春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

2020年9月目次

2020-09-29 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200929
ぽかぽか春庭2020年9月目次

0901 ぽかぽか春庭アート散歩>2020アート散歩夏(5)ART in LIFE, LIFE and BEAUTY展 in サントリー美術館

0903 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏ランチ(1)サントリー美術館ランチ加賀麩不室屋
0905 2020二十重日記夏ランチ(2)フライングゲットバースデーカラオケ
0906 2020二十重日記夏ランチ(3)お盆ランチ in シビックセンター椿山荘
0908 2020二十重日記夏ランチ(4)古希+1ランチ in 二子玉川鎌倉山

0910 ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナにめげずの映画(1)ワンスアポンアタイム イン ハリウッド、その1ブルースカトーのことなど
0912 2020コロナにめげずの映画(2)ふたりの男の願望の成就と非成就ーワンスアポンアタイム イン ハリウッドその2
0913 2020コロナにめげずの映画(3)ジョーカー
0915 2020コロナにめげずの映画(4)マグダラのマリア
0917 2020コロナにめげずの映画(5)ナイブズアウト
0919 2020コロナにめげずの映画(6)9人の翻訳家
0920 2020コロナにめげずの映画(7)カメ止め
0922 2020コロナにめげずの映画(8)アニメまとめ見

0924 ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた<再録引用ルール(1)引用ルール・祝婚歌と千の風その1  
0926 再録引用ルール(2)祝婚歌と千の風その2
0927 再録引用ルール(3)引用、インスパイアについて
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「引用、インスパイアについて」

2020-09-27 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200927
ぽかぽか春庭ことばのYa!!ちまた>再録千の風になって(3)引用、インスパイアについて

 2008年に書いたコラムの再録を続けています。
~~~~~~~~~


2008/10/06
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(3)わたしはきらめくダイヤモンド

 「墓」に「骨」を残すことは「制度」としては残っていくでしょう。でも、それにしばられることはないのだ、と考える人はしだいに増えていく。
 葬送や死者を偲ぶ方法は多様化していくでしょう。

 私自身、これまでも母、父、姉をしのぶのに、年に数回は檀家の寺へ出向いてはきましたが、普段は、両親や姉とすごした日々を思い出すことが供養だと思っています。

 5歳のときにメーテルリンクの『青い鳥』のなか、「死者たちの国」に出かけたチルチルミチルが、おじいさんとおばあさんに「私たちを思いだしてくれたとき、私たちはいつもおまえたちに会っているんだよ」という場面を読んで以来、私にとって、供養とは、お線香や花を手向けることではなく「思い出す」ことになってきました。

 姉が大切にしていた人たちを守ること、両親が大切にしていた人のつながり、人の心を守ること、これが私にとっての「供養」です。

 新井さんの「千の風になって」との出会いの文を引用します。
 ===========================「
 千の風になって」は、いかにして生まれたか?  新井満

 私のふるさとは新潟市です。
 私の母は亡くなる91歳まで助産婦として生きた。
 この町で弁護士をしている川上耕君は、私のおさななじみです。
 彼の家には奥さんの桂子さんと三人の子供たちがいて、とても明るく幸せな家族生活を営んでいました。
 ところがある日、桂子さんはガンにかかり、あっというまになくなってしまいました。後に残された川上君と子供たち三人のおどろきと悲しみは尋常ではありません。絶望のどん底に蹴落とされたのも同然です。なぐさめの言葉を言う以外、私にできることはありませんでした。 しかし、そんなものが何の役に立つはずもありません。

 たくさんの仲間たち が協力して追悼文集を出すことになりました。「千の風になって-川上桂子さんに寄せて-」という文集です。
 文集の中で、ある人が「千の風」の翻訳詩を紹介していました。私は一読して心底から感動しました。<よし、これを歌にしてみよう。そうすれば、川上君や子供たちや、あとに残された多くの仲間たちの心をほんの少しくらいはいやすことができるのではなかろうか……そう思ったのです。
 「いつどこで生まれたのかわからない、風のような詩だ」
 何ヶ月もかけて原詩となる英語詩をさがし出しました。それを翻訳して私流の日本語訳詩を作りました。 それに曲をつけて歌唱したのが、この度の「千の風になって」という歌です。

================
 
 『千の風になって』を翻訳作曲した新井満さんは、新潟市の出身です。おさななじみの友達の奥様が亡くなくなったとき「千の風になって-川上桂子さんによせて」という追悼文集を出して、はじめてこの詩に出会ったのだそうです。

<つづく>

2008/10/07
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(4)わたしはそよぐ千の風

 新井満さんの母上は、91歳でなくなるまで、新潟で助産婦を続け、数千人の命と出会ってきた人だそうです。
 夜中でも雪の日でも、生まれそうだと聞けば出かけていき、一晩に三人の赤ちゃんを取り上げたこともあったそう、、、、。
 命と向き合う仕事の母上に育てられた新井さんだったからこそ、この「千の風になって」が生まれたのかな、と思います。

 春庭にとって、なんだかふるさとに出会ったような気持ちになれる歌だと思っていましたが、「この歌の出生のヒミツ」を知って納得。私の祖先は雪深い新潟の山の中で暮らしてきました。

 父母や姉の誕生日や命日、おりにふれて静かにその生涯を思い起こし、いっしょにすごした日々を振り返る、それが私にとっての「墓参り」だと、思ってきましたから、「千の風になって」の歌は、ちょうどぴったり私の気持ちに合っていると思いました。

 お日様の光を感じ、そよ吹く風を額にうける。朝は小鳥の歌を聴き,夜は星の光を見上げる。木々の葉ずれのささやきに耳を傾け、雨のしずくを手にのせる。
 その光や風や雨や音が、すべてのものが私へのメッセージ。

 元気ですか、という姉からのたより、いっしょうけんめいやっていますか、という父からのはげまし、見守ってるよ、という母のことば、、、、、、 
 ええ、私は大丈夫、元気にやってるよ。ちょっと足をくじいたりしたけれど。心はくじけてないよ。
 姉さんの死んだ年54歳も、お母さんの死んだ年55歳も越えて、年取ってきたけれど、がんばるからね。

 新井さんの「千の風になって」成立のエピソード、心うたれる話です。
 無名の人が作った詩が、世界中の人に知られ、歌われている。(惜しむらくは、Jasracの「引用するなら金払え」ですけれど、この件に関しては、春庭の前シリーズをお読み下さい)

 葬送の自由を求める声は、この歌に力づけられるように広がってきました。
 島根県隠岐の無人島「カズラ島」は、全島を「散骨所」として整備し、2008年8月12日に自然葬の島として開所式が行われました。

 自然葬、散骨を望む人が増えたことを背景に、東京の葬祭場が運営することになった「島全体がお墓」という散骨所です。
http://www.sanin-chuo.co.jp/news/modules/news/article.phoryid=505432004 

 千の風を口ずさみながら、海や森や島に散骨するのもよし、チベットの山奥に身を横たえて、亡骸は鳥たちに喜捨する「鳥葬」もよし。

 私は、この世の生を終えたら、お墓に眠っていることなく、風になって、自由に吹き渡っていようと思います。


~~~~~~~~~~
20191029
 「千の風になって」をめぐる随想を掲載したら、gooから「『千の風になって』」掲載の著作権使用費用をJasracに支払ってないから、掲載を差し止める」という警告が通知されました。著作権は守られるべきです。
 しかしgooスタッフによるこの警告は、著作権法を学んでおらず、やみくもに既成の著作を掲載しているかどうか、という杓子定規だけで発せられたものだと思います。gooスタッフのレベルの低さにあきれます。著作権に関わる仕事をしているのなら、著作権法くらい読んだらいいでしょう。

 著作権法著作権法32条1項[条文表示]で定められている引用条件を示します。(順不同ですが、以下の通り)
1)引用部分が公表された著作物であること
2)引用部分と自己の著作物の区分が明瞭であること
3)自己の著作物が「主」であり、引用部分が「従」であること
4)「引用の目的上正当な範囲内」であること
5)出所を明示すること
6)改変など、引用部分の著作者人格権を侵害しないこと


 春庭の引用は、上記の条件に適合したものであったと考えます。
 以上で、「千の風になって」を引用したためにgooから掲載拒否された2008年の春庭コラムの「『千の風になって』をめぐる随想」の再掲載を終わります。

<おわり>
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「再録引用ルール・祝婚歌と千の風その2」

2020-09-26 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200926
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた<再録千の風になって(2)引用ルール・祝婚歌と千の風その2

