春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2015年1月目次」

2015-01-31 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150131
ぽかぽか春庭>1月目次

2015年01月 目次

0101 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記・ひつじ年の新年(1)謹賀新年

0103 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>ひつじの文化史(1)羊太夫
0104 ひつじの文化史(2)sheeple日本編
0106 ひつじの文化史(3)アジア編羊映画「ようこそ羊さま」
0107 ひつじの文化史(4)西欧名画の羊

0108 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記・ひつじ年の新年(2)ご年始
0110 十五夜満月日記・ひつじ年の新年(3)走り続けてセカンドライフ

0111 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(25)トランスジェンダー仮面の告白
0113 おい老い笈の小文(26)霊長類ヒト科さまざま
0114 おい老い笈の小文(27)じいさんばあさん 
0115 おい老い笈の小文(28)文化鍋
0117 おい老い笈の小文(29)山姥
0118 おい老い笈の小文(30)シニア海外協力隊
0120 おい老い笈の小文(31)女の書き物、あと15年修行したら
0121 おい老い笈の小文(32)アインシュタインロマン
0122 おい老い笈の小文(33)愛人でいいのと歌う歌手がいて
0124 おい老い笈の小文(34)手紙(てがみ)と手紙(シューシー)の間
0125 おい老い笈の小文(35)身勢打鈴(シンセタリョン)
0127 おい老い笈の小文(36)昔の名前で出ています

0128 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記1月冬の夜(1)姑の入院
0129 十五夜満月日記1月冬の夜(2)看護ごほうび
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ぽかぽか春庭「看護ごほうび」

2015-01-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150129
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記1月冬の夜(2)看護ごほうび

 娘が姑の入院に付き添ってくれているので、助かっています。私が仕事を終えて病院に行ったときは、「6時の病院夕食は私が世話するから、家に帰っていいよ」と、お世話を交代するのですが、仕事の終わりが遅くなったときは、病院にかけつけても面会時間終了後の8時すぎになってしまうので、なかなか看護のお手伝いができません。

 がんばっている娘、食べることが何より好きなので、この際体重増加は無視して、好きなものをおごっています、入院して10日間に、デパートのレストラン街でウナギ、持ち帰りの寿司折り、フルーツパーラーのちょっとお高めケーキなど。

我が家、たまにケーキを買うことがあっても、たいていは銀座○○コーナーのケーキです。私は、いつものケーキより値段3割増し大きさ2割減の「お高いケーキ」との味の差はたいして感じないのですが、味覚聴覚嗅覚が私の3倍いい娘に言わせると、「バターや生クリームも、上にのっているいちごも、高い方は高級な材料を使っているのがわかる」のだ、そうです。
 味覚が鋭いってのは、一面不幸なことなのではないかと思います。私、何食べてもおいしいもん。

 28日水曜日は、目黒雅叙園の中華ランチをおごりました。今月のエンゲル係数ハンパないです。
 目黒雅叙園には、招待券もらって百段階段展示のひな人形を見にいったのです。古いみやびなおひな様眺めて、豪華絢爛成金趣味の御部屋の床柱だの天井絵だのながめて、螺鈿飾りの付いたドアあけてトイレに入り、宴会果てたあとの宴会場に潜り込んで螺鈿細工絵なぞ見てきました。

 おなかいっぱい中華を食べて鋭気を養い、バスで病院へ。寒気厳しい午後でしたが、姑の顔を見て院内コインランドリーで洗濯しました。
 姑は午前中、リハビリ室で歩く練習をしたので疲れたと言い、午後はずっと寝ていました。まだ、ひとりで歩けるまでには時間がかかりそうです。
 こちらも、体力つけて、がんばらねば。看護につかうエネルギーよりも、食べ続けているカロリーのほうがはるかに高く、看護太り?

<おわり>
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ぽかぽか春庭「姑の入院」

2015-01-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150128
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記1月冬の夜(1)姑の入院

 年の初めに「今年は、私にとってあまりよい年になりそうもない」と書いたせいだと思うけれど、口にしたことは実現するのが言霊。ほんとうに1月そうそう、悪いことがつづきました。

 1月4日に、姑を囲んで鍋パーティ。新年を祝ったのはよかったのですが、このとき、姑の動きが去年よりずっとモッサリとしていて、動きにくそうでした。姑は「いっぱい着込んで着ぶくれしているから」と、立ち居のスローモーさを言い訳していたので、「90歳になるんだもの、多少動きがモッサリしてきても当然だろう」と思い、姑が「体操教室を週2日通うことにした」というので、「そうやって体を動かしていれば春になればまた体が軽くなりますよ」なんて、なぐさめていました。
 夫は、ムクミがとれないという姑の手をマッサージしてあげて、「ほら、血行よくすれば、ムクミもよくなる」と、なでています。

 1月9日に、娘と夫が付き添って、いつもの病院の定期検診。血糖値の数値も血圧の数値もよくなかったと姑はがっかりしていた、というのですが、夫は医者からは「このとしですから、検査をすればいろいろ不備も見つかるのは当然でしょうけれど、本人が望まなければ、無理して病気を見つけることはないですよ」と言われて、「年寄りの気持ちをわかっていてよい先生だ」と信じていました。

 1月9日、私は、仕事が終わってから、ジャズダンスサークルの新年総会のあつまりへ。
 初級クラスの試験をして、採点に時間がかかりました。約束の時間に遅れてしまい、早く着かなけりゃと思って焦ったせいか、信号を超えたところで自転車で転んでしまいました。自転車の後ろにつけている荷物カゴが四角形から平行四辺形に変形しましたが、手と顔が痛いのを我慢して、集合場所のお好み焼き屋へ。
 お好み焼きをつつきながら、今年の活動方針を決定しました。

 家に帰ってみると、顔の半分がふくれています。手首も曲げ伸ばしが痛い。ばあちゃん付き添いの病院から帰ってきた娘に「明日、すぐお医者にいきなさい。頭を打ったあと、しばらくは何でもなくて、内出血が少しずつ進み、1ヶ月くらいしてから卒倒する人もいるんだよ」と、叱られました。
 翌日10日に近所のクリニックで、手首と頭のレントゲンをとりましたが、医者の見立てでは「骨に異常はないけれど、内出血のあるなしはレントゲンには出ないので、1ヶ月のあいだに、頭痛やめまいがしたら、すぐに救急車を呼ぶこと」でした。

 1月11日、姑から「こたつが壊れたので、新しいのを買いに行って」というリクエスト。夫も「ひまない」というし、私は、自分の顔の怪我のほうが心配だったので、娘と息子を家電店に行かせ、姑の希望するこたつを買わせました。

 姑は、普段の生活費は年金でまかない、臨時の出費は私が誕生日や母の日に渡している祝い金を貯めておいて買います。だから、今回のこたつも「ヨメさんにもらったお金で買う」ということになり、私は何もしないのにイイ嫁と、姑に感謝される。
 私の顔のふくれたところは、腫れはひきましたが、色が黒く変色しました。美人台無し。

 ちょっと気になったこと。去年洗濯機を新調するときは、「どれがいいか自分で選びたい」と言い、家電店まで娘息子といっしょに出かけたのに、今回は「どれでもいいから、買ってきて」と言って、いっしょに買い物に出ようとしなかった、というのです。それでも「この寒さだもの、年寄りが無理して外に出ると風邪引くのがおちだ」と、思って姑の変化を見過ごしました。娘と息子は「おばあちゃん、新しいこたつに入っている」というので、安心していました。

 1月14日。毎週水曜日にお掃除に来てくれるヘルパーさんから、夫に電話。「玄関チャイムを鳴らしたのに、返事がない」という連絡を夫が受け、姑宅に行ったら、姑が「立ち上がれない」と、弱っていたのだって。
 木曜日15日に、夫と娘が、定期検診に通院している病院にタクシーで連れて行き、いつもの主治医に診察してもらいました。主治医の「老人だから、調子悪いときもある」という診断のみで、帰宅。

 金曜日16日夜、夫が姑宅に泊まりに行くと、姑は「今日一日動けなかったから、何も食べてない」と、言ったのだって。
 姑宅に泊まった夫は、17日土曜日午前中に駅前にある別のかかりつけ医院に連れて行って、また「老人だから」という診断を受けて帰宅。

 火曜日から金曜日まで、仕事をこなしてようやく週末。土曜日の昼、私も姑宅に駆けつけました。娘とふたりで姑を励まし、昼ご飯夕ご飯を食べさせました。手や足のムクミだけでなく、顔がぱんぱんに腫れて面変わりしています。ごはんを食べているときのほかは、こたつに横になったまま、動こうとしません。こりゃ、へんだ、と思いました。

 夫が夜8時すぎに事務所から戻ったので、「すぐに入院させたほうがいい」と言いました。夫は「でも、土曜日の朝に駅前の医者に診てもらったのだし、月曜日の午後にもまた見てもらう予約をしてきちゃったんだけど」と、緊急入院を渋っています。
 「そんなこと言ってないで、すぐにも病院へ連れて行ってあげて」と、夫を叱咤激励して、娘も付き添わせて、定期検診を受けている病院へ行かせました。

 私はその間、姑の部屋の片付けをしていました。普段私はプライバシーだと思って姑の部屋に入るのを遠慮してきましたが、この際遠慮していられません。きれい好きの姑の部屋なのに、ものすごい状態になっていました。掃除と片付けが生きがいのような姑なのに、ここまでになるのは、どれほど体がしんどかったのかと、涙が出ました。投げ出されていた汚れた下着などを洗濯しました。こういうとき、実の娘が下着の始末などしてあげられたら一番いいのでしょうが、夫の姉は、13年前に先立っています。

 病院夜間の担当は研修医だったとのことですが、いくつかの検査をして、夜中の2時に入院決定。
 日曜日午後、夫と娘は姑宅から、私と息子は自宅から病院へかけつけました。姑は、病院食を「味がなくてまずい」と文句を言い、娘に「うちにある梅干しとふりかけを持ってきて」と、頼んでいます。娘は「先生に聞いて、いいって言われたらね」と、なだめています。

 月曜日19日に、仕事が終わってから病院へ。午後、担当医から夫と娘に病状説明があったのですが、それを聞いても私には納得できませんでした。姑は1月9日と15日に、診察を受けているのです。それなのに、主治医は「老人だからしかたがない。検査をすれば病名は出るだろうけれど、病気を掘り出すことはない」と言い、「老衰だから仕方がない」としか考えなかったのです。ヤブ医者!! 別の医者が検査して診断したら、「緊急入院が必要」と判断されるほど悪い状態だったのに、なぜ、主治医はこのようになるまでほっておいたのかと、腹がたちました。私たち素人は「医者が言ったのだから」と、思うしかないのに。

 娘は、「たしかに、私たちもおばあちゃんが、足が上がらなくて、体操教室のバスに乗り込むのがたいへんだ、と訴えていたのに、老人だから仕方がないと思っていた」というのです。でも、できるだけ老人の健康状態をいい方に解釈したい家族と、病気を判断するのが仕事の医者が、同じように「老人だから、90歳だから」と判断したのではいけないでしょう。

 入院したあとの主治医の説明では「しばらく入院することになるが、退院したあとも、これまでのような生活は望めないから、退院後の体制をととのえておくように」という説明だったと言うことです。きちんと検査をしてみたら、腎臓なども悪くなっていた、ということでした。

 娘が病院に通ってくれます。
 私は、19日と22日、仕事が終わったあと、病院へ。
 「着ぶくれているから、おなかが膨らんでいるの」という姑のことばを真に受けていたのですが、実は腹水がたまり、12月に計ったときは50kgだった体重が60kgにもなっていたのだそうです。治療を受けてパンパンに膨らんでいた顔も元に戻っていました。体重も3日間で3kgも減ったのだそう。おなかの水が抜けたから体重も減ったのです。

 平日病院に詰めていた娘を休ませるため、週末は私と息子が病院つきそいに。つきそいと言っても完全看護なので、とくに看護がいる訳ではないのですが、姑が心細がり「毎日病室にいてね」というので、病状が落ち着くまでは、毎日交代で付き添うことにしたのです。
 入院の経験は、白内障の手術とか検査入院くらいで、今回のように完全に動けない状態で入院したのは初めてのことだから、姑も心細いのです。
 姑の回復まで、みなで力合わせなくては。

 それにしても、90歳になるまで、家族の世話を受けずに一人で暮らしてきた姑、えらいと思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「昔の名前で出ています」

2015-01-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150127
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(36)昔の名前で出ています。

2003年春庭カフェ日記の再録。昨日の「身勢打鈴シンセタリョン」の続きです。
~~~~~~~~~~~~

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.46
(り)李 恢成『砧をうつ女』

 李恢成は、文壇デビュー時は、「り かいせい」と名乗っていたが、現在では「い ふぇそん」これも、アイデンティティのための大事なことだ。

 李恢成は1970年『伽耶子のために 』で注目され、1971年『砧をうつ女』で芥川賞を受賞した。

 最初に「砧」という言葉をきいたとき、「み吉野の 山の秋風 さ夜更けて ふるさと寒く 衣打つなり」が頭にあったから、木のつちで布地をうってつやを出す、織物の作業が思い浮かんだ。

 砧は、この作業に使う台、きぬ板の転とあるので、この「砧をうつ女」も、織り上がった布地を打って柔らかくツヤ出しているのだろうというイメージが先行した。

 だが、李恢成の「砧うつ」は、織物作業ではない。もっと日常的な洗濯ものの始末。洗濯物のしわ伸ばしをするために、火のしを使わず、重ねた服の上に布地をかぶせて、上から砧で打つ。そうするとしわが伸びる。いわばアイロンかけに当たる家事労働であった。

 また、先日みた『おばあちゃんの家』で、おばあちゃんが川で洗濯をするシーン。おばあちゃんはつちで洗濯物を打つ。あ、砧をうつ女の砧とは、このように洗濯のために水につけた布を打つこともあるのか、と思った。

 砧をうつのは、織った布を仕上げるにも行うが、それよりももっと日常的に、毎日毎日の洗濯のために打つことなのだ。

 炊事と洗濯。もっとも日常的な「家事」。女達は、洗濯をしながら、炊事をしながら、物思いにふける。過去の思い出にひたり、明日を思い煩う。

 もうひとつ、女が打ちつける物音。「身勢打鈴」は身の上話という意味。我が身を手で打ちリズムをとりながら、おのれの一生を語り続ける。

 『砧をうつ女』は、終戦直前の少年の目をとおして、朝鮮半島から日本にやってきて結婚し、子供を産み育てた母親の姿を描いている。

 少年はじっと母を見つめる。母は砧をうつ手を止めない。リズミカルに砧は動き、来し方の自分の半生を打ち出すかのように、布を打つ。

  張述伊(スエ)が没したのは、戦争が終わる十カ月前だった。「僕」はそのとき9歳だった。三十三歳で短い女の一生を終えたスエ。

 「僕」の祖母は娘の追憶にふけり、娘のことを語った。それは身勢打鈴(シンセタリヨン)という鎮魂歌。祖母は身勢打鈴を歌い続けることによって「僕」を母にまつわる伝説の継承者に育て上げた。祖母から母の身の上を聞き、「僕」が引継ぎ語っていく

 娘時代からスエは気性の勝った女だった。砧を打って一生を過ごす村の娘達とは違っていた。両親を説得し、娘は川を素足で渡った。ひとり前見て日本へ向かった。約束した三年がすぎても、両親の家に帰らなかった。炭鉱で知り合った男と所帯を持った。

 北海道へ、また樺太へ。帰郷したのは1931年、十年ぶりのふるさとだった。スエは6歳の「僕」をつれ、パラソルをさし和服を着ていた。

 スエは流れ者の夫を、安住させたいと思っていた。「どこまで流されて行くの」と言いながら、衣服を砧で気長に打っていた。

 砧を打ちながら、何を考えていたのだろう。スエは夫と喧嘩のあと、「こんな生き方耐えられない」と、家を出て行こうとした。
 「僕」は母の前に立ちはだかり、出ていこうとする母を押しとどめた。母が死んだのはそれから十カ月経ってからだ。

 スエは「砧をうつ女」などになりたくなかった。だから日本へ渡ったのだ。
 だが、娘として、母として、妻として、「砧をうつ女」にならざるを得なかった。

 親を思う娘、6人の子どもの母として。スエは結局砧を打った。流されていく夫を嘆き、結局トントン砧を打った。

 平凡な村の女になりたくない、夢や希望をもっていたい。だが、日本でもスエは夢を得られなかった。「砧をうつ女」として生きるしかなかった。

 日本で、流されるままに生きることもできただろう。しかし、スエは村を選んだ。「砧をうつ女」として生きた。

 小さな村をでることもなく、一生「砧をうつ女」として暮らすのは、村や家族のしがらみの中で生きること。自分らしい生き方を求めることなく、毎日を平凡に暮らす生き方。

 安定していて安全で、共同体に守られて。スエはそれを望まなかった。望んでいぬのに、砧を打った。とんとん打って夫を思った。トントン打ち付け子供を思った。

 茫として流されていく日常を、押しとどめようとトントン打った。力強い女の意志で、洗濯物をトントン打った。

 新屋英子ひとり芝居「身世打鈴」 は、 八十歳になる朝鮮人オモニ申英淑の身の上話。
 済州島から日本へやってきて、強制労働や屑拾いなど、過酷な人生を歩んできた在日のオモニ申英淑。80年の過酷な一生にくらべれば、春庭などはまだひよっこ。

 春庭の「笈の小文」も身勢打鈴。
 身の上話をする価値もないが、いま、私には語ることが必要なのだ。ぶっ壊れそうな日常の中、私はとんとんキーボード打つ。

 愚痴やぼやきやうらみやつらみ。女がひとりどう生きたか。「身勢打鈴」で語ってうたう。申英淑には及びもないが、上州女のひとり芝居。さあさ、語るよ。聞いておくれな。
 キーボードをば、とんとんとん。昔の名前はちえのわです。
~~~~~~~~~~

