2008/10/26
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(1)千葉大学図書館展示ホールのディズニー原画展
ここ1年に見た絵&アートをまとめて記録しておきます。
ディズニー初期アニメーションの原画が千葉大学で発見され修復されたことについて、
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609 (2006/09/18)
に書きました。
初期ディズニーアニメの原画セル画は、千葉大学が譲り受けて保管していたのが忘れられ、タイムカプレセルのように、50年もたってから発見されました。
高度な修復技術により、セル画についていたカビなどもとりのぞかれ、美しい絵がよみがえった。
本家のディズニー社には、初期のセル画保存がないものが多く、千葉大学はディズニー本社にこれらの修復セル画を寄付しました。
これら新発見のディズニーアニメ原画は、修復作業を経て、東京都現代美術館で「ディズニーアート展」(2006年7月15日~9月24日)として公開され、多くのアニメファン、ディズニーファンが観覧しました。
しかし、私はこのとき、会期中に見に行くことができず残念な思いが残りました。
2006年6月3日に、千葉大学で写真学会の講演会が行われたとき、講演会場のけやき会館別室に展示されていたアニメ原画やアニメーションを見たのだけれど、もう一度見ておきたかった。
現代美術館の展示ほど大規模なものではありませんが、2007年10~12月に、千葉大学図書館展示ホールで「ディズニーアニメ原画」が展示されていたので、もう一度ディズニーアニメ原画を見ることができました。
現代美術館には、千葉大学で発見された原画のほか、ディズニー本社から運ばれた貴重な原画もたくさん展示されたということですが、鑑賞するには難点がひとつあったそう。いつもの美術館の雰囲気に比べ「チビッコが大喜びで駆け回る」会場だったというので、「にぎやかし」が嫌いな人には、落ち着けなかったんだって。
千葉大学図書館のホールは、狭い会場ですが、落ち着いてみるには、こちらのほうが静かでよかったかも。無料だし。
シンデレラ、眠りの森の美女、わんわん物語などの背景画やコンセプトアートは、現代美術の作品として独立して鑑賞できる美しい絵でした。
りんごの色についての豆知識。鈴木孝夫の『日本語と外国語』より
「りんご色」というと、大多数の日本語話者は、「赤」をイメージする。しかしフランス語では「りんご色」は、緑をさす。
グリム童話の原作(ドイツ語)では、白雪姫が食べるりんごは「半分は赤、半分は白」と書かれていた。これって、二つ割りにしたリンゴってことかしら。
でも、ディズニーアニメが毒リンゴを「丸い赤りんご」に描いてから、世界中の白雪姫ファンは、「毒リンゴ」といえば「まっ赤」をイメージするようになった。
以上、「色彩名称トリビア」でした。
<つづく>
06:52 コメント(4) ページのトップへ
2008年10月27日
ぽかぽか春庭「アニメ専攻デジタルアート専攻」
2008/10/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(2)アニメ専攻デジタルアート専攻
現代美術館で、ディズニーアニメを「はしゃぎまわりながら」見ていたというチビッコたちもいっぱいいた。この展覧会に触発され将来はアニメーターになりたいと思い立った子がいたかもしれない。
東京芸大に「映像研究科修士課程アニメーション専攻」が開設される、というニュースを2007年末、読みました。
2008年4月開校。アニメを芸術としてとらえ、高い表現力を持つリーダーを養成するための大学院教育なのだそうです。
おお、今やアニメで修士号をとる時代になったのねぇ。私が子供の頃は、「漫画ばかり見ているとバカになる」と、有識者たちが顔をしかめていたのに。
芸大教授陣のひとり山村浩二は、「頭山」というアニメ作品が高い評価を受け、また、「カフカ田舎医者」という作品でカナダのオタワ国際アニメーション映画祭短編グランプリ受賞しました。
ほか、アニメ「ニャッキ」制作の伊藤有壱らが指導にあたります。
16人の募集枠にどんな学生が選ばれるのでしょうか。
一期生っていうのは、大事にしてもらえるのでいいよ。
私も、母校の「日本語学科一期生」なので、先生方、手塩にかけて育成してくださった。
私以外の一期生たちは、それぞれよき職場を得て、各界に活躍しています。まあ、手塩にかけても、ダメなやつはダメなままだった、という見本が、私。
芸大大学院、映像研究科映画専攻の教授は、北野武、黒沢清。
芸大も新分野の芸術に対し、意欲的にチャレンジが続きます。