 「引用とインスパイア」再録の2回目です。
~~~~~~~~~~~~~~
(承前)
2008/10/03
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>著作権と翻訳とインスパイア(3)悲しみは雪のように

 春庭は、「商業利用でない個人サイト、ブログなどに掲載するのは、引用の範囲のこととして許されるべきだ」と考えています。 好きな歌手の歌を、ブログに引用したとき、「著作権料払え」というより、「ネットで宣伝してもらっている」くらいの気持ちになってくれるとうれしいのですが。

 新井満さんのページには、先に記した注意書きがありますので、Jasracが「金払え」と、言ってきたときは、新井満訳詞は削除します。

 人口に膾炙した詩、民謡のように歌い継がれる曲、世界の宝物のような歌は、「万人のために存在する」という考え方は、ゆるされないでしょうか。

 合唱曲に使われた吉野弘の詩のなかで、『雪の日』にという作品があります。(高田三郎作曲)
 この曲に「インスパイア」された浜田省吾は『悲しみは雪のように』という曲を書き上げました。
 浜田省吾は、「CLUB SNOWBOUND」(1985年)というアルバムに、インスパイアを受けた「雪の日に」の全文を掲載しています。

 浜田が、掲載許可をもとめて、吉野弘あてに手紙を書いたところ、直筆の許可返信をもらったそうです。

You Tubeより 浜田省吾「悲しみは雪のように」
http://www.youtube.com/watch?v=lmYPM-CaZeU 

浜田にインスパイアを与えた、吉野弘の詩、『雪の日に』

吉野弘 作 
━━誠実でありたい。
そんなねがいを
どこから手にいれた。

それは すでに
欺くことでしかないのに。

それが突然わかってしまった雪の
かなしみの上に 新しい雪が ひたひたと
かさなっている。

雪は 一度 世界を包んでしまうと
そのあと 限りなく降りつづけねばならない。
純白をあとからあとからかさねてゆかないと
雪のよごれをかくすことが出来ないのだ。

誠実が 誠実を
どうしたら欺かないでいることが出来るか
それが もはや
誠実の手には負えなくなってしまったかの
ように
雪は今日も降っている。

雪の上に雪が
その上から雪が
たとえようのない重さで
ひたひたと かさねられてゆく。
かさなってゆく。

============= 
 
 吉野の詩にインスパイアされて、浜田省吾があらたに詩を書き、作曲する。
 浜田の曲をきいたリスナーは、アルバムの中に転載された吉野の『雪の日に』を読む。  吉野のほかの詩も読んでみようかな、という気持ちになる。
 作品が、このように心に響きあい、あらたな作品を生みだしていく。これが「インスパイア」の喜びだろうと、思います。

 「オレの詩をサイトに掲載するなら金を払え」と要求して、いくらのお金が入ってくるのかわかりませんけれど、自分の詩に触発されて新しい歌を作った歌手のアルバムに、「自由に詩を引用していいですよ」と返信を与える老詩人の気骨と優しさこそ、真の詩人の魂だと感じ入りました。

<つづく>

2008/10/04
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(1)わたしは実りの穂を照らす 

 2007,2008年、今後の「日本葬送文化史」にとって、画期的となるかもしれない歌が全国に流れました。

 なぜ、画期的な歌なのかというと。
 これまで「石のお墓を建てる必要はない」と思っていても「残された家族のため」とか「墓を守るのが家族の使命」というしがらみによって言い出せなかったことを、堂々と言い出せるようになった。

 もともと、日本の墓制度は、家ごと一族ごとの墓を作らない人々のほうが多数派でした。 寺に檀家制度をつくり、家ごとの墓を作らせるようになったのは、江戸幕府の政策によります。領民を管理する方法として、寺と墓を利用したのです。

 平安鎌倉から室町期にかけて、「野辺おくり」とは、文字通り山や野辺に一定の「死者のための地域」を設け、そこにただ亡骸を埋める、それが「野辺おくり」でした。家族ごとの地域など決まっていません。

 たとえば、京都の人だったら、鳥辺野(とりべの)に亡骸を運び、鳥辺野のどこでも、埋めておわり。
 鳥辺野は、現在の京都東山区南部。阿弥陀ケ峰北麓の五条坂から南麓の今熊野にいたる丘陵地。鳥辺山のふもと一帯は、平安期から墓地、葬送の地として知られてきました。

 一般の人が家族の死者をひとところに埋葬し、石で墓のありかを示したりするようになったのは、江戸幕府の政策に従ったからです。
 江戸270年プラス明治からの130年。合計400年の「家族墓制度」は、今や誰も疑いもしない形式になっています。

 「家の墓を守る」とは、私の世代の結婚のさいも、強力な「シバリ」になっていました。 家の墓を守らねばならないから、よそにヨメに出すわけにはいかぬ、婿を取るのでなければ、結婚させない、などと言う親に逆らえず、好きな人との結婚をあきらめたという話をあちこちで聞いたものです。

 「家の墓」といったところで、たかだか400年ほど続いただけ、天皇家の古墳や陵墓だって、せいぜい1500年くらいのもの。人類数百万年現生人類五万年の時間の流れに比べれば、たいした時間じゃありません。

 「自分のための墓を建てなくてもよい」と、心の中で思っていた人が、それを主張できる「社会的風潮」が、ひとつの歌によって主張しやすい流れができました。
 その歌の日本語のタイトルは「千の風になって」
 『千の風になって』の原作者は、アメリカ、メリーランド州ボルティモアの主婦メアリー・E・フライ(Mary Elizabeth Frye)である」という説が有力ですが、確証はありません。

 もとの詩は「無題ノンタイトル」でした。
 アメリカで作者不詳のまま広まり、2006年末2007年末の2度、紅白歌合戦で秋川雅史が歌いました。

<つづく>

2008/10/05
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>千の風になって(2)私はやさしい秋の雨 

 メアリーの原詩は、現在流布している詩ともまた少し違うところがあります。 おそらく原詩がいろんな人に伝えられるうちに少しずつ形をかえ、今のようなものになった、正真正銘の「詠み人知らず」の歌と思っていいのでしょう。

 前シリーズ「著作権と翻訳とインスパイア」に引用した新井満翻訳は、原詩の雰囲気を生かしてはいるけれど、日本語としてなめらかで歌いやすいように「超訳」になっています

 「千の風」、春庭拙訳を出します。
 春庭訳は、原作にかなり忠実に翻訳したつもりなので、歌うには不向きですが、原作の意味はくみ取れると思います。

Do not stand at my grave and weep, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I do not sleep. 私はそこにはいません、眠ってはいません。
I am a thousand winds that blow,  私はそよそよとそよぐ千の風となっています
I am the diamond glints on snow,  私は雪の上で、ダイヤのようにきらめいています
I am the sun on ripened grain, 私は実った穂の上を照らすお日様になっています
I am the gentle autumn rain. 私はやさしい秋の雨にもなります
When you awaken in the morning's hush あなたが朝の静寂の中で目覚めるとき
I am the swift uplifting rush 寡黙な小鳥たちがまあるく飛ぶ中で、私はすばやく高らかに
Of quiet birds in circling flight. あなたを起こしてあげましょう
I am the soft starlight at night. 夜にはやわらかな星のひかりにもなりましょう
Do not stand at my grave and cry, 私のお墓の前に立たないで、そして泣かないで
I am not there; I did not die. 私はそこにいません、死んでなどいないのです

 英語の翻訳詩が、これほど広く日本人に受け入れられたこと、「洋モノ受容史」にとって、画期的なことだったと思います。

 日本と韓国の交流史において、国交回復後も長い間庶民レベルの交流には、「わだかまり」があったのに、「冬のソナタ」の「ヨンさまのほほえみ」が一気に「しこり」をほぐした、という現象がおこりました。

 政治家や文化人がどれだけ「両国の絆」などと声高に主張してもできなかったことを、冬ソナひとつが、柔らかで温かい交流をもたらした。
 それと同じことを「千の風」がなしとげた。

 「死後、墓石を必要としない人」は、これまでは隠れキリシタンのようにひっそりと「散骨葬」などを行ってきました。
 この『千の風になって』の歌から、しだいに、「自由な見送り」が広がるのではないか、と思います。


<つづく>
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「再録引用ルール・祝婚歌と千の風その1」

2020-09-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200924
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた<再録引用ルール(1)引用ルール・祝婚歌と千の風その1
 
 gooからの警告が、春庭のブログに提示されていました。びっくりぎょうてん!
~~~~~~~~~~~~~~~~
現在この記事は公開を停止させていただいております。
この記事の投稿は以下の行為に該当しまたは該当する恐れがあり(詳しくは「gooブログサービス」利用規約第11条をご確認下さい)、又はこの記事に対してプロバイダ責任制限法等の関連法令の適用がなされています。
【理由1】知的財産権(著作権・商標権等)、名誉、プライバシー等の権利侵害

~~~~~~~~~~~~~~~
 
 春庭は、「引用部分が文章全体の三分の一以上になっていない」という条件により、歌詞の引用も認められるという引用ルールに従って以下の文章を書きました。(1)(2)(3)のシリーズ合計文字数12000字。そのうち歌詞部分は約240字。完全に引用ルールの範囲内です。そして、この「千の風になって」に書かれた文の内容はまさしく「引用ルールについて」です。

 「引用ルール」を守っての歌詞引用である、とgooに対して、「主張すべきと思いますが、「千の風になって」の歌詞を伏字にしたうえで再録します。「伏字」、戦前の検閲制度下の本や、戦後の黒塗り教科書みたいで、なにやら時代が逆戻りしている感じがしてきますね。
~~~~~~~~~~~~~~
2008/10/01
ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>著作権と翻訳とインスパイア(1)広がる祝婚歌

 姪の結婚式に贈った「祝婚歌」 この詩は、吉野弘の姪御さんの結婚式のために作られました。
 どうしても都合がつかず、式に出席できない吉野が、姪御さんに贈ったプライベートな詩として発表されたのち、詩集に入れられ、出版されました。

 吉野弘「祝婚歌」出版ののちは、結婚式のスピーチがわりに、各地で読まれ広まりました。
「勝手に詩が読まれている」現状について、問われた吉野弘が、テレビの対談番組で自分の考え方を述べています。

 早坂茂三(故田中角栄の秘書を23年間努め、現在政治評論家として活動)の著作『人生の達人たちに学ぶ~渡る世間の裏話』(1997年東洋経済社)に収録された吉野のトーク。吉野「民謡というのは、作詞者とか,作曲者がわからなくとも、歌が面白ければ歌ってくれるわけです。

だから,私の作者の名前がなくとも、作品を喜んでくれるという意味で、私は知らない間に民謡を 一つ書いちゃったなと、そういう感覚なんです。(中略)
 民謡というのは,著作権料がいりませんよ。作者が不明ですからね。こうやって聞いてくださる方は,非常に良心的に聞いてくださるわけですね。だから,そういう著作権料というのは心配はまったく要りませんから....」

 1998年には、片岡鶴太郎がテレビ番組で朗読して、多くの視聴者の心に届いたそうです。
 このような「人口に膾炙」した詩や歌詞の著作権について、私は、吉野弘の考え方に共感を寄せています。
 結婚式にこの詩を読むことがあったら、この詩を書いてくれた吉野さんにも、祝ってもらえている気持ちになれると思います。

 著作権の問題は大切です。作者の権利は守られるべきです。
 でも、吉野弘が、

作者不明の民謡には著作権はありません。
(私の祝婚歌は)作品を喜んでくれる人がいれば、作者の名前がなくてもいい。私は知らない間に民謡を 一つ書いちゃったなと、という感覚です


と述べているのを知ると、なんとすがすがしい作者のことばなのだろう、と感銘をうけます。

 『千の風になって』は、新井満が、友人の葬儀に際して、詩の朗読を聞いたことがきっかけになって曲が生まれ、曲にあうように新井満が翻訳しなおしたという成立事情を、雑誌や新聞記事などでごぞんじの方も多いことでしょう。
 この『千の風になって』に関して、原詩は作者不詳なので、著作権はありません。ネット上には、さまざまな訳詞がUPされています。

<つづく>

2008/10/02ぽかぽか春庭ことばのYa!ちまた>著作権と翻訳とインスパイア(2)千の風になって

 『千の風になって』は、作者不詳の詩に訳詞をつけ、新井満が曲を書いた。
 原作の詩は作者不詳で著作権者はいませんが、新井満さんの翻訳については、新井さんに著作権があります。
 訳詞に著作権があることは、頭では理解しています。しかし、、、、 こう言うてはなんですが、新井さんは、作曲の印税だけで一生食べていけるだけの収入があったと思います。 これからも長く歌い継がれていくだろうから、毎年Jasracからお金もらえるでしょう。私もカラオケで一度うたったから、新井さんの収入にナンボか貢献した。

 新井満さん本人歌唱の歌については、私は2007年、中国滞在中に中国のテレビ番組で聞きました。本人の歌もとてもよかったです。
 たくさんの歌手がカバーし、特に秋川雅史は、2006年と2007年の2度「紅白歌合戦」で歌い、CDは100万枚を超すヒット曲となりました。

