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ぽかぽか春庭「近代美術館工芸館北村武資の織物」

2012-03-31 00:00:01 | アート
2012/03/31
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(4)近代美術館工芸館北村武資の織物

 3月18日、三の丸尚蔵館を出て東御苑を歩いていると、雨が降り出しました。折りたたみ傘を出して梅林坂を上る。白梅紅梅が咲いていて、思いがけず梅見が楽しめました。
 
 前回、3月6日に「織を極める-北村武資展」の第1期を見て、入館券を買うときに、前期だけなら500円、前期後期の通し券なら850円と言われて、なんだか通し券のほうが割安な気がして、通し券にした。無料の次は割引きが好き。
 日曜日は混むからヤダなと思いながらも、どうせ見るなら北村武資のギャラリートークがある日のほうがさらにお得かも、と思って日曜日におでかけ。おまけに雨ふり。北詰橋から近代美術館工芸館へ。
http://www.momat.go.jp/CG/kitamura/index.html

 前期展を3月6日に見たあと、ネットで人間国宝北村武資の帯、1本おいくらかしらと調べてみたら、500万円だった。100万円代のもあるけれど、やっぱりどうせ買うなら、500万円のほうよねぇ。最高級品は帯1本1000万円だって。着物一枚1000万円と合わせて、2000万円着て歩くのも容易ではあるまい。群馬弁では、「ヨイじゃあねぇ」という。

 と、回っていると、3月6日に来たときとはえらい違いで、やたらに和服姿のたおやかな麗人たちがぞろぞろと集まっている。センセの講演会があるとなると、こんなにも着物姿が集まるのやわ、と感心する。
 麗人達の帯を見て歩く。鳥獣戯画のうさぎとカエルの絵がついている帯もあり、梅の柄あり。みな、とっておきの和装で、なかでも北村センセの帯締めている人は得意満面であろう。でも、私には古着市のリサイクル帯も人間国宝の帯も、区別がわからない。見る人が見れば、ちゃんと「あ、この方、北村センセの帯しめてはる(なぜか京都弁)」とわかるのやろ。
 2011年京都での「北村武資展」
http://www.momak.go.jp/Japanese/exhibitionArchive/2011/388.html

 帯や着物、布地の展示を見て、「はぁ、きれい」とため息交じりに見てまわりました。古代中国の織物研究から生まれた「羅」や「羅金」「経錦(たてにしき)」など、美しいデザインと色。
 北村武資作品例
http://www.nihon-kogeikai.com/KOKUHO/KITAMURA-TAKESHI/KITAMURA-TAKESHI-SAKUHIN.html

 ギャラリートークは、スライドで作品を映しながらの解説でした。私は、人間国宝ともなれば、織りのデザインはセンセが行うけれど、一段一段と糸を通し織り上げるのはお弟子筋がやるのだろうと思ったのですが、全部自分で織り上げるという話を聞きました。人間国宝が全部織り上げた帯やもん、500万とか1000万円とかするやろなと思います。

 そんな着物きたいか、と問われたら、、、、。私は展示されているのを眺めるだけでいい。どうせ着ても似合わないし、着ていく場所もないし、、、、、とは言うものの、むろん、私に北村センセの帯と着物プレゼントしてくれる人おられたら大歓迎。無料と食品売り場試食品つまみ食いとプレゼントが好き。

 5億円あたったら買おうかと思った北村センセの着物と帯。
 あたりました。グリーンジャンボ。10枚3000円を投資して、なんと3300円が当たりました。結婚以来、1年に1度2度は、「買わなきゃ当たらない」と思い「貧乏人の納税」と思って買ってきて、毎度300円のみの当選金でしたが、今回、3000円が当たって、これまでの最高獲得当選金です。3000円だと、北村センセの着物の切れ端くらいは買えそうだ。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「三の丸尚蔵館の正倉院裂れ復元展示」

2012-03-30 00:00:01 | アート
2012/03/30
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(3)三の丸尚蔵館の正倉院裂れ復元展示

 3月18日、雨のなか、三の丸尚蔵館と近代美術館工芸館をまわりました。
 東京駅から大手門へ。三の丸尚蔵館、無料公開が何と言ってもうれしい。皇族の財産相続にあたって相続税対策として美術品が国へ寄付され、一般公開されているものです。
 18日は、日曜日だったので、三の丸尚蔵館の狭い展示室はかなり混み合っていました。いつもは人もまばらな尚蔵館ですけれど、今回の展覧会については皇室ニュースとしてテレビでも新聞でも報じられたので、見学者も多かった。
http://www.kunaicho.go.jp/culture/sannomaru/zuroku-45.html

 皇室の養蚕は、奈良時代からの伝統と言われていますが、千年も途絶えていたのを、絹製品輸出振興国策の一環として昭憲皇太后らが明治時代に復興させたもの。
 この、御所での養蚕が、美智子皇后にも引き継がれてきました。紅葉山ご養蚕所では、小石丸という種類の蚕に桑を与えて育て、また、櫟(くぬぎ)の葉で育つ野生の蚕である天蚕の発絹糸をとっています。海外からの国賓などへのおみやげとしてこの絹糸から織られた布が贈呈され、皇后のドレス、内親王方の着物などもこの絹布から作られました。

 正倉院古代染織裂の復元が試みられ、調査の結果、小石丸の絹糸が最適とわかりました。しかし、小石丸は他の蚕にくらべ、繭が小さく生産性が悪いという理由で国内での生産は途絶えていました。わずかに紅葉山御養蚕所だけ、美智子さまの「古い伝統をたやさないで引き継ぐ」という方針のもと、小石丸の養蚕が継続されてきました。正倉院の小石丸繭の下賜要請を受けて増産が決定し、毎年繭の下賜が実現した結果、正倉院裂れの復元が可能となりました。
正倉院裂復元

 復元作業には多くの人々が関わりました。織りは京都の川島織物が担当したというのは、そうだろうと思っていたのですが、繭から糸を繰る作業は、群馬県の碓氷製糸農業協同組合が担当したことを知り、群馬の養蚕技術が関わっていることをうれしく思いました。富岡製糸の伝統を受け継ぐ技術。富岡製糸工場建物の世界遺産暫定リスト登録以上に、技術の伝承は誇るべきことと思います。

 今回の尚蔵館展示は、正倉院古代裂れの復元品の展示のほか、紅葉山養蚕所の作業のようすの写真や、黄繭種,白繭種,天蚕,小石丸から取られた絹糸、皇后さまがお作りになった藁蔟(わらまぶし:蚕が繭を作るときのベッドにあたるもの)などが展示されていました。
http://www.kunaicho.go.jp/event/sannomaru/tokubetuten.html

 また、皇后から秋篠宮眞子内親王への手紙が公開展示され、全文が掲示されていました。この中に「蚕が桑を食む小さな音が好き」と書かれていたことに共感しました。
 私は、母親の実家が養蚕をしていた時代を覚えており、蚕がサワサワと桑を食べる音が好きでした。同じものが好きなことを知り、親しみを感じました。ここのところには「恐れ多いことながら親しみを~」と書かなくてはいけないのでしょうけれど。

 手紙を見て感じたのは、御一家の問題。学習院小学校の「お年寄りの人たちが継続してきた仕事について調べてくる」という宿題は、東宮家の姫様にも同じような宿題が出されたであろうに、愛子内親王は「ばあば」に対して質問の手紙なんぞ出してはおられぬご様子だったから。次男家の嫁様、宿題が出れば、すかさず姑に手紙を書かせるのは、さすが。「あちら様よりわたくしどもの娘達の方が、ばあば様にお親しくかわいがっていただいておりますのよ」というアピールが国民にも伝わりましたです。

 養蚕の仕事を手伝うのも、次男家の嫁様と娘二人で、長男家は嫁も娘も養蚕に関わっていないようすがうかがえました。まあ、長男家でも次男家でもいいから、養蚕は続けた方がいいんじゃないかと。

 紅葉山御養蚕所の伝統が続いてきたように。市場経済の荒波にもまれない場所で続けられてきた文化を大切にしていきたい。生産性低くても小石丸養蚕が続けられたのは、繭を売って食っていかねばならない市場経済のフィールド外の場所として御所があったから。(今では日本古来の繭である小石丸のよさが認められ、群馬でも小石丸養蚕が復活しています)
 東博法隆寺館に残る伎楽面。ペルシャでも中国でも絶えてしまった雅楽や伎楽が日本では今まで千年も続いてきたのは、それを保持する所があったゆえ。

 復元なった正倉院裂れ、また春日権現絵巻の修復の展示を見て、小石丸養蚕廃止が検討された中、「古いものも残しましょう」と継続を主張した皇后(皇太子妃時代のことですが)の英断は見事だったと思います。蚕が桑を食むサワサワという音を好むというお人柄がなしえた決断だったと感じました。

 こう書くと、「戦後民主主義の支持者であるというのと、古い伝統を残せというのは、矛盾しないか」とかみつきたくなる人がいるのは承知。今の世の中、古い伝統文化云々と言い出すとたちまち民族主義者っぽっく見えるからです。
 ナショナリズムと戦後民主主義の問題について興味がある方に、以下の本をおすすめ。
 ナショナリストと自称する福田和也と戦後民主主義者と自己規定している大塚英志のふたりによる対談集『最後の対話―ナショナリズムと戦後民主主義』や、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』
 また、「天皇と文化」に関しては、三島由紀夫の「文化装置としての天皇」論ではなく、品田悦一『万葉集の発明―国民国家と文化装置としての古典』なぞをご参照ねがいたく存知候。
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ぽかぽか春庭「うに染めと螺鈿細工」

2012-03-29 00:00:01 | アート
2012/03/29
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(2)うに染めと螺鈿細工

 法隆寺展の会場を出ると、同じ日本橋高島屋8階フロアでは「大いわて展」というのをやっていました。岩手の県産品物産展。いろいろな食べ物や手工芸品が並んでいて、螺鈿細工やうに染めなど、お金があったら買いたいものがたくさんありました。

 螺鈿細工、川越市から宮古市に引っ越しして活躍している工芸家、澤井正道さんに作品を見せていただきました。でも、残念ながら私には高値の花。とてもきれいな螺鈿、いつか宝くじが当たったら買いたい。
http://sawaikoubou.com/prof.html
 テレビ朝日「人生の楽園」に出演したときの澤井夫妻。
http://www.tv-asahi.co.jp/rakuen/contents/past/0068/

 それから、田川宮子さんが主宰するアトリエぐらんの染め物、うに染めを見せてもらいました。田川さんは、三陸リアス海岸で育つウニのとげとげの殻から染料を抽出することに成功し、特許をとっています。ウニの殻から染料をとると、どうしてもウニ臭くなってしまうのを、特許の製法によって、色素を失わずに臭いはとることに成功したのだそうです。ウニの身を食べた後の殻は「廃棄物」でしたが、ウニ染めに使うことで、殻も生かすことができ、これぞ地球にやさしいエコ製品。

 東京では、アンテナショップの「いわて銀河プラザ」で製品を扱っているほか宮古市の「ぐるっと遊JR宮古駅前」、「シートピアなあど」、「浄土ヶ浜パークホテル」「宮古駅ジャスター」「グリーンピア田老」で購入可能です。
 田川さんのウニ染めの紹介ページ
http://sanriku.iwate-navi.jp/special/special02.html
http://iwatemirai.com/iwatenoiimono/iwateno06.html

 ウニ染めは、媒染液の違いにより、深い赤ワインの色からオレンジ、ピンク、藤色など、淡く透明な色彩に仕上がります。絹を染めたスカーフ、夢のような色合いでとてもきれいでした。一番小さなスカーフが3000円。私にはまだまだ高い。