20150127
 ブログ名やIDをいくつか使い分けています。mixyで「ちえのわ」と名乗っているのは、私が蜜柑と呼んでいる姪が、mixyでは「ハルさん」を名乗っているので、ハルがかぶらないようにするため。その他のネットでは、ほとんどが「春庭、HAL-niwa haruniwa」です。co-HALという名乗りは、アントニオJr.ziziさんのサイト専用。大阪の方なので、坂田三吉おつれあいに敬意を表して小春と。

 名前はアイデンティティの基本。春庭を騙ることで少しは本居春庭のことばへの緻密な論考と根気を分けてもらおうと思っているのですが、それはなかなか。ただ、ことばへの情熱は受け継いでいけそうな気がします。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シンセタリョン身勢打鈴」

2015-01-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150125
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(35)身勢打鈴(シンセタリョン)

身勢打鈴(シンセタリョン)
at 2003 11/13 07:57 編集

 メールで質問や反響をいただけるようになった。本当にうれしい。春庭という名乗りについての質問もいくつか。のちほどまとめてメール紹介もするつもりだ。

 書き始めたとき、娘と息子に「誰にも読まれないだろうけど、自己満足で書いていけばいいさ。でも、必ず子供のプライバシーを守ってね。お母さんのページの中に書かれている子供のことが私のことだって、絶対にクラスメートとかに、わからないように気をつけて」と、釘をさされた。

 子供のことがなければ、本名で書いても私はかまわない。
 しかし、小説でなく、エッセイやリアル日記として書いているので、子供やその他の日記に登場する人のプライバシーは尊重しなければならない。子供は親の持ち物ではなく、別人格なのだから。
 それでハンドルネームやIDネームを用いている。

 OCNカフェではIDネームを使う。私は本宅の「ウェブログハウス春庭」の別棟AnnexをOCNカフェに建てたので、春庭と名乗っている。

 ただし、本宅のHAL-niwaという表記でなく、ローマ字でharuniwa。英数半角文字のみ使用できるので、ハイフンと大文字が使えなかった。

 本宅のウェブログハウス春庭は、本居宣長の息子春庭からとった。もうひとつ『2001年宇宙の旅』に出てくるコンピュータHALとの掛詞にするため、HAL-niwaという表記にしている。

 そのほか、あちこちの掲示板に書き込むたびに、いろいろなハンドルネームを使い分ける。いちばん多くつかっているのは、「話しことばの通い路」サイト「フリースペースちえのわ」に使用している「ちえのわ」ハンドル。

 つまり、春庭と、知恵の輪という二つの名があり、姓が春庭、名がちえのわ、あざながトキ。ちえのわ日記のなかでは「トキ=ニッポニアニッポン」と名乗っている。

 作家の中には、本名を使う人もいるが、多くはペンネームを用いる。太宰治のように作家名と同じくらい本名津島修司がよく知られている人もいるし、いくつかのペンネームを使い分けて、純文学、推理小説、ポルノ小説などを書き分ける人もいる。

 芸能界では、途中で芸名を改名するひとも多い。
 五木ひろしは、1965年(17歳)「松山まさる」の芸名でデビュー1967年(19歳)「一条英一」 に改名・再デビュー1969年(21歳)「三谷謙」に改名・再々デビュー1971年(23歳)「五木ひろし」に改名・再々々デビューと、何度も名を変えた。
 一、三、五、と奇数なので、次は「七五三 一九(なごみ かずひさ)」なんてどうだろうか。

 ユーミン荒井由美が、松任谷由実と改名したのは、結婚によって夫の姓に変えたため。
 樹木希林のように、元の芸名悠木千帆をオークションで売りに出してしまい、そのため新しい名をつけた、という人もいる。人の名を買ってどうするんだろうと思ったが、買い手は、自分のブティックのブランド名に使用するために競り落としたのだという。

 日本語のクラスで一番最初の授業は教師も学生も緊張する。
 緊張をほぐす一番いい方法のひとつは、出来る限り早く名前を覚えて、学生の名を呼ぶことだ。

 若い頃は記憶力が今よりはよかったから、4クラス5クラス分、200名くらいの名前と顔が1週間のうちに一致するよう努力した。

 今は記憶力が衰えた上、留学生の名が、日本人には発音しにくい名前だと間違えてしまうことも多い。
 また、おなじような名が二つ並んでいると、取り違えることもある。

 留学生のクラスで気をつけること。学生がこう読んで欲しいという名で呼ぶこと。
 タイの学生は、本名のほかに、日常生活で友だちや家族とすごすときに用いる「呼び名」を持っていることが多く、たいていはこの呼び名のほうを希望する。名簿にある名前とちがうので、最初はまちがえてしまう。

 韓国の学生にも気をつかう。日本の漢字音で読むのを嫌う人が多い。過去の不幸な時代の創氏改名によって、日本名を強制されたことについての暗い記憶がよみがえる。

 いまだに、「仕事を欲しい人が、日本名を自分から望んだのだ」などと発言する政治家もいる。麻生某氏には、これから先、阿呆氏という名に創氏改名をお勧めしたい。選挙のために票をほしい人が、覚えてもらいやすい名を自分から望んだらいかがと。

 韓国の学生が「私はイです」というなら、李さんは「イ」と呼べばいいし、「林」さんが「イムです」と名乗ったら、イムさんと呼べばいい。文さんはムンさん。

 ただし、中国の学生は「日本の呼び方でいいです」と言う人が多い。これは中国内でも、地方によって発音がことなり、土地によって同じ漢字名の呼び方が異なるためだ。

 陳さんは、チンとよぶ地方もあれば、チェンと発音する地方もある。学生は生まれ故郷から、州都の大学に出たとき、別の発音で呼ばれ、北京に行ったらまた別の発音で呼ばれるという経験をしてきている。
 日本では「日本の呼び方」でいいと考える。林さんに、「リンさんと呼びましょうか、それとも?」とたずねると、「ハヤシさんがいい」などと答える。その方が覚えてもらいやすいというのだ。

 それに、日本人は四声の発音ができないので、日本人が正しく発音しているつもりの呼び方が、中国人には正しく聞こえない。

 「王」さんをオウさんではなく、ワンさんと呼んでも、四声をまちがえてしまえば、正しい発音ではない。日本人が普通に「ワンさん」と発音したとき、たいていワの音が高く、ンの音が低い発音になる。しかし中国語では「王」の四声は、第二声なので、ワの音が低く、ンの音が高い上昇の発音になる。間違った発音で呼ばれるくらいなら、オウさんのほうがいい、と言うのだ。

 今年の私のクラスでは「霞」と言う名の学生が「カスミさんがいい」と言ったので、そう呼んでいる。

 要は、敬意をもって、相手の名前を尊重することだ。
 しかし、日本語教師の中にも、英米系の学生には敬意をもって接するがアジアの学生には敬意を持てないという人もいる。

 ある日本語学校で「韓国人は生意気でいやなのよね」と怒っている先生がいた。
 理由を聞くと、パスポートにLiと書いてあるから「リさん」と呼んだら「イと呼んでください」と訂正を要求されたのだという。

 英語がよくできる先生で「英米系の学生とは英語で話せるからいいけれど、中国語や韓国語はできないから、教えづらい」と話していた。「Liとパスポートにあるからリと呼んだのに、リはいやだという、まったく生意気な」と、憤慨している。

 英語がよくできる先生、じゃ、英語のKnowは、生意気じゃないのか?読みもしないKを語頭にくっつけていて、すごく生意気じゃありませんか。

 英語は高級だから、発音しない文字が入っていてもいいが、韓国語は発音しない文字をつけてはならない、とでも考えているのだろうか。

 Knightなんて、Kも、ghも発音しないのだから、もう生意気のきわみ、ぶっとばしてやればいい。ほら、そこのKnight(騎士)をぶっとばして、チェック!あ~あ、王をとられちゃったよ。

 このように日本語教師でも、学生に対して、名前に対して態度はいろいろ。

 名前は自己認識の第一歩。名付けるという行為は、その存在を認める、ということなのだ。アイデンティティにとって、固有名は何より大事なもの。

 親が子供の成長を願ってつけた大切な名前。ひとりひとりの名前を大切にしたい。
 大好きなミュージカル『ウェストサイドストーリー』の中の歌「マリア」一目惚れをした女の子の名を呼ぶ。(春庭拙訳:メロディにのせてないので、これでは歌えない)

マリア・・・今まで聞いた中で最高に美しい音 マリア、マリア、マリア・・・
世界の中で一番美しい響き マリア、マリア、マリア・・・マリア!
マリアという名の娘に会った
すると、突然 僕にとってその名はまったくちがってきこえてきた マリア!
マリアという名の子とキスをした。キスしたとたん、僕には分かった
その名が、なんてすてきな響きになるかと!
マリア! 強くその名を呼べば音楽のよう、やさしく呼べば祈りのよう
マリア!僕はその名を呼び続ける!今まで聞いたすべての中で、一番美しいその名前を
マリア・・・

 どこにでもある平凡な名、マリア。でも恋をしたその日から、それは特別な響きになる。
祈りのように娘の名を呼び続ける。

 私もねぇ。こんな風に名前を呼んでもらいたかった。私の夫は、姑の前では、私を「うちのおくさん」と呼び、子供達の前では「かぁちゃん」と言う。
 私にも名前があるのよ。夫婦別姓法案が成立したら、「昔の名前で出ています」になろうと思うよ。

 ♪ケニアにいるときゃ、ンジョキとよばれたのぉ、中国じゃダォツンと名乗ったの。東京のクラスに戻ったその日から あなたがさがしてくれるの待つわ 昔の名前で出ています。
 探してもらおうにも、たぶん、私の名前を忘れちゃっているんじゃないかな。長いこと呼ばれていない。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「手紙(てがみ)と手紙(シューシー)の間」

2015-01-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150124
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(34)手紙(てがみ)
と手紙(シューシー)の間

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.45
(ら)頼山陽『日本外史』

 阿~吽で、著者名を一巡し、また一巡を繰り返そうと思ったが、好きな著者がたくさんいる行もあるし、ラ行のように、見つけるのに苦労する行もある。

 次の「リ」も、昔、李 恢成は、「り かいせい」と名乗っていたが、現在では「い ふぇそん」、リの項がなくなっちゃうから、昔の名前で出ています。(あ、これ、明日のタイトル)

 あいうえお順でとばした名前、「ぬ」の項「沼正三」はヤプー読んでないし、「ね」ねじめ正一は、1977以後に読んだのだし。あいうえお順を続けるのは難しいことがわかった。次は別のシリーズを考えることにした。

 ラ行の発音を語頭に持つ単語は、古代日本語には存在しなかった。
 辞書をひくと、語頭に「ら」があるラ行のことばは、ほとんどが外来語であることがわかるだろう。

 喇叭(らっぱ)も、羅紗(らしゃ)も外来語。「駱駝らくだ」も「海獺らっこ」も海の外から。ラ行に和語(古来からの日本の言葉)はありません。全部漢語(中国から来た語)と外来語。

 従って、人名にも、ラではじまる氏姓はほとんどない。頼のように、音読みで中国っぽくした名字になる。
 頼山陽(久太郎)の最大の著作『日本外史』原文は漢文である。全22巻。原文で全巻読んだ人がいたら、表彰してしかるべきだ。

 日本史で受験する高校生には書名暗記必需の本だし、ちょっと詳しい日本の歴史書、思想史、文学史なら、たいてい頼の名がのっている。しかし、高名でありながら、現代ではだれも原文を読まない本のひとつ。

 これを研究者、評論者としてではなく、一般読者として全文読んだと書いている人、私は松岡正剛しか知らない。もっとも、正剛も漢文をそのまま読んだのではなく、書き下し文のほうである。書き下し文だって相当なしろもの。

 私には、とても読む気になれない。はい、今回のラ行、読んだことのある「ラ」の著者がみつからなかったから、ちょっと、違反。私は正剛の書評を読んで、「読んだつもり」になっただけ。

 今年の夏休みに、ちょっとした必要があって、黄門様の水戸史観が幕末の知識人や草もうの志士たちにどのように影響を与えたか調べてみたことがある。それで、山陽の日本外史についての概略も知った。(ちょっとした必要ってね、三谷幸喜作、香取慎吾主演の関係です。単なるミーハー趣味)

 今回の話題は、だから、日本外史の中味についてではなく、外見、すなわち漢文についてである。

 中国人に言わせると、頼の漢文も含めて、日本の漢詩文はきわめて日本的であり、中国人なら絶対に書かない漢文だという。
 読んで意味はわかるが、日本人が中国人の日本語発音を「そうじゃないのことあるよ。タメタメ。パカあるよ」と、ステレオタイプに表現するような、そういう漢文だという。

 つまり、日本人の漢文は、中国人からみると、日本的に訛っている。
 すなわち、千年の間にほとんど中国的ではなくなり、日本化したということだ。

 明治の文豪、逍遥、露伴、大正の漱石鴎外はいわずもがな、昭和の荷風、戦後に下っても石川淳あたりまで、漢文教育の命脈は蕩々とながれていた。
 戦後教育も進んで、東京オリンピック前後になると、「漢文など古くさい、それより英語をなんとかせん」というかけ声は日増しに大きくなった。猫も杓子も英語えいご。

 結果、どうなったか。英語もろくろくしゃべれもせず、日本語言語文化における漢文教育の貢献はきれいさっぱり消えてなくなった。
 
 やっと最近、日本語にとって、漢字漢語の存在がどれほど大きなものだったかが、叫ばれるようになってきた。朱鷺があと「キン」と「ミドリ」の二羽だけになったとき、人々が「ニッポニアニッポン朱鷺を守れ」と、叫びだしたのと同じことである。

 まもなく、日本の言語文化から漢語漢文脈のエキスが消えてしまうだろう。ニッポニアニッポンがついに消滅したように。(2003/10月、最後の日本朱鷺キン死す)

 私が自分の「言語文化ワークショップ」を「ニッポニアニッポンことばと文化ワークショップ」と名のっているのは、ニッポニアニッポンの消滅、そして日本の言語文化の消滅をうれえる気持ちを表現している。

 春庭も、きちんとした漢文教育は受けていない。
 高校の国語の時間、週5時間のうち、3時間が現代文、1時間が古文、1時間が漢文だった。それでも週に1時間程度の漢文教育で、論語の初歩、李白杜甫くらいは読んだ。

 返り点だの黙字だのに判じ物のように頭をひねりながら読むのは苦手だったし、白文はまるで読めなかったが、書き下し文ならかろうじて意味がわかった。

 現在では、この書き下し文すら読めず、四書五経どころか、孔孟老荘から四字熟語までが、風前の灯火になっている。

 「弱肉強食」の四字熟語を知らなければ、「四字熟語というと焼肉定食しか思い浮かばない高校生」と、言っても誰も笑わない。実際に焼肉定食しか知らないからだ。

 「中年肥えやすくダイエットなりがたし」と言っても、「少年老いやすく学なりがたし」を知らない。サッカー敗戦のあと、「国破れてサントスあり」と言っても、パロディが成立しなくなってしまった。

 ニッポニアニッポンの消滅が必至のことになってから、あわてて中国から同種の朱鷺を輸入したように、日本の漢字文化が消滅したら、現代中国語でも導入するかね。

 だけど、ご注意!現代中国語では「手紙シューシー」はトイレットペーパーのことですからね。ラブレターのつもりで、うっかり美しい中国娘に「愛の手紙をください」なんていうと、同衾後必要なティッシュペーパーのことかと思われ、頬をはり倒されたりする。

 現代中国語で、愛人(アイレン)は正妻のこと。「私の愛人になってください」は、結婚申し込みだから、女性たちよ、申し込まれても怒らないように。

 さて、頼山陽の愛人に話が戻る。江馬細香は女流詩人の中で、というより、江戸時代最高の漢詩人である。その繊細な感受性を味わうことが、漢文の素養のないわれわれには、難しい。

