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春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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年末映画日記海の中木洩れ日の中

2010-01-27 13:28:00 | 日記
2011/12/29
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(13)海の中の天国

 夫が「2011年の分の経理をまとめておきたいから、家に置いてある領収証を事務所に持ってきて」というので、26日、郵便局とかジュンク堂とかの領収書を飯田橋の事務所に届けました。
 自営小企業では妻が経理を担当する例が多いそうですが、私は「先天的計算苦手症」で、テストを作っても何回計算してもなかなか100点満点ぴったりにできず、問題を増やしたり減らしたり、計算のほうに時間がかかる。まして会社の経理など私にやらせたらとんでもないことになるのをわかっているから、夫は、経理を担当していた舅がなくなった2002年以後は、自分で計算をしています。何度計算したって赤字の会社なのですけれど。

 届けたついでに、今年最後の映画館と思って、飯田橋ギンレイホールで『海洋天堂』と『木洩れ日の家で』2本立てを見ました。どちも女性監督の作品、とてもよかったです。

 日本では、自閉症児への理解は昔に比べれば進んできました。戸部けいこ(1957- 2010)のまんがを原作にした2004年の『光とともに』も、2006年の草薙剛主演『僕の歩く道』も、とても印象深いドラマで、自閉症について一般の人にもたくさんのことを伝え、理解を深めました。
 親が死んだあと、障害を持つ子供が幸福に生きて行くにはどうしたらよいのか、ということについても、多くの論点が出されています。

 しかし、中国では、まだまだ障害を持つ人への理解は深まっていません。
 「普通に働いても貧しい人が多いのに、社会の役にも立たない障害者に手厚い保護を与えている余裕は、現在の中国にはない」と、言い切った中国人にも会いました。
 『海洋天堂』は、死期を知った父親が、まだ自立できていない自閉症児の息子を抱えてすごした、最後の日々の物語です。

 監督は、自閉症児施設でボランティアを続けてきた薛暁路(シュエ・シャオルー)。薛暁路は、陳凱歌(チェン・カイコー)監督作品『北京ヴァイオリン』の共同脚本家として知られています。『北京ヴァイオリン』の脚本もとてもよく出来ていましたが、この『海洋天堂』も巧みな脚本です。音楽は久石譲。
 主演は華麗なアクションでハリウッドでも活躍してきた李連杰( ジェット・リー)。アクション以外でも演技派として今後やっていける、ということを示せた点で、脚本を読み、「ノーギャラでもいいからこの役を演じたい」と願ったというのもうなずけます。

 水族館職員の王心誠(ワン・シンチョン)は47歳。妻に先立たれ、一人息子大福(ターフー)を男手で育ててきました。養護施設を卒業した大福は21歳。自閉症のため、まだ日常生活も自立できていません。心誠の職場の水族館プールで泳がせて貰うのを無上の喜びとする大福ですが、買い物も服の脱ぎ着もまだ一人では出来ないのです。
 しかし、心誠は一大決心で大福が自立できるよう日常生活の訓練を始めます。末期癌であと数ヶ月の余命と診断されたからです。

 自閉症児は、ひとりひとりが異なる症状を持つと言われていますが、強いこだわりを持つことや、あるきっかけでパニックを起こすこと、周囲の人と円滑なコミュニケーションが望めないことなどの特徴は、大福も同じです。
 さまざまな問題が起こり、心誠が安心できる状態にはなりません。しかし、近所に住み、心誠に心を寄せている雑貨屋の柴(チャン)さんや、養護施設の元校長先生などの理解者もいて、水族館館長も、心誠がいなくても大福が水族館のプールで泳ぐことを認めるようになります。

 大福を演じた若手俳優、文章(ウェン・ジャン)は、youtubeに出ていたインタビューで、自閉症者を演じた苦心について語っていましたが、ジェットリーに劣らずよい演技でした。

 『光とともに』や『僕の歩く道』によって日本でも自閉症児(者)についての理解が以前よりはよくなったのと同じように、中国でもこれから障害を持つ人々への一般の関心がもっとよくなることを願っています。
 障害を持つ人も幸福に暮らせる中国であるなら、13億だか14億の人々みなが幸福に暮らせる中国になるだろうと思います。

<つづく>
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2011年12月30日


ぽかぽか春庭「木洩れ日の家で」
2011/12/30
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(14)木洩れ日の家で

 『木洩れ日の家で』。
 ポーランド語の映画を見るのは久しぶりです。ポーランド語、まったくわかりませんけれど、ヘルバタの一語だけはわかりました。ラストシーンで男の子が紅茶を主人公のアニェラのもとへ運んできて「ヘルバタだよ」と声をかけます。
 ポーランド人留学生に、ポーランド語の日常生活で紅茶は、ヘルバタ(英語流に発音するとハーブティ)であると教わったことがありました。この場合のハーブとは、お茶の葉っぱのこと。公式な場では、ロシア語由来の「チャー」も使われるけれど、日常生活ではヘルバタだ、と言っていたことを映画の画面から確かめることができました。一語でも画面のことばがわかってうれしいです。
 いつも一人でお茶を入れて一人で飲んでいる91歳のアニェラが、「熱いお茶を入れてくれる人が必要」と思っていることが、いっそう身にしみました。以下ネタバレあらすじ。

 91歳のアニェラが、頑固者で昔風の礼節を守る女性であるということが冒頭のクリニックのシーンで示されます。アニェラがおそるおそるドアを開けて「こんにちは」というと、いきなり女医さんは「脱いで、そこに横になって」と命じます。アニェラは憤慨してクリニックを飛び出します。昔気質のアニェラにしてみれば、「女性が人前で服を脱ぐ」ということは重大事なのに、挨拶もせぬうちに「脱げ」とは、とんでもないことなのです。忙しい女医さんの現代風の診察に合わせようなんて気は毛頭ありません。

 アニェラの日常生活は、毎日かわりばえ無く静かに繰り返されます。生まれる前に両親が買ったワルシャワ郊外の木造の家をかたくなに守ることと、古きよき時代を回顧することでアニェラの一日は成り立っています。バレエを習っていた少女時代、夫と踊ったワルツ、かわいらしい素直な少年だった一人息子ヴィトゥシュ。古い家のひとつひとつに思い出が満ちています。

 現実の日常生活は、愛犬のフィラデルフィアと話すのみで、ご近所とも折り合いが悪い。左隣は、週末に訪れる愛人を待つ女の家。アニェラから見たら下品な人々が出入りし、とうてい近所づきあいする気になれない。もう一軒のお隣は、音楽教室を開く若い夫婦。出入りする悪戯小僧たちがアニェラの大切な庭に入り込み、悪さをするのが気が気でない。

 結婚後は家に寄りつこうとしない息子と、その連れ合い。なつこうとしないわがままな孫娘。同居したいというアニェラの願いは通じません。あまつさえ、息子は母親の意志を無視して、古い家を売れるうちに売ってしまおうとします。
 このままでは自分の死後、大切な家がこのままの形で残されることはないと悟ったアニェラは、静かに死のうと準備しますが、突然、死ぬのはやめて、古い家をそのまま保存するための行動を開始します。
 
 アニェラを演じるダヌタ・シャフラルスカは、1915年生まれ、芸歴は80年以上というポーランドきっての大女優。2006年の映画撮影当時、役と同じ91歳。堂々の演技で、老いることの哀しみと強さを描いていました。よくある「愛されるかわいいお年寄り」像を吹っ飛ばす、とても味のあるしわしわのお顔でした。
 2011年では96歳になっていると思うのですが、現役で女優を続けているそうです。

<つづく>
07:58 コメント(5) ページのトップへ
2011年12月31日


jぽかぽか春庭「明日はきっと良い日」
2011/12/31
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(15)明日はきっと良い日

 『木洩れ日の家で』の監督、ドロタ・ケンジェジャフスカは、自身の母親も映画監督だそうです。幼いころから映画の現場ですごし、学生時代に短編映画を撮ることからスタートしました。近所の木造の家に起こったエピソードを聞き、2週間で脚本を書き上げたといいます。

 家の描写で一番感心したのは、部屋全面に使われているガラス窓の古い硝子。
 古い建物を見物にいくと、ガイドさんは窓硝子を指して、「戦前に作られた硝子は今のようなオートマチック工程で作られるのではないため、わずかなゆがみがあり、外の風景などがほんの少しゆがんだり滲んだりするのが、歴史ある建物の味わいになっています。今ではこういう硝子が作られなくなっているので貴重です」と説明します。

 『木洩れ日の家で』のロケに使われた木造お屋敷のガラス窓には、全面にこの「貴重な硝子」が使われていて、この建物はセットなどではなく、本物の古いお屋敷がつかわれたのだろうと見受けました。日本だと、このようなガラスが残されていてロケに使えるような民家は、もはや無くなっているだろうと思います。

 特に、アニェラが家を残すための重大な話し合いを音楽教室の夫妻とかわしているシーンは、ガラス窓の向こうからの、愛犬フィラデルフィアの視点で描かれており、話し合いの中身は観客には聞こえず、置いてけぼりにされたフィラの「クィーン」という鳴き声のみが聞こえる。フィラ役のワンコは、白戸家のお父さん犬カイ君や、南極物語のリーダー犬リキ役ピムと「犬タレント界アカデミー賞」を競う名演技でした。
 
 このガラス窓を通した光景、庭の景色や回想シーンが少しのゆがみを持つことによって、アニェラの心を通過したものであることがよく伝わりました。映画を見る楽しみのひとつは、文による表現とは異なる表現を見つけること。映像でしか見ることのできない表現、映画的手法というのを味わえるのが、映画を見るおもしろさです。この「古いゆがんだガラス窓を通した光景」という撮影の方法は、よくある手なのかもしれないけれど、アニェラの心象風景を映し出すためにとても効果的だと感じました。
 アニェラがブランコをこいで見つめる空や庭の木々の映像も、よくあるブランコからの景色なのだけれど、アニェラの生命感、人生最後の輝きが表現されているように思いました。

 撮影は、アルトゥル・ラインハルト。監督の夫です。現代ではカラーフィルムより撮影が難しいというモノクロームで、静謐な美を画面に定着させています。夫婦でひとつの映画を作り上げるなんて、すてきです。

 わが夫なんぞ、妻とはまったく無関係に生きています。私は領収証を届けるくらいが夫にしてやれることで、夫が私にしてくれることといったら、映画のパスカードを貸してくれるだけ。まあ、おかげでギンレイにかかった映画はカードで見ることができますけど。
 
 私がギンレイで見た中での2011年の「よかった映画」5本を、「女性監督」だけにしぼって、選んでみました。ほかにも『英国王のスピーチ』とか『トゥルーグリッド』とか、面白かった映画はあったけれど、普通のベストテンベストファイブはもっと映画見巧者もやっていることなので、あえて、「女性視点」で選びました。

・ウニー・ルコント『冬の小鳥』
・ドロタ・ケンジェジャフスカ『木洩れ日の家で』
・スサンネ・ビア『未来を生きる君たちへ』
・リサ・チョロデンコ『キッズ・オールライト』
・松井久子『レオニー』
次点 荻上直子『トイレット』

 ドロタ・ケンジェジャフスカの最新作は、あいち国際女性映画祭で2011年9月に公開された『明日はきっとよくなる』。ストリートチルドレンの密入国を描いた作品だといいます。日本とポーランドの共同制作というので、近々一般公開もされるでしょうから、楽しみにしています。

 タイトルだけでも心ひかれます。「明日は、きっとよくなる!!」
 私とウェブ友ちよさんの合い言葉は「明日はきっと良い日」です。
 来年はきっとよい年になると希望を持ってカレンダーをめくりたいと思います。

 みなさま、よいお年を!!

<2011年これにておひらき>
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2012年たつ年初春

2010-01-23 10:38:00 | 日記
2012/01/01
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(1)しあわせ信じて

た:たち上がれ
つ:強くやさしく
ど:どんな時も
し:しあわせ信じて

みな皆さまにとって、2012年がよい年になりますように!!

