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ぽかぽか春庭「2015年3月目次」

2015-03-31 00:00:01 | エッセイ、コラム

by PJ.TaKo


20150331
ぽかぽか春庭>2015年3月目次

0301 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十五夜満月日記3月どこかで春が(1)明かりをつけましょ、いつでも今から
0303 十五夜満月日記3月どこかで春が(2)雅叙園のおひな様
0304 十五夜満月日記3月どこかで春が(3)汐留ランチ&旧新橋停車場
0305 十五夜満月日記3月どこかで春が(4)お台場ランチ&パレットタウン観覧車
0307 十五夜満月日記3月どこかで春が(5)ベラルーシ料理ミンスクの台所in六本木
0308 十五夜満月日記3月どこかで春が(6)カナルカフェスイーツ
0310 十五夜満月日記3月どこかで春が(7)スモーガスボードin レストラン・ストックホルム

0311 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2011年3月の日常(1)あの日を忘れないために

0312 ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート(1)新印象派展 in 東京都美術館
0314 春咲アート(2)パスキン展 in パナソニック汐留美術館
0315 春咲アート(3)信長の手紙 in 永青文庫

0317 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(1)2003年の嘆きの母
0318 2003三色七味日記3月(2)2003年の小さなお針子

0319 ミンガラ春庭ミャンマー便り>3月ヤンゴン出張(1)ミンガラバー
0321 3月ヤンゴン出張(2)ミャンマー本

0322 ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(3)2003年のサイコドクター
0324 2003三色七味日記3月(4)2003年のホラー
0325 2003三色七味日記3月(5)2003年の絶望書店
0326 2003三色七味日記3月(6)2003年の教えることの復権
0329 2003三色七味日記3月(7)2003年の納骨
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ぽかぽか春庭「2003年の納骨」

2015-03-29 00:00:01 | エッセイ、コラム
201503269
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(7)2003年の納骨

 2003年の三色七味日記再録を続けています。
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2003/03/29 土 晴れ
日常茶飯事典>納骨

 1時から寺で納骨。墓石の文字を「眞」の一字にして、実家の墓は、両親と三人姉妹、四つの名字の家族共同墓となった。
 「○○家代々の墓」というこれまでの墓石では、他家に嫁に出た名字の異なる娘が墓に入ることができない、という寺からのお達しにより、墓石を新しくしたのだ。墓石代負担分三分の一で15万、本日分のお布施1万。でも、これで私がこの墓に入る権利確保。

 死んだ後などどうでもいいとはいえ、本人はよくても、遺族にとっては迷惑になる。骨を勝手に捨てることできないのだから、「散骨葬にせよ」とか、自分の意志をはっきり示しておかないと。

 自分はいつまでも死なない気でいた舅も、150歳まで生きるといっていたよりずっと早く82歳で逝くことになり、残された姑は墓をどうするか難儀した。
 舅の一族は「田舎の本家の墓に入れるのが筋」というし、姑は、遠い本家の墓より、近くに自分たち夫婦だけの墓が欲しい。遺族が悩まなくてもすむように、自分の一生と死後あと始末は決めて置くがよかろう。
 夫は「のたれ死にするけど、遺体を探さなくてもよい」→「散骨する」→「親のために墓を用意したんだから、自分の死後は、同じ墓に入る」と三遷した。

 死んだ後、納骨するところがあるという安心。こんな安心はものすごくくだらない、と夫は軽蔑するだろう。今を生きていればいいのだからと。
 夫のように、「自分の人生は自分だけのもの」で、自分ひとりの力で生きている気になれる人はそれでいいかもしれない。
 
 私の生命観。「私は、遺伝子リレーのバトンのひとつを持っている命のリレーランナー。私は、長い人類のつながりの中で生かされていて、、過去現在未来のたくさんの力を借りて生きている」と思うから、過去とのつながりの確認場所、未来へつながる命の確信が欲しいのだ。

 子供のときは、「お坊さんの読経なんて退屈で、法事とはいっても故人をしのぶより、親戚一同の近況報告が話題の中心で、法事なんてくだらない」と思っていた。
 しかし、親と姉を亡くし、自分の年齢が母や姉の享年に近づいてきて、死はより身近になった。法事の席に親戚一同が集まって近況報告を交わし合うことも、今を生きる人の命のために必要なのだと分かってきた。

本日のつらみ:散骨するにも30万円かかると聞いて、夫、宗旨替え


2003/03/30 日 晴れ 
日常茶飯事典>姉の1周忌

 12時半から、で柿実さん一周忌。墓の開眼供養と、一周忌法要。松伯母ほか、親戚一同。
 
 親戚近況。露子の次男、麻布から東大現役合格。これであと4年間は、駅叔父さんから「外孫、東大合格自慢」を聞かされる。
 駅叔父さんのたった一人の内孫、真帆が、まもなく結婚。叔父は「内孫はひとりなのだから、入り婿をとるのでなければ結婚を許さない」と言っていたが、ついに折れたらしい。今時、入り婿だなんて。婿取りをして継がなければならないような、ご大層な家柄でもなし。
 駅叔父さんとしては、駅長だった自分のあとをついで、息子も駅長になったことが誇り。3代目の駅長になれるような婿がほしかったのだろう。

 法事の会席に、ひつじの婚約者ササニシキさんも加わった。ひつじは先週、大学卒業式を無事終えた。夏までアルバイトをして、夏頃入籍し、ササニシキさんのアパートへ。秋以降、小さな披露宴をするという。自分たち二人だけで、親の援助なしに披露宴も新居準備もするから、派手なことは何もしない、という。

 娘と息子は先に東京へ帰った。

本日のうらみ:1年たっても、54歳の柿実を死へ向かわせた、医者へのうらみは消えない


2003/03/31 月 晴れ 
日常茶飯事典>児童遊園地

 姉の娘蜜柑は、シングルママで、4人の子持ち。でも、まだ20代、遊び好き。お出かけ好きは、他の20代と変わらない。
 独身気分でお出かけしたとき、子守をしてもらっていたバーバ、柿実さんはもういない。しかし、バーバいなくても、遊び好きは変わらない。スモモ叔母、いとこのひつじ、えりえりに子守をたのんで、せっせと遊びに行く。

 この1年の蜜柑の課題であった1周忌法要を無事におえて、蜜柑は自分にごほうび。京都に遊びにいく、と言って出かける。私、スモモ、ひつじで蜜柑の子どもたち四人を子守り。じゅじゅ、あんず、ミューズ、龍頭。
 姉にとって、蜜柑が20代のシングルマザーで4人の子育てをやっていけるのか、ということが一番の心残りだったのだから、子守をするのも供養のうち。

 児童遊園地へ連れて行く。小さい子供向けの遊具しかないが、のりもの一回50円の安さ。4人とも十分に楽しんでいた。
 豊島園とか後楽園では身長制限があって乗れないものがあるし、身長が1メートルを超えているリュウズでも、こわがりで絶叫系などには乗れないので、東京なら荒川遊園地、田舎では、ここ児童遊園地がちょうどいい。
 リューズとミューズの年上組と、あんずジュジュ年下組に分かれると思いきや、こわがりのリューズとジュジュが組んで、安全な汽車ぽっぽなどに乗り、あんずとミューズが組んで、ミニコースターなどちょっと、スリルがある乗り物に挑戦。

 夕方、温泉へ行き、駅まで送ってもらって帰った。

本日のつらみ:チビどものエネルギーにふりまわされた1日、温泉に入っても子どもを追いかけ回すのに疲れた

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20150326
 2002年に姉が54歳で亡くなり、その一周忌を2003年に行いました。姉の孫達、一番上のミューズは看護師に、長男リューズは母親の蜜柑と同じ職場で介護施設職員となりました。孫達の成長を、姉が見守っているかと思います。

<おわり> 
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ぽかぽか春庭「2003年の変身と再生プログラム研究」

2015-03-28 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015038
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(6)2003年の変身と再生プログラム研究

 2003年の三色七味日記再録をつづけています。
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2003/03/26 水 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>「変身と再生プログラム研究」

 「変身と再生プログラム研究」
 メルシィ人生、マドモワゼル、年下の男、グッドラックを続けて見て、この四つのドラマに共通するキーワードは「死と再生」であると看破いたしました。イニシエーションプログラムはふたつ「愚者の祭典」と「擬死」である。以下、分析。

 「マドモワゼル」ピエール・カッシーニ(ジャック・ガンブラン)
ドラマ吸引力の核=「偶然、出あった男と女の愛はどう推移するのか」
イニシエーション前=「売れない俳優として、イベントや結婚式の余興で即興劇を演じるくたびれきった中年役者」
愚者の祭典=「結婚式の余興前、ウェイターなどの雇われ人たちと、せまい物置の隅のようなところでまかない飯を食べる。自分が結婚式をやる側の人間でなく、ごちゃごちゃと折り重なるようにして、まかない飯を急いで食べる側であることを、クレアの前で確認する」
擬死=「結婚式のスピーチでクレアが自分の作品を話したことによる自信の回復。バイクでの疾走、ポンコツ中古車の中での情事&眠りと目覚め」
イニシエーション後=「戯曲アルメン灯台を完成させた芸術家」

「メルシィ人生」ピニョン(ダニエル・オートィユ)
ドラマ吸引力の核=「ピニョンの解雇撤回が成功するかどうか、家族との関係回復ができるかどうか」
イニシエーション前=「妻に離婚され、会社は解雇されかかった、とりえのないさえない経理課員」
愚者の祭典1=「ゲイパレードで頭にピンクのコンドームをかぶり、群衆に手をふる。被差別の側に身を置き、大衆の視線を受ける」
擬死=「駐車場で襲撃され怪我をする」
愚者の祭典2=「コンドーム工場内での製品検査実施、実演!」
イニシエーション後=「未練を残していた妻と決別し、経理課の上司の愛を獲得した自信に満ちた男」

「年下の男」山口千華子(稲森いづみ)
ドラマ吸引力の核=「千華子と母親、年下の男との恋愛がどう進展するのか、家族の再生はどうなるか」
イニシエーション前=「寿退職したいのに、恋人もいないお茶くみOL」
愚者の祭典1=「年下男のなわばりであるディスコに入ったものの、若者に同化して踊ることもできないし、男は年上の恋人を仲間に紹介できずに従姉妹だという。疎外感」
擬死=「バイクにひっかけられ、倒れた拍子に手を切り失血」
愚者の祭典2=「社内の能なしOLを寄せ集めた意味無しプロジェクトへの配属。能なしOLとして扱われる屈辱に耐えられない梓をよそに、千華子はこの中で自分の責務を果たし仕事をいっしょうけんめいやろうと言う」
イニシエーション後=「年下の男からの求婚を受けずに、仕事もジムトレーニングも自分なりにやって、家族それぞれが自分の道を歩んでいこうとするのを認めてやれる大人の女」

「グッドラック」新海元(木村拓哉)
ドラマ吸引力の核=「キムタク」柴崎こうとの恋愛がどうなるか、ってのはうまくいくに決まっているし、黒木瞳と堤真一もモトサヤになるにきまっているから、核ではない。このドラマの「視聴者を引きつけておく核」とは、キムタク&こうの組み合わせキャスティングだけ。
イニシエーション前=「飛ぶのが大好きだけど、まだ未熟な副操縦士、恋人無し」
愚者の祭典=「アパートの隣の部屋の韓国娘からしんちゃんと間違われる」
擬死=「避難訓練で落下事故にあい、歩行不能になるかもしれない危機」
イニシエーション後=「操縦士として復活し、恋人も獲得」

 こうみると、やはりグッドラックの「愚者の祭典」の内容がとぼしく、イニシエーション後の変化が少ないことがわかる。つまり、私は愚者の祭典は徹底的にさわぎたて、イニシエーション前と後が、ものすごく変化するようなのが好きなんです。木村拓哉みたいに、最初も最後もずっとカッコいいのは、ドラマとしてはイミナシ。

 二児の父になっても「こぼんのうなパパ」を売り物にしない売り方は正しいぞ、ジャニーズ事務所。でも、「キムタク見たい」で視聴者を引きつけておけるのは、いつまでだろう。
 キムタクファンも、相手が工藤静香なら「何時離婚してもOK」で、ファンを続けていられる。ゆかりんだったかかおりんとか、そういう素人と結婚したのだったら、「二児のパパ」が10歳若い柴崎こう相手に恋愛ドラマやるキャラは保てず、離婚した場合のイメージダウンは免れない。結婚のメリットはなかった。
 スマップの一員兼都立代々木高校生だったころからの、十年来の恋人を捨て、工藤静香を選んだのは、そこまで読んだからだと思うが。
 結婚によるキャラ替えをしなくてもすむ結婚を選んだキムタクの頭の良さ、タレントイメージコーディネート能力の高さを私は評価し、結婚前は香取や中居キャラの作り方の方が好みだのに、結婚後はスマップナンバーワンはキムタクに替えた。でも、ファンがいつまで「結婚しているのに、結婚していない雰囲気のキムタク」を支えるかの見極めは、どこでだれが決定するのだろうか。

本日のねたみ:私も変身したい


2003/03/27 木 曇り 
日常茶飯事典>江戸開府四百年展

  午後、娘息子と江戸東京博物館へ。「江戸開府四百年展」を見る。前回見たのは、「太平洋戦争展」をやっていたときで、息子はほとんど覚えていない。江戸開府といっても、開府期の展示はあまりなくて、東京の歴史のほうが多かったが、ゆっくり丁寧にみた。 ホールでのクイズもやって、甘味処であんみつ食べて、私と息子は帰る。

 娘は仲良しの四人組で集まり、池袋の焼き肉食べ放題でパーティ。ゆりちゃん早稲田合格祝い兼、あいちゃん不合格残念会。去年慶応合格のひかりちゃんが春休み語学留学に行っていたので、帰国を待っての四人組パーティ。ゆりちゃんは、念願のスポーツ管理学を学ぶのだという。
 娘が不登校の間も、いっしょにコンサートへ行ったり、遊園地へ行ったり、本当によく支えてもらった。子どもは、親一人の力だけでは育てられない。小学校1年生から続く友情に支えてもらったこと、ほんとうに感謝している。

本日のつらみ:合格不合格、明暗は分かれたが、友情にかわりなし、でも、全員合格になってほしかった


2003/03/28 金 晴れ 
アンドロメダM31接続詞>赤いくれよんしんちゃんと薬袋黎璽

 高校文芸部員ネット名「薬袋黎璽(みないれいじ)」のサイトを読む。面白い。
 みないBBSには、2Cプロレタリア亡命政権赤いクレヨンしんちゃんが、まじめに進出している。みない君、もてあましながらもちゃんと相手をしてやっている。さすが先輩エライね。

 みない君は「國家社會主義者」だそうだ。文章や考え方は、そりゃフツーの中学生高校生のレベルを超えた文章力だが、でも、こういう子もあと十年したら、JRかどこかに就職して、優秀な幹部候補生になるのかな。別段JRに就職しなくてもいいけれど、おじいさんが満鉄アジア号の専務車掌だったことを誇りに思っている、という記述が印象に残ったから、JRと言ってみただけ。

 2Cプロレタリア亡命政権は、あちこちの掲示板に進出していて、どこでもたたかれている。もう、私はこの「赤いクレヨンしんちゃん」から目が離せません。

 今のところ突っ張っていてもいいけれど、「ジョンイル王子はバカだが、いるそん皇帝は偉大だ」と信じている、その「幼いゆえに純粋な=年端もいかぬがゆえの無知」による確信が潰えたときの、クレヨンのカラーが何色になるのか。少年ビルドゥングスウォッチャーの私は、500色いろ鉛筆を用意して待っています。がんばれ、赤いクレヨンしんちゃん。

 しんちゃん、小学生のときに「金日成の革命闘争」というような本(彼はちゃんとタイトルを書いていたと思うが忘れた)を読んで、主体思想にめざめたのだ。(掲示板への本人の書き込みによる)。正しい人民共和国の歴史を読んで感動したのだと。

 もし、しんちゃんの親が、ダイサク学会熱烈会員とか新潟長岡出身で角栄真喜子コアファンとかで、しんちゃんが自主的にこれらの本を読んで感動したのなら、それは人生における出会いというもので、別に私がどう思うもない。が、もし、しんちゃんの親がヤーレンソーレン関係者で、親の関係で読んだのだったら、なんだかしんちゃんの主体思想も痛ましい気がする。
 鸚鵡(改名前)の子供たちが児童施設に引き取られる際に、「ソンシをそんけーしています」と答えていたのをみたときのような。法の華の子供が「最高で~す」と叫んでいるのをみたような。

 しんちゃんは「ネット内掲示板作法もわきまえずに、あちこちのボードに書きなぐっている、要注意厨房」とされているが、私には彼が「誰か、僕を理解してくれ、だれか僕の存在を認めてくれ」と叫んでいるような気がしてしまう。これは、同じ世代の子供を持つ親の目でみる、感傷的な見方なのかもしれない。

 彼の実像が「吉祥寺から井の頭線にひとりでぽつんと電車に乗り、ひとり孤独にパソコン雑誌に読みふけっている厨房」という観察批評を、2Cプロレタリア亡命政権掲示板に書き込みされていた。無論、速攻削除されていた。彼の論理ではこういう書き込みは「個人への誹謗中傷」にあたるというのだ。彼の掲示板は以後、彼の気に入った書き込みだけが掲示され、ほかは削除という言論統制が行われて、読む楽しみがなくなった。
 「まゆげ、まゆげ」という「完全無欠の誹謗中傷」を、莞爾呵々大笑くらいに受け入れる度量がなくては、政権維持もかなうまい。

 この1年、彼をクラス代表に選んだことを39名はとことん後悔しただろう。脳内にいかなる思想を持つことも自由、ということくらい、頭のいい彼のクラスメートは全員理解している。しかし、それが自分たちの生活を不快にする範囲に進出してきたら、容赦ない。しんちゃんを救え!
 彼の写真をみたこともないけれど、文化祭で見たりしたらすぐわかるだろう「まゆげ!」そしたらファンとして一声かけるんだ。「あんた、おもしろいよ」

 今時、どんな純粋培養のソーレン幹部の子供たちでも、日本で客観的に報道を検証する限り、このように純に主体思想を標榜して育つことはないだろう、と思いこんでいた私の思いこみを、うち砕いてくれただけでもおもしろい。