 漢文教育をおろそかにされた私たちにとって、千年の伝統をもつ言語文化が馴染みないものになってしまったことを惜しみつつ、だからと言って、ご隠居から「どれ、ひとつ漢文訓読の手ほどきをしてあげましょう」などと、申し込まれても、あ、またの機会に、、、、。

 私にはできそうもないが、どうせ、英語ものにならないなら、あなた、ひとつ漢文へ趣味を移行しちゃどうでしょうか。
 ほら、英語やるには恋人作るのが一番と、私、言ったでしょ。あなた、どうも見ても、横文字の恋人作れそうもなさそうだし。

江馬細香の漢詩 「冬夜」

人静寒閨月廊転
了来書課漏声長
撥炉喜見紅猶在
又剔残灯読幾行

<読み方> 冬夜(トウヤ)
ヒト、シズかにして カンケイ ツキはロウにテンず
ショカを リョウライすれば ロウセイ ナガし
ロを カキタて ヨロコびてミる コウナオ アるを
マタ、ザントウをケズりて ヨむこと イクギョウならん

語 釈
寒々とした婦人の部屋。 月が廊下を照らすようになった。
割り当てられた本を読む課業を続け、長い時間が経った。
炉に火種がまだ残っていた。ろうそくの芯を切る。
いったいどれほど読み続けたことであろうか


 冬の夜、ひとり静かに書に読みふける江馬細香のほそいうなじが見える。ろうそくの芯をけずって、火をつけるまで、世の愛憎も、こまごまとした日常茶飯事もわすれて、ひとり本に没頭する。

 このように冬の夜を本に読みふけってすごした江馬細香は、「ろうそくの火を夜、長々とつけておくと、もったいないから、夜なべで繕い物をせずに、ろうそくのいらない明るいうちにすませなさい」などと、妻に小言を言ったかもしれない山陽の妻として暮らして、幸福になれたか。

 更級日記の菅原孝標女のように、本を読むことが無上の喜びだった女は、千年の昔も、江戸の大垣藩にもいたし、現代の東京にも、いるのである。

 夫にこまごまと尽くし、夫の世話を焼くことが無上の喜びである女も、それはそれで、幸福な人生であろう。お幸せなこととお喜び申し上げます。

 でも、夫の世話を焼くより本を読んでいた方が幸福だ、という女を「いやおまえは不幸な女だ」と、断じなくてもよろしくてよ。
 
 以上は、(何度も書いてしつこいが)、不在のパートナーへの「愛の手紙」でした。
 あなたへ。愛人より。

 あっ!同衾していないのだから手紙(シューシー)は、必要がなかった。(また、下ネタオチだよ)

<つづく>
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ぽかぽか春庭「愛人でいいのと歌う歌手がいて」

2015-01-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015122
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(33)愛人でいいのと歌う歌手がいて

 2003年カフェ日記再録「あ~ん」著者名でたどる自分語り。本の紹介「ら:頼山陽」は土曜日24日の掲載といたします。
~~~~~~~~~~~~

愛人でいいのと歌う歌手がいて
at 2003 11/12 13:25 編集

 足跡を辿っていくと、カフェの中には、俳句や短歌を趣味とする人が多い。春庭も駄句戯れ歌が好きなので、短歌や俳句が好きな方へは、できるだけ歌や句の足跡をつけるようにしている。いつも、オバカな句や歌でごめんなさい。

 11/07の「シニア海外協力隊」の「外国語は恋人に教わろう」という話には、「海外ミステリー」さんから
2003/11/09 21:16 mysteries 恋人相手じゃ他のお勉強のほうがもっぱらになりそう・笑
という足跡感想をいただいたので、
2003/11/09 23:45 haruniwa 恋人に英語を教わる気だったが、48手を習う毎日
という足跡レスを返歌。おりかえしのお返事は、「やってられねぇ」でした。すみませんね。ヨタばかりで。

 でも、笑っていただけることが一番の励み。文のお笑い芸人をめざして修行中なのに、いつもスベッてばかりで、壺をはずしっぱなし。

 冬にむかって、これ以上の寒~いギャクは顰蹙を買いそうですが、どうぞ皆様、春庭に顰蹙売ってください。高価買い入れ中。(ネットオークション)

 賛否両論はあろうが、『サラダ記念日』出現は、日本の短詩文芸の歴史にひとつの画期的な事件となった。

 「この味がいいねと君が言ったから七月六日はサラダ記念日」筒井康隆パロディ「この柄がいいねとスケが言ったから七月六日はカラダ記念日」(ヤクザがいれずみを女に誉められて、のココロ)

 春庭パロディ「この縮れいいねとレヴィくん言ったから七月六日はソバージュ記念日」(レヴィ・ストロースのパンセソバージュ「野生の思考」と、何にも考えていそうもない、原宿野生の山姥娘のソバージュパーマネントウェイブの掛詞なんですよぅ。下手な戯れ歌、いつも自分ひとりで受けているハメになるので、自作パロディを自分で解説する春庭でした。)

 こんなふうにいくらでも増殖。無限にパロディが生み出されてしまう、口語短歌。われもわれもとサラダ短歌が続出した。

 「嫁さんになれよだなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの」と、詠んだマチちゃんも、今や40歳。まもなく未婚の母になる予定。(10/21報道)

 私としては、勝手な言いぐさですが、駆け込みできちゃった婚とかはしないでほうがいいと思うよ。できちゃった婚の末路を、ようく知っているある人からのご忠告。(ちなみに、あむろちゃんからじゃありません)

 ここはひとつツッパッて、未婚の母で突き進んで欲しい。まちちゃんの短歌にあるように「愛人でいいのと歌う歌手がいて、言ってくれるじゃないのと思う」あれを貫いて欲しいなあ。「言ってくれるじゃないの」と人様に思われることを言わなくちゃね。一般人じゃなくて、文部省国語審議委員だったんだから、万智先生は。

 かって女性文芸者にとって、結婚は決してよい制度ではなかった。
 結婚が自分の文学を作り上げるためにプラスになった人も勿論いる。ただし、本当に夫の存在がおのれの文学の助けになったかというと、それは本人に聞いてみないとわからない。

 林芙美子のように不幸な結婚生活をばねにして文学を大成させた人もいるし。
 宇野千代のように、何度も結婚相手を変え、男の持つ教養すべてを吸い取り、自分の文学の糧にした人もいる。しかも離婚後も元夫を自分の崇拝者として侍らせておいて、99歳で「私、なんだか死なないような気がするんです」と、のたまう。もって見習うべし。

 文壇で夫婦仲良く文芸大成のカップルは、津村節子吉村昭夫妻くらいだろうか。曾野綾子三浦朱門は、妻の文学はともかく、夫のほうは大成したのかどうか。文化庁長官をやってからどうもね。
 牧羊子開高健夫妻。う~ん、妻は小説家じゃないしな。現代では、小池真理子藤田宜永は夫婦で直木賞受賞。

 女性作家にとって、理想の夫婦関係は三浦綾子光世夫妻だろうか。夫は妻を支え妻が作品を生み出すことを生き甲斐として尽くした。
 
 結婚制度に足をとられ、文学への夢を断った女性作家も多い。そして、文学への夢断たれるのみならず、心を病むひと、命断たざるを得ないまでに追いつめられた人も。

 独身を貫いた一葉に「結婚できてうらやましい」と、日記に書かしめた明治の女流作家、田沢稲舟。
 作品を発表しはじめたときは、樋口一葉以上の評価を得ながら、結婚によって死へと向かった。一葉の高名に比べ、今では明治女性文学史研究者でもなければ作品を読まず、その存在を知っているのは、地元の郷土文芸愛好家くらい。

 明治文壇随一の美男、山田美妙(硯友社、言文一致仕掛け人のひとり)の夫人となったが、幸福の絶頂にいたのは、ほんの短い期間。すぐに美妙の女癖の悪さに泣かされ、ぼろぼろになった。
 実家に逃げ戻って自殺。代表作『五大堂』は、青空文庫で読めます。

 江口きちも結婚制度を乗り越えられなかった。
 愛した人は結婚の約束を口にしながら、「息子が中学校に入学するには親がそろっていないと」「息子が卒業するまでは」と、約束を踏みにじり続けた。きちは不実な愛人をなげきつつ、知的障害のある兄をかかえながら、必死で働き短歌を作り続けた。
 
 自分が死んだら誰が兄の世話をするのかと、迷っていた江口きち、最後は兄を道連れにして自殺。

 江口きちも、地元の人にしか知られていない。
(群馬県立土屋文明記念館で2001年に江口きち特集の催しを行ったので、資料が必要な人は記念館へ)

 金子みすずも、結婚生活の不幸から自殺を選んだ。しかし、みすずは今や全国区となり、地元ではみすずを「町おこし」にさえ利用している。

 女性文芸者にとって、結婚制度の中でおのれの人生と文学をまっとうするのはかくも難しい。結婚制度の枠外で「愛人でいいのと歌う」ことができるとしたら、幸福なことだ。

 愛人のまま、己の文芸を昇華させ、結婚はしないまま愛する人の執筆をも大成させた文芸者も存在した。江戸時代の漢詩詩人江馬細香。

 細香について知るには、南條範夫の小説『細香日記』を読むのが、一番てっとり早い方法。

 ただし、私は南條が描いた細香には不満がある。南條は細香を「結婚できなかった女」「頼山陽の子を身ごもり死産、という不幸にもあいながら、他の女に妻の座をとられた女」として描いているからだ。

 結婚制度の幸福を信じていた南條にとっては、細香は「妻の座を得ることができなかったかわいそうな才女」かもしれない。だが、本当に細香は妻の座がほしかったのか。結婚を望んだのか。

 残された漢詩作品を見る限りでは、私には細香が「結婚をのぞみながら妻の座を得ることができなかった女」には思えない。

 たしかに、山陽は、山陽以上に才気にあふれ、江戸の漢詩人中、第一の才能と謳われた美人の細香を愛人のままに遇した。妻には、元女中として召し使っていた女を選んだ。夫のためにこまごまと世話をする妻としては、凡庸ではあっても気のいい女がよかったのだ。

 もし、細香が山陽の妻となっていたら、どうだったか。
 日本の文芸者夫妻の中にたとえれば、高村光太郎智恵子夫妻のようになったのではないか。

 智恵子はあふれる才能を結婚生活の中に押し殺し、萎縮し摩滅させた。
 夫、光太郎は妻の精神が異常をきたすまで、家事雑事いっさいを智恵子に押しつけ、自分は詩や彫刻の制作にはげむ生活を疑ってみることもなかった。

 妻は家事をして当然と思っており、妻にも、表現の意欲や才能を発揮したいという欲望があることなど、まったく念頭になかった。

 結婚前の長沼智恵子は、平塚らいてうの「青鞜」の表紙を描いていた才能ある画家だった。(平塚らいてうについては、10/24参照)

 結婚前光太郎は、智恵子の美しさとともに彼女の才気を愛したはずだ。しかし、芸術家の妻にとって、夫の制作を助けることを喜びとし、「夫が作品を仕上げること」が最優先とされた。

 自分がどんなにスケッチをしたくなっても、夫が「お茶!」と一声叫べば、七輪に火をおこし、やかんに水を汲まなければならない。智恵子はしだいに精神の平衡を失っていった。

 天才詩人にして彫刻家である芸術家光太郎。
 妻が健康なときは女中として扱い、心を病んでからは「美しい無垢の人形」のように扱って、病む智恵子の美と愛らしさを賛美する詩を残した。

 智恵子は、人形としてかわいがられたかったのではない。自分のもつ絵の才能を、思う存分生かしたかっただろうに。

 私は『智恵子抄』の詩が大好きだ。レモン哀歌も、東京にはほんたうの空がないといふ、、、も繰り返し読む。

 だが、病室で訪れる夫を待ちながら切り絵をして過ごすしかなかった智恵子の姿を思うと、思う存分絵を描かせてやりたかったと、考えてしまうのだ。

 江馬細香は、みごもった山陽の子を不幸にも死産してしまう。だが、細香が子をなしていたとしても、凛としてひとりで育てていったような気がする。

 山陽の妻として、家事に没頭し、山陽の世話にあけくれるよりは、実家で子を育てながら、漢詩文芸を大成させる方を選んだような気がする。

 現代において、法律上の結婚と事実婚の差は縮まりつつある。事実婚が昔ほどの差別を受けることが少なくなり、相続などで法的に事実婚の妻を遇する判例も出てきた。

 法的結婚をなぜ守らなければならないか。近代国家の諸制度を守るためである。なぜ近代国家の諸制度を守らなければならないか。近代産業社会の共同体は、これらの制度によって成立しているからである。

 近年の女性史研究によって、江戸時代の女性のほうが、はるかに結婚離婚の自由があったことが明らかにされている。三行半(みくだりはん)とは、「正式に夫から離別されたことを認め、再婚の自由を得る」ための保証書であった。

 留学生と家族の話をするとき、姑のことを「I have a step mother in low. 」と紹介する。「法律上の義理の母」である。
 次に夫の紹介。「Also I have a step husband in low. I am a workholick widow」と紹介すると、受ける。我が法律上の夫は、仕事と事実婚しています。

 妻の座は法的に守られているが、「座」なんてあっても仕方がない。見捨てられたまま、法律上の妻は歌い続ける。

 北の宿の冷え座布団に静座して読んでもらえぬラブレター書く

 この「座」、お尻が冷えんのよ!ほらほら、座布団一枚!(毎度おなじみのギャグです、、、)

 どうせ読んでもらえないんだし、これからは「♪着てはもらえぬセーターを寒さこらえて編んでます」でも、やろうか。
 昔は手編みのセーター編んでプレゼントしたこともあったのよ!あれ?あのセーターは夫にではなく、その前の、、、いや前の前の、、、はい、どれも着てはもらえぬセーターでした。

 と、冬支度。ここのところ急に寒くなったのは、春庭のサブ~イギャグのせいだったかも。ごめんなさいね。自分だけ心も頭もぽかぽかで。。
~~~~~~~~~~

20150122
 回を追うごとに、一回分の長さが長くなり、ついに、「読んでもらえぬブンショーを寒さこらえて書いてます」状態になったため、1回分を半分ずつにわけて掲載します。後半の本紹介は「ら:頼山陽『日本外史』」を選びましたが、「ら」の著者が頼山陽しか見つからなかったための一冊選定で、内容は、江馬細香についてです。
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ぽかぽか春庭「アインシュタインロマン」

2015-01-21 08:39:11 | エッセイ、コラム
20150121
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(32)アインシュタインロマン

 2003年にUPしたOCNカフェコラムより再掲載をつづけています。
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アインシュタインロマン
at 2003 11/10 05:09 編集

 優秀な人ほど短期間で卒業する。私が出講している大学のひとつには、高校2年生修了から飛び級で大学に入学し、大学3年修了後また飛び級で大学院へ。23歳で博士課程を修了して、まもなく博士号を取得、という超優秀な学生もいる。

 私は鈍才。私立の大学と大学院、国立の大学と大学院で、合計14年間も教育を受けた。この話を留学生にすると、「勉強が好きだったんですねぇ」という感想が返る。

 勉強は楽しかった。でも、要領悪く、好きなことだけしていたから、他の人のようにさっさと必要な単位を取得し、さっさと学位をめざしていく、という器用なことができなかった。

 パチンコが好きな人、競馬が好きな人、カラオケが好きな人、趣味や嗜好、すきなこと人さまざまでいいと思う。

 でも、釣り好きやカラオケ好きは特別変な目で見られることはないのに、勉強が楽しいというと、ちょっとコイツとはつきあえんな、という目で見られてしまう。勉強だって、好きなことを続けるのは、そんなに特別なことじゃないのに。

 私はジャズダンスも続けている。ダンスも好き、朗読も好き、好奇心いっぱいに新しいことを覚えるのが大好き。そして知ったかぶりの蘊蓄たれが、だあい好き。
 
 人が勉強するのは、一流大学に入って一流会社に就職して、出世の階段登るため?
 私は、卒業7回(小学校、中学校、高校、職業専修校、私立大学、国立大学、国立大学大学院)。専攻替え3回。日本古代文学、演劇人類学、日本語文法日本語教育。ものにならないまま専門がコロコロ変わった。

 14年もかかって博士にも届かず修士号どまり。能率悪く、使いものにならなかった私の学問。でも、自分が楽しんだ。それでいい。

 学校の勉強というとき、思い出す人。山元延春(まさはる)さん。テレビ新聞に取り上げられたのでご記憶の人も多いだろう。予定通りのコースじゃなくても、学びたいことが見つかったときが、勉強するとき。そんな勉強の本質を見事に見せてくれた人だった。 