アートの進化。日本画も洋画も彫刻もアニメも、表現の世界は無限大です。
現代美術館のディズニーアニメ展示を担当したスタジオジブリのスタッフも、芸大大学院でこれからアニメ制作に取り組む学生たちも、世界に飛び出す意欲的な作品を目指していくのでしょう。
2008/08/24に、「アジアデジタルアート大賞東京展(2007年度)」を見ました。(於:東京ミッドタウン・タワー5Fデジタルバブ)
九州大学感性融合創造センターが、若い世代のクリエイターを育成する目的で行っているデジタルアートの賞で今年は7回目。
コンピュータデジタルアートは、アニメとともに、世界へ向けて発信する次代の日本文化を担うものとなっています。
文化庁メディア文化祭は1997年からはじまって、2008年は12回目となる老舗。私が展示会場まで出向いて見たのは2度だけだけれど、受賞作品には毎年注目してきました。
この「アジアデジタルアート大賞」を見るのは、2008年が最初。去年まで7回も回を重ねていることすら知りませんでした。
九州大学 先導的デジタルコンテンツ創成支援ユニット(略称:ADCDU)は、国際的に活躍できる次世代のデジタルコンテンツクリエーターを育成する目的で設立された。
2005年度九州大学大学院芸術工学研究院に文部科学省科学技術振興調整費新興分野人材養成プログラムが創設されました。
このような「先端的~」を見て、アナログ人間の私はただただ、「すごいなあ、よくこんなことをコンピューターでやれるなあ」と感嘆するのみ。
デジタルアーティストたちの頭の中はどうなっているのだろうと思います。
デジタルアート、静止画部門も動画部門も、おもしろく見た。若い才能がぴちぴち踊っていました。
私は昔者のアナログ人間だから、時計も長針と短針がぐるぐる回るのが一番わかりやすいけれど、アートに関しては、昔ながらに絵の具や鉛筆で描くのもいいなあと思うのと同時に、デジタルアートに21世紀の可能性を感じています。
本日の徘徊ミソヒト
デジタルは1、2、1、2の二進法、いちにいちにとアートは進む
<つづく>
06:12 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月28日
ぽかぽか春庭「ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展 」
2008/10/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(3)ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展
ブリジストン美術館は、1952年に開館。2007年は55周年目のコレクション展がありました。会期2007年12月1日(土)~2008年1月27日(日)
ブリジストンは、東京駅八重洲口から歩いていけるので、30年くらい前に、毎月のように通った美術館でした。
最近は上野周辺や竹橋周辺、白金などを散歩がてら歩くほうが多くなり、東京駅からまっすぐ行くブリジストンにしばらく来ていませんでした。
八重洲口は、大丸デパートが移転し、再開発の工事中。すっかり様子がかわっていました。外に出るまで、方向音痴なものだから、ぐるぐると駅のなかを回ってしまいました。
ブリジストン美術館は昔通りの場所にありました。
コレクションは、古代エジプトの神像から現代アートまで、いくつかの部屋に別れて展示されていましす。
昔、ちょくちょく通っていたころのなじみの作品に出会うと、「おひさしぶりですね」と挨拶したくなる。
ロダンやブールデル、ザッキン、ブランクーシなどの彫刻のギャラリーを通って、第一室の「伝統から近代へ」
小さいけれど、目をひくのがレンブラント・ファン・レインの『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』暗い画面ですが、ドラマチックな印象です。1626-28年に描かれた油彩。 第1室には、ほかに、ドーミエ、ミレー、クールベなど。
第4室は印象派。コロー、ピサロ、マネ、ドガ、シスレー、ルノワール。
第5室、セザンヌ、モネ、ゴーガン、ゴッホ。
第6室。ルドン、ボナール、ルオー。
20歳で東京へ出てきて、夢中で絵を見ていたころの、なつかしい作品たち。あのころ出会った画家たちの、これらの作品を見ることで、私が「ひとりで自立して東京の片隅で生きていく」という気概を失わずにすごせました。
第9室、10室。ルソー、マティス、ピカソ、ローランサン、モディリアーニ、モンドリアン、クレー、キリコ、ミロ。
第7室8室の日本の近代絵画の部屋。ここでは、第一番に青木繁の『天平時代』、藤島武二「黒扇」