 作者不詳の翻訳詩であっても、翻訳者新井満さんに著作権があるのは、もちろん理解します。でもね。

====================
『千の風になって』歌詞の転載をされる方へ■  営利/非営利にかかわらずJASRACに許可をいただいて下さい。
 個人の趣味のウェブサイト等非商用配信であっても、 JASRACの許諾および使用料規程に基づく使用料の支払いが必要となります。

=====================
 と、サイトトップに掲載されているのを見ると、吉野弘さんの「(私の作品の『祝婚歌』は)民謡みたいなもんだから、だれでも自由に朗読したらいいさ」というおおらかなことばと比較してしまい、「あんた、作曲で十分もうけただろうに、それでも非営利の素人が、新井満訳詩を自分のサイトに転載するのが、そんなにいやかい」という気持ちになってしまうのです。

 吉野弘さんが「作者不詳の民謡みたいなもんだから、だれでも自由に朗読してよい」と考えているからといって、新井満さんが同じ考えをする必要はない。自作に著作権を主張するのは、当然の作者の権利です。それは、わかっているのですが、「個人の趣味のサイトであっても、引用するたびに、JASRACに使用料金を払え」と、掲げられているのを見ると、なんだか「千の風になって」の静かな心にしみる詩のことばのひとつひとつに「¥」マークがついている気分になります。

¥私のお*kaの前で ¥泣かないで****
¥そこに私は**せん ¥眠ってな*か**せん
¥千の*に ¥*って 
¥あの大きな*を ¥吹きわた*て*ます
¥秋には*になって ¥畑に**そそぐ
¥冬はダ**のように ¥きらめく*になる¥朝は*になって 
¥あなたを目覚め**る
¥夜は*になって ¥あなたを**る
¥私のお*の前で ¥泣かないで****
¥そこに私は**せん ¥死ん*なんか**せん
¥千の*に ¥千の*になって 
¥あの大きな*を ¥吹き**っています

 はい、合計いくらでしょう。
 Jasracも、このような訪れる読者もまれなサイトにまで「著作権法違反をしている。金払え」とは、言ってくるのかどうかわかりませんが、春庭の著作権についての考えを述べておきたいと思います。


<つづく>

20200811
 JASRACではなく、Goo事務局が上記の通り「著作権違反」を責め立ててきたので、歌詞そのままをのせずに再録しました。
 以下、引用についての春庭のメモを再録します。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「アニメまとめ見」

2020-09-22 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200922
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナに負けずの映画(8)アニメまとめ見

 フライングUPした「アニメまとめ見」を再度UP。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 
 コロナ自粛の間、家のテレビでこれまで撮りためてきた録画映画をせっせと消化。ことに、わたし一人ではあまり見ることがないアニメをまとめ見しました。
 娘が見てよかったもののうち、私が見ていなかった『聲の形』『打ち上げ花火下から見るか横から見るか』、テレビ放映を録画してみました。また、娘がロードショーを見てきているディズニーアニメ、「母も見た方がいい」と娘はDVDを注文。『アナと雪の女王2』、特典映像や監督の制作エピソードなども楽しみました。

 録画で見た実写版『ジャングルブック』。娘は「母もアニメ版をいっしょに見たはずだよ。私も子供の頃見たきりだから忘れている部分が多いけど」と、二人で見ました。私はほとんど忘れていました。

 少年モーグリはブルースクリーンの前で演技をし、動物やジャングルの風景はCGで制作して合成するという手法で、ジャングルのようす、動物の動き、じつにリアルによく描けていたと思います。

 しかしリアルな動物やジャングル風景である分、不自然に見えてしまう部分、どうしてこのような選別をしたのかわからないことがありました。モーグリが狼語で仲間と話すのはわかるし、仲良くなった熊バルーや恩人の黒豹バギーラとも心通い合っているので話もできる。実の父を殺した凶暴な虎シアカーンから赤ん坊モーグリを救ってくれた黒豹バギーラは、モーグリが仲間の狼から離れないと群れを襲うというシアカーンから逃れるモーグリに付き添います。催眠術を使う大蛇のカーも話せる。
 そのほかの動物の中、モーグリが象の赤ちゃんを助けて、象とよい関係を作れたと思ったけれど、象はモーグリと言葉をかわさない。いったいどういう基準で話すことが出来る動物と話せない動物をわけているのか、わかりませんでした。
 キングコングのような大猿キング・ルーイは「赤い花(火)を手に入れて人間のようになりたい」と願っているので言葉が通じるけれど、手下の猿どもは話せない。

 さらに「狼に育てられた」という設定には合わないのが、モーグリが赤ん坊のときに履いていた赤いパンツ(ふんどし?)をずっと履いていること。
 狼や犬などは、赤ん坊に排泄させるときは、尿やフンを舐めとりますから、モーグリがパンツを履いていたのでは、母狼ラクシャはモーグリの排泄処理ができません。
 キップリング原作の本の初版挿絵がパンツを履いているモーグリだったのかもしれないし、当時の小説は動物の赤ん坊がどうやって母親に排泄処理をしてもらうのかなんて気にする読者はいなかったろうから、ウォルト・ディズニーの遺作となった1967年のアニメもモーグリがパンツ履いていたのだろうと思います。
 2016年の実写版でも、どうしてもモーグリをフリチンで画面に出すことはできなかったのだろうと思うけれど、私にはパンツは不自然でした。モーグリがふりちんで飛び回っても、それでR指定なんかにならないと思うんだけれど。

 もうひとつ、2016年実写版ならシーンを加えて欲しかったのは、道具について。モーグリが石をかち割って石器を使いこなしたり、道具を使えること、どうして道具が使えるのか。
 動物の生態学研究が進み、猿が棒をシロアリの巣につっこんでアリ釣りをしたり、鳥が大きな石を上から落として木の実や貝をわって食べる例が報告されているので、そういう場面をモーグリが見て、道具を使うことを学んでいるようすがあったらよかったのに、と思いました。狼に育てられたら、絶対にひとりで道具を使えるようにならない。火と道具の使用、ことばの使用は人間が人間に育てられることによって学ぶことですから。

 もちろんディズニーアニメなんですから、そんなこと考えずに楽しめばいいこと、なんでもアリなのはわかってます。でも、ジャングルブックには、他のディズニーアニメと違って、魔法が介在しているようすがないので、つまらぬことを気にしてしまいました。
 そういえば、「くまのプーさん」「わんわん物語」「101匹わんちゃん」などの動物物には魔法使いが出てこず、他のディズニーのヒットアニメのほとんどに魔法使いが出てきます。魔法使いがいるなら、魔法の力でかぼちゃが馬車になろうと野獣が涙によって王子になろうと足と舌を交換しようとランプから巨人が出てこようと何でもありです。

 『アナと雪の女王2』は、主人公エルサの魔法の力が何に由来するのかということがストーリーの要。ストーリーはよく出来ていたし、CGはとてもきれいだし、北極圏に住むサーミ族をモデルにした北の民族の描写もよかったです。
 DVD特典映像の「風の精ゲールの描写」制作エピソードなども面白かったです。私は「アナ雪1」より気に入りました。

 『聲の形』、聴覚障害を持つ少女へのいじめ、いじめた側がこんどはいじめにあうストーリー、心が通じ合うまでの描写、私にはちょっと苦しかった。京都アニメーションのその後の運命が頭にあったからかもしれません。これを実写版でやったらもっと息苦しくなるかも。

 『打ち上げ花火下から見るか横から見るか』
  1993年にフジテレビで放送された岩井俊二監督のテレビドラマも。1995年に公開された映画も見ておらず、2017年のアニメ作品でストーリー初めて知りました。
 
 なずな、典道、祐介は「茂下(もしも)町」のクラスメート。「もしも」をキーワードにパラレルワールドが現れ、3人の関係はもつれながら、不思議な世界の中、青春のひとときが輝きます。夏の光や海がとてもきれいで、日本のアニメの質の高さを感じました。

 テレビ録画していたアニメ、ほかにジブリの『コクリコ坂』や『借りぐらしのアリエッティ』も何度目かの視聴。高畑勲の『赤毛のアン』も何度目かの再視聴。

 ディズニーもジブリも、他の日本のアニメ作品も、たくさんのスタッフがよい作品を作り上げるためにそれぞれの仕事に携わっていること、アナ雪2のメイキングを見ても感じます。ほかの映画でももちろんそうですが、アニメ、CGにはものすごい労力がかかっているのを知ると、テレビ放映では最後のクレジットが省略されてしまって、スタッフの名前を知ることが出来ないのが残念です。
 京都アニメーションの亡くなったスタッフさんにお礼を言って見終わりました。

<おわり> 
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「カメ止め」

2020-09-20 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200920
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020映画夏(5)カメ止め

 ニュースで、一度コロナウイルスにかかって、抗体ができたはずの男性が二度目にコロナに感染した、というニュース。コロナは遺伝子を変化させ、前にかかったからといって決して安心できない病原体だとわかったようです。はしかにしろおたふくかぜにしろ、一度かかっていれば、体に抗体ができ、2度はかからない、というのがこれまでの感染症でしたが、遺伝子を変えて2度めにも人の体にとりつくとは。死んでもしなないゾンビのようです。