2012年「春庭日々雑記いろいろあらーなカルスタクラブ」コンテンツ:

「2012十二単日記」=春庭の日常茶飯事典

「ことばのYa!ちまた」=街で拾ったことばたち
「いろは字類抄待夢」=春庭ことば辞典
「言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて」=春庭文学文化雑記&言語文化学雑記
ことばの知恵の輪=ことば雑記

「ニッポニアニッポン語講座」=文法や音声、社会言語学など
「ニッポニアニッポン語教師日誌」=日本語教室だより

「インターナショナル食べ放題」=B級グルメ食べある記
春庭@アート散歩=美術館博物館古建築をたずねて

「今日のいろいろ」=その他もろもろ

 久しぶりに春庭テーマ曲「インターナショナル食べ放題」を歌います。
 辰年に「立て!飢えたる者たちよ!!」
http://www.youtube.com/watch?v=NbOLTFRVsek

♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し
食えよ我が腹へと 暁(あかつき)は来ぬ
忘却の鎖 断つ日 肌は血に燃えて
海を隔てつ我等 腕(かいな)結びゆく
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)

聞け我等が雄たけび 天地轟きて
脂肪越ゆる我が腹 行く手を守る
満腹の壁破りて 固き我が腕(かいな)
今ぞ高く掲げん 我が勝利の旗
いざ起ち食わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの
♪いざ闘わん いざ 奮い立て いざ
あぁ インターナショナル 我等がもの♪(繰り返し)

初音ミク四重唱バージョンで。
http://d.hatena.ne.jp/video/niconico/sm1418316

ついでに、初音ミク歌唱による「國鐵廣島の歌」こういう替え歌が作られる日本に、未来への希望を感じます。パロディとおちょくりは健全なる社会文化の基礎です。
http://www.youtube.com/watch?v=9eOS1szlD7o

<つづく>
08:50 コメント(6) ページのトップへ
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2012年01月03日


ぽかぽか春庭「カフェからの移転先」
2012/01/03
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(2)カフェからの移転先

 一通の通達で、あっけなく「カフェ終了」です。無料のブログサイトですから、いつかはこういうこともあろうかと思っていましたが、なんだか寂しい。
 カフェで知り合った方々、顔をあわせたことなくても、よいおつきあいが続いたと思っています。2003年から、ほぼ毎日のように更新してきて、おなじみさんの日記を読み続けてきました。

 現在私がコメントをかわしている方々は、30人くらいと思います。足跡記録30人分は、一度でもコメントをくださった方のみ残し、あとは削除しています。
 日記へのコメントをいただいたことのない足跡は消すことにしてきましたが、私も、読むだけ読んでも日記や足跡欄にコメントを書き込まず、定型コメントのみの日もあるので、もしかしたら、読んで下さった方の足跡を削除したことがあるかもしれません。失礼しました。

 私、カフェに書いた分、2003年から2007年2月までは自分のホームページに再UPすることにしていました。テーマ事にまとめてUPしたのです。
 http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/index.htm

 でも、2007年2月に中国へ赴任したときデスクトップが壊れて、パソコンを変えて以後、カフェに書いたものはそのままにしてきました。デスクトップに入っていたホームページビルダーをどのように移転させたらいいのかわからなかったからです。
 「カフェ終了」で、過去にカフェに書いたデータが消えてなくなるのでかどうかわからずに、あわてました。とりあえず2007年以降の分はコピー保存しようとは思っていますが。

 他人が読んだらろくでもない内容のつまらない駄文でも、私にとっては、生きてきた足跡のひとつなのです。
 小学生のころからの日記、死ぬ前に自分で燃やす人もいるし、遺書に「日記は全部お棺の中に入れて、いっしょに灰にして」と遺言する人もいて、それはそれぞれの人の身の始末なのですが。私は、何にもこの世に残す遺産とてないけれど、ネットの中に駄文を残すだけなら、場所もとらずお金もかからず、もしかしたら何ぞのキーワードにひっかかって、読まれることがないとは言えないし、残して置いて誰にも迷惑がかかるものでもないので、墓銘碑がわりによかろうと思っていたのです。
 それが全部消えてしまう?
 え?OCNカフェの過去ログはそのままgooかブログ人に保存されるの?わけわからんちんのパソコンオンチ春庭です。

 とにかく、書くことしかできず、パソコンのあれこれについては何年経ってもさっぱりわからない春庭、とりあえず、別サイトへコピーすることにしました。
 一日分ずつコピーペーストを繰り返して写していきます。
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/haruniwa55hal

 これまで放置していたサイトですけれど、まあ、ないよりマシ。あと、アメーバブログも持っているのですけれど、アメーバは使い勝手が良くないという評判なので、こちらの活用はこの先考えましょう。

 何気ない日常が書かれているサイトや、本や映画の話題が好きで、お気に入りの方の日記を読みに行くのが楽しみでした。
 カフェ仲間との交流もあと2ヶ月。gooやブログ人に移行する人、他の媒体を選ぶ人、いろいろでしょうが、カフェのコメント欄に記入するのとはまたひと味違う違うおつきあいになるのでしょうね。
 別サイトがある方のブログは、お気に入りにいれましたけれど、OCNカフェのみの方、移行する場合、どこにするのか、ぜひ日記にお知らせを載せて下さいね。登録しますから。

<つづく>
01:02 コメント(7) ページのトップへ
2012年01月04日


ぽかぽか春庭「記憶の地層」
2012/01/04
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(4)記憶の地層

 私のごひいきの書店、池袋のジュンク堂。なぜごひいきかというと、各フロアに椅子が何脚かあって、「すわり読み」ができるから。10000円まとめて買うと、400円の喫茶店利用券をくれるから。書店販促用の「書標」という小冊子の編集がなかなかいい。無料だからいつも貰う。2011年8月の特集は「武士の日記を読んでみた」でした。

 江戸時代の武士たち、お家の出来事を子孫に伝えるのを義務のひとつと心得ていたから、上級から下級武士まで、せっせと日記を書き残しました。
 元禄時代、尾張名古屋藩の朝日文左衛門の『鸚鵡籠中記』。これは「御畳奉行の日記」としてベストセラーになりました。18世紀末、新潟新発田藩の藩士、溝口半左衛門の「世臣譜」。幕末の御家人、山本政恒の「武士を失業して小間物屋になる」日記。おなじく幕末の加賀藩下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家に残された、約37年間の入払帳や書簡をもとにした磯田道史の『武士の家計簿 加賀藩御算用者』は、映画の原作にもなりました。

 また、大商人の大福帳とか、名主階層の年貢の記録、江戸時代の紀行文も、貴重な記録です。しかし、一般の社会にごく普通に生きた市井の、大工とか畳屋、飾り職人、ぼてふりの魚屋、芝居小屋下足番、人口の8割以上を占めていた農民、山岳民、漁民など、ごく普通の人々の日々の記録というのは、なかなか読めないのです。いつかどこからか発掘されて、翻刻されるといいのですが。

 冬休みの読書の一冊、たいへん興味深く読んだ『記憶の地層を掘る』(2010お茶の水書房)。東京外国語大学外国事情研究所が主催したシンポジウム、「ハリウッド映画ではないベトナム戦争」と、「日本占領下のインドネシア」をもとにして、海外からの論客や新進気鋭の歴史学者などによる論文が編集されています。
 この本の基本的な編集方針は、権力者側の公式発表でも新聞テレビなどジャーナリズム報道でもなく、一般の人が記憶していることを語ってもらい、その重層のなかから歴史を発掘しようとしていることです。

 この手法によって発掘された歴史のひとこま。たとえば、グアム島の住民達による、2年間の日本占領時代の記憶。日本からやってきた開墾隊によって、多くの島民が処刑されたという事実。この事実が、島民によってどのように記憶されどのように語りつがれてきたのかをインタビューによって記録し、日本側の兵士(開墾隊)の記憶やグアム史の公的な記録、アメリカの記録などと重ね合わされ、歴史の深層が掘り起こされています。
 「日本の元兵士の記憶からは、開墾隊がグアム島民に行った虐殺はきれいに抜け落ちている。自分たちの補給線が途絶えて、飢えつつアメリカ軍の砲弾の下を逃げたことは記憶しているのに、島民虐殺について、ほとんど語られることはなかった」という若い論者の言に、さもありなんと思いつつ読みました。

 たとえば、3・11についての記録。現地へボランティアに行って来た方や、実家が被災した方などの記録を、カフェ日記で読ませていただきました。直接の記録、ほんとうに貴重だと思います。そういう直接の記録のほか、テレビや新聞の報道を見てどう感じたのか、その日その日の記録が、将来の歴史研究者が「3・11を一般の人はどう受け止めたのか」と「記憶の地層」を発掘するとき、役に立つでしょう。

 Googleが、「未来へのキオク」として、東日本震災の前と後の、映像記録を収集しています。Yahoo JAPAN! が主催する、「東日本大震災 写真保存プロジェクト」との連携も行い、多くの人が撮影したデータを、パソコンを通して共有できる。
 写真も、文字記録も「人類共有財産」として、残していけるとしたら、21世紀以後の「未来の歴史への記憶」は、世界中みなの財産となると思います。

 山本作兵衛(1892-1984)が記録した炭鉱の絵と文の記録は、2011年5月にユネスコの世界記憶遺産に登録されました。各地の炭鉱が閉山した今、貴重な記録と思います。山本作兵衛の絵をユネスコに推薦したのは、地元の田川市。
 世界的に貴重な記録とまではいかなくても、今、書き継がれているブログのひとりひとりの記録も、残して置いていいんじゃないかと思います。

 炭鉱の炭住に暮らすカーチャンたちが、取材に訪れた森崎和江(1927~)をもてなそうと出してくれた「ごちそう」は、豆腐一丁であったことを、森崎のエッセイで読んだことを思い出す。そういう鮮烈な記録と共に、アフリカの高原の小さな村の雑貨屋で、今日採れた芋をどのように料理して食べたか、そんなつぶやきも大切だと思います。小さな雑貨屋を営んでいたママ・アンボイはもうこの世にいないけれど、私が記録したケニア日記の中に生きているのです。

 多くの人が発信できるようになった今、代議員制民主主義というのも変化していく時期だと思います。だれでも自分の意志を直接表現できる今、「現代社会においては、直接民主制は機能しない」という論も踏まえた上で、もっと自分たちの意見を直接反映していける仕組みを考えてもよい時です。

<つづく>
07:57 コメント(1) ページのトップへ
2012年01月05日


ぽかぽか春庭「日記to be or not to be」
2012/01/05
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(3)日記to be or not to be

 2011年、年末の新聞に70歳の女性の投書が載っていました。小学校から書き続けてきた日記のうち、最初の一冊と最後の一冊を残して捨てた、と。
 「結婚もせず子も持たなかった人生、自分も読み返すこともしないのに、残したとて他の人が読むはずもない」からと、捨てる決意をしたのだとか。そうやって思い切って近年のはやり「断捨離」を実行出来る決断力のある方なら、これからの人生も有意義にすごしていかれることでしょう。

 でも、ほんとうにもったいない。私は「無名の人の日記収集センター」があれば、そこに様々な人の日記を集めてほしいと思っています。歴史をひもとこうとしたとき、たとえば、戦前の社会について調べようとするとき、新聞記事に載るほどの政治や経済の動きは資料を読めばわかりますが、その記事について、庶民はどのように感じ、どんなことを話していたのか、などのことは、なかなか適切な資料がありません。評論家や作家などではなく、ごく普通の生活をしている庶民の感想や、電車の中で何を喋っていたか、などの口語資料はめったに残りません。

 例をあげるなら、「阿部貞事件」が起きたとき、世間の反応はどうだったのか、裁判記録や新聞報道だけでは、実際のところがわかりません。たまたま向田邦子のエッセイで「大人達は眉をひそめつつ語りながらも、うれしそうに新聞記事を読んでいた」と書いてあり、「戦争へと向かう暗い昭和の世に、ひとすじの”人間らしさ”を感じとろうとする如く、世の人々は貞を話題にしていた」という向田邦子の書きぶりに、納得したのでした。

 日記を捨てたという投書の女性は、「結婚もしなかった70年の棒のような人生」と書いています。でも、70歳といえば、1940年か1941年くらいのお生まれの方と思います。10歳から60年間書き続けたというその意志の強さだけでも、学ぶべきところがあるのではないかと思います。ましてや、庶民の戦後史そのままを歩んでこられた方の、10歳からの記録、ほんとうに貴重なものと思うのに、捨ててほしくなかったと思います。

 「棒のような人生」は、貴重な生命の木の骨太の枝のひとつです。
 そのときそのときの呟きが、戦後社会を知りたい人にとっては貴重な記録なのに。給食が美味しかったとかまずかったとか、友達と喧嘩したときの気持ちとか、一人暮らしの愚痴とか、そういうことのひとつひとつの感情が、歴史を形成するのではないかと思うのです。

 近代社会についてのひとつの見方として、「感情共同体」という用語も使われ、そのとき、皆はどのように感じていたのか、ということを知るのも、重要な歴史把握の方法だということが、声高に言われるようになってきました。日記に記されたひとつひとつの「今日の気持ち」は、後世に残すべき記録なのです。

 もし、カフェに書かれた日記を保存する方法があるなら、どうぞ、皆様、それぞれの方法で保存しておいて下さい。私も、なんとか残していこうと思っています。くだらないことばかり書いてきたとか、文章が下手だとか、そんなことはまったく気にしません。毎日毎日書き続けた、それだけでいいのだと思っています。
To be or not to be, that is the question.
When you worry about whether you leave your diary, you have to keep it.
I hope you hold it . It has value.

 パソコンでブログ日記を読み出した頃、ごく普通の漁師さん、建築請負業、電気工事の方など、それぞれの仕事を、「当たり前の日常」として記録しているのを、新鮮な気持ちで読みました。家のなかにコンセントや電灯線を敷設する仕事、どのように工事をすすめるのか、なんて、今まで知らなかったことをたくさん知ることができました。
 テレビドラマや映画の「お仕事もの」で、畳屋さんが舞台になったり、銭湯経営の一家が描かれても、それはやはり脚本家、小説家の目を通して描かれたもの。実際に仕事をしている人の記録は、私にとって、とても興味深いものでした。

 日常の細々とした感想、読んだ本見た映画の記録、山の写真、建物の写真、脳内家族の絵日記。いろんな方のいろんな記録、いろんな方のカフェ日記を読ませていただきました。
 みなさま、どうぞ、これからも書き続けて下さい。
 私も続けます。

<つづく>
08:45 コメント(2) ページのトップへ
2012年01月06日


ぽかぽか春庭「姑のこぶto be or not to be」
2012/01/06
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(5)姑のこぶto be or not to be

 姑宅への御年始。4日に姑の希望で「家族そろってすき焼きパーティ」となりました。
 姑は、年末に義姉を亡くして、気落ちしていたところです。

 姑の兄は、何年も前に亡くなっていますが、その連れ合いの文子さんは、姑の女学校時代の同級生です。同級生が姑の義姉になって、私の夫にとっては義伯母。87歳の一期まで、とても頭脳明晰な人で、「以前もらった葉書も、80代とは思えない達筆でしっかりした文章だった」と、夫も言っていました。
 しかし、心臓を患い、最後は寝たきりになってしまった。
 姑の実姉は90歳を超えて元気でいるのですが、やはり同年齢の身近な人が、なくなると、こたえるものでしょう。

 2011年の姑、夏以後は、「手術を受けるか受けないか」という重大問題に心わずらわせてきました。手術というは、病気のためではなく、「ひたいの上のこぶ」を取るといういわば美容整形手術的なものです。外に出るときはたいてい帽子をかぶって隠すようにしているし、髪の毛で覆っているので、見た目にそんなに気になるとは思っていませんでした。しかし、姑にとっては、子どもの時からコンプレックスの原因になっていたこぶだったのです。年をとって、髪が薄くなったので、ますますこぶを厭う気持ちが強くなったようです。