本日の負け惜しみ:わたしのくれよん五百色

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20150324
 よそんちの14歳厨房の心の叫びを理解しようとしていたけれど、我が息子が、偏差値75の天才クンと秀才クンのそろうクラスの中で「僕は天才ではないっ!」と心の叫びをあげていたことには気づかなかった愚かな母親でした。
 スーパーサイエンス校トップの学校で、毎年高校数学オリンピックだの化学オリンピックだののメダリストを輩出する学校。休み時間には、量子物理学だの線形数学だのの話が飛び交う中学校の教室で、息子はどんな思いを抱えていたのだろうか。

<つづく>
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ぽかぽか春庭の「2003年の教えることの復権」

2015-03-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150326
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年三色知恵の輪日記(5)2003年の教えることの復権

 2003年の三色七味日記再録を続けています。
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2003/03/22 土 晴れ 
トキの本棚>『教えることの復権』

 苅谷剛彦夏子大村はまの新書『教えることの復権』読了。何より大村はまが96歳で、まだ生きていたことに感激。
 私が国語教師になったとき、すでに大村は「おばあさん先生」であり、「大村の単元学習」の時代は終わった、と言われていたのである。

 私は山ほどの国語教育関係書を読み、結局、国語教育とは何かわからないまま、3年で国語教育から敗退した。退職するとき、後輩の国語教師に国語教育関係書は全部あげてしまったので、一冊も残していない。あのときは「国語」なんて言葉を見るのもいやだった。大村はまを読んだのか、ということもいっさい覚えていない。読んでも頭に残っていないのなら、読まなかったのと同じ。私にとっては、ただ「伝説の国語教師」であった。

 大村は、74歳まで現役国語教師を続けていた。私には、またまたびっくり。管理職につかない一教師としてすごすとしても、60歳を過ぎたら退職勧告に従わざるを得ない状況にさせられると思っていたが、さすが伝説の教師、74歳まで現役だったとは。
 60歳すぎ、大学の教育学部などから引く手あまただったろうと思うが、最後まで中学校国語科教師を貫いたことだけでも、私は尊敬するね。

 苅谷夏子は、石川台中学校での大村の教え子にあたるという。ラッキーだ。夏子の「授業を受けた思い出」と大村の回想や過去の著作からの引用、最終章が苅谷剛彦の大学での授業についての話で構成されている。

 私は単元学習の教授法や研究授業について、きちんと学んだ覚えもないまま国語教師をやめたが、もし30年前に単元学習をとりいれたとしても、たぶん成功しなかったろうと思う。独身の大村が全勢力を教材研究教材準備にかけ、それでも時間が足りなくて「生徒をかわいいなんて思っている暇もなかった」と述懐しているのを読んでも、30年前の私に、このような教材研究の能力も単元学習(総合学習国語科版)をやり遂げる授業技術もなかったろう。

 大村の教え子で国語教師になった者は少ない、という夏子の証言。国語教育をするのが、これほどエネルギーのいる、ものすごい行為だということが身にしみてわかっていて、大村をこえる教師にはなれないとわかっているから、国語教師という職をあえて「先生にあこがれて」なんて理由で選ぶことはできなかったのであろう。

 生徒の自主性を生かす、とか、自由な発想を尊重する、なんてことが、アダおろそかにできることじゃない、ということが身にしみているわけではない文部科学省の小役人たちの、安易な発想で決定し、現場教師が小手先でやりすごそうとしている総合学習。

 一般の小中学校で、どれだけの成果をあげることができるだろうか。家庭も教頭校長昇進試験もすべて捨て去り、授業だけに情熱を捧げる教師でなくて、「総合学習、自主的に考えなさいと生徒にまるなげ」するような教師ばかりで、どういう結果がでるか、わかりきったこと。

 もちろん、何年間かあとの教育研究とか事例研究では「こんなにうまくいった」というような特殊な例ばかり出るだろうけど。

 生徒引率して博物館へ連れて行き、騒ぎまくる子供たちに「はい、自由に自主的に見物してレポートをまとめましょう」で終わりにして、博物館喫煙室でたばこすって居眠りする教師が想像できる。
 大学授業の部の中で、「教えること、学生に考えさせること」について確信が持てたのでよかった。

本日のねたみ:わたしも教わりたかったカリスマ教師


2003/03/23 日 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ミュージック オブ ハート』

 夜、メリル・ストリープの『ミュージック オブ ハート』見た。実話をもとにした音楽教師奮闘ストーリー。

 あらすじ。ロベルタはネイビィの夫に浮気&離婚され、息子二人を養うためにハーレムの公立小学校の臨時音楽教師になる。正式な教員免許はないが、課外バイオリン教室で10年間教え、子供たちに音楽の喜びや生きる指針を与える。
 市の教育予算削減のために教室が閉鎖される事態になり、ロベルタは友人や教え子たちの助けを借りて、アイザック・スターンやイツァク・パールマンらが賛助出演するコンサートを成功させ、教室存続の資金を稼ぐ。というドキュメンタリー映画をもとにした映画。
 子供たちのエピソードは、女の子がギャングの流れ弾に当たって死んでしまったり、せっかく奨学金を貰えそうになったのに、DVのために母といっしょに父の暴力から逃れて身を隠すことになってしまう子とか、ありがちな設定になっているが、もとのロベルタのストーリーは実話。

 メリル・ストリープは、やたらにぎゃんぎゃんわめく。恋人になりそうだったボーイフレンドにも、「正式な結婚じゃなかったら、あんたいらない、出ていけ」と窓ガラスを割るし、こんなに怖いと、夫も逃げたくなるよなあ、と思う。メリルストリープの造形なのか、本物のロベルタがこういうキャラだったのか、わかんないけど。
 日本だったら、女校長や同僚にあんな具合に突っかかってわめきたてたら、それだけで「協調性のないヒステリー教師」と職員室から総スカン。映画のロベルタは味方を増やしていったから、アメリカじゃあれくらい自己主張をしないと存在感なくなっちゃうのかもしれない。

 大村はまとロベルタ。迫力満点の女教師を前に、私なんぞ教師と名乗るもおこがましいよな、と縮む。

本日のちぢみ:ちぢみ志向の日本語教師


2003/03/24 月 曇り 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『マドモアゼル』

 息子、終業式。もっと悲惨な通知票を予定していたが、そこまでひどくはなかった。

 『マドモワゼル』の感想を娘と話していて、私の画面読みとりミスが発覚。私は、画面冒頭で主人公クレアが見つめるのアルメン灯台のポスターのキャプションを見落としたのだ。そのため、最初に私が持った感想は「これじゃ不満」だった。

 最初の感想。
 『マドモワゼル』は恋愛映画。たった一日だけの恋。たった4日間の出会いの思い出を一生ため込んでいた『マディソン郡の橋』ほど、ズシンと重くない。そんな「橋の思い出」を抱え込んだままの女房の隣で何十年も眠らなければならなかった夫に比べて、クレアの夫は声のみで顔も姿も出てこない。夫はこの映画にマッタク関係ないのだ。

 あらすじ。冒頭シーン、灯台のポスターを見て、クレアは一晩の出来事を思い出す。クレアのたった一日の恋物語が始まる。

 医薬品セールスで地区の担当責任者に昇格したクレア(字幕ではクレールと表記されていたが、私の耳にはクレアに聞こえた)が、会議のためにミラノの近くの地方都市へ出かける。帰りの電車に乗り遅れ、会議後のパーティ余興で即興芝居をしていた一座の車に同乗。その一座の俳優ピエールと一晩をすごすという「大人の恋愛おとぎ話」

 ピエールは結婚式の余興に出演するために金持ちのパーティに行く。忘れ物の灯台レプリカを取りに戻ったクレアに、自作で未完のままの灯台守の恋の話をする。クレアは結婚式のスピーチとして即興でこの話をして、ピエールに戯曲を仕上げるようすすめる。ヤマハのバイクで町を走り、英国製の中古車のなかで朝を迎えて、ふたりは別れる。

 医薬品の中堅セールスとして仕事も順調、9歳と7歳のこどものいる家庭。何の不満もない平凡だが幸福な生活。ピエールと一晩過ごしたことで、クレアの人生は変わったのだろうか。もしかしたら、たまたま灯台のポスターを見て思い出したのではなく、夫のひげそりクリームを買うたびに思い出すことなのかもしれない。そのたびに「自分はどこにでもいるつまらないマダムではなく、一晩のアバンチュールを終える朝、マドモワゼルとギャルソンに呼ばれた、恋に燃えることもできる心を持った女なのだ」と思い返すことで、彼女の人生が変わったのかもしれない。

 でも、画面では薬屋でひげそりクリームを買う前のクレアと、夫や子供たちといっしょに車に乗ってショッピングしている間、灯台のポスターみて思い出にふけっているクレアのどこが違うのか、あんまりわからない。『マディソン郡の橋』のように、平凡で退屈な夫との生活に飽き飽きしているという描写があったのなら、「たった一晩の恋愛の効用」がよくわかるんだけど。

 私は「へ~んしん!」と「革命!」が大好きなのだ。彼女がこの一晩の恋愛で自分の人生に自信や満足感を持つようになったのかどうか、をはっきり描いてくれないことには、この恋の思い出のありがたみが減るような気がする貧乏性なのである。

 ピエールのほうは、自分の「即興劇団旅芸人」として惰性で生きていく生活から、「成功するかどうか、わからないが、とにかく戯曲を仕上げるという希望を持った俳優」に変化したのかどうか、これまたよくわからない。冒頭の灯台のポスター、私にはフランス語がわからないから、ただの観光ポスターと思って見ていたが、もしかして『灯台守』と題されたピエールの戯曲のポスターだったのかしらとも気になった。
 ピエールのほうに重点をおけば、クレアを「たった一晩だけのファムファタール」として、しがない役者から劇作家へ「へ~んしん」する物語にもできただろう。そうなると映画のタイトルは「マドモワゼル」ではなく当然「灯台守」である。私には、そのほうが面白いんだけど、作品的には平凡になるだろうな。

 新人劇作家の作品『灯台守』のポスターを見つめるクレア。自分の存在によって、この作品は「永遠の胎児」であることから抜けだし、この世に生み出されてきたのかもしれない、という感慨にふけるクレア。「私がこの作品を世に出すきっかけを作った。でも、私はこの二人の子供ととりえのない夫との平凡な生活を、自分の意志で選んだのよ」という顔でポスターから視線を離すクレア。そういうラストだったら、私の「へ~んしん」願望がもっと満足したのにね。

 と、娘に話していたら、「何言ってんの。そういう話だったんじゃない。あの灯台のポスターは国立劇場の劇のポスターだったもの」という。
 私は「トゥルーズ国立劇場」という画面の説明を完全に見落としていて、ただの観光ポスターだと思ったのだ。「ピエールが劇作家として成功したのを知って、クレアはとても複雑な表情をしていたじゃないの。うれしいようなさびしいような。何見てきたのよ、お母さん」

 なんと間抜けな映画鑑賞をしたものだ。それで、夕方5時からもう一度見る。シネマカードがあるから、同じ映画を2回続けてみる、という経験をした。これまで同じ映画をみることはあっても、それはビデオでみたり、テレビでみたりするくらいで、同じ映画館で続けてみるなんてコトは始めて。

 2度目はちゃんと、国立劇場という字幕の説明も、ポスターの中の「ピエール・カッシーニ」という劇作家名前クレジットもちゃんと見た。ラストシーンにも出てくるポスター。

 戯曲が国立劇場で上演されて、ピエールはビッグになっていくのかもしれない。でも、クレアの子供たちは買ってもらったプレステに夢中で、彼らが将来劇作家の名前に注意を向けることはないだろうなあ、クレアは劇作家の恋人ではなく、プレステ大好きな子供を選んだのだ。

 それでもって、この恋愛映画は星三つから五つになりました。

 字幕キャプションを見落して、内容を読み違えたなんて、自分の映画の見方にがっくりきました。 
 たぶん、私が小説を読んだり論文を読んだりするときも、大切な何かを読み落として、思い違いのままのものがたくさんあるんじゃないかな。
 もともと映画でも演劇でも小説でも、自分を「見巧者読み巧者」と、思ったことはなかったが、見巧者ではないものの「ちゃんと内容を理解できるくらいの読みとり方はしている」という根拠のない自信を持っていた。
 娘と話さなかったら「トゥルーズ国立劇場」の文字を見落としていたことなど、まったく気づかないままだった。本はひとりで読めばよい、映画は一人で見るからいい、と思っていたけれど、読書会とか映画感想話し合い会は、私のような独りよがりの思いこみ人間には必要なんですね。

本日のつらみ:うちの子たちも、プレステが好き。母が劇場にさそっても、プレステゲームのほうがいいってさ


2003/03/25 火 雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『年下の男』

 昨日と今日、ビデオにとっておいた「ドラマ最終回」をつづけてみた。娘が好きな内舘牧子『年下の男』と、どうでもいいといいながら結局全部みてしまったキムタク『グッドラック』
 今期みたのは、ほかに松島菜々子主演の『美女か野獣』。連続ドラマどれを見るか決定権は娘にある。

 稲森いづみは、どうやっても「反町を菜々子に取られた2番手女優」というレッテルがはがれないので、さえないOL役にはぴったり。
 菜々子は「美女か野獣」でキャラに文句付け「こんなんじゃ、私バカみたいじゃないですか」のひとことで、ドラマの途中でキャラ設定が変わって、突然ただのタカビー女からイイヒトに変わってしまう、というわがままが許されたそう。
 こちらも「お約束」の塊だけでドラマができていた。娘と息子につきあって、半分くらいは見た。ひとつとしてストーリー展開の予想がはずれた回がなかった。テレビドラマとはすべて水戸黄門か。

 菜々子の「印籠」は「親が政府の役人で大臣の側近」という設定。父親は、娘に突っつかれたくらいで大臣の汚職を認めてしまう、しょうもない人間である。ここは、汚職の事実を隠し通すために娘を殺して自分も自殺、っていうくらいにすると、衝撃のラストになってよかったのにね。

 もう眠くなって、ばかばかしさについていけなくなって、福山雅治と空港でヨリをもどすシーンは寝てしまったので見られなかった。どんな馬鹿な設定、あり得ない展開でも「そんなばかな」と言いながらドラマを見るのがテレビドラマ視聴の正しい姿であるのに、最後までばかばかしさと付き合ってやれないなら、最初から見なければいいようなものだが。

 内舘ドラマは、今回も最初からラス前までどろどろぎゃあぎゃあやっていて、ラストでみんな丸くおさまる、というお約束通りの終わり方。

 稲森の山口千華子、私の予想通りに「年下の男に結婚申し込まれてうれしかったけど、仕事もうちょっとがんばってみるから」という健全路線でおわり。
 風吹じゅんのモモエ「高橋克典とは別居生活だけどうまくやっていく」で、ミノルは「家族から解放されて新しい人生」だし、もう、それぞれ「成長したら家族は新しい自分だけの道を歩いていっていいんだよね」という「そんな当たり前の終わり方でいいのかあ」の最終回だった。
 星野まりは「成長していい女になる」だし。たった一人最後までどろどろ「ぜったいに自分以外の人間が幸福になるのを許せない」と突っ張っていた梓も角が取れていく気配だし。耄碌じじいのじろうさんが最後まで死ななかったのも、なんだかなあ。癌のじいさんくらい往生させてやればいいのに。娘の「最後は全員死んじまうとかしないと収まらないよ」という「内舘への反乱」は鎮圧されました。

 グッドラックは初回から最終回まで、ストーリーになんの破綻も波瀾万丈もどきどきも、来週はどうなっちゃうんだろうもなく、予定通りに年上組も年下組もラブラブで終わって、ええい、こんなにうまくいく人生ばかりみせちゃ、いたいけな青少年に「人生甘いもんです」と思わせちゃうじゃないか、教育上よくないドラマだなあと思わせる。
 何を演じてもただひたすら「キムタク」でしかないというのも、演技者としてはつらいものがあるのかもしれないが、私はキムタクを見ていたのだからまあいいや。途中でちょとは演技パターンがかわることがあるのかと思ったが、最後までキムタクでした。おしまい。

本日のそねみ:ナナコはどんなわがままも許され、キムタクは高いところから落っこちて重症骨折でも、現場復帰可能

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20150324
 ドラマのようにすらすら運ぶ人生なんてありっこないのだけれど、それにしても私の人生、ぎくしゃくとよろけながら、大貧民ゲームの貧民から抜け出せないのか。トランプの大貧民では、最低札が集まれば逆転できるはずなのに。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の絶望書店」

2015-03-25 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150325
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(5)2003年の絶望書店

 2003年の三色七味日記再録をつづけています。
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2003/03/19 水 晴れ 
アンドロメダM31接続詞>絶望書店

 午前中Aダンス。

 絶望書店にいきついてしまい、朝からずっとネット読書。小谷野もてない氏と絶望主人の「遊女の平均寿命」論争ではだんぜん絶望氏の勝ち。ここでももてない氏は無惨な姿をさらしてしまっている。
 絶望主人の「投げ込み寺過去帳からみた遊女の寿命」「新聞検索による少年犯罪」「ネット古本商売のファウンデーション」どれも感服。書き手の自己満足だけでなく、読み手に与えるものがある。
 それに対して、もてない氏は「歴史や文学について、書きたいことがあるなら、論文にして発表しろ。論文として認められないなら、何か言ったことにはならないのだ」と、わめいている。紀要論文だの学会発表だけが、学者にのしあがるためのステップである、という認識以外に考え方を知らない学者業界人。
 でも、小谷野って、まわりの人に学者として認めて貰えているんだろうか。肩書きが「東大非常勤講師」しかなくなって、「田中優子とか佐伯順子の悪口言ったために、就職口がだめになった」と嘆きを入れていた。おもしろい。

 ネットというものがあるからには、トンデモ学問を含めて、これからは「学問インフレーション」の時代。みんな、自分の学説を紀要だの学会だのという狭い業界内ではいずり回ることなく、どしどし学説発表したらいい。「学会誌にジャッジが必要」と同じコトしたいのなら、世界中の人がジャッジして、学説を評価してやればいい。最初はトンデモだけがはりきるだろうが。トンデモはおもしろいからいいや。
 一方、絶望書店の方は、肝が据わっている。「当店唯一新刊書の販売」をしている『文化ファシズム』は「この妄想を買え」という惹句つき。ほめ殺しコピーなのかと思ったら、ほんとうに妄想本なのだ。
 久本福子のサイト、妄想に充ち満ちていて、すごすぎ。「創価学会と朝日新聞と西武」にあやつられた柄谷行人と浅田彰は、久本の論文を盗用する、熊野大学の講習料は高すぎでボッタクる、という大悪人。
 もう、トンデモの世界観満開。久本の夫が経営していた葦書房はこの陰謀によって乗っ取られ、中上健二、李良枝はじめ、太地喜和子などは皆、陰謀によって不可解な早死にをとげたという。