 延春さん、小学校の頃はいじめられっ子。転校先でなじめなかった。
 中学校では昼は学校、夜は母親がやってるラーメン屋を手伝う。父は病弱。手伝いが終わったあと、午前3時、4時まで少林寺拳法の練習をする日々。少林寺拳法は強くなり、県代表に選ばれた。

 昼は学校、夕方から夜はラーメン屋、深夜に少林寺の稽古、それでは朝が起きられるはずない。遅刻欠席が日常化する。通知票は、技術「2」音楽「2」あとはオール1。

 中学卒業後、大工の修行をし、工務店に就職。しかし、延春さんの不幸は続く。16歳で母を、18歳で父を病魔に奪われた。天涯孤独の身になった。世界は暗く、希望はなかった。

 21歳の終わりごろ、突然世界が変わって見えた。同じ少林寺拳法の道場に通う娘さんがビデオを貸してくれたのだ。彼に、NHKドキュメンタリーのビデオ『アインシュタイン・ロマン』を「見てね」と渡した。相対性理論がわかりやすく理解できるビデオだった。

 少年が亀の背に少年が乗り宇宙へ飛び出すロマンあふれる映像を、春庭も楽しんだが、楽しんで終わった。だが、延春さんには終わらなかった。はじまりだった。

 ビデオを見て、延春さんは目が開かれた。『これまでの自分は、時間と空間が不変のものだという自然観をもっていた。それにしてもこの宇宙と世界はなんとめまぐるしく変わり、深くて広いのか。

 もっと知りたい。そうすればもっと違った世界が広がるのではないか』世界を見る目が変わってしまった。この時間と空間の世界を自然の神秘をどうしても理解したかった。

 本屋に行って、化学や物理の入門書をみた。知らない世界がいっぱいに広がる。
 子どもの頃、夕焼けを眺めて感じた疑問がよみがえった。なぜ空は青いのか、なぜ雨は一粒ずつ降るのか。天体の運動にはどんな法則があるのか。ブラックホールはどうなっているのか。

 そんな疑問をもつこと目体忘れていた。世の事象に麻揮した心がよみがえった。もっと知りたい。「なぜ」を追求したい。
 延春さんは大学に行って物理学を勉強しようと決意した。

 進学を思い立ったものの、分数の計算もわからない。かけ算九九から復習した。小学校3年の教科書から勉強をはじめ、24歳で高校定時制に入学した。

 入学後、昼は工務店の仕事。夜は授業。気持ちはあせるが、きつい仕事に疲れ切り、少しも勉強が進まない。

 そんなとき、2年生担任土田秀一先生が「自校の理科実験助手にならないか」と勧めてくれた。月収は3分の1。でも、勉強時間が確保できた。

 仕事のあいまに先生から補習を受ける。両親のいない延春さんを、土田先生は自宅にひきとって親代わりとなった。通信教育の単位も加えて、3年で定時制を卒業見込み。いよいよめざすは大学だ。

 名古屋大学理学部を志望。センター試験では得意の物理は自己採点で満点。だが、遅く勉強をはじめたハンディを全部は克服できなかった。英語でつまずいた。あきらめて一浪か。先生が自己推薦入試があることを教えてくれた。

 自己推薦の作文に賭けた。物理学への熱い思い、これまでの人生これまでの勉学の日々をすべてぶつけた。
 志望動機には、相対性理論の探求に向けた情熱を綴り、名古屋大学に提出。結果、見事に合格。27歳で大学入学を果たすことができた。

 これこそが、ほんとうに学びたいことを学ぶ、という真の勉強の姿だろう。偏差値競争も、ブランド大学も関係ない。延春さんは学びたいから学んだのだ。アインシュタインを理解したいからかけ算九九からやり直したのだ。

 最後に追加の、愛んシュタインロマンをひとつ。彼の世界を変えたビデオ。そのビデオを貸してくれた娘さん、彼女は、今、延春さんの愛妻である。(結婚後は奥さんの姓、宮本となる)
 アインシュタインはもうひとつのロマンもはぐくんだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.43
(ゆ)湯川秀樹『旅人、ある物理学者の回想』
 日本で最初にノーベル賞を受賞したのは湯川秀樹。何もかも失って萎縮した戦後日本に夢と希望を与え、自信をなくしていた人々が、「やればできる」という戦後復興への熱い期待を取り戻すきっかけとなった。1949年のこと。

 湯川博士は、こどものころは内省的で孤独な少年だった。数学は得意だが、まだ何になりたいというはっきりした将来の夢もなく、秀才揃いの兄弟の中ではむしろ目立たない少年だった。(地質学者小川琢治京都大学教授の5人の息子は、惜しくも戦死した末子滋樹をのぞき、4人がそれぞれ超秀才、各分野の著名な学者になったことで有名)

 ある日の中学校授業。コンビを組んで物理の実験をしていた同級生から「君はアインシュタインのようになるだろう」と言われた。
 言われたが、アインシュタインが何者か、知らなかった。そのうち、世界をわかせた相対性理論の学者であることを知ったが、まだ、心酔するには至っていなかった。

 1922年、アインシュタインが来日したとき、日本中が熱狂して新理論をひっさげて20世紀科学世界を一変させた学者を迎え入れた。しかし、秀樹少年は京都で行われた講演会にも行かなかった。自分が理論物理学に進むとも思っていなかったからだ。

 湯川秀樹がアインシュタインに会ったのは、それから十数年ののち。
 1934年、湯川博士は、原子核内中間子の存在を予言し、素粒子論に新たな理論を加えた。1937年、中間子場理論を発表。1939年、理論が認められヨーロッパへの講演旅行に出発。

 しかし第二次世界大戦の勃発により、ヨーロッパからアメリカへ回った。この時、ようやく湯川博士はアインシュタイン博士と邂逅した。あこがれのアインシュタイン博士はすでに白髪の老人になっていた。

 その後何度も湯川秀樹はアインシュタインに会い、敬愛の念を深めた。
 1955年ラッセル・アインシュタイン宣言の共同署名者となる。アインシュタインが願った世界平和への意志を引き継ぎ、湯川博士は晩年を平和運動に貢献してすごした。

 「湯川博士」の名は、私たちの世代にとって「大学者」「えらい科学者」の代名詞であった。

 「末は博士か大臣か」というのが親が子に望む出世コースだったが、ノーベル賞受賞以来、大臣人気はすっかり寂れ、「将来は湯川博士」が合い言葉になった。

 完全文系人間の私には、湯川博士はいつも遠い遠い星であった。近づくことも夢見ることもないスター。恵まれた環境と素質を持った秀才一家の超秀才。あまりにもかけ離れた存在に思えた。湯川博士になりたいなどと思ったことは一度もない。(私がなりたかった人リストは11/08に書いた)

 しかし、『旅人』を読むと、小学校中学校時代の秀樹少年は、おどろくほど私の小学校中学校時代と似た面を持っていた。

 夢見がちで、いつもぼうっと想像をふくらませていて、現実を忘れる。自分の好きなことだけに熱中して、それ以外の勉強はいっさいお留守。孤独でひきこもりの内省的な生活。

 むろん田舎の鈍才少女と、京都のとびっきりのエリートコースを歩む天才とは、レベルが違いすぎる。だが、秀樹少年の子供時代の回想を読んで、今まで敬して遠ざけていたこのノーベル賞受賞者がとても好きになった。

  秀樹少年も私と同じく、ノートに童話を書きためていた少年であったのだ。彼は引退後の生活について「また、童話を書いてすごしたい」という希望を述べている。

 彼の自伝『旅人』には美しい描写が続き、なつかしく生き生きとした戦前の京都、町屋の暮らしが活写されている。物理学者には、寺田寅彦など文学的才能の豊かな人が多いが、湯川秀樹も理論物理学者としてとの才能と同等に文学的な才能が豊かな人である。

 私は俳句や短歌が好きだから、最後に湯川秀樹の短歌を並べておわりにする。

たそがれて子等なお去らぬ紙芝居少年の日は遠くはるけし
そこはかのうれいある日の帰るさはいやなつかしき今日の夕山
比叡の山窓にもだせり逝きし人別れし人のことを思へと


~~~~~~~~~
20150121
 2003年にこのコラムを書いたのち、延春さん(結婚後は宮本姓)、高校の先生として活躍。2006年には著書「オール1の落ちこぼれ、教師になる(角川書店)」がベストセラーになりました。現在は「教育再生会議」の委員を務めています。私はこの会議が打ち出す方針に反対する意見の持ち主ですが、宮本さんが高校教師として生徒によい影響を与えてきたであろうことは評価しています。

 一方、鈍才春庭は、私立大学6年国立大学4年大学院4年の在籍履歴に、さらに私立の大学院を3年付け加えて、ようやく博士号を得ることができました。私なりに苦労したけれど、今や博士なんぞは珍しくともなんともない時代になりました。自己満足におわっただけの博士号取得ですが、亡き母に「大きくなったらハカセになるんだ」と宣言した約束は一応果たされたので、あの世では母も喜んでくれたと思うとほっとします。
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ぽかぽか春庭「女の物書き、あと15年修行したら」

2015-01-20 08:47:31 | エッセイ、コラム
20150121
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(31)女の書き物、あと15年修行したら、、、

 12年前の羊年、2003年に書いたコラムの再録です。
~~~~~~~~~

女の書き物、あと15年修行したら、、、
at 2003 11/11 06:16 編集

 9/26日にOCNカフェ日記をはじめたとき、何を書くか、まったく決めていなかった。

 本宅「話しことばの通い路」HPの「女の日記50年分全公開」のコンテンツ。読んだ本の感想、映画の感想、日本語教師の教室日誌、日常生活の記録、ニュースへのコメント。これらは、すでに書いている。コンテンツが重ならないよう、別の角度をどこから開くか。

 10歳からの日記を持っていることが私の財産。1977年の分から、読書メモも残っている。だが、1977年以前の読書記録が残っていない。思い出す本、忘れた本。そうだ、本を思い出そう。老化の脳を活性化する。

 たまたま、9/25が、21世紀になって千日目にあたったので、次の二千日目に向かって、「千日千冊」と題して、本をめぐって思い出話を書くことにした。タイトルは松岡正剛『千夜千冊』のもじり。

 知の巨匠松岡正剛の「千夜千冊」がすでに890冊に達している。高くそびえるソフィアの巨峰を経巡って、知の千日回峯を達成しようとしていること、賛仰の目で読んできた。一冊一冊の本に対してほんとうに優れた評論が続く。正剛のまねなんか、しようとは思わない。とても常人にできることではない。

 私ができることは、自分語りしかない。でも、それでいいじゃないか。本について、本格的に書評や評論を書く人は、たくさんいる。しかし、私について語れる人は私しかいない。
 だれも、おまえになど興味を持ちはしない。おまえ自身のことを書いたところで、誰の興味もひかず、誰も読みはしない。そんなことはわかっている。自己満足でかまやしない。

 私にとって私自身について書いておくことが、今、今日の私の生を支えるために必要なのだ。ともすればくじけそうになり、くずおれようとする自分自身の老いに向かう心を奮い立たせるカンフル剤として、今、書くことが必要なのだ。書かなくちゃ。

 長年ひとりの殻にとじこもり、誰にも本音を話したことがなかった。つもりにつもった思いを全部吐き出してしまおう。

 9/25の夜、ファンだった有馬秀子さんが101歳で亡くなった。残念だったが、そのニュースを聞きながら「老いに向かう心の冬支度」をテーマにしようと思い立った。

 マクラに、「高齢者ニュース」を振る。そのときどきのテレビ新聞から拾った、お年寄りが主人公のニュースから話を始める。ニュースにまつわる話題と、あいうえお順に著者を並べた本の思い出をリンクさせる。

 うまくリンクできるかどうか、ここは私の芸人魂。文の芸で生きようと思った若い時代の夢を押し込み、子育てと子供のパンを買う金稼ぎに専念してきた20年。芸人に戻れるか。

 長女が生まれた頃、原稿料を稼ぐ暮らしをはじめてみたものの、子育てと両立できない自分にいらだった。誰の助けもない育児家事の中で、取材に出るにも原稿あげるにも、思うようには書けなかった。原稿料だけでは生活できないし、一日一日と子供は背に重くなる。書きたい。仕事を続けたい。ようやくつかんだチャンスなのに。やっと原稿料もらえたのに。挫折。
 子供が成人するまでは、子供を育てて生きていこう。ペンは机にしまい込んだ。

 20年間、いい母親じゃなかったけれど、なんとか娘は大学生、息子は中学生まで成長。
 中学教師からのイジメを受けた娘の不登校など、つらい時期もあった。でも、二十歳をすぎれば、もう親の手はいらない。

 やっと、自分のやりたいことができるまで、あと一歩、目前に。書きたい書きたい書きたい。へたの横好き、自己満足。いいじゃない。だれに迷惑もかけないで、やれることならやっていこう。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.44
(よ)吉野せい『洟をたらした神』
 吉野せいが、『洟をたらした神』で、大宅壮一賞、田村俊子賞を受賞したとき75歳。
 70歳で執筆をはじめてから、5年目のことだった。それから2年、77歳で没するまで、せいは作家として生きた。

 結婚以来50年に及び、農婦として農作業子育てに生きた吉野せい。晩年の数年を「書くことのできる喜び」の中ですごした。

 せいは、女学校へ行けなかった。高等小学校が最終学歴。独学。検定試験で教員免許を得て、小学校教師になった。夢に燃えた教師生活だったが、2年教えたあと退職。小作開拓農民三野混沌(吉野義也)と結婚後は、農婦として生きた。

 6人の子を育て、労働運動農民運動に飛び回る夫に代わって、田畑耕作と子育てをひとりでこなした。70歳すぎ、子供も成人した後に、昔の思い出を書き始めた。ぽつぽつと、思い出すまま少しずつ。

 なんてすごい一生だろう。つらい開拓農民の暮らし。食べるものにもこと欠く生活の中で、栄養もなく生まれた子供が死んでしまう。戦中戦後、どの人だってつらい生活だったけど、中でも開拓農家の暮らしは辛酸を極めた。

 それなのに、70歳の年を迎えてようやく書き出したせいの文章の、なんとみずみずしくうるおって、生きることの光りに充ち満ちていることだろう。

 書かれている内容は悲しいことも多い。私が好きな「梨花」というエッセイも、生まれてたった六ヶ月で、儚く死んだ赤ん坊の思い出話だ。

 笑顔のかわいい赤ん坊梨花は、小さな身体を小さな箱に収めて、開拓地の冷たい土の中に消えてしまった。

 だが、梨花を死なせた若い母は、40年の歳月を経たのちになって、赤ん坊の姿を書き留める。土にまみれて働く母の胸にだかれた赤ん坊梨花の姿は、永遠の光りになって私たちに降り注ぐ。

 『梨花とは父親が名付けたよく似合う名前であった。おまえのその静かさとやわらかい笑みとは、いつも生活苦のために苛立ちあれている私の心をなごませてくれた。おまえを見るときのみ私の顔はしわみ、私の声はうるおうた。

 「リーコリーコ、よしよし」ひびと土とにがさがさな私の手は、重いおまえのからだをどんなにも嬉しく支えたことか。そしてその支えられた手の上で、垢によごれた綿入れの中からふっくりした白い顔をだして、おまえはどんなに可愛いほほえみを見せたことか。梨花よ。あの顔がみえる
。』

 赤ん坊ながら母の心をなぐさめる笑顔をたやさず、そのために病気の発見がおくれた。生後半年で死なせてしまった貧しい母は、40年たってもその子の思い出を抱きしめる。せいの文を書き写しながら、私は涙が止まらない。

 このように、このように私は生きたい。書いていきたい。70歳まで、あと15年ある。15年ひたむきに修行をつめば、このような美しい文章を書き残せるだろうか。

 たぶん、15年たっても、私が書くものは、今と同じくがさつで下世話な与太話だろう。人間の出来が違うから。

 多くは望まない。もう少しよい人間になって、もう少し優しい人間になって、人の心に寄り添える、あたたかさを身につけられたら、今よりも少しはましな文を書きたい。

 だけどね。やっぱり私はヨタ与太です。同僚に教わって大笑いした川柳がある。
 私のことを書いたのかしらと思った川柳。

 「お隣を許せず世界平和願う」
 ハハハ!私もね。世界平和を望んでイラク派兵に反対だけど、公団アパートの同じ階のだれかさんに我慢ならない。

 うちが廊下に出しておく生協の箱をじゃまにして、いつもけっ飛ばして行く人がいるの。そりゃ、廊下に出しとくうちも悪いけどね、オタクだって自転車その他を廊下にだしているじゃないの。

 いつも心では「もう少しでもいい人に」と思うのに、やってることは馬鹿ばかり。人をうらやみ、ねたみそねみ。友の出世をうらやんだり、同僚がポストを得たと知ってひがんだり。