 私は、姑が見た目を気にする人ではないと思っていたので、姑の気持ちをついぞ思いやることができないで30年もすごしてしまいました。
 姑の兄も姉も、戦前の師範学校を出て教師になりました。姑が女学校を出たあと、師範学校へすすまなかったのは、戦中戦後の混乱期にあたっていたせいだと思っていました。しかし、姑が師範学校へ進まなかったのは、その理由だけではありませんでした。「このこぶを人前にさらしたくない。子ども達の前に立つ教師にはなれないのだから、師範学校へ行くことはできない」と、姑は悩んだのだそうです。

 戦後、教師が不足した時代に、「女学校出なのだから、代用教員になってほしい」という依頼を、教師をしている兄や姉を通して何度も受けのだそうです。でも、それを全部断ったのは、「このこぶのまま、人前に出るのはいやだ」という気持ちがあったからなのだということを、姑は去年はじめて、孫娘に語りました。私は娘からこの話を聞いて、「え?そんなにおばあちゃんが気にしていたとは知らなかった」と言いました。

 額の上のこぶをとるには、頭蓋骨にも処置が必要になるため、若い頃は手術方法がなく、手術が可能になった頃には、「頭蓋骨を開く大手術になるので、年寄りはこの手術には耐えられないだろう」と言われて、諦めていたのです。

 それが、去年「昔よりは頭蓋骨を開く手術が技術的に向上したので、ずっと短時間で手術できるようになった。ただし、年齢が年齢なので、手術に耐えられるかどうか、もう一度検査をしてみましょう」と医者に言われ、姑は、手術する気になりました。しかし、検査をしてみると、やはり医者が思った以上に頭蓋骨への手術時間がかかることがわかり、取り去った頭蓋骨の変わりとして、人工頭蓋骨を取り付けなければならないという医者の説明でした。

 姑の「手術を受けたい」という気持ちより、医者たちの「この年齢で手術に耐えられなかったら、自分たちの落ち度になる」という失敗を怖がる気持ちのほうが強く、手術はとりやめになりました。

<つづく>
06:04 コメント(1) ページのトップへ
2012年01月07日


ぽかぽか春庭「ただの人の人生」
2012/01/07
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(6)ただの人の人生

 夫は最初から、「見た目の問題なのだから、今さら何時間もかかる手術をして見た目をよくすることもない」という「手術反対」派でした。
 私と娘は、おばあちゃんの「自分の見た目がコンプレックスとなり、代用教員になって人前に立つこともできなかった」という気持ちに驚き、「おばあちゃんが望むなら、手術を受けてみてもいいのではないか」という賛成派。

 姑が娘に語った「一度でいいから、ほかの人のように、見た目を気にしないで生きてみたかった。」ということばに胸を突かれました。生まれてから87歳まで、物心ついて自分の見た目が他の人と違うということを意識するようになってからでも80年もの間、姑がそんな気持ちを持って生きてきたこと、私は少しもそれをわかってあげたことがなかったのです。
 私は障害者ボランティアなども通して、身体などに障害があるとしても、ごく普通に生活していくべきだという考えでしたが、一番身近な姑が身体に劣等感を感じて生きているということにすら気づいてあげたことがなかったのです。
 「一生の最後だけでも、フツーの人になって生きてみたかった」という願いを、姑が87歳になってかなえようとしたこと、ほんとうに胸がいっぱいになりました。

 もちろん、他人からみたら、女学校を出て数年で銀行員と結婚し、東京に所帯を持って娘息子を育て上げ、孫に恵まれて生きてきた87年間は、幸福な人生と見えます。実の娘が50歳で癌で先立ったことなど、不幸もありましたが、舅と協力して東京に建てた一軒家を、2007年に後家のふんばりで全改築したエネルギーのある、趣味豊かな姑で、私は「幸福なおばあちゃん」と信じてつきあってきました。

 夫は単純に「87にもなって、見た目がよくなってそれがドーシタ」と言います。でも、私は、姑の「一生に一度でいいから、見た目がフツーの人として暮らしたかった」という気持ちも、とても胸に響くのです。こぶがあってもなくても、私たち家族にとっては、大事なおばあちゃんであり、大切な母親ですが、姑のせつない希望も叶えてあげたかった。
 おない年の義姉の死去で、姑の気持ちが「失敗するかも知れない手術を受けるより、今のままでいいから、少しでも長生きしたい」という気持ちに変わるかとも思いましたが、娘との会話では、まだ手術をあきらめきったわけではないようです。さて、来年の米寿まで、この問題は持ち越しそうです。

 姑にとって、息子と孫息子、私にとって夫と息子は、ともに年男、辰年生まれです。還暦を迎える夫。24歳になる息子。
 息子は、2012年は、修士課程2年生になります。そろそろ、修士論文のことも気に掛けなければなりません。指導教官が文学部長であるため忙しくて、なかなか論文指導の時間がとれないとかで、本人はのんびり構えています。しかし、私は、子育て&日本語教師をしながらの修士論文執筆で、修士2年目には見事に失敗し、修士課程修了まで4年間費やすという経験をしたので、「母の失敗を繰り返すな」と、気が気ではありません。

 還暦夫は、「いっしょにタイ語を学んでいる仲間と、バンコクで行われるマラソン大会に出る」という、「似合わない夢」を持つようになりました。「スタンダードシャーターバンコクマラソン」という、国際大会に一般参加するためのさまざまなツアーが出ているのだそうです。2011年の開催はバンコク洪水のために、2012年2月12日に延期になりました。夫が参加をもくろんでいるのは、来年だか再来年だかの「還暦記念マラソン」。このごろ、飯田橋の事務所から九段下経由で歩いて、皇居の周囲を走っているというのですが、さて、どうなることやら。

 ほんとうに出場することになったら、応援ツアーに出かけたいと思いますが、夫は「来るな」と言うでしょう。今年は、1982年に結婚してから30年目です。「夫唱婦不随」「婦唱夫不随」が30年も続いたのですから、今さらバンコクまで随行しなくてもよいということでしょうが、なに、私は私で一人旅。ひとりバンコク観光でもしていますって。
 私が観光してひとりで歩いている脇を夫が走っていたら、拍手して応援するくらいのことはしてやりましょう。私は夫から何も応援してもらったことないけれど。

 姑の家に着くまでの地下鉄の中では、関川夏央『「だだの人」の人生』文春文庫を読んですごしました。姑のことを、ごく普通の「ただの人」と思って30年つきあってきて、姑の心も想像できない、至らないヨメだったなあと思います。

<つづく>
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2012年01月08日


ぽかぽか春庭「スキヤキ」
2012/01/08
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(7)スキヤキ

 元日午後1時半。いきなりの震度3。東京、かなり揺れてびっくりしました。
 2011年大震災のあと、揺れた心を落ち着かせ、みんなを元気づける歌のNo.1になったのが、「上を向いて歩こう」でした。

 坂本九の歌、アメリカでヒットしたときのタイトルは「スキヤキ」。ベルギーやオランダでは「忘れ得ぬ芸者ベイビー」というタイトルになったそうで、わけわからないけれど、ゲーシャ、フジヤマなどと共に、スキヤキやスシが日本を想起させる名詞であることはわかります。

 私は、映画『上を向いて歩こう』が1962年に公開されたときは、映画館で見ていません。(親が映画館で見るのを許したのは、ディズニーのアニメ映画程度)。テレビでも見たことがなく、2011年12月31日大晦日にテレビ放映されたときにようやく見ました。(2011年にDVD化)
 ちょうど50年前の映画、坂本九、高橋英樹、吉永小百合、みな若くて生き生きしていました。

 50年前の日本、スキヤキは庶民にとってごちそうでした。
 姑宅での「家族deスキヤキ」。1925年生まれの姑にとって、スキヤキは今でも「ごちそう」です。「餅もスキヤキも、今では日常の献立になってしまって、松坂牛A4級、100g3000円とかいうくらいの、よほど上等の牛肉でないと、誰も正月のごちそうとは思わない」なんてことは思いません。とにもかくにも、家族そろってスキヤキの食卓が囲めればそれでいいのです。

 御年始の日をいつにするかは、夫と娘でちょっと揉めました。「4日からはどの会社も新年始業だから、4日には時間がない。食べたらすぐに事務所に戻らなければならないから、3日にしよう」と夫が言うのに、娘は「箱根駅伝、2日は往路、東洋の柏原竜二の山登り新記録がかかっているし、3日は明治の鎧坂が出場するかどうかを見届けなければならない。3日にスキヤキするとしても、その前に買い出しにつきあってくれってお祖母ちゃんが言っているのだから、箱根ゴールしてからお祖母ちゃんの家に行って、それから買い物に出かけるのでは、遅くなるでしょ。だから4日じゃなければ、いやだ。父は、4日に仕事があるなら、いっしょに食べなくてもいい」と、夫に冷たく宣言。

 そこで、夫は、3日に駅伝が終わってから姑宅へ行き、4日には買い物をしなくてもよいように買い出しにつきあうことにしました。買い物を手伝ってからすぐ事務所に戻り、仕事。4日は、1時から3時まで昼ご飯にすき焼きを食べて、すぐ事務所に戻って仕事。家族団らんなんてものより、赤字会社の経営が大事な夫です。

 私と娘息子は、4日のおひる頃に着いて、夫が来る前にすき焼きを作り始め、夫が来たらすぐに食べられるようにしておきました。夫が3日に姑といっしょに買った牛肉は、特に高級品でもなく、夫は「正月は市場が開いていないからか、たいした商品は置いてない。高級肉は売り切れだった」と言うのですが、ま、いいか。赤字会社一家には、正月といえども高級肉を食べるなんてぜいたくなことですから。

 スキヤキ食べながら、娘と夫とわいわいと箱根駅伝論評。「Nさんから年始の電話が留守録に入っていたんだけど、あれは絶対に年賀を述べるっていうより、東洋の自慢したかったんだな」と、くやしそうなのも、夫の母校は三強と言われながらも復活優勝できなかったから。私も連覇ならずですが、娘は、母校宿願の3位で大喜び、松坂高級肉でなくとも、「今年はさい先いいから、お肉もこれで十分おいしい」と、娘はごきげん。おめでたい一家である。

<つづく>
00:19 コメント(4) ページのトップへ
2012年01月10日


ぽかぽか春庭「上を向いて歩こう」
2012/01/10
ぽかぽか春庭十二単日記>たつ年(8)上を向いて歩こう

 姑宅での「家族deスキヤキ」。デザートは、娘が作ったチーズケーキ。血糖値を気にする姑のために、パルスイートという甘味料を使って作ったので、「おばあちゃん、これなら食べられるから」と、娘がすすめています。私からの御年賀は、いつもの金一封。芸のないヨメです。

 夫が事務所へ戻ったあとも、姑が次々とテーブルに並べる煮物や数の子などつまみながら、昔話を聞いたり、老人仲間の話を聞いたりしました。
 姑は、公園での早朝ラジオ体操、詩吟の稽古、書道や童謡を歌う会など、老人仲間と今年も「毎日忙しい」と言いながら過ごしていくことでしょう。しかし、やはり姑の話題も「寄る年波」に関わることが多くなってきました。

 「もう、親戚にお歳暮を贈るのはやめにしたいのに、どのような口実でやめたらいいのかわからない。どう言えば角を立てずにお歳暮を打ち切りにできるかしら」という相談もありました。「今年の暮れにお歳暮を送るとき、手紙を添えたらどうでしょうか」と、ヨメは提案してみました。

 私が考えた文面は、「今年もお世話になりました。例年通りの粗品ではございますが、お使い下さいませ。さて、私も2013年には米寿となりますので、いろいろ身仕舞いをしております。年末のご挨拶は本年にて打ち上げとさせていただきたく存じますが、今後とも老体をお見守りくださいますよう、お願い申し上げます」というものだったのだけれど、あれっ?「身仕舞い」っていうのは、こういう場合に使える言葉だったかしらと、確信がもてなくなりました。

 結局、「あとでいい文を考えておきますね」で、お茶を濁してしまいました。まったく、何を相談されても、たいして役にたたない嫁です。
 私たちから見ると87歳は、いろいろなことを打ち切りにする口実に足る老齢だと思うのですが、舅の長姉は100歳を超えているという長寿一族なので、姑も自分はまだ若い方と思っています。

 去年、嫁が相談されたことのなかで、やはり嫁には何の手助けもできなかったことがあります。ひとつは、ゴミ出し問題について。毎日の食事作りは手を抜くことが多くなったけれど、家の掃除は絶対に手を抜かない姑にとって、ゴミ出しは重要問題です。部屋をきれいに掃き、庭の落ち葉などを集めても、それを捨てに行くには、指定のゴミバケツに入れて、指定のゴミ集積所まで運ばなければなりません。
 「ゴミ出しがたいへんになってきた」と姑が愚痴を言ったとき、「じゃ、ゴミの日には、ヨメが来てゴミ出しをいたしましょう」なんて殊勝なことは言えずに、「どうしたらいいでしょうねぇ」なんて、相づちうっただけで終わってしまった。

 姑は、町会長さんに手紙を出して、「年寄りなので、遠くの収集場所までゴミバケツを運ぶのがたいへんです。隣のタイラさんとうちの二軒で出せる専用のゴミ収集所をうちの前に設定してください」と手紙を出したら、要望が通ったのだそうです。
 家の前の収集所は長年仲良くしているお隣さんと二軒だけの使用ということにしてもらったので、ゴミバケツを片付けたり後始末の掃除もそれほど負担ではないと言います。姑はちゃんと自分の力で問題を解決したのでした。エライ!