 聖徳太子(旧)に御縁のない生活ながらヒデヨさんとはまあまあよい仲で、本日もよく食べた。ショウトクタイシ、おっと今ではユキチに縁のない春庭、岩手のためにお金を使うなら、やっぱりこれ、と、会場内「わんこそば」の店で「そば振るまい」というのを食べました。小さなおわんが6つ。それぞれに海老天ぷら、なめたけ、とろろなどがのせてある。あっという間に食べました。

 3月14日に食べたもの。13:00、仕事先最寄り駅前の蕎麦屋で肉南蛮そば700円。15:00おやつとして、高島屋の屋上で「ちびっこのためのミニ三陸鉄道」が、屋上フロアをぐるぐる回っているのを見ながら、ツナサンドイッチを食べました。(昼ご飯用として朝作ってかばんにいれておいたのだけれど、同僚と蕎麦屋に入ってしまったので、お昼に食べ損ねた)。小岩井農場直送の「農場飲むヨーグルト」(90ミリリットル=181円)、17:30わんこそば。ここでわんこそばが食べられるのなら、お昼ご飯はラーメンにしておけばよかった。「蕎麦とラーメンどっちにする?」と同僚と決めかねて、結局蕎麦にしたのでした。帰宅後、20:00、私が昨夜漬けておいた小カブの浅漬けと娘が用意した山かけ鮪と、息子がチンした生協の茶碗蒸し。

 「ハハ、ご飯はどうするの」と娘に聞かれ、小さな声で「今日はお昼におそば食べたから、晩ご飯のお米はパス」と言いました。夕方にも蕎麦を食べたことは自己申告せず。
 「そんなに食べたなら、今夜の晩ご飯は抜きにしなけりゃね」と叱られてしまうから。

 グリーンジャンボ5億円当たったら、澤井正道さんの螺鈿のブローチやペンダント、田川宮子さんののうに染めのスカーフやブラウスも買う予定だったのですが。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「法隆寺展の幡&天寿国繍帳」

2012-03-27 00:00:01 | アート

2012/03/27
ぽかぽか春庭十二単日記>布をみる(1)法隆寺展の幡&天寿国繍帳

 3月14日に学期末の講師会議に出席した帰り道。「春休みなのに、会議というオシゴトをした自分にご褒美」ってな気持ちで、なんだか寄り道したくなって、日本橋の高島屋に行きました。8階の催し物会場で法隆寺展を見るためです。
 今年は、聖徳太子が亡くなった622年から1390年の遠忌。

 一万円札の代名詞としてショートクタイシ1枚、とか言ったことを覚えている世代ももはや古びてきました。こののち1390年たったらI'mカンsorryも、I'mノダsorryも、だれも顔なんぞ知らないことになっているし、お札の顔には間違ってもなりそうにない。っつうか、1390年後に、日本があるのか。と、思うと、1390年後にも遠忌を記念して展覧会が開かれる聖徳太子は、やはり偉大な人、和をもってトートシなんである。
聖徳太子2歳の像

 そんな聖徳太子の何種類もの像をはじめ、法隆寺に伝わる彫刻や絵画、工芸、染織、書跡など、130点余りが8Fに展示されていました。招待券手に入れたときは、それほど見たくもなかったのですが、見ればやはり感銘深かったです。(東博のボストン美術館展の券に応募したのだけれど、これは倍率高くてもらえず)

 留学生への「日本の自慢」として、「世界最古の木造建築物」として紹介するのが、聖徳太子が創建した法隆寺です。建築はむろん、仏教美術の面でも重要なお寺。
 私は、中学校の歴史だか美術だかの教科書に「法隆寺壁画」や「天寿国繍帳」が載っていたのを見て育ち、高校修学旅行で斑鳩を訪れたときは、大感激でしたが、建物を一回り見る時間しかなくて、教科書に出ていた宝物まで見ることができなかった。そして、この高校修学旅行以来、斑鳩には行っていません。奈良京都には何度か行く機会があったのだけれど。あーそのせいでショートクタイシにあまり縁ができなかったのだね。

 聖徳太子については、歴史学の新研究がつぎつぎに新説をもたらし、厩戸皇子は推古天皇の時代に実在したけれど、聖徳太子というのは、後世にさまざまな人物象を継ぎ足して創作された伝説の人、という説が有力らしい。
 17条憲法は、漢文で書かれている日本書紀に記されています。しかし、古代中国語の研究からみると、厩戸皇子の自作ではない可能性が大きい。日本書紀あるいは日本書紀の元になっているいくつかの歴史書(日本書紀はいくつかの書を併記している)の筆者が聖徳太子に仮託して執筆したという説が提出されています。文字の使い方や文法研究からすると、厩戸皇子が飛鳥時代にかいたとは考えられないのだそうです。

 聖徳太子が伝説の人であるとして、後世の私たちは伝説としての聖徳太子像を知り、伝説は伝説として受け止めればよいのだと思います。
 空海・弘法大師伝説が日本中にあるのといっしょで、歴史は歴史、伝説は伝説です。私たちは、偉大な出来事があるとなにもかも「あのお方のおかげ」と仮託してしまう。たとえば、「平仮名は空海が作った」というような伝説。これは、仮名文字成立史と発音史の上で、はっきりと否定されています。でも平仮名成立によって現在までつづく日本語表記ができあがった、ということを、「弘法大師のおかげ」と信じてきた人々の気持ちは、わかる。
 厩戸皇子が17条憲法を書いたというのが違うとしても、厩戸皇子を聖徳太子として後世の人があがめたことは、事実です。厩戸皇子が「聖徳太子」として敬われる対象となったのは、厩戸皇子の一族がことごとく滅ぼされてしまったことと関係しているだろうと思います。

 1949年の火災によって金堂が焼失し、現在、金堂壁画は模写しか残されていないというのは知っていたけれど、その他の法隆寺宝物のほとんど、1878(明治11)年に法隆寺から皇室へ寄付されていたということ、今まで知りませんでした。東博の法隆寺館には何度も足を運んでいるけれど、どうして法隆寺の宝物が東京にあるのかという経緯について調べたことなかった。

 明治時代初期、廃仏毀釈運動のため、お堂の補修もできないようになっていた全国の寺の中で、法隆寺は宝物を皇室に寄贈し、かわりに下賜金1万円を受け取るという方法をとりました。
 明治11年の貨幣価値の現在通貨換算、比較するものにより換算指数がことなってくるので、一概に言えないのですが、明治10年代の1円は、現在の価値では米換算でおおよそ1万円にあたると考えることができます。この計算では下賜金一万円は、1億円相当にすぎませんが、宮大工の手間賃に換算すれば数億円に相当し、おかげで堂宇を修理することができたのだそうです。又、多くの寺の宝物が海外流出をしてしまった中、法隆寺は一番安全な皇室を寄贈先に選んだおかげで、宝物の散逸が防がれる結果となりました。

 皇室所蔵となったおもな宝物は、帝室博物館所蔵品から移行し、現在では300余件が国立博物館の所蔵になっています。たとえば、伎楽面。東京国立博物館の法隆寺宝物館では本物を見ることができます。しかし、高島屋の法隆寺展出品は、江戸期の模造でした。そのほかの展示物も、模写模造が多かったです。
 聖徳太子唐本御影・聖徳太子摂政像・同胎内仏・中宮寺天寿国繍帳・玉虫厨子・夢違観音などレプリカが展示されていました。

 模写、模造でも見ることができてよかったものが多い。たとえば天寿国繍帳のレプリカ。現状模造なので、刺繍糸のすり切れたところなどもそのまま模倣されていて、橘大郎女が太子をしのんで天国におわす面影を糸に表現したという言い伝えが、伝説であろうと、真説であろうと、刺繍の糸目に女性たちがこめてきた思いというのが伝わるように思いました。
天寿国繍帳現状模造

 仏を荘厳した幡という布地、すり切れていた物もありましたが、これらは本物でした。飛鳥奈良時代に織られた「綾幡残欠」のうち、紺地のものは、欠損も少なく、綾の菱形の織り模様がはっきりとわかり、当時の機織技術に見入りました。

 模写は、鎌倉室町時代に行われたものや、江戸時代のものなど。
 焼けてしまった金堂壁画を戦前に模写した画家達が、模写の合間に合同で作った画帳などの展示もありました。1949年の不審火による火災で大半の金堂壁画が焼失したものの、1940年から模写をしていたおかげで、どのような壁画だったか、知ることはできます。それにしても、国の宝をもっと手厚く保護する方法がとられていたらなあと残念に思います。法隆寺火災以後、文化財保護法ができました。

 玉虫厨子もレプリカですが、現状模写なので、きらびやかな玉虫の羽の飾りははげているレプリカ。東京国立博物館のレプリカ展では、現状模造のほか、制作当時の復元模造もあり、玉虫の羽がぴかぴか光ってきれいだったのを思い出しました。私、光もんが好き。螺鈿とか、ぴかぴかもんが美術館にあるとつい見入ってしまい、これ、売り物じゃなくて、博物館で見ることができてよかった、と思います。売り物だったら、どこかの金持ちが買って帰り、私はもう二度と見ることができなくなってしまう。

 「法隆寺展」、デパート催事場の企画展だから、客寄せついでの展示だろうと思って入場したのですが、思いがけず充実した時間をすごすことができました。

 聖徳太子(旧)にも福沢諭吉(現)にも縁の無い生活ですが、日本橋でグリーンジャンボ買いました。聖徳太子の7歳像にも2歳像にもお参りした御利益があるに違いない、と信じたのですが、、、、御利益は、、、、。あらま、慶応大学へ行って福沢諭吉像にお参りしたほうがよかったのかも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「空はうららかそよそよ風に・鎌倉の春」

2012-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/26
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>赤い花束車に積んで(4)空はうららかそよそよ風に・鎌倉の春

♪ラララ 空はうららか そよそよ風に 春が来た来た 町から町へ
 ビルの窓々 みな開かれて 若い心に 春が来た

 春が来て「ビルの窓々みな開かれて」と歌いたいところなんですが、近頃は、花粉症もあるので家の窓もあけられないし、電車の窓もビルの窓も、開閉できないものが多くなっています。

 窓を開けられないまま電車に乗って、鎌倉へ行ってきました。3月22日、「藤牧義夫展」を見るのがメインの目的ですが、鶴岡八幡宮、建長寺にもお参りして、境内の梅の花見も楽しみ、風はまだ冷たいものの陽は高く「光の春」を満喫できました。藤牧義夫展については、のちほどリポート。「鎌倉の春」について先にご報告。

 鎌倉駅前に9時ちょい過ぎに着き、小町通りの店はまだ開店していないなあと思って、駅前からバスに乗りました。歩いてもたいしたことないとは思ったのですが、一日中歩くことを想定して、まずはバスで大宮大路をまっすぐ。八幡宮前で下車。大路の桜、まだ花芽があまり大きくなかった。
鶴岡八幡宮の巫女さん
 鶴岡八幡宮。朝早いので、緋袴を履いた巫女さんがおみくじか何かを入れた箱を運んで歩いているほか、人出もまだまばらの境内。ベテランガイドが新人に教えているのか、境内を横切る通りの説明をしていました。
 「この道で流鏑馬(やぶさめ)が行われるんですけどね、流鏑馬の範囲を示す柵があるんですけど、この柵を埒(らち)って言うんです。ほら、埒が明かないっていうときのラチ」「えっと、北朝鮮なんかがやったラチ?」「いえ、そうじゃなくて、、、、」新時代の人に日本語教えるのもたいへんです。この流鏑馬の説明、いつ埒が明くのやら。