 「ゾンビ」で思いだした、というわけで、昨年夏からUPしないままになっていた映画の感想です。ホラー嫌いな春庭ですが、こわいより笑いが大きかった。
~~~~~~~~~
20190829
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>夫婦の映画(6)カメラを止めるな

 2018年邦画の中、もっとも話題をさらった映画『カメラを止めるな』。
 なんといっても、一番の話題は、製作費300万円の低予算映画が、あれよあれよと大ヒットし、2019年1月の時点で31億2千万円の興行利益をあげたこと。

 監督脚本:上田慎一郎
 出演:
 日暮隆之=濱津隆之:売れてない映画監督。ゾンビ映画の監督を引き受ける。
 日暮晴美=しゅはまはるみ:監督の妻。とある事情でゾンビ映画に出演する
 日暮真央=真魚:監督の娘
 松本逢花=秋山ゆずき ゾンビ映画の主演女優。アイドル。

 なにせ出演者のほとんどは、演劇ワークショップの参加者であり、ワークショップに授業料を払って参加している。ワークショップの仕上げ実演会として参加しています。

 話はもうほとんどネタバレしているだろうけれど。いちおうあらすじを。これから見ようとする人はご注意を

 売れない監督が、全編ワンカートというゾンビ映画を撮ることになりました。
 てんやわんやのトラブルの末、ワンカット映画が撮影されていきます。
 てんやわんやの裏事情やら、ほんとうのトラブルやらがてんこ盛りで、笑っているうちに90分が終わります。

 ゾンビ映画というおおわくはあるのですが、夫婦の物語であり、家族の物語ということが見えてきます。
 怖い映画大嫌いで、ゾンビ映画などとんでもないという春庭ですが、今作は大丈夫。ホラーコメディというジャンルになっていますが、ホラー部分も大いに笑って感動しました。

 稼ぎのない夫を尻にしきつつ夫を助けようという妻が、ノリノリのうちに夫そっちのけに夢中になるようす。売れない父をこばかにして反抗期まっさかりなのに、父と同じ仕事につこうとしている娘。そんなばらばらな家族ですが、やはり家族なのです。

 2019年後半、主演の濱津隆之としゅはまはるみをバラエティ番組で何度かみました。売れない無名の俳優が、突然ブレイクしてしまったというシンデレラ中年の物語も重なってきて、ますます笑えるホラーコメディシンデレラ映画。おもろい夫婦でした。

 もう一組のホラーコメディ夫婦。シンデレラ中年にはなれていませんが、37年間も夫婦でいるのは、ホラーです。夫はきっとゾンビです。家族にとっては、すでにいないも同然です。なんどでもよみがえってくるのはなかなかのホラーですが、ゾンビ氏の映画パスポートがあると、何度でもギンレイで映画が楽しめる。

 昨年夏から私は夫の実家で暮らしています。息子は、これまでの団地暮らし。夫もこれまでどおり飯田橋の事務所マンションで生活。娘は水曜日から日曜日まで母の元で暮らし、日曜から火曜日まで団地に戻る、行ったり来たりの生活。4人とも健康状態不安定。夫は医者から「これ以上数値が悪くなると、一生透析を続けなければならない」と最後通牒受けている身。私もチョコだのケーキだの好き放題に食べている肥満生活をダメだとわかっている。
 それでも、ゾンビのごとくしぶとく生き抜こうと思っています。全編ワンカットで描く我が人生、笑えるホラーです。

<つづく> 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「9人の翻訳家」

2020-09-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200919
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナにめげずの映画(4)9人の翻訳家

 飯田橋ギンレイの映画セレクト、支配人の久保田さんがひとりで2本立ての組み合わせを考えて選ぶ、ということです。久保田さんはもぎりもやるし、ゴミ箱持って館内清掃にも回るし、この映画館を愛しているんだなあ、という感じのする穏やかそうな女性です。今回見た2本立ちは、どちらもおもしろいミステリーでした。

 コロナで休館している間、クラウドファンディングが行われたそうです。夫は、シネパスポート開始以来、自営業の「社員福利」のひとつとして利用しており、クラウドファンドにも応募してギンレイ存続のためにささやかな貢献をしたので、もっとせっせと映画を見よう、と「9人の翻訳家」と「刃の館」の2本立てを「両方とも面白かったから見に行けば」と、娘に勧めました。
 予告編を見て「面白そう」と思った娘ですが、ギンレイの椅子が固いのでどうしようかと迷っていたのですが「父が薦めたから」と、見ることにしました。
 ギンレイの待機列に並んで、14:45から2本鑑賞。200席の座席は半分になっていますが、この回が一番座れる可能性が高い。椅子は市松模様にひとつ置き。

 「9人の翻訳家」
 実話がストーリーのヒントになっています。
 「ダビンチコード」で知られるベストセラー作家ダン・ブラウンの『インフェルノ』の出版に当たって、海賊版防止、原稿流出防止のために、5か国語11人の翻訳家を地下室シェルターに閉じ込め、翻訳に専念させました。
 この出来事から監督のレジス・ロワンサルは、他の2人の脚本家とともに秀逸なミステリーを作り上げました。
 以下ネタバレを含む紹介です。

 出版社社長エリック・アングストローム(ランベール・ウィルソン)は、世界的ベストセラー『デダリュス』の版権を得て、9か国語の翻訳を同時に仕上げて発売すると発表しました。
9人の翻訳家が大邸宅の地下に作られたシェルターに集められました。専属の料理人が毎日ごちそうを作り、プールもある地下室ですが、外に出ることや外部との連絡はいっさいできない環境での翻訳作業が始まります。

 シェルターに集まった翻訳者たち。英語、スペイン語、ロシア語、中国語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語、デンマーク語。



 この人選、どう考えてもこの出版社の意図がわからない。英語、スペイン語、ロシア語、中国語までは国連共通語であるし、ドイツ語イタリア語も文学愛好家数が一定数存在するので、理解できる。ポルトガル語が入ったのも、ブラジルの人口が多いから、ということでまあ、わからなくもない。しかし、ギリシア語とデンマーク語は、他の言語をさしおいて、なぜゆえに翻訳されるべき言語に選ばれたのだろうか。

 なぜ現代ギリシャ語とデンマーク語が付け加わったのか。キャラクター作りのためと思います。
 ギリシャ人翻訳家はシェルターに閉じ込められたことについて「金のためならどんなこともがまんする」と述べて、他の翻訳家から「国家財政が破綻しているからな」と揶揄されています。「お金のために翻訳作業をする」というキャラとして、ギリシャ人が一番ありそげな国。
 
 デンマーク語はスェーデン語ノルエー語とほぼ同じような言語です。この3言語は方言差程度の違いで、ドイツ語とも近い。デンマークの文学愛好家ならドイツ語か英語で小説を読みこなせる。わざわざデンマーク語をピックアップする理由がわからない。
 人口比、読書人口比、翻訳文学の売り上げ高から考えれば、英語の次に日本語がくるのが当然で、デンマーク語を選んだ時点で、エリックの出版社社長としての経営感覚が疑われる。
 ハリーポッターなどの人気作では、国際的な本というイメージをつくるための宣伝の意味もあって、ラテン語や古代ギリシャ語での翻訳本も作られました。古代ギリシャ語は滅びた言語ですが、文献を読むのに必要。しかし、現代ギリシャ語の翻訳家が加わる理由は、あまりないように思います。

 デンマーク語翻訳家エレーヌ・トゥクセン(シセ・バベット・クヌッセン)は、翻訳の仕事に満足していない。家庭に埋もれて暮らす生活に満足せず、何らかの突破口を求めて、幼い子供を夫にまかせてシェルターにやってきます。

 日本では出版界で、翻訳家には高い地位が保証されています。出版された本にも、著作者の下に翻訳者の名前が同じ大きさで印刷されます。しかし、欧米などでは、翻訳者はあくまで裏方であり、編集者や出版業者の名を本の表紙に印刷しないのと同じく、翻訳者の名が表に出されることはありません。
 翻訳家9人の中に日本人が入らなかったのは、このためかと思います。高く評価される日本語翻訳者は、翻訳の仕事に誇りを持ち、収入も高い。ハリーポッター出版にあたっては、作者J・K・ローリング と同じくらい翻訳者松岡佑子と出版社の静山社は高く評価されました。日本人翻訳家が加わっていたら、9人の翻訳家とはさまざまな局面で異なる反応を示すと考えられます。翻訳家としてのプライドが高く、収入も印税契約ができる日本語翻訳者が、シェルターに閉じ込められて強圧的な社長のもとで屈辱的な状況で翻訳することはないでしょう。

 翻訳がまだ半分も終わらないのに、社長エリックは重大なメールを受け取ります。「冒頭10ぺージ分をインターネットに流出させた。これ以上流出させたくなかったら、500万ドル支払え」という「原稿の身代金」要求を受けたのです。
 エリックはひとりひとりの部屋を徹底的に調べさせますが、何も出てきません。

 全員が裸にされ、屈辱的な身体検査を受けます。

 
 さて、「虐げられ、低くみられてきた翻訳者」の9人の中、デンマーク語担当のエレーヌは、翻訳者の身分に甘んじてはいません。小説家志望だったエレーヌは、家族との生活に時間を奪われて封印してきた「小説執筆」を密かに再開しました。仕事時間のほかを何に使うかは自由であるべきなのに、社長は怒り、小説執筆を禁じます。「翻訳以外に文字を書くエネルギーは無駄」と彼は思っています。エレーヌの小説をろくろく読みもしないで「まったく才能がない」とこき下ろし、手書きの原稿を暖炉の火に投じます。エレーヌは絶望を感じます。

 エリックに才能のなさをこき下ろされて、先に進めなくなったエレーヌ。ただの翻訳者ではなく、自分自身のことばで小説をつづることがエレーヌのプライドだったからです。
 このキャラクター、弱い性格の表現がその国への侮蔑と受け取られたら困る。アジアアフリカ語圏やアラビア語圏の人だったら人種差別問題にするでしょう。デンマーク語が選ばれたのは、「デンマーク人翻訳家を弱い性格に設定しても、デンマーク人は人種差別問題にはしないだろう」という読みがあったのだと思われます。

 エリックの秘書のローズマリー・ウエクス( サラ・ジロドー)は文学を愛するゆえに、出版社の仕事を続けています。これまでは社長の言うことを黙々とこなしてきました。
 しかし、社長エリックには「文学への愛」などかけらもなく、あるのは「出版による金儲け」だけだと、ローズマリーにもわかってきます。

 英語の翻訳者に若くして選ばれたアレックス・グッドマン(アレックス・ロウザー)は、社長エリックとの対決姿勢を強め、「作者のブラック・ブラウンに会いたい」と主張します。エリックは「著者を知っているのは私だけ。誰にも会わせない」というのですが、、、、

 そうこうするうち、身代金要求はどんどんエスカレートし、「小説の半分を流出させた。結末まで流出させたくなかったら、8000万ドル支払え」という要求にまで拡大します。
 エリックはアレックスを疑い、ロンドンの自宅を徹底的に調べさせます。

 刑務所の面会室で対峙するエリックとアレックス。面会者と被疑者。さて、どちらが被疑者でどちらが面会者?
 アレックスの幼少期の回想によって、「ブラック・ブラウンとはだれか」も明らかにされていきます。

 「文学への愛」をキーワードに、思わぬ展開を遂げるサスペンス。文学、翻訳文学を愛する人には一見の価値あり。文学好きじゃなくても、二転三転のストーリーを推理好きなら楽しめる。