 ひとり暮らしを続けて10年になる姑、ひとりぼっちの夜も、にじんだ星を数えて、ちゃんと上を見上げて歩いています。
 私は私で日々の食い扶持稼ぎに忙しく、世の嫁さんのように小まめに姑孝行をしてやれていないのですが、夫が「悪妻は百年の不作」と言っても、姑は「よいお嫁さん」と立ててくれます。
 菊池寛の言葉だそうですが、「悪妻は百年の不作であるというが、悪夫は百年の飢饉である」というのがあるのですって。

 結婚以来、飢饉続きで、喰うや食わずの生活でしたが、まあ、正月くらい、家族そろってスキヤキ食べるのも、年の初めのためしとて。
 わが家、今年も飢饉が続くでしょうけど、正月のすき焼きで気を取り直し、なんとか上を向いて歩こう!

 映画『上を向いて歩こう』より、4番「冬の日」篇(映画オリジナルバージョン)。

♪上を向いて歩こう にじんだ星を数えて
思い出す 冬の日 ひとりぼっちの夜
幸せは 星の上に 幸せは 月の上に
♪上を向いて歩こう涙がこぼれないように
手をつなぎ 歌おう 若い僕らの歌

<おわり>
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テレビ三昧2012年1月

2010-01-15 10:53:00 | 日記
2012/01/11
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(1)大河ドラマを見る

 2011年の春庭、震災後無気力症により、4月はぼけ~とすごし、5月からはやたらにあちこち歩きまわる、という日々を過ごしました。授業はこなすものの、「言語文化論」「社会文化論という春庭の研究分野に論文を残すようなことは何もせず、ただただ、ことばを楽しみ、文化を享受する毎日。
 まあ、いいか、こんな年もあっていい、と自分に言い訳しながら、♪遊びをせんとや生まれけむ、遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ♪、という平安末期に後白河上皇が採録した「今様」の通りに遊び暮らしました。

 梁塵秘抄口伝集には、今様の歌い方が書かれていますが、五線譜のようにメロディが記されていたわけではないので、歌い手がいなくなるとともに、どのような曲調で歌われたのかは、もはや復元の方法はありません。雅楽のように宮中儀礼になったものは、演奏者が残って伝えたのですが。今様は、あくまで後白河天皇の個人的趣味であり、宮中には伝わりませんでしたので。

 歌い方の途絶えてしまった古曲を、さまざまな伝承から復元してきた桃山晴衣(1939-2008)が、梁塵秘抄にも曲をつけてを発表していますが、作曲者によっていろいろな歌い方が考えられるでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=vzyIwdZBOnQ&feature=related

 NHK大河ドラマで、平清盛の実母が子守歌がわりに我が子に歌っていたメロディは、音楽担当の吉松隆が作曲したものと思います。テレビの画面では吹石一恵が歌っていましたが、曲が仕上がるまでの作曲の過程では、初音ミクに歌わせていたのだそうです。
 このあとは、松田聖子扮する祇園女御と乙前が歌うらしい。歌うのはかまわないけれど、白河上皇の愛妾だった祇園女御と後白河天皇の歌の師匠である乙前が同一人物だという設定には、いくらフィクションでも納得できないところ。

 祇園女御は、「宮中の正式な身分である女御」ではなく、単に「上皇の寵愛があついので、女御という名で呼ばれている」ということにすぎず、親が誰かもわかっていない女性だし、乙前は、地方から上京してきた芸人。両方とも素性はわかっていないのですから、作家が想像力によって同一人物としてテレビに出しても、「史実に反する」と歴史家が言うことはできません。けど、単に松田聖子の出番を増やすための人物設定の気がします。

 脚本の藤本有紀には、時代考証家がついてアドバイスをしているので、ちゃんとつじつまが合うようにはすると思いますし、もともと大河ドラマというのは歴史ファンタジーなんだから、そう思って見ればいいのですが。でも、ドラマ第一回目を見た感想として書かれているあちこちのブログなどを読んでみると、「清盛が白河上皇のご落胤とは知らなかった」などと、ドラマストーリーを歴史そのままと受け取っている人も多い。

 時代考証を担当している本郷和人(東京大学史料編纂所准教授)は、「私は清盛落胤説には反対」とどこかで語っていたのを読んだけど。豊臣秀吉が自分でばらまいたご落胤説はさすがに「そな、アホな」と、同時代の人も考えたけれど、900年前のこととなると、もはや人の噂話も歴史のうちなので、脚本家がそれをどのように物語にしようと「作者の勝手でしょ」ということになる。

 NHKキャラクターデザインのスタッフは、「時代考証の先生にお話をうかがったところ、平安貴族の烏帽子は、寝るときもかぶっていたそうです」と書いていた。しかし、これとてもわからないことです。絵巻物などに残る貴族は寝所の寝床シーンでも烏帽子をつけて描かれている。しかし、当時、貴顕を絵に描くには、正装である烏帽子を着けた姿にすることが礼儀として求められていたので、烏帽子を着けて寝ていたように描いた、ということです。実際にあんな堅苦しい烏帽子を着けて寝たのかどうか、本当のところはわかりません。

 問題は、時代考証の先生だって、ほんとうにはわからないことを、絵巻物の絵からだけ推察して「寝るときもかぶっていた」と判断していることです。その道の権威とされている人の語ることがすべて正しいとは限らない、ということ。
 私の想像では、寝るときはナイトキャップのような「髪を乱さないための頭巾」をかぶっていたのを、絵に描くときは烏帽子にした、と思うのですが、これも単なる想像。要は、歴史とは、後世の人が紡ぐ物語である、ということです。

 初回の視聴率は17%台で、大河ドラマの中では低い方、兵庫県知事は「観光を盛り上げるためには、画面が汚い」という意見だそうですが、私は、画面の作り方としては、平安時代の武士や街の中の雰囲気がよく伝えられていると思いました。

<つづく>
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2012年01月13日


ぽかぽか春庭「歴史をファンタジーとして楽しむ」
2012/01/13
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(2)歴史をファンタジーとして楽しむ

 1972年のNHK大河ドラマで「平清盛」は、吉川英治『新平家物語』が原作。私は見ませんでした。このころ東京のアパートで姉といっしょに暮らしていたので、チャンネル権は姉にあったのでしょう。
 このときは、すべてスタジオ収録で「舞台劇のように」制作されたのだそうです。今回は、原作無しのオリジナル脚本で、海上ロケや野原を馬が駆けるシーンなど、ロケ多用の画面になるそう。

 ドラマのストーリーのすべてが歴史的事実ではないと承知の上なら、ドラマはドラマと楽しんでよかろうかと思います。歴史とドラマは別物、と思いつつ、今回のストーリーでの注目しているのは、この30年間の平安後期史や中世武家政権史研究の進展がどのくらいドラマに反映するのだろうか、という点。近年の院政研究、中世武家政権研究などに従来とは異なる、新たな視点から清盛が描かれてきました。

 たとえば、嵐山光三郎の小説『西行と清盛』や、中世史研究者五味文彦の『西行と清盛』などが反映したストーリーになるのではないかと想像しています。西行役に藤木直人が起用されていることから考えると、西行(23歳で出家する前は、北面の武士佐藤則清)がかなりストーリーに絡んでくるだろうと思うからです。

 今年も、わが家は大河ドラマを見ます。戦国史中世武士政権論専攻の息子、武士の発生から幕末まで、武士政権について幅広く勉強しているので、歴史研究最前線の話を聞きながらドラマを見るのが楽しみです。
 去年の「江」は、ずいぶんと「歴史離れ」の超ストーリーがあったけれど、「これは、歴史ファンタジー」と割り切って見れば、それなりに面白い。江が家康といっしょに伊賀越えしたときなんぞも「ドひゃー、いっしょに行っちゃったよ」といいながら見ていました。
 『平清盛』も、平安末乱世の歴史ファンタジーとして楽しもうと思います。
 
 娘は「みんなでストーリーや役者についてワイワイしゃべりながら見るのが好き」というタイプなので、ワイワイしながら見ています。でも、歴史モノで、歴史的に知られていることだからといって、ストーリーに関わりそうなことを先走って話すのは御法度。「先の楽しみがなくなるじゃないの」と、娘に叱られます。

 『江』のときは、主人公の江が二度目の夫秀勝との間にもうけた「完子(さだこ)」が九条家に嫁ぎ、生まれた子孫は九条節子(くじょうさだこ)(貞明皇后・昭和天皇の母)まで続いている、ということを話したら、不評でした。私としては、徳川に嫁いだあとのことは、ストーリーに絡むだろうから、江の末娘和子が後水尾天皇の后になることはしゃべっちゃならないけれど、完子のことまでドラマでは扱わないだろうと思ってしゃべったのですが、「おサダの将来はどうなるんだろう、と心配しながら見たかったのに」と、おこられた。
 「清盛」でも、ストーリー展開がわかるようなことはしゃべってはいけない、と釘を刺されています。

 娘は、日本史に関して、「中学2年生の社会科で、縄文時代から奈良の大仏が出来上がるところまでは学校で勉強したけれど、そのあとは不登校になったので、ぜんぜん知らない。あとのことでわかるのは、高校の『現代社会』でやったことだけ。私の日本史は、大仏さんができたら、ぽんとタイムスリップして、次は明治維新」と言っています。
 
 ドラマの一番よい楽しみ方は。
 歴史モノも最初からストーリーを楽しみ、「那須与一が、扇の的、ほんとうに射落とせるかしらとか、ドキドキしながら見る」というのが、幸福な見方なのかもしれません。まあ、たいていは射落とせるだろうと思いますし、壇ノ浦で平家が滅亡しないことはない、と思いますけど。

<つづく>
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2012年01月14日


ぽかぽか春庭「イケメンを追っかける」
2012/01/14
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(3)イケメンを追っかける

 『源義経』のタッキーやら、今年の『平清盛』源頼朝役の岡田将生やら、アイドルイケメンの成長を楽しむのも、ドラマの見方のひとつ。見ているだけで「私が育てた」感を楽しめます。岡田将生、私が初めて見たのは、『天然コケッコー』の転校生役かな。これからどんなふうに伸びていくのか、楽しみです。

 祇園女御役では浮いていた松田聖子、アイドルとして初めてテレビで見たときは、とてもかわいかった。でも、これほど長く芸能界でやっていける才能とは思いませんでした。「ぶりっこ」で通る年齢を過ぎたら、しぼんでいくだろうかと思っていたのです。私の芸能界予想はいつもはずれます。

 「先見の明」がある人、映画でもドラマでも小説でも、見巧者はブレーク前に才能を見つけていて、ブレークしたあとには自分がその才能を見いだしてやったような喜びを感じるのだそうですが、私ときたら、まったくそういう「ブレーク前」のぴかぴかの才能を見つける能がありません。

 2005年2006年に、AKB48について秋元康が語るのを聞いたときも、「あらら、モー娘。二番煎じにしか見えないなあ。これは売れない。さすがの秋元康も今度は早期撤退か」と思っているうち、あれよあれよとブレーク。2011年末には、レコード大賞まで取るなんて、5年前にはまったく予想もできませんでした。

 これから大きくなるタレントを見いだす能はない春庭、藤本隆宏も、『坂の上の雲』の広瀬中佐役でブレークしてから「あら、この人、水泳キャリア、すごいね」と、気づきました。バルセロナ五輪競泳個人メドレー400m8位入賞。日本記録保持者です。
 コアファンは、2000年の帝劇『エリザベート』初演時の革命家シュテファン役から注目し、追っかけているのに、私、めったに舞台は見ないから(美術館と違って、劇場の招待券はほとんど手に入らないので)、藤本隆宏、『坂の上の雲』に出るまで知りませんでした。
 1月8日の放送では、『平清盛』に、まだ藤本は登場していませんでした。藤本隆宏は、清盛の侍大将伊藤忠清を演じます。

 藤本隆宏が役者を志したのは、25歳。遅いスタートでした。
 それ以前、6歳から25歳までは、水泳一筋でした。高校、早稲田大学在学中は一日に20km以上も泳ぐ、プール漬けの毎日。1988年ソウルオリンピック、競泳個人メドレーに出場。1992年バルセロナオリンピックでは、200m個人メドレー 8位入賞。400m個人メドレーの4分20秒07という日本記録は、1989年から11年間も破られなかった大記録でした。

 競泳選手をやめた藤本は、劇団四季の入団オーディションに合格しました。チョイ役からはじめて着実に実力をつけ、ミュージカル俳優として舞台で経験を重ねてきました。連続テレビドラマは、広瀬武夫役がはじめての出演でした。

 藤本隆宏、2009年の年末放映の『坂の上の雲』に広瀬武夫役で出演し、ロシア美人とのダンスシーンもすてきでした。藤本はこの広瀬役でブレークし、40歳をすぎて全国区になりました。舞台役者、ミュージカル役者としては知られていたのでしょうけれど、ミュージカルの舞台など見るお金がない私、『坂の上の雲』に出るまで、ぜんぜん知りませんでした。

 「Jin -仁」、完結編(2011年4~6月放送)も毎回見ていました。藤本隆宏は、西郷吉之助役で出演。西郷役ではあまり台詞はありませんでした。でも、これまで西郷隆盛を演じてきた役者のなかで、黙って座っていても絵になり、西郷の持つ人間的な豊かさと大きさを表現できていたと思います。西郷の雰囲気を出すために、20kg体重を増やしたのだとか。次回も藤本おっかけについて。

<つづく>
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2012年01月15日


ぽかぽか春庭「ブレーク中の役者を応援する」
2012/01/15
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(4)ブレーク中の役者を応援する

 競泳トップ選手だった藤本隆宏、運がないといえば運がない。バルセロナ五輪で200m8位入賞したとき、五輪個人メドレーでは日本人初のファイナリストという快挙だったにもかかわらず、同じ日、同じ競泳で、岩崎恭子選手が女子200メートル平泳ぎで金メダリストとなったため、取材はそちらに殺到。藤本ファイナリストの報道は新聞片隅の目立たないところ。日本に帰国してからも岩崎選手の騒がれかたに比べると地味な存在でした。
 次こそ金メダルをと奮い立ったものの、めざす1996年のアトランタオリンピックでは競泳の代表を逃し、競技生活を断念します。