 階段を上り、大銀杏のあとを見ました。鎌倉二代将軍源頼家の子、公暁が三代将軍源実朝を暗殺したときに隠れていたという伝説の大銀杏。樹齢1000年とも伝えられていた大樹が、一昨年2010年3月10日未明に強風のため倒れました。切り倒された根からはひこばえが育ちつつあり、もとのような大木に育つのは、これから先1000年。まあ、そのころまだ日本が沈没していなかったら、また、誰かを暗殺したい誰かが隠れるにふさわしい太さになっているでしょう。

 八幡宮に、家内安全学問成就健康長命その他もろもろ全部お願いしてから、近代美術館の鎌倉館&新館を見て、そのあと新館むかい側にある「歐林堂 」という洋菓子店に入りました。格式タカソーな店で、こういう気取った店とは相性悪いんですが、「せっかく鎌倉に来たからには、ちょっとはお高くとまってみようかしらん」という気分で、入って見ました。アンティークっぽいテーブルと椅子、アンティークっぽいカップボードに、お高そーなカップセットや青いお皿がいっぱいならんでいます。テーブルに運ばれているティーカップセットも、私が普段使う百均のマグカップなんかとはあきらかに違う、高そうなカップ。あれま、落として割ったりしないようにしなきゃ。
歐林堂外観店内

 ケーキはひとつ500円以上。紅茶は、「ロイヤルダージリンティ」750円、「アールグレイ&マリーゴールドティー」750円、ですと。わぉっ!あたくし、普段はスタバのコーヒーだって高いと感じて、マックの140円Sカップを飲んでいるんだよ。(しかも必ずおかわり注文)
 紅茶ケーキセットで1200円だか、1300円くらいしそうなので、どうせなら腹の足しにと、思ってしまう貧乏性。朝ご飯は、ゆうべの残り物の焼きうどんをしっかり食べてきたので、空腹には少し早いけれど、キッシュランチというのを注文しました。1300円。

 オニオンのスープ:カップに長時間炒めたとおぼしき玉葱がビーフ味スープで煮込まれていて濃厚な味。
 キッシュ:パイ生地はさっくりしておいしい。中は卵と玉ねぎ。
 紅茶:本日のホットティーはカモミール。
 ナイフフォークを正しく使い、きどってキッシュを食べていたら、紅茶カップは落としたりしなかったけど、フォークを落とした。
キッシュランチ

 「ハウルの城」のエンジン室蒸気機関のようなのが並ぶ圧力湯沸かしが中央にあって、シュバーッというすごい音をだしてティーサーバーにお湯を入れる。お湯を入れている中年のウエートレスさんに尋ねるのはちょっと叱られそうな格調高いようすでシュバーッだったので、若いお運びのウエートレスさんに、こっそり「普通の薬缶のお湯で淹れるのとは味が違うんでしょうか」と質問してみたら、「圧力がかかるために、茶葉から香りと味がよりよく引き出されます」ってな説明を受けた。そう思って飲めば、確かにおいしい気がする。
 鎌倉に来て、普段なら絶対に飲まないオタカイ紅茶を飲んでみた。春うらら。

 巨副呂坂切通し(こぶくろざかきりとおし)を抜けて、建長寺へ。本堂のお地蔵様にお参り。家内安全学問成就健康長命その他もろもろ全部おねがい。御縁があるように、毎度お賽銭は五円玉なので、もろもろ全部ねがうのは虫がいいかと思いつつも、神様仏様はお賽銭の額で差別をするようなセコイ方はいらっしゃらず、必ず私の安全長命をまもってくれると信じています。南無なむ。
建長寺山門

 川口市から来たという中学生のグループがワイワイ言いながら見学している。山門の敷居をまたぐとき、躓いて蹴っ飛ばしてしまった男の子が「わあ、蹴っちゃった。神様のバチあたらないかな」と心配している。「あー、君きみ、ここは神さまじゃなくて、仏さまだからね。そんで、神様も仏さまも、御心広いから、しきい蹴っ飛ばしたくらいじゃ罰なんかあてないよ。蹴っ飛ばして罰あたるなら、歴代の首相あたりは、みんなアッチ死にしているだろうて」とか教えてやろうかと思ったが、そもそも「神も仏もありませぬ」by佐野洋子。

 鏑木清方美術館を一回りして、小町通りをあれこれ買い物しながら駅へ。鎌倉ハムと、うさぎ饅頭と、なぜかアフリカ小物など買う。メイドインチャイナ、メイドインタイと同じ値段の百円箸が、メイドインジャパンと書かれた袋に入っているのを見て、ぜったいにこっちもメイドインどこやらだよ、と思いつつ、3膳買う。
 平日の午後というに、すごい人出。さすが観光地鎌倉。今「最後から二番目の恋」というキョンキョン主演のテレビドラマの舞台が鎌倉なので、そんな効果もありそうな。私も、キョンキョンが東京までの通勤につかっている江ノ電に乗りたくなったので、江ノ島経由で帰ることにしました。江ノ電鎌倉駅の売店で鎌倉コロッケを買って食べながら電車を待ちました。

 同じ発想の人はいるもんで、キョンキョンが乗り降りしている極楽寺になったら、プラットホームの駅名板を写真に撮っている女の子がいた。そうそう、ここで乗り降りしていたら、最初の恋も最後から二番目の恋もいろいろ巡り会えるかも。

 江ノ島は横目で見ただけで、小田急江ノ島駅へ。駅前のマックで140円のコーヒーSを頼むつもりだったけれど、キッシュランチのキッシュはお上品に小さくて、小腹が空いたのでフィレオフィッシュMMセット&チキンナゲットを頼んだ。640円。これなら湘南海鮮丼の店のほうがよかったかなあと悔やみつつ、フィレオフィッシュも同じ魚だしとあきらめて食す。いつもSカップコーヒーをおかわりするのだけれど、Mカップは思いの外大きくて、飲み干すまで時間がかかったけれど、無理矢理おかわりする。
 
 朝7時に家を出て、夜8時30分帰宅。丸一日の日帰り行楽、鎌倉の春。交通費、地下鉄JRバス江ノ電小田急、合計2310円。食費、キッシュランチ、コロッケ、フィレオフィッシュセットで合計2030円。入場料(鎌倉近代美術館、鏑木清方美術館、建長寺)合計1050円。おみやげ(鎌倉ハム、鎌倉五郎本店うさまん、箸など)、2000円。一日の行楽費計、7390円。
 藤沢のりかえ快速急行で新宿へ。もう車窓はまっくらで、ビルの窓々、みな開かれているかどうかは見えなかったけれど、全部しまっていたであろう。
♪ 空はうららか そよそよ風に 春が来た来た 町から町へ ビルの窓々 みな開かれて 若い心に 春が来た
古都の階段に咲く紅梅

 撮影した写真を小さく変形して保存する方法がやっとわかったので、鎌倉で撮影したへたっぴ写真を載せました。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「店のさきにも春の唄・漢字も歌う絆」

2012-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/25
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>赤い花束車に積んで(3)店のさきにも春の唄・漢字も歌う絆

♪ラララ 啼けよチロチロ 巣立ちの鳥よ 春が来た来た 森から町へ
 姉と妹の あの小鳥屋の 店のさきにも 春の唄

momosukeさんから質問がありました。(2012-03-14 10:40:44)
>絆という言葉は糸を半分づつ引っ張っているという意味なのですか?