 娘が「このシーンの意味がわからない」と言った部分。文学大好き少年アレックスは本屋に入り浸り、立ち読みに励んでいます。本屋の老店主はアレックスに課題をだします。「オリエント急行殺人事件の犯人はだれか。正解したら本を進呈。不正解なら本屋の棚の整理を手伝え」少年アレックスは「全員が犯人」と答えます。次のシーンでは、アレックスが本棚の整理をしている。娘は、どうして少年アレックスは本棚整理をしなければならなかったのか、わからない。だって、オリエント急行殺人事件の犯人は、、、」
 ミステリーには、作者が書いたストーリーじゃない物語もあるのだ、と言いたかったのか。

 原稿流出の方法も動機も、身代金の8000万ドルがどうなったかも、真実があきらかにされている結末ですが、「全員が犯人?」のしかけがあったほうがもっとよかったかな。刑務所の中にいるのは一番疑われていない人、というミステリー鉄則は守られているんだけれど。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ナイブズアウト」

2020-09-17 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200917
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナに負けずの映画(5)ナイブズアウト

 飯田橋ギンレイで見た「ナイブズアウト名探偵と刃の館の秘密」。古い大邸宅で起こる遺産を巡る殺人事件。アガサクリスティへのオマージュという正統派探偵物です。

 タイトルの『Knives out』が「Knives are out.」の省略だとすると、「used to refer to a situation when people are being unpleasant about someone, or trying to harm someone」ということらしく「だれかに不愉快であったりだれかを傷つけようとする状況について述べるとき使われる」すなわち「だれかに矛先を向ける、刃を向ける」ということ。
 犯人が刀によって殺人を起こすのか、探偵が証拠を突き付けて犯人にとどめをさすのか。

 探偵役は007ジェームズボンド役で有名なダニエル・クレイグ。大きなお屋敷で起きた当主の死。遺産狙いの殺人なのか本当に自殺なのか。匿名の雇い主の依頼を受けた探偵が調査を開始。
 一家の持て余し者で遺産分与から外してあると告げられていたのが、キャプテンアメリカ役で有名だというクリス・エヴァンス。関係者の中、遺産とは無縁に見えたのが当主の看護師だったアナ・デ・アルマス。一家一族は、全員動機と殺害チャンスを持ち、だれが犯人でもおかしくない。ジェイミー・リー・カーティス、マイケル・シャノン、ドン・ジョンソン、トニ・コレット、ラキース・スタンフィールド、キャサリン・ラングフォード、ジェイデン・マーテル と出演者居並ぶのはすごい豪華キャストらしいが、私が出演作をそらで言えたのは、当主の大作家役のクリストファー・プラマーだけ。サウンドオブミュージックの太佐役。

 探偵と警察官に尋問を受ける背景に、ギラギラしたドーナツ状の飾りがあり、私にはそれがナイフを並べたコレクションだとわかっていませんでした。「刃の館」というのは、このナイフのコレクションに由来するのだと、あとで気づきました。ナイフの複数形ナイブズ。どうして「矛先を向ける」という成句がThe kife is out.でなくて,The knives are out.であるのか、英語に弱いので、さっぱりわからなかったですが、矛先を向けられたのがひとりではなく、屋敷にいる全員(複数)だからだったかなあ、と、今は思います。だったら、オリエント急行みたいに、全員が犯人だったらわかるのだけれど。犯人は単数です。

 探偵によるマルタへの尋問。後ろにドーナツ状に並べられたナイフの数々。このナイフはマルタを刺すのか、救うのか。



 お屋敷の人々は、「あなたを家族同様に思っているのよ」と、移民の看護師マルタに親切そうな顔を向けるのですが、マルタは、当主ハーラン以外に彼女と不法移民であるマルタの母を気遣っている者がいないことを知っています。マルタの母が不法入国であることがばれて国外追放ということになったら、ハーラン以外に助けてくれそうな人はいないのです。マルタには不法入国の母を抱えているという弱みのほかに、「嘘をつくと吐いてしまう」という弱点もあるのです。ところが一番頼りにできるはずの当主ハーランは死んでしまう。

 金持ちの一族と移民の娘の対比。マルタの側に立ってはらはらどきどきしないと、せっかくの「アガサ・クリスティ流ミステリー」も楽しめないようですが、わたしはいつでも貧乏人の側で見ていますから、大団円ですっきりしました。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「マグダラのマリア」

2020-09-15 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200915
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナにめげずの映画(4)マグダラのマリア

監督:ガース・デイビス
マリア:ルーニー・マーラ
イエス:ホアキン・フェニックス

 マグダラのマリアは、2000年もの間、罪深き娼婦と呼ばれてきました。
 イエスの最後に、イエスの母マリアとともに立ちあった人でもあるのに、イエスの周囲にいるべきではない娼婦としても扱われ、娼婦から改悛したことで聖性を帯びると同時に一度は落ちた女として扱われたのです。
 一方、1945年にエジプトで発見された古文書の中では、「イエスの妻」として描かれています。「ダビンチコード」などでは「イエスの妻」説をストーリーの要にしています。
 マリアがイエスの使徒に準ずる亜使徒として認められたのが2007年。教会から聖女と認められたのは、つい最近。2016年のこと。1500年ぶりの名誉回復。
 イエスを描いた映画は、映画のできはじめからたくさん描かれてきました。しかし、マグダラのマリアの伝記映画は初めてです。

 聖女として認められたからなのか、2017年にマリア・マグダレーナの伝記映画が撮影開始され、2018年イギリス公開、2019年アメリカ公開されました。しかし、日本では劇場公開されずネット配信のみ。宗教色濃い題材で、アカデミー賞受賞などの「ウリ」もなく、主演女優も地味とあって、私も「ホアキン・フェニックスがイエス」ということへの興味で見ることにしたのです。
 ジョーカーを見たあとで、ホアキンがイエスに見えるかしら、と思ったので録画してあった「マグダラのマリア」を見ました。

 ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスがイエス・キリストを演じている。
 ホアキンイエスはしかめっ面をしていたり悲しそうだったりの表情が多かったですが、ときどきちょい悪そうにも見えました。純情そうなマリアマグダレーナをたぶらかしていそうに。

 マグダラに住んでいたマリアは、当時の風習通り父親に結婚を命じられますが、自らの意志でそれを拒絶し、神の言葉を説くイエスのもとに行きます。ナザレのイエスに従う他の使徒とともに伝導に従います。女性に洗礼を施す役を引き受け、イエスがおこす奇跡を目撃していきます。イエスは目の見えなかった女性の目を開け、死んだラザロを蘇らせます。心因性で目が見えなくなったり、一時的に仮死状態になった人を生き返らせることは、2000年前には神の奇跡と思われたことはわかります。

 イエスのおこした奇跡を神の御技と信じる人々が増えていったのも、飢饉で家族を失った人々、苦しくつらい思いをしている人々にとって救いであったろうと思います。来たるべき王国を説くイエスは預言者であり神の子として、信じてついていくことこそ救済でした。
 人々はイエスをメシアとたたえるようになっていきますが、イエスは。自分の未来を予感しています。暗い未来を知ったあと、苦しむイエスにマリアは寄り添います。
 マリアはイエスのことばに従って、虐げられてきた女達を癒やしていきます。

 ローマの過酷なしわざに村全体が襲われている村を訪れたマリアは、瀕死の村人に水を与え介抱します。ともに宣教の道連れとなったペドロは、「瀕死の人の介抱より、生きている人に説教をして信者を増やすことが大事」とマリアを諭しますが、マリアの「人への哀れみ」を理解します。

 イエスの母のマリアも加わり、エルサレムへ向かう信者の群れは大きくなって神殿へと向かいます。
 ユダは、妻と幼い娘を飢えのために失い、イエスの言う王国が実現すれば死んだ妻と子が蘇り、再び親子で過ごせると信じてイエスに従っています。ユダは純粋でかわいい顔をして、イエスに奇跡を期待し神の王国を望んでいます。
 神殿で人々を信仰へ向かわせる導きをするよう弟子達が期待したのに、ホアキンイエスは相変わらずのしかめっ面で、ユダの説得にも応じません。
 
 ナザレのイエスは人々を惑わした罪に問われ、ローマに反逆したとして磔の刑に。
 海深く落ちていくビジョンを見たマリアマグダレーナは、イエスの刑死に立ち会い、死を見届けます。イエスの遺骸を抱く母マリア。ピエタ画面は1秒だけ。
 ユダは、信じた王国が出現しないので、「家族の元へ行く」と首をつる。イエスを売ったというエピソードはなし。
 
 イエスの死語、マリアは夜明けに主イエスの姿を見ました。主は、生前の姿のまま、悲しげなようす。磔台で「 エリ、エリ、レマ、サバクタニ~わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ嘆き声。こんな恨みごとを残して死なれたら、その姿を幻視するのも当然。

 主がいなくちゃ伝道もおしまいだ、と意気消沈する使徒たちに、マリアマグダレナは、「王国は心の中にある」と叱咤激励して伝道の道へ。

 マリアを「娼婦」扱いにしたのは、591年のこと。グレゴリウス1世のしわざ。よほどイエスの身の回りを世話していた女性がいた、ということが気に入らない法王だったのでしょうね。
 ラストにバチカンの宣言が出てきます。2016年に「イエスの復活を最初に伝えた者はマリアマグダレーナである」と、正式に認めた、とのバチカンの通達です。
 グレゴリウス1世が娼婦説を出した591年から1425年もの間、キリスト教世界ではマグダラのマリアは娼婦として扱われたって、どんだけ~。法王が決めたから「マリアマグダレーナは娼婦だ」ってことになり、2016年にバチカンが決めたから「マグダラのマリアは聖女」ってことになる、信仰の世界は私にはよくわかりませんけれど、この伝記に描かれたマリアマグダレーナ像、わりに好き。「この人についていこう」っていう意志を貫き通すって、強い人です。

 これまで「イエスもの」の中、私的ランキングでは『ジーザスクライストスーパースター』を1番にしてきましたが、「マグダラ」は2番にしてもいいかな。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ジョーカー」

2020-09-13 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200913
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>(3)ジョーカー

 トッド・フィリップス監督作品『ジョーカー』
 2019年秋の公開から、さまざまな論評が出ています。厳しい評価を出す人のなか「これじゃバットマンのスーパーヴィラン(超悪役)ジョーカーとしてふさわしくない」と感じた人がいたようです。もっと圧倒的な「悪」として描いてほしかった、など。