 電波系サイトというのがたくさんあることを知ってはいたが、用もなかったので、読むことはなかった。が、はじめてこのような「主観のなかにのみ生きている人」の書いた物を読めて、おもしろかった。この奇妙な本を、自分のネット古書店のトップで売ることにした店主の気骨は伝わる。

 これを誤解して「変な本を売るへんな店主」と思う人もいるのではないかと心配だが。ネット読書をする人は、やたらに思いこみが強く、なんでも自分の思いこみにひきつけて、誤読が生き甲斐みたいな人がたくさんいるらしいとわかってきた。

 SFをバックボーンにしているサイコドクターと、文楽をため込んでいる絶望書店。絶望書店の過去日記を全読したので、サイコドクターの過去日記全読をはじめたが、長いのでなかなか終わらない。

 日記サイトは山のようにあるが、不特定多数を相手に文章を書く、という行為の「芸の差」は歴然としてある。この芸の差が「安定したおもしろみ」になる。別段、読者をおもしろがらせるために書いているのではなく、書きたいから書いているのだろうから、読みたい人だけ読めばいいのだけど。
 
  精神科医師サイコドクターは、「今から大精神科医として出世するのと、SF小説史に残る大傑作を書く才能をもらうのとどちらがいい?って、神様に聞かれたらどうする」と問われたら「SF」と答えそうな雰囲気がある。というか、文学演劇にシンパシィがある文章と、そうでない文章を比べたら、私の好みは明らかで、絶望書店の過去日記は全部読めたし、サイコドクターの過去日記も、もうすぐ読了する。

本日のそねみ:妄想世界に生きることのできる幸福


2003/03/20 木 曇り 
ニッポニアニッポン事情>開戦卒業式

 90年湾岸戦争開始の日、私は日本語学校のクラスで、留学生たちが「開戦までカウントダウン」をするのを聞いていた。

 今日のイラク攻撃開始、湾岸戦争以上に戦争はテレビの中にあり、私の生活はいつもの通りのぐうたらで、いつものとおりのしまりのない一日。小泉のしょうもない記者会見をテレビでみたくらいで、ミサイルも弾丸も、ただテレビのなかにある。テレビと新聞がなければ、いつもの一日。

 でもね。この日記は一応22世紀まで子々孫々がつながって、我が子孫たちが読者となるという前提で書いている。もしかしてこの日が「だれかがボタン押しちゃった。あ~あ、押してみたかったのね」という日の始まりになるのか、と思うと、絶望というわけで、今日も絶望書店の黒薔薇と日記を読んで終わり。

 ベランダから世間を眺むれば、本日も日本は平和なり。団地中学校卒業生が胸に造花つけ、手に卒業証書の紙筒もって中央広場で記念写真のとりあいっこ。団地とその周辺のご近所仲間に別れをつげ、これから君たちは偏差値で振り分けられたコーコーに行くのね。

 息子の中学校卒業式。校長の告示はさっさと終わってよかったのに、学長代理の祝辞がやたらに長くて空疎。
 在校生席では、ミニ軍事評論家やら、ミニ国際関係評論家やらが、各自空爆作戦論評を展開し、おしゃべりタイムができてよかったとか。

 「先輩、高校へ行っても、僕たちのこと忘れないでください」とか言って、泣いてみようか、という在校生イベントは、結局だれもやらなかったというが、そりゃまあ全員進学の中高一貫校の中学卒業式で泣けるやつはえらい。

本日のうらみ:イラクの民は爆撃に泣く


2003/03/21 金 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』

 午後、娘と『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。

 『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
 プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。

 この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。

 あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。

 全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。

 老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
 ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。

 しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
 息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
 ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。

 この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。

 さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
 無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
 たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
 ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。

 また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
 それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。

 ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。

 そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
 しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。

 「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
 山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。

 「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。

 ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。

 「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。

 「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
 まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
 妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。

 トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。

 さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。

 「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。

 日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。

 現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
 この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。

本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品


2003/03/21 金 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『メルシィ人生Le placard』

 午後、ヒメと『マドモアゼル』と『メルシィ人生Le placard』を見た。

 『メルシィ人生 ル・プラカール』は、フランスらしい「エスプリのきいた人生讃歌」ってとこ。笑えた。
 プラカールには、日本語カタカナ語でいうプラカードの意味の他に、フランス語では戸棚の意味もあると、私がもっている「大学1年の仏和辞典」には出ているんだけど、もっと大きな辞書でひいたら、プラカールの持つ隠語の意味とかでているんだろうか。ゲイを意味する隠語とか。

 この映画が伝達する重要事項。アイデンティティ形成には「他人の視線」が影響するものであり、他人の視線を受けることで、自己像は変容する。

 あらすじ。ピニョンはフランスのコンドーム製造販売会社経理課平社員。ハンサムでもなく出世することもないとりえのない男だが、美人の妻と結婚できたことが唯一の「人生の勝利」だった。しかし、妻は失恋の痛みを忘れるためだけに結婚したので、今は一人息子を連れて、ピニョンとは離婚している。息子はダメ父を完全に無視し、バカにしていて、離婚後も定期的に面会するという約束は息子によって破られ続き。

 全社員記念撮影があった日、ピニョンは人員整理のために突然、解雇されるらしいことを知る。ピニョンにとって、息子に養育費を送るだけが人生の支えなので、解雇されたら生きていく意味もない。マンションのベランダから身投げしようとして、隣に越してきた老人に止められる。老人は、20年以上昔ゲイを理由に解雇された思い出をもつ。

 老人の入れ知恵で、ピニョンは「ゲイ・カムアウト」する。コンドーム会社にとって「ゲイを差別し解雇した」ということが世間に知れたら、決定的なダメージを受けてしまう。そこで解雇は撤回。
 ピニョンはいくら解雇回避のための方便とはいえ、ゲイのふりをするのは苦痛だ。「ほんとうの自分ではない」から。

 しかし、会社の意向でゲイパレードに参加するはめに。ピンクのコンドームを頭にかぶり、山車の上から手をふる。周囲の人は、平凡で何のとりえもないと見なしていたピニョンが突然「特別な存在」になったので、さまざまに反応する。
 息子は「自分の妻にも愛想を尽かされ、離婚させられたダメ父」と思ってバカにしていた父が、「ほんとうの自分を臆さず世間にさらし、誇りをもって山車から手をふるゲイ」であったと見直す。
 ラグビー部の監督をつとめている上司、経理課の女性上司。皆、ピニョンへの視線を変化させる。ピニョンは生まれて初めて「他者から注目を集め尊敬さえされる」という経験をする。

 この経験がピニョンを変化させる。うじうじと未練を持ち続けてきた元妻に対して、決然とほんとうの別れを告げる。自分の成功のせいで、経理課から解雇されることになった女性上司をかばって、彼女の解雇撤回を勝ち取る。そのおかげで、彼女はピニョンをみなおし、愛するようになる。というハッピーエンド。

 さて、他者の視線の変化に反応して、自信をとりもどし、「なんの取り柄もないダメ父ダメ社員」から変容できたピニョン。
 無論、人は他者との関わりの中で、アイデンティティを築き上げるのだから、「みんなの見方が変わったのでピニョンが変化した」と見ることも可能である。が、私はそれ以上にピニョンにとって重要だったのはゲイパレードで受けた大衆からの視線と思う。
 たぶん、ピニョンはそれまでの人生で、これほど多くの人に注目された経験、多くの人の視線を受けたことがなかったのではないか。
 ゲイとして、頭にコンドームの帽子をかぶって山車に乗ることを、「恥ずかしいこと」と、思っていたピニョン。しかし、息子の評価が変化したことからわかるように、「大勢の視線を集めることができる者」は、現代ではそれだけで「価値もつもの」として、特権的な存在になりうるのだ。注目されうる自分の存在を自覚できるかどうかは、アイデンティティ変容にとって大きい。とくに、一度もその経験をもたなかった者にとって。

 また、もうひとつの変容の契機は、駐車場でおそわれて怪我をしたこと。犯人は「ゲイを嫌悪する人たちの誰か」と、見なされる。「自分を正当な理由なく排斥しようとする敵」から、肉体的な攻撃を受けたとき、彼の意識は変化する。
 それが、理由なく解雇されることになった女性上司のために、体をはって解雇撤回を申し込むエネルギーを生む意識なのだ。

 ピニョンの怪我は、彼の意識の変化にとって、精神的スティグマとなった。スティグマを負うピニョンは、またもや他者から聖別され、「他者とは異なる自分」を確認することができるようになったのである。

 そしてさらにもうひとつ。ピニョンは、「ゲイ」のふりをすることが最初はイヤだった。彼自身がゲイに対して「普通じゃない人」と、いう認識を持ち、「差別されてきた側」の人に自分を「落とす」ことがいやだったからだ。
 しかし、自殺しようとした彼を助け、解雇撤回の知恵を授けてくれた隣の老人自身がゲイであることがわかり、ゲイパレードに参加したことで、変わってくる。

 「かってはフツーとは違う人たち」と思っていたゲイの側に自分を置いてみてはじめて、差別の視線を受けることの意味が体感できてきたのではないか。
 山車の上で手をふるピニョンは、初めて人の注目をあびたための「はにかみ」を浮かべているが、卑屈になったり、恥をしのんでいたりはしていない。「差別を受ける側」に身をおいたために獲得した何ものかが、ピニョンを変化させたのではないだろうか。

 「なんの取り柄もないもの」の、もうひとつの個体が隣のネコ。隣の老人が飼っている子猫。これという特徴のない、「灰色で、髭があってニャアと鳴く子猫」である。その猫がいなくなり、ピニョンは老人のために探し出してきてやる。もしかしたら、ペットショップで買ったのかな。

 ピニョンが老人に猫を渡したとき、いなくなった子猫が戻ってきて、「灰色でニャアと鳴く子猫」は二匹になる。一匹は「老人と個人的な関係を結んだために、老人にとっては特権的な地位をもつようになった特別な猫」である。もう一匹は「なんの特徴もないために、老人の猫と区別がつかない平凡な猫」である。たぶん、老人はこの二匹を差別することなく、今度は「特別な二匹」としてかわいがるだろう。

 「ナンバーワンではなく、オンリーワン」と、脳天気に『一つの花』を歌っている人たちのための、バーチャルシネマ。まったく同じにみえる子猫がどんどん増えていって、部屋中ぎゅうぎゅう詰めになる中で、途方にくれる老人の姿、というシーンを加えたら、私のこの映画への評価はもっと高くなったかもしれない。

 「平凡でなんのとりえもなく、特徴もないけれど、私と特別な関係を結んだためにオンリーワン、またはオンリーツー」の価値を持った存在になることができる。さて、まったく同じものが千,一万、百万とあったら、それはオンリー・ミリオンとして認識できるのか。
 まあ、老人の孤独を癒すにはせいぜい2匹がいいとこかも。
 妹スモモは10匹くらい飼っている。作家笙野頼子は、20匹くらい、ダンサー長嶺ヤス子は30匹くらい飼っているらしい。もっと増えたかな。

 トリビアリズム感想。会社の同僚上司に「さえない存在感ゼロの経理係」と思われ、自分でもそれを納得していた映画の冒頭。会社の記念写真をとるときに、ピニョンは画面からはみ出し、自ら気弱そうにカメラワークからはずれる。ラストシーンで、またもや画面からはずれそうになったとき、ピニョンは力ずくでカメラに入る位置を獲得する。このときカメラワークからはずれてしまったのは、ピニョンを「ですぎたまねをする奴」と嫌って駐車場で襲撃してきたゲイ嫌いのふたりである。

 さて、この「全社員による記念撮影」のシーンで「えっ?フランスの会社でも、こんな記念撮影するのかな。日本の会社みたい」と思った。そしたら、やっぱりね。このコンドーム会社は日本の相模ゴム工業のフランス子会社の工場を使って撮影したのだと。

 「工場視察」に来て、ピニョンと女性上司の「二人で協力して製品検査実施中!」の現場を視察してしまう「アジア人顔の視察団」は、日本人から見ると日本人ぽくなかったから、中国か韓国人の視察団かと思ったが、あれは「フランス人からみた日本人像」だったのだとわかった。

 日本の子会社という前提があるから、「全社員記念撮影」というパロディが効いてくるのだろう。あんなふうに全員で並んで、どいつも同じようにしか見えない記念撮影。なんのとりえもなく、他の社員から区別することもできない顔だったピニョンの記念写真。映画のラストでは、私たちはピニョンを区別できる。「特別な顔」として。

 現実問題として、日本でゲイをカムアウトしたら、「ゲイだから」という理由は徹底的に隠されたまま、他の理由をつけてなんとか上手にリストラする方策がとられるだろう。
 この映画のように、ゲイを差別することが直接企業イメージを下げてしまうコンドーム会社ではなく、フランスの鉄鋼会社とか他の企業だったら、ゲイ差別がイメージダウンになることを利用した解雇撤回闘争が成立するのだろうか。知りたい。

本日のねたみ:私の「マツモトキヨシお買い物予定」のリストに入ってない製品 

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20150322
 それにしても、今よりずっと毎月なんかしら映画を見ていたなあと思います。ままならぬ現実から、映画館の暗がりに一種逃避をしていたのだろうと思います。
 映画が続く2時間の間は、「嘆きの母」を忘れていられる。

<つづく> 

コメント (2)
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ぽかぽか春庭「2003年のホラー」

2015-03-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150324
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記3月(4)2003年のホラー

 2003年の三色七味日記再録を続けています。
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2003/03/12 水 晴れ
日常茶飯事典>ホラー苦手

午前中、Aダンス

 宗教も死後の世界も信じていないのに、いまだにテレビや映画のお化けがこわいのはなぜなんだろう。幼児期のすり込み?
 「シックスセンス」も本当にこわかった。世の中にはホラー大好きって人も多いけどなあ。豊島園のミステリー館に懲りた。後楽園のおばけ屋敷はなんとかしのいだけれど、ディズニーランドのホーンテッドマンションには入ったこともなく、ホラーとは無縁に生きているのだから、このまま、おばけには会わないで暮らしたい。

 学校の怪談、どの学校にもトイレの花子さんや、夜中にひとりで笑うベートーベンの肖像がかかっている音楽室がある。昨日の理科の時間から誰も入室していないのに、位置が変わっている人骨模型とか。
 ああ、私、やっぱり校長が首つり自殺した小学校に赴任できない。小学校教諭の資格は持っていないから、勤務できないんだけどね。

本日のうらみ:日本全国、ここの土地には自殺者もいない事故にあって死んだ人もいない、なんてとこはないんですよね、、、やすらかに、校長先生


2003/03/13 木 晴れ
日常茶飯事典>手紙返信

 手紙の返事を書く。井詩子さんへの返信、原稿用紙にすると40枚という長編となった。要するに読者がいると思うと、私は書きたくてたまらないのだ。
 本の話、映画の話。元数学科教諭の井詩子さんへ、息子が数学ができなくて困っているという愚痴話。
 一日中、本を読んでいたい。一日中ワープロに向かってキーボード打っていたい。読むことと書くことだけして生活できたら、私の天国。読み書き、雑学、散歩とうたた寝。これが私の理想の生活。

 息子は、地理の成績があまりにひどいので、教官室へ呼び出しをくらった。出したと言っていた夏休みレポートは結局だしてなかったんだって。「これからはちゃんと宿題出しなさいっていわれた」そりゃ言われるだろうな。

本日のひがみ:来信は、夫婦仲良く旅行のお知らせ。返信は、勉強嫌いの子を持つ愚痴


2003/03/14 金 晴れ 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ハリーポッター』

 朝から、日本語教授法を書く。ステップ10まで進んだ。

 夜、『ハリーポッター』を見た。吹き替え版。息子は学校の英語の時間に英語版を見ている。40人のクラスメートの中で、英語の原作を読んだ者、静山社の翻訳を読んだ者、ロードショウ公開時に映画館でみたもの、ビデオでみたもの。社会現象にまでなったハリーポッターに、これまで全く関わってこないで、「学校で初めて見た」と、いうのは、息子くらいだったみたい。うちは、全5話そろってビデオになってから、一気に続けて見ようという方針だった。

 ほうきに乗ってやるホッケーみたいなゲームがおもしろかった。少年成長物語ファンとして、第1話だけじゃ「階段下のものおきで寝起きさせられている孤児が、突然魔法使いの出自を知らされ学校で修行をはじめる」だけだから、境遇の変化のほかに成長したのかどうかはわからなかった。何か重要な成長の契機を見落としたのかな。

 ファンタジーコアファンの人には、『指輪物語』は原作も映画も評価できるけれど、なぜ『ハリー』がこれほど売れるのかわからない、と言う人が多い。私も指輪のほうがだんぜん好きだが、ハリーはハリーでいいんじゃないかな、というのが原作読まずにビデオみた印象。

本日のそねみ:魔法使いになるにも、出自は大切なのね、家柄も人柄もない我が家は、、、、


2003/03/15 土 曇りときどき雨 
日常茶飯事典>舅一周忌の伝統芸能

 11時まえに家を出るはずだったが、身支度をはじめてみると、あれがない、これが見つからないと大騒ぎ。「だから、昨日のうちに準備しておきなさいといったでしょ」と言いつつ、ばたばたと着替え。
 娘は、去年の春買った黒のスーツ。中のブラウスのボタンがぱっつんぱっつんで「勝手に服が小さくなった」状態だったが、上に上着を着てしまえば、たいして目立たない、ということにした。
 息子のスーツはズボンのすそがつんつるてんになっている。あとでスソをおろすことにして、今日はつんつるてんのまま。「雨だから、スソがぬれなくていい」ということにした。「来年の卒業式にも着るんだから、背は伸びてもいいけれど、太ったら着る服がないよ。せっせとプールで泳ぎなさいよ。」と申し渡す。
 私の上着も、もちろんボタンがはまらないが、まあ、もともと太っていたんだから、仕方がない、ということにした。
 それで出かけようとすると、今度は娘の黒い靴が見つからないと玄関でおおさわぎ。まったく準備の悪い一家だこと。