 オリンピック金メダルへの夢敗れた後。水泳チームのコーチなど、オリンピック入賞者日本記録保持者という経歴を生かす道も考えられたでしょうが、藤本は「次の人生は、水泳と同じくらい好きな歌で生きる」と決意しました。
 水泳仲間とのコンパなどで披露してきた歌は、誰もが「クロートはだし」と認めるうまさでしたが、玄人になるとは誰もが思わなかったから誉めたのです。しかし、藤本にとって、次に目指すは、舞台での金メダル。

 藤本はプールを出て、劇団四季の研究生オーディションを受けました。オーディションの最終面接、劇団トップの浅利慶太の前での藤本の自己アピール。「演技は素人ですけど、努力することに関しては、僕は天才です」と言い、ついたあだ名が「天才君」。
 一生懸命稽古し、四季の舞台では台詞ひとことだけの役など、下積みを重ねました。

 15年間、さまざまな舞台で経験を積み、しだいにミュージカルの舞台などで大きな役が付くようになっていきました。2009年テレビ連続ドラマ初出演の『坂の上の雲』でブレーク。
 藤本隆宏歌唱「Stand Alone 坂の上の雲」
http://www.youtube.com/watch?v=dPY5X7wVYcg

 藤本をブレーク前に発見することはできず、後追いになりましたが、これから応援していきます。
 2010年にアメリカで公開された映画『Plain' for Money』は、日本人とアメリカ人の共同監督作品で、主演は藤本隆宏。藤本は、弱小バスケットチームのコーチ役です。日本での公開はまだ未定のようですが、ギンレイでやるなら見たいです。

<つづく>
09:28 コメント(3) ページのトップへ
2012年01月17日


ぽかぽか春庭「テレビに浸かる」
2012/01/17
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(5)テレビに浸かる

 いろんな楽しみを見いだしている若い世代に比べ、私は、テレビが娯楽の王様だった時代に育った者であり「一億総白痴化」と揶揄された世代で、いまだに「家族そろっての娯楽はテレビ」という「三丁目の夕日」型の習慣を守っているわが家です。一家四人、昭和生まれですし、全員、時代の波には乗れない方。
 正月は箱根駅でのテレビ応援で盛り上がりました。うちのテレビスポーツ観戦は、冬はフィギュアスケートと駅伝、マラソン。夏は競泳を見るのがメインです。

 家族みな、チームプレイは苦手なので、サッカーや野球などは、ワールドカップとかオリンピック決勝など以外はあまり見ませんが、今年はロンドンオリンピックもあるので、夏休みはテレビ漬けかも。私は、フィギュア男子フリーも水泳も、応援ポイントは「イケメンかどうか!」です。

 イケメンの定義はそれぞれで、好みは異なるけど、「腐女子」方面には疎い私も、ボーイズラブ系美少年は好きです。ジャニーズ系もフィギュアスケート美少年もイイワァ。
 フィギュアスケートのジョニー・ウイアー。世界中にファンクラブがあり、世界各地のスケート大会中継で「ジョニ~、こっち向いてぇ~」という日本語の叫び声が聞こえるのも、さもありなんと思っていたけれど、この子はほんとにボーイズラブ系だよな、と思っていた。

 ロシア好きで知られるジョニー、2012年1月、同性婚が法的に認められているニューヨークで、ロシア系の男性と結婚したと報道されました。ジョニー、おめでとう!!
 (NYでは、2011年7月に同性婚承認の法案成立)
 子どもの頃からのロシア好きという好みが、こういう形で人生に結びつくってのも、人生いろいろです。相手の男性は、1歳年上の28歳。法律関係の人というヴィクター・ボロノフ。ジョニーにとって「ずっと探していた理想の男性」なんだそうで、めでたしめでたし。私だって理想の男性を探したけれど、結果は、、、、人それぞれですね。

 日本は、スポーツ選手や芸能人に多いというセクシャルマイノリティも、なかなかカミングアウトできない環境です。人気が仕事に直結してしまう芸能人だとそうもいかない場合があるのでしょうが、スポーツ選手はどんな成績を残すかがすべてなのですから、偽装結婚なんぞしないで、ジョニーのように堂々と人生を開いてほしいです。
 藤本隆宏も、水泳選手から芸能界への転身という選択を貫いたように、これからも自分自身を貫いてほしいです。

 競泳の解説者かキャスターとして藤本隆宏が出たら、いっそう観戦に熱が入るのにな。競泳の中継をとった局、お願いします。藤本は「BS朝日テレビ2007、2009世界水泳」で「解説者」として、出演したことがあります。ロンドン競泳ではメインキャスターになってほしい。 

 NHK大河ドラマのほか、毎期、わが家は週に4、5本の連続ドラマを見ます。ドラマを選ぶのは、チャンネル権を手放さない娘。去年は、『それでも生きている』『家政婦のミタ』などを見ました。録画し、CMは飛ばしながら見る、という視聴習慣が続いています。今期、見ると決めたイケメンは、月曜日松本潤&瑛太。木曜日山ピーと岡田将生、金曜日松岡昌宏、土曜日山田涼介、日曜日松山ケンイチと本木雅弘。
 NHKBSなどで日本映画史の傑作がまだまだ続けて放映されるのも楽しみ。

 「西欧知識人家庭では、テレビ好きは知性が低いっていう評価をするらしいから、留学生の前であんまりテレビが好きって言わないほうがいいよ」とは言われているのだけど、日本のテレビドラマとアニメは、日本の文化です。西欧知識人にどう思われようと、今年もテレビドラマを見てイケメンにうっとりしますし、Qサマなんぞのクイズ番組見て、へぇと思った解答をすぐに忘れて、「ナイナイごち」とか「帰れま10」とか料理食べる系バラエティ見て美味そうだの高いだの言って、「運動神経ない芸人」なんぞを見て笑って、「ザ・マンザイ」見て「シンスケいなくても、日本のお笑い界なんとかなりそう」と思ったり、テレビウォッチングも忙しい。ほんと知性低いって評価されそうなラインナップだけど、いいさ、遊びをせんとや生まれたんだから。

<つづく>
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アート散歩-写真美術館&東博「清明上河図」

2010-01-11 03:18:00 | アート
2012/01/20
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(7)写真美術館散歩

 私の散歩、長い距離動き回るときは自転車散歩です。去年は、水元公園まで2時間かけて自転車で走り、菖蒲を見てきました。電車で出かけて、公園や庭園を散歩するのも好き。今年もバラやツツジ、紫陽花、菖蒲、あちこちの花を見て歩くつもりです。美術館散歩、博物館散歩は、招待券が手に入り次第なので、いつどこに行くとも決まっていません。

 1月2日、東京写真美術館へ。箱根駅伝を往路ゴールを見てから出かけ、6時の閉館まで、楽しく歩きました。正月2日の写真美術館は、どのフロアも無料公開です。無料、大好き。

 3F「ストリート・ライフ ヨーロッパを見つめた7人の写真家たち」。イギリス、ドイツ、フランスで19世紀後半から20世紀前半に展開した社会記録写真(ソーシャル・ドキュメンタリー)を展示。写真家たちは、町に出て、産業革命後の急激なヨーロッパの変化を写し取りました。写真そのものが過渡期の技術であり、さまざまな技法が試みられた中、トーマス・アナン、ジョン・トムソン、ビル・ブラント、ブラッサイ、ウジェーヌ・アジェ、アウグスト・ザンダー、ハインリッヒ・ツィレらが、消えゆく街角、貧民街の生活風景など、失われていく歴史の一コマを記録しました。
http://syabi.com/contents/exhibition/index-1448.html

 ヨーロッパの街の表情、そして人々のようす。なにげない街角の記録が、激動の時代の歴史をしっかりと表現していることに心惹かれました。

 2F「日本の新進作家展vol.10写真の飛躍」
 私にはわからない様々な撮影技術現像技術を駆使して、写真の新しい表現をしている若い写真作家たち。多重露光、露出、コラージュなどの技法。ロビーのテレビモニターでは、出品作家のうち一番若い1982年生まれの西野壮平が、写真によるコラージュ作品を完成させるまでを録画し、流していました。都市をうつした写真を大きな画面に並べていき、ひとつの都市のイメージコラージュを作り上げるという作品です。モノクロで写した都市の写真。それを並べて「Diorama Map」を作り上げる。
 今回の展示作品とは違うものだけれど、こんな作品
http://web.canon.jp/scsa/newcosmos/gallery/2005/sohei_nishino/index.html
 
 B1F「映像をめぐる冒険vol.4見えない世界のみつめ方」
 出品作家の鳴川肇さんが会場にいて、自作の「地球儀と同じ縮尺で正確な面積のまま標示される平面地図」の作成方法について、説明していました。「AuthaGraph World Map」という投影技法で、球体から多面体へ、多面体から正四角錐へと地図を投影していき、正四角錐を展開すると、縮尺がゆがまない地図ができあがる、という方法です。一般の地図のメルカトル図法などだと、極地に近づくほど面積が大きくなってしまう欠点がありますが、それを是正する画期的な平面地図です。

 私たちが住む地球の姿への意識のありよう。天動説であったころから、地動説へ。20世紀後半から、衛星写真、月から捉えた地球の写真などで、地球が青い星だというイメージは、完全に人々の脳裏に埋め込まれたのだけれど、それまでの人類のイメージの形成で、どのように地球が捉えられてきたか、天動説の本などが展示されていました。

 1969年に、アポロ11号によって撮影された「地球の出」の写真。私たちがほんとうに丸いひとつの星の上に住んでいることを強烈に印象づけた1枚の写真でした。
 「見ること」は、写真を撮ることや絵を描くことに比べ受動的に感じられるかも知れません。でも、「見る」という行為の能動性は、人間の心理をそっくり変えてしまうくらい強いものでもあります。

 今年は上野の東京都美術館がリニューアルオープンするし、美術館歩き、いろいろ楽しめそうです。次回から東京国立博物館「清明上河図」にたどり着くまでの4時間待ちについて。
 
<つづく>
07:10 コメント(1) ページのトップへ
2012年01月21日


ぽかぽか春庭「博物館で列に並ぶ」
2012/01/21
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(8)博物館で列に並ぶ

 たいていの場合、美術館を歩くのは招待券をもらったときに限る。自分でお金を出して入館料払うのは、よほどのとき。で、正月2日から公開の「清明上河図」を見ようかどうか迷っていたのも、招待券が手に入れられそうにないので、さて、1500円という私にしてみれば高いチケットを買うかどうか迷った10日間。えい、清水の舞台、、、、、というほどは高くないが、2階の屋根くらいから飛び降りて、チケット購入。買ったからには朝早くから夕方までたっぷり時間をとって見ようと、13日金曜日の朝、9時半には家を出ました。この日は、センター試験準備日休講で、平日に休みがとれ、平日だから空いているかも、と思って出かけたのです。

 ところが、10時開館と思った東京国立博物館は9時半にオープンしていて、10時ちょいすぎに正門に着いたときには、すでに長い列が平成館から本館前まで伸びていました。
 平日の10時だというのに、世の中、こんなにも閑そうなじいさんばあさんがいるんだ!と感心する。

 若い人はほとんど見かけない。そりゃそうね。働いているか学校へ行っているか。ヒマなのは爺さん婆さん。たまに白いダウンやら煉瓦色のコートがいるけれど、爺さん婆さん達は、黒っぽいコートやらダークグレイ、焦げ茶などが多いので、全体的に黒々とした列で、冬の寒さがいっそう増す気がする。そういう私も、ユニクロの黒いウルトラライトダウンの上に焦げ茶のコートを重ね着するという完全防備の冬支度バーサンです。このユニクロウルトラライトダウン、電車の一車両に5人は見かける。私は去年買えなくて、元日の特売で買いました。くすん、また柳井正を儲けさせてしまった。

 「平成館の入り口に達するまで50分待ち。入館したあと、「清明上河図」の前にたどり着くまでには、さらに180分待ち」と、列をさばく係の看板に書いてあります。どうしようかと迷いました。いつもなら「こんなに混んでいるんなら、別の日にまた来よう」とか思うところですが、なにせ、1500円払ってしまったので、「これをムダにしてなるものか」と、貧乏性が言う。はい、おとなしく並びました。3時間。

 平成館に入るまで40分。このときはバッグに入っていた山田風太郎の『あと千回の晩飯』を読んでいました。面白い。でも、もう後半ですから、2時間もたたないうちに読み終わりそう。読み終わっちゃったら、あとの時間、どうやってヒマ潰そうか。夫婦連れは仲よさそうに語り合っているし、友達と二人連れのおばちゃん組は賑やかにおしゃべりしている。こういうとき、おひとり様は本がないと困ってしまう。列に並んでいる人のウォッチングも3時間も続けたら飽きてしまう。
 列が動いたので、読み終わりそうな文庫をバッグにしまって入館し、「清明上河図」観覧の列に加わりました。

 北京の故宮博物院に行ったことあるけれど、「清明上河図」は、中国の人だってめったに見ることが出来ない秘宝中の秘宝。これを逃したら、一生のうちに見ることができないだろうと思うから、おとなしく並びました。
 1階ラウンジに2人ずつ並ぶという列、私はひとりだから、もう一人70代くらいの白髪の女性と組になりました。
 私が文庫本を読んでいると、彼女は小さなスケッチブックに、スケッチをしている。列の移動のとき、ちらっと覗くと、ささっと書いているけれどなかなかうまい。「お上手ですね、絵をやっていらっしゃるんですか」と声をかけてみたところ、それから怒濤の彼女のおしゃべりが続き、3時間飽きることなく列に並んでいられました。

<つづく>
10:32 コメント(0) ページのトップへ
2012年01月22日


ぽかぽか春庭「博物館で待ち続ける」
2012/01/22
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(9)博物館で待ち続ける