>hal-niwa返信コメント(2012-03-14 20:04:16)
 「絆」という字の旁は現在使われている「半」ではなく、上側は「八」になっています。「一つ」のものをふたつに「分ける」という意味の「八」です。下側の本字は「牛」です。中国でこの文字が作られたときは、「牛の足をつなぎ止めるヒモ」「拘束具」という意味でした。
 そこから、「絆」は、「牛や馬の脚をつなぎとめる網」「拘束するもの」「つなぎとめるもの」という意味になりました。
~~~~~~~~~
 と、コメントしたのですが、説明に不足や誤記があったので、もう少し詳しく字源について述べます。
 春庭の「にほんごの店」、店先にもHALのうた。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆
 漢字の字源には、諸説があります。漢和辞典によっても、異なる説明が出ているのです。さらに後世になるほど「通俗字解」というものが出てきて、わかりやすくはあるけれど、本来の漢字の意味とは異なる説明になっていたりします。中国で古来から行われてきた字源研究にも、通俗字解が混じっていて、それを日本の学者が信じて本に残し、それが通説になる、という場合も多い。

 長らく漢字字解の本家とされてきたのは、中国後漢時代の『説文解字』です。『説文解字』は最古の部首別漢字字典で、後漢の許慎(きょしん)が篆書の文字を分類し、紀元100年(永元12)に成立しました。後漢の時代に最も古いと見なされていた始皇帝時代の編纂による篆書の文字を部首によって分類し、字の本義を記しています。

 しかし、篆書文字以前の甲骨文字などについてはまだわかっていなかったため、たとえば「王」という字について、許慎は、「天地人三才を貫くもの」と字解し、「三」の字を縦棒で貫いて出来た、と解釈しました。しかし、甲骨文字の原点に戻って字源を研究した白川静は、「王」を「大きな鉞(まさかり)の頭の刃の部分を下にした形。この鉞が王の座る席の前に置かれ、王のシンボルとなり、王の意味となった」と解釈しました。


 「口」という字は、従来、顔の中の口を開けた形とされてきました。しかし、白川は、新発掘が続いた甲骨文字や金文資料を吟味することにより、口(くち)と解釈するものではなく、「神に捧げる祝詞を収める箱」と解釈しました。音読みは「サイ」、訓読みは「ノリト」と提唱しました。
 白川字源研究は人気が高いですが、批判者もいます。また、留学生への漢字教育で、「口」の字を教えるときは、『説文解字』に従って、口を開けた唇の形を絵にして、その上を「口」の形になぞって、印象づけて覚えさせています。この方が手っ取り早く印象に残るからです。

 そのほか、「体」という字、留学生には、「人のオリジン(もと=本)になる体」と教えていますが、本来「体」の本字(繁体字)は偏が「骨」で旁が「豊」という字「體」です。でも、暗記のために、新字に合わせて便宜的な説明をしています。 

 絆は、留学生への説明でには「You and I are bound together with a thread. We are better half.」なんて言ったりしますが、これも記憶のためで、本来の字源ではありません。
 「絆」は、会意文字(二つの意味を組み合わて出来た文字)ではなく、形声文字(意味を表す部首と発音を表す部首を組み合わせた文字)なので、偏の意味は「糸」に関わるけれど、旁は「半ハン、バン」という発音を表しています。

 この「絆」という字が中国から日本にもたらされたとき、訓読みとして「きづな」が与えられ、平安時代中期の辞書『和名抄』には、「牛や馬をつなぎ止めておく綱」の意味で用いられた用例がでています。
 現代の国語事典で「羈(音読み:キ、訓読み:おもがい、つな、たび)」と組み合わさった「羈絆(きはん)=行動する人の足手まといになるもの、束縛になるもの」は、日中辞典(岩波)にも「羈絆(簡体字:表示できず)jiban」とありますが、現代の若者たちは、日本語の「絆きづな」を中国語に翻訳するときは「羈絆」を用いているらしいです。
 以下は、中孝介のうた「絆」の中国語(台湾)訳。
http://www.youtube.com/watch?v=3OHMct0yOX8&feature=related
♪いつでも答えは 僕らのすぐそばに:不變的答案 就在你我身邊
大切な絆を この手の中 繋いで:手中緊握著 連結你我 重要的羈絆

♪今日も仲間の笑い声が聞こえる:一如往常聽見的朋友們嬉鬧的聲音
ふざけあいながら:打鬧嬉笑中
語らう夢のカケラ達:一邊訴說著那夢想的點滴

♪遠く離れた母親からの手紙:遙遠的母親寄來的信
身体を気遣う言葉が並ぶ:寫著要多注意自己的身體
深く深く染み込む愛を:深深的深深的這份愛
時に僕らは忘れてしまうけれど:即使偶爾我不小心遺忘
いつも目には見えない:但總是被那眼睛所看不見的羈絆所相繫著
「絆」が僕を支えてくれる: 給我支持給我鼓勵

♪いつでも答えは 僕らのすぐそばに:不變的答案 就在你我身邊
大切な絆を この手の中 守り続けたい:我要好好守護 連結你我 重要的羈絆

♪今日も僕らは人ごみに流されて:今天依然在洶湧人潮裡流失
自分の居場所を探し続ける:尋找著自己的棲身之處
もしも辛い時が来たなら:如果遇到困難
涙の理由を一人で抱えないで:不要一個人孤獨落淚
君の笑う姿を:相信在某處
誰かがきっと待っているから:總有著人期待著你的笑容

繰り返される 悲しいニュースが溢れる:不斷播放 令人悲傷的新聞
誰かを傷つける為に :人絕對沒有生來就是
生まれてきた訳じゃないだろう:為了傷害某個人

♪いつでも答えは 僕らのすぐそばに:不變的答案 就在你我身邊
大切な絆を 胸の奥に感じて:心中能感受到 連結你我 重要的羈絆
素直に愛を繋いでいけたなら:單純的因為愛而互相吸引
互いに信じあえる:就能相互信
その強さを 守り続けたい: 這份強韌 我要堅守下去
僕らの「絆」を: 那就是你我之間的羈絆
☆    ☆    ☆    ☆    ☆

 春庭の「にほんごの店」、店先にもHALのうた。
(当店の通貨「Hal9000」は、日本円の9000円に相当します。
 「春庭の日本語の解説」を買いたいかたは、壱HALをお支払いください。この壱HALは、日本円換算して9000円。これをふたりで飲んだ場合の「居酒屋おごり」に充当いたします。ふたりで飲み食いして壱Hal。ま、妥当な額かと。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「青い野菜も市場について・凍み菜、青菜」

2012-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム


2012/03/24
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>赤い花束車に積んで(2)青い野菜も市場について・凍み菜、青菜

♪ラララ 青い野菜も 市場について 春が来た来た 村から町へ
 朝の買物 あの新妻の 籠にあふれた 春の色

 20日、春分の日はお彼岸中日。姑とお墓参り。姑は、徹底的合理主義の人なので、「死後の世界」というのも信じていないようなのですが、「お墓参り!」の号令をかけるのは、そう言わないといっしょに出かけたりしない姑の息子(私の法律上の夫)をかり出すためのもの。で、故人に線香あげるのはちゃっちゃと済ませて、後楽園遊園地を抜けて「後楽園飯店」へ。ランチコース。

 一家五人そろっての食事というのは、正月以来で、「家族で食事」は、年に数度のみ。食べ終わると夫はさっさと事務所へ。徹夜で『一瞬の風になれ1,2,3』を読んでいて、寝てないので「眠い」という息子は帰るというので、娘も「散歩より昼寝」と言う。
 姑と私ふたりで、後楽園庭園の梅花見。庭園にはスミレも花を見せていて、梅は見頃でした。梅の前のベンチでおしゃべり。
 今までいくらすすめても、「他人が家のことにかかわるのはイヤ」と言っていた姑が、87歳にしてようやく「要支援1」という認定を受け入れ、週に1時間の要支援「おふろとトイレの掃除」をしてもらうこととなりました。これから、だんだん、部屋の掃除や買い物など支援内容が増えて行くかも知れませんが、ヨメは家族の稼ぎ手なので、姑の家事手伝いまではできないのです。

 以前、姑に「買い物は荷物が重いのでヘルパーさんに頼んだ方がいい」と言ってみたところ、姑が主張するに「スーパーにキャベツ買いに行って、キャベツが高かったら、今日の野菜はキャベツはやめて、大根にしようって自分なら判断して買うけれど、ヘルパーさんにキャベツ買ってと頼んだら、高くてもなんでもキャベツを買ってくるだろうから、それじゃイヤ」というのです。60年以上、主婦として家計を切り盛りしてきた感覚からすると、高い野菜を買うなど、生活者の風上にもおけぬ、ということになるらしい。

 この冬、野菜が高くて困った、という話になりました。大根1本250円、キャベツ1玉350円、となると、大根下ろしもサラダもおちおち食べられない。値段が変わらない生協のつけものセットなんぞで野菜不足を補うことで、この厳冬の野菜高騰期を乗り切ったという話をして、ちゃんと野菜高騰に対処したヨメであることをアピールしました。もっとも、姑から見たら、漬物を自分で漬けたりせずに、生協の袋入りなんか買うのはダメ嫁なのかもしれません。

 昔は、冬の間は青菜は食べられなかった。白菜を漬けたり大根のつけものが冬の野菜でした。子どもの頃、わが家の家庭菜園でとれた菜を使って、父は「凍み菜(しみな)」というのを作っていました。うちの近所では「かき菜」と呼ばれていたいつも畑にもじゃもじゃと生えていた青菜を冬のはじめに大量に茹で、その束を2階の出窓のてすりにぶら下げて乾燥させる。よく乾燥した菜を5センチくらいに切って袋に詰めておく。
 いわば乾燥野菜のはしりだったのだけれど、わが家は干し大根などは作っていなかったのに、この凍み菜は毎年作っていたのでした。一冬のあいだ、味噌汁の具に菜っ葉を入れるといえば、この凍み菜ばっかりでした。

 冬場に青菜がいくらでも手に入るようになってからも、父はこの凍み菜を作り続けて、妹は「私は凍み菜の味あんまり好きじゃないから味噌汁にも使わなくなって、まだこんなに余っているから、東京に持ってってよ」と、もてあましていました。
 父が亡くなって17年。ときどき冬場の凍み菜の味がなつかしくなります。

 地元群馬以外にもこの凍み菜が食べられている地方があるかどうか調べてみようと検索をかけたのですが、結局、地元の「道の駅」で売られていたことがわかっただけです。ああ、この出荷者の名前、見たことある、と思いました。地元の道の駅の農産物や手作り品には、生産者の名前と住所が入っているんです。
http://komochi.sblo.jp/article/34808546.html

 「青菜」の「青」については、何度か書いてきました。緑色の菜っ葉をどうして「青い」というのか、という質問は、小さな子からも留学生からもよく出てくる質問です。「青葉」「あお馬」「青い顔」などの「あお」
 古代日本語の色彩名称は、黒、白、赤、青の四つのみ。燃えるような明るい色は、「赤」。黒、白、赤に含まれない「その他」は「青」でした。そのため、今で言う「グレー」の毛並みの馬は「あお馬」だったし、血の気を失った顔色は「あおい顔」です。青菜の青も、赤でも黒でも白でもない色の菜っ葉。

 たった今萌え出たつやつやした新鮮なものを「みどり」と呼び、生まれたばかりの新生児は「みどり子」、つやつやした美しい髪は「みどりの髪」。新鮮な若葉は「みどり葉」。のち、「緑色」が色彩名として定着しました。しかし、緑色の野菜を扱う店や市場も「青果店」「青物市場」と、「青」の字はそのまま残っており、青菜も「みどり菜」と改名はされませんでした。

 昔、凍み菜が冬場の青物だったころ、春になって八百屋に新鮮な青菜が出回ると、ああ、春になったのだ、と皆が食卓の春を喜びました。
 今はどんな野菜でも1年中食べることができるけれど、春野菜のおいしさは格別です。
 さあ、今夜もサラダをたっぷり食べたいけれど、いつになった野菜が安くなるのやら。あ、サラダがなくても、なんても全部たっぷり食べてしまい、結局は冬も春も体重増加ってことは、かわらないのですが。

 暑さ寒さも彼岸までとは言っても、今年の春は足が鈍い。夕暮れ、陽が西に傾くと風はいっそう冷たくなります。
 姑を春日駅まで送り、三田線のホームから電車に乗せました。乗り換え駅まで送ってそれから帰宅しようと思ったのですが、「大丈夫、ここまで来れば一人で帰れる」というので、じゃあ、とホームから見送りました。

 地下鉄1本で、ドアtoドアで1時間の距離に住んでいる姑と嫁。1時間はちょうどいい距離と思って暮らしてきたのですが、そろそろ同居の時期を考えなければならないのかも知れません。姑はこれまで「90歳すぎて、身の回りのことがたいへんになってきたら、お願いね」と言っていたのですが、、、、。 姑から見たらいつまでたっても「青二才」の青嫁ですが、姑90歳で同居する頃には、こちらのほうが青息吐息になりそうな。

さて、春の一日、明日も歩いて足腰鍛えよう。