 舅の一周忌と納骨。読経の坊さんは、この前の戒名授与のときの人とはまた違う。いろんな僧がアルバイトで順番におつとめをしているらしい。何家の誰の法要かということも知らない。受付の人が、それくらいは坊さんに連絡していると思ったのだけれど、そういう連携もなく、受付は受付のアルバイト、読経坊主は読経のアルバイトらしい。

 ま、こちらも「ご用意されているお位牌やお写真を、どうぞ正面に」と言われても、夫も姑も「位牌も写真もありません」と言う。姑が「それでよし」としているんだから、私はなんでもよし。

 この前の、戒名授与のときのメンバーに、姑の甥、舅のいとこが加わっただけだから、お焼香もあっという間におわってしまった。法事に呼ぶべき舅の親戚たち、82歳の舅の死を「まだ若いのに先立ってしまって」と、嘆いたという舅の兄、姉たちだ。90歳を越えているので、田舎から東京へ出てくることもできない。「うちわだけで行います」という連絡だけして、東京にいる親戚だけの法事。

 今回は読経だけで、坊主の説教はなく、読経を「伝統芸能」として楽しんでいればよかったから、居眠りもしなかった。そのかわり、朝ご飯も食べずに出てきたので、おながかぐうぐう鳴った。

 実家の曹洞宗のお寺の読経とは、いろいろ違う。
 鎌倉時代、武士層や農民層に仏教がひろまったときに、武士や農民がもともとが持つ芸能の好みが、読経声明のメロディに影響しているのかどうか、知りたいと思った。浄土真宗、一向宗などが受容された地域に固有であった田楽とか、神楽歌とか、相互に影響しあっているんじゃないのかなあ。

 説教節や念仏踊りが、仏教から生まれた芸能であるということはよく知られているが、仏教の声明や念仏読経が芸能側から影響を受けて変化していく過程を、各宗派の読経メロディ、御詠歌の比較からできそうなものなのに。音楽学をやっている人で、そんな暇そうなテーマ、やっている人いるかな。
 と、仏教芸能史をネタに、あれこれ「下手の考え休むに似たり」をやっているうちに、本堂読経の部は終わり、納骨室にお骨を収めて焼香して全部終わり。
 姑と夫の「完全無宗教感覚」にあっている一周忌ができて、よろしかったんじゃないだろうか。形式は仏教だが、完全ビジネスライクなコンピュータ制御納骨堂と、アルバイト感覚の読経。

 仏教が「儲け主義、お布施稼ぎの堕落」などと批判を受けて久しいが、ここまで徹底して「お墓産業、葬式産業」としてビジネス化すれば、かえってスッキリする。経営母体は真宗のお寺。一応、宗教法人。

 一同、タクシーで移動。白山の五右衛門で、湯豆腐精進コース。炭火長火鉢がふたつなので、暑かった。突き出し、田楽、揚げ出し豆腐、ごま豆腐、あえもの。湯豆腐がメイン。茶飯とみそ汁。ヒメの感想、「豆腐精進コースのデザートは豆腐チーズケーキか、豆乳プリンかと期待したのに、みかんひとつだけでがっかり」

本日のつらみ:豆腐コースデザートには、豆乳プリンを!


2003/03/16 日 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『恋に落ちたシェークスピア』

 百円レンタルビデオ『恋におちたシェークスピア』を見た。
 アカデミー賞7部門獲得というコスプレ映画。私、基本的にコスチュームプレイ好きです。ストーリーがつまらなくても、衣服や装置を博物館感覚で見ていれば楽しめる。
 「ビバ演劇!いやぁ、芝居って、ほんとすばらしいですよね」みたいな。ストーリーはおまけ、って思うくらい、どうでもいいようなものだったが、この時代の町中や居酒屋の雰囲気は出ていて、よかった。
 でも、この衣裳や室内装飾とか、考証家からみたら、元禄時代に文化文政期の髪型だったりするって程度のものなんだろうか。それとも、これぞまじりけなしのチューダー朝ファッションだったのか。ま、私にはチューダー朝もスチュアート朝も、違いがわからないからよしとする。

 『ロミオとジュリエット』を執筆するときに、シェークスピアは、芝居好きの新興ブルジョアの娘ヴァイオラと恋をしていたという話。シェークスピアに恋している娘ヴァイオラは、ウェセックス卿夫人となるよう、親に結婚を決められ、シェークスピアとは「結ばれることのない恋」でした。(実在のシェークスピアは、年上金持ち未亡人だった恐妻に頭が上がらなかったらしいです)

 ヴァイオラはどうしても役者になりたくて、男装してロミオ役を演じる。当時の芝居のお約束で、少年が女装してジュリエットを演じる。歌舞伎の女形と宝塚の男役が共演するような倒錯ぐあい。
 フッフッフ甘いね。日本だったら幸四郎が女形で、松タカが宝塚男役で、アンドロギュヌスの染五郎がからまって3Pくらいやらないと倒錯にはならない。どうだ、シェークスピアよ。まいったか。

 話がずれた。シェークスピアである。
 この映画では肝心の本番前に、この少年女形は声変わりして女声が出なくなっちゃうのだけど、声変わりしても、っていうか、80歳すぎてもちゃんと女役ができる歌舞伎の勝ちだね。どうだ、シェークスピア、勝ったぞ。勝ってどうするってこともないが。
 でも、江戸時代女形の最高齢役者って何歳だったんだろう。私の印象では女形ってものは、化粧の鉛毒でみんな若死にするような気がしていたが。さらに話がずれた。戻るクリック。

 芝居小屋に、エリザベス1世が突然現れたりする。
 エリザベス一世の女優、晩年の大女王という感じが、よかった。幼い頃姉にいじめ抜かれて性格ひん曲がり、権力握ってからは周りに男を侍らせてあらゆるプレイを試みた結果、こんなすれっからしの出し殻ばばぁみたいな顔になったけど、実はまだまだベッド現役です、という雰囲気を出していて、いい味。
 女王が馬車に乗るとき、乗り口の前に水たまりがある。周りの男どもが一瞬の躊躇ののちマントを差し出すのを待たずに、「遅すぎる」といいながら乗り込む姿は、絶対君主とはかくあるべしという感じ。
 日本だって、テレビの中では黄門様は津々浦々旅するし、八代将軍は江戸の長屋や芝居小屋にも出入りしているから、エリザベス1世がシェークスピアの小屋に出入りしたいのなら、出入りを許す。

 でも、いくら美女が男装していたとしても、自分が恋こがれている娘が、髪を男のような短髪に変え、髭を蓄えたからといって、その顔を見て、自分の恋している娘だとまったく気づくことがないものなんだか。シェークスピアは「長い髪と髭のない鼻の下」に恋をしていたとでもいうのか。というのが、ツッコミどころでした。ヴァイオラの顔は適度に知的で、すてき。
 シェークスピア役の男優は、なんか品のない女たらしの顔をしている。居酒屋で殺されちゃうライバル劇作家の方が、傑作を書けそうな人だった。

 ヴァイオラと引き裂かれたシェークスピアのその後。ヴァイオラから創作のヒントを得て『十二夜』を書いた、ということになっている。
 ヴァイオラのその後。バージニア州の農園に投資して失敗したウェセックス卿を助けんとし、ヴァイオラの父親は、莫大な資金と共にヴァイオラをアメリカに送る。映画は、ヴァイオラが海岸を内地に向かって一人で進むというシーンで終わる。

 ヴァイオラは、新天地で彼女が望んでいたような生き方ができたのだろうか。ラストのイメージでは、「シェーン、カムバック」の声に送られて、アラン・ラッドが荒涼とした砂漠地帯に馬を進めていくのと同じような、死に向かって進んでいく絵柄だったのだ。

 ヴァイオラの男装している服の中に、ジョン・ウェブスターが鼠を突っ込むシーン。ヴァイオラは「きゃーキャー」と大騒ぎして鬘がとれ、男じゃないことがばれてしまう。あそこで鼠ごときでキャーキャーわめかずに、落ち着き払ってしっぽをつかんで、ジョンの口の中に鼠をねじ込んでやるくらいの気概があったなら、ラストシーンも変わってくるんだろうなあ。
 南部プランテーションで黒人奴隷を容赦なくこき使う女地主として、絶大な勢力をもち、エリザベス一世宮廷以上の豪華なサロンの主になって、芝居を上演させて晩年を過ごすというような。
 でも、鼠で逃げる女は、結局「新天地、天国みたいな海辺だが、そこは地獄の一丁目」に進んでいくような、せつないラストシーンにするしかないだろう。

 エリザベス朝イギリスが舞台でも、アメリカ映画なんだから、女が毅然として男に勝ってはいけないのだ。ジャンヌ・ダークも、最後ははかなく殺されなくてはならないのだし。
 やっぱり、江戸歌舞伎戦闘美少女より強いキャラはそうそう登場しない。またもや歌舞伎はシェークスピアに勝ち点3。

 ジョン・ウェブスターが「上昇志向持ち貧民層代表」のような役柄で狂言回しに使われている。横文字名前に弱い私は、このどぶ鼠をいたぶっておもちゃにしている小汚い坊主が、後に「ウェブスター辞典」を編纂したのかあ、と思って見ていた。

 ところが調べてみれば、辞典の方はノア・ウェブスターで、ジョン・ウェブスターとは、国も時代も違う人だった。思いこみが強いので「ウェブスター辞典はシェークスピア時代に編纂された」などと、学生に知ったかぶりで吹聴するところだった。
 ジョン・ウェブスター作『マルフィ男爵夫人』という戯曲を、円が上演したことがあるというのだが、私はまったく知らなかった。
 
 なんでもネットで確認できる時代になって、自分の無知蒙昧を日ごとに痛感することができ、ケンキョになれてよい傾向だ。

本日のそねみ:映画には出てこなかった、シェークスピア夫人。私も「資産持ち未亡人」になりたかったが、「金なし自由業の見捨てられ妻」である


2003/03/17 月 小雨ときどき曇り 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『真夜中のカーボーイ』

 午後、真夜中のカーボーイをまた見てしまった。暇がないと言いつつ、テキスト書きはほうっておいて、テレビをつける。日本公開時にみたのは、70年か71年か忘れてしまったけれど、その後もテレビで何回か見ているのに。

 やっと、あこがれのマイアミに着いたのに、バスの中で死んでしまうダスティン・ホフマンの姿に、今回もしみじみしながら、わたしもマイアミにたどり着けないんだろうなあ、と思う。たぶん、「マイアミにはたどり着けない仲間」を確認するために、この映画をテレビでやるたびに見てしまうのだろう。

 私のばあい、めざしてせいぜいハワイのワイキキ、ハワイめざしてたどり着けるのは、せいぜい常磐ハワイアン。そんなところが関の山の人間であるのに、未だにマイアミへ行くんだ!と思いたいところが私の思いきりの悪いところ。

本日のひがみ:喫茶店マイアミでアメリカンでも飲んでいるのが関の山


2003/03/18 火 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『四月物語』

 土曜日に借りた『四月物語』を見た。娘が岩井俊二&松たかファンなので。

 松たか?木村拓哉を省略してキムタクと言えば2文字のショウエネだが、松たか子をマツタカと省略しても1文字減っただけなのに、それでも省略するのは、「私はこの子をよく知っているんですぅ」と主張したいためという。私にはそこらのファン心理はわからん。

 冒頭、幸四郎一家勢揃いで、東京に出る娘を見送る。しかるに、あの一家だったら、ほんとうは一家全員そろって引っ越しに参加するんじゃないかな、というイメージが先行するので、ワンシーン、エキストラでもいいから他人で一家をそろえた方がよかったと思う。

 幸四郎夫人、映画初出演おめでとう、これであなたも女優の仲間入りしていたのね。「高麗屋の女房」で作家になったのと、どちらが先だったのか。

本日のねたみ:はい、私は「染五郎とともに」を毎週欠かさず見ていた先代染五郎かくれファンでした。高麗屋女房うらやましいぞ

~~~~~~~~~~~

20150321
 四月物語に出てくるような理想的な仲の良い家族。私もそういう家庭が営めるのかと思っていたのだけれど、夫は家によりつかない、娘と息子は母親に反抗三昧という一家をしゅくしゅくとやっておりました。姑もこのころは未亡人生活を楽しんでいました。
 干支がひとまわりして、娘も息子も反抗期がすぎ、おだやかな毎日になったら、姑の介護が一家にのしかかる。人生とは、こんなものなんでしょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年のサイコドクター」

2015-03-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150324
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>三色七味日記3月(3)2003年のサイコドクター

 12年前のうさぎ年、2003年3月の三色七味日記の再録を続けています。
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2003/03/08 土 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>舞踏家大野一雄

 午後、ビデオにとっておいた「大野一雄 生涯舞踏家」を見た。土方巽と並ぶ舞踏のカリスマ大野一雄。

 2年前に舞台で転倒してから、脳梗塞、アルツハイマーを罹患、車いす生活に。痴呆もすすむ。若いときから父と共に踊ってきて、父の生活も舞踏もすべて理解してきた息子慶人は「日ごとに子供に返っていく」と言う。

 子供に戻るにつれ、生まれ故郷への望郷がつのる。「函館に帰りたい」という願いをかなえるため、たぶん最後の故郷行きになるであろろう函館公演が企画される。公演といっても、果たして大野が舞台でおどれるかどうかわからないままの企画だ。

 2003年2月2日に妹の弾く三味線と共演し、アンコールの拍手を受ける姿がハイライト。踊るといっても、車いすに坐り右手をひらひらさせたり、握った手をぱっと開いたりする動きを繰り返すだけなのだが、そこに生涯を舞踏につぎ込んだ存在感が凝縮され、圧倒的。崇高でさえあった。

 バレエ、モダンダンス、コンテンポラリー、ジャズ、ロック、ストリートダンス、民族舞踊、およそ舞踊は何でも好きだった私が、唯一感応しなかったのが舞踏である。市川雅さんの研究会に出入りしていた頃は、招待券をもらっていくつかの舞踏公演を見に行ったが、どうにも舞踏とは相性が悪かった。

 テレビ画面の中で手をひらひらさせている大野一雄は、ほんとうにその手のひらひらが生命そのものだよと表現しているような、すばらしい表現力を示しているのだ。それは96歳という年齢が獲得したものかもしれないし、アルツハイマーによる痴呆症状の進行という病歴が与えた奇蹟なのかもしれない。

 先日「徹子の部屋」でみた、100歳の銀座バー経営者、有馬秀子。頭脳明晰、端然とした美しさを保つマダム。100歳のバーマダムもいいと思ったが、大野の96歳、体は脳梗塞で動かず、頭は痴呆症で働かず、それでも踊る姿、こちらもすごい。

 私はまだ秀子、大野の半分の年齢。あと半世紀はがんばってみようと言う気になる。

本日のねたみ:大野、秀子の若さ


2003/03/09 日 晴れ 
アンドロメダM31接続詞>サイコドクターあばれ旅

 朝からネットサーフィン。駒込近辺に在住または職場があると思える精神科医の『サイコドクターあばれ旅』というサイトを見つけて、一日中読んでいた。

 SF小説の書評と、日常雑記と、精神科領域の事項解説が主なコンテンツ。なぜここへ行ったかというと、「物集高見」を検索したら、Googleの何番目かのところに「女性推理小説家大倉燿子の本名は物集芳子、物集高見の妹」ということを記述した読冊日記というのがあり、トップページは「サイコドクターあばれ旅」だった。

 こういう、なぜ、ここへたどり着いたのかわからないというご縁は大切だよなあと、勝手に縁をつけて、やるべきことをしないでだらだらと読んでいく。読む方はだらだらでも、中味はとても面白かった。けっこう笑えるところがあったし。

 期末試験をなんとか終えた息子は、2時から6時まで4時間ゲームを続けた。昨日の午後、新しいソフトを買いに行ったのだ。勉強は5分で集中力がとぎれるが、ゲームは10時間続けてもいいのだと。
 昨日、娘と息子は「休日恒例、ゲーム屋古本屋めぐり」に出かけた。ゲームソフト屋を何店かめぐり、古本屋で攻略本をさがす。最後に図書館でCDを借りて、ひとめぐりが終わる。
 息子が買ったのは、『信長の野望』『太閤立志伝』。いったいいくつのバージョンがあるのやら。ゲームの中の地方の小さな土豪の兵力まできっちり把握する力があるなら、元素記号くらい覚えたらどうか、と言いたいが、言わない。また、喧嘩になる。

 息子、「歴史の試験が、戦国安土桃山時代限定だったら満点なのに」とのたまう。昔、くらげん、ひつじたちも「入試問題がFFだったら、どこでも入れるのになあ」と言っていたっけ。ゲームがこれだけ社会に浸透しても、未だに「入試問題がドラクエ、FF、ポケモンの三科目」というところはない。そりゃそうだね。
 試験科目が「ゲームトリビア」だけならよかったね、っていったら、息子、「ぼくの学校、ゲームの裏の裏まで知り尽くしているヤツ、ゴロゴロいるから、僕、どうせ最下位」

本日のうらみ:ああ、サイカイ、サイですカイ

2003/03/10 月 晴れ
トキの本棚>『キャラクター小説の書き方』

 大塚英志の『キャラクター小説の書き方』を立ち読みして、帯やあとがきに、この本がこれまでの「小説の書き方」のたぐいと、どれほど違って画期的か、なんてぶちあげてあるので、おおいに期待して買ってしまった。

 種本は『ハリウッド脚本術』である、とうち明けてあるのは正直でよろしいが、最後の方になると「とにかくたくさん先行作品を読め」という結論におちついたので、「いたいけな青少年に780円も出させて、小中学校の国語教師が耳タコで言っている言葉をくりかえして終わりはないよなあ」という気になった。ま、いたいけな青少年はこんなハウツーは買わないからいいか。

 この本の読者層はコバルト文学新人賞でもねらう中学生高校生かと思ったが、実際の購入層は、オタク理解に苦しむオバハンだけかも。ゲームとゲームノベライズしか読まない息子が、何考えて期末試験に5分間も勉強しないでいるのか理解できないと悩むオバハンその他。

 久美沙織の『ドラクエ』ノベライズも全部読んだことがないけれど、久美の文体はパラパラと拾い読みした限りでは、子供に読ませて大丈夫と思える文章だった。しかし、他のゲームノベライズはページをところどころ拾い読みしただけで、あんまりな文体なのでげんなりし、もっと文章力つけてから小説書けよなあという気分だけが残る。

 大塚のハウツーを読んで、ちゃんとノベライズが書ける作家が出ることを期待しよう。

本日のつらみ:「たくさん読め」なら、私でも書ける

2003/03/11 火 晴れ 
ニッポニアニッポン事情>お悔やみ記事

 社会面下欄の死亡記事。年齢や死因、経歴をさっと読む。功成り名を遂げ90才すぎの大往生。40代50代で現役で仕事をしている人の死因は、癌か自殺が多い。子供や配偶者が有名人だと、だれそれの母とか妻とか出る。昨日の朝日夕刊死亡記事、目にとまったのはふたつ。

 一人は56才。民間出身者の校長登用で話題になった、広島県尾道市立高須小学校で、広島銀行東京支店副支店長から転身した校長が、校舎脇非常階段で首つり自殺。去年の4月に校長になって1年。
 民間出身者の学校運営は、今のところ、うまくいった話を聞いたことがない。教育現場を知らず、営利を目的としてそれまでの人生を歩んできた人が校長になったとき。会社の論理をあてはめ、効率主義能率主義で改革を押し進めようとする校長は、たいていつまずく。教員室からの反発を受ける。

 高須小校長は、午前中保護者と花壇整備をしていて、正午から姿が見えず、午後1時10分に学校で首つり自殺。鬱になった人に「ちゃんと死ぬ場所を考えて」なんて言っても無駄なんだろうが、一度は「小学生のために」と小学校校長を引き受けたのだから、これから毎日通学する小学生のことを考えて、せめて自宅で首をつるなりしてほしかった、といったら、死者への冒涜にあたるのだろうか。

 学校の運営を本当に真剣に考え、1年間心を砕いた人であるのだろうと察する。いいかげんにやり過ごせる人なら、死ぬところまで思い詰めないだろうから。でも、やはり、教育の現場に足を踏み入れたのなら、第一番に考えるのは子供のことにしてほしかった。私はこわがりだから、校長が首をつった校舎で4月から勉強するのはいやだ。

 いろいろなことが1年間つもりにつもって首つりまで追い込まれたんだろうが、教育委員会も、PTAも、何の助けにもならなかったのだろう。孤立無援だった校長の心が痛ましい。

 もうひとつの死亡記事。さつま白波という芋焼酎の会社で会長を務め、本坊酒造元会長という肩書きの本坊蔵吉さんが、3月9日、95才老衰による死去。その前日3月8日、妻貴代子さんが88才老衰で死去。これが本当に「老夫婦、共白髪まで添い遂げ、同時に天国へ」だったら、とてもすばらしい人生の最後に思える。

 でも、1日違いという偶然を考えると、ふたつの可能性がある。88才の老妻の死にショックを受けた95才の夫、衝撃のあまり脳や心臓に負担を生じ、翌日死亡。この可能性は高い。
 しかし、また別の可能性もある。95才の夫はすでに脳死状態で、かろうじて機械で心臓を動かしている状態。家族は自然死を望んでいるが、老妻はどうしても夫の死を認めようとせず、心臓の機械をはずしてやることを承知しない。88才の妻が死去してやっと、家族は心おきなく「もう、十分です。自然にまかせてください」と医師に頼むことができた、という場合。
 どちらにしても、老夫婦がいっしょに葬式を出せるのは、うらやましい添い遂げ方であろう。

 息子に「春休み中に虫歯治療に行かないなら、ゲーム禁止」と言ったら、ようやく歯医者に行った。95才まで共白髪で生きるにも、歯がないと、おいしいものも食べられない。

本日の負け惜しみ:歯だけは丈夫な私