 私は、バットマンという「弱気を助け悪をくじく」ヒーローが活躍する話、アメリカンコミックスでもテレビドラマでも映画でも、一度も見たことがありませんでしたから、ジョーカーがどれほどの悪の化身かも知らなかった。映画の紹介に「バットマンの敵、ジョーカーのが誕生するまでの話」と出ていたので、そうか、バットマンの敵はジョーカーという名前なのか、と思った程度。

 そのため、単純に「なかなかの傑作映画」と思いました。むろん、主役ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスの演技は抜群でしたけれど、そのほか、アカデミー賞の作品賞監督賞脚色賞作曲賞など11部門ノミネートのうち、主演男優賞作曲賞のほかにもうちょっといけたんじゃないかな、と思ったのですが、パラサイトの快進撃があったので、分が悪かった。

 バットマンの物語の中で、ジョーカーの出自について「ジョーカーは、バットマンから逃げる途中に化学薬品の溶液に落ち、白い肌、赤い唇、緑の髪、裂けて常に笑みを湛えた口となった」という「ジョーカーオリジン譚」があり、いくつかの映画はこのオリジンを採用しています。しかし、トッド監督はこの説を採用していません。「少年ブルースの目の前で両親が射殺された」というバットマン(ブルース・ウェイン)の幼少期の出来事も、だれの犯行であるかもわからない。

 「ジョーカー自身記憶が混濁し、どの過去が正しいのか分からず、本人も分かろうとする気もない」と説明されているし、トッド監督の作ったジョーカーがバッドマンの敵のジョーカーとは明言されていない。
 私は、トッド映画のジョーカーはバットマンのジョーカーではない、という説に一票。
 以下、ラストまでのネタバレを含むあらすじ&感想です。 

 清掃局ストライキのためゴミだらけ鼠だらけになっているゴーサムシティ。貧富の格差はひどくなる一方。市長に立候補しようとしている富豪マーク・ウエインと対照的に、貧民街のボロアパートに住むアーサー・フレック。日雇いのピエロとして日銭を稼ぎ、認知症寝たきりの母を介護している。スタンダップコメディアンになるという夢を持っているが、才能があるとは思えない。感情が高ぶると突然ヒステリックに笑い続けるという精神疾患を持ち、市の補助金によるカウンセリングと投薬を受けている。

 荒れた市内で不良たちに襲われ、護身用として持たされた拳銃を子ども病院でのパフォーマンス中に落としたことで、唯一の仕事であったピエロ役も首になる。地下鉄の中で打ちひしがれているアーサーの前で、ウエイン社の社員3人が若い女性に絡み、止めようとしたアーサーも暴行を受ける。アーサーは2人を撃ち、残りのひとりも追い詰めて撃つ。

 若いころウエイン邸のメードをしていた母は、マーク・ウエインに手紙を出し続け、彼からの救護を望んでいる。アーサーは、母の病状を追求するうち、母と自分の事実にたどり着く。母には妄想癖があり、マーク・ウエインの子を宿した、と妄想していたために病院に入れられた。退院後もらい受けた養子アーサーが、母の同居の男に虐待を受けても放置していた。放置の理由は「何をされても笑っていて幸福そうだったから」。突然笑い声が止まらなくなる疾患も、虐待が原因だった。
 母は、大人になったアーサーをずっと「ハッピー」と呼ぶことにしている。

 アーサーのあこがれるコメディアン、マレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務める番組に「さらし者・笑いもの」にされるためにゲストとして呼ばれる。アーサーは、自分をばかにするマレーを射殺。
 市内では、地下鉄殺人事件は「格差社会のもとで起きた事件」として下層市民の蜂起を呼び起こし、街はパニックになる。アーサーは、パニック状態の町のなかで、ジョーカーとして踊る。

 一転。精神病院でカウンセリングを受けているアーサー。
 ギャグを書き留めたノートを見せるようにカウンセラーに言われたアーサーは、「私のジョークは、あなたにはわからない」とつぶやく。部屋を出ていくアーサーの足跡は、真っ赤。血なのか。廊下の奥でに看護人に捕まるまいと逃げ回るアーサー。

 描かれた出来事の中、アーサーの妄想であることが明示されているのは、同じアパートに住むシングルマザーソフィとデートするシーンのみで、あとはアーサーの妄想なのか事実なのか判然としません。
 監督インタビューで「最後のシーンの笑いだけが、アーサーの心から出た笑い」と述べているところから、このラストの病院カウンセリングシーン、病院シーンだけが事実で、あとは、アーサーがカウンセラーに話した妄想なのかとも考えられます。そして、その妄想は、「みなが狂っている社会」のなかでは真実なのかもしれません。

 ほとんどがアーサーの視点で描かれています。アーサーが写っていないとしても、そのシーンにいることがわかる。しかし、唯一、アーサーが存在しないシーンがあります。マーク・ウエイン夫妻が少年ブルースの目の前で殺されるシーン。ウエイン一家が、パニックになっている市街の暴動から逃れて路地に入ってしまったとき、アーサーはいっしょにいません。このとき殺人容疑者として警察官に連行されており、パトカーにいるからです。暴徒が警官を殺し、パトカーから出されてパニックの町のヒーローとして恍惚として踊っている。

 ウエイン夫妻の殺害者がバットマンの敵になるということではないのですから、ウエイン殺害現場にアーサーがいなくてもいいと思いますが、このシーンにだけアーサーが存在していないことはのちのちの意味付けに大きいかも。
 少年ブルースとアーサーのかかわりは、アーサーの妄想の中では「母違いの兄弟かと思ったけれど、書類の上では否定されている」という関係。年齢差は20歳ほどもあり、後年、同世代の敵同士として戦い合うには、アーサーがもうちょっと若くないと、ジョーカーはバットマンに太刀打ちできない。

 以上、バットマンをヒーローとして憧れてこなかった者から見ると。
 貧富格差の中で虐げられ続けた弱者が、一発逆転の「弱者のヒーロー」としてよみがえることを夢見た壮大なジョーク、スタンダップコメディアンとしては花開くことない才能の持ち主によるジョーク。アーサーが言うように「あなたにはこのジョークはわからないさ」

 自らの弱点、ちびデブブスハゲなどを自虐し、笑いをとることで成立しているのが漫才や漫談のひとつの型であるとして、壮大な自虐自分語りを見たと思う映画でした。
 この自虐が神の領域まで行くと。
 虐げられ続けた民衆が自分たちに寄り添ってくれた大工の息子を神の子としてあがめるところまでいくだろうに、アーサーは、州立病院の中で看護人に捕まるまいと、ドタバタコメディのように逃げ回ってthe end。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ふたりの男の願望の成就と非成就ーワンスアポンアタイム イン ハリウッドその2

2020-09-12 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200912
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナにめげずの映画(2)ふたりの男の願望の成就と非成就ーワンスアポンアタイム イン ハリウッドその2

 「ワンスアポンァタイムインハリウッド」その2 承前
 
 リックは、かってのテレビドラマ主演俳優のプライドを捨てて、新人の引き立て役の悪役を引き受けます。髪型を彼が嫌うヒッピー風の長髪にせよ、付け髭をつけよという監督の要望に屈辱を感じながらも引き受けざるを得ない。

 落ち目を実感させられ、くさっているリック。しかし、見事な女優魂を発揮している子役トルーディ・フレイザーと出会い、刺激を受けます。リックは、子役トル―ディとのからみシーンで抜群の演技力をみせました。トル―ディは、「今までの人生で最高の演技」とほめてくれます。トル―ディの人生、たった8年だけど。

 監督もリックの演技を認めてくれたことから自信を取り戻したリックは、「都落ち」と感じていたマカロニウエスタンへの出演を承諾します。半年間イタリアに滞在し、4本の映画をとって成功を得たうえ、イタリア人女優と結婚するおまけもついてロスに戻る。

 ブラピは、街でヒッチハイクしてきたヒッピーの女性に案内され、かって自分も出演していた西部劇の舞台となった牧場を訪ねる。牧場主の安否を気にしての訪問でしたが、牧場主は寝たきりで盲目になっており、ヒッピーが牧場を勝手に使いまわしていることを黙認していました。このヒッピーコミューンの副リーダー女性スティッキーを演じているのは、ダコタ・ファニング。リーダーのチャーリーは表だって描かれていません。

 実在のチャールズ・マンソンは不幸な生い立ちで、施設や刑務所を出たり入ったりして生きてきました。大人になったチャールズ・マンソンは刑務所の中でギターを覚え、シンガーソングライターをめざします。ビーチボーイズの歌手と知り合い、そのツテで音楽プロデューサーのテート・メルチャーに取り入るチャンスを得ます。しかし、メルチャーは、結局チャールズ・マンソンのデビューに助力することはありませんでした。おそらくはチャールズの過去の犯罪歴を知り、そういう人物のデビューに手を貸すことのリスクを考えるようになったからでしょう。

 歌手への夢を絶たれたチャールズは、ヒッピー文化台頭のなかで、しだいに家出娘らに影響力を振るいはじめ、LSDほかの薬物を利用してコミューンを形成。コミューンのヒッピーらはチャーリーに心酔し、「テートメルチャーの家を探し出し、家にいる金持ちらを皆殺しにする」という計画に乗り出します。

 テート・メルチャーが1ヶ月前に引っ越し、あとに住んでいるのはシャロン・テート。現実社会では、ヒッピーたちはシャロンらを虐殺し、逮捕後の裁判になると、チャールズマンソンは「私は手をかけていない。ヒッピーらが勝手にやったことだ」と開き直りました。自分だけは刑を逃れようとしたのは、オームの麻原ショーコーも同じ事を言っていますね。「弟子が勝手にやったことだ」と。

 証拠不十分で結審しそうだったところ、マインドコントロールが解けた女性ひとりが、殺人に関わった罪を悔いて、チャールズが首謀者であることを証言しました。チャールズに死刑判決が下ります。しかし、カルフォルニア州が一時死刑停止した恩恵を受けて、終身刑に減刑。2017年に82歳で死ぬまで生きながらえました。
 獄中で病死するまで、82年の生涯を終身刑受刑者として送ったチャールズ・マンソン。1969年から50年間の月日、何を思って過ごしたのでしょう。

 現実社会では、チャールズはシンガーソングライターになるという願いをテート・メルチャーに阻まれた恨みを晴らしています。「テートの家=金持ちの家」に住むシャロンを殺すことによって復讐を遂げたのです。

 脚本は、チャールズの復讐劇を失敗させます。ヒッピーたちは、シャロンの隣に住む隣人がリックであることに気づき、襲撃目標を変えます。もともとテート・メルチャーに恨みを持っているのはチャールズであってヒッピー達ではない。ヒッピーたちは「金持ちを殺すことが正義」というチャーリーの言いつけを守ればいいのです。

 「リック・ダルトンは、西部劇でならず者たちを殺しまくり、戦争映画で敵を殺す。正義のために殺すことを教えたのはリックだから、こんどは俺達が正義のためにリックを殺そう」
 クリフ・ブラピが愛犬と散歩に出ている間に、ヒッピーたちはリックの家に入り込む。リックはプールで酒を飲んでいて、侵入者には気づきません。

 クリフが犬を連れて家に帰ると、ヒッピー達がリックのイタリア人妻を殺そうとしている。クリフは犬とともにヒッピーたちを撃退するも、瀕死の負傷を負う。
 プールに来たヒッピー女は半狂乱となって銃を乱射。リックはプール脇の物置屋から火炎放射器を取り出して、女に噴射。