 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「菫買いましょ野のスミレ・パンセソバージュ」

2012-03-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/23
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>赤い花束車に積んで(1)菫買いましょ野のスミレ・パンセソバージュ

 アイデンティティ(略語ID)は、「自分は何者であり何をして生きる人間であるか」という個人の心の中に保持される概念。自我同一性。「自分が自分であること、自分として存在すること」。

 無理矢理「自己証明」などと和訳されていますが、アイデンティティというカタカタ語そのままで、あるいはIDと略された形で、「IDカード」「学生ID」など、使われています。
 パソコン用語としてのID、identification、は、「システムの利用者を識別するために用いられる符号」ということ。

 春庭という名をIDにしてからはや満9年が経ち、10年目に入ります。本名をネット検索すると担当授業名とか泣く泣く書いた論文が出てきて、なんだか自分じゃないみたい。本名よりも、「HALさん」「春庭」と呼ばれるほうが自分らしい気がします。
 
 何度か自己紹介してきたように、春庭とは、江戸時代の国学者本居春庭から名前を拝借しています。春庭は本居宣長の息子。盲目となったのちも、黙々と国学研究を続けた人です。そんな偉大な人に及びもつかぬは承知で、春っぽい名前が気に入って使い始めました。2003年には、「春庭」と検索すると、一番上に本居春庭が出てくるのは当然として、2番目には我がサイトが堂々出てきたのですが、9年たってみると、やたらに「春庭」という店名の花屋さんが増えていたり、新潟ではダイニングバーの店名になっていたり、春庭が増えています。春庭連盟の盟主にでもなろうかしら。

 春庭OCNカフェ日記のbbsページには「春庭カフェらパンセソバージュ」というタイトルをつけていました。9年たって「カフェラパンセソバージュ」を検索してみると、高知県にそういう名前のカフェレストランがありました。高知に行くことがあったら、絶対に寄ってみたい店です。たぶん、オーナーはレヴィ・ストロースのファンです。私もレヴィ・ストロースファンのひとりですから、きっとどのメニューの味とも相性がいいはず。

 「ラ パンセ ソバージュLa pensee sauvage」というのは、人類学者レヴィ=ストロース『野生の思考』(1962年)の原題です。(penseeにはeeの部分にアクサンがついているのですが、penséeが出ず、プレビューで確認したらLa pens醇Pe となってしまいました)
 私が『野生の思考』を読んだのは、20代のはじめ、文化人類学者になりたいと思っていたころでした。そのころ原題はまったく知らず、ソバージュとは、私にとって長い間「パーマをもじゃもじゃにしたヘアスタイル」の意味しかありませんでした。美容師だった姉の実験材料としてモジャモジャの頭にされ「これ、ソバージュっていうヘアスタイル、最新流行」と言われたんですが、「こんなんじゃ、学校にも行けない」と泣きました。

 文化人類学者はとうにあきらめ、中学校の国語教師になって、三色スミレを英語でPansyパンジーというのは、フランス語でPensee(思慮、思案、思考)から名付けられたと知りました。花咲くころ、花の頭を下に向けて思案しているような風情だからだそうです。「思案、思考」というフランス語由来のために、パンジーは「自由思想」のシンボルに用いられました。

 けれど、ソバージュはやっぱり「もじゃもじゃ頭」以外の意味は知りませんでした。
 30代になって娘が生まれて、近所の大学に再入学し、語学を以前よりはきっちり勉強するようになって、ようやくフランス語のソバージュは「野原の」「野生の」「原野の」という意味があることを知りました。フランス語は修飾語が被修飾語のうしろにくるので、「野生の思考」は「パンセ ソバージュ」となります。
 レヴィストロースは、フランス語でいう「野生の思考」という意味と「野のスミレ」という意味の掛詞として、未開社会の神話的な思考法を述べた著作に「La pensee sauvage」というタイトルをつけたのです。原著本の表紙は、三色スミレの絵を装丁しており、日本語版のみすず書房の装丁も、この原著の三色スミレの絵を用いています。

 『野生の思考』は「野のスミレ」でもあること、もとのフランス語は「ラ パンセ ソバージュLa pensee sauvage」であることを知って、もじゃもじゃソバージュ頭と「野生」が結びついたときは、「へぇ」ボタンを10回くらいたたきました。美容界で、アフリカ人のアフロヘアをアレンジした「野性的なヘア」が「ソバージュ」と名付けられたということでした。
 そんなわけで、引っ越してきたgooブログでは、「カフェらパンセソバージュ」をブログタイトルにいたしました。

 スミレというのは、私が子どもの頃、密かに自分の換え名にしていた呼び名です。本名はとてもダサくてかわいらしくないと子供心に感じて、でも「スミレ」ならかわいらしい、と思ったのでしょう。
 万葉集の山部赤人の句、「春の野のすみれ摘みにと こしわれそ 野を懐かしみ一夜寝にける」という和歌を知ったのは高校生のころ。
 1991年にタカラヅカスターのひとりに「春野寿美礼」という名がついたのも、この赤人の歌からの名付けだそうです。

 いよいよ春。スミレも咲き出します。
 ♪春は名のみの風の寒さや~、♪春よこい早くこい、歩きはじめの~ ♪春が来たはるがきたどこにきた~ ♪どこかで春が生まれてる~ ♪春のうららのすみだ川~ ♪春の日の花と輝くうるわしき姿に~ ♪春の小川はさらさら流る~
 いくらでも出てくる春の歌。山ほどある春の歌の中、今日の歌は、「ラララ赤い花束の唄」。
 正式名称は「春の唄」らしいけれど、「春の唄」じゃ、いったいどの「春のうた」なんだかよくわからないから、「赤い花束車につんでの唄」ってことで。
http://www.youtube.com/watch?v=RuEr7UU6kyw&feature=related
作詞:喜志邦三 作曲:内田 元

♪ラララ 赤い花束 車に積んで 春が来た来た 丘から町へ
 菫(すみれ)買いましょ あの花売りの 可愛い瞳に 春の夢

♪ラララ 青い野菜も 市場について 春が来た来た 村から町へ
 朝の買物 あの新妻の 籠にあふれた 春の色

♪ラララ 啼けよチロチロ 巣立ちの鳥よ 春が来た来た 森から町へ
 姉と妹の あの小鳥屋の 店のさきにも 春の唄

♪ラララ 空はうららか そよそよ風に 春が来た来た 町から町へ
 ビルの窓々 みな開かれて 若い心に 春が来た

<つづく>
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ぽかぽか春庭bbsコピー>男系

2012-03-22 06:31:19 | エッセイ、コラム
2012/03/22
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>BBSコピー(8)男系

ちょっと辛い気持ちです
rokujyou (2006-09-09 11:11:50 )
少し前は 日本中 男の子が誕生したとて大騒ぎ。経済効果が云々と言ってたけど
これについて 何か言うと 大変なことになるらしいから し~~~
翌日 (19歳の)男の子が 山の中で死んでいました。家族は葬式も出せやしない
死んだ人も 死なせた人も哀れなことよ
19にもなって 後先分らないとはと、バアは嘆くばかりなり

「命の大切さ」なんてマダルッコシイことを言うより して良いことと悪い事をキッパリ教えにゃあいけないのでは と思うんだけど
それと イマイチ 分らないが この少年の両親がお詫びの「メール」を送った事
ムカシモンなので こんな時は直筆の手紙ではと思うけど。年代の差なのかなあ

家を出られないなら 警察の人や 知り合いに頼むと言う手もあると思うが、感覚の違いだろうか



「Re:し~」と「Re:メール謝罪文」
haruniwa (2006-09-09 11:11:50)
 私も「し~!」派だけど、でも、いっちゃいます。
これで「問題先送り」しておくことになったのだけれど、あと30年40年先には、同じ問題が起きてきますね。

 徳川15代将軍のうち、正室から生まれたのは3代家光と15代慶喜のみ。あとは全部側室が産んだ。
 天皇家を徳川15代と比べてみれば、正室から生まれたのは、109代明正女帝(母は後水尾天皇の中宮徳川和子)と、桜町天皇の娘である後桜町女帝のみ。正妻から生まれたのは、ふたりとも女性天皇。
 後桜町以後、6代百数十年にわたって、皇后があとつぎを産んだことはなかった。明治天皇も大正天皇も側室の子。

 昭和天皇が貞明皇后から生まれたのは、大正天皇が病弱で側室を持つ体力がなかったことと、貞明皇后が、生来頑健多産系の腰つきを見込まれて皇室入りしたという事情から。
 貞明皇后に続いて昭和天皇の香淳皇后と、今の美智子皇后と、3代続けて皇后から男子が生まれたは、125代天皇家の中では、きわめて特殊な例が続いた、奇跡のようなもの。

 今後、この奇跡が続くとは思えないけれど、とりあえず、目先の心配がなくなれば、ので、50年後には、また新宮の配偶者が「男の子を生めないなんて、なんたること!皇室に嫁いだ意味がないじゃないか」と責め立てられて、適応障害になるんだろうね。お気の毒なご一家です。
 ご一家は、先代が「わぃらはカミやあらへんデェ」と宣言したのに、未だに基本的な人権も与えられていないのをみると、これはやっぱりカミではなくなったものの、ヒトにはなれていない存在なんだろうなあと、お気の毒に存じます。


メール謝罪文について
 20年前にキャノンワープロ専用機を使いはじめたときから、日記も手紙もワープロで書いています。
字がうまい人にはなんでもなく書けるから想像できないでしょうけれど、生来悪筆の人間にとって、ヘタな字で手紙を書かなければならなくなったとき、絶望的な気持ちになります。いくら心をこめて書き上げたとしても、悪筆をみた人は「いい加減な気持ちで、おざなりに書いたにちがいない」とか「こんな字を書く人は、人柄も悪いにきまっている」と、判断する。

 「文字には人柄があらわれます」なんてこと、上品そうな口振りでおっしゃる書道家とか、筆先で鼻こすってくしゃみでもさせたろか、って気になりますよ。
「ヘタな字でもいい、手書きのほうが心がこもっていると思えるんですよ」と、いう方にも、手紙を出しづらい。
というわけで、私は「絶対ワープロ派」です。

 でも、このような詫び状を書かねばならなくなったとき、さて、どうするかは、想像の範疇を越えていますが、やっぱりワープロでかくだろうなあ。

 それをメールで送るかどうかは、別として、手書き文字は、私にとって、悩みのタネ。
先週、手書きの美しい文字の書簡を受け取り、ああ、こういうきれいな文字を書く人に、ワープロ返信じゃ失礼になるのかなあ、と悩みつつ、まあ返信していません。
2006-09-09 11:50:55 ページのトップへ

訂正
haruniwa
 最後の女性天皇、後桜町天皇の母、青綺門院 (二条舎子 )は、立后していませんでした。正妻格ではあったけれど、身分は女御でした。だから、皇后から生まれたのは、中宮(皇后と同格)徳川和子が産んだ明正天皇だけかも。
ちゃんと調べたのではなくて、ウロ覚え雑学トリビアだ書き殴るのがクセなので、すみません。でも、皇后から生まれた天皇は125人のなかでごくわずか、ってのは本当。
2006-09-09 11:59:49 ページのトップへ

訂正つづき
haruniwa
 「正妻が嫡子を産むこと」に関して、近世以後についてのみ書きましたが、人々が「由緒正しき伝統」「古式ゆかしい皇室のしきたり」と信じている事柄の多く(たとえば、皇室祭祀)のほとんどは、近代以後、つまり明治以後につくられたもの。
 この夏、息子の影響で、戦国期安土桃山期の皇室関連資料を雑学トリビアしたので、この時期の皇室と公家について、ちょいと詳しくなりました。
 武将たちのかけひきと「天皇権威の利用」について知ると、権力争いの別面が見えておもしろい。

 旧満州国国務院実業部総務司長として暗躍した人。満州に残った兵と民を放棄し、A級戦犯として巣鴨に収容されながら、米国の共産国対抗政策変換のおかげで釈放され、首相になった人の孫は、彼を尊敬し、「美しい国」を作りたいそうです。

 「美しい国」にとっては、国家に従順に、極寒の地だろうとジャングルだろうと「醜の御盾」となって飢えて死ぬ「一般ビープル」と、「125代つづく伝統的ご一家」が必要だろうから、新宮夫人となる女性が安産多産系であることをお祈り申し上げます。
2006-09-09 13:10:26 ページのトップへ

Re:ちょっと辛い気持ちです
rokujyou
なるほど! とふに落ちました
ゆっくり じっくり読ませて貰ってます

メール謝罪文は これひとえに 我々がワープロを使い始めたのが 近年であるからだと思う
例えはヘンですが 漫画と書籍はどっちが上か てなもんだな