~~~~~~~~~~
20150322 
 2003年にゲーム三昧の息子、「歴史の試験が、戦国安土桃山時代限定だったら満点なのに」と言った。12年たって、望み通りに、織豊政権に関する博士論文を執筆しようとしている。しようとしているが、執筆せずにゲームをしている。12年たっても、やっていることはたいして変わりはない。

<つづく>
 
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ミンガラ春庭「ヤンゴン出張」

2015-03-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150321
ミンガラ春庭ミャンマー便り>3月ヤンゴン出張(2)ミャンマー本

 ヤンゴン行きが決まったので、にわか勉強開始。
 私はぐうたら人間ですが、本を読むのは好き。今回もミャンマー赴任が決まったら、まずはミャンマーが出てくる本を古本屋で買ってきました。古本屋にあったのは、定価半額の「ミャンマー経済で儲ける5つの真実」と、100円本の「アジアパー伝」「アヘン王国潜入記」

 いや、別にミャンマーで儲けるつもりはないんだけれど、と思いながらも読んでみると、経済発展が急速に進むと予測されるミャンマーでひと儲けしようかという日本のビジネスマンにむけて、ミャンマー事情をおおざっぱに知らせる内容でした。ミャンマーの情勢を知る入門書的。

 「アジアパー伝」は、漫画家西原理恵子の夫、鴨志田穣(1964-2007)が、いきなりカメラマンに採用され、カンボジア内戦を取材したときの話。素人の鴨志田をカメラマンとして採用した「師匠」は、フリージャーナリストのハシダさん。
 橋田信介(1942-2004)、ベトナム戦争、カンボジア内戦、ビルマ動乱などの取材を続け、2004年にイラクのバクダッドで爆撃を受けて死亡。享年61歳。

 鴨志田穣は、内戦取材の極度の緊張をほぐすために飲酒をかさね、アルコール依存症に。
 妻、西原とは離婚。しかし癌になってからは、元妻の看病を受け、2007年死去。このへんのいきさつは映画『酔いがさめたら、うちに帰ろう』に描かれています。鴨を演じたのは浅野忠信。浅野ファンだったから、見ました。西原役は小泉キョンキョン。(と、おもいこんでいたのだけれど、永作博美でした。記憶にたよって書くと必ず間違える。検索確認必須)

 もう一冊。高野秀行『アヘン王国潜入記』。
 30年前、結婚後、娘は2歳。夫はチェンマイから山岳地帯の取材ができないかという気持ちでタイに出かけました。ゴールデントライアングルと呼ばれる、タイ、ラオス、ビルマ三国の国境奥地は、山岳民族が独自の生活を営み、アヘン栽培によって生活をたてていました。
 夫は、その山岳地帯に入ろうと誘われたのです。しかし、奥地に入る直前。日本に残してきた娘の顔が浮かび、潜入をあきらめた、と帰国後話しました。

 もし、このとき独身だったら、夫は山岳地帯に入ったかもしれず、その後、橋田信介さんや、長井健司さん(1957-2007 ヤンゴン取材中に射殺。享年50歳)、後藤健二さん(1967 - 2015年1月30日イスラム国により殺害)のように、戦争報道に命をかけるフリージャーナリストに、結婚前の希望通りに、なれたのかもしれません。

 でも、夫は私と結婚しました。娘の父親になりました。
 もし、夫が紛争地域危険地域というところに入って死亡した場合、私は橋田夫人や後藤夫人が毅然として夫の死を受け入れたようにはいかなかったことでしょう。泣きわめいて、政府対応の不備を非難してやまなかったかも。

 妹も友人達も、私が「夫を甘やかしてきた」と非難します。夫が稼いだお金は夫が自分のためだけに使い、子どもの生活費は妻が働いてほそぼそ支えるという家庭のあり方は、確かに妻側からみれば「家庭放棄の父親」なのです。でも、「夫が外で稼ぎ、妻が家事育児を担当して内助の功で支える」という家庭だけが家庭のあり方ではない、と思って過ごしてきたのも事実。

 30年前に戻って、戦場ジャーナリストになりたい、アヘン栽培地域に潜入したいという夫を笑顔で「じゃ、行ってらっしゃい、気をつけて」と送り出し、死体を引き取りに飛行機に乗る妻に私がなれたかというと、そんなことはない。「何もしてくれなくてもいいから、死なないで、父親として生きていて」と懇願したことでしょう。実際30年間、何もしてくれない父親でしたが。

 「夫を報道人として戦場に送り出すことができなかった妻」という負い目が、私を「夫に生活費を請求しない妻」にさせたのです。
 「ゴールデントライアングルを目の前にして潜入をしない」ことを決意したのは夫ですが、私と娘がいなければ、夫の人生は別のものになったのかもしれない、という思いがあったために、私は「夫は死んでないけれど、私は未亡人」という立場に自分を置くことになったのだと思います。

 でも、もし夫がゴールデントライアングルに潜入したとすれば、たぶん「最初に殺されちゃう人」になっただろうな。器用にたちまわることはできない人だから。

 娘息子が自立したら「はい、今日からあなたは自由人。戦場へでも火星へでも、好きな所に行ってね」と言おうと思っていたのですが、娘30をすぎ息子26歳になっても、母の細腕にぶらさがるパラサイトシングル。なかなか思う通りには人生すすみません。

 でも、とにかくパラサイトシングルを食わせていく仕事は確保しなければ。
 ヤンゴンは、暑い。しかるにとにかく下見だ。
 (まだインターネット接続事情もよくないというヤンゴンなので、ヤンゴン報告は帰国後4月にUPします。)
 
<つづく>
 
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ミンガラ春庭「ミンガラバー」

2015-03-19 05:00:01 | エッセイ、コラム

ヤンゴン市内シュエダゴン・パゴダ

20150328
ミンガラ春庭ミャンマー便り>3月ヤンゴン出張(1)ミンガラバー

 ミンガラバーというのは、字義どおりには、「あなたに吉祥を!」という意味です。学校教育用に制定されたあいさつ語。ミンガラは、仏教用語の「吉祥」です。最後のバーは、日本語の「です・ます」に当たる丁寧さをあらわすことば。
 通常、ミャンマーでは親しい人同士なら「元気?」とか「ごはん食べた?」くらいがあいさつ語で、型にはまったあいさつはしないほうが自然なのだそうです。ミンガラバーは、学校教育用に、先生と生徒がかわすあいさつとして作られた用語だということです。

 3月24日から30日まで、仕事の下見でミャンマー(ビルマ)のヤンゴン(旧ラングーン)に出張です。

 私の(そしてたぶん、おおかたの日本人の)頭に、ビルマと聞いて思い浮かぶのは、まず、「ビルマの竪琴」。竹山道雄の小説、そして市川崑による2度の映画化。映画好きの人なら「戦場にかける橋」、ゴールデントライアングルの麻薬栽培、麻薬王クンサー(地獄の黙示録)、社会主義軍事政権独裁。そしてアウンサン・スーチーさんの軟禁。スーチーさんのノーベル平和賞受賞。数年前からの民主化、自由化。

 それ以上に思い浮かぶ人がいたら、よほどのビルマ通ミャンマー通でしょう。
 まず、第一に、ミャンマー語ではビルマという国名はバーマと発音され、ビルマというのは、植民地時代に宗主国であった英語話者が作った国名である、ということすら、私は理解していませんでした。ミャンマーとビルマは、ニホンとニッポンくらいの発音の差であることは承知していましたが、ビルマの現地発音がバーマだとは知らなかったのです。

 バーマとミャンマーも、どちらも正しいそうです。ただし、ミャンマー族以外の少数民族にとっては、「ミャンマー族の国」のようになるのは不満で、それならむしろ英語訛りの「ビルマ」のほうが、どの部族の名もあらわしていないからマシ、ということにもなる。

 MとBの発音が相互に入れ替わることは、日本語でも起こります。冬の寒い朝、ドアから外に出たとき「さぶいっ」というか「さむいっ」というか。どちらの発音も「寒い」ということを表しています。

  この夏からミャンマーで仕事をすることになりました。日本の東大に当たる国立大学がヤンゴン大学。軍事政権下で閉鎖されていた国立大学が再開され、高等教育は徐々に進展してきました。しかし、「日本語、日本学」のカリキュラムはまだ大学内に整備されていません。
 ヤンゴン市内やその他の都市にも民間の日本語学校が開校されていますが、国立大学内の日本語教育は、まだまだこれからです。

 「ヤンゴン大学の日本語教育」を立ち上げるために、お手伝いすることになりました。
 3月の平均気温30度。最高気温は36度。シマシマの蚊にさされたらデング熱やらマラリアやらになるかも知れず、市内の病院では高度な手術などは受けられない、という条件のもとで、「行きます」と手をあげる人が少なく、ロートルの私にお話が回ってきました。

 若い頃から「虫もつかない」と言われてきた私なので、デング熱の蚊も避けて逃げるんじゃないかという気がしたので、両手をあげて「はい、私行きたい」とお話を受けました。
 どこでも寝られる何でも食べられるということだけが私のとりえと思っていたので、ほかに行きたい人がいないような仕事ならと、お引き受けしたのです。働き口があるなら、どこでもありがたい。

 ところが、下見出張の出発日は3月24日。姑が元気を取り戻して病院を退院し自宅に戻る日が3月23日。悩みはしましたが、今回ばかりは、「我が家の家計担当者は私であり、私が働かなければ、娘と息子が飢える」ということを姑にもわかってもらう努力をしました。
 20年前も今も、私が出稼ぎに出なければ、我が家の経済はにっちもさっちもいかないのだということを話しましたが、そんなことは姑の理解の範囲を超えていました。

 姑の思い込みの範囲では、男が一家の生計を担うのは当然のこと。自分の息子が家計担当を放棄していることなどありえないことです。
 しかし、我が家はそうではない。夫の収入は夫の会社を維持するためだけに使われ、家計費は私が働くしかなかった。20年前に私が中国に単身赴任したときも、そうする以外に収入の道がなかったからでした。が、姑は、「ヨメが働くのは、女性の自己実現のため」だと思っていました。

 なので、それ以来「ヨメが働くのは、自分の自由になるこずかいが必要だからだ」という思い込みを変えることはありませんでした。
 姑は自分のこずかいのためにパートをして働いたことがありますが、生活費は銀行員の夫が稼いでくるのが当然のことでした。その自分の経験をヨメにも当てはめ、それ以外に女性が働かなければならないことは「夫と死別か離婚でもしないかぎりありえない」のです。

 「女のほうが家計を支えるなんて、そんな結婚生活なら、離婚してるみたいじゃない」と、姑は言います。はい、その通り、家に戻らない夫の妻が、離婚しているのと同じ状態の夫の母親を入院させ、当初は毎日、病状が安定してからは一日おきに病院付き添いに通ったのです。
 90歳の姑に理解できないことを、無理矢理理解させることもない思い、とにかく退院に日には仕事があるから付き添えない、ということはわかってもらいました。

 3月23日月曜日は、教科書編集の会議最終日です。退院のお世話は息子娘にまかせて、私は姑の退院には付き添えません。

 24日火曜日の朝、成田からヤンゴンへむかいます。24日から30日までの1週間で下見をして、8月9月に2ヶ月間の赴任、そのあとは2015年12月から2016年3月までヤンゴンで仕事をすることになります。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の小さなお針子」

2015-03-18 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150318
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>三色七味日記3月(2)2003年の小さなお針子

 12年前のうさぎ年、2003年の3月三色七味日記を再録、つづけます。
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2003/03/05 水 曇り
ジャパニーズアンドロメダシアター>『中国の小さなお針子』

 午前中Aダンス。
 午後、私はひとりで渋谷へ。家にいると、勉強しようとしない息子にいらいらして、また暗い一日になりそうだから、前から見たかった『中国の小さなお針子』を見ることにした。

 行きがけに大盛堂の文庫店で津島佑子『快楽の本棚』と、『織田信長全合戦』を買う。
 「信長全合戦」は、ゲーム「信長の野望」に夢中の息子を、少しでも歴史記述へ向かわせたいという、切なる親ばかの買い物。ゲーム三国志にはまっている人が全員中国史に向かうわけでも、FFにはまっている人がみんなファンタジーノベル読者になることもない、とわかってはいるが。

 開演10分前にブンカムラの映画館に着いたら、150席くらいがほぼ売り切れで、私は142番だった。なぜ満席かというと、今日は映画サービスの日で、1800円の入場料が1000円だったから。
 前から3列目の席だが、それほど見づらくなかった。一番いやなのは、前に上背のある人が座って、頭が字幕を隠すとき。今回は、前の人が大きくなかったので、よかった。身長150㎝、日頃は高い棚のものを取ろうとするときに不便を感じるくらいですむが、映画館では影響大。

 中国の話だが、フランス制作なので、タイトルロールなどはフランス語だった。あとでパンフを見たら、原作脚本監督のダイ・シージエは、フランス在住の中国人作家。フランスでは原作が40万部のヒット。フランス語原題は『バルザックと小さなお針子』

 あらすじ。文化大革命中の71年。知識青年農村下放再教育をうけることになった19歳のマー(両親は文学者)とルオ(父親は歯科医)。過酷な村の労働に従事しながら、村の仕立て屋の孫娘、「小さなお針子」という呼び名の娘に、バルザックやフローベルの小説を読み聞かせることで、重労働やいつ帰れるとも分からない将来の不安に耐える。
 お針子の祖父は文学を知ることで孫娘がしだいに変化していくことに不安を感じる。実は仕立屋の祖父も「水滸伝」などの小説を好み、「違う世界を知る喜び」がわかる人なのだ。わかるから孫娘の変化が不安になる。

 ルオと恋仲になったお針子はバルザックの小説を知ることによって自意識に目覚める。ルオの子をみごもるが、25歳前の女性には結婚が許されない。
 妊娠を知ったら祖父はルオを殺しかねない。中絶せざるを得ないお針子を助けるために、マーは町の産科医をたずねて、非合法の中絶を頼む。産科医が自分も罪に問われるかもしれない手術をしてやる気になったのは、マーが服の裏に書き留めたジャン・クリストフのことばを読んだから。翻訳者がマーの父親だとわかったからだ。
 産科医が「名訳だ。文体でマーの文だとわかる」という言葉を聞き、マーは泣き出してしまう。私はこの場面が一番好き。この「文体」がマーにとって「父の存在」であり、文化であり、自分を育てた環境への思いの凝縮なのだ。文体の力。

 そして、言葉の力はお針子を変える。中絶によって「自分が今までと違う人間に生まれ変わったような」思いを経験したお針子。中絶という過酷な身体経験によって自意識を裏打ちされ、お針子は村を出ていく。自分で自分の人生の運をためすと。
 ルオもマーもその決意を止めることはできない。もし止めたりしたら、自分たちがここから出ていけるかもしれないという望みも、否定することになるだろう。お針子をこの村に縛り付けることは、だれにもできないのだ。

 27年後、村はダム建設で水底に沈む。中国トップクラスの歯科医となったルオと、フランスでバイオリニストとして活躍するマーは上海で再会し、お針子とすごした日々を回想する。マーは82年にお針子が深釧に居るという話を聞いて探したが、香港へ行ったらしい、といううわさだけしかわからなかった。