 でも、こんな春庭を「ねたみそねみ仲間」として、つまはじきしないで迎えてくれるウェブ友もいる。このページのみょうがさん、http://www1.odn.ne.jp/~caa33030/myo.htm はるにわを「ねたみそねみ」つながりとして認めてくれました。

 愚痴をこぼして、ねたんでそねんで、それでも私は私。洟たらしながら、蘊蓄たれでもやっていこう。

~~~~~~~~~~~
20150120
 あと15年ほども修行をしたら、もうちょっとましな文章が書けるようになるのかと思っていたのだけれど、12年書き続けてもたいした進歩はなかった。むろん、12年の間に、多少は語彙を増やした。しかし文体というものは、そうそう進歩していない。あいかわらずの、ぐだぐだと書き流す駄文です。
 修行が足りませんでした。

 さらに15年、修行を続けることにします。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「シニア海外協力隊」

2015-01-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150118
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(30)シニア海外協力隊

 OCNカフェ掲載「おい老い笈の小文」再録を続けています
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シニア海外協力隊
at 2003 11/08 06:43 編集
 日本語のイロハも知らない留学生に、初日に教え込まなければならないこと。90分ヒトコマで、「N=N」の文型、名詞繋辞文(copura文)を教える。

 どうです、日本語を教えるなんて、日本語話せたらだれでもできると思っている方、繋辞コピュラ文なんて言葉をきくと、なんだか難しそうで、たいへんそうに思いませんか。ハッハッ、ちょっとこけおどしをしてみたかっただけ。

 要するに、「私は○○です」「国は○○です」という、名詞=名詞、英語で言えば、I am Bety.I am a girl.から始めるということですな。(ジャック&ベティで、英語を始めたと言う方、ご長命およろこび申し上げます)

 ほんとは、日本語話せれば、だれでも日本語教えられます。ただし、それは1対1の「スペシャル個人授業」の場合に効果が上がる。

 外国語を学ぶのに二番目にいい方法は、学びたいと思う国の言葉でポルノ小説を読みふけることだという。

 前後の単語が分らなくても、ずんずんと気にせず読み進めれば、「ハハン、この言葉は、こう腕を背に回して、こうあぐらの上に乗せて、おぅ、おぅ、これは、忍び居茶臼じゃありませんか!おお、これは尺八演奏、春の海」という具合に、理解が早い。(この部分、さっぱり理解できなかった心正しき方々、気にせず、先をお読みください)

 そしてポルノより効果的な、一番目にいい方法は、学びたい言葉を話す恋人と同居することである。

 逆もまた真なり。誰かが学びたいと思っていることばをしゃべれさえすれば、人はだれでも自分の恋人の優秀な語学教師となれる。

 ただし、1対1じゃない教室で、何人かの学生相手に、しかも特別日本語を学びたかったワケじゃないのに、一番必要だったUSA留学の奨学金はライバルに取られてしまい、しかたがなく、ま、日本でもいいか、なんて動機で来日した留学生相手に、4ヶ月のコースで初級修了まで教えるのは容易なことではない。

 初級修了というのは、日本の中学生が英語を習うのにたとえると、中学3年間で習う内容の英語と同程度の日本語力、ということである。日本の中学生が3年かけて覚える初級語学を、日本語コースでは、集中コースは3~4ヶ月、一般コースだと1年で修了する。

 もっとも、週に3時間や4時間しか英語の授業が受けられない中学生と、1日に、50分授業を4~5コマ、または90分授業3コマを1週間に5日受けるのと、時間数はあまり変わらない。

 だいたい初級語学は300時間程度で教えるというのが多い。日本の中学校英語も、3年間でおよそ300時間の授業だ。

 「日本語教育能力検定」という日本語教師の試験に合格するのは、本当に大変。
 毎年6千人から7千人が受験して、合格は千人程度、合格率15%くらい。

 言語学、日本語文法、音声学、語彙論意味論、言語対照論、異文化理解教育、外国語教授法、日本の文化、文学歴史などなどを頭の中に詰め込んで、教育実習で授業もやってみて、それでもなかなか合格しない。
 試験は朝9時から、夕方5時すぎまで、丸一日かかる。

 私は1988年に第1回目の試験に合格した。試験制度がはじまったばかりで、試験官もどんな設問が適切なのか、試行錯誤の混乱の間に合格しちまった、早い者勝ちである。
 合格したとき、娘は4歳。日本語教師としては遅いスタートだった。
 
 しかし、何事をも、新しくはじめようと思い立ったときからが青春。 
 私が日本語教授法を受け持っているクラスに、50代の男性がいる。日本語教師の資格を得たら、海外で教えてみたいとはりきり、海外で日本文化を指導するときに備えて、お茶の稽古、着物の着付けも習っている。

 私の従妹が青年海外協力隊のハイスクール理科教師をしていたことを10/21に書いた。青年協力隊は40歳までだが、シニア協力隊は40歳から60歳過ぎまでOK。

 定年を迎えた後、自分の技術や特技を海外でもう一度役立てたいという多くの方が、協力隊員として活躍している。

 旅をするのもひとつのすてきな生き方だし、年金で悠々生活もうらやましい。もうひとつ、シニア海外協力隊というのも、選択肢のひとつとして、老後の過ごし方リストに加えておきたい。

 海外で教えることができる技術を持っている方はぜひご一考を。
 ただし、日本語教育での参加はきわめて難しい。

 JAICAが出しているシニア協力隊参加の質問回答で、日本語教育については次のように答えている。

 日本語教育は、毎回応募者が最も多い人気科目の一つです。
日本語教師として派遣されるには、以下の条件が揃っていないと難しいでしょう。

(1)外国人に対する日本語教育の経験(フルタイムで3年以上)
(2)日本語教育能力検定試験合格
(3)日本語教師養成講座420時間修了
(4)当該国の語学力
ただし、(2)については必ずというわけではありません。

 日本語が話せるからという理由での応募は、避けた方が賢明です。また、経験のない人が「経験不問」とある要請に応募しても、経験を有する応募者と競合することになれば合格することは難しいでしょう。
 
日本語教育には応募者が多いため、選考委員から技術問題が出題されます。設問の一部を掲載しますので、参考にしてください。第二次選考時に日本語教育の応募者のみ技術面での面接も実施します。

<技術問題の出題例 >
 第一言語習得における文法の役割と第二言語習得(学習)における文法の役割について知るところを整理して述べてください。

(以上、JAICAシニアボランティア質問コーナーより)

 うっひゃー、難しい!と感じた方。(4)の、「当該国の語学力」を身につけるため、最初は、その言葉を話す人と親しくおつきあいをしながら習うところから始めるのが、一番楽しいような気がします。
 日本語教師をめざすにも、まずは恋人探しから。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.42
(や)山口昌男『道化的世界』
 私は、日本語教師になるつもりはなかった。たまたまの巡り合わせでこうなってしまったのだ。

 子供のころ、成りたかったのは「探検家旅行家」だった。

 小学校時代の夢。1,童話作家。アンデルセンのように旅をして、飛行鞄や吟遊詩人みたいなお話を書く。(小学校の間、ノートに自作の童話を書きためていた)2,スタンレーのようなジャーナリストになって、アフリカ探検に行く。(卒業文集にはジャーナリストになる、と書いた)

 中学生時代。3,スウェン・ヘディンが、ロプ湖を発見したように、考古学者になって桜蘭やゴビ砂漠を旅する。

 高校生のころ。4,泉靖一のような文化人類学者になってインカやアステカを調査する。

 20歳ころ。5,トール・ヘイエルダールのような海洋人類学者になって、葦船やいかだで航海する。

 30歳前。6,川田順造・山口昌男のような文化人類学者、神話学者になってアフリカ世界を調査する。

 夢見るころを過ぎて、振り返れば、1から6まで、何ひとつ実現しなかった。

 ころころと目標人物が変わったが、一貫しているのは「遠くへ行きたい」ということだった。今でもむろん、夢を見ている。いつか必ず世界を放浪、右手に『地球の歩き方』左手にはデジカメ持って。

 『地球の歩き方』は別名『地球の迷い方』。
 この本片手に旅をして、迷ったヤツは数しれず。迷った人ごめんなさい。夫はダイヤモンドビッグ社の下請けです。本の奥付にある社名は、Free lance shield をもじった私のネーミング。

 夫と出会ったのはケニアのナイロビ。山口昌男の『アフリカの神話的世界』にあこがれてアフリカに行ったものの、神話学も演劇人類学も落っことして、夫を拾って帰ったことは10/19ほか何度か書いた。

 山口昌男の著作、一番最初に読んだのは『アフリカの神話的世界』。それから1977年以前に読んだ本をあげると、『人類学的思考』『歴史・祝祭・神話』『文化と両義性』『道化的世界』『道化の民族学』『知の祝祭』など。

 山口は、道化トリックスターをとりあげ、世の中の事象をあざやかに解説して見せた。
 山口やその他の文化人類学関連書を読んでのち、フレイザー『金枝篇』を読んだときにはさっぱり理解できなかった世界が、見渡せるようになった。

 一度だけ、山口のすぐそばに腰を下ろしたことがある。岩手県遠野へ早池峰神楽を見に行ったときのこと。芸能人類学をめざして、能狂言、歌舞伎、民俗学、伝統芸能などを学んでいた頃だ。

 早池峰には山伏神楽と神人神楽のふたつがあるというのだが、私が見たのがどちらなのか、覚えていない。

 学生達は板の間にぎゅうぎゅう詰めに座って、神楽が演じられるのを見ていた。神楽もすばらしかったのだが、私はなんとかして山口昌男にミーハーファンとして話しかけられないかとチャンスをうかがい、気もそぞろ。

 神楽は、延々と演じられる。能狂言を教わっている教授に連れられてきた私たちは、教授が全部最後まで見る、というので、席を立つわけにはいかない。
 しかし、山口昌男は教授と話を続け、「さわり」の部分だけ見ると、さっさと席をたって出ていってしまった。

 能狂言を学ぶにも、山口の『道化的世界』の中の「能の神話的古層」を読むことで、能舞台の松にもまったく異なる光があたる気がした。しかし、よく理解できないことも多かった。

 「山口的世界」が本当によく理解できるようになったのは、言語学を学びなおして、記号論が理解できるようになってからだった。

 山口は「一つの文化の中に生きている人間の世界についてのイメージ、(これを「宇宙観」「世界観」と呼ぶ)を再構築しようという試みが顕著になりつつある」と「能の神話的古層」の冒頭で述べている。

 こういう内容、1977年ころの私の頭には、理解するのが難しかった。いったり何を言っているのか。世界観?宇宙観?再構築?

 しかし、今や中学生までが「このFF9の世界観が好きだ」などと、「世界観の再構築」などについて熱く語り合っているのだ。息子たちのゲームバーチャル世界での話である。

 「聖剣伝説の世界観ではね。世界はイメージで成立しているんだ。だから、自分がイメージできないことは、存在していないってことだし、自分がゲーム世界で演じているってことは、すなわちイメージが構築できているってことなんだよ。ただし、主人公は、プレイヤー自身の個人的背景を投入することによって存在できて、、、、」などと、息子に熱く語られても、さっぱり「ゲーム的世界」「世界の再構築」が理解できないのだ。

 「あんたらのやってること、言ってること、まったくわからん」というのは、30年前に私たちも言われたことなんだけどね。かくして世代は交代し、かくのごとくに季節はめぐる。
 ふぅ、団塊の世代の「働き盛り時代」も、まもなく終わる。季節はめぐり、廻ってゆく。もうすぐ冬がくるんです。冬支度はOK?こたつ出した?電気毛布にホッカイロは?。

 でも、木枯らし吹くのはもうちょっと待って!来週、日本事情の授業は教室飛び出る。戸外でピクニックしながら日本文化のレポート発表するって、留学生と約束しちゃった。「こども動物園」で、お弁当食べながらの授業です。
ぽかぽか小春日和の日だといいな。春庭いつでもポカポカです。主に頭が。

<つづく>
コメント (4)
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ぽかぽか春庭「山姥」

2015-01-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150117
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(29)山姥

山姥!おばあさんと呼ばれる日
at 2003 11/06 21:24 編集

 子供時代、おばあさんの膝に抱かれていたころは、自分もやがてはおばあさんになるのだなんて、とうてい思えなかった。しかし、もう「おばあさん」は目前。
 息子はまだ中学生だし、自分の孫から「おばあさん」と呼ばれる日は、もう少しあとのことになるだろう。
 が、日本語では親族を呼ぶ「おばあさん」「おばさん」「お姉さん」などが、他人に呼びかける言葉としても使われている。

 八百屋の店先では「お姉さん、大根安いよ」なんて呼び止められている私も、やがては電車の中で若者に「おばあさん、ここどうぞ」と席を譲られて、きっとなり「わたくし、あなたのような孫を持った覚えがございませんので、あなた様からおばあさんと呼ばれる筋合いはございません」とかなんとか言いながら、ずうずうしくも座席にどっしり腰を据える、イヤミな婆あになるに違いない。

 女性には2度の年齢ショックがある。最初は30歳前後のとき。
 見知らぬよその子供から「おばさん」と呼び止められて、ショック!
 「あたしがオバサンだってえ。ちょっと、そこのガキ!いったいどこ見てあたしをオバサン呼ばわりするのよ!こんなに若くて美しいのに」

 2度目は、見知らぬ他人から「おばあさん」と呼びかけられたとき。
 「ちょっとぉ、いったいどこ見て私を~以下同文」

 25歳のとき姪が誕生して、めでたく私は叔母さんになったのだが、ガンとして姪には叔母さんと呼ばせなかった。「おねえちゃん」と呼ばせていたのだ。
 自分が母親になってから、ようよう姪から叔母ちゃんと呼ばれても気にならなくなった。

 息子が遅く生まれて、まだ中学生であるのをいいことに、何かの集まりで年齢さぐり出しトークになると「中学生の息子がいるんですが、これが少しも勉強しませんで、、、」などと言うことにしている。

 すると敵は「中学生を持つ母親ならだいたい、40代、いや22歳で生んで中学1年生の母親なら、13を足して35歳くらいか」なんて勘定しているのがわかる。

 フッフッフ。公称35歳。
 ところが、第2番目のショック!がついに来た。

 11/03に、息子の学校文化祭へ行ってクラスで上演した演劇を見た話を書いた。
 三谷幸喜の脚本が実にうまくて、とにかく笑いっぱなし。ほんとにうまい喜劇作家だ。

 マクベスを演じる一座をめぐるシチュエーションコメディなのだが、セリフのくすぐりやパロディに大ウケ。

 息子は「役をおろされた大根役者」の役なので、自分の出番のほかは奥へはいってしまう。息子が出ていない場面が退屈になるんじゃないかという心配はふっとんだ。

 他の観客は笑わず、私だけが笑い出すこともある。たぶん、中学生には昔のギャグやパロディはわからないし、「軽井沢夫人」なんてセリフで笑えるのは、むかし日活ロマンポルノを見たか、現在クドカンドラマ「マンハッタンラブ」を見ているかだ。

 マクベスがパロディで「もしも明日があるのなら、思いのすべてを言葉にして、君に届けることだろう」なんて、セリフを言ったとき、西田敏行の「♪もしもピアノが弾けたなら、思いのすべてを歌にして~」というのが思い出されてクスクスッ。でも、中学生達にはこの歌わからない。うまれる前の歌だもの。

 私が笑い出すと、他の人もつられて笑うっていうこともあった。中学生の稚拙な演技でもこれほど笑えるってことは、三谷幸喜は天才だ。

 誰よりも大笑いをして帰宅した。笑うのが大好き。笑うと免疫力が高まり、寿命が延びる。笑いは長寿の元である。
 役者は観客に支えられ、観客は役者の演技で寿命を延ばす。

 劇が終わって帰宅した息子に、「どうだった、うまく演じられた?」と、感想を聞く。
 「うん、僕はね。うまくいった。ぼくのセリフ客によくうけてたし。ぼくは裏にひっこんじゃうから、他の人がでているときのことわからないけど、ソンチョーの話だとね。ひとりよく笑ってくれる観客がいて、笑いの起爆剤になってありがたかったけど、おばあさんだから、笑いのテンポが半テンポずれるんだって。そいでもって他の観客がおばあさんにつられて笑うから、観客が笑うころには次のセリフがかぶってしまって、やりずらいったらありゃしない、って言ってた」

 ちょっと待ったあぁぁ!そのおばあさんってのは、まさかまさか、私のことじゃあるまいか?

 村長がうちに遊びに来たとき、私は家にいなかった。
 私は息子の親友村長の顔をよく知っているが、村長は私を知らない。村長は大笑いをしている私を見て、「なんだい、このおばあさんの大笑い」と思いながら演技していたのだ。

 おばあさんだってぇえええ!いったい私のどこ見て、おばあさん呼ばわり、、、と鏡をみれば、皺白髪、、、、そりゃねぇ、見たままを口にする心正しき中学生の感想!

 年齢からいえば、確かにクラスメートのお母さんの中で、私が一番年寄りだ。村長のママなんて、すごく若くてきれい。自分のママから見たら、私がおばあさんに見えたのは、仕方があるまい。私は息子を39歳で生んだのだ。
 私の中学生のときのクラスメートの一人は、39歳のとき、孫が誕生していた。

 というわけで、11/03文化の日は、「春庭、はじめて人様からおばあさんと呼ばれた日、記念日」になったのでした。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.41
(や)山崎正和『世阿弥』

 10/26に、姑と『わらびのこう』を見た話を書いた。
 この映画の中で、市原悦子演じるれんが、山中で生き別れの義妹に出会う。義妹は婚家を出されたあと、里に帰るに帰れず、山の中にひそんで山姥となって生きる。

 山は里に生きられぬ女をそのふところに迎え入れ、山の幸をめぐんでくれたのだ。左時枝演じる山姥は、絵本の中でみた山姥さながらの迫力。
 娘が幼かったとき、山姥がでてくる「日本昔話」を見て大泣きし、夜泣きが続いたことなど思い出した。
 山姥は、各地の伝説に残る山の中に住む老婆。

 世阿弥の能『山姥』は、今の新潟県青海町大字上路を舞台にしている。

 前場。ツレは百万という名の遊女。曲舞(くせまい)の名人で「山姥の山巡り」の舞で評判をとっている。

 百万とお供の一行が善光寺詣のため上路を通る。けわしい山道に都会ものが難儀しているうち日が暮れるが、山の女が宿を貸す。山の女(前シテ)は、自分こそが真の山姥であり、百万が自分を題材にした曲舞で名を上げながら、山姥の心を解していないと恨みを述べる。

 後場では、百万山姥一行が待つうちに、山の女の真の姿、山姥が現れる。その姿は、自然の力を越えたおそろしくおどろおどろしいもの。山姥は山巡りのようすを一行に見せ、自然の秘めた深く壮大な哲理を知らせて山の奥深く姿を消す。

 各地の民話では山姥は私の娘が泣き出したような「人や牛をとって喰う」恐ろしい存在として描かれることが多い。
 だが、世阿弥の描き出した山姥は、もっと深いものを感じさせる。人の世の善悪正邪を越えた、超自然の存在、山野に普遍し季節の巡航の中で巡り来るマレビトの仲間。

 能の詞章である謡曲は、流派に伝えられるうち、上演台本として改変が加えられたり、他の作品、ときには他の作者の作品と組み合わされたりして、元の作者がはっきりわかっていないものも多い。

 能といえば「観阿弥世阿弥」と並び讃えられていながら、世阿弥元清の作だとはっきりしているものは数少ない。『山姥』は、世阿弥の作品であることがはっきりしているもののひとつだ。

 足利将軍義満の愛顧を得た世阿弥、義満没後はあとを継いだ義嗣にうとまれ、佐渡に流される。佐渡でどのように長い配流の生活をおくったのか、などもはっきりわかる資料が少ない。

 それだけに世阿弥の生涯は作家の創作意欲をかき立てる。世阿弥を描いた作品で私が好きなのは杉本苑子の小説『華の碑文・世阿弥元清』だ。

 戯曲では、山崎正和の『世阿弥』。「見られる側の人間」「演じる側の人間」として、権力者の影の存在にあまんじつつ、己の人間存在を大成させる芸能者を描いている。

 ラストシーン、義満の影として演じることをいさぎよしとせず、己を光りの存在としたかった元雅の亡霊、世阿弥をうとんじた義嗣の亡霊が現れる。

 義嗣は「そなたが影法師である限り、そなたに写されてとどまる限り、光りたる者に眠りはない」とうめく。

 いつの世も、光と影は反転する。聖と賤、正と邪、善と悪、清と汚、、、、。人は皆、二面の体と心を持ち、二面が反転し、一転二転、また三転。ころころと、こけつまろびつ生きていくのである。

 生き続けて、聖者のごとき清らかな肉体と心を示す者もいようし、汚濁汚辱のなかにのたうち回るような者もいる。

 むろん、私は猥雑汚濁のごみための中ではい回り、パソコンのごみ箱処理も満足にできないで、「パソコンわかんないんですぅ」と、嘆きつつ、ひとりぬる夜のあくる間はいかに久しき今夜も、「春庭今日も一日中、心も頭もポカポカです」なんぞという足跡をつけてまわるのである。

 今夜もポカポカ。ほっかほかカイロがそろそろ恋しい季節ですね。温ったまったところで、本日はこれでおしまい。
~~~~~~~~~~~~~

20150117
 さて、2003年に「おばあさん」と呼ばれた日からはや暦は十二支ひとまわり。私はもうまごうことなき「おばあさん」になりました。パラサイトシングルの娘も息子も結婚できそうにないので、孫からおばあさんと呼ばれることはないでしょうが、孫がいない私でも、ちゃんとおばあさんにはなった。
電車の中で、席をゆずられることもしばしば、おまけに、去年は駅のホームで、新年早々には自転車でころぶし、ほほぅ、老いの実感とはこういうものかと、これから先の老化加速度を前に気をひきしめております。

 16日夜は、ジャズダンスの先生から、アンチエイジングによいというローズマリー入りの石けんをバリみやげにもらいました。アンチにはならなくてもよいと思うものの、まあ、おいおいと我が身の老いを受け入れていきたいと思います。

 「おい老い笈の小文」のコピー、「著者名あ~んの本をめぐる自分語り」残すところ、ゆ、よ、ラ行ワ行となりました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「じいさんばあさん」

2015-01-15 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150115
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(28)じいさんばあさん

 2003年執筆掲載の「おい老い笈の小文」再録UPを続けています。

~~~~~~~~~~
じいさんばあさん
at 2003 11/05 09:08 編集

 かまとばあちゃんが亡くなった。(2003/10/31)男性長寿世界一だった中願寺雄吉さんに続いて、女性長寿世界一のかまとばあちゃんまで同じ年に亡くなるなんて、残念でならないが、こればかりは思し召しのままに。

 二日間続けて眠り二日続けて起きている、という日常生活を続けたかまとばあちゃんの姿をテレビで見るのが好きだった。きんさんぎんさんがアイドルになって以後、私たちにとって、高齢者アイドルは「私も行く末、あんなふうにおおらかに年をとりたい」という希望を持ち続けるために、なくてはならない、世の清涼剤。

 一方、電車の中でたまたま席をゆずったら、「あなたは親切でいい人だけど、うちの嫁ときたら、あなたと同じ年格好なのに、、、」と、ひたすら嫁の悪口をしゃべり続けていたおばあさん。他人に親切な私も、姑から見れば鬼嫁である。
 ディズニーパレード見物の場所取りに夢中になり、 孫のために見やすい席を確保しようとして、私をつきとばしたおばあさんもいた。いろんな姿のおばあさん。

 映画の中のおばあさん像もさまざま。
 おばあさんが主役を張り、すてきだった映画。『ハロルドとモード』(日本公開タイトル:少年は虹をわたる)のモード。アガサ・クリスティのおばあさん探偵ミス・マープル。『黄昏』のキャサリン・ヘプバーン。『八月の鯨』のリリアン・ギッシュ、ベティ・ディビス。おばあさんが主役でなく、脇役として活躍している映画なら、もっとたくさん。

 そんな映画のおばあさん像の中で、これはもう、わたし的には世界一、という主役おばあさんを見た。
 韓国映画『おばあちゃんの家』である。主演しているのは、映画出演どころか、映画を見ることさえ出来ない山奥の村で静かに暮らしてきた素人のおばあちゃん。このおばあちゃんが、ほんとにほんとにすてきだった。

 孫役を演じた子役も、数本のCMに出演した経験を持つのみ。おばあちゃんをはじめ、村人役は、みな素人。それを韓国の女性監督イ・ジョンヒャンは、すばらしい映画作品に仕上げた。おばあちゃん役キム・ウルブンが腰をかがめ杖をついて山道を歩いている姿を眺めているだけで、もうほかには何もいらないくらい、感動!である。

 ストーリーは単純。わがまま放題都会育ちのサンウという少年が、夏休みの間、おばあちゃんの家に預けられる。母一人子一人家庭の母が職探しをする間のやむえない措置である。サンウの母親にとって、17歳で家出したまま戻っていなかったオモニの家。

 その一夏の、孫とおばあちゃん、周囲の村人とのふれあい。でも、まあ、ストーリーを知るよりも、とにかくおばあちゃんの姿を知ってほしい。

 おばあちゃんは、聾唖者だ。しゃべれず、わずかなジェスチャーで伝えるのみ。でも、おばあちゃんの手が、笑顔が、足取りが、どんな言葉よりも雄弁に孫への無限の愛を伝える。

 今年はたくさん映画を見たが、その中で私にとってはベストワンと言ってもいいくらい。
 キム・ウルブンが演じるハルモニを見て、幼かったころの私のおばあちゃんを思い出す。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.40
(も)森鴎外『ぢいさんばあさん』
 日本文学史上、一番「きが多かった人は誰か」というとんちクイズがある。今は昔男ありけりの在原業平か、光源氏か世之介か。
 答えは森鴎外。「そのココロは」「本名、森林太郎で、木が五本」はい、おそまつ。

 きが多かった森林太郎、ドイツ留学先で恋仲になった女(『舞姫』エリスのモデル)を、「出世のさまたげ」として日本から追い返したことは、10/18に書いた。

 林太郎が最初にめとった妻は、男爵家令嬢赤松登志子。長男於菟を得ると同時に離婚。林太郎28歳のときのこと。

 この後、林太郎は登志子が亡くなるまで妻帯せず、登志子死去の後、ようやく40歳で19歳年下の志げを妻とした。
 登志子が亡くなるまで妻帯しなかったのは、男爵家への遠慮であるという説もあるし、自分は惚れていたのに母親が嫁を気に入らないためにやむなく離縁したのであって、登志子が死ぬまで後妻を入れなかったのは、嫁を追い出した母へのあてつけである、という説も。

 若い志げは、すぐに長女茉莉を生み、鴎外は子煩悩のよきパパとして幸福な家庭生活を営んだ。
 家庭だけでなく、文学者としても軍医としても功なり名遂げた鴎外であるが、ただひとつの「負け」となったのが、「かっけの原因」をさぐる医学論争である。
「ビタミンB不足がかっけの原因」という、現在では定説となった正解に対して、鴎外はあくまでも「細菌説」を引っ込めなかった。
 明治時代、兵士たちの「かっけ病」は、大きな問題であった。兵員の3割がかっけのために戦力とならず、かっけを克服せずには富国強兵が望めなかったのだ。

 鴎外の「細菌説」に反対したのは、高木兼寛。薩摩藩士の子として生まれ、海軍医学校に進んだ。イギリス医学を学んだ高木は、かっけの原因が栄養のアンバランスにあると確信し、兵食の改善を提起した。
 森鴎外らのドイツ医学による細菌説が優位であったため、栄養実験船「筑波」を出港させ、兵食の改善による“脚気撲滅”を立証した。鴎外の敗北であった。
 この後、高木は東京慈恵会医科大学を創設。さらに、わが国最初の看護学校を設立した。

 鴎外は自分の墓に「森林太郎の墓」という文字のほか記させなかった。あらゆる名誉も従二位の勲位も自分を飾ることばとしなかったのである。いさぎよい終わり方である。
 大勲位が大好きなあの方は、大きなお墓に「大勲位、純ちゃんに公認断られて憤死」という墓銘碑を書くかしら。あ、まだ死んでませんけど。

鴎外の遺言全文
 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリコヽニ死ニ臨ンテ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ奈何ナル官憲威力ト雖此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス宮内省陸軍皆縁故アレドモ生死別ルヽ瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辭ス森林太郎トシテ死セントス墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス書ハ中村不折ニ依託シ宮内省陸軍ノ榮典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス
  大正十一年七月六日 森林太郎言



と、カタカナ混じりで書かれても「イミワカンネー」であるので、遺言の要所を現代語訳する。
 私は石見の人森林太郎として死にたいと思う。
 宮内庁や陸軍などに縁故があるけれども、生と死の別れる瞬間にはすべての外形的な取り扱いを辞退する。森林太郎として死ぬ墓には「森林太郎墓」とだけ彫り、それ以外一字も彫ってはならない。書は中村不折に依託し、宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめることを願う。

 「石見の人」として死ぬという森鴎外、享年60歳。現代の感覚でいえば、まだ「ぢいさん」と呼ぶには早い年齢であったが。

 鴎外の『ぢいさんばあさん』は、藩士との争いから蟄居を言いつけられた夫と37年も別居した妻の物語。

 別居の間、妻は姑と息子の死をみとり、子亡きあとは御殿女中奉公をして夫を待つ。37年後にやっと夫の蟄居が許された後は、隠居所に同居して仲良く老後を過ごす、という短編。

 『ぢいさんばあさん』を読むたびに「私だって37年間くらいは、帰らぬ夫を待つことにしましょう」と思うのだが、うちの場合、蟄居閉門でやむなく離ればなれというのではない。
 帰る気になれば地下鉄で16分という距離の事務所に泊まり込みで仕事を続けているワーカホリック夫が勝手に帰ってこないだけである。

 世の奥様方の中には子育てに時間をとられるほか、「お茶!」「新聞!」などとわがまま放題の夫に三つ指ついてお仕えする時間をとられる方もおいでだろう。

 私は「夫のお守り」の必要がないので、子供の相手だけすればよかった。(その代わり、一度たりとも子供のおむつを替えたことも、おふろに入って子供を洗ってあげることもしなかった夫をあてにせず、家事育児はすべてひとりでやるしかなかったけど)

 しかし、子供にしか目を向けていなかったので、子供が巣立ったあと「空の巣症候群」になること必定。「空の巣症候群にかからぬためのひまつぶし」準備のためにホームページ作成をはじめたのである。

 ホームページに書いた事すべてが、もしかしたら、帰らぬ夫へのラブレターかもしれない。37年後には「ぢいさんばあさん」のように、長い別居などなかったかのように仲むつまじく過ごせる日を夢見ながら。

 若い頃の私は「鉄の女」と評された。
 サッチャー政権誕生以前のことだが、たたくとキンコンカンと音がする堅さに加えて、父が鉄鋼労連だったことからのあだ名である。
 男達は「あんたがそこに立っているだけで、怖い」と近づきもしなかった。
 女は自分の意見など述べる必要はなく、「あたし、難しいことはよくわかんないけど、あんたが正しいと思うわ」と、うっとりした目をして男を眺めているほうがモテる、という時代だった。

 たった一人、ナイロビ下町で道に迷った私を親切に案内してくれたのが、ケニアで出会った夫である。夫は「自前の意見を述べる女」を怖がらず、議論につきあってくれた。(10/19)の項参照。
 「割れた文化鍋に綴じ蓋」と言われた、似合いのカップルであった日も、今は遠い。
 「ぢいさんばあさん」として仲良く暮らせる日が、いつの日か、やってくるのだろうか。

 でもね、37年も待つなら、その間に新しい恋も必要よねぇ!「晩年の恋」に3票め! 私を怖がらない人がいるなら、晩年の恋も生まれるでしょうに、ヤバイ! 10/29の項、蛇の足跡で、「舐めんなよ」なんてタンカを切ってしまった。
 またまた「こわい女」という、あらぬ評判を増やしてしまった。本当の私は、怖くなんてないんです。しおらしく、内気なひきこもり女ですのよ。シオシオ(と手弱女ぶり)。

 そこの、どっと引いてしまった、あなた。ま、ま、もそっと近こう寄りなさい。手荒なことはしませんて。そう固くならずに、ほらほら、、、と、おそばににじり寄り無理矢理我が身を叩いてもらうと、キン、コ~ン。響き渡るは、鐘ふたつ。
 「はい、残念でしたね、鐘ふたつ、合格なりませんでしたっ。おところお名前をどうぞ、またのお越しをお待ちしています。今日のゲストは、森鴎外さんと高木兼寛さんでしたあ。また、らいしゅうっっ!」って、明日も読んでね。

蛇の足跡8足目:う~ん、鐘ふたつ不合格は納得いかない。次は女ののど自慢C賞に挑戦だ!
 ♪つまずいて 傷ついて 泣き叫んでも さわやかな希望の 匂いがする  人はみな 悩みの中 あの鐘を鳴らすのは あなた あなたに逢えて よかった  愛しあう心が 戻って来る  やさしさや いたわりや ふれあう事を 信じたい心が 戻って来る♪」
 もどってぇ~ あなたあああ!! 戻る気があるなら、地下鉄で16分!
 上「女ののど自慢」C賞に挑戦でした。

 蛇の足跡9足目:トリビアの泉情報。昔むかしあるところのじいさんばあさんが、川からどんぶらこと流れてきた桃を拾いました。二つに切ったら、中からかわいい桃太郎が。
 というのは、文部省が「教育上不適切な部分」を改ざんした真っ赤なうそ。

 本当の桃太郎は、桃を食べて若返ったじいさんばあさん、たちまち若い頃の「ねぇ、あなた、今夜は燃えたいの」を復活させて、ふたり励んで作った子であったのだ。

 国定教科書に「うん、おまえ、灰になるまで燃えようぜ」なんて、教育上不適切な表現は許されなかったのである。
 みなさん、旧文部省の教えによれば、子供はメイクラブの結果生まれるんじゃなくて、桃からですよ。桃。

 お子さんに「ぼく、どこから生まれてきたの」と質問されたら、「桃からに決まっているじゃないか、ハッハッハ」と、正しい教育をいたしましょう。
 もちろん、おかわいらしいアイコサマも、最新医学の成果によってお生まれになったのではなく、桃から生まれたのである。

 あっ、また春庭に爆弾が!平和を愛する庭なんですから、爆弾テポドン、ノーサンキュー!

~~~~~~~~~

20150115
 森鴎外の享年60歳、かたや夏目漱石の享年50歳。我が年をかぞうれば、忸怩として落涙す。

 吉行あぐりさんが享年106歳で亡くなりました。っつうか、まだ生きていたんだぁ。びっくり。
 2005年に97歳で美容室を閉店するまで、現役の美容師としてなじみ客の髪を整えていた方。作家になった吉行淳之介吉行理恵には先立たれたけれど、女優吉行和子さんが祖母役とナレーターで出演した「ごちそうさん(2013)」を楽しみに見ていた、という見事な一生でした。ご冥福をお祈りします。あぐりさん、33歳のとき最初の夫吉行エイスケさんと死別。42歳のとき再婚した辻復とは48年連れ添って、90歳のとき死別。
 私も97歳までは現役で仕事をして、107歳までテレビを楽しみたいです。再婚相手と、40年くらい連れ添いたい。あぐりさんにあやかれますように
 じゃ、再婚相手立候補者からのプロポーズ、待っています。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「おい老い笈の小文・文化鍋」

2015-01-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150114
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(27)文化鍋

 昨年より「おい老い笈の小文」の再録を続けています。2003年11月12月にOXNカフェに掲載した文章をコピーアップ。本の話題と自分語りです。
~~~~~~~~~~~~~~

文化の日、文化研究、文化鍋
at 2003 11/04 13:22 編集
 星野監督お疲れさま。阪神が勝ったらイトーヨーカ堂セールに行くことにしていましたが、残念でしたね。ダイエー優勝おめでとう。王監督&選手のみなさん、優勝セールありがとう。
 半年間「買わなくちゃ、でも、お金ないし」と買えずにいた圧力鍋をようやく買うことができた。半額セールで5000円だったから。

 半額になる前は1万円。それくらいの買い物、半年もウジウジ迷っていないで、さっさと買えばいいのに、と、今思ったあなた。王監督のおかげで、5000円の買い物をようやく成し遂げた底辺生活者の喜びを理解せずに、日本の野球文化を語るなかれ、、、、ってこともないです。はい、うちが貧乏なだけ。

 貧乏な我が家の、食生活を支えてきたのは、電子レンジ、圧力鍋と文化鍋である。電子レンジでチンと下ごしらえ、圧力鍋で安いすじ肉もなんとか食べられるように加工し、文化鍋で仕上げる。
 文化お召を着て、文化住宅に住み、文化包丁文化鍋で料理する、かように文化はありがたきかな。(いまどき、文化お召なんて着てる人いないが)

 で、11月3日は文化の日であった。もろびとこぞりて文化のありがたさを満喫したであろうか。

 文化に関しては一家言あるので、10/31の項で、「多様な異文化」という日本語教師っぽい「惨状の垂訓」をたれてみたりした。

 子供の頃から知ったかぶりの蘊蓄語りが大好き。偉そうに仕入れたばかりの生兵法を披露して、「子供のくせして、得意そうに大人に言うんじゃないよ」「こまっちゃくれた子だね」と言われ続けた。「知ったかぶりのもの知らず」というのが、私の本性なので、もうこの年になって、今更直しようもない。

 エラソーに蘊蓄垂れたがるのが、子どものころからの習い性となれば、キョーヨーがあまりに詰まっているので、ときどき放出して外に掻き出さないとお通じに悪いのだ。削除したメールなんかも溜まってくると重くなるから、ごみ箱カラにしなけりゃならないでしょ。

 そこでまた蘊蓄放出。文化の日が、昔は明治節、もっと昔は天長節であったということを、休みの前に留学生に教えてやった。「日本事情」授業の一環である。
 10月10日の体育の日と11月3日の文化の日はちょうどいいセットであるが、4月29日のみどりの日とセットにすべき赤の日がないのは、残念である。
 だが、将来は私の誕生日が赤の日になるだろう、などと冗談をいうと「早く祝日が増えるといいですねぇ」と、本気で期待された。

 私見によるならば、各人の誕生日は「赤丸国民の祝日」にして、休んでいいことにすべきだと思う。11月3日のエンペラむつひと誕生日と4月29日のエンペラひろひと誕生日が記念すべき日であるならば、私の誕生日だってあなたの誕生日だって、等しく記念すべきだと思うのだ。つまるところ、休みたい。
 
 カルチュラル・スタディ(文化研究)という学問の分野があって、「近代国家論」や植民地問題ポストコロニアル、サブカルチャー研究などを含む。私は1995年からこの分野に指先を突っ込み、つまみ食いを楽しんでいる。

 足から頭までどっぷり突っこんだ日本語文法研究や、足を踏みならし腰をゆすって学んだ芸能人類学などに比べると、ちょっと指先で舐めてみた、くらいのものだが、ものの考え方とらえ方を広げるのにとても役に立った。

 近代国家成立以後(日本では明治維新以後ですな)いかにして国民を国家のもとに取り込んでいくかの手練手管が、カルチュラルスタディ近代国家成立論の研究成果として発表されてきた。

 文化祭も運動会も卒業式も行啓御幸も、博覧会も百貨店も、国語の制定も教育勅語も、みんな「ぬし様まいる」の起請文よろしく、上御一人への熱愛をかき立てていったのだ。

 横町のハッツァンくまさん達は、起請の「ぬし様ひとりを思うておりいすぇ」なんていう殺し文句にころりと参って、有り金寄せ集めて吉原へ。我が心正しき臣民どもも、村の衆寄り集まって日清日露へ満州へ。

 太夫と添いとげ「実(ジツ)」ある恋となるハッツァンなどいるわけがないし、勝ってくるぞと勇ましく誓って国をでたからに、上御一人から実あるなさけを受けたクマサンもいない。
 汝臣民は餓えに泣き無差別空襲に逃げまどい、どとのつまりは「耐えがたきを耐え、忍びがたきをしのぶ」結果となったのだった。

 今年は1943年学徒動員から60年であるという。雨中神宮球場で行進する昔のニュース映像を見るたびに、きょうびの学生、留学生にとっての平和のありがたさを噛みしめる。

 留学生たちは、みなエンペラが大好き。切手やお札の顔に印刷されていないのを残念がったり、チヨダパレスに会いに行ったり。
 防弾ガラスの中の顔は、よく見えなかったけど「エンペラは、私たちに手をふってあげました」と、感想を述べたりする。ほら、そこは「手をふってあげました、じゃなくて、手をふってくれました、ですよ。あげるもらうを勉強したでしょ」

 日本語学習には、難しい面も多々あるけれど、にほんご、ことば、言葉。文化の基盤は「ことば」である。「ことば」なくして文化無し。一方、文化住宅なくしてプリンスなし。

 西武沿線文化住宅の成功なくして、旧皇族華族の屋敷を買いたたいてプリンスホテルに仕立て上げた堤一族の成功なし。プリンスホテルなくば、わがプリンスは、未来のエンプレスミッチーとテニスしたあと、語り合う場がなかったじゃないか。

 エンプレス翻訳による、まどみちお作「ぞうさん」などを朗読して留学生に聞かせたりすると、「英文学者皇后」に対して尊敬の念いや増して、ミッチーと言えば及川光博しか知らない今時のコソコソしたワカイモンよりよほど「わがコーソコーソ」の民草である。

 「なぜエンペラが存在する必要があるのか」と、食い下がられたときは、「ディズニーランドにミッキーマウスがいるでしょう。ピューロランドにキティちゃん。ニッポンにはエンペラエンプレス。イメージキャラクターです」と「憲法第一条・国民統合の象徴」について説明する。

 あの、これは留学生にわかりやすくするための、メタファーレトリックというヤツですからね。決して私は、大切な象徴とミッキーマウスを、同列にしているわけじゃ、ありませんって!ウェブログハウス春庭にも、春庭別棟にも、爆弾投げ込みなどノーサンキュー。
 
 室町戦国の時代、世は荒れ果て、京の御所では食べるものに事欠く御代さえあり、御所女房が道行く人の袖引いた、という記録もあるそうな。
 そんな時代を経てもなお、有効利用方法が復活してきたシステムである。たぶん我々の体内にはイメージ・キャラクターを必要とする遺伝子が組み込まれているのだろう。

 それにしても、世襲議員に反対。大橋巨泉が主張したように「親が議員であった候補者は必ず親の地盤以外の県から出馬すること」という法律でも定めない限り、三世四世と続いていくのかも知れない。私は反対です。世襲。

 和歌の伝統を世襲してきた冷泉家の人じゃなくてもよい短歌が作れる。観世今春の家に生まれなかった人でも、能のシテが立派につとまる。文化を継承するにあたって、世襲に利点もあるとはいえど、なくてもよし。

 世襲の宝刀友切丸がなくたって、うちの文化包丁、よく切れます。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.39
(め)明治天皇『明治天皇御集昭憲皇太后御集』(明治神宮編集、発行者角川春樹の非売品、とあるが、私は古本屋で300円で買った)

 メール足跡で、自分の書いた文章に反響をもらうとうれしいが、教え子留学生から「先生に教えてもらってよかった」なんぞと言われるのも、教師冥利につきる。自慢じゃないが、ワタクシ教師としては留学生に評判がよろしいのである。

 まだ「はじめましてどうぞよろしく」の口もまわらない学生から「You are my best teacher.」と言われることもよくあり、1年の授業や半年のコースを修了した学生からの謝辞は、並べて売り出したいくらい。誰も買ってくれはしないが。
 ま、だれも誉めちゃくれないから、せめて自分で自分を誉めているのである。ただし、我が業界では、いくら学生に評判上々の教え上手でも、何の評価もされない。研究論文何本出した、の世界なのだ。

 誰の評価をもとめるでもなく、せっせと言語文化継承につとめてきた世襲の方々がいる。
 年のはじめのためしとて、終わりなき世を言祝ぐ歌会始のときは、テレビ中継で、もったいなくもかたじけなくも、御製御歌に触れる機会がありまするが、歌会のときだけじゃなく、伝統世襲の方々は勤勤勉勉と毎日歌を詠んでいる。

 短歌俳句で飯を食っている職業歌人俳人ならで、毎日欠かさず作品作る根性のあるアマチュア歌人俳人がどれほどいようか。継続は力なり。量が質を高めることもある。

 継続大量生産の中、エンペラひろひとの作品は、丸谷才一などが「帝王調の気風おおらかな傑作が多い」と誉めているし、エンプレスみちこの作品も、子を思う母の、愛情あふれる三十一文字に思わず感動の涙こぼるる。るるルルル(涙)。

 文化のお手本たる「エンペラむつひと」は、61年の生涯になんと十万首の歌を詠んだ。
 一般社会のアマチュア作品なら「月次(つきなみ)桂園派」と、いっしょくたに束ねられるような歌も含まれているのだが、それにしても十万は、はんぱじゃない。来る日も来る日も、毎日二十首を詠み上げないと、60年で十万に達しない。

 俳句短歌を趣味でやっている人にはわかるだろう。一日二十首、二十句仕上げるのがどれほどたいへんか。

 日清日露にみこころ安からず、の日々も、欠かさず作っているこの勤勉さ。言霊のさきわう国であるからして、ことばによってさきわっておかないと、この国がたちいかなくなる、という悲壮な決意でもなければ、毎日毎日は続かない。

 言葉によってさきわう、というのが、万世一系伝統世襲の最も大事な役割であったと、私は思っている。

 日記毎日更新している方、ときどき休みたくなりませんか?私は11月から「土日祝日その他臨時休業あり」に、いたしました。
 
 近代歌人の中でも北原白秋、斎藤茂吉などは、エンペラむつひと御製に対して最大級の賛辞を捧げており、確かに十万も詠めば、中には傑作の一首二首生まれないはずはない。

 無芸大食の私には、短歌批評の芸もないのが当然で、古今新古今勅撰集の昔も知らず、近代短歌の他の歌人の作に比べてどうこうとも言えないのだが、とにかく、「アマチュア歌人で、一日二十首」という一点だけでも、評価するにやぶさかではない。
 くやしかったら、60年で十万首詠んでごらんあそばせ。
 ほら、雲の上人の話をしておりますれば、がさつな私のことばづかいまで、上品になってくるではございませんか。おホホホ、、、。

エンペラむつひと御製
 うつせみの代々木の里のなりどころ花の梢も苔むしにけり
 この朝けひとむらさめやふりつらむ樅のわかばに露のたまれる
 さしなみのとなりに通ふ道ならぬまがきの竹のひまの見ゆるは
 えびかづら色づきそめぬ山梨の里の秋かぜ寒くなるらし


 11月の声きけば、里の秋かぜ寒くなるらし。皆様風邪にご用心あそばされまして、ごきげんうるわしゅう、おかわりなきよう、おすごしくださりませ。かしこみかしこみたてまつりて、かしこ。

 かしこみ奉って、偽有栖川宮家の結婚式に参列された方々、ご苦労様でありました。雲の上を敬愛する心がありあまり、かくも世の人々を笑わせてくれるまで、こけにされた皆様の、耐えがたきを耐え忍びがたきを忍ばれるお姿、必ずや御稜威、オオミココロは愛で賜い、そのうち、大勲位などもらえるかもしれません。がんばってね。
 不思議の国のアリス皮のみや家の三月兎より
~~~~~~~~~~~~

20150114
 平成の世を統べたもう今上陛下エンペラアキヒトも御年82。エンプレスも傘寿になりたまひしか。お喜びマウシアゲマス。
 本日歌会始。今上近詠

歌会始御製 夕やみのせまる田に入り稔りたる稲の根本に鎌をあてがふ

歌会始御歌 来(こ)し方(かた)に本とふ文(ふみ)の林ありてその下陰に幾度(いくど)いこひし
 IBBY世界大会に寄せた「橋をかける」を思い出しました。よい歌と思います。 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「霊長類ヒト科さまざま」

2015-01-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150113
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(28)霊長類ヒト科さまざま

霊長類ヒト科さまざま
at 2003 10/31 07:20 編集
 2003年9月10日にホームページ「話しことばの通い路」を立ち上げ、9月26日からOCNカフェ日記も毎日更新している。

 ポチポチと反響の足跡、ミニメールをいただくのは本当に励みになる。面白いと言ってくださる方もあるし、いろいろご批判もある。

 「春庭日記は、硬い内容、まわりくどい文章で頭痛の種」という反応もあった。
 私の文章で頭痛がしても、ひきつけ起こしても、看病には通えないのでご容赦ください。

 固くておもしろみがない、という反応なので、ここのところ「女は灰になるまで」「レビトラ飲んでファイト一発」の話題にしたら、今度は「春庭はまじめな教師かと思って読んできたのに、なんて不真面目な、ふしだらな」という反応も。

 レビトラは、ふしだらなんかじゃなくて、まじめなED治療薬なんですから。(と、またもやバイエル薬品の宣伝をしてしまった。お礼の現物給与を、、、って、しつこいですね、はい)

 かように、人様の反応もさまざま。とにかく、人間というのは価値観も感受性も多様であり、そのどれがよくてどれが悪いということもない。
 すべての人が、自分の考え方感じ方生き方を大事にしていければそれでよい。その人なりの感じ方から生まれた感想であるなら、どのようなご批判もありがたく受け止める。

 さまざまな国から日本にやってきた留学生を相手にしてきたことについて、「異文化交流ができていいですね」という反響も。
 世界には多様な文化があり、そのどれもが大切な人類の遺産なのだ、ということを毎日感じ取れる仕事ができて、本当によかったと思っている。
 しかし、「異文化にふれる」というのは、外交官や日本語教師でなくとも、人が毎日の生活のなかで、あたりまえのように成し遂げていることなのだ。

 「自分とは違う考え方、違う感じ方の人に会う」というのは、日常生活でだれでも体験していることだ。異文化、というのは、何も外国の文化のことだけではない。

 子供を公園に連れて行ったら、ボスママが仕切っている公園で、楽しめなかった、というのも、「自分とは異なるカテゴリーの考え方」に触れた体験であるし、嫁と姑が漬け物の味でひともんちゃく起こすのも、地方ごと家ごとの異なった文化の摩擦といえるだろう。