ワープロで手紙を作成する連れ合いも 最後の署名は 自筆だと新しく万年筆を買いました。その字が 高校で三悪筆人として有名な字です

シー キョロ キョロ
他所の方と結婚したら さぞ才能が花開いて 幸せになられたろうにと バアは気の毒に思っております。
テニスコートの恋なぞと女性誌やワイドショーは はやし立てるが 三代さかのぼって 係累まで調べられた上でのお膳立てとは痛ましい

天皇でも女帝でも お相手選びが 少し先に延びただけだよね
おまけに 天皇妃は長女でなくてはならぬそうで
昭和天皇は皇后の妹の方が気に入っていたらしいよ と死んだ母が聞かせてくれた噂話 (彼女は本願寺へお輿入れ)

いずれにしろ 大変だけど エリザベス女王のご亭主も頑張ってるね
2006-09-09 16:55:04 ページのトップへ

☆    ☆    ☆    ☆    ☆

2012/03/20
 女性宮家創設問題が話題になっています。世界の王室では「男女にかかわらず第1子を後継者とする」というのが趨勢となっていますが、「万世一系、男系のみを後継者とする」というのを金科玉条、この法則が壊れたら、この国はおしまいだと信じている人々も多い。

 信心は自由だから、男系を守りたいと思うのも自由だけれど、伝統を守るというのを死守するのであるなら、「皇室は一般人と異なるから、一夫多妻を家訓とする」と考えて、明治天皇までの伝統を復活させる以外にない。ユージンちゃんには、今からまわりに美女をごろごろ侍らせて、成人後はひたすら子作りに励んで貰うしかないかも。

 『平清盛』では、これまではドラマではあからさまに描かれていない歴史上の大スキャンダル、「崇徳天皇は父親である鳥羽天皇の子ではなく、中宮待賢門院璋子と、鳥羽天皇の祖父であり璋子の養父である白河上皇の間に生まれた不義の子である」ということが、ドラマの要になっています。

 千年前のこの事実のほか、表面に出なくても、さまざまなスキャンダルがあったことは確かな家系なのですから、ダンケーダンケーとこだわるより、不義密通でも人工授精でも、お子がじゃんじゃん誕生することこそめでたきなり。つるかめつるかめ。
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ぽかぽか春庭bbsコピー>ゴッホによせて

2012-03-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/20
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(7)ゴッホによせて

ゴッホによせて
haruniwa
  印象派、そしてセザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどポストインプレッショニストは、日本で格別に人気が高いですね。
 私が電車賃を払える地域は千葉市さいたま市横浜市までで、鎌倉となるとちと時間と電車賃を考えてしまうのですが、この地域でまとまったゴッホ展やセザンヌ展があったときは、欠かさず見に行っていました。

 私は、母がゴッホファンで、自宅の壁に「花咲く桃の木」のポスターを貼っていたりしたので、「絵を見る」ということをはじめたのが、ゴッホからでした。この『花咲く桃の木』は、1958年「フィンセント・ファン・ゴッホ展」が東京国立博物館で開催されたときに後援をした新聞社(読売)から新聞定期購読者に配布されたもので、母は長いあいだこの図版を大切に飾っていました。当時はファーストネーム、ヴィンセントではなく、フィンセントだったのね。

 母がゴッホの絵を好きだったのは、美術的にというより、三好十郎の「炎の人 ヴァン・ゴッホ小伝」や、読売が大々的に特集した記事などから彼の人物像が好きになってから絵を見るようになったのだろうと思います。
 私が子供のころ、母には画集を買うような余裕もなく、銀行のカレンダーにひまわりの絵があると、年がかわっても、絵だけは切り抜いてとっておくような、ささやかな絵の楽しみ方でした。

 私が最初にゴッホ展を見たのは、1976年の 「オランダ国立ヴァン・ゴッホ美術館所蔵ヴァン・ゴッホ展」国立西洋美術館
だったと思います。

 まとまった展覧会があるたびに何度も行ったゴッホ展ですが、カタログは高いので買えないことが多かった。それでもとぼしいお金をやりくりして集めてきた美術展カタログが、今年2月に起きた水害(上階からの水漏れ事故)で、本や畳が水浸しになったとき、美術展カタログも水に濡れてしまいました。
大半のカタログは、水でよれよれになり、惜しいと思いながらも捨ててしまいました。

 画集が出版されているようなメジャーな画家のカタログなら、画集を買えばよいと思いますが、画集が手に入れにくいマイナーな画家のカタログは、水でページがくっついてしまったような状態であっても、とっておくべきだったと後悔しています。

 しかし、洪水のあと、なんとか部屋を片付けなければと必死で、思考力などなく、とにかく濡れたものを捨てたのです。(春庭2010年3月の日記参照してください)
 しかし、2005年に竹橋の近代美術館で開催されたゴッホ展のカタログは、別の場所においてあったので、水にぬれませんでした。

 国立新美術館で開催される次回のゴッホ展と同じくファン・ゴッホ美術館とクレラー=ミュラー美術館からのコレクションです。
 私が初めて見た1976年のゴッホ展には、46万人もの人が絵を見に押しかけたのだそうです。

 絵をみるというより、話題の見世物を見る、流行に乗り遅れてなるものか、という日本人の物見高さの結果の46万人であり、絵画鑑賞が趣味という人がそれほど増えているわけではないみたい。

 その証拠に私がときどき足を運ぶ近代美術館や西洋美術館の常設展示はいつでも人もまばらな状態でゆったりと見ることができ、ゴッホの数点の絵も、独占状態で鑑賞できます。
2010-08-23 11:18:58 ページのトップへ


教師の仕事
haruniwa
 私が絵画鑑賞を趣味とするようになったのは、中学3年生のときの美術科教諭松岡先生に絵を見る楽しみを教わったからです。
 松岡先生は定年退職後、奥さんと美術研究所を設立して後進の指導にあたっておられましたが、私は松岡先生にお礼状の一枚年賀状一枚だしたことはありませんでした。

 そして、教師の仕事というのは、そういうものだと思い知りました。
 「先生のおかげです」なんて、直接に言ってくる生徒はほんのひとにぎり。
 でも、教えたことは必ず生徒の心に残り、心の糧になっている。

 トリトンさんが美術や演劇を教えた生徒さん、何十年後かに「ああ、私が演劇好きなのは、あのときあの先生が演劇の話をしていたからだなあ」と思い当たる人がいるだろうと思います。
 それで十分ですよね。
2010-08-23 11:19:37 ページのトップへ


教師の仕事つづき
haruniwa
 なぜ、「教師の仕事」について書いたか。
 トリトンさんの文に種田陽平について書いてあったからです。
 「同じムサビで同じ時代に学んだことに誇りを感じる」と書かれている一方で「彼はこうして活躍してきたのに、自分はこの年月何をしてきたのか」とも書いている記述が気になったのです。

 私は自分のことを常に「ねたみひがみやっかみ」人間と公言しているのですが、私の妬みやっかみが最大になるのは、中学校と高校で3年間同じクラスだったレイコさんのこと。
 レイコさんは美人で頭がよく、お金持ちのお嬢さん。ハンサムなご主人と大学在学中に学生結婚し、子育て中も実家の支援を受けながら大学院を修了し、明治女性文学、一葉研究などの第一人者として活躍している。
 大学教授としても母親としても、立派な仕事を成し遂げています。

 同じ高校で机を並べていたはずの人がはるか遠くにいるようで、何の業績もない私としては、常に「同じように一生懸命生きてきたのに、どうして私はこんなさえない人生のままなのか」と、思うことが多いのです。
 
 私は私で十分おもしろい人生をあゆんできたからいいじゃないか、と思う。ても、「ヒトは人、私は私」、なんてことは聞き飽きた。私に日が差すことがあってもよかったんじゃないか、とも思います。
 トリトンさんが「種田陽平に比べて私は」と思うのと同じではないかもしれませんが、私にも人と比べてしまう点があることは共通しています。

 しかしながら、私は、私のヒガミは私のエネルギーと思うことにしています。
 トリトンさんも種田さんとは違うトリトンさんの世界を築いてください。私もあと50年くらいかけて私の世界を築いていくつもり。

 あと50年くらいすると「またしても行方不明老人、110歳女性」なんてニュースになるだろうと思うのですが、そのころトリトンさんが100歳になっていたら、「ああ、あの行方不明の人、私知ってるわ」と周囲の人に話して下さい。
 そのとき何人か「ああ、うちの親は、そんな名前の人に日本語学を教わったと言っていた」という人がいるかもしれない。
2010-08-23 11:38:09 ページのトップへ


星月夜の閃輝暗点 
haruniwa
 書いたままUPするので、誤変換いろいろあります。明示→明治とか。適当に直しながらよんで下さい。
 さて、ゴッホの「星月夜」が、ゴッホの病状のひとつである閃輝暗点から生まれたものである、ということを申し述べたいと思います。

 草間弥生の統合失調による幻視の絵画化、ゴッホの閃輝暗点(暗い中の光っているものの光が倍増して大きく見える)が生んだ「星月夜」

 星があれほど大きく輝いて見えるのは、服用している精神薬の副作用によって閃輝暗点が起きているからだ、という解説を聞いたときには、「そうか、ゴッホは自分の目に見えている星をそのままに描いていたのだ」と、妙に納得しました。
 ゴッホは薬の副作用によって見える彼の星の見え方をキャンバスに描いた。

 私たちは、星がこのように見える画家の天才を知り、やはり天才というのは尋常の人の見方とは異なるものが見えるのだ、と思って「星月夜」などを見てきたのですが、通常の目で見る画家の絵にも成し遂げえず、ゴッホと同じ副作用を持つ薬を飲んでいた画家ならぬ人には描きえない世界が、ここに奇跡的に美しい星月夜の絵を完成させた、この奇蹟は人類に与えられた神の御技と思います。
2010-08-23 12:08:30 ページのトップへ



天才
haruniwa
 トリトンさん、美術教員研修、お疲れ様です。がんばってね。

 長々と書いてきたのは、高校野球も終わって、大会後の野球少年たちの人生を考えていたから。
 全国に中学校が1万校あります。たいていの学校に何はなくても野球部はあるから、最低10人は野球部員がいて、全国では10万人の野球少年がいるだろう。その10万人の野球少年は高校へ行って甲子園を目指します。一夏に10万人以上の野球少年が甲子園を目指す。
そのうち甲子園に出場できるのは、概算800人です。
 800人は、選ばれたエリートです。その800人のうち、プロ野球にスカウトやテスト生で入るのは毎年一球団で10人前後。(ドラフトによる新人入団は10人まで)
残りの数百人は、甲子園に出たことを最高の栄誉としてアマチュア選手として野球を楽しむことになる。
 むろん、甲子園へ行けなかった10万人も同じ。

 プロとなるのは10万人のうちの120人。
 一人のイチローの後ろに、100万人の天才ではなかった野球少年がいる。
 種田陽平も天才です。野球も美術も同じ。ひとりの種田陽平のうしろには、何人の芸術少女、美術少年がいたのか。

 言語学日本語学の世界にも、三上章とか奥田靖雄とか、天才的な人が何十年に一度は出現します。

それらの天才にくらべれば、春庭の凡才ぶりは、草野球でライトの9番もだしてもらえないような、草野球ベンチ組みたいなものです。

それでも、くさらずに、日夜日本語について考えています。
「ヘタの考え休むに似たり」と、父に揶揄されていた子供時代とちがって、今は私が考える時間を持つことを冷やかす人もいないので、考えていたのですが、ほんとうに「ヘタの考え休むに似たり」だったので、がっくり来ています。

8月中取り組んできた「受け身文、動作主体のマーカーについて。ニ格とニヨッテの使い分け」というのをようようまとめて、これまで出された先行研究よりちょっとは先に進んだかと思ったら、私の先行論文チェック不足で、私の下手な考えよりよほど精緻な先行研究が出ていたことに今頃気づきました。

徒労!のひとこと。

数学のフィーズル賞などでは、同じ証明に取り組んでいる研究者がゴマンといて、一分でも早く出版公表した人が栄誉を受けるのだそうです。同じ結論にたどり着いたとしても、結果発表が一日おくれたらダメ。

日本語学研究者としては私はほんとドジでのろまな亀、カタツムリの歩みです。
結局のところ、日本文学研究も日本語学研究もどちらでも何もできない凡人の生きる道は何なのか、、、

ああ、暑い。
長々書いてきて、ただの愚痴です。すまぬ。

2010-08-23 12:31:48 ページのトップへ


ゴッホ
toliton717
haruniwaさんへ

興味深いコメントをありがとうございました。
>ゴッホの閃輝暗点(暗い中の光っているものの光が倍増して大きく見える)が生んだ「星月夜」
とは、初めて知りました。