 学校に行く機会がなかった少女が、都会にたった一人で出ていって、どんな人生をたどったか。彼女が幸福に暮らしたという描写がないということは、悲惨な末路をたどったことを暗示するのだろう。
 それでも、彼女が「自分の人生を自分で決定した」ということに、この映画の最大の輝きがある。たぶん、未熟な決定だったのかもしれない。もう少し待って、もう少し学んでから出ていったなら、違う人生もあったろう。18歳の彼女が7年待てば、結婚が許される25歳になり、ルーかマーと結婚するチャンスを得たかもしれない。でも、その青春の7年を彼女は自分の決断で自分のものにしたのだから、だれも何も反対はできない。その7年間は彼女のものだし、それから先の人生も。

 タイトルロールがフランス語だったので、残念。漢字バージョンも作って欲しかった。
 2002年カンヌ映画祭ある視点オープニング作品。『村の郵便配達』は、見ようかどうしようか迷っていたが、息子役はマーを演じたリュウ・イェだというので、それじゃ、見に行こうかという気になった。

 ことばの力を再確認することができる映画のひとつ。

 映画が終わって、ブンカムラ通りを駅に向かい、ブックファーストに入る。いつも大盛堂にいってしまうので、ブックファーストに初めて入った。大型書店が渋谷に開店したというニュースは以前に見たのだが、駅からは大盛堂のほうが近いので。

 何を買う予定もなかったが、店員の質はどうかと思い、児童書コーナーに行って「正確なタイトル忘れたんですけれど、ラングの童話集ありますか。なんとか色の童話集っていうんですけれど」とたずねると、すぐ「こちらです」と案内してくれた。
 これなら、買う気になるね。本屋の店員が、作家名も書名も何も知らずに、どこにどの本がおいてあるのか、まるでわかってない本屋で買うのはいやだ。大盛堂より、広さがあるので、この次はこちらで本を探そうという気になる。スケールメリット。

 池袋は、西武リブロは各フロアが別々なので、一冊だけ目的の本をさがすにはいいが、ぶらぶら探すにはむかない。それでジュンク堂の方へ行ってしまう。散歩コースとしての本屋は、1,いすにすわれる、2,広い。3,店員が本を知っている、この3点はゆずれない。

 ラングの「~色の童話集」シリーズ、ぱらぱらと各巻の目次を立ち読み。
 四十数年前に読んだ本の目次を読んで、タイトルから内容を思い出すかと期待したのに、全然思い出さない。あれぇ?という感じ。あんなに夢中になって全巻読んだのに。
 アンデルセンは、タイトル見ただけで全部内容を思い出せる。家に本があって、繰り返し読んだからか。ラングは図書館の本だったから、繰り返し家で読むことはなかった。それでも、ひとつくらいはタイトルみたらパッと物語がよみがえってくるってものが、あるかと思ったのに。

 ラングとアンデルセンによって、10歳ころの私は自分の住むせまい地域だけでなく、「世界」という広大な場所があることを知った。自分が暮らしているのとは違う生活の仕方があり、文化があると知ったのだ。そこへ行ってみたいという「テラ・インゴグニダ」へのあこがれを育てたというのに。
 目次をながめるだけでなく、中味を読めば思い出すかと思ったが、それには立ち読みじゃなくてちゃんと読まねば、と本を棚に戻す。
 テラ・インコグニダへ。私はケニアに行くときも、中国に行くときも、自分で決定することができた。

 お針子は、バルザックを知ることで、広い世界に出ていきたくなった。自分で自分の行き先を決めた。彼女の人生にとって、その後にどんな過酷な人生が待ちかまえていようと、あのとき、彼女には自分で決定することが大事だったのだ。

本日のそねみ:活字の広大な世界をまえにして、自分の世界の広がりを信じられる若い心


2003/03/06 木 曇りのち雨 
ジャパニーズアンドロメダシアター>『ウラノハタケニイマス』

 夕方、雨が降り出す中、西荻窪へ。西荻WENZスタジオで、Fuらっぷ舎公演『ウラノハタケニイマス--春と修羅をめぐる散歩』を見た。7時半開演9時まで。
 ジャズダンス仲間の息子、ミラクルが出演している。ミラクルママの隣に坐ってみていたが、途中で眠った。

 これはなかなかないことだ。私は根っからの貧乏性だから、注文したラーメンがどれほどまずくても、これで腹を下すという心配がない限り、たいていの場合全部食べるし、たとえ無料招待券で入場した映画演劇がさっぱりおもしろくなくても、最後まで見る。まずいラーメンでも作った人の労力への敬意として残しては悪いと思うし、つまらない映画でも、作った人はそれなりの努力をして作ったのだろうと思うからだ。

 それが、自腹で入場料払って演劇を見に行って、出演者の母親が右隣に座っているのだから、礼儀としてもちゃんと彼の演技だけでも見なくちゃ、と思って意識したのに、どうにも眠気を誘われ、退屈で眠ってしまった。最前列で見ているのだから、出演者の意欲をそいでしまったとしたら、悪いことをした。
 私の左隣の女性は、あくびを繰り返していたが寝てはいないらしい。彼女の「ファー」というあくびの息の漏れる音連続と、私の居眠り姿。ごめんね。ちゃんと見ることができなくて。

 パンフの制作ごあいさつ。『春と修羅』からイメージされる感覚を再現した、と出ている。『春と修羅』は好きな詩集だし、自分の受け取った印象と違う詩の受け取り方があっても、また面白いだろうと見る気になったのだが、まったく感応することがなく、よほど相性が悪かったらしい。

 これなら、ただ『春と修羅』を、棒読みでもいいから朗読してくれた方が、よかった。なんだか「独りよがりの前衛的現代音楽」を聞いているのと同じような気分。わからん。「役者の即興による演劇」というので、一回ごとに違う舞台になるらしいが、もう一度見る気力なし。

 西荻駅前で、ミラクルママと11時くらいまでおしゃべり。
 ミラクルが今回出演するについて、舞台制作費分担として5万円を主催者に払った。その金もママが出したというので、う~ん、ちょっとなあ。息子の才能を信じる気持ちは、母親の生き甲斐だろう。しかし、演劇やり続けたいなら、食う住むはまだ親の世話になるとして、演劇に関わる費用くらいは、ミラクル自分で稼げよなあ、と私は思ってしまう。

 働き者の母に似ないで、経済力のまったくなかった実父に似てしまった息子を、愛し続け支え続けるミラクルママに乾杯!と、いっても、ビールを一人で飲んだのは私。ママは食事とコーヒーだけ。

 ミラクル実父は、離婚した当初は毎月養育費25万円振り込んできたのだという。夫の働きのなさ、経済観念の欠如、借金がどんどん増える一方なのに耐えられず離婚したミラクルママ。夫が養育費も借金によって振り込んでいることがわかり、借金するなら振り込まなくてもいいと言ったら、まったく送金は途絶えてしまい、一人で働きながら息子ふたりを育て上げた。えらい!

 現在はボーイフレンドと仲良く落語を楽しみ、いっしょに旅行し、楽しそう。現在が幸福なんだから、ちょっとは愚痴の聞き役になってもらってもいいだろうと、私も「うちの息子にとって、父親像が希薄なので、男の子としてちょっと心配」とか、「息子がちっとも勉強しないで困る」とか、余計な愚痴まで話す。

本日のひがみ:ミラクルママは超美人


2003/03/07 金 雨 
日常茶飯事典>試験が終わればボーリング

 息子、期末最終日。
 今の読解力、資料探索力があれば、学びたいことが見つかれば、自分で学ぶ方法を探すことはできるだろう、という楽観論にすがるしかない。

 息子は、クラスメートと「期末終了記念ボーリング大会」をしてきた。池袋で天丼を食べ、「3学期終了、中2クラスまもなく解散記念、中2最後の友情ボーリング大会」なんだって。
 遊ぶ友達がいることはうれしいが、友達は天才秀才たち。皆塾へも行き、家庭教師もいて、一日に1時間2時間は勉強しているのだ。1日に5分も自宅学習をしていない息子は、「試験が終わって解放された」と、遊ぶ必要がないくらい、ふだん解放されっぱなしではないか。とはいえ、とにかく試験が終わって私もほっとした。

 今の中学校を退学するなら、中国でもハワイでも留学するとか、山村留学して山仕事を手伝いながら通学するとか、新聞販売店に住み込んで働くとか、生き方暮らし方はいろいろあるよ、と息子に勧めてはみるが、そんな積極的な生き方を選べるようなら、心配はしない。息子が学校をやめた場合、何もしたくなくて家にひきこもり、昼夜逆転でゲーム三昧、という姿が目に浮かぶ。

 ひきこもりはひきこもりで生き方であり、人間存在のしかたである。と、頭で理解しても、実際、家の中に図体だけでかくなっていく息子が青白い顔無精ひげで、パンツをとりかえる気力もなく、夜中にカップラーメンをすすり、と想像していくと、なんでもいいから、とにかく一人で食って生きていける生活力は身につけて欲しいと思ってしまう。

 そういう「生活力」だの「たくましく」だのという価値観が、ひきこもりを差別することになる、って言われるんだろうが、そうは言ってもね。

本日のつらみ:ボーリング、ガーターばかりの我が人生


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20150318
 息子に新書本「信長全合戦」を買ってやり、ゲーム「信長の野望」からシフトして少しでも「歴史の本好きにさせよう」というせこい母親の根回し、今となっては笑えました。26歳の息子の博士論文「織豊政権論」は、書き上がるのやら上がらないのやら。今も、論文書くよりゲームしていたほうが楽しいみたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「2003年の嘆きの母」

2015-03-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150317
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>三色七味日記3月(1)2003年の嘆きの母