 清明上河図を見るための、3時間待ちの列。
 いっしょに並ぶ70代とお見受けした女性、見学待ち行列に並んで、おしゃべりが続きました。「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習ってるの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くて抽選だから、もう、応募しても、初めての人が優勢みたいで、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、リー先生、ムサビでも教えているの。こうやってこんなふうに身体使って筆動かすので、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、先生自慢をする。

 「そうですか。私も中国に行っていたころずいぶん水墨画も見ましたけれど、故宮博物院でも清明上河図は展示していなかったので、今回はとても期待して見にきました。ご自身で水墨画習っていらっしゃるなら、私のような素人とは違って、深い見方がおできになるでしょうから、いろいろ教えていただきたいです」と、話を向ける。
 彼女が名前と電話番号のメモをくれたので、私も名刺を渡しました。Oさんというお名前。

 Oさんは「ほら、これは、私の絵に5歳の孫が色をつけたんですけれど、とても色づかいがいいでしょう」と、別のスケッチブックを開いた。「あら、お上手ですね、お孫さん、絵がお好きなら、先が楽しみですね」と、見せてもらう。
 純真なこどものころは伸びやかな線を描き、こだわりのない色づかいができるのに、大人になると自由な絵心が消えてしまう、など、彼女の話が続きます。彼女の娘さんは西日暮里に住んでいて、上野に来るときなどは娘の家で一泊し、それから美術館巡りをするのだそうです。

 「もう、私、認知症が始まったみたいなので、、、、」とOさんが言うので、「そんなことないでしょう、しっかりお話なさっているし、こうして元気に絵を見たり描いたりなさっているのですもの。私のほうこそ、物忘れが多くて、今日も東博は9時半オープンっていうのを忘れちゃって、ほかの美術館のように10時オープンだと思って来たら、この行列だもの、ちゃんと開館時間を覚えていなかったこっちが悪いんですけど」
 長い待ち時間でしたが、彼女はしゃべりっぱなし。

 Oさんは、1937(昭和12)年生まれというので、今は75歳。小柄な身体ですが、元気いっぱいに見えます。
 「すっと仕事を持っていたんですけど、娘がね、年をとったらいつまでも仕事していないで、好きなことだけしたほうがいいって勧めてくれたので、こうして美術館に来たりしているんです」
 「いいですねぇ、私はまだまだ仕事を続けなければ食べていけないので。今日はたまたま休みになってので、平日に来られたけれど、平日で3時間待ちなら、土日はもっとすごいでしょうね」

 彼女は若い頃、絵を志していたけれど、結婚後は絵はあきらめて、家事育児のほか、時間にしばられずに仕事ができるフリーの速記者として雑誌のインタビュー速記をしていたのだそうです。「速記1級なんて、すごいじゃないですか。私の夫、新聞記者の仕事に必要だろうからって速記を習ったって言っていましたけれど、2級とるのがせいいっぱいで、1級はよほどすごい人じゃないと合格しないって言っていましたよ」

 速記1級がむずかしい専門職なのだ、ということを知っている人間に出会えて気分よくしたとみえ、速記者時代の話を続けてしてくれました。
 
<つづく>
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2012年01月24日


ぽかぽか春庭「無限ループ話を聞く」
2012/01/24
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(10)無限ループ話を聞く

 Oさんが尋ねるので、私が読んでいた文庫は山田風太郎のエッセイだと言うと、「あら、その作家は知らないけれど、私、作家に会ったことあるわ。ほら、日本沈没とかの、あら、誰だったかしら」「日本沈没は小松左京だと思いますけど。昨年亡くなりましたよね」「そうそう、その人。私会ったことあるのよ。雑誌の仕事でインタビューに行ったの。話の内容は全部忘れたけれど、つりズボンのベルトのところをこうやって伸ばして話していたの覚えているわ」と、「私が会った有名人」シリーズがはじまりました。

 「あと、あの人、だれだっけ、芸術は爆発だ、の人」「岡本太郎ですか」「そうそう、あの人の講演会にも行ったわ。若い女の人といっしょにいたっけ」「その人はたぶん、岡本敏子さんでしょうね」「そうそう、思い出した。お母さんたち相手の講演会で、岡本太郎さんは、子どもは子どもの気持ちのままに自由に絵を描けばいいって言ってた」
 そのほか、大江健三郎や松下幸之助のインタビューも速記記録したとのこと。

 「松下さんはね、四畳半で奥さんと明日食べる米がないって泣いていたこともあるってお話してました」というので、「ええ、私も『神様の女房』ってドラマ見ましたよ。常盤貴子が松下むめのやってましたね」
 「そうそう、女優さんにもいろいろ会った。女優の三田佳子は芸能人には珍しく、時間をきちんと守る人だったわ。高千穂ひずるはプロ野球関係の人がおとうさんだったわね、色の白い人でした。山本富士子はね、一番ツンとした人でした」

 速記者としてインタビューに立ち会ってきたけれど、速記録を文字に起こして、雑誌社に送ればそれで仕事は終わりなので、記録も何もとっていないといいます。「あら、もったいない。会った方達の印象を一行の記録でもいいから、お孫さんに残しておあげになったらよろしいじゃありませんか」と話す。

 「清明上河図」の展示室が見えてきて、180分待ちの列もようやく終わりになると思った頃、「やっと清明上河図に対面できますね」と私が言うと、彼女の話は「あのね、私、八王子市の絵画教室に入って水墨画習っているの。初級中級ときて、上級はもう2回くりかえしたんだけれど、毎回教室の人気が高くてね。抽選だから、初めての人が優先みたいで、私は、はずれちゃったの。中国から来たとてもすばらしい先生で、ムサビでも教えているんだけど、リー先生、こうやってこんなふうに子どもみたいに自由に身体使って筆動かして、、そりゃもうすばらしい絵なんです」と、列に並び始めたころの話題にループしました。
 それまでたびたび「私、認知症もはじまっていて」というのを、「元気なお年寄りジョーク」だと思っていたのですが、まさか、話が最初に戻るとは。

 「うちの5歳になる孫、私のスケッチに色を塗ってくれるんですけど、この色づかいは、大人にはとても出せないもので、、、、」と、孫の自慢話もループ。
 おお、これがお年寄りの無限ループ話か。

 どこかの老人ホームへ行って傾聴ボランティアしようかしら、なんて、気軽に考えたことを反省しました。同じ話が2度繰り返されただけでびっくりしているんだもの。4度でも5度でもにこやかに相づちをうって同じ話を聞くというボランティアは、とてもできそうにない。年寄りの無限ループ話を傾聴するのは、姑の昔話だけにしておいたほうがよさそうです。

<つづく>
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2012年01月25日


ぽかぽか春庭「清明上河図を見る」
2012/01/25
ぽかぽか春庭十二単日記>遊びをせんとや生れけむ(11)清明上河図を見る

 東博平成館2階の第2展示室。中に入ると、まだまだ列はぎっしり続く。拡大された清明上河図が貼ってある壁に沿ってのろのろ進む。係員はひっきりなしに「立ち止まらないでください。一歩ずつ前へ進んで下さい」と声を張り上げています。

 拡大図を見ながら、いっしょに列に並んだOさんと「すごい筆使いですね」と、そろそろと進みました。清明上河図の拡大絵が見えるようになったら、Oさんの話は「上河図」のことになったので、無限ループかと思った思い出話が終わって、ちょっとほっとしました。
 
 本物を見る前に、拡大図で細かいところまでよくわかって面白かったです。図版ではあまりよくわからないところも、細々と見て取れました。
 いよいよガラスケースに入った清明上河図の本物。
 私は館内係員が「前の方に続いて、一歩ずつおすすみください」とガナるので、前の人に続いてすすみましたが、私の後ろにいるはずのOさんは、すすもうとせず、私とOさんの間に隙間ができました。振り返ってOさんを見ると、涙ぐんでいます。

 ずっと見たいと願っていた絵を見ることができて、もうこの絵を見るのはこれで最後かもしれない、そんな感慨いっぱいの目でした。間がどんどん開いても、Oさんは前にすすもうとしないので、私はOさんから離れて、一足先に展示会場を出ました。Oさん、係員に追い立てられるまで、見入っていたことでしょう。
 会場を一歩出てしまうと逆行はできず、もう一度見たい人は、1階ロビーの待ち列最後尾に行ってくださいとのこと。さすがに、もう一度3時間も待つ気にはなれない。

 Oさん、もう会うことはないのでしょうね。「昔のことは思い出すけれど、きのう今日のことはすぐ忘れちゃうのよ」と言っていたとおりに、私と会っておしゃべりしたことも、明日には忘れてしまうのでしょう。明日は明日で、Oさんは出会った人に無限ループで孫の話をしているのかも。

 ケースの中の絵をじっくり見ることもできずに、追い立てられるように会場を出てしまい、3時間待って、絵を見ていられた時間は10分ほどです。
 「清明上河図」本物を見た、という感慨だけ残して、絵の細かいところは、図版でもう一度見ようと、図録購入。2500円。入場料の1500円とあわせて4000円。一日の行楽費としては、私としては大盤振る舞いです。まあ、まだ正月気分ということで、自分にお年玉。

 第2展示室の書をざっと見て出ると、2時になっていました。朝ご飯食べずに来たので、さすがにおなかがすきました。休館中の東洋館にある精養軒のレストランで「広島牡蠣フライ定食」1300円を食べてから、ふたたび平成館へ。
 朝方は180分待ちの看板が出ていましたが、午後は210分待ちの標示。みんなそんなに清明上河図が見たいのか、と、思ったら、1月8日の朝、日曜美術館で特集が組まれ紹介されたところだったのだそうです。善男善女は、テレビで紹介されれば、押すな押すなで列に並ぶ。まあ、私も並んだ「ヒマそーなバーサン」のひとりです。これなら、1500円のチケットに躊躇せず、1月5日見ればよかった。5日は、世間では仕事が始まっていて、私はまだ冬休みだったから。平日に見ることができて、ジーサンバーサンたちは、テレビを見て押しかける前で、13日ほどは混んでいなかったろう。

 第2展示室の「故宮博物院の至宝」を見ました。清王朝第6代皇帝乾隆帝(けんりゅうてい、1711-1799)の遺物などを中心に、皇帝衣装や宝物が並んでいます。『蒼穹の昴』を去年見たところだし、興味深く見てまわりました。

 「清明上河図」一生に一度かも知れず、見ることができてよかったです。お話をきかせてくださった元速記者、八王子のOさんにも、出会えて良かったです。
 これからも美術館博物館散歩、絵との出会い、人との出会いを楽しみにして歩きまわります。

<つづく>
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2010/01/11

2010-01-10 11:20:00 | 日記
2010/01/11
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2010/01/02

2010-01-02 07:40:00 | 日記

2011/01/18
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>貧乏語り(1)ガチャポン

 ジャズダンスの新年初練習から帰ってきたら、テレビを見ていた娘が涙ぐんでいました。なにを見ているのかと画面を覗くと、アメトーークという娘が深夜帯でよく見ているお笑いトークの新年スペシャル版。「売れてないのに子供がいる芸人トーク」でした。売れてない芸人たち、まだ収入がありません。貧乏暮らしの中、どんなふうに子供と過ごしてきたかをおもしろおかしく語り、皆笑いこけている。イマドキ、そんな貧乏は誰も身に染みていないから、「うそやろ」という感じで笑えるのです。
 娘は芸人が語る貧乏話に「私、保育園の頃の貧乏暮らしを思い出しちゃって、あの頃の自分がかわいそうで、話聞いているうちに身につまされて、泣けてきた」と言って、はんかちを目にあてている。

 200円のガチャポンを欲しがる子供にがまんをさせた、と芸人が語る話に泣けたのだという。ガチャポンとかガチャガチャは、100円とか200円を投入すると、おもちゃやカード入りのプラスチックのケースが出てくるゲーム。目当てのものを出すため、子供達はコインを入れ続けます。
 わが家、娘が保育園のころは貧乏のどん底で、欲しいモノが出てくるまでコインを投入するようなことはさせられなかった。だから、「欲しいモノはサンタさんに頼もうよ。ガチャポンはがまんね」と、買ってやれなかった。娘にしてみると、その場ででるかでないかドキドキしながらコインを入れるそのスリルを味わいたいのだった。でも、欲しくないものがでたときのがっかりを解消してやれないわが家では、「コインをいれるのは1回だけ」と限定でガチャポンをさせるか、がまんさせるほうを選ぶしかない。

 保育園のとき、プラスチック製の編み目仕立てになっている靴が女の子の間に大流行したことがあった。「あのとき、私はどうしても編み目の靴が欲しかったのに、お母さんは、あんな靴は普段履きには歩きにくいし、お出かけ用にはならないから、ダメって言って、買ってくれなかった。クラスのなかで、あの靴を履いていないの私だけだった」と、娘は貧乏時代を語ります。

 私の予想通りに、そのプラスチックネットの靴はすぐに流行が終わりました。安売りされるようになってから娘にようやく買って与えたのだけれど、娘にしてみれば、流行が終わってしまってから買ってもらっても、嬉しくともなんともなかった。流行遅れの靴は、ほとんど履かないうちに小さくなりました。私は長いこと小さくなった靴を捨てられずにいたのだけれど、娘は流行遅れになってから買ってもらった靴のことを覚えていなくて、買ってもらえなかった悲しさだけを記憶していました。

 時はバブル景気の真っ盛り。靴やら筆箱やら保育園児小学生も、分不相応な高価なものを自慢し合っており、親は競って子供のために消費していました。「みんなが持っているキャラクターのついたボールペン、100円だったけれど私は母にねだれないと諦めていた。お金のかかることを母に言うと母を追い詰めてしまうのではないかと子供心に心配していたから」と、娘が語るのを聞き、かわいそうなことをしたなあと思います。親としてせつないです。