 昔話は、しばしば書き換えられる。カチカチ山のお話でおばあさんは狸に殺され、兔は敵討ちとして狸を泥船に乗せて溺れさせ復讐する、というストーリーが、幼児向けじゃないというので、狸はおばあさんを殺しはせず、兔も狸を懲らしめるだけで、殺しはしない。

 タランティーノ監督もチャールズの復讐劇を書き換えました。
 クリフとリックの返り討ちにあって、チャールズの恨みは晴らされることなく昔話はThe end。
 タランティーノの中のハリウッドでは、チャールズはおのれの復讐願望を成就しないのだ。
 愚痴ったり涙目になったりしながら落ち目の自分を嘆いていたリックレオ様は、映画スターとして返り咲くことができました。落ち目テレビ俳優から映画スターへと再生を果たしたのです。
 一方、タランティーノ監督は、クリフ・プラピの安否について、明確にしないままです。クリフは、最初から最後まで飄々と「落ち目スターのスタント」という自分の生き方を変えず、ときに暴力を爆発させました。変わらない、変わりたくもない彼には再生の時間は与えられない。

 1969年にハリウッドに生きた3人の男。モデルはいたようですが、実在者とはいえないリックとクリフ。画面にチラ出するけれど、実在のチャールズと同じように、事件の表には出なかったヒッピーコミューンのリーダー、チャーリー。

 3人の男の生を1969年という時空に描いて見せたタランティーノの手腕を、私は面白く見ました。
 シャロン・テートもチャールズ・マンソンも知らなかった娘、最後の襲撃シーンはあまりに恐ろしくて目を開けていられなかったそうです。「やっぱり、私はディズニーやジブリのハッピーエンドの映画だけ見ていようっと」と、娘。ワンスアポンアタイムインハリウッドは、ハッピーエンド映画とは言えないけれど、最後の戦闘シーンである種カタルシスを得て、「ああ、スッキリした」と感じる人もいたようです。

 1969年。「古き良きアメリカ」の幻想がベトナム戦争とヒッピー文化ムーブメントの中で変容し、しかしまだ新しいアメリカは現れていない。ハリウッドもテレビ時代の到来以後変容せざるを得ない時期でした。ハリウッドの華やかなライトの影に横たわっていたが、70年代80年代を経てどう変わったのか。少なくとも、タランティーノのような才能を受け入れるハリウッドに変わったとは思います。監督賞を与えなかったけれど。

 私は、ブルースリーがなぜカトーであったのか、見ているときにはわからなかったので、見終わってのモヤモヤ。でもグリーンホーネットに出てくる、日本人だかフィリピン人だか中国人だかわからない「正義の助手」というアイデンティティの表現らしい、とわかっただけで、スッキリ、日本でもグリーンホーネットが放映されたことがあるとのことですが、私は見たこともなく、売れる前のブルース・リーが「カトー」を演じていたこともまったく知りませんでしたから、なぜブルー・スリーを「カトー」という名で呼ぶのかわかって、この映画が描いたことのひとつは自己確立の物語かと。

 チャーリーは憎いテート・メルチャーを殺すことでシンガーソングライターとして自分を確立できなかったことへの復讐を企て、失敗。リックはテレビ主演俳優のプライドを捨てマカロニウエスタンに出演することで再生。確立している自己を失うことなかったクリフは、、、、

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「ワンスアポンアタイム イン ハリウッド、その1ブルースカトーのことなど」

2020-09-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20200920
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>2020コロナにめげずの映画(1)ワンスアポンアタイム イン ハリウッド、その1ブルースカトーのことなど

 私が映画館で見るというと、第1に飯田橋ギンレイ。でも娘は「ギンレイの椅子は一人分が狭くて肘置きで隣の人とぶっつくし、硬くて、1時間座っているとおしりが痛くなって2時間の映画は見ていられない。2500円出しても指定席のいい椅子で見たい」という。私も娘の好みの「いい椅子」のシネコンにといっしょに行くこともたまにありますが、もっぱらただに惹かれてギンレイ。でも、コロナで緊急事態出て以来、いってませんでした。

 ギンレイ再開後に行ってみた夫の報告によると、椅子は一つおきにしているので、となりの人の肘とぶっつかないし、荷物も置けてゆったりだ、というので、今回は娘を誘っていきました。

 「ワンスアポンアタイムインハリウッド」
 レオ様ブラピ共演でタランティーノ監督。この組み合わせとなりゃ、どんな駄作だとしても見に行くミーハー鑑賞の私ですが、今作のタラ様は評判がいい。
 第92回アカデミー賞では、作品賞や監督賞脚本賞、ディカプリオの主演男優賞、ピットの助演男優賞など計10部門でノミネートされ、助演男優賞と美術賞を受賞しました。

 タランティーノは映画ファンの中にも、好き嫌いの強い監督ですし、この「ワンスアポンアタイムinハリウッド」にも、毀誉褒貶さまざまに玄人素人の評価がでています。
 アカデミー監督賞と脚本賞にノミネートされたものの、受賞は逃したタランティーノ、次回作で監督業引退を表明しています。春庭個人としては、監督賞か脚本賞、どちらかはもらってもよかったんじゃないかと。
 ただ、この映画を理解するためには、監督が説明していない事実を観客が知っている必要がある、という難点があり、これが受賞を逃した原因かなと思います。映画は映画のみで世界を完結する必要があるという考えだと、評価できない面もでてくるんだろうと思います。

 知っておくと映画の内容が深くわかること。1969年のシャロンテート事件とその首謀者であるチャールズ・マンソンの生涯。これを知っているといないとでは、感想が異なるんじゃないかな。私の娘はシャロンテート事件もチャールズマンソンファミリーも知らずに映画を見ました。

 「素人のミーハー鑑賞が私の見方」と思っている春庭の感想。 
 「この映画には、1969年に生きたふたりの男の願望の成就と非成就を描いています。
 ひとりは、映画の主役級に這い上がろうとして果たせず、落ち目になっているかってのテレビ人気俳優。
 もうひとりは、スター歌手になろうと望み、音楽プロデューサーにとりいろうとして果たせなかった男。

 以下、ラストまでのネタバレあらすじ&感想です。未見の方はご注意を。

 かっての人気テレビ俳優リック・ダルトン(レオナルド・デカプリオ)は、今や落ち目。若手俳優を目立たせるための悪役や単発のゲスト出演をこなす日々。
 りックの専属スタントマンを務めてきたクリフ・ブース(ブラッド・ピット)も、リックの仕事激減に伴いスタントの仕事はまれになり、リックの付き人雑用係に甘んじている。リックから「テレビのアンテナを修理しておけ」と言われれば、嫌な顔もせず仕事をこなしていく。スタントの仕事がない現在の立場について、不満をいうことはない。
 アンテナ修理のためにリック邸の屋根に上ると、隣家が見える。隣には1ヶ月前にポーランド人監督のロマン・ポランスキーと妻の女優シャロン・テートが越してきている。

 スタントの能力が高いクリフなのに、リック以外に彼を雇わないのは、クリフに「妻殺し」といううわさが消えていないことと、撮影所内で暴力沙汰を起こした過去がたたっているから。
 クリフのいざこざ。若手カンフー俳優のブルース・カトーともめ事を起こし、ブルースをコテンパンにしたことがあるのだ。ブルースは、クリフとのけんかののち、ヒットを連発するようになる。ブルースを大事にしたいスタントコーディネーターとしては、クリフは使えない。

 ロマンポランスキーなど、ハリウッド関係者が実名で出てくるのに、ブルースだけはリーじゃなくてカトーと呼ばれているのはなぜか。
 ブルース・リーの出世作となったテレビドラマ『グリーンホーネット』に、スターになる前のブルースが出演してます。主人公の助手役。その時の役名が「カトー」。まだブルースリーという芸名よりも、ドラマの役名「カトー」のほうが通りがいいころのブルース、という設定で、クリフとブルースのけんかは、1966年前後の出来事とわかる。

 駆け出しの女優シャロンテートの出演場面の中、映画館で自分の出演作を見るシーンなど、好意的に描かれているのに対して、ブルースカトーは、ブラピにやられてしまうというシーンのせいか、タランティーノは、ブルースをちょいカッコ悪く描いている。タラ様はブルースが好みじゃなかったのか?
 正義の味方グリーンホーネットの助手を務めるカトーは、戦前のアメリカンコミックスやラジオドラマでは「日本人」だったのに、戦争中日本との関係が悪化すると、中国人という設定になったりフィリピン人に変えられてしまいました。「カトー」は、おのれのアイデンティティをころころ変えて生きのびた役名なのです。

 リックは落ち目とはいえ、高級住宅地街に住んでいます。その隣に引っ越してきた映画監督は、ポーランドからハリウッドに進出してきたロマンポランスキー。「ローズマリーの赤ちゃん」大成功でノりに乗っています。シャロン・テ―トと結婚したが、映画の仕事が忙しく、ほとんど自宅には戻っていません。シャロンはパーティーにあけくれ、夫不在の自宅には元カレが入り込んでいる。
 シャロンは映画『サイレンサー第4弾/破壊部隊』などにちょい役で出演しているとはいえ、映画館のモギリさんに名も顔もを知られていない程度の女優。
 隣人のリックとはまだ顔あわせもしていない。

 シャロンとロマンスキーの家の前の持ち主は音楽プロデューサーのテート・メルチャーです。シャロンが引っ越してくる1ヶ月前まで住んでいました。 

 シャロンが出てきたところで、この話は1969年のチャールズマンソンファミリーによる「シャロンテート殺害事件」を扱うのかと思いました。ラストシーンでシャロンはマンソンファミリーに無残に殺されるだろうと、ドキドキしながら破局に向かう。ところが。
 「むかし、むかし~」と語られるお話ですから、そんな現実通りのストーリーではありませんでした。タランティーノは、こうだったかもしれない、という「昔話」の世界を描きます。

 ブラピはアロハシャツにジーンズといういでたちで、考えるより先に手が出てしまう男を演じて、50代後半とは思えないキレのいい動きでした。クリフが何歳かという設定は画面には出ていませんでしたが、スターになる前のブルースリーよりも少し年上、という年齢の設定だすると、30~40くらいの役と思うのだけれど、ほんと実年齢50過ぎとは思えない。(クリフの専属スタントがいたとして、優秀です)

クリフブラピの衣装。和柄のアロハシャツ。通販14,500円で買えます。

 
 アカデミー賞ではレオ様主演、ブラピ助演となっていましたが、私の受けた印象ではW主演。かっこいいのはブラピのほう。レオ様、落ち目の自分を嘆いたり愚痴ったり涙目になったりの演技、よかったですが、アカデミー主演男優賞はノミネートのみ。受賞はのがす。

<ワンスアポンァタイムその2に つづく>
コメント (6)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「古希+1ランチ 」

2020-09-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

 客の前でローストビーフを切る鎌倉山のシェフ

20200906
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏ランチ(4)古希+1ランチ

 誕生日祝いは掛川で「カラオケ誕生会」として済ませていましたが、リアル誕生日にも、やはりランチ会をしようと、娘と出かけました。これまで行ったことのない街で、というコンセプトで、二子玉川へ。

 私が出かける都内の街、だいたいは美術館の最寄り駅の近辺ですから、二子玉川というのがどういう街なのか、まったく知りませんでした。