 12年前のうさぎ年、2003年の三色七味日記3月を再録します。
 中学生の息子、反抗期まっさかりをやっていました。大学生の娘は反抗期が収まりかけたころ。私はままならぬ子育てに「嘆きの母」の毎日。
~~~~~~~~~~~

2003/03/01 土 曇り午後雨
日常茶飯事典>おやこ喧嘩

 3月4日から期末試験が始まる。中学生になって、家では5分も自宅学習をしようとしない息子。
 小学校のときも、確かに家では1分も自宅学習をしなかった。でも、それでも皆についていけた。今は、皆においついていくのは至難の業だ。

 息子が入学試験に合格したときはうれしかったけれど、数学オリンピックメダリストとか、コンピュータプログラミングコンクール優勝者とかに囲まれて、どれだけ息子がしんどいか、母は心配でたまらない。息子は、のほほんとゲーム三昧したい子なのに、クラスみんなが天才秀才。落ちこぼれるのも、みんなでこぼれりゃこわくはないが、たった一人でこぼれっぱなし。

 中2の3学期期末前になっても、まだ勉強しようとしない態度に、ハハの小言攻撃激化。息子、ふてくされる。事態は、母子姉弟喧嘩に拡大。
 勉強しようとしない中学生の息子に、母が「勉強しなさい」と小言攻撃、というのは、中学生を持つたいていの母親がやっていること。母の小言に反発反抗するのも、中学生として、あたりまえ。そんな典型的なおやこ喧嘩の顛末。

 9時ころ起きてきた息子、トーストを食べ終わると、母の攻撃をかわして、歴史教科書を読みはじめた。ちょうど1時間やったところで、息子は「これで勉強ノルマは果たした」と感じて、ブランチ休憩。11時半に娘が起きてきた。スパゲッティをゆで、インスタントのたらこソースやツナマヨソースをまぜるだけのブランチ。

 食べ終わると、娘は息子に「勉強すると約束したんだから、食べ終わったら勉強しなさいよ」と息子軽くたたいた。息子は自分はもうノルマ分の勉強したつもりだったから、娘をはたき返した。それで娘が怒って強くまた叩き返して、よくある姉弟げんかの展開。
 しかし、これまで、口げんかのほかは、ほとんど喧嘩らしい喧嘩はしたことがない二人だったので、たたき合いになった時点で、私が間に入ってとめた。「たたくのはやめて」
 娘は怒って泣く。娘にしてみれば、息子を勉強させようと思って忠告しているのに、お母さんは弟の味方ばかりしているという気持ちだろう。身支度をすると、雨の中出ていった。ひとまわり買い物をするのか、夫の事務所に行くのか、あいちゃんの家に行くのか、どれかだと思ったから、行き先も聞かなかった。

 息子はしばらくふてくされて地理のプリントを見ていたが、私はもう、勉強については息子の判断にまかせようと思ったので、何も言わず、ベッドで本を読んでいた。そのうち息子も怒り出し、ふとんにもぐってしまった。「勉強しろと、うるさいくせに、ちゃんとやっていると無視する」と、思ったのだろう。

 息子も、娘もどうしてこう難しいのだろう。
 昨日、テレビのアニメで「あたしンち」を見ていたら、娘は「うちのお母さんとよく似ているね」と、笑う。確かに私はドジばかりしているが、キャラクターはゆずみかんの母とはかなり違う。私はネクラだもの。
 つまり、それは娘の「うちのお母さんも、ゆずママみたいなあっけらかんとして、どっしりして、おっちょこちょいの明るいお母さんだったらいいのになあ」という願望が言わせた言葉だと思った。私はいつも心配の種を拾って歩くような、根っから心配性の人間だ。楽観主義者になりたいのに、杞の国の人間である。

 毎日ネクラに「どうして、子育てはこんなに難しいんだろう」と、嘆くばかりなのだ。
 8時すぎても何の連絡もないので、夫の事務所に電話をすると「事務所に来ていたけれど、今は映画を見に行っているのでいない。映画が終わるのは8時半ころ」と夫が言う。

 息子は8時すぎに1回起きてきた。「サラダのきゅうりを薄切りにして」と、頼む。しぶしぶキュウリを切っていて、終わったら、食べずに寝てしまった。夜9時すぎ、娘が帰ってきて起こしても、起きてこないですねていた。

 娘は映画『セレンディピティ』を見てきたという。「面白かった」と、ごきげん。黙って出ていったのを心配して損した。

本日のひがみ:「あたしンち」のように笑っていたい


2003/03/02 日 晴れ
日常茶飯事典>グットラック反抗期

 息子、朝からまだ「スネ夫」継続。起きてきて牛乳を一杯飲んだと思うと、またごろりと横になり、口もきかずにすねている。ごはんも食べない。
 私は弱気の母親だから、たちまち意気消沈。反抗期の息子に対処できない。夕方、娘が起きてくるまで、ずっと息子のスネ夫反抗と私のシオシオさめざめが続く。

 娘の不登校のはじまり頃、何も食べない日が続いたことを思出すと、また、息子も「学校生活に耐えられない」「食べられない」「不登校」という道をたどるのかと心配になる。

 娘にとっては、「1年半、中学校に行かなくても、なんとかなったじゃない」という1年半だったかもしれないが、私には永遠に続くかと思われる、苦しいつらい1年半だった。単位制高校に合格し、なんとか通学していけそうだと納得するまで、不安と苦悩のどん底にいた。

 娘の不登校の原因、「生徒会会長として頑張っていたのに、生徒会を生徒管理の手先と思っている生徒指導教師と対立してしまった。教師からのイジメに耐えられなくなり、学校へ行けなくなった」と、いうことを、娘が私にうち明けたのは、高校2年の夏になってからのことだった。

 娘は「教師のイジメが原因っていう本当のことを最初にいったら、どうなったと思う。お母さんは絶対に、教育委員会に持ち込んだり、新聞に投書しようとしたり、裁判するって大騒ぎすると思ったから、教師が原因ということは言いたくなかった。こうして、高校にも行っているし、もう、本当のこと聞いても、裁判するって思わないでしょ」と、ほとぼりがさめてからうち明ける結果になったことを説明した。

 実際、もし不登校中にこの話を聞いたら、私は学校に乗り込み、逆上のあまり、娘をいじめた教師をナイフで刺すくらいのことはしたかもしれない。娘のほうが冷静であった。「もし、本当の原因を話していたら、お母さんが騒ぎまくって、高校進学どころじゃなかった」と、娘。

 しかし、娘がうち明けるまで、ずっと私は、小児科の医者から言われた「お母さんが子育てしながら大学院に通うとか、子どもを実家に預けて単身赴任するとか、がんばりすぎていることが思春期の娘には負担になるんですよ」という言葉をまともに受けて、自分を責め続けていた。

 なにしろ悲観主義者で、なにごとも悪い方へ悪い方へと考え、不安スパイラルに落ち込むのだ。理屈では「だいじょうぶ、学校へ行かないでも子供は成長していくし、それなりにつかみ取るものがあるんだから」と思う。
 何でも活字で納得する方だから、奥地圭子さんの本も斎藤学さん、渡辺位さんの本も山のように読んだ。だから、頭では「不登校は不登校として経験である」「不登校だからこそ可能な子どもの成長がある」と言える。

 けれど、もう一度あの1年半を繰り返せと言うなら、はっきりと「私にはもう1度でよくわかったから、ほかの方、ご経験になってください」と、この貴重な人生経験のチャンスをお譲りしよう。
 東京シューレでは、兄弟姉妹で不登校はよくあることだったが、我が家の場合、フリースクールに通うのさえいやだというからなあ。東京シューレ親の会に、せっせと通ったのは私だけ。娘は1度もシューレに足を運ばなかった。

 娘が不登校になった頃、「私一人でふたりの子を育てている。誰にも相談できないし、誰にも助けて貰えない」という思いの圧力が、自分の心を押しつぶしていた。この圧力が娘にも向かい、娘もその圧力がいやだったのだとは思う。
 実際には、姉にも妹スモモにも助けてもらってきたのだが、私には「たった一人で」という意識が抜けなかった。
 今もそう。私が愚痴を笑ってしゃべりあう友達を作れず、ひきこもりになる性格であることが一番のネックなのかもしれない。

 娘は学校がなければ、昼夜逆転生活に戻る。不登校のときから「朝、寝て、夜起きる夜行性が本来の私。学校なんてもんに合わせて、自分の生活スタイルをねじ曲げることはない。夜行性の動物に昼間起きていろといったら、死んじゃうよ」と、いう。

 今日も、夕方起きてくると、「そんな14歳の反抗期少年ほっておきな!」と、夜行性活動開始。
 「でも、朝から何も食べないんだもん、お母さん心配で」「そんなもの,おなかがすけば、一人でカップ麺でも何でも食べるでしょ。だいたい反抗したいんだったら、親が買った物なんか食べずに、自分で稼いだこずかい出して、コンビニでもどこでも行って買ってくればいいんだから」と、威勢がいい。
 「自慢することでもないけれど、わたしが14歳のときは、こずかい有り金全部と20万くらい貯まっていた貯金通帳と全部持って家を出たんだからね。これでしばらくは一人で生活していけるって、計画たてて家を出たんだから」と、自慢する。
 「それに、お母さんは私が14歳のときは、もっとガンガン怒っていて、バトルしたじゃないの。どうして弟にはもっと怒らないの。差別だ差別だ」という。

 娘のときは小児科の医者にも、スクールカウンセラーにも「反抗する子供をガンガン怒ったりする、そういう母親の態度が悪い」と責められて、「それじゃ、黙って見ているだけにしたほうがいいのか」と思うと、「母親が黙って見ているだけだから、子供は見放されていると感じてしまう」と言われていたよその親もいた。
 まあ、どのような態度をとろうと、結局「母親が悪い」といわれてしまうことが、東京シューレの親の会でわかった。どっちにしろ悪いのなら、怒るのは疲れるから、もうやらない。怒るエネルギーはもう尽きた。

 「わたしが中学生のとき、お母さんに黙ってフィールドオブビューのコンサートにいったことがあったでしょ。あのとき、お母さん、がみがみ怒ったね。朝、黙っていなくなって、どこいっちゃったか分からないから、朝からずっと心配したんだから」と思い出す。
 不登校のはじめころ、学校休んでいるのに、私に言わずに、夫にだけうち明けて、ファンクラブに入っているグループのコンサートに行ったのだった。

 帰ってきたとき、ぎゃんぎゃんと怒鳴り散らした。黙って出て行ったこと以上に、夫には話していたことに腹をたてたのだ。普段は子育てにまったく関わらない父親には言えるのに、なぜ毎日世話をしている母親に言わないのか、それこそ差別だ、差別だ。

 娘は「うちは家出をしても、お父さんの事務所に逃げ場があるから、いいよね」と、すましている。親と対立したときに、祖父母の家とか、知り合いの家とか、逃げ場を持てる子供はラッキー。
 我が家の場合、夫は「遠縁のおじさん」のような役割。夫としては、父親の役割を果たすより、ときどきものわかりの良さそうな顔をして子供を受け入れてやる方が楽だろうが、擬似母子家庭の母親として二人の子供を育てた私は、「ふだん、父親らしいことをしないで、父親面するな」と思ってしまう。たぶん父親面しているのではなく、「遠縁のおじさん面」をしているのだろう。
 私だって子育ての苦労はなしに「いい顔」だけして、子供に慕われる遠縁のオバサンになれたら楽ちんだよう。

 「今、息子が反抗期なのはわかるけど、反抗するならお母さんに反抗しないで、男の子なんだからお父さんにすればいいのに。」と、娘に言うと、「いつもいない人に反抗したって仕方がないじゃない」ま、確かにそうである。

 夕食をいっしょに食べるよう、娘が息子を説得してもまだ、すねたまま。しかたがないから、ほっておいて、娘にフィレカツと揚げ餃子の夕食を出す。私は食べる気もしないので「ちょうどいいからダイエットする」と食べないでいた。

 娘は自分の「反抗心得」を語る。
娘、「高校生中学生がプチ家出とか言って、2・3日友達と遊び回って、親に銀行振り込みさせて金をもらったりするけど、気がしれない」
 「お金を送ってくれないなら、カツアゲ万引きするとか、援助交際するって言って、親を脅すらしいよ。親は子供が警察のやっかいになるよりましだと思って、お金振り込んじゃうんじゃないの」
 娘が言う、「だいたい、親の金で生活しているうちは親の方針に従え。親の言うことを聞きたくないなら、二度と戻らない覚悟で家を出て、自活しろってんだ。お母さんも、ちょっと子供がすねたからって、そうやってメソメソぐずぐずサメザメしてないの」と、とても偉そうな「反抗期評論家」である。
 「お母さんは子供が元気で、おいしいと言ってごはんをいっぱい食べて、いっしょにテレビ見て笑っていられればそれで、十分なのに、なんでいつもさめざめしていなくちゃならないんだろう」嘆きの母。

 娘は、「だいたいお母さんは、本人がしたいことなら仕事はなんでもいいといいながら、弟クンがガテン系になったらいやなんだから」と、批判する。それは違う。ガテン系がきらいなんじゃない。好きでもないことを、いやいややることが嫌いなんだ。
 大工が好きなら大工、鳶が好きならとびでいい。ただし、「家を建てたり寺を建てたりすることに誇りを持っている大工」とか、「とびの仕事が好きでたまらないとび」になって欲しい。そういうところが「エリート主義」?なのかもしれない。

 「子供のころから、お前は頭で生きていくしかないんだから、と言われて育ってしまって、美貌もなし、愛想もなし、勉強でもするしか生き方がなかったんだもの、仕方がないでしょう。エリートめざしてエリートになり損ねたから、屈折しちゃったの」と、自己分析。
 なんの雑誌やら新聞で読んだんだか、「三流の優等生」という言葉を見つけて笑えた。私は自分のことを優等生と思わなかったが、三流のという形容をするなら、確かに私も「三流の優等生」だったなあ。一流になれない自分を自覚できる程度の能力は持つ三流の優等生。

 『グッドラック』が始まったら、息子がふとんから出てきた。娘が「見るの?」と、聞くと、うなずいて、テレビを見始めた。「食べられそうなもの何?フォーなら食べられそう?」と聞くと、「食べる」という。
 娘が「食べるなら自分で作って食べなさいよ」と言うと、息子は自分で作って食べた。「見てたら、私もフォー食べたくなったから作ろう。お母さんもさめざめしてないで、食べなさいよ」と、娘がいうので、私も、娘のフォーを少し分けて一口食べた。息子が食べ始めたので、私もメソメソさめざめは、とりあえず、中断。

 フォーをひとくち食べたら、フィレカツも食べられそうな気がしてきたが、せっかくダイエットできそうなので、やめておいた。いつもダイエットしなくちゃ、といいながら食欲に勝てないのに、子供に反抗されて食べる気もなくなった、っていうチャンスは大事にしましょう。これで500グラム減?

 『グッドラック』は、いつも通りの展開。ドラマが始まったとたんに、ラストシーンまでのストーリーが推測できて、とりたてて波瀾万丈もない。
 たぶん「自分の思ったとおりにストーリーが展開するのが心地よいドラマ」という、水戸黄門的存在なのかもしれない。

 息子のためには「グッドラック」なドラマ。どうして突然グッドラックでスネ夫を中止したのか、わかんないけれど、息子は、フォーを食べながら、笑ってテレビを見ていた。とりあえず、今日はこれでいいかと、寝てしまう。

本日の、負け惜しみ:フィレカツ分のダイエット成功


2003/03/03 月 くもり午後雨 春一番突風
ニッポニア教師日誌>講師会議

 コース修了式は1時半から、会議は2時からだったが、息子のために早めに家を出た。うるさい母親がいないほうがいいと思って。
 
 11時30分に駅の北口で、美容室の割引クーポンを配っていた。「1時半までに到着しなければならないんだけど、間に合うならカットとヘアダイをお願いしたい。間に合わないなら別の時間にくるから」というと、自信たっぷりに「間に合わせますから」と言う。太めのおばさんにカットとヘアダイをしてもらう。
 電気のおかまをかぶると、染料が頭皮にしみてぴりぴりした。とても我慢できなかったので、電気を止めてもらう。全部終わったのは1時15分前だった。「間に合わせます」と約束した予定時間より長くかかったのは、電気を止めたせいらしい。

 電車を降りたのは1時10分すぎ。電話を入れて「出がけに用事ができて、間に合わないから、修了式欠席。会議だけ出る」と連絡。
 2時から講師連絡会議。4時半まで。

 帰りに、娘のリクエストのポテトパイを買う。しかし、息子は夕食のビントロ丼も半分残し、パイも食べなかった。

本日のつらみ:白髪は染めたが、心は灰色


2003/03/04 火 晴れ 
日常茶飯事典>灰色心模様と「○○色の童話集」

 息子「歴史は昨日ちょっとやったから、まあ、何とかなるでしょう。代数はやってもわからないから、やらなくてもおなじ。代数は2学期末に限りなく最下位に近かったから、3学期末にさらに落ちてもたいした差はないでしょう」と、代数を完全放棄の期末予報をして出かけていった。
 朝ご飯は卵豆腐のみ。でも、2科目だけだから、おなかが空いた頃帰宅できる。同学年120人中、代数最下位でも死にはしないから大丈夫。

 12時半ごろ息子帰宅。私もスーパーで買い物をして帰ってきたところだから、まだお昼ご飯を作ってなかった。
 昨日残したポテトパイを食べながら、「歴史はそこそこ。記述問題には半分くらいしか書かなかったけど、それでも点はくれるでしょ。代数は、計算違いがなく、書いたのが全部あっていたとして75点というところ。ってことは、他の人はみんな全部書けていて、またまた平均点90点とかいうところだろうな」それでも、まったく手も足もでないという状態ではなかったからか、食欲はもどった。
 そして「今からやっても、あしたの古典、英語、技術は、どうせ間に合わないでしょう」といいながら寝てしまう。私も疲れるから、もう「勉強しろ」は言いたくもない。

 気分はまだまだグレイ系。そう簡単に、晴れ晴れ空色とか、ぽかぽか春色、というわけにはいかない。

 こどものころ読んだ「ラング世界童話集 ○○いろの童話集」について。訳者のひとりが川端康成であることがわかった。小学校低学年のときの感受性の2割くらいはこの童話集で作られたと思うので、川端の名をみつけて、感慨しきり。
 川端の小説はあまり好きではなかったのに、この作家の文体によって育ったのだと思うと、不思議。世の中すべてご縁ですなあ。

本日のひがみ:若草色、空色、バラ色、あかね色、ラングを読んでいた頃は、世界が希望の色いっぱい

~~~~~~~~~~~~~

20150317
 どのうちにもあった、あるいは現在進行中で続いている「反抗する息子と母親」のバトル。
 ただ、その渦中にいるときは、泣いたり嘆いたり、これが永遠に続くような気がして落ち込みます。まあ、我が家の息子は12年立っても青空晴れ晴れとはいかず、曇り空の泣き出しそうな空模様ではありますが、嵐はとりあえず収まった。
 現在進行で親子バトル中を嘆くお母さんがいたら、「今は真っ暗でしょうけれど、10年間もつづく嵐はないから」と言いたいです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「信長からの手紙」

2015-03-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150315
ぽかぽか春庭アート散歩>春咲アート(3)信長からの手紙

 3月11日、息子といっしょに永青文庫へ出かけました。永青文庫は、細川家伝来の美術品歴史資料などの保管研究と展示を行っています。

 今回は、「信長からの手紙」59通を全点公開という展示です。目玉は、信長自筆の手紙、本物が展示されているというので、見に行ったのです。

 詳しいことは何も言ってくれないのですが、誕生日のプレゼントの要望がこのところ「信長公記」とか「兼見卿記」とか、織豊政権に関わる本が多かったので、息子の博士論文は、「室町末期・戦国の武士政権論」というあたりのことになるらしい。

 「兼見卿記」とは、織豊期に武士政権と朝廷の間の伝達役を果たしていた吉田兼見の日記です。吉田兼見の従兄弟が細川幽斎。出家前は細川藤孝。藤孝は織田信長と同年の生まれです。
 どうして出家したかというと、信長を本能寺で討った明智光秀に「こっちの仲間になれ」と言われると困るから、出家することによって「いやあ、私はもう俗人ではないので、僧として暮らすため、お味方出来ません」と、拒むため。藤孝の息子細川忠興ヨメの玉(洗礼名ガラシャ)の実父が明智光秀ですから、光秀としては親戚と思っていたことでしょう。当然味方すると思った藤孝に逃げられたこと、光秀敗北の第一歩でした。秀吉は光秀に与しなかったことを大いに評価して領地を与えています。

 藤孝は信長と足利義昭をじっくり見比べて信長につくことを決め、光秀と秀吉を見比べて、光秀には与しないことを決めた。機を見るに敏。
 各地から必要な情報を収集し、自分が得するであろう方を的確に選ぶ能力に長けていた、ということ。これは、戦国期の武将にあっては必須の能力でした。

 翻刻されている信長文書の本は持っている息子ですが、自筆の手紙、本物が見られるとあっては、これは見ておかなくては、ということになりました。
 しかし2月中、息子は古文書翻刻のアルバイトが忙しくて見に来ることができませんでした。ようやく見に来た3月、会期は後期となっており、展示替えによって信長自筆書はレプリカの展示で、本物を見ることはできませんでした。

 信長が発給した手紙、右筆(文書作成の秘書)が書いた文書が各地に残されています。その中でも、肥後熊本の大名、細川家では、初代細川藤孝二代忠興を継いだ三代忠利が、熱心に収集した結果、他家には例がないほど多数の信長文書、秀吉文書などが残され、現在では熊本大学図書館に多数の戦国期文書が保管されています。

 息子は右筆によって書かれた信長朱印状黒印状の文書を熱心に見つめていて「ここにずっといたい」というのですが、残念ながら4:30で閉館。5時閉館と思ってゆっくりめに家を出てきたので、見学時間が息子にとっては足りませんでした。

 書かれている文字は、私にはまったく読めません。信長自筆の手紙、レプリカですが、闊達で勇壮なのびのびした性質が出ているように感じました。ほう、これが織田信長が自分自身で書いた文字なのか、と見ているだけでなんだか感激でした。

織田信長自筆の手紙、細川忠興宛感状


 信長自筆の手紙は、解説によれば、細川忠興15歳の初陣のおり、見事な活躍をした若者を大いに誉める内容なのだそうです。側近がわざわざ「この書は信長様みずからがしたためた」という添え状を書き残しており、自筆と証明されたのだそうです。

 信長に気に入られた忠興は、信長たってのすすめにより、明智光秀の娘を娶ることになります。しかし、細川藤孝は、時勢を見極め、ヨメの実家明智家を見捨て、格下だった秀吉側につくことで、一家の命運を支えました。
 それ以前に、藤孝は、もともとの主人である足利家を捨てて信長につくことで家運をひらき、関ヶ原では家康側の東軍につき、明治には伯爵家として残ったのですから、時流を見て動向をきめる才能に富む家系だったのでしょう。

永青文庫から見た旧細川侯爵邸(現・和敬塾本館)


 さてさて、先祖代々時流にはまったくのることもなかった我が家。うちの息子もまったくもって、流れにのれないひとりです。
 息子。今年はいよいよ後期博士課程3年目です。順調にいっていれば、博士論文提出の年ですが、少しも順調でないので「今年は提出できないんじゃないかな」と、弱気なことを言っています。

 息子が去年年末から取り組んでいたアルバイト。江戸時代の地方古文書を翻刻(手書き写真版の古文書を活字におこす作業)です。地方の名主さんとか商人などが残した日誌類で、解読されていない文書を翻刻する地道な作業。
 全部仕上げてナンボの請負仕事で、翻刻注文を出した研究所から間にいくつもの仲介人を通しての下請けの下請け、という立場なのですが、馬鹿のつくまじめ男の息子、一字一句をもおろそかにできない性質で、崩し字辞典に出ていない文字の解読に丸一日かかる。
 「そんなに一字一句正確でなくても、発注元は全体がおおよそわかることをのぞんでいるんじゃないかしらねぇ」と、言っても聞く耳持たない。

 地方の名主さんクラスや地方商人クラスは、変体仮名や漢字の崩し字を、自己流に崩している文書が多く、息子が持っている「崩し字辞典」などでは解読できない文字が多い。辞書に出てこない形があり前後の文脈がついていない文字だと、一日かけても解読出来ないことがあるのです。人別帳(戸籍簿)の人名をにらんで一日すぎる、そんな春休みをすごして、ようやくできあがった文書を提出。

 「これじゃ、時給換算にすると時給10円にもならないじゃないの」と、言ってみましたが、「いや、完全に解読出来たわけじゃないので、アルバイト料なんかもらえないよ」と言う。性格とはいえ、もっと気楽にやっていかないと、とうてい論文も仕上がらないだろうと、案じています。まあ、不出来な博士論文を無理矢理提出してしまった母を見習わなくてもよいのですが。

 人付き合いの苦手な息子、大学院を修了したとしても、教師をするのも難しいみたい。学芸員資格を生かして博物館に勤めたらどうか、というのも、実習をやったときに「夏休みの博物館学習にやってきた小学生に、勾玉作りを指導する」というお子様相手をさせられて、「博物館につとめるのもできない」と、本人が言う。
 息子に向いているのではないか、と私が勝手に思っていた、「どこかの研究所の地下1階あたりの古文書収蔵庫に、一日こもって解読を続ける」という仕事も、これも、能率上がらずクビになるだろう、と今回の翻刻アルバイトでわかりました。

 永青文庫の行き帰り、椿山荘の庭を通り抜けました。ほんとうは、椿山荘のカフェでお茶くらいおごろうかと思っていたのですが、この日椿山荘で私立高校卒業式の謝恩会が開かれており、謝恩会お開き後のお母様グループが、カフェラウンジにわんさかとお茶していました。
 それで、椿山荘は、花盛りの河津桜をながめて通り抜けただけ。

椿山荘の河津桜


江戸川公園の河津桜


 帰りは江戸川橋から神楽坂経由で飯田橋まで歩きました。

 私は河津桜見て、息子は信長の手紙見て、いい時間を過ごせたので、今日も一日、いい日でした。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「パスキン展 in パナソニック汐留美術館」

2015-03-14 00:00:01 | エッセイ、コラム

パスキン展入り口のパネル「これ以外はビル内のすべて撮影禁止」と書かれていました。

20150314
ぽかぽか春庭@アート散歩 >春咲アート(2)パスキン展inパナソニック汐留美術館

 「エコールドパリ École de Paris」は、パリ派とも称された画家達の一派で、1920年代を中心に世界各地からパリに集まった画家達をいいます。日本の藤田嗣治(レオナルド・フジタ
)、ロシアから逃れてきたマルク・シャガール、イタリア出身のモディリアーニほか、さまざまな土地からボヘミアンとしてパリに流れ着いた画家達が、モンパルナスやモンマルトルを中心に、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間の、つかの間の安定享楽の時代を彩りました。

 汐留ミュージアムのパスキン展副題は「生誕130年 エコール・ド・パリの貴公子」
 酒と恋愛に酔いしれたパスキンに与えられた呼び名は「モンパルナスの王子」「狂乱の時代の寵児」