1970年代に、なじんだ作品群に、再び出会う。
2007年冬の私は、作品を見ながら、35年前の私を見ていました。
この作品に出会ったとき、どう感じたのか。どう好きだったのか。
美術館めぐりは、あれから30年以上にわたって、私の「大切な自分の時間」を作るひとつのイベントになっています。
絵を見ることが好きでよかった。
絵と会話する楽しみがあってよかった。
本日の徘徊ミソヒト
マティスルオーローランサンミロモンドリアン、ピカソキリコも若き日の友
<つづく>
06:35 コメント(3) ページのトップへ
2008年10月29日
ぽかぽか春庭「北斎展」
2008/10/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(4)北斎展
江戸東京博物館で開催された『北斎展』、2008年1月10日に見ました。
英語タイトルは「Seibold & Hokusai and his Tradition」
「シーボルトと北斎の画流」とでも題したらよいのでしょうか。
シーボルトらがヨーロッパに持ち帰り、紹介した北斎の肉筆画と版画。特にオランダとフランスに渡った肉筆画と版画40点の、里帰り展覧会です。
北斎は1760年生まれ1849年死去、89歳という長命を保った画家です。
19歳で一本立ちしてから、晩年まで旺盛な制作欲を見せ、息の長い画家生活を送りました。
娘の応為や弟子たちとの「北斎工房」で制作された、肉筆絵や版画。
これらの日本絵画に強く触発された「長崎の異人さん」がいました。 長崎出島の歴代オランダ商館長。そして商館の医者だったシーボルトたちです。
特にシーボルトは、膨大な「日本コレクション」を持ち帰りました。北斎工房の絵画多数がシーボルトコレクションとして残されました。
北斎工房作品は、日本では散逸してしまったものも多く、まとまったコレクションとしては、このシーボルトコレクションが最大級のものになっています。
シーボルトが書き表した「日本」に関する著作物のなかにも、北斎とその工房の作品をそのまま引き写したイラストが多数残されています。
ヨーロッパが「これが日本の姿だ」と思っていた「日本」は、北斎の手による「日本」であった、と言うこともできます。
ヨーロッパ絵画に深い影響を与えた日本美術のなかでも、北斎は特別な存在だといえるでしょう。
江戸東京博物館の「北斎展」は、ヨーロッパに運ばれた北斎の肉筆画や版画の「里帰り」展です。
絵を見るにも「招待券」が手に入ったときがほとんどで、グッズショップでも、一番気に入った絵の絵はがきを一枚100円か150円で買うのがやっとだった私。今回は、大部のカタログを2500円、はたいて買いました。
オランダ国立民族学博物館、フランス国立図書館、山口県立美術館、名古屋市美術館の所蔵北斎を集めたキュレーターのセンスがとてもよかったからです。
英国博物館所蔵の版画下書きを写真図版で並べて見せたり、関連絵画を参照としてそばにおいたり、素人でも楽しめる見せ方が工夫されていました。
左手から被さってくる大波と、波のあいまに揺れる舟、中央とおくに富士山。世界でもっとも知られた三代絵画「モナリザ、富士山、ピカソの絵」という『富嶽三十六景神奈川沖波裏』
ほんとにすごい構図だなあと、見るたびに関心してきましたが、他の三十五景も、それぞれにおもしろい構図です。
『赤富士』や『神奈川沖浦波』のように、切手やうちわ手ぬぐいの図柄にまでなっている有名な絵はよく知られていますが、これまでそれほど注意して見てこなかった絵でも、ゆっくり見るととても面白い発見があります。
『踊独稽古』という踊りのふりつけを絵にして売り出された「振り付け指南書」
北斎の絵をみれば、力のいれ具合、手のふり足の上げ下ろし、実に細かく絵になっていて、これを見て練習すれば、ひととおり踊れるようになる、おもしろい「踊りが再現できる本」です。
踊りの振り付けは、たいていの流派で、稽古場でお師匠さんの動きを見て覚えるのが主な指導法なので、流派がすたれてしまえば、どれほど名声を博した踊りでも、現代のようにビデオもない江戸時代の踊りは、想像の域をでません。
それが、北斎の手によって、それこそ手に取るように、踊りの振り付けがわかるのです。
踊り大好きな私には、とても興味深い絵でした。
本日の徘徊ミソヒト
北斎の江戸シーボルトのEdo、紫陽花に学名残す「滝さん」のえど
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2007/1204/200712.html
<つづく>
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2008年10月30日