 二子玉川のひとつ隣に上野毛駅があり、五島美術館に出かけたおりの最寄り駅だったのですが、ニコタマには降り立ったことがありませんでした。夫がくれた「東急沿線ガイド」という冊子で予習。駅から歩かずにどんなレストランがあるかチェック。

 まだまだ暑い中、ニコタマから地下道直結で高島屋へ行けることがわかり、どのレストランへ行くとも決めずに南館レストラン棟へ。11階へ上がって、多摩川の風景がきれいに見えるので、ここで食べようと決めましたが、13時半では「予約のお客様のみ」という時間帯でした。あきらめて10階へ。

 娘が前から行ってみたいと思っていた「鎌倉山」の支店がありました。予約していない客でしたけれど、「ランチ終了は15時」という注意を受け、窓際の席に座れました。残念ながら多摩川ビューじゃなくて、ニコタマビル群ビューで、風景はひとつ落ちましたが。

 鎌倉山は、ローストビーフ専門のレストランで、ランチメニューはローストビーフコースのみ。娘はローストビーフ100gの4500円コース。私は誕生日ですからちょい多めのローストビーフ130g6000円コース。飲み物別料金、娘はリンゴジュース私は生ビール。
 娘は前日スーパー割引きセールで買っておいたローストビースを朝ご飯に食べてきたのです。朝昼ローストビーフですが、「好きな物は一日3食食べてもいい」
 こんな高いランチを娘がプレゼントしてくれたわけは。

 暑くなる前、娘が使っている3階和室のエアコンが壊れていたので、新調することになりました。いろいろなタイプがある中、進められるままに娘が選んだのは、掃除しなくていいとか、空気清浄装置付きとか、最新機種の高級品。量販店でのいくらかの割引きはありましたが、私は「え~、高いなあ」と支払いを渋って決断できかねていました。そうしたら「お値引きは規定があるのでこれ以上できないのですが、プレゼント付きということでどうでしょう」と、ショッピング券をつけてくれたのです。

 半分はすでに使い、残りのショッピング券が使える店として高島屋がありました。
 券を使っても、今回ショッピング券では足りないくらいお高いランチの支払い。ま、誕生日だからいいか、とおいしくごちそうになりました。

 隣のテーブルでは「田園調布一家」的な夫婦と娘さんが上品にローストビーフを召し上がる中、こちらは母娘でキャピキャピと写真を取り合いながら食べていて、「よく訓練されている店のスタッフたち、うちらを見て、さぞかし貧乏人が一世一代でここのランチ食べに来ていると思ったんだろうなあ」と、娘は言う。いいさいいさ、ほんと一世一代のランチかもしれない。エアコンのサービス券がなかったら、娘には払いきれなかった。

 15時までという制限があるので、食べるのが遅い娘もがんばって食べる。前菜もローストビーフもお米が入ったコンソメスープも、3種類選べるデザートもとても美味しかったです。
よい誕生日ランチになりました。今後、ショッピング券なんぞもらえるチャンスがないと、もう来ることがないお店かも知れない「鎌倉山」。娘は鎌倉へ行く折があったら、本店でも食べて見たいと言います。

 前菜。スモークサーモン、鯛刺身、2種の貝。娘の前菜は生ハムメロンでした。

 メインのローストビーフ

 コンソメ雑炊。コンソメの具にお米を使ったスープ、はじめて食べた。
 
 デザートは、ワゴンの上の種類の中から3つを選んで皿に切り分けてもらう。


 71歳食欲旺盛。
 

 高島屋本館の屋上庭園を一回りしました。なんとかの滝。


 高島屋デパ地下の明治屋スーパーで、ヒマラヤピンク岩塩や近所のスーパーでは売ってうないチーズなどを買って帰宅。

 娘からのプレゼント。私が持っている唯一のブランドバッグに合わせたポーチとカードケース。好きな花を選べるプレゼント券。花のカードは、絵ハガキとしても使えるので「母は、青い鳥さんにハガキを送るのが生きがいだから、絵ハガキになるのがいいと思って」
 花の絵ハガキ、順次青い鳥さんへ届けます。9月末に1140枚目を送ります。



中国の友人が日本の花屋にネット注文してくれて届いたお花。いまはこんなプレゼントもできる時代なんですね。


<おわり>
コメント (5)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「お盆ランチ in シビックセンター椿山荘」

2020-09-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200903
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記夏ランチ(2)お盆ランチ in シビックセンター椿山荘

 県外へのお墓参りも控えて、という夏。
 姑は舅が亡くなったとき、山形にある一族の墓に入るように、という要請を断って、都内の納骨堂式のお寺に終の棲家を求めました。山形までお墓参りに行くのはきつくなったから、と。この決断は、残された家族には本当によかったです。今回も都外への移動ができない事態になってもお盆のお参りができました。

 夫の事務所に寄って、夫に尋ねると「今動けないから出られない」というので、体調悪いのかと心配したら、「仕事が入っているから」という。事務所で使っている「小バエホイホイ」というのを「家でも使うように」と渡されました。

 舅の好きな和菓子と姑の好きなお茶を供えて焼香。
 健康状態が万全ではない、我が家の健康安寧をお願いしてきました。
 お墓参りのあとは、ご飯を食べて帰るのが定番。
 
 後楽園遊園地の中を通り抜ける。ムーミンカフェにも入ってみたかったのだけれど、今回はパス。リトルマーメイドでパンを買ってから、予約をしてあった文京シビックセンターの25階にある椿山荘へ行きました。

 普段より人出も少なめなのか、限定15食の「春日御膳」がまだあるとうので、ふたつ注文。後楽園遊園地の中を歩いてきたので、ドリンクバーをがぶがぶ利用しました。


 天ぷらは、えび、ナス、キス。お造りはマグロと鯛。焼き物は金目鯛。トウモロコシの茶碗蒸し。椿山荘夏の名物、というナスの鴫焼きがおいしかったと、娘。

 おなかいっぱいになったので、スイーツはケーキ2種盛りというのを一皿だけとって、娘とシェア。私はミルフィーユ、娘は抹茶ケーキ。


 食べ始めから夕暮れの景色を眺めつつ。


 帰りに展望室を一回りする頃には夜景。スカイツリーが光っていました。


 娘も夫も、そして私も、お盆に地獄の釜の蓋が開いて、死者がこの世に里帰りする、ということを信じているわけじゃありません。ただ、そう思ってお墓参りをして、亡くなった人々を偲ぶことが供養だとわかっていて、「お参りすることで生きている者の心が安らぐなら、精神安定剤なんか飲むよりよほど効き目のある癒やし効果だ」と思っている。

 お参りをして、おいしいもの食べて、じいちゃんばあちゃんの思い出話をひとしきりする、それで心やすらかに夏をすごせればそれでよし。ことしは、コロナ収束をふたりしてお祈りしてきました。お祈りしたから感染しないというわけでもなく、どんな法力満点の高僧だろうとかかるときは感染するし、イギリスでは首相も皇太子も感染しました。ただ、じいちゃんばあちゃんにお参りしておいて、「家族をお守りください」と祈れば、その分心安らかです。

 光っているスカイツリーにも、「みんなを守ってね」とお祈りしておきました。お祈りの効果は定かで無いが。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「フライングゲットバースデー」

2020-09-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20200905
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記晩夏(3)フライングゲットバースデー

 コロナ禍の夏、5人以上での会食は控えるように、というお達しも出て、誕生日祝いもひそやかにつつましやかにやりました、という人もいました。
 もとより毎年、娘息子とのささやかにつつましやかな祝いをするだけの春庭の誕生日祝い、今年は娘のアレンジにより、少々早めにではありましたが、春庭にしては大勢での「♪ハッピーバースデー、トゥユー~」を歌ってお祝いしてもらう誕生祝いをしてもらいました。

 というのも。
 娘がアレンジした7月連休の掛川旅行、ロイヤルスイートルームに泊まるについて、ホテルから宿泊理由の電話インタビューを受けたのだそうです。
 普通、庶民がロイヤルスイートの馬鹿広い部屋に泊まるのは、結婚式の夜や金婚式とか七五三のパーティを、じじばば一族総出でルームサービスで祝うなどする、大きな理由がある場合のようです。2人だけで宿泊するにはなんかしらの理由があるだろうとのホテルからのご下問。
 そこで娘は「オリンピックの入場券を手に入れたので、オリンピックとパラリンピックを見せてやるのを母の誕生日祝いにしようと思っていたのですが、オリンピックが延期になったので、その代わりのプレゼントとして宿泊したいんです」と理由を伝えたのだそうです。

 「イベントつきロイヤルスイートルーム宿泊プラン」に、何の理由もなく宿泊しようとした母娘を、ホテル一丸となっての「おもてなし」で歓迎してもらいました。
 イベント付き宿泊客の例をなんとしても成功裏に納めて、次回以後につなげたいというホテルみなの意欲が感じられました。「ロイヤルスイート宿泊一日一組限定ゆったり空間プライベート空間」という密にはならない、という企画です。

 イベントは第1部、午後竹の丸旧松本家住宅で、フラワーアレンジメントを楽しむ。第2部、客間で一日一組限定の懐石膳を食す。第3部、夜はホテル広間でカラオケを楽しむ。第4部、お持ち帰り弁当を自分で詰め合わせる。 

 掛川旅、資生堂アートハウスと掛川城公園の観光、懐石料理晩御飯を終えてホテルに戻ると、第3部カラオケの部

 娘は、グループ利用ができるくらいのカラオケルーム、と予想していたのですが、なんのなんの100人でもはいれそうな大広間。そこに二人だけのためにカラオケボックスを設置し、映画スクリーンほどもあるプロジェクター。テーブルには花や果物、おつまみ。
 二人だけのために係員が待機していて、そういうおもてなしに慣れていない庶民はこれじゃ音痴声張り上げて歌うのも気が引けてしまう。



 しかも、カラオケを始める前にホテルの総支配人やら総料理長、なんとかマネジャーやらがずらり並んで、名刺差し出して一人ひとり挨拶してくる。どうやらこのロイヤルスイートルームのイベントつき宿泊プラン成功を全員で見守っているという様子。もし不成功ならイベント企画部長の降格がまっている、という雰囲気でした。

 挨拶が終わったら、バースデーケーキが運ばれてきて、ずらりと居並んだ人々がハッピーバースデーを歌ってくれました。
 娘にうながされて、ケーキのロウソクを吹き消して御一同様にお礼を言う。
 スイーツにはちとうるさい娘、ケーキをひとくち吟味。スポンジも生クリーム、イチゴも最高品質の材料を使っていて、甘すぎず最高の味、今まで食べてきた一番おいしいケーキのなかのひとつ、という評価。ほんとに、すごくおいしかったのだけれど、晩ご飯の懐石料理でおなかいっぱいになっていたので、半分だけ切ってもらいました。ああ、全部食べたかった、残りの半分は部屋にお持ち帰りして食べます、って言えばよかった、と食いしん坊の言。

 娘とふたり、私は昭和のナツメロ、娘は平成のナツメロを歌いました。久しぶりのカラオケ、歌は下手でも楽しかったです。



 これからも頑張って働く71歳。コロナにも熱中症にも気をつけて元気でいなけりゃ。

<つづく>
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする