春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

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ぽかぽか春庭「2016年4月目次」

2016-04-30 00:00:01 | エッセイ、コラム


20160430 
ぽかぽか春庭2016年4月目次

0402 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記4月(1)ただいま!帰国しました

0403 ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(1)昔のシャン族と昔のシュエダゴンパヤー・ビルマ古写真コレクション
0405 ビルマの古写真(2)幼いころのアウンサンスーチーさん・ビルマ古写真コレクションその2
0406 ビルマの古写真(3)ビルマの家族か?売れっ娘か
0407 ビルマの古写真(4)十の徳目(パラミー)
0409 ビルマの古写真(5)宝物といっしょに

0410 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記4月(2)桜吹雪の中で

0412 ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>春の庭で楽しむことば(1)ヒジる、ディスる
0413 春の庭で楽しむことば(2)ヤバいバカラで、人生棒に振る
0414 春の庭で楽しむことば(3)ブツブツしい

0416 ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(1)ミイラ&蝋人形礼拝
0417 ブツブツしい日々(2)金箔仏像ネオンサイン光背
0419 ブツブツしい日々(3)ナッ神とかわいい守護像たち
0420 ブツブツしい日々(4)お寺の動物たち
0421 ブツブツしい日々(5)祈る人々

0423 ぽかぽか春庭日常茶飯事典>おことわり(1)休載








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ぽかぽか春庭「お休みします」

2016-04-23 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160423
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>おことわり(1)休載

 ぽかぽかな毎日となってまいりました。夏日や真夏日まで記録される日もあり、一方北海道では4月に雪が続きました。熊本阿蘇の地震、まだ続いています。

 活断層が予想よりも長かった、最初の強い地震のあとにさらに強い本震がきた、など「想定外」のことが次々に起きて不安もつのりますが、熊本から南西に延びる活断層の近くにある川内原発だけは、「安全基準の範囲内であり、すべて想定内なので、停止の必要はない」そうで、安全だそうです。たしか、福島のときも「日本の安全基準は万全なので、絶対安全」でしたが、まだ汚染水が漏れ続けていますよね。

 NHKニュースは、各地の震度を示す地図で、四国中国の地図は示したのに、九州地方の南部を明示しませんでした。熊本が震度5強のとき、鹿児島市が震度4であったことは「地図には出さないこと」にされたのです。地図には九州南部の震度はないから、川内原発は安全、ということになったのですね。政府の皆様方の感覚では。
 私の感覚では、ただ、不安の一言です。

 春庭、暑さにも寒さにも放射能の不安にも耐えられないひ弱人間です。
 パソコン「HAL1949」も、年をとってきて丈夫ではなく、メンテナンスその他のためにしばらくの間休載させていただきます。
  
 シリーズ「ミャンマー・スーベニール」は、まだまだ続く予定ですが、しばし、おやすみです。

 地震の被害に遭われた方々、ボランティアのみなさんも、どうぞこの先、安全でありますように。

<おわり>
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ミンガラ春庭「祈る人々」

2016-04-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

仏に帰依する弟子の像

20160421
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(5)祈る人々

 私は宗教的人間ではないので、日常習慣として、毎日仏壇の前に座るとか、月命日に墓参りをするとか、寺への寄進を欠かさないとかということはしていません。しかし、ときに「祈るしかない」という気持ちになることがあります。
 今は、ただひたすら祈っています。神様仏様に、どうぞ命をお守りくださいと祈り続けるだけ。神仏から見たら、日頃の無信心な態度からいって私ごとき存在は救ってやりたくなるような者ではないのはわかっていますが、祈るしかできないので。

 ヤンゴンの祈る人々の姿、美しいです。人は無心に祈るとき、神に対してであれ、仏の前であれ、自然に対してであれ、崇高な姿をしています。

 我が祈りとともに、祈る人々の姿を思い返し、祈り続けます。

シュエダゴンパヤーで祈る人々
大仏の前で














タイからシュエダゴンパヤーにやって来た巡礼団のおばあさんたち


チャウタンの寺で祈る人

 
ダラの寺で瞑想する人


娘の守護仏、水曜日午前中のシャカの前で、娘の代参として祈っています。

お釈迦様、どうか娘をお守りください。

<おわり>
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ミンガラ春庭「お寺の動物たち」

2016-04-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160420
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(4)お寺の動物たち

 お釈迦様を守る動物、曜日で決まっています。八つの方向にお釈迦様がいて、それぞれの動物がお釈迦様を守護しています。水曜日は午前中と午後に分かれています。

日曜日 北東 太陽 ガルーダ(鳥)
月曜日 東  月  トラ
火曜日 南東 火星 ライオン
水(午前)南 水星 牙のある象
水(午後)北西 ラウ(架空の星) 牙のない象
木曜日 西   木星 ネズミ
金曜日 北   金星 モグラ
土曜日 南西  土星 ナーガ(蛇・龍)

 ネズミとモグラは、もともとは「地霊」と結びついていた動物なのだろうと思います。

木曜日ネズミと金曜日モグラ



日曜日ガルーダ


水曜日午前中、牙のある象


ポッパ山参詣階段入り口の象


シュエダゴンパヤーの三頭の象


獅子


鐘を守る虎や獅子その他


 私の生まれ曜日は月曜日ですから、守護星は月、守護動物は虎です。でも、水曜日の午後生まれの人、ラウという架空の星だと、どの星に向かって「星に祈りを」を歌えばいいのかしら。

レストランのトイレにかかっていた、見猿聞か猿言わ猿。


ポッパ山の参詣階段には神の使いという猿がわんさかいて、参拝客から寄進の食べ物飲み物をたらふく食べていました。



 即身仏がおわしたお寺の境内に、めずらしく兔がパヤー(仏塔)を背負っている像がありました。


 仏教を守護した王様の騎馬像は、バガンにもたくさんありましたが、これはダラ地区のお寺にあった騎馬像


<つづく>
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ミンガラ春庭「ナッ神とかわいい守護神たち」

2016-04-19 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160419
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(3)ナッ神とかわいい守護像たち

 大切なお釈迦様を守護したり、仏法を守護する像も、さまざまです。境内には、鐘を運ぶ人や霊獣の像も建立されていましたし、釈迦を信仰している弟子や信者の像も多かったです。日本の寺では、釈迦の弟子の像として五百羅漢像などを見ることができますが、ミャンマーの寺堂や境内には、バラエティ豊かな像を見ることができました。

お釈迦様をお守りしている霊獣たち。守護神,お釈迦様に付き従う弟子や信者の姿。私の目にはユーモラスななごみ系の像が多いように思えました。日本の仏法を守る神像は、仁王さまや四天王や阿修羅像など、いかめしく強いイメージの像が多いのに対して、ミャンマーの仏様守護像は、かわいらしいのです。

 また、来世への祈りをささげるお釈迦様のほか、現世の願いを聞き届けるナッ神が、お寺に祀られている場合も多く、たとえば、ナッ神信仰の本山的なポッパ山山頂の寺院にも、お釈迦様とナッ神がいっしょに祀られていました。
 「ナッ」は、精霊、魔神、死霊、祖霊などを総合していて、ミャンマーの仏教徒にとっては、お釈迦様は来世、ナッ神は現世の願いをかなえてくれる、大切な存在として、仏教と並存しています。

 ポッパ山の寺院など、もともとはナッ神土着の信仰場所であったと思われる場所も、仏教とナッ神信仰が混成しています。
 日本の神仏習合では、本地垂迹説となり、天照大神は大日如来の仮の姿、須佐能尊は熊野権現の仮の姿、と解釈されました。(さまざまな宗派によって習合の解釈は異なりますが)
 ナッ神は、習合することなく、来世担当の仏教と別の現世担当信仰として残りました。これも信仰のひとつの形かと思います。

 ナッ神は、自然神でもあり、人間の形をして現れることもあり、また、日本の祟神「怨霊信仰」のように、非業死の人間が祟りをもたらすナッ神となることもあり、ナッ神はひとくちでは言えない複雑な性格を持っています。

 いずれにしろ、ミャンマー仏教を理解するために、ナッ神についても知る必要があり、タイなどの東南アジアの上座部仏教とも異なっているミャンマー仏教を知るのは、門外漢のHALにはむずかしいことでした。さまざまな像を見ても、「これはヒンドゥ仏の影響を受けているけれど、仏像のひとつ」「これは、仏像ではなくて、ナッ神の像」「これは、お釈迦様の弟子」などの説明を受けても、そのときは「なるほど」と思っても、あとから写真を見ても、どれがどれやら、ごちゃまぜです。
 私の理解は、目に見えるものに及ぶだけなので、お釈迦様を守護する神、霊獣、ナッ神なども、「かわいいなあ」とか、「ユーモラスだなあ」などの感想で終わっています。

 以下、かわいい像を中心に、お寺の境内にある像や、レストランホテルなどの置物、壁飾りなどとしておいてあるさまざまな像。かわいかったり、不思議だったり、いろいろな像、信心深い人にとっては信仰の対象でしょうが、私は、その造形を楽しませてもらいました。

 バガンの寺のナッ神


 バガンホテルの壁飾り。逆立ちの像をあちこちで見かけましたが、何の神なのか、よくわからないまま。


 シュダゴンパヤーの道案内像(?)


 ナーガ(蛇・龍)の上におわす、いったい、なんの像なのか。


 ヒンディ教の影響も強いミャンマー仏教なので、ヒンディの神々から取り入れられた仏像もあります。お釈迦様以外の像のうち、吉祥天像を紹介します。日本の吉祥天とことなり、ヴィシュヌの妻ラクシュミーという印象が強いです。
 この女神さまはガルーダ(霊鳥の一種、日本語では迦楼羅)に乗っているので、祈れば霊験あらたかなんだろうと思ったのですが、その霊験は来世なのか現世なのかは、よくわからないまま。





 ↓の左側のカラフルな小パヤー。日本のお寺の中では見られない色彩ですね。右側はナッ神だと思いますが、確認はしていません。


 ナーガ(蛇・龍)に守られている仏陀。カラフルなナーガです。


 お寺の鐘を運ぶ像、どれもユニークな姿です。
 



 仏教信者で、多額の寄進をした人、すなわち寺院を建立した王や財宝を寄進した金持ちを像にして、礼拝の対象にするのは、恩人や両親を礼拝する文化とひとつづき。お釈迦様を礼拝するのと同じように、これらの「ありがたい像」は礼拝されています。



↓いちばん右側のふくよかな方(俗語ではデブという)、なにの功徳によって人々に祀られる像となったのか。やはり、寄進多額の功だったのかなあ。あやかれるように、身体にお札がはりつけてありました。


<つづく>
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ミンガラ春庭「金箔仏像ネオンサイン光背」

2016-04-17 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160417
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(2)金箔仏像ネオンサイン光背

 ミャンマーの寺の中に、仏像がたくさんあります。ひとつの寺の中に1千体の仏像があるとして、そのほとんどが釈迦像です。日本の大乗仏教(古代仏教の大衆部仏教より分派)のように、阿弥陀様やら観音様やらお地蔵様などの像は、皆無とは言わないまでも、めったにお目にかかることはありません。
 ただひたすらお釈迦様に来世のよき転生を祈るのが、ミャンマーの上座部仏教です。

 四天王像や日光菩薩月光菩薩薬師様に阿修羅さま、などおわしませぬかわり、お釈迦様は8つの種類があり、月曜日のお釈迦様、火曜日のお釈迦様と、生まれた曜日の担当おシャカがおわします。水曜日の担当は、午前中釈迦と午後釈迦にわかれて、八方向の担当をすべく、菩提樹のまわりなどには、8体のお釈迦様がすわっていらっしゃる。
 生まれ曜日計算方法によると、私は月曜日、娘は水曜日午前中、息子は土曜日でした。(計算方法を知りたい方は、『地球の歩き方』などに載っていますから、本を買ってください。ネット内にもさまざまな計算式が出ていますが、ややこしいのが多いので、旅行ガイドブックが簡単です)

八曜日のお釈迦様


 ミャンマーの人々は、大切なものを金色にするのが好みなので、新しい仏像はたいてい金ぴかです。作られた時代が古い仏像のなかには、石の像も銅像もあるのですが、修復するとなれば、金色にする。
 たいていのお寺には、金箔を売っていて「これを仏像に貼れば、御利益あらたか。来世には今よりもっとよい人生をおくれる」と、売っています。10枚で千円くらいだったので、それほど純度の高い金ではない金箔だろうと思いますが、みな、競って仏像に貼り付けていました。金箔でぼこぼこになっている仏像も多かったです。

シュエダゴンパヤーで。坊やもお父さんの言いつけ通りに、仏像に金箔を寄進しています。


金箔の重ね貼りでデコボコになっている仏像


 妹と2008年に旅行したときのこと。タイの仏像も、アユタヤなどの古跡では石のままの仏像も並んでいましたが、観光地になっている有名寺院の中の仏像はたいてい金ぴかでした。東南アジアの上座部仏教では、金ぴかが好まれているのでしょう。
 なにを尊いアリガタイと感じるかは、それぞれの文化。私が「金ぴかの仏様よりも、木像や石像のほうが落ち着いて拝める」と感じるのは、そういう文化の中で育ってきたからです。

 私には、白いお顔で睫毛ばっちりの仏像や金ピカピカの仏像、ネオンサインぴっかぴか電飾の光背には親しみが感じられないのですが、仏教伝来時にはそうではなかった。奈良東大寺の大仏さまも、聖武天皇が作らせたときには、全体重量380トンの金銅仏に9トンもの金を水銀アマルガム法でまとわせて、金ぴかの大仏像だったということです。ようは、なじみがあるかないか、の違いかも。美男におわす鎌倉大仏も、頬のあたりに、当初の金箔貼り付けの痕跡があるそうですし。

金ぴか仏像に金糸銀糸ぬいとりの袈裟を着せて、光背はネオンサイン式でぐるぐるに光らせる。ミャンマー標準仕様のお釈迦様。


 現代日本の人々は、近世近代の感性を主導したワビサビという美意識のため、どうも秀吉が作らせた黄金茶室とか、某温泉ホテルが名物にしている純金湯船なんぞに対して、斜めに見る癖があります。下賎出身をひけめにしていた秀吉のせいいっぱいの虚飾であろう、と思ってしまう。
 私なんぞは、泉の女神に「お前が落としたのは金の斧か銀の斧か」と問われたら、たとえ錆び鉄の斧一本すら落としていないとしても、「金です、きんキン、もちろんキン」と、大声を上げそうなんですけれど。金は欲しい、されど美意識のうちでは、金が欲しいという俗な気持ちを人様には知られたくない、というねじくれた感情になってしまうのです。ミャンマーの人々のように「金」は大切な物、その大切な物は真っ先に仏様に寄進したい、という素直な行動のほうがずっと気持ちよいと、わかっておりますが、、、、、私に、純金湯船につかる機会があるとしたら、とても気恥ずかしい思いをしながら湯につかることでしょう。

 バガンの仏教遺跡群のお寺のひとつにある、金箔貼り付け釈迦像。高い位置にあって、上になかなか届かず、足下の台座に貼り付ける人も多い。


 では、ありがたい金ぴか仏像や白塗りお顔のお釈迦様に、礼拝。

シュエダゴンパヤー、一千体のお釈迦様のなかの、いくつか






 シュダゴンパヤーの中にも寝釈迦があります。シャカが横たわる姿、日本だと涅槃仏が多く見られますが、上座部仏教では、横たわった姿で説法するシャカの姿が「寝釈迦」として礼拝されることが多いです。


 ヤンゴン市チャウタージーパヤーの寝釈迦


 寝釈迦の足裏も金色を光らせて仏教の教えを伝えています



 ヤンゴン市ローカチャンター・アーバヤー・ラバムニ・パヤー。オン先生に連れて行っていただいた「アメイジング!テンプル」のひとつ。
 軍政時代2000年に、政府が威信をかけて建立した寺のなかに、大理石500トンという大仏が安置されています。高さ11.5m、幅7.3m、厚さ3.4mtの巨大な仏像です。乾期の乾燥により大理石がひび割れをおこすので、大仏は空調つきガラスケースで覆われています。ガラスが光ってしまってうまく撮影できませんでした。
 大理石仏としては世界一で、ここより大きい大理石仏はどこにもないという「アメイジング!」でした。みな、熱心に来世のために祈っていました。



ヤンゴン市ダラ地区のお釈迦様



<つづく> 

 地震でお身内を亡くされた方、被害にあわれた方、祈りが届くと信じております。来世も大事なことでしょうが、私はただひたすら、現世でつらい人々のために、祈り続けます。
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ミンガラ春庭「ミイラ&蝋人形礼拝」

2016-04-16 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160416
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ブツブツしい日々(1)ミイラ&蝋人形礼拝

 ブツブツしい日々第1弾は、春庭には神々しくは思えなかった、蝋人形式仏像の紹介です。

 ミャンマーの人々は、生き仏のような高僧を礼拝し、信仰する伝統を持っています。そのようなありがたい高僧は常に身近にいるわけではありませんが、ときどき、徳の高い高僧が出現し、大勢の信心深い信徒を集めます。生きているうちから、あるいは死後に、そのお姿をそっくり再現した蝋人形の仏像が作られます。

 そのような生き仏様への信仰、信じる人には心のよりどころだ、ということもわかりますし、来世のために寺参りをし、釈迦像や生き仏を拝むことがなにより大切な生活の基本なのだということも理解できます。
 しかし、来世よりも、現世において、明日の飯は食えるのか食えぬのかというギリギリの生活不安の中で生きてきた春庭には、生き仏様や蝋人形仏像を礼拝しても現世の御利益はないと思うと、あまり熱心に礼拝する気分にはなれませんでした。
 言うてはなんですが、蝋人形の高僧、こうごうしくは思えず、、、、、。
 
 ミャンマーの仏教徒たち、みな真剣な顔して蝋人形に礼拝していました。釈迦牟尼も、もとは人間。蝋人形になってまつられている高僧も、こうして礼拝の対象になったからには、仏像と同じです。同じ御利益があります。でもね、、、、、こうごうしく思えない私が悪いのは承知だけれど、なまなましいお顔を拝むには、気恥ずかしく、ブツブツしい。

 2015年9月に、北オッカラパにある僧院でバックパッカーさく君が1週間の出家修行を実行しました。2階にある僧侶達の読経修行の場には、この寺で一番えらいお坊様の蝋人形仏像がありました。この高僧はまだ生きている人なのだそうで、いわば「生きボトケ」状態です。
 自分の姿がそっくりそのまま蝋人形になって、人々が礼拝しているのを、生き仏様は見ていることと思うのですが、どんな気分なのでしょうか。

生存中の、高僧の像。


 2016年3月19日に、オン先生ご推奨の「アメイジングテンプル」にお参りしました。
 どこがアメイジング(じぇじぇじぇびっくりポン)なのかと言うと、高僧が亡くなったさい、そのまま腐ることもなくミイラ状態になったからです。遺体は棺に納められてお寺に安置されています。

 ミイラは、オランダ語 mummie を漢訳して、「木乃伊」と書きます。世界でもっとも知られたミイラは、エジプトピラミッドに存置された王たちの身体でしょう。これは死後、永遠の命を願って、さまざまな施術によって防腐措置をほどこしたもの。

 一方、日本には古くから「天然ミイラ」が存在してきました。防腐剤などを使わなくても、高僧が亡くなるときなど、死期を悟ると、1ヶ月から数ヶ月前から徐々に食事を断ち、最後は水も飲まずに死を迎えます。身体はからからに乾いた状態で絶命しますから、死後、そのまま乾燥状態の遺体が残されます。日本では尊い宗教者がこのような状態で亡くなることを「即身仏」と呼びました。

 雨期には湿度が高く、年中気温が高いミャンマーでは、高僧であっても遺体が即身仏になるには、日本よりもさらに条件がむずかしかろうと思います。しかし、死期を悟った高僧が絶食状態で乾燥して亡くなり、その時期が乾期のはじめなら、即身仏ができあがることもあるでしょう。

 そのような即身仏は棺に納められて祀られていましたが、お参りの人々は、中に納められている即身仏は見えないので、もっぱら生前の姿を写した「蝋人形」仏像を礼拝していました。生前の姿は、仏像と同じように拝まれています。人々は、自分の来世がよりよいものとなるよう、熱心に祈っていました。

即身仏となった高僧の生前の姿を仏像にしました


即身仏は、棺の中におわします。


 私は、釈迦像にもミイラとなった高僧蝋人形にも、もっぱら現世利益を祈りました。家内安全健康長寿商売繁盛五穀豊穣世界平和。息子のためには学業成就、娘には良縁祈願。いろいろお願いしておいて、ミイラ仏さま、どれでもひとつくらいは、結願お願いいたします。え、来世にはかなえてあげよう、ですって、、、、そこをなんとか、現世で。

<つづく>

4月13日発生の、マグニチュード6.9ミャンマー西北部地震、余震うち続く熊本地震の犠牲者被災者のために祈っています。
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ぽかぽか春庭「ブツブツしい」

2016-04-14 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160414
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>春の庭で楽しむことば(3)ブツブツしい
 
 ブログ仲間(と、勝手に思っている)すみともさんのことば感覚が好きです。川柳で鍛えた言語感覚。くすっと笑えて、ときに深く、また、卓抜な造語に感心しきり。
 「捨て色・差し色」なんていうファッションやカラーコーディネートを専門にしている人でもないと日頃使わないことばを教えていただいたり、上州では「繭玉」と呼んでいた正月の餅飾りを「成木餅」と呼ぶ地方もあるのだと知ったり。

 エイプリルフールをもじった「エブリディフール」も、そうそう、私も毎日で~す、と自分のおバカぶりを肯定できる気分になりましたし、
すみともブログに載る川柳のことばもいつも「こうごうしい」ばかりに輝いています。

 神様のように厳かで気高い感じを受けるとき、「こうごうしい」と言います。「神(カム)」をふたつ並べて「神神し(カムカムし→カウガウし→コウゴウし」と転じ、現代日本語でも「神々しい」は使われています。
 神様や「カミ」のようなものへの「神々しい」という語ですが、仏像を見て、厳かで気高く感じれば「こうごうしい仏像」と言ってよいのだろうと思います。仏像も気高くおごそかですから。

 すみともさんが春庭ブログに寄せてくださったコメントのことばの中にも、「あ、これ、いただき」と思うセンスのよいことばがありました。
 「ブツブツしい」という造語。

 最終授業の日に、教え子のヤンゴン大学生たちから春庭が受けた「教師礼拝」の報告をしました。仏像を礼拝するのと同じように、両親や恩人、恩師を礼拝する文化がミャンマーにあります。尊敬する教師のひとりとみなされて礼拝を受け、春庭大いに感激した、というコラムを書きました。
 学生達に取り囲まれ、礼拝を受けているときの気恥ずかしい気持ちをどのような語で表したらいいのかと思っていたところ、すみともさんから「ブツブツしいHALセンセ」という評をいただきました。

 あらら、この造語、私の気持ちにぴったりです。
 ミャンマーの地で、こうごうしい仏像を礼拝し、神にも等しい恩師を礼拝するのはわかります。しかし、春庭のごときブサイクなブツブツ不平不満のヤカラがていねいな礼拝を受けたのでは、どうにも、いたたまれぬような申し訳なさ、気恥ずかしさを感じました。人から拝まれるほどのもんではなし、という気分です。

 すみともさんの「ミャンマーにおわすは仏様だから、神々しいではなくて”仏仏しい”かしら」というコメント、とってもおもしろくて、「ブツブツしい」という造語が気に入りました。


 春庭は、ミャンマーでは「私は仏教徒。ZEN仏教徒です」と自分の宗教を紹介していましたが、もとより本物の仏教徒ではなし。お寺に行くのは初参りお盆のほかは、ふた親や姉の法事だけ。お盆の寺参りも、忙しければ省略。
 親の位牌はもらってあるけれど、棚の上に載せただけで、毎日のご飯や水のお供えなどしていません。位牌に霊は宿っておらず、母も姉も風になっているか、宇宙500億光年かなたの浄土へ行っているかしていると思っています。(西方十万億土の春庭式理解。私のいる宇宙空間とは別空間)。
 心の中で母や姉に呼びかけていれば、きっとテレパシーで通じていると思っている似非仏教徒です。

 そんないいかげんなHALセンセですから、暑い、蚊が多い、狂犬病持ちかもしれぬ野犬こわい、一流レストランでも蝿が飛ぶ、と、ブツブツ文句たらたらの毎日だったヤンゴンで、学生から拝まれるなんぞ、もう恥ずかしいったらありゃしない。そんな気分が「ブツブツしい」ということばに合うんじゃないかしら。

 ミャンマーの人々が毎日の礼拝を欠かさない仏像、仏塔、高僧、仏壇。でも、私には毎日拝む仏様などいないし、ブツブツしい気分でのお寺参りもあまり御利益があったとは思えません。
 とはいえ、ミャンマーでは、日本にいるときの何倍もお寺参りをしました。たぶん、1年に2度お参りすれば十分な似非大乗仏教徒としては、もう一生分はお参りしたと思います。一生分のお参りをすませて、ブツブツしい春庭ですが、お寺参りの御利益、余っておつりがきています。

 ミャンマーのお寺で礼拝してきた御利益をみなさまに、お裾分けしたくぞんじます。
 このブツブツしさを共有して、御利益もらってください。
 ああ、しかし、ミャンマー仏陀の御利益は、来世が現世よりいい人生になるってことです。お寺に寄進しなくちゃ来世の御利益にはならんのですが、春庭へ寄進なさると、現世での御利益があると思います。たぶん。
 どうぞ、どしどし寄付をお寄せください。常時受け付けております。
ミャンマーでは、寺の池の鯉に餌を与えると動物愛護の功徳があるし、鳩への餌やりも功徳。野犬へ残飯与えても功徳。春庭への寄進もむろん動物愛護、、、、、なのか?

 みなさまの敬虔なるぶつぶつしいお気持ちが、御利益をもたらしますように。

<おわり>
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ぽかぽか春庭「ヤバいバカラで、人生棒に振る」

2016-04-13 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160413
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>春の庭で楽しむことば(2)ヤバいバカラで、人生棒に振る

 野生動物も、生き抜くための餌探しのほかに、「遊び」を楽しむこと時間を持つことが知られています。イルカやチンパンジーなど知能が高いと言われている動物だけでなく、動物の子供同士で取っ組み合ったりする闘争遊び、カワウソが石を使って遊ぶなどの物を使う遊びなど、生き物には遊びが重要な行動になっています。
 古代の日本語では、もともとは「神遊び」。神に近づくための歌や踊り、飲食、儀礼が遊びでした。

 神とは縁遠くなってしまった現代の人間にとっても、「遊び」は、日常から離れて別世界に入り、日常のよどみを払って新しい生き生きとした生を取り戻すために必要です。
 遊びは、心身を開放し、陶酔熱中をするためのもの。

 ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」で、大きく分けると3種類ある、と述べています。
 ミミクリ(ものまね遊び、ごっこ遊び。ママゴト、など自己表出)、アゴン(競争、闘争。かけっこ、とっくみあい、などスポーツ全般、自己の能力によって勝ち負けを争うもの)、アレア(偶然。くじ、じゃんけん、パチンコ、競馬などの賭博など、自己の能力ではなく偶然によって勝ち負けを競うもの)

 アレアとアゴンはどちらも勝ち負けを楽しむ要素がありますから、重なり合うところも多く、スポーツ選手が遊ぶことになるとアレアを楽しむことになるのは、野球賭博もバドミントンも同じ。

 有力バドミントン選手が選手生命を棒に振ってしまったバカラ賭博。
 バカラの語源としてネット上では「イタリア語のゼロに由来する」という解説が出まわっているのですが、現代イタリア語では、ゼロは英語由来の「zero」です。イタリア語のもとになっているラテン語では「nihil(虚無)」が「ゼロ」を表すようになったのですし、なぜ「バカラ」がイタリア語のゼロのこと、といわれるようになったのか、知っている方いたら、教えてほしいです。
 インドで発見され、アラビアに伝わった「0」が西欧で「数字、ことば」として使われるようになったのはルネッサンス期以後ということですが、いったいどこから「バカラはイタリア語でゼロのこと」という語源がひろまったのでしょうか。

 バカラにはまって、競技人生を棒に振ってしまった選手。残念なことです。
 「棒に振る(すべて無駄になること)」の語源として、江戸時代の行商、天秤棒の両側に荷をつけて売り歩く「棒手振り」から、というのも、あまり納得のいかない語源解説です。「棒手振りは、棒をふりふり商売しても利益が薄く、財産をなくすから」というのですが、棒手振り商売人が皆、一文無しになってしまうなんて、江戸270年の間にどれだけあったのでしょう。棒手振りは棒手振りなりに、ちゃんと商売したら利益も出ると思うのですが。

 バカラではなく、さいころ賭博から出た慣用句。

・一点張り
 さいころ賭博や花札などで、一カ所に続けて掛けることを一点張りと言う。意味拡大して、ひとつのことにだけ集中し、他のことは顧みない様子を「一点張り」と表現するようになった。例文「私の夫は仕事一点張りで、家庭をかえりみない」「あの人のいうことは、丁寧な説明、一点張りだけれど、ちっとも説明になっていない」など。
・裏目に出る
 さいころ丁半賭博で、掛けた目と反対の目が出て負けることと同様に、予想したことと異なる状態になること。「育児休暇中の浮気を女房に謝ったら、裏目に出て、議員は離職のうえ、離婚するはめになった」
・思うつぼ
 さいころ賭博を行うさい、ふたつのさいころを入れる壺をふり、思い通りの目を出すことから、予想されたことが思い通りに遂行されること。例文「北の三代目がやんちゃをやって、核兵器など開発することは、与党にとっては思う壺で、三代目があばれるたびに内閣支持率が上がり、日本の政権は安泰となる。思うつぼ通りにはちゃめちゃをやる三代目に与党は感謝している」

 言語学のお楽しみのひとつ、語源探索。言語学の先生からは「日本語の起源研究と語源研究は、研究対象としてはいけない。一生やっても成果がでないから。楽しい遊びとしてやりなさい」と、肝に銘じられました。
 専門にしようと思った動詞論も、研究しつくすことはできないまま言語学からは遠ざかってしまったHALですが、語源探索の楽しみは続けています。

 遊びに関わる語の語源探索として、「おもちゃ」を取り上げようとしました。予定稿執筆は3月でした。ところが、4月10日の「たけしの平成教育委員会」のクイズ例題として「おもちゃ」の語源が出題されていたのです。これじゃ、HALが書いたら、絶対後追いのまねっこだと思われるだろうから、掲載やめようと思ったのですが。もともとHALごときが語源について見知るのは、辞書その他の本から知る程度なので、自分で調べるわけではありません。辞書の後追いもテレビの後追いも五十歩百歩なので、書いたものは、以下にUP.

 どうして、子供が遊ぶ道具を「おもちゃ」と呼ぶのか。たいていの古語辞典には語源が載っています。
 「子供が手に持って遊ぶもの」なので、「持ち遊び」が元の語です。
 こどもに話すとき、ていねい語の「お」がつきやすく、「おもちあそび」。日本語は、四音節に短くなることが多い。→「おもちあ」→「おもちぁ」→「おもちゃ」

 ことばの探索、楽しい遊びです。辞書一冊あれば、何時間でも遊べます。
 また、季語をめくって日本の季節を楽しむのも無料の遊び。
 西欧の行事であるクリスマスが冬の季語になっていますが、「イースター(復活祭)」も春の季語になっています。
 
 ミャンマーは4月が新年。水掛祭りの真っ最中。
 水掛祭り、日本の歳時記には載らないでしょうが、みなが水を掛け合って新しい年のめぐりを楽しむミャンマーの人々の「あそび心」を想像しています。
 神も遊ぶ、ほとけも遊ぶ。

<つづく> 
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ぽかぽか春庭「ヒジる、ディスる」

2016-04-12 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160412
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>春の庭で楽しむことば(1)ヒジる、ディスる

 3月はじめのヤンゴンの事務所で。
 日本人留学生が和菓子をひとくち食べて「わぁ、これ、ヤバイです」と感想を述べました。そろそろ日本の味が恋しくなる頃の留学生に喜んでもらおうと、日本からお菓子を運んできてプレゼントしたボスは「えっ?」と、不審な顔をしました。私はあわててフォロー。「センセ、今のは褒め言葉ですから。おいしいって意味です」

 ビルマ学研究50年の碩学でも、若者ことばの推移についてはご存じなかった。私のほうが若者語の語意変化に少しは詳しいと思うと、ちょびっとうれしかったりして。ビルマ語ミャンマー事情についてボスに教えてもらうばかりだったセヤマーHALとしては、イマドキの日本語について述べることができて、ちょっとは恩返しができました。

 ボスは学生に直接教える授業から離れて10年以上たっているし、2チャンネルなどは覗かない方なので、新語には詳しくない。「ヤバイ」が若者ことばでは、褒め言葉にも使われるようになって久しいですけれど、現場の若者ことばは、やはり直接教室で聞いていないと遠ざかる。
 語学教師として、常に新語や若者ことばにはアンテナを張っているつもりですが、これから私も現場を離れると生の若者ことばからは遠くなっていくのかも。ま、ネット用語は目にはいるだろうけれど。

 2013年の年末発行の第7版に、約4000語の新語を載せた三省堂国語辞典(三国)は、2015年の新語として「じわる」を大賞に選びました。「じわじわ」からの動詞化です。さいしょはあまり心に残らなかったり感動しなかったことが、じわじわと心に染みてきて感動へと気持ちが変わってくるときに使用するようです。私は使ったことありません。

 次々に出てくる若者ことば。イマドキのハヤリ言葉、すぐにすたれるさ、とバカにしていても、若者世代の使用数が50%を超えれば、辞書に載る。これまで誤用と記されてきた「的を得る」も、三国第7版では堂々「的を射るから派生した語」として、正式搭載です。誤用も、みんなで使えば怖くない。

 以下の「現代語動詞」のうち、日常で使うようになっているのはどの範囲まででしょうか。すでに辞書搭載されている語から、昨日今日の新語まで。カタカナ語だと抵抗を感じる方も多いかも。

・フランス語から。
サボタージュ(sabotage)→サボる
・英語から。
アジテーション(aditation)→アジる 
コピー(copy)→コピる 
ダブル(W)→ダブる 
デコレーション(decoration)→デコる 
トラブル(troubule)→トラブる 
パニック(panic)→パニクる 
ハーモニー(harmony)→ハモる 
ミス(mistake)→ミスる 
メモ(memorandam)→メモる 

 まだ、新語であり、辞書には載っていないと思われる語。「ディスる」
 ディス(英語接頭語のdis。disrespectから)→ディスる(尊敬できない対象に、おとしめる評価を加えること)。
 15年ほど前に、英語音楽界の中、ラップやストリートミュージックにdisrespectが登場し、「尊敬しない」「見下す」「軽蔑する」という意味をこめて、相手を揶揄するような歌詞を歌うことからはじまったそうです。10年前にはネットスラングとして使われるようになり、テレビ番組で使う人が出てくると、日本の若者用語として使われるようになりました。
 我が家ではアラサー娘息子が使用していますが、高齢者HALは当然使うことはありません。意味は知っている語を理解語彙といい、自分で日常に使う語を使用語彙といいます。ディスるは、私の使用語彙にあらず。

 コンピュータ用語から
バグ(bug)→バグる(コンピュータプログラムに計算外の不具合が出ること)
グーグル(google)→ググる(グーグル社の検索機能を使って語意を調べること)
ブログ(Weblog→blog)→ブログる

 漢語・和語から。以下の中で理解語彙はどれでしょう。使用語彙はどれでしょうか。
ガチンコ(格闘技界隠語。真剣勝負)→ガチる 
鴨→かもる 
牛耳→ぎゅうじる 
拒否→きょひる 
愚痴→ぐちる 
ケチ→けちる 
告白→こくる 
事故→じこる 
駄弁→だべる 
日和(ひより)→ひよる 
拉致→らちる 
野次→やじる 
挙動不審→きょどる 

 新語を同年齢の人より早めに使うことが多い私も、さすがに「きょどる」「きょひる」は使ったことなし。理解語彙にとどまっています。
 「ぐちる」などは、毎日ぐちってますから使用頻度が高い。「けちる」は、HAL日常茶飯事の動詞。

・麻雀用語から
聴牌(テンパイ)→テンパる(終了間近という緊張感から余裕のない状態になる)
自摸(ツモ)→ツモる 
 「積もる」は、以前は(低高高)アクセントでしたが、自摸る(低高低)が使用語彙化した影響からか、低高低アクセントに移行中です。

・名詞以外(形容詞副詞、擬音語擬態語)から
テカテカ光る→テカる 
パクっとそっくりマネする→パクる 
ボコボコに打ちのめす→ボコる 
ポシャンと失敗する→ポシャる 
シブシブおこなう→シブる
(「渋」という名詞に「る」がついた、という説もあるが、私は、「渋(名詞)」から「渋し(形容詞)」「渋々と(副詞)」「渋々する(動詞)」が出てきて、シブるになったと思うのですが、どうでしょう。

 名詞その他から動詞を派生させるのは、日本語の造語機能のひとつです。
 古代語で「日を知る尊い人」が「聖(ひじり)」として名詞になり、中世には、聖(ひじり)が、「聖る(ひじる=僧になること、聖のように振るまうこと)」として使われていたそうですし、赤・明(あか)を語根として「明かる」「あく」などの動詞ができたことを思うと、名詞→動詞は、日本語の通常造語です。
 若者が「ディスリスペクト→ディスる」を使いだし、それが定着すれば日本語になる。

 「ディスる」や「聖→ひじる」を使わない私も、「愚痴る」は使いますし、「サボる」のは毎日。
 ヤンゴンから持ち帰った荷物の整理整頓を後回しにして、愚痴りつつサボっている毎日です。


<つづく>
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ぽかぽか春庭「桜吹雪の中で」

2016-04-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160110
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2016十六夜さまよい日記4月(2)桜吹雪の中で

現在の私が、なにかひとつ「だいじなもの」を抱えて写真におさまるとしたら、何を抱えるでしょうか。
 やはり、「物」は思いつきません。なにより大事な「家族」と「いままで過ごしてきた年月のすべて」が私にとっての宝物なのです。
 むろん、ミャンマーですごした日々の思い出も、私の宝物です。

 シェエダゴンパヤーにて。ロンジースタイルの娘と、どうしてもロンジースタイルになりたくない、と言った息子のツーショットです。せっかく息子用のロンジーを買っておいたのに、、、、。

シュエダゴンパヤー前の娘と息子


 息子がロンジーを拒否したのは、私が「ロンジー履いていれば、ミャンマー人に見えて、外国人入場料金8ドルを払わずにすむかもね」と言ったからです。車が一台も見えなくても、赤信号では絶対に渡らないという規則遵守の息子なので、「ぼくは、ジーンズで行く。外国人だから、外国人料金を払う」と言って、一人で料金所に払いに行きました。結果、係員に「おまえたち、3人とも外国人だろう」と言われて、ロンジー着ている娘も私も8ドルずつ払うことになりました。
 こういう「決められたことは絶対に守る」というのは、夫の遺伝です。私は、「まわりに人がおらず、車が前後にないなら、赤信号でも渡って良い」という考え方なのに、へんなところが夫に似ました。
 でも、そんなおかしな家族が私の宝物なのです。

 タカ氏はこれまで25年間続けてきたタイ語学習を終わりにして、これからの25年間はミャンマー語を勉強したいと言っていますので、ミャンマー文字練習帳やらミャンマー語の絵本やらをおみやげに買いました。あと、息子が着用拒否したロンジーも、息子は持って帰りませんでしたので、「あなたのために買ったのよ」と言って、タカ氏へのおみやげにしようと思います。まあ、これくらいの「赤信号でも渡る主義的誠実さ」が、私にはちょうどいい。十波羅蜜のUpaya ウパーヤ日本語訳「方便」は、「嘘も方便」というありがたい徳目になっていますし。

 4月10日は、姉の命日「桜吹雪忌」です。ハラハラと散る桜を見ていると、姉と過ごした日々、三姉妹が両親とすごした日々が思い出されます。
 私が過ごしてきた時間のすべてが私には宝物です。

<つづく>
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ミンガラ春庭「宝物といっしょに・ビルマ古写真コレクションその5」

2016-04-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160409
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(5)宝物といっしょに

 日本の近代、明治も20年代後半になってくると写真が大衆化していき、貧乏だった樋口一葉の一家も、一葉と母、妹邦子が三人そろって写真におさまっています。(樋口一葉記念館などで見ることができるほか、一葉関連の書籍にはたいてい載っています)。
 ビルマで、写真館で撮影してもらうことが一般化するのは、もう少し年代が遅れていたのではないかと思います。

 王国時代英領時代のビルマで、一般の人が写真を撮る機会は、そう多くはなかったろうと思います。19世紀末に撮影されたビルマ古写真の多くは、キリスト教宣教師が少数民族を教宣する際に撮影したもの、あるいは英領支配層が統治地域を撮影したものなどです。
国立博物館で王国時代の最後の王と王妃の写真を見ましたけれど、王族や大臣、お金持ちの写真のほか、一般の人が写真を写す機会を得られるようになったのはいつごろからか、と思います。

現代のミャンマー、空前の写真ブームです。それというのも、ケータイが数年の間に一気に庶民にまで広まり、ケータイカメラで撮影することが、ここ数年のブームになっているのです。乗車賃200チャット20円のバスにのっている人たちも、みなケータイを持っており、カメラを扱ったこともなかった人たちが、いっせいにケータイを向けてシャッターを押しています。

 これまで、光学カメラはむろんのこと、お買い得になったデジタルカメラも、一般の庶民には高嶺の花の利器でしたから、写真リテラシーがなく、写真の撮り方がまだまだ下手です。

 たとえば、シュエダゴンパヤーのてっぺんまで入れて、友人と私を撮ってほしいと、ミャンマー人に頼みます。仏塔(パヤー)のてっぺんまでいれると、人物は胸から上くらいしか入らないのですが、胸のところに手をおいて、人物はここから上を撮り、仏塔の上までいれてほしいと、ジェスチャーや英語で頼むのですが、さっぱり通じません。(ミャンマー語を学べって話ですね)。

 人物がファインダーに見えたら、人物をど真ん中に撮る以外のカメラワークはこの世になきがごとく、必ず人物を丸々中心に写し、あれほど頼んでいた仏塔は、真ん中あたりでちょん切れている。他のカメラワークも同様。人物をはじっこに入れて、カラウェイパレスを中心にしてとってほしい、なんてこと頼んでも、こちらの意図した構図にはなりません。
 当地の観光地でシャッターを人に頼むときは、できるだけ望遠付きの一眼レフあたりを持っている外国人観光客に頼みます。こちらが写してほしいアングルを理解してシャッターを押してくれますから。英語通じるし。(だから、ミャンマー語を学べって)

 現在のミャンマーの人々は、はじめて手にした「写真を自由に写す」というアクションが楽しくてたまらない。オン先生に同行したときも、こんなところ撮らなくてもいいと思うところでも大量に写真を撮り、メール添付で大量に「先生の写真を送ります」と、くださる。親切謝するに余りあれども、こちらから見ると、大半はボツ写真です。

 手ぶれ防止機能など、日本のデジカメ基本機能が、当地のケータイカメラにはまだないので、多くが手ぶれ写真です。帰国後の今では、それもミャンマーの思い出のひとつだなあと、オン先生撮影写真をながめています。チェズーティンバデェー、ありがとう、オン先生。

 オン先生撮影の写真。オン先生とともにすごした時間も私の宝物です。



 デジカメ普及後、日本の人々の写真撮影技術は、格段によくなりました。各地での写真教室で「花をきれいに撮影する方法」「かわいらしく生き生きした子供の撮り方」などを学ぶ人も多いし、各種撮影コンクールも多い。写真を見慣れていて、構図の感覚が育っています。さまざまなブログ中の写真も、上手なカメラワークが多いです。

 35年前に写真ジャーナリストをめざしてケニアに行ったタカ氏。地方新聞の記者として写真撮影はしてきたので、ケニア写真も私が撮ったのよりはカメラの腕は上等。でも、ポリシーとして白黒写真フィルムでしか撮らないタカ氏だったので、アルバムに貼ってあるタカ氏撮影写真は色なしです。(タカ氏新聞記者の時代は、新聞写真はほとんどが白黒だったのでね)

 たいていの旅行者が、地元の人を撮影してもそれっきりなのですが、タカ氏は田舎やナイロビで撮影した人の写真を現像してもらうと、必ずもう一度その土地を訪れ、写真をプレゼントしていました。タカ氏が言うには、「写真というおみやげを持って行けば、必ず前より親しくつきあってくれるから」と、ギブアンドテークを強調していましたが、地元の人々への誠実さがなければ、撮影した写真を必ずプレゼントする、という行動はとれないだろうと思ったことでした。その土地に行けないときは、プリントして郵送していたのです。
 この誠実さ、結婚後の妻に対しては、いっこうに発揮されなかったことが残念なところでしたけれど。

 「田舎の人を撮影してあげると、たいてい、家の中から、その家でもっとも価値のある品物を持ち出して、それを抱えて、ほら、これといっしょに撮ってくれって言うんだ」と、タカ氏。ラジオが家の中で最も価値あるという人はラジオを抱えて写してもらうし、時計がもっとも値段が高い品物であるときは、目覚まし時計を得意げに胸に掲げる。

 家の中に何もないという田舎の家で、子供を撮影したときのこと。子供は、家の中から「キンボ」というラードの缶を持ち出して、ラード缶を抱えて写真におさまりました。その子の家の中でいちばん値段の高い物がラード缶だった、というのは、せつなくもおかしくあたたかいエピソードとして、ケニアの思い出の中で35年たっても忘れないことのひとつです。

 ビルマの古写真に、壺や飾り箱、電話、ランプなどの貴重品が人物といっしょに写されています。家族写真などの場合、家の中のいちばんよいものを人のまわりに並べて記念として写したい気持ち、わかります。
 絵はがきの「家族」も、ほんとうの家族としたら、写真撮影をする余裕のあった上流家族ですし、モデル撮影かもしれません。

 家の中でもっとも高価な調度品であろう、蓄音機とつり下げ型のランプと金漆細工の器が9人の女性とともに映っています。左手前の女性は葉巻を手にしています。上流家庭のマダムと使用人達とも考えられますが、マダムを取り囲む女性達の衣装は、少数民族のものと思います。なんらかの元ネタ写真を合成した絵はがきとも考えられます。



 古写真の中の人々にとっての、さまざまな「よい物」。漆塗りの器、絹のシェードを貼ったランプ、大きなラッパ型の蓄音機、などなど。
 19世紀末、20世紀初頭のビルマで、写真を写す余裕のある家族ですから、お宝もいろいろある家庭でしたろうけれど、もしかしたら、写真場備え付けの撮影用備品という可能性もあります。目をこらして見つめると、異なる写真のなかの器が同じものだったりしています。同じような品物も出回っている、ということもありますけれど、写真場の備品ということも考えられますね。

 座っている女性の横の道具類、背景のついたてなど、貴重な品だったろうと思います。


傘は大事な小道具




男性肖像。葉巻も大事な小道具のひとつ。どんな身分の男性だったのでしょうか。


 まだまだ写真技術が未発達だったころの写真、写されるほうも「非日常」の気分があったと思います。
 大事なものを持ったり、まわりに並べたりした写真撮影。残された映像にも、その時代の大切な家財道具と人々の晴れがましい顔、いくらか緊張した顔、、、、。
 古い写真の中のビルマの人々。撮影のときは、晴れがましい思いをしながら、じっとしていたことでしょうね。貴重な姿を残してくれて、ありがとう、という気持ちで写真を見せてもらいました。

 日本では50年で消滅する肖像権なので、100年前の画像をこうして拝借し並べることに問題はないと思いますが、問題は、現在でもミャンマーの法律には肖像権も著作権もないこと。学科長がなんの遠慮もお断りもなくfacebookにUPした私の顔、100年後の人が見たらどんなふうに感じるでしょうか。100年前のミャンマーに、変顔のセヤマー(女教師)がいたんだなあと、笑ってくださいますように。

セヤマーHAL、教員宿舎最後の夜に


<おわり>
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ミンガラ春庭「10のパラミー・古き時代のビルマ肖像写真」

2016-04-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160407
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(4)十の徳目(パラミー)

 大学から春庭の宿舎に帰るとき、タクシーだとパラミー通りを通りました。パラミ通りの「MICT門」から入って、メインゲイト前で降ります。
 パラミーの意味、ミャンマーの仏教語であるパーリ語で「波羅蜜」の意味だろうと思います。(パーリ語: पारमि、Parami、 パーラミー)。仏教者が守るべき徳目を、パラミーといいます。 

 日本の大乗仏教には、六波羅蜜というものがあります。
六波羅蜜の波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミター、पारमिता、Paramita、の音を漢字音に写したことば。パーリ語の「パラミー」と同じ。

 大乗仏教では、求道者が実践すべき6種の完全な徳目を六波羅蜜といいます。6種とは,
(1)布施波羅蜜:施しをする完全な徳目 
(2)持戒波羅蜜:戒律を守る完全な徳目 
(3)忍辱波羅蜜:何事にも忍耐をする完全な徳目 
(4)精進波羅蜜:何事にも努力を怠らぬ完全な徳目 
(5)禅定波羅蜜:精神統一をはかる完全な徳目 
(6)般若波羅蜜:(仏教の究極目的である)悟りの智慧を持つ完全な徳目

 十波羅蜜は、上記の6種に4種を加えたもの。
(7)方便波羅蜜:巧みな手段で衆生を教導し、益すること。サンスクリット語:Upaya ウパーヤ、漢語音写:烏波野うはや。日本語訳:方便。
(8) 願波羅蜜:彼岸すなわち仏の理想世界に到達せんと立願すること。サンスクリット語:Pranidana プラニダーナ。漢語音写:波羅尼陀那はらにだな。日本語訳:願
(9)力波羅蜜:第1の解釈:一切の異論及び諸魔衆を受け付けないこと。第2の解釈:十力の行のうち、思擇力・修習力の2つを修行すること。サンスクリット語:Balaバラ。漢語音写:波羅はら。日本語訳:力
(10)智波羅蜜:受用法楽智・成熟有情智の2つを修行すること。サンスクリット語:Jñana ジュニャーナ。漢語音写:(若那)日本語訳:智。ジュナーニャ=智とは、物事を分別する知識・知恵。「万法の実相を如実に了知する智慧は、生死の此岸を渡り、涅槃の彼岸に到る船筏の如くに修行する」って、なんのことやらよくわかりませんが、とにかくありがたい教えです。