ぽかぽか春庭「熊谷守一展」
2008/10/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(5)熊谷守一展
2008年02月07日、ちょっとした感慨をもって美術館の入り口を通り抜けた。
もう、この県立美術館から足が遠のくだろう、よほど好きな人の人の展覧会があるときでなければ、この公園の中をとおって、足繁く通うことはなくなるだろう。
1974年から1977年まで、K駅を最寄り駅として中学校に通勤した。私は私は中学校国語科教師だった。1996年から2008年3月まで、12年間は、この美術館のある公園前のバス停から、勤務先の大学まで、けやき並木を通り抜けるバスに乗って通った。
仕事の帰りに、閉館時刻までまだ時間があるときは、ちょっと足をとめて、美術館を覗いてみることができた。
2008年3月いっぱいで、この町での仕事が終了。
「来期の再任はありません」と、通告されたときは、「2007年前期、半年間も休んで中国に赴任したのだから、クビ通告もしかたがないな」と、思って黙って受け入れた。非常勤講師なんて、こうして使い捨てにされるのだ。
もう4月からこのケヤキ並木をバスで走ることもないのだ、公園のなかを歩く機会も減るのだと思うと、足かけ12年間、この職場で私なりに一生懸命留学生教育に取り組んだことなど、何の評価もされず、ただ古くなったボロ雑巾のように放り出されるのだ、と、しみじみさびしくなった。
これからこの美術館に立ち寄るのも「仕事のついで」じゃなく、わざわざ足を運ぶことになるのだなあ。
何の気なしに立ち寄ったこの美術館で、思いがけず、奥原晴湖という幕末明治期の女流南画家を知ったりしてきた。
こういう思いがけない出会いというのも、気楽に立ち寄れたからこそだった。
「熊谷守一展」は、「仕事がえりにちょこっと立ち寄る」美術館散歩の最後の展覧会になった。
守一は、1880年うまれ、1977年に97歳で没するまで絵を描き続け、守一様式と呼ばれる単純化されたフォルムと自在な色によって、油絵も日本画も書も描いた。
97歳のときの絵には「97歳クマガイモリカズ」と、画面に大きく年齢と名前が入っている。
会場で一番深く心に刻まれたのは、長女の萬が21歳で結核でなくなったときの娘の像と、葬儀がえりに次女の榧 、長男の黄とともに、白木の箱に入った萬を連れて帰る「ヤキバノカエリ」という絵。
戦時下の勤労動員によって体をこわしてしまった長女の萬。ストレプトマイシンが出回る直前の1950年に、肺結核で娘を失ってしまった守一の慟哭が聞こえてくるような絵だった。
本日の徘徊ミソヒト
愛し娘の白き骨壺持つ父の下駄足袋の黒、ヤキバノカヘリ
<つづく>
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2008年10月31日
ぽかぽか春庭「アリの足」
2008/10/31
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(6)アリの足
熊谷守一は、自宅内と、雑草畑のような森のような庭から一歩も出ることなく、庭の花や昆虫を眺めて飽きない人だった。
蟻を見つめ続け「アリというのは、どのアリも左側のまんなかの足から歩き出す」ということを発見した。これは、昆虫学者も知らなかった新発見、だそうです。
庭に寝ころんで空を見上げれば、空の色の変化、雲の流れ、木々の葉の揺らぎ方、一瞬とて同じ光景はなく、いつまで見つめていても、一日が楽しい。
乞われるままに描いた、花や昆虫の絵、裸婦、白ウサギ、黒猫。
文化勲章も辞退、勲三等の内示を受けても辞退。地上の栄典も名誉も、守一には必要なかった。ただ、楽しく庭をながめ、絵を描いた。
歯がすり減って草履のようになった下駄をはいて、日中は庭を歩きまわり、夜になると絵筆を持つ。
豊島区千早に残された守一の旧居は、遺族の寄付により、現在は豊島区立の美術館になっている。次女の熊谷榧が館長さん。
今回の熊谷守一展にも、豊島区立熊谷守一美術館からの出展がたくさんあった。
とぼとぼとした足取りで入館した県立近代美術館。
ひとまわり守一の絵を見、守一95歳の肖像写真を見て回るうちに、ちょっと元気になってきた。
「生きていることが楽しくてたまらないのです。だからもうちょっと生きていたい」という守一。97歳まで生きて、いのちのかぎりをことばにし、絵にした守一。
ああ、私も生きていよう、そう思えてくる絵の間を、閉館時間を知らせるチャイムが鳴るまで巡り歩いた。
本日の徘徊ミソヒト
ありんこも雲も蛙も守一が寝ころぶ庭にめぐるめぐるよ
<おわり>
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(1)千葉大学図書館展示ホールのディズニー原画展
ここ1年に見た絵&アートをまとめて記録しておきます。
ディズニー初期アニメーションの原画が千葉大学で発見され修復されたことについて、
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/haruniwa/diary/200609 (2006/09/18)
に書きました。
初期ディズニーアニメの原画セル画は、千葉大学が譲り受けて保管していたのが忘れられ、タイムカプレセルのように、50年もたってから発見されました。
高度な修復技術により、セル画についていたカビなどもとりのぞかれ、美しい絵がよみがえった。
本家のディズニー社には、初期のセル画保存がないものが多く、千葉大学はディズニー本社にこれらの修復セル画を寄付しました。
これら新発見のディズニーアニメ原画は、修復作業を経て、東京都現代美術館で「ディズニーアート展」(2006年7月15日~9月24日)として公開され、多くのアニメファン、ディズニーファンが観覧しました。
しかし、私はこのとき、会期中に見に行くことができず残念な思いが残りました。
2006年6月3日に、千葉大学で写真学会の講演会が行われたとき、講演会場のけやき会館別室に展示されていたアニメ原画やアニメーションを見たのだけれど、もう一度見ておきたかった。
現代美術館の展示ほど大規模なものではありませんが、2007年10~12月に、千葉大学図書館展示ホールで「ディズニーアニメ原画」が展示されていたので、もう一度ディズニーアニメ原画を見ることができました。
現代美術館には、千葉大学で発見された原画のほか、ディズニー本社から運ばれた貴重な原画もたくさん展示されたということですが、鑑賞するには難点がひとつあったそう。いつもの美術館の雰囲気に比べ「チビッコが大喜びで駆け回る」会場だったというので、「にぎやかし」が嫌いな人には、落ち着けなかったんだって。
千葉大学図書館のホールは、狭い会場ですが、落ち着いてみるには、こちらのほうが静かでよかったかも。無料だし。
シンデレラ、眠りの森の美女、わんわん物語などの背景画やコンセプトアートは、現代美術の作品として独立して鑑賞できる美しい絵でした。
りんごの色についての豆知識。鈴木孝夫の『日本語と外国語』より
「りんご色」というと、大多数の日本語話者は、「赤」をイメージする。しかしフランス語では「りんご色」は、緑をさす。
グリム童話の原作(ドイツ語)では、白雪姫が食べるりんごは「半分は赤、半分は白」と書かれていた。これって、二つ割りにしたリンゴってことかしら。
でも、ディズニーアニメが毒リンゴを「丸い赤りんご」に描いてから、世界中の白雪姫ファンは、「毒リンゴ」といえば「まっ赤」をイメージするようになった。
以上、「色彩名称トリビア」でした。
<つづく>
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2008年10月27日
ぽかぽか春庭「アニメ専攻デジタルアート専攻」
2008/10/27
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(2)アニメ専攻デジタルアート専攻
現代美術館で、ディズニーアニメを「はしゃぎまわりながら」見ていたというチビッコたちもいっぱいいた。この展覧会に触発され将来はアニメーターになりたいと思い立った子がいたかもしれない。
東京芸大に「映像研究科修士課程アニメーション専攻」が開設される、というニュースを2007年末、読みました。
2008年4月開校。アニメを芸術としてとらえ、高い表現力を持つリーダーを養成するための大学院教育なのだそうです。
おお、今やアニメで修士号をとる時代になったのねぇ。私が子供の頃は、「漫画ばかり見ているとバカになる」と、有識者たちが顔をしかめていたのに。
芸大教授陣のひとり山村浩二は、「頭山」というアニメ作品が高い評価を受け、また、「カフカ田舎医者」という作品でカナダのオタワ国際アニメーション映画祭短編グランプリ受賞しました。
ほか、アニメ「ニャッキ」制作の伊藤有壱らが指導にあたります。
16人の募集枠にどんな学生が選ばれるのでしょうか。
一期生っていうのは、大事にしてもらえるのでいいよ。
私も、母校の「日本語学科一期生」なので、先生方、手塩にかけて育成してくださった。
私以外の一期生たちは、それぞれよき職場を得て、各界に活躍しています。まあ、手塩にかけても、ダメなやつはダメなままだった、という見本が、私。
芸大大学院、映像研究科映画専攻の教授は、北野武、黒沢清。
芸大も新分野の芸術に対し、意欲的にチャレンジが続きます。
アートの進化。日本画も洋画も彫刻もアニメも、表現の世界は無限大です。
現代美術館のディズニーアニメ展示を担当したスタジオジブリのスタッフも、芸大大学院でこれからアニメ制作に取り組む学生たちも、世界に飛び出す意欲的な作品を目指していくのでしょう。
2008/08/24に、「アジアデジタルアート大賞東京展(2007年度)」を見ました。(於:東京ミッドタウン・タワー5Fデジタルバブ)
九州大学感性融合創造センターが、若い世代のクリエイターを育成する目的で行っているデジタルアートの賞で今年は7回目。
コンピュータデジタルアートは、アニメとともに、世界へ向けて発信する次代の日本文化を担うものとなっています。
文化庁メディア文化祭は1997年からはじまって、2008年は12回目となる老舗。私が展示会場まで出向いて見たのは2度だけだけれど、受賞作品には毎年注目してきました。
この「アジアデジタルアート大賞」を見るのは、2008年が最初。去年まで7回も回を重ねていることすら知りませんでした。
九州大学 先導的デジタルコンテンツ創成支援ユニット(略称:ADCDU)は、国際的に活躍できる次世代のデジタルコンテンツクリエーターを育成する目的で設立された。
2005年度九州大学大学院芸術工学研究院に文部科学省科学技術振興調整費新興分野人材養成プログラムが創設されました。
このような「先端的~」を見て、アナログ人間の私はただただ、「すごいなあ、よくこんなことをコンピューターでやれるなあ」と感嘆するのみ。
デジタルアーティストたちの頭の中はどうなっているのだろうと思います。
デジタルアート、静止画部門も動画部門も、おもしろく見た。若い才能がぴちぴち踊っていました。
私は昔者のアナログ人間だから、時計も長針と短針がぐるぐる回るのが一番わかりやすいけれど、アートに関しては、昔ながらに絵の具や鉛筆で描くのもいいなあと思うのと同時に、デジタルアートに21世紀の可能性を感じています。
本日の徘徊ミソヒト
デジタルは1、2、1、2の二進法、いちにいちにとアートは進む
<つづく>
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2008年10月28日
ぽかぽか春庭「ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展 」
2008/10/28
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(3)ブリジストン美術館・近代絵画コレクション展
ブリジストン美術館は、1952年に開館。2007年は55周年目のコレクション展がありました。会期2007年12月1日(土)~2008年1月27日(日)
ブリジストンは、東京駅八重洲口から歩いていけるので、30年くらい前に、毎月のように通った美術館でした。
最近は上野周辺や竹橋周辺、白金などを散歩がてら歩くほうが多くなり、東京駅からまっすぐ行くブリジストンにしばらく来ていませんでした。
八重洲口は、大丸デパートが移転し、再開発の工事中。すっかり様子がかわっていました。外に出るまで、方向音痴なものだから、ぐるぐると駅のなかを回ってしまいました。
ブリジストン美術館は昔通りの場所にありました。
コレクションは、古代エジプトの神像から現代アートまで、いくつかの部屋に別れて展示されていましす。
昔、ちょくちょく通っていたころのなじみの作品に出会うと、「おひさしぶりですね」と挨拶したくなる。
ロダンやブールデル、ザッキン、ブランクーシなどの彫刻のギャラリーを通って、第一室の「伝統から近代へ」
小さいけれど、目をひくのがレンブラント・ファン・レインの『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』暗い画面ですが、ドラマチックな印象です。1626-28年に描かれた油彩。 第1室には、ほかに、ドーミエ、ミレー、クールベなど。
第4室は印象派。コロー、ピサロ、マネ、ドガ、シスレー、ルノワール。
第5室、セザンヌ、モネ、ゴーガン、ゴッホ。
第6室。ルドン、ボナール、ルオー。
20歳で東京へ出てきて、夢中で絵を見ていたころの、なつかしい作品たち。あのころ出会った画家たちの、これらの作品を見ることで、私が「ひとりで自立して東京の片隅で生きていく」という気概を失わずにすごせました。
第9室、10室。ルソー、マティス、ピカソ、ローランサン、モディリアーニ、モンドリアン、クレー、キリコ、ミロ。
第7室8室の日本の近代絵画の部屋。ここでは、第一番に青木繁の『天平時代』、藤島武二「黒扇」
1970年代に、なじんだ作品群に、再び出会う。
2007年冬の私は、作品を見ながら、35年前の私を見ていました。
この作品に出会ったとき、どう感じたのか。どう好きだったのか。
美術館めぐりは、あれから30年以上にわたって、私の「大切な自分の時間」を作るひとつのイベントになっています。
絵を見ることが好きでよかった。
絵と会話する楽しみがあってよかった。
本日の徘徊ミソヒト
マティスルオーローランサンミロモンドリアン、ピカソキリコも若き日の友
<つづく>
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2008年10月29日
ぽかぽか春庭「北斎展」
2008/10/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(4)北斎展
江戸東京博物館で開催された『北斎展』、2008年1月10日に見ました。
英語タイトルは「Seibold & Hokusai and his Tradition」
「シーボルトと北斎の画流」とでも題したらよいのでしょうか。
シーボルトらがヨーロッパに持ち帰り、紹介した北斎の肉筆画と版画。特にオランダとフランスに渡った肉筆画と版画40点の、里帰り展覧会です。
北斎は1760年生まれ1849年死去、89歳という長命を保った画家です。
19歳で一本立ちしてから、晩年まで旺盛な制作欲を見せ、息の長い画家生活を送りました。
娘の応為や弟子たちとの「北斎工房」で制作された、肉筆絵や版画。
これらの日本絵画に強く触発された「長崎の異人さん」がいました。 長崎出島の歴代オランダ商館長。そして商館の医者だったシーボルトたちです。
特にシーボルトは、膨大な「日本コレクション」を持ち帰りました。北斎工房の絵画多数がシーボルトコレクションとして残されました。
北斎工房作品は、日本では散逸してしまったものも多く、まとまったコレクションとしては、このシーボルトコレクションが最大級のものになっています。
シーボルトが書き表した「日本」に関する著作物のなかにも、北斎とその工房の作品をそのまま引き写したイラストが多数残されています。
ヨーロッパが「これが日本の姿だ」と思っていた「日本」は、北斎の手による「日本」であった、と言うこともできます。
ヨーロッパ絵画に深い影響を与えた日本美術のなかでも、北斎は特別な存在だといえるでしょう。
江戸東京博物館の「北斎展」は、ヨーロッパに運ばれた北斎の肉筆画や版画の「里帰り」展です。
絵を見るにも「招待券」が手に入ったときがほとんどで、グッズショップでも、一番気に入った絵の絵はがきを一枚100円か150円で買うのがやっとだった私。今回は、大部のカタログを2500円、はたいて買いました。
オランダ国立民族学博物館、フランス国立図書館、山口県立美術館、名古屋市美術館の所蔵北斎を集めたキュレーターのセンスがとてもよかったからです。
英国博物館所蔵の版画下書きを写真図版で並べて見せたり、関連絵画を参照としてそばにおいたり、素人でも楽しめる見せ方が工夫されていました。
左手から被さってくる大波と、波のあいまに揺れる舟、中央とおくに富士山。世界でもっとも知られた三代絵画「モナリザ、富士山、ピカソの絵」という『富嶽三十六景神奈川沖波裏』
ほんとにすごい構図だなあと、見るたびに関心してきましたが、他の三十五景も、それぞれにおもしろい構図です。
『赤富士』や『神奈川沖浦波』のように、切手やうちわ手ぬぐいの図柄にまでなっている有名な絵はよく知られていますが、これまでそれほど注意して見てこなかった絵でも、ゆっくり見るととても面白い発見があります。
『踊独稽古』という踊りのふりつけを絵にして売り出された「振り付け指南書」
北斎の絵をみれば、力のいれ具合、手のふり足の上げ下ろし、実に細かく絵になっていて、これを見て練習すれば、ひととおり踊れるようになる、おもしろい「踊りが再現できる本」です。
踊りの振り付けは、たいていの流派で、稽古場でお師匠さんの動きを見て覚えるのが主な指導法なので、流派がすたれてしまえば、どれほど名声を博した踊りでも、現代のようにビデオもない江戸時代の踊りは、想像の域をでません。
それが、北斎の手によって、それこそ手に取るように、踊りの振り付けがわかるのです。
踊り大好きな私には、とても興味深い絵でした。
本日の徘徊ミソヒト
北斎の江戸シーボルトのEdo、紫陽花に学名残す「滝さん」のえど
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/kikaku/page/2007/1204/200712.html
<つづく>
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2008年10月30日
ぽかぽか春庭「熊谷守一展」
2008/10/30
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(5)熊谷守一展
2008年02月07日、ちょっとした感慨をもって美術館の入り口を通り抜けた。
もう、この県立美術館から足が遠のくだろう、よほど好きな人の人の展覧会があるときでなければ、この公園の中をとおって、足繁く通うことはなくなるだろう。
1974年から1977年まで、K駅を最寄り駅として中学校に通勤した。私は私は中学校国語科教師だった。1996年から2008年3月まで、12年間は、この美術館のある公園前のバス停から、勤務先の大学まで、けやき並木を通り抜けるバスに乗って通った。
仕事の帰りに、閉館時刻までまだ時間があるときは、ちょっと足をとめて、美術館を覗いてみることができた。
2008年3月いっぱいで、この町での仕事が終了。
「来期の再任はありません」と、通告されたときは、「2007年前期、半年間も休んで中国に赴任したのだから、クビ通告もしかたがないな」と、思って黙って受け入れた。非常勤講師なんて、こうして使い捨てにされるのだ。
もう4月からこのケヤキ並木をバスで走ることもないのだ、公園のなかを歩く機会も減るのだと思うと、足かけ12年間、この職場で私なりに一生懸命留学生教育に取り組んだことなど、何の評価もされず、ただ古くなったボロ雑巾のように放り出されるのだ、と、しみじみさびしくなった。
これからこの美術館に立ち寄るのも「仕事のついで」じゃなく、わざわざ足を運ぶことになるのだなあ。
何の気なしに立ち寄ったこの美術館で、思いがけず、奥原晴湖という幕末明治期の女流南画家を知ったりしてきた。
こういう思いがけない出会いというのも、気楽に立ち寄れたからこそだった。
「熊谷守一展」は、「仕事がえりにちょこっと立ち寄る」美術館散歩の最後の展覧会になった。
守一は、1880年うまれ、1977年に97歳で没するまで絵を描き続け、守一様式と呼ばれる単純化されたフォルムと自在な色によって、油絵も日本画も書も描いた。
97歳のときの絵には「97歳クマガイモリカズ」と、画面に大きく年齢と名前が入っている。
会場で一番深く心に刻まれたのは、長女の萬が21歳で結核でなくなったときの娘の像と、葬儀がえりに次女の榧 、長男の黄とともに、白木の箱に入った萬を連れて帰る「ヤキバノカエリ」という絵。
戦時下の勤労動員によって体をこわしてしまった長女の萬。ストレプトマイシンが出回る直前の1950年に、肺結核で娘を失ってしまった守一の慟哭が聞こえてくるような絵だった。
本日の徘徊ミソヒト
愛し娘の白き骨壺持つ父の下駄足袋の黒、ヤキバノカヘリ
<つづく>
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2008年10月31日
ぽかぽか春庭「アリの足」
2008/10/31
ぽかぽか春庭@アート散歩>展覧会徘徊この1年(6)アリの足
熊谷守一は、自宅内と、雑草畑のような森のような庭から一歩も出ることなく、庭の花や昆虫を眺めて飽きない人だった。
蟻を見つめ続け「アリというのは、どのアリも左側のまんなかの足から歩き出す」ということを発見した。これは、昆虫学者も知らなかった新発見、だそうです。
庭に寝ころんで空を見上げれば、空の色の変化、雲の流れ、木々の葉の揺らぎ方、一瞬とて同じ光景はなく、いつまで見つめていても、一日が楽しい。
乞われるままに描いた、花や昆虫の絵、裸婦、白ウサギ、黒猫。
文化勲章も辞退、勲三等の内示を受けても辞退。地上の栄典も名誉も、守一には必要なかった。ただ、楽しく庭をながめ、絵を描いた。
歯がすり減って草履のようになった下駄をはいて、日中は庭を歩きまわり、夜になると絵筆を持つ。
豊島区千早に残された守一の旧居は、遺族の寄付により、現在は豊島区立の美術館になっている。次女の熊谷榧が館長さん。
今回の熊谷守一展にも、豊島区立熊谷守一美術館からの出展がたくさんあった。
とぼとぼとした足取りで入館した県立近代美術館。
ひとまわり守一の絵を見、守一95歳の肖像写真を見て回るうちに、ちょっと元気になってきた。
「生きていることが楽しくてたまらないのです。だからもうちょっと生きていたい」という守一。97歳まで生きて、いのちのかぎりをことばにし、絵にした守一。
ああ、私も生きていよう、そう思えてくる絵の間を、閉館時間を知らせるチャイムが鳴るまで巡り歩いた。
本日の徘徊ミソヒト
ありんこも雲も蛙も守一が寝ころぶ庭にめぐるめぐるよ
<おわり>