薬の作用で、実際より大きく光ってゴッホの目には映っていたのですね…。

薬の副作用かどうかは分らないけれど、オーヴェール時代のゆがんだ教会や、うねるようにそびえる糸杉とかも、そんなふうに見えていたのかなあ…。
ゴッホの目に見えたままに…。

『炎の画家ゴッホ』の由来はあのうねるような厚塗りの筆致だけでなく、彼の生涯、生き様が炎そのものだったのでしょう。
あまりに純粋で、不器用なゴッホ。
日本に憧れ、浮世絵師たちの様な芸術家のユートピアを目指していたゴッホ。
実際に家族や友人に彼の様な人がいたら、みな大変だろうと思うけど、生涯を通して兄を支え続けた弟テオは素晴らしい人だと思います。
彼なくしてはゴッホの芸術も生まれず、アルルの生活も成り立たなかったことでしょう。
15本のひまわりの絵はテオがメンバーに入っている絵なのだそうです。
二人の兄弟愛は永遠に語り継がれていくことでしょう。

息子さんの勾玉作り、お疲れ様でした。
私も千葉県立美術館のワークショップで勾玉作りを手伝ったことがあります。石って磨くと本当に光るんだ~と当時小学校2年生の娘が感心していました。  

2010-08-23 18:17:21 ページのトップへ

☆    ☆    ☆    ☆    ☆

2012/03/20
 18日日曜日、近代美術館常設展を見ました。1月に見たときからかなり展示替えになっていて、春らしい桜の絵も多く展示されていました。
 夭折の天才も、長命の大家も、絵からも彫刻からも、作品を完成させるという情熱の光輝が放たれており、作品の間を歩くだけで、光に満ちた「天才浴」を感じました。森林浴もいいけれど、季節に一回は美術館での天才浴もいいですね。

 小林古径の桜の屏風絵は撮影禁止マークがありましたが、その他の絵、撮影許可のワッペンをもらったので、好きな絵をバチバチとデジカメにおさめてきました。

 人に文句付けるのが生き甲斐という風貌の「ご年配の紳士」が「キンシだよ」「キンシだよ」と私がシャッターおすたびに言う。
 私は撮影許可のワッペンつけているので、私に言っているのだとは思わずに無視していたのですが、何度目かの「キンシだよ」で、私に向かって言っているのだとわかりました。

 そこで「撮影禁止マークがついている絵はダメですが、それ以外の絵は、撮影許可をもらい、フラッシュをたかなければ、撮影していいんですよ、ここは」と、ジーサンの「キンシだよ」説教を封じました。
 ジーサンは、近代美術館は撮影許可が出るのだと言うことを知らずに「キンシだよ」を言っていたようで、私の説明に「え?そう?」とつぶやいただけでした。
 小言大好き高齢者に告ぐ。自分の思い込みで人に説教したがるのはやめんしゃい。説教大好き癖キンシだよ。

 近代美術館が好きなのは、写真撮影許可がでるところ。写真をパソコンに取り込んでおくと、私のパソコン、時計表示の下に自分の写真アルバムが表示され、15秒に一度いろんな写真が出るので、美術館で撮影した絵も楽しめます。
コメント (6)
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ぽかぽか春庭>「雲は天才である」の歌

2012-03-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/19
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(6)石川啄木「雲は天才である」の歌

石川啄木「雲は天才である」の歌
purelife11
>石川啄木の雲は天才であると言う詩をご存知ですか?
春まだ浅く
月若き、、、、、
だったか、学生時分にメロディ付けて教えて頂いたのですが、忘れてしまいました。
検索かけたのですが、無かった?
探し様が悪かったのかも知れませんが、春さんがご存知なら、それの方が早いからと、安直な手段行使(笑)
================
オニさんへ
 検索上手な春庭、以下のことをしらべましたので、お知らせします。
================
haruniwa
「雲は天才である」の中にでてくる合唱曲の歌詞は以下の通り。
 二階から響いてくる「若々しい、勇ましい合唱の聲」として小説中に歌詞がのっている。、

春まだ淺く月若き
生命(いのち)の森の夜(よる)の香(か)に
あくがれ出でて我が魂(たま)の
夢むともなく夢むれば

「自主(じしゆ)」の劍(つるぎ)を右手(めて)に持ち、
左手(ゆんで)に翳(かざ)す「愛」の旗、
「自由」の駒に跨がりて
進む理想の路すがら、
今宵生命(いのち)の森の蔭
水のほとりに宿かりぬ。

そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標(はかじるし)、
音なき河は千載に
香る名をこそ流すらむ。
此處は何處と我問へば、
汝(な)が故郷と月答ふ。

勇める駒の嘶(いなな)くと
思へば夢はふと覺めぬ。
白羽の甲(かぶと)銀の楯
皆消えはてぬ、さはあれど
ここに消えざる身ぞ一人
理想の路に佇みぬ。

雪をいただく岩手山
名さへ優しき姫神の
山の間を流れゆく
千古の水の北上に
心を洗ひ
そびゆる山は英傑の
跡を弔ふ墓標(はかじるし)

2007-02-01 09:44:38 返信フォームへ 掲示板へ戻る


石川啄木「雲は天才である」つづき「紫紺歌」
haruniwa
オニさんが覚えたのは、この石川啄木の詩をもとにして某国立大学工学部の応援歌として採用された「替え歌」のほうであると思われます。(某国立大学の名は検索してもわかりませんでした)
ネットで、「紫紺歌」「応援歌」で検索すると明治大学ばかりがでてきてしまい、大学名は検索できず。

「紫紺歌」というタイトルで、「大学校歌・学生歌・応援歌」などを収録したレコード・CDに収録されているようですから、探してみると見つかるかも。

「紫紺歌」
紫紺歌        
春未だ浅く月若き 
むらさきの森の夜の香に 
あくがれ出でて我が魂の 
夢むともなく夢みれば 
さ霧の彼方たゆたゆと 
若き力のもえいずる
自主の剣を右手に持ち 
左手にかざす愛の旗 
自由の駒に跨りて 
進む理想の道すがら
今宵紫紺の森の陰 
水のほとりに宿かりぬ
===========

 また、盛岡市立渋民小学校の校歌としてこの石川啄木の詩に清瀬保二が曲をつけた歌が歌われています。
 こちらは、調べれば曲もわかると思いますが、オニさんが聞いたのは、上の学生歌「紫紺歌」のほうと思います。
2007-02-01 09:45:34 ページのトップへ


Re:石川啄木「雲は天才である」の歌
purelife11
春庭さん、凄く調べて頂いて、光栄です
m(_ _)m

でも流石ですね!
(^_^)v
詩を見ながら、メロディを口ずさんでみたのですが、剣の辺りからメロディが変わったようなで思い出せず
(^。^;)
色々調べて頂いた応援歌や校歌に付いて調べてみます。

私が検索しても、雲は天才であるだけしか分からず、歌の詳細が分かったのは、何と40年振りです(*^_^*)
本当にご足労おかけ致しました。
感謝にたえません。
何とか私が学んだメロディを探し出して、掲載致したいと存じます。
有難うございました
m(_ _)m

2007-02-01 17:34:15 ページのトップへ
色々有難うデスo(^-^)o
purelife11
こんにちは。
昨日から検索をかけてみたのですが、分かりませんでしたので、啄木記念館に電話致しました。
そのご報告です。

同じ詩の内容で、校歌や応援歌としては渋民小学校の校歌だけだそうです。
私が知るメロディをお伝えした処、一般の音楽としては、昭和11年の映画『情熱の詩人啄木』の主題歌として、古賀正男さんが作曲されたものがあり、私が学んだメロディでした。

作詞石川啄木
作曲古賀正男
『春まだ浅く』
でした。
歌っておられる方までは聞きませんでした。

今仕事の休憩中です。
間も無く始まりますので、お礼かたがたご報告まで。
また書きに来ます。
有難うございました
(*^_^*)
2007-02-02 12:51:45 ページのトップへ

☆   ☆   ☆   ☆   ☆

2012/03/19
 雨の中、工芸館へ出かけて、織物の天才の仕事を見てきました。何によらず、天才の仕事はすごい。夜はテレビで彫刻の佐藤忠良の仕事を見た。これも天才。
 凡才鈍才の我が身をふりかえれば情けなくもあるが、今生き続けているという才能において、人はみな天才であると思えばよろし。
コメント (6)
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ぽかぽか春庭>幕末のワケーシュ

2012-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/04/18
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(5)幕末から明治へ

幕末から明治へ
rokujyou
大政奉還から明治新政府の船出まで 驚くほどの激動の時代
「内閣モ実ニ驚キ入リ足ルコトニテ 所謂 一日暮シノ貧家ノゴトキ有様」だったようですね。

健気に生きたご先祖様の働きがあったればこそ 清国のように列強に侵略されずに済んだのかなあ なぞと思ったり
そんな時代に生まれて 一日 土手で寝転んで 黒船や陸蒸気に見とれて居たかったなぞとも 思うことあり。

幕末の藤沢辺の農家の文書にこんなのがありました。

そこでは五の付く日が農事休みに決まっていました。
ある年 日照りが続いて田植えが出来ず 4日に雨乞いをしたところ折りよく5日に雨が降りました。
村中総出で田植えを済ませました。大人達は 翌日も仕事だと思っていましたが、若者達は当然 振り替え代休だと主張しました。おまけに若者達は腕を組んで村道を「代休よこせ」と叫んで行進したのです。これ本当に江戸時代の話です。

若者達は若衆宿などで村のしきたりや 権利などを学んでいたのでしょう。別に猥談ばかりしていたわけではありません。
大人たちは頭を抱え 村役人が出張り仲裁をしました。
双方から出された始末書が沢山残っています。以後 この様な騒動を起こして お上を煩わせてはならぬと叱られて終わり。
まあ その後は村内の話し合いで決めろと言う事でしょう。
農村の活き活きした様子が眼に浮かびます
頭から決め付けられた訳ではないのです。

しかしこれも明治に入ると 権利の主張は認められなくなり 若衆宿は解散になりました。明治は何だか重苦しい時代だったようです。 
2006-02-17 23:41:43 返信フォームへ 掲示板へ戻る

Re:幕末から明治へ 昭南という名もコーソコーソも
haruniwa
 藤沢の「休ませろデモ」は実に痛快、ワケージュの溌剌とした様子が目に浮かびますね。 
興味深い歴史の一端を教えてくださってありがとうございます。

 色川大吉の『明治精神史』などで、幕末の「草莽の志士」が、明治初期の「草莽の自由民権派」へと広がり、多摩や神奈川の豪農の蔵などに、その土地その土地で編まれた「自分たちの日本憲法草案」が多数残されていることを知りました。
 草案の中には、現在の日本憲法以上に民主的平和的に徹底した案があったようですね。

 さまざまな可能性を含んでいた幕末から明治初期の民衆エネルギー。
 民衆のエネルギーは「ええじゃないか」などの一過性お祭り騒ぎで終わることが多かったでしょうが、だれか有能な統一者がいたら、このエネルギーをまとめて、別の時代を作り上げたかも知れない、と夢想することがあります。

 現実には、日本のいっぱんピープルたち、天皇を神と信じ「日本教」の信者として共同体を作り上げることで、かつかつ食っていく方を選んで1945年まですごしてきたんですけどね。

 1941年2月には皇紀2600年で万々歳、1942年2月にはシンガポール陥落万々歳。
 もっとたらふく食えるようになると思って「シンガポール陥落万々歳」を叫んで提灯行列を行った。

 私の師匠のひとりは、シンガポールの占領名、昭南島にちなんで、昭南と名付けられて、「今も自分の名前を名乗るたびに、アジアの人からお前は侵略者だって、白い目を向けられる気がして、気がひける」と言ってましたよ。
 敗戦前は拡大路線日本の輝ける名前だったのでしょうね。
2006-02-18 11:37:42 ページのトップへ コメント削除

ワケーシュのエナジーをもう一度
haruniwa
 「日本教」の人々、驚異的な「義務教育普及率」で、明治の終わりには、国民一致で「ジンムーセーネーアンネーイトクコウショーコーアンコーレイカイカ」と暗記につとめたんですから、ほんとワガコーソコーソの威力絶大。

 よく「125代全部言える」とか、エバる年寄りがいるが、なあに、現代だって、暗記オタクのお子様は、全国駅名暗記とか、円周率100桁暗記くらいはお茶の子さいさいなんだから、そんなにエライもんでもない。

 しかるにコーソコーソの呪縛は、現代の「男を産め!」国民一致大合唱になっているのを見ると、そりゃ、「適応障害」になっちまうわな、と思います。

 で、明治のシステムを知れば知るほど、江戸市民が近代よりもずっと自由な一生を生きたのではないか、という気がしてきます。