 ミャンマーの上座部仏教では、6種ではなく、10種の徳を守ることが「10のパラミー」として、子供のころから徹底して人のものの考え方感じ方にインプットされています。
 日本の十波羅蜜とミャンマーの「パラミー10の徳目」はまったく同じというわけではないかもしれませんが、基本はおなじです。日本の十波羅蜜と、ミャンマーのパラミー10の徳目の異同については、まだ把握していませんが、ビルマ仏教研究50年のボスによれば、大きな違いはない、基本は一緒、ということです。

 「10のパラーミー」は、代々の暮らしの中に刷り込まれています。
 とくに、ミャンマーの人々にとって、何をおいても第1の徳目の「布施=施し」を守ることが日常生活の基本になっています。
 毎朝、僧侶達の托鉢にご飯その他を布施する。収入の1~2割は。必ずお寺に寄進する。他者に対しては親切を施す。これらの布施パラミーを欠かしては、来世の輪廻転生がなくなりますから、みなせっせと施しを行います。私も数々の「親切」を施してもらいました。

 毎朝バスやタクシーの通勤途中で、托鉢僧の列に出会います。あわててカメラを出しますが、僧侶達の足は速くて、カメラを構えた頃には、最後の坊さんが通り過ぎたあと、ということが多い。なかなかうまい具合に托鉢僧の列をとらえることができません。

 ストランドホテルのショップで売っていたおみやげの托鉢僧人形です。


 また、(5) の精神統一も日常的に行われる「瞑想」の時間として、人々に定着しています。親切にしてくださったオン先生の父上は、毎朝3時に起きて3時間は瞑想し、それから朝の行動に入るそうです。たぶん、夜は暗くなるとともに寝てしまうのが、本来のミャンマー生活でしょう。ミャンマーでは年中、6時半日没、7時にはまっ暗。通常、夕食は5時半ごろからで、日没前には食べ終わる。

 オン先生ご自身も、瞑想の時間を出来るだけ作るようにしており、瞑想を行うと心身すっきりするそうです。
 朝でも夜でも、瞑想の時間を持つことは、ミャンマーの人々にとって、日常生活の一部です。家の中の仏壇の前で瞑想を行うか、寺に出向いて行うかは人によりけりですし、町の中の瞑想道場(Meditation house)では、外国人でも無料で宿泊し、無料の食事付きで指導を受けながら瞑想を行うことができます。食事代などは寄進によってまかなわれています。貧乏なバックパッカーは、瞑想は付け足しで、無料宿泊場所として利用する人もいるし、瞑想によって心洗われ、たっぷりと寄進する旅行者観光客もいます。

 ミャンマーの人が、みな争い事を好まない穏やかな暮らしを保っているのも、大金持ちも貧乏人でも、だれでも十のパラミーを守る生活習慣があるからかと思います。どんなに物質的に貧しくとも、瞑想によって精神統一し、心さわやかにおだやかに暮らすことが出来、仏への祈りと寄進によって、来世のよき転生を確信し、将来への不安なく生きていけるのです。

 肖像写真。「化粧品を作っている女性」
 1番目の写真は化粧品または薬を作っているところと思われます。摺り皿の上でなにやらをすりあわせています。背景に映っている壁の電話器は、通常の家庭にはない文明の利器ですから、特別なお金持ちの家または、合成の小道具ではないかと思われます。時代は、電話器によって、19世紀末あるいは20世紀初頭のビルマ女性かと思われます。

 注目してほしいのは、背景の壁。女性のうしろの壁に掲げられている額には、「パラミーの10の徳目」が書かれている、ということ。
 「この壁には、何が書かれているのですか」と、ボスに質問したら「十の徳目、パラミーです」と、教えてくれました。ビルマ学碩学への質問としては「こんなことも知らぬのか」というおたずねだったでしょうが、ボスはいつもおだやかに親切に、いろいろ教えてくれます。
 写真の女性が一般家庭の女性なのか、商家または娼家の使用人なのか、服装からは区別ができない、とのボスの説明でした。

 日本の幕末明治初期には、写真を撮る機会があったのは、上流貴顕の紳士淑女がほとんどでした。上流人物の写真は、新聞雑誌に掲載されました。一方、外国人のみやげ物「横浜写真」のモデルとして盛んに写真を撮られたのが、吉原や横浜異人街の娼家の人々。「ふるあめりかに袖は濡らさじ」の人々ですね。

 化粧品(あるいは薬)をすりあわせる作業をしている女性、やはり「モデル撮影」であり、商家・娼家などの使用人かと思います。
 「10の徳目パーラミー」を背景に出しているのは、そういう図像が求められた、ということでしょう。



 実は、上の絵はがきにも、「元ネタ写真」があるのです。元ネタには「十のパラミー」はないので、写真をもとに、パラミーを背景にくっつけて絵はがきに仕立てたのだろうと思います。



 これからのミャンマーの発展にとって、この教えはどうなんだろう、と疑問に思う徳目があります。9番目の「力波羅蜜」です。
 「一切の異論及び諸魔衆を受け付けないこと」
 お経に書かれていることをそのままに受け取り、疑念を挟んだり異論を唱えてはいけない、という解釈ができます。

 現実生活で、学生達は教師の説に異論を出すことなど、決してしません。みな素直に教師の説明に聞き入ります。「北半球で夏のとき南半球では冬であると同様に、北半球では東から登る太陽が、南半球では西から昇る」と教師が教えれば、そのまま素直に聞き入る学生が大半でしょう。(日本でこの説を信じたのは、幼い頃の私くらいだったでしょうが)

 軍政府が「大学の学部閉鎖」と命じたとき、教授達、逆らったりしませんでした。抵抗する学者はいなかったのか、と疑問を感じましたが、たぶん、逆らった人は解雇されたのでしょうし、悪くすれば反逆罪で投獄。
 基本に(9)の「一切の異論及び諸魔衆を受け付けないこと」という徳目があり、お経や政府命令にはぜったい疑念をはさまない、ということが人々の基本だったからではないかと思います。

 語学学習でも同様。教師の発声をリピートして丸暗記することが基本です。修士論文でさえ、先行研究を丸暗記して並べることで合格。博士論文も、独自の論説など出したら審査に通らない。ひたすら先人の研究を丸ごと受け入れる。日本の感覚では、オリジナリティなくしてどこがハカセ論文なんだ、と思いますけれど。

 軍の独裁政府時代は2011年に終わり、2016年3月、軍人出身のテインセイン大統領時代も終わりました。民主化の発展、現代産業発展のために、命じられたことだけ、指示待ちでやっているこれまでの仕事のやり方では、生き馬目を抜く世界の動向に遅れをとるだろうと思います。
 自ら考え、自ら行動する、これがなければ、現代世界、現代社会に参画することはできない。ミャンマーの人々、自分独自のアイディアを出していくという生活に、対応できるでしょうか。

 徳目を守ることは大事でしょうが、Balaの解釈などを変えていく必要もあるのではないか、と思います。経典解釈は、地域によって時代によって変化してきたのも事実ですから。

<つづく>


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ミンガラ春庭「古きよき時代のビルマ古写真」

2016-04-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160406
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ミャンマー古写真(3)ビルマの家族か?売れっ娘か

 まずは、「古き良き時代のビルマ」紹介。
 19世紀末期、あるいは20世紀初頭のビルマ。写真術が入ってきた時代に撮影されたとおぼしき時代のビルマ人肖像写真を紹介します。白黒写真に手彩色をほどこした絵葉書になっています。

 葉巻を手にするマダム


 若い男性


 幕末明治初頭に、横浜居留地などで、本国へ帰る外国人が「みやげもの」として競って買い求めた写真がありました。江戸末期から明治初期の日本の姿が撮影されたもので、「横浜写真」と呼ばれて人気がありました。F・ベアトやその弟子日下部金兵衛が撮影した鶏卵紙写真に手彩色した写真集でした。
 現在、横浜の博物館などでこの時代の古写真を収集していますので、閲覧できますし、コピーを博物館ショップ美術館ショップで売っています。私はボテフリ商人の若い青年がなかなかハンサムだったので、気に入り購入してきました。

