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ぽかぽか春庭「日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)」

2025-04-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20250403
ぽかぽか春庭アート散歩2025アート散歩版画の春(5)日本版画の1200年 in 町田市立国際版画美術館(昭和期~現代)

 「日本版画の1200年」のつづきです。
 1923(大正12)年の関東大震災から東京復興計画が立ち上がり、社会を変えていきました。都内の小学校は倒壊した木造校舎のあとに地震に備えたコンクリート造りの「復興小学校」が建設され、都心のビルも耐震を取り入れた構造をとりいれました。

 1920年代から版画界には、版画雑誌によって新しいアートを追求しようとする若者が集いました。創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国の版画家 も作品を寄せました。

 中国は古代から木版画が制作されてきましたが、蘇州版画など民衆版画が生まれ、日本にも影響を与えました。しかし西洋印刷術が普及すると蘇州版画も衰え、外国版画の影響を受けた木版画が出てきました。

ビアズリー「アーサー王の死」 1893,1894
 

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー「脱穀する人」1922 


 魯迅は西洋版画について学び、版画の民衆浸透をはかりました。社会の改革には民衆への啓蒙が必要であり、そのために版画は重要だと考えました。
 ケーテ・コルビッツの版画の紹介もその仕事のひとつ。ケーテ・コルビッツは、保健医師と結婚したのち貧民街に移り住み労働者をはじめ、生涯弱者に寄りそう画材画題で版画を制作しました。

魯迅編集の「ケ―テ・コルビッツ版画選集」1936復刻1981                                  

 古くからあった中国の木版技術は,清代の蘇州版画に代表されるすぐれた民衆芸術を生みましたが,西洋印刷術の普及とともに衰微し,代わって近代に外国版画の影響を受けた新しい木版画芸術が生まれました。魯迅が中心となり、ヨーロッパの版画の画集を出版し,版画の講習会を開くなどして木刻運動を推進。日中戦争中,作家は奥地農村に移住し、農民や労働者に寄り添った画材・画風を確立しました。おもな作家に,力群,古元,李樺,汪刃鋒などがいます。私は、彼ら中国木刻画の作品をはじめてみました。

汪刃鋒「農民の印象1930年代後半~1940年代前半」木版
                頼少麒「民族の呼ぶ声」1936現代版画15集
  

劉崙「前面に障害物あり」1936現代版画15集 胡其藻「悲哀」同
  
 
 日本に留学していた魯迅の帰国後、中国版画界は新興版画運動を起こします。芸術は一部金持ちのものではなく、人民とともに社会を変えていくためのものであるという理念のもとに作品を生み出し、日本との交流も生まれました。しかし、1937年以後、日中戦争が泥沼化し、交流も途絶えます。

町田市立国際版画美術館解説
 創作版画運動が盛り上がると、1920年代から日本各地で版画家のグループが結成され、版画誌が隆盛します。日本留学中にこの動きを知った魯迅は、中国の創作版画ともいえる「新興版画」を提唱しました。版画家・編集者の料治熊太が主宰した創作版画誌『白と黒』や『版藝術』には、中国・広州の若者が1934年に結成した「現代創作版画研究会(現代版画会)」に作品を寄せ、日中版画交流の舞台になりました。しかし1937年に日中が本格的な戦争状態に突入すると、中国の作家は抗日や政治的主題を描く木刻運動に身を投じ、両国の版画交流は途絶えざるをえませんでした。

 魯迅が指導した中国の木刻画、中国新興版画と交流しました。中国との交流が困難になっても、「版画は、農民」・労働者の姿を描き、働く側に寄りそう、という版画界の姿勢は変わりませんでした。
 日本では料治熊太が「白と黒」「版芸術」を創刊し、日本の版画芸術の進展をはかりました。

料治熊太編集の「版芸術」「白と黒」が昭和初期の版画を牽引しました。


 今回、はじめて中国の木刻画の作品を見て、合点がいったところがあります。日中戦争以後、戦下の社会で、日本画家洋画家の中から従軍画家の派遣が行われ、数多くの戦争画が描かれたのに、版画家の戦争画が現在見ることが少ないのはなぜか、という私の素朴な疑問。
 織田一磨や戸張孤雁の版画は、先日近代美術館で見ました。そして「日本画洋画とも戦時下には従軍画家となって戦地へ赴いたり、国内にあっても戦意鼓舞の絵を描いたのに、版画で戦争画を見ないのはなぜか」という素朴な疑問を感じました。

 むろん、版画界にも戦時下の体制はできていました。紙や版画材料は統制下にあり、時局に非協力的な画家は紙も絵の具も手に入れることもがずかしい。しかし、木版画の場合、板も墨も工夫すれば配給によらずとも手に入れられる。自分で作れるからです。1943年には大政翼賛会の一翼として、版画界の統制団体である「日本版画奉公会」が設立されました。会長は恩地孝四郎。本会に属して何らかの国家への奉仕をすることが求められ、オリジナルとしては相撲力士などの版画が刷られましたが、日本画家の肉筆作品を版画化して売り上げを「奉仕」するなどの活動がせいぜいでした。

 邸宅の床の間、茶室、豪邸の壁を飾る洋画。金持ちの家を飾るために描かれてきた日本画洋画です。「戦意鼓舞の絵」と求められれば、アッツ島玉砕もノモンハンも描く。しかし、昭和のはじめから労働者を描き農民を描いてきた版画、また洋画に先駆けて抽象表現を模索してきた版画は、戦争賛美を表現するためには向いていなかった。
 昭和の版画界について知ると、日本画洋画を統率しようとはかった軍部も、版画の統制は難しいと感じたのではないかと思います。

 現代版画は百花繚乱。さまざまな表現が国の内外に開かれています。

浜田知明「初年兵哀歌(歩哨)」1954 上野誠「男(ヒロシマ三部作)」1959             
  

靉嘔「レインボー北斎ポジションA」1970スクリーンプリント            
          横尾忠則「聖シャンバラ火其地」1974シルクスクリーン
   

 1200年の歴史がある日本版画。仏像スタンプからはじまって、横尾忠則の聖シャンバラへ。
 「シャンバラ」とは、地球内部の空洞に存在するとされる理想世界アガルタ王国の首都の名称であり、そこには高度な科学文明と精神社会が存在するとされ、過去には東西の多くの科学者や権力者、探検家がアガルタを捜し求めてきました。横尾はシャンバラ発表当時、「シャンバラの神意と一体化するための瞑想のようなもの」と述べています。仏像スタンプに祈りを込めた仏画からシャンバラまで、像を彫リそれを紙などに写すのは人の祈りの心が反映されているのかもしれません。私がはじめて見た中国木刻画に感じたのも、祈りの心でした。縛られても止まない叫びも静かに心の中に抱え込むのも、祈り。

李樺「吠えろ中国」1935現代版画13集
                   上野誠「ヒロシマ三部作 女」1959
  

招瑞娟(1924-2020)「求む」1960木版

 絵画や版画に何を求めるのか、何を感じたくて私は絵や版画を見るのか。見なくても時間は過ぎていくし、人生は進んでいくのですが、見たいと感じるのも私の属性。あしたも見にいくだろうと思います。(無料美術館へ) 
 
<つづく>
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