 文化というと、高尚な芸術や建物遺跡のことと思う人が多いが、そうではない。「文化」というのは「人の暮らし方、生き方すべての総称」であるのだ。

 日本語教授法のクラスで、最初に異文化理解について学生と話すときによく出す例。

 日本で「汁かけ飯」をつくる。「はい、こちらが飯茶碗。こっちがみそ汁。ふたつの碗が目の前にあります。汁かけ飯を作るジェスチャーをしてください」たいていの学生は、飯茶碗を下に置き、みそ汁のお椀を持ち上げてジャーとごはんにかけるジェスチャー。

 「韓国では、こうやります。スープのどんぶりとご飯のどんぶりがあったら、スープの椀を下において、その中にご飯を入れます。みそ汁と韓国のスープの味の違いは考えずに、スープの中にご飯をいれるのと、ご飯に汁をかけるのと、どっちがうまいと思う?」

 学生は首を傾げ、分らない。それはそうだ。どちらも美味い。汁かけ飯の作り方、食文化が異なるだけで、どう作ろうと美味いものは美味い。

 さらに「ご飯を食べるジェスチャーをしてみて」と言うと、皆いっせいにご飯茶碗を左手に持って、右手の箸を動かして食べるまね。「お茶碗を下においたまま箸をつっこんだら、お行儀が悪いっておこられたでしょ。
 でも、韓国ではご飯のお椀は下に置いたままの方がお行儀がいいんだって。どっちのご飯が美味しいと思う?もうわかったでしょ。どっちも美味しいの。ただ、食べ方の食文化が違うだけ」

 また「パプアニューギニアの服飾文化の紹介」をすることもある。
 パプア島の男性の伝統的な衣装。写真を見せると女子学生はくすっと笑うこともあり、男子学生はちょっと恥ずかしそうに女子学生の顔をうかがう。

 パプアの男性の衣装というのは、ペニスケースという筒で、大事なところを覆い、あとは裸にペイント、頭に羽根飾り。

 次に大相撲の取り組みの写真。がっぷり四つに組んだ尻が大写しになっている。
 「大相撲を見た外国の人が、こんな野蛮な服装で人前に尻を出すなんて、恥を知れ、と言ったそうです。どう思いますか」

 「恥じゃ、ありません。これが相撲の伝統なんだから、尻見せたっていいじゃないですか」
 「そうだよね、でも、さっき皆は、ペニスケース見て恥ずかしそうだったよ」

 このへんから、学生にも、文化とは「食べ物、服装、歩き方から、人と人がどれくらい接近して話すか、まで、生まれてから死ぬまでの人の生活の仕方暮らし方生き方の総称」であることがわかってくる。

 慣れた生活のしかた、身近に見慣れたものには違和感がなく、見知らぬものには違和感や拒否感が生まれること。

 しかし、地球上のすべての人間の文化は等価であり、どのような生活の仕方、ものの考え方があっても、自己中心的なものの見方で判断してはいけないことを分って欲しいのだ。

 イスラム教では4人まで正妻としてめとることができる。これを一夫一婦制度の側から、非難しても(あるいは羨んでも)意味がない。

 また、今イスラムのラマダン(断食)の時期だが、夜明けのお祈りのときから、日没までの間、食べることも飲むこともできないのを、「健康によくない」などとトンチンカンな批判をしても仕方がない。

 ジェンダーやセクシャリティが、個々人によって多様であるのと同じく、それぞれの文化にそれぞれの暮らしがある。

 霊長類ヒト科ホモサピエンスは、きわめて多様なバリエーションを持った動物なのだ。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.38
(む)向田邦子『霊長類ヒト科動物図鑑』
 向田邦子のテレビドラマを見始めたのは『七人の孫』からだと思う。母が森繁久弥ファンで、私はいしだあゆみが好きだったから見ていた。

 『寺内貫太郎一家』は見ていない。私が中学校の教師になり、テレビを見るどころではなく、朝8時から夜9時10時まで学校にい続けても仕事が片づかないという働き方をしていたころの作品。

 『あ、うん』も最初の放映のとき、私はケニアにいた。リアルタイムで放映時に見たものは『隣の女』くらいかもしれない。

 放送脚本家として長い間仕事を続けてきた向田邦子が小説家として直木賞を受賞したのが1980年。その翌年には飛行機事故で亡くなってしまった。
 もっともっと書き続けて欲しい作家のひとりだったのに。1981年、51歳で台湾の空に消えてしまったことがなんとしても惜しまれる。

 文体が大好きな作家であったけれど、私にとって、向田邦子は「楽しく読み散らす読者」として以上に関わってきた人。自分の論文執筆にとって、なくてはならない人だった。

 テレビドラマをリアルタイムで見た作品は少なかったが、他動詞文用例収集のため、向田のドラマシナリオをせっせと読んだ。

 本当の会話文ではないものの、小説の文から拾うより、はるかにリアル会話文に近い用例を採集できる。

 ストーリーを読むのは邪道。ひたすら自分の論文に使える用例を採集するのが目的であるのに、ついついストーリーにひかれて読みふけり、用例採集がおろそかになった。

 日本語文法などということばを読むと、頭痛吐き気めまいなど催す方、ごめんなさいね。
 古典文法の「から、かり、し、き、けれ、かれ」とか「らむ、らむ、らめ」などという活用をひたすら暗記させられるのが文法だと思っている方々、文法と聞くだけでひきつけが起きるのだという。
 「て、て、つ、つる、つれ、てよ」あれ、こちらも引きつってきた。

 「再帰的他動詞文」の用例として向田のシナリオから拾った文例
 「そうよ、綱子ねえちゃん、こないだ差し歯あげ餅でガツーンって、欠いたものね」
 向田の『阿修羅のごとく』の中にでてくるセリフである。

 三田村家の長女綱子に対して妹が言う台詞。この台詞が映画版シナリオでもでてくるのかどうか、森田芳光監督、綱子を大竹しのぶが演じる映画を見てみようと思っている。

 ドラマ『阿修羅のごとく』もエッセイ『霊長類ヒト科動物図鑑』も、向田の人を見る目の確かさが光っている作品。「ヒト科動物図鑑」、なんど読み返しても、内容もちゃんと知っていて読むのに、読むたび思わずくすっと笑ってしまう。

 人はまことにさまざまな姿態生態を見せる生き物であるが、それにしても、向田の人間観察の鋭さとあざやかな描写力。どの短編を読んでも、「そうそう、その通り」と、うなづきながら、読む。

 地図をいくら見ても必ずまよってしまい、道を間違えずに目的地へ到着することがない。数字に弱く計算ができない、などなど、ぜったいにこれは私の数々の失敗を知って書いたにちがいない、とさえ思ってしまう。

 私は今月もまた、電車の中に傘を置き忘れた。自分の欠陥ぶりをなげくとき、向田のエッセイを思い出せば、「こういうおっちょこちょいもまた、人間なんだよね」と安心する。

 霊長類ヒト科バンザイ!人は、こんなにもさまざまな顔をみせ、さまざまな生態を示して生きている。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「トランスジェンダー仮面の告白」

2015-01-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150111
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>おい老い笈の小文(25)トランスジェンダー仮面の告白

 「2003年のOCNカフェのコラム再掲載」のつづきです。
 2003年10月~11月に書いた、「1977年以前に詠んだ本を著者名あ~わ順にたどり、自分語りをする」というシリーズを昨年末から連載しています。
 昨年「あ~ま」までUPしました。2015年、「み」から続けます。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

トランスジェンダー 仮面の告白
at 2003 10/30 21:29 編集
 トランスジェンダーということば。私が知ったのは、虎井まさ衛さんの本が最初に出版された前後だったと思う。現在では、テレビドラマ『金八先生』のテーマになり、上戸彩が「女性の身体を持っているが、心は男性」である主人公を演じたことで、広く知られるようになった。

 虎井まさ衛さんを知る前、トランスジェンダーという言葉が市民権を得る前から、私は、虎井さんのような生き方の人に心惹かれてきた。

 雑民党の東郷健が選挙に出てテレビで演説するときは、熱心にその主張を聞いたし、テレビ深夜番組にカルーセル麻紀が出演するのも応援した。三輪明宏がまだ自分自身のセクシャリティを明らかにせず、丸山明宏という名で「よいとまけの唄」を歌っている時代から、彼の不思議な魅力はいったいどこから生まれるのか、と思っていた。

 おすぎとピーコが登場したとき、「ふたごのゲイ」という特長もあり、彼女たち(?)の自己主張が小気味よかった。それまではテレビの中で「キワモノ」「イロモノ」扱いされ、正に対する負、陽に対する陰のイメージを持たされていたゲイの人たちのイメージを塗り替え、「ひとつの生き方」として認められたような気持ちがしてうれしかった。

 ウェブ世界では、リアル社会よりオープンにジェンダーやセクシャリティの問題が語られている。昔に比べれば、若い人たちが自分自身のジェンダー問題について様々な情報を得る機会が多くなった。

 トランスジェンダーの方々、臆することなく社会の好奇な視線に負けることなく「本当の私らしさ」を追求してほしいと思う。
 若い人はもちろんだが、若くない人も、残り少ない自分の人生を「私らしく」生きていかなければ、生きているかいがない。「私は私。私らしくあれ!」

 私自身のジェンダー。セクシャリティについて言えば、身体的にはヘテロ志向なのに、精神的には「男性と話したりいっしょにすごすより、女性といっしょにすごす方が楽しい」と感じる精神的バイセクシャルであったのではないかと、今頃になって自己分析している。

 身体的には女性というジェンダーを受け入れ、社会的には母親という役割を引き受けて過ごしてきたが、精神的には、「ボーイッシュな女性が好きな女性」だったと思う。ほぅ、50歳すぎて、ようやく告白いたしました。
 私の立場を正確にいうと。「少年同士の恋人たちの片方の男の子に片想いしている女の子に心を寄せている女の子」が私です。

 「やおい」が好きな女の子たちが好き。ジャニーズ系の「少年愛」的美少年が好き。宝塚も。歌舞伎の「戦闘美少女」も。
 三島由紀夫は、『仮面の告白』で、絵本の中のジャンヌダルクが美少年ではなく、男装の麗人であったことにがっかりしたと書いた。三島は、「男性を性的対象としたい自分」を表に出すことを最後まで拒否し、男に仮装した男性として生きた。軍服や軍刀は、彼の理想の仮装であった。

☆☆☆☆☆☆
春庭千日千冊 今日の一冊No.37
(み)三島由紀夫『仮面の告白』

 三島由起夫が市ヶ谷の自衛隊に突入したというニュースを聞いてすぐ、私はカコちゃんといっしょに野次馬に出かけていった。
 しかし、市ヶ谷自衛隊の中に入れるわけもなく、ワイワイしているだけで、何がどうなっているのか、わからなかった。三島が演説している、というので野次馬に行ったのに、何もわからず、つまらないからすぐ帰った。

 フジテレビ前を歩きながら、三島の小説について話した。カコチャンは高校生のとき『金閣寺』を読んだ、と言った。「妊娠した女の腹を踏むんだよ、許せないよ」と言っていた。
 大学病院の隣の寮へ戻り、カコチャンの部屋でテレビニュースをつけたら、三島は割腹自殺した、ということがわかった。三島が女の腹を踏んだわけではないのに、カコチャンは「赤ちゃんがいる女のおなかを踏んだりするから割腹自殺になるんだよ」と、わけのわからない批評をしていた。

 私は『仮面の告白』を読んだ話をした。「おわい屋」を悲劇的だと感じてあこがれたんだって、わけわかんないよね、セバスチャンとかって絵見て、矢が体にいっぱい刺さっているので、興奮するんだって、ますますワケわかんないよね。三島といっしょに楯の会の少年が割腹したんだって、もっともっとわかんない。

 カコチャンはすでに恋人を持っていたから、男と女の恋愛については、私よりずっと詳しかった。そのカコチャンも「三島は男が好きなんだって。どうして男が男を好きになるんだろう、ぜんぜんわかんない」と理解できないようだった。

 私は「男と男」も「男と女」もわからなかった。私にわかったのは、私はカコチャンが好きだけど、カコチャンはタロさんが好きだということだった。

 10/10の項に、高橋和己が入院し死去した病院で働いていたことを書いた。
 「友人が高橋和己の後追いで飛び降り自殺した。その半年後に病院をやめた」と書いたので、友人の死が病院の仕事をやめた原因みたいだ。
 でも、ちがう。高橋和己が死んで半年後に病院をやめたのは事実だが、やめた理由は「カコチャンがやめてしまったから」だった。

 大学病院の隣の職員寮に入寮したとき、4人部屋だった。私は共同生活ができない性格だったので、一ヶ月で寮を出て下宿へ移った。
 4人部屋は3人で使うことになった。部屋が広く使えるようになったことを一番喜んでいた人が、飛び降りて死んだのだ。最初から気があわない人だったから、自殺のしらせに衝撃は受けたが、高橋和己が死んだ時より悲しくはなかった。

 私が病院を辞めたのは、カコチャンがやめたあと、病院検査室で働くことがつまらなくなったから。
 カコチャンの恋人タロさんは、カコチャンの出身地の大学で学ぶ医学生。カコチャンはタロさんと暮らしたいからと、東京から故郷に戻ってしまった。

 しかし、タロさんの親に「医学生と臨床検査技師では格が違う」と、結婚の許しがもらえない、という悩みを聞いた後、カコチャンの消息は途絶えた。

 三島由紀夫が名家の女性との結婚を決めたとき、それは本当に三島にとって自分らしく生きることだったのだろうか。三島は結婚後もさまざまな男性との交際を続け、最後は楯の会の美少年と共に死ぬことを選んだ。

 三島は『仮面の告白』を発表した後も、仮面をかぶり続けた。「三島のあの告白はよくできたフィクションであって、あれは文学上の虚構ですよ」と述べる批評家もいて、三島もその評を利用した節がある。三島は自分を「男性的な男性」へと肉体改造し、高名な画家の娘と結婚した。

 もし、三島の生きたころが、現代と同じようにセクシャリティの多様性やトランスジェンダーに対して理解ある時代であったなら、三島の文学と死は、異なる結果を迎えたかもしれない。

 彼の死に生い立ちや思想的な面から、また文学的社会的な状況からさまざまな解釈が加えられてきた。
 全共闘との対話や、天皇制に対する考え方や、日本の美意識に対する思想、あらゆることがらが、彼を死へといざなったのだと思う。

 今のようなジェンダーに対する考え方の変化に対して一番論じて欲しい文学者は、三島だったと思うのだ。現在のジェンダー論が、女性学や社会学の方面からの論より以上に、サブカルチャーからのツッコミによって社会に浸透してきたことを考えると、文学の立場から物言える人のジェンダー論を三島に聞いてみたかったと思う。
 
 ジェンダーとセクシャリティに対し、社会は50年前40年前とは違う反応を示すようになった。パートナー選びも自由。ヨーロッパでは同性との結婚を法的に認める国も出てきた。

 男と女も、女と女も、男と男も、どんな組み合わせであれ、ベストパートナーといっしょにいられる人は幸福だろう。そして「私らしさ」を失うことなく、「自分は自分」として生きて行けたらそれにまさることはない。

 ケニアに発つとき、英語に弱いので、入国書類に英語で記入するときの注意事項について、旅行会社の人にレクチャーを受けた。

 「気をつけてくださいよ。SEXについて記入する欄がありますから。見栄を張ってSEXは週に7回、なんて書いた人がいましたが、それは間違いですからね。いえ、回数が間違いなんじゃなくて、SEXというのは性別という意味ですから。SEXの欄にくれぐれも、週に2回とか、まだ童貞とか、書かないでくださいよ。女性はFemaleが女ですから、SEX=Fと書いてください。男性はMaleですからMですね。」

 今や、SEX欄に「Female女」と書くと、口の悪い人から、「また見栄を張って。もう女は卒業したんじゃなかったの」と言われる年齢になった。

 いえいえ、何歳になろうと、更年期すぎようと、女であることに変わりなし。ただし、私は、肉体的には男が好きだが、精神的には女が好きな、バイアスがかかったバイセクシャルの女である。

 更年期すぎた年齢であれ、男であれ女であれ、男性の心を持った身体上の女性も、女性の心を持った男性も、自分らしく人生をまっとうしたい。
男と女、女と女、男と男、どのような組み合わせであれ、好きな人を見つけて欲しい。
「私らしさ」を大切にできたらいいですね。

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20150110
 10余年たって、トランスジェンダーも少しは社会に認知されるようになってきたかな、と感じます。女性タレント同士が同性婚をする、と発表されました。自分のセクシャリティやジェンダーをカミングアウトし、堂々と自分らしく生きていける人は、まだまだ少数派なのかもしれませんが、応援したいです。

<つづく>
コメント (8)
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