 中国でも清朝時代の古写真を購入できましたが、ヤンゴンではなかなか古い時代の写真を購入することができないでいました。
 以下にコピーした写真は、観光名所カラウェイパレス(民族舞踊ディナーショウレストラン)の前にあるおみやげ屋で購入した古写真絵葉書です。撮影年代も場所もまったく記録がないので、19世紀末から20世紀初頭の写真であろうと推測するだけであり、モデルがどのような人たちであるのかもわかりません。

 以下、手彩色絵ハガキは、春庭購入のもの、白黒写真は古写真サイトからの借り物画像です。

 家族写真と思えるものも、ほんとうの家族なのか、撮影用に集められたモデルなのか、わからないのです。横浜写真では、妓楼の女性達が数多く撮影され、妓楼の主人や娼婦達が居並ぶ写真が「家族写真」として撮影されたものもありました。

絵はがきの家族写真。モデル撮影なのか、ほんとうの家族なのか、わかりません。


 ↓は、ほんとうの家族写真と思われます。古写真の多く英領時代の統治者や報道関係者が撮影したもの、また、キリスト教宣教師が撮影したもの。以下の古写真は写真館での撮影と思われますが、撮影年代などはわかりません。


 上層階級の夫婦肖像と思われます。





 ↓のカップルは、モデル撮影と思われます。


 絵葉書のなかの1枚について、まったく同じモデルの異なる写真を、ビルマ古写真サイトの中にみつけました。撮影されている3人のうち、右端の人物が異なっているのですが、中央の人物と左側の人物は、そっくり同じ表情同じポーズで写っています。おそらくモデルになったのは同じ人物と思います。もとの画像(白黒)を別の画像と合成して手彩色を施し絵はがきに作り上げたのだろうと推察します。





 絵葉書にはまったく何の説明もないので、情報を得たいと思っています。
 撮影年代、モデルの情報など、いただければ幸いです。

<つづく>

 
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ミンガラ春庭「幼いころのアウンサンスーチーさん・ビルマ古写真コレクションその2」

2016-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20160405
ミンガラ春庭ミャンマースーベニール>ビルマの古写真(2)幼いころのアウンサンスーチーさん・ビルマ古写真コレクションその2

 4月1日から、いよいよアウンサンスーチー女史が党首として率いてきたNLD(国民民主連盟)が政権を握ります。と、いっても、現憲法の規定で、選挙結果とは関わりなく議員の4分の1は軍人が議席を占めるので、選挙で大勝したといえども、軍人議員の賛成がなければ何事も決まらない。スーチー女史が大統領になれないことは、現憲法の規定ですが、彼女は、党首の座を降り、議員も辞職し入閣することにしました。(ミャンマーでは、大臣と議員は兼職できない)。

 アウンサンスーチー女史の顔も日本のニュースでおなじみになりました。(ちなみに、いちいち「女史」をくっつけるのは、ミャンマー人女性の名前の前に必ずつく敬称「Daw」の訳。男性の名前の前には「U」がつき、自己紹介のときも「私は、Daw Hal niwa です」と言う。若い女性の敬称は「Ma」。
 彼女が育った家に掲げてある、幼い頃の女史の写真を紹介します。

 現在のアウンサンスーチー女史の住まいは、インヤー湖のほとり。20年間もの間、彼女が軟禁状態におかれた家です。

女史が幼い頃両親とともに住んでいた家は、現在、アウンサン将軍博物館となっています。
 アウンサン博物館。建物紹介はまたのちほど。


建国の父アウンサン将軍は、建国直後に暗殺されたことから、いっそう国民の思慕は深まり、軍事政権は将軍を博物館に「祀る」ことによって、自分たちが将軍の遺志を継いで政権を担当してきたのだ、という形にしていました。アウンサンスーチー党首が入閣する政権では、この博物館も、より重要度が増すのかも知れません。パワースポット??

 アウンサン将軍の妻キンチー女史と、将軍夫妻の三人の子供達(左から右へ キンチー女史、アウン・サン・ウー(長男)。アウン・サン・リン(次男)、アウン・サン将軍の膝にのるアウンサン・スー・チー(長女)、アウンサンスーチーのアウンサンは父の名をもらい、スーは祖母の名、チーは母の名をもらって全部くっつけています。ミャンマー人の名は、姓と名の区別がなく、アウンサンスーチーでフルネームです。



 幼い兄妹三人。向かって左、次男。椅子に座っているのが長男。右側がアウンサンスーチーさん


 3兄妹のうち、次男は8歳で死亡。長男はアメリカ移住し、市民権を得ており、ミャンマー政治には無関係に人生を送っています。ミャンマーと深くかかわったのは、2歳で父を失った末娘のみ。
 
 将軍の妻キンチー女史と子供達。キンチー女史は、将軍暗殺後は、インド大使などを務めました。父なきあと、アウンサンスーチー女史も母に伴われて、インドで暮らし、次いでイギリスに留学しました。ミャンマー帰国後は、ほとんどをインヤー湖ほとりの自宅で過ごしたので、ミャンマーのあちこちに出かけることができたのは、2011年に自由の身になってからではないかと思われます。NLD遊説の旅でしょうけれど。

Daw Khin Kyi, the wife of General Aung San and their three children (from Lef to right  AungSan Lin, Aung San Su Kyi, Aung San Oo



 アウンサンスーチー女史の父親、アウンサン将軍は、ミャンマーの人なら知らない人はいない「建国の父」です。
 中国における毛沢東が半ば神格化されているように、半分神様になっている。それを示すのが、アウンサン将軍博物館の中庭にある将軍像。「アウンサンが自宅内の畑を耕している」というプライベートな姿を立像にしてあるのですが、キンキラの金色に塗られています。日本人から見たらぜったいに不自然な金色将軍。でも、当地では仏像も仏塔も、尊いもの大事なものはすべて金色にします。よって将軍が鍬を持って畑を耕す姿であっても、金ぴか。



 殉難者記念日(アウンサン将軍が暗殺された日は、国のために働き命を落とした人すべてを記念する日になっています)には、この金ぴか像の前に正座し、礼拝する人がきっといると思います。

若き日のアウンサン(大学連盟の代表者だった頃のコ-・アウン・サン)
Ko Aung San, the President of Universitey Student Union





アウンサン将軍とチンチー女史結婚記念写真


長男誕生を喜ぶアウンサン将軍夫妻


マンダレーヒルにて、家族とともに休息中のアウンサン将軍。Pyi Thu Ye Baw代表としてマンダレー市を遊説中(recruitment trip)のひととき
(Rest time together with the family at Mandalay Hill dureing the recruitment trip in Mandalay City as the President of Pyi Thu Ye Baw.)


ロンドン近くの航空学校を視察中のアウンサン将軍


シュエダゴンパゴダの西側参詣階段で演説するアウンサン将軍


少数民族とともに


伝統的衣装のアウンサン将軍

 ヤンゴン事務所のボスは、ビルマ学研究50年という方ですが、アウンサンスーチー女史とも面識があり、今回の政権担当にあたっても、彼女のヤンゴンの自宅にお祝いのプレゼントを届けた、ということです。彼女は現在ネピードーで政権移譲の多忙の中にあるので、面会できずに帰国する時期になったのは残念だけれど、もし、彼女が外相として日本を訪れることがあったら、会えればいいなあと、話していました。

 アウンサンスーチーさんは、もともとは文学志望の少女でした。しかし、父親を2歳で失い、父の記憶があまり多くないこともあって、父の事跡を知りたい、という気持ちがとても強かったようです。1985~1986年に京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日したときも、父アウンサン将軍の歴史研究が目的でした。旧日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査によって、父の事跡を研究したのですが、そのとき研究を手伝った日本人関係者のひとりが、わがボスでした

 1996年に一時的に自由の身になったとき、アウンサンスーチーさんのほうから、ボスに「会いたい」という申し込みがあったとのことですが、10年のあいだに彼女は変貌していました。文学好きの少女がそのまま大人になったようであった彼女は、政治闘士になっていたそうです。話も政治の話ばかりだったとか。文学の話ができなかったことが、ボスとしては心残りであったそうです。

 「今ではもう雲の上の人になってしまったから、私ごときが会いたいと思っても、もう、会えないでしょうねぇ」と、ボスは女史がミャンマー政治の表舞台に立ったことがうれしくもあり寂しくもあり、というふうでした。

 多忙な女史ですが、ボスとの再会のときがあったら、30年前の日本でのアウンサン将軍の歴史研究の話など弾むのではないかと、思います。 

<つづく>
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