 ふたりの子を育てながら、確実な現金として奨学金を貰うために大学へつづけて大学院に通い、日本語教師のアルバイトを続け、授業のない土日や夏休みには夫の自営業を手伝い、それでも夫の借金は増えるばかりで、ほんとうに追い詰められた気分だったのを、子供にはわからないようにしていたつもりだったけれど、娘はちゃんと親の気持ちをくみ取っていたのだろうと思います。ほんとうにわがままを言うことのない娘で、弟の世話をいっしょうけんめいしてくれました。母を助けようとして、娘も精一杯だったのでしょう。

 ようやく、100円のボールペンくらいは買う余裕も出てきて、やっと娘は「ペンが買えなくて悲しかった」と語れるようになりました。「子供にガチャポンを我慢させた」と語って笑いをとるお笑い芸人に、娘は涙を流して「つらいよねぇ、ガチャポン買ってもらえない子供って」と、共感していました。

<つづく>


011/01/19
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>貧乏語り(2)パフスリーブ

 『赤毛のアン』の中に、近隣の女の子の服のデザインで「パフスリーブ」が流行したことが書かれています。厳格なマリラはいつも実用一点張りの服を仕立てます。アンは、ちょうちんのように膨らんだパフスリーブワンピースを着た友達がうらやましくてならないけれど、マリラに頼んでもそんな服は作ってくれません。マシューに女の子の服のことはわからないと思いながらも「パフスリーブの服がほしい」ことを理解します。

 マシューは独り者を通した男だったけれど、流行の服が欲しいという女の子の願いをちゃんとわかってやれる人だったので、「うちの子がよその子にひけをとっていいものか」とマリラに持ちかけ、マリラはついにパフスリーブのワンピースをアンのために作ってあげます。アンの喜びようは、どんな高価なドレスを着た令嬢にも負けないものでした。「赤毛のアン」ファンにとっては「好きなエピソード」の上位にくるお話で、私もこのパフスリーブのエピソードが大好きです。

 私が小学校5年生だったか6年生だったかの冬、クラスの女の子に「コール天のズボン」というのが流行したことがありました。いつも姉のお下がりで文句も言わず、衣服については母に注文をつけたことがなかったのに、「コール天のズボンを履きたい」と言ってみたら、姉と私ふたりにコール天のズボンを買ってくれました。

 日頃、本を欲しがるばかりで服の注文はしたことのない私がねだったので、母にしてみるとなんとしても娘の願いを叶えたかったのでしょう。フラフープを欲しがったときも、スケート靴を欲しがったときも、姉と私におそろいで買ってくれました。贅沢ができる家計ではなかったけれど、母はいろいろやりくりをしても、娘達の願いをかなえようとしていました。

 自分が家庭を持って、そのような買い物は、父が堅い会社の勤め人で、月給やボーナスを封を切らずに袋ごと母に渡して家計を任せていたからできたことだったと気づきました。買ってやれないことは、母にとっても辛いせつないことでした。子供達に我慢させることも何度もあったけれど、子供が欲しがるモノを自分が食べるのを減らしても与えてやりたいというのが親の心。子供が喜ぶ顔を見ることが両親の喜びでもあったと思います。

 私が結婚した相手、自営業でずっと借金まみれ。保育園のころの娘には我慢ばかりさせていました。バブル景気真っ盛りの頃。クラスメートが派手な消費を楽しんでいたのに、娘は私には決してわがままを言うこともなく、聞き分けよく「靴を買うことはできない」と言えばそれ以上ねだることはありませんでした。しかし、「クラスの中で一人だけ編み目模様の靴を履けなかった」悲しい気持ちを、27歳になってテレビを見て涙ぐんで語るのです。
 世界には飢えている子がいるし、日本には虐待を受けて亡くなる子もいます。そういう子に比べれば、貧しい中せいいっぱいの愛情は注いだつもりで子育てをしてきましたが、娘にしてみれば、我慢我慢の生活がつらいときもあったのだろうと思います。

<つづく>


011/01/21
ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>貧乏語り(3)サンタプレゼント引換券

 食うや食わずの生活の中で、すぐには買ってやれなかったものは、靴のほかにもたくさんあります。保育園年長さんのころか小学校1年生のころか、忘れてしまったが、娘がサンタさんに「牛乳パックからハガキを作る紙漉セット」というのを頼んだことがありました。サンタさんからほいほいとファミコンとかスーファミとかプレゼントされる家と違い、わが家に来るのは「ビンボーサンタ」だから、高いモノを頼んでももらえないよ、と言い聞かせてあったので、娘は、高額なものは願ってももらえないとあきらめていて、高望みなものはお願いしませんでした。しかし、そのささやかなプレゼントを買う現金すらわが家にはない年もありました。故郷に年始に行って、実家の父にもらうお金で買うしかありません。

 娘は、「サンタさんへのお手紙」に「かみすきセットをおねがい」と書いて、ベランダの赤い靴下に入れました。それほど高いものではないのに、年末の財布にお金はなく、買いに行くことはできません。翌朝、靴下の中の手紙がなくなっているのを見て、「サンタさん、手紙を読んでくれたんだよね、いい子にしているから、紙漉きセット、もらえるかなぁ。」と、娘は心配顔。なんとしても買ってやりたい。でもお金はありません。

 私はクリスマスイブの夜中、靴下にサンタからの返信を入れました。「サンタより、このカードは、紙漉セット引換券です。おもちゃやへ持って行くと紙漉セットがもらえます」と、書いて入れておきました。

 娘はクリスマスの朝、紙漉セット引換券を発見。ベランダから、遠い北の国にいるサンタさんによく事態がわからないまま「プレゼントありがとう」とお礼を言いました。小さな弟に「ちゃんとお礼を言わないと、来年もらえなくなっちゃうから、大きな声でありがとうって言うんだよ」と教えています。

 お正月もすぎお年玉を使おうとする子供たちの混雑も終わった頃に。サンシャインビルのおもちゃやへ行きました。近所のおもちゃやでは娘にないしょのお願いはできないので、池袋まででかけたのです。娘と息子をベンチにすわらせ、「ここから動いちゃだめだよ、弟の面倒を見ていてね」と言いおいて、こっそりおもちゃやへ行きました。実家の父にもらったお金で紙漉セットを買い、「女の子が紙漉セット引換券」というカードを持って来たら、「サンタさんから預かっていました」と言って渡して下さい、と頼みました。

 娘をひとりでおもちゃやへ行かせて、店員さんがちゃんと話を合わせてくれるか案じながら待っていると、娘は大きな箱を抱えて戻ってきました。サンタプレゼント券でしっかり引き替えができたのです。ああ、よかった。
 牛乳パックや広告チラシを細かく砕き、紙漉セットでハガキを作る遊びを何度も親子で楽しみました。「このハガキは、私が作りました」という文を書いて、親戚や先生に手紙を出したりしました。

 「友達のところには、ゲーム機やゲームソフトがどんどんサンタプレゼントとしてくるのに、どうしてうちに来るサンタさんは、ゲーム機くれないのかなあ、と長い間疑問だったけれど、理由がわかっても、父に話す気にはなれないよ。父は子供達にこんなせつない思いをさせてきたのだって、気づきもしないだろうから」と、娘は言います。

 私はせつないです。娘が欲しくてたまらなかった編み目模様の靴を、あの頃に戻って買ってやりたいと泣けてきます。日本中がバブル景気に沸き立っていた頃、明日食べるお金もない貧乏暮らしの中、必死で生きていた自分の姿は冷静に見つめられるけれど、100円のペンが欲しいと言えなかったという娘の姿を思うと、「売れてないのに子供がいる芸人」の話に「芸人になる夢を持った親の背中を見て、しっかり育ってね」と声をかけてやりたくなります。

 親は「夢を追って生きる姿を見せている」つもりだろうけれど、ガチャポンを我慢している子供は、どんなにかせつなかろう。芸人になる夢を追うため、親子で別居している一家もあると語る人もいました。どうぞ、早く売れてくださいね。親子一緒に住んで親子で笑って暮らしていけるように、、、、。
 わが家、まだまだ貧乏暮らしは続くけれど、娘も息子も大人になったので、貧乏暮らしを納得して生きていけるようになりました。

 娘はお正月の福袋を買うのが大好きです。必要のないものが袋に詰まっていることも多いのですが、娘は「これは、小さかった頃、買い物の楽しみを味わえなかったことの代償なんだって、自分でもわかっているんだよ。必要がなくても買ってしまうことで、買えなくて悲しかったころの自分を慰めてるの」と、解説しながら、今年もディズニー福袋というのを買っていました。それも、「七草すぎたので、イトーヨーカ堂福袋が500円値下げしてお楽しみ袋っていう名前に変えて売られていた」と、値引き商品を買ってきたのです。貧乏性はぬけていません。果たしてこれで福があるのやら。私には「ミッキーぬいぐるみ」をお裾分けしてくれました。

<おわり>
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2011年目次

2010-01-01 09:23:00 | 日記
ぽかぽか春庭「目次」2011年1月

01/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>謹賀新年うさぎ年(1)慈悲心
01/02 謹賀新年うさぎ年(2)ゴールドライフ兎
01/03 謹賀新年うさぎ年(3)恵比寿大黒宝船散歩
01/04 謹賀新年うさぎ年(4)恵比寿でガイアシンフォニー

01/05 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた!>年末年始読書記録(1)KAGEROU
01/06 年末年始読書記録(2)イケメンブンガク
01/07 年末年始読書記録(3)ドナーブンガク
01/08 年末年始読書記録(4)ドナードラマ
01/09 年末年始読書記録(5)買い取り価格比較ドットコム
01/10 年末年始読書記録(6)本を読む女
01/11 年末年始読書記録(7)復活!お楽しみ読書
01/12 年末年始読書記録(8)<少女>を読む
01/13 年末年始読書記録(9)時空を越える旅

01/14 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年1月(1)新春コンサート
01/15 2011年新春(2)デジタル化ご年始
01/16 2011年新春(3)眠れる森の迷子たち
01/18 2011年新春(4)卒論口頭試問

01/19 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来(1)唐なすかぼちゃ
01/21 食べ物往来(2)eggplantナスとお茶とチーズケーキ

01/22 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>貧乏語り(1)ガチャポン
01/23 貧乏語り(2)パフスリーブ
01/25 貧乏語り(3)サンタプレゼント引換券

01/26 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語講座>いろは歌再び(1)鳥鳴く声す目を覚ませ
01/28 いろは歌再び(2)闇夜へ消えた骨なしソロモン
01/29 いろは歌再び(3)舞姫を森鴎外は捨てゆきぬ 
01/30 いろは歌再び(4)粗朶火燃え散る 囲炉裡辺に
01/31 いろは歌再び(5)日本の言葉遊びや知恵選ぶ


ぽかぽか春庭「目次」2011年2月

02/02 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>光の春(1)旧暦大晦日
02/04 光の春(2)春立ちぬ
02/05 光の春(3)観劇サイモン・ヘンチの予期せぬ一日
02/06 光の春(4)春よこい

02/08 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>食べ物往来2(1)食べ物の外来語、追加カステラ
02/09 食べ物往来2(2)ナポリ風ボローニャ風

02/11 ぽかぽか春庭インターナショナル食べ放題>春を待ちつつ食べ歩き(1)バレンタイン・チョコセール
02/12 春を待ちつつ食べ歩き(2)カナダの国民的プーチン
02/13 春を待ちつつ食べ歩き(3)ミス・サイゴンとクメール天女アプサラ
02/15 春を待ちつつ食べ歩き(4)ラオス料理
02/16 春を待ちつつ食べ歩き(5)ランサーン
02/18 春を待ちつつ食べ歩き(6)アフリカ料理
02/19 春を待ちつつ食べ歩き(7)オーヴィレッジ
02/20 春を待ちつつ食べ歩き(8)カメルーン料理
02/22 春を待ちつつ食べ歩き(9)楽しクラス
02/23 春を待ちつつ食べ歩き(10)お別れランチ
02/25 春を待ちつつ食べ歩き(11)銀座で中華、銀座で煎餅
02/26 春を待ちつつ食べ歩き(12)お寿司deダンス
02/27 春を待ちつつ食べ歩き(13)横浜中華街のフカヒレコース


ぽかぽか春庭「目次」2011年3月

03/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年2月横浜散歩(1)中華街から山下公園へ
03/02 2011年2月横浜散歩(2)赤レンガ倉庫からランドマークタワーへ
03/04 2011年2月横浜散歩(3)ランドマークタワー夜景

03/05 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>摩天楼の詩(1)超高層ビル
03/06 摩天楼の詩(2)摩天楼の建設
03/08 摩天楼の詩(3)1939年9月1日、盲目の摩天楼

03/09 ぽかぽか春庭録画再生日記2011年3月>越境者の声(1)善き人のためのソナタ
03/11 越境者の声(2)冬の小鳥

03/12 東日本大震災

03/22 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>黙す春(1)漁師アトムさんの無事祈る
03/23 黙す春(2)元気だせ
03/24 黙す春(3)原発レベル5
03/25 黙す春(4)福島原発3号機爆発の動画
03/26 黙す春(5)安全神話の人災

03/27 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年3月>必ず春は来る(1)博士号授与式
03/28 必ず春は来る(2)母への報告
03/29 必ず春は来る(3)母への誓い
03/30 必ず春は来る(4)息子の卒業式
03/31 必ず春は来る(5)アトムさん無事!


ぽかぽか春庭「目次」2011年4月

04/01 ぽかぽか春庭言海漂流葦の小舟ことばの海を漂うて>良寛様の地震後記

04/02 ぽかぽか春庭録画再生日記2011年4月>越境者の声(3)遙かなる絆
04/03 越境者の声(4)国境を越える絆
04/05 越境者の声(5)トロッコ
04/06 越境者の声(6)トロッコは越境者を乗せて走る
04/08 越境者の声(7)トイレット
04/09 越境者の声(8)エアギターの音

04/10 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>あなたを忘れない(1)桜吹雪忌2011
04/12 あなたを忘れない(2)「怒濤の虫」の芸術家追悼文
04/13 あなたを忘れない(3)笠松登のこと
04/15 あなたを忘れない(4)渋谷君と野村君のこと、夕鶴の囲炉裏
04/16 あなたを忘れない(5)渋谷君と野村君のこと、三年寝太郎
04/17 あなたを忘れない(6)にしがたさんのこと
04/19 あなたを忘れない(7)思い出し供養

04/20 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>さんぽ(1)街歩き、池袋
04/22 さんぽ(2)街歩き、錦糸町
04/23 さんぽ(3)のはらうた
04/24 さんぽ(4)さんぽbyありんこたくじ
04/26 さんぽ(5)歩こう、あるこう私は元気
04/27 さんぽ(6)桜あるき

04/29 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年4月>挑戦を続ける人々(1)あこさんとけいこさん
04/30 挑戦を続ける人々(2)青い鳥ちるちるさん


05/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>挑戦を続ける人々(3)ビ・キドゥデの歌

05/03 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>5月3日の確認

05/04 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>新緑さんぽ(1)ささやかな行楽
05/05 新緑さんぽ(2)食べ歩きポタリング
05/06 新緑さんぽ(3)干し柿と羽二重団子
05/07 新緑さんぽ(4)みどりの日ポタリング
05/08 新緑さんぽ(5)みどりの日つつじ巡り
05/10 新緑さんぽ(6)母の日
05/11 新緑さんぽ(7)探検家になりたかった

05/13 ぽかぽか春庭今日のいろいろ>タカ氏のレポート(1)文化人類学志望
05/14 タカ氏のレポート(2)『モゴール族探検記を読んで』
05/15 タカ氏のレポート(3)ケニアのトルカナ湖で
05/17 タカ氏のレポート(4)トルカナ湖の夕日

05/18 春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(22)ナイロビからキスム経由カプサベットへ
05/20 1979年のケニア便り(23)ナイロビでスリにあう
05/21 1979年のケニア便り(24)ナイロビからモンバサへ
05/22 1979年のケニア便り(25)海岸の町モンバサ
05/24 1979年のケニア便り(26)モンバサの海とマリンディ
05/25 1979年のケニア便り(27)マサイに一泊
05/27 1979年のケニア便り(29)マラリア
05/28 1979年のケニア便り(30)ナイロビナショナルパーク
05/29 1979年のケニア便り(31)ジャカランタの花
05/31 1979年のケニア便り(32)ナマンガへ

ぽかぽか春庭2011年6月「目次」

06/01 春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(33)国境の町ナマンガ
06/03 1979年のケニア便り(34)ナマンガの小学校
06/04 1979年のケニア便り(35)ナマンガのみやげ物屋
06/05 1979年のケニア便り(36)ナマンガのルーカス家
06/07 1979年のケニア便り(37)アンボセリ国立公園
06/08 1979年のケニア便り(38)ルーカスの煙草畑
06/10 1979年のケニア便り(39)ナマンガの保育園
06/11 1979年のケニア便り(40)ナイロビの平凡な女たち

06/12 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年5月>薔薇さんぽ(1)庭園美術館のバラ
06/14 薔薇さんぽ(2)都電のバラ
06/15 薔薇さんぽ(3)荒川遊園地のバラ
06/17 薔薇さんぽ(4)本郷給水所公苑のバラ
06/18 薔薇さんぽ(5)神代植物園のバラ
06/19 薔薇さんぽ(6)薔薇の歌

06/21 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>紫陽花&あやめ散歩(1)府中郷土の森博物館
06/22 紫陽花&菖蒲さんぽ(2)皇居東御苑
06/24 紫陽花&菖蒲さんぽ(3)菖蒲沼公園、水元公園
06/25 紫陽花&菖蒲さんぽ(4)江戸文化とハナショウブと彩り御膳
06/26 紫陽花&菖蒲さんぽ(5)白山神社と六義園
06/28 紫陽花&菖蒲さんぽ(6)深大寺城跡、飛鳥山あじさい小径
06/29 紫陽花&菖蒲さんぽ(7)白金自然教育園


ぽかぽか春庭2011年7
月「目次」

07/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年6月>チャリティコンサート(1)夏至のキャンドルナイト
07/02 チャリティコンサート(2)ゲシフェスGeshiFes2011
07/03 チャリティコンサート(3)小さな祈りの灯コンサート
07/05 チャリティコンサート(4)トウキュウミュージックライブ

07/06 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011/07>青い鳥を探して(1)七夕の願いごと
07/08 青い鳥を探して(2)七夕誕生日
07/09 青い鳥を探して(3)葛西臨海水族園
07/10 青い鳥を探して(4)アクアマリン・フクシマのエトピリカ
07/11 青い鳥を探して(5)インドネシアフェスティバル2011

07/13 ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(1)たばこと塩の博物館「明治の輸出工芸品」
07/15 工芸さんぽ(2)三の丸尚蔵館「美術染織の精華-織・染・繍による明治の室内装飾」
07/16 工芸さんぽ(3)近代美術館工芸館「シマしま工芸館」

07/17 春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(40)ナイロ・ロングバケーション
07/19 1979年のケニア便り(41)ボーマスオブケニアのダンス
07/20 1979年のケニア便り(42)ボーマスオブケニアのダンスレッスン
07/22 1979年のケニア便り(44)ケニアのヤマトナデシコ

07/23 ぽかぽか春庭@アート散歩>建物さんぽ(1)ヴォーリズを訪ねて
07/24 建物さんぽ (2)ヴォーリズのチャペル
07/26 建物さんぽ(3)明治学院礼拝堂(白金チャペル)

07/27 ぽかぽか春庭@アート散歩>工芸さんぽ(4)庭園美術館・皇帝の愛したガラス
07/29 工芸さんぽ(5)泉屋博古館・書斎の美術
07/30 工芸さんぽ(6)鼻煙壺の美
07/31 工芸さんぽ(6)レプリカと百均もの


08/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記2011年8月>読書メモ2011前半

08/02 ぽかぽか春庭ニッポニアニッポン語教師日誌>2011年前期の学生たち(1)多彩な留学生
08/03 2011年前期の学生たち(2)Dear Sense
08/05 2011年前期の学生たち(3)ミス・サイゴン同窓会

08/06 ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(1)イサドラ・ダンカン
08/07 ダンス・ダンス・ダンス(2)イサドラ・ダンカン・ヘリテッジ・ソサエティ・ジャパン
08/08 ダンス・ダンス・ダンス(3)イサドラ・ダンカン・ワークショップ・アサインメント
08/09 ダンス・ダンス・ダンス(4)イサドラ・ダンカン・メソッド
08/10 ダンス・ダンス・ダンス(5)イサドラ・ダンカン・ダンスの継承
08/12 ダンス・ダンス・ダンス(6)イサドラ・ダンカン・レパートリー
08/13 ダンス・ダンス・ダンス(7)イサドラ・ダンカンの身体
08/14 ダンス・ダンス・ダンス(8)裸足のイサドラ

08/15 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>今日の確認

08/16 ぽかぽか春庭言海漂流・葦の小舟ことばの海をただようて>ダンス・ダンス・ダンス(10)フォーキンとイサドラ
08/17 ダンス・ダンス・ダンス(11)教育舞踊
08/19 ダンス・ダンス・ダンス(12)高校生大学生ダンス・コンクール
08/20 ダンス・ダンス・ダンス(13)ダンス・スピリチュアル

08/21 春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(1)近代美術館「クレー展」
08/22 夏のアート散歩2011(2)近代美術館「常設展」
08/23 夏のアート散歩2011(3)写真美術館「報道写真展」
08/24 夏のアート散歩2011(4)ブリジストン美術館「青木繁展」
08/26 夏のアート散歩2011(5)青木繁のケシケシ山
08/27 夏のアート散歩2011(6)多摩美術大学美術館アフリカの魂展
08/28 夏のアート散歩2011(7)多摩美術大学美術館タマビジャンベ部
08/29 夏のアート散歩2011(9)東京現代美術館常設展
08/30 夏のアート散歩2011(10)東京現代美術館アトリウムの椅子と蜘蛛の巣
08/31 夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館特集展示石田尚志


2011年9月「目次」

09/02 春庭@アート散歩>夏のアート散歩2011(11)東京現代美術館サイレント・ナレーター
09/03 夏のアート散歩2011(12)東京現代美術館カオス・ポエティコ詩的な混沌
09/04 夏のアート散歩2011(13)東京現代美術館"I am still alive."まだ生きている
09/06 夏のアート散歩2011(14)三井美術館「橋」展
09/07 夏のアート散歩2011(15)大谷美術館と大倉集古館
09/09 夏のアート散歩2011(16)練馬区立美術館グスタボ・イソエ展
09/10 夏のアート散歩2011(17)目黒美術館スケッチブック小川千甕と澤部清五郎の
09/11 夏のアート散歩2011(18)東京芸術大学美術館「源氏物語絵巻に挑む」
09/13 夏のアート散歩2011(19)源氏物語模写マネてまなぶ

09/14 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>夏のおでかけリポート2011(1)パラサイト&スーパーよさこい
09/16 夏のおでかけリポート2011(2)百段階段&333m
09/17 夏のおでかけリポート2011(3)ダンスィングワカメちゃん
09/18 夏のおでかけリポート2011(4)恐竜博2011
09/20 夏のおでかけリポート2011(5)打楽器コンサート&パンダ見物
09/21 夏のおでかけリポート2011(6)ブルーライト横浜たそがれ
09/23 夏のおでかけリポート2011(7)台風前夜同窓会
09/24 夏のおでかけリポート2011(8)秋分の日下町散歩

09/25 夏のお楽しみ日記2011(1)キッズオールライト
09/27 夏のお楽しみ日記2011(2)キッド・子役のあれこれ
09/28 夏のお楽しみ日記2011(3)ダンシングチャップリン
09/30 夏のお楽しみ日記2011(4)映画「小学1年生」

2011年10月「目次」
10/01 春庭フリースペースちえのわ赤道日記1979-1980>1979年のケニア便り(45)ケニアのダンス修行
10/02 1979年のケニア便り(46)ワイルドギース
10/04 1979年のケニア便り(47)ナイロビ下町エチオピア人ソマリア人地区
10/05 1979年のケニア便り(48)ハッサンの議論
10/07 1979年のケニア便り(49)ギカンブラ村へ
10/08 1979年のケニア便り(50)ギカンブラ村ホームステイ
10/09 1979年のケニア便り(51)ギカンブラの村の生活
10/11 1979年のケニア便り(52)ギカンブラの村のボーイフレンド
10/12 1979年のケニア便り(53)ギカンブラ村の畑仕事
10/14 1979年のケニア便り(54)ナイロビに戻る

10/15 ぽかぽか春庭@アート散歩>絵本の世界(1)いわさきちひろ美術館
10/16 絵本の世界(2)絵本の世界安野光雅展
10/18 絵本の世界(3)八王子夢美術館絵本展&国際こども図書館
10/19 絵本の世界(4)浜口陽三・南桂子
10/21 絵本の世界(5)橋をかける

10/22 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>秋のおでかけレポート(1)動物園めぐり
10/23 秋のおでかけレポート(2)郷土の森&神代植物園
10/25 秋のおでかけレポート(3)江戸東京博物館&たてもの園
10/26 秋のおでかけレポート(4)観劇『坩堝』
10/28 秋のおでかけレポート(5)涼山イ族写真展
10/29 秋のおでかけレポート(6)ぐるっとパス総決算
10/30 秋のおでかけレポート(7)物見遊山徘徊始末


2011年11月「目次」

11/01 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>>華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(1)開高健記念館
11/02 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(2)開高健の海
11/04 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(3)武者小路実篤邸
11/05 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(4)徳田秋声旧居
11/06 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(5)林芙美子落合の家
11/08 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(6)和敬塾本館
11/09 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(7)旧細川侯爵邸
11/11 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(8)旧三井男爵家本邸別邸
11/12 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(9)旧岩崎邸のケーナ
11/13 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(10)アールデコのおやしき朝香宮邸
11/15 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(11)旧前田侯爵家駒場本邸
11/16 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(12)佐伯祐三アトリエ
11/18 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(13)東京農工大学本館
11/19 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(14)東京農工大学で虫を食す
11/20 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(15)流転の王妃ゆかりの家
11/22 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(16)ゆかりの家いなげ
11/23 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(17)愛新覚羅溥傑仮寓
11/25 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(18)偽満州皇宮
11/26 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(19)デンキブランの家(旧神谷伝兵衛稲毛別荘)
11/27 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(20)デンキブランの店カミヤバー
11/29 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(21)蜂葡萄酒で乾杯
11/30 華族のおやしき画家のアトリエ作家の家(22)建物巡り散歩ひとくぎり


12/02 春庭@アート散歩>美術という見世物(1)浅草寺境内の油絵茶屋
12/03 美術という見世物(2)油絵茶屋の時代
12/04 美術という見世物(3)見世物vs美術
12/06 美術という見世物(4)生き人形
12/07 美術という見世物(5)生人形師
12/09 美術という見世物(6)高級芸術vs大衆娯楽
12/10 美術という見世物(7)物見遊山的鑑賞法

12/11 ぽかぽか春庭十一慈悲心鳥日記>2011年歳末(1)満月復活&日はまた昇る
12/13 2011年歳末(2)回顧2011
12/14 2011年歳末(3)私的10大ニュース
12/16 2011年歳末(4)絆
12/17 2011年歳末(5)国民総幸福度
12/18 2011年歳末(6)読書メモ2011後半
12/20 2011年歳末(7)遺されたもの
12/22 2011年歳末(8)ドラマ
12/23 2011年歳末(8)映画・ドラマ演劇メモ2011後半
12/24 2011年歳末(9)冬休み
12/25 2011年歳末(10)三美神
12/27 2011年歳末(11)冬の徘徊
12/28 2011年歳末(12)ホキ美術館&昭和の森
12/29 2011年歳末(13)海の中の天国
12/30 2011年歳末(14)森の中の木漏れ日の家
12/31 2011年歳末(15)カフェ終了


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