 パスキン(1885-1930)は、ブルガリアの生まれ。裕福な穀物商の家で不自由なく育ちましたが、家庭的には、幼い頃から父親に違和感を感じていました。唯一心をくつろがせてくれるものが、女中部屋に逃げ込んで絵を描いている時間。パスキンは年少より画才を発揮しました。しかし、父親はユダヤ人商人として当然なことに、お金もうけを大事にした人であり、息子にもその商売を受け継ぐことを期待しました。仕事を手伝うようになってもいやでたまらず、家出同然にドイツに出ました。

 ミュンヘンの美術学校で学んだのちに、素描が認められ、19歳のときには挿絵画家として新聞や雑誌と専属契約で執筆料を受け取る生活になりました。父親との確執から絶縁状態となったパスキンですが、自分の画才によって自立を勝ち取りました。しかし、資本家として成功する父への反発から、パスキンは「お金は消費するためにある」と、生涯「宵越しの金は持たぬ」式の放蕩生活を続けました。

 パスキンという画家名は、本名Pincasのアナグラム。「挿絵画家などという浮ついた仕事に、由緒あるピンカスという名を使うな」と言われたので、綴り字を入れ替えてPascin」の名をつけました。

 1905年、本格的に油絵画家として成功を収めようとパリに移住。ボヘミアンが集まったエコールドパリの画家達の中でも、きわめて裕福な立場にあり、浪費と享楽の末に45歳で自殺。

 展示は、パスキンの作品が年代順に並ぶ構成。
第1章ミュンヘンからパリへ 1903-1905
第2章パリ、モンパルナスとモンマルトル 1905-1914
第3章 アメリカ 1914 / 15-1920
第4章 狂騒の時代 1920-1930

 1907年に画家仲間のエルミーヌ・ダヴィッドと出会い、そのすぐあとに描かれたエルミーヌの肖像画。
 パリで売れっ子となったのちのパスキンは、真珠母貝色と言われる特徴のあるやわらかい色彩で、ふんわりとした女性の肖像を数多く描きました。しかし、初期のこの肖像ではまだ、真珠母貝色が使われておらず、エルミーヌの表情もとても硬い感じがします。10年後にはアメリカで結婚することになるエルミーヌですが、パスキンに愛情があったら、もうちょっとやさしい表情に描いたのじゃないかしら。

「エルミーヌ・ダヴィッドの肖像」1908 グルノーブル美術館蔵


 1914年に第二次世界大戦が勃発。パスキンはブルガリアでの徴兵を逃れるためにアメリカに渡り、1918年にエルミーヌと結婚し、アメリカ国籍を取得しました。

 第一次世界大戦が終結したのちの1921年、パリのモンマルトルに住み、真珠母貝色の女性像は大人気となり、画商に高く取引されました。
 大勢の取り巻きに囲まれ、気前よく誰にでもおごってやるパスキン。どんどん絵は売れ、さらに浪費は増えます。パリのカフェでの酒と薔薇の日々。

 しかし、その結果、アルコール依存症と鬱病に犯されます。パスキンの金を当てにする大勢の取り巻きはいても、パスキンの心の空洞と孤独を理解する友人はいませんでした。ただ一つの心のよりどころは、友人ペル・クローグの妻のリュシーの存在。夫の女性関係が原因で別居中だったリュシーも心のよりどころがほしかったのでしょう。

テーブルのリュシーの肖像 1928 個人蔵


 しかし、パスキンの放蕩はリュシーをも傷つけ、ふたりの関係はやがて破綻しました。リュシーが去ったのち、パスキンの心の空洞を埋めるものは、何ひとつなくなりました。

 1930年パスキンは手首を切った血でドアに「「ADIEU LUCYさよなら、リュシー」と書いて首をつりました。なんとも壮絶な死ですが、日頃から「芸術家は45歳までに成し遂げた仕事がすべて。それ以後は残りカス」と言っていた通りの45歳での自殺でした。

亡くなった年の作品
ミレイユ 1930 パステル、厚紙 ポンピドゥー・センター蔵


 パスキンが描いたのは、パリの娼婦やアメリカや南米の下町の人々。太っていてけっして「絵のように美しい」とは言えない娼婦だったり、貧しい身なりの路地裏の人々だったり。
 画壇の潮流は、新印象派、野獣派、立体派と移り、画商は将来の値上がりを期待しつつ新作を買いあさりました。パスキンは、画壇のどの流れにも身を任せず、自分自身の画風を打ち立てました。

 私はパスキンの作をあちこちでの美術館で1点また1点と見てきましたが、このようにまとまった点数での展示は始めてでした。
 パスキンの一生をたどりながら絵を見ていく年代別の構成。パスキンは、父親と相容れずに家を出て以来、放蕩の中で過ごすことによって自分自身の孤独と悲しみをまき散らし、ついには悲しみの中に沈んでしまったのかなあ、と感じる展覧会でした。
 描かれた少女も、女性達も、ほとんどが悲しい顔をしているのです。笑顔を画家に向けている女性はいませんでした。同じような時代に、同じようにふんわりとした色調で女性たちを描いたマリーローランサンの絵のなかでは、画家に笑顔を向けている人もいたというのに。

 パナソニックビルは、汐留再開発によって林立したビル群のひとつ。電通ビルや日テレビルと同じように、現代日本資本主義の牙城のごとくにガラスや鉄筋が輝く高層ビルです。
 ビルの中を写すな、というパナソニック様からのお達しゆえ、許可された入り口パネルのほかは写しませんでした(嘘)。

 1930年の享年から85年たっているパスキン。私は、著作権が切れている絵画は、全人類の宝として公開すべき、という個人的信念をもっています。個人所蔵であっても、美術館に貸し出し、画像も公開して共有すべきだと。
 今回の展示資料や絵画作品は、パスキンの作品の管理をしているコミテ・パスキン(Le Comité Pascinパスキン委員会)協力のもとに集められたのだそうです。

 むろんキュレーターが作品をかり集めた苦労や展示構成のデザイン著作権などは、尊重されるべきですが、図録が売れなくなるという理由以外に撮影不許可の理由はないと思うので、汐留駅に大きく掲げられている美術館案内ポスターとともに、チケットのデザインになっている絵のもとの絵を掲載します。

汐留駅構内


 

<つづく>
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ぽかぽか春庭「新印象派展 in 東京都美術館」

2015-03-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150312
ぽかぽか春庭@アート散歩 >春咲アート(1)新印象派展in東京都美術館

 2月17日水曜日、東京都美術館に出かけました。朝から雨が強く降ったり弱くなったりという一日でした。第3水曜日は、シルバーデーめあてに出てくるジジババで長蛇の列が出来ているところですが、雨のため、待ち時間なしに入場できました。
 シルバーデイ、65歳以上は無料観覧。東京都美術館のいいところは、特別展も無料のところ。

 モネ、セザンヌらの印象派やゴッホゴーギャンたちポスト印象派の展覧会は、毎回押すな押すなの人出になりますが、新印象派それほど人気がないのか、ピサロ、スーラ、シニャックらの点描の絵画「新印象派ー光と色のドラマ」、比較的ゆったり見ることができました。
展示はプロローグのモネから1~5章とエピローグまで年代順。

プロローグの最初の絵は、モネからスタート。
クロード・モネ 《税関吏の小屋・荒れた海》1882(日本テレビ所蔵)


 西洋美術館に常設展示されているピサロやスーラの絵、好きな作品です。
 でも、新印象派について、私の感想のひとつは、「印象派やポスト印象派、野獣派などに比べて、点描で書くと、絵筆のタッチの個性で作家を区別するということが難しいなあ」ということ。点々を並べていくと、皆同じタッチになるので。たぶん専門家は微妙な色使いの差などで、これは誰それの作品とわかるのでしょうが、私は、似た風景が同じような点々の筆遣いで描かれていたら、シニャックなのか、ピサロなのかと問われても、どっちもどっちに思えてしまった。まあ、その程度の新印象派ファンにすぎません。

ジョルジュ・スーラ《セーヌ川、クールブヴォワにて》1885


 スーラ、シニャック、ピサロの御三家点描派の作品はむろんのこと、日本ではあまり紹介されてこなかった新印象派の画家の絵がたくさん並んでいました。
 ヤン・トーロップ(Jan Toorop,1858-1928)、アンリ=エドモン・クロス(Henri-Edmond Cross, 1856-1910)、ルイ・エイエ(Louis Hayet, 1864-1940)、テオ・ファン・レイセルベルヘ(Théo van Rysselberghe, 1862-1926)など、今まで絵を見る機会がありませんでした。

 スーラの「グランジャット島の日曜日」は、どの美術教科書にも載っているのでおなじみの作品ですが、今回はその下絵4枚が並んでいました。

ジョルジュ・スーラ《〈 グランド・ジャット島の日曜日の午後〉 の習作》 1884年


 また、新印象派がどのようにして科学的に色と光を分析してとらえていたのかがわかる文献や、画家それぞれのパレットなども展示されていて興味深かったです。
 年をとっても、美しい絵を見る楽しみは増える、と思うと、これかのシルバーデイ、楽しみです。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「4年前の日常と非日常」

2015-03-11 00:00:01 | エッセイ、コラム
2015/03/11
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>あの日を忘れないために(1)4年前の日常と非日常

 2011年3月11日から4年の月日がすぎました。
 人々はあたりまえの生活をとりもどせてきたのでしょうか。

 4年前の恐怖はもう人々の頭になく、原発再稼働を政策とする政権を選んだ人が多数をしめました。
 しかし、私は今も、「原発はすべて廃止すべきだ」という考えを変えていません。もし、そのことが景気の上向きをおそくし、暮らしが悪くなるという脅しをかけられても、私は暮らしの下向きのほうを選びます。もともと生活保護の1ヶ月生活費以下の賃金しか収入のないワーキングプアなので、最低の暮らしに慣れているので、これ以上悪くなってもどっこいどっこいです。結婚以来、服は全部おさがり、化粧品は100円ショップコスメでOK.買うのは食べ物と古本屋の百円文庫。そういう生活を続けてきましたから。

 フクシマの後始末ができておらず、未だに爆発した原子炉からは放射能が放出され、汚染土や瓦礫の処分場もない、そういう中での原発再稼働に強く反対します。ふるさとを追われた人々全員が、元の穏やかな暮らしを取り戻すまで、「株やら為替相場やらで大もうけしよう」とも思いません。

 お金は必要だし、ほしいです。でも、人様のくらしを踏みにじってまでよい暮らしをすることもしたくない。
 だから、こうして、ときどきあの日を思い出そうとします。

 他の人にとって、のど元過ぎれば熱さ忘れる、ということわざの通りなのだとしても、私はあのときののどの熱さを忘れたくない。それが、家や故郷を失った人への、身近な人を失ってしまった人 への、わたしなりの仁義の通し方であり、3・11の過ごし方です。

 gooブログにエッセイを毎日載せるほか、毎日の日録は、自分だけが読める設定で別サイト書き込みをしています。その中から、2011年3月09日から4月09までの約一ヶ月の日録を採録します。

~~~~~~~~~~~~~~

2011/03/08(火)
「リービ英雄・千々にくだけて論」を書く。

2011/03/09(水)
午前中アミューズ。ダンス練習のあと、福祉センター喫茶室でいつもの持ちよりランチ会。私はきくらげの炒め物とおせんべいを提供。

2011/03/10(木)
リービ英雄論を書く。

2011/03/11(金)
午後2時半までパソコン。2時46分、ぐらぐら揺れだし。恐怖を感じた。本箱が2面へやに倒壊。本散乱。棚が落ち、荷物が落下。食器棚のガラス戸が割れて食器落下。破損。
余震が続くなか、東北の惨状をニュースで見続ける。

2011/03/12(土)
廊下に落下した本をとりのぞかないとトイレのドアがあかないので、まず、廊下の本をお風呂の浴槽内に入れる。断水、停電もしないので、生活は確保。ガスが止まった。

2011/03/13(日)
次に余震があったとき外に逃げ出すこともできないので、玄関の本を片付ける。廊下の本棚もほとんどが落下した。

2011/03/14(月)
息子、風邪の症状がひどくなり、娘周期が乱れての出血があったので、ふたりして午前中病院へ。私は午後、クリニックを受診。薬をもらい、帰りにスーパーに寄ったが商品が棚にない。野菜が不足しているので、レタスときゅうりを買った。

2011/03/15(火)
余震が続く中、ずっと揺れている感じがするのを心配していたが、新聞にいよると、それは「地震酔い」というもので、ストレス不安により、平衡感覚が乱れ揺れ続ける感じがするものと解説されていた。倒れた本箱で頭をうったのを心配していたが、ストレスによる乱れなら、そのうちよくなるだろう。

2011/03/16(水)
一日中、部屋ごもり。午前中ふとんの中で本を読む。午後、テレビを見る。
普段なら見ることもないドラマなどをぼうっと見ていた。これも「地震アパシー」などのストレスによるものだろう。

2011/03/17(木)
部屋ごもり。届くはずだった生協の牛乳は欠品。

2011/03/18(金)
部屋の片付けをはじめるが、ものすごい本の山に圧倒されて手が付けられない。天井までの高さの本箱2面に収まっていた本が、床に散乱するとすごい量になる。

2011/03/19(土)
生協食品は大部分が欠品。牛乳がないので、スーパーへ。3ヶ所を回ったが牛乳なし。1週間で14本の牛乳を消費するわが家だけれど、ようやく4本買えた。4回レジに並んだ。

2011/03/20(日)
少し部屋の片付け。スーパーで手に入れた段ボール箱に文庫本などを詰める。ほとんどの時間は地震アパシー。

2011/03/21(月)
少し部屋の片付け。K子さんが「長崎豚角煮まん」を宅配便で届けてくれた。パソコン復活。南三陸町のアトムさんの安否不明。一家5人が心配。

2011/03/22(火)
娘息子はうさぎクリニックへ。こんなとき、うさぎの健康状態は後回しでもいいのではないかと思うのだけれど、ウサギの健康が保障されないと娘が不安になるので、しかたがない。

2011/03/23(水)
いちにちぐずぐず。

2011/03/24(木)
かたづけはかどらず。

2011/03/25(金)
13時からの学位授与式に間に合うはずが、もたもたしていて遅刻。
学位授与は終わって、総長告示のビデオ放映の時に到着。式が終わるまえに「遅刻者のための授与」というのをやるはめに。間抜けである。
アルカディア市ヶ谷で茶話会。
夜、シニア元気塾最終回。

2011/03/26(土)
午後2じから、カナリアホールで北女声合唱団のコンサート。Cozさんメゾ。T子さんソプラノ。Totoさんが聞きにきていた。
片付けせず。

2011/03/27(日)
一日うちでぐだぐだ。片付けすすまず。

2011/03/28(月)
ようやく片付けをはじめる。まず本箱の転倒防止L字金具のとりつけをやてみたが、ねじ釘が合わないので、ケーヨーD2で金具とクギを買い足す。ついでにおっこちて割れてしまった壁掛け時計の同じような新品を990円で購入。
ねじで留めるのは、わが家のつくりだと無理。

2011/03/29(火)
図書館で書籍返却。東十条図書館と中央図書館。

2011/03/30(水)
午前中アミューズメント。ねじ釘を買いにホームセンターへ。
息子、午後夫の事務所でバイト

2011/03/31(木)
本棚の転倒防止金具付け。本の始末。お風呂の中にあった本を出し、浴槽にお湯をためる。3週間ぶりに浴槽につかった。

2011/04/01(金)
本の始末。だいぶ片付いた。

2011/04/02(土)
部屋片付け。畳が見えた。あと少し。
夜ミサイルママと大戸屋で夕食。練習のことなど話す。ミサイルママ4月還暦誕生日につき、おごる。といってもかずさんが食べたのは鯖塩焼き定食700円。誕生日祝いと言うには貧弱だけれど。

2011/04/03(日)
一日かたづけ。保存して置いた資料をだいぶ捨てた。授業プリントの配布残部など、いつかはつかうかもと思ってとっておいたのだけれど、留学生作文下書き資料のほかはほとんど捨てた。

2011/04/04(月)
片付けつづき

2011/04/05(火)
お昼すぎに家を出て、郵便局で古はがきの交換。おばさんだけど新人研修中なのか、計算に30分くらいかかった。たしかに年賀葉書のほか往復葉書などもまじっていたのだけれど、かかりすぎじゃネッ。3700円分を50円切手と交換。

駒込3時半。六義園のしだれ桜が満開。園内一周。奥のほうは、地震でこわれて入れない地域があった。
しだれ桜はいつもの年にもまして春爛漫で咲いていた。
駒込にホテルメッツができ、2階にデニーズができたので、フォアグラ入りハンバーグとたけのこサラダを食べた。ドリンクバーつけて1560円。

池袋。5時。ジュンク堂で座り読み。6時でやめようと思って居たのだけれど、9階の写真集のところで、桜の写真など見ていて、気づいたら6時8分。6時10分の待ち合わせなので、いそいでイケフクローの前へ。
K子さんミサイルママと阿佐ヶ谷へ。

阿佐ヶ谷6時50分。パンを買って阿佐ヶ谷ドラムへ。
リョウの独り芝居プラス友情出演を見た。

2011/04/06(水)
スーパーで買い物。無洗米を買う。生協の米が届いたのだけれど、無洗米じゃないのが代替品としてきたので、返却することになった。それで、スーパーの無洗米を買った。いろいろ商品が欠品になっている。

2011/04/07(木)
竹林先生からの本「古典文学の表現をどう解析するか」が郵送で着いた。
午後、買い物ひとまわり。

2011/04/08(金)
夜、強い風。桜が散ってしまう

2011/04/09(土)
雨の中、後楽園へ。11時から姑と墓参り。近くの中華屋でランチ。

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20150311
 4年前、夫、娘、息子、姑といっしょに舅の墓参りして、いっしょに食事。なんでもない日常のささやかな出来事だけれど、このようなあたりまえの日常生活がかけがいのないことなのだと、あの3・11をすぎた今は知っている。

 姑は心臓ペースメーカー手術を終えて、元気になってきたし、私も次の仕事へ向かおうと準備中。これまでと異なる環境に挑戦するのはたいへんなこともあるだろうけれど、働きつづけます。今を誠実に一歩一歩暮らしていくこと。帰ってくることができない人々がいることをいつも忘れないこと。新しい生活を始める人を応援したいと思うこと。
 歩き続けます。

<つづく>

コメント (4)
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