 女の離婚率をみても、明治民法でがんじがらめにされる前の江戸時代のほうがはるかに自由度が高い。

 江戸の娘宿、若衆宿の教育機能が、民主主義へと向かうエネルギーを持っていたからこそ、明治政府は、娘宿若衆宿の解散を命じ、「国定教科書」による「全国統一教育」を強力に押し進めたのでしょうね。

 ろくじょうさんたちの「古文書」の会、これからもいろんな興味深い文書を発掘していくことでしょうね。

 これまでの正史には出てこなかったような、うもれていた民衆の記録がどんどん見つかると、歴史に新たな光りがさしてきて、おもしろいだろうなあと思います。
2006-02-18 11:38:38 ページのトップへ コメント削除

☆   ☆   ☆   ☆   ☆

2012/03/18
 大学事務のアルバイトは、春休み中休業になるため、息子は、この春休み、とある郷土博物館で学芸員アルバイトをしました。学芸員の資格をとっていたおかげで、他の学生アルバイトと同じ仕事をしていても、バイト料は割高になるのだとか。

 仕事は、古文書の仕分け。昭和の郷土資料館職員達がテキトーに仕分けしてしまったために、時代別がぐちゃぐちゃになっている資料の山を、きちんと分類整理するのが仕事だそうです。
 授業で古文書読解に励んできた息子、いいバイトに巡り会ったなあと思います。

 息子たちが仕分けた古文書の展示会が博物館で行われるというので、それじゃ見に行きたいと言うと、「絶対に来るな、来たらハハは、これ、うちの息子達が整理したんですとか、周りの人に自慢するだろうから、ぜったいにダメ」という。
 いいじゃないの、ちょっとくらい覗いて見たって。
 人付き合いが苦手で働く場があるのかどうか心配だった子が、コンピュータや古文書相手なら働くことができそうだとわかっただけで、ハハは一安心しているんだから。黙ってみてるから、見せてくんなまし。おお、息子よ、いい仕事したねって、心の中でほめるだけにするから。
 古文書よ、家の息子の飯のタネになってくださいまし。

<つづく>
コメント (4)
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ぽかぽか春庭>昔の映画

2012-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/17
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(4)昔の映画

Re:昔の映画
haruniwa
 「昨今の映画はどうも、、、」と思い、ゆったりと流れる映画を見たいと、思っていらっしゃる、ろくじょうさん、私たちの年代の人にとって「思いはみな同じ」かもしれません。
 50代以上の女性の映画館での鑑賞本数は「年に一本未満、次に多いのは、年に1~2本」というデータが出ています。一番映画館に足を運ばないのが、50代以上の女性みたいです。

 私が、映画館で見た映画、この1年で24本。ほぼ月に2本見ている春庭は、たぶん、「映画好き」なほうに入ると思います。これほどこまめに映画館へ行くのは、「当映画館で、何度でも映画見放題」のギンレイシネパスポートという会員証があるためなのですが。

 春庭が見た映画についてのひとことコメント、2004年の分は
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0511a.htm
のページに、2005年の分は、
http://www2.ocn.ne.jp/~haruniwa/eiga0503a.htm
 このページにありますので、のぞいてみてね。
 ろくじょうさんのお気に召す映画、あるかしら。
 同じ時代を共感できる映画、貴重ですね。同時代を描いた映画に、同じ時代を生きた気分が感じられると、ストーリーそっちのけで、そのシーンだけで、感動したりします。

 団塊世代の涙腺くすぐるシーン、いくつかあるんです。新宿西口広場で「友よ」をみなで歌っているところとか。ヘルメットかぶってデモってるところとか。
 自分では体験しなかったことでも、たとえば、同世代の人が集団就職で上京するシーンとか、涙ぽろりものです。

『三丁目の夕日』、やたらノスタルジィだけの映画だったら困るなと思っていたら、けっこうよさそうだし、原作漫画キャラの改変も許せる範囲らしいので、飯田橋ギンレイにきたら、またはテレビ放映のときに見ようと思っています。
2005-11-26 15:14:51 ページのトップへ コメント削除

Re:昔の映画
haruniwa
<続き>
 「貧しさへの共感」に、関して。
 『アルジャノンに花束を』の1968年映画化作品『チャーリー(邦題「まごころを君に」)』

 1970年に東京へ出てきてすぐのころ見た映画です。
 主人公の知的発達遅滞の青年チャーリーの貧しいアパートが画面に出てきます。古い冷蔵庫、狭い室内。
 ところが、1970年に、私は現実の東京ひとり暮らしで、チャーリーよりもっと狭いアパートに住み、もっと古い冷蔵庫を使っていたんです。このとき、チャーリーを、「貧しい」と感じられなかった。

 しばらして、『アルジャノンに花束を』が有名になり、テレビでこの「まごころを君に」が放映された。今度はチャーリーの貧しい境遇が身にしみるようにわかったの。
そのとき、「あれ、チャーリーの貧しさがわかるってことは、私はチャーリーより豊かな暮らしをするようになったんだなあ」と、しみじみ感じました。

 昔みただけで、今見直したことのない作品、たとえば、『下町の太陽』なんかに出てくる東京下町の貧しさとか、今見たらどんなふうに感じるのかなあ、と思います。

 『草原の輝き』、映画館で一度見て、テレビで放映されたときも、見たのですが、ウォーレン・ベイティ(当時はビューティ)がかっこよかったことしか覚えていなくて。
今見たら、青春の輝きとその喪失の時代に対して、若い頃とはちがう感慨をもつことでしょうね。
2005-11-26 15:15:53 ページのトップへ コメント削除
☆   ☆   ☆   ☆   ☆

2012/03/17
 NHKの「日本の映画100選家族編」の放映をビデオにとって見ているのだけれど、戦前戦後の光景、あまりの貧しい暮らしぶりに、「昭和30年代にノスタルジーを感じるなんて、言うやつは、この貧乏ぶりを見てからにしろ」と言いたくなる。たとえば『にあんちゃん』の炭鉱の暮らし。映画公開当時だって、日本の平均よりは貧しい生活だったとおもうけれど、イマドキ、インドのスラムだってまだマシとおもうような圧倒的な貧しさです。

 『めし』も『生きる』も、『煙突の見える場所』『若者たち』『上を向いて歩こう』も、みな貧しさの中にせいいっぱい生きているのだけれど、このような昭和30年代に戻りたいかと言われたら、私は「父母姉妹と犬の五人一匹で暮らしたあのなつかしい日々」には帰りたいけれど、社会全体があの頃に戻るのならお断り申し上げる。



 本日3月17日は、飯田橋ギンレイで『明日のパスタはアルデンテ』と、『さすらいの女神(ディーバ)たち』を見ます。パスタ会社一家の話と、ショウダンサーたちの話。

 「アル・デンテ」ってイタリア語で「ちょっと固め」というパスタの茹で具合だと思っていたら、「デンテ」とは英語の「デンタルクリニック」っていうときのデンタと同じ「歯」という意味で、アルデンテは「歯ごたえのある」という意味なんだってなーるほど。


<つづく>
コメント (12)
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ぽかぽか春庭>宝くじ

2012-03-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/16
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(3)宝くじ

Re:来たよぉ~ん!(^^ゞ
haruniwa
 私の毎年の年末の予定では。
 赤信号なのに、よろよろと横断歩道を渡りかけたおじいさんの手をひき、「おじいさん、次の青信号でいっしょに渡りましょうね」と、言う。手をつないで信号を渡り終えると、おじいさんは「どうも、ありがとう、あんたみたいに、若くて親切な女の人と手をつないだのはひさしぶりじゃ、お礼にこれを」と言って、宝くじを3枚くれます。

 その3枚がなんと、一等と前後賞。こうして、春庭は、買う金がなかったのにもかかわらず、3億円手に入れたのでした。これも、日頃から、人に親切にしていた心がけのおかげでしょう。
 という予定を毎年年末にたててきたのですが、今まで、宝くじをくれそうなおじいさんに出会っていないのは、残念なことです。
 今年こそ、宝くじくれそうなおじいさんの手をひいて、横断歩道を渡りたいです。

 じゃ、tomさんが3億円あたったら、1億はこちらにね。予定表にかいておきます。
 ふっふっふ、これで、おじいさんからの分とあわせると、4億になるわ。
 ま、私の場合、4億程度のおこずかいは、一晩遊んだら終わっちゃうと思うけれど。
2005-11-25 23:56:18 ページのトップへ コメント削除
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2012/03/16
 3月14日、日本橋でグリーンジャンボ宝くじ、10枚買いました。年末ジャンボ、10枚買って末等の300円当たっただけだったけれど、今回も最終日に、迷った末、「買わなきゃ当たらない」と思い、復興支援の税金だと思って買ったのだけれど。

 社会学者にいわせると、所得税が低い貧乏人層から税金をとるには、宝くじが一番いいのだそうです。所得低い層の税額を上げると政府は責められるけれど、宝くじを買わせても誰も文句を言わない。
 宝くじは、競馬や競輪に比べると、胴元の取り分の率が一番高いので、貧乏人からしぼりとるには、一番良い方法なのだそうです。

<つづく>
コメント (4)
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ぽかぽか春庭>人魚姫のささげ物

2012-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
2012/03/14
ぽかぽか春庭カフェらパンセソバージュ>bbsコピー(2)人魚姫のささげ物

 OCNカフェ日記のbbs、全ページは保存しきれませんでしたが、一部分だけコピーペーストでとっておきました。再録しておきます。
☆   ☆   ☆   ☆   ☆
ささげ物
rokujyou
春庭さんも 人魚姫に深く関心を持っておられたのですね。
「人魚姫」「フランダースの犬」どれも子供が読むには 辛すぎる話です。
私は子供の頃 人魚姫の 王子はバカだ!と口惜しがったものです。

でも 今は 心に残るところが少し違います。
人魚姫が 魔法使いに人間に変えて貰う時一番大事なものと 取り替える約束をするところです。
人は 何か一番大切なものと 現在の人生を取り替えたのだろうかと思う時があります。
時々 難病の治療などで すっかり髪が抜けてしまった若い人を見ると神様が命の代わりに 髪の毛を要求したのかなあ等と 想像してしまいます。

私には もう神様にささげる物は無いので、体重をすこし差し上げます。
2005-11-23 22:57:42 返信フォームへ 掲示板へ戻る


Re:ささげ物
haruniwa
 6歳のころの私、人魚姫のラストがハッピーエンドでないと耐えられなかったのだけれど、大人になってみれば、わかってくるんですよね。
 ディズニー映画『リトルマーメイド』が、アンデルセンを原作にしてはいるものの、見事にディズニーお子ちゃま向けハッピーエンドになってしまったのを見て、「なんてつまらない物語になってしまうのだろう」と、思いました。

 あの深い無償の愛のゆくすえは、おもいを寄せた女性すべてに振られ続け、結局独身を通したアンデルセンならではのラストだし。
 それに、人魚姫は「死なない体を持つかわりに、死んだあとは神様のいる天国へはいけない人魚の運命」からのがれて、「死を得るかわりに神のもとへと昇天する」というラストでした。これは、やはりキリスト教の死生観を理解しないとわからないことでした。

> 私には もう神様にささげる物は無いので体重をすこし差し上げます。

 私は、神様にウンKgをささげてもなお、余りあるので、1Kgずつ、量り売りをしたいと思っています。
 難病の話。今テレビで、「1リットルの涙」と、「あいのうた」を見ています。
 姉を難病で3年前に失ったことを思い出すと、「難病もの」のドラマ、ちょっとつらいですけど、子供が見ているので、いっしょに見ています。

 小学生に対しての調査によると、「命」はリセットされて、何度でも復活可能と考えている小学生48%という結果。
 命について、教えられる人、まわりにいない世の中になっているのですね。
2005-11-24 10:29:09 ページのトップへ コメント削除
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<つづく>
コメント
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