が「何が書いてあるかわかるから好き」というので、今回のそごうの企画はどんぴしゃりの好みにあった展示でした。

 美術館の口上
 19世紀のフランスでは、都市の近代化が進み、人々の生活も大きく変化します。市民は自由に郊外や地方に出かけて、旅行を楽しむことができるようになりました。そのような社会の変化が芸術家にも大きな影響を及ぼします。実際に経験する身の周りの自然や生活、現実をありのままに描き出そうとするコローやクールベといった画家たちがあらわれたのです。
パリ郊外のバルビゾン村に移り住み、風景や田園生活を描いたバルビゾン派を代表するジャン=フランソワ・ミレーは、大地に根づいた農民の日々の営みを描き出します。明治時代の初期に日本で紹介されて以来、ミレーの描く真摯に働く人々の姿は私たちに深い感銘を与えました。  歴史画が正統派絵画とされていた時代に風景を主題として描いたバルビゾン派の画家たちの革新的な試みは、モネ、ルノワールなど光や色彩を追求した印象派の画家たちに引き継がれました。
 印象主義のスタイルが広く普及した19世紀末、ポスト印象主義の時代に絵画は多彩な広がりをみせました。ドニやボナールなど印象派以降の画家たちは、20世紀絵画への道筋を切り拓いてゆきます。
 本展では、自然主義や写実主義から印象派やポスト印象派を経て、ナビ派へといたる19世紀のフランス絵画の系譜を、フランスとイギリスの美術館から出品された珠玉のコレクションを中心に辿ります。
 

・第1部 ミレーと写実主義

 クールベ「物思い」1818-77


 ジャン・フランソワ・ミレー「雷雨」1847頃


 カミーユ・コロー「カステル・ガンドルフォ、アルバーノ湖畔で踊るチロルの羊飼い」1855-60


 コンスタン・デュティユー「トレポールの眺め」


第2部 モネと印章主義
 ウージェーヌ・ブータン「オランダの風車」1884


 クロード・モネ「睡蓮」1840-1926


 ポール・セザンヌ「プロアンスの風景」1839-1906


 クロード・モネ「パラッツィオ・ダリオ」


 Pオーギュスト・ルノワール「肖像画の習作


 第3部 印象派以後そしてナビ派

 フェルディナン・ロ淮安・デュ・ピュイゴドー「藁葺き屋根のある風景」1921


 ピエール・ボナール 「福を脱ぐモデル」1912



 
 この2ヶ月間、怒濤の美術館巡りをしている間、「どうして人は絵を見たいのだろう、りんごをテーブルの上に置いて眺めるのではなく、キャンバスに描かれたリンゴの絵を壁に掛けてながめるのか」という、どこにでもころがっているありふれた疑問、それから「写実絵画とはなんなのか」ということでした。

 写真術の発明以来、肖像画を描かせるだけの資産がない階級でも、少し無理すれば写真を写してもらえるようになりました。それ以後、肖像画の存在意義は変わったのですが、産業革命以後大量に描かれるようになった風景画、静物画、人物画、いったい私はなぜこれらの絵をみたいのだろうかなあと思いながら美術館巡りを続けました。

 そごう美術館の展示もとてもよい絵がそろっていて、見て良かったなあと思う。良かったと思うことで脳が活性化したのですから、それだけでいいと思うし、「この絵を見たことで劇的に人生が変わった」なんてことは一生に一度あるかないかだとはわかるのです。
 私は絵を見ることが好きで、一つの絵との出会いを楽しめる。それでいいのかなと思いつつ、なぜ絵を見たいのかと問いつつ、2ヶ月間、週に2館3館と美術館博物館を見て回りました。会期最後の日曜日に出掛けたパナソニック美術館以外は、展示室に私と娘だけ、というところが多かった。社会がたいへんな時期であるという避難も承知の上で、私にはとても貴重な2ヶ月でした。

<